2018年7月15日 (日)

平成30年7月豪雨に係る各地弁護士会等の無料相談窓口等の被災者支援まとめ

 平成30年7月豪雨にて貴重な命を失った方のご冥福をお祈り申し上げます。

 

 さて、平成30年7月豪雨に係る被災者支援策を各地の弁護士会等が実施しているので、7月15日現在の情報をまとめてみました。何かのお役にたてれば幸いです。

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岡山弁護士会 http://www.okaben.or.jp/

 

・豪雨災害に関する無料法律相談の実施について

http://www.okaben.or.jp/news/index.php?c=topics_view&pk=1531114389

・被災者支援チェックリストをご活用ください(お知らせ)

http://www.okaben.or.jp/news/index.php?c=topics_view&pk=1531201790

被災者チェックリストのPDFファイル

http://www.okaben.or.jp/images/topics/1531201790/1531201790_4.pdf

・「被災者生活再建ノート」の掲載について

http://www.okaben.or.jp/news/index.php?c=topics_view&pk=1531377445

被災者生活再建ノートのPDFファイル

http://www.okaben.or.jp/images/topics/1531377445/1531377445_4.pdf

 

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広島弁護士会 https://www.hiroben.or.jp/index.php

 

【豪雨災害】豪雨災害に関連する相談料を無料にいたします

https://www.hiroben.or.jp/kouen_info.php#322

【豪雨災害】被災者支援チェックリストをご活用ください

https://www.hiroben.or.jp/kouen_info.php#323

被災者チェックリストのPDFファイル

https://www.hiroben.or.jp/images/kouen/323/%E8%A2%AB%E7%81%BD%E8%80%85%E6%94%AF%E6%8F%B4%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88.pdf

【豪雨災害】豪雨災害に関する無料電話相談を実施します

https://www.hiroben.or.jp/kouen_info.php#325

【豪雨災害】「広島弁護士会ニュース第1号」を掲載します

https://www.hiroben.or.jp/kouen_info.php#324

広島弁護士会ニュース第1号のPDFファイル

https://www.hiroben.or.jp/images/kouen/324/%E5%BA%83%E5%B3%B6%E5%BC%81%E8%AD%B7%E5%A3%AB%E4%BC%9A%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B9%E7%AC%AC%EF%BC%91%E5%8F%B7.pdf

 

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愛媛弁護士会 http://www.ehime-ben.or.jp/

 

・7月豪雨による愛媛県内の被災者対象 無料電話相談

http://www.ehime-ben.or.jp/fsusvstj.php?pcm=on&rtn=../index.htm&ini=133&PHPSESSID=6e4f6cd750454c30f57cc775bd520b6b

・愛媛弁護士会ニュース(窓口編)

http://www.ehime-ben.or.jp/newsupload/news_reception_desk.pdf

・愛媛弁護士会ニュース(支援制度編)

http://www.ehime-ben.or.jp/newsupload/news_support_system.pdf

・愛媛弁護士会ニュース被災者支援チェックリスト

http://www.ehime-ben.or.jp/newsupload/support_check_list.pdf

 

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高知弁護士会 https://www.kochiben.or.jp/

 

・平成30年7月豪雨災害に関する会長談話と被災者のみなさまへお知らせ

(※無料電話相談ダイヤルの記載あり)

https://kochiben.or.jp/info/%e5%b9%b3%e6%88%90%ef%bc%93%ef%bc%90%e5%b9%b4%ef%bc%97%e6%9c%88%e8%b1%aa%e9%9b%a8%e7%81%bd%e5%ae%b3%e3%81%ab%e9%96%a2%e3%81%99%e3%82%8b%e4%bc%9a%e9%95%b7%e8%ab%87%e8%a9%b1%e3%81%a8%e8%a2%ab%e7%81%bd/

・高知弁護士会ニュース第1号

https://kochiben.or.jp/wp/wp-content/uploads/2018/07/3bbee4978e87d7e6ad5db57afa90cb56.pdf

 

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福岡弁護士会 http://www.fben.jp/

 

・平成30年7月豪雨・九州北部豪雨に関する無料法律相談(面談)災害ADRを行います

http://www.fben.jp/whatsnew/2017/07/post_478.html

 

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兵庫県弁護士会 http://www.hyogoben.or.jp/

 

・「平成30年7月豪雨による被害緊急110番」のお知らせ

http://www.hyogoben.or.jp/topics/180713.html

 

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法テラス(日本司法支援センター) https://www.houterasu.or.jp/index.html

 

