2021年7月11日 (日)

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる~幻の成田新幹線市川市内ルートはどこに~

 上記は、千葉県市川市の東西線行徳駅から東側に向かった箇所である。

 左側に見える高架橋は、東京メトロ東西線である。

 昨今ネット等では、「ここが成田新幹線の遺構である」といった話を見聞きするので、今回はそのネタを検証してみたい。

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (1)

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (2)

 当該区間を、成田新幹線の建設主体である日本鉄道建設公団が1974(昭和49)年に発行した「成田新幹線東京・成田空港間線路平面図」で見るとこんな感じである。

そして、上空から見るとこんな感じである。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (3)

 確かに立派な側道ではある。

 「東京メトロ東西線の行徳駅付近の遊歩道付きの側道が立派なのは、ここに成田新幹線が通るはずだったからで、この立派な側道は成田新幹線の遺構である。」といった話を上記の写真とセットで聞かされると、合点する方もいらっしゃるかもしれない。
 

 一方で、下記のような資料もある。

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (4)  

 これは、市川市議会の議事録の抜粋である。 

 成田新幹線の工事実施計画について運輸大臣から日本鉄道建設公団へ認可されたのは、1972(昭和47)年2月である。 

 その直後の「3月議会」ということになる。 

 質問している近藤喜重議員は、行徳地区と関わりがあるようだが、成田新幹線が「東西線より50m海寄りを通る」と発言している。 

 果たして成田新幹線はどこを通る計画だったのか?

 まずはそこから資料を整理してみたい。

 

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東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (5)  

 私の可能な範囲で、成田新幹線の市川市内のルートに関係する資料を集めてみた。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (6)

 まずは、本家本元の日本鉄道建設公団である。

 公団の「成田新幹線工事の概要」では、「区画整理事業に出来る限り支障しないよう技術的に可能な限り地下鉄5号線(現・東京メトロ東西線)に近接することとしております。」と書いており、東西線と成田新幹線をどの程度離すかの具体の数字は書いていない。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (7)


 公団職員が業界誌に寄稿した報文「成田新幹線の建設計画」では、「地下鉄5号線の南側に殆ど並行して葛西・浦安・行徳を経て」とこれまたビミョーな書き方をしている。

 

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (8)

 一方、浦安町誌では「東西線と50メートルの間隔をおいて住宅街を縦断する。」と記載している。市川市内については具体の記載はなく、そのまま「船橋市の市街地はトンネル」としている。そのまま読めば、浦安から船橋まで変化なしということであれば、市川市内も「東西線と50メートルの間隔」と読めなくもない。

 では、市川市内ではどの程度離れていたのだろうか?

 具体的に言及したものはあるのか?

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (9)

 冒頭にあげた市川市議会での議事録である。

 成田新幹線は「地下鉄東西線より50m海寄りを通るということでは、その間にはさまった4倍にもなる土地は全く死に地になってしまうわけであります。」と発言し、通過地点も具体的に、南行徳、行徳、妙典、田尻、原木と書いてある。

 ここで「南行徳第1、第2、第3、行徳土地区画整理組合」という言葉が出てくるので、覚えておいていただきたい。後ほど説明する。  

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (10)  

 近藤喜重議員は、成田新幹線の買収対象となる関係地権者数を具体的にあげているが、後述するように、当時は(今も?)詳細な図面が公になっていないため、11m50cmの想定される用地買収幅員(高架橋の構造物幅員11m+施工余裕幅左右25cmずつ?)から、市川市か議員が独自に算出したものと思われる。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (11)

 富川進・市川市長(当時)が、サンケイ新聞の取材に対して「新幹線は、東西線と並行に走るため、東西線と新幹線にはさまれた区画整理の土地は、騒音と振動公害に悩まされ買い手がなくなる」とコメントしている。

 先に、近藤市議が「その間にはさまった4倍にもなる土地は全く死に地になってしまうわけであります。」と発言していることと平仄があう。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (12)

 一方、昨今のネット等で主流のような「東西線の側道部分に成田新幹線が走る計画」と、市川市長、市川市議会議員の発言は平仄がとれない。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (13)

 また、日本鉄道建設公団が千葉県に対して、新幹線は「東西線に沿って高架で浦安町にはいり、東西線の南側50メートルを東進、京葉道路をまたぐ」と示したと伝える記事もある。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (14)

 日本鉄道建設公団が公開している図面や資料では詳細には分からないはずなのに、市川市長や市川市会議員が「東西線と新幹線にはさまれた区画整理の土地」とか「東西線より50m海寄り」とか発言しているのは、何が根拠なのだろうと不思議だったのだが、上記の毎日新聞の記事によれば、公団が千葉県にその旨説明したようだ。

 なお、1972(昭和47)年2月15日付千葉日報によると、同年2月14日(上記毎日新聞記事の3日前)に、公団が千葉県に対する第1回の説明会を行っている。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (15)

 ちなみに、江戸川区内でも「東西線の南側約50メートルを並行して走り、高架で抜ける」との報道がされている。

 当時の報道では、東西線沿いの高架区間は、江戸川区・浦安町・市川市と一気通貫で「東西線の南側約50メートル」に成田新幹線が通ることで揃っていることになる。

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (16)

 なお、江東区と江戸川区を結ぶ清砂大橋は、東西線の南側に近接して架設されており、「本当はここは清砂大橋ではなく成田新幹線が来るはずだった」といった話も仄聞されるが、東西線の設計時に、清砂大橋が近接して架設されることを前提に東京都と営団地下鉄が協議していたことが営団地下鉄が発行した「東西線建設史」から分かる。

 おって、「清砂大橋を避けたから、東西線の50m南に新幹線が計画されたかどうか」については、判断できる資料を見つけられていない。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (17)

 ここまでは、成田新幹線と東西線が約50メートル間隔を空けている旨の報道を紹介してきたが、そうでない説も紹介しておく。

 草町義和氏は「鉄道ライターのなかでも、廃線跡や未成線跡の調査を専門としている」(「全国未成線ガイド」宝島社・刊の監修者紹介欄から)とのことだ。

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (18)

 草町義和氏は、鉄道ファン2008年8月号に掲載された「幻の成田新幹線をたどる」に

昭和47年計画の線路平面図を見る限りでは,江戸川区内と浦安市内は東西線から少し離れた場所を通っているように思われ,実際に東西線の高架橋にぴったり張り付くような線形になっていたのは市川市内だけだったようである.

 と書いている。

 その判断の根拠としては、「昭和47年計画における線路平面図(縮尺5万分の1)や線路縦断面図(縮尺横2万5000分の1,縦2000分の1)」「昭和49年計画」といった資料(同著112頁)を入手されたうえで現地を検証しているとのことである。

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる(19)当時の報道等と草町義和氏の著書の比較

 「おさらい」として、今まであげてきた成田新幹線と東西線の位置関係に係る報道・記事を時系列で並べてみた。

 如何だろうか?

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (20)

 ところで、鉄道建設公団、市川市会議員、市川市長等と草町義和氏の主張の差を判別できる資料はあるのか?

 

 「ここに、日本鉄道建設公団が作成した超詳細な図面があって、正しいのはこちらでした!」と言えれば一件落着なのだが、私の探した範囲ではそこまでのものは見つけられなかった。

 地元自治体の資料等を読んでいると、地元住民等は「用地買収の対象を示せ」と要求しているが、公団側は「実際に現地を測量しないと示せない」と回答し、そして関係自治体と地元住民は公団による現地測量は阻止しているので、詳細な図面は公開されないままになっているようだ。

 1972(昭和47)年2月18日に実施された公団による地元市町村長への説明会においても5万分の1の地図で計画を説明したとの報道がある。( 1972(昭和47)年2月19日付千葉日報)



東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる(21)

 草町義和氏は、成田新幹線の工事実施計画を入手しているようだが、そこにはどんな資料が含まれているのだろうか?

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (22)

 こちらが全国新幹線鉄道整備法施行規則に定められた、新幹線の工事実施計画に係る書類の抜粋である。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる(23)

 先にもあげたところであるが、この図面が実際に日本鉄道建設公団が作成した5万分の1の平面図である。

 工事実施計画にこの地図が使われたかどうかは分からないが、縮尺としてどのようなレベルのものかはイメージしていただけるだろう。

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (24)

 ご覧いただいたとおり、5万分の1の平面図では、50mの離隔はなかなか判別できないと思われる。

 5万分の1だと、50mは1mmしかない。私は老眼なのでわからんちんである。草町義和氏は判別できたようであるが。

 また、東西線と成田新幹線の「構造物の外側同士」が50m離れているのか東西線と成田新幹線の「中心線同士」が50m離れているのか?といった点が記事等だけでは明確でないというところもある。どちらかによって具体の離隔が10mほど変わってくる。

 市川市長は「間にはさまれた区画整理の土地は、買い手がなくなる」と語っているので、売却できるほどの幅があったということだろうか。

 草町義和氏は、「線路縦断面図(縮尺横2万5000分の1,縦2000分の1)」「昭和49年計画」といった資料も持っておられるようなので、それらも含めた総合的判断をされたということだろうか。

上記は、草町義和氏のツイッターから。 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (25)

 「東西線と成田新幹線がぴったり張り付くような線形になっていた」(「幻の成田新幹線をたどる」113頁)という記述を判別できるような図面等を私は見つけられなかった。

 一方で、上記のような主張をする方は、当時の市川市長の発言や市川市議会議事録に残るやりとりに対してどう考えるのかをあわせて表明する必要があるのではないだろうか?

 「反日マスコミには騙されない」とか

 「市川市議会議員は反対を煽るため、話をふくらませているだけだ」とか

 「国策である新幹線に反対するような”プロ市長”よりも、鉄道ファン誌に掲載される鉄道ライターの方が鉄道知識は詳しいに決まっている」とか

 「日本鉄道建設公団がそう地元に説明したという新聞記事があるからといっても、全部の区間が50m離れていたとは書いていない。市川市内だけはそんなに離れていない区間があってもおかしくはない。」とか

 でもいいと思うのだが、当時の新聞報道や市議会でのやりとりを打ち消す決意表明(できればその決意を補強する物証も添えて)をしていただければよろしいのではないかと。

 もちろん、5千分の1等の縮尺で、実際に「50m空いている空いていない」が判別できる詳細な工事用平面図をお示しいただければ言うことはないのだが。

「そんなん、当時の都市計画の図面見たら分かるんちゃうのん?」と思う方がいらっしゃるかもしれない。

 ところが、当時の成田新幹線も東北新幹線も都市計画決定の手続きは一切取っていない。住民や地元行政との擦り合わせの手続き一切なしで、「運輸大臣の認可が取れたので路線発表する。ただし今後変更は一切ない。」とやったので大反発を買ったのだ。

 「でも最近の新幹線はちゃんと都市計画決定の手続きを取ってるのだし、当時もそうなんちゃうのん?」と思う方もいらっしゃるかもしれないが、過去の反省を踏まえて都市計画決定するようになったのだ。 

 

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東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (26)

 ところで、東西線と側道の関係はこんな感じに並んでいる。

 市川市南行徳第二土地区画整理組合が1974(昭和49)年に発行した「記念誌 区画整理のあゆみ」では、東西線と側道の関係がよく分かる写真が掲載されている。

 こんなガクガクした側道を成田新幹線が走れるのだろうか?

 「東西線と成田新幹線がぴったり張り付くような線形になっていた」(草町義和氏「幻の成田新幹線をたどる」113頁)というと、埼京線と東北新幹線のような位置関係をイメージしている方がいらっしゃるかもしれない。

 埼京線と東北新幹線の関係はこんな感じ。

 これは武蔵浦和駅付近であるが、東北新幹線はまっすぐ走りつつ、埼京線のホームは右側(東側)に膨らんで、新幹線の直進を妨げないような構造になっている。 

 一方で、東西線と成田新幹線の関係はどうか。 

 

 これは行徳駅付近であるが、東西線は直進し、ホームはその両外側に膨らむ形で設けられている。これでは、「東西線と成田新幹線がぴったり張り付くような線形」(草町義和氏「幻の成田新幹線をたどる」113頁)だとすると、東西線のホームの幅だけ成田新幹線がそこをカーブして膨らんでいく形になってしまう。それとも成田新幹線建設の際には東西線を北側に移設する構想だったのだろうか?

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (27)

 ただでさえ、東西線は成田新幹線の直進を妨げるような線形となっていることに加えて、更に東西線行徳駅には拡張計画がある。 

 営団地下鉄の「東西線建設史」には、「浦安、行徳両駅は相対式ホームとし、将来両外側に1線ずつ線路が増設できるように計画した。」と書いている。 

 先にあげた区画整理組合記念誌掲載の写真の東西線ホームと側道の間の草地は将来線予定地ではないだろうか?東西線行徳駅付近の膨らみは、現状よりも更に拡がる余地がある。

 埼京線と東北新幹線のような新幹線の高速走行を損なわないような位置関係とはいかない可能性がある。

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東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (28)

「でも、東西線のあんな立派な側道は、成田新幹線のためとしか思えないんですけど?」 

 こんなことを思う方もいらっしゃるかもしれないので、次にそこを検証してみよう。

 あの東西線の側道はいつだれがなんのために作ったのか?

 ※草町義和氏が「この側道は成田新幹線のため」と言っているのではない点にはご留意を。

 ただし、「この側道は成田新幹線のため」とネットに書いている方にお尋ねすると「草町義和氏の鉄道ファンの記事を読んだ」という回答を頂戴したという経緯があったのでご参考までということで。

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (29)

 市川市長や市川市会議員の発言に出てくる市川の区画整理事業であるが、左図を御覧のように、東西線(成田新幹線)経過地の殆どが区画整理事業が行われた箇所である。

 市川市ウェブサイトの「市川市の土地区画整理事業」には、上図のような位置図が公開されている。

 https://www.city.ichikawa.lg.jp/common/000355873.pdf

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (30)

 市川市南行徳第二土地区画整理組合が1974(昭和49)年に発行した「記念誌 区画整理のあゆみ」には、東西線の両側に「11mの側道を配置した」とある。

 成田新幹線とは関係なく、元々区画整理事業の一環として整備されたのである。

 上記の区画整理の模型で東西線に側道が設けられていることが確認できる。

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (31)

 こちらは、市川市行徳土地区画整理組合が1975(昭和50)年に発行した「記念誌 区画整理のあゆみ」から。

 個人サイト等で、成田新幹線の名残で立派な緑道が東西線沿いにあるという趣旨の記述があるが、もともと区画整理事業の一環として「幅員11mの側道を配置し散策に適した緑道的性格を持たせる」とあるのだ。

 成田新幹線の工事凍結は、1983(昭和58)年である。もしこの緑道が新幹線の遺構、名残であれば、 1975(昭和50)年に「幅員11mの側道を配置し散策に適した緑道」と書いた区画整理記念誌が発行されることはありえない。

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (32)

 東西線の側道は、成田新幹線の計画の遺構ではなく、東西線建設にあわせて施行していた区画整理事業によって、成田新幹線公示凍結前に整備したものである。

 東西線の駅前広場用地等も同時に減歩によって確保された。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (33)

 行徳地区に限らず、江戸川区から市川市にかけて多くの地区で、東西線建設用地自体が側道とともに、地元の区画整理の協力で捻出された。

 営団地下鉄の「東西線建設史」では、

荒川を越えた小島地区から西船橋に至る区間は(略)この膨大な土地買収を効率的に実施するため,営団は,東西線の計画決定を契機に,同線経過地に,土地区画整理組合(以下区整という)の設立機運が高まっていることに着目し,この区整を対象とした,保留地先買方式による集団交渉方式を採用する方針を決定した。

 と述べている。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (34)

 また、同様に「東西線建設史」では、

「南行徳第1、第2、第3区整においても,前述の区整地区とほぼ同様の手続きにより用地買収を行った。行徳区整は,区整の設立準備も整っていない地区であったが,営団は市川市とともに,地元民に対し区整事業の必要性を説き,準備委員会を発足させ,これと折衝に入り,難航していた土地の価格統一にも成功し,これを盛り込んだ保留地先買方式による買収を組合成立認可申請前の準備組合の段階で行った。」

 と述べている。こんなに鉄道事業促進に協力した行徳地区等の人々に対して「たまたま自分の趣味が公共的機関だったことを奇貨として、自分の考え方が公共的だと勘違いした方々」が「プロ市民」呼ばわりしたりするのであるが。

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (35)

 これは、東西線建設史及び南行徳第一区画整理組合記念誌から作成した、東西線と行徳地区の区画整理事業の時系列である。

 約10年をかけて、東西線の計画から建設にあわせて行徳地区が区画整理事業を実施し、その建設用地を提供できるように取り組んできたことがお分かりになるかと思う。

 その最後の仕上げの清算の段階で、成田新幹線が事前調整全くなしに飛び込んできたのである。だから地元が反発したのだ。

 川島令三氏や草町義和氏の本ばかり読んでいてはこういう話は出てこないのであるが。区画整理事業のことは理解できなくても、鉄道マニアならせめて東西線の建設史だけでも読んでみると違うのだが。

 

 ちなみに区画整理事業について知りたい方は、上記の動画等を見るのもよいかもしれない。

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (36)

 これは、先にあげた近藤喜重・市川市議会議員が市川市議会で行った質問からの抜粋である。

 上の年表では、1964(昭和39)年の営団地下鉄の免許申請からスタートしているが、実際には、1963(昭和38)年から地元との調整が始まっていることが分かる。

 約10年間の東西線建設と地元の街づくりの調整の歴史が最終段階になって調整なしに乱入してきた成田新幹線によってひっくり返されようとしている経緯がお分かりになろう。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (37)

 これは近藤議員の質問に対する市川市土木部長からの答弁である。

 「せっかくいままでお骨折りをいただきまして、解散の時期に来ているわけでございますが、この時期もおのずから延びるということで、私ども区画整理を担当してる者といたしましてこの成田新幹線問題はたいへん困った問題ということで苦慮しているわけでございます。

 単に「プロ市民」の声が大きいのではなく、行政としても「たいへん困った問題ということで苦慮」しているのだ。

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (38)

 先に

「東西線と成田新幹線がぴったり張り付くような線形になっていた」(「幻の成田新幹線をたどる」113頁)という記述を判別するような図面等を私は見つけられなかった。

旨書いたが、それとこれとは別で、現在存在する東西線の立派な側道と成田新幹線の計画は全く関係ないことがお分かりいただけたのではないかと思う。

 仮に、「東西線と成田新幹線がぴったり張り付くような線形になっていた」としても、それは今の側道とは切り離して、改めて建設されるべきものである。

 江戸川区内の葛西地区等も精査すれば同様の事情が明らかになる可能性があるのではないかと思われる。

 

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東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (39)

 「成田新幹線計画がおおっぴらにされていなかっただけで、実は地元の反対を呼ばないように水面下で調整して、側道の名目で土地を確保していたんじゃないか」

という考えを持つ方もいらっしゃるかもしれない。

 それならば、東西線の側道が成田新幹線の高架が収まるだけの幅を確保している必要があるのではないか?

 ここからは

「そもそも、東西線の側道の幅に成田新幹線は収まるのか?」

について検証してみたい。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (40)

 上記は、1972(昭和47)年6月9日参議院運輸委員会における長浜正雄氏(日本国有鉄道理事)の答弁であるが、

 新幹線の側道について「側道を4メートル片側、あるいは地域によりましては両側につくるようにしております」と答弁している。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (41)

 そして、上の図面は、「成田新幹線工事の概要」日本鉄道建設公団東京支社・刊に掲載されていた成田新幹線の標準的な構造物の横断図面である。

 国鉄長浜理事の答弁によれば当時の、新幹線の標準的な側道の幅員は4メートルとのことであるから、実際の用地買収の幅は、側道が片側のみの場合15メートル、側道が両側に設けられる場合は19メートル以上となる。

 これが東西線の今の側道におさまるのだろうか?

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (42)

 なお、市川市議会議員の質問にもあったように構造物の実測値に50cmを加えて用地買収を考えていたようである。

 実際には、側道等の条件は地元と協議してからでないと確定しないものである。

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する (21)  

 上記は、JR東海のリニア建設手順の説明用の資料からの抜粋である。

 ここにいう「鉄道と交差する道路や水路の付け替えについて地元と協議」のうえ決まるものであり、この質疑の段階ではそんな協議は当然進んでいないので、新幹線の高架橋の部分だけの幅が取り上げられたのだろう。実際にはこのような協議にまでは至らずに新幹線工事は断念されたと思われる。

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (43)

 新幹線が収まるためには、片側に側道込みなら15メートル、側道なしでも11.5メートル、両側に側道ありなら19メートル必要と思われるが、東西線の側道の幅はそんなにあるのか?。

 市川市のウェブサイトで道路幅員を調べてみる。よろしければ、下記のリンク先からみなさんもどうぞ。

https://www.city.ichikawa.lg.jp/roa02/1111000057.html

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (44)

https://www.city.ichikawa.lg.jp/common/000238974.pdf

 11.5メートル以上の幅はなさそうですね。。。

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (45)

https://www.city.ichikawa.lg.jp/common/000238999.pdf

 10メートルちょっとしかない区間もありますね。側道がなくても成田新幹線の高架橋自体が収まりませんね。

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (46)

 「成田新幹線計画が頓挫したので、その用地を側道に転用した」という趣旨の話をネット等で見聞きするが、もしそうであれば、東西線側道の幅員は最低でも11.5メートルは欲しいところだ。

 しかし、実際には11.5メートルどころか、10メートルちょっとしかない区間もあり、成田新幹線の側道なしの高架橋だけの幅を考えたとしても、東西線の側道には収まらない。

 ここに成田新幹線の側道4メートルを加えれば、片側だけでも15メートル以上となり、今の東西線側道から更に約5メートル広げる(=追加用地買収する)必要があることになる。

 ということで

 「成田新幹線計画がおおっぴらにされていなかっただけで、実は地元の反対を呼ばないように水面下で調整して、側道の名目で土地を確保していたんじゃないか」

 という考えは否定されたと言っても過言ではないだろう。

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東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (47)

 最後にもう一つ、行徳地区と成田新幹線の話題を検証してみよう。

 最近私のブログでは、土地の登記簿をとってネタを検証してみる試みをやっており、一部では好評をいただいているようなのであるが、

 成田新幹線建設用地と言われるマンション「レールシティ行徳」の土地の登記簿を例によって閲覧したので、分析してみた。

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (48)

 「また,行徳駅の少し先にはごくわずかではあるが,成田新幹線用の建設用地を買収した記録が残っており,現在その場所にはマンションが建っている.ただ,この建設用地に成田新幹線の高架橋をそのまま建設すると,東西線と成田新幹線の間に側道を挟みこむ形になってしまう.これでは側道の意味をなさないので,実際には建設用地として買収した土地を側道と交換したうえで,成田新幹線の高架橋を建設することになったのではないだろうか.」

「幻の成田新幹線をたどる」草町義和・著

「鉄道ファン」2008(平成20)年8月号 113頁から

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (49)

「(略)市川市に入ると東西線行徳駅の少し先に、ごく僅かではあるが成田新幹線の建設用地を買収した記録が残っていた。現在その場所には「レールシティ」という名前のマンションが建っている(略) 」

「幻の成田新幹線をたどる」草町義和・著

「鉄道未完成路線を往く」講談社・刊 28~29頁から

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (50)

 草町義和氏が「成田新幹線建設用地」とするレールシティ行徳の位置を、さきほどご紹介した市川市のウェブサイトから紹介するとこちらである。

https://www.city.ichikawa.lg.jp/common/000238974.pdf

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (51)

 同様に、市川市ウェブサイトの区画整理事業の頁から拾うと、上記の38街区③-1、③-2、③-3である。

https://www.city.ichikawa.lg.jp/common/cit02/file/0000360551.pdf

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (52)

 で、当該レールシティ行徳の所在地の土地の不動産登記簿をとってみた。

 上記の区画整理事業の③-1~3はあくまでも区画整理事業の土地の表示であって、実際の不動産登記簿では「市川市末広町一丁目15番11~13」で、現在は3つの筆を15番11に合筆している。

 ここで注目したいのは、右上「原因及びその日付」の項の「土地区画整理法による換地処分により保留地設定」という記載である。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (53)

 「土地区画整理法による換地処分により保留地設定」とはなんぞやということだが、他の土地区画整理事業の説明資料からコピペしてきたらこんな感じ。

 「土地区画整理事業による市街地の整備は、受益者負担に基づき地権者からの土地の提供(減歩)により行われる。減歩により新しく生み出された土地は、公共用地(道路や公園)と売却する土地とに分けられるが、売却し事業費の一部に充てる土地が保留地である


 減歩により新しく生み出された土地のうちの「公共用地」の例が、先に上げた東西線用地やその側道である。

 レールシティ行徳の土地は、減歩により新しく生み出された土地のうち、「売却し事業費の一部に充てる土地」だったのである。

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (54)

○土地区画整理事業は、道路、公園、河川等の公共施設を整備・改善し、土地の区画を整え宅地の利用の増進を図る事業。

○公共施設が不十分な区域では、地権者からその権利に応じて少しずつ土地を提供してもらい(減歩)、この土地を道路・公園などの公共用地が増える分に充てる他、その一部を売却し事業資金の一部に充てる事業制度。(公共用地が増える分に充てるのが公共減歩、事業資金に充てるのが保留地減歩

○事業資金は、保留地処分金の他、公共側から支出される都市計画道路や公共施設等の整備費(用地費分を含む)に相当する資金から構成される。これらの資金を財源に、公共施設の工事、宅地の整地、家屋の移転補償等が行われる。

https://www.mlit.go.jp/crd/city/sigaiti/information/budget/budget/images/H20kg1.pdf

 これは、土地区画整理事業を所轄する国土交通省のウェブサイトからひいてきた。

 ちなみに、行徳土地区画整理事業の場合の減歩率は19.44%。自分の土地の2割をそれぞれが道路、公園や事業費用に売却する保留地のために差し出して作った街並みなのである。

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (55)

 で、その保留地はどのように売却していたかというと、

1972(昭和47)年2月20日付読売新聞(千葉版)では「毎月1回、組合の保留地を分譲しており、5倍の競争率で飛ぶように売れている。」とある。

 競争による売却というと、価格競争(入札)か、定価による抽選等が考えられるが、「5倍の競争率」ということであれば、抽選で売却していたのだろうか。

 その「飛ぶように売れている保留地」が新幹線公害で売れなくなると、既に施工した区画整理事業の事業費が回収できなくなってしまうから地元は深刻なのである。

 上記の記事の後になる、1972(昭和47)年3月24日付毎日新聞では、「入札の客が激減」、「買いたたかれピンチ」、すでに保留地を買った人から「新幹線を隠して売った」「とんだ土地を買わされた」などの苦情も出ていると報じている。

  なお、何度も紹介している近藤議員の質疑があった市川市の昭和47年3月議会において「陳情57号 成田新幹線通過反対に関する陳情」は反対なく採決されている。プロ市民ならぬプロ市議会ですな。

(※こういう経緯を知らないと、成田新幹線への反対運動は理解できないと思う。)

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (56)

 ということで、レールシティ行徳の土地は、区画整理事業費に充てるために売却された「保留地」なんである。

 保留地だからといって何なんだよというのはこれから説明したい

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (57)

 通常の用地買収なら、土地の測量をして高架橋等の設計図と照らし合わせて、必要な土地の範囲を確定し、その土地の所有者等と売買の交渉をして、合意すれば土地売買契約を締結することになる。

 しかし、レールシティ行徳の土地は、保留地=「区画整理事業の事業費に充てるために売却された土地」である。

 つまり、「元々公募等により広く一般に売却する予定だった土地を、成田新幹線の鉄道施設本体建設のために必要ではない土地として何らかの名目で鉄道建設公団が抽選に参加する等の経緯を経て買収した可能性」を否定できない。

(例)鉄道施設敷地として買収が必要な土地の「代替地」として交換するために予め買収しておく。    

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (58)

 もちろん、「保留地を建設用地として買ってはいけないきまり」があるわけではないので、例えば詳細な高架橋や側道の設計図等をもとに、「成田新幹線の建設用地(側道の交換用地等を含む)として必要な土地が、保留地として売りに出されたので、これ幸いとばかりに鉄道建設公団が買収したのだ」ということを立証することも可能だ。グッドな公文書等があれば。

 また、先に上げたように、東西線用地は「区整を対象とした,保留地先買方式」であることを説明したが、これはまさしく鉄道事業者と地権者が事前に交渉・合意して、東西線用地を他の区画整理用地から先行して決めてしまって工事の早期施工を実施可能としたものだ。

 レールシティ行徳の用地でもそのような取り決めをした可能性は否定できない。しかし、成田新幹線に猛反対していた地元事情からは、それを立証するのは並大抵ではないように思うのは私だけだろうか?

