2023年6月24日 (土)

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する

※この記事は、当初2023年6月に公開しましたが、2024年4月に大幅追記修正しております。

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (1)

 TBS系列の「がっちりマンデー」が、「燕三条市」と放送して、ネット上が盛り上がってしまった。

 

 

 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (2)

ネットニュース等では、命名の由来が紹介されたりした。 

https://smart-flash.jp/entame/235318/1/1/ 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (3)

 この記事では、ネットユーザーからTBS「がっちりマンデー」に対して突っ込まれた、「燕三条駅に関する調べればわかる有名な話」が、本当なのか検証してみたい。 

 主な検証課題はこちら。 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (4)

 今回、ネットユーザー(特に鉄道オタク)が突っ込んだ「調べればわかる有名な話」って「上越新幹線の燕三条駅が先に出来て、後から北陸自動車道の三条燕ICができる」という時系列を前提にしたものが多いのだが、実際の開通の順序は逆で、高速道路の方が4年以上先に開通している。  

 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (5)

 ということで、新幹線と高速道路、それぞれの建設経緯を整理してみよう。 

https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/236639/www.jhnet.go.jp/format/index2_05.html 

https://www.jreast.co.jp/niigata/joetsu40th/ 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (6)

 新幹線の建設手続きはこちら。 

 新幹線の「停車場の位置」は、全国新幹線鉄道整備法に基づき、鉄道建設公団が工事実施計画を作成し、運輸大臣(国土交通大臣)が認可する。 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する(7)

 上越新幹線建設の経緯はこちらの手続きのとおり。 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (8)

 高速道路の建設手続きはこちら。  

 高速道路のインターチェンジの「連結位置」は、高速自動車国道法に基づき、建設大臣(国土交通大臣)が整備計画で決める。 

https://www.mlit.go.jp/road/singi/sgtrp1/ref1-2-5.html 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (9)

 北陸自動車道(長岡~新潟)建設の経緯はこちらの手続きのとおり。 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する(10)

 上越新幹線(燕三条駅)と北陸自動車道(三条燕IC)の建設に係る時系列を抜粋して並べてみたよ。 

 

 こういったツイートと当時の報道や建設関係資料と突き合せてみよう。 

燕三条駅名と三条燕インターチェンジ名争いの追記 (1)

果たして、上記のような鉄道ヲタクの「常識」は、どこまで本当だろうか? ねえ、企画の栗原景さん。

 ここから、燕三条駅/三条燕ICの命名の経緯を更に追っていくこととしたい。 

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 まずは、上越新幹線燕三条駅命名の経緯を深堀してみよう。 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する(12)

 1971年10月に、鉄建公団が工事実施計画を認可申請した。 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する(13)

 1971年10月に、三条市に「燕三条駅(仮称)」を設置することが決定した。 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (14)

 「新幹線の駅名で揉めたので、燕三条駅とする代わりに、駅長室を三条市域に設置することで、駅の住所を三条市としてバランスをとった」という説がある。

  しかし、この当初の工事実施計画の段階で、「燕三条駅(仮称)」は、「三条市大字下須頃」に置くことが、法律上の手続きによって、申請→認可されていたということには触れていないのではないか? もうちょっと大事なポイントだとは思うんだけどなあ。

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する(15)

 こちらは、1971(昭和46)年10月の上越新幹線工事実施計画認可申請を報道する地元紙「新潟日報」である。「燕三条」と出ている。 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (16)

 「燕三条(仮称)」か「燕・三条(仮称)」か 

 鉄建公団の工事誌は「燕三条(仮称)」と「ナカポツなし」で、新潟日報は「燕・三条(仮称)」と「ナカポツあり」だ。 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (17)

 工事実施計画を認可した運輸省では「燕三条(仮称)」で「ナカポツなし」である。 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (18)

 しかし、地元では「燕・三条(仮称)」と「ナカポツ(マルポチ)あり」前提で議論が進むのである。 

 それも、「マルポチの付いた駅名は全国どこにも例をみないという」などと随分こだわりが見られる。

 単なる誤植等では割り切れないものがあるようだが、その理由までは追えていない。 

 そのため、当ブログでも「表記のゆれ」が整理しきれていないがご容赦いただきたい。 

 鉄建公団や国の資料では「ナカポツなし」なのに、どうして地元は「ナカポツ(マルポチ)あり」を前提に駅名の議論が進められていたのか、理由をご存じの方がいらっしゃれば、是非ご教示ください。 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する(19)

 実は、工事実施計画認可申請前に、上越新幹線の駅名案について「お漏らし」報道があった。 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (20)

 1971(昭和46)年9月26日付読売新聞は、三条付近(東三条と燕の中間)と報道。 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (21)

 読売の4日後の1971(昭和46)年9月30日付朝日新聞は、仮称「新三条」駅と報道。
 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (22)

 「汎交通」1971(昭和46)年12月号に、国鉄新幹線総合計画部長の富井義郎氏の講演が掲載されている。

 その文末に「編集部註」として、「内定」された東北・上越新幹線の駅(仮称)のうち新三条駅も挙げている。

 朝日の誤報ではなく、鉄道業界誌でも「新三条駅」だったということで。
 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (23)

 「新三条駅」案は、単なる瞬間風速で消え去った一時的な案ではなく、国鉄-鉄建公団内部ではそれなりに浸透した駅名案だったのではないかと思料される。 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (24)

 半月ほどの中で幾つかの駅名案が出たり消えたりしており、「この間に、何かの力が動いたんやろなあ。。。」と思わせる。 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (25)

 当初は「新三条駅」だったのが、工事実施計画申請・認可の段階では「燕・三条駅」となったことで、駅名争いに火が付いた旨地元紙は報道している。 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する(w)  

 駅設置決定直後の1971(昭和46)年10月20日付新潟日報が、駅名争いを報じた最初の記事ではないか。

 
 燕市は「燕という文字がはいっていればよい」としている。


 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (26)

 三条市鈴木春義助役(当時)のインタビュー記事からも、前述の『当初は「新三条駅」だったのが、工事実施計画申請・認可の段階では「燕・三条駅」となったことで、駅名争いに火が付いた』と同様の趣旨が読み取れる。 

 

 尤も、鈴木助役の言う仮称「三条燕駅」は、私は確認できていない。

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (27)

 鉄建公団の現場事務所も「燕三条鉄道建設所」等であり、「現場事務所までもが、市境に建ってるわけでもあるまいし、素直に所在地名をつけとけばええやん」と思うのだが、鉄建公団は相当気を遣っていることが推測できる
 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (28)

 1982(昭和57)年2月3日に「燕三条駅」に駅名が正式決定した。 

 1982(昭和57)年2月4日付読売新聞は、「北陸道のICが「三条燕」になったことから、新幹線については「燕」上位で合意」と報道している。

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (29)

 鉄道業界誌「電気車の科学」1982(昭和57)年3月号14頁掲載のコラム「電気車界展望」は、「北陸道のICが“三条燕”なので駅名の方は逆にバランスをとったかたち.国鉄さんの生活の知恵をしぼった決定ぶり」と報道している。 

 個人的な「感想」にすぎないが、こういう業界誌のコラムというのは「中の人」が匿名で書くことがあったりするので、「中の人」の本音がうかがい知れる場合がある。 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (30)

 現在の鉄道オタクの主張と当時の報道は順序が逆転していることがお分かりであろう。 

 当時の報道は、鉄道業界誌も含めて「高速道路が「三条燕IC」だったので、バランスをとって上越新幹線の駅名は「燕三条駅」にした」というものであった。 

 これが、何故か現在では逆転して認識されて「有名な話」になってしまったのである。 

 

 

 

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上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (31)

 次に高速道路の三条燕ICの命名経緯を深堀したい。 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (32)

 1967(昭和42)年に決定された北陸道の基本計画では、「道路等との連結地」として「燕市附近」と定められている。 

 この段階では、あくまでも「附近」にすぎないので、燕市外にICを設置することとなっても「附近」であれば差し支えない。 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (33)

 1969(昭和44)年に決定された北陸道の整備計画では、「連結位置」として「三条市」、「連結予定施設」として「一般国道289号」と定められている。 

 前述のように、この「整備計画」は、高速自動車国道法に定められた法的に位置付けられるものであって、建設省や道路公団が単なる事務的に内部手続きで決めたものではない。

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (34)

 燕市との図面上の面積の大小等は関係なく、高速自動車国道法上の位置付けとしては、「三条燕ICは、三条市で国道289号に連結するIC」なのである。 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (35)

 日本道路公団時代のIC名称決定基準として、副総裁通達「供用開始後の道路等の名称について」がある。 

 前述のように、三条燕ICは、「法律上は三条市にあるIC」なので(3)(ロ)に基づいて「その存在する市町村名を用いる」ということで、「三条」を優先していても、基準を逸脱していないと思われる。(※私見であり、道路公団の正式見解ではありません。)
 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (36)

 (3)高速自動車国道等のインターチェンジ等の名称 (ロ)インターチェンジ において「その存する市町村名を用いる」とある。 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (37)

 「燕市内にあるICは三条燕ICにしてバランスをとった」と言われることが多いが、日本道路公団での扱いは「三条市に所在する三条燕IC」なのである。 

 

燕三条駅名と三条燕インターチェンジ名争いの追記 (3)

 「でも、料金所は燕市内にあるじゃないか」と言う方もいらっしゃるかもしれない。

 鉄道の駅と違って、高速道路の料金所なんかは、極言すれば、本線と一般道の間のどこかに適当にあればいいんですよ。

 「東名の東京料金所が川崎市内にあるから、東京ICは川崎市にある」といいますか?

 東名高速道路の東京ICの場合、世田谷区内に料金所を置くのに適当な広い場所が取れなければ、隣の川崎市内に東京料金所を置くのは別に不自然でも何でもないので。

 鉄道ヲタクは、「何でも鉄道を中心に考えてしまう病気」にかかっている人がいるから、高速道路も鉄道にあてはめすぎじゃないですか?

 

燕三条駅名と三条燕インターチェンジ名争いの追記 (4)

 ブラタモリの三条・燕の回で出てきた燕市産業史料館の名物学芸員・齋藤優介氏は

「三条燕ICは燕市にあるけど、名前は三条燕」

といったことを言っていたような記憶があるが、こういう公文書を踏まえずに、地図だけ見ていったようなことを、学芸員が放送で流すとは全く遺憾なわけです。

 燕市役所には、道路法令総覧はありませんか?

(※ 昔は「道路六法」で、今は「道路法令総覧」という。)

 

 

 

 

燕三条駅名と三条燕インターチェンジ名争いの追記 (5)

 

 おさらいになりますが、

 昭和40年代当初の法令上の計画段階から、新幹線駅も高速道路ICも三条市に設置するのが正式な手続き上の位置付けだった。

 ということは、本件を理解するために必要な法的経緯であります。

 ここを踏まえない鉄道オタク向け蘊蓄本が如何に多いことか。

 そしてそれにひっかかるピュアな鉄道オタクや鉄道ユーチューバーが如何に多いことか。

  

 

 

 

 

燕三条駅名と三条燕インターチェンジ名争いの追記 (6)  

 稲村稔夫・三条市長(当時)の「社会主義」誌上における発言もご参考までに紹介しておこう。

 なんで「社会主義」誌に三条市長が登場するかというと、一時期、三条市は新潟三区にも拘わらず所謂「革新市長」だったのだ。

 (※それが、三条燕駅命名に影響したという説を後に紹介するので、覚えておいてほしい)

 

https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/236639/www.jhnet.go.jp/format/index2_05.html 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (38)

 高速バスの「三条燕バスストップ」は、単体で見れば燕市内にあるが、同基準の「2以上の施設が同一地点に併設されている場合には同一の市町村名等を用い」とあるので、「三条燕ICと同一地点に併設されたバスストップ」ということであれば、基準を逸脱していないと思われる。
(※私見であり、道路公団の正式見解ではありません。) 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (39)

 三条燕ICという名称はいつから使われていたか?を調べてみた。 

 遅くとも、「レジャー産業・資料」1971年8月号「北陸自動車道工事中間報告」日本道路公団工務第二課長 下荒磯茂・著には、「三条・燕IC」が出てくる。 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (40)

 高速道路のIC名は、燕市と三条市は揉めなかったのか? 

 燕市史889頁によると「高速道路のインターチェンジ名は、二つ以上の市町村名や地名を重ねる例は多くあり、すんなり決まった」とある。 

 鉄道オタクが主張するような、新幹線駅名と高速道路IC名をめぐって両市が激しく争ったわけではなく、駅名だけ争ったようである。 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する(41)

 燕三条駅/三条燕ICの命名に係る時系列を抜粋してみた。 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する(42)

 今回調べ始める前は、「高速道路の方が先に開通しているとは言っても、昭和40年代の建設中の仮称の段階で、「三条燕ICと燕三条駅」で事前調整しているんやろうなあ」と思っていた。 

 ところが、遅くとも、1971年8月には高速道路は「三条・燕IC」となっているのに、1971年9月段階で、新幹線は一旦先に「新三条駅」が報道されて、10月に「燕三条駅(仮称)」と認可されている。 

 事前調整がついていたのであれば、こんな動きはありえないのではないか? 

 よって「高速道路IC名は、新幹線駅名と調整していなかったのではないか」と私は考えるが、如何だろうか?
 

 まあ、ここはエビデンスなしの私個人の推測にすぎないものも含んでいるのだが。 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (43)

 とは言っても、相応に気を遣って「三条・燕IC」という仮称をつけたのではないか? 

 北陸道開通時には、「新潟」→「新潟黒埼」、「巻」→「巻潟東」、「見附」→「中之島見附」となったが、「三条燕」だけは、建設時から複合名称になっていたので、相応に気を遣っていたのではないだろうか?
 

 なお、「新潟黒埼IC」は新潟市内にはかすってもいないのに新潟が先に来ているし、「中之島見附IC」も見附市内にはない。「三条燕IC」は、それに比べればよっぽどまともではないだろうか? 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する(施設協会地図)  

 これは「新潟黒埼IC」と呼ばれていたころの道路施設協会発行の北陸自動車道マップだ。懐かしい方もいらっしゃるのでは? 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (44)

 ということで、主な検証課題の(途中経過1) 

 「新幹線を燕三条駅にした代わりに、高速道路を三条燕ICにしたのか?」と「三条市にある新幹線の駅を燕を先にし、燕市にある高速道路のICを三条を先にすることでバランスをとったのか?」の2つは、否定されたということでよかろう。 

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上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (45)

 次いで、「上越新幹線の駅の設置を巡って、三条市と燕市が激しく争った」というテーマを検証してみたい。 

 まずは、上越新幹線のルート、駅の決定経緯を確認していきたい。 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (46)

 鉄建公団公式の上越新幹線ルート選定経緯は、上越新幹線工事誌に掲載されている。 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (47)

 また、鉄建公団公式の燕三条駅選定経緯も同様に上越新幹線工事誌に掲載されている。 

 燕市及び三条市両地域の利用客の便を考え、弥彦線との連絡が可能で、支障家屋が少なく将来開発余地が見込める「三条市上須頃地区」に決めたとされる。 

 ただし、弥彦線の駅設置は当初は見込まれていなかった模様であり、その後駅設置要望が地元から出て、決定されている。 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (48)

 燕市史では駅誘致に激しく活動する三条市を尻目に「これに比べてもともと幹線を持たなかった燕市民はこれという目立った動きを見せなかった。両市の置かれた交通上の位置関係から、それぞれの考えは異なったものと思われる」と他人事のようである。 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (49)

 上越新幹線工事実施計画が認可され、燕三条駅の設置が決まったことを報道する当時の新聞では「新幹線駅誘致に懸命だった三条市や、これを支援してきた燕市」としている。 

 

燕三条駅名と三条燕インターチェンジ名争いの追記 (7)

 一方、当時の週刊文春には、渡辺常世・三条市長(当時)が、「燕市は立候補もしていなかったのに、駅名が仮であっても燕・三条いうのはおかしい。三条・燕ならまだしも、燕・三条とはねえ」と「燕市は立候補もしていなかった」旨述べている。

 なお、上記の記事に出てくる「三条商工会議所・加藤重利氏」は、おって本件の重要なキーマンとして再登場してくるので、覚えておいてほしい。

 

燕三条駅名と三条燕インターチェンジ名争いの追記 (8)

 また、「実録・越山会」小林吉弥・著 でも、三条市の越山会会員が

「仮称にしても燕・三条というのはオカシイ、三条・燕ならハナシはわかる。第一、燕市は立候補もしておらんかったし、人口も三条市がグンと多いですけ。そのうえ、あとで燕市の奴っこさんたち、“新ツバメ駅というのはどうか”などと提案してくる。とんでもねェハナシで、ホントは新三条駅が断然正しい!」

 と嘆くやら、怒るやら。

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する(b)

 駅設置決定直後の1971(昭和46)年10月20日付新潟日報では、「県央広域市町村圏内に停車すれば文句はない」との記事がある。

 県央広域市町村圏内とは、この記事によると、「三条・燕・加茂の三市を中心とした」ものとのこと。

 「燕市と三条市が激しく駅の誘致を争った」という鉄道オタクの常識はなんだったのか? 

 TBSに対して「燕市と三条市が激しく駅の誘致を争った経緯を知らないのか。調べたら分かるだろう。」と罵倒した鉄道オタクの皆様は、読売新聞や燕市に対しても「我々の”常識”と違う」と非難しては如何か? 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (50)

 燕三条に駅名内定時にも「三条側の業界は、駅を誘致したのは我々なのにと怒り心頭に」とする報道もある。 

 少なくとも、燕三条駅と内定した頃までは「燕市と三条市が激しく駅の誘致を争った」のではなく「三条が駅を誘致した」ことでは争いはないようである。その後に鉄道オタクの常識を書き換えるような出来事があったのだろうか? 

 

燕三条駅名と三条燕インターチェンジ名争いの追記 (10)

 「燕市と三条市が激しく新幹線駅誘致を争った」というリアルタイムのナマ情報は私が調べた範囲では見当たらなかったのだが。(後日出版された鉄道、地名関係蘊蓄本は除く) 

 もし、「燕市が市史に反して新幹線駅誘致に激しく運動していた」という当時の一次情報をお持ちの方がいらっしゃれば、是非ともご教示ください。

 「激しく誘致を争った」と書く鉄道ライター諸氏も証拠を出してくださいw 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (52)

 となると、「田中角栄が裁定して燕市と三条市の境界に駅を設けた」という逸話はなんだったのかということになる。とはいえ、田中角栄の力は別のところで及んでいた模様 

 元々は中之口村に出来るはずだった新幹線駅を、三条市長(当時市議)が、目白詣でをして、三条市内にもってきた旨の報道はあった。急行「天の川」の寝台券をもらってかけつけたというくだりにリアリティを感じる鉄道オタクの方もいらっしゃるのではないか? 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (53)

 新潟一区内の「中之口村」にできるはずだった新幹線駅を、新潟三区内の三条市に「田中角栄の赤エンピツ」で動かしつつ、最後は(こちらも田中派議員地盤の)新潟一区内の燕市にも配慮したということかもしれないが、これは私個人の推測にすぎない。 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (54)

 中之口から三条に駅をもって来たことによる弊害もでている。 

 「長岡-燕三条間は、わずか24キロしかなく、鉄建公団が基本として打ち出している、駅間隔は30キロ以上ないと新幹線としての機能を発揮できないという事項にも反することになる。」との批判もでていた。 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (55)

 篠原武司氏は、日本道路協会の「道路」に、燕三条駅位置の選定理由を記している。 

 「高速道路のランプ近くで自動車の乗り入れを便利にし,なるべく広大な駅前広場をつくって,バスや自家用車の乗り付けを便利にした。」「道路計画との有機的な結合をつねづね考えておかなければならない」というものだ。
 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する(c)

 「篠原武司って誰だよ。高速道路IC近くに燕三条駅を設置することでパークアンドライドの便を図ったなんて珍説は初耳だよ。」「道路業界誌なんて鉄道の敵なんだから相手にする必要はない」なんて思う方もいらっしゃるかもしれないが、篠原氏は上越新幹線建設当時の日本鉄道建設公団総裁なんである。
 

 上越新幹線建設の当事者である公団総裁が「両市の激しい誘致合戦の末に、両市の境界に駅を設置した」説を否定しているのは大変興味深いものがある。「両市猛烈な誘致結果案」を主張する鉄道オタクは、まず公団総裁の論を潰すネタを揃える必要があるわけだ。 

 せめて「鉄建公団の篠原とかいうやつが鉄道業界の常識に反することを道路業界誌に書いているが、そんなものは相手にする必要はない」「篠原は角栄の腰巾着なので、角栄の裁定を後からもっともらしく正当化しているだけだ」くらいは宣言してほしいものだ。少なくとも、燕三条駅ネタで原稿料をもらったことがある鉄道ライター諸氏におかれては、この篠原説を検証する記事くらい書いてもよいのではないか? 

(篠原総裁が政治に負けた悔しまぎれに、後付けで、屁理屈を書いてこじつけた可能性も、一般論としてはありうるとは思うが) 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する(d)

 なお、1971(昭和46)年9月30日付朝日新聞は、「仮称「新三条」駅は幹線道路とのつながりをどうするかの課題がからみ最終的な位置決定は数日中に行う」と報道している。

 朝日新聞記事と篠原総裁の発言とは整合がとれるため、篠原総裁のいう高速道路との連携が燕三条駅の位置決定の決め手だったという論は信憑性を増すのではないか。

 

 

 

 消極的に「どちらにも偏らないよう」なのか、積極的に「高速道路にあてに行って駅を設置したのか」リアルタイムの生情報がもっとほしいところだ。 

 

燕三条駅名と三条燕インターチェンジ名争いの追記 (11)

 「燕市と三条市が争った」とする鉄道オタク本の事例としては、

 「新幹線全駅旅図鑑」 (旅鉄ガイド003)「旅と鉄道」編集部 ・編 ‎ 天夢人・刊 

 とか

 「レールウェイマップル 全国鉄道地図帳」昭文社・刊

 があるようだ。

  

 それぞれの担当者に、篠原記事等をどのように受け止めているか聞いてみたいものだ。

 タビテツはともかく、レールウェイマップルの次回版には是非修正していただきたい。

 

 

燕三条駅名と三条燕インターチェンジ名争いの追記 (9)  

〇燕市史 (駅誘致に熱心な三条と比べて)「燕市民はこれという目立った動きを見せなかった」 

〇三条市長「燕市は立候補もしていなかったのに」

〇三条の越山会「燕市は立候補もしておらんかった」

〇読売新聞「新幹線駅誘致に懸命だった三条市や、これを支援してきた燕市」

〇週刊読売「三条側の業界は「駅を誘致したのは我々なのに」と怒り心頭」

〇鉄道建設公団総裁「高速道路のランプ近くで自動車の乗り入れを便利にし,なるべく広大な駅前広場をつくって,バスや自家用車の乗り付けを便利にした。」 

 

 ⇒これで、何故「燕と三条が駅設置を激しく争った」となるのか

 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する(57)

 なお、鉄道オタクは、「新幹線の後に高速道路がきた」という時系列で考える方が多いようだが、実際には燕三条駅計画前に三条燕ICの位置は決まっていたので、これ以上燕市側には駅は設置できないだろうとは思われる 。

 

 

 

 時系列をちゃんと確認するとこんな妄言を好きになることはないんですが。 

 

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上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (58)

 鉄建公団公式の燕三条駅選定経緯に「弥彦線との連絡」が あるが、実際には当初は在来線駅計画は無かったようである。

 

燕三条駅名と三条燕インターチェンジ名争いの追記 (13)

 同じ「上越新幹線工事誌(水上・新潟間)」の746頁には、国鉄新潟鉄道管理局の要請を受けて、1982(昭和57)年に弥彦線との連絡施設建設が決定された旨書かれているのだ。

 当初計画では、燕三条駅は弥彦線との連絡駅ではなかったのである。

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (59)

 工事実施計画認可時の認可した立場の運輸省による報文には「以上9駅の中、上毛高原(仮称)燕三条(仮称)を除きすべて在来線と接続させている。」とある。
 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (60)

 こちらも運輸省の広報誌「トランスポート」に運輸省鉄道監督局国有鉄道部施設課の澤田氏が書いた報文だが「上毛高原(仮称),燕三条(仮称)両駅を除いてすべて在来線と併設されており」と書かれている。 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (61)

 後から地元要望によって弥彦線の燕三条駅が追加された旨の地元紙の報道がある。 

 なお、これらの新聞記事とあわせて、先に紹介した「上越新幹線工事誌(水上・新潟間)」746頁の経緯を、参照されたい。 

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上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する(62)

 ここからは、燕三条駅命名に係る駅名正式決定前の動きを深堀りしてみる。 

 田中角栄による「裁定」があったと言われる時期だ。 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (63)

 北陸道燕三条IC開通後に、新幹線駅名を巡る興味深い記事が掲載されている。 

 なお、1978年の高速道路開通2年後の1980年ににまだ駅名は揉めている旨の記事が掲載されていることから「駅名を燕三条にした代わりに、高速道路を三条燕にしてバランスをとった」との説はガセ確定となる。 

 

 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (64)

 この記事で注目すべき点は、弥彦村が「越後一の宮駅」案で乱入していることだ。 

 「三条、燕どちらが先になってもしこりが残るだろうとの配慮もあっての提案だが、結果は逆。駅名論争を浮上させるきっかけになった。」という。

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (65)

 それまで、燕市・三条市は「紳士協定」で陳情合戦を自粛してきたが「第三の駅名候補の登場で、鳴りをひそめていた駅名争いがまたまたにぎやかになりそうだ。」とのこと。 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (66)

 燕市助役は「ICは三条燕に決まったので、駅名だけは譲れない」と。 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (67)

 三条市長は「すぐ隣のICと別な呼び方じゃ利用者が混乱する」と。 

 なお、記事中に 「駅の玄関がどっちを向いているかを見ても当然の名前だろう。」とあるが、後述のように駅の造りは、三条も燕も敢て同じになるように作ったはずなのだが。

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (68)

 鉄道オタクの「真実」とは逆に、「既に決まった高速道路のIC名を基準に、燕、三条の両市が新幹線駅名について論戦を交わしている」という点を地元紙が報じているところが大変興味深い
 

 また、弥彦村の乱入に触れていない鉄道・地名蘊蓄本は、一次資料にあたっていない可能性がある。
 

 

燕三条駅名と三条燕インターチェンジ名争いの追記 (14)

 なお、ウィキペディアには「両市名を付けた駅名にすると国鉄が決定した際」なんてことが書いてあるのだが、私が調べた範囲では、国鉄がそんな「決定」をしたなんていう元ネタは見当たらないのですが、この記事を書いた方は、出典を明記してくださいね。

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (69)

 

 燕市史には「信濃川駅」案という「けんか両成敗的な声」もあったと記されている。 

 「信濃川駅」案と同様に、広域地名で関係自治体の対立を結着させた事例としては、北陸新幹線の「佐久平駅」がある。 

 

  

 なお、当初

「新燕駅」案の元ネタをご存じの方は、是非ご教示ください。 

 と書いたところ、読者の方から、新燕駅に触れた記事があった旨のコメントをいただき、資料も確認できたので、「新燕駅の主張はあった」ということで、その旨追記させていただきます。 

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上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (71)

 決まらないのは、駅名だけではなくて 

 1980年9月3日付新潟日報によると、水道は燕市水道局が工事が始まった1979年から供給しているものの、電話番号、郵便番号、ごみ収集、し尿(浄化槽の放流先)、ガス、派出所等が決められないという。
 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (72)

 燕市史888頁によると、三条市に所在することになっている燕三条駅だが、水道とガスは燕市から供給しているとのことだ。
 

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上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (73)

 1980年10月17日付新潟日報は、国鉄による新幹線駅名決定の報道の2年ほど前に「仮称通り「燕・三条駅」に」と報じている。 

 両市が地元選挙区の代議士を通じて陳情合戦を重ねたが、「仮称の通りに内定」したとのこと。 

 代議士の名前は書いていないが、まあなんとなく想像はつくところではある。 

 なお、ここでは「・」は生きているところも気になるのだが。

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (74)

 燕市史888頁によると、「高度な政治判断が働いたとか最初からの予定だとかいろいろな話題も呼んだが、真相はどこにあるのか分からない」とされている。 

 燕市史は「高度な政治判断が働いた」という部分ばかり引用されがちだが、「最初からの予定だ」の部分とか、先に述べた「一の宮駅」案とか「信濃川駅」案は引用されないところを見ると、実際には読まずに孫引きでしか書いていないんじゃないかと勘ぐってしまう。 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (75)

 週刊読売1980年11月23日号「上越新幹線「駅名争奪」の感情的しこり」 は具体の代議士名を出している。 

 三条市側は、三区選出の角栄に頭を下げた。 

 燕市側も地盤が一区とあって、田中派大番頭の小沢辰男に「燕をよろしく」。 

 角栄は「燕が上でもいいじゃないか」と漏らしていたとされ、10月20日に国鉄新潟管理局が「燕三条駅」を提示した。 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (76)

 朝日新聞新潟支局にちょうど1980年から1986年に勤務していた早野透記者が、著書「田中角栄と「戦後」の精神」において、角栄の「裁定」を詳しく記している。
 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (77)

 ウィキペディアで「大岡裁き」とか書いていたけど、実際は意外にもグダグダな「裁定」だったようだ。 

 1980年9月に、三条市の角栄支持団体会長である加藤重利氏(このブログで当初名前が出てきましたね)が、角栄に裁定を求める。 

 ↓ 

 角栄は「燕三条」で加藤氏をなだめようとするが、譲らない。角栄は「それほどいうなら」と「三条燕」を引き受ける。 

 ↓ 

 二日後に、田中事務所から加藤氏に電話。「駅名は燕三条で決めた」 

 加藤氏は小沢辰男(燕市は新潟一区で小沢氏の地盤)にやられたと思った。 

  

「田中派の一の子分の小沢の頼みをどうして田中が断れよう。 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (78)

 なお、ウィキペディアの燕三条駅の項で文献とされる「新幹線100%ガイド」には、「大岡裁き」という表現はない。 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する(f)

 1982(昭和57)年2月4日付新潟日報は「燕三条駅大岡裁き」と題した記事を書いているが、中身は、「誰がどう大岡裁きしたか」という具体的な話は書いていないし、スカっとするような話も書いていない。
 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する(g)

 この新潟日報記事の「後にくる名が“本名”ということなので、こちらもそう理解している」と、前述の朝日新聞早野記者「田中角栄と「戦後」の精神」の「東三条とか北三条とかいうんだから、下につく名前が本物で、上が飾りなのではないか」という屁理屈は整合がとれている。

 ただし、発言したのは、新潟日報は国鉄で、朝日新聞は田中角栄というところが気になるが。

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (79)

 燕と三条を「大岡裁き」したというより、田中派同士の利益分配との報道もあった。 

「週刊ポスト」1982年11月26日号「摘出!日本型政治土壌を抉る 「上越新幹線」と「角栄利権」を激写! 」では、 

「三条市は田中角栄、燕市は角栄直系・小沢辰男の選挙区だ。そこで角栄は自分の利権を確保すると同時に、小沢にもそれを分け与えるために、真ん中に駅をつくった」(燕市商工会議所幹部)

 燕三条駅をめぐるドタバタ劇は、いわばその利権分与の副産物という指摘だ。 

と報じている。 

 

燕三条駅名と三条燕インターチェンジ名争いの追記 (16)

 最近の新潟日報に、田中角栄の「裁定」についての記事が掲載されていた。

 この記事は、仲が悪いとされている燕市と三条市が、この度の衆議院小選挙区の見直しにより、初めて同じ選挙区になるということについて歴史を含めて取材した記事である。

 その中で

「当時を知る自民党県議OBは中選挙区時代に三条市を含む旧3区を地盤とした田中角栄元首相が論争に終止符を打ったと耳にしたことを明かした。「(角栄氏の仲裁は)真実だと思うが関係者の間に『田中先生の名前を出せば調整がつく』という思いもあっただろう」と推測する。」

というコメントを紹介している。

 まあ、ご参考までに。

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (80)

 ウィキペディアの元ネタとされる海老原美宜男・著 「100%新幹線ガイド」だが 

「燕三条は、両市街地の中間に位置するため、どちらを上にするかでもめたが、北陸自動車道のインターチェンジを「三条燕」とすることで引き分けとなった」 

 と時系列が逆転している鉄道オタク本の典型であると言えよう。 

 著者紹介に「オリジナルな発想が武器」としているので、これも事実と反した「オリジナルな著述」ということか。

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (81)

 田中角栄や小沢辰男が属した自民党の「月刊自由民主」では「地方独特のバランス感覚をうかがわせて面白い」と他人事のようだ。 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (82)

 「三条市長が革新系だったから、角栄に意地悪された」との説もある模様だ。 

 「三条市史」下巻917頁によると稲村稔夫市長(任期1972~1976年)が「本市初の革新系市長」とのことだ。 

 このブログで「社会主義」に登場する三条市長として紹介した方である。

 この記事でも「眉ツバ」と書いてあるが、角栄の「裁定」は1980年とされているので、「時すでに遅く」には違和感が残る。

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する(83)

 ということで、 燕三条駅名決定経緯詳細を時系列で。

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (84)

 以上で、主な検証課題の(途中経過2)  

 「三条市にある新幹線の駅を燕を先にし、燕市にある高速道路のICを三条を先にすることでバランスをとったのか?」は、否定されたということでよかろう。 

 

燕三条駅名と三条燕インターチェンジ名争いの追記 (17)

 「地図神」「今尾神」も木から落ちる

 といったところか…

 

燕三条駅名と三条燕インターチェンジ名争いの追記 (18)

 しかも

「過去にいくつも出た『駅名事典』の類の「駅名の由来」の誤りは多いが、その多くが駅名そのものに「地名学的なアプローチ」で取り組んでしまったものである。」

「いずれにせよ、駅名を解釈するには、設置当時の「地名状況」を調べなければならない。」

なーんて、他の駅名事典を批判しておいて、その直後に、燕三条/三条燕の鉄道ヲタクの俗説に見事にひっかかるあたり、痛恨である。

 

 

燕三条駅名と三条燕インターチェンジ名争いの追記 (15)

 「東京人」の特集「新幹線と東京」において、原口隆行氏が「決着したのは、関越自動車道のインターチェンジの名前を三条燕にすることに両社が合意したことからだった」と記しているのも、ダウトとなる。

 

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燕三条駅名と三条燕インターチェンジ名争いの追記 (19)

 最後の検証テーマは、 

「新幹線の駅名を燕を先にする代わりに、駅長室を燕市から三条市に移したのか?」である。また、これも「角栄の裁定」によるものだとする本もある。

 その一例が、「いまこそたのしみたい新幹線の旅」(PHPビジュアル実用BOOKS) 梅原淳・著 である。

 

 「これ、実話なんです。」なんだかどうやら。

 

 

 

 

 「鉄道オタクの間で有名なのと真実なのは別だ」というのは、今まで見てきたとおりであるのだが。 

 ところで、三条口と燕口って出入口の名前はそんなに変ですかね。

 新潟駅の「万代口」や長岡駅の「大手口」が方角になっていないのは利権だ!とか勢力争いだ!とか言うの?

 ましてや、わざわざ同じような作りにした駅構内で「三条口」「燕口」と明記するのは、乗客の利便上、むしろ好ましいことじゃないですかね。

 利用客も「東か西か」で考えるより、「燕か三条か」の方が分かりやすいじゃんね。

 

燕三条駅は計画の当初から三条市に設置することになっていた

 再掲となるが、日本鉄道建設公団の当初の計画から燕三条駅(仮称)が、三条市上須頃に設置されることになっていた。

 「駅長室争い」を偉そうに知ったかぶるオタクに、このような計画との整合性に触れた人は残念ながら見たことは無い。

 私が知らないところではいらっしゃるのかもしれないけれども。

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (86)

 燕市史889頁では「 最初の予定では肝心の駅長室は燕側に設置されることになっていたという。」「こうしたことが公団側の耳に響いたのだろうか。駅長室がいつの間にか現在の所に変わったとされている。」としている。

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (87)

 1982年10月25日付毎日新聞「政治新幹線は走る 11・15上越開業<1>二市またぐ燕三条駅」では、 

 「その駅長室の場所も駅名が「燕三条」と内定したところ、当初計画の燕市側から移し替えられた。」とし、燕三条駅長にぶつけるも 

「そんなこと聞いていません」と否定されている。 

  しかし駅長室の壁のコンクリート柱が不自然にでっぱっているのを指して「大あわての駅長室移転の証拠は歴然だ」としている。

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (88)

 一方、こちらは鉄建公団の「上越新幹線工事誌(水上・新潟)」869頁に掲載された燕三条駅の竣工図面だ。 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (89)

 駅構内をジグザグに走る「行政境界線」がお分かりになるだろうか? 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (90)

 このジグザグは、農地整備を行う際に、地型にあわせて行政境界線を定めたのかな? 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (91)

 今の駅長室を工事誌掲載図面で確認すると、確かに三条市域内にある。 

 では、燕市史のいうような「 最初の予定では肝心の駅長室は燕側に設置されることになっていたという。」という論を補強できる図面はあるのか?

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (92)

 「上越新幹線工事誌(水上・新潟間)」870頁 には、燕三条駅の施設配置の「計画」と「実施」が掲載されている。

 現在、燕三条Wingがある場所が、計画段階では駅長室等ができるはずだったのだ。

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (93)

 また、「上越新幹線工事誌(水上・新潟間)」871頁には、変更された理由が記されている。 

 変更の理由は、省力化のための「国鉄側からの強い要請」だった と書いてある。

 当時国鉄が大赤字なのにもかかわらず採算の見込めない政治新幹線建設にまい進することを批判する声は強く、駅員の配置を省力化する必要があったのだろう。 

 今の駅長室への位置の変更理由は、田中角栄の裁定ではなく、国鉄から鉄建公団への要請だった。まあ、「政治家の裁定の結果とは大きな声では言えないので、国鉄からの要請だったことにした」可能性がないわけではないが、公式には「国鉄の要請」である。「角栄の裁定」説を取る方も「国鉄は否定しているが、こういう物証を踏まえると自分は田中角栄の裁定説を支持する」といった決意表明が必要であろう。 

 ただ、どちらにしても、三条市域から三条市域への変更にすぎない。 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (94)

 更にその前の案もあった。 

  鉄建公団「第12回技術研究会記録」が1976年10月に発行されている。

 鉄建公団の社内発表会記録集といったところか。 

 そこに「上越新幹線燕三条(仮称)駅の計画について」という報文が掲載されている。 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (95)

 そこには「A案」「B案」の二つの案が掲載されている。 

 しかし、両案共に三条市域内に所在している。 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (96)

 A案からB案への変更理由は、弥彦線と新幹線の連絡方法の変更によるものだとされている。

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (97)

 鉄建公団の資料で追える範囲では、駅長室の場所は2回変更されたが、全て三条市域内であり、「燕市域から三条市域への変更」を示す資料は見当たらない。 

 

 

 

 「在来線は改札口がなくてワンマン列車では無人駅扱い」なのは「歴史的な確執」は関係ないんだなあ。トマム凪氏には鉄建公団の技術研究会記録をよく読んでみてほしいものだ。

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (98)

 原因が田中角栄の裁定なのか国鉄の要請なのかには関係なく、時系列としては、田中角栄の「裁定」の前後でも、駅長室は三条市内での変更に留まっている。 

 鉄建公団「第12回技術研究会記録」は1976年10月の発行である。 

 一方、田中角栄の「裁定」は、早野透・著「田中角栄と「戦後」の精神」165頁によると、1980年9月だ。 

 田中角栄の「裁定」の前後で、「燕市域内に駅務室が計画された記録」は、少なくとも鉄建公団の公式記録には無く、2回の変更が認められるが、一貫して駅努室は、三条市域内にあったと言える。 

 「第12回技術研究会」より前には、燕市域内に駅長室を置く案があったかもしれないが、そんな時期であれば、「駅名で揉めた代わり」にも「角栄の裁定」にも関係ない。 

 

燕三条駅名と三条燕インターチェンジ名争いの追記 (20)

 そもそも、 田中角栄の「裁定」の詳細を報じているのは朝日新聞新潟支局に勤務していた早野透記者のこの著書なのだが、角栄の「裁定」が駅長室に及んだとは書いていない。

 他にご存じの方は是非情報を。

 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (99)

 ということで、田中角栄の「裁定」で駅長室を燕市域から三条市域に移したというのはガセではないか? 