・平成30年7月豪雨(西日本豪雨)Q&A

 (※電話及びメールによる相談受付の案内あり)

https://www.houterasu.or.jp/saigaikanren/saigaiqa/info300711.html

 各種支援制度関係一覧(PDF:278KB)

https://www.houterasu.or.jp/saigaikanren/saigaiqa/info300711.files/01sien.pdf

 借入・ローン関係一覧(PDF:242KB)

https://www.houterasu.or.jp/saigaikanren/saigaiqa/info300711.files/02kariire.pdf

 土地・建物関係一覧(PDF:313KB)

https://www.houterasu.or.jp/saigaikanren/saigaiqa/info300711.files/03toti.pdf

 賃貸借関係一覧(PDF:417KB)

https://www.houterasu.or.jp/saigaikanren/saigaiqa/info300711.files/04tinntai.pdf

 登記・登録関係一覧(PDF:185KB)

https://www.houterasu.or.jp/saigaikanren/saigaiqa/info300711.files/05touki.pdf

 親族・相続関係一覧(PDF:257KB)

https://www.houterasu.or.jp/saigaikanren/saigaiqa/info300711.files/06sinzoku.pdf

 契約関係一覧(PDF:259KB)

https://www.houterasu.or.jp/saigaikanren/saigaiqa/info300711.files/07keiyaku.pdf

 労働関係一覧(PDF:268KB)

https://www.houterasu.or.jp/saigaikanren/saigaiqa/info300711.files/08roudou.pdf

 損害賠償関係一覧(PDF:236KB)

https://www.houterasu.or.jp/saigaikanren/saigaiqa/info300711.files/09songai.pdf

 税金関係一覧(PDF:214KB)

https://www.houterasu.or.jp/saigaikanren/saigaiqa/info300711.files/10zeikin.pdf

 保険関係一覧(PDF:235KB)

https://www.houterasu.or.jp/saigaikanren/saigaiqa/info300711.files/11hoken.pdf

 その他一覧(PDF:141KB)

https://www.houterasu.or.jp/saigaikanren/saigaiqa/info300711.files/12sonota.pdf

 

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消費者庁 http://www.caa.go.jp/</p>

 

・「平成30年7月豪雨消費者トラブル110番」の開設について

http://www.caa.go.jp/disaster/pdf/disaster_180713_0001.pdf

・平成30年7月豪雨による被害に関連する消費者トラブルにご注意ください。

http://www.caa.go.jp/policies/policy/consumer_policy/caution/caution_015/

 

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一般社団法人自然災害被災者債務整理ガイドライン運営機関 http://www.dgl.or.jp/

 

・災害救助法が適用された自然災害に「平成30年7月豪雨による災害」を追加しました

http://www.dgl.or.jp/victim/

 

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(関連)

大阪弁護士会 http://www.osakaben.or.jp/

 

・大阪北部地震で被災されたみなさまへ

 大阪北部地震対応無料電話相談の実施

 無料法律相談会のご案内

http://soudan.osakaben.or.jp/?p=328

 

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日本弁護士連合会 http://www.hyogoben.or.jp/

 

・被災者生活再建ノートを作成しました。

https://www.nichibenren.or.jp/jfba_info/publication/pamphlet/saiken_note.html

被災者生活再建ノートのPDFファイル

https://www.nichibenren.or.jp/library/ja/publication/booklet/img/20180208_hisaishanote.pdf

 

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 情報の追加、修正等ございましたら、コメント欄に記載いただけますようお願いいたします。

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2018年7月 3日 (火)

「高速道路」と「自動車道」の違いについて(その1)

「佐々木俊尚氏の「高速道路は基本100kmh制限です」ツイートを整理してみる」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2018/02/100kmh-4ecd.html

「東京新聞福岡範行記者「首都高は『高速』にあらず?→『自動車専用道路』です」を検証する。」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2018/02/post-f8a8.html

といった、道路の種別に関係する記事を書くにあたって調べていると

「高速道路」と「自動車道」は違うものであると考えている方が大変多い。

ということが分かった。

 よってこれから整理してみたい。

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 まず、結論から書いときますね。

・道路法及び道路交通法では、「高速道路」と「自動車道」の区別はなく、定義付けした法令上の条文もない。(私が調べた範囲では。あったらごめんなさい。)

・現在使われている実際の道路の名称は、歴史的経緯等が入り混じっており、「高速道路」と「自動車道」の峻別作業をすることは(一般の道路ユーザーにとっては)無意味といって差し支えない。

 ということで

「高速道路の最高速度は100キロで、自動車道の最高速度は80キロ」とかいうやつはデマです。

 あとは、一部のマニアのためだけに、読んでも糞面白くもなんともないし、人にもしゃべりたくならないような細かい歴史的経緯等を踏まえたネタをいつものようにチマチマと書きなぐっていきます。

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 まずは、国土交通省が所管する「道路法」での位置づけから。

 国交省のウェブサイトに「道路行政の簡単解説」というPDFがアップされているので、そこから引用してみよう。http://www.mlit.go.jp/road/sisaku/dorogyousei/0.pdf

高速道路と自動車道の違い (1)

高速道路と自動車道の違い (2)

 はい、「高速道路」も「自動車道」も出てきませんね。

 道路法には、「高速道路」や「自動車道」という道路の種別は無いのである。

 では、一般的に「高速道路」や「自動車道」と呼ばれる道路名の幾つかを道路法の「道路の種類」にあてはめてみよう。

道路法上の道路の種類 無料 有料
高速自動車国道 鳥取自動車道 東名高速道路
新東名高速道路
(旧)中央高速道路

(現)中央自動車道
(現)沖縄自動車道
一般国道 帯広広尾自動車道(R236)
津軽自動車道(R101)