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (59)

 ちなみに、東西線の側道の幅が約11メートル、レールシティ行徳の土地の奥行きが上図から約20メートルなので、日本鉄道建設公団が千葉県に説明した(と報道されている)ように成田新幹線は「東西線に沿って高架で浦安町にはいり、東西線の南側50メートルを東進、京葉道路をまたぐ」 ルートをとっているのであれば、この筆は成田新幹線にはかからないことになる。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (60)

 なお、今回取得した登記簿は、電算化する前の記録が省略されているため、鉄道建設公団が本件土地を取得する前に、他の不動産業者等が契約のうえ、公団に転売している等の可能性はある。

 (新横浜駅の土地をダミーの不動産業者を使って買い占めた堤康次郎のような事例もある。)

 登記簿上の「所有権敷地権」が「順位6番の登記を移記」とあるが、

 1)区画整理組合→2)鉄道建設公団→3)国鉄→4)清算事業団→5)レールシティ開発→6)レールシティ行徳

 くらいかなあ。3)の国鉄は、中間省略登記されているかもしれないから、他の者(当初の保留地売買にからんだ不動産業者?)が入るのかなあ?

 引き続き調査を行い、判明したものは追記したい。そういう意味では保留地云々の部分は「とりあえず気が付いたのでブログ読者の皆様に課題を共有しておく」といった位置づけである。

 ただし、レールシティ行徳の土地がそこにあるからというだけでは、「東西線の高架橋にぴったり張り付くような線形」であることの証拠としては、弱いと言えるのではないかと私は考えている。

 

 

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 と、長々と成田新幹線の行徳地区通過ルートや伝・建設予定地について触れてきたが、最後にまとめに入りたい。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (61)

〇 成田新幹線は、「東西線より50メートル南」と市川市議会での問答がある他、市川市長も新聞記事で「東西線と新幹線にはさまれた区画整理の土地」が出てくると発言している。

〇 しかし、「東西線の高架橋にぴったり張り付くような線形」であるかどうかを完全に判定するほどの図面等は今のところ私は見つけていない。

〇 東西線の側道は、成田新幹線計画以前に地元の区画整理事業によってつくられたもので、成田新幹線とは関係ない。

〇 東西線の側道は、成田新幹線の高架橋の幅が収まらない箇所がある他、行徳駅等の形に沿ってカクカクと曲がっている。また、行徳駅は更に外側に線増の計画がある。

〇 レールシティ行徳の土地は、もともと区画整理組合の一般売却用の保留地であって、新幹線建設(側道交換)用地とは断言できないかもしれない。

  

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (62)  

 引き続き確認が必要な点としては、下記のような課題が残っている。 

〇成田新幹線の平面図は、公的には5万分の1の縮尺のものしか世間に出ていないと思われるが、より詳細な公式図面が出てくれば不明な点が分かってくる。

〇閲覧したレールシティ行徳の土地の登記簿は、電算化前の記録が省略されているので、そこの内容を確認すると、新たに分かるものがあるかもしれない。(私の見立てが間違っていることが分かるかもしれない。)
 

  

 長文お付き合いいただきありがとうございました。 

  

 

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<参考文献> 

「成田新幹線東京・成田空港間線路平面図」日本鉄道建設公団

「成田新幹線工事の概要」日本鉄道建設公団東京支社・刊  

「成田新幹線の建設計画」 延原陽(日本鉄道建設公団新幹線部)・著 「電気車の科学」1972(昭和47)年4月号

浦安町誌 

市川市議会議事録 

「東西線建設史」帝都高速度交通営団・刊 

「幻の成田新幹線をたどる」草町義和・著 「鉄道ファン」2008(平成20)年8月号  

「鉄道未完成路線を往く」草町義和・著 講談社・刊  

「全国未成線ガイド」草町義和・監修 宝島社・刊 

「鉄道計画は変わる」草町義和・著 交通新聞社・刊 

「記念誌 区画整理のあゆみ」南行徳第一土地区画整理組合・刊 

「記念誌 区画整理のあゆみ」南行徳第二土地区画整理組合・刊

「記念誌 区画整理のあゆみ」南行徳第三土地区画整理組合・刊

「記念誌 区画整理のあゆみ」行徳土地区画整理組合・刊

「江戸川区区画整理事業四十年の歩み」江戸川区土地区画整理事業団体連合協議会・刊

 その他 各種新聞、国会議事録等 

 

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<「成田新幹線」関係記事> 

「京葉線の東京駅は、成田新幹線用に確保した用地に作った」という人が多いから登記簿をとってみた

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2021/06/post-cd1945.html

成田新幹線の南ルートと北ルート ~千葉ニュータウンを通るのは既定事項ではなかった~

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2021/04/post-8bc927.html

船橋二和高校と日大グランドの間の空間は成田新幹線のために買収した土地の名残だと言われるが、不動産登記簿を閲覧したらそんな売買取引の記録はなかった。

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2021/04/post-305c8a.html

成田新幹線の詳細なルート図面をうpしてみる

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2020/03/post-cbaceb.html

京葉線はかつて新橋経由で都心(新宿、三鷹)に乗り入れる計画だった。

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/post-1315.html

京葉線の中央線方面への延伸と新宿駅予定地~上越新幹線の下に準備。そしてバスタとの関係は?~

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/04/post-f4a3.html

新宿駅への上越新幹線・成田新幹線の乗入れについて報道をまとめてみた(その2)

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/01/post-a27d.html

新宿駅への上越新幹線・成田新幹線の乗入れについて報道をまとめてみた(その1)

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/01/post-d5ec.html

 

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2021年6月 9日 (水)

「京葉線の東京駅は、成田新幹線用に確保した用地に作った」という人が多いから登記簿をとってみた

「船橋二和高校と日大グランドの間の空間は成田新幹線のために買収した土地の名残だと言われるが、不動産登記簿を閲覧したらそんな売買取引の記録はなかった。」

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2021/04/post-305c8a.html

「新宿西口甲州街道交差点 なぜ南側の一角だけビルの背が低いのか等を登記簿から探る」

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2021/05/post-c9067d.html

 と、登記簿ネタでブログを書いてみたら、私の弱小ブログにしてはご好評をいただいたので、調子に乗ってまた登記簿をとってみた。

 また成田新幹線である。

 それも東京駅だ。

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (1)

 「京葉線の東京駅は、成田新幹線用に確保した用地に作った」という人が多いから登記簿をとってみた

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (2)

 「京葉線の東京駅はどうしてあんなに遠いのか?」という問いに対して

「成田新幹線の東京駅のために買収してあった用地を転用/活用したから」といった趣旨の答えをネットでは多く見かけるので、

京葉線東京駅の敷地の登記簿をとってみた。

 果たして、成田新幹線の東京駅としての用地買収はされているのであろうか?

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (3)

 京葉線東京駅の地下の権利に係る部分を拡大してみよう。

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (4)

 東京地下駅の権利の設定は、1985(昭和60)年11月20日だ。

 成田新幹線の凍結は、1983(昭和58)年と言われるから、その後だ。

 残念。

京葉線東京駅敷地の登記簿

 見やすくするために大きい画像も貼っておこう。

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (5)

 というわけで、船橋二和高校南側の空き地に続き、また登記簿で成田新幹線に係る都市伝説を終了させたということでよいのではなかろうか。

 これだけではアレなので、もう少し成田新幹線や京葉線の東京駅の権原(けんばら)について解説してみよう。

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (6)

 今回登記を取ったのは、旧・都庁(現・東京国際フォーラム)敷地の地下の部分である。

 ヤフーマップ等で見るよりも実はがっつりと道路から東京国際フォーラム敷地内に京葉線東京駅がはみだしている。この筆だけでも438㎡もある。

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (7)

 地上は東京都の持ち物だが、京葉線東京駅が存在する地下2m40cmから38m45cmの間だけ、日本鉄道建設公団(現在は鉄道建設・運輸施設整備支援機構)の権利(区分地上権)が設定されている。

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (8)

 「都庁地下の権利が設定されたのが成田新幹線凍結後だからといって、成田新幹線の東京駅の敷地がそこまでかかっていたか分からないじゃないか。判断するのは早計だ。」

とおっしゃる方もいらっしゃるかもしれないが、成田新幹線時代の東京駅の図面でも「道路巾37m以内に納まらず東京都庁内に侵入せざるを得ない。」と国鉄職員が書いているので間違いないだろう。

 成田新幹線東京駅としては用地は買えなかったのである。

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (9)  

 では、「道路巾37m以内」における京葉線東京駅の権原の設定はどうなっていたのか。 

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (10)  

 道路法第32条に基づき、道路管理者(この場合は、東京都)の道路占用(占有じゃないよ)許可を得る必要がある。 

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (11)  

 上記1972(昭和47)年3月29日付朝日新聞の記事にも紹介されているが、東京都は、成田新幹線東京駅への道路占用を拒否していたのである。反対なので。 

 「〇〇のプロ市民と過激派のせいで成田新幹線ができなかった」と憤る方がいらっしゃるが、東京都民の場合はまず自問自答された方がよいかもしれない。 

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (12)  

 尤も、新幹線と東京都が相性が悪いのは成田新幹線に限った話ではないのであるが。 

 その話は、それはそれでネタが結構あるのだが、閑話休題にしてはあまりにも収拾がつかないのでやる気が起きればまた別の機会に。 

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (13)  

 1983(昭和58)年7月に京葉線の工事実施計画変更認可があり、道路占用の協議に17カ月を要したというのだから、区分地上権を設定した1985(昭和60)年11月の前後に京葉線東京駅に係る道路占用許可もあわせて取得したのではないか??
 

 そんな感じでほぼ同一歩調で都道下の道路占用許可と旧・都庁地下の区分地上権設定が進んだのではないかなあと「推測」する次第である。

 これはあくまでも「推測」なので、間違っているという証拠があれば是非ご教示いただきたい。 

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (14)  

 今回の本論から話は逸れるが、1983(昭和58)年6月に京葉線の工事実施計画変更認可申請にあわせて、日本鉄道建設公団から運輸省へ「成田新幹線工事の凍結申請」が行われ、同年7月に回答があったという点も注目される。

 同じ場所に同じ公団が成田新幹線と京葉線という違う鉄道の工事実施計画の認可を受けるのは具合が悪かったのであろう。

 公文書上の正式な成田新幹線凍結は昭和58年7月5日とすべきなのかもしれない??

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (15)  

 詳細な凍結時期はともかく、それまでの間に、日本鉄道建設公団は成田新幹線東京駅の工事に必要な土地の権利設定ができていなかった。 

 権利が無いのだから工事なんかできないのである。国鉄敷地内の地下通路を除いては。 

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (16)  

 成田新幹線東京駅の工事もできないし、土地の買収(地下の権利設定)もできていないのであれば、「じゃあなんで京葉線東京駅はあんな遠くにあるんだ」ということになる。 

 だって成田新幹線のしがらみは幸か不幸か一切ないのだから。 

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (17)  

 鉄道建設公団の公式の工事誌ではこんな理由だ。 

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (18)  

 JR東日本の社員が書いた報文ではこんな理由だ。 

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (19)  

 まあ、成田新幹線の遺構があろうがなかろうが「永代通りも八重洲通りも先客がいるのだから鍛冶橋通りしか空いていませんでしたよ」ということなのだろう。 

 なお、成田新幹線の計画が生きているころの京葉線(当時は「総武・中央開発線」)は、鍛冶橋通りの更に外側になる外濠通りを通って、新橋駅で山手線や東海道線等と接続する構想があった。

京葉線の都心新宿三鷹方面への乗り入れ計画 総武開発線 (2)

 「第27回停車場技術講演会記録」307頁から

 その辺にご関心がある方は

「京葉線はかつて新橋経由で都心(新宿、三鷹)に乗り入れる計画だった。」

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/post-1315.html

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 ここで、未成線研究としては外せない川島令三氏はここについてどう語っているかを見てみよう。 

 

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (20)  

  

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (21)  

  

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (22)  

  

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (23)  

 年を追うごとに、成田新幹線東京駅の完成度合いが後退していっているのが大変興味深い。 

 なお、「旅鉄CORE」とは、鉄道ジャーナル社から「旅と鉄道」を引き継いだ株式会社天夢人が「鉄道の世界を趣味として、知識として知見を広めるための一歩踏み込んだシリーズ」ということで、その栄えある第一号が川島令三氏の「全国未成線徹底検証 国鉄編」ということのようだ。
 

 川島令三氏の発言の推移については、「川島令三の上越新幹線新宿ルートの変遷を追う」という記事も書いたことがある。 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2020/04/post-159396.html 

  

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京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (24)  

 これは余談なのだが、「京葉線東京駅は成田新幹線駅の遺構なので、広いのだ」という話を聞くことがあるが、成田新幹線東京駅のホームよりも、京葉線東京駅のホームの方が広かったでござる。

 

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 これは全くの蛇足なのだが、今回の記事を書くためにネットも含めいろいろ調べていたのだが、こんな記事を見つけた。 

「東京駅の「京葉線ホーム」があんなに遠いワケ 新幹線の夢の跡に生まれた地下ホーム」 

https://toyokeizai.net/articles/-/220360

 この記事の日付が2018年5月13日 5:00 

 

そして、私がまとめた 

「<JR京葉線>東京駅はなぜ深くて、なぜ遠くて、なぜ有楽町線には乗入れないのか?」 

https://togetter.com/li/1163391 

 これをまとめた日付が2017年10月22日である。 

 もにょもにょ。 

 

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2021年5月 3日 (月)

階段国道339号に公共交通機関(JR津軽線と路線バス)で行く方法

 前回は階段国道の謎にエビデンスなしで迫ってみたのだが、ついでの記事を。

 階段国道の現地レポは先人の方々がたくさん書いておられるので今更私が書くほどのことはないが、「公共交通機関でどうやって階段国道に行くのがよいか」について書いたものはあまりなかったようだ。

 「道路マニア」はやはり車で行くのかな。

 しかし「せっかくなら津軽線の乗りつぶしとセットで階段国道に行きたい」という方もいらっしゃるかもしれないので、私が行った記録でも何かのご参考になるようでしたらどうぞ。

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 私が階段国道に行ったルートは

(東北・北海道新幹線)

 ↓

JR奥津軽いまべつ駅

 ↓

(徒歩)

 ↓

JR津軽二股駅

 ↓

(JR津軽線)

 ↓

JR三厩駅

 ↓

(外ヶ浜町営バス)http://www.town.sotogahama.lg.jp/kurashi/koutsuu/minmaya.html

 ↓

龍飛崎灯台バス停

 ↓

(徒歩)

 ↓

階段国道

 ↓

(徒歩)

 ↓

龍飛漁港バス停

 ↓

(外ヶ浜町営バス)http://www.town.sotogahama.lg.jp/kurashi/koutsuu/minmaya.html

 ↓

JR三厩駅

といったルートである。

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 詳細をご案内したい。

 まずは、北海道新幹線の奥津軽いまべつ駅で乗り換えだ。

階段国道339号  (1)

 往復津軽線に乗るのもよいが、「秘境新幹線駅」扱いされている奥津軽いまべつ駅で降りる機会も他にないだろう。

 なお、新青森駅からはJR北海道の路線なので、JR東日本の乗り放題の切符等では、追加料金が必要になることにご留意されたい。窓口は一つしかないので、あらかじめ車内で精算しておくとよいだろう。

 

 徒歩数分で津軽線の津軽二股駅である。

階段国道339号  (2)

 道の駅の裏側になるので、ご注意を。なんか文房具を買いたくなるような名前のお店がありますね。

階段国道339号  (4)

 

 JR津軽線の終点駅である三厩駅を降りると、目の前に小さなバスが止まっているが、これがお目当ての階段国道まで行く外ヶ浜町営バスである。

階段国道339号 (32)

 なお、駅前にはバス停以外何もないので迷う心配は一切ない。何か食事をしたり買い物をする店もない。

 

 唯一あるのが、これから向かう龍飛岬付近の観光案内の看板なので、地理感をよく掴んでおこう。

階段国道339号  (10)

 バスの運賃はどこまで乗っても100円だ。料金箱に入れよう。お釣りはないように準備しておこう。 

階段国道339号  (5)  

 

階段国道339号 (2)

 途中、国道280号は、緑看板となる。きっと自動車専用道路なんだろうw

 

階段国道339号 (31)  

 途中、国道280号と国道339号の合流点で、二つのおにぎりが並ぶ看板と、国道280号が北海道まで結ぶ「海上国道」たる所以の「東日本フェリー」の錆びた看板がある。 

海上国道280号 (2)  

海上国道280号 (1)

「全国版 ハイパワーA 道路地図」日地出版 1984年・刊 

 ところで、北海道・福島~青森・三厩の東日本フェリーについてはよく語られるけれど、この地図に載っている、福島~竜飛~今別~平館~蟹田~青森の旅客船も気になりませんか。ネットではあまり情報がないようだし。 

海上国道280号 (3)

https://www.davidrumsey.com/luna/servlet/detail/RUMSEY~8~1~301923~90072794:14-Aomori-ken,-Japan

  脱線するが、1956(昭和31)年の地図だと、航路はもっとマメに集落に寄港している。それだけ道路が貧弱だったのだろうなあ。

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階段国道339号 (38)

 左が国道339号だ。

階段国道339号 (3)

階段国道339号 (40)

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 ところで、外ヶ浜町営バスの走行ルートには注意しないといけない。

階段国道339号 (4)

 三厩駅→龍飛崎灯台行きはこんな感じ

階段国道339号 (5)

 帰りの龍飛崎灯台→三厩駅行きはこんな感じ

階段国道339号 (6)  

 私は、こういう感じで訪れた。逆ルートで龍飛漁港バス停から龍飛崎灯台バス停まで歩いてもよいのだが、それだと階段国道が上り坂になるのでご留意を。 

階段国道339号 (39)  

 私の場合は、この23分間で特に問題はなかった。 

 乗りつぶし目的で青函トンネル記念館のケーブルカー(竜飛斜坑線)に乗りたい方は、その時間を考慮すればよいだろう。 

 なお、バスの時間は外ヶ浜町のウェブサイトで最新のものをご確認いただきたい。 

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階段国道339号 (7) 

 龍飛崎灯台バス停を降りるとこんな感じだ。 

階段国道339号  (6)

 なお、この一帯は青函トンネルの発進坑があった。

階段国道339号 (9) 

階段国道339号 (10) 

 降りるとすぐ目の前にでかい看板があるので、道に迷うことはない。 

階段国道339号 (7) 

 目の前に「津軽海峡冬景色歌謡碑」が鎮座する。 

  紅白歌合戦で隔年で聞くことができる、あの石川さゆりの歌だ。

 中央の赤いボタンを「ポチっとな」とすると、”爆音”で津軽海峡冬景色が流れる。 

 私が投稿したものではないが、こんな感じだ。 

 

 道を急ぐ方はわざわざ聞くものではないかもしれない。 

 ちなみに裏側はこうなっている。 

階段国道339号 (8) 

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階段国道339号 (11)

 左手に「階段村道」の看板がある。階段になっている村道なぞ幾らでもあるだろうが、ここは一応登ってみる。

階段国道339号  (7)

 灯台にたどり着いて津軽海峡を眺めることができるのだが、私のブログを見るような方に見落としていただきたくないのは、右側のコンクリートの柱?である。 

階段国道339号 (13) 

 日本鉄道建設公団と建設省国土地理院による「渡海水準点」である。 

 青函トンネル建設にあたって設置されたのだろう。 

  

 私は問題なく行けたが、体力に自信の無い方は、最小時間の乗り継ぎであれば階段国道一本に絞った方がよいかもしれない。 

 くれぐれも「津軽海峡冬景色を聞いていたら時間がなくなった」ということのないようにw

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 階段国道と言ってしまえば、そのとおりで、普通に階段である。 

階段国道339号  (8) 

 国道の標識がなければなんてことはない。 

階段国道339号 (15) 

 照明灯を見ると、「青森県」「339」と書いてあるなあ。 

階段国道339号 (4) 

 途中の「国道」部分と同じように管理しているから、やっぱり青森県が管理する国道339号なんだなあ。 

とか 

階段国道339号 (16) 

 森林管理局の杭かなな。山ってなんのことだ?」 

とかくらいしか見るものもない。 

階段国道339号  (9) 

 中腹に学校跡地がある。 

 立ち寄る前に、バスの時間を確認だ。 

階段国道339号 (17) 

 三厩村立竜飛中学校跡地 

階段国道339号 (18) 

 裏には校歌が刻まれている。青森の中学校なのに、最初に出てくる地名が北海道なのは、海峡の街らしい。 

階段国道339号  (11) 

 中学校跡地を過ぎると、目の前に津軽海峡が広がってくる。一番のフォトスポットだろう。 

階段国道339号 (8) 

 そして階段を降りていくと、龍飛漁港が見えてくる。道路沿いの小さい小屋のところに「龍飛漁港バス停」がある。 

階段国道339号  (12) 

 階段をほぼ降り切ったところに、もう一つのフォトスポットがある。 

 ぶっちゃけ、道路マニアや珍スポマニア以外にとっては、2箇所で写真撮るだけで、他の一般人にはなんてことないと思っちゃう(個人の感想です。)。 

 こう言っては身も蓋もないのだが「階段なのにわざわざ国道に指定した珍スポット」ではなくて「国道指定したときには、龍飛漁港以西はずーーーーっと長い区間が階段どころか山道すらない通行不能区間で、順次開通したら結果的に階段区間だけ残っただけ」だから。ここを国道に指定した頃は、全国に「国道なのに自動車が通れない」山道のままの国道なんて日本中にあったから。

 ただ誤解のないように申し上げると、私は道路マニアなので大変な達成感や充実感を味わいましたが(個人の感想です。)。

階段国道339号 (24) 

 この看板が見えたら、階段部分は終わり。普通の一般国道だ。 

階段国道339号 (37) 

 龍飛漁港側から階段国道に入ろうとする方にはちょっと入り口が分かりにくいかもしれないが、この辺を参考にしていただきたい。 

階段国道339号 (27) 

 ここが龍飛漁港バス停 

 時間があれば後ろの小屋を回り込んでから見回してみよう。 

階段国道339号 (26) 

 「日本一の風を受けるトイレ」だ。 

階段国道339号 (25) 

 このトイレも原子力関係の補助金でできているようだ。バスにはトイレがないため、記念に用を足していくのもよいかもしれない。 

階段国道339号 (28) 

階段国道339号 (29) 

 目の前に広がるのは龍飛漁港だ。 

 バスの時間次第だが、灯台、中学校、漁港の探索にどう時間を配分するかイメージしておいた方がよいかもしれない。 

階段国道339号  (13) 

 さあ、三厩駅行きのバスが戻ってきた。 

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 こんな感じで、JR津軽線と外ヶ浜町営バスを使った駆け足の階段国道巡りはおしまい。 

 太宰治好きな方等にはもっと見所があるので、駆け足で戻るのは本当はもったいないのだが、 

 「車は使えない(使いたくない)けど、階段国道は見ておきたい」 

 という方には、参考になれば幸甚である。 

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(参考) 

■階段国道339号にまつわる謎にチャレンジしてみた 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2021/05/post-47cb80.html 

東北新幹線の貨物新幹線案 (13)

 階段国道は関係ないけど、三厩駅付近に青函トンネル用の貨物ヤードを設置する構想があったことを紹介する

「東北新幹線への貨物新幹線(荷物電車)導入は、約50年前に国鉄で決定済だった」

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2020/12/post-82da04.html

 もご関心があれば。

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 こんな動画も参考までにどうぞ 

 

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2021年5月 2日 (日)

階段国道339号にまつわる謎にチャレンジしてみた

 道路マニアなら、松波成行氏の「国道の謎」を持って、国道339号の階段国道を訪れるのは、「やってみたいこと」の一つではないか?

 私も過日その夢を実現してきたところである。

階段国道339号 (19)

階段国道339号 (21)

 ところで、松波氏の著書中、階段国道にまつわる謎が幾つかあげられている。松波氏でも解けなかった「謎」である。

 現地に立ってみて、その謎解きにチャレンジしてみたくなった。

 ただし、今回はいつもと違って資料から潰していく形ではなく、私のエビデンス無しの妄想ベースであることをお断りしておきたい。

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 松波氏の著書中、国道339号にまつわる謎がある。

 その一つが、国道339号が階段国道となる手前に、小泊方面に伸びる339号との間をショートカットする立派な道(著書では「軍道」)があるのに、そちらを国道にしていないのは何故か?というものである。


 龍飛崎砲台へとつながる唯一の車道は「木落」という集落にあたる陸軍繋留場から延びる道となりますが、それは地図(※引用者注:昭和15年当時の1:25000地形図「龍飛崎」)上では「軍道」と示されています。今でも「階段」で不通となっているため、その迂回路としてこの旧軍道が使われています。この道が国道339号とはならずに階段国道となったことは、階段国道を語る上での謎となっていますが、推定されるには戦後になってからの「軍道」の管轄とその引き継ぎで、何か公道となりえなかった可能性があります。

 

「国道の謎」松波成行・著 祥伝社・刊 62頁から

 松波氏の文中の「木落」は、上図の地理院地図では「三厩木落」となっている。

 図中「三厩木落」の字の上を左右に走って国道339号をショートカットしているのが文中の「軍道」である。

階段国道339号 (6)

 実際に現地の標識では、ここの木落の分岐では直進も左折も国道339号として案内しているし、「何か公道となりえなかった可能性」がありそうな雰囲気ではなさそうだ。

 で階段国道と通常の国道の境界で周りを見回してみた。

階段国道339号 (37)

 そこには漁港がある。

階段国道339号 (29)

階段国道339号 (27)

 なるほどと思った。

 松波氏の著書にも触れているように、国道339号のこのあたりの前身は青森県道中里今別蟹田線であり、現在の階段国道のルートを定めたのも県道認定のとき(松波氏の著書によると1965(昭和40)年)である。

 ぶっちゃけそのころは国道であっても、山道の点線国道等は珍しくなく、まして県道認定の段階では、現状では階段部分があろうと、将来改築予定があればさして問題になったとは思いづらい。

 むしろ、「ここまで青森県道として伸ばしたい。県の金で整備・管理してもらいたい」という明確な意思があったのではないか

 

 昭和42年撮影の動画というから、県道昇格から約2年後である。 

 この動画の0分50秒過ぎに、当時の龍飛漁港付近の未舗装の道路の状況が出てくる。こんな道路を改良する部分を1メートルでも漁港まで伸ばしたかったのではないだろうか?

 木落で分岐して龍飛灯台まで上がってしまえば、木落から龍飛漁港までは、三厩村道として村の金で整備・管理しなければならない。

 また、龍飛漁港程度では、県道認定基準の起終点の基準を満たしづらかったのだろうか?。

 そこで、龍飛漁港まで青森県道を整備する方便として、当時村道だった階段部分を(将来改築予定部分みたいな扱いにして)活用して龍飛灯台まで路線を繋いだのではないだろうか?

 「なぜ階段が国道(県道)なのか」は正直二の次であって、「なぜ木落から先まで国道(県道)を引き延ばす目的があったか」の視点である。

 「階段」に積極的な理屈は全くなくて、あくまでも「龍飛漁港までの道路を村道よりも格上の道路として管理できるようにできるだけ北まで引っ張りたい」という方便に使われただけではないか?

 現在では観光資源として活用されているが、実態は夢もロマンも何もないかと。

 当地は冬の積雪も波浪も大変厳しいところなので、財政的にも実際の現場力としても厳しい村ではなく「県の力で龍飛漁港まで道普請して除雪してもらいたい」「木落から龍飛灯台まで旧・軍道を県道認定してしまうと、その先の漁港までは村単独で管理するのは厳しい」という切なる気持ちを反映した結果という方が適切なのかもしれない。

階段国道339号 (20)

 階段国道から見下ろす龍飛漁港。国道としての終点から先は漁港内の施設として農水省からの金が入っているのではないだろうか?