 「田中角栄の裁定により、駅長室が燕市域から三条市域に移された」と主張する方は、「燕市域に駅長室が存在する段階の計画図」を是非お見せいただければ。そしてその位置変更が「角栄の裁定」によるものだという時期の整合性等の裏付けも是非。 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (100)

 とはいっても、燕市史にも採用されるくらいの「説」である。何か背景があるに違いない。 

 ということで、私が探してきた『背景らしきもの』がこちら。 

 燕三条駅の「開業準備駅」の電話番号は、燕局だったが、これが開業にあたって三条局に変更されている。 

 単に駅務室(三条市域)の造作が完成して、仮設の開業準備駅(燕市域)から本設置されただけのことが、「角栄の裁定」による変更と呼ばれるようになったのでは? というのが、私の「推測」である。

 如何であろうか? 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (101)

 報道を紹介したとおり、ガセっぽいものの、当時「駅長室を移した」という話が地元に出回っていたことは確認できた。 

 しかし、当時は「駅長室の移転が田中角栄の裁定によるもの」とまでは言い切った報道はないように思う。 

 駅名について田中角栄が裁定に動いたことはほぼ間違いないのだが、「駅名のバーターで駅長室の移転を田中角栄が裁定した」という話は、後から出てきた(後乗せされた)ストーリーではないだろうか? 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (102)

 上りホームは2線あるので、三条側の方が広い(下り線ホーム下の燕側には今の駅長室の巾は収まらない)という構造的な違いもある。 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (103)

 これは余談だが、燕三条駅の上り線が二線ある理由として、ネットでは「将来の羽越新幹線対応だ」とする声もあるようだ。

 これについて、鉄建公団の工事誌では「輸送の弾力性の確保および新潟車両基地からの試運転列車の折返しに対応して上り副本線を1線(上り第2副本線)増設した。」とされている。

 あまり夢のある話ではなさそうだ。 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (104)

ところで、燕市側と三条市側がほぼ対称となっている特徴的なレイアウトの燕三条駅だが、「それぞれの側に市の玄関を持ちたいと切望して協議を重ねた結果」なんだそうだ。 

 また、この段階では「三条口」「燕口」ではなく「東口」「西口」となっている点も興味深い。 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (105)

 そして「既設の新幹線では例をみないこと」で「1階コンコースは,駅前広場の延長となり,広場的色彩の濃いもの」なんだそうで。 

 「国鉄末期に開業した新幹線の駅の特徴」なのか「例をみない駅前広場配置」に伴うものなのか、「どっちなんだい!」  

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (106)

 ということで、主な検証課題の(結論)  

 「新幹線の駅名を燕を先にする代わりに、駅長室を燕市から三条市に移したのか?」は、否定されたということでよかろう。 

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 まあ「燕三条駅にまつわる、鉄道オタクには有名な真実」はたいてい嘘だったと言っていいのではないか。 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する(107)

 となると、ロクに裏取りもしない鉄道系YouTube動画とかはどうなってるんですかねえとしか。 

 

 

 

【上越新幹線】燕三条駅ってどんな駅? まあ 

 

 

 

【驚愕】新幹線が停車する駅に行ってみたら、駅構内に市境界があった。その理由とは?(後編)/紛糾の新幹線駅誘致の跡が今も残る上越新幹線燕三条駅。 とちまる

 

 

駅名をめぐる争い【前編】「燕三条駅」の誕生物語 太郎の部屋

 

【これで良かったのか?】対立する両市のメンツを立てた燕三条駅【現在のまちづくりの阻害になっていないか?】鐵坊主

 

 

【激しいPR合戦】構内を市境がぶった切る新幹線駅がありました… 泊静蓮 交通 / Pakuseiren Traffic

 

 

 

 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (108)

 そーゆー目で見ると、浅井建爾氏の「日本全国因縁のライバル対決44」もかなりトンデモ本ではないかと。 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (109)

 嗚呼。。。 

 

 燕三条駅名と三条燕インターチェンジ名争いの追記 (22)

 浅井建爾氏は、「日本の駅名 おもしろ雑学」でも、ドイヒーな記事を書いている。

 同様な低レベルな記事なので、中身を紹介する手間ももったいない。

 

燕三条駅名と三条燕インターチェンジ名争いの追記 (23)

 新潟郷土史研究会もドイヒーだ。

 

燕三条駅名と三条燕インターチェンジ名争いの追記 (24)

 鉄道ライターとか鉄道考察youtuberとかなら、仕方ないが、高校の歴史の先生や新潟県史編纂室の方がこれでは如何なものか?

 せめてご存命中の駅とICの開通の順番くらいは。。。

 これでは『新潟「地理・地名・地図」の謎』の謎を解くはめになってしまう。

 伊藤善充先生、菅瀬亮司先生、高橋邦比古先生、山上卓夫先生、伊藤雅一先生、宜しくお願いしますよ。。。

 

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燕三条駅名と三条燕インターチェンジ名争いの追記 (25)

 

 

 三条燕ICの「登記」が燕市にあるのかー。霞田さんには是非登記簿を見せてもらいたいなー。

 ところで、鉄道オタク諸氏は、すぐ「駅の登記ガー」って言うけどさー

 実際に、燕三条駅の登記簿見たことある?

 法人の「支店」といった位置づけで、「駅」とその「住所」が法人登記されるのではなくて、不動産登記の一環として、建物が登記されるだけなんだけど。

燕三条駅登記

 

 構造が「鉄骨・鉄筋コンクリート造コンクリート板葺3階建」で、種類が「駅舎・乗降場・事務所」の建物が登記されるという仕組みなんである。

 「所在」も三条市と燕市の多くの筆のうえに駅舎が建っていることを示している。

 なお、上記のなかで、「所在」は御覧のとおり、三条市と燕市の多くの筆に跨っていることを示しているが、不動産登記上、何市の何町字何にあることになっているかは、分かるようになっているので、よく見てみてくださいね。

 

ところで、工事実施計画上の駅の位置(自治体)と駅長室の位置(自治体)が、仮に違う自治体となった場合はどちらの自治体が「所在地」になるんですかね?

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上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (110)

 竹内正浩氏の「妙な線路大研究 東北・北海道・上越・北陸新幹線編」における燕三条駅に係る記述を検証してみると、このとおりで。 

 

燕三条駅名と三条燕インターチェンジ名争いの追記 (26)

 なお、私がこのブログを書いた2023年5月からわずか3個月あまり後に、竹内正浩氏が、新著「新幹線全史 「政治」と「地形」で解き明かす」を発刊されたのだが、参考文献に私のこのブログが紹介されている。

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (111)

 竹内正浩氏から、ソースにしたのは、JR東日本元会長の山之内秀一郎氏の著書であることをご教示いただいた。 

 なるほど「上越新幹線の「燕三条」駅は燕と三条をどちらの名前を先に入れるかの論争となり、高速道路のインターチェンジを「三条燕」とすることで落ち着いたという」とある。 

 会長御自ら自社商品のデマを撒いてまわるのがJR東日本と。。。 

 本に書くのなら、高速道路と新幹線がどちらが先に開通したかくらいは調べてほしいものである。 

 鉄道オタクも「調べればわかるだろ」とTBSを叩くなら、山之内氏にも同様にどうぞ。 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する(112)

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(余談)デマじゃないけど、燕三条駅とは関係ないのだが、本書の山之内氏の記述で気になる点がある。 

 それは、上野東京ライン(東北縦貫線)に係る地元千代田区との関係についてである。 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (113)

 山之内氏が、自慢げに「東北新幹線工事の際に、将来上野東京ライン(東北縦貫線)を建設できるように基礎を強くしていた」旨書いている当時は、地元千代田区民とJR東日本は、上野東京ライン建設を巡って激しく係争中であった。

 その争点の一つが新幹線建設時に地元と国鉄が締結した「確認書」である。そこには「縦貫線については、廃止することが提示され、(略)これを前提として今後新幹線工事推進に伴う諸問題については、前向きに合意するよう相互に協力する」との記載がある。
 

 そんな紛争の最中に「確認書なんか知らんぜ」とばかり著書で自慢しちゃうのが山之内氏なんである。
 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (114)

 東大卒の国鉄学士様でいらっしゃる山之内氏にとっては、東京都民との「確認書」や東北縦貫線建設のトラブルなんか、自著の自慢ネタを増やすことの重要性に比べれば屁でもないのかもしれないが、「なんだかなー」
 

 東大卒の国鉄学士様でいらっしゃる山之内氏にとっては、高速道路の後に新幹線が決まることなんかとうてい許せないのかなあ? 

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上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (115)

 そんな上越新幹線も、「新幹線レジェンド」からは辛口評価を受けている。 

 島秀雄氏は、太閤さんの「聚楽第」と 

 もちろん「太閤さん」とは「今太閤」とも呼ばれた田中角栄のことを指す。 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (116)

 兼松学氏は、東海道新幹線の世銀借款をまとめあげた立役者だ。 

 

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上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (117)

 閑話休題。まとめに入ろう。 

☆高速道路「三条燕IC」命名経緯まとめ 

◆高速道路の方が新幹線より先に計画が立てられた。

◆法律上のICの位置は「三条市」。 

◆法律上「三条市にある三条燕IC」であって、「燕市にある三条燕IC」ではない。 

◆上越新幹線の計画が発表される前から、仮称「三条燕IC」。 

◆燕市史「IC名は、すんなり決まった」 

◆高速道路の方が新幹線より先に開通したので、「新幹線を燕三条にした代わりに高速道路を三条燕にしてバランスをとった」は、時系列的に嘘。 

◆田中角栄の「燕三条駅裁定」よりも先に開通しているので「田中角栄が裁定して新幹線と高速道路でバランスをとった」は、疑問的。 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する(118)

☆新幹線「燕三条駅」命名経緯まとめ 

◆燕市史や当時の報道では「燕市と三条市が駅設置を争った」という趣旨の記載はない。 

◆日本鉄道建設公団の篠原総裁は「高速道路のランプ近くに駅を設置して自動車の乗り入れを便利にした」旨記している。

◆高速道路の「三条燕IC」が開通した後もまだ新幹線の駅名は揉めていた。(両社のバランスをとって「裁定」したのなら、高速道路開通後に駅名が揉めることはないのではないか) 

◆燕市と三条市の他に弥彦町が「越後一の宮駅」を主張。しかし「新燕駅」案を扱った当時の報道は見当たらず。 

◆朝日新聞記者によると、田中角栄の「裁定」は、当初「三条燕駅」だったが、後で「燕三条駅」にひっくり返した。これは燕市を地盤とする田中派の大物議員に配慮したのではないかと考察。 

◆駅名決定時には「高速道路が三条燕なので駅名を逆にしてバランスをとった」との報道。(現在の「有名な説」とは逆) 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (119)

☆「燕三条駅」駅長室移転経緯まとめ 

◆1971年の新幹線工事実施計画認可の段階で燕三条駅は三条市に位置するものとされていた。 

◆ 鉄建公団の工事誌等に現在の駅長室位置以前に2箇所の案が掲載されているが、いずれも三条市域内で、燕市域の駅長室案はない。

◆田中角栄の「燕三条駅名裁定」の前後でも三条市域内に駅長室があることは変わらない。 

◆鉄建公団の工事誌では、駅長室が移転(ただし三条市域から三条市域への移動)したのは国鉄から公団への要請によるもの。 

◆駅長室を燕市域から三条市域に移転させたことは、当時国鉄燕三条駅長が否定。 

 

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燕三条駅名と三条燕インターチェンジ名争いの追記 (27)

 地元のFM放送局である燕三条エフエム放送「ラヂオは~と」は、どういう経緯なんだろうと思って同社のウェブサイトを見たら、燕三条駅の1階が出発地とのことで、「燕三条エフエム」と名乗るのもなんとなく納得感はありますな。 

 それでも放送区域は「三条市・燕市・弥彦村のほぼ全域、加茂市・新潟市の一部」と三条が先に来ているあたり、バランスを取っておられる様子です。 

 

 

 ケンオー・ドットコムさんの記事は参考になりました。 

 

 

 まあ、こういうことでいいんじゃないかな 

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<燕三条駅/三条燕駅 関連年表> 

1964(S39)年5月  国土開発縦貫自動車道建設法に北陸道(新潟~大津)追加 

  

1967(S42)年11月22日 北陸道(新潟~長岡)基本計画決定 

 (「燕市付近」へIC設置) 

  

1969(S44)年1月20日  北陸道(黒埼~長岡)整備計画決定 

(三条市へIC設置が決定) 

1969(S44)年4月1日  北陸道(黒埼~長岡)建設大臣から施行命令 

  

1970(S45)年5月  全国新幹線鉄道整備法公布 

1970(S45)年11月11日 北陸道(新潟~長岡)路線発表 

(具体の路線やIC位置等が決定) 

  

1971(S46)年1月  上越新幹線基本計画決定 

1971(S46)年4月  上越新幹線整備計画決定

「レジャー産業・資料」1971年8月号「北陸自動車道工事中間報告」に、「三条・燕IC」が出てくる。 

1971(昭和46)年秋の段階では中之口村に出来るはずだった新幹線駅を、三条市長(当時市議)が、目白詣でをして、三条市内にもってきた旨1982(S57)年10月25日付毎日新聞が報道。

1971(昭和46)年9月26日付読売新聞は、「三条付近(東三条と燕の中間)」と報道。

1971(昭和46)年9月30日付朝日新聞は、「仮称「新三条」駅」「幹線道路とのつながりをどうするかの課題がからみ最終的な位置決定は数日中に行う」と報道。

1971(S46)年10月12日 上越新幹線工事実施計画認可申請

1971(S46)年10月14日 上越新幹線工事実施計画認可

(燕三条駅(仮称)を三条市大字下須頃に設置することが決定。この段階では、新幹線単独駅で弥彦線には接続しない計画。)

1971(S46)年10月20日付新潟日報は、「県央広域市町村圏内に停車すれば文句はない」、燕市が「燕という文字がはいっていればよい」と報道。

 

 

「道路」1973(S48)年11月号に、篠原武司日本鉄道建設公団総裁が、燕三条駅について「高速道路のランプ近くで自動車の乗り入れを便利にし,なるべく広大な駅前広場をつくって,バスや自家用車の乗り付けを便利にした。」と寄稿。

 

1976(S51)年10月 鉄道建設公団「第12回技術研究会」にて「上越新幹線燕三条(仮称)駅の計画について」が報告される。

(当時から駅長室は三条市側。現在の燕三条Wingを駅長室等とする当時の計画図面が報告されている。)

 

1978(S53)年4月15日付新潟日報が、地元が燕三条駅への弥彦線乗り継ぎ駅の設置を要望している旨報道。

1978(S53)年6月23日付新潟日報が、新幹線と弥彦線連絡駅が設置されるようになった旨報道。

1978(S53)年9月21日 北陸道長岡~新潟黒埼開通

(燕市史「IC名はすんなり決まった」)

 

1980(S60)年5月10日付新潟日報は、「“駅名結着”へ熱い切符争い 「弥彦参戦」負けじの両市」と報道。

(弥彦村は、三条、燕どちらが先になってもしこりが残るだろうとの配慮もあって「越後一の宮駅」を提案。)

(燕市は、北陸道が三条燕ICと決まったため、「駅名だけは譲れない」。)

(三条市は、「すぐ隣のインターと別な呼び方じゃ利用者が混乱する」と三条燕駅を主張。)

1980(S60)年9月に、三条市の田中角栄支持団体会長である加藤重利氏が、角栄に裁定を求める。角栄は「燕三条」で加藤氏をなだめようとするが、譲らない。角栄は「それほどいうなら」と「三条燕」を引き受ける。二日後に、田中事務所から加藤氏に「駅名は燕三条で決めた」と電話があった。(早野透・著「田中角栄と「戦後」の精神」)

1980(S60)年10月17日付新潟日報は、「仮称通り「燕・三条駅」に」と報道。

「週刊読売」1980(S60)年11月23日号は、10月20日に国鉄新潟管理局が「燕三条駅」を提示した。三条側の業界は「市名が下になるのはイメージダウンだ。駅を誘致したのは我々なのに」と怒り心頭と報道。

 

 

1982(S57)年2月3日  東北新幹線・上越新幹線駅名正式決定

1982(S57)年2月4日付新潟日報は、「燕三条駅大岡裁き」、三条市長が「後にくる名が“本名”ということなので、こちらもそう理解している」と報道。

1982(S57)年2月4日付読売新聞は、「北陸道のICが「三条燕」になったことから、新幹線については「燕」上位で合意」と報道。

「電気車の科学」1982(S57)年3月号は、「北陸道のICが“三条燕”なので駅名の方は逆にバランスをとったかたち.国鉄さんの生活の知恵をしぼった決定ぶり」と報道。

 

1982(S57)年11月15日 上越新幹線大宮~新潟開通

 

「週刊ポスト」1982(S57)年11月26日号は、「三条市は田中角栄、燕市は角栄直系・小沢辰男の選挙区だ。そこで角栄は自分の利権を確保すると同時に、小沢にもそれを分け与えるために、真ん中に駅をつくった」と報道。

 

1982(S57)年10月25日付毎日新聞は、駅長室が燕市側から三条市側に移し替えられたのではないかと燕三条駅長に質問するが、駅長は「そんなこと聞いていません」と回答。

 

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2022年8月28日 (日)

JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績及びその破綻処理

JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理 (1)

 私の「夏休みの自由研究」ということでw

(※「春休みの自由研究」で追記しましたw 2023.4.2)

JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理 (2)

 最近、四国新幹線の是非等がネット上を賑わせることがあり、「絶対赤字だ」とか「四国新幹線は地方創生の切り札だ」とか色んな声が出ているところ。

 しかし、その中で具体の数字があまり出てこない。

 本稿は、現行のJR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画上の輸送量と実際の輸送量のデータや建設の経緯等をご提示することで、皆様の実のある議論の一助になればという趣旨で作成したものである。

JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理 (3)  

 これは、国鉄の1972(昭和47)年の会議資料に登場する本州四国連絡橋公団(以下「本四公団」)作成の資料である。 

JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理 (4)  

 1970(昭和45)年段階では、本州四国連絡鉄道の輸送量は、旅客・貨物とも宇高航路の航送量の7~8倍と想定されていた。
 

JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理 (5)  

 当初の瀬戸大橋線の計画輸送量は御覧のとおりである。 

 ただし、これはAルート(神戸鳴門ルート)にも鉄道が敷設され、Aルートに114千人/日が分担される前提の計画輸送量である。
 実際には、Aルートには鉄道は敷設されなかった。
 では、Dルート(児島坂出ルート)のみに鉄道が敷設される場合の計画輸送量は存在するのか?
 

JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理 (6)  

 これは建設省と運輸省が1970(昭和45)年に作成した「本州四国連絡橋の経済効果(中間報告)」に掲載されている、本四架橋全体の輸送量等の開通パターンごとの一覧表である。
  元々は、Aルート(神戸・鳴門ルート)、Bルート(宇野・高松ルート)、Cルート(日比・高松ルート)、Dルート(児島・坂出ルート)及びEルート(尾道・今治ルート)の5ルートの調査が行われていたが、最終的に残ったのはA、D、Eの3ルートである。 

JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理 (7)  

 鉄道がDルート(児島坂出ルート)しかない場合は、旅客12万人/日、貨物10万トン/日という予測データが遺されている。 

JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理 (8)  

 では、計画と実績を比較してみよう。 

JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理 (9)  

 実際の瀬戸大橋線の旅客輸送量はこの表のとおりだ。 

 計画上は、神戸鳴門ルートに鉄道がない場合の12万人/日、神戸鳴門ルートに鉄道がある場合の5万人/日の想定に対して、実際には2万3千人/日を輸送している。
 

JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理 (10)  

 こちらは宇高航路と瀬戸大橋線の旅客推移だ。 

 出典はhttps://www.carf.e.u-tokyo.ac.jp/admin/wp-content/uploads/2020/06/zaisei6-material.pdf  

JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理 (11)  

 「瀬戸大橋線開業前後で比較すると、輸送量は約3倍になった」とも言えるし、「宇高航路のピークと瀬戸大橋線の現状はさほど変わらない」とも言える。
 いずれにせよ「7~8倍」という当初の予想にはほど遠い実態である。
 

JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理 (12)  

 ちなみに、四国新幹線の輸送量はどういう予測になっているだろうか? 

 四国新幹線が24千人/日、在来線(マリンライナー)が6千人/日となっている。
 新幹線を足しても瀬戸大橋線のピーク時とトントンにしかならない
 

出典は、http://www.shikoku-shinkansen.jp/topics/Pressrelease201403.pdf 
 

JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理 (13)  

 以上が、旅客輸送の計画と実績の差であるがもっと悲惨なのは貨物輸送である。 

JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理 (14)  

 こちらは、国鉄時代の宇高航路とJR瀬戸大橋線の貨物輸送量の推移である。 

 宇高航路のピークに比べて、瀬戸大橋線は21%しか運んでいないことが分かる。
 

JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理 (15)  

 瀬戸大橋線の貨物輸送量は、公団計画の約9万トン/日に対して、実績は約80万トン/年(約2千トン/日)である。
 「7~8倍」どころか、年間実績で計画の9日分しか運んでいないのが実態だ。
 

JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理 (16)  

 瀬戸大橋線輸送量の計画と実績の差をまとめると、こちらのとおり。 

  旅客は計画の20%、四国新幹線が出来ても計画の25%

  貨物は計画の2%にすぎない。

JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理 (17)  

 「オイルショック前の計画と現状を比較するのは適切でない」というむきもあるだろう。実際に国鉄はオイルショック後に輸送量の見直しをしているが、その数字も達成できなかった。 

JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理 (18)  

 どうしてこんなに計画と実績が違うのか? 

 オイルショック等の鉄道事業者の責任ではない情勢の変化もある。
 一方で、オイルショック後も国鉄の輸送需要の想定と実績は大きな乖離を繰り返してきた。
 この過大な予測に基づいた投資が焦げ付いたという面も否定できないのではないか。 

JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理 (19)  

 少なくとも本四架橋においては、運輸省と建設省が合同で調査を行っていたので、建設省の予測する関連道路整備計画やその交通量の計画を承知したうえで鉄道の将来計画を策定していたはず。
 なので、よく使われる「高速道路ガー」の言い訳は使えないはずで、むしろ当時の鉄道関係者は「本四架橋とそれに伴い道路整備計画を承知したうえで、それでも鉄道は7倍に伸びる。国鉄は高速道路に勝てる!」と強気の?計画をして大外れしたということなのだろうか?
 もちろんオイルショックやその後の低成長による景気の影響はあるが、それでも「貨物輸送量は計画の2%」とは。。。 

JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理 (20)  

 これだけしか運んでいない(=目論見通りの収入が上がっていない)のであれば、瀬戸大橋線の事業費の返済はどうなっていたのか? 

 本四架橋の当初費用負担スキームを確認しておく。 

 本州四国連絡橋公団→国や地方公共団体が出資。財投、縁故債等で借金して橋を建設。 

 道路→建設に係る借金返済及び維持管理に係る費用を本四公団の有料道路事業で賄う 

 鉄道→建設に係る借金返済及び維持管理に係る費用を国鉄からの利用料で賄う 

JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理 (21)  

 国鉄が本四公団に利用料として支払うはずだった瀬戸大橋線建設費の鉄道負担分500億円超/年は返済不可能に 

JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理 (22)  

 瀬戸大橋線の実際の収支にあてはめてみると 

 本当は、本四備讃線の「営業費」が27.8億円の他に約500億円増えるはずだったが、清算事業団による返済に。 

JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理2 (88)  

 本四備讃線=瀬戸大橋線の「営業係数」について、本来毎年本四公団→高速道路保有・債務返済機構へ支払うはずだった瀬戸大橋の本来の利用料500億円/年を加えてざっくりと試算したところ、「1647」と出た。

 100円稼ぐのに1647円の営業費がかかるということで、JR四国最低の予土線の1159より遥かに下回る不採算路線となる。 

 瀬戸大橋線を「JR四国のドル箱路線」と見るむきもあるが、「国民の負担のおかげでJR四国の収支上は黒字路線だが、ドル箱かというと激しくビミョー」とでもいうべきだろうか。

  

JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理 (23)  

 「本四公団債務」は、国鉄長期債務の一環として国鉄清算事業団が負担することに 

 本来は国鉄の鉄道収入から本四公団に返済すべきであった約0.7兆円を国鉄清算事業団に引き継ぎ。
(大鳴門橋の鉄道負担分も含む)
 これは、JR四国の経営安定基金約0.2兆円を大きく上回る額である。(JR四国への支援が足りないと主張する方でこの額に触れる人ってあまり見かけない。) 

JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理 (24)  

 JRへの貸付線の貸付条件等について、他の路線と比較してみる。 

 国鉄の分割民営化にあたってすべての公団線等が建設費の返済を免除されたわけではない。 

 「G本四架橋線」は建設費を返済していないことの改めての確認ということで。
(整備新幹線は「受益を勘案した額」であり、建設費を返済するわけではないことも分かる。)

 出典は「整備新幹線財源の持続可能性に関する法制的問題点の検討」楠木行雄・著
https://www.jstage.jst.go.jp/article/tpsr/15/3/15_TPSR_15R_11/_pdf/-char/ja  

JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理 (25)  

 一方、京葉線はJR東日本が400億円/年を返済中である。

 京葉線ほど利用客があっても、公団へ毎年400億円払うと赤字路線だという。

 出典は「京葉線東京地下駅建設」JR東日本 建設工事部土木工事課課長代理山崎隆司・著
 都市と交通1989年11月号34頁 http://www.jtpa.or.jp/contents/pdf/toshi18.pdf  

JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理 (26)  

 国鉄は、瀬戸大橋線には元々そんなに乗らないと知っていた。 

 国鉄では、1970(昭和45)年から新幹線建設委員会に「青函・本四連絡専門委員会」を設置し、本四架橋への鉄道の設置に係る諸課題を検討していた。
 1972(昭和47)年7月14日の同専門委員会に提出された「本四連絡架橋について(報告)では、「輸送量の想定」として、Aルートに新幹線、Dルートに在来線を設置した場合の輸送量について「本四公団の想定輸送量と比較すると」「旅客合計では約40%、貨物では約70%となっている。」としている。
 本四公団の鉄道担当者は鉄建公団や国鉄からの出向者によって構成されていたと思うのだが、どうしてこんなに違うのだろうか。。。 

JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理 (27)  

 国鉄四国管理局OBも瀬戸大橋線が大赤字となることを建設中から指摘していた。 

 国鉄四国鉄道管理局輸送長、新幹線総局営業部長、国鉄監査委員、国鉄顧問等を歴任した角本良平氏は、瀬戸大橋線の建設中の段階から、次のように指摘していた。
 なお、次頁にあげた講演は、運輸省(当時)関係団体でのものであり、聴衆も運輸行政・業界関係者が占めていると思われるが、この発言をとがめる問答は記録されていない。 

JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理 (28)  

「80年代で最後に怒る問題として本四架橋のレール問題があります。」 

「一体こういうことをすべきなのかどうか。」 

「これはまだやらないと言えば、それで400億円助かるのです。」 

「自分は乗らないけれども、建設するというのが国鉄投資である。そうしますと納税者としては踏んだり蹴ったりではないだろうか。」 

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 JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理 (29)

 ということで、ここからは国鉄の分割民営化にあわせて行われた瀬戸大橋線の破綻処理について説明していく。 

JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理 (30)  

 第二次臨調(中曽根内閣)での指摘 

 1982(昭和57)年5月17日 臨調第四部会報告「三公社、特殊法人等の在り方について」では、
  「進行中の大規模プロジェクト(青函トンネル、本州四国連絡鉄道)については、完成時点において、分割会社の経営を圧迫しないよう国は措置する」とされていた。 

JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理 (31)  

 臨調の答申で国鉄の民営化の方向づけがされた後に、国鉄再建監理委員会によってその在り方が具体化されていくのだが、 国鉄再建監理委員会は、瀬戸大橋線の建設中止を要求した。


「国鉄監理委、本四橋児島―坂出ルート「鉄道」中⽌提⾔へ。」
 国鉄再建監理委員会(亀井正夫委員長)は二十日、本州四国連絡橋三ルートのうち唯一の道路・鉄道併用橋である児島・坂出ルートの鉄道敷設工事をとりやめるよう中曽根首相に提言する方針を固めた。八 月初めに打ち出す「緊急提言」に盛り込む。これは、財政が悪化している国鉄は年間五百億円にものぼる 連絡橋利用料を負担する能力がないので、このまま敷設計画を進めれば、将来国鉄を分割・民営化する際の大きな障害になると判断したもの。
1983(昭和58)年7年21日付 日本経済新聞

 

JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理 (32)  


国鉄財政は膨大な赤字で“満身創痍(まんしんそうい)”。大半の路線が赤字で走ればそれだけ損する状態だ。四国総局管内の年間赤字額も五百二十億円を超える。瀬戸大橋の鉄道も赤字路線になるのは確実。それどころか年間約五百億円の連絡橋使用料を負担しなければならない。こういう事実を突きつけられると、瀬戸大橋も国鉄にとっては“お荷物”。監理委は「いくら経営立て直しのために知恵を絞っても、新しく赤字を生み出す事業を見逃していては……」というわけだ ろう。

 

1983(昭和58)年7年31日付 日本経済新聞(地域経済四国)

 

JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理 (33)  

 国鉄再建監理委員会「緊急提言」での瀬戸大橋線の扱いはどうなっていただろうか?

 1983(昭和58)年8月2日付の「日本国有鉄道の経営する事業の運営の改善のために緊急に講ずべき措置の基本的実施方針について」では、

「緊急度の高いものを除き、設備投資は停止すべき」とした。

JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理 (34)  

 一方で、中止も取り沙汰された本四連絡鉄道については 

 「国鉄以外の事業主体が行う国鉄関係の設備投資」→「本四公団が行う瀬戸大橋線の設備投資」について、中止ではなく「規模の抑制及び工事費の節減」にとどまった。

JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理 (35)  


 緊急提言がこんなに含みのある文章になったのは、政治的な配慮からだ。国鉄大手術に挑む監理委員会のメンバーにすれば、「これから新しい線路を敷くなどは論外」。東京駅乗り入れも、本四架橋の鉄道敷設も、国鉄再建にメドがつくまではいずれも工事中止を命令したいのが本音。ところが、監理委員会でこのふたつの大工事をめぐる論議が表面化するや、地元の自治体や関連業界から政治家などを通して猛烈な陳情攻勢が続いた。このため監理委員会としては、緊急提言の文章は中曽根首相に政治的な判断をゆだねるため含みのある表現にせざるを得なかったわけだ。
1983年8年19日付 日本経済新聞

JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理2 (72)  瀬戸大橋線の建設中止は何とか免れたが、議論の的となることを免れたわけではない。

 上に示したのは、国鉄再建監理委員会での議論の様子を報じた新聞記事である。

 再建監理委員会では、瀬戸大橋線の資本費(=建設費の返済等)については「分割民営移管後の新会社のどれにもこれだけ巨額の資本費を負担できる力はないと判断」し、「利用者に運賃の形式で負担を求める場合、現在の宇高連絡船の利用客実態からすると、本四架橋は1人1万円(片道)を徴収しなければまかなえないことが分かった」としている。

 そのうえで、最終的には「国民の負担に」することで意見は一致したという。

  

JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理2 (73)  この件は、当然その後の国会でも議論の的になっている。

 ここでは、算出根拠として宇高連絡船の利用者を「年間500万人足らず」としている。

 コロナ禍以前のJR瀬戸大橋線なら年間約800万人オーダーと思われるので、1万円ということにはならないが、ここでは便宜上「1万円」で統一したのでご了解いただきたい。気になる方は、ご自分で電卓をたたきながら読み進めていただきたい。

  亀井委員長は「その運賃の差額は、だれがどういう形で負担するか」「非常に難しい問題でございます」と答弁している。

  

JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理2 (74)  「誰がそういう形で負担するか」は、結局「国民が税金(本四公団から国鉄清算事業団へ債務が引き継がれ、その債務を税金で返済した)の形で負担する」こととなった。

 結局、その差分は、瀬戸大橋線を乗客が乗る度に、国民の税金から補助金をもらっているようなものである。

 これは、青函トンネルも同様である。

 「AB線」ならそれでいいんだが、「海峡線」はそもそもそういうスキームじゃないだろうよ。

 「そもそも本四の鉄道を事業化したときにはどういう判断をしていたのか?」については、後でまた触れてみたい。

 

JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理2 (75)  話は、脇道にズレるが、並行して「凍結されている明石海峡大橋の鉄道併設をどうするのか?」ということについても動きがでている。

 明石海峡大橋の鉄道部分については、(私が調べた範囲では)国鉄再建監理委員会では直接の議題にはなっていない(はず)が、「本四備讃線がこんな状況では、当時凍結されていた本四淡路線については望み薄だよなあ」という動きが出てもおかしくはない。

 当時の報道では、上記の亀井委員長の国会答弁の翌月に、山下運輸相が「運輸省としても、国鉄の現状を考えて道路単独橋として凍結解除の方向で検討」と記者会見で述べている。

  国鉄分割民営化の動きと明石海峡大橋の道路単独化については、同時期にパラレルに事態が進捗していたのだが、これについても後で触れてみたい。

 

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JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理 (36)

 国鉄再建監理委員会「最終意見」こと

1985(昭和60)年7月26日付の「国鉄改革に関する意見 ―鉄道の未来を拓くために―」では、本四架橋の鉄道施設についてはどう処理されることになったか?

JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理 (37)

 瀬戸大橋線(本四備讃線)の建設に係る資本費は、「今後とも経営主体となる旅客会社(=JR四国)に負担能力がない」ことから
「旧国鉄(=国鉄清算事業団)において処理する」
 瀬戸大橋線の建設に係る国鉄から本四公団への支払いについては、能力がないJR四国(=瀬戸大橋線の利用客)が払うのではなく、国鉄清算事業団が払う(=所謂「国民負担」)こととなった。
 これは青函トンネルとJR北海道の関係と同様であった。

JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理 (38)  

 ちなみにこれは国鉄再建監理委員会「最終意見」に添付された「処理すべき長期債務等の配分」である。 

 (6)本四公団建設施設に係る資本費負担 ①児島・坂出ルート 0.6兆円が、「新事業体(=JR各社)の負担するもの」ではなく「旧国鉄において処理されるもの」に分類されていることがお分かりだろう。 

JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理 (39)  

 こちらは国鉄再建監理委員会「最終意見」に添付されたJR四国の民営化前(昭和58年度)と民営化後(昭和62年度見通し)の収支状況である。 

 瀬戸大橋線の資本費を負担する能力がないことがお分かりだろうか。 

JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理 (40)  

 ここで、 〈北大立法過程研究会資料〉政府立法の制定過程ー国鉄改革関連法案を例にしてー
http://hdl.handle.net/2115/15596 から興味深い箇所を引用してみたい。
 井山嗣夫氏は、国鉄改革法案を担当した元運輸省官僚である。

JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理 (41)  

 井山氏は「JR北海道の区分域を青函トンネルの北海道側で切るのか、青森側で切るのかが問題」→「1兆円ほどの青函トンネル建設費を誰が負担するのかという問題に絡んでいる」と述べている。
  つまり、青函トンネルをJR北海道のエリアとするのかJR東日本のエリアにするのかという問題は、どちらが青函トンネルの建設費を負担するのかという問題だと。

 先に述べたように、国鉄の分割民営化に伴って鉄道建設公団線の建設費は一律免除というわけではなく、JR東日本は京葉線の建設に係る資本費として年間400億円を鉄建公団に支払っている。 

 他方、監理委員会最終意見では、経営主体となるJR北海道に青函トンネルの資本費の負担能力がないことから、「旧国鉄=清算事業団」が債務を引き継ぐ こととしている。

JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理 (42)  

 本四公団が建設した鉄道施設の建設費用は国鉄が負担する(=清算事業団が負担する)ということを定めた「国鉄改革法」は、1986(昭和61)年11月28日に成立している。
 

JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理 (43)  

 ちなみに同法第25条第1項に定める「引き続き行う業務以外のもの」とは、本四公団が建設した本四淡路線をいい、「本四淡路線建設のための本四公団の債務は国鉄が負担する(=清算事業団が負担する)ということをここで定めている。

JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理 (44)  

 青函トンネルや瀬戸大橋建設費分も清算事業団(国民)負担とすることへの批判はあった。ここでは国会での議員による質問だけ載せておく。 

JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理 (45)  

 ネットでは「青函トンネルはJR東日本が引き継ぐべきであった」といった声が聞かれることがあるが、JR東日本が引き継ぐと「経営主体に資本費の負担能力がないから清算事業団が債務を引き継ぐ」というストーリーが使えなかったということになるのだろう。
 これは、瀬戸大橋線とJR四国/JR西日本との関係も同様であったのだろう。
 JR四国が瀬戸大橋線を引き継ぐことと、「経営主体に資本費の負担能力がないから清算事業団が債務を引き継ぐ」というストーリーはセットであり、むしろ債務処理の観点からJR四国が瀬戸大橋線を引き継ぐこととなったとも読める。

JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理 (46)  

 JR四国のウェブサイトでも「瀬戸大橋線の加算運賃」の項で「建設費の回収を目的としたものではなく維持管理費を根拠にしている」と説明している。 

https://www.jr-shikoku.co.jp/04_company/information/seto.htm  

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JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理2 (47)  

 そんな税金じゃぶじゃぶの瀬戸大橋線に近年、新たに税金が投入されることになった。 

 JR四国の経営支援策の拡充として、「本四連絡橋更新費用支援」が追加されたのである。 

 上記の国土交通省記者発表資料に「JR四国に代わって」と書いている。

 本来はJR四国が負担すべき施設更新費用を、負担を見直して、鉄道・運輸機構(JRTT)が負担する=税金で負担するという新規支援策である。

https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001380813.pdf

JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理 (48)  


委員御指摘のとおり、本四備讃線は、開業から30年以上が経過し、鉄道施設を含む連絡橋の老朽化が進んでおり、今後、鉄道関係部分などの大規模な改修工事として年間約20億円程度の費用が見込まれますが、経営状況が厳しいJR四国にとって非常に大きな負担となり、経営を圧迫することが懸念されております。
 そこで、JR四国が負担することとなる本四連絡橋の鉄道関係部分の更新費用等につきましては、今後はJR四国に代わって鉄道・運輸機構が本四連絡橋の施設保有者である返済機構に支払うこととし、本法案においてそのための仕組みを設け、JR四国の負担軽減を図ることとしているところでございます。


2021(令和3)年3月25日参議院 国土交通委員会

 

JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理 (49)

 瀬戸大橋線の実際の収支にあてはめてみると 

 本当は、本四備讃線の「営業費」が27.8億円の他に約20億円増えるはずだったが、JRTTによる負担(=税金)に。 

 

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JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理 (50)

 では、500億円/年若しくは総額0.6兆円分の効果はあったのか?

 

 単独では計画する輸送量に満たなくても、500億円/年若しくは総額0.6兆円分の経済効果が瀬戸大橋線にあったのだろうか?
 実は本四架橋全体の経済効果といった数字は調べると出てくるのだが、鉄道部分のみの経済効果を扱った指標を調べたものの、私の力不足故、見つけることができていない。
 もしご存じであればご教示いただきたい。 

 道路を含めた本四架橋全体についてのものは、例えば下記のようなものがある。 

https://www.jb-honshi.co.jp/corp_index/company/booklet_disclosure/pdf/2021_booklet_disclosure_15.pdf 

JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理 (51)  

 ちなみに四国新幹線の経済効果は? 

 四国新幹線整備促進期成会の資料によると、169億円/年である。
http://www.shikoku-shinkansen.jp/index.html  本来国鉄が返済するはずだった瀬戸大橋線の建設費が500億円超/年なので、その1/3程度(もある?orしかない?)  

JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理 (52)  「処理済みの500億円なんか埋没費用にすぎないのだから、今更四国新幹線の経済効果と比較するのはおかしい」とおっしゃる方もいらっしゃるかとは思うが、まあ規模間の比較の目安ということで。

 

JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理 (53)  

 なお、四国新幹線整備促進期成会の資料によると、四国新幹線を載せるためには、更に50億円/㎞の追加投資を見込む 

http://www.shikoku-shinkansen.jp/topics/Pressrelease201403.pdf 

(平成4年の単価が今でもあてはまるのかは、また別の問題として。。。) 

JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理 (54)  

 こんな瀬戸大橋線について、建設にあたった本州四国連絡橋公団総裁だった山根孟氏は 

「役に立っていますよ。役に立っているけれども、投資に比べてどうかという話になると、なかなか大変ではないでしょうか。」
と語っている。 

https://kaken.nii.ac.jp/ja/report/KAKENHI-PROJECT-14350279/143502792005kenkyu_seika_hokoku_gaiyo/ 

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JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理 (55)  

 こんなことを書いていると、また「革洋同は、鉄道ばかり厳しいことを書く」と言われてしまうので、有料道路としての計画と実績の対比にも触れておこう。 

JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理 (56)  

JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理 (57)  

 さきほど、瀬戸大橋線の計画と実際の輸送量を比較した建設省・運輸省による計画交通量を実際の本四道路の交通量とを比較してみる。 

JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理 (58)  

 鉄道に比べて随分マシではないかと。 

https://www.jb-honshi.co.jp/corp_index/company/booklet_disclosure/pdf/2021_booklet_disclosure_12.pdf 

JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理 (59)  

 参考までに、本四間輸送における鉄道と道路の比率(旅客)を貼っておく。 

 本四道路のシェアは約2/3、JR瀬戸大橋線は約1割だ。 

 仮に四国新幹線ができた場合にどのくらい取り返せるものなのか。 

https://www.pref.ehime.jp/comment/030317_dourokensetsu/documents/vision_01-1_genjou.pdf  

JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理 (60)  

 輸送人員の数字が欲しいかたはこちらを。 

http://www.kanseto.jp/conference/pdf/20140911/01_doc1.pdfJR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理 (61)  

 本四間輸送における鉄道と道路の比率(貨物)もどうぞ。 

 本四道路のシェアは半分強、JR瀬戸大橋線のシェアは1%未満だ。 

JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理 (62)  

 なお、瀬戸大橋線と異なり、本四道路は料金から建設費を返済中である。 

 2019(平成31/令和元)年度実績で料金収入の約2/3が、高速道路保有・債務返済機構へ「道路資産賃借料」として支払われ、本四道路の建設費、借入金の利息等の返済にあてられている。

https://www.jb-honshi.co.jp/corp_index/ir/zaimu/pdf/r1kessan-3.pdf 

JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理 (63)  

 関心ないかもしれないけれど、道路公団民営化後の高速道路の債務返済の仕組みはこちら。 

https://www.jehdra.go.jp/pdf/kikopdf/pamph_2021_03.pdf 

JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理 (64)  

 とは言っても 

 ここでは詳しくは触れないが、本四道路も、過去に国等の巨額の支援策を受けている。


 関心のある方は、例えば下記を御覧いただきたい。
「本州四国連絡道路の計画及び実績について」
https://report.jbaudit.go.jp/org/h10/1998-h10-0525-0.htm  

「本州四国連絡道路に係る債務の返済等の状況及び本州四国連絡高速道路株式会社の経営状況について」
https://report.jbaudit.go.jp/org/h24/2012-h24-0887-0.htm  

「本州四国連絡橋公団の債務の負担の軽減を図るために平成15年度において緊急に講ずべき特別措置に関する法律」
https://www.mlit.go.jp/road/4kou-minei/pdf/2003/0501/030501a.pdf 

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JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理 (65)  

https://www.jr-shikoku.co.jp/04_company/information/shikoku_trainnetwork/4-2.pdfにおいて、 JR四国はこんな主張をしている。

 JR四国は、「鉄道とバス(道路運送)のコスト負担が不公平だ」と言いたいようだ。
 

JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理 (66)  

 ところで、先ほど、国鉄改革法における青函トンネル等の扱いと債務返済の関係において引用したhttp://hdl.handle.net/2115/16372において、国鉄改革法案を担当した元運輸省官僚である井山嗣夫氏は興味深い問答を残している。
 

JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理 (67)  

 JR四国の主張は、(運輸省としては)「既に廃れたもの」という認識であるというのだ。 

 昭和48年ころまで国鉄によって「イコール・フッティング論」として主張されたところであるが、実は道路建設費の大部分はガソリン税、自動車重量税等によってまかなわれているのであり、現在(※本稿は昭和55年のもの)ではその議論は廃れている。

 井山嗣夫

 

JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理 (68)

 イコールフッティング論を詳細に論ずる余裕はここではないが、
国鉄幹部だった谷田貝淑朗氏の「近代化の失敗―国鉄貨物輸送―」陸運経済新聞社発行
第1章第3節「イコールフッティング論」43~58頁に詳しく載っているので、ご参照あれ。

 

 いずれにせよ、JR四国の言う「鉄道とバスのコストの違い」のポンチ絵は、財務省も国交省も交通経済学者も「とうに終わった話で、まだそんなこと言ってるの」扱いと思われ。

JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理2 (86)

 JR四国の主張する「ポンチ絵」に、井山嗣夫氏のいうような税金やら有料道路料金を落とし込んでみた。

 JR四国は「所有」しか言っていないが、実際には税金や有料道路料金によって、バス会社は道路建設や維持管理にかかる費用を負担しているので問題ない(鉄道は不公平ではない)というのが、交通経済学者や上記井山氏のような官僚の見解である。

 公共交通をこよなく愛する方々にとっては、ご不満かもしれないが、現状そうなっている。

 JR四国では、自社で路線バスも運営しており、JR四国経営者の方々も、日々自社のバスが支払う税金や有料道路料金の存在をご存じのはずだが、それは一体何に使われているのかご存じないのだろうか?

(そんなことは知っていて、それでは格好がつかないので「所有」だけ書いたのかもしれないが。)

 

JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理2 (87)

 それを言うなら、JR瀬戸大橋線だって線路等の施設はJR四国は所有せずに、「車輛」のみを所有して「運行」しているんですけどね。

(なお、バスと違って、JR四国は瀬戸大橋線の建設費は負担していないので、バスよりJR四国の方が有利である。)

 「保有しているので、所有しない費用負担に比べて、参入・撤退のハードルが高い」というのなら分かるのだが。

 

JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理 (69)

 瀬戸大橋に係る道路と鉄道の費用負担はこんな感じである。

 JR四国の資料にはこれは出てこない。

JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理 (70)  

 「瀬戸大橋線は、通常のJRより100円ちょっとしか余計に払わないのに、どうして本四道路はNEXCOの高速道路よりもこんなに高いの?」
という問いに対しては、端的には
「本四道路は料金に建設費の返済分が含まれているけれど、JR瀬戸大橋線は、国鉄民営化時に建設費は全部税金で返済することになったのでJRの料金に建設費の返済分が含まれていないから」
と言える。それだけ当初計画時よりも瀬戸大橋線の方が競争条件は本四道路に対して有利なはずなのだが、利用は伸びていないのが実態である。。
 

 

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■そもそも本四架橋を造ったのが間違い??

JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理2 (76)

 運輸省事務次官という運輸官僚のトップ経験者として、国鉄再建監理委員会の委員に就任して国鉄分割民営化の具体化に尽力し、JR東日本の会長等を努めた住田正二氏が、1997年になってから

 「本来採算がとれない青函トンネルや本四連絡橋を財投で造ること自体が間違いであり、造るとすれば全額国費で建設すべきであった」

と発言している。

 財投とは、財政投融資(郵便貯金等を特殊法人等に貸し付ける)であり、国費とは、国の税金である。

 こう書くと、公共交通をこよなく愛する方々は「やはり鉄道財源が必要だった」とピーチクパーチク囀りそうだが、実際にはそんな財源は存在しないのだから、どうするのか?

 なお、財投という借金で先に造ってから料金等で借金を後から返済するので、早く建設できるのだが、税金で建設するとなると、そうはいかない。税金のつく範囲のなかで、チビチビと造り続けるしかない。

 (有料(=財投の借金)による高速道路と、無料(=税金)による街中のバイパスの建設スピードの差を想起されたし。)

JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理2 (77)

 ところで、本四架橋の事業化に先立って、運輸省と建設省は連名で、「本州四国連絡橋の経済効果」を公表している。

 そこでは採算性について触れており、「30~40年以内に償還可能」としている。

 「償還可能」というのは、ザクっというと、「財投等で借りた借金は返済可能」ということだ。

 運輸官僚のトップだった住田氏が「本来採算がとれない本四連絡橋を財投で造るのが間違い」というなら、この運輸省の「償還可能」というのは何だったのか?

 インチキ??

 

JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理2 (78)

 余談だが、住田氏によると、青函トンネルの採算性はこんな感じで処理されていたそうで。

 最近、国防上の理由から北海道の鉄道を再国有化すべきと唱える方もいらっしゃるが、こういう経緯を共有していらっしゃるのだろうか?

 

JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理2 (79)

 国鉄最後の総裁となった元運輸官僚の杉浦喬也氏は、国会答弁において、本四鉄道施設に係る負債について

「なかなか大変な負債ではございますが、いずれ使用料を払って国鉄が使うことを覚悟の上での作業であったと思います」

と答弁している。

 運輸省は償還可能とは公表していたが、実際の運輸官僚としての杉浦氏は、「なかなか大変な負債」を「覚悟の上の作業であった」というのだ。

 ところで、「作業であった」とは、おもしろい答弁である。

 杉浦氏は一体何を「作業」していたのだろうか?

 

JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理2 (80)

 先に紹介した運輸省の「本四架橋の経済効果」であるが、これを公表した際の運輸省鉄道監督局国鉄部財務課長が杉浦氏であった。

 つまり、監督官庁側の国鉄財政に係る実務責任者だったのである。当然本四鉄道の採算性についてもガッツリ「作業」していたであろうと推測される。

 そして、「本四経済効果」に先立つ1970(昭和45)年2月19日に決定された、所謂「国鉄再建10カ年計画」も担当していた。

 「時の法令」という法律解説雑誌には、「国鉄再建10カ年計画」に係る杉浦財務課長自身の署名記事で「これにより国鉄は経営の危機を脱し、償却を含めてほぼ経営は安定するものと期待される」と記している。

 しかし、その裏では本四の「大変な負債」について「覚悟の上での作業」していたというのだろうか?

 なお、住田氏は当時運輸省官房文書課長であった。

 文書課長というと、契約書等の「てにをは」を直したり、公印を管理したりという「庶務」的なお仕事をイメージするかもしれないが、中央官庁が管理する文書は「法律」である。法律の中身が分かるためにはそれぞれの政策を理解していなくてはならない。

 実際には、形式的な「文書」事務に留まらない、各省内の筆頭課長が文書課長であり、同世代の事務次官レースのトップを走るエース中のエースが就くポストである。

 実際に住田氏は運輸事務次官に就任することになるわけだ。

 その住田氏が、官房文書課長時代に「本四経済効果」を公表しているのだから、運輸省全体の重要施策として相応に関与していることは容易に推測できる。

 

JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理2 (81)

 1970年当時の運輸省では、住田文書課長と杉浦国鉄部財務課長が

「東海道新幹線開業後国鉄は赤字になったが、今度開始する国鉄財政再建10カ年計画で経営は安定します」

「今後取り組む全国新幹線網も青函トンネルも本四架橋も採算性を確認しながら取り組みます」

 
と、大蔵省や関係政治家に説明して回ったはずである。

 
(それで納得しないと大蔵省は予算を出さない)

 
 それが15~20年しかたってない時期に「採算が取れないので造ること自体が間違い」とか「大変な負担を覚悟の上の作業だった」とか公言するかなあ。

 なんなのそれ?

 

 先に角本良平氏(鉄道省=運輸省では住田氏や杉浦氏の先輩にあたる)が 

「納税者は踏んだり蹴ったりではないだろうか」 

と書いていることを紹介したが、運輸省の実務責任者にそんな裏話をされても、納税者としてはどうせよというのか? 

  

 住田氏はその時期に「そうとでも書かないと、JR東日本に国鉄債務の追加負担が回される」という危機感から露悪的に書いたのだろうが(「運輸と経済」の読者のうち相当の割合は、住田氏の味方だろうし)、ツケを回された納税者としては、「踏んだり蹴ったり」である。 

 

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■瀬戸大橋線の破綻処理と明石海峡大橋の鉄道建設断念の関係

 ところで、この観点から物を書いたりしているのはレアだと思うので、若干脱線気味だが、着工後に赤字が問題になった本四備讃線(瀬戸大橋線)と異なり、着工前に鉄道が断念された明石海峡大橋の本四淡路線とは当時どのように関連していたかを補足として説明しておきたい。

 

JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理2 (82)

 「なかなか大変な負債」と杉浦総裁が答弁した本四備讃線(Dルート)に対して、当時「凍結」中だった本四淡路線(Aルート)は、「本四架橋経済効果」公表直前の1970(昭和45)年3月段階の国鉄社内会議資料では、「鉄道側投資額(概算)」は、約2倍を要することとされていた。

 なお、道路と鉄道の建設費の按分については、実際には「道路と鉄道の荷重比」とされたので、上記の表よりも、鉄道の負担割合は多くなっている。

 

JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理2 (83)

 オイルショックで全ルートの工事が凍結されたものの、優先的に凍結解除されてまがりなりにも工事が進んでいた瀬戸大橋に対して、国鉄分割民営化の議論の際には、明石海峡大橋は凍結されたままだった。

 というか臨調で「凍結」のダメ押しをされていた状況ですらあった。

 関係者は何とか「凍結」解除できないか動いていたわけだが、「膨大な赤字を抱えた国鉄の財政事情」において、瀬戸大橋(本四備讃線)の「なかなか大変な負債」に加え、明石海峡大橋(本四淡路線)の「その倍の大変さの負債」を背負い込ませるわけにもいかず、このままでは明石海峡大橋の「凍結」解除に向けて鉄道が「足かせ」になってしまうというのである。

 

国鉄民営化と明石海峡大橋の経緯

 先に、山下運輸大臣の「国鉄の現状からみて明石海峡大橋は道路単独になる」という発言を紹介したが、

 上の表のうち、朱色で塗った部分が明石海峡大橋(本四淡路線)関係部分である。

 臨調や国鉄再建監理委員会の議論と並行して、「明石海峡大橋の鉄道部分をどうするか」という議論が進められていたことが分かる。

 

 鉄道オタクが言うような「予算不足で明石海峡大橋に鉄道ができなかった」「瀬戸大橋線で発揮される鉄道の効果を予期できないまま明石海峡大橋の鉄道を断念した」のではなく、「瀬戸大橋線(本四備讃線)が、どうしようもない赤字が予想されるので、そのケツを拭くのが大変だったから、その処理を見ながら同時並行的に明石海峡大橋の鉄道(本四淡路線)をやめた」のである。

 「予算不足」なら、それこそ財投で借金して返すことだってできるのだが、住田氏のいうように「不採算路線を財投で造ることは間違い」なのであろう。

 

 山下運輸相の「国鉄ギブアップ宣言」を受けて、 1985(昭和60)年7月に兵庫側から河本敏夫特命相(河本派の領袖)、徳島側から後藤田総務庁長官(田中派ながら、中曽根首相の懐刀。中曽根行革の実行部隊も担当)という実力者、そして木部建設相が会談し、「明石海峡大橋の道路単独化」が方向づけられたのだろう。

 ネットでは「ハラケン(淡路島も地盤としていた原健三郎氏)のせいで鉄道ができなかったのが悔やまれる」という人もいらっしゃるが、ハラケンは所詮「陳情する側」の人であって、「政策決定する大物」ではない。

 このときは、河本氏と後藤田氏に地元代表としての実権があったということなのだろう。

 元々明石-鳴門ルートの徳島側実力者は三木元首相で、三木氏は「鉄道派」だったが、このときは、既に「行革派」の後藤田氏に実権が移っていたということだろうか?

 三木氏と神戸-鳴門ルートの鉄道との関係が気になる方は

 「本四橋・大鳴門橋への四国新幹線架設は本来中止するはずが徳島の政治家が復活させた?」

 http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/09/post-5277.html

 もあわせてどうぞ。

 

 また、ネット等では「ハラケンにもっと権力があれば淡路島にも鉄道ができたのに」と悔やむ人も見かけられるが、ハラケン個人としては元々「神戸-鳴門ルートに鉄道不用派」なので、「ハラケンにもっと権力があればもっと早く鉄道をやめて明石海峡大橋が早く開通できたのに」と悔やむのが正解ではないかと思う。 

 

JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理2 (84)

 参考までに、明石海峡大橋の道路単独化が決定されたときの地元紙で紹介された「喜びに沸く関係者」の声から一つだけ添付しておこう。

 

JR瀬戸大橋線(本四備讃線)の計画と実績と破綻処理2 (85)

 明石海峡大橋が本題ではないので、まあこの辺で。

 

 更にご関心があるかたは、私のブログの他の記事もご参考まで

 「明石海峡大橋に鉄道が建設されなかった経緯等」

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-98f1.html

 

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2022年3月27日 (日)

1980年代に計画された東海道・山陽新幹線の夜行列車とは?~神戸新聞・小川晶記者の記事を読んで~

 

 神戸新聞 小川晶記者が「幻の「夜行新幹線計画」、政治家の影響力…兵庫県内に4駅集中の謎を調べて分かったこと 山陽新幹線開業50年」という記事を書いておられる。

 

 私も夜行新幹線については、以前「夜行新幹線と兵庫県内の新幹線駅の関係が2頁読めばすぐ分かる国鉄課長の報文」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2021/04/post-38f110.htmlという記事を書いている。

 

 ところで、小川晶記者の記事で、こんな興味深い指摘があったのだが、少なくとも私がネットで見た範囲ではあまり関心を呼んでいないようだ。


 80年ごろには、午前0~6時は新大阪-岡山間で停車させ、時間待ちする代替案も出たが、国鉄改革が叫ばれる中でのアドバルーン的な要素が強かったという。

 

幻の「夜行新幹線計画」、政治家の影響力…兵庫県内に4駅集中の謎を調べて分かったこと 山陽新幹線開業50年

https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/202203/0015135737.shtml

 神戸新聞 小川晶記者

 「午前0~6時は新大阪-岡山間で停車させ、時間待ちする代替案」とは何か?

 国鉄の当時の資料からご紹介したい。

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 国鉄の大阪工事局が「だいこう」という記録を毎年発行していた。

 それの1982年に発行された28巻?(号?)「新幹線のモデルチェンジについて」(調査課・ 紫合幹男 ; 増田敏夫・共著)という報文が掲載されているのだが、ここにその「代替案」の経緯等が掲載されている。

 まずは、その構想が出された経緯を紹介しよう。


 又、将来を含めた長期的展望に立った輸送改善、イメージチェンジを計るため「新幹線輸送改善研究会」が設置され、昭和56年2月に中間報告された。 

  

「新幹線のモデルチェンジについて」国鉄大阪工事局 調査課・ 紫合幹男 ; 増田敏夫・共著 

 この「新幹線輸送改善研究会」では、夜行新幹線計画以外に幾つかの「輸送改善」の項目があげられている。この報文では「大阪工事局に関連する施策について述べる」としているので、当該研究会では、他にも施策があったと思われるがここでは触れるだけの資料を有していない。 

 

(1)6-4ダイヤ 

 ア.「ひかり」の需要

 当時の東海道・山陽新幹線の基本ダイヤパターンは、1時間に「ひかり」5本、「こだま」5本だったものを、利用率等に鑑み、「ひかり」6本、「こだま」4本に変更しようとするものである。これは実施されている。 

 

 イ.停車駅パターンの多様化

 「ひかり」の増発にあわせて、新横浜、静岡、浜松等への「ひかり」の停車駅を増やすものである。これも実施されている。

 

 ウ.居住性の改善

 新幹線の新型車両には、普通車5列固定リクライニング座席が投入され居住性がいくらか改善されたが、飛行機との競争等を踏まえて、より居住性が優れた4列座席を検討するというものである。これは実施されなかった。

 なお、このためにも「ひかり」を毎時6本にする必要があったとしている。

 

(2)系統分割

 輸送障害が発生した場合の復旧の迅速化を図るため、新大阪発着の列車を設定する。

 

(3)「こだま」編成の14両化

 「こだま」の輸送力を適正化するために、編成長を縮小するもの。これは、実際には1985(昭和60)年に12両化されている。

 

(4)個室列車

 ようやくおまちかねの夜行新幹線「代替案」の登場である。

 

 


(4)個室列車

 新幹線のモデルチェンジの核の一つとして、新しい新幹線需要を創造するため夜行個室列車を設定する。

 ア.現在の在来線利用の夜行列車の発着時間帯では、旅客のニーズに十分適合出来ないので、新幹線の高速性を生かし、航空機の最終便より遅く出発し、始発便より早く到着するダイヤとし、概ね24時から翌朝6時迄は、夜間の騒音、振動及び保守間合を考慮して途中駅(京都、新大阪、姫路の予定)で熟睡停車する

 イ.東京~博多間3往復の列車計画とし、新幹線個室列車の輸送力に見合った在来線夜行列車は廃止する

 

「新幹線のモデルチェンジについて」国鉄大阪工事局 調査課・ 紫合幹男 ; 増田敏夫・共著

 

 神戸新聞の小川晶記者は「新大阪-岡山間で停車させ」と書いているが、 「新幹線輸送改善研究会」であげられた施策では、「途中駅(京都、新大阪、姫路の予定)で熟睡停車する」としている。京都はどこへいった。

 

 まあ、私が紹介している記事では「中間報告」とされているので、最終報告とは中身が違うかもしれないしな。

 また、神戸新聞の小川晶記者は「国鉄改革が叫ばれる中でのアドバルーン的な要素が強かったという。」と書いているが、 「新幹線輸送改善研究会」であげられた施策(のうち大阪工事局関連のもの)は、普通車の4列化と個室夜行新幹線以外は実現している。

 なぜこの個室夜行新幹線が実現できなかったのかという理由が分かる資料は、私はまだ見つけられていない。 

 


 夜行新幹線計画の前提だった東京-博多間は、75年3月に全線開通した。しかし、ある鉄道ジャーナリストは「この頃には既に、計画の実現が難しくなっていた」と指摘する。新幹線の設備にトラブルが続発し、国鉄は改善に追われる一方、ストライキや相次ぐ値上げによる客離れなどが進んだためだ。

 新幹線の騒音も社会問題化。75年7月、環境庁(当時)が午前6時~深夜0時という運行時間を前提とした環境基準を定めたため、計画は事実上、不可能となる。80年ごろには、午前0~6時は新大阪-岡山間で停車させ、時間待ちする代替案も出たが、国鉄改革が叫ばれる中でのアドバルーン的な要素が強かったという。

 

幻の「夜行新幹線計画」、政治家の影響力…兵庫県内に4駅集中の謎を調べて分かったこと 山陽新幹線開業50年

https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/202203/0015135737.shtml

 神戸新聞 小川晶記者

 

 小川晶記者の「という」という伝聞調のネタの根拠が気になって調べてみると、小川晶記者は以前にこんな記事を書いている。


 計画の前提だった東京‐博多間は75年3月に全線開通。しかし、鉄道ジャーナリストの梅原淳さん(46)は「計画は70年代半ばには難しくなっていた」と指摘する。新幹線の設備にトラブルが続発し、国鉄は改善に追われる一方、ストライキや相次ぐ値上げによる客離れなどが進んだためだ。

 新幹線の騒音も社会問題化。75年7月、環境庁(当時)が午前6時~深夜0時という運行時間を前提とした環境基準を定めたため、計画は事実上、不可能となる。

 80年ごろ、午前0~6時は新大阪‐岡山間で停車させ、時間待ちする代替案も出たが、梅原さんは「国鉄改革が叫ばれる中でのアドバルーン的な要素が強い」とする。

 

兵庫に4駅集中なぜ?幻の「夜行新幹線」計画

https://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/0004886555.shtml

 神戸新聞 小川晶記者

 

 2012年に取材した記事では、ネタ元を梅原淳氏に取材した旨を明記しているのだが、今回は「ある鉄道ジャーナリスト」としか書いていない。何か理由があるのだろうか?

 

 「国鉄改革が叫ばれる中でのアドバルーン(梅原淳=小川晶)」 なのか「将来を含めた長期的展望に立った輸送改善、イメージチェンジ(国鉄大阪工事局)」なのかは、読者諸氏のご判断にお任せしよう。

 

 なお、やたらと国鉄の労使のせいにする論調が一部にあるのだが、これって本当にエビデンスがあって言っているのだろうか?

 国労や動労のせいにしておけばとりあえずOKみたいな傾向ってないですかね?

 2ちゃんねるならともかく、新聞記事としてのエビデンスは大丈夫なんですかね?

 神戸新聞のデスクがOK出しているんでしょうけど。

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 JR姫路駅の新幹線ホームに立つと、東京方面と博多方面で乗り場の数が違うことに気付く。東京方面は11番線だけだが、博多方面は12、13番線と二つある。大半の列車は12番線に発着し、13番線を使用するのはごくわずかしかない。

 この13番線は、事故などの非常時に車両を留め置く待避場所として設けられたとされる。一方で、1972年3月の開業に合わせて国鉄が発行した工事誌には「夜行列車の待避線として設備された」と明記されている。

 

幻の「夜行新幹線計画」、政治家の影響力…兵庫県内に4駅集中の謎を調べて分かったこと 山陽新幹線開業50年

https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/202203/0015135737.shtml

 神戸新聞 小川晶記者

 

 小川晶記者は「この13番線は、事故などの非常時に車両を留め置く待避場所として設けられたとされる。一方で、1972年3月の開業に合わせて国鉄が発行した工事誌には「夜行列車の待避線として設備された」と明記されている。」としているが、私のイメージでは、「13番線は、事故などの非常時に車両を留め置く待避場所として設けられた」と主張しているのは、私のブログくらいで、メジャーな意見は「夜行列車の待避線として設備された」という方だと思ったのだが。。。

 ちなみに小川晶記者が2012年に書いた記事では「この13番線は、事故などの非常時に車両を留め置く待避場所として設けられたとされる。」に該当する部分はない。この10年間に何かあったのだろうか?

 

 参考までに、私が以前書いたブログで参考にした国鉄職員による記録を再掲しておく。

 

夜行新幹線と山陽新幹線兵庫県内の駅 (12)

「山陽新幹線停車場関係資料集」77頁から

 

 なお、東海道新幹線の実績にもとづき、事故時における運転整理などのため、姫路駅には開業当初より下り待避2番線を設置することにしている。

 

夜行新幹線と山陽新幹線兵庫県内の駅 (10)

「山陽新幹線の計画について」佐藤康 「停車場技術講演会記録」第18回318頁から

 

 「1.姫路駅が5線になっているのは下り退避2番線を事故時の留置線としているため。」

 

 整理するならば、「姫路駅の下り13番線は、夜行新幹線運行の際の退避として計画されたが、それは姫路駅の上り線や相生駅にも同様の計画があった。姫路駅の13番線だけ完成しているのは、夜行新幹線の運行のためではなく、事故時における運転整理などのためである。」といったところか。

 

 なお、上記の「だいこう」「新幹線のモデルチェンジについて」の報文において、姫路駅の上り退避線について触れられている。


5 大阪工事局のプロジェクト

 (3)姫路駅着発番線増設

 輸送障害対策として、異常時における中間駅列車抑止能力向上及び個室列車の夜間停車に対応するため、上り2番線を増設する。

 

「新幹線のモデルチェンジについて」国鉄大阪工事局 調査課・ 紫合幹男 ; 増田敏夫・共著

 

 ご存じのように、この姫路駅着発番線増設も実施されていない。

 

 

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 最後となるが、小川晶記者の記事の本題であろう「相生駅は河本敏夫の政治駅か?」というネタについて。

 小川晶記者は、当時の「河本さんが『落とし前』をつけさせた結果」という話も踏まえつつも「夜行新幹線のために必要だった」ということで決着させようとしているように思える。

 

 ところで、小川晶氏の2012年の記事にも出てくる「山陽新幹線技術基準調査委員会報告」は私も読んだことがある。

夜行新幹線と山陽新幹線兵庫県内の駅 (15)

 この中で、夜行新幹線のために検討を行った記録が残されている。

夜行新幹線と山陽新幹線兵庫県内の駅 (13)

 この昭和41年2月28日付の「営業運転分科会」の資料で夜行新幹線が離合するための条件を検討している。

 

 そこでは四つの案が提出されている。

第1案

夜行新幹線と山陽新幹線兵庫県内の駅 (14)

第2案

夜行新幹線と山陽新幹線兵庫県内の駅 (16)

第3案

夜行新幹線と山陽新幹線兵庫県内の駅 (17)

第4案

夜行新幹線と山陽新幹線兵庫県内の駅 (18)

 

 そこで当初の複数案の中から採用されたのが、この「第1案」なのだ。

夜行新幹線と山陽新幹線兵庫県内の駅 (19)

 下記に再掲した第1案の赤く囲った部分を見てほしい。

夜行新幹線と山陽新幹線兵庫県内の駅 (14)

 新大阪駅の次の「ニ」駅は新神戸駅であろう。そして「ホ」駅は西明石駅。「B」駅は姫路駅だ。

 実は、当初の夜行新幹線の離合のために新大阪~岡山駅間の駅配置案では、「へ」駅の相生駅を含む案は採用されていなかったのである。

 

 実際には、検討を進めていくと「新神戸駅には離合のための配線をする余地はなかったので相生駅を追加してその役割を果たさせよう」となったと考えるのが自然なような気がするが、「河本さんが『落とし前』をつけさせた結果」相生駅が入っている案に変更することにしたというストーリーも否定できなかったりして。。。(陰謀論終わり。)

 

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2022年3月23日 (水)

2022年 ベイスターズの順位予想は如何に!?

 あけましておめでとうございますw。

 去年から6本ほど書きかけの記事をあたためながら全く成果品にならない革洋同です。

 

 リハビリも兼ねて、「2022年 横浜DeNAベイスターズの順位予想は如何に!?」

 まあ、スポーツ新聞のウェブサイトからのコピペなんですが。

 リハビリなので許して。

 青色は、大洋ホエールズ、横浜ベイスターズのOB及び入閣経験ありの解説者である

 

≪1位予想≫

 森繁和中村武志、梨田、緒方孝市、桧山、宮本慎也、上原、森本高木豊、遠藤一彦、阿波野、今中、野村謙二郎、中田良弘、黒木

 

 

 

≪2位予想≫

 中畑、和田一浩、藤田平、小山正明、金村、野口寿浩、亀山つとむ、大友進、狩野恵輔、岡崎郁、達川

 

 

 

≪3位予想≫

 東尾、中西太、一枝、篠塚、佐藤義則、安藤統男、清水隆行、飯田哲也、五十嵐亮太、石原慶幸、須藤豊、安仁屋宗八、岡義朗、関本四十四、若生智男、池田親興、井端

 

 

 

≪4位予想≫

 有藤、田淵、広瀬、森祇晶、西本聖、大石、田村藤夫、谷繁、平松、斉藤明雄、野村弘樹、建山、里崎、谷佳知、掛布、福本、赤星、真中、村田真一、宮本和知、高橋由伸、関本賢太郎、大野豊、伊勢孝夫、得津高宏、柴田勲、斉藤雅樹、大久保博元、松中信彦

 

 

 

≪5位予想≫

 牛島、大矢、槇原、吉田義男、山田久志、中西清起、佐々木主浩、浜名、今岡、鳥谷、岡田、堀内、藪、岩瀬、彦野、川又、江本、山崎武司、岩本勉、若松勉、伊原春樹、前田幸長、

 

 

 

≪6位予想≫

 張本、伊東勤、権藤、真弓、岩田稔、金本、G.G.佐藤、山本昌、鈴木啓二、広沢、大下剛、宇野勝、加藤伸一、谷沢、笘篠

 

★予想以上にBクラス予想が少ない。というか予想以上に1位予想が多い。それもカープの監督経験者とか阪神OBとかの「忖度系」の解説者からの1位予想が多い。当たるとよいなあ。

 

 がんばれ、ハマの牛若丸!

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2021年9月26日 (日)

川島令三が「奥羽新幹線用地と確信する」と述べる福島市の森合緑地の登記簿を取ってみた。

福島市内の、東北新幹線が福島駅を出て北上するとすぐの市街地に「森合緑地」という緑地帯がある。

 

 で、下記のようなツイートが見受けられるところである。

 こういうことを言い出すのは、川島令三だろうと思ったみなさん。ビンゴです。

【川島令三】全国未完成鉄道路線

川島令三が福島の森合緑地を奥羽新幹線予定地だと言っている

「【新説】全国未完成鉄道路線」川島令三・著 講談社・刊152頁から


 本来の奥羽新幹線は、福島駅を出てしばらく東北新幹線と並行、上り線が高くなって東北新幹線と立体交差し、そして別れると想定していた。そのために盛岡駅寄りには少しの距離だが、複々線にできる構造があるはずである。

 そこで福島駅を降りて東北新幹線に沿って歩いてみた。そうすると、福島駅から東北新幹線信夫山トンネルの手前まで、高架線に沿って両側に緑地があるのがわかった。やはり、奥羽新幹線分岐用用地を確保していたのである。この用地は森合緑地となっている

 そこで、付近を散歩している人に、「この緑地はいつからあるのか」と聞くと「開通してからずっとある」との返事、なんであるのかと再び聞くと「騒音防止のための緑地ですかね」という。国鉄はまったくなにもいわなかったから、そのように思われているのである。

 しかし、これは奥羽新幹線と東北新幹線とが複々線でトンネルまで進むための用地と確信する。緑地帯の両側には側道がある。これは市街地の高架線の両側に側道を設置しなければならないことから設けられたもので、分岐合流する新幹線駅以外には、側道はあっても緑地帯はない。

 通常、新幹線の分岐合流駅などで用地を確保した場合は、雑草が生えるにまかせて放置されているが、福島駅では緑地帯になった。奥羽新幹線は、もうできないと考えられているからである。

 

「全国未完成鉄道路線」川島令三・著 講談社・刊154~155頁から

 で、まずは福島市森合町内の東北新幹線が走る部分の公図をお見せしよう。

奥羽新幹線予定地と川島令三が言っている森合緑地の公図

 72-1が東北新幹線で、72-7と68-6がその両脇の森合緑地である。

 もし、ここを今後とも奥羽新幹線予定としているのであれば、そこはJR東日本なり、鉄道整備機構なりの名義の土地であるのが自然だろう。

 68-6の登記簿をお見せしよう。

奥羽新幹線予定地と川島令三が言っている森合緑地の登記簿

 当初は鉄道用地だったが、1997(平成9)年に東日本旅客鉄道から福島市に売却され、現在は公園用地となっている。

 「平成9年なら山形新幹線開業後じゃねえか、山形新幹線ができたから奥羽新幹線用地としては用無しになって福島市に売却したんじゃねえの?」

という声もあろうかと思う。

山形新幹線経緯

https://www.city.sakata.lg.jp/shisei/shisakukeikaku/kikaku/tetsudo_kosoku/shinkansen-enshin.files/enshin-2.pdf

 上記は、山形新幹線の建設経緯だ。

 ところで、都市計画図を見てみる。

奥羽新幹線予定地と川島令三が言っている森合緑地の都市計画図

https://www.sonicweb-asp.jp/fukushimacity/map?theme=th_13#scale=1875&pos=140.46015085522194%2C37.76496067252871&feature=5017(th_13)%3A2285930

 森合緑地は、1981(昭和56)年12月15日に都市計画緑地として都市計画決定されている。

 東北新幹線の大宮~盛岡間の開通が、1982(昭和57)年6月23日だから、新幹線開通の半年前から、森合緑地は公園になることが決まっていたのである。

 山形新幹線の経緯等ほとんど関係ないと言っていいだろう。

 

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 ところで、ネタバレになるのだが、当時東北新幹線建設に従事した国鉄職員が建設業界誌にこんなことを書いている。


 東北新幹線は昨年三月に上野乗入れが実現し、ほぼ建設が完了した。昭和四十六年に着工して以来、実に十四年近く要したこととなる。

 私は前半の六年半にわたり建設工事に関与させていただいたので、この間の若干の思い出と感想を述べてみたい。

(中略)

 私は昭和四十八年の秋に福島県下約九十キロの建設工事を担当することとなり、本社より仙台新幹線工事局福島工事事務所へ転勤になった。

(中略)

 話は変わるが、福島駅を挟む前後約二キロの区間は、現駅に新幹線を併設した関係で密集した市街地を通過することとなった。特に北部の信夫山までの間は閑静な住宅地となっており、この地区を新幹線が高架で通過することに対して大反対があった。当時、大宮附近でも同様な問題が起きていたようであるが、新幹線歓迎ムードの東北地方で、最も地元との話し合いが難航した地区の一つといえよう。ルートを地下に変更することが当初の要求であったが、事実上不可能なことを何回となく説明すると同時に、騒音、振動対策として可能な限りの手を尽くすことで協議を進めた。御承知のように新幹線の騒音、振動は線路から離れるとともに急速に減すいすることから、線路の両側にそれぞれ五十メートル程度の緩衝地帯を設けることは止むを得ないが、線路幅の五倍もの土地を無条件で買収することは許されないため、次のような考え方をとることとした。

(1)線路と交差する街路は交差個所数を集約して構造物の経費を節減し、線路沿いに付け替え道路を設けることとした。

(2)線路の両側に四メートルの工事用、保守用道路を設けることとした。

(3)前記以外の用地は自治体に負担してもらうこととし、緩衝地帯についての街路及び公園等としての整備を都市計画事業としてお願いすることとした。

 このようにして地元の要望を踏まえ、自治体の絶大な御協力を戴いた御蔭で、円満に工事が進められることとなった。

(中略)

 このような経験から、今後の新幹線建設にあたって、市街地の線路は都市計画との調整が必要不可欠の条件として考えられ、むしろ都市計画事業により線路敷を生み出す方が望ましいと考えている。

 

「東北新幹線のこと」 日本鉄道建設公団・計画部長(当時)安原 明・著 「建設業界」1986(昭和61)年1月号 47~48頁から

 現在の地図等を見ると「線路の両側にそれぞれ五十メートル程度の緩衝地帯」ではなく、「線路の両側合計で五十メートル程度」なんじゃないかなとも思いつつ、公園としての都市計画やら地元の費用負担等の平仄があう。 

 また、川島令三が「 なんであるのかと再び聞くと「騒音防止のための緑地ですかね」という。」と書いているのも、別に間違いでもなんでもない。

  

 東北新幹線建設前の様子を今昔マップで確認してみると、確かに「密集した市街地」である。

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 森合緑地から話は離れるが、安原氏は「このような経験から、今後の新幹線建設にあたって、市街地の線路は都市計画との調整が必要不可欠の条件として考えられ」と書いてあるのを見て「え?東北新幹線って都市計画決定していないの??」と思う読者の方もいらっしゃるかもしれない。

東北新幹線と都市計画決定

https://www.sonicweb-asp.jp/saitama_g/map?theme=th_33#scale=2500&pos=139.627640990906,35.881667751054714

 これはさいたま市の埼京線与野本町駅付近の都計図だが、御覧のとおり、新幹線も埼京線も都計施設ではない。

 埼玉県庁に国鉄職員が現れて、20万分の1の地勢図に赤鉛筆で線を引いてここに新幹線を作りますって話をして、あとは国鉄と運輸省で許認可の手続きを進めて国が工事の認可をして、はいスタートという感じだったのだ。

 つまり、地元住民どころか、地元自治体ともロクに事前調整していなかった。

 なので、東北新幹線や成田新幹線で住民だけでなく、自治体まで反対する結果となってしまった。

 そんなことも踏まえて、安原氏は「市街地の線路は都市計画との調整が必要不可欠」と、開通後に言っているわけだ。

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 ということで、川島令三の「線路際に空き地が見えると未成線に見えちゃう病」の一つを検証してみた。 

 個人的には、営業中の新幹線の両側に平行してトンネルを掘るだけでも超大変なのに、更にそれを信夫山の中でクロスするなんてどれだけ難工事だよ、ありえねえだろうと思うのだが。 

 川島令三は、鷲羽山トンネルみたいな四連のトンネルが簡単にできると思ってるんじゃないかな。実際には「簡単にはできないから、いつ通るかも分からない四国新幹線用のトンネルも最初からある程度掘っておいた」というのが正確だと思うのだけど。

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2021年9月24日 (金)

交通新聞社「新しい西武鉄道の世界」結解喜幸氏の新宿駅乗り入れ記事がひどい~西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(26)

 

交通新聞社「新しい西武鉄道の世界」結解喜幸氏の新宿駅乗り入れ記事がひどい (1)

 交通新聞社から2019(令和元)年に発行されたトラベルMOOK「新しい 西武鉄道の世界」に、結解喜幸氏が「なるほど西武 仮駅が本駅となった西武新宿駅」というコラムを書いている。

 以前から怪しいなあと思っていたのだが、じっくり腰を据えてチェックしたらえらいことになってしまった。

 上図のように、コラムの面積(分量)のうち、半分くらいが怪しい。 

 以下、気づいた点を検証していく。 

交通新聞社「新しい西武鉄道の世界」結解喜幸氏の新宿駅乗り入れ記事がひどい (2)  

 「駅名の上の四角い広告スペースに線路が敷かれる計画だった」ということは、上図写真に私が赤枠でかこった辺に西武新宿線が乗り入れると結解喜幸氏は言いたいのだろうか?