保土ケ谷バイパス(R16)
(旧)沖縄自動車道(R58)
首都圏中央連絡自動車道(R468)
瀬戸中央自動車道(R30)

富津館山道路(R127)
横浜横須賀道路(R16等)
都道府県道 省略 首都高速道路(都内)
市町村道 省略 首都高速道路(横浜市内)
名古屋都市高速道路

※おまけ 「道路運送法」 東京高速道路(無料)、鋸山登山自動車道(有料)

 見よ。この統制の無さ。もう「高速道路」と「自動車道」の違いなんかどうでもよくなったでしょ。

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■建設省系と運輸省系の争い

 建設省から日本道路公団と高速道路の創成期を歩んできた武部健一氏は、「道路の日本史」のなかでこう述べている

 高速道路推進の二大潮流とその決着

 名神高速道路の着工によって、日本の高速道路はともかくスタートを切った。しかし全国ネットワークの問題は田中精一の運動以来、やや理念が先行するとともに、国会議員の政治活動に巻き込まれていった。昭和三十年(一九五五)六月、超党派の衆議院議員四三〇名によって田中構想を軸に「国土開発縦貫自動車道建設法案」が提案された。中央、東北、北海道、中国、四国、九州の六本の自動車道合計約五〇〇〇キロの建設計画である。

 この法案の「自動車道」という言葉は、「高速道路」と対立する概念を持っていた。「高速道路」が米語の翻訳であると同時に戦前の自動車国道計画を継承し、道路網の一環であることを明確に意識しているのに対して、田中構想の「自動車道」には、自動車による全国的国内交通を作るのであるから、まさに国有鉄道に匹敵するもので、道路法に基づく一般道路とは異なり、道路運送法に基づいて建設されるべきであるという思想が根底にあった。そのため、国会の審議と関連して建設省と運輸省との所管争いともなった。

 この法案は、中央道が赤石山脈を縦貫するという技術的問題と、道路運送法に準拠するという法的問題の二つの問題を抱えていたために、国会で成立するまでに約二年、五国会を要した。結局、原案の「別表」にあった路線通過位置を外し、各自動車道の予定路線は別に法律で定めることと、新たに「高速自動車国道」という概念によって、これを道路法上の道路として、一般国道(昭和四十年(一九六五)四月に統合されるまでは一級国道、二級国道)、都道府県道、市町村道の上位に置き、その建設管理は建設省が所管することにしてようやく決着し、昭和三十二年(一九五七)四月に成立した。

 自動車道と高速道路という二つの考え方は、高速自動車国道という新たな概念に統合され、この縦貫道法成立時には、建設計画としての国土開発縦貫自動車道を含む「高速自動車国道法」も制定された。建設省の作戦勝ちといってよい。

 

道路の日本史」武部健一・著 197-198頁から引用

 このとき定められた国土開発縦貫自動車道の一覧は下記のとおりである。武部氏の文にあるように「高速道路」と対立した概念の「自動車道」であり、「高速道路」という名称は出てこない。

路線名

起点

終点

主たる経過地

中央自動車道

東京都

吹田市

神奈川県津久井郡相模湖町附近 富士吉田市附近 静岡県安倍郡井川村附近 飯田市附近 中津川市附近 小牧市附近 大垣市附近 大津市附近 京都市附近

東北自動車道

東京都

青森市

浦和市附近 館林市附近 宇都宮市附近 福島市附近 仙台市附近 盛岡市附近 秋田県鹿角郡十和田町附近

北海道自動車道

函館市

稚内市

札幌市附近

釧路市

札幌市附近

中国自動車道

吹田市

下関市

兵庫県加東郡滝野町附近 津山市附近 三次市附近 山口市附近

四国自動車道

徳島市

松山市

徳島県三好郡池田町附近 高知市附近

九州自動車道

門司市

鹿児島市

福岡市附近 鳥栖市附近 日田市附近 熊本市附近 小林市附近

 では、なぜこの「中央自動車道」が「名神高速道路」と名付けられたのかは、私は調べきっていないのである。とりあえず、日本道路公団(当時)の道路名称決定の基準は調べがついているのだが。

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■ 日本道路公団では「高速道路」と「自動車道」はどのような基準で名付けられていたのか?

 建設省から日本道路公団において高速道路の計画・建設等に従事した三野定氏が監修(執筆は公団職員)した「高速道路のプランニング」という本にその決定基準等が掲載されている。

高速道路の名称決定基準 (2)

 もともとは「高速道路」だったが、対面交通の「中央高速道路」で事故が多発したので、以後「自動車道」とした旨が記されている。

 その後、「高速道路」という名称を持つ高速自動車国道はなかったが、第二東海自動車道が「新東名高速道路」、近畿自動車道名古屋神戸線が「新名神高速道路」という名称が付与された。

 また、「英文字で自動車道はEXPRESSWAYとする(標識ではEXPWYと略す。)」とあるが、高速道路もEXPWYと表示している。

高速道路と自動車道の違い (3)