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 ちなみに、階段国道の横に龍飛灯台へ続く階段があるが、そこには「階段村道」の標識が建っている。なんかやり過ぎ感が。。。

階段国道339号 (11)

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 松波氏の著書中、国道339号にまつわる謎がもう一つある。

 国道339号に並行する「青函トンネルのための材料運搬専用道」であった県道:通称「あじさいロード」が、国道339号に昇格してしかるべきなのに、そうなっていないのは何故か?というものである。


 あじさいロードは国道と並行して造られた道で、国道よりも山側に沿って龍飛崎へと伸びています。路線の流れから見ても明らかなように、この青函トンネル工事専用道路は、工事終了後には国道339号の新道(バイパス)として予定されていたものでした。

 このように、竜泊ラインが竣工した昭和59(1984)年10月の段階で、三厩村側の「青函トンネル工事専用道路」=国道339号の新道(バイパス)予定ルートも併せて、龍飛崎は自動車による通行ができる周回道路の目途は立っていました。あとは、青函トンネル工事完了の知らせを待つだけでした。暫定として指定しておいた階段国道も、これで抹消される準備は整ったと地元関係者は考えていたことでしょう。

 しかし、今でもこの道は路線変更はなされていません。(以下略)

 

「国道の謎」松波成行・著 祥伝社・刊 67~68頁から

 松波氏はその理由として「階段国道が観光資源として全国的に認知されたため、そのまま国道に残しておいたのではないか」としている。

 

 下記の地理院地図で、国道の山側(地図の左側)を走る灰色の道路が当該県道(あじさいロード)である。

 で、私も現地でその理由を色々考えてみた。

 

 今昔マップ等で見ても分かるように、今でも国道339号は部分的にではあれ、改築工事が進められているようだ。

 その例の一つが梹榔バイパスである。

https://www.pref.aomori.lg.jp/soshiki/kendo/doro/files/070515hyoro.pdf

階段国道339号 (35)

階段国道339号 (34)

 国道339号は海に面した厳しい線形の道路が続いており、あじさいロード開通後も改築が必要なのだろう。現地には他にも従前の隧道を改築した箇所等が見られた。

階段国道339号 (5)

 ところで、道路の改築費用を誰が負担するかについては、道路法に定めがある。

 細かい条文はさておき、国交省のウェブサイトによると下記のような感じだ。

階段国道339号 (36)

https://www.mlit.go.jp/road/sisaku/dorogyousei/2.pdf

 国道339号は、青森県が管理する国道なので、ここでいう「補助国道」であり、改築の際には、国が1/2を負担する。

 一方、県道は、国は1/2「以内」の補助となっている。常に1/2を国が負担してくれるとは限らないわけだ。

 

 松波氏も「国道昇格を受けることでの最大のメリットは、建設費にかかる国庫の負担率が高まることにあります。(「国道の謎」65頁)としている。

 地元は、不通区間の開通後も「改築費にかかる国庫の負担率が高まること」のメリットを受けることを選択して、現道を国道339号としたままなのではないだろうか?

 あじさいロードは、青函トンネル建設用の重機が走っても大丈夫な道だから、当面そんなに大規模な改築需要はないだろうし。

階段国道339号 (33)

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 ということで、松波氏が解き残した二つの「国道339号の謎」にチャレンジしてみた。

 金の話に終始して、夢もロマンもないような気がするが、世の中そんなもんじゃないかなあと。

 繰り返すが、これはエビデンスなしの、個人的な「国道の謎読書感想文」にすぎないし、松波氏の著書が間違っているというわけでもない

 県の公文書等をひっくり返せばこの駄文にダメ出しする資料は何か出てくるかもしれない。

 というか、これを読んでいる貴兄が是非ひっくり返す公文書を見つけてきていただきたい。

 

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 せっかくなので、いつもの私のブログらしいネタも書いておこう。

 

 国道339号が国道として指定されたのは、1969(昭和44)年である。

 この追加指定では、佐渡島、対馬、宮古島等の離島の国道(いわゆる海上国道部分を含む)が多く指定されたものとして有名である。

 この際の追加指定路線の主な特徴は下記のとおりである。


(イ)今日まで殆んど国道指定の行なわれて いない離島(離島振興法、奄美群島振興特別措置法、沖縄振興開発特別措置法に規定された離島及び島しょ)について、 国道の指定を積極的に拡大したこと。

(ロ) 地域的にみて、国道の網間隔が大きく、前回までの国道指定率の小さな東北地方等の格差の是正に努めたこと

(ハ) 路線の位置的な関係からみると、従来の路線が海岸線や平野部の中央及びすそ野に位置しているものが多いのに対し、 今回の追加指定では山岳部を積極的に活用し、中央縦貫道、横断道などの大動脈を形成するものが多くとり入れたこと。

 例えば国道340号は八戸市から陸前高田市に至る、実延長247kmの路線で あるが、これは岩手県域の中央縦貫道として位置づけられている。

(ニ)新設の国道として、302号と357号を指定したこと。

 302号は、既存の国道であるが前回の国道昇格時に都市計画決定等の関係で、次回送りになった区間を今回追加指定することにより、全区間を完成させたものである。

 357号は通称東京湾岸道路であって、新たに今回国道に指定したものである。

 

「一般国道の追加指定について」建設省道路局企画課長補佐 藤井治芳・著 「道路セミナー」1974年12月号68頁から

 「国道の網間隔」については、過去の記事

国道昇格はどのようにして決められるのか?~「ふしぎな国道(佐藤健太郎著)」の不思議(その5)

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/03/post-b7f8.html

をあわせてお読みいただきたい。

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 余談だが、階段国道どころか、三厩まで高速道路を作る構想があった。

未成高速道路ネットワーク (9) 

 1966(昭和41)年4月1日付毎日新聞から

未成高速道路ネットワーク (1) 

 詳細はこちらを。

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2021/01/post-73aac0.html 

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2021年5月 1日 (土)

新宿西口甲州街道交差点 なぜ南側の一角だけビルの背が低いのか等を登記簿から探る

 新宿駅東口の地下の話をしたので、ついでに新宿駅西口の地下の話も書いてみる。

 新宿駅西口といえば、高層の商業ビルが立ち並び高度な利用がなされている。

 その一角になぜか一か所だけ背が低く古いビルがあるのに気が付いた方もいらっしゃるだろう。

 そう、「スーパーミリオンヘア」の看板が建ってるあのビルである。

 都市計画図を見ても、甲州街道一体は容積率800%だ。しかも角地である。

新宿駅周辺土地 (1)

http://www2.wagmap.jp/shibuya/MAP?API=1&mid=1000&mps=2500&mpx=139.699326827324&mpy=35.6880186766642&gprj=3&mtp=shibuya_dm&siz=863,1377&mtl=39,40,24,25,26&itr=1

 なのに、なぜあの一角だけ有効利用されていないのか。

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 賃貸ビルサイトhttps://www.offisite.jp/buildings/9643/%E6%96%B0%E5%AE%BF%E5%8D%97%E5%8F%A3%E3%83%93%E3%83%ABを見てみると、あの「スーパーミリオンヘア」の看板のビルは、「新宿南口ビル」といい、1964年11月竣工の4階建地下1階鉄筋コンクリート造とのことである。

 既に60年近い建物である。普通なら周囲の建物と一体的に再開発するであろう。

 渋谷区の都市計画図には特に再開発に支障となるような規制はなさそうだ。

 

 では一体なぜ、古くて背が低いビルのままなのだろうか?

 

 成田新幹線買収済用地跡ではないかと未成線オタクが嬉しがっていた土地を、当該土地の登記簿を取得することで、オタクの妄想をぶち破ったという成功体験に基づき、この土地についても土地の登記簿を取得してみた。

 

 すると興味深い権利の登記がされていた。

 

 ここで一旦、土地の登記簿に載せられる権利等の話をしてみよう。

 土地の登記簿はザクっといって下記の3つに分けて表示されている。

 1)表題部・・・土地の表示に関する事項を表示 当該登記簿に係る土地の地番、地目、面積等が書かれている。

 2)権利部(甲区) ・・・土地の所有権に関する事項を表示 当該登記簿に係る土地を所有しているのは誰かが書かれている。

 下記が、千葉県立船橋二和高校敷地の登記簿である。

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する (12)

 そして、今回「スーパーミリオンヘアのビル」の土地に係る登記簿について注目すべきなのは3つ目の表示の乙区である。

 3)権利部(乙区) ・・・その他の権利に関する事項を表示 当該登記簿に係る土地に設定した抵当権、賃借権、小作権、地上権等の権利が書かれている。

 では見てみよう。

新宿駅周辺土地 (2)

 このビルの地下には、京王帝都電鉄による「地上権」が設定されていた。

民法(抄)

第4章 地上権

(地上権の内容)

第265条 地上権者は、他人の土地において工作物又は竹木を所有するため、その土地を使用する権利を有する。

(略)

(地下又は空間を目的とする地上権)

第269条の2 地下又は空間は、工作物を所有するため、上下の範囲を定めて地上権の目的とすることができる。この場合においては、設定行為で、地上権の行使のためにその土地の使用に制限を加えることができる。

(以下略)

 「他人の土地」=「スーパーミリオンヘアのビルのオーナー等の土地」において「工作物」=「京王線」を所有するため、「上下の範囲を定めて」=「東京湾中等潮位の上34メートル以下」に地上権を設定していたのだ。

 (※地下であっても「地上権」である。通常「地下権」とは言わないと思う。)

 

 そして「地上権の行使のためにその土地の使用に制限を加えることができる」とある。

 登記簿では具体の制限内容について触れていなかったが、「京王線を地下に設けるという権利を行使するために、スーパーミリオンヘアのビルのオーナー等に土地の使用の制限が加えられた」のであろう。

 私の推測にすぎないが、「京王線のトンネルに支障が出るような重さのビルを建てない」といった制限が加えられているのではないか。

 この近辺は容積率800%というとても高度な利用で収益が期待できる商業地域のところを現状地上4階建てのビルしか建てられていない。

 その減収分に見合った金額を京王側が地主に支払ったうえで、登記簿に京王の地上権が設定されたと思われる。

 なお、当該地上権が設定された「昭和38年4月1日」は、京王線が地上から地下に潜った日である。

 

 ※当該土地の甲区の所有権については、地上権設定当時は、ビルのオーナー会社等が共有していたが、順次京王電鉄がその持ち分を買収しており、現在では甲区の所有権も乙区の地上権も両方とも京王電鉄の名義となっている。

 

 地理院地図で見てみると、このビルは、京王線の地下トンネルに沿った形となっている。

 他の区画のように、周辺の土地を巻き込んだ形での大規模な再開発はハードルが高いのかもしれない。

 やってやれないことはないが、手間と収益増がバランスするかという問題。京王が一帯を買収して自社でトンネルと一体となったビルを作るには問題ないかもしれないが、都営新宿線の改札の奥になるので、地下街と一体化できないんだよなあ。。。

 

※上のマップを見ていて気が付いたのだが、都営新宿線の改札を通って左手の段差と、例のスーパーミリオンヘアーの看板のビルはツライチになっているんですな。京王線のトンネルの影響がそれぞれに出ているのだけれども、こういう経緯で繋がって見えてくるわけですな。

京王線新宿駅の秘密 

 ※ヤフーマップと都営新宿駅構内図に加筆 

 京王線が玉川上水敷地下から京王百貨店地下に入っていくにあたって、そのトンネル構造が、地上の「スーパーミリオンヘアの看板のビル」の形状に影響を与え、同じ流れで、都営新宿線新宿駅改札内の段差に繋がっていると言った方が分かりやすいか。

(参考)都営新宿駅構内図

https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/stations/shinjuku.html#solid 

京王線新宿駅 京王線新宿駅 京王線新宿駅

 昔撮った京王新宿駅の写真でもおまけに。多摩動物園行きはライオンの、府中競馬場行は蹄鉄のヘッドマークになっているのが分かりますか?

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 ついでに、もう一箇所あやしい土地の登記簿を取ってみた。

 東京南新宿ビルディング

 先ほどのスーパーミリオンヘアーの看板のビルからちょっとだけ南下したところだ。

 後ろを振り返ると、京王線が地下化されて埋め殺された玉川上水とそこに架かっていた葵橋のモニュメントが残されている。

 玉川上水があったころは、下記のように「東京南新宿ビルディング」があるところも含めて、新宿駅敷地まで玉川上水が走っていた(現在は暗渠化されて地下を走っている。)

 で、東京南新宿ビルディングが建っている土地の登記簿を見ると

玉川上水 (3)

 表題部の地目に注目してほしい。さきにあげた千葉県立船橋二和高校の登記簿では「学校用地」だった。

 それが、ここでは「水道用地」である。

 小平市の玉川上水では今でも下記のような「水道用地」の杭等が見られる。

玉川上水 (2)

玉川上水 (1)

 また、 表題部の「登記の日付」に注目していただきたい。

 「平成16年3月30日」である。 

  玉川上水自体は江戸時代からあるのに、この土地がそもそも一筆の土地として登記されたのがつい数年前である。

 しかも地番が5000番という如何にもとってつけたような番号だ。 

 なぜこんなことになったのだろうか? 

  東京南新宿ビルディングは平成16年よりもずっと前から建っているはずだが、そんな土地の名義の上でよく建築確認等の行政手続きが通ったものだ。

 私のブログの読者の方はこんな図面を覚えていただいている方もいらっしゃるかもしれない。 

新宿駅南口地区基盤整備事業と玉川上水 (2)  

 これは「日本鉄道施設協会誌」2008年1月号に「新宿駅南口地区基盤整備事業に伴う玉川上水用地処理」森重達美、佐藤英明、柴田勇・共著(いずれもJR東日本東京工事事務所契約用地課)に掲載された図面に私が加筆したものである。 

 ここにいう「新宿駅南口地区基盤整備事業」とは、新宿駅南口の甲州街道拡幅やバスタ新宿新設等のことを指している。 

 つまり、バスタ新宿等の工事を行うにあたって、新宿駅の鉄道施設下にあった玉川上水を移設した。それに伴い、用地の交換等を行ったのである。 

 そのために、平成16年頃に土地を登記する必要があったが、それまではおそらく青道扱いか何かで、玉川用水敷地としての地番の設定等は行われていなかったのであろう。そこで 「原因及びその日付」は「不明」(江戸時代だもんな)として「登記の日付」を「平成16年3月30日」としたのではないか?

 地番が「5000番」になっているのもその辺の理由がありそうだ。 

 

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 新宿駅、バスタ新宿等と玉川上水等の関係は、 

【暗渠】玉川上水と新宿駅南口地区の開発について(その1) 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/post-7d6f.html 

【暗渠】玉川上水と新宿駅南口地区の開発について(その2) 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/post-3a1f.html 

【暗渠】玉川上水と新宿駅南口地区の開発について(その3) 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/post-72fc.html 

もあわせてごらんいただければ幸甚である。 

  

 また、新宿近辺の玉川上水については、暗渠マニアックス吉村生さんの 

「したたかに勝ちを増やす玉川上水(新宿駅上流側編)」 

http://kaeru.moe-nifty.com/ankyo/2019/06/post-f053d3.html 

も参考になるので是非。 

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(追記) 

 ブログ公開後、ツイッターで貴重な指摘をいただいたのでご紹介。

 京王は、「スーパーミリオンヘアーの看板のビル」の周辺のビルを取得済だったり共同所有したりしているようだ。

 あの角地の再開発も遠くないのかも!?

 

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2021年4月29日 (木)

構想以来65年ぶりに西武新宿駅と新宿駅を結ぶ地下道が実現に向けて動き出した~西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(23)

西武鉄道のプレスリリースにいきなりこんなのが出た。

https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2020/20210426_shinjyuku.pdf

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (96)

西武新宿駅の乗換利便性向上による新宿線のさらなる沿線価値向上のため、「西武新宿駅と東京メトロ丸ノ内線新宿駅をつなぐ地下通路」の整備に向けた検討・協議を進めます。

 私のブログでもしつこく記事にしているように、ここらあたりには、計画が二転三転というか頓挫した未成計画ばかり眠っている。

 ざっと経緯を整理するとこんな感じだ。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (97)

 ネットでは「マイシティ2階の計画がやっと形を変えて復活」みたいなことを書いている方もいらっしゃるが、実際には、その後の地下複々線化の亡霊の復活でもあるし、サブナード地下街の幻の「西武新宿駅-国鉄新宿駅直結2期計画」の復活である。 

  

 ざくっと過去の経緯をおさらいしていこう。 

  

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■ 西武新宿線 新宿駅への二度の乗り入れ断念  

 私のブログを読んでいただいている方なら十分ご存じかとは思うが、「新宿ステーションビル=マイシティ=ルミネエスト」の2階に西武新宿線が接続する計画があった。 

西武鉄道が乗り入れるはずだった新宿ステーションビル (1)  

 現在の新宿駅東口の駅ビル「ルミネエスト新宿」の2階北側には、天井が高い吹き抜け部分があるが、この空間こそが西武新宿駅となるものだった。

 

「なるほど西武 仮駅が本駅となった西武新宿駅」結解義幸・著 トラベルムック「新しい西武鉄道の世界」交通新聞社・刊

 

 ときどきこんなデマをばらまく困ったライターや出版社がいるが、実際には

西武鉄道が乗り入れるはずだった新宿ステーションビル (13)

 こんな感じでホームと吹き抜けは全く関係ないことが分かる。

「新宿ステーションビルの店舗募集資料から西武線のホームと吹き抜けの関係を確認してみる~西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(18) 」

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2020/01/post-66d29f.html 

 にこの辺は紹介してある。 

  

 なお、西武の社内報には 

「当初新宿への地下鉄乗入線を予想し地下での乗換えの便を考慮して、終点附近は地下に潜ぐる様考えたのであるが、(中略)これを断念」 

 との記載がある。 

 詳細は 

「西武新宿駅は、元々地下鉄乗換えを考慮して地下に設置する構想だった~西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(17)」 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2020/01/post-98776e.html 

 を参照されたい。 

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 さて、西武のプレスリリースの末尾に 

【参考】

「新宿駅北東部地下通路線」について(新宿区)

https://www.city.shinjuku.lg.jp/kusei/toshikei01_000001_00016.html

「新宿の拠点再整備方針~新宿グランドターミナルの一体的な再編~」について(東京都都市整備局)

https://www.toshiseibi.metro.tokyo.lg.jp/topics/h29/topi063.html

 

 と参考リンク先があげられている。 

 ここに興味深い資料がある。 

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (94)  

「都市計画変更素案について 東京都市計画道路 特殊街路 新宿歩行者専用道第4号線 東京都市計画通路 新宿駅北東部地下通路線」 

https://www.city.shinjuku.lg.jp/content/000309906.pdf 

 今回の地下道は「東京都市計画通路 新宿駅北東部地下通路線」として都計決定されるように手続きが進められているようなのだが、この資料の脚注に興味深い一文が添えられている。 

参考

西武新宿駅~東京メトロ丸ノ内線新宿駅間の地下歩行者ネットワークについては、西武鉄道新宿線複々線化計画(地下急行線)の改札外コンコースとして整備される予定であったが、現在、東京都において都市計画変更(廃止)に向けた手続き中。

 

 そして上記図面にも「西武鉄道新宿線複々線化計画(地下急行線)【都市計画廃止手続き中】」との記載があり、緑色で西武新宿線が「メトロプロムナード」まで伸びているのが分かる。

 これが二回目の西武新宿線延伸構想の跡地である。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (92)

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (93)

 上図は、「西武新宿線 西武新宿-上石神井間複々線化事業 環境影響評価案の概要」15~17頁から 

 新宿アルタ横あたりの地下6階に新宿線のホームが出来て、その上に西武新宿駅と新宿駅を結ぶ地下道が「改札外コンコースとして整備される予定」だったと。 


西武新宿線 新宿―上石神井駅間複々線化計画 無期延期決定 費用の膨張理由に

 

 輸送力の増強を目指し、西武新宿―上石神井駅間の約十二・八キロの地下に、新たに急行線を走らせて複々線化する事業計画を進めていた西武鉄道は、建設費が当初見込み額を大幅に上回る見通しとなったことなどを理由に、事業の無期延期を決定し、十九日までに沿線自治体の中野区に伝えた。

 西武鉄道は八七年十二月、運輸省の特定都市鉄道整備事業計画の認定を受け、複々線化予定区間の運賃に十円上乗せし、工事費を積み立て。九三年に都の都市計画決定が下り、昨夏には建設省に工事施行許可を申請、手続きはほぼ整っていた。

 ところが、ラッシュ時の乗客数は九一年をピークに下降気味。当初は千六百億円と見込んでいた総事業費も、地下水の水位が予想より高かったことや、現在の西武新宿駅をJR新宿駅寄りに移動することにしたことなどから、約二千九百億円に膨れ上がることがわかった。

 このため、同社は複々線化を延期せざるを得ないとし、十九日には、特定都市鉄道整備事業計画の認定取り消しを運輸省に申請。これまで十円を上乗せしてきた区間では、乗客への還元を図るとしている。同社広報課は「計画を無理に進めれば、工事費の負担は運賃にはねかえり、逆にご迷惑をかける」としている。

 

1995(平成7)年1月20日付読売新聞から

 

 といった理由で事業は中断された。 

西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(10)西武新宿線の地下複々線化による新宿駅乗り入れ 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/jr-dd3c.html 

 西武鉄道新宿線(西武新宿駅~上石神井駅間)の複々線化計画の廃止にあたっての質疑で下記のような記載がある。 

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (98)

https://www.toshiseibi.metro.tokyo.lg.jp/kiban/pamphlet/pdf/pamphlet_111.pdf

 「西武新宿駅とJR線や丸ノ内線との乗換経路の改善について(略)当社としても積極的に乗換改善に努めていきたい」

 地下複々線事業計画を廃止して、新たに地下道のみ新設する手続きが東京都や新宿区等による「新宿グランドターミナルの一体的な再編」の一環として行われることになったわけだ。 

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (95)  

https://www.city.shinjuku.lg.jp/content/000309906.pdf 

  

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■ 幻となった新宿駅への地下道直結計画

 現在、西武新宿駅と東京メトロ・JR新宿駅はサブナード地下街とメトロプロムナードによって迂回する形で連絡されている。 

 今回、ここを直結する地下道が実現しようとしている。 

  

 ところで、西武では昭和30年代に、西武新宿線を新宿ステーションビルに乗り入れる計画と並行して、ここを直結する地下道の構想があった。 

 先日までヤマダ電器があった西武新宿駅のトイメンのビルを「西武フロントビル」として地下街と一体開発するものだった。 

 その資料が早稲田大に保存されており、 

「西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(7)地下道による西武新宿駅と営団地下鉄・国鉄新宿駅との連絡」 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/jr-aa77.html 

 に紹介してある。 

 ザクっというと「国鉄新宿駅に西武新宿線を乗り入れても西武として今更東口に活用の余地はなく、地下街と西武フロントビル等で一体として開発する方が投資としては有効ではないか」というものであり、この計画が実現していえば、ヤマダ電器ではなく、西武百貨店新宿店がそこに建っていたかもしれない。 

  

 その後、サブナード地下街計画が具体化し、 

 「昭和37年2月20日には有志が会合」「まず最初は、西武プラス歌舞伎町振興会で動き出した」と「新宿サブナード30年のあゆみ」29~30頁にある。 

  西武は、「西武新宿線のステーションビル乗り入れ」と「サブナード地下街による西武新宿駅と新宿駅の直結」の二本立ての計画を推進していたのである。

 しかし、西武線乗り入れ断念後の1967(昭和42)年に西武百貨店社長だった堤清二は、「会社としては地下街会社に出資しない」旨を創立事務所に伝えている。(「新宿サブナード30年のあゆみ」から) 

  

 ご存じのように1965(昭和40)年に、西武新宿線は新宿ステーションビルへの乗り入れを断念している。 

 鉄道と地下街の二本立て計画の両方を止めたわけだ。なぜだろうか? 

 そのヒントとなるのが、1964(昭和39)年の堤康次郎の死去かもしれない。 

 堤康次郎亡き後の西武の事業について、このような記述がある。


 事業の世界では義明はまだ赤子同然で、このような巨大な組織を継ぐには未熟かつ経験不足であった。父親は彼に、10年間は何もするなという遺言を残した。

(略)

 義明はグループの事業内容を隅々まで掌握するまで、しっかりと満を持して学ぶべきである、というのが康次郎の意向だった。とりわけ、新規事業は固く禁じられた。10年経てば状況も変化する。その時こそきちんとどう動くかを決める時なのだ。

 

「血脈 西武王国・堤兄弟の真実」レズリー・ダウナー・著 常岡千恵子・訳 徳間書店・刊 242頁から

 

 ひょっとしたら、この一環で両事業がストップした可能性もあるんじゃないかなあなんて夢想している。

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 ところで、西武の資本参加はなくとも、サブナード地下街は、西武新宿駅と国鉄新宿駅を直結する構想を実現しようとしていた。1964(昭和39)年に策定された地下街の「基本構想」には第二期計画として盛り込まれている。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (17)  

 しかしこの計画は実現しなかった。


「道路幅は全体で25m(国鉄寄り歩道4.4m、民地側歩道3.8mを含む)。16.80mのみが車線である。地下建物の地表への階段出入口(幅員3m)をとるためには、歩道を両側7mにしなければならない。すると残りの車道は11m幅になる。これだと、車線確保はギリギリであり、しかもS形にカーブしていて、車輌運行上の危険がある。しかもこれは地下駐車場から地表へのランプ設置場所が確保できない」。

 「協議会(※引用者注 新宿地下駐車場第2期計画国鉄寄り協議会)」はこの案を断念するしかなかった。ただし将来構想としては、残されているのである。

 

「新宿サブナード30年のあゆみ」 新宿地下駐車場株式会社・発行 55~56頁から引用

 このように1970(昭和45)年に、地下道による直結の道も閉ざされてしまった。

 

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 これは余り知られていないが、都営大江戸線と西武新宿駅を地下道で直結する構想もあった。

西武新宿駅地下鉄大江戸線直結計画 (3)  

新宿区「新宿駅周辺にかかわる諸問題について」答申付属資料 1982(昭和57)年 から 

 都営地下鉄12号線(大江戸線)のルートや駅の配置が現在とは異なるが、これは現在のリニアメトロが導入される前のルートである。 

  今や新宿西口駅の場所も変わっており、実現は不可能だったということか。

 ただし、上記答申附属資料には、今回の「東京都市計画通路 新宿駅北東部地下通路線」にあたるような地下道の構想も見られる。 

西武新宿駅地下鉄大江戸線直結計画 (5)  

 これが都市計画決定するまで40年かかった(途中地下急行線がらみの動きはあったが)ということか。 

(参考) 

「西武新宿駅を大江戸線新宿西口駅に直結させる計画が1982年にあった~西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(16)」 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2020/01/post-727461.html 

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  鉄道マニヤ、未成線マニヤの一部には、今回の動きを受けて

「次は、西武新宿線の東京メトロ東西線への乗り入れだ!」

 と期待している方もいらっしゃるようだ。 

 しかし、地下急行線廃止計画手続きにおける質疑では下記のような回答が出ている。 

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (99)  

https://www.toshiseibi.metro.tokyo.lg.jp/kiban/pamphlet/pdf/pamphlet_111.pdf 

 「交通政策審議会の答申に位置付けていない」「東京都としても具体的な計画はない」 

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 ところで、今回の記者発表を受けて、こんなツイートがあった。

 そう、今回記者発表あった4月26日は堤康次郎氏の命日なのである。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (98)  

 実に堤会長没後57年を経た命日でのプレスリリースであった。

 冒頭のプレスリリースにはこう書いてある。

この度、新宿区により「新宿駅北東部地下通路線」の都市計画手続きが開始されたことを受け、当社は本通路の事業予定者として、都市計画決定後の本通路の早期実現に向け、具体的な検討および関係者との協議を進めてまいります。

https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2020/20210426_shinjyuku.pdf

 西武グループの新宿駅東口進出は、まだ始まったばかりだぜ!!

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2021年4月25日 (日)

今度開通する名二環(名古屋西JCT~飛島JCT)は、政令上は「近畿自動車道伊勢線」ということで、東名阪道ではなく伊勢道の仲間である件

2021(令和3)年5月1日に、名古屋第二環状自動車道 名古屋西JCT~飛島JCTが開通する。

 ところで、この新規開通区間である名古屋西JCT~飛島JCT間は、「高速自動車国道の路線を指定する政令」によると、「近畿自動車道伊勢線」である。

名二環が近畿自動車道伊勢線である件 (1)

https://www.cbr.mlit.go.jp/kikaku/jigyou/data/r0112/110_shiryou_6.pdf

 近畿自動車道伊勢線というと普通イメージするのは伊勢自動車道だ。

 一方、同じ名古屋第二環状自動車道でも、名古屋南JCT~楠JCT~飛島JCTは、「近畿自動車道名古屋亀山線」である。

 東名阪自動車道は名古屋亀山線だし、名古屋第二環状自動車道は以前は東名阪自動車道と呼んでいたので違和感はない。

 なぜ名古屋西JCT~飛島JCT間だけ、東名阪道系列ではなく伊勢道系列なのだろうか?