 なお、国鉄の「東建工」1965(昭和40)年2月号38頁では、下図のとおり、向かって右隅である。

 また、「広告スペース」だと、2階ではなく、3階に乗り入れることになってしまう。
 

交通新聞社「新しい西武鉄道の世界」結解喜幸氏の新宿駅乗り入れ記事がひどい (3)  

 右側の国鉄の「東建工」1965(昭和40)年2月号41頁に掲載された模型でも、向かって右隅に西武新宿線のホームが取りついている。


 結解喜幸氏の「駅名の上の四角い広告スペースに線路が敷かれる計画だった」との記述と比較して、如何だろうか?
 

交通新聞社「新しい西武鉄道の世界」結解喜幸氏の新宿駅乗り入れ記事がひどい (4)  

https://www.regasu-shinjuku.or.jp/photodb/det.html?data_id=7245  

に掲載されたビル竣工間もないころの写真でも、ビルの向かって右側に仮囲いが設置されていることが分かる。
 

 

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交通新聞社「新しい西武鉄道の世界」結解喜幸氏の新宿駅乗り入れ記事がひどい (5)  

なぜ国鉄の新宿駅まで線路が伸びなかったのか?


→結解喜幸氏「当時の新宿駅東口は戦後の区画整理・整備復興が行われていたから


→西武鉄道公文書「国鉄新宿駅東口の民衆駅企画中だったため、当局からビルの建設時迄乗入れを待つ様勧告を受けたから
 

 なお、西武の上記公文書については、こちらもあわせてご参照いただきたい。 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2021/09/post-bbae59.html 

交通新聞社「新しい西武鉄道の世界」結解喜幸氏の新宿駅乗り入れ記事がひどい (6)  

 結解喜幸氏は、「駅ビル“新宿民衆駅ステーションビル”として建設されることとなり」と書いているが、国鉄の「東建工」1965(昭和40)年2月号41頁に掲載された「出願経緯」には、そのようなビル名は出てこない。

 では、結解喜幸氏は、一体どこから「新宿民衆駅ステーションビル」という用語を持ってきたのだろうか?
 

交通新聞社「新しい西武鉄道の世界」結解喜幸氏の新宿駅乗り入れ記事がひどい (7)  

 結解喜幸氏は、「新宿民衆駅ステーションビル」という珍語を使っているが、これは日経の河尻定氏の記事が、元ネタの新宿歴史博物館が発行した「ステイション新宿」を不正確に引用(本来は「百貨名店街ビル」)しているものを、結解喜幸氏が元資料にあたらずにそのままコピペしたのではないか?
 

交通新聞社「新しい西武鉄道の世界」結解喜幸氏の新宿駅乗り入れ記事がひどい (8)  

 大元も資料から河尻定氏経由で結解喜幸氏に繋がる「負の連鎖」はこうなってるのではないだろうか? 

 (関係者の方から違うというご指摘があれば、是非ご教示ください。)

交通新聞社「新しい西武鉄道の世界」結解喜幸氏の新宿駅乗り入れ記事がひどい (9)  

 仮に結解喜幸氏が、元ネタと思しき、「百貨(店)名店街ビル」として記事を書いたとしても、「百貨名店街ビル」は競合案の一つに過ぎないので「駅ビル“新宿東口民衆駅百貨店名店街ビル”として建設されること」にもならないのでご留意を。
  

交通新聞社「新しい西武鉄道の世界」結解喜幸氏の新宿駅乗り入れ記事がひどい (10)  

 結解喜幸氏は、「当時木造駅舎だった新宿駅」と書いているが、国鉄の「東建工」1965(昭和40)年2月号9頁には「鉄筋コンクリート造」と書いてある。

 上図下段右の写真は、同号8頁に掲載された新宿駅東口の駅舎である。

 
 これが木造ねえ。。。 

 

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交通新聞社「新しい西武鉄道の世界」結解喜幸氏の新宿駅乗り入れ記事がひどい (11)

 結解喜幸氏は、「新宿線は(略)8両編成の列車が運転されるようになっていた」と書いているが、西武鉄道の社内報の104号(1966(昭和41)年8月号21頁に「西武新宿 各ホームを八両用に延ばす」と題した記事があり、この中で「こんど輸送力増強に伴い新宿線にも八両編成電車運転の必要が生じた」と書かれている。

 つまり、駅ビル開業時点では、 「新宿線は8両編成の列車が運転されるようになっていなかった」と解さざるをえない。

 なお、西武が乗り入れを取り下げたのは、ビル開業翌年の1965(昭和40)年で、それまでの間は当局と協議中だったので、駅ビル開業時にホームが設置されていないことと断念は直接は関係ない。
 

 

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交通新聞社「新しい西武鉄道の世界」結解喜幸氏の新宿駅乗り入れ記事がひどい (12)  

 結解喜幸氏だけでなく、「天井が高い吹き抜け部分があるが、この空間こそが西武新宿駅となるものだった」という趣旨を語る鉄道系ライターは後を絶たない。

 以前も 

「東京 消えた! 鉄道計画」中村建治(著)が怪しい~西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(番外編)

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/07/jr-286b.html

という記事を書いた。
 一体、なぜなのだろうか?
 

※参考 下段右の写真は、JRの駅舎の吹き抜けの中に都市モノレールホームが入ってきている小倉駅の様子である。  

 こんな感じに、ルミネエストの吹き抜けに西武新宿線のホームができることを妄想しているのだろうか? 

交通新聞社「新しい西武鉄道の世界」結解喜幸氏の新宿駅乗り入れ記事がひどい (13)  

 国鉄の「東建工」1965(昭和40)年2月号107頁に掲載された図面では、「西武高架」が駅ビルと山手貨物線の間に設けられているとともに、電車の建築限界が、駅ビルの吹き抜けよりも高いことが分かる。


 つまり、あの吹き抜けの高さでは、物理的に電車が収まらないのである。


 結解喜幸氏だけでなく、「天井が高い吹き抜け部分があるが、この空間こそが西武新宿駅となるものだった」という趣旨を語る鉄道系ライターの皆さんはこの図面を見ていないのだろうなあ。
 

交通新聞社「新しい西武鉄道の世界」結解喜幸氏の新宿駅乗り入れ記事がひどい (14)  

 再掲となるが、国鉄の「東建工」1965(昭和40)年2月号38頁に掲載された図面では、中央の「吹抜」と右上の西武鉄道改札が完全に独立していることが分かる。

  結解喜幸氏だけでなく、「天井が高い吹き抜け部分があるが、この空間こそが西武新宿駅となるものだった」という趣旨を語る鉄道系ライターの皆さんはこの図面を見ていないのだろうなあ。
 

交通新聞社「新しい西武鉄道の世界」結解喜幸氏の新宿駅乗り入れ記事がひどい (15)  

 ちなみに国鉄公式の図面ではないが、駅ビル会社が1961(昭和36)年12月に発行した「株式会社新宿ステーションビル事業案内」に掲載された図面が、駅ビルの吹き抜けと西武線ホームとの関係を一番よく表している。

 (時点が違うので、「東建工」の竣工図面とは細部が異なる。)

 この図面の現物を閲覧ご希望の方は下記ツイートを参照のこと。
 

 

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交通新聞社「新しい西武鉄道の世界」結解喜幸氏の新宿駅乗り入れ記事がひどい (16)  

 この記事を作っていて気が付いたのだが、表紙の「西武鉄道の世界」の題名で、「の世界」の字に合わせて、水色のククリがある。で、「鉄道」の字にも水色の線が突き抜けている。

 なんだこりゃと思ったが、「の世界」の部分だけフォントの大きさを変えてレイヤーを張り付けたときに、そのククリを残したまま統合しちゃったのかな?

 担当編集の野坂隆仁さん、いろいろ頑張れ。
 

 

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(1)プロローグ

(2)戦前の新宿駅乗り入れ構想

(3)戦後新宿駅乗り入れの具体化へ

(4) 魑魅魍魎うずまく新宿ステーションビル

(5)新宿ステーションビルへの西武線乗り入れ

(6)新宿ステーションビルへの乗り入れ中止

(7)地下道による西武新宿駅と営団地下鉄・国鉄新宿駅との連絡

(8)西武新宿線の営団地下鉄東西線・有楽町線乗り入れ構想

(9)西武新宿駅の開発

(10)西武新宿線の地下複々線化による新宿駅乗り入れ

(11)西武百貨店堤清二による新宿ステーションビル乗っ取り失敗

(12)高島屋、西武に競り勝ち、新宿へ悲願の進出

(13)新宿駅東口2階の吹き抜けに西武新宿線が乗り入れるはずだったのか?

(14)新宿ステーションビルとベルクと井野家

(15・終)エピローグ

 

 一旦終わった後に、その後ネタを追記 

(番外編)「東京 消えた! 鉄道計画」中村建治(著)が怪しい

(16)西武新宿駅を大江戸線新宿西口駅に直結させる計画が1982年にあった 

(17) 西武新宿駅は、元々地下鉄乗換えを考慮して地下に設置する構想だった

(18) 新宿ステーションビルの店舗募集資料から西武線のホームと吹き抜けの関係を確認してみる

(19)西武新宿線の新宿駅ビル乗り入れの図面を国鉄の内部資料から確認してみる。 

(20)西武新宿線の新宿駅ビル乗り入れの図面を国鉄の内部資料から確認してみる。(その2) 

(21)思いもつかないところから西武線新宿駅乗入れのカラー想像図が 

(22)都庁幹部が語る西武乗り入れ中止の背景 

(23)構想以来65年ぶりに西武新宿駅と新宿駅を結ぶ地下道が実現に向けて動き出した 

(24)西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れ撤退の理由が書かれた公文書 

(25)「ステイション新宿」をそのまま一次資料として丸呑みしては危険 

(26)交通新聞社「新しい西武鉄道の世界」結解喜幸氏の新宿駅乗り入れ記事がひどい 

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「ステイション新宿」をそのまま一次資料として丸呑みしては危険~西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(25)

 前回の記事「西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れ撤退の理由が書かれた公文書~西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(24)」で、「西武って公文書に載っているからといって何が本当かよくわからん」と書いたところである。

 で、今回はよく使われる資料について検証してみたい。

 

 西武新宿線の新宿駅延伸にあたって、最も引用されていると言っても過言ではないのが、新宿区立博物館が企画展示にあたって発行した「ステイション新宿」の「西武新宿線東口乗入れ計画」の頁である。

ステイション新宿における西武線新宿駅乗り入れの経緯

「ステイション新宿」82頁から

 鉄道趣味関係の書籍等ではここをほぼ丸写ししたようなものも珍しくない。


 ようやく1950年代の中頃になって、新宿駅舎を取り壊して新たにステーションビルを建設する計画が立ち上がった。その際に発表された「新宿東口民衆駅百貨店ビル設計図」によれば、西武新宿線は高架でビルの2階に乗り入れ、2階にホームと出改札口を設け、高架下に歩道が設けられることになっていた。

 

「そうだったのか、新宿駅」 西森聡・著 交通新聞社・刊 89頁から

 しかし、西森聡氏はコピペもまともにできないようで、「新宿東口民衆駅百貨店名店街ビル設計図」を「新宿東口民衆駅百貨店ビル設計図」と書いている。

 もっとも、国鉄や新宿ステーションビルの資料を見ると「百貨名店街ビル」が正しいようだ。新宿歴史博物館の「ステイション新宿」も「百貨名店街ビル株式会社創立事務所発行の「新宿東口民衆駅百貨店名店街ビル設計図」によれば」としており、意図的に使い分けているのかもしれない。単純な誤植かもしれない。よくわからないが、いずれにせよ西森聡氏の「そうだったのか、新宿駅」は間違いだ。

 このように、多くの鉄道趣味誌やネット記事では「2階にホームと出改札口」としている。

 しかし、実際には1階にも西武線の改札は予定されていた。

西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (1)

 これは1964(昭和39)年に竣工した「新宿民衆駅=新宿ステーションビルディング」に係る国鉄社内誌「東建工」1965(昭和40)年2月号である。

西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (30)

 1階の「びゅうプラザ」のあたりは元々西武線の改札だったことが分かる。

西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (31)

 2階の改札の他に3階には西武の駅長室があったことも分かる。

 しかし、1階の改札や3階の駅長室の存在が鉄道趣味誌に取り上げられることは稀である。

西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (9)  

 旅客流動図を見ると2階改札33に対して1階改札51の比率になっており、1階改札口がメインであるにも拘らず、鉄道趣味誌は頑なにその存在を無視するのである。

 何故か。それは国鉄の竣工図面を見ずに、「ステイション新宿」をコピペしているからではなかろうか?

 そして、最終形の「新宿ステーションビル」の図面を見ずに、「ステイション新宿」に出てくる「新宿東口民衆駅百貨店名店街ビル設計図」頼りになっているからではなかろうか?

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 そもそも、「新宿東口民衆駅百貨(店)名店街ビル」とは何なのか?

 これも上記の国鉄社内誌「東建工」1965(昭和40)年2月号「特集 新宿東口民衆駅」に出てくる。

西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (33)

 「新宿民衆駅は、髙島屋と伊勢丹、西武等が競願した(なので調整に時間がかかった)」ということをご存じの方は結構いらっしゃると思う。

国鉄新宿民衆駅(新宿ステーションビル、マイシティ、ルミネエスト)の経緯

 ざくっと並べるとこんな感じで大きく3つの会社の流れがある。伊勢丹や西武は真ん中の地元系と組んで、左側の髙島屋系の放逐を図った。その他の流れとして「新宿東口民衆駅百貨名店街ビル」が出てくる。

 実は、多くの鉄道系ライター諸氏が後生大事に引用してくる「ステイション新宿」に出てくる「設計図」は、競願大手3社の中で一番傍流の会社の案にすぎないもので、実際にはその後主流3社が合意した後に、国鉄や西武鉄道等と協議して最終の図面となったのである。それが「東建工」掲載の図面だ。

 では「ステイション新宿」が間違ったり嘘を書いたりしているのかというと、これはあくまでも新宿歴史博物館の企画展の図録であって、同博物館の貴重な途中段階の所蔵図面を紹介しているのだとすれば問題ない。

 問題なのは、その辺の経緯を無視したのか、最終段階の図面と思い込んだのか、横着したのか分からないが、さも最終段階の設計図であるかのように書いたりする鉄道系ライター諸氏等が問題なのである。


 1950年代終わり頃から、新宿東口駅舎を取り壊して駅ビルを建設する計画が立てられた。西武もこの計画に参加し、新宿線は駅ビルに乗り入れる予定になった。新宿歴史博物館の「ステイション新宿」では、新宿駅ビル設計図によると、西武線はビル2階に高架線で乗り入れ、2階には切符売り場・駅務室、1階にも駅務室が置かれる設計であったとされている[5]。

[5]新宿歴史博物館(編)『ステイション新宿』新宿歴史博物館、1993年、116頁。

 

wikipedia「西武新宿駅」2021(令和3)年9月23日閲覧

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%AD%A6%E6%96%B0%E5%AE%BF%E9%A7%85

 

 あくまでも途中経過の案の一つに過ぎない「百貨名店街ビル」の設計図であることを削除してしまったため、あたかも最終形の設計であるような記事となっており、ウソペディアの面目躍如である。

 


 1964年には、東口に駅ビル(現・ルミネエスト新宿)がオープン。西武新宿線のホームが接続する北側の2階には、駅の業務室などを設けるスペースが確保された。

 

「西武「大久保駅」構想は、なぜ幻となったのか 新宿乗り入れの裏に隠されたルートと新駅」草町義和

https://toyokeizai.net/articles/-/85651?page=2

 


1950年代後半になると、駅前の整備が進み始める。駅舎を取り壊し、「新宿民衆駅ステーションビル(現ルミネエスト)」の建設が始まった。西武はこのビルへの接続を予定していたのだ。新宿歴史博物館が編さんした「ステイション新宿」によると、鉄道はビルの2階に乗り入れ、改札も2階の予定だった。同館には当時の設計図の写真が残っている。

 

「西武新宿駅はなぜ遠いのか 幻の東口乗り入れ計画」河尻定 日本経済新聞「東京ふしぎ探検隊」

https://style.nikkei.com/article/DGXNASFK2103N_S2A121C1000000/

 河尻定氏は、「ステイション新宿」からコピペする際に、「新宿東口民衆駅百貨名店街ビル」の設計図であるとせずに、そこを(どういう意図があるかは、はかりかねるが)カットしてしまった。

 実は、西森聡氏の「そうだったのか、新宿駅」では、正確ではないにしろ「新宿東口民衆駅百貨名店街ビル」の設計図であると明示していたため、「これは最終形ではない」という逃げ道にはなったので、「まだマシなコピペ」だったが、河尻定氏の場合は、そこをカットしたため、「読者にこれが最終形であるという誤認を与える結果」となっている。流石日本経済新聞の記者は違うなー。 

 そしてもっと酷いのが次のページである。

日経新聞河尻定編集長の西武新宿線延伸に係る酷い記事

https://style.nikkei.com/article/DGXNASFK2103N_S2A121C1000000/?page=2に赤字で加筆

 まず、本来は「新宿東口民衆駅百貨名店街ビル」の設計図であるところ、河尻定氏は、何を考えたか「新宿民衆駅ステーションビル」の設計図としている。西森聡氏の「新宿東口民衆駅百貨店ビル設計図」は、コピペも満足にできないんですか(藁ですむところ、河尻定氏の「新宿民衆駅ステーションビル」は改竄に近い。上記に私が国鉄の資料を基に整理したように、元々新宿歴史博物館にある設計図は競合三社のうちの一つであって、施行にあたる最終的な設計図ではないことを説明したが、河尻定氏のキャプションは、そこを「ステーションビル」という言葉を使ってあえて最終形かのように誤認させるものである。

 これが意図的なものなのか、日経の校閲担当も含めた単純ミスなのかは分からないが、西森聡氏に比べて悪質さが格段に違う。

 また、更に酷いのが、設計図を上げた後に「実はこのときの計画の痕跡が今も残っている。ルミネエストの建物は1階の天井が高く、2階はかなり低い。1階の吹き抜けもやたらと広い。かつての設計図を見ると、このフロアの形が西武線乗り入れ計画の名残だとわかる。」と続くあたりである。

 

西武鉄道が乗り入れるはずだった新宿ステーションビル (13)

 分かりやすく説明するために、1961(昭和36)年12月に発行された「株式会社新宿ステーションビルディング事業案内」の2階部分を載せてみる。

 「新宿東口民衆駅百貨(店)名店街ビル」の設計図とは、若干形状は異なるが、図上の右上(方角だと北西の角)に改札が出来て、西武線のホームは高田馬場方面に向けてビルの外側に設けられている。

 こういった構造を前提にすれば、「1階の吹き抜けもやたらと広い。かつての設計図を見ると、このフロアの形が西武線乗り入れ計画の名残だとわかる。」(日経記事)どころか、「1階の吹き抜けと西武線の乗り入れは関係ないことがわかる。」とすべきだろう。

 

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 「ステイション新宿」の内容の検証に戻りたい。

 


 実際にビルには旅客用の入口が開けられ、中には改札のラッチも搬入され、高架線の基礎もいくつか作られました。

 

「ステイション新宿」新宿歴史博物館・刊 82頁から

 ここもよく引用される部分である。 

 ところが、駅の設計図と異なり、「ステイション新宿」の当該頁には、その「ネタ元」が書いていない。 

  いろいろ調べてみたところ、下記がネタ元ではないかと思われる。


 電車はステーション・ビルの北西の角までいく予定だったのですが,ビルには旅客用の入口の穴があいていまして,中に改札のラッチまで入れてありました.高架橋の基礎もいくつかつくったはずです。

 

 「西武特集 変貌する西武鉄道の輸送を語る」における長谷部和夫 西武鉄道常務取締役運輸計画部長(当時)の発言から

 鉄道ピクトリアル1992(平成4)年5月臨時増刊「特集 西武鉄道 18頁から

 

 鉄道ピクトリアルの特集が発行されたのが1992(平成4)年5月で、新宿歴史博物館の「ステイション新宿」は1993(平成5)年10月なので、時系列的にも問題ないだろう。

 ただし、西武長谷部氏が「高架橋の基礎もいくつかつくったはずです」としているところを、「ステイション新宿」が「高架線の基礎もいくつか作られました」と断定しているところが気になるが。

 なお、新宿ベルクの店長が「ベルクの店内の柱は西武新宿線乗り入れ用の柱だ」とツイートされているので、そのような形で基礎がビルの中に埋め込まれているのだろう。

 

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 ということでまとめ。


「ステイション新宿」を西武鉄道の新宿駅乗り入れのネタ元に使う際の注意点

〇「ステイション新宿」に載っている設計図面は最終形のものではなく、各社競合していた案の一つにすぎない。

〇「ステイション新宿」に載っている設計図面は「新宿東口民衆駅百貨名店街ビル設計図」と書かれているが、実際の会社名は「百貨名店街」である。

〇西武鉄道の新宿駅乗り入れについての設計図面は、駅ビル竣工後に発行された国鉄の「東建工」1965(昭和40)年2月号を確認すべきである。

〇「ステイション新宿」に載っている「改札のラッチも搬入」等のエピソードは、前年に発行された鉄道ピクトリアル臨時増刊「特集 西武鉄道」に掲載された西武鉄道の取締役のインタビューがネタ元と思われるため、何かの根拠とするには、鉄道ピクトリアルを根拠とする方が無難。

〇日経新聞の川尻定記者は、それらのあやふやなところを一層カオスにしている。最悪。

 この他、新宿駅への西武乗り入れの図面については、先にも触れた「株式会社新宿ステーションビルディング事業案内」も有効である。 カラーで見やすいし。閲覧には下記ツイートをご参照されたく。

 

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<おまけ> 

 新宿区立新宿歴史博物館つながりでこの際言及しておく。 

 新宿区や新宿歴史博物館は、「民衆駅」というのが固有名詞ではなく、制度の名称だということがイマイチ理解できていないようである。 

新宿区は民衆駅という制度名と新宿ステーションビルという固有名詞をちゃんぽんにするのはやめておくれ (2)  

https://www.regasu-shinjuku.or.jp/photodb/det.html?data_id=6914 

 「民間資本導入による建設運営のため、当初は「新宿民衆駅ビル」と呼ばれた。」 

というキャプションがついているが、雑に言うと「民衆駅」=「 民間資本導入により建設運営される駅」という制度なので、当初もくそもなく永遠に民衆駅は民衆駅だし、新宿以外にもいくらでも民衆駅はある。

 それをなんか「新宿民衆駅」というオンリーワンの固有名詞と勘違いしているようなんだな。 

新宿区は民衆駅という制度名と新宿ステーションビルという固有名詞をちゃんぽんにするのはやめておくれ (1)  

 こちらは、新宿区政70年記念誌「新宿彩(いろどり)物語~時と人の交差点~」143頁からの引用だが、 

民衆駅は、すぐに「新宿ステーションビル」と改称され」 

とあるが、上記の雑な年表や、東京都公文書館のツイートでも分かるように、「新宿民衆駅」が開業後に「新宿ステーションビル」に改称されたのではなく、開業前から「新宿ステーションビル」である。 

 制度面の「民衆駅」と会社の固有名詞の「新宿ステーションビル」は改称も何も並列可能だが、新宿区役所総務課は理解できないようだ。 

 このブログを読んでいただいている読者の方のほとんどはご理解されていることだとは思うが、分かっていない新宿区役所総務課と新宿歴史博物館のご担当者様のために公式見解(日本国有鉄道が1958(昭和33)年に発行した「鉄道辞典」)から「民衆駅」の項を抜粋しておこう。

民衆駅とは

民衆駅一覧

 「昭和32年度末現在」なので、上記の民衆駅一覧表には新宿駅は入っていない。まだ群雄割拠からようやく一本化した段階なので。

 

 みなさんは、新宿区による官製偽史が出来上がる過程にリルタイムで立ち会っているのかも?

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(1)プロローグ

(2)戦前の新宿駅乗り入れ構想

(3)戦後新宿駅乗り入れの具体化へ

(4) 魑魅魍魎うずまく新宿ステーションビル

(5)新宿ステーションビルへの西武線乗り入れ

(6)新宿ステーションビルへの乗り入れ中止

(7)地下道による西武新宿駅と営団地下鉄・国鉄新宿駅との連絡

(8)西武新宿線の営団地下鉄東西線・有楽町線乗り入れ構想

(9)西武新宿駅の開発

(10)西武新宿線の地下複々線化による新宿駅乗り入れ

(11)西武百貨店堤清二による新宿ステーションビル乗っ取り失敗

(12)高島屋、西武に競り勝ち、新宿へ悲願の進出

(13)新宿駅東口2階の吹き抜けに西武新宿線が乗り入れるはずだったのか?

(14)新宿ステーションビルとベルクと井野家

(15・終)エピローグ

 

 一旦終わった後に、その後ネタを追記

(番外編)「東京 消えた! 鉄道計画」中村建治(著)が怪しい

(16)西武新宿駅を大江戸線新宿西口駅に直結させる計画が1982年にあった

(17) 西武新宿駅は、元々地下鉄乗換えを考慮して地下に設置する構想だった

(18) 新宿ステーションビルの店舗募集資料から西武線のホームと吹き抜けの関係を確認してみる

(19)西武新宿線の新宿駅ビル乗り入れの図面を国鉄の内部資料から確認してみる。

(20)西武新宿線の新宿駅ビル乗り入れの図面を国鉄の内部資料から確認してみる。(その2)

(21)思いもつかないところから西武線新宿駅乗入れのカラー想像図が

(22)都庁幹部が語る西武乗り入れ中止の背景

(23)構想以来65年ぶりに西武新宿駅と新宿駅を結ぶ地下道が実現に向けて動き出した

(24)西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れ撤退の理由が書かれた公文書

(25)「ステイション新宿」をそのまま一次資料として丸呑みしては危険

(26)交通新聞社「新しい西武鉄道の世界」結解喜幸氏の新宿駅乗り入れ記事がひどい

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2021年9月20日 (月)

西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れ撤退の理由が書かれた公文書~西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(24)

 1964(昭和39)年5月18日に駅ビルが開業することになったが、そこには新宿線の新宿駅は設置されていなかった。実は計画段階の新宿線は最大6両編成だったが、同線の輸送量は年々増加し、8両編成の列車が運転されるようになっていた。悲願だった国鉄新宿駅への乗り入れは断念せざるを得ず、西武新宿駅を改良して使用することとなった。

 

「仮駅が本駅となった西武新宿駅」結解喜幸 「トラベルMOOK 新しい西武鉄道の世界」交通新聞社・刊 103頁から

 西武新宿線が国鉄新宿駅に乗り入れを断念した理由としては、まあだいたいこんな感じで語られている。

 

 ところで、国立公文書館には、実際に西武鉄道が新宿駅への乗り入れを断念する旨運輸省(当時:現・国土交通省)に提出した公文書が保存されている。

 それが下記の文書だ。

西武新宿線国鉄新宿駅(マイシティ・ルミネスト)延伸撤退公文書 (4)

 その件名もズバリ「新宿駅乗入に関する申請書取下げ願書」だ。

 運輸大臣に対して、1963(昭和38)年12月7日付で提出した「西武新宿線の新宿駅連絡区間工事施行認可申請書」を取り下げるというのである。

 そして「別紙の理由」が下記のとおりである。

西武新宿線国鉄新宿駅(マイシティ・ルミネスト)延伸撤退公文書 (5)

1.西武新宿線は国鉄新宿駅東口迄の延長を昭和23年3月29日附でご免許を受けたものでありまして、その全線建設は昭和27年3月25日開業の高田馬場―西武新宿仮駅間の工事と同時に実施する様希望して居つたのであります。しかるところ現国鉄新宿駅東口の民衆駅舎建築が当時既に企画されて居つたため、関係当局より同ビルの建設時迄、当社線の東口乗入れを待つ様にとの勧告を受け、その時期迄待つた次第であります。

2.国鉄新宿駅東口民衆駅の建築は待つこと久しく昭和36年頃より具体化されて参りましたので、同駅迄の乗入工事を実施するため、この件に関し国鉄との間に同年11月8日協定を締結し又それと略々同時期に東京都及び建設省より乗入れの線路及びホーム建設のため駅前広場及び道路の一部を使用する許可を得たのであります。

3.当時西武新宿線の旅客輸送は他の近郊電車と同様将来とても六輛編成で足るとされたものでありますが、その後輸送量 特に高田馬場以西に於ける増加は急上昇を来たし、近い将来八輛編成の運行は必至の事態となつたのであります。そのため新宿乗入ホームも八輛編成に応じて延伸する様企画を変更し、その先端付近を拡巾するため国鉄山手貨物線側の用地使用の増大及び反対側併行道路の車道部分の縮小乃至は上空使用の拡大等について長時日に亘り再三再四交渉を重ねて参つたのであります。これ等については関係各

西武新宿線国鉄新宿駅(マイシティ・ルミネスト)延伸撤退公文書 (6)

当局に於ても出来る限りの便宜を与えられる様努力せられたのでありますが、諸種の事情によりホーム巾を充分拡大することが出来ない儘八輛用のホームとして工事施工認可を申請したのであります。

4.右様の次第で当社申請の新宿東口駅はそのホームは1本で而も先端附近は相当長い部分が狭小でありますため、監督局より八輛ホームとしては危険多く不適当なる旨指摘されたのであります。一方新宿線の輸送量は前記の通り八輛編成を絶対必要とし、又混雑時の運行間隔から見るとき高田馬場或は歌舞伎町駅(現西武新宿仮駅)での車輛分割は到底出来ませんので、以上のような経緯もあり、これまでの 先行投資も少なくありませんが遺憾ながら東口への乗入を断念せざるを得ない状態となったのであります。

以上の様な経緯及び理由によつて新宿駅東口乗入のための工事施工認可申請書と、これに関連する工事方法一部変更認可申請書の取下げを御願いする次第であります。

 ちなみに、wikipedia様はどんな感じかというと、 

しかし、島式ホーム1本の6両編成用発着線2線分(当時)というスペースしか確保できず、輸送量が急増していた西武新宿線のターミナルとするには狭過ぎた。そのため、乗り入れ計画は中止された[5]。

[5]新宿歴史博物館(編)『ステイション新宿』新宿歴史博物館、1993年、116頁。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%AD%A6%E6%96%B0%E5%AE%BF%E9%A7%85#%E6%96%B0%E5%AE%BF%E9%A7%85%E4%B9%97%E3%82%8A%E5%85%A5%E3%82%8C%E4%B8%AD%E6%AD%A2

2021年9月19日閲覧

 実際には、西武鉄道は「新宿乗入ホームも八輛編成に応じて延伸する様企画を変更し」たが、「先端附近は相当長い部分が狭小でありますため、監督局より八輛ホームとしては危険多く不適当なる旨指摘されたので」「東口への乗入を断念せざるを得ない状態となった」というのである。

 「8両編成のホームでは狭すぎたんだから、実質的には『6両編成用発着線2線分(当時)というスペースしか確保できず』と一緒やんけ、何をケチつけとんねん」

とおっしゃる方もいらっしゃるだろうが、西武は8両化対応の努力はしていたが、国に不適当と指摘されて断念したということは記録に残したいよねという気持ちはある。

 

 「その先端付近を拡巾するため国鉄山手貨物線側の用地使用の増大及び反対側併行道路の車道部分の縮小乃至は上空使用の拡大等について長時日に亘り再三再四交渉を重ねて参つた」とあるが、「反対側併行道路の車道部分の縮小乃至は上空使用の拡大」というのは、東口側の駅前広場と靖国通りとの間の車道を狭くするか、東北新幹線の東京駅北側の区間のように道路の上空を占用して線路幅を広くしたいということであろう。

 では「国鉄山手貨物線側の用地使用の増大」とはどういうことか。

西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (34)

西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (39)

 上図は「東建工」1965年2月号「特集:新宿民衆駅」41及び107頁から。

 元々、西武線の新宿ステーションビル(後のマイシティ、ルミネエスト)乗り入れにあたっては、山側については山手貨物線が支障になるので移設する予定であった。

 それを8両編成用のホームにするために更に山側に移設できないかということであろうか。

 

 「混雑時の運行間隔から見るとき高田馬場或は歌舞伎町駅(現西武新宿仮駅)での車輛分割は到底出来ません」というのは、新宿駅には6両しか入れられないので、高田馬場駅か歌舞伎町駅で2両を解結する案も一応検討したということか。

 (西武は、新宿駅直通後は、西武新宿駅を歌舞伎町駅と改称するつもりだったことが分かるのも興味深い。

 

 なお、交通新聞社のムックに掲載された結解喜幸氏の「8両編成の列車が運転されるようになっていた」と西武鉄道の公文書の「近い将来八輛編成の運行は必至の事態となつたのであります」の違いについても一応指摘しておこう。

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 西武の申請取下げの公文書にいう「当社申請の新宿東口駅はそのホームは1本で而も先端附近は相当長い部分が狭小でありますため、監督局より入輛ホームとしては危険多く不適当なる旨指摘されたのであります。」について、裏取りをしてみる。

 

西武新宿線国鉄新宿駅(マイシティ・ルミネスト)延伸撤退公文書 (10)

 西武が提出した「西武新宿線の新宿駅連絡区間工事施行認可申請書」は、まず運輸省の現地機関である関東陸運局に提出され、そこから運輸省本省に上申されている。

 それに対して、運輸省鉄道局土木課?が「照会」ということで注文をつけている。

西武新宿線国鉄新宿駅(マイシティ・ルミネスト)延伸撤退公文書 (8)

土木課照会

 新宿停車場における西武新宿寄りの乗降場の巾員は、当駅の乗降客数量からみて特に狭隘であり危険と認められるから拡巾するよう再調すること。

土木課備考

1.技術上の審査は上記照会に対する回答をまって処理したい。

2.照会を文書をもって会社に通知する場合は、事前に連絡されたい。

 実際には、土木関係以外にも信号とか線路・ポイントとか各種の照会事項がこの文書には記載されているのだが、「技術上の審査は上記照会に対する回答をまって処理したい」とあるように、ホームが「特に狭隘であり危険と認められる」ことの「再調」の結果が出せないと他の課題の解決にも進ませないというほど強烈なハードルだったわけである。

 

 当時の報道もみてみよう。1965(昭和40)年3月16日付の朝日新聞は下記のように乗り入れ断念を報道している。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (71)

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (19)

(「新宿サブナード30年のあゆみ」 新宿地下駐車場株式会社・発行 37頁から引用)

 両方の記事に見られるのは「運輸省側が建設計画に難色を示した」「運輸省関係の勧告もあり」という運輸省側からの働きかけであり、西武の提出した公文書との整合がとれている。

 後年の鉄道趣味誌よりもよっぽど正確に撤退の事情を伝えているではないか。

 鉄道趣味誌といえば、当時の鉄道ピクトリアルにこんな記述がある。

4.西武鉄道の新宿乗入れ

(略)

 西武鉄道は,現在の西武新宿駅から国鉄線に平行して延伸し,青梅街道を架道橋で渡り,道路及び東口駅前広場の歩道上は高架構造とする.この上にホームを1面(8両編成)新設して民衆駅の2階のレベルとし,客扱はホームの終端部分にある民衆駅構内で扱う予定である。

 

「変貌する新宿駅」菅原操・今泉清一(国鉄本社停車場課)著 「鉄道ピクトリアル」1964(昭和39)年1月号22頁から

 西武が苦し紛れに?「狭隘」と指摘されながらも8両編成のホームで「西武新宿線の新宿駅連絡区間工事施行認可申請書」を提出したのが、1963(昭和38)年12月7日付だから、時系列的には鉄道ピクトリアル1964(昭和39)年1月号に8両編成のホームと記されていても齟齬はない。

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 ところで、西武の「新宿駅乗入に関する申請書取下げ願書」提出のあとはどうなったのか。

西武新宿線国鉄新宿駅(マイシティ・ルミネスト)延伸撤退公文書 (2)

西武新宿線国鉄新宿駅(マイシティ・ルミネスト)延伸撤退公文書 (3)

 申請書は返付しましたよ。この区間の免許は失効しましたよ。ということである。

 

 駅ビル内にあった改札や駅長室等についてはどのような扱いとなったのだろうか?

西武新宿線国鉄新宿駅(マイシティ・ルミネスト)延伸撤退公文書 (16)

「 新宿ステーションビルディング30年の歩み」新宿ステーションビルディング社史編纂委員会・編 社史年表153頁から

 新宿ステーションビル(マイシティ、ルミネエスト)が西武の持ち分を買い取って商業施設に改装したようである。

ルミネエストの吹き抜けと西武線ホームの位置関係

 上図は、現在のルミネエストのフロアガイドの2階部分と「株式会社新宿ステーションビルディング事業案内」(1961(昭和36)年12月)の比較である。

 この他にも1階の「びゅうプラザ」部分も西武鉄道の改札が設置される予定だった箇所だ。国鉄が西武から買い取ったのかもしれない。

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 上記にもステーションビルによる西武駅機能部分の買い取りの話が出ているが、西武の「新宿駅乗入に関する申請書取下げ願書」に、「以上のような経緯もあり、これまでの 先行投資も少なくありませんが遺憾ながら東口への乗入を断念せざるを得ない状態となったのであります。」とある。

 具体的にどの程度の「先行投資」があったのか。

 国鉄の「東建工」1965年2月号「特集:新宿民衆駅」に具体の数字が書かれている。

西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (1)

新宿ステーションビルの、国鉄、会社(新宿ステーションビル)、西武の費用負担や財産帰属については、下記のとおり整理されている。

西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (36)

  見てもさっぱり分からんかも。ご覧になる環境では字が小さくて見えないかも。枢要の考え方の部分を下記に拡大してみる。

西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (37)

  ステーションビルの西武専用部分と公衆利用分の一定割合を西武が費用負担して国鉄の財産となっているようだ。

西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (35)

 西武鉄道は約5600万円を負担しているようだ。 そして、この部分は乗り入れ断念に伴ってドブに捨てた形になったのだろうか?(上記の考え方によると西武が費用負担しても財産の帰属は国鉄にあるようなので。)

  「西武が乗り入れるために2階の構造は補強されていた」といった説があるのだが、それならこの表の「く体」部分の費用負担割合の考え方にそれが反映されていてもよさそうなんだけど、そんな記載は見当たらない。実際にビル内には電車は入ってこないので大した補強は要らないのではないかなあ??

 「東建工」1965年2月号「特集:新宿民衆駅」については、

西武新宿線の新宿駅ビル乗り入れの図面を国鉄の内部資料から確認してみる。~西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(19)

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2020/01/post-f353a5.html

に詳しく紹介しているのであわせてごらんくださいませ。

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 なお、wikipedia様には、こんな理由もあげられている。 

西武新宿線が新宿駅まで乗り入れていないのは、新宿駅東口の駅ビル建設に西武グループが反対していたからだという説もある。当時、まだ小規模であった西武百貨店池袋本店のある池袋に、当時百貨店として強力な力をみせていた三越・伊勢丹が池袋進出を検討していた。このうち新宿に本店を擁していた伊勢丹では東口駅ビルへの髙島屋の新宿進出が取りざたされていて絶対阻止の構えであった。そこで伊勢丹が池袋出店計画をやめる代わりに西武が高島屋の新宿出店を反対するという取引が交わされ、駅ビル建設に反対する立場になった西武は新宿駅へ乗り入れられなくなった[4]。

[4] 広岡友紀『日本の私鉄 西武鉄道』毎日新聞社、2009年、198頁。ISBN 978-4-620-31938-4。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%AD%A6%E6%96%B0%E5%AE%BF%E9%A7%85#%E6%96%B0%E5%AE%BF%E9%A7%85%E4%B9%97%E3%82%8A%E5%85%A5%E3%82%8C%E4%B8%AD%E6%AD%A2

2021年9月19日閲覧

 広岡友紀氏の言うように「駅ビル建設に反対する立場になった西武は新宿駅へ乗り入れられなくなった」のなら、ステーションビルに約5600万円を負担したり、駅ビル完成後の昭和40年まで8両編成のホームができないか粘ったりしませんやねえ。

 伊勢丹、髙島屋と西武の関係については、当時こんな風に紹介されている。

 第二条件として西武鉄道の乗り入れである。西武はかねて高田馬場から新宿歌舞伎町まで西武線を延長していたが、何とか新宿駅まで乗り入れたかった。それを牧野氏(引用者注:牧野良一元法務大臣。各百貨店と地元商店街等との仲介役だった。)を通じて申し入れたのである。これも国鉄の要望もあって三者の承認することになる。これが高島屋を更に不利にした。西武と伊勢丹の関係は意外に深い。一つの見方には相互の不可侵条約を云々するのもいる。伊勢丹が池袋に敷地を持っているがこれは建てない。そのかわり西武は新宿に手を出さないという平和条約である。その意味からか、西武は新宿に電車を乗り入れても建物そのものには手を出さない、という条件が附されている。伊勢丹―西武の同盟で、ますます高島屋のかげは薄くなった。

 

「怪談・新宿民衆駅 伊勢丹に敗れた髙島屋」針木康雄・著 「財界」1959(昭和34)年9月号41頁から

 伊勢丹と西武の「同盟」と西武鉄道の新宿駅乗り入れの関係については、広尾友紀氏とは真逆の書き方である。

ここでは詳しく触れないが、先に上げた「 新宿ステーションビルディング30年の歩み」28~29頁にかけても、髙島屋、伊勢丹、西武、地元の合意後の西武鉄道の乗り入れ方針に係る合意事項も掲載されている。

 個人的には広尾友紀氏の説は「両論併記」にすら値しない「独自の説」と考えるが如何であろうか?