 「高速道路」も「自動車道」もどちらもEXPWYで変わらないのだ。

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 さて、この三野氏だが、土木学会誌第四十九巻 第十一号(昭和39年11月発行)http://www.jsce.or.jp/library/open/proc/maglist2/00034/49-11.htmlにおいて「幹線自動車道路網と高速自動車国道」という報文を発表しており、そのなかでも「高速道路」と「自動車道」といった用語を解説している。長文となるが重要であるので必要箇所を引用したい。

 名神高速道路の供用開始, 首都高速道路1号線および 4号線の開通, 阪神高速道路1号線の一部供用開始とこのところ自動車道路の交通開始が相ついで行なわれ,今や高速道路はわが国民大衆の間でも熱病のように口から口へ伝えられている言葉である。しかしながら,名神高速道路と首都高速道路とでは,物理的な差があって一つの概念では必ずしも処理できない面がある。この稿を起こすに当たって,まず自動車道路あるいは自動車専用道路、高速道路あるいは高速自動車国道などの概念を整理する必要を感ずる。

 高速道路は,もちろん近代になって造られた語であるが,その背景には expressway という米語がある。辞書には expres tratic(高速交通)用に設計されたハイウェイだとある。具体的に高速交通用の設計ということは AASHO によれば,「出入制限を全面的または部分的に行ない,一般的には交差点を立体交差とした, 通過交通のための,往復分離した幹線道路」と定義されている。さて,この出入制限 (access control)とは,沿道の所有者あるいは居住者,その他の者が,その道路に近接 し,乗下車する権利,空中権あるいは眺望権を,公共の力で全面的に,または部分的に制限することだと定義されている。AASHO はさらに,完全な出入制限においては,選ばれた公共道路との接続路を設け,かつ平面交差や私設の出入路の取付けを禁ずることによって, 通過交通に都合がよいようにするものであり,また,部分的な出入制限においては,選ばれた公共道路との接続路のほかに,若干の平面交差や私設の出入路の取付けもあり得る程度で,通過交通に優先権を与えたものだと説明している。完全な出入制限をした場合に freeway という語を用いることがあるが,この例は多く,有名なものでは,ニュージャージー, ペンシルバァニアなど数多くのアメリカのターンパイク, ドイツのアウトバーン, イギリスのモーターウェイなどもあるし,わが国の名神, 東名などの高速道路もみんなフリーウェイである。しかし,部分的な出入制限というのは,上述のような有名な道路がないので,わが国では理解されにくいが, テレビで知られているルート 66 のイリノイ州の部分などで は,かなりこの手法が使われている。わが道路法においては,自動車専用道路に関して,この部分的な出入制限が認められている。現在までに自動車専用道路に指定さ れたものには,京葉道路, 箱根新道,東伊豆道路の一部などがあるが,京葉道路は部分的な出入制限を行なっている。

 以上の記述のなかでわかることは,イギリスの motorway, ドイツの Autobahn などの語で示されるように欧州諸国では高速道路と呼ばずに自動車道路と呼んでいる点である。フランスの auto route, イタリーの auto strade なども同様であり,これらで示されるようにわれわれが高速道路といい,自動車道路と称しているものは,全く同じ概念なのである。

 わが国で法的に高速道路または自動車道路になるのは,高速自動車国道と自動車専用道路である前者は, 独立の道路の種類となっており,後者は一般国道あるいは地方道の区間の一部または全部に対する指定措置によって自動車道路の実効を達成するものである。ただ,後者においては部分的な出入制限を採用することが行なわれているに対し,前者では完全な出入制限だけしかない。出入制限の差は,車両の運行速度に影響し制限が完 全であれば高い運行速度が保証されることになるが構造上高い工費を要する。しかし,制限が部分的であれば, 一般には,その逆の傾向となる。したがって出入制限を完全にすべきかどうかは,対象とする自動車交通需要の質と,自動車道路建設に許される工事費の限度とを勘案して決定さるべきである。しかし、完全出入制限を必要とする場合に,高速自動車国道あるいは自動車専用道路のいずれによるかの基準は,その道路がかなりの延長に およぶ場合には明確でなく, ケースバイケースに検討されている。首都高速道路は法律的には自動車専用道路であり,出入制限の点だけでは完全制限であるが,利用し得る用地の制限から設計速度が低く取られているのが問題を起こしている。街路の一部と考えるべきであり, 本稿の扱う都市間高速道路とは全く別に取り扱うべきである。.