 

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 まずは、「国土開発幹線自動車道建設法」の別表を見てみよう。 

名二環が近畿自動車道伊勢線である件 (6)  

 近畿自動車道伊勢線と近畿自動車道名古屋大阪線は、共に名古屋を起点として四日市を経由したのちに分岐し、伊勢市、吹田市を終点にしている。 

 国幹道法の名古屋大阪線は、道路名でいうと、名二環、東名阪道、(国道25号名阪国道)、西名阪道及び近畿道を形づくっている。 

 また、名古屋神戸線は、道路名でいうと新名神(第二名神)である。

 しかし、これでは今回開通する名古屋西JCT~飛島JCT間が、法律上何自動車道にあたるかが分からない。 

 

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 そこで、「高速自動車国道の路線を指定する政令」で見てみよう。 

 先にあげた国土開発幹線自動車道建設法の別表は、第四次全国総合開発計画で第二東名・名神等約1万4千キロの高規格幹線道路が位置づけられたことを受けて、1987(昭和62)年に改正されたものである。 

  

 そして、1989(平成元)年1月に開催された第28回国土開発幹線自動車道建設審議会での審議を踏まえ、高速自動車国道の路線を指定する政令が改正された。 

名二環が近畿自動車道伊勢線である件 (3)  

 細かいところは目をつぶって、ザクっと路線網を描くと下記のような感じだ。 

名二環が近畿自動車道伊勢線である件 (3)  

 この段階では、「高速自動車国道の路線を指定する政令」では「近畿自動車道関伊勢線」であり、現在と異なり、名二環どころか、東名阪道とも重用していない。 

 名阪国道と接続していた「関ジャンクション」の名前が懐かしい方もいらっしゃるかもしれない。

 「高速自動車国道の路線を指定する政令」は、この後、何度も改正されているのであるが、そのうち重要なものを取り上げていく。

  

 1996(平成8)年12月に開催された第30回国土開発幹線自動車道建設審議会で、近畿道名古屋市緑区~名古屋市名東区が基本計画区間とされたことを受けて、1997(平成9)年2月に「高速自動車国道の路線を指定する政令」が改正された。 

名二環が近畿自動車道伊勢線である件 (4)  

名二環が近畿自動車道伊勢線である件 (2)  

 従前までは関町が起点だった「関伊勢線」が、このとき名古屋市が起点の「伊勢線」に変更された。 

 しかし、名古屋南JCT~楠JCT~名古屋西JCT~亀山が名古屋関線と重用し、亀山市で分岐するものとされたにとどまり、まだ今回開通区間である名古屋西JCT~飛島JCT間は、高速自動車国道としては出てこない。

 (※このときの改正で法令上は名古屋~伊勢が繋がったため、便宜上現在の「伊勢関」を図に入れているが、実際に東名阪と伊勢道が直結したのは、2005(平成17)年3月である。ご注意くださいませ。)

 

 

 

 やっと今回開通区間である名古屋西JCT~飛島JCT間が出てくるのが1999(平成11)年12月に開催された第32回国土開発幹線自動車道建設審議会である。 

 このときに、今回開通区間となる、近畿道 名古屋市中川区~愛知県海部郡飛島村間が基本計画となった。 

 ちなみに、いわゆる「道路公団改革」の一環として、国土開発幹線自動車道建設審議会は、この後「 国土開発幹線自動車道建設会議」に改められた。最後の「国幹審」の審議内容の一つが今回開通区間だったわけである。

 当該区間を取り込んだ「高速自動車国道の路線を指定する政令」は、2000(平成12)年1月に改正された。 

  

 そして現在の「高速自動車国道の路線を指定する政令」が下記のとおりとなっている。 

名二環が近畿自動車道伊勢線である件 (2) 

名二環が近畿自動車道伊勢線である件 (1) 

 亀山以東を名古屋関線(東名阪道)と重用していた伊勢線が、四日市JCTから分岐し、今度は名古屋大阪線(伊勢湾岸道)と重用して飛島まで向かい、飛島JCTで名古屋大阪線と分岐し、単独で名古屋西JCTへ向かい、そこで名古屋関線(名二環)へ再び合流して起点の名古屋南JCTへ向かうという奇天烈なルートを辿ることになったのである。 

  

 近畿自動車道伊勢線の起点(名古屋市)から終点(伊勢市)を分類すると下記のようになる。 

名二環が近畿自動車道伊勢線である件 (5)

 参考までに「日本道路公団年報 平成15年」から近畿自動車道伊勢線の部分を抜粋してみよう。小さな文字で「(名古屋関線と重用」「名古屋神戸線と重用」と書いてあるのがお分かりになるだろうか。

名二環が近畿自動車道伊勢線である件 (7)

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 以上が、名古屋第二環状自動車道 名古屋西JCT~飛島JCTが、「高速自動車国道の路線を指定する政令」では、近畿自動車道伊勢線となる経緯である。 

 ところで、「なんでこんな蛇がのたうち回るような路線にしたのか」が本当は皆様の知りたいところであろうが、それを明確に示す証跡は見つけていない。 

 いずれ国立公文書館で「高速自動車国道の路線を指定する政令」の改正経緯の資料が公開されるであろうから、そのときまでのお楽しみといったところか。 

 個人的な推測としては、「国土開発幹線自動車道建設法」の別表を改正せずに、事実上追加となる路線を建設したいという行政手続き上の理由で、既存の路線に潜り込ませるような形を取ったのではないかと推測している。 

 法律を改正して新規路線を追加しようとすると、「なんで名二環だけ?うちの地元の路線もこの際入れろや」との要望が全国から押し寄せられるため、政令の改正に潜り込ませたのではないか。 

 しかし不思議なのは、名古屋南JCT~上社JCT間及び名古屋西JCT~飛島JCT間約28キロが事実上追加されたにも拘わらず、高速自動車国道の総延長は追加以前と変わらず、11,520キロのままなんである。 

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 ということで、路線政令の文言上の言葉遊びみたいになってしまった。 

 

 同じような「路線名遊び」は、以前も「祝!外環道 三郷南~高谷開通!東京外環道って法令上の名称じゃないけどどうなってんの?」という記事を書いているので、お好きな方はあわせてどうぞ。

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2018/06/post-450c.html

 

 話は変わるが、名古屋二環といえば、国鉄の貨物幹線となるはずだった城北線が一部区間を並走して走っており、ジャンクションのランプの中を車窓から眺められるという特異な路線でもある。 

名古屋二環と城北線 (1) 

名古屋二環と城北線 (2) 

名古屋二環と城北線 (3) 

 しかし、名二環に新交通システムが走る構想があったことはあまり知られていない。 

(b)名古屋市周辺(名古屋環状二号線)

 継続

 名古屋市東部の国道302号(名古屋環状二号線)周辺の丘陵地域においては、宅地開発が急速に進められているが、この東京(ママ)地域tp都心部とは地下鉄で結ばれており、更に地下鉄三号線が計画されている。これら住宅地域と地下鉄を有機的に結ぶ環状方向の新道路交通システムを環状二号線に併せ導入することについて検討する。

 

「特集-昭和52年度予算の概要と重点施策 新道路交通システムに関する調査費について」建設省道路局路政課課長補佐・沢山民季「道路セミナー」1976年10月号69頁から

 

 未成線マニヤの方からは「おい、bときたら、aやcも出すのが社会人のマナーだろう」と詰め寄られそうだが、

a) 仙台市周辺(北仙台線) 

c) 岡山市周辺(市内環状線) 

d) 広島市周辺(国道54号)

である。 

 このうち、実現したのは、「d) 広島市周辺(国道54号)」だけかな? 

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 「俺はまじめに名二環の成り立ちについて勉強しようと思ってこのページを開いたのに全く役にたたないではないか」と怒られそうなので、最後にそういう方向けのリンクを紹介しておこう。 

■ 「名古屋環状2号線(一般国道302号」の整備について」道路行政セミナー 1992年8月号

https://www.hido.or.jp/14gyousei_backnumber/1992_data/seminar9208.pdf 

■「名古屋圏における環状道路と放射道路の整備」道路行政セミナー 1995年7月号 

https://www.hido.or.jp/14gyousei_backnumber/1995_data/seminar9507.pdf 

■「名古屋都市圏の新たな可能性の幕開け「環状時代」!」道路行政セミナー 2000年6月号 

http://www.hido.or.jp/14gyousei_backnumber/2000_data/seminar0006.pdf 

■名古屋都市計画史 

https://www.nup.or.jp/nui/information/toshikeikakushi/index.html 

 名古屋都市計画史Ⅱ(昭和45年~平成12年度)上巻の381頁以降が名古屋二環にあてられている。 

■「名古屋環状2号線の開通による経済効果」 三菱UFJリサーチ&コンサルティング

https://www.murc.jp/report/rc/policy_rearch/politics/seiken_170822/ 

■「土地区画整理事業から見た名古屋環状 2 号線のあゆみ」 

https://www.nup.or.jp/nui/user/media/document/investigation/h24/NUI.sugiyama.pdf 

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(余談)

 ちょっと高速道路名称の仕組みについてかじって、いきったネットキッズが

「東名阪道の法令上の正式名称は~」

とか言ってみたくなるところであるが、

 上記を見て分かるように

 「国土開発幹線自動車道建設法」では、「近畿自動車道名古屋大阪線」だが

 「高速自動車国道の路線を指定する政令」では、「近畿自動車道名古屋亀山線」だ。

 安易に「法令上は」なんては言ってはいけないということだね。

 よいこは、法律上なのか政令上なのか理解したうえで使い分けようね。

 なお、「東名阪自動車道」だって、日本道路公団の内規に基づいて正式に決裁を取ってつけられた名称なので、別に「正式ではない」のではない。官報にだって東名阪自動車道ということで掲載されている。(官報掲載が名称決定手続きの要件ではないが)

(応用問題)

 平成元年は「名古屋亀山線」→平成9年は「名古屋関線」と変更し、現在はまた「名古屋亀山線」に戻っている理由を考えてみよう。

 何かの間違いで検索してヒットしてしまったNEXCO職員は、コメント欄に理由を書いてみよう!

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2021年4月15日 (木)

夜行新幹線と兵庫県内の新幹線駅の関係が2頁読めばすぐ分かる国鉄課長の報文

 「山陽新幹線に当初は夜行新幹線の計画があって、兵庫県内に幾つもの駅がある」というのは、割と知られているが、具体にどの駅がどうだというのは、ググってみると色々出てくる。

しかし、これでは上下の列車が行き違いできなくなります。そこで、姫路駅には待避線を設置。姫路駅から約20km博多寄りにも待避線を設けた相生駅を建設し、上下の夜行列車が行き違いできるようにしました。このときの計画が実現していれば、東海道・山陽新幹線の東京~博多間が全通した1975(昭和50)年から新幹線の夜行列車が運行されていたかもしれません。

 

※写真キャプション

山陽新幹線の姫路駅は「単線運転」に対応するため列車待避用の線路を増やして建設された 

 

乗りものニュース「新幹線で夜行列車が走っていないのはなぜ? かつては運転の計画もあったが…」 草町義和・著

https://trafficnews.jp/post/80517/2

 


その計画とは「夜行新幹線」。新大阪~岡山間の新幹線開通を前に国鉄が検討を開始し、昭和41年(1966年)の「山陽新幹線技術基準調査委員会報告」では、東京~博多間を一晩に計24本運行するダイヤ案や、片道平均5,000~7,000人台の利用客見込みなど具体的なデータがそろえられていた。

計画では、新大阪~岡山間は線路の保守点検作業などの関係で、博多方面、東京方面いずれか一方の線路を使う単線運転を想定。この区間は東京と博多の中間に位置するため、単線運行するには一方が通るのをやり過ごす(すれ違わせる)待避場所として4~5カ所の駅が必要となった。

しかも、当時は中国・四国縦断新幹線の計画もあり、山陽新幹線と中国・四国新幹線が交差する駅として想定されていた岡山駅よりも手前で、この退避用駅を置く必要があり、これが兵庫県内に4つの新幹線駅が設置される一因となったわけだ。

 

マイナビニュース「なぜ兵庫県に新幹線の駅が4つもある!? 秘められた幻の計画とは 」OFFICE-SANGA・著

https://news.mynavi.jp/article/20130919-hyogo/

 

●幻の夜行新幹線

 東海道・山陽新幹線では「夜行新幹線」を走らせる計画もありました。夜間に行わねばならない線路の保守作業は、上下線2本の線路のうち1本を使って夜行列車を走らせ、片方の線路で保守作業をするという形で解決。列車の行き違いは駅で行う、というものです。行き違いは東京駅と博多駅の中間付近に位置する兵庫県内の西明石、姫路、相生駅で行うことが想定されていました。

 

乗りものニュース「夜行新幹線、ギネス 山陽新幹線40周年の歴史」 恵知仁・著

https://trafficnews.jp/post/38626/3

 

夜行新幹線の検討

新幹線計画段階では夜行新幹線も検討されており、夜間運行の際は片側1線を日によって交互に単線で運用して残りの1線は保守点検作業を行う計画であった。山陽新幹線では、夜間の単線運行で上下列車を離合させるための待避線として姫路駅の下り線に13番ホームが追加され、予備の待避駅として西明石駅・相生駅が建設された[43]。

 

[43]^ 兵庫に4駅集中なぜ?幻の「夜行新幹線」計画(『神戸新聞』 2012年3月15日)

 

Wikipedia「夜行列車」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9C%E8%A1%8C%E5%88%97%E8%BB%8A

こんな話もあるようだ。 

 

  

 なんかみんな言っていることがビミョーに違うぞ。誰かが嘘をついているのだろうか? 

  

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 で、タイトルにある「夜行新幹線と兵庫県内の新幹線駅の関係が2頁読めばすぐ分かる国鉄課長の報文」である。 

  

 表題は「山陽新幹線の計画概要と施工上の問題点」 

 著者は斉藤徹・国鉄本社山陽新幹線建設部工事課長である。 

 掲載されていたのは「土木施工」という土木業界誌であり、私が参照したのは、「土木工事施工例集 1道路・鉄道編」1967年 山海堂・刊の258頁以降に転載されたものである。 

  

 さっそく(1)新大阪ー岡山間の駅設置について という章があり、駅の設置についての考え方について触れている。

夜行新幹線と山陽新幹線兵庫県内の駅 (1)  

「山陽新幹線の計画概要と施工上の問題点」斉藤徹  「土木工事施工例集 1道路・鉄道編」258頁から

 まず、新神戸、姫路、岡山が決定されたと。これは順当であろう。 

 そして、夜行新幹線の運行上必要な駅の話に入る。 

夜行新幹線と山陽新幹線兵庫県内の駅 (2)  

「山陽新幹線の計画概要と施工上の問題点」斉藤徹  「土木工事施工例集 1道路・鉄道編」258頁から

  

 新神戸、姫路、岡山の3つの駅以外に「待避線をもつ駅が別に2駅必要」としている。 

 なぜ2駅必要なのかは下記の4案の運転方式から導きだされている。 

夜行新幹線と山陽新幹線兵庫県内の駅 (3)  

夜行新幹線と山陽新幹線兵庫県内の駅 (4)

夜行新幹線と山陽新幹線兵庫県内の駅 (5)

「山陽新幹線の計画概要と施工上の問題点」斉藤徹  「土木工事施工例集 1道路・鉄道編」259頁から

 

  

 4つの案から「第1案」が採用された。 

 第1案では「下り列車が新大阪等4個所で上り列車群と行き違いをする」とある。 

 一方、「(新)神戸については、地形上退避設備をとることが非常に困難なため神戸以外の場所を選定する必要がある」 

 そこで、「山陽新幹線が現在の山陽本線と交るか、相接するかした旅客の乗換が便利な地点で、かつかなりの乗降客が予想される地点」として西明石・相生に山陽新幹線の駅を設けることに決定した。 

  

 極めて明快である。 

  相生駅は、姫路には至近だわ、自民党の派閥の領袖である故・河本敏夫氏の地元だわで「政治駅」と言われることがあるが、国鉄の運行上の必要性が改めて明らかにされたということでよいのかもしれない。

 

※ 夜行新幹線がすれ違う駅は「新大阪」「西明石」「姫路」「相生」の4箇所 

 実は先に上げたWikipediaの記事や各鉄道ライター氏の中でこれと同じことを書いた人は一人もいないのであった。 

 これはどうしたことか。 

 「姫路以外は予備」どころか4駅ともがっつり停まっているではないか。

 Wikipediaの元ネタとなっている神戸新聞の記事はリンク切れだし、各ライターの人がそう書いた根拠には一切触れられていないので突き合せの仕様がないのだが、いずれにせよ全員斉藤課長とは違うことを書いている。 

 ひょっとしたら斉藤課長が間違っているかもしれない。国鉄本社山陽新幹線建設部工事課長なんてどこまでホントのこと書いているか疑わしいしな。 

 別の文献にもあたってみよう。 

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 国鉄が毎年開催していた「停車場技術講演会記録」の第18回に佐藤康・国鉄山陽新幹線建設部企画課長が「山陽新幹線の計画について」という報告をしている。 

 これを見れば「のりものニュース」が正しいことが証明されるかもしれない。工事課長より企画課長の方がなんか偉そうだし。

夜行新幹線と山陽新幹線兵庫県内の駅 (8)

「山陽新幹線の計画について」佐藤康 「停車場技術講演会記録」第18回316頁から

 やはり、がっつりと「新大阪、西明石、姫路、相生」の4駅でがっつり行き違いをしているのであった。

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 ところで、姫路駅の新幹線ホームは、上りは11番線のみだが、下りは12番線と13番線の2線がある。

 参照 JRおでかけネット「姫路駅」https://www.jr-odekake.net/eki/premises?id=0610619

 上記のWikipediaにも「山陽新幹線では、夜間の単線運行で上下列車を離合させるための待避線として姫路駅の下り線に13番ホームが追加され」とあるし、草町義和氏も「姫路駅は「単線運転」に対応するため列車待避用の線路を増やして建設された」としている。ネット上でも多くの方が「これは夜行新幹線の名残!」としている。

 これについても資料にあたってみよう。

 国鉄が「山陽新幹線停車場関係資料集」という資料集を刊行している。

https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002797328-00

夜行新幹線と山陽新幹線兵庫県内の駅 (11)

「山陽新幹線停車場関係資料集」76頁から

 姫路駅は上り線も下り線同様の待避線の絵があるが破線になっている=つまり当初から計画はあるが今は実装されていないということだ。

 ではなぜ下り線の待避線だけ施工されたのか?

夜行新幹線と山陽新幹線兵庫県内の駅 (12)

「山陽新幹線停車場関係資料集」77頁から

 

 「姫路、相生駅には着発線6線可能」としてある。

 ではそのうちなぜ姫路駅下りの13番線だけ施工されているのか?

 なお、東海道新幹線の実績にもとづき、事故時における運転整理などのため、姫路駅には開業当初より下り待避2番線を設置することにしている。

 はい。夜行関係ありませんでした。

 

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(余談)

 話は夜行新幹線から逸れるので恐縮なのだが、しれっと

「新大阪駅の将来計画としては、着発線6線(旅客)通過線2線(貨物)、島ホーム3本になるよう考慮されている。」

 と書かれている。

 貨物新幹線は「世界銀行向けのダミー」どころか、当時着々と準備されていたのである。

(余談終わり) 

 

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 これも「山陽新幹線の計画について」佐藤康・国鉄山陽新幹線建設部企画課長 著で、裏取りをしてみよう。

夜行新幹線と山陽新幹線兵庫県内の駅 (10)

「山陽新幹線の計画について」佐藤康 「停車場技術講演会記録」第18回318頁から

 

 「1.姫路駅が5線になっているのは下り退避2番線を事故時の留置線としているため。」

 はい。夜行関係ありませんでした。

 

 正確に書くと「姫路駅の下り13番線は、夜行新幹線運行の際の退避として計画されたが、それは姫路駅の上り線や相生駅にも同様の計画があった。姫路駅の13番線だけ完成しているのは、夜行新幹線の運行のためではなく、事故時における運転整理などのためである。」といったところか。

 国鉄の両課長の報文からすると、夜行新幹線計画がなくても、運行上の必要性から、姫路駅13番線は作られていた可能性が高い。

 であれば「姫路駅13番線は、夜行新幹線計画のために作られたが、夜行新幹線計画が頓挫したため、通常の運行に転用されている」というような言いぶりは誤りであろうし、「姫路駅13番線こそが夜行新幹線計画があった証拠」とまでも言い切れないのではないか。

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 ところで、相生駅は夜行新幹線の上下線の退避のために運行上必要な駅であって、政治駅ではないと書いてみたが、「相生駅がない夜行新幹線の運行図」もあるので、次はそれを紹介したい。

 

 

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<余談 その2>

 マイナビニュース「なぜ兵庫県に新幹線の駅が4つもある!? 秘められた幻の計画とは 」OFFICE-SANGA・著 では

「「山陽新幹線技術基準調査委員会報告」では、(略)待避場所として4~5カ所の駅が必要となった。」

と書いてあるが、

夜行新幹線と山陽新幹線兵庫県内の駅 (6)

では、

夜行新幹線と山陽新幹線兵庫県内の駅 (7)  

「4ヵ所」と書いているのであって「4~5カ所の駅」とは書いていない。 

「山陽新幹線技術調査委員会の成果」立松俊彦・著「交通技術」1966(昭和41)年10月号452~453頁から

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2021年4月11日 (日)

名神高速道路 大津IC→京都東ICへの名称変更と大津SAへのIC追加等にまつわるあれこれ

 高速道路のIC名称については、過去にブログで触れている。

 「高速道路やICの名称決定基準」

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/09/post-edc5.html

名神高速道路 京都東と大津 (9)

高速道路のプランニング」という本に、上記のような決定基準等が掲載されている。

 鉄道の駅は、「西舞鶴」「東舞鶴」と地名の前に東西南北がつくが、高速道路の場合は「舞鶴西」「舞鶴東」と地名の後に東西南北がつく。

 こういった話の中でよく出てくるのが、名神高速道路の京都東インターチェンジである。

 鉄道風に呼べば「東京都インターチェンジ」となり、「とうきょうとインターチェンジ」と読めてしまうからである。

 こういった命名規則となった理由が、少なくとも2種類あるようだ。(私は最近気づいた。)

 

 まずは、日本道路公団公式記録である「名神高速道路建設誌(総論)」1966年・刊 222頁から

名神高速道路 京都東と大津 (3)

 ついで、元日本道路公団職員で実際に名神高速道路建設に従事していた武部健一氏の「道路の日本史」2015年・刊 196~197頁から

名神高速道路 京都東と大津 (2)

 東京都ICを避けて京都東ICとしたところの説明が双方異なっている。

 道路公団公式→「東京都とならないように方角を都市名の下に付した」

 武部健一氏 →「アメリカ式に都市名の下に方角を付したことによる偶然の成功」

  

 また、 地名の後に東西南北がつくお手本も双方異なっている。

 道路公団公式→「Frankfurt-Ost」ドイツ式?

 武部健一氏 →「Oregon-west」アメリカ式

  

 さてどちらが正しいのやら。 

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 次の話題に移りたい。 

 名神高速道路は当初計画では、今の大津ICはなく、今の京都東ICが当初は大津ICで、今の京都南ICが当初の京都ICだった。 

名神高速道路 京都東と大津 (1)  

 「名古屋-神戸 高速道路の構想」日本道路公団 1957年・刊 から 

 後から今の大津ICが追加されたことで、上述の京都東ICという悩ましいIC名問題が勃発したわけだ。 

 ところで、その追加理由について、Wikipediaにはこのように書いてある。 

名神高速道路 京都東と大津 (5)  


 名神高速道路が建設された当時、現在の京都東ICが大津ICとして計画されていた。それに対して当時の大津市長上原茂次は「それでは大津ICとは言えない、京都市内にあるではないか」と猛抗議した。そこで、当初大津SAのみの予定であった場所に急遽、大津ICが併設され、当初予定の大津ICは1963年7月16日、京都東ICに改称の上で設置された[要出典]

 

「Wikipedia」大津インターチェンジ (滋賀県) 2021年4月11日 閲覧

 

  「それでは大津ICとは言えない、京都市内にあるではないか」ということであるが、大津市の地形に詳しい方は、大津市の境界って山科にすごく近いところまで入り込んでいるということをご存じであろう。

 

 上図の一点破線が大津市と京都市の境界線である。 

名神高速道路 京都東と大津 (6)  

「名神高速道路建設誌(各論)」1966年・刊 271頁から 

 この上記「図3-65 京都東(1)」の図面を見るとお分かりのように、当初の大津IC(=現・京都東IC)の出入り口は、大津市追分において国道1号と接続しており、立派に大津市内だったのである。 

 ただし、これは武部氏を含む日本の技術者が初めて高速道路設計に取り組んだ成果であるところ、西ドイツから迎えたアウトバーン技術者であるクサヘル・ドルシュ氏とのやり取りを通して、度々修正されている。 

 「名神高速道路建設誌(各論)」にはその経緯が詳細に記されているがここでは、大津ICの変遷に関係する箇所のみ抜粋して引用したい。 

 ドルシュ氏と取り組んだ修正経過の中で、旧・大津IC(=現・京都東IC)の出入り口を変更して片方向だけの出入りにしようとした時期があった。それにより、大津ICと言いながら、大津市からの利用がしづらい方向に限定しようとしたため、大きな反対の声があがった
 

 それを解消するため、既存の大津SAにICを併設し、神戸・大阪側のみの出入り口を設けることとした

名神高速道路 京都東と大津 (7)  

「名神高速道路建設誌(各論)」1966年・刊 274頁から

 

 片側のみの出入りに変更された京都東ICのサブゲートとして、大津SAに追加された出入口は、当初は片側方向だけの出入り口だったが、最終的には両方向に通行可能となった。 

名神高速道路 京都東と大津 (8)  

「名神高速道路建設誌(各論)」1966年・刊 276頁から

 

名神高速道路 京都東と大津 (9)  

 超ザクっと表すとこんな感じだろうか。実際には変更①②どころではない 7頁にもわたる経緯がある。

 ということで、道路公団の公式記録には、Wikipediaに書いてあるような「大津市長上原茂次は「それでは大津ICとは言えない、京都市内にあるではないか」と猛抗議した。そこで、当初大津SAのみの予定であった場所に急遽、大津ICが併設され」たというような記録はでてこない。 

  

 ちなみに武部健一氏は、この辺のやりとりをこう述べている。 

名神高速道路 京都東と大津 (4)  

 「土木史研究におけるオーラル・ヒストリー手法の活用とその意義―高速道路に焦点をあてて― 姉妹版 武部健一氏」33頁 


 大津が「うちのところはなくなったじゃないか。どうするんだ」と文句をいったので、それじゃ、しようがない、とにかく大津サービスエリアを予定したところにくっつけちゃおう。インターを併設しようということになったんです。

 

 「大津ICとSAを併設したのはぐちゃぐちゃになって大失敗で、以降20年くらい禁止になった」というエピソードも興味深い。 

 武部氏の述べる設計変更の経緯とザクっとした経緯図は若干違うが、そこを正確に反映した経緯を図式化して出すと訳がわからなくなるのでご容赦いただきたい。(明らかに間違っているということであればご指摘くださいませ。) 

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 大津ついでに、さらにややこしい話をつっこんでおこう。 

 

 実は、北陸自動車道は、当初は大津市が終点であった。

縦貫道法北陸道

昭和39年当時の高速道路図では下記のような塩梅である。

昭和39年高速道路路線図

昭和39年高速道路路線図2

 

 

 「北陸道の終点を米原にしてくれ」と彦根付近を地盤とする国会議員堤康次郎に地元自治体が陳情している記録が残されている。 

https://archive.waseda.jp/files/pdf/sdb18/22709/yVNl7Xma_1.pdf 

 北陸自動車道建設促進同盟会のパンフレットも興味深い。

https://archive.waseda.jp/files/pdf/sdb18/22711/GfNsGjEb_1.pdf 

 

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あまり知られていない成田空港関連の国鉄未成線

 また成田空港関連である。

 今度は成田空港関連で国鉄のあまり知られていない未成線構想があったというお話。

成田空港への国鉄未成線 (1)

1967(昭和42)年8月23日付毎日新聞から

 成田空港建設資材輸送用に、新東京国際空港公団が土地を買収し、成田線から分岐する鉄道を建設する。

 これを利用して国鉄が成田空港への旅客輸送を図る「空港線(仮称)」を新設する。

というもの。

 

 同様の報道は他にもある。

成田空港への国鉄未成線 (2)

1967(昭和42)年10月6日付朝日新聞から

 こちらには「成田市土屋」と具体の地名が出ているので、今の成田エクスプレス等が利用している線と同様なのかな?