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 ところで、西武の乗り入れ断念の話とは時期が違ってくるのだが、とても興味深い話が書いてある。

「1.西武新宿線は国鉄新宿駅東口迄の延長を昭和23年3月29日附でご免許を受けたものでありまして、その全線建設は昭和27年3月25日開業の高田馬場―西武新宿仮駅間の工事と同時に実施する様希望して居つたのであります。しかるところ現国鉄新宿駅東口の民衆駅舎建築が当時既に企画されて居つたため、関係当局より同ビルの建設時迄、当社線の東口乗入れを待つ様にとの勧告を受け、その時期迄待つた次第であります。」

 で、鉄道趣味誌の扱いはどうかというと

 なぜ国鉄の新宿駅まで線路が伸びなかったといえば、当時の新宿駅東口は戦後の区画整理・整備復興が行われていたからだ。

 

「仮駅が本駅となった西武新宿駅」結解喜幸 「トラベルMOOK 新しい西武鉄道の世界」交通新聞社・刊 103頁から

 もともと大ガードから東口駅前に伸びていた旧西武鉄道軌道線の軌道敷を利用して国鉄新宿駅の隣接地に乗り入れる計画だったのだが、東口一帯の区画整理がなかなか進まなかったため、仮設の駅が設けられたのである。

 

「そうだったのか、新宿駅」 西森聡・著 交通新聞社・刊 89頁から

 と、交通新聞社の出版物は「区画整理」説である。

 他の出版社も見てみよう。

 昭和23(1948)年に高田馬場~新宿間の免許を取得。しかし、新宿駅の区画整理がつかず、そこで高田馬場駅から新宿形に線路を2キロメートル延伸し、西武新宿駅を昭和27年3月25日に暫定措置で開業した。

 

「知れば知るほど面白い 西武鉄道」辻良樹・編著(当該部分は牧野和人・著)洋泉社・刊 164頁から

 ネットの鉄道記事も見てみよう。

終戦直後の新宿駅周辺は区画整理が進んでおらず、西武村山線の乗り入れ場所に関しては関係機関との調整が必要でした。そのため西武は「とりあえず建設できるところまで建設しよう」と考えたようで、新宿駅から北へ約400m離れたところに仮設の駅を設置。1952(昭和27)年に高田馬場駅と仮設駅を結ぶ区間が開業しました。

 

「「無印」新宿駅から約400m 西武新宿駅が離れている歴史事情」 草町義和・著 「 乗りものニュース」

https://trafficnews.jp/post/80098/3

 ところで他の公文書ではどうなっているか?

 当該区間の工期を度々延期しているため、そこについて西武鉄道と運輸省のやりとりが残っている。

西武新宿線国鉄新宿駅(マイシティ・ルミネスト)延伸撤退公文書 (14)

西武新宿線国鉄新宿駅(マイシティ・ルミネスト)延伸撤退公文書 (15)

 西武側の延期理由は、

「目下國有鐵道にて改良御計画中の新宿駅と綜合的に考慮す可き特殊の事情が生じて居る関係であります。」

としている。

 これに対して、運輸省側の整理では

西武新宿線国鉄新宿駅(マイシティ・ルミネスト)延伸撤退公文書 (13)

「国有鉄道新宿駅改良工事設計未了のため事情已むを得ないと認む」

としている。

 その後も何回か延期が繰り返されているが

西武新宿線国鉄新宿駅(マイシティ・ルミネスト)延伸撤退公文書 (12)

西武新宿線国鉄新宿駅(マイシティ・ルミネスト)延伸撤退公文書 (11)

 運輸省としては

「新宿民衆駅(国鉄)との設計協議未了のため」

が基本線である。

 

 ところで、私は以前

西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(3)戦後新宿駅乗り入れの具体化へ

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/jr-65c5.html

において、戦前からある国鉄の旧新宿駅駅舎へ西武鉄道が乗り入れている、1956(昭和31)年時点の図面(早稲田大学が堤家から寄贈を受け所蔵)をアップしている。

 当該図面は、リンク先をご覧いただくとして、西武の

「西武新宿線は国鉄新宿駅東口迄の延長を昭和23年3月29日附でご免許を受けたものでありまして、その全線建設は昭和27年3月25日開業の高田馬場―西武新宿仮駅間の工事と同時に実施する様希望して居つたのであります。しかるところ現国鉄新宿駅東口の民衆駅舎建築が当時既に企画されて居つたため、関係当局より同ビルの建設時迄、当社線の東口乗入れを待つ様にとの勧告を受け、その時期迄待つた次第であります。」

の当初目論見の段階の図面だったと思われる。

 

 ただし、「西武って公文書に載っているからといって何が本当かよくわからん」ことが山積しているのも事実である。

 例えば、上記の草町義和氏もこの公文書を読んだうえで(内容を見ているとこの公文書を踏まえていることが分かる)あえて区画整理が進んでおらず」「関係機関との調整が必要」と書いているし、「区画整理が進まないので国鉄の駅の改築計画が進まず関係機関との協議の結果工事が遅れた」という趣旨で草町氏が書いたのであればそれはそうだろうし。

 

 とは言っても、公文書で「西武は最初から国鉄新宿駅に乗り入れるつもりだったのに、民衆駅との協議のせいで待たされた」旨書いている以上は、「区画整理未了」を理由とする方は、それなりの根拠をお示しいただく必要はあるのではないか。

 新宿駅東口は闇市があったりしたので、駅前広場の造成等は区画整理が必要だったのは分かるが、西武の乗り入れにはさほど支障が無いように見えるんですがね。

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(1)プロローグ

(2)戦前の新宿駅乗り入れ構想

(3)戦後新宿駅乗り入れの具体化へ

(4) 魑魅魍魎うずまく新宿ステーションビル

(5)新宿ステーションビルへの西武線乗り入れ

(6)新宿ステーションビルへの乗り入れ中止

(7)地下道による西武新宿駅と営団地下鉄・国鉄新宿駅との連絡

(8)西武新宿線の営団地下鉄東西線・有楽町線乗り入れ構想

(9)西武新宿駅の開発

(10)西武新宿線の地下複々線化による新宿駅乗り入れ

(11)西武百貨店堤清二による新宿ステーションビル乗っ取り失敗

(12)高島屋、西武に競り勝ち、新宿へ悲願の進出

(13)新宿駅東口2階の吹き抜けに西武新宿線が乗り入れるはずだったのか?

(14)新宿ステーションビルとベルクと井野家

(15・終)エピローグ

 一旦終わった後に、その後ネタを追記

(番外編)「東京 消えた! 鉄道計画」中村建治(著)が怪しい

(16)西武新宿駅を大江戸線新宿西口駅に直結させる計画が1982年にあった

(17) 西武新宿駅は、元々地下鉄乗換えを考慮して地下に設置する構想だった

(18) 新宿ステーションビルの店舗募集資料から西武線のホームと吹き抜けの関係を確認してみる

(19)西武新宿線の新宿駅ビル乗り入れの図面を国鉄の内部資料から確認してみる。

(20)西武新宿線の新宿駅ビル乗り入れの図面を国鉄の内部資料から確認してみる。(その2)

(21)思いもつかないところから西武線新宿駅乗入れのカラー想像図が

(22)都庁幹部が語る西武乗り入れ中止の背景

(23)構想以来65年ぶりに西武新宿駅と新宿駅を結ぶ地下道が実現に向けて動き出した

(24)西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れ撤退の理由が書かれた公文書

(25)「ステイション新宿」をそのまま一次資料として丸呑みしては危険

(26)交通新聞社「新しい西武鉄道の世界」結解喜幸氏の新宿駅乗り入れ記事がひどい

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2021年8月 8日 (日)

毎日新聞【⿊川晋史記者】「五輪が来たニッポン︓1964→2021 都市の姿、環境優先へ」とプロジェクトX「空中作戦」

 東京オリンピックにあたって前回の東京オリンピックとの比較する記事が幾つか見られた。毎日新聞にもこんな記事が載っていた。


五輪が来たニッポン︓1964→2021 都市の姿、環境優先へ

 

 戦後復興の象徴として記憶されている、1964年の東京オリンピック。⼤会を境に、⾼速道路や下⽔道など、都市環境は劇的に変化した。経済発展や利便性の向上が最優先だった時代から半世紀余り。2度目の東京五輪を迎えた今、都市を巡る状況を振り返ってみたい。

 

 64年五輪の開催が決まったのは59年。当時は本格的な⾞社会の到来で深刻な交通渋滞が懸念されていた。放置すれば五輪関係者の移動にも混乱が⽣じかねない。そこで渋滞緩和を目指して計画されたのが⾸都⾼速道路だった。

 ⽤地買収の⼿間を省くため川や道路の上に⾼架を通す「空中作戦」など、五輪に間に合わせるために奇策も使って⼯期を短縮し、⾸都⾼は59年の基本計画決定からわずか5年間で4路線32・8キロが完成。五輪競技会場や⽻⽥空港を結ぶ動脈として⼤会を⽀えた。東京のシンボルの⼀つ「⽇本橋」の上を通るルートも、空中作戦の産物だった

 「我々が⽇本で初めての都市内⾼速道路を完成させる、との気概を持って仕事をしていた。『早く作れ』という社会全体の応援を感じた」。今年6⽉の建設関係の団体の講演会に、旧⾸都⾼速道路公団の技術者だった⼤内雅博さんは亡くなる直前、こんなメッセージを寄せた。都市の発展を願う世相と技術者の熱意が重なって、⾸都⾼建設は進んだ。

(以下 略)

 【⿊川晋史】

 

2021(令和3)年7月28日毎⽇新聞 東京⼣刊

 「革洋同の野郎、まーた『空中作戦』狩りかよ。もう飽きたよ。」

 とおっしゃる読者の方もいらっしゃるかもしれない。

 ただ、今回はいつものやつとはちょっと趣旨が異なる。

 

 私のブログを読んでいただいている方には

 「首都高の『空中作戦』は、おそらくNHKの『プロジェクトX』の造語ではないか?(それ以前の出版物等には出てきた事例を見つけられていない)」

 「首都高が川や道路の上に設けられたのは、五輪に間に合わせるためではなく、五輪決定以前から決まっていた」

 という話はおなじみかと思うので、ここでは詳細には述べない。

 

 過去の記事のリンクを貼っておくので、⿊川晋史記者等、馴染みのない方はあわせて下記をご参照いただきたい。

●プロジェクトXの首都高の回の決め文句「空中作戦」は、本当は言っていなかった

https://togetter.com/li/1432212

●「首都高をオリンピックに間に合わせるためには『空中作戦だ』」のアンビリバボーを検証してみる

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2018/04/post-f51a.html

●古市憲寿氏「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール 五輪に間に合わせた急ごしらえの代償」を検証する。

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2019/08/post-97a48d.html

 

 一方で、NHKのプロジェクトXで首都高速の「空中作戦」についてどう扱われていたかは、当該番組の制作にあたった今井彰氏が下記に書いている。

「東京オリンピックへの光景 第六回 首都高速道路の空中作戦」style-arena

https://www.style-arena.jp/trend/270

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 まあ、ここまではいままでのブログのネタの繰り返しなのだが、ここからが今回の毎日新聞黒川晋史記者の記事の気になるところである。


五輪が来たニッポン︓1964→2021 都市の姿、環境優先へ

 

 (略)

 「我々が⽇本で初めての都市内⾼速道路を完成させる、との気概を持って仕事をしていた。『早く作れ』という社会全体の応援を感じた」。今年6⽉の建設関係の団体の講演会に、旧⾸都⾼速道路公団の技術者だった⼤内雅博さんは亡くなる直前、こんなメッセージを寄せた。都市の発展を願う世相と技術者の熱意が重なって、⾸都⾼建設は進んだ。

(以下 略)

 【⿊川晋史】

 

2021(令和3)年7月28日毎⽇新聞 東京⼣刊

 先に紹介した毎日新聞黒川晋史記者の記事の部分的な再掲である。

 太字で書いた「今年6⽉の建設関係の団体の講演会」であるが、一般社団法人建設コンサルタンツ協会が2021(令和3)年6月22日に開催した「東京オリンピック1964に向けた首都高速道路の整備」ではないかと推測される。

 その講演記録が同協会のウェブサイトに公開されている。

https://www.jcca.or.jp/infra70/wp-content/uploads/2021/05/PJNO21.pdf

 上記PDFの「講演者」に「大内 雅博 元首都高速道路公団交通管制部長」というお名前が載っている。(この講演会はコロナの関係で延期され、2021年6月にweb講演の形で開催された。その間に大内氏が亡くなられたのだろうか?)

毎日新聞⿊川晋史記者のオリンピックと首都高空中作戦記事 (4)  

 「『我々が⽇本で初めての都市内⾼速道路を完成させる』との気概を持ち」という表現も同じであり、コロナ禍のなか講演会もそうそう開催されているわけではないので、黒川晋史記者が参考にしたのは、建設コンサルタンツ協会の講演で間違いないのではないか。 

 ところで、その講演ではこんなことも述べられている。

毎日新聞⿊川晋史記者のオリンピックと首都高空中作戦記事 (5)

毎日新聞⿊川晋史記者のオリンピックと首都高空中作戦記事 (6) 

 上記は、首都高速道路の構想が具体化していく時系列なのだが、これが、黒川晋史記者が書く「⽤地買収の⼿間を省くため川や道路の上に⾼架を通す「空中作戦」など、五輪に間に合わせるために奇策も使って⼯期を短縮し、⾸都⾼は59年の基本計画決定からわずか5年間で4路線32・8キロが完成。」とは時系列の平仄がとれない。 

 


<プロジェクトXが誤解を広め、今般毎日新聞黒川晋史記者がのっかった首都高速道路建設の経緯>

 

・東京オリンピック開催決定

  ↓

・首都高速道路公団設立

  ↓

・オリンピックに間に合うように「空中作戦」で高速道路を川の上に

 

  

 


<毎日新聞黒川晋史記者が参考にしたと思われる「今年6⽉の建設関係の団体の講演会」の講演録に載った首都高速道路建設の経緯>

1956(昭和31)年 東京都が「道路白書」を作成、「昭和40年に予想される道路交通危機」対策のため都市高速道路の導入等を訴える。

1957(昭和32)年7月 建設省が「東京都市計画都市高速道路に関する基本方針」を作成し、経過地の選定に不利用地、河川、運河等を利用すること等の方針が打ち出された。

1957(昭和32)年8月 東京都市計画地方審議会に、高速道路調査特別委員会を設置。

1958(昭和33)年1月 東京オリンピック準備委員会・設立準備委員会及び第1回総会開催。

1958(昭和33)年4月 国会でオリンピック東京招致決議案を可決(衆議院15日、参議院16日)

1959(昭和34)年1月 首都高速道路公団法が閣議決定され国会へ提出。

1959(昭和34)年4月8日 首都高速道路公団法成立(同14日公布・施行)

1959(昭和34)年5月 首都高速道路の都市計画決定に向けた取り組みが重ねられた最中に東京オリンピック開催決定

1959(昭和34)年6月 首都高速道路公団(現・首都高速道路株式会社)発足

1960(昭和35) 首都圏整備委員会で首都高速道路や都道が「オリンピック関連道路」として位置付け議決。

 

 斜字部分は私が参考までに追記

 大学の教授ならともかく、一般紙の記者に「首都高速道路公団●●年史の●頁に載っていることと違う!」なんて記事の水準は求めるべくもないが、通常の注意力があれば、自分が参考にした(であろう)「今年6⽉の建設関係の団体の講演会」の話が、自分が参考にした(であろう)プロジェクトXと違うぞと気づくのを求めるのは酷だろうか? 

 ちなみに当該講演は実際には2時間、講演録で8頁である。締め切りに追われていたのかもしれないが、根拠があやふやな同業他社の造語である「空中作戦」にそこまで固執しなくてもよかったのではないだろうか。。。 

 ちなみに、当時の毎日新聞を調べてみるとこんな記事が載っている。 

毎日新聞⿊川晋史記者のオリンピックと首都高空中作戦記事 (3) 

 「都内に(有料)高速道路 川の上など利用、八本」という題名で、添付されている「首都高速道路事業計画図」は、現在の路線図とほぼ同じだ。(厳密には羽田空港付近と人形町付近等が変更されている。) 

 ちなみに、この毎日新聞の記事の日付は、 東京オリンピック開催決定より約10箇月前の1958(昭和33)年8月24日夕刊である。記事中に「東京オリンピック」という言葉は見られない。

 黒川晋史記者の「64年五輪の開催が決まったのは59年。当時は本格的な⾞社会の到来で深刻な交通渋滞が懸念されていた。放置すれば五輪関係者の移動にも混乱が⽣じかねない。そこで渋滞緩和を目指して計画されたのが⾸都⾼速道路だった。⽤地買収の⼿間を省くため川や道路の上に⾼架を通す「空中作戦」など、五輪に間に合わせるために奇策も使って⼯期を短縮」という記事と、黒川晋史記者の先輩が書いた記事を比較しての感想は如何であろうか? 

 黒川晋史記者を指導・教育する立場の上司の方が「黒川君、当時のわが社の記事のデータベースくらいチェックしておいたかい?」と一言かけてくれればこんなことにはならなかったのではないかと悔やまれる。  

  

 黒川晋史記者のために付言しておくと、実際に首都高の河川上等を利用した初期のルート決定は下記の形で決まっている。 

毎日新聞⿊川晋史記者のオリンピックと首都高空中作戦記事 (1) 

毎日新聞⿊川晋史記者のオリンピックと首都高空中作戦記事 (2) 

 ※このときは、まだ羽田空港には直結していない。 

 「昭和40年には、(略)交通能力が満度に達するものと想定されるので、都内の自動車の増加率並びに平面道路の交通処理能力からも極めて短期間に建設されることが必要であることを強く要望いたします。」が、昭和32年当時に首都高を急いで建設する理由とされている。

 黒川晋史記者の書く「64年五輪の開催が決まったのは59年。当時は本格的な⾞社会の到来で深刻な交通渋滞が懸念されていた。放置すれば五輪関係者の移動にも混乱が⽣じかねない。そこで渋滞緩和を目指して計画されたのが⾸都⾼速道路だった。」と比較してみては如何であろうか? 

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 黒川晋史記者は、 「名橋『⽇本橋』保存会」の中村胤夫会長のコメント等を通して、当初は「新しい物ができる期待感が強」かったが「そのうちに「圧迫感がある」「⽇陰ができて暗くなる」という声が上がり始める。」としている。

 当時(1959(昭和34)年2月23日)の毎日新聞で 黒川晋史記者の先輩は、そのあたりどう報道したのだろうか?

首都高諸橋雅之氏の日本橋ヤボ発言を検証する3 

 当時の毎日新聞では「都の高速道路に物いい」という見出しで都内の反対運動を報道している。 

 日本橋がある中央区内では「中央区内を通る高速道路はすべて地下式にしてしまえというわけだ。」とのこと。 ただし、この時点では首都高は日本橋の下を通っていたのだが(日本橋の上を通過するように変更されたのは狩野川台風による水害を踏まえてのもの)。

 日本橋のところで首都高が下を通る計画から上を通るように変更された経緯はこちら。いずれにせよ東京オリンピック決定前に日本橋の上を通るように変更されているのだが。

首都高速の日本橋附近は掘割型式で進めるはずだった3

 

首都高速道路のネットワーク形成の歴史と計画思想に関する研究」古川公毅・著 45頁から引用。

 

 あわせて1960(昭和35)年4月13日付け読売新聞の報道も見てみよう。 

毎日新聞⿊川晋史記者のオリンピックと首都高空中作戦記事 (10) 

毎日新聞⿊川晋史記者のオリンピックと首都高空中作戦記事 (7) 

 「名橋「日本橋」の上をまたいで四号線が通るのは反対、すれすれでよいから橋の下を通るべきだ。」と、実際には地元は日本橋の上を首都高が通過することを反対していたことが分かる。 

 ところで、毎日新聞の記事の日付に注目していただきたいのだが、1959(昭和34)年2月23日 である。

 黒川晋史記者は「川や道路の上に⾼架を通す「空中作戦」など、五輪に間に合わせるために奇策も使って⼯期を短縮」と書くが、中央区や港区が首都高の高架に反対したのは、黒川晋史記者の先輩の記事によれば東京オリンピック決定以前である。また、日本橋の上を首都高が通ることが決定(変更)したのもオリンピック決定前に狩野川台風による水害を踏まえてのものである。 

 やはり、黒川晋史記者を指導・教育する立場の上司の方が「黒川君、当時のわが社の記事のデータベースくらいチェックしておいたかい?」と一言かけておくべきだったのではないか。  

 また、上記の読売新聞によると東京オリンピック決定後も日本橋の上を首都高が通ることを反対しており、 「名橋『⽇本橋』保存会」の中村胤夫会長のコメントとはニュアンスが異なる。まあ、ここは「個人の感想です」といったところか。

 

 ちなみに「首都高研究家」の清水草一氏は「日本橋の上空を通過している首都高が、景観を悪化させていると言われ、地下化が決定しているが、建設当時、反対運動は皆無だった。」と述べている。

https://kurukura.jp/car/2021-0614-60.html

 ご参考まで。

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 ところで「東京オリンピックに間に合わせるために河川の上に高架」史観は、プロジェクトXや黒川晋史記者だけでなく、コミックの世界でも見られる。 

 毎日新聞⿊川晋史記者のオリンピックと首都高空中作戦記事 (8)

 上記は、楠みちはる先生の「湾岸ミッドナイトC1ランナー」2巻9頁から台詞だけ抜粋したものである。 

 いちいち対比表は作らないが、私の言わんとしていることがご理解いただけるだろう。 

 なお、一般社団法人建設コンサルタンツ協会の「東京オリンピック1964に向けた首都高速道路の整備」の講演記録と比較すると、当初の開通路線も異なっている(都心環状線の東側か西側かの違いにご注目)。

毎日新聞⿊川晋史記者のオリンピックと首都高空中作戦記事 (1) 

 まあ、こちらはファンタジーだから、もっともらしく楽しめればよい話なので、時系列も路線図もあまり揚げ足を取るようなことは無粋かもしれないが、くれぐれも真に受けないようにといったところか。 

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 「じゃあ、首都高成立の経緯は何が正しいんだよ」とおっしゃる方には、これがお勧め。

「首都高速道路のネットワーク形成の歴史と計画思想に関する研究」

https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000010064301-00

 黒川晋史記者も竹橋から国会図書館はすぐなので一読してみては如何か?

 黒川晋史記者が参考にしたと思われる「今年6⽉の建設関係の団体の講演会」の檀上に立った方でもあるので、是非。

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2021年7月11日 (日)

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる~幻の成田新幹線市川市内ルートはどこに~

※本稿は、2022年1月に大幅に追記・修正しております。

 上記は、千葉県市川市の東西線行徳駅から東側に向かった箇所である。

 左側に見える高架橋は、東京メトロ東西線である。

 昨今ネット等では、「ここが成田新幹線の遺構である」といった話を見聞きするので、今回はそのネタを検証してみたい。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (1)

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (2)

 当該区間を、成田新幹線の建設主体である日本鉄道建設公団が1974(昭和49)年に発行した「成田新幹線東京・成田空港間線路平面図」で見るとこんな感じである。

そして、上空から見るとこんな感じである。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (3)

 確かに立派な側道ではある。

 「東京メトロ東西線の行徳駅付近の遊歩道付きの側道が立派なのは、ここに成田新幹線が通るはずだったからで、この立派な側道は成田新幹線の遺構である。」といった話を上記の写真とセットで聞かされると、合点する方もいらっしゃるかもしれない。
 

 一方で、下記のような資料もある。

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (4)  

 これは、市川市議会の議事録の抜粋である。 

 成田新幹線の工事実施計画について運輸大臣から日本鉄道建設公団へ認可されたのは、1972(昭和47)年2月である。 

 その直後の市議会ということになる。 

 質問している近藤喜重議員は、行徳地区と関わりがあるようだが、成田新幹線が「東西線より50m海寄りを通る」と発言している。 

 果たして成田新幹線はどこを通る計画だったのか?

 まずはそこから資料を整理してみたい。

 

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東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (5)  

 私の可能な範囲で、成田新幹線の市川市内のルートに関係する資料を集めてみた。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (6)

 まずは、本家本元の日本鉄道建設公団である。

 公団の「成田新幹線工事の概要」では、「区画整理事業に出来る限り支障しないよう技術的に可能な限り地下鉄5号線(現・東京メトロ東西線)に近接することとしております。」と書いており、東西線と成田新幹線をどの程度離すかの具体の数字は書いていない。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (7)


 公団職員が業界誌に寄稿した報文「成田新幹線の建設計画」では、「地下鉄5号線の南側に殆ど並行して葛西・浦安・行徳を経て」とこれまたビミョーな書き方をしている。

 

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (8)

 一方、浦安町誌では「東西線と50メートルの間隔をおいて住宅街を縦断する。」と記載している。市川市内については具体の記載はなく、そのまま「船橋市の市街地はトンネル」としている。そのまま読めば、浦安から船橋まで変化なしということであれば、市川市内も「東西線と50メートルの間隔」と読めなくもない。

 では、市川市内ではどの程度離れていたのだろうか?

 具体的に言及したものはあるのか?

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (9)

 冒頭にあげた市川市議会での議事録である。

 成田新幹線は「地下鉄東西線より50m海寄りを通るということでは、その間にはさまった4倍にもなる土地は全く死に地になってしまうわけであります。」と発言し、通過地点も具体的に、南行徳、行徳、妙典、田尻、原木と書いてある。

 ここで「南行徳第1、第2、第3、行徳土地区画整理組合」という言葉が出てくるので、覚えておいていただきたい。後ほど説明する。  

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (10)  

 近藤喜重議員は、成田新幹線の買収対象となる関係地権者数を具体的にあげているが、後述するように、当時は(今も?)詳細な図面が公になっていないため、11m50cmの想定される用地買収幅員(高架橋の構造物幅員11m+施工余裕幅左右25cmずつ?)から、市川市か議員が独自に算出したものと思われる。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (11)

 富川進・市川市長(当時)が、サンケイ新聞の取材に対して「新幹線は、東西線と並行に走るため、東西線と新幹線にはさまれた区画整理の土地は、騒音と振動公害に悩まされ買い手がなくなる」とコメントしている。

 先に、近藤市議が「その間にはさまった4倍にもなる土地は全く死に地になってしまうわけであります。」と発言していることと平仄があう。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (12)

 一方、昨今のネット等で主流のような「東西線の側道部分に成田新幹線が走る計画」と、市川市長、市川市議会議員の発言は平仄がとれない。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (13)

 また、日本鉄道建設公団が千葉県に対して、新幹線は「東西線に沿って高架で浦安町にはいり、東西線の南側50メートルを東進、京葉道路をまたぐ」と示したと伝える記事もある。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (14)

 日本鉄道建設公団が公開している図面や資料では詳細には分からないはずなのに、市川市長や市川市会議員が「東西線と新幹線にはさまれた区画整理の土地」とか「東西線より50m海寄り」とか発言しているのは、何が根拠なのだろうと不思議だったのだが、上記の毎日新聞の記事によれば、公団が千葉県にその旨説明したようだ。

 なお、1972(昭和47)年2月15日付千葉日報によると、同年2月14日(上記毎日新聞記事の3日前)に、公団が千葉県に対する第1回の説明会を行っている。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (15)

 ちなみに、江戸川区内でも「東西線の南側約50メートルを並行して走り、高架で抜ける」との報道がされている。

 当時の報道では、東西線沿いの高架区間は、江戸川区・浦安町・市川市と一気通貫で「東西線の南側約50メートル」に成田新幹線が通ることで揃っていることになる。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (16)

 ここまでは、成田新幹線と東西線が約50メートル間隔を空けている旨の報道を紹介してきたが、そうでない説も紹介しておく。

 草町義和氏は「鉄道ライターのなかでも、廃線跡や未成線跡の調査を専門としている」(「全国未成線ガイド」宝島社・刊の監修者紹介欄から)とのことだ。

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (17)

 草町義和氏は、鉄道ファン2008年8月号に掲載された「幻の成田新幹線をたどる」に

昭和47年計画の線路平面図を見る限りでは,江戸川区内と浦安市内は東西線から少し離れた場所を通っているように思われ,実際に東西線の高架橋にぴったり張り付くような線形になっていたのは市川市内だけだったようである.

 と書いている。

 その判断の根拠としては、「昭和47年計画における線路平面図(縮尺5万分の1)や線路縦断面図(縮尺横2万5000分の1,縦2000分の1)」「昭和49年計画」といった資料(同著112頁)を入手されたうえで現地を検証しているとのことである。

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (18)草町義和氏「幻の成田新幹線をたどる」

 「おさらい」として、今まであげてきた成田新幹線と東西線の位置関係に係る報道・記事を時系列で並べてみた。

 如何だろうか?

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (19)

 ところで、鉄道建設公団、市川市会議員、市川市長等と草町義和氏の主張の差を判別できる資料はあるのか?

 

 

 地元自治体の資料等を読んでいると、地元住民等は「用地買収の対象を示せ」と要求しているが、公団側は「実際に現地を測量しないと示せない」と回答し、そして関係自治体と地元住民は公団による現地測量は阻止しているので、詳細な図面は公開されないままになっているようだ。

 1972(昭和47)年2月18日に実施された公団による地元市町村長への説明会においても5万分の1の地図で計画を説明したとの報道がある。( 1972(昭和47)年2月19日付千葉日報)



東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (20)

 草町義和氏は、成田新幹線の工事実施計画を入手しているようだが、そこにはどんな資料が含まれているのだろうか?

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (21)

 こちらが全国新幹線鉄道整備法施行規則に定められた、新幹線の工事実施計画に係る書類の抜粋である。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (22)

 先にもあげたところであるが、この図面が実際に日本鉄道建設公団が作成した5万分の1の平面図である。

 工事実施計画にこの地図が使われたかどうかは分からないが、縮尺としてどのようなレベルのものかはイメージしていただけるだろう。

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (24)

 ご覧いただいたとおり、5万分の1の平面図では、50mの離隔はなかなか判別できないと思われる。

 5万分の1だと、50mは1mmしかない。私は老眼なのでわからんちんである。草町義和氏は判別できたようであるが。

 また、東西線と成田新幹線の「構造物の外側同士」が50m離れているのか東西線と成田新幹線の「中心線同士」が50m離れているのか?といった点が記事等だけでは明確でないというところもある。どちらかによって具体の離隔が10mほど変わってくる。

 市川市長は「間にはさまれた区画整理の土地は、買い手がなくなる」と語っているので、売却できるほどの幅があったということだろうか。

 草町義和氏は、「線路縦断面図(縮尺横2万5000分の1,縦2000分の1)」「昭和49年計画」といった資料も持っておられるようなので、それらも含めた総合的判断をされたということだろうか。

上記は、草町義和氏のツイッターから。 

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (24)

 (追記)

 一旦「これ以上詳細な図面は見つけられなかった」としてブログにUPしたが、その後の調査で、5万分の1よりも詳細な図面(ただし部分的なもので全線ではない)を含んだ運輸省の書類(報告書)を見つけることができた。追記としてその資料を公開したい。

 その名も「新東京国際空港関連交通計画調査 報告書」である。

 1979(昭和54)年3月に運輸省が作成したものだ。

 いわゆるA案B案C案という新幹線の代替案が提出されたのは1982(昭和57)年だが、そのタタキ台となる報告書なのだろう。

 その中に「新幹線ルート」と書いた2万5千分の1の図面が含まれている。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (25)

 

 これが新たに発掘した成田新幹線の別の図面である。

 余談だが「湾岸・北千葉ルート」というのは、後の成田高速鉄道のA案(京葉線から千葉ニュータウンへと抜ける案)のプロトタイプと思われる。(実際には、A案は西船橋付近を経由するルートとして公表された。)

 東京外環自動車道とがっつりかぶっているような気がしなくもない。

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる(26)

 成田新幹線の市川市付近を拡大してみる。

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる(27)

 ズバリの行徳駅付近の図面はなかったが、現在の妙典駅付近は分かる。

 図面についているメジャー(?)と見比べてみて、草町義和氏の「東西線の高架橋にぴったり張り付くような線形になっていたのは市川市内だけ」という主張と、鉄道建設公団が「浦安町に入り、東西線の南側50メートルを東進、京葉道路をまたぐ」と説明したという報道のどちらに説得力があるかご判断いただければよろしいかと思う。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (28)

 成田新幹線の図面が「バージョン違い」ということもあるかも?と考える方もいらっしゃるかもしれない。

 草町義和氏が鉄道ファン「幻の成田新幹線をたどる」2008年8月号113頁に書いた「真間川左岸の買収地」もこの「新幹線ルート」に乗ってくるので、「違うバージョンの地図」ということもないのではないかと考えている。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる(29)

 東西線と成田新幹線の位置関係(南側50メートル)のまとめをしてみよう。

 草町義和氏の「東西線と成田新幹線がぴったり張り付くような線形になっていた」(「幻の成田新幹線をたどる」113頁)という記述に対して、毎日新聞の報道では、鉄道建設公団が千葉県に「東西線の南側50メートル」と示し、市川市長や市議会議員の議会等における発言と平仄がとれていた。

 更に、運輸省が後年作成した「新東京国際空港関連交通計画調査 報告書」に出てくる「新幹線ルート」も少なくとも妙典附近は「東西線の南側50メートル」付近を走っていることが分かる。

(ちなみにこの報告書は誰でも閲覧することができるよ)

 

 

 一方で、「成田新幹線が東西線に沿って走るはずだった」といった主張をする方は、当時の市川市長の発言や市川市議会議事録に残るやりとりに対してどう考えるのかをあわせて表明する必要があるのではないだろうか?

 「反日マスコミには騙されない」とか

 「市川市議会議員は反対を煽るため、話をふくらませているだけだ」とか

 「国策である新幹線に反対するような”プロ市長(ちなみに自民党推薦)”よりも、鉄道ファン誌に掲載される鉄道ライターの方が鉄道知識は詳しいに決まっている」とか

 「日本鉄道建設公団がそう地元に説明したという新聞記事があるからといっても、全部の区間が50m離れていたとは書いていない。市川市内だけはそんなに離れていない区間があってもおかしくはない。」とか

 でもいいと思うのだが、当時の新聞報道や市議会でのやりとりや運輸省の報告書を打ち消す決意表明(できればその決意を補強する物証も添えて)をしていただければよろしいのではないかと。

 もちろん、5千分の1等の縮尺で、実際に「50m空いている空いていない」が判別できる詳細な工事用平面図をお示しいただければ言うことはないのだが。

「そんなん、当時の都市計画の図面見たら分かるんちゃうのん?」と思う方がいらっしゃるかもしれない。

 ところが、当時の成田新幹線も東北新幹線も都市計画決定の手続きは一切取っていない。住民や地元行政との擦り合わせの手続き一切なしで、「運輸大臣の認可が取れたので路線発表する。ただし今後変更は一切ない。」とやったので大反発を買ったのだ。

 「でも最近の新幹線はちゃんと都市計画決定の手続きを取ってるのだし、当時もそうなんちゃうのん?」と思う方もいらっしゃるかもしれないが、過去の反省を踏まえて都市計画決定するようになったのだ。 

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (30)

 なお、江東区と江戸川区を結ぶ清砂大橋は、東西線の南側に近接して架設されており、「本当はここは清砂大橋ではなく成田新幹線が来るはずだった」といった話も仄聞されるが、東西線の設計時に、清砂大橋が近接して架設されることを前提に東京都と営団地下鉄が協議していたことが営団地下鉄が発行した「東西線建設史」から分かる。

 おって、「清砂大橋を避けたから、東西線の50m南に新幹線が計画されたかどうか」については、判断できる資料を見つけられていない。

 だが、こちらも上記の運輸省報告書で位置関係を確認することができる。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (31)

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (32)

 やはり東西線と「成田新幹線ルート」は相応に離れている。

 ネットで散見されるような、清砂大橋を指して「ここに成田新幹線が来るはずだった」という説は否定されると言ってよいのではないか?

 

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東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (33)

 ところで、東西線と側道の関係はこんな感じに並んでいる。

 市川市南行徳第二土地区画整理組合が1974(昭和49)年に発行した「記念誌 区画整理のあゆみ」では、東西線と側道の関係がよく分かる写真が掲載されている。

 こんなガクガクした側道を成田新幹線が走れるのだろうか?

 「東西線と成田新幹線がぴったり張り付くような線形になっていた」(草町義和氏「幻の成田新幹線をたどる」113頁)というと、埼京線と東北新幹線のような位置関係をイメージしている方がいらっしゃるかもしれない。

 埼京線と東北新幹線の関係はこんな感じ。

 これは武蔵浦和駅付近であるが、東北新幹線はまっすぐ走りつつ、埼京線のホームは右側(東側)に膨らんで、新幹線の直進を妨げないような構造になっている。 

 一方で、東西線と成田新幹線の関係はどうか。 

 

 これは行徳駅付近であるが、東西線は直進し、ホームはその両外側に膨らむ形で設けられている。これでは、「東西線と成田新幹線がぴったり張り付くような線形」(草町義和氏「幻の成田新幹線をたどる」113頁)だとすると、東西線のホームの幅だけ成田新幹線がそこをカーブして膨らんでいく形になってしまう。それとも成田新幹線建設の際には東西線を北側に移設する構想だったのだろうか?

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (34)

 ただでさえ、東西線は成田新幹線の直進を妨げるような線形となっていることに加えて、更に東西線行徳駅には拡張計画がある。 

 営団地下鉄の「東西線建設史」には、「浦安、行徳両駅は相対式ホームとし、将来両外側に1線ずつ線路が増設できるように計画した。」と書いている。 

 先にあげた区画整理組合記念誌掲載の写真の東西線ホームと側道の間の草地は将来線予定地ではないだろうか?東西線行徳駅付近の膨らみは、現状よりも更に拡がる余地がある。

 埼京線と東北新幹線のような新幹線の高速走行を損なわないような位置関係とはいかない可能性がある。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (35)

 東西線側道のここをカクっと曲がって成田新幹線が通りますかね。

 

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東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (36)

「でも、東西線のあんな立派な側道は、成田新幹線のためとしか思えないんですけど?」 

 こんなことを思う方もいらっしゃるかもしれないので、次にそこを検証してみよう。

 あの東西線の側道はいつだれがなんのために作ったのか?