 三野氏は、この報文を執筆したときは建設省道路局から日本道路公団第三部長に出向している。「われわれが高速道路といい,自動車道路と称しているものは,全く同じ概念なのである。」と明確に言い切っている。

 武部氏と三野氏の言を整理してみるならば、歴史的、地理的、政治的な経緯から「高速道路」と「自動車道」という別種類の言葉が用いられるが、道路の機能としては同一ということができるということであろうか。

 かなり長くなったので、その2以降に分割して更に解説を加えていきたい。

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2018年6月 9日 (土)

アド街・日比谷特集記念/日比谷地下駐車場は日比谷公園をオープンカットで作られた

 今日は、アド街ック天国で日比谷特集らしいので、記念して、日比谷ネタをUPしてみる。の「しょのにーーーー」(谷岡ヤスジ先生風に)

 先ほどは、日比谷地下道について取り上げたが、同じ日比谷の地下ということで日比谷公園の地下にある日比谷地下駐車場について触れてみたい。

 日比谷地下駐車場は、1956(昭和31)年4月に都市計画決定され、日本道路公団(当時)により、1960(昭和35)年5月に竣工した最初期の日本の都市計画駐車場である。

 その辺の能書きは後で関係論文をご紹介するのでそちらで見ていただくとして、日比谷公園の帝国ホテル側に下記のような入口があるのをご存知の方もいらっしゃるであろう。

 私が今回ご紹介したいのはこの写真。

日比谷地下駐車場 (3)

 下にフランク・ロイド・ライトの帝国ホテル、左に日比谷図書館に日比谷公会堂が見えるだろう。

 このように日比谷公園をオープンカットすることによって日比谷駐車場は建設されたのである。

 せっかくなので建設当時の図面を見てみよう。下記の図面はいずれも土木学会誌 昭和35年7月号「日比谷公園地下自動車駐車場建設工事の概要について」 津田敬一(日本道路公団建築課長)著から引用したものである。

日比谷地下駐車場 (4)

 日比谷公園の数か所にあるこいつが、日比谷駐車場の避難口兼給気筒であることが分かるだろう。

日比谷地下駐車場 (2)

 地下鉄丸ノ内線に隣接していることが分かる。

 下記は地下1階の図面。

日比谷地下駐車場 (5)

 下記は地下2階の図面。

日比谷地下駐車場 (6)

 下記は、実際に工事したオープンカットの図面である。ただでさえ近い地下鉄丸ノ内線が更に近くなっているのがお分かりであろう。ご存知のように日比谷公園は江戸時代には海だったわけで、想定外の軟弱地盤に大変苦労したようだ。

日比谷地下駐車場 (7)

 下記は数年前に撮影した駐車場内の様子である。

日比谷地下駐車場 (1)

アイドルのMVが撮影されたこともある。

 最近は、自転車通勤用の駐輪場施設等も設置されているようだ。

http://hibiya-ride.jp/

 駐車場としての現在の営業案内は下記を参照のこと。現在はNEXCO東日本に引き継がれている。

https://www.driveplaza.com/hibiya_parking/

「日本最初の東京日比谷地下自動車駐車場都市計画決定及び建設経緯」 堀江 興

https://www.jstage.jst.go.jp/article/journalhs1990/17/0/17_0_57/_pdf/-char/ja

「日比谷公園地下自動車駐車場建設工事の概要について」 津田 敬一

http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00034/45-07/45-7-14457.pdf

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アド街・日比谷特集記念/日比谷地下道はなぜ一方通行なのか?

 今日は、アド街ック天国で日比谷特集らしいので、記念して、日比谷ネタをUPしてみる。

日比谷地下道

 しつこいけど、また日比谷地下道の話。

 今回は「なぜ、日比谷地下道は片道だけになったのか?」ということを探ってみる。

 私は、かつて「もともと日比谷地下道は三原橋まで伸びる計画であったが東京オリンピックを前に営団地下鉄日比谷線と計画が競合し、結果日比谷線が勝って日比谷地下道が負け、地下3階を日比谷地下道が走ることとなった。そしてそのバーターで地下鉄三田線は営団地下鉄から都営地下鉄へ経営権が譲渡された。」という趣旨の記事をUPしてきた。

三原橋地下街を潰すはずだった銀座地下道計画

〇東京五輪関連:地下鉄と競合して未成となった銀座の地下自動車専用道路にして首都高速計画線の名残

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/03/--4890.html

〇東銀座「幻の地下街」を作った経緯が(ほぼ)分かった

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/02/post-3bf6.html

〇日比谷未成地下道とのバーターで地下鉄三田線が営団から東京都へ譲渡されていた

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-b86d.html

三原橋地下街と地下鉄日比谷線と有楽町ガード下地下道の関係

 ところが、1962年の計画(上記上段)でも日比谷地下道は地下3階を経由して三原橋交差点までは行っている。

 現状は三原橋どころか銀座四丁目交差点までも行っていない。何故なのか?

 これがずっと分からなかったのだが、東京都議会の議事録について過去分が遡って公開されていることに気づいた。で、検索すると答え(らしきもの)が書いてあったのである。

◯三十二番(田村徳次君)

(略)