 これが計画どおり実施されていれば成田空港開港から在来線経由の東京直行の鉄道ができたのになあ。

成田新幹線ルートと千葉ニュータウン (4)

1967(昭和42)年9月1日付読売新聞から

 時を同じくして、「首都圏高速鉄道=通勤新幹線」構想も動いていたので、両方を検討した結果、成田新幹線とすることになったのだろうか?

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 成田とは話が変わるが、工事資材用の運搬線路と国鉄、新幹線の他公団との協定にこんなものがある。

 

 埼玉県川口市にある日本住宅公団川口芝園団地の敷地は、元々は鉄道車両を製造していた「日本車輌」の工場であった。

 日本車輛が国鉄線まで引き込み線を持っていたのを転用したのか、公団住宅建設のために新設したのかは不明であるが、蕨駅から「日本住公団専用線」を分離させ、資材搬入に活用したようで、国鉄と住宅公団の間で締結した覚書が残されている。

 その中で興味深い条項があって

・新幹線建設工事着工のため専用線を使用できるのは昭和50年3月まで

・住宅公団は団地入居者の募集にあたり新幹線計画を周知させ、苦情があったら適切な措置をとる

・新幹線建設工事で移転する一般の者の入居に住宅公団は協力する

といったようになっている。

 蕨駅を新幹線が通る計画なんてあったんですね(すっとぼけ)

上越新幹線 新宿-大宮間ルート (1)

1976(昭和51)年1月 「交通技術」1976年1月号「”ひかり”を北へ 東北・上越両新幹線建設計画の概要とその現況」から

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2021年4月10日 (土)

成田新幹線の南ルートと北ルート ~千葉ニュータウンを通るのは既定事項ではなかった~

 また、成田新幹線のルートの話をやります。

  ネットの鉄道関係記事では、成田新幹線と千葉ニュータウンの関係について下記のように書かれている。

 千葉ニュータウンが構想されたのは1960年代のことで、1966年5月に千葉県が整備構想を発表。続いて同年7月には、成田市三里塚に新しい国際空港を整備することを政府が閣議決定し、東京都心と新空港を結ぶ「高速電車」の運行も同時に決まった。これが成田新幹線計画の起源になる。

 千葉県はニュータウンの造成に際し、2路線分の鉄道用地を確保することにした。通勤鉄道用地は当初から確保する方針だったが、構想の発表から2カ月後に「高速電車」が閣議決定されたため、高速鉄道用地も確保することにしたようだ。国鉄発行の『日本国有鉄道百年史』第13巻(1974年2月)にも、以下のように記されている。

 成田新幹線については、当面、新空港と東京都心とをできるだけ短い時間で結ぶことがおもな使命となるが、途中に1か所だけ、将来のニュータウン予定地に駅を設けることとした(中略)ニュータウン計画当初から、この中に通勤鉄道と高速鉄道のそれぞれ複線分の用地が予定されていたためである。

  

「成田新幹線用地が「日本最長メガソーラー」に 京王線も来るはずだった千葉ニュータウン 」草町義和

東洋経済オンライン 鉄道最前線 都会に眠る幻の鉄路

https://toyokeizai.net/articles/-/185355?page=3 

 ところが、「成田新幹線が千葉ニュータウンを通るかどうかは、1971(昭和41)年4月の整備計画決定及び日本鉄道建設公団への建設指示の段階でも確定事項ではなかった」「千葉ニュータウンを通らない世界線もあった」(←「世界線」って使ってみたかったw)

と書くと

 「北総線の横にあるソーラーパネルのところの土地は、千葉ニュータウンを作るときからずっと成田新幹線用に空けて待ってたんだぞ。何言ってんの!?」

と突っ込まれそうだが事実なんである。

 そこのところを例のごとく物量で雪隠詰めにしていきたい。

 

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 成田新幹線のルーツといえば、「通勤新幹線」であることをご存じの方もいらっしゃるだろう。

通勤新幹線

「交通技術」1968年1月号「東京周辺の改良工事施工上の諸問題」菅原操・著35頁から

 

 そもそも、「通勤新幹線」とはなんぞやということになるのだが

 

 第二の柱である東京周辺の都市交通対策の構想では、東京を中心に放射状の通勤新幹線5本(このうち1本は東北新幹線の宇都宮付近までの線で兼用)を建設する。最高時速は160キロ、駅間距離は30キロ以上、車両は現在の新幹線より1両あたり50人多い6人掛け25列、150人乗りで、原則として全員が座れるようにする。1線1時間あたりの輸送量は3万6000人で、100キロ以内の首都圏に住む人は50分足らずで都心に出られることになる。

 路線は、東京から千葉県の新東京国際空港付近(50キロ)に至るもの、東京から茨城県の中央部(100キロ)、東京から群馬県の南部(100キロ)、東京から神奈川県の湘南地区(70キロ)に至るものと、前記東北新幹線兼用の5つ。

「R」1966年11月号「10年後の国鉄 -鉄道網整備の基本構想-」21頁から引用

 当初の通勤新幹線時代にこんな記事がある。

成田新幹線ルートと千葉ニュータウン (4)  

 1967(昭和42)年9月1日付読売新聞 

 「なんや、こら、 北千葉ニュータウン経由って書いてあるやんけ!」と思われるかもしれない。

 まあ、もうしばらくお付き合いください。

成田新幹線ルートと千葉ニュータウン (1)  

「成⽥ニュータウン計画における商業企画に関する研究報告」小林輝⼀郎・著  「⽇本経営診断学会年報」1970年2巻から

 「なんや、こら、 千葉ニュータウンに「高速鉄道」が走ってるやんけ!」と思われるかもしれない。

 まあ、もうしばらくお付き合いください。

 

  

 成田新幹線の建設手続きは下記のとおりである。 

1971(昭和46)年1月18日 東北・上越・成田新幹線の基本計画を決定・告示

1971(昭和46)年1月19日 東北・上越・成田新幹線の調査を国鉄及び鉄道建設公団へ指示

1971(昭和46)年1月30日 東北・上越・成田新幹線の調査報告書を運輸大臣に提出

1971(昭和46)年4月1日 東北・上越・成田新幹線の整備計画決定及び建設指示

1971(昭和46)年10月12日 東北・上越新幹線の工事実施計画認可

1972(昭和47)年2月10日 成田新幹線の工事実施計画認可

 

 御覧のとおり、よーいドンで始まった東北・上越・成田新幹線のうち、成田新幹線の工事実施計画認可だけが東北・上越新幹線よりも遅いのである。(なお、認可の翌日から反対運動が巻き起こるのだがそれは別の機会に。)

 なぜか。

 その間に、「成田新幹線が千葉ニュータウンを通るかどうか」その他諸々が揉めていて決まらなかったためである。

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 その辺の経緯を追っていきたい。

成田新幹線ルートと千葉ニュータウン (3)

1971(昭和46)年10月19日付朝日新聞夕刊 8

  先ほど、成田新幹線は通勤新幹線がきっかけの旨書いたが、通勤路線とするのか、全国網の幹線鉄道ネットワークの一部とするのかで、国鉄と鉄道建設公団が了解できなくて、その路線の性格をどのようにルートに反映させるかも決まらないので、東北・上越新幹線に比べて工事実施計画の策定が遅れているという話である。

 国鉄は、成田新幹線は成田空港利用客だけでは採算がとれない赤字路線になるので、ニュータウンに停車して利用客を稼ぎたいが、鉄道建設公団は余計な駅には止めたくないという対立のようだ。 

  ちなみに、国鉄としては、北ルートの場合は千葉ニュータウンに、南ルートの場合は幕張等の京葉線沿いのニュータウンに停めたかったようだ。

 SNSで「もし成田新幹線ができていたら、(湾岸沿いの)ニュータウンにも停まって、ラッシュの混雑緩和できたかもしれないのに」という書き込みが見られると、未成線マニアは「成田新幹線はそっちじゃなくて、千葉ニュータウン経由だよ。これだからニワカは。」的な態度を取りがちだが、実はニワカの方が正しかったりするのである。 

成田新幹線ルートと千葉ニュータウン (2)  

1971(昭和46)年11月7日付毎日新聞 

 そこをなんとか北ルートで決定して、元サヤの?千葉ニュータウン経由となった。 

  

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 先ほど、「成田新幹線は通勤新幹線か否か」という性格論争があったと書いたが、その詳細が示されている資料があるのであわせて紹介しておきたい。 

成田新幹線ルートと千葉ニュータウン (5)  

「新幹線建設委員会の審議概要(その1)」国鉄新幹線建設委員会 1972(昭和47)年3月刊から 以下同じ 

成田新幹線ルートと千葉ニュータウン (6)  

成田新幹線ルートと千葉ニュータウン (7)  

 ここでいう「首都圏高速鉄道」が、いわゆる「通勤新幹線」である。我々マニアにとっては新幹線だろうが通勤新幹線だろうが大した違いはないようなのだが、当事者にとっては大きな問題なのであろう。

 他の部分も読んでみると、「ここで成田新幹線に通勤定期的な割引を認めてしまうと、他の新幹線への影響が大きい」という課題があるようだ。今では新幹線定期は普通に販売しているが、当時はそこは大きな壁だったということなのだろう。 

  更に、これらの資料に続き、国鉄の監督官庁である運輸省による成田新幹線の位置づけペーパーが添付されている。

 

 成田新幹線ルートと千葉ニュータウン (8)

成田新幹線ルートと千葉ニュータウン (9)  

 ここで注目したいのは、3問題点 (1)ルートについて 中の箱書きの中である。 

〇 北千葉ニュータウン内には複々線の鉄道用地が確保されており、この部分を経由することも考えられる。」 

 この一文から分かる成田新幹線のルート問題への重要な国のスタンスが分かる。 

1) 成田新幹線は北ルート(=千葉ニュータウン経由)となることは、この会議が開催された1970(昭和45)年7月段階では確定事項ではなかった。むしろ「考えられる」程度のレベル感であった。 

2) 千葉ニュータウン内に確保されていた複々線は、当初から成田新幹線用に準備されていたものではなかった(少なくとも運輸省はそうは受け止めていなかった)。

 それが実際に北ルート(=千葉ニュータウン経由)と決定したのは、新聞報道によると 1971(昭和46)年11月ということなんである。

 さあ、対立していた国鉄と鉄建公団が北ルートで合意したからには、事業促進に突き進むかというとそうではなかった。 

成田新幹線ルートと千葉ニュータウン (10)  

1972(昭和47)年5月3日付朝日新聞から   

 工事実施計画認可後に千葉県がルート問題を蒸し返したのである。北ルート反対、南ルートなら検討と。 

成田新幹線ルートと千葉ニュータウン (12)  

 そして、南ルートを今から建設するには時間もかかるので、その間は「都営新宿線(10号線)-千葉県営鉄道-成田空港」の鉄道アクセスを整備すべきとした。 

成田新幹線ルートと千葉ニュータウン (13)  

1972(昭和47)年5月13日付読売新聞から

 そして千葉県の友納知事は東京都の美濃部知事と組んで「都営地下鉄新宿線(10号線)-千葉県営鉄道-成田空港」の鉄道アクセスを整備を改めてぶちあげた。

 都営新宿線の整備促進に繋がるのであれば、成田新幹線反対の急先鋒である江戸川区も賛成である。 

 

 千葉県の友納知事の千葉県営鉄道への熱の入れ方については、サークル「高砂第一工廠」さんの「千葉県営鉄道北千葉線のあゆみ」https://akaden.org/mat/his/ktcb/his01.htmlを読むとよいだろう。

 友納知事にとっては、京成=北総開発鉄道と競合しながら千葉ニュータウンに千葉県営鉄道をねじ込もうとしているところ、更にライバルになる成田新幹線は排除したかったのだろうか?

 これは全くの個人的な思い付きのレベルだが、「成田新幹線が挫折したのは、プロ市民のせいだ、サヨクだパヨクだ」なんてネットで書かれることがあるけど、千葉県が一番悪玉だと思うんだけど。如何??

 先日UPした「成田新幹線凍結前に、承知のうえで、船橋二和高校の南側に成田新幹線と競合する都市計画道路を都市計画決定した」のも千葉県の仕業だし。

 ご存じのように友納知事は保守派の土木利権大好き知事である。反権力で公共事業反対したのではない。

 その証拠に、同時期に成田空港に向けて整備された東関東自動車道(新空港自動車道)は無事に開通している

Wikipedia「中央自動車道」の変な記述を検証 (16)

「道路」1971(昭和46)年11月号から引用

  

 ただし、自分のナワバリに手を突っ込まれたら、公団だろうが国だろうが言うことは聞かないよということなのだろうか。

 その辺は、葛西周辺の区画整理事業を台なしにされそうになった江戸川区の中里区長と同じなのかもしれない。

 

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 ところで成田新幹線が北ルートか南ルートかがギリギリまで決まらなかったとすれば、千葉ニュータウンが空けておいた「新幹線用地(現・ソーラーパネル用地)」は一体何を考えて作られた(空けておいた)のだろうか?

 ヒントになる新聞記事を紹介したい。

成田新幹線ルートと千葉ニュータウン (14)

 1967(昭和42)年12月19日付朝日新聞から

  冒頭にあげた通勤新幹線の記事の直後の報道である。

 陸の孤島であった千葉ニュータウンへの鉄道敷設のために入居者負担を検討するものだ。(余談だが、その後一部路線が宅地開発公団→住宅都市整備公団の鉄道となっていくので、「一種の入居者負担」ではある。)

 その中に注目すべき部分がある。

成田新幹線ルートと千葉ニュータウン (15)  

 ザクっというと、「通勤電車だけでは入居者負担はしんどいので、成田空港行きの電車等も設定することで負担軽減に資するようにしよう」ということだ。

 単純に国策協力として成田新幹線用地を空けて待っていたのではなく、入居者の負担軽減のために新幹線に限らず長距離輸送に係る鉄道を積極的に誘致していこうという姿勢がここには見られるのである。

 

 

 結果的には、成田新幹線も千葉県営鉄道も共倒れに終わった。

 成田新幹線凍結後のAルート、Bルート、Cルートの話は比較的有名だが、実はそもそもスタートからルート問題で躓きっぱなしだったのが成田新幹線だったわけだ。 

 

 (とりあえずここで本題終わり)

 

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 (ここからは余談) 

成田新幹線ルートと千葉ニュータウン (7)  

 先にあげた「新幹線建設委員会の審議概要(その1)」資料にこんな記載がある。 

 成田新幹線を「全国新幹線鉄道のみ建設」し、「首都圏高速鉄道(=通勤新幹線)としての建設は行わない」場合、すなわち、「長距離輸送に専念して、通勤輸送は行わない」場合の「欠点(問題点)」の(2)として「都心部ルート(都庁前鍛冶橋通り)を確保したいきさつに対する都市交通審議会、東京都等の反応」があげられている。 

成田新幹線ルートと千葉ニュータウン (16)  

 都市交通審議会といえば、未成線マニア等にとっては有名な上図の路線網を決めるところだ。 

 (せっかくなので、千葉県営鉄道が10号線として位置づけられているやつを。。。ちなみにまだ埼京線がないので、都営三田線(6号線)が、東北線の西側を大宮方向川越線まで走っている。) 

 そこのメンツを潰すような振る舞いになってしまうということだろうか? 

  

 国鉄で新幹線建設等に携わった角本良平氏が下記のようなことを語っている。 

成田新幹線ルートと千葉ニュータウン (17)  

交通選書 「新幹線 希望と展望」交通新聞社・刊 154頁から 

「成田新幹線は(略),東京のターミナルは当時の都庁前(現在の京葉線ホームの位置)に予定された。そのため,そこに計画されていた地下鉄有楽町線は南の方(有楽町駅寄り)に移された。今日この線が銀座線などと連絡が悪いのはこの措置が原因であった。」 

 成田新幹線は、もともと予定されていた有楽町線を追い出して鍛冶橋(当時の都庁前)に駅を計画したというのである。 

 だから通勤輸送をやめたときに「都心部ルート(都庁前鍛冶橋通り)を確保したいきさつに対する都市交通審議会、東京都等の反応」が気になるのだろう。 

 推測にすぎないがその「いきさつ」には、「成田新幹線は長距離客だけでなく通勤輸送もするので、有楽町線はどいてくれ」という経緯があったため、今更通勤輸送はやりませんとは言えないということではないだろうか? 

  

 また、「この鉄道には自治体側の協力がなく、結局計画は消滅した。その背後には関連の民鉄の反対があったという。」とある。 

 関連する民鉄とはいったいどこだろう?皆様の脳裏には、目つきの悪いパンダを思い浮かべる人もいるかもしれない。いやそれしかいないだろう。 

  

 千葉ニュータウンへの鉄道敷設で千葉県と争った京成電鉄は、成田新幹線代替路線のルートで今度は国鉄と争った。 

成田新幹線ルートと千葉ニュータウン (18)  

1980年10月25日付朝日新聞から 

 ご存じのように、成田新幹線代替の鉄道アクセスは京成に軍配が上がり、多くの鉄道マニアがスカイライナーを「成田新幹線」と呼んでいる。 

 印旛地方をめぐる、千葉県、国鉄、京成の三つ巴の鉄道ルート争いは、京成が最終的に勝利を迎えたということだろうか。 

  

 

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<関連記事> 

●船橋二和高校と日大グランドの間の空間は成田新幹線のために買収した土地の名残だと言われるが、不動産登記簿を閲覧したらそんな売買取引の記録はなかった。 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2021/04/post-305c8a.html 

●成田新幹線の詳細なルート図面をうpしてみる 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2020/03/post-cbaceb.html 

●新宿駅への上越新幹線・成田新幹線の乗入れについて報道をまとめてみた(その1) 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/01/post-d5ec.html 

●新宿駅への上越新幹線・成田新幹線の乗入れについて報道をまとめてみた(その2) 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/01/post-a27d.html

●東北新幹線大宮以南の速度が遅いのは、「プロ市民」のせいなのか、線形のせいなのか検証してみる

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2020/03/post-0f2f22.html

 

 

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2021年4月 8日 (木)

富士スピードウェイのストレートは「飛行機の離着陸にも利用できるようにした」と大成建設富士スピードウェイ建設作業所長が土木雑誌に書いている。

 「ボクのあこがれ♪ボクの恋人♪スーパーカー♪」

 何を隠そう、スーパーカーブーム世代である。

 学校の昼休みはスーパーカー消しゴムでレースをし、放課後は「サーキットの狼」を友達と回し読みし、夜はテレビで「スーパーカークイズ」を見ていた世代だ。

 

 なぜ、こんなつまらない自分語りをするかというと、今回のネタは出オチだからだ。

 表題のとおりである。

富士スピードウェイのストレートは飛行機の滑走路にできる (7)

 「土木工事施工例集 1道路・鉄道編」1967年 山海堂・刊を、「なんかブログに載せられるようなネタはないかなー」と思いながら頁をめくっていたら、こんな記事があった。

「富士スピードウェイ建設工事の計画と施工」著者は小林秀夫・大成建設株式会社富士スピードウェイ建設作業所長と内藤正昭・同社土木本部設計部係長のお二人である。

 Wikipediaの富士スピードウェイの頁には、河野一郎だ河野洋平だと書いてあるが、実際に設計・施工したのは大成建設であり、その施工報告を、その名も「土木施工」という土木業界誌に載せ、その単行本化されたものが私の目にとまったというわけだ。

 

 で、肝心なところはこれである。

富士スピードウェイのストレートは飛行機の滑走路にできる (1)


 メインスタンドの前面には前述のように各種自動車の最高スピードを追及できるように,延長1.6kmの直線コースを用意し,さらに,レース以外の競技や,飛行機の離着陸にも利用できるようにした

 

「富士スピードウェイ建設工事の計画と施工」小林秀夫・大成建設株式会社富士スピードウェイ建設作業所長、内藤正昭・同社土木本部設計部係長

 こういう重箱の隅のようなネタならWikipediaに載っているかなと思ったら載っていないし、検索してもヒットしないので、貴重なネタなのかも!と思い、あげときました。

 というだけである。

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 これだけなのだが、これで終わると本当に出オチの一発芸なので、私のブログらしいネタにも触れておこう。

 土木の施工報告なので、当然竣工図面が載っている。

富士スピードウェイのストレートは飛行機の滑走路にできる (2)

 こっそり「大成建設事務所」と図-1の左上に書いてアピールしているところなんかお茶目だ。

 サーキット好きな方にはそれぞれのコーナーのRなんかに需要があるのかしら。

 縦断図があると「サーキットもやっぱり道路の施工なんだなあ」と思ったりする。

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 富士スピードウェイというとかつては「30度バンク」が有名だったそうで。

 


30度バンク

 富士スピードウェイの大きな特徴として、30度のカントがついたバンクコーナーがあった。これは前述の通り、元々同サーキットがオーバルコースとして計画されたことの名残と言われている。オーバルコースではコーナーでの減速を極力減らすため、コーナーにバンクを付けるのが普通である。

 当時、国内でこのような急角度の路面舗装を経験した業者はひとつもなく、依頼された日本鋪道(後のNIPPO)は、ロードローラーをバンクの上からワイヤーで引っ張るという方法できり抜けた。しかし、もともと経験不足を起因とする勾配の設計が良くない上に、後に「馬の背」と呼ばれることになるこぶ状のうねりもあった。カントのついたオーバルコースで争われるオートレースの世界から転進した田中健二郎曰く、「完成当初にコース管理者に『基礎に杭を打ち込んだか?』と尋ねたら、『打ち込んでない』と言われ『こりゃ駄目だ』と思った」そうである。

 

Wikipedia「富士スピードウェイ」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%BC%E3%83%89%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%82%A4 2021年4月8日閲覧

 その「ロードローラーをバンクの上からワイヤーで引っ張るという方法できり抜けた。」というのが当該報文にも掲載されている。

 ところで、この本には「富士スピードウェイの舗装」という報文も続いて載っているのだが、それの著者は大成建設系列の舗装業者である「大成道路株式会社」の社員となっている。

 なのでWikipediaの「依頼された日本鋪道(後のNIPPO)」という表現は要検証である。

 また「杭を打ち込んでいないから駄目だ」旨の田中健二郎氏の発言を引用しているが、道路は杭の有無の問題ではなく、土をしっかり固めているかの問題であるので、これは残念ながら的外れな発言である。

 Wikipediaの富士スピードウェイを書いた方はよく検証していただきたい。

 

 それはさておき、施工写真だ。

富士スピードウェイのストレートは飛行機の滑走路にできる (5)

 「カント30°部分表層輾圧状況」とある。これがロードローラの作業だ。

富士スピードウェイのストレートは飛行機の滑走路にできる (4)  

 「カント30°部分表層舗装状況」とある。ここでアスファルトをひいている。 

富士スピードウェイのストレートは飛行機の滑走路にできる (6) 

 そしてこれが「バンクの上からワイヤーで引っ張るという方法」の図解である。 

 舗装の機械は15°傾けて設置していたこともわかる。 

 

 ところで「後に「馬の背」と呼ばれることになるこぶ状のうねりもあった。」とのことだが、当該報文にはこう書いてある。

 次に、平坦性は直線部で3mの直線定規で測定しても大半が5mm以下であった.また曲線部30°の斜面では8mm位のところもあったが,これは基層の上にスベリ止めを行ったので表層による不陸調整ができなかったためと思われる。

 

「富士スピードウェイの舗装」秋山次雄・大成道路株式会社工事部,研究所次長

 だからなんだと言われるとアレだが、一応書いておく。

 

 サーキットの舗装の話については、「日本では高速道路より先に鈴鹿サーキットが出来て、それの舗装を参考にして高速道路が作られた」というホンダの人の話を検証する」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2020/08/post-68a979.htmlという記事も書いているのであわせてご参照いただきたい。

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2021年4月 3日 (土)

船橋二和高校と日大グランドの間の空間は成田新幹線のために買収した土地の名残だと言われるが、不動産登記簿を閲覧したらそんな売買取引の記録はなかった。

 成田新幹線について調べていると、「あそこが未成だった土地だ」「成田新幹線用地として買収したが、事業中止となったために売却されて活用している土地に違いない」という話がでてくる。

 新京成電鉄の公式ツイッターもそんなことをつぶやいてる。

 

 実際にそのような事例はないわけではない。

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する (2)

 上の広告の①と②は、そのような事例だった可能性はある。

 

 そういった中で有名な箇所の一つが、千葉県船橋市二和西一丁目にある千葉県立船橋二和高校と日大グランドの間の微妙な隙間である。

 以前、このブログでも「成田新幹線の詳細なルート図面をうpしてみる」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2020/03/post-cbaceb.htmlという記事を書いて、日本鉄道建設公団が作成した路線図をうpしているが、確かにこのあたりを通っているように見えなくもない。

成田新幹線計画図面 (2)

 


注釈 5

^ 途中、千葉県立船橋二和高等学校脇を通る。日本大学二和グラウンドとの境界(道路)が北東に伸びているのはその名残。

 

Wikipedia 「成田新幹線」 2021年4月1日閲覧

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%90%E7%94%B0%E6%96%B0%E5%B9%B9%E7%B7%9A

 また、船橋二和高校の西隣にある船橋二和グリーンハイツの南側にある駐車場についても同様の話が出ている。


■千葉県船橋市二和地区・謎の細長い駐車場

(中略)

画像の駐車場は、用地買収したものの計画中止となって後に売却された土地と思われる。

 

「にょほほ電鉄」成田新幹線 2021年4月1日閲覧

https://www.nyohohodentetsu.com/railjnrnarita.html

 とは言っても、物証があるのか?というところである。

 それをやってみようというのが今回の記事である。そして成田空港反対運動における意外な事実が浮かび上がってきたのだった。

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 実は小生、不動産の登記簿等からある程度の証拠を集めて推測するくらいはできる。

 ネットで見る限り、それをやって確かめた人はいないようなので、やってみよう。

 

 「不動産登記簿?何やそれ?」という方は、こちらの不動産関係サイトでも見てほしい。

 

 先に結論を言うと、

 「船橋二和高校や船橋二和グリーンハイツと日大グランドの間の空間の土地において、日本鉄道建設公団が土地を売買した記録は見つけられなかった。」

ということである。すべての筆を確認したわけではないが、代表的なポイントの筆の全部事項証明書を閲覧した範囲では、「成田新幹線が事業中の間に普通の民間建設会社が土地を売買していた」のである。

  

  以下、それを説明していこう。

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 では、まず調べた土地を紹介していこう。 

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する (14)  

 船橋市地図情報システム いきいきふれあいマップ https://webgis.alandis.jp/funabashi12/portal/toshi/index.htmlに注記を入れたもの

  ここで、成田新幹線関係の土地(=日本鉄道建設公団が用地買収したものの計画中止となって後に売却された土地と思われている土地)は、②戸建て住宅、③細長い道路、④怪しい空き地、⑥怪しい小屋、⑦細長い駐車場であろう。

  

 まず、この辺の土地はもともと大蔵省(現・財務省)が所有していた畑が広がっていたようだ。 

 大蔵省が畑を持っているということについて違和感を感じる方もいらっしゃるかもしれないが、森友事件でも話題になったように、国有財産の管理も大蔵省(財務省)の所轄である。

 


江戸時代、下総の台地には広大な幕府の馬牧が置かれていました。牧場の数は時期によって変りますが、江戸時代後期には小金五牧、佐倉七牧で計十二の牧場がありました。牧場は一つ一つが広大で、大人が一日かがりでも廻りきれないものもあったそうです。 二和地域がある船橋の中央台地は小金五牧のうちの「下野牧」で習志野市北部を経て千葉市西端まで至る細長い牧場でした。

 明治維新によって東京府下を中心に多くの失業者が生じ、政府と東京府により人々を下総台地の旧幕府牧へ移住させて開墾農村を作る計画が立てられました。

 

船橋市「二和の歴史」 2021年4月1日閲覧

https://www.city.funabashi.lg.jp/shisetsu/toshokankominkan/0002/0016/0002/p009555.html

 

 このあたりは上記のような由来があるそうなので、それで「国有の畑」が残っていたのかもしれない。

 余談だが、開墾した順に、初富、二和、三咲、豊四季、五香、六実といった地名をつけていったということで、五つ子の女子高生に囲まれるハーレムラブコメマンガみたいですね。

 これを切り売りしていった記録が下記のとおりである。

①船橋二和高校

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する (12)

 昭和51年1月7日分筆  昭和54年2月19日売買

 高校のウェブサイトによると「昭和54年4月14日 創立」とある。 

 売買自体は開校直前の日付だが、実際には昭和51年の分筆後に工事は着工していたものと思われる。

  

 ②戸建て住宅

 個人の所有地なのでプライバシー保護の関係から登記簿はUPしない。 

  昭和50年に、船橋二和グリーンハイツを建設したA建設が取得し、その後複数の建設会社等経て、平成になってから個人に売却されている。

  

③細長い道路 

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する (9)

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する (18)

 上記②の土地と一緒に昭和50年に、A建設が取得し、道路を造成後、昭和60年に船橋市へ寄付している。 

 宅地開発業者が、団地、宅地等を造成し、完成後に道路を行政に寄付することは一般的に行われており、珍しいことではない。

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する (3)

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する (7)

 ↑「財産移管」云々とポップアップが出ているのがお分かりだろうか?開発業者から市に道路の財産が移管されたということである。 

 ストリートビューで見ると、左から「①船橋二和高校」「③細長い道路」「②戸建て住宅」「④怪しい空き地」である。

④怪しい空き地 

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する (8)

  今でも大蔵省(財務省)所有のままである。

 ただし、新幹線事業であれば、大蔵省名義のまま土地を貸し付ける形で処理することも想定される。

 

 

⑤日大グランド 

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する (11)

 昭和52年に日大が取得している。 

  

⑥怪しい小屋 

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する (15)

 今でも大蔵省(財務省)所有のままである。

 

⑦細長い駐車場 

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する (10)

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する (4)

 昭和51年に、船橋二和グリーンハイツを建設したA建設が取得している。 

 ストリートビューで見ると、左から「⑥怪しい小屋」「⑦細長い駐車場」「A建設から市に寄付された道路」「船橋二和グリーンハイツ」である。

 おさらいすると下記のようなことになる。これらの取引が昭和50~52年ごろに立て続けに行われたことになる。

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する 2 (1)

 成田新幹線は、昭和47年に日本鉄道建設公団が工事実施計画の認可を受け、昭和58年に事業凍結、昭和61年に国鉄民営化にあわせて失効したとされている。 

 その間の通常に鉄建公団が用地買収を行っている時期に、「成田新幹線が通ったかもしれない土地」を建設業者が普通に買収して普通に開発しているのが実態であった。 

 繰り返しになるが、全ての筆を調べたわけではないのだが、代表的な筆に係る不動産登記簿の全部事項証明書を閲覧したところ、日本鉄道建設公団が船橋二和高校と日大グランドの間の空間の土地を売買した記録は見つからなかった。 

 言い換えると「ここに成田新幹線が通る計画があった可能性は相応に高いが、実際に日本鉄道建設公団が用地買収をしていたかというと可能性はかなり低い」ということだ。

 これで成田新幹線に係る「都市伝説」を一つ潰したと言って差し支えないのではないか? 