 ※草町義和氏が「この側道は成田新幹線のため」と言っているのではない点にはご留意を。

 ただし、「この側道は成田新幹線のため」とネットに書いている方にお尋ねすると「草町義和氏の鉄道ファンの記事を読んだ」という回答を頂戴したという経緯があったのでご参考までということで。

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (37)

 市川市長や市川市会議員の発言に出てくる市川の区画整理事業であるが、左図を御覧のように、東西線(成田新幹線)経過地の殆どが区画整理事業が行われた箇所である。

 市川市ウェブサイトの「市川市の土地区画整理事業」には、上図のような位置図が公開されている。

 https://www.city.ichikawa.lg.jp/common/000355873.pdf

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (38)

 市川市南行徳第二土地区画整理組合が1974(昭和49)年に発行した「記念誌 区画整理のあゆみ」には、東西線の両側に「11mの側道を配置した」とある。

 成田新幹線とは関係なく、元々区画整理事業の一環として整備されたのである。

 上記の区画整理の模型で東西線に側道が設けられていることが確認できる。

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (39)

 こちらは、市川市行徳土地区画整理組合が1975(昭和50)年に発行した「記念誌 区画整理のあゆみ」から。

 個人サイト等で、成田新幹線の名残で立派な緑道が東西線沿いにあるという趣旨の記述があるが、もともと区画整理事業の一環として「幅員11mの側道を配置し散策に適した緑道的性格を持たせる」とあるのだ。

 成田新幹線の工事凍結は、1983(昭和58)年である。もしこの緑道が新幹線の遺構、名残であれば、 1975(昭和50)年に「幅員11mの側道を配置し散策に適した緑道」と書いた区画整理記念誌が発行されることはありえない。

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (40)

 東西線の側道は、成田新幹線の計画の遺構ではなく、東西線建設にあわせて施行していた区画整理事業によって、成田新幹線公示凍結前に整備したものである。

 東西線の駅前広場用地等も同時に減歩によって確保された。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (41)

 行徳地区に限らず、江戸川区から市川市にかけて多くの地区で、東西線建設用地自体が側道とともに、地元の区画整理の協力で捻出された。

 営団地下鉄の「東西線建設史」では、

荒川を越えた小島地区から西船橋に至る区間は(略)この膨大な土地買収を効率的に実施するため,営団は,東西線の計画決定を契機に,同線経過地に,土地区画整理組合(以下区整という)の設立機運が高まっていることに着目し,この区整を対象とした,保留地先買方式による集団交渉方式を採用する方針を決定した。

 と述べている。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (42)

 また、同様に「東西線建設史」では、

「南行徳第1、第2、第3区整においても,前述の区整地区とほぼ同様の手続きにより用地買収を行った。行徳区整は,区整の設立準備も整っていない地区であったが,営団は市川市とともに,地元民に対し区整事業の必要性を説き,準備委員会を発足させ,これと折衝に入り,難航していた土地の価格統一にも成功し,これを盛り込んだ保留地先買方式による買収を組合成立認可申請前の準備組合の段階で行った。」

 と述べている。こんなに鉄道事業促進に協力した行徳地区等の人々に対して「たまたま自分の趣味/性癖の対象が公共的機関だったことを奇貨として、自分の考え方が公共的だと勘違いした方々」が「プロ市民」呼ばわりしたりするのであるが。

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (43)

 これは、東西線建設史及び南行徳第一区画整理組合記念誌から作成した、東西線と行徳地区の区画整理事業の時系列である。

 約10年をかけて、東西線の計画から建設にあわせて行徳地区が区画整理事業を実施し、その建設用地を提供できるように取り組んできたことがお分かりになるかと思う。

 その最後の仕上げの清算の段階で、成田新幹線が事前調整全くなしに飛び込んできたのである。だから地元が反発したのだ。

 川島令三氏や草町義和氏の本ばかり読んでいてはこういう話は出てこないのであるが。区画整理事業のことは理解できなくても、鉄道マニアならせめて東西線の建設史だけでも読んでみると違うのだが。

 

 ちなみに区画整理事業について知りたい方は、上記の動画等を見るのもよいかもしれない。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (44)

 これは、東西線用地が区画整理事業により取得されたことが分かる登記簿である。

 「表題部」の「原因及びその日付」の項に「土地区画整理法による換地処分により保留地決定」とある。

 なお、登記の日付は本換地(換地処分)の日付であり、実際にはそれ以前に仮換地で収益を開始している。東西線の開通は1969(昭和44)年なので、そのときまでに仮換地されているはずだ。

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (45)

 そして、これが東西線の側道が区画整理事業により東西線と同時に整備されたことが分かる登記簿である。

 「表題部」の「原因及びその日付」の項に「土地区画整理法による換地処分により保留地決定」とあるし、表題部が作成された日付は東西線用地と同日であることが分かる。

 この側道が成田新幹線の遺構由来であればこうはならないのだ。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (46)

 登記簿だけでは位置関係が分かりにくいので、当該地番付近の公図も貼っておこう。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (47)

 あわせて、成田新幹線計画が世に出る前の国土地理院の空中写真で確認してみる。

 行徳駅付近の東西線と側道等が写っている。

 左側のハコの「撮影年月日」を見ると、1971年4月に撮影したものだということが分かる。

 遅くとも1971(昭和46)年4月には、東西線の側道ができていることが分かる。

 側道が成田新幹線の遺構であれば、路線発表(1972年2月)より先に側道ができているはずがない。

 私のように千葉県内の図書館をあちこちまわったりお金を払って登記をとったりしなくても、国土地理院の空中写真をコタツから閲覧すれば、一目で「東西線の側道は成田新幹線計画よりも先に作られている」ということが分かる。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (48)

 これは、先にあげた近藤喜重・市川市議会議員が市川市議会で行った質問からの抜粋である。

 上の年表では、1964(昭和39)年の営団地下鉄の免許申請からスタートしているが、実際には、1963(昭和38)年から地元との調整が始まっていることが分かる。

 約10年間の東西線建設と地元の街づくりの調整の歴史が最終段階になって調整なしに乱入してきた成田新幹線によってひっくり返されようとしている経緯がお分かりになろう。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (49)

 これは近藤議員の質問に対する市川市土木部長からの答弁である。

 「せっかくいままでお骨折りをいただきまして、解散の時期に来ているわけでございますが、この時期もおのずから延びるということで、私ども区画整理を担当してる者といたしましてこの成田新幹線問題はたいへん困った問題ということで苦慮しているわけでございます。

 単に「プロ市民」の声が大きいのではなく、行政としても「たいへん困った問題ということで苦慮」しているのだ。

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (50)

 現在存在する東西線の立派な側道と成田新幹線の計画は全く関係ないことがお分かりいただけたのではないかと思う。

 仮に、「東西線と成田新幹線がぴったり張り付くような線形になっていた」としても、それは今の側道とは切り離して、改めて整備されるべきものである。

(※草町義和氏は「東西線の側道が成田新幹線の遺構だ」と言っているわけではないのでそこはご留意を。)

 江戸川区内の葛西地区等も精査すれば同様の事情が明らかになる可能性があるのではないかと思われる。

 

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東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (51)

 「成田新幹線計画がおおっぴらにされていなかっただけで、実は地元の反対を呼ばないように水面下で調整して、側道の名目で土地を確保していたんじゃないか」

という考えを持つ方もいらっしゃるかもしれない。

 それならば、東西線の側道が成田新幹線の高架が収まるだけの幅を確保している必要があるのではないか?

 ここからは

「そもそも、東西線の側道の幅に成田新幹線は収まるのか?」

について検証してみたい。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (52)

 上記は、1972(昭和47)年6月9日参議院運輸委員会における長浜正雄氏(日本国有鉄道理事)の答弁であるが、

 新幹線の側道について「側道を4メートル片側、あるいは地域によりましては両側につくるようにしております」と答弁している。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (53)

 そして、上の図面は、「成田新幹線工事の概要」日本鉄道建設公団東京支社・刊に掲載されていた成田新幹線の標準的な構造物の横断図面である。

 国鉄長浜理事の答弁によれば当時の、新幹線の標準的な側道の幅員は4メートルとのことであるから、実際の用地買収の幅は、側道が片側のみの場合15メートル、側道が両側に設けられる場合は19メートル以上となる。

 これが東西線の今の側道におさまるのだろうか?

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (54)

 なお、市川市議会議員の質問にもあったように構造物の実測値に50cmを加えて用地買収を考えていたようである。

 実際には、側道等の条件は地元と協議してからでないと確定しないものである。

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する (21)  

 上記は、JR東海のリニア建設手順の説明用の資料からの抜粋である。

 ここにいう「鉄道と交差する道路や水路の付け替えについて地元と協議」のうえ決まるものであり、この質疑の段階ではそんな協議は当然進んでいないので、新幹線の高架橋の部分だけの幅が取り上げられたのだろう。実際にはこのような協議にまでは至らずに新幹線工事は断念されたと思われる。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (55)

 新幹線が収まるためには、片側に側道込みなら15メートル、側道なしでも11.5メートル、両側に側道ありなら19メートル必要と思われるが、東西線の側道の幅はそんなにあるのか?。

 市川市のウェブサイトで道路幅員を調べてみる。よろしければ、下記のリンク先からみなさんもどうぞ。

https://www.city.ichikawa.lg.jp/roa02/1111000057.html

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (56)

https://www.city.ichikawa.lg.jp/common/000238974.pdf

 11.5メートル以上の幅はなさそうですね。。。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (57)

https://www.city.ichikawa.lg.jp/common/000238999.pdf

 10メートルちょっとしかない区間もありますね。側道の幅員を計算に入れないとしても成田新幹線の高架橋自体が収まりませんね。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (58)

 「成田新幹線計画が頓挫したので、その用地を側道に転用した」という趣旨の話をネット等で見聞きするが、もしそうであれば、東西線側道の幅員は最低でも11.5メートルは欲しいところだ。

 しかし、実際には11.5メートルどころか、10メートルちょっとしかない区間もあり、成田新幹線の側道なしの高架橋だけの幅を考えたとしても、東西線の側道には収まらない。

 ここに成田新幹線の側道4メートルを加えれば、片側だけでも15メートル以上となり、今の東西線側道から更に約5メートル広げる(=追加用地買収する)必要があることになる。

 ということで

 「成田新幹線計画がおおっぴらにされていなかっただけで、実は地元の反対を呼ばないように水面下で調整して、側道の名目で土地を確保していたんじゃないか」

 という考えは否定されたと言っても過言ではないだろう。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (59)

 なお、実際には、国鉄・鉄道建設公団と地元自治体との事前調整はなかったことが当時の報道から分かる。

 成田新幹線が沿線の殆どの自治体から反対されて頓挫したのは、この「あえて事前の説明なしに計画を決定する」(鉄道建設公団東京新幹線局 清崎義春次長)という作戦の失敗によるところが大なのではないか?と私は考えている。ぶっちゃけ「プロ市民」云々以前に地元行政から「総スカン」のまま終始したのが成田新幹線である。

 同じように住民以前に地元自治体から「総スカン」だった当時の首都圏の鉄道建設計画では、都内・埼玉県内の東北新幹線や横浜貨物線があった。東北新幹線では、赤羽駅立体化、埼京線、ニューシャトル等の「おみやげ」があったし、横浜貨物線については、横浜市側に「みなとみらい計画地区内にある国鉄の貨物駅敷地を有利に取得しよう」という取引材料があった。ところが成田新幹線は「おみやげ」どころか、千葉県営鉄道計画とバッティングするのであった(結局共倒れ)。この辺はまた別稿としたい。

 

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東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (60)

 最後にもう一つ、行徳地区と成田新幹線の話題を検証してみよう。

 成田新幹線建設用地と言われるマンション「レールシティ行徳」の土地の登記簿を閲覧したので、分析してみた。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (61)

 「また,行徳駅の少し先にはごくわずかではあるが,成田新幹線用の建設用地を買収した記録が残っており,現在その場所にはマンションが建っている.ただ,この建設用地に成田新幹線の高架橋をそのまま建設すると,東西線と成田新幹線の間に側道を挟みこむ形になってしまう.これでは側道の意味をなさないので,実際には建設用地として買収した土地を側道と交換したうえで,成田新幹線の高架橋を建設することになったのではないだろうか.」

「幻の成田新幹線をたどる」草町義和・著

「鉄道ファン」2008(平成20)年8月号 113頁から

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (62)

 

「(略)市川市に入ると東西線行徳駅の少し先に、ごく僅かではあるが成田新幹線の建設用地を買収した記録が残っていた。現在その場所には「レールシティ」という名前のマンションが建っている(略) 」

「幻の成田新幹線をたどる」草町義和・著

「鉄道未完成路線を往く」講談社・刊 28~29頁から

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (63)  

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (64)

 草町義和氏が「成田新幹線建設用地」とするレールシティ行徳の位置を、さきほどご紹介した市川市のウェブサイトから紹介するとこちらである。

https://www.city.ichikawa.lg.jp/common/000238974.pdf

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (65)

 同様に、市川市ウェブサイトの区画整理事業の頁から拾うと、上記の38街区③-1、③-2、③-3である。

https://www.city.ichikawa.lg.jp/common/cit02/file/0000360551.pdf

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (66)

 で、当該レールシティ行徳の所在地の土地の不動産登記簿をとってみた。

 上記の区画整理事業の③-1~3はあくまでも区画整理事業の土地の表示であって、実際の不動産登記簿では「市川市末広町一丁目15番11~13」で、現在は3つの筆を15番11に合筆している。

 ここで注目したいのは、右上「原因及びその日付」の項の「土地区画整理法による換地処分により保留地設定」という記載である。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (67)

 「土地区画整理法による換地処分により保留地設定」とはなんぞやということだが、他の土地区画整理事業の説明資料からコピペしてきたらこんな感じ。

 「土地区画整理事業による市街地の整備は、受益者負担に基づき地権者からの土地の提供(減歩)により行われる。減歩により新しく生み出された土地は、公共用地(道路や公園)と売却する土地とに分けられるが、売却し事業費の一部に充てる土地が保留地である


 減歩により新しく生み出された土地のうちの「公共用地」の例が、先に上げた東西線用地やその側道である。

 レールシティ行徳の土地は、減歩により新しく生み出された土地のうち、「売却し事業費の一部に充てる土地」だったのである。

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (68)

○土地区画整理事業は、道路、公園、河川等の公共施設を整備・改善し、土地の区画を整え宅地の利用の増進を図る事業。

○公共施設が不十分な区域では、地権者からその権利に応じて少しずつ土地を提供してもらい(減歩)、この土地を道路・公園などの公共用地が増える分に充てる他、その一部を売却し事業資金の一部に充てる事業制度。(公共用地が増える分に充てるのが公共減歩、事業資金に充てるのが保留地減歩

○事業資金は、保留地処分金の他、公共側から支出される都市計画道路や公共施設等の整備費(用地費分を含む)に相当する資金から構成される。これらの資金を財源に、公共施設の工事、宅地の整地、家屋の移転補償等が行われる。

https://www.mlit.go.jp/crd/city/sigaiti/information/budget/budget/images/H20kg1.pdf

 これは、土地区画整理事業を所轄する国土交通省のウェブサイトからひいてきた。

 ちなみに、行徳土地区画整理事業の場合の減歩率は19.44%。自分の土地の2割をそれぞれが道路、公園や事業費用に売却する保留地のために差し出して作った街並みなのである。

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる(69)

 で、その保留地はどのように売却していたかというと、

1972(昭和47)年2月20日付読売新聞(千葉版)では「毎月1回、組合の保留地を分譲しており、5倍の競争率で飛ぶように売れている。」とある。

 競争による売却というと、価格競争(入札)か、定価による抽選等が考えられるが、「5倍の競争率」ということであれば、抽選で売却していたのだろうか。

 その「飛ぶように売れている保留地」が新幹線公害で売れなくなると、既に施工した区画整理事業の事業費が回収できなくなってしまうから地元は深刻なのである。

 上記の記事の後になる、1972(昭和47)年3月24日付毎日新聞では、「入札の客が激減」、「買いたたかれピンチ」、すでに保留地を買った人から「新幹線を隠して売った」「とんだ土地を買わされた」などの苦情も出ていると報じている。

  なお、何度も紹介している近藤議員の質疑があった市川市の昭和47年3月議会において「陳情57号 成田新幹線通過反対に関する陳情」は反対なく採決されている。プロ市民ならぬプロ市議会ですな。

(※こういう経緯を知らないと、成田新幹線への反対運動は理解できないと思う。)

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (70)

 ということで、レールシティ行徳の土地は、区画整理事業費に充てるために売却された「保留地」なんである。

 保留地だからといって何なんだよというのはこれから説明したい

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (71)

 通常の用地買収なら、土地の測量をして高架橋等の設計図と照らし合わせて、必要な土地の範囲を確定し、その土地の所有者等と売買の交渉をして、合意すれば土地売買契約を締結することになる。

 しかし、レールシティ行徳の土地は、保留地=「区画整理事業の事業費に充てるために売却された土地」である。

 実際には、抽選に参加したうえで取得したであろう第三者から鉄道建設公団が転売(交換)してもらったようだ。

 その取得目的は、鉄道施設敷地として買収が必要な土地の「代替地」として交換するために予め買収しておくといったものである可能性も考えられる。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (72)

 もちろん、「保留地を建設用地として買ってはいけないきまり」があるわけではないので、例えば詳細な高架橋や側道の設計図等をもとに、「成田新幹線の建設用地(側道の交換用地等を含む)として必要な土地が、保留地として売りに出されたので、これ幸いとばかりに鉄道建設公団が買収したのだ」ということを立証することも可能だ。グッドな公文書等があれば。

 また、先に上げたように、東西線用地は「区整を対象とした,保留地先買方式」であることを説明したが、これはまさしく鉄道事業者と地権者が事前に交渉・合意して、東西線用地を他の区画整理用地から先行して決めてしまって工事の早期施工を実施可能としたものだ。

 レールシティ行徳の用地でもそのような取り決めをした可能性は否定できない。しかし、成田新幹線に猛反対していた地元事情からは、それを立証するのは並大抵ではないように思うのは私だけだろうか?

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (73)

 ちなみに、東西線の側道の幅が約11メートル、レールシティ行徳の土地の奥行きが上図から約20メートルなので、日本鉄道建設公団が千葉県に説明した(と報道されている)ように成田新幹線は「東西線に沿って高架で浦安町にはいり、東西線の南側50メートルを東進、京葉道路をまたぐ」 ルートをとっているのであれば、この筆は成田新幹線にはかからないことになる。

 

 なお、今回取得した登記簿は、電算化する前の記録が省略されているが、鉄道建設公団が本件土地を取得する前に、他の不動産業者等が契約のうえ、公団に転売(交換)しているようだ。

 (新横浜駅の土地をダミーの不動産業者を使って買い占めた堤康次郎のような事例もある。)

 電算化前の閉鎖登記簿も閲覧したのだが、かえって不明な点も出てきた(とりあえず形式的に立ててみた仮説を潰すこともできたが)ので、引き続き調査を行い、判明したものは別稿としてUPしたい。

 そういう意味では保留地云々の部分は「とりあえず気が付いたのでブログ読者の皆様に課題を共有しておく」といった位置づけである。

 ただし、レールシティ行徳の土地がそこにあるからというだけでは、「東西線の高架橋にぴったり張り付くような線形」であることの証拠としては、弱いと言えるのではないかと私は考えている。

 

 

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 と、長々と成田新幹線の行徳地区通過ルートや伝・建設予定地について触れてきたが、最後にまとめに入りたい。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (74)

〇 日本鉄道建設公団が千葉県に対して、成田新幹線は「東西線の南側50メートル」と示したとする報道がある他、市川市議会での問答や市川市長の発言を伝える報道もそれと矛盾しない。

〇 運輸省の「新東京国際空港関連交通計画調査 報告書」では、妙典駅付近を「東西線の南側50メートル」と思われる形で「新幹線ルート」が走る図面が掲載されている。

〇 東西線の側道は、成田新幹線計画以前に地元の区画整理事業によってつくられたもので、成田新幹線とは全く関係ない。

〇 東西線の側道は、成田新幹線の高架橋の幅が収まらない箇所がある他、行徳駅等の形に沿ってカクカクと曲がっている。また、行徳駅は更に外側に線増の計画がある。

〇 レールシティ行徳の土地は、もともと区画整理組合の一般売却用の保留地であって、新幹線建設(側道交換)用地とは断言できないかもしれない。

  

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる(75)  

 

 微力ではあるが、本稿が成田新幹線の「正式な予定ルート」の理解への一助になれば幸いである。

 

 長文お付き合いいただきありがとうございました。 

  

 

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<参考文献> 

「成田新幹線東京・成田空港間線路平面図」日本鉄道建設公団

「成田新幹線工事の概要」日本鉄道建設公団東京支社・刊  

「成田新幹線の建設計画」 延原陽(日本鉄道建設公団新幹線部)・著 「電気車の科学」1972(昭和47)年4月号

「新東京国際空港関連交通計画調査 報告書」運輸省

浦安町誌 

市川市議会議事録 

「東西線建設史」帝都高速度交通営団・刊 

「幻の成田新幹線をたどる」草町義和・著 「鉄道ファン」2008(平成20)年8月号  

「鉄道未完成路線を往く」草町義和・著 講談社・刊  

「全国未成線ガイド」草町義和・監修 宝島社・刊 

「鉄道計画は変わる」草町義和・著 交通新聞社・刊 

「記念誌 区画整理のあゆみ」南行徳第一土地区画整理組合・刊 

「記念誌 区画整理のあゆみ」南行徳第二土地区画整理組合・刊

「記念誌 区画整理のあゆみ」南行徳第三土地区画整理組合・刊

「記念誌 区画整理のあゆみ」行徳土地区画整理組合・刊

「江戸川区区画整理事業四十年の歩み」江戸川区土地区画整理事業団体連合協議会・刊

 その他 各種新聞、国会議事録等 

 

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<「成田新幹線」関係記事> 

「京葉線の東京駅は、成田新幹線用に確保した用地に作った」という人が多いから登記簿をとってみた

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2021/06/post-cd1945.html

成田新幹線の南ルートと北ルート ~千葉ニュータウンを通るのは既定事項ではなかった~

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2021/04/post-8bc927.html

船橋二和高校と日大グランドの間の空間は成田新幹線のために買収した土地の名残だと言われるが、不動産登記簿を閲覧したらそんな売買取引の記録はなかった。

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2021/04/post-305c8a.html

成田新幹線の詳細なルート図面をうpしてみる

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2020/03/post-cbaceb.html

京葉線はかつて新橋経由で都心(新宿、三鷹)に乗り入れる計画だった。

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/post-1315.html

京葉線の中央線方面への延伸と新宿駅予定地~上越新幹線の下に準備。そしてバスタとの関係は?~

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/04/post-f4a3.html

新宿駅への上越新幹線・成田新幹線の乗入れについて報道をまとめてみた(その2)

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/01/post-a27d.html

新宿駅への上越新幹線・成田新幹線の乗入れについて報道をまとめてみた(その1)

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/01/post-d5ec.html

 

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2021年6月 9日 (水)

「京葉線の東京駅は、成田新幹線用に確保した用地に作った」という人が多いから登記簿をとってみた

「船橋二和高校と日大グランドの間の空間は成田新幹線のために買収した土地の名残だと言われるが、不動産登記簿を閲覧したらそんな売買取引の記録はなかった。」

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2021/04/post-305c8a.html

「新宿西口甲州街道交差点 なぜ南側の一角だけビルの背が低いのか等を登記簿から探る」

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2021/05/post-c9067d.html

 と、登記簿ネタでブログを書いてみたら、私の弱小ブログにしてはご好評をいただいたので、調子に乗ってまた登記簿をとってみた。

 また成田新幹線である。

 それも東京駅だ。

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (1)

 「京葉線の東京駅は、成田新幹線用に確保した用地に作った」という人が多いから登記簿をとってみた

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (2)

 「京葉線の東京駅はどうしてあんなに遠いのか?」という問いに対して

「成田新幹線の東京駅のために買収してあった用地を転用/活用したから」といった趣旨の答えをネットでは多く見かけるので、

京葉線東京駅の敷地の登記簿をとってみた。

 果たして、成田新幹線の東京駅としての用地買収はされているのであろうか?

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (3)

 京葉線東京駅の地下の権利に係る部分を拡大してみよう。

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (4)

 東京地下駅の権利の設定は、1985(昭和60)年11月20日だ。

 成田新幹線の凍結は、1983(昭和58)年と言われるから、その後だ。

 残念。

京葉線東京駅敷地の登記簿

 見やすくするために大きい画像も貼っておこう。

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (5)

 というわけで、船橋二和高校南側の空き地に続き、また登記簿で成田新幹線に係る都市伝説を終了させたということでよいのではなかろうか。

 これだけではアレなので、もう少し成田新幹線や京葉線の東京駅の権原(けんばら)について解説してみよう。

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (6)

 今回登記を取ったのは、旧・都庁(現・東京国際フォーラム)敷地の地下の部分である。

 ヤフーマップ等で見るよりも実はがっつりと道路から東京国際フォーラム敷地内に京葉線東京駅がはみだしている。この筆だけでも438㎡もある。

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (7)

 地上は東京都の持ち物だが、京葉線東京駅が存在する地下2m40cmから38m45cmの間だけ、日本鉄道建設公団(現在は鉄道建設・運輸施設整備支援機構)の権利(区分地上権)が設定されている。

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (8)

 「都庁地下の権利が設定されたのが成田新幹線凍結後だからといって、成田新幹線の東京駅の敷地がそこまでかかっていたか分からないじゃないか。判断するのは早計だ。」

とおっしゃる方もいらっしゃるかもしれないが、成田新幹線時代の東京駅の図面でも「道路巾37m以内に納まらず東京都庁内に侵入せざるを得ない。」と国鉄職員が書いているので間違いないだろう。

 成田新幹線東京駅としては用地は買えなかったのである。

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (9)  

 では、「道路巾37m以内」における京葉線東京駅の権原の設定はどうなっていたのか。 

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (10)  

 道路法第32条に基づき、道路管理者(この場合は、東京都)の道路占用(占有じゃないよ)許可を得る必要がある。 

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (11)  

 上記1972(昭和47)年3月29日付朝日新聞の記事にも紹介されているが、東京都は、成田新幹線東京駅への道路占用を拒否していたのである。反対なので。 

 「〇〇のプロ市民と過激派のせいで成田新幹線ができなかった」と憤る方がいらっしゃるが、東京都民の場合はまず自問自答された方がよいかもしれない。 

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (12)  

 尤も、新幹線と東京都が相性が悪いのは成田新幹線に限った話ではないのであるが。 

 その話は、それはそれでネタが結構あるのだが、閑話休題にしてはあまりにも収拾がつかないのでやる気が起きればまた別の機会に。 

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (13)  

 1983(昭和58)年7月に京葉線の工事実施計画変更認可があり、道路占用の協議に17カ月を要したというのだから、区分地上権を設定した1985(昭和60)年11月の前後に京葉線東京駅に係る道路占用許可もあわせて取得したのではないか??
 

 そんな感じでほぼ同一歩調で都道下の道路占用許可と旧・都庁地下の区分地上権設定が進んだのではないかなあと「推測」する次第である。

 これはあくまでも「推測」なので、間違っているという証拠があれば是非ご教示いただきたい。 

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (14)  

 今回の本論から話は逸れるが、1983(昭和58)年6月に京葉線の工事実施計画変更認可申請にあわせて、日本鉄道建設公団から運輸省へ「成田新幹線工事の凍結申請」が行われ、同年7月に回答があったという点も注目される。

 同じ場所に同じ公団が成田新幹線と京葉線という違う鉄道の工事実施計画の認可を受けるのは具合が悪かったのであろう。

 公文書上の正式な成田新幹線凍結は昭和58年7月5日とすべきなのかもしれない??

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (15)  

 詳細な凍結時期はともかく、それまでの間に、日本鉄道建設公団は成田新幹線東京駅の工事に必要な土地の権利設定ができていなかった。 

 権利が無いのだから工事なんかできないのである。国鉄敷地内の地下通路を除いては。 

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (16)  

 成田新幹線東京駅の工事もできないし、土地の買収(地下の権利設定)もできていないのであれば、「じゃあなんで京葉線東京駅はあんな遠くにあるんだ」ということになる。 

 だって成田新幹線のしがらみは幸か不幸か一切ないのだから。 

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (17)  

 鉄道建設公団の公式の工事誌ではこんな理由だ。 

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (18)  

 JR東日本の社員が書いた報文ではこんな理由だ。 

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (19)  

 まあ、成田新幹線の遺構があろうがなかろうが「永代通りも八重洲通りも先客がいるのだから鍛冶橋通りしか空いていませんでしたよ」ということなのだろう。 

 なお、成田新幹線の計画が生きているころの京葉線(当時は「総武・中央開発線」)は、鍛冶橋通りの更に外側になる外濠通りを通って、新橋駅で山手線や東海道線等と接続する構想があった。

京葉線の都心新宿三鷹方面への乗り入れ計画 総武開発線 (2)

 「第27回停車場技術講演会記録」307頁から

 その辺にご関心がある方は

「京葉線はかつて新橋経由で都心(新宿、三鷹)に乗り入れる計画だった。」

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/post-1315.html

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 ここで、未成線研究としては外せない川島令三氏はここについてどう語っているかを見てみよう。 

 

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (20)  

  

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (21)  

  

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (22)  

  

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (23)  

 年を追うごとに、成田新幹線東京駅の完成度合いが後退していっているのが大変興味深い。 

 なお、「旅鉄CORE」とは、鉄道ジャーナル社から「旅と鉄道」を引き継いだ株式会社天夢人が「鉄道の世界を趣味として、知識として知見を広めるための一歩踏み込んだシリーズ」ということで、その栄えある第一号が川島令三氏の「全国未成線徹底検証 国鉄編」ということのようだ。
 

 川島令三氏の発言の推移については、「川島令三の上越新幹線新宿ルートの変遷を追う」という記事も書いたことがある。 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2020/04/post-159396.html 

  

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京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (24)  

 これは余談なのだが、「京葉線東京駅は成田新幹線駅の遺構なので、広いのだ」という話を聞くことがあるが、成田新幹線東京駅のホームよりも、京葉線東京駅のホームの方が広かったでござる。

 

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 これは全くの蛇足なのだが、今回の記事を書くためにネットも含めいろいろ調べていたのだが、こんな記事を見つけた。 

「東京駅の「京葉線ホーム」があんなに遠いワケ 新幹線の夢の跡に生まれた地下ホーム」 

https://toyokeizai.net/articles/-/220360

 この記事の日付が2018年5月13日 5:00 

 

そして、私がまとめた 

「<JR京葉線>東京駅はなぜ深くて、なぜ遠くて、なぜ有楽町線には乗入れないのか?」 

https://togetter.com/li/1163391 

 これをまとめた日付が2017年10月22日である。 

 もにょもにょ。 

 

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2021年5月 3日 (月)

階段国道339号に公共交通機関(JR津軽線と路線バス)で行く方法

 前回は階段国道の謎にエビデンスなしで迫ってみたのだが、ついでの記事を。

 階段国道の現地レポは先人の方々がたくさん書いておられるので今更私が書くほどのことはないが、「公共交通機関でどうやって階段国道に行くのがよいか」について書いたものはあまりなかったようだ。

 「道路マニア」はやはり車で行くのかな。

 しかし「せっかくなら津軽線の乗りつぶしとセットで階段国道に行きたい」という方もいらっしゃるかもしれないので、私が行った記録でも何かのご参考になるようでしたらどうぞ。

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 私が階段国道に行ったルートは

(東北・北海道新幹線)

 ↓

JR奥津軽いまべつ駅

 ↓

(徒歩)

 ↓

JR津軽二股駅

 ↓

(JR津軽線)

 ↓

JR三厩駅

 ↓

(外ヶ浜町営バス)http://www.town.sotogahama.lg.jp/kurashi/koutsuu/minmaya.html

 ↓

龍飛崎灯台バス停

 ↓

(徒歩)

 ↓

階段国道

 ↓

(徒歩)

 ↓

龍飛漁港バス停

 ↓

(外ヶ浜町営バス)http://www.town.sotogahama.lg.jp/kurashi/koutsuu/minmaya.html

 ↓

JR三厩駅

といったルートである。

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 詳細をご案内したい。

 まずは、北海道新幹線の奥津軽いまべつ駅で乗り換えだ。

階段国道339号  (1)

 往復津軽線に乗るのもよいが、「秘境新幹線駅」扱いされている奥津軽いまべつ駅で降りる機会も他にないだろう。

 なお、新青森駅からはJR北海道の路線なので、JR東日本の乗り放題の切符等では、追加料金が必要になることにご留意されたい。窓口は一つしかないので、あらかじめ車内で精算しておくとよいだろう。

 

 徒歩数分で津軽線の津軽二股駅である。

階段国道339号  (2)

 道の駅の裏側になるので、ご注意を。なんか文房具を買いたくなるような名前のお店がありますね。

階段国道339号  (4)

 

 JR津軽線の終点駅である三厩駅を降りると、目の前に小さなバスが止まっているが、これがお目当ての階段国道まで行く外ヶ浜町営バスである。

階段国道339号 (32)

 なお、駅前にはバス停以外何もないので迷う心配は一切ない。何か食事をしたり買い物をする店もない。

 

 唯一あるのが、これから向かう龍飛岬付近の観光案内の看板なので、地理感をよく掴んでおこう。

階段国道339号  (10)

 バスの運賃はどこまで乗っても100円だ。料金箱に入れよう。お釣りはないように準備しておこう。 

階段国道339号  (5)  

 

階段国道339号 (2)

 途中、国道280号は、緑看板となる。きっと自動車専用道路なんだろうw

 

階段国道339号 (31)  

 途中、国道280号と国道339号の合流点で、二つのおにぎりが並ぶ看板と、国道280号が北海道まで結ぶ「海上国道」たる所以の「東日本フェリー」の錆びた看板がある。 

海上国道280号 (2)  

海上国道280号 (1)

「全国版 ハイパワーA 道路地図」日地出版 1984年・刊 

 ところで、北海道・福島~青森・三厩の東日本フェリーについてはよく語られるけれど、この地図に載っている、福島~竜飛~今別~平館~蟹田~青森の旅客船も気になりませんか。ネットではあまり情報がないようだし。 

海上国道280号 (3)

https://www.davidrumsey.com/luna/servlet/detail/RUMSEY~8~1~301923~90072794:14-Aomori-ken,-Japan

  脱線するが、1956(昭和31)年の地図だと、航路はもっとマメに集落に寄港している。それだけ道路が貧弱だったのだろうなあ。

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階段国道339号 (38)

 左が国道339号だ。

階段国道339号 (3)

階段国道339号 (40)

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 ところで、外ヶ浜町営バスの走行ルートには注意しないといけない。

階段国道339号 (4)

 三厩駅→龍飛崎灯台行きはこんな感じ

階段国道339号 (5)

 帰りの龍飛崎灯台→三厩駅行きはこんな感じ

階段国道339号 (6)  

 私は、こういう感じで訪れた。逆ルートで龍飛漁港バス停から龍飛崎灯台バス停まで歩いてもよいのだが、それだと階段国道が上り坂になるのでご留意を。 

階段国道339号 (39)  

 私の場合は、この23分間で特に問題はなかった。 

 乗りつぶし目的で青函トンネル記念館のケーブルカー(竜飛斜坑線)に乗りたい方は、その時間を考慮すればよいだろう。 

 なお、バスの時間は外ヶ浜町のウェブサイトで最新のものをご確認いただきたい。 

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階段国道339号 (7) 

 龍飛崎灯台バス停を降りるとこんな感じだ。 

階段国道339号  (6)

 なお、この一帯は青函トンネルの発進坑があった。

階段国道339号 (9) 

階段国道339号 (10) 

 降りるとすぐ目の前にでかい看板があるので、道に迷うことはない。 

階段国道339号 (7) 

 目の前に「津軽海峡冬景色歌謡碑」が鎮座する。 

  紅白歌合戦で隔年で聞くことができる、あの石川さゆりの歌だ。

 中央の赤いボタンを「ポチっとな」とすると、”爆音”で津軽海峡冬景色が流れる。 

 私が投稿したものではないが、こんな感じだ。 

 

 道を急ぐ方はわざわざ聞くものではないかもしれない。 

 ちなみに裏側はこうなっている。 

階段国道339号 (8) 

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階段国道339号 (11)

 左手に「階段村道」の看板がある。階段になっている村道なぞ幾らでもあるだろうが、ここは一応登ってみる。

階段国道339号  (7)

 灯台にたどり着いて津軽海峡を眺めることができるのだが、私のブログを見るような方に見落としていただきたくないのは、右側のコンクリートの柱?である。 

階段国道339号 (13) 

 日本鉄道建設公団と建設省国土地理院による「渡海水準点」である。 

 青函トンネル建設にあたって設置されたのだろう。 

  

 私は問題なく行けたが、体力に自信の無い方は、最小時間の乗り継ぎであれば階段国道一本に絞った方がよいかもしれない。 

 くれぐれも「津軽海峡冬景色を聞いていたら時間がなくなった」ということのないようにw

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 階段国道と言ってしまえば、そのとおりで、普通に階段である。 

階段国道339号  (8) 

 国道の標識がなければなんてことはない。 

階段国道339号 (15) 

 照明灯を見ると、「青森県」「339」と書いてあるなあ。 

階段国道339号 (4) 

 途中の「国道」部分と同じように管理しているから、やっぱり青森県が管理する国道339号なんだなあ。 

とか 

階段国道339号 (16) 

 森林管理局の杭かなな。山ってなんのことだ?」 

とかくらいしか見るものもない。 

階段国道339号  (9) 

 中腹に学校跡地がある。 

 立ち寄る前に、バスの時間を確認だ。 

階段国道339号 (17) 

 三厩村立竜飛中学校跡地 

階段国道339号 (18) 

 裏には校歌が刻まれている。青森の中学校なのに、最初に出てくる地名が北海道なのは、海峡の街らしい。 

階段国道339号  (11) 

 中学校跡地を過ぎると、目の前に津軽海峡が広がってくる。一番のフォトスポットだろう。 

階段国道339号 (8) 

 そして階段を降りていくと、龍飛漁港が見えてくる。道路沿いの小さい小屋のところに「龍飛漁港バス停」がある。 

階段国道339号  (12) 

 階段をほぼ降り切ったところに、もう一つのフォトスポットがある。 

 ぶっちゃけ、道路マニアや珍スポマニア以外にとっては、2箇所で写真撮るだけで、他の一般人にはなんてことないと思っちゃう(個人の感想です。)。 

 こう言っては身も蓋もないのだが「階段なのにわざわざ国道に指定した珍スポット」ではなくて「国道指定したときには、龍飛漁港以西はずーーーーっと長い区間が階段どころか山道すらない通行不能区間で、順次開通したら結果的に階段区間だけ残っただけ」だから。ここを国道に指定した頃は、全国に「国道なのに自動車が通れない」山道のままの国道なんて日本中にあったから。

 ただ誤解のないように申し上げると、私は道路マニアなので大変な達成感や充実感を味わいましたが(個人の感想です。)。

階段国道339号 (24) 

 この看板が見えたら、階段部分は終わり。普通の一般国道だ。 

階段国道339号 (37) 

 龍飛漁港側から階段国道に入ろうとする方にはちょっと入り口が分かりにくいかもしれないが、この辺を参考にしていただきたい。 

階段国道339号 (27) 

 ここが龍飛漁港バス停 

 時間があれば後ろの小屋を回り込んでから見回してみよう。 

階段国道339号 (26) 

 「日本一の風を受けるトイレ」だ。 

階段国道339号 (25) 

 このトイレも原子力関係の補助金でできているようだ。バスにはトイレがないため、記念に用を足していくのもよいかもしれない。 

階段国道339号 (28) 

階段国道339号 (29) 

 目の前に広がるのは龍飛漁港だ。 

 バスの時間次第だが、灯台、中学校、漁港の探索にどう時間を配分するかイメージしておいた方がよいかもしれない。 

階段国道339号  (13) 

 さあ、三厩駅行きのバスが戻ってきた。 

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 こんな感じで、JR津軽線と外ヶ浜町営バスを使った駆け足の階段国道巡りはおしまい。 

 太宰治好きな方等にはもっと見所があるので、駆け足で戻るのは本当はもったいないのだが、 

 「車は使えない(使いたくない)けど、階段国道は見ておきたい」 

 という方には、参考になれば幸甚である。 

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(参考) 

■階段国道339号にまつわる謎にチャレンジしてみた 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2021/05/post-47cb80.html 

東北新幹線の貨物新幹線案 (13)

 階段国道は関係ないけど、三厩駅付近に青函トンネル用の貨物ヤードを設置する構想があったことを紹介する

「東北新幹線への貨物新幹線(荷物電車)導入は、約50年前に国鉄で決定済だった」

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2020/12/post-82da04.html

 もご関心があれば。

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 こんな動画も参考までにどうぞ 

 

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2021年5月 2日 (日)

階段国道339号にまつわる謎にチャレンジしてみた

 道路マニアなら、松波成行氏の「国道の謎」を持って、国道339号の階段国道を訪れるのは、「やってみたいこと」の一つではないか?