 そこで私は首都整備局長にお聞きするんですが、私の聞いたことがもしあやまちであれば幸いでありますが、もしあやまちでなければ、これから私が申し上げる問題については、議員の皆さんも大いにご検討願いたいと考えるのであります。というのは、今日その地下鉄の主力的立場に立っているものは、何といっても帝都高速度交通営団であると思います。この交通営団の構想をお聞きいたしまずと、現在地下鉄の第二号線の建設に努力中でありまして、すでに南千住から仲御徒町までは開通済みであり来年はその二号線は北千住から人形町まで開通するという予定のもとに今日努力されておる。これが人形町から右折して築地に参りまして、築地から右折して銀座、日比谷を通って、桜田門から左折いたしまして中目黒に達する。いわゆる第二号線であります。そこで今三原橋の下あたりが、これもがっての都政のしわよせが来まして、橋下の住民の反対に会いまして、あそこでもそもそしているようでありますが、いずれにいたしましても、あの線を通ってくることは間違いありません。そこでその構想を承りますと、まず築地からこっちへ来たところにいわゆる東銀座の停車場がある。この二号線はまず三号線の下をくぐる。いわゆる渋谷、浅草間のあの銀座線の下をもぐる。そしてその次は四号線、いわゆる池袋、新宿の線の下をくぐることになっております。従ってそこにできるところの停車場の構想は、いわゆる数寄屋橋と銀座四丁目の間のところに駅をこしらえる。そして地下三際に乗降場ができるということです。その連絡のためには、まず幅員二十メートルの、いわゆる数寄屋橋と銀座の間に停留所をこしらえる。そしてそれが地下一階においてエスカレーターその他によって四号線並びに三号線に通ずるように連絡口ができるというのが、今日すでに決定したところの高速度交通営団の構想なんです。ところが私の不審に思うところは、今申し上げましだように、高速度交通営団、交通局を問わず、これを努力して、都の執行者は一日も早く完成すべきにもかかわらず、これに対して妨害を加えるような地下自動車道路の計画案というものがあるそうであります。ごのことを私は質間したいのでありますが、それは三原橋の西隅から警視庁前に至る一・三キロばかりのどころに自動車専用の地下道としてこれを通そう。先ほど私が申し上げましたように、東銀座の新しい銀座駅は一般のも開放されて地下道として使われ、将来は日比谷の交差点附近までもこれを延ばしていこうということであって、信号をたよって通るところの路上交通に対する援助にもなり、あるいは混雑するところの地上へ出てまたは連絡するということのない、いわゆる三号、四号線に連絡されるといういろいろの効果を持っているわけでございますが。これに対しても首都整備局を中心としてお考えになっている自動車道路は、その地下一階のいわゆる連絡囗へ持っていって自動車を桜田門から三原楊まで通そう。そうなってきますと、この高速度交通営団の考えている地下鉄網についての一頓挫を来たすということであって、このことについては非常に悲しむべき考えである。というのは、自動車は二人か三人とはいいませんけれども少なくとも十人も二十人も乗っては乗合以外にはありません。この間もある婦人の会合に行きましたところが、何で都心にそう自動車を入れなげればならないのだろうか、日比谷なら日比谷でおろして銀繿は歩てもらうようにしたらどうかというようなご意見のあつた婦人団もございますが、そこを私はお間きしたいのです。もしそういう計画があるとするならば、今喫緊の声のかかっている地下鉄完成に対する阻害をなすのは東京都みずからである。私はこういう考えを持つのでありまして、少数の人間が乗る自動車をこういうことまでして都心に入れなければならないかどうか。その理論的根拠は一体どうなんだ。これをわれわれが納得のできるようなと説明があるならしていただきたい、もし私の間いたことが誤りであり、訂正されておるのであったならば、その訂正のことについてのお考えを間かしていただきたい。

 それからこれと柤伴いまして、当然自動車地下道路をこしらえるということになりますと、排気ガスその他に対する抜け穴をこしらえなければならぬから、あの舗道の両側においては柱が立つか煙突が立つか知りませんが、排気口もできるでありましよう。それと同時に都電の徹去ということも当然副産物的に出てくる。というのは、自動車がもぐったり上がったりするというようなことから、この出入口をこしらえるということになりますと、都電は当然あそこは撤去になる。そうなってきますと、二、三人しか乗らない自動車を通すために、高速度交通営団に対する影響と、もう一つ都電そのものの大衆輸送機間を中断するということになる。交通機間というものは起点があって終点がある。これが起点から終点まで乗って初めて交通を意味するのであって、これを中断するならば、人間の胴中から首を切ったと同じ結果になるのだが、こういうことまでもして二人や三人の乗用自動車を通さなければならない、自動車道を保謾しなければならないという根拠がいずれにあるかをご説明願いたい。

(略)