 異議のある方は、是非私が調べていない筆を虱潰しに調べ上げていただければよいかと思う。 

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 ところで、上記の「船橋市地図情報システム いきいきふれあいマップ」に二本の茶色いラインがあるのに気づいた方がいらっしゃると思う。 

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する (2)

 未成線マニアの方は「これこそ成田新幹線の計画を示すものではないか!」「やはり船橋二和高校と日大グランドの間の空間は成田新幹線じゃないか!」と小躍りしてしまうかもしれない。 

 しかし違うのである。 

 この茶色いラインは、千葉県/船橋市の都市計画道路「3.1.37馬込町古和釜町線」なのである。 

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する (1)

 

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する (17)

 https://www.pref.chiba.lg.jp/tokei/toshikeikaku/documents/kuiki_master_zu_funabashi.pdfから

 すると、未成線マニアの方は「成田新幹線計画跡地を転用して道路計画に再利用したのだ!」とまた小躍りしてしまうかもしれない。 

 しかし違うのである。 

 「3.1.37馬込町古和釜町線」が都市計画決定されたのは、昭和56年11月20日(千葉県告示)である。

船橋の都市計画2020~令和2年版~ 31頁に記載

 先ほど、成田新幹線の経緯として、昭和47年工事認可、昭和58年凍結、昭和61年失効という流れを述べた。 

 なんと、成田新幹線工事凍結前の「バリバリに工事中の期間に、道路を都市計画決定している」のである。 

 ちなみに日本鉄道建設公団が作成した成田新幹線の図面(上段)と、船橋の都市計画図面(下段)を並べてみたらこうなる。

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する 2 (6)

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 ここで船橋市議会の議事録を紹介したい。 


昭和五十六年第一回船橋市議会定例会会議録(第二号)

昭和五十六年三月十六日(月曜日)

◆三十六番(川崎忠治君) 二月十五日号、「広報ふなばし」で、国道二九六号線バイパス案について発表が行われました。これによりますると、中野木交差点を起点として、県道船橋─我孫子線、これを北上して馬込町で右折をし、神保町に至りましてからさらに右折をいたしまして、金堀町を通り八千代市に至るものだということが、船橋内の計画線として発表されたわけであります。その延長が市内で十一・七キロメーター、この間、四十メーターと三十メーターの幅員になるという構想であります。
 市の計画図を見てみますると、中野木から馬込町までは大部分が現在の道路が利用されますので、幅員の拡張のみで済まされる、こういう計画であります。馬込町から金堀町までは新しく宅地や農地、山林等が買収されることになります。この通過予定地は四つの農業振興指定地域があります。五十六年度もまた一カ所指定されようとされています。また、この地域には公共施設、医療施設もあり、住宅も追いついてきております。以上の地域環境の中で生活している住民が、広報を見て驚き、このバイパス反対の陳情が今議会にも提出されておるわけであります。こういう意味から、私はこのバイパス問題を取り上げまして、具体的に理事者にご質問申し上げたい、このように思うわけであります。
 私は、具体的に何点かの問題を提起いたしますので、この点について細かくご答弁くださるようお願いをいたしておきます。

(略)

四点では、成田新幹線との関係です。いま成田新幹線は各地で住民の大きな反対に遇い、計画が一時ストップになっております。しかし、この計画は完全に白紙撤回されたものではありません。いつまたこの事業決定がなされるかわからないというのが現状であります。現在、佐原線から成田空港に向けて工事が進められていると言われております。いわゆる在来線の延伸であります。これは、この間の新幹線の計画ルートをそのまま使っているということであります。これを考えてみると、この新幹線がまた浮かび上がってくるということは、住民としては非常に危惧として持つのは当然ではないかというふうに思います。仮に四十メーターから三十メーターのバイパスができるということになりますならば、幅員十一メーターあれば足りるところの軌道幅、これがこのバイパスの中にすっぽりとはめ込まれるということになるわけであります。住民はこの新幹線との関連でも非常に心配を持っております。この点についてどのようにお考えになるか、お答えを願います。
 

◎企画部長(成田知示君) 三十六番議員さんのご質問にお答えをいたします。

(略)

次に、成田新幹線との関連でございますけれども、ご存じのように成田新幹線につきましては、地元の公共団体がこぞって反対をいたしておるわけでございます。もちろん県につきましても反対をいたしております。そういう中で、私どもといたしましては、あくまでも新幹線については反対の立場を通していくということは、すでに決まっておるわけでございます。そういうことを承知の上で、私どもとしてはこのバイパスルートを選定したわけでございまして、新幹線が将来この路線と競合して取るんじゃないかというようなことでございますけれども、私どもとしては新幹線についてはあくまでも反対の立場を貫いていくということでございます。

 

 この議事録に出てくる「国道二九六号線バイパス案」が、船橋二和高校と日大グランドの間の空間に引かれた茶色い線=都市計画道路「3.1.37馬込町古和釜町線」である。 

 都市計画決定(昭和56年11月)の前に市民に路線の説明をしたことに係る質疑というわけだ。 

 この議員と船橋市の企画部長のやりとりを誤解を恐れずにざくっとまとめると 

議員「住民は成田新幹線に反対してきたが、R296BP(都計道)の幅が40mもあるのであれば、そこに成田新幹線が入ってくるのではにないかと危惧している」 

部長「成田新幹線は千葉県も県内自治体もこぞって反対している。そういうことを承知の上でR296BP(都計道)のルートを選定し、新幹線に反対を貫いていく」 

 つまり「千葉県と県内自治体は、成田新幹線反対を貫く前提で、成田新幹線のルートにバイパスのルートを設定した」ということではないだろうか?(違ったらごめんなさい。) 

 この都市計画道路「3.1.37馬込町古和釜町線」は、船橋市が「はねっかえり」で設定したルートではなく、このまま東側の八千代市に伸びて、現在八千代バイパスが施工されているところへ接続するものだ。 

 「バイパスの都市計画道路を成田新幹線にあてて都市計画決定することで、千葉県こぞっての新幹線反対の姿勢を確かなものにした」そう見ることもできるのかもしれない。

 単純に「昔からバイパスの検討はしてきたので、成田新幹線が来ようが来るまいが、千葉県としての事業は変わらずそのまま進めるよ」ということかもしれない。

 あまり知られていないが、船橋市も強硬な新幹線反対派だったのだ。 東北新幹線の戸田市や浦和市は地下化を求めたのだが、船橋市は地下化の検討のボーリングすら拒否したと報じられている。ある意味埼玉県南よりも強硬な反対自治体である。

 

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する (1)

1976年2月10日付朝日新聞から

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 「バイパスの都市計画決定を成田新幹線のルートに重複させたら、新幹線の都市計画と矛盾するのではないか?」と思う方もいらっしゃるかもしれない。 

 しかし、その心配はご無用である。 

 なぜなら、成田新幹線は都市計画決定は一切やっていないから。 

 逆に、地元自治体等と一切ルートの調整はせずにルートを公表し、「これが日本鉄道建設公団が考えた最良のルートです。一切変更しません。」という進め方をしたからこそ、東北新幹線も成田新幹線も地方自治体の長をトップとした異例の反対運動に直面したのである。 

 (例えば、江戸川区は、東西線沿いのルートを湾岸線側に変更できないかという交渉をしているが、突っぱねられている。) 

 その反省を踏まえてなのか、その後の整備新幹線では都市計画決定を行っているようだ。

  

 それにしても、新幹線ルートの上に「そういうことを承知の上で、このバイパスルートを選定」して都市計画決定してしまうというやり方は、初見である。

 大学時代に行政法第二部の講義で成田新幹線訴訟の話を聞いて以来、個人的に「公共事業への反対運動、法廷闘争」といったものに関心を持ってきたのだが、官製のこんなやり方は他にはないのではないか? 

 

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 ここで改めて経緯を整理してみよう。 


1971(昭和46)年 成田新幹線の基本計画告示 

1972(昭和47)年 成田新幹線の工事実施計画認可 →このとき、はじめてルートが公開される。

1975(昭和50)~1977(昭和52)年頃 船橋二和高校、船橋二和グリーンハイツ、日大グランド関係の土地が売却される。 

1977(昭和52)年9月 成田新幹線用地買収を中止(会計検査院参照

1979(昭和54)年 船橋二和高校開校 

1981(昭和56)年2月 船橋市議会「そういうことを承知の上で、このバイパスルートを選定」

1981(昭和56)年11月 都市計画道路「3.1.37馬込町古和釜町線」告示

1981(昭和56)年11月 船橋二和グリーンハイツ竣工 

1983(昭和58)年 成田新幹線凍結 

1986(昭和61)年 成田新幹線計画失効

平成XX年  ②の戸建て住宅竣工

  

 成田新幹線凍結後ではなく、成田新幹線凍結前に色んな興味深い動きがあったということである。 

 

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 ここで気になるのが、1975(昭和50)~1977(昭和52)年頃の分筆の意図である。

 

 船橋二和高校と日大グランドの間を斜めに切る必然性があるような地型ではない。 

 成田新幹線なのか都計道バイパスなのか、何等かの事業を考慮して土地を切り分けたのは間違いないだろう。 

 それが成田新幹線なのか都計道バイパスなのかを確定できる資料にはたどり着いていない。 

  

 あくまでも私個人の推測にすぎないのだが、「千葉県立」船橋二和高校と「千葉県」の都市計画道路ということで、双方千葉県の事業と同士が事前調整して今の土地の切り分けに繋がったのではないだろうか? 

 都市計画決定自体は1981(昭和56)年 と成田新幹線のルート公表の9年後であるが、都市計画道路のルート決定には10年くらいかかるのは珍しい話ではない。千葉県や船橋市は新幹線には反対していたので、それを考慮することなく、千葉県の学校と千葉県の道路で棲み分けをしたというのが私のヤマ勘である。如何だろうか?

 

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※ここからエビデンスのない妄想

 ここでちょっと脱線というか、裏付けは全く取れなかったのだけど、思いついたことがあるので、参考までに皆様にご披露してみる。

 もし、皆様が何か関連資料をお持ちであれば、ご一報を。

 

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する 2 (2)

 都市計画道路は幅員40mで決定されている一方で、成田新幹線の高架だけなら11mしかいらない(側道等はこのさい無視)。

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する 2 (3)

 日大グランド側に、あまり有効に活用されていなさそうな大蔵省名義の土地が今でも残っていることが引っかかっている。

 「ひょっとしたら、これは11m幅の新幹線用地は大蔵省名義のままで、A建設に売却せずに残してあるんじゃね??」

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する 2 (4)

 しかし、すぐ気が付いた。

 「東側の宅地分譲しているところは、船橋二和高校から日大グランドまで一括してA建設に売却してるじゃんか。」

 はい、妄想終了。

 

 ところで、この「11m幅の新幹線用地は大蔵省名義のままで、A建設に売却せずに残してあるんじゃね??」という妄想がもし正当なものであったらこんなことが起きてしまう。

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する 2 (5)

 多くの未成線マニアの方が「ここは成田新幹線のために用地買収したものの計画中止となって後に売却された土地」に違いないと注目する、あの「細長い駐車場」が、成田新幹線の想定幅から外れてしまうのである。

 「成田新幹線のために用地買収した」ということは都市伝説にすぎなかったことは今回実証したが、この妄想が正当なら、「成田新幹線計画地」だったことも都市伝説確定してしまったかもしれない。

※エビデンスのない妄想 終わり

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 ちなみに、船橋二和高校南側の空間と同じように、「成田新幹線用地として買収したが、事業中止となったために売却されて活用している土地に違いない」と言われている道路が、ここから西側の船橋市立馬込霊園付近にもある。 

 

 

 

 実は、ここも都市計画道路3.3.7「南本町馬込線」(ここも国道296号バイパス想定で昭和56年に都市計画決定)のラインにあてはまる。 ここも「そういうことを承知の上で、私どもとしてはこのバイパスルートを選定した」のだろう。

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する (5)

 流石にここの土地の登記簿を閲覧する気にはならないので、「ここが成田新幹線買収済用地の転用だ」と主張される方は是非ご自分で閲覧していただきたい。 

 一回334円の登記簿閲覧ガチャは高いんですよ。 

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する (13)

 この記事書くだけで二千円以上登記情報提供サービスに支払っているのだよ。とほほ。 

 

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<結論>

・船橋二和高校と日大グランドの間の土地は、成田新幹線の事業凍結前に千葉県が都市計画道路として決定した空間である。

・この空間を形づくる1975(昭和50)~1977(昭和52)年頃の土地の売買は、成田新幹線を踏まえたものなのか、都市計画道路を踏まえたものなのかを明らかにする資料は私は見つけられていない。

・この空間の土地は、成田新幹線買収の名残等と言われることがあるが、日本鉄道建設公団が土地を売買した記録は不動産登記簿からは見い出せない。一方成田新幹線凍結前に船橋二和グリーンハイツを開発した建設業者がここの土地を買って「細長い駐車場」等を作っている。

 

 実は、成田新幹線の用地買収は、JR成田線以東の、現在成田エクスプレス等が乗り入れている区間を除いてはほとんど進んでいない。 


 京成電鉄関係者にいわせると、「国鉄は成田新幹線を完成させるための努力を、ほとんどやっていない。空港地下駅に着手したのは、空港第一期工事がほぼ終り、反対派の妨害が下火になってからだった。また、東京寄りの区間で用地買収の努力をしたという話を聞いたことはない」とさんざんである。

(略)

 また、用地買収は、52年9月までに(それ以降中止)要取得面積約136万平方メートルのうち、空港ー土屋間の20万平方メートルを含めて約22万平方メートル(全体の16%)
しか行っていないが、その費用は約59億3千万円。

 

「話題追跡レポート 800億円のムダ「成田新幹線」の利用法」 実業界 1984年4月1日号

 

 成田線以東の買収済用地は、わずかに2万平方メートルである。(おそらく千葉ニュータウン付近の用地は、鉄道建設公団ではなく住宅公団あたりが取得することになっていて分母に含まれていないと思われる。) 

 2万平方メートルを高架橋の幅員11メートルで割ったら1818メートルだ。延長にして1.8km分の土地しか買えていないのだ。

 そうそう「成田新幹線買収済用地」があちこちに出てくるわけはないのだ。 

 

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 <ご注意>

 

 ※ここからは二和地区の新幹線の土地とは全く関係のない一般論です。

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 先ほど 

 そうそう「成田新幹線買収済用地」があちこちに出てくるわけはないのだ。

 

と書いたのだが、鉄道用地が買収されるまでを見てみよう。 

 ちょどJR東海が「環境影響評価から工事開始までの流れ」https://company.jr-central.co.jp/chuoshinkansen/efforts/briefing_materials/library/_pdf/H25lib17.pdfという資料を公開している。 

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する (20)  

 上がざっくりとした全体の流れで、この後個別の作業の説明が出てくる。

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する (21)  

 先ほど成田新幹線の高架部分の標準的な幅員が11mだという公団の資料をお示ししたが、じゃあまっすぐ11mの幅で買い進めていけばいいのかというと全くもってそうではない。

 新幹線が出来ることによって既存の道路や河川が支障となって付け替え工事が出てくる場合がある。大型車が出入りする工場があったりすれば引き続き出入り出来るような道路を再設置しなければならないし、耕作をしていれば水がきちんと流れる用排水路を再設置しなければならなない。

 また、地元住民には必要なくても新幹線建設工事用の重機が入れる道がなければ、それも作らなければならない。

 この辺もひっくるめてどれだけ用地買収をしなければいけないかが決まってくる。

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する (19)  

https://www.city.iida.lg.jp/uploaded/attachment/32826.pdf 

 上記は、実際にリニア建設にあたって地元と「設計協議」している土地だ。リニアは高架だけど、「調整池」や「機器室」も買収することになっていることもわかる。アセスメントの際の図面には、こういったものまでは載っていないと思われる。

 この絵ズラについて、全ての関係者が了解して、初めてどの土地を買収するかが決まってくる。

 船橋市については、先にお示しした新聞記事にあるように、「成田新幹線の地下化を検討するためのボーリングすら許さない」姿勢だったと伝えられており、このように「新幹線が通ることを前提にした協議」が進んでいたとは思い難い。

 ということは、「高架橋の設計はある程度できていても付随する施設や支障移転する公共施設等は全く決められていない状況」だったのではないだろうか?

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する (22)  

 そして、用地買収する箇所が図面上で決まったとしても、それが「誰の所有の土地に何平方メートルかかるのか」が確定しないと売買の契約書は作れない。

 そのために、関係する用地を一筆ずつ測量し、関係地権者の了解を求めていく。

 これが一筋縄ではいかないのだ。

 2ちゃんねるの家庭板やそのまとめサイトなどで、「隣の家が建てた塀がウチの敷地に入っている。文句を言いにいったら、向こうは自分の土地だと言っている→驚きの結果に!」みたいな話を読んだことがある方もいらっしゃるだろう。

 それが新幹線建設用地内で発生しない保証は一切ない。いや金がからんでくるから今まで我慢してきた不満がこの際爆発するかもしれない。

 また、登記簿の所有者の名義が亡くなった先代の爺様のままで、確認したら「兄弟の相続争いで何十年も揉めたままでいつまでたっても決まらない」といった場合もある。(まとまらないままブラジルに移民した兄弟が一人いる、なんてオプションがついたりもする。)

 こんなことになると、仮に新幹線の工事に伴って立ち退くことを了解していたとしても、土地の売買の契約書が作れない。

 そこを公団等の用地買収担当が説得してなんとかまとめていくのである。

 

 とまあこんな過程を経て公共事業の土地は買収されているのである。大筋は鉄道もダムも道路も変わらない。

 であれば、そうホイホイと「成田新幹線で買収済だった土地」が出てくるわけがないというのがお分かりになるだろうか?

 少なくとも

 ・関連する公共事業等の付け替えがあろうがなかろうが用地買収の範囲は影響ない。

 ・隣接地主との境界争いや相続争いがない。

 ・そして用地買収価格に不満がない。

 といった条件をクリアしないと進まないのだ。

 (ただし、「反対派の中に楔を打ち込む」といった意味で、多少の事務的な合理性は敢て目をつぶって契約しちゃう場合もないわけではない。 )

 ネットでは「用地買収に応じると過激派から攻撃されるから」といった言説も見られるが、三里塚はともかく、船橋等ではそれ以前の問題だったと思われる。

 

 なお、こういった公共事業の用地買収のお話がお好きな方はこちらもあわせてどうぞ

 →https://www.hosyoukikou.jp/cgi-bin/journal/login.cgi

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2021年3月13日 (土)

明石海峡大橋・大鳴門橋よりも瀬戸大橋への鉄道建設が先行した理由を、国鉄の検討資料から探る

 Twitter等のネットで鉄道を愛する方の意見を拝見すると

・明石海峡大橋・大鳴門橋の方が旅客が多いはずなのに、瀬戸大橋の鉄道敷設を優先したのは何故だ!おかしい!

・明石海峡大橋・大鳴門橋への鉄道建設がなされていればJR四国の経営はもっと楽になっていたはずだった!

といった声が見受けられるところだ。

 

 それについては、従前から

「明石海峡大橋に鉄道が建設されなかった経緯等」

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-98f1.html

「明石海峡大橋を四国まで新快速が走り、鳴門線が複線電化されるなんてどこから出てくるの?~本四架橋神戸-鳴門ルートに四国新幹線が決まった経緯~」

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2020/04/post-7c7516.html

といった記事を書いてきた。

 また、そこでは、下記のような関係者の声も紹介してきた。

明石海峡大橋と鉄道・新幹線架設の経緯 (23)

 しかし、「なぜ鉄道が非常に強く瀬戸大橋への鉄道建設を希望したのか?」を明確に示したものではなく間接的なものにすぎなかった。

 しかし、今回国鉄の昭和40年代後半における検討資料によってその一端が明らかになったので皆様にご紹介したい。

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 それは「新幹線建設委員会」に係る審議資料である。

 そもそも「新幹線建設委員会」とは何か?

国鉄が明石海峡お箸・大鳴門橋よりも瀬戸大橋に先に鉄道を建設したのはなぜか (1)

国鉄が明石海峡お箸・大鳴門橋よりも瀬戸大橋に先に鉄道を建設したのはなぜか (2)

「全国新幹線鉄道整備法成立をめぐって」西田正之・著 「交通技術」1970年8月号13頁

 ここにおける「青函本四連絡専門委員会(青本専)」の資料において、本州四国連絡橋における鉄道建設がどのように考えられていたかを追ってみよう。

国鉄が明石海峡お箸・大鳴門橋よりも瀬戸大橋に先に鉄道を建設したのはなぜか (3)

「新幹線建設委員会の審議概要(その2)」新幹線建設委員会 1975年8月 203頁

 上記が、本四架橋における鉄道建設の経緯である。

 私のブログをお読みいただくような方は皆様ご存じだとは思うが

 国鉄が調査に着手

 ↓

 日本鉄道建設公団へ移管

 ↓

 本州四国連絡橋公団へ移管(道路部分の調査は日本道路公団から本四公団へ移管)

 といった経緯である。

 

 それにしてもオイルショック前の見積もりとは言え「客貨ともに7~8倍」というのは、現在の状況を見ても過大予測にすぎやしませんか。「甘い見積もりに基づく不採算な巨大公共事業」はこうやってスタートするんですねーという典型のようである。

国鉄が明石海峡お箸・大鳴門橋よりも瀬戸大橋に先に鉄道を建設したのはなぜか (5)

「新幹線建設委員会の審議概要(その2)」新幹線建設委員会 1975年8月 208頁

 以下、「Aルート」「Dルート」といった用語が頻繁に出てくるので上記の路線図でよく確認しておいてほしい。

 

国鉄が明石海峡お箸・大鳴門橋よりも瀬戸大橋に先に鉄道を建設したのはなぜか (4)

「新幹線建設委員会の審議概要(その2)」新幹線建設委員会 1975年8月 205頁

 上記の「本四連絡A、Dルートの比較」において私は次の2点に注目した。

1)本四淡路線の鉄道側投資額が、本四備讃線(瀬戸大橋線)に比べて倍かかっている

 なお、ここでは「併用橋と道路単独橋の工事費の差額を鉄道橋の増額分として計上した」とされている。

 本四淡路線でいけば、「併用橋工事費 2452億円」-「道路単独橋工事費1884億円」=「鉄道側投資額 568億円」と試算している。

 しかし、実際には上記のような「増額分」ではなく、「道路と鉄道のそれぞれの荷重比による負担」とされ、「道路:鉄道」=「59:41」の比率で按分することとなった。

 そうなるとこの段階で568億円と見込んでいた併用橋部分の鉄道側投資額は1005億円にほぼ倍増する。それに鉄道単独部分となる「取付部分工事費 668億円」が加算される。

 四国新幹線の検討に着手した段階から、採算が悪化する方向へ大きく前提条件が変わってしまったのである。これは本四備讃線についても同様だが。

2)本四備讃線の「その他の経営改善効果」において、宇高連絡船の廃止により年間10億円の赤字(昭和42年度の損金の実績)解消が見込まれる。

 他方、私の過去のブログでも触れているが、明石海峡大橋では、「重すぎて貨物列車を載せられない」ため、本四淡路線を先に開通させても、貨物列車用に宇高航路を残さないといけないのである。

 需要はともかく、投資額と波及効果の段階で既に瀬戸大橋(本四備讃線)が優位に立っているとみられる。あと工期も。

 

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 そして、本四公団での調査結果がまとまって国鉄に意見照会があったので国鉄として見解をまとめて返したいといった位置づけであろうか。

国鉄が明石海峡お箸・大鳴門橋よりも瀬戸大橋に先に鉄道を建設したのはなぜか (6)

「新幹線建設委員会の審議概要(その2)」新幹線建設委員会 1975年8月 289頁

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 先に上げた部分では需要予測等は記されていなかったが、この段階ではまず本四公団による検討結果が示されている。

国鉄が明石海峡お箸・大鳴門橋よりも瀬戸大橋に先に鉄道を建設したのはなぜか (7)

「新幹線建設委員会の審議概要(その2)」新幹線建設委員会 1975年8月 290頁

 輸送量については、Aルート(本四淡路線)が新幹線で114千人/日、Dルート(本四備讃線)が在来線で50千人/日と、本四淡路線が2倍の旅客数を見込んでいる。

 他方、「鉄道分の償還についての考え方」では、Aルート(本四淡路線)が新幹線で307億円、Dルート(本四備讃線)が189億円である。これは〔〕内にもあるように、国鉄が毎年本四公団に支払う「償還金(利用料)」である。(本四公団が借金で橋を作り、国鉄が毎年利用料を払って借金を「償還」する計画だった。)

 これに充てるために「特別利用料」としてAルート(本四淡路線)が350円、Dルート(本四備讃線)が200円設定されている

 ちなみに、JR四国の2019年度の「運輸業売上高」は297億円、不動産業等を足しても489億円である。

 これに対して、本四淡路線と本四備讃線の昭和47年というオイルショック前の段階での利用料が496億円である。なんかこの段階でもう本四架橋の鉄道事業は破綻しているような気もしないではない。それに、この496億円の利用料は、前述のように「道路と鉄道の負担比率」が甘甘だったころの試算である

 そして、オイルショック等による物価上昇や工期延長に伴う利息負担等により、実際に本四備讃線の支払うはずだった利用料は年間500億円を超えるものとされていた。

 しかし、国鉄分割民営化の際に、本来国鉄が支払うべき瀬戸大橋や大鳴門橋の建設費に係る鉄道負担部分は全て国民負担となり、JR四国は支払わなくて済むようになったのだ。これに伴い「特別利用料」も200円から100円に値下げされたものと推測される。

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国鉄が明石海峡お箸・大鳴門橋よりも瀬戸大橋に先に鉄道を建設したのはなぜか (8)

「新幹線建設委員会の審議概要(その2)」新幹線建設委員会 1975年8月 291頁

 上記は、「それぞれのルートに新幹線と在来線をどう載せるか」の検討パターンである。

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 そして、この後が国鉄による「輸送量の想定」(需要の試算)である。

国鉄が明石海峡お箸・大鳴門橋よりも瀬戸大橋に先に鉄道を建設したのはなぜか (9)