 私も過日その夢を実現してきたところである。

階段国道339号 (19)

階段国道339号 (21)

 ところで、松波氏の著書中、階段国道にまつわる謎が幾つかあげられている。松波氏でも解けなかった「謎」である。

 現地に立ってみて、その謎解きにチャレンジしてみたくなった。

 ただし、今回はいつもと違って資料から潰していく形ではなく、私のエビデンス無しの妄想ベースであることをお断りしておきたい。

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 松波氏の著書中、国道339号にまつわる謎がある。

 その一つが、国道339号が階段国道となる手前に、小泊方面に伸びる339号との間をショートカットする立派な道(著書では「軍道」)があるのに、そちらを国道にしていないのは何故か?というものである。


 龍飛崎砲台へとつながる唯一の車道は「木落」という集落にあたる陸軍繋留場から延びる道となりますが、それは地図(※引用者注:昭和15年当時の1:25000地形図「龍飛崎」)上では「軍道」と示されています。今でも「階段」で不通となっているため、その迂回路としてこの旧軍道が使われています。この道が国道339号とはならずに階段国道となったことは、階段国道を語る上での謎となっていますが、推定されるには戦後になってからの「軍道」の管轄とその引き継ぎで、何か公道となりえなかった可能性があります。

 

「国道の謎」松波成行・著 祥伝社・刊 62頁から

 松波氏の文中の「木落」は、上図の地理院地図では「三厩木落」となっている。

 図中「三厩木落」の字の上を左右に走って国道339号をショートカットしているのが文中の「軍道」である。

階段国道339号 (6)

 実際に現地の標識では、ここの木落の分岐では直進も左折も国道339号として案内しているし、「何か公道となりえなかった可能性」がありそうな雰囲気ではなさそうだ。

 で階段国道と通常の国道の境界で周りを見回してみた。

階段国道339号 (37)

 そこには漁港がある。

階段国道339号 (29)

階段国道339号 (27)

 なるほどと思った。

 松波氏の著書にも触れているように、国道339号のこのあたりの前身は青森県道中里今別蟹田線であり、現在の階段国道のルートを定めたのも県道認定のとき(松波氏の著書によると1965(昭和40)年)である。

 ぶっちゃけそのころは国道であっても、山道の点線国道等は珍しくなく、まして県道認定の段階では、現状では階段部分があろうと、将来改築予定があればさして問題になったとは思いづらい。

 むしろ、「ここまで青森県道として伸ばしたい。県の金で整備・管理してもらいたい」という明確な意思があったのではないか

 

 昭和42年撮影の動画というから、県道昇格から約2年後である。 

 この動画の0分50秒過ぎに、当時の龍飛漁港付近の未舗装の道路の状況が出てくる。こんな道路を改良する部分を1メートルでも漁港まで伸ばしたかったのではないだろうか?

 木落で分岐して龍飛灯台まで上がってしまえば、木落から龍飛漁港までは、三厩村道として村の金で整備・管理しなければならない。

 また、龍飛漁港程度では、県道認定基準の起終点の基準を満たしづらかったのだろうか?。

 そこで、龍飛漁港まで青森県道を整備する方便として、当時村道だった階段部分を(将来改築予定部分みたいな扱いにして)活用して龍飛灯台まで路線を繋いだのではないだろうか?

 「なぜ階段が国道(県道)なのか」は正直二の次であって、「なぜ木落から先まで国道(県道)を引き延ばす目的があったか」の視点である。

 「階段」に積極的な理屈は全くなくて、あくまでも「龍飛漁港までの道路を村道よりも格上の道路として管理できるようにできるだけ北まで引っ張りたい」という方便に使われただけではないか?

 現在では観光資源として活用されているが、実態は夢もロマンも何もないかと。

 当地は冬の積雪も波浪も大変厳しいところなので、財政的にも実際の現場力としても厳しい村ではなく「県の力で龍飛漁港まで道普請して除雪してもらいたい」「木落から龍飛灯台まで旧・軍道を県道認定してしまうと、その先の漁港までは村単独で管理するのは厳しい」という切なる気持ちを反映した結果という方が適切なのかもしれない。

階段国道339号 (20)

 階段国道から見下ろす龍飛漁港。国道としての終点から先は漁港内の施設として農水省からの金が入っているのではないだろうか?

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 ちなみに、階段国道の横に龍飛灯台へ続く階段があるが、そこには「階段村道」の標識が建っている。なんかやり過ぎ感が。。。

階段国道339号 (11)

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 松波氏の著書中、国道339号にまつわる謎がもう一つある。

 国道339号に並行する「青函トンネルのための材料運搬専用道」であった県道:通称「あじさいロード」が、国道339号に昇格してしかるべきなのに、そうなっていないのは何故か?というものである。


 あじさいロードは国道と並行して造られた道で、国道よりも山側に沿って龍飛崎へと伸びています。路線の流れから見ても明らかなように、この青函トンネル工事専用道路は、工事終了後には国道339号の新道(バイパス)として予定されていたものでした。

 このように、竜泊ラインが竣工した昭和59(1984)年10月の段階で、三厩村側の「青函トンネル工事専用道路」=国道339号の新道(バイパス)予定ルートも併せて、龍飛崎は自動車による通行ができる周回道路の目途は立っていました。あとは、青函トンネル工事完了の知らせを待つだけでした。暫定として指定しておいた階段国道も、これで抹消される準備は整ったと地元関係者は考えていたことでしょう。

 しかし、今でもこの道は路線変更はなされていません。(以下略)

 

「国道の謎」松波成行・著 祥伝社・刊 67~68頁から

 松波氏はその理由として「階段国道が観光資源として全国的に認知されたため、そのまま国道に残しておいたのではないか」としている。

 

 下記の地理院地図で、国道の山側(地図の左側)を走る灰色の道路が当該県道(あじさいロード)である。

 で、私も現地でその理由を色々考えてみた。

 

 今昔マップ等で見ても分かるように、今でも国道339号は部分的にではあれ、改築工事が進められているようだ。

 その例の一つが梹榔バイパスである。

https://www.pref.aomori.lg.jp/soshiki/kendo/doro/files/070515hyoro.pdf

階段国道339号 (35)

階段国道339号 (34)

 国道339号は海に面した厳しい線形の道路が続いており、あじさいロード開通後も改築が必要なのだろう。現地には他にも従前の隧道を改築した箇所等が見られた。

階段国道339号 (5)

 ところで、道路の改築費用を誰が負担するかについては、道路法に定めがある。

 細かい条文はさておき、国交省のウェブサイトによると下記のような感じだ。

階段国道339号 (36)

https://www.mlit.go.jp/road/sisaku/dorogyousei/2.pdf

 国道339号は、青森県が管理する国道なので、ここでいう「補助国道」であり、改築の際には、国が1/2を負担する。

 一方、県道は、国は1/2「以内」の補助となっている。常に1/2を国が負担してくれるとは限らないわけだ。

 

 松波氏も「国道昇格を受けることでの最大のメリットは、建設費にかかる国庫の負担率が高まることにあります。(「国道の謎」65頁)としている。

 地元は、不通区間の開通後も「改築費にかかる国庫の負担率が高まること」のメリットを受けることを選択して、現道を国道339号としたままなのではないだろうか?

 あじさいロードは、青函トンネル建設用の重機が走っても大丈夫な道だから、当面そんなに大規模な改築需要はないだろうし。

階段国道339号 (33)

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 ということで、松波氏が解き残した二つの「国道339号の謎」にチャレンジしてみた。

 金の話に終始して、夢もロマンもないような気がするが、世の中そんなもんじゃないかなあと。

 繰り返すが、これはエビデンスなしの、個人的な「国道の謎読書感想文」にすぎないし、松波氏の著書が間違っているというわけでもない

 県の公文書等をひっくり返せばこの駄文にダメ出しする資料は何か出てくるかもしれない。

 というか、これを読んでいる貴兄が是非ひっくり返す公文書を見つけてきていただきたい。

 

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 せっかくなので、いつもの私のブログらしいネタも書いておこう。

 

 国道339号が国道として指定されたのは、1969(昭和44)年である。

 この追加指定では、佐渡島、対馬、宮古島等の離島の国道(いわゆる海上国道部分を含む)が多く指定されたものとして有名である。

 この際の追加指定路線の主な特徴は下記のとおりである。


(イ)今日まで殆んど国道指定の行なわれて いない離島(離島振興法、奄美群島振興特別措置法、沖縄振興開発特別措置法に規定された離島及び島しょ)について、 国道の指定を積極的に拡大したこと。

(ロ) 地域的にみて、国道の網間隔が大きく、前回までの国道指定率の小さな東北地方等の格差の是正に努めたこと

(ハ) 路線の位置的な関係からみると、従来の路線が海岸線や平野部の中央及びすそ野に位置しているものが多いのに対し、 今回の追加指定では山岳部を積極的に活用し、中央縦貫道、横断道などの大動脈を形成するものが多くとり入れたこと。

 例えば国道340号は八戸市から陸前高田市に至る、実延長247kmの路線で あるが、これは岩手県域の中央縦貫道として位置づけられている。

(ニ)新設の国道として、302号と357号を指定したこと。

 302号は、既存の国道であるが前回の国道昇格時に都市計画決定等の関係で、次回送りになった区間を今回追加指定することにより、全区間を完成させたものである。

 357号は通称東京湾岸道路であって、新たに今回国道に指定したものである。

 

「一般国道の追加指定について」建設省道路局企画課長補佐 藤井治芳・著 「道路セミナー」1974年12月号68頁から

 「国道の網間隔」については、過去の記事

国道昇格はどのようにして決められるのか?~「ふしぎな国道(佐藤健太郎著)」の不思議(その5)

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/03/post-b7f8.html

をあわせてお読みいただきたい。

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 余談だが、階段国道どころか、三厩まで高速道路を作る構想があった。

未成高速道路ネットワーク (9) 

 1966(昭和41)年4月1日付毎日新聞から

未成高速道路ネットワーク (1) 

 詳細はこちらを。

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2021/01/post-73aac0.html 

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2021年5月 1日 (土)

新宿西口甲州街道交差点 なぜ南側の一角だけビルの背が低いのか等を登記簿から探る

 新宿駅東口の地下の話をしたので、ついでに新宿駅西口の地下の話も書いてみる。

 新宿駅西口といえば、高層の商業ビルが立ち並び高度な利用がなされている。

 その一角になぜか一か所だけ背が低く古いビルがあるのに気が付いた方もいらっしゃるだろう。

 そう、「スーパーミリオンヘア」の看板が建ってるあのビルである。

 都市計画図を見ても、甲州街道一体は容積率800%だ。しかも角地である。

新宿駅周辺土地 (1)

http://www2.wagmap.jp/shibuya/MAP?API=1&mid=1000&mps=2500&mpx=139.699326827324&mpy=35.6880186766642&gprj=3&mtp=shibuya_dm&siz=863,1377&mtl=39,40,24,25,26&itr=1

 なのに、なぜあの一角だけ有効利用されていないのか。

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 賃貸ビルサイトhttps://www.offisite.jp/buildings/9643/%E6%96%B0%E5%AE%BF%E5%8D%97%E5%8F%A3%E3%83%93%E3%83%ABを見てみると、あの「スーパーミリオンヘア」の看板のビルは、「新宿南口ビル」といい、1964年11月竣工の4階建地下1階鉄筋コンクリート造とのことである。

 既に60年近い建物である。普通なら周囲の建物と一体的に再開発するであろう。

 渋谷区の都市計画図には特に再開発に支障となるような規制はなさそうだ。

 

 では一体なぜ、古くて背が低いビルのままなのだろうか?

 

 成田新幹線買収済用地跡ではないかと未成線オタクが嬉しがっていた土地を、当該土地の登記簿を取得することで、オタクの妄想をぶち破ったという成功体験に基づき、この土地についても土地の登記簿を取得してみた。

 

 すると興味深い権利の登記がされていた。

 

 ここで一旦、土地の登記簿に載せられる権利等の話をしてみよう。

 土地の登記簿はザクっといって下記の3つに分けて表示されている。

 1)表題部・・・土地の表示に関する事項を表示 当該登記簿に係る土地の地番、地目、面積等が書かれている。

 2)権利部(甲区) ・・・土地の所有権に関する事項を表示 当該登記簿に係る土地を所有しているのは誰かが書かれている。

 下記が、千葉県立船橋二和高校敷地の登記簿である。

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する (12)

 そして、今回「スーパーミリオンヘアのビル」の土地に係る登記簿について注目すべきなのは3つ目の表示の乙区である。

 3)権利部(乙区) ・・・その他の権利に関する事項を表示 当該登記簿に係る土地に設定した抵当権、賃借権、小作権、地上権等の権利が書かれている。

 では見てみよう。

新宿駅周辺土地 (2)

 このビルの地下には、京王帝都電鉄による「地上権」が設定されていた。

民法(抄)

第4章 地上権

(地上権の内容)

第265条 地上権者は、他人の土地において工作物又は竹木を所有するため、その土地を使用する権利を有する。

(略)

(地下又は空間を目的とする地上権)

第269条の2 地下又は空間は、工作物を所有するため、上下の範囲を定めて地上権の目的とすることができる。この場合においては、設定行為で、地上権の行使のためにその土地の使用に制限を加えることができる。

(以下略)

 「他人の土地」=「スーパーミリオンヘアのビルのオーナー等の土地」において「工作物」=「京王線」を所有するため、「上下の範囲を定めて」=「東京湾中等潮位の上34メートル以下」に地上権を設定していたのだ。

 (※地下であっても「地上権」である。通常「地下権」とは言わないと思う。)

 

 そして「地上権の行使のためにその土地の使用に制限を加えることができる」とある。

 登記簿では具体の制限内容について触れていなかったが、「京王線を地下に設けるという権利を行使するために、スーパーミリオンヘアのビルのオーナー等に土地の使用の制限が加えられた」のであろう。

 私の推測にすぎないが、「京王線のトンネルに支障が出るような重さのビルを建てない」といった制限が加えられているのではないか。

 この近辺は容積率800%というとても高度な利用で収益が期待できる商業地域のところを現状地上4階建てのビルしか建てられていない。

 その減収分に見合った金額を京王側が地主に支払ったうえで、登記簿に京王の地上権が設定されたと思われる。

 なお、当該地上権が設定された「昭和38年4月1日」は、京王線が地上から地下に潜った日である。

 

 ※当該土地の甲区の所有権については、地上権設定当時は、ビルのオーナー会社等が共有していたが、順次京王電鉄がその持ち分を買収しており、現在では甲区の所有権も乙区の地上権も両方とも京王電鉄の名義となっている。

 

 地理院地図で見てみると、このビルは、京王線の地下トンネルに沿った形となっている。

 他の区画のように、周辺の土地を巻き込んだ形での大規模な再開発はハードルが高いのかもしれない。

 やってやれないことはないが、手間と収益増がバランスするかという問題。京王が一帯を買収して自社でトンネルと一体となったビルを作るには問題ないかもしれないが、都営新宿線の改札の奥になるので、地下街と一体化できないんだよなあ。。。

 

※上のマップを見ていて気が付いたのだが、都営新宿線の改札を通って左手の段差と、例のスーパーミリオンヘアーの看板のビルはツライチになっているんですな。京王線のトンネルの影響がそれぞれに出ているのだけれども、こういう経緯で繋がって見えてくるわけですな。

京王線新宿駅の秘密 

 ※ヤフーマップと都営新宿駅構内図に加筆 

 京王線が玉川上水敷地下から京王百貨店地下に入っていくにあたって、そのトンネル構造が、地上の「スーパーミリオンヘアの看板のビル」の形状に影響を与え、同じ流れで、都営新宿線新宿駅改札内の段差に繋がっていると言った方が分かりやすいか。

(参考)都営新宿駅構内図

https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/stations/shinjuku.html#solid 

京王線新宿駅 京王線新宿駅 京王線新宿駅

 昔撮った京王新宿駅の写真でもおまけに。多摩動物園行きはライオンの、府中競馬場行は蹄鉄のヘッドマークになっているのが分かりますか?

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 ついでに、もう一箇所あやしい土地の登記簿を取ってみた。

 東京南新宿ビルディング

 先ほどのスーパーミリオンヘアーの看板のビルからちょっとだけ南下したところだ。

 後ろを振り返ると、京王線が地下化されて埋め殺された玉川上水とそこに架かっていた葵橋のモニュメントが残されている。

 玉川上水があったころは、下記のように「東京南新宿ビルディング」があるところも含めて、新宿駅敷地まで玉川上水が走っていた(現在は暗渠化されて地下を走っている。)

 で、東京南新宿ビルディングが建っている土地の登記簿を見ると

玉川上水 (3)

 表題部の地目に注目してほしい。さきにあげた千葉県立船橋二和高校の登記簿では「学校用地」だった。

 それが、ここでは「水道用地」である。

 小平市の玉川上水では今でも下記のような「水道用地」の杭等が見られる。

玉川上水 (2)

玉川上水 (1)

 また、 表題部の「登記の日付」に注目していただきたい。

 「平成16年3月30日」である。 

  玉川上水自体は江戸時代からあるのに、この土地がそもそも一筆の土地として登記されたのがつい数年前である。

 しかも地番が5000番という如何にもとってつけたような番号だ。 

 なぜこんなことになったのだろうか? 

  東京南新宿ビルディングは平成16年よりもずっと前から建っているはずだが、そんな土地の名義の上でよく建築確認等の行政手続きが通ったものだ。

 私のブログの読者の方はこんな図面を覚えていただいている方もいらっしゃるかもしれない。 

新宿駅南口地区基盤整備事業と玉川上水 (2)  

 これは「日本鉄道施設協会誌」2008年1月号に「新宿駅南口地区基盤整備事業に伴う玉川上水用地処理」森重達美、佐藤英明、柴田勇・共著(いずれもJR東日本東京工事事務所契約用地課)に掲載された図面に私が加筆したものである。 

 ここにいう「新宿駅南口地区基盤整備事業」とは、新宿駅南口の甲州街道拡幅やバスタ新宿新設等のことを指している。 

 つまり、バスタ新宿等の工事を行うにあたって、新宿駅の鉄道施設下にあった玉川上水を移設した。それに伴い、用地の交換等を行ったのである。 

 そのために、平成16年頃に土地を登記する必要があったが、それまではおそらく青道扱いか何かで、玉川用水敷地としての地番の設定等は行われていなかったのであろう。そこで 「原因及びその日付」は「不明」(江戸時代だもんな)として「登記の日付」を「平成16年3月30日」としたのではないか?

 地番が「5000番」になっているのもその辺の理由がありそうだ。 

 

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 新宿駅、バスタ新宿等と玉川上水等の関係は、 

【暗渠】玉川上水と新宿駅南口地区の開発について(その1) 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/post-7d6f.html 

【暗渠】玉川上水と新宿駅南口地区の開発について(その2) 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/post-3a1f.html 

【暗渠】玉川上水と新宿駅南口地区の開発について(その3) 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/post-72fc.html 

もあわせてごらんいただければ幸甚である。 

  

 また、新宿近辺の玉川上水については、暗渠マニアックス吉村生さんの 

「したたかに勝ちを増やす玉川上水(新宿駅上流側編)」 

http://kaeru.moe-nifty.com/ankyo/2019/06/post-f053d3.html 

も参考になるので是非。 

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(追記) 

 ブログ公開後、ツイッターで貴重な指摘をいただいたのでご紹介。

 京王は、「スーパーミリオンヘアーの看板のビル」の周辺のビルを取得済だったり共同所有したりしているようだ。

 あの角地の再開発も遠くないのかも!?

 

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2021年4月29日 (木)

構想以来65年ぶりに西武新宿駅と新宿駅を結ぶ地下道が実現に向けて動き出した~西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(23)

西武鉄道のプレスリリースにいきなりこんなのが出た。

https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2020/20210426_shinjyuku.pdf

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (96)

西武新宿駅の乗換利便性向上による新宿線のさらなる沿線価値向上のため、「西武新宿駅と東京メトロ丸ノ内線新宿駅をつなぐ地下通路」の整備に向けた検討・協議を進めます。

 私のブログでもしつこく記事にしているように、ここらあたりには、計画が二転三転というか頓挫した未成計画ばかり眠っている。

 ざっと経緯を整理するとこんな感じだ。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (97)

 ネットでは「マイシティ2階の計画がやっと形を変えて復活」みたいなことを書いている方もいらっしゃるが、実際には、その後の地下複々線化の亡霊の復活でもあるし、サブナード地下街の幻の「西武新宿駅-国鉄新宿駅直結2期計画」の復活である。 

  

 ざくっと過去の経緯をおさらいしていこう。 

  

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■ 西武新宿線 新宿駅への二度の乗り入れ断念  

 私のブログを読んでいただいている方なら十分ご存じかとは思うが、「新宿ステーションビル=マイシティ=ルミネエスト」の2階に西武新宿線が接続する計画があった。 

西武鉄道が乗り入れるはずだった新宿ステーションビル (1)  

 現在の新宿駅東口の駅ビル「ルミネエスト新宿」の2階北側には、天井が高い吹き抜け部分があるが、この空間こそが西武新宿駅となるものだった。

 

「なるほど西武 仮駅が本駅となった西武新宿駅」結解義幸・著 トラベルムック「新しい西武鉄道の世界」交通新聞社・刊

 

 ときどきこんなデマをばらまく困ったライターや出版社がいるが、実際には

西武鉄道が乗り入れるはずだった新宿ステーションビル (13)

 こんな感じでホームと吹き抜けは全く関係ないことが分かる。

「新宿ステーションビルの店舗募集資料から西武線のホームと吹き抜けの関係を確認してみる~西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(18) 」

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2020/01/post-66d29f.html 

 にこの辺は紹介してある。 

  

 なお、西武の社内報には 

「当初新宿への地下鉄乗入線を予想し地下での乗換えの便を考慮して、終点附近は地下に潜ぐる様考えたのであるが、(中略)これを断念」 

 との記載がある。 

 詳細は 

「西武新宿駅は、元々地下鉄乗換えを考慮して地下に設置する構想だった~西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(17)」 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2020/01/post-98776e.html 

 を参照されたい。 

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 さて、西武のプレスリリースの末尾に 

【参考】

「新宿駅北東部地下通路線」について(新宿区)

https://www.city.shinjuku.lg.jp/kusei/toshikei01_000001_00016.html

「新宿の拠点再整備方針~新宿グランドターミナルの一体的な再編~」について(東京都都市整備局)

https://www.toshiseibi.metro.tokyo.lg.jp/topics/h29/topi063.html

 

 と参考リンク先があげられている。 

 ここに興味深い資料がある。 

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (94)  

「都市計画変更素案について 東京都市計画道路 特殊街路 新宿歩行者専用道第4号線 東京都市計画通路 新宿駅北東部地下通路線」 

https://www.city.shinjuku.lg.jp/content/000309906.pdf 

 今回の地下道は「東京都市計画通路 新宿駅北東部地下通路線」として都計決定されるように手続きが進められているようなのだが、この資料の脚注に興味深い一文が添えられている。 

参考

西武新宿駅~東京メトロ丸ノ内線新宿駅間の地下歩行者ネットワークについては、西武鉄道新宿線複々線化計画(地下急行線)の改札外コンコースとして整備される予定であったが、現在、東京都において都市計画変更(廃止)に向けた手続き中。

 

 そして上記図面にも「西武鉄道新宿線複々線化計画(地下急行線)【都市計画廃止手続き中】」との記載があり、緑色で西武新宿線が「メトロプロムナード」まで伸びているのが分かる。

 これが二回目の西武新宿線延伸構想の跡地である。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (92)

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (93)

 上図は、「西武新宿線 西武新宿-上石神井間複々線化事業 環境影響評価案の概要」15~17頁から 

 新宿アルタ横あたりの地下6階に新宿線のホームが出来て、その上に西武新宿駅と新宿駅を結ぶ地下道が「改札外コンコースとして整備される予定」だったと。 


西武新宿線 新宿―上石神井駅間複々線化計画 無期延期決定 費用の膨張理由に

 

 輸送力の増強を目指し、西武新宿―上石神井駅間の約十二・八キロの地下に、新たに急行線を走らせて複々線化する事業計画を進めていた西武鉄道は、建設費が当初見込み額を大幅に上回る見通しとなったことなどを理由に、事業の無期延期を決定し、十九日までに沿線自治体の中野区に伝えた。

 西武鉄道は八七年十二月、運輸省の特定都市鉄道整備事業計画の認定を受け、複々線化予定区間の運賃に十円上乗せし、工事費を積み立て。九三年に都の都市計画決定が下り、昨夏には建設省に工事施行許可を申請、手続きはほぼ整っていた。

 ところが、ラッシュ時の乗客数は九一年をピークに下降気味。当初は千六百億円と見込んでいた総事業費も、地下水の水位が予想より高かったことや、現在の西武新宿駅をJR新宿駅寄りに移動することにしたことなどから、約二千九百億円に膨れ上がることがわかった。

 このため、同社は複々線化を延期せざるを得ないとし、十九日には、特定都市鉄道整備事業計画の認定取り消しを運輸省に申請。これまで十円を上乗せしてきた区間では、乗客への還元を図るとしている。同社広報課は「計画を無理に進めれば、工事費の負担は運賃にはねかえり、逆にご迷惑をかける」としている。

 

1995(平成7)年1月20日付読売新聞から

 

 といった理由で事業は中断された。 

西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(10)西武新宿線の地下複々線化による新宿駅乗り入れ 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/jr-dd3c.html 

 西武鉄道新宿線(西武新宿駅~上石神井駅間)の複々線化計画の廃止にあたっての質疑で下記のような記載がある。 

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (98)

https://www.toshiseibi.metro.tokyo.lg.jp/kiban/pamphlet/pdf/pamphlet_111.pdf

 「西武新宿駅とJR線や丸ノ内線との乗換経路の改善について(略)当社としても積極的に乗換改善に努めていきたい」

 地下複々線事業計画を廃止して、新たに地下道のみ新設する手続きが東京都や新宿区等による「新宿グランドターミナルの一体的な再編」の一環として行われることになったわけだ。 

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (95)  

https://www.city.shinjuku.lg.jp/content/000309906.pdf 

  

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■ 幻となった新宿駅への地下道直結計画

 現在、西武新宿駅と東京メトロ・JR新宿駅はサブナード地下街とメトロプロムナードによって迂回する形で連絡されている。 

 今回、ここを直結する地下道が実現しようとしている。 

  

 ところで、西武では昭和30年代に、西武新宿線を新宿ステーションビルに乗り入れる計画と並行して、ここを直結する地下道の構想があった。 

 先日までヤマダ電器があった西武新宿駅のトイメンのビルを「西武フロントビル」として地下街と一体開発するものだった。 

 その資料が早稲田大に保存されており、 

「西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(7)地下道による西武新宿駅と営団地下鉄・国鉄新宿駅との連絡」 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/jr-aa77.html 

 に紹介してある。 

 ザクっというと「国鉄新宿駅に西武新宿線を乗り入れても西武として今更東口に活用の余地はなく、地下街と西武フロントビル等で一体として開発する方が投資としては有効ではないか」というものであり、この計画が実現していえば、ヤマダ電器ではなく、西武百貨店新宿店がそこに建っていたかもしれない。 

  

 その後、サブナード地下街計画が具体化し、 

 「昭和37年2月20日には有志が会合」「まず最初は、西武プラス歌舞伎町振興会で動き出した」と「新宿サブナード30年のあゆみ」29~30頁にある。 

  西武は、「西武新宿線のステーションビル乗り入れ」と「サブナード地下街による西武新宿駅と新宿駅の直結」の二本立ての計画を推進していたのである。

 しかし、西武線乗り入れ断念後の1967(昭和42)年に西武百貨店社長だった堤清二は、「会社としては地下街会社に出資しない」旨を創立事務所に伝えている。(「新宿サブナード30年のあゆみ」から) 

  

 ご存じのように1965(昭和40)年に、西武新宿線は新宿ステーションビルへの乗り入れを断念している。 

 鉄道と地下街の二本立て計画の両方を止めたわけだ。なぜだろうか? 

 そのヒントとなるのが、1964(昭和39)年の堤康次郎の死去かもしれない。 

 堤康次郎亡き後の西武の事業について、このような記述がある。


 事業の世界では義明はまだ赤子同然で、このような巨大な組織を継ぐには未熟かつ経験不足であった。父親は彼に、10年間は何もするなという遺言を残した。

(略)

 義明はグループの事業内容を隅々まで掌握するまで、しっかりと満を持して学ぶべきである、というのが康次郎の意向だった。とりわけ、新規事業は固く禁じられた。10年経てば状況も変化する。その時こそきちんとどう動くかを決める時なのだ。

 

「血脈 西武王国・堤兄弟の真実」レズリー・ダウナー・著 常岡千恵子・訳 徳間書店・刊 242頁から

 

 ひょっとしたら、この一環で両事業がストップした可能性もあるんじゃないかなあなんて夢想している。

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 ところで、西武の資本参加はなくとも、サブナード地下街は、西武新宿駅と国鉄新宿駅を直結する構想を実現しようとしていた。1964(昭和39)年に策定された地下街の「基本構想」には第二期計画として盛り込まれている。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (17)  

 しかしこの計画は実現しなかった。


「道路幅は全体で25m(国鉄寄り歩道4.4m、民地側歩道3.8mを含む)。16.80mのみが車線である。地下建物の地表への階段出入口(幅員3m)をとるためには、歩道を両側7mにしなければならない。すると残りの車道は11m幅になる。これだと、車線確保はギリギリであり、しかもS形にカーブしていて、車輌運行上の危険がある。しかもこれは地下駐車場から地表へのランプ設置場所が確保できない」。

 「協議会(※引用者注 新宿地下駐車場第2期計画国鉄寄り協議会)」はこの案を断念するしかなかった。ただし将来構想としては、残されているのである。

 

「新宿サブナード30年のあゆみ」 新宿地下駐車場株式会社・発行 55~56頁から引用

 このように1970(昭和45)年に、地下道による直結の道も閉ざされてしまった。

 

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 これは余り知られていないが、都営大江戸線と西武新宿駅を地下道で直結する構想もあった。

西武新宿駅地下鉄大江戸線直結計画 (3)  

新宿区「新宿駅周辺にかかわる諸問題について」答申付属資料 1982(昭和57)年 から 

 都営地下鉄12号線(大江戸線)のルートや駅の配置が現在とは異なるが、これは現在のリニアメトロが導入される前のルートである。 

  今や新宿西口駅の場所も変わっており、実現は不可能だったということか。

 ただし、上記答申附属資料には、今回の「東京都市計画通路 新宿駅北東部地下通路線」にあたるような地下道の構想も見られる。 

西武新宿駅地下鉄大江戸線直結計画 (5)  

 これが都市計画決定するまで40年かかった(途中地下急行線がらみの動きはあったが)ということか。 

(参考) 

「西武新宿駅を大江戸線新宿西口駅に直結させる計画が1982年にあった~西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(16)」 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2020/01/post-727461.html 

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  鉄道マニヤ、未成線マニヤの一部には、今回の動きを受けて

「次は、西武新宿線の東京メトロ東西線への乗り入れだ!」

 と期待している方もいらっしゃるようだ。 

 しかし、地下急行線廃止計画手続きにおける質疑では下記のような回答が出ている。 

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (99)  

https://www.toshiseibi.metro.tokyo.lg.jp/kiban/pamphlet/pdf/pamphlet_111.pdf 

 「交通政策審議会の答申に位置付けていない」「東京都としても具体的な計画はない」 

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 ところで、今回の記者発表を受けて、こんなツイートがあった。

 そう、今回記者発表あった4月26日は堤康次郎氏の命日なのである。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (98)  

 実に堤会長没後57年を経た命日でのプレスリリースであった。

 冒頭のプレスリリースにはこう書いてある。

この度、新宿区により「新宿駅北東部地下通路線」の都市計画手続きが開始されたことを受け、当社は本通路の事業予定者として、都市計画決定後の本通路の早期実現に向け、具体的な検討および関係者との協議を進めてまいります。

https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2020/20210426_shinjyuku.pdf

 西武グループの新宿駅東口進出は、まだ始まったばかりだぜ!!

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(1)プロローグ

(2)戦前の新宿駅乗り入れ構想

(3)戦後新宿駅乗り入れの具体化へ

(4) 魑魅魍魎うずまく新宿ステーションビル

(5)新宿ステーションビルへの西武線乗り入れ

(6)新宿ステーションビルへの乗り入れ中止

(7)地下道による西武新宿駅と営団地下鉄・国鉄新宿駅との連絡

(8)西武新宿線の営団地下鉄東西線・有楽町線乗り入れ構想

(9)西武新宿駅の開発

(10)西武新宿線の地下複々線化による新宿駅乗り入れ

(11)西武百貨店堤清二による新宿ステーションビル乗っ取り失敗

(12)高島屋、西武に競り勝ち、新宿へ悲願の進出

(13)新宿駅東口2階の吹き抜けに西武新宿線が乗り入れるはずだったのか?

(14)新宿ステーションビルとベルクと井野家

(15・終)エピローグ

 一旦終わった後に、その後ネタを追記

(番外編)「東京 消えた! 鉄道計画」中村建治(著)が怪しい

(16)西武新宿駅を大江戸線新宿西口駅に直結させる計画が1982年にあった

(17) 西武新宿駅は、元々地下鉄乗換えを考慮して地下に設置する構想だった

(18) 新宿ステーションビルの店舗募集資料から西武線のホームと吹き抜けの関係を確認してみる

(19)西武新宿線の新宿駅ビル乗り入れの図面を国鉄の内部資料から確認してみる。

(20)西武新宿線の新宿駅ビル乗り入れの図面を国鉄の内部資料から確認してみる。(その2)

(21)思いもつかないところから西武線新宿駅乗入れのカラー想像図が

(22)都庁幹部が語る西武乗り入れ中止の背景

(23)構想以来65年ぶりに西武新宿駅と新宿駅を結ぶ地下道が実現に向けて動き出した

(24)西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れ撤退の理由が書かれた公文書

(25)「ステイション新宿」をそのまま一次資料として丸呑みしては危険

(26)交通新聞社「新しい西武鉄道の世界」結解喜幸氏の新宿駅乗り入れ記事がひどい

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2021年4月25日 (日)

今度開通する名二環(名古屋西JCT~飛島JCT)は、政令上は「近畿自動車道伊勢線」ということで、東名阪道ではなく伊勢道の仲間である件

2021(令和3)年5月1日に、名古屋第二環状自動車道 名古屋西JCT~飛島JCTが開通する。

 ところで、この新規開通区間である名古屋西JCT~飛島JCT間は、「高速自動車国道の路線を指定する政令」によると、「近畿自動車道伊勢線」である。

名二環が近畿自動車道伊勢線である件 (1)

https://www.cbr.mlit.go.jp/kikaku/jigyou/data/r0112/110_shiryou_6.pdf

 近畿自動車道伊勢線というと普通イメージするのは伊勢自動車道だ。

 一方、同じ名古屋第二環状自動車道でも、名古屋南JCT~楠JCT~飛島JCTは、「近畿自動車道名古屋亀山線」である。

 東名阪自動車道は名古屋亀山線だし、名古屋第二環状自動車道は以前は東名阪自動車道と呼んでいたので違和感はない。

 なぜ名古屋西JCT~飛島JCT間だけ、東名阪道系列ではなく伊勢道系列なのだろうか?

 

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 まずは、「国土開発幹線自動車道建設法」の別表を見てみよう。 

名二環が近畿自動車道伊勢線である件 (6)  

 近畿自動車道伊勢線と近畿自動車道名古屋大阪線は、共に名古屋を起点として四日市を経由したのちに分岐し、伊勢市、吹田市を終点にしている。 

 国幹道法の名古屋大阪線は、道路名でいうと、名二環、東名阪道、(国道25号名阪国道)、西名阪道及び近畿道を形づくっている。 

 また、名古屋神戸線は、道路名でいうと新名神(第二名神)である。

 しかし、これでは今回開通する名古屋西JCT~飛島JCT間が、法律上何自動車道にあたるかが分からない。 

 

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 そこで、「高速自動車国道の路線を指定する政令」で見てみよう。 

 先にあげた国土開発幹線自動車道建設法の別表は、第四次全国総合開発計画で第二東名・名神等約1万4千キロの高規格幹線道路が位置づけられたことを受けて、1987(昭和62)年に改正されたものである。 

  

 そして、1989(平成元)年1月に開催された第28回国土開発幹線自動車道建設審議会での審議を踏まえ、高速自動車国道の路線を指定する政令が改正された。 

名二環が近畿自動車道伊勢線である件 (3)  

 細かいところは目をつぶって、ザクっと路線網を描くと下記のような感じだ。 

名二環が近畿自動車道伊勢線である件 (3)  

 この段階では、「高速自動車国道の路線を指定する政令」では「近畿自動車道関伊勢線」であり、現在と異なり、名二環どころか、東名阪道とも重用していない。 

 名阪国道と接続していた「関ジャンクション」の名前が懐かしい方もいらっしゃるかもしれない。

 「高速自動車国道の路線を指定する政令」は、この後、何度も改正されているのであるが、そのうち重要なものを取り上げていく。

  

 1996(平成8)年12月に開催された第30回国土開発幹線自動車道建設審議会で、近畿道名古屋市緑区~名古屋市名東区が基本計画区間とされたことを受けて、1997(平成9)年2月に「高速自動車国道の路線を指定する政令」が改正された。 

名二環が近畿自動車道伊勢線である件 (4)  

名二環が近畿自動車道伊勢線である件 (2)  

 従前までは関町が起点だった「関伊勢線」が、このとき名古屋市が起点の「伊勢線」に変更された。 

 しかし、名古屋南JCT~楠JCT~名古屋西JCT~亀山が名古屋関線と重用し、亀山市で分岐するものとされたにとどまり、まだ今回開通区間である名古屋西JCT~飛島JCT間は、高速自動車国道としては出てこない。

 (※このときの改正で法令上は名古屋~伊勢が繋がったため、便宜上現在の「伊勢関」を図に入れているが、実際に東名阪と伊勢道が直結したのは、2005(平成17)年3月である。ご注意くださいませ。)

 

 

 

 やっと今回開通区間である名古屋西JCT~飛島JCT間が出てくるのが1999(平成11)年12月に開催された第32回国土開発幹線自動車道建設審議会である。 

 このときに、今回開通区間となる、近畿道 名古屋市中川区~愛知県海部郡飛島村間が基本計画となった。 

 ちなみに、いわゆる「道路公団改革」の一環として、国土開発幹線自動車道建設審議会は、この後「 国土開発幹線自動車道建設会議」に改められた。最後の「国幹審」の審議内容の一つが今回開通区間だったわけである。

 当該区間を取り込んだ「高速自動車国道の路線を指定する政令」は、2000(平成12)年1月に改正された。 

  

 そして現在の「高速自動車国道の路線を指定する政令」が下記のとおりとなっている。 

名二環が近畿自動車道伊勢線である件 (2) 

名二環が近畿自動車道伊勢線である件 (1) 

 亀山以東を名古屋関線(東名阪道)と重用していた伊勢線が、四日市JCTから分岐し、今度は名古屋大阪線(伊勢湾岸道)と重用して飛島まで向かい、飛島JCTで名古屋大阪線と分岐し、単独で名古屋西JCTへ向かい、そこで名古屋関線(名二環)へ再び合流して起点の名古屋南JCTへ向かうという奇天烈なルートを辿ることになったのである。 

  

 近畿自動車道伊勢線の起点(名古屋市)から終点(伊勢市)を分類すると下記のようになる。 

名二環が近畿自動車道伊勢線である件 (5)

 参考までに「日本道路公団年報 平成15年」から近畿自動車道伊勢線の部分を抜粋してみよう。小さな文字で「(名古屋関線と重用」「名古屋神戸線と重用」と書いてあるのがお分かりになるだろうか。

名二環が近畿自動車道伊勢線である件 (7)

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 以上が、名古屋第二環状自動車道 名古屋西JCT~飛島JCTが、「高速自動車国道の路線を指定する政令」では、近畿自動車道伊勢線となる経緯である。 

 ところで、「なんでこんな蛇がのたうち回るような路線にしたのか」が本当は皆様の知りたいところであろうが、それを明確に示す証跡は見つけていない。 

 いずれ国立公文書館で「高速自動車国道の路線を指定する政令」の改正経緯の資料が公開されるであろうから、そのときまでのお楽しみといったところか。 

 個人的な推測としては、「国土開発幹線自動車道建設法」の別表を改正せずに、事実上追加となる路線を建設したいという行政手続き上の理由で、既存の路線に潜り込ませるような形を取ったのではないかと推測している。 

 法律を改正して新規路線を追加しようとすると、「なんで名二環だけ?うちの地元の路線もこの際入れろや」との要望が全国から押し寄せられるため、政令の改正に潜り込ませたのではないか。 

 しかし不思議なのは、名古屋南JCT~上社JCT間及び名古屋西JCT~飛島JCT間約28キロが事実上追加されたにも拘わらず、高速自動車国道の総延長は追加以前と変わらず、11,520キロのままなんである。 

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 ということで、路線政令の文言上の言葉遊びみたいになってしまった。 

 

 同じような「路線名遊び」は、以前も「祝!外環道 三郷南~高谷開通!東京外環道って法令上の名称じゃないけどどうなってんの?」という記事を書いているので、お好きな方はあわせてどうぞ。

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2018/06/post-450c.html

 

 話は変わるが、名古屋二環といえば、国鉄の貨物幹線となるはずだった城北線が一部区間を並走して走っており、ジャンクションのランプの中を車窓から眺められるという特異な路線でもある。 

名古屋二環と城北線 (1) 

名古屋二環と城北線 (2) 

名古屋二環と城北線 (3) 

 しかし、名二環に新交通システムが走る構想があったことはあまり知られていない。 

(b)名古屋市周辺(名古屋環状二号線)

 継続

 名古屋市東部の国道302号(名古屋環状二号線)周辺の丘陵地域においては、宅地開発が急速に進められているが、この東京(ママ)地域tp都心部とは地下鉄で結ばれており、更に地下鉄三号線が計画されている。これら住宅地域と地下鉄を有機的に結ぶ環状方向の新道路交通システムを環状二号線に併せ導入することについて検討する。

 

「特集-昭和52年度予算の概要と重点施策 新道路交通システムに関する調査費について」建設省道路局路政課課長補佐・沢山民季「道路セミナー」1976年10月号69頁から

 

 未成線マニヤの方からは「おい、bときたら、aやcも出すのが社会人のマナーだろう」と詰め寄られそうだが、

a) 仙台市周辺(北仙台線) 

c) 岡山市周辺(市内環状線) 

d) 広島市周辺(国道54号)

である。 

 このうち、実現したのは、「d) 広島市周辺(国道54号)」だけかな? 