首都整備局長(山田正男君) ただいまの地下鉄の二号線の問題につきましてご説明を申し上げます。実は首都整備局が営団の行なっております地下鉄工事を妨害でもしているかのごとき風説が流布されておることは私も承知いたしております。私実はこういうふうに考えておるのでございまして、地下鉄を含めまして都市高速鉄道というものは単なる法律上の地方鉄道であってはならない。なぜかと申しますと、これは都市の交通を構成いたします一つの施設でございますから、都市計画の総合設計のもとにこの都市高速鉄道というものは組み立てられ、また事業が行なわるべきものであろう、こういうふうに考えておるのでございます。実はご承知のように都心部を中心といたします道路交通事情、あるいは都市鉄道の事情が年々悪化いたしておるのでございまして、都心部の道路交通及び都市鉄道の打開につきまして、数年来都市計画審議会の中には道路の問題の特別委員会、あるいは地下鉄道の問題に関する特別委員会、こういうような機関を設けまして、いろいろ対策を講じて参ったのでございます。そこでそういう立場から、実は三年ほど前から今後都心部の道路の地下を都市高速鉄道に利用する場合には、将来道路が、たとえば首都高速道路のように全部高架の工事をする場合がある、二重の道路を作る場合がある、あるいは主要交差点を高架あるいは堀割式で立体交差の工事をする場合がある。そういうことになりますと、これは道路本来の使用の目的でありますから、道路を利用して作るこの地下鉄道の地面下の深さにつきましては、工事の実施設計をする以前に当局と十分協議をされたい、こういう旨を通牒いたしてあるのでございます。幸い都営の地下鉄道におきましては交通局と私どもと十分協議を行ないまして、昭和通りの道路交道需要を補足する意味におきまして、都営の地下鉄道の工事が実施される際に、同時に主要交差点の立体交差の工事を行ない、しかもその間に地下の自動車駐車場を設けるという工事が合併施行されまして、これによりまして昭和通りといたしましては未来永劫に掘り返しをする必要のない施設ができ上がる、こういうふうに考えておるのであります。そういう意味におきまして、地下鉄の二号線の三原橋から日比谷に至る区間、これにつきましても三年前から鋭意営団当局と事務的な協議を進めて参っだのでございますが、中途にいたしましてどういうものか協議に応じなくなりました。従いましてその後一年くらい協議がとだえておったのでございますが、これに対しまして地下鉄道というものはやはり都市計画の施設でございまして、私どもといたしましても、妨害どころか一刻も早く地下鉄道が完成することを望んでおるのでございますから、実は最近もその両者の協議を復活いたしまして、鋭意協議を進めている、こういうのが実情でございます。

 そこでどういう協議を進めておるかと申しますと、実は桜田門から三原橋を経まして勝閧橋に至る道路、これは実は都心部門の主要幹線街路の将来の交通需要を推定いたしまして、現在の道路施設では当然不足な道路の一つでございます。また都心部におきまして将来の交通需要に対しまして何とか改良をしなければいけない、こういう道路が先ほど申し上げました昭和通り、これは現在工事をいたしておりますから解決いたしますが、なお虎ノ門から汐留に至る区間、あるいは田村町から日比谷を経まして大手町に至る区間、あるいは勝閧橋を渡る道路の問題、こういう問題がございます。そこでこの三原橋から桜田門に至る区間につきましては、いろいろ都市計画寨議会内においても議論をいたしました結果、高架の自動車専用道路をかぶせるか、あるいは地下の道路を作るか、そのいずれかしかない、こういうことでございます。しかしこの区間に高架の道路を作りますと、国有鉄道とか既存の高速道路がございまして、地上三階以上を通ることになる。これは都市美上耐えられない。従ってこれは何とかして地下の自動車道にする必要がある、こういうことでございます。たまたま地下鉄の銀座線あるいは新宿線、これは地下の二階を通っておりまして、地下の一階に駅のコンコースがございます。そこで地下の自動車道といたしましては、この地下一階のコンコースを横断いたしますが、これ以上に方法はないから地下一階に自動車道を作ろう。そのかわり地下二階にコンコースを作ろう。従いまして地下鉄道のみを建設いたしますなぢぱ、地下一階にできるべかりしコンコースを地下二階に移しまして、そのかわり地下一階を自動車道にしよう、こういう考え方をいたしておるのでございます。特にこの銀座地区を中心にいたします都心部につきましては、ご承知のような道路交通事情でございますから、将来、ただいま申し上げましたような道路交通能力を補足する措置を講じましても、現在のような建築基準法のもとに工事いたしますと、九階建のビルディングが連続いたすわけでございます。これでは将来の都市施設とそれに対する需要がますますアンバランスするわけでございます。全般的にただいま申し上げましたような道路計画を含めまして市街地再開発を行なう。そこで再開発の結果できましたビルディングの地下室には大規模の自動車駐車場を設ける。ただいま申し上げましたような地下の自動車道路は、そのビルの駐車場に地下で直結をしてやる。そういたしますと、道路上に自動車が出ないで各ビルに相互に連絡できる。こういう考え方は、いわゆるディストリビューター、分配道路という思想でございまして、シカゴにおきましては自動車専用道路からおりた車を各地区に誘導いたしますために、このデベストリビューターという自動車専用道路、本来の高速道路よりも規格の低い道路を作りまして、そして平面道路の交通能力を補っておるというのが実情でございます。現に市街地再開発といたしましては、丸の内の赤れんが街の一帯は、すでに再開発中でございますが、この下には約二千六百台分の自動車駐車場を作る計画になっております。そういう際には、この地下の自動車道路ができますならば、地下においてこの駐車場と接続をする、こういうふうに考えております。他の場所におきましても市街地再開発計画の一環といたしまして、この自動車道路との連絡を考慮している、こういうような実情でございます。