 

国鉄が明石海峡お箸・大鳴門橋よりも瀬戸大橋に先に鉄道を建設したのはなぜか (10)

「新幹線建設委員会の審議概要(その2)」新幹線建設委員会 1975年8月 291~292頁

 国鉄は、ケース8<Aルート(本四淡路線)が新幹線、Dルート(本四備讃線)が新幹線+在来線>及びケース9<Aルート(本四淡路線)、Dルート(本四備讃線)(本四備讃線)共に新幹線+在来線>の二つの案を検討している。

 注目すべきは、Aルート(本四淡路線)の輸送量である。

 新幹線にあっては、本四公団の昭和65年予想114千人/日の約20%にすぎず、昭和60年段階で16千人/日、昭和70年段階で26千人/日で、Dルート(本四備讃線)の56%に過ぎない。

 また併設する在来線も4千人/日で、Dルート(本四備讃線)の34%に過ぎない。

 輸送量は半分なのに、建設費は2倍かかる。これが国鉄が精査したAルート(本四淡路線)の予測だったのだ。

 

国鉄が明石海峡お箸・大鳴門橋よりも瀬戸大橋に先に鉄道を建設したのはなぜか (11)

 

「新幹線建設委員会の審議概要(その2)」新幹線建設委員会 1975年8月 292頁

 需要予測を反映して、Aルート(本四淡路線)の新幹線は片道17本と、Dルート(本四備讃線)の56%に過ぎない。

 

 ネット上では、鉄道マニアが

・明石海峡大橋に鉄道が架かっていれば、アーバンネットワークに取り込まれて、淡路島や徳島が関西の通勤圏になるはずだった。

・明石海峡大橋に鉄道が架かっていれば、JR四国の経営は改善されていたはずだった。

と呟いているが、国鉄の予測では全くそうではなかったのである。

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 「なぜ、本四公団の予測と国鉄の予測でこんなに差が開いたのか」は、この資料には載っていないので、検証ができないのは残念である。本四公団の予測とは言え、実際には鉄道部分については鉄建公団から引き続き国鉄・運輸省系の人が担当していたと思うのだが。

 しかし、国鉄がDルート(本四備讃線)を優先することとした経緯は追えたと思う。

 

 その後、オイルショックを経て、狂乱物価や高度経済成長の終焉があり、収支見込については更に悪化することとなる。

 

大鳴門橋も鉄道(新幹線)建設をやめるはずだった

 昭和54年交通年鑑の、1978(昭和53)年3月9日の項に、「大鳴門橋を鉄道併用橋から道路単独橋に変更する方針を固めた」とある。

  

大鳴門橋も鉄道(新幹線)建設をやめるはずだった4  

1978(昭和53)年12月13日付読売新聞では、運輸省だけでなく国鉄もAルート(本四淡路線)の鉄道併用橋に反対していると報じている。 

 この背景には、上述のような輸送予測が反映されているのかもしれない。

 なお、建設省が「道路単独」に反対していることに奇異を感じる方もいらっしゃるかもしれないが、前述のように「荷重比」での割り勘相手がいなくなると、道路事業の負担が増える=本四公団の有料道路の返済すべき借金が増えるからであろう。

 


 1981年11月9日、第四部会は「国鉄分割民営化」を臨調全体のコンセンサスにしようと、土光たち9名の委員で構成される臨時行政調査会の会議に論客を送り込む。その論客は角本良平。戦中に鉄道省に入り、東京、四国、門司などの鉄道管理局に勤務後、運輸官僚として東海道新幹線の建設計画に参加。退官後は交通評論家として活動する、国鉄の表も裏も知り尽くした人物だった。角本は、土光たちの前で国鉄の末期的症状を解説した。

(中略)

「四国については鉄道を全部外したほうがよいと思う。四国の国鉄財産を全部売って高速道路をつくったほうが四国のためになる。とくに本四連絡橋の上にレールを乗せるのは何事かと思う。それだけで、四国の管理局で生じているのと同額の300億~400億円の赤字が出る。この際、岡山からバスで高知へ行くというような体制を作ったほうがよい」

 

「土光敏夫―「改革と共生」の精神を歩く」山岡淳一郎・著

http://webheibon.jp/dokotoshio/2012/11/post-17.html

 上記のように、中曽根行革における国鉄分割・民営化論議の中で本四架橋に係る鉄道建設も議論の対象となった。 

国鉄監理委、本四橋児島―坂出ルート「鉄道」中止提言へ。

 国鉄再建監理委員会(亀井正夫委員長)は二十日、本州四国連絡橋三ルートのうち唯一の道路・鉄道併用橋である児島・坂出ルートの鉄道敷設工事をとりやめるよう中曽根首相に提言する方針を固めた。八月初めに打ち出す「緊急提言」に盛り込む。これは、財政が悪化している国鉄は年間五百億円にものぼる連絡橋利用料を負担する能力がないので、このまま敷設計画を進めれば、将来国鉄を分割・民営化する際の大きな障害になると判断したもの。首 相はこの提言を尊重する義務があるが、同ルートから鉄道がなくなれば、連絡橋の工費約七千六百億円はすべて道路部門でまかなわれ、地元自治体の負担が二倍近くに増えるだけに影響は大きい。

 国鉄再建監理委員会は現在、緊急提言をとりまとめている。提言のねらいは「六十二年以降、円滑に分割・民営化するための対策」を打ち出すこと。同監理委員会は五十七年度末で十八兆円に達した借入金をこれ以上増やさない施策が最も重要と判断、設備投資の抑制に重点を置いており、本四連絡橋児島・坂出ルートの鉄道敷設中止は緊急提言の目玉になる。

(中略)

 このため、同監理委員会は、このまま計画を進めれば、四国などの国鉄分割会社が 当初から膨大な赤字を背負うことになり、分割・民営化の大きな障害になるとして、敷設中止を求める方針を固めた。しかし、現在、地元自治体は連絡橋の道路部分の工事約四千二百億円のうち三分の一を負担しており、鉄道部分がなくなれば、この負担は二倍近くになる計算。また、五十八年度末までに同ルート連絡橋 (鉄道と道路)工事の契約率は六三%に達する見込みだったので、鉄道敷設工事が中止されると、関係業界は大きな影響を受けるため反発は必至である。

 

1983(昭和58)年7月21日付 日本経済新聞から引用

 国鉄再建監理委員会の「緊急提言」の目玉として、JRに負担を増やさないためにDルート(本四備讃線)中止を求める考えだったという。

 

 

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2021年2月20日 (土)

「国鉄は独立採算で税金が入っていなかったのに、道路公団は税金じゃぶじゃぶで不公平だ」という公共交通マニアの方の言を検証してみる

 このニュースを切っ掛けに、また公共交通をこよなく愛する方々から「国鉄は独立採算で(原則的に)税金が入っていなかったのに、道路公団(高速道路)は税金じゃぶじゃぶで不公平だ!!けしからん!!」という声がツイッター等で流れてきた。

 そこでとても意地悪な革洋同さんは、実際にそれぞれ税金が幾ら入っているか調べてみた。

 結果はこちら、ドン!

国鉄と道路公団への税金助成額の比較 (2)

 実は、国鉄に入っている税金の方がはるかに巨額でしたというオチである。

 出典等は下記のとおり。 

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国鉄と道路公団への税金助成額の比較 (4)  

  「昭和60年 国鉄監査報告書」からの引用である。

 1981(昭和56)年から1983(昭和58)年は、7,000億円/年を超えているが、これがどれくらいの額かというと、上越新幹線の新宿ルートを建設するのに約7,000億円かかる(そしてあまりに巨額なのでJR東日本では建設できない)のに匹敵するわけだ。 

 この他に「無利子貸付金」がある。 

国鉄と道路公団への税金助成額の比較 (5)  

 これは、利子を払わなくていい借金を国鉄が国から借りているということ。本来であれば、国に利子が入るところが入ってこないのだから、その分は収入欄には見えてこない税金からの補填である。 

 こういった具合に多額の税金からの補助が国から国鉄には入っていたのである。 

国鉄と道路公団への税金助成額の比較 (14)

 「財政再建利子補給金」という課目で毎年数千億円を国からもらっているわけだが、これは何かというと上記のとおり、過去債務の利子がそのままだとどんどんふくらんでいくので、そこを税金で補填してやって歯止めをかけるといったものであろう。「国鉄の赤字は税金で穴埋めしていない」という方がいらっしゃるが、少なくとも赤字の利息については税金で一部支払っていたわけだ。

 それでも多額の赤字の前には焼け石に水だったわけだが。 

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 一方、日本道路公団の方はこちら。 

国鉄と道路公団への税金助成額の比較 (3)  

 「平成15年 日本道路公団年報」 

https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/236639/www.jhnet.go.jp/format/index2_05.html からの引用である。

  日本道路公団に投入されていた国費=税金の性格は下記のようなものである。

国鉄と道路公団への税金助成額の比較 (1)  

そして、これらの出資金は、無料開放にあたって料金から返済されることになっている。

国鉄と道路公団への税金助成額の比較 (15)

「高速道路の債務返済に関する一考察」国土交通委員会調査室 山越 伸浩

https://www.sangiin.go.jp/japanese/annai/chousa/keizai_prism/backnumber/h22pdf/20108102.pdf

https://www.kantei.go.jp/jp/singi/road/dai20/20siryou2.pdf 

 ただし、「小泉改革」で日本道路公団への国費支出はなくなった。グラフで2002年がゼロになっているのはこれを反映させたものだ。

新東名高速道路(第二東名)の暫定4車線から6車線化の経緯 (17)

2001(平成13)年11月9日付日本経済新聞

 尤も事業規模や国費の目的が異なるから単純な比較はできないのは承知のうえ。 

https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/236639/www.jhnet.go.jp/format/index2_05.html には、下記のような表もあるる。

国鉄と道路公団への税金助成額の比較 (6)

 有料道路事業のうち、10~20%くらいが国費=税金であるということだ。 

 では、日本鉄道建設公団ではどのくらいだったのか? 

国鉄と道路公団への税金助成額の比較 (7)  

「日本鉄道建設公団の事業概要」横山章・日本鉄道建設公団計画部計画課長 「建設の機械化」1975年6月号 

https://jcmanet.or.jp/bunken/wp-content/uploads/1975/jcma-1975_06.pdf 

 国鉄のローカル線や青函トンネル、上越新幹線等をガンガン作っていた1975(昭和50)年の予算では、3,647億円の事業費中政府出資金が549億円と約15%である。 この時点では額は日本道路公団の331億円よりも巨額であり道路関係4公団の国費率約10%よりも多い。

 制度等も違うだろうから単純比較はできないが、少なくとも鉄道建設公団と道路関係公団では、税金の入る額も国費率も鉄道建設公団の方が上である。 

 少なくとも鉄道建設公団が建設した新規路線については、高速道路に比べて税金が少ないとかいったことはないのではなかろうか?

 なお、鉄道建設公団が建設した青函トンネルや本州四国連絡橋公団が建設した本四備讃については、国鉄が利用料を払って建設費を償還するはずだったが、国鉄民営化にあたって国民負担(税金)となっている。

 道路公団民営化にあたっても。いわゆる「新直轄」とか本四連絡橋に対する国費投入等があった。

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 ところで、鉄道と道路については、上記のような有料道路に対する不平不満だけでなく、一般道路に対する不平不満も「公共交通をこよなく愛する方」からも聞こえてくるところである。 

 ただ、これは40年以上前に決着していると言っていいのではないか? 

 いわゆる「イコールフッティング」論争とでもいうやつだ。 

 国鉄と道路公団への税金助成額の比較 (8)

現代自動車交通論」 今野源八郎・岡野行秀 編著 東京大学出版会・刊  217~218頁から引用

 今でも「鉄道は自前で整備しているのに、道路は税金で整備している。トラックやバスは不公平だ。」という御仁はいらっしゃるが、「この主張は誤解」で「有料道路料金や自動車関係税によってまかなわれている」で以上終わりである。 

 経済学者の主張だけでは不公平かもしれないので、当時この辺の政策を担当した運輸官僚の回顧についても紹介しておこう。 

国鉄と道路公団への税金助成額の比較 (9)  

「総合交通政策の登場」高橋寿夫 290~293頁から引用 「 証言・高度成長期の日本(上)」毎日新聞社・刊 所収

 「公共交通をこよなく愛する方」からは、「飛行機も飛行場を税金で整備していて鉄道に対して不公平だ」と言いがち(ただし、旧・運輸省の中の話なので、旧建設省所掌の道路に対してよりも声は小さい。)なのだが、高橋寿夫氏は、鉄道側の主張も紹介しつつ、実際には道路も飛行機もほぼ100%受益者負担なので不公平とまでは言えないと決着している。 

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 「総合交通政策論」が一段落した後に、運輸大臣が興味深い答弁をしている。 

国鉄と道路公団への税金助成額の比較 (16)  

「道路の場合あるいは空港の場合、これは非常に利用者負担が高いにもかかわらず、その利用者負担が目的税特定財源として構成されておりますから、何となく利用者負担率の小さい国鉄の方が利用者負担率が高いように見られて、そこに大きな錯覚が起こるわけでございます。」

1977(昭和52)年4月27日参議院決算委員会における田村元運輸大臣の答弁

 道路=83.4%、空港=99.6%、国鉄=58.7%というのだから興味深い。

 惜しむらくは、データの出元が分からない。運輸省系のどこかの統計にあるのか。当時の「運輸と経済」あたりを調べれば出てくるのだろうか。

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 話を鉄道と道路の財源争奪戦に戻そう。

 その代わりにゲットしたのが、自動車重量税からの鉄道への支出である。 

国鉄と道路公団への税金助成額の比較 (13)  

 同上 292頁から引用

 自動車ユーザーが支払う自動車重量税のうち1/4は鉄道整備に回されることとなった。

 ときどき「鉄道が整備されれば、道路の渋滞削減に寄与するから、その分は自動車・道路側に払わせばいいんじゃね!俺頭いい!」的なアイデアをご披露される方がいらっしゃるが、既にその理屈は消費済なんである。それも40年以上前に。

 で、それをやったのは田中角栄である。

国鉄と道路公団への税金助成額の比較 (11)

土木史研究におけるオーラルヒストリー手法の活用とその意義 : 高速道路に焦点をあてて・高橋国一郎編」149頁から引用

 昨今の鉄道ファンからは「道路族」としてしか認識されていないかもしれないが、「鉄道族」のドンとしての田中角栄が、道路から鉄道へ金をぶんどっていったのであった。

 

 実は、同様に政治の力で、鉄道整備費用をドライバーに負担させているものがあって、都市モノレール・新交通システムなんかがそうである。

国鉄と道路公団への税金助成額の比較 (10)

「インタビュー 都市モノレール建設時代の10年」熊谷次郎 38頁から引用「社団法人日本モノレール協会20年の歩み」所収

 ちなみに、この熊谷次郎氏は、八田嘉明一派で、モノレール協会(初代会長は八田)の前には日本縦貫高速道路協会(ここも八田が会長を務めた)にもいた。鉄道・道路の両方に顔が効くのである。

 都市モノレールのインフラ部分は道路そのものとして建設されるので、道路から鉄道への支出という形では見えてこない。

 都市モノレールや新交通システムが、鉄道事業法でなく、軌道法が適用されているのは、路面電車同様「道路の上を走っているので旧建設省と旧運輸省が共管」という形をとって道路から金を出しているからである。(おそらく廃止されたピーチライナーの軌道を撤去する金もドライバーが負担したことになっているのではないだろうか?)

 

 同じく、道路から鉄道への支出という形では見えてこないものの一つに道路占用料の支払いを地下鉄等が免除されていることがあげられる。

 本来道路が鉄道から徴収すべき金額を免除しているために、これも道路から鉄道への支払いとしては見えてこない。

 

 というわけで、「公共交通をこよなく愛する方」にはあまり知られていないが、道路・ドライバーは鉄道の金を結構負担していて(このほかには駅前広場の整備費用とか)、しかも数字には見えてこなかったりするわけだ。

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<余談>

 参考文献としてあげた「現代自動車交通論」 今野源八郎・岡野行秀 編著 東京大学出版会・刊 の209頁に下記のような文が載っていた。

国鉄と道路公団への税金助成額の比較 (12)

 東大出版から出ている学術書にしては異例なことに、合理的な交通の見解については、鉄道ファンといった交通の好き嫌いや酔いやすさといったことが判断に影響すると述べているのだ。

 わざわざ東大の教授が特記すべき重要なバイアスなんだろうw

 

 JR東海の須田寛氏が「私の鉄道人生“半世紀"」において、「・公私の判断がつかない・中途半端な知識はかえって業務の妨げになる・視野が狭くマクロ思考ができない・偏食的な趣味嗜好に陥りがち」といった理由をあげて延々4頁にわたって、「鉄道マニアはどうして鉄道人に不向きか」を書いているのだが、鉄道マニアというのはそこまで偏ったバイアスということで各種専門家に捉えられているということなのであろうか。

 

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<超余談> 

 https://jcmanet.or.jp/bunken/wp-content/uploads/1975/jcma-1975_06.pdfの22頁に載っている「国鉄新線線路図」。北陸新幹線が当初の「亀岡経由」だ。亀岡といえば、山田木材。ドドン!!

北陸新幹線が亀岡経由だった時代の路線図  

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2021年2月 2日 (火)

東北新幹線は、埼玉で反対されていたなら、上越新幹線新宿ルートを先取りして東北貨物線に建設すればよかったのではないか。何故やらなかったのか?そしてそこに見える国鉄幹部の発言の軽さ、無責任さ。

上越新幹線 新宿-大宮間ルート (1)

1976(昭和51)年1月 「交通技術」1976年1月号「”ひかり”を北へ 東北・上越両新幹線建設計画の概要とその現況」から引用

 

 上越新幹線の新宿乗り入れは、上図のように、東北本線の在来線貨物線を活用して建設することとなっていた。当然国鉄としては自社用地内である。多少の追加買収は必要だろうが、今の東北新幹線のように丸々追加買収するよりは遥かに楽だろう。

 このルートは武蔵野線に在来の貨物が移転してからという条件がついていたが、工事の遅れから東北新幹線にこの土地を使うのも可能だったはずだ。

 しかしそうはなっていない。

 その辺の経緯を国鉄関係者が業界誌で述べている。そのものずばり「建設業界」という雑誌だ。

 


 (※(引用者注)東北新幹線建設にあたっては、福島の信夫山付近でも反対にあい、地下化要求をなんとかかわしたことに触れた後に、大宮以南のルート経緯について語る。)

 当初計画では、荒川から大宮までは、平面的には現ルート付近で地下で計画されていた。この計画について都区内は在来線沿いの高架ルートであるにもかかわらず、人口密度も小さい埼玉県南部が地下ルートであるという不自然さについての議論はあったが、在来線への併設は昭和四十三年に三複線化工事が完成し、都市計画等の完了したばかりの市街地に与える影響が多大である点や、当時盛んに宅地開発が進められていた地区であることから、在来線と別ルートで地下とされたものである。その後曲折を経て高架ルートで通勤線(埼京線)併設さらに両側に幅二十メートルの緩衝地帯を確保することに変更され開業することとなった。 

 当時、大宮以南の三複線のうち貨物線一複線を新幹線に転用する案も検討されたが、現在の国鉄貨物輸送の衰退は予想することも出来ず、お蔵入りとなった次第である。この貨物線は現在、片道十五本程度の貨物列車が走っているだけであり、今、東北新幹線を建設するとしたら間違いなく貨物線敷を転用することになるだろうと想像され、十年先の見通しの困難さを痛感しているところである。 

  

「東北新幹線のこと」日本鉄道建設公団計画部長 安原明・著 「建設業界」1986(昭和61)年1月号 48頁 

  

 「いやあ読み間違っちゃったよ。今のルートは間違いだった。将来予測は難しいねえ」と極めて率直な心象を吐露しているあたり、「建設業界」という、一般人やその読み誤った新幹線ルートのために引っ越しを余儀なくされた地権者は読まないだろうという安心感が背景にあるのだろうか? 

 https://iikou-d.jp/affiliate/tokyo/files/2011/10/kikoubun_yasuhara.pdfによると安原明氏は、「私は大学を卒業して日本国有鉄道に入社してから色々な立場で東北新幹線の建設に携わってきた」方なんだそうな。 

 この文が掲載された1986(昭和61)年1月というと、東北新幹線の上野~大宮間が開通してからまだ1年も経過していない時期である。安原氏は「十年先の見通しの困難さを痛感」するだけでもいいかもしれないが、沿線住民はこれからずーーーっと新幹線と隣合わせで生活し続けなければならないし、引っ越しをしたくなかった地権者だっているだろう。そういう人々がこの文を読んだらどういう気持ちになるか想像が及ばないのだろうか? 

 まあ国鉄の学士様はそういったことには忖度する必要はないのかもしれない。 

東北新幹線東京大宮間110キロ規制と線形 (1)  

 紛争中の1979(昭和54)年12月18日付読売新聞では、国鉄東京第三工事局の坂本真一次長は「大宮市から南はカーブや急こう配があって110キロのスピードでしか走れない」「とにかく国鉄を信用してほしい」と語っている。 

 しかし、開通すると業界誌には直ちにこんなことを書いてしまうのが国鉄職員なんである。 地元自治体や住民を騙し切って、さぞかし嬉しかったんだろうなあ。黙っていられないくらいに。


 また、住宅密集地を避けてルートを選定したため、半径600~2,000mの急カーブが多いため当面最高速度は110km/hとなっている。

 

「東北新幹線上野・大宮間建設の経緯」 国鉄電気局計画課 田辺昭治・著 「電気鉄道」1985(昭和60)年3月号 4頁

 

 「110キロのスピードでしか走れない」という国鉄を「信用」したら、開通と同時に「当面最高速度は110km/h」と業界誌には書いてしまうというのが国鉄クオリティなんである。いやせめてもうちょっと我慢しろよ。

 この正直な田辺昭治氏も、退職後はめでたく業界の社長になられたようである。 

 では、当該区間の建設を担当していた国鉄東京第三工事局の局長はどうだったのか?

東北新幹線建設にあたっての国鉄の考え方 (1)  

 「交通技術」1978(昭和53)年11月号に国鉄東京第三工事局長の岡部達郎氏がこのようなことを述べている。 

東北新幹線建設にあたっての国鉄の考え方 (4)  

 まあ当たり障りのないというか殊勝なことを述べている。 

 ただし、これは東北新幹線建設のためにまだ地元に頭を下げ続けなければならなかった頃のお話である。 

 これが東北新幹線開通後になると、岡部達郎氏はこう述べている。 

東北新幹線建設にあたっての国鉄の考え方 (2)  

東北新幹線建設にあたっての国鉄の考え方 (3)  

  「汎交通1992(平成4)年4月号

 いくら鉄道業界の身内しか読まない「汎交通」だからと言ってまあよくこんなことを書けるものだ。 

 新幹線建設予定地の住民は弁護士に依頼することも許されないのか?政治家に陳情することも許されないのか?自分たちは田中角栄とかの鉄道族議員はアテにするのにね。 

 これが代々引き継がれた国鉄技術マン魂なのだろう。 

  以前も記事にしたが、国鉄東京第三工事局はこんな舌禍事件を起こしている。

国鉄による東北新幹線反対派誹謗中傷ビラ事件  

1974(昭和49)年9月18日付朝日新聞 

 この新聞記事を読むと国鉄の一部の「はねっかえり」が起こしたトラブルのようだが、上記の岡部氏の「汎交通」の記事と照らし合わせると実際には東京第三工事局長の意図をしっかり反映していたことがよくわかる。東京第三工事局一丸となって岡部局長の意図を汲んで実行したわけだ。地元が反発して工事は遅れたけどな。 

  

 この他にも当時の国鉄は、「大宮に全列車を止める」という約束をしながら、上野開通後には早速大宮を通過する新幹線列車を設定して地元の反発をかっていたりする。 

 この経緯は、「JR東海が静岡のリニア水涸れ問題で約束を守るかどうかが話題ですが、国鉄須田寛常務(現JR東海相談役)が東北新幹線で埼玉県にどう対応したかを見てみましょう」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2020/03/post-0a9c65.htmlにまとめてある。 

 関心のある方はあわせて御覧いただきたい。 

 

 国鉄の学士様の発言はなんでこんなに軽いんですかね?

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ところで、国鉄幹部の口の軽さ、発言の無責任さは、沿線住民だけでなく、国鉄の部下にも向けられている。

東北新幹線建設にあたっての国鉄の考え方 (5)

東北新幹線建設にあたっての国鉄の考え方 (6)

「鉄道施設事務」1974(昭和49)年7月号

 こちらは東北新幹線の用地買収について「用地課の半数がノイローゼになったが幸い入院患者は2、3人ですみました」と国鉄幹部が業界誌に書いたものである。

 これに対し、国鉄の組合員諸君は下記のとおり反発したわけだ。

東北新幹線建設にあたっての国鉄の考え方 (7)

 今ならパワハラどころでは済まないと思うが、文系・理系ともに国鉄の幹部はこのような有様だったということで。

 

  この度、東北新幹線の大宮以南で最高速度が引き上げられると聞いているが、国鉄時代の諸先輩のようなことが起きないよう願いたいものである。

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【関係記事】 

●東北新幹線大宮以南の速度が遅いのは、「プロ市民」のせいなのか、線形のせいなのか検証してみる 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2020/03/post-0f2f22.html 

●東北新幹線よりも埼京線がうるさいのは正当なのか検証してみる 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2020/03/post-9924c0.html 

 →埼京線の方が新幹線よりうるさいことを揶揄する輩がいるが、建設時には国鉄は「通勤別線の騒音・振動は、新幹線と同程度のものになる」と説明しているにもかかわらず、それを実行できなかったというのが実際のところである。 

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2021年2月 1日 (月)

Wikipedia「中央自動車道」の項で怪しい記述があったので検証する

 Wikipedia「中央自動車道」の項で怪しい記述がある。

 


開通当初は東名高速や名神高速と同様に中央高速道路を名称として用いていたが、開通当初の暫定2車線対面通行でなおかつ中央にセンターポールも分離帯もないという状態であった上、追越しも許されている(中央線が破線)という有様であったにもかかわらず、「高速」という呼称によって速度超過が多発したことによる交通事故が頻発してしまったために[3]、当時の日本道路公団が1972年9月30日付の官報告示で中央高速道路を「高速道路」を用いない中央自動車道に改称すると発表した(ただし一部の情報板等の標識に「中央高速」の表記を使用しているものもある)[5]。また、この事故を受けて「自動車道」の名称使用が正式に決まるまでに開通した他の高速自動車国道は、政令による路線名を暫定的に道路名としてそのまま使用していた[注釈 3]。なお、その後開通した高速道路では、東名・名神のバイパスとなる新東名高速・新名神高速を除いては道路名称に「○○高速道路」が用いられることはなく「○○自動車道」に統一されている[5]。

 

[注釈 3]

^ 1970年に開通した中国自動車道や、1971年に開通した九州自動車道はそれぞれ中国縦貫自動車道、九州縦貫自動車道という道路名で供用開始している

2021年2月1日閲覧

 

 「この事故を受けて「自動車道」の名称使用が正式に決まるまでに開通した他の高速自動車国道は、政令による路線名を暫定的に道路名としてそのまま使用していた」とは、初耳である。 

 [注釈 3]では、「1970年に開通した中国自動車道や、1971年に開通した九州自動車道はそれぞれ中国縦貫自動車道、九州縦貫自動車道という道路名で供用開始している

 以下検証していきたい。 

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Wikipedia「中央自動車道」の変な記述を検証 (9)  

 上記は、「国立国会図書館インターネット資料収集保存事業」に保存されている「日本道路公団 平成15年年報」https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/234260/www.jhnet.go.jp/publish/nenpou/H15/pdf/4-02.pdfから、高速道路の開通経緯を示すものである。 

 果たして、wikipediaのいうように「この事故を受けて「自動車道」の名称使用が正式に決まるまでに開通した他の高速自動車国道は、政令による路線名を暫定的に道路名としてそのまま使用していた」かどうか、順をおって確認していきたい。 

 右上の中央道(多治見~小牧JCT)までの間に開通した高速道路がどのような名称で開通していっただろうか?  