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 「俺はまじめに名二環の成り立ちについて勉強しようと思ってこのページを開いたのに全く役にたたないではないか」と怒られそうなので、最後にそういう方向けのリンクを紹介しておこう。 

■ 「名古屋環状2号線(一般国道302号」の整備について」道路行政セミナー 1992年8月号

https://www.hido.or.jp/14gyousei_backnumber/1992_data/seminar9208.pdf 

■「名古屋圏における環状道路と放射道路の整備」道路行政セミナー 1995年7月号 

https://www.hido.or.jp/14gyousei_backnumber/1995_data/seminar9507.pdf 

■「名古屋都市圏の新たな可能性の幕開け「環状時代」!」道路行政セミナー 2000年6月号 

http://www.hido.or.jp/14gyousei_backnumber/2000_data/seminar0006.pdf 

■名古屋都市計画史 

https://www.nup.or.jp/nui/information/toshikeikakushi/index.html 

 名古屋都市計画史Ⅱ(昭和45年~平成12年度)上巻の381頁以降が名古屋二環にあてられている。 

■「名古屋環状2号線の開通による経済効果」 三菱UFJリサーチ&コンサルティング

https://www.murc.jp/report/rc/policy_rearch/politics/seiken_170822/ 

■「土地区画整理事業から見た名古屋環状 2 号線のあゆみ」 

https://www.nup.or.jp/nui/user/media/document/investigation/h24/NUI.sugiyama.pdf 

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(余談)

 ちょっと高速道路名称の仕組みについてかじって、いきったネットキッズが

「東名阪道の法令上の正式名称は~」

とか言ってみたくなるところであるが、

 上記を見て分かるように

 「国土開発幹線自動車道建設法」では、「近畿自動車道名古屋大阪線」だが

 「高速自動車国道の路線を指定する政令」では、「近畿自動車道名古屋亀山線」だ。

 安易に「法令上は」なんては言ってはいけないということだね。

 よいこは、法律上なのか政令上なのか理解したうえで使い分けようね。

 なお、「東名阪自動車道」だって、日本道路公団の内規に基づいて正式に決裁を取ってつけられた名称なので、別に「正式ではない」のではない。官報にだって東名阪自動車道ということで掲載されている。(官報掲載が名称決定手続きの要件ではないが)

(応用問題)

 平成元年は「名古屋亀山線」→平成9年は「名古屋関線」と変更し、現在はまた「名古屋亀山線」に戻っている理由を考えてみよう。

 何かの間違いで検索してヒットしてしまったNEXCO職員は、コメント欄に理由を書いてみよう!

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2021年4月15日 (木)

夜行新幹線と兵庫県内の新幹線駅の関係が2頁読めばすぐ分かる国鉄課長の報文

 「山陽新幹線に当初は夜行新幹線の計画があって、兵庫県内に幾つもの駅がある」というのは、割と知られているが、具体にどの駅がどうだというのは、ググってみると色々出てくる。

しかし、これでは上下の列車が行き違いできなくなります。そこで、姫路駅には待避線を設置。姫路駅から約20km博多寄りにも待避線を設けた相生駅を建設し、上下の夜行列車が行き違いできるようにしました。このときの計画が実現していれば、東海道・山陽新幹線の東京~博多間が全通した1975(昭和50)年から新幹線の夜行列車が運行されていたかもしれません。

 

※写真キャプション

山陽新幹線の姫路駅は「単線運転」に対応するため列車待避用の線路を増やして建設された 

 

乗りものニュース「新幹線で夜行列車が走っていないのはなぜ? かつては運転の計画もあったが…」 草町義和・著

https://trafficnews.jp/post/80517/2

 


その計画とは「夜行新幹線」。新大阪~岡山間の新幹線開通を前に国鉄が検討を開始し、昭和41年(1966年)の「山陽新幹線技術基準調査委員会報告」では、東京~博多間を一晩に計24本運行するダイヤ案や、片道平均5,000~7,000人台の利用客見込みなど具体的なデータがそろえられていた。

計画では、新大阪~岡山間は線路の保守点検作業などの関係で、博多方面、東京方面いずれか一方の線路を使う単線運転を想定。この区間は東京と博多の中間に位置するため、単線運行するには一方が通るのをやり過ごす(すれ違わせる)待避場所として4~5カ所の駅が必要となった。

しかも、当時は中国・四国縦断新幹線の計画もあり、山陽新幹線と中国・四国新幹線が交差する駅として想定されていた岡山駅よりも手前で、この退避用駅を置く必要があり、これが兵庫県内に4つの新幹線駅が設置される一因となったわけだ。

 

マイナビニュース「なぜ兵庫県に新幹線の駅が4つもある!? 秘められた幻の計画とは 」OFFICE-SANGA・著

https://news.mynavi.jp/article/20130919-hyogo/

 

●幻の夜行新幹線

 東海道・山陽新幹線では「夜行新幹線」を走らせる計画もありました。夜間に行わねばならない線路の保守作業は、上下線2本の線路のうち1本を使って夜行列車を走らせ、片方の線路で保守作業をするという形で解決。列車の行き違いは駅で行う、というものです。行き違いは東京駅と博多駅の中間付近に位置する兵庫県内の西明石、姫路、相生駅で行うことが想定されていました。

 

乗りものニュース「夜行新幹線、ギネス 山陽新幹線40周年の歴史」 恵知仁・著

https://trafficnews.jp/post/38626/3

 

夜行新幹線の検討

新幹線計画段階では夜行新幹線も検討されており、夜間運行の際は片側1線を日によって交互に単線で運用して残りの1線は保守点検作業を行う計画であった。山陽新幹線では、夜間の単線運行で上下列車を離合させるための待避線として姫路駅の下り線に13番ホームが追加され、予備の待避駅として西明石駅・相生駅が建設された[43]。

 

[43]^ 兵庫に4駅集中なぜ?幻の「夜行新幹線」計画(『神戸新聞』 2012年3月15日)

 

Wikipedia「夜行列車」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9C%E8%A1%8C%E5%88%97%E8%BB%8A

こんな話もあるようだ。 

 

  

 なんかみんな言っていることがビミョーに違うぞ。誰かが嘘をついているのだろうか? 

  

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 で、タイトルにある「夜行新幹線と兵庫県内の新幹線駅の関係が2頁読めばすぐ分かる国鉄課長の報文」である。 

  

 表題は「山陽新幹線の計画概要と施工上の問題点」 

 著者は斉藤徹・国鉄本社山陽新幹線建設部工事課長である。 

 掲載されていたのは「土木施工」という土木業界誌であり、私が参照したのは、「土木工事施工例集 1道路・鉄道編」1967年 山海堂・刊の258頁以降に転載されたものである。 

  

 さっそく(1)新大阪ー岡山間の駅設置について という章があり、駅の設置についての考え方について触れている。

夜行新幹線と山陽新幹線兵庫県内の駅 (1)  

「山陽新幹線の計画概要と施工上の問題点」斉藤徹  「土木工事施工例集 1道路・鉄道編」258頁から

 まず、新神戸、姫路、岡山が決定されたと。これは順当であろう。 

 そして、夜行新幹線の運行上必要な駅の話に入る。 

夜行新幹線と山陽新幹線兵庫県内の駅 (2)  

「山陽新幹線の計画概要と施工上の問題点」斉藤徹  「土木工事施工例集 1道路・鉄道編」258頁から

  

 新神戸、姫路、岡山の3つの駅以外に「待避線をもつ駅が別に2駅必要」としている。 

 なぜ2駅必要なのかは下記の4案の運転方式から導きだされている。 

夜行新幹線と山陽新幹線兵庫県内の駅 (3)  

夜行新幹線と山陽新幹線兵庫県内の駅 (4)

夜行新幹線と山陽新幹線兵庫県内の駅 (5)

「山陽新幹線の計画概要と施工上の問題点」斉藤徹  「土木工事施工例集 1道路・鉄道編」259頁から

 

  

 4つの案から「第1案」が採用された。 

 第1案では「下り列車が新大阪等4個所で上り列車群と行き違いをする」とある。 

 一方、「(新)神戸については、地形上退避設備をとることが非常に困難なため神戸以外の場所を選定する必要がある」 

 そこで、「山陽新幹線が現在の山陽本線と交るか、相接するかした旅客の乗換が便利な地点で、かつかなりの乗降客が予想される地点」として西明石・相生に山陽新幹線の駅を設けることに決定した。 

  

 極めて明快である。 

  相生駅は、姫路には至近だわ、自民党の派閥の領袖である故・河本敏夫氏の地元だわで「政治駅」と言われることがあるが、国鉄の運行上の必要性が改めて明らかにされたということでよいのかもしれない。

 

※ 夜行新幹線がすれ違う駅は「新大阪」「西明石」「姫路」「相生」の4箇所 

 実は先に上げたWikipediaの記事や各鉄道ライター氏の中でこれと同じことを書いた人は一人もいないのであった。 

 これはどうしたことか。 

 「姫路以外は予備」どころか4駅ともがっつり停まっているではないか。

 Wikipediaの元ネタとなっている神戸新聞の記事はリンク切れだし、各ライターの人がそう書いた根拠には一切触れられていないので突き合せの仕様がないのだが、いずれにせよ全員斉藤課長とは違うことを書いている。 

 ひょっとしたら斉藤課長が間違っているかもしれない。国鉄本社山陽新幹線建設部工事課長なんてどこまでホントのこと書いているか疑わしいしな。 

 別の文献にもあたってみよう。 

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 国鉄が毎年開催していた「停車場技術講演会記録」の第18回に佐藤康・国鉄山陽新幹線建設部企画課長が「山陽新幹線の計画について」という報告をしている。 

 これを見れば「のりものニュース」が正しいことが証明されるかもしれない。工事課長より企画課長の方がなんか偉そうだし。

夜行新幹線と山陽新幹線兵庫県内の駅 (8)

「山陽新幹線の計画について」佐藤康 「停車場技術講演会記録」第18回316頁から

 やはり、がっつりと「新大阪、西明石、姫路、相生」の4駅でがっつり行き違いをしているのであった。

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 ところで、姫路駅の新幹線ホームは、上りは11番線のみだが、下りは12番線と13番線の2線がある。

 参照 JRおでかけネット「姫路駅」https://www.jr-odekake.net/eki/premises?id=0610619

 上記のWikipediaにも「山陽新幹線では、夜間の単線運行で上下列車を離合させるための待避線として姫路駅の下り線に13番ホームが追加され」とあるし、草町義和氏も「姫路駅は「単線運転」に対応するため列車待避用の線路を増やして建設された」としている。ネット上でも多くの方が「これは夜行新幹線の名残!」としている。

 これについても資料にあたってみよう。

 国鉄が「山陽新幹線停車場関係資料集」という資料集を刊行している。

https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002797328-00

夜行新幹線と山陽新幹線兵庫県内の駅 (11)

「山陽新幹線停車場関係資料集」76頁から

 姫路駅は上り線も下り線同様の待避線の絵があるが破線になっている=つまり当初から計画はあるが今は実装されていないということだ。

 ではなぜ下り線の待避線だけ施工されたのか?

夜行新幹線と山陽新幹線兵庫県内の駅 (12)

「山陽新幹線停車場関係資料集」77頁から

 

 「姫路、相生駅には着発線6線可能」としてある。

 ではそのうちなぜ姫路駅下りの13番線だけ施工されているのか?

 なお、東海道新幹線の実績にもとづき、事故時における運転整理などのため、姫路駅には開業当初より下り待避2番線を設置することにしている。

 はい。夜行関係ありませんでした。

 

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(余談)

 話は夜行新幹線から逸れるので恐縮なのだが、しれっと

「新大阪駅の将来計画としては、着発線6線(旅客)通過線2線(貨物)、島ホーム3本になるよう考慮されている。」

 と書かれている。

 貨物新幹線は「世界銀行向けのダミー」どころか、当時着々と準備されていたのである。

(余談終わり) 

 

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 これも「山陽新幹線の計画について」佐藤康・国鉄山陽新幹線建設部企画課長 著で、裏取りをしてみよう。

夜行新幹線と山陽新幹線兵庫県内の駅 (10)

「山陽新幹線の計画について」佐藤康 「停車場技術講演会記録」第18回318頁から

 

 「1.姫路駅が5線になっているのは下り退避2番線を事故時の留置線としているため。」

 はい。夜行関係ありませんでした。

 

 正確に書くと「姫路駅の下り13番線は、夜行新幹線運行の際の退避として計画されたが、それは姫路駅の上り線や相生駅にも同様の計画があった。姫路駅の13番線だけ完成しているのは、夜行新幹線の運行のためではなく、事故時における運転整理などのためである。」といったところか。

 国鉄の両課長の報文からすると、夜行新幹線計画がなくても、運行上の必要性から、姫路駅13番線は作られていた可能性が高い。

 であれば「姫路駅13番線は、夜行新幹線計画のために作られたが、夜行新幹線計画が頓挫したため、通常の運行に転用されている」というような言いぶりは誤りであろうし、「姫路駅13番線こそが夜行新幹線計画があった証拠」とまでも言い切れないのではないか。

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 ところで、相生駅は夜行新幹線の上下線の退避のために運行上必要な駅であって、政治駅ではないと書いてみたが、「相生駅がない夜行新幹線の運行図」もあるので、次はそれを紹介したい。

 

 

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<余談 その2>

 マイナビニュース「なぜ兵庫県に新幹線の駅が4つもある!? 秘められた幻の計画とは 」OFFICE-SANGA・著 では

「「山陽新幹線技術基準調査委員会報告」では、(略)待避場所として4~5カ所の駅が必要となった。」

と書いてあるが、

夜行新幹線と山陽新幹線兵庫県内の駅 (6)

では、

夜行新幹線と山陽新幹線兵庫県内の駅 (7)  

「4ヵ所」と書いているのであって「4~5カ所の駅」とは書いていない。 

「山陽新幹線技術調査委員会の成果」立松俊彦・著「交通技術」1966(昭和41)年10月号452~453頁から

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2021年4月11日 (日)

名神高速道路 大津IC→京都東ICへの名称変更と大津SAへのIC追加等にまつわるあれこれ

 高速道路のIC名称については、過去にブログで触れている。

 「高速道路やICの名称決定基準」

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/09/post-edc5.html

名神高速道路 京都東と大津 (9)

高速道路のプランニング」という本に、上記のような決定基準等が掲載されている。

 鉄道の駅は、「西舞鶴」「東舞鶴」と地名の前に東西南北がつくが、高速道路の場合は「舞鶴西」「舞鶴東」と地名の後に東西南北がつく。

 こういった話の中でよく出てくるのが、名神高速道路の京都東インターチェンジである。

 鉄道風に呼べば「東京都インターチェンジ」となり、「とうきょうとインターチェンジ」と読めてしまうからである。

 こういった命名規則となった理由が、少なくとも2種類あるようだ。(私は最近気づいた。)

 

 まずは、日本道路公団公式記録である「名神高速道路建設誌(総論)」1966年・刊 222頁から

名神高速道路 京都東と大津 (3)

 ついで、元日本道路公団職員で実際に名神高速道路建設に従事していた武部健一氏の「道路の日本史」2015年・刊 196~197頁から

名神高速道路 京都東と大津 (2)

 東京都ICを避けて京都東ICとしたところの説明が双方異なっている。

 道路公団公式→「東京都とならないように方角を都市名の下に付した」

 武部健一氏 →「アメリカ式に都市名の下に方角を付したことによる偶然の成功」

  

 また、 地名の後に東西南北がつくお手本も双方異なっている。

 道路公団公式→「Frankfurt-Ost」ドイツ式?

 武部健一氏 →「Oregon-west」アメリカ式

  

 さてどちらが正しいのやら。 

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 次の話題に移りたい。 

 名神高速道路は当初計画では、今の大津ICはなく、今の京都東ICが当初は大津ICで、今の京都南ICが当初の京都ICだった。 

名神高速道路 京都東と大津 (1)  

 「名古屋-神戸 高速道路の構想」日本道路公団 1957年・刊 から 

 後から今の大津ICが追加されたことで、上述の京都東ICという悩ましいIC名問題が勃発したわけだ。 

 ところで、その追加理由について、Wikipediaにはこのように書いてある。 

名神高速道路 京都東と大津 (5)  


 名神高速道路が建設された当時、現在の京都東ICが大津ICとして計画されていた。それに対して当時の大津市長上原茂次は「それでは大津ICとは言えない、京都市内にあるではないか」と猛抗議した。そこで、当初大津SAのみの予定であった場所に急遽、大津ICが併設され、当初予定の大津ICは1963年7月16日、京都東ICに改称の上で設置された[要出典]

 

「Wikipedia」大津インターチェンジ (滋賀県) 2021年4月11日 閲覧

 

  「それでは大津ICとは言えない、京都市内にあるではないか」ということであるが、大津市の地形に詳しい方は、大津市の境界って山科にすごく近いところまで入り込んでいるということをご存じであろう。

 

 上図の一点破線が大津市と京都市の境界線である。 

名神高速道路 京都東と大津 (6)  

「名神高速道路建設誌(各論)」1966年・刊 271頁から 

 この上記「図3-65 京都東(1)」の図面を見るとお分かりのように、当初の大津IC(=現・京都東IC)の出入り口は、大津市追分において国道1号と接続しており、立派に大津市内だったのである。 

 ただし、これは武部氏を含む日本の技術者が初めて高速道路設計に取り組んだ成果であるところ、西ドイツから迎えたアウトバーン技術者であるクサヘル・ドルシュ氏とのやり取りを通して、度々修正されている。 

 「名神高速道路建設誌(各論)」にはその経緯が詳細に記されているがここでは、大津ICの変遷に関係する箇所のみ抜粋して引用したい。 

 ドルシュ氏と取り組んだ修正経過の中で、旧・大津IC(=現・京都東IC)の出入り口を変更して片方向だけの出入りにしようとした時期があった。それにより、大津ICと言いながら、大津市からの利用がしづらい方向に限定しようとしたため、大きな反対の声があがった
 

 それを解消するため、既存の大津SAにICを併設し、神戸・大阪側のみの出入り口を設けることとした

名神高速道路 京都東と大津 (7)  

「名神高速道路建設誌(各論)」1966年・刊 274頁から

 

 片側のみの出入りに変更された京都東ICのサブゲートとして、大津SAに追加された出入口は、当初は片側方向だけの出入り口だったが、最終的には両方向に通行可能となった。 

名神高速道路 京都東と大津 (8)  

「名神高速道路建設誌(各論)」1966年・刊 276頁から

 

名神高速道路 京都東と大津 (9)  

 超ザクっと表すとこんな感じだろうか。実際には変更①②どころではない 7頁にもわたる経緯がある。

 ということで、道路公団の公式記録には、Wikipediaに書いてあるような「大津市長上原茂次は「それでは大津ICとは言えない、京都市内にあるではないか」と猛抗議した。そこで、当初大津SAのみの予定であった場所に急遽、大津ICが併設され」たというような記録はでてこない。 

  

 ちなみに武部健一氏は、この辺のやりとりをこう述べている。 

名神高速道路 京都東と大津 (4)  

 「土木史研究におけるオーラル・ヒストリー手法の活用とその意義―高速道路に焦点をあてて― 姉妹版 武部健一氏」33頁 


 大津が「うちのところはなくなったじゃないか。どうするんだ」と文句をいったので、それじゃ、しようがない、とにかく大津サービスエリアを予定したところにくっつけちゃおう。インターを併設しようということになったんです。

 

 「大津ICとSAを併設したのはぐちゃぐちゃになって大失敗で、以降20年くらい禁止になった」というエピソードも興味深い。 

 武部氏の述べる設計変更の経緯とザクっとした経緯図は若干違うが、そこを正確に反映した経緯を図式化して出すと訳がわからなくなるのでご容赦いただきたい。(明らかに間違っているということであればご指摘くださいませ。) 

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 大津ついでに、さらにややこしい話をつっこんでおこう。 

 

 実は、北陸自動車道は、当初は大津市が終点であった。

縦貫道法北陸道

昭和39年当時の高速道路図では下記のような塩梅である。

昭和39年高速道路路線図

昭和39年高速道路路線図2

 

 

 「北陸道の終点を米原にしてくれ」と彦根付近を地盤とする国会議員堤康次郎に地元自治体が陳情している記録が残されている。 

https://archive.waseda.jp/files/pdf/sdb18/22709/yVNl7Xma_1.pdf 

 北陸自動車道建設促進同盟会のパンフレットも興味深い。

https://archive.waseda.jp/files/pdf/sdb18/22711/GfNsGjEb_1.pdf 

 

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あまり知られていない成田空港関連の国鉄未成線

 また成田空港関連である。

 今度は成田空港関連で国鉄のあまり知られていない未成線構想があったというお話。

成田空港への国鉄未成線 (1)

1967(昭和42)年8月23日付毎日新聞から

 成田空港建設資材輸送用に、新東京国際空港公団が土地を買収し、成田線から分岐する鉄道を建設する。

 これを利用して国鉄が成田空港への旅客輸送を図る「空港線(仮称)」を新設する。

というもの。

 

 同様の報道は他にもある。

成田空港への国鉄未成線 (2)

1967(昭和42)年10月6日付朝日新聞から

 こちらには「成田市土屋」と具体の地名が出ているので、今の成田エクスプレス等が利用している線と同様なのかな?

 これが計画どおり実施されていれば成田空港開港から在来線経由の東京直行の鉄道ができたのになあ。

成田新幹線ルートと千葉ニュータウン (4)

1967(昭和42)年9月1日付読売新聞から

 時を同じくして、「首都圏高速鉄道=通勤新幹線」構想も動いていたので、両方を検討した結果、成田新幹線とすることになったのだろうか?

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 成田とは話が変わるが、工事資材用の運搬線路と国鉄、新幹線の他公団との協定にこんなものがある。

 

 埼玉県川口市にある日本住宅公団川口芝園団地の敷地は、元々は鉄道車両を製造していた「日本車輌」の工場であった。

 日本車輛が国鉄線まで引き込み線を持っていたのを転用したのか、公団住宅建設のために新設したのかは不明であるが、蕨駅から「日本住公団専用線」を分離させ、資材搬入に活用したようで、国鉄と住宅公団の間で締結した覚書が残されている。

 その中で興味深い条項があって

・新幹線建設工事着工のため専用線を使用できるのは昭和50年3月まで

・住宅公団は団地入居者の募集にあたり新幹線計画を周知させ、苦情があったら適切な措置をとる

・新幹線建設工事で移転する一般の者の入居に住宅公団は協力する

といったようになっている。

 蕨駅を新幹線が通る計画なんてあったんですね(すっとぼけ)

上越新幹線 新宿-大宮間ルート (1)

1976(昭和51)年1月 「交通技術」1976年1月号「”ひかり”を北へ 東北・上越両新幹線建設計画の概要とその現況」から

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2021年4月10日 (土)

成田新幹線の南ルートと北ルート ~千葉ニュータウンを通るのは既定事項ではなかった~

 また、成田新幹線のルートの話をやります。

  ネットの鉄道関係記事では、成田新幹線と千葉ニュータウンの関係について下記のように書かれている。

 千葉ニュータウンが構想されたのは1960年代のことで、1966年5月に千葉県が整備構想を発表。続いて同年7月には、成田市三里塚に新しい国際空港を整備することを政府が閣議決定し、東京都心と新空港を結ぶ「高速電車」の運行も同時に決まった。これが成田新幹線計画の起源になる。

 千葉県はニュータウンの造成に際し、2路線分の鉄道用地を確保することにした。通勤鉄道用地は当初から確保する方針だったが、構想の発表から2カ月後に「高速電車」が閣議決定されたため、高速鉄道用地も確保することにしたようだ。国鉄発行の『日本国有鉄道百年史』第13巻(1974年2月)にも、以下のように記されている。

 成田新幹線については、当面、新空港と東京都心とをできるだけ短い時間で結ぶことがおもな使命となるが、途中に1か所だけ、将来のニュータウン予定地に駅を設けることとした(中略)ニュータウン計画当初から、この中に通勤鉄道と高速鉄道のそれぞれ複線分の用地が予定されていたためである。

  

「成田新幹線用地が「日本最長メガソーラー」に 京王線も来るはずだった千葉ニュータウン 」草町義和

東洋経済オンライン 鉄道最前線 都会に眠る幻の鉄路

https://toyokeizai.net/articles/-/185355?page=3 

 ところが、「成田新幹線が千葉ニュータウンを通るかどうかは、1971(昭和41)年4月の整備計画決定及び日本鉄道建設公団への建設指示の段階でも確定事項ではなかった」「千葉ニュータウンを通らない世界線もあった」(←「世界線」って使ってみたかったw)

と書くと

 「北総線の横にあるソーラーパネルのところの土地は、千葉ニュータウンを作るときからずっと成田新幹線用に空けて待ってたんだぞ。何言ってんの!?」

と突っ込まれそうだが事実なんである。

 そこのところを例のごとく物量で雪隠詰めにしていきたい。

 

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 成田新幹線のルーツといえば、「通勤新幹線」であることをご存じの方もいらっしゃるだろう。

通勤新幹線

「交通技術」1968年1月号「東京周辺の改良工事施工上の諸問題」菅原操・著35頁から

 

 そもそも、「通勤新幹線」とはなんぞやということになるのだが

 

 第二の柱である東京周辺の都市交通対策の構想では、東京を中心に放射状の通勤新幹線5本(このうち1本は東北新幹線の宇都宮付近までの線で兼用)を建設する。最高時速は160キロ、駅間距離は30キロ以上、車両は現在の新幹線より1両あたり50人多い6人掛け25列、150人乗りで、原則として全員が座れるようにする。1線1時間あたりの輸送量は3万6000人で、100キロ以内の首都圏に住む人は50分足らずで都心に出られることになる。

 路線は、東京から千葉県の新東京国際空港付近(50キロ)に至るもの、東京から茨城県の中央部(100キロ)、東京から群馬県の南部(100キロ)、東京から神奈川県の湘南地区(70キロ)に至るものと、前記東北新幹線兼用の5つ。

「R」1966年11月号「10年後の国鉄 -鉄道網整備の基本構想-」21頁から引用

 当初の通勤新幹線時代にこんな記事がある。

成田新幹線ルートと千葉ニュータウン (4)  

 1967(昭和42)年9月1日付読売新聞 

 「なんや、こら、 北千葉ニュータウン経由って書いてあるやんけ!」と思われるかもしれない。

 まあ、もうしばらくお付き合いください。

成田新幹線ルートと千葉ニュータウン (1)  

「成⽥ニュータウン計画における商業企画に関する研究報告」小林輝⼀郎・著  「⽇本経営診断学会年報」1970年2巻から

 「なんや、こら、 千葉ニュータウンに「高速鉄道」が走ってるやんけ!」と思われるかもしれない。

 まあ、もうしばらくお付き合いください。

 

  

 成田新幹線の建設手続きは下記のとおりである。 

1971(昭和46)年1月18日 東北・上越・成田新幹線の基本計画を決定・告示

1971(昭和46)年1月19日 東北・上越・成田新幹線の調査を国鉄及び鉄道建設公団へ指示

1971(昭和46)年1月30日 東北・上越・成田新幹線の調査報告書を運輸大臣に提出

1971(昭和46)年4月1日 東北・上越・成田新幹線の整備計画決定及び建設指示

1971(昭和46)年10月12日 東北・上越新幹線の工事実施計画認可

1972(昭和47)年2月10日 成田新幹線の工事実施計画認可

 

 御覧のとおり、よーいドンで始まった東北・上越・成田新幹線のうち、成田新幹線の工事実施計画認可だけが東北・上越新幹線よりも遅いのである。(なお、認可の翌日から反対運動が巻き起こるのだがそれは別の機会に。)

 なぜか。

 その間に、「成田新幹線が千葉ニュータウンを通るかどうか」その他諸々が揉めていて決まらなかったためである。

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 その辺の経緯を追っていきたい。

成田新幹線ルートと千葉ニュータウン (3)

1971(昭和46)年10月19日付朝日新聞夕刊 8

  先ほど、成田新幹線は通勤新幹線がきっかけの旨書いたが、通勤路線とするのか、全国網の幹線鉄道ネットワークの一部とするのかで、国鉄と鉄道建設公団が了解できなくて、その路線の性格をどのようにルートに反映させるかも決まらないので、東北・上越新幹線に比べて工事実施計画の策定が遅れているという話である。

 国鉄は、成田新幹線は成田空港利用客だけでは採算がとれない赤字路線になるので、ニュータウンに停車して利用客を稼ぎたいが、鉄道建設公団は余計な駅には止めたくないという対立のようだ。 

  ちなみに、国鉄としては、北ルートの場合は千葉ニュータウンに、南ルートの場合は幕張等の京葉線沿いのニュータウンに停めたかったようだ。

 SNSで「もし成田新幹線ができていたら、(湾岸沿いの)ニュータウンにも停まって、ラッシュの混雑緩和できたかもしれないのに」という書き込みが見られると、未成線マニアは「成田新幹線はそっちじゃなくて、千葉ニュータウン経由だよ。これだからニワカは。」的な態度を取りがちだが、実はニワカの方が正しかったりするのである。 

成田新幹線ルートと千葉ニュータウン (2)  

1971(昭和46)年11月7日付毎日新聞 

 そこをなんとか北ルートで決定して、元サヤの?千葉ニュータウン経由となった。 

  

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 先ほど、「成田新幹線は通勤新幹線か否か」という性格論争があったと書いたが、その詳細が示されている資料があるのであわせて紹介しておきたい。 

成田新幹線ルートと千葉ニュータウン (5)  

「新幹線建設委員会の審議概要(その1)」国鉄新幹線建設委員会 1972(昭和47)年3月刊から 以下同じ 

成田新幹線ルートと千葉ニュータウン (6)  

成田新幹線ルートと千葉ニュータウン (7)  

 ここでいう「首都圏高速鉄道」が、いわゆる「通勤新幹線」である。我々マニアにとっては新幹線だろうが通勤新幹線だろうが大した違いはないようなのだが、当事者にとっては大きな問題なのであろう。

 他の部分も読んでみると、「ここで成田新幹線に通勤定期的な割引を認めてしまうと、他の新幹線への影響が大きい」という課題があるようだ。今では新幹線定期は普通に販売しているが、当時はそこは大きな壁だったということなのだろう。 

  更に、これらの資料に続き、国鉄の監督官庁である運輸省による成田新幹線の位置づけペーパーが添付されている。

 

 成田新幹線ルートと千葉ニュータウン (8)

成田新幹線ルートと千葉ニュータウン (9)  

 ここで注目したいのは、3問題点 (1)ルートについて 中の箱書きの中である。 

〇 北千葉ニュータウン内には複々線の鉄道用地が確保されており、この部分を経由することも考えられる。」 

 この一文から分かる成田新幹線のルート問題への重要な国のスタンスが分かる。 

1) 成田新幹線は北ルート(=千葉ニュータウン経由)となることは、この会議が開催された1970(昭和45)年7月段階では確定事項ではなかった。むしろ「考えられる」程度のレベル感であった。 

2) 千葉ニュータウン内に確保されていた複々線は、当初から成田新幹線用に準備されていたものではなかった(少なくとも運輸省はそうは受け止めていなかった)。

 それが実際に北ルート(=千葉ニュータウン経由)と決定したのは、新聞報道によると 1971(昭和46)年11月ということなんである。

 さあ、対立していた国鉄と鉄建公団が北ルートで合意したからには、事業促進に突き進むかというとそうではなかった。 

成田新幹線ルートと千葉ニュータウン (10)  

1972(昭和47)年5月3日付朝日新聞から   

 工事実施計画認可後に千葉県がルート問題を蒸し返したのである。北ルート反対、南ルートなら検討と。 

成田新幹線ルートと千葉ニュータウン (12)  

 そして、南ルートを今から建設するには時間もかかるので、その間は「都営新宿線(10号線)-千葉県営鉄道-成田空港」の鉄道アクセスを整備すべきとした。 

成田新幹線ルートと千葉ニュータウン (13)  

1972(昭和47)年5月13日付読売新聞から

 そして千葉県の友納知事は東京都の美濃部知事と組んで「都営地下鉄新宿線(10号線)-千葉県営鉄道-成田空港」の鉄道アクセスを整備を改めてぶちあげた。

 都営新宿線の整備促進に繋がるのであれば、成田新幹線反対の急先鋒である江戸川区も賛成である。 

 

 千葉県の友納知事の千葉県営鉄道への熱の入れ方については、サークル「高砂第一工廠」さんの「千葉県営鉄道北千葉線のあゆみ」https://akaden.org/mat/his/ktcb/his01.htmlを読むとよいだろう。

 友納知事にとっては、京成=北総開発鉄道と競合しながら千葉ニュータウンに千葉県営鉄道をねじ込もうとしているところ、更にライバルになる成田新幹線は排除したかったのだろうか?

 これは全くの個人的な思い付きのレベルだが、「成田新幹線が挫折したのは、プロ市民のせいだ、サヨクだパヨクだ」なんてネットで書かれることがあるけど、千葉県が一番悪玉だと思うんだけど。如何??

 先日UPした「成田新幹線凍結前に、承知のうえで、船橋二和高校の南側に成田新幹線と競合する都市計画道路を都市計画決定した」のも千葉県の仕業だし。

 ご存じのように友納知事は保守派の土木利権大好き知事である。反権力で公共事業反対したのではない。

 その証拠に、同時期に成田空港に向けて整備された東関東自動車道(新空港自動車道)は無事に開通している

Wikipedia「中央自動車道」の変な記述を検証 (16)

「道路」1971(昭和46)年11月号から引用

  

 ただし、自分のナワバリに手を突っ込まれたら、公団だろうが国だろうが言うことは聞かないよということなのだろうか。

 その辺は、葛西周辺の区画整理事業を台なしにされそうになった江戸川区の中里区長と同じなのかもしれない。

 

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 ところで成田新幹線が北ルートか南ルートかがギリギリまで決まらなかったとすれば、千葉ニュータウンが空けておいた「新幹線用地(現・ソーラーパネル用地)」は一体何を考えて作られた(空けておいた)のだろうか?

 ヒントになる新聞記事を紹介したい。

成田新幹線ルートと千葉ニュータウン (14)

 1967(昭和42)年12月19日付朝日新聞から

  冒頭にあげた通勤新幹線の記事の直後の報道である。

 陸の孤島であった千葉ニュータウンへの鉄道敷設のために入居者負担を検討するものだ。(余談だが、その後一部路線が宅地開発公団→住宅都市整備公団の鉄道となっていくので、「一種の入居者負担」ではある。)

 その中に注目すべき部分がある。

成田新幹線ルートと千葉ニュータウン (15)  

 ザクっというと、「通勤電車だけでは入居者負担はしんどいので、成田空港行きの電車等も設定することで負担軽減に資するようにしよう」ということだ。

 単純に国策協力として成田新幹線用地を空けて待っていたのではなく、入居者の負担軽減のために新幹線に限らず長距離輸送に係る鉄道を積極的に誘致していこうという姿勢がここには見られるのである。

 

 

 結果的には、成田新幹線も千葉県営鉄道も共倒れに終わった。

 成田新幹線凍結後のAルート、Bルート、Cルートの話は比較的有名だが、実はそもそもスタートからルート問題で躓きっぱなしだったのが成田新幹線だったわけだ。 

 

 (とりあえずここで本題終わり)

 

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 (ここからは余談) 

成田新幹線ルートと千葉ニュータウン (7)  

 先にあげた「新幹線建設委員会の審議概要(その1)」資料にこんな記載がある。 

 成田新幹線を「全国新幹線鉄道のみ建設」し、「首都圏高速鉄道(=通勤新幹線)としての建設は行わない」場合、すなわち、「長距離輸送に専念して、通勤輸送は行わない」場合の「欠点(問題点)」の(2)として「都心部ルート(都庁前鍛冶橋通り)を確保したいきさつに対する都市交通審議会、東京都等の反応」があげられている。 

成田新幹線ルートと千葉ニュータウン (16)  

 都市交通審議会といえば、未成線マニア等にとっては有名な上図の路線網を決めるところだ。 

 (せっかくなので、千葉県営鉄道が10号線として位置づけられているやつを。。。ちなみにまだ埼京線がないので、都営三田線(6号線)が、東北線の西側を大宮方向川越線まで走っている。) 

 そこのメンツを潰すような振る舞いになってしまうということだろうか? 

  

 国鉄で新幹線建設等に携わった角本良平氏が下記のようなことを語っている。 

成田新幹線ルートと千葉ニュータウン (17)  

交通選書 「新幹線 希望と展望」交通新聞社・刊 154頁から 

「成田新幹線は(略),東京のターミナルは当時の都庁前(現在の京葉線ホームの位置)に予定された。そのため,そこに計画されていた地下鉄有楽町線は南の方(有楽町駅寄り)に移された。今日この線が銀座線などと連絡が悪いのはこの措置が原因であった。」 

 成田新幹線は、もともと予定されていた有楽町線を追い出して鍛冶橋(当時の都庁前)に駅を計画したというのである。 

 だから通勤輸送をやめたときに「都心部ルート(都庁前鍛冶橋通り)を確保したいきさつに対する都市交通審議会、東京都等の反応」が気になるのだろう。 

 推測にすぎないがその「いきさつ」には、「成田新幹線は長距離客だけでなく通勤輸送もするので、有楽町線はどいてくれ」という経緯があったため、今更通勤輸送はやりませんとは言えないということではないだろうか? 

  

 また、「この鉄道には自治体側の協力がなく、結局計画は消滅した。その背後には関連の民鉄の反対があったという。」とある。 

 関連する民鉄とはいったいどこだろう?皆様の脳裏には、目つきの悪いパンダを思い浮かべる人もいるかもしれない。いやそれしかいないだろう。 

  

 千葉ニュータウンへの鉄道敷設で千葉県と争った京成電鉄は、成田新幹線代替路線のルートで今度は国鉄と争った。 

成田新幹線ルートと千葉ニュータウン (18)  

1980年10月25日付朝日新聞から 

 ご存じのように、成田新幹線代替の鉄道アクセスは京成に軍配が上がり、多くの鉄道マニアがスカイライナーを「成田新幹線」と呼んでいる。 

 印旛地方をめぐる、千葉県、国鉄、京成の三つ巴の鉄道ルート争いは、京成が最終的に勝利を迎えたということだろうか。 

  

 

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