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近畿自動車道(門真~吹田) 1970(昭和45)年3月1日供用開始 

 <政令による路線名>高速自動車国道近畿自動車道

中国自動車道(中国吹田~中国豊中) 1970(昭和45)年3月1日供用開始 

中国自動車道(中国豊中~宝塚) 1970(昭和45)年7月23日供用開始

 <政令による路線名>高速自動車国道中国縦貫自動車道

 

Wikipedia「中央自動車道」の変な記述を検証 (13) 「高速道路と自動車」1970(昭和45)年4月号から引用

 1970(昭和45)年3月の供用開始時から「政令による路線名=中国縦貫自動車道」ではなく、「中国自動車道」となっていることが分かる。

 

Wikipedia「中央自動車道」の変な記述を検証 (6)  

 

Wikipedia「中央自動車道」の変な記述を検証 (8)

 上記「ヌ)供用予定」の項から、1970(昭和45)年春頃に出版されたものと推測される。

Wikipedia「中央自動車道」の変な記述を検証 (7)

 せっかくなので、万博中央駅に向かう北大阪急行電鉄の線路が新御堂筋から分岐して中国自動車道や大阪府道中央環状線とどんな位置関係で走っていたかが分かる図面も添付しておこう。

 勿論、「中国縦貫自動車道」ではなく、「中国自動車道」と記載されているのだが。

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九州自動車道(植木~熊本) 1971(昭和46)年6月30日供用開始

 <政令による路線名>高速自動車国道九州縦貫自動車道

 

Wikipedia「中央自動車道」の変な記述を検証 (3)  

 「日本道路公団30年史」から引用 

 開通式のアーチに「九州自動車道」と書かれている。

Wikipedia「中央自動車道」の変な記述を検証 (11)

「高速道路と自動車」1971(昭和46)年8月号から引用

 「(1)開通後の名称 九州自動車道」と書かれている。

Wikipedia「中央自動車道」の変な記述を検証 (14) 1971(昭和46)年6月30日付 読売新聞(夕刊)

 「略称」というビミョーな位置づけだが、一般メディアも「九州縦貫自動車道」と峻別した形で「九州自動車道」の名称を報じていることが分かる。

 

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新空港自動車道(宮野木JCT~富里) 1971(昭和46)年10月27日供用開始

 <政令による路線名>高速自動車国道東関東自動車道

 

Wikipedia「中央自動車道」の変な記述を検証 (4) 「日本道路公団 年報 昭和45年度」から引用

 

Wikipedia「中央自動車道」の変な記述を検証 (16)

「道路」1971(昭和46)年11月号から引用

Wikipedia「中央自動車道」の変な記述を検証 (17)

「道路」1971(昭和46)年11月号から引用

Wikipedia「中央自動車道」の変な記述を検証 (15) 「日本道路公団30年史」から引用

 当該区間は、現在は「東関東自動車道」の道路名称で営業しているが、供用当初は、京葉道路から分岐する宮野木JCTから「新空港自動車道」の道路名称で営業しており、高速道路の延伸に伴い、「新東京国際空港線」である成田~新空港を「新空港自動車道」に残したまま、その他の区間は「東関東自動車道」に名称変更している。

 

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道央自動車道(千歳~北広島) 1971(昭和46)年12月4日供用開始

  <政令による路線名>高速自動車国道北海道縦貫自動車道

Wikipedia「中央自動車道」の変な記述を検証 (5)

「日本道路公団 年報 昭和45年度」から引用

 「開通後の名称は道央自動車道」と書かれている。

 ちなみに標識は「HOKKAIDO EXPWY」だった。

 

Wikipedia「中央自動車道」の変な記述を検証 (12)

「道路」1972(昭和47)年1月号から引用

 キャプションは「北海道縦貫自動車道」だが、開通式のアーチには「道央自動車道」と書かれている。

 

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 交通統計ではどのように扱われているだろうか?

Wikipedia「中央自動車道」の変な記述を検証 (10)

「道路」1972(昭和47)年4月号から引用

 「高速道路と自動車」以外の業界誌での記載状況ということで、「中央自動車道への名称変更前の中央高速道路」と「政令による路線名ではない道路名」が併用されていることがよくわかる資料である。

 wikipediaに言うような「正式決定前の暫定使用」が行われていたのであれば、「新空港自動車道」や「道央自動車道」が使われるはずがない。

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 このように、wikipediaの言うような「この事故を受けて「自動車道」の名称使用が正式に決まるまでに開通した他の高速自動車国道は、政令による路線名を暫定的に道路名としてそのまま使用していた」「1970年に開通した中国自動車道や、1971年に開通した九州自動車道はそれぞれ中国縦貫自動車道、九州縦貫自動車道という道路名で供用開始している」は、全く該当しない。

 あえて言えば、近畿自動車道が「政令による路線名」だが、これは「暫定的」ではなく「恒久的」なものである。 

 一体、編者は何を根拠にこのような書き込みをしたのだろうか? 

 是非ともご開示願いたいものである。 

 

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 ところで、実際に高速道路の名称はどのように定められるのだろうか? 

 「高速道路のプランニング」 から、関係個所を引用してみる。

高速道路の名称はどうやって決定されるか (1)  

高速道路の名称はどうやって決定されるか (2)  

 ここでも中央高速道路から中央自動車道への名称変更について触れられている。この本は日本道路公団の職員によって執筆されたものであり、日本道路公団の公式見解的な位置づけとして受け止めて差し支えないのではないかと思われる。 

 

 実際には、「中央高速道路」から「中央自動車道」への道路名称の変更は下記のように案内されている。 

「中央高速道路」から「中央自動車道」へ路線名称を変更した証拠  

 wikipediaでは「当時の日本道路公団が1972年9月30日付の官報告示で中央高速道路を「高速道路」を用いない中央自動車道に改称すると発表した」 とあるが、それ以前の「高速道路と自動車」1972(昭和47)年6月号に掲載されている。

 これは推測にすぎないが、それ以前に日本道路公団が公表し、その結果を同誌に掲載しているのではないだろうか。 この記事が載ったコーナーは「国内ニュース」という表題であり、国内の高速道路関係記者発表等をクリッピングする役割だったと思われる。

  また、wikipediaでは「この事故を受けて「自動車道」の名称使用が正式に決まるまでに開通した他の高速自動車国道は、政令による路線名を暫定的に道路名としてそのまま使用していた」とあるが、もしこのように「暫定的」に使用していたのであれば、この記事での中央自動車道の道路名称決定にあわせて中国自動車道や九州自動車道の道路名称を「正式に」決定していなければならないと思われるが、そのような扱いにはなっていない。しかも同じ頁内の先の記事に「九州自動車道」「新空港自動車道」「道央自動車道」といった「政令による路線名」がそのまま扱われている。

  

中央高速道路から中央自動車道へ道路名称を変更  

 上記がWikipediaで言うところの「当時の日本道路公団が1972年9月30日付の官報告示で中央高速道路を「高速道路」を用いない中央自動車道に改称すると発表した」とする官報である。 

 ところで、ここの記事を編集した方がなんか勘違いされているようだが、官報は道路名称を「発表」するような広報紙でもなんでもない。法令上の「こういう項目は官報に載せて国民に知らせる手続きを取りなさい」という定めに従っているのであって、本件は当該官報公告( 「告示」じゃないよ)にも書いてあるように、当時の道路整備特別措置法第14条第1項の規定

 (料金の額及び徴収期間の公告又は公示)
第14条 公団は、料金を徴収しようとするときは、あらかじめ、その額及び徴収期間(第5条第1項の許可を受けて料金を徴収しようとするときは、徴収開始の日。以下この項において同じ。)を官報で公告しなければならない。当該料金の額又は徴収期間を変更しようとするときも、同様とする。

に基づいて、料金の額を公告したものであって、この公告において道路名称は法律上全く意味を持たない単なる早見表にすぎない。

 あくまでもこの後に続く「料金の額」が本体なのである。

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 長々と書いてしまったが、「嘘を書くより、嘘を証明する方が手間がかかる」のである。どうやらかなり長期に渡ってWikipediaに掲載されていたようでもあるので、しっかりと潰しておく必要があると考えた次第である。 

 この記事を編集した方が自発的に修正していただけると宜しいのではないか。

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2021年1月31日 (日)

日本の初期高速道路7,600kmの路線網が定められた背景と裏話

法定の高速道路に成り損なった「未成高速道路構想」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2021/01/post-73aac0.html

日本の初期高速道路7,600kmの路線網はどのような基準で決定されたのかhttp://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2021/01/post-d76c1d.html

の2回に分けて、昭和40年代の日本で高速道路ネットワークがどのように形成されてきたかを紹介してきた。

 ただし、数値的な理論とか割ときれいごとの部分である。

 

 今回は、そもそもなんでそんなきれいごとで整理する必要があったのか?といった背景等の裏話を当時の建設省担当者の声を紹介してみたい。

未成高速道路ネットワーク (12)

https://www.mlit.go.jp/road/ir/ir-council/hw_arikata/pdf9/3.pdfから引用

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高橋国一郎氏(建設省道路局長、同事務次官、日本道路公団総裁等を歴任)は、「土木史研究におけるオーラルヒストリー手法の活用とその意義 : 高速道路に焦点をあてて」で下記のように触れている。

高速道路網7600kmの背景 (10)

 高橋氏は「中国横断道は止めたが九州横断道は止められなかった」と述べているが、先に示した国交省資料のとおり、中国横断道も止められなかった。

高速道路網7600kmの背景 (13)

 (ちょっとページを飛ばします)

高速道路網7600kmの背景 (11)

 7,600kmの大枠は、財政当局との折衝の結果定められたが、本当は8,000kmくらいはやりたかったと。

高速道路網7600kmの背景 (14)

 高橋氏は「和歌山市まで」と語っているが、実際には海南市までである。また東九州道を組み込みたかったというのは井上孝氏と同旨である。

高速道路網7600kmの背景 (12)

高速道路網7600kmの背景 (9)

※後述の「道を拓く : 高速道路と私」から。肩書は同書が発行された1985年10月現在のもの

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 当時建設省課長だった栗田武英氏は、「道を拓く : 高速道路と私」で、下記のように述べている。

高速道路網7600kmの背景 (2)

高速道路網7600kmの背景 (3)

高速道路網7600kmの背景 (4)

高速道路網7600kmの背景 (5)

 「高知市が抜けている」は「高松市が抜けている」の誤りであろう。

 四国の当初の「逆Z型路線」については、法改正前の下記の路線図を参照されたい。

昭和39年高速道路路線図

高速道路網7600kmの背景 (6)

 「いずれ適当な時期に幹線網の追加補正をする」というのが、法定の高速道路に成り損なった「未成高速道路構想」で紹介した「今後追加するよう自民党が強く申し入れた」路線網である。

高速道路網7600kmの背景 (7)

 この原案通り通過するための背景に、先に紹介した井上氏の「黄色いマジック」の逸話が出てくるわけだ。

高速道路網7600kmの背景 (8)

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日本の初期高速道路7,600kmの路線網はどのような基準で決定されたのか

 先の記事「法定の高速道路に成り損なった「未成高速道路構想」」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2021/01/post-73aac0.htmlにおいては、高速道路になれなかった路線構想を紹介した。

 ところで順番が逆になるかもしれないが、「高速道路7,600kmの路線網はどのような基準で決定されたのか」について触れていきたい。 

 おさらいになるが、日本の高速道路ネットワークがどのように形成されていったかを国土交通省の資料から紹介する。 

未成高速道路ネットワーク (13)  

未成高速道路ネットワーク (12)  

 そして今回紹介しようとする7,600kmの路線網は下記のものである。 

未成高速道路ネットワーク (7)  

 「ネット形成で考慮された拠点」という耳慣れない言葉が出てくるが、覚えておいていただきたい。

 「高規格幹線道路網に係る国家政策の歴史的変遷」http://www.jice.or.jp/cms/kokudo/pdf/tech/reports/05/jice_rpt05_04.pdfから引用 

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 先の記事にもお出ましいただいた井上孝氏が 「国土開発幹線自動車道路網の設定について」というそのものズバリの報告を日科技連数学計画シンポジウムにおいて行っているので紹介したい。

高速道路7600キロの路線採択の考え方 (1)  

 経済的な条件等は割愛する。 

高速道路7600キロの路線採択の考え方 (2)  

高速道路7600キロの路線採択の考え方 (3)  

 先に紹介した路線図における「ネット形成で考慮された拠点」はここに対応している。 

高速道路7600キロの路線採択の考え方 (4)  

 路線選定基準とは関係ないが、この段階では「②東京外郭環状」として、東京外環自動車道が独立した路線として扱われている。(マニヤの皆様はご承知のとおり、この後実際に国土開発幹線自動車道建設法が成立した段階では、外環道は独立した路線ではなく、東名、中央、関越、東北、常磐、東関東の各路線の起点部分に溶け込んでしまっている。この間に何があったのだろうか?)

参考記事「祝!外環道 三郷南~高谷開通!東京外環道って法令上の名称じゃないけどどうなってんの?」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2018/06/post-450c.html

高速道路7600キロの路線採択の考え方 (5)  

高速道路7600キロの路線採択の考え方 (6)  

高速道路7600キロの路線採択の考え方 (7)  

 ざくっと整理すると 

・全国からおおむね2時間以内で高速道路に到達できるようにする。

・全国から主要拠点を4大都市圏+58箇所選定し、これら相互を結ぶ道路網仮案を設定する。 

・この仮路線網から「交通需要」「カバーされる人口」「交通仕事量」の3つの指標から路線を選定する。 

・北海道は人口、面積等の事情が異なるため補正する。 

 これらの作業により、下記の7,600kmの路線網が設定されたというのである。 

高速道路7600キロの路線採択の考え方 (8)  

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 また、井上孝氏と一緒に7,600kmの高速道路路線網設定に取り組んだ山根孟氏(建設省道路局長、本四公団総裁等を歴任)は、「土木史研究におけるオーラルヒストリー手法の活用とその意義 : 高速道路に焦点をあてて」で下記のように触れている。 

高速道路7600キロの路線採択の考え方 (9)  

高速道路7600キロの路線採択の考え方 (10)  

高速道路7600キロの路線採択の考え方 (11)  

 ここで山根氏の言う「グラフを書いてみると」に該当するのが、井上氏の報文中「図1 道路延長と交通需要指数の関係」である。 

高速道路7600キロの路線採択の考え方 (12)  

高速道路7600キロの路線採択の考え方 (13)  

高速道路7600キロの路線採択の考え方 (14)  

 井上氏の報文に加えて山根氏の報文からもざっくり整理すると 

・従来の縦貫道法や個別立法により既に成立している路線は「ギブン」とし、既定の縦貫道等に追加していくものとしていた。 

・理論は国道の指定や諸外国との比較にも使われているものだった。 

・採算性は考慮していない。 

 といったことが分かる。

  

 「こんなもの後付けでもどうにでもなる」というむきもあろうが、建設省の公式見解はこれだということでそこはひとつ。 

 

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法定の高速道路に成り損なった「未成高速道路構想」

 今更ですが、今年も宜しくお願いします。

 

 今回は、高速道路ネットワーク形成に係る裏の歴史をたどってみたい。裏といっても利権ではなくて、成り損ない路線の供養みたいなものである。

 高速道路(高規格幹線道路等各種の用語があるが、本稿では便宜上高速道路と呼ぶ。)のネットワークの大きな流れについては、国土交通省が公開している下記の2枚のスライドで概括できる。

未成高速道路ネットワーク (13)

未成高速道路ネットワーク (12)

 そして、そのネットワークを表した路線図の経緯が下記のとおりである。

未成高速道路ネットワーク (10)

縦貫法等個別法にもとづく高速道路網図(昭和40年まで)

未成高速道路ネットワーク (7)

国土開発幹線自動車道路網(昭和41年)

未成高速道路ネットワーク (8)

高規格幹線道路網(昭和62年)

「高規格幹線道路網に係る国家政策の歴史的変遷」http://www.jice.or.jp/cms/kokudo/pdf/tech/reports/05/jice_rpt05_04.pdfから引用

 ところで、新幹線でも常磐新幹線のように構想はありながら、実際の計画には盛り込まれなかった路線がある。

 高速道路でも同様の闇に消えていった路線はあるはずだ。

 そこを整理してみたい。

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未成高速道路ネットワーク (7)

1966(昭和41)年7月 国土開発幹線自動車道建設法の制定により、7,600kmの路線網が決定されたのだが、この路線網はどのような経緯で決定されたのか?

 その当時の様子を井上孝氏が「井上孝回顧録 国土とともに」で下記のように振り返っている。

未成高速道路ネットワーク (3)

未成高速道路ネットワーク (4)

未成高速道路ネットワーク (5)

 では、ここで自民党議員によって要望されたにもかかわらず国土開発幹線自動車道建設法の7,600kmネットワークに盛り込まれなかった高速道路にはどのようなものがあったのだろうか?

 当時の毎日新聞に下記のような報道があった。

未成高速道路ネットワーク (9)

 国土開発幹線自動車道建設法の7,600kmネットワークに盛り込まれなかった高速道路4,800kmを今後追加するよう自民党が強く申し入れたというのだ。

 その一覧が下記のとおりである。37本と38本の違いがあるが。

未成高速道路ネットワーク (1)

 如何であろうか?

 末尾には(見づらいが)「(注)国土開発幹線自動車道建設法別表予定路線以外の路線」と書いてあるのがお分かりだろうか?これこそ、まさに、「7,600kmに入れられなかった路線一覧」なのである。

 例えば、北海道2小樽線であれば、現在その一部が後志自動車道として開通する一方、九州37出水線のように、現在の高規格道路網の計画にすら組み込まれていないものもあるといった具合に様々である。

 四国33三崎線と九州35佐賀関線あたりは、今だと、とっぴに見えるが、日本道路公団が国道九四フェリーを運航していたことを考えれば、まあ納得はいく。東北5下北線や東北8津軽線も北海道へのフェリーアクセスを重視したのだろう。

 

 なお、井上孝氏は、「土木史研究におけるオーラルヒストリー手法の活用とその意義 : 高速道路に焦点をあてて」で下記のように触れている。

未成高速道路ネットワーク (6)

 「黄色い太いマジックの逸話は嘘」だとか「東九州道は入れたかったけど入れられなかった」とか述べている。

 なお、最後に出てくる「NHKからのプロジェクトXみたいな感じの取材申し入れ」は、おそらくこいつのことなので、そんなににこやかな話にはならなかったはずだ。これは根拠のない妄想なのだが、取材を申し込むときには「プロジェクトXみたいな感じ」と説明して了解をとったが、実際の取材は違って。。。みたいな感じだったのかなあと。

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 その後、 1987(昭和62)年 第4次全国総合開発計画(いわゆる「四全総」)に高規格幹線道路14,000㎞を決定し、そのうえで国土開発幹線自動車道建設法を一部改正し、約11,520kmの高速自動車国道と約2,480kmの一般国道自動車専用道路を追加している。

未成高速道路ネットワーク (8)

 この際にも、ここに盛り込まれなかった高速道路構想があった。

 1969(昭和44)年の新全国総合開発計画(いわゆる「新全総」)である。

 新全総では「国土利用の現況と将来におけるわが国経済社会の基本的発展方向にかんがみ,情報化,高速化という新たな観点から,国土利用の抜本的な再編成を図り,37 万平方キロメートルの国土を有効に利用するために,中枢管理機能の集積と物的流通の機構とを広域的に体系化する新しいネットワークを整備する。」とし、新幹線等とともに高速道路についても下記のようなネットワークが提唱されている。

未成高速道路ネットワーク (2)

未成高速道路ネットワーク (11)

 この「新全総」のネットワークが「四全総」までの間にブラッシュアップされて、現在の高規格幹線道路網を形成しているということなのだろう。

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 これらの構想を早見表にしてみた。

 

S41自民党     S44新全総     S62四全総     高規格幹線道路   地域高規格道路等  
 --      --     日高自動車道 苫小牧 浦河 日高自動車道 B    
 --      --     深川・留萌自動車道 深川 留萌 深川・留萌自動車道 B    
 --      --     帯広・広尾自動車道 帯広 広尾 帯広・広尾自動車道 B    
 --      --     函館・江差自動車道 函館 江差 函館・江差自動車道 B    
根室線 釧路 根室 北海道横断道延伸 釧路 根室 釧路・根室自動車道 釧路 根室 北海道横断自動車道根室線 A    
網走紋別線 北見 士別 北海道横断道延伸 北見 網走 北見・網走自動車道 北見 網走 北海道横断自動車道網走線 A    
 --      --     旭川・紋別自動車道 旭川 紋別 旭川・紋別自動車道 B    
小樽線 長万部 小樽  --     後志自動車道 黒松内 小樽 北海道横断自動車道 A    
三陸線 大船渡 八戸 常磐、三陸縦貫高速国道 青森 いわき 八戸・久慈自動車道 八戸 久慈 八戸・久慈自動車道 B 三陸北縦貫道路  
 --      --     三陸縦貫自動車道 仙台 宮古 三陸自動車道 B    
 --     奥羽縦貫高速国道 青森 宇都宮 東北中央縦貫自動車道 相馬 横手 東北中央自動車道 A 会津縦貫北道路 会津縦貫南道路
下北線 八戸 大間 下北半島縦貫高速国道 八戸 大畑  --      --   下北半島縦貫道路  
大船渡線 北上 大船渡 東北横断自動車道釜石線 北上 釜石 北東北横断自動車道 花巻 釜石 東北横断自動車道釜石秋田線 A    
宮古線 盛岡 宮古 秋田宮古高速国道 秋田 宮古  --      --   盛岡秋田道路 宮古盛岡横断道路
津軽線 青森 三厩  --     津軽自動車道 青森 鯵ケ沢 津軽自動車道 B    
新庄石巻線 石巻 新庄  --      --      --   石巻新庄道路  
新潟青森線 新潟 青森 日本海沿岸縦貫自動車道 青森 新潟 日本海沿岸縦貫自動車道 新潟 青森 日本海沿岸東北自動車道 A    
--      --     東北縦貫自動車道八戸線延伸 八戸 青森 東北縦貫自動車道八戸線 A    
相馬線 相馬 常磐、三陸縦貫自動車道 青森 いわき 常磐自動車道 いわき 仙台 常磐自動車道 A    
相馬新潟線 相馬 新潟  --     東北中央縦貫自動車道 相馬 横手 東北中央自動車道 A 新潟山形南部連絡道路  
鹿島水戸線 鹿島 水戸 関東環状道路 東海道 鹿島 東関東自動車道鹿島線延伸 鹿島 水戸 東関東自動車道水戸線 A    
水戸前橋線 水戸 前橋 関東環状道路 東海道 鹿島 北関東横断自動車道 高崎 那珂湊 北関東自動車道 A    
関東環状線 千葉 横浜 東京環状道路 横浜 市原 首都圏中央連絡自動車道 横浜 木更津 首都圏中央連絡自動車道 B    
 --     房総縦貫道路 成田 館山 東関東自動車道木更津線延伸・首都圏中央連絡自動車道 木更津 館山 東関東自動車道館山線・首都圏中央連絡自動車道 A    
 --     東京湾横断道路 川崎 木更津  --      --   東京湾横断道路  
 --     東京湾横断道路 横須賀 富津  --      --   東京湾口道路  
横須賀線 東京 横須賀  --      --      --   横浜横須賀道路?  
平塚線 相模原 平塚  --     首都圏中央連絡自動車道 横浜 木更津 首都圏中央連絡自動車道 B    
 --     第2東海道高速国道 東京 名古屋 第二東名自動車道 東京 名古屋 第二東海自動車道 A    
清水甲府線 清水 甲府 関東環状道路 東海道 鹿島 中部横断自動車道 清水 佐久 中部横断自動車道 A    
 --     伊勢湾環状高速道路 豊川 近畿道  --      --   三遠伊勢連絡道路  
磐田飯田線 磐田 飯田 中部横断自動車道 浜松 飯田 三遠南信自動車道 飯田 三ケ日 三遠南信自動車道 B    
福井松本線 松本 福井 北陸関東自動車道 松本 福井 中部縦貫自動車道 松本 福井 中部縦貫自動車道 B    
富山松本線 富山 松本  --      --      --      
 --      --     伊豆縦貫自動車道 沼津 下田 伊豆縦貫自動車道 B    
能登線 金沢 珠洲  --     能越自動車道 砺波 輪島 能越自動車道 B    
金沢荘川線 金沢 荘川 北陸関東自動車道 松本 金沢  --      --      
若狭線 敦賀 峰山 若狭丹後自動車道 敦賀 豊岡 敦賀・舞鶴自動車道 敦賀 舞鶴 近畿自動車道敦賀線 A 鳥取豊岡宮津自動車道  
 --     東海南海連絡道 伊勢 和歌山  --      --      
 --     第2名阪道路 名古屋 大阪 第二名神自動車道 名古屋 神戸 近畿自動車道名古屋神戸線 A    
 --      --     東海環状自動車道 四日市 豊田 東海環状自動車道 B    
京都新宮線 京都 新宮  --      --      --   五條新宮道路  
京都和歌山線 京都 和歌山  --     京奈和自動車道 京都 和歌山 京奈和自動車道 B    
大阪奈良線 大阪 奈良  --      --      --   第二阪奈道路?  
 --     紀南自動車道 海南 白浜 紀勢自動車道 勢和 海南 近畿自動車道紀勢線 A    
 --      --     西神自動車道 神戸 三木 西神自動車道 B    
 --     大阪湾環状道路 和歌山 鳴門  --      --      
 --     山陰阪神連絡自動車道 福知山 鳥取 北近畿豊岡自動車道 春日 豊岡 北近畿豊岡自動車道 B 鳥取豊岡宮津自動車道  
 --     山陰海岸自動車道 京都 山口 京都縦貫自動車道 京都 宮津 京都縦貫自動車道 B 鳥取豊岡宮津自動車道  
 --      --     山陰自動車道 鳥取 美祢 山陰自動車道 A    
鳥取姫路線 鳥取 姫路 中国横断自動車道 鳥取 姫路 姫路・鳥取自動車道 姫路 鳥取 中国横断自動車道姫路鳥取線 A    
 --     中国横断自動車道 岡山 鳥取  --      --   美作岡山道路  
松江尾道線 松江 尾道 中国横断自動車道 松江 尾道 陰陽連絡自動車道 尾道 松江 中国横断自動車道尾道松江線 A    
松江広島戦 松江 広島 中国横断自動車道 松江 広島  --      --      
益田徳山線 益田 徳山 中国横断自動車道 益田 徳山  --      --      
 --     中国横断自動車道 宇部 長門  --      --      
 --      --     尾道・福山自動車道 尾道 福山 尾道・福山自動車道 B    
 --      --     東広島・呉自動車道 東広島 東広島・呉自動車道 B    
 --      --     山陽自動車道延伸 山口 下関 山陽自動車道 A    
 --      --     今治・小松自動車道 今治 小松 今治・小松自動車道 B    
高松阿南線 高松 阿南 四国自動車道 高松 阿南 東四国横断自動車道 高松 阿南 四国横断自動車道 A    
 --      --     高知東部自動車道 高知 安芸 高知東部自動車道 B    
三崎線 大洲 三崎  --      --      --   大洲・八幡浜自動車道  
大洲須崎線 大洲 須崎 四国自動車道 須崎 大洲 西四国縦貫自動車道 大洲 須崎 四国横断自動車道 A    
佐賀関線 大分 佐賀関  --      --      --      
東九州線 北九州 宮崎 東九州縦貫自動車道 北九州 鹿児島 東九州縦貫自動車道 北九州 鹿児島 東九州自動車道 A    
 --     九州中部横断自動車道 延岡 熊本 九州中部横断自動車道 御船 延岡 九州横断自動車道延岡線 A    
出水線 小林 出水 九州南部横断自動車道 出水 えびの  --      --      
鹿屋線 宮崎 鹿屋  --     東九州縦貫自動車道 北九州 鹿児島 東九州自動車道 A    
 --      --     西九州自動車道 福岡 武雄 西九州自動車道 B    
 --      --     南九州西回り自動車道 八代 鹿児島 南九州西回り自動車道 B    
 --      --     那覇空港自動車道 那覇 那覇空港 那覇空港自動車道 B    
                         

 地域高規格道路等のあてはめは詳細に検討せずに勢いで埋めてしまったものもある(例えば「房総縦貫道」と東関道館山線、圏央道の関係)ため、誤りもあるかもしれないが、そこはご容赦いただくとともに、正式な資料があれば是非ご教示いただきたい。 

 なお、上記の表はwikipedia等への転載はご遠慮申し上げたい。 

 未成道マニヤの皆様の妄想に寄与できれば幸甚である。

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 例えば、各地の自治体等の新全総関係開発計画で下記のような図面が掲載されていて、「下北半島縦断高速道路はこれか!」とか「奥羽縦貫自動車道の磐越道以南はどんな経路だったんだ?」とか更に妄想が広がりますので是非。 

奥羽縦貫自動車道 下北半島縦断高速道路

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