 また換気の問題がございましたが、この換気は実は米国におきましてもこういう程度のディストリビューター式の地下自動車道略がございまして、きわめて簡易な、縋の方向の換気ではなくて横断式の換気装置によりまして簡単に換気ができる見込みを持っておるのでございます。もちろんこういう自動車遠路の建設は、直ちに賂面電車の撤去ということとは関連なく研究をいたしております。もっとも工事をいたします際には、この地下の自動車道路の工事をいたしますならば、土かぶりがゼロになります。そういう工事をいたします際には、やはり路面電車の運行を一時中止せざるを得ないという場合が考えられます。しかし地下の一階が自動車道路でございますが、地下の二階がコンコース、その一階と二階の間にさらに約二メートル余の空間がございまして、ここを共同溝にする。そこで埋設物は全部この共同溝に入れることにいたしたい。そういたしますと土かぶりがゼロでございますから、通常やっておりますように木の矢板をとりまして、そこへまた土を持ってきまして、埋設物をそっと納めまして、また自動車で自然転圧を長々とやりまして、簡易舗装の仮舗装をする、二年ほどたってからまた本舗装の工事をやる、こういうだらだらした工事でなくて、地下鉄の工事と同時に本舗装が完成する。将来永久に掘り返しがない。なおかつあわせまして共同溝ができる、こういう利便があるわけでございます。それにいたしましても、地下鉄の駅の現在のコンコースをちょん切るという問題がございます。また路面電車の運行を一時中止するということも問題である。あるいは施工方法の問題等々、いろいろの問題がございますので、目下関係各省を含めまして、交通営団当局と鋭意協議中でございます。この自動車道路が建設できるかいなかというその判定は、十月中にはいたしたい。いずれかを決定いたしまして、いやしくも地下鉄の工事を妨害するというような批判を受けることのないように努めたいと存じておるのであります。以上であります。

 

1961.09.29 : 昭和36年第3回定例会(第16号) 

 ここまでは、日比谷地下道の期待される効果について述べられている。比較案として高架で国鉄を跨ぐ案も考えられたが、「これは都市美上耐えられない」として地下道とされた。

 山田正男とオリンピック関係の道路といえば、首都高と日本橋との関係のように、山田正男は悪者になってきているのだが、実際には都市美を考慮して事業を進めているのである。

 あえて悪いことを書くと「銀座の都市美は考慮するけど、日本橋の都市美は考慮しなかった」ということなのかしらん?

 まあ、実際には日本橋については橋の下を日本橋川を干拓して首都高を通すのが本来の構想だったので「日本橋の上空」は守られるはずだったのだが。

 

 閑話休題。上記は東京都と営団地下鉄が協議中ということだったが、その後の協議結果が1年後の都議会で報告されている。

◯五十一番(竜年光君)

(略)

 なおこの都市計画が一たんきまっても、今までときどき耳にしていることは、いろんな抵抗や圧力があって、これが変更される。実情に応じて変更されることは一向差しつかえないともいえますけれども、ある部分においては変更され、ある部分では三年も五年も十年もがまんをしてきて、みすみすほかの方では有利に変更されているということが、やはり起きて参りますと、正直者がばかを見るというようなことで、都民はこういうことに対しては協力できなくなる。最近でも、二、三そういう事例があったそうでございますが、いずれにしてもこの都市計画と、実施という問題については、計画は計画だけだ、しかもそれが首都整備局の一部の人が知っているというだけの計画であっては、決してこれは都市計画が満足にいくはずがない。私が聞くところによりますと、区役所でもわからない。都庁の中でもだれに聞いてもわからない。ある部分のところにいかなければわからぬ。ところが外国の都市計画は三年でも五年でも一つの問題についてこじきに至るまでそれをよく周知させて、いざきまったら直ちにそこで実施をする。これが都市計画のいき方らしい。そこへいくと全然今の東京都は逆のことをやっているわけでございます。でははたして今かかえておる都市計画が実施できる計画か、今の都市計画をほんとうに実際に予算面から検討して実施するとするならば、一体何千億、何兆かかるかということをこの際私はできるならば発表してもらいたいと思うのです。できない計画ならばこの際はっきりどこに重点を置くかというふうに定めて、抜本的にこれを重点的にやる所だけの計画にしてもらいたい。そうしなければ、今の都市計画というものは、単なるこれは都民を泣かせるだけの計画に終わるということを私は申し上げたい。なおこれに関連してでございますが、最近新聞を通じて知ったのですが、三原橋と日比谷間の地下自動車道について、九月に河野建設大臣が現地を視察したときに、一体この都心部で四十尺も六十尺も掘り下げて地下鉄の下にしかも自動車道を通す、トラックも入らないような自動車道を通して、四十億も幾らもかける。そんなばかな話があるか、世界に類例をみない、おれの在職中は絶対そういう計画はやらせないということをいわれたそうでございますが、私は正確にそのことを聞いでおりませんので、そのときにいられた当面のおそらく首都整備局長かどなたかはっきりお聞きになったと思いますが、この際はっきり私どもの前でどういうことであったのかということを説明をしてもらいたい、私は要望いたします。東京都の都市計画というものは、これほどずさんなもので、いいかげんなものであるということであったのか、あるいは大臣のいうことが間違いであったのか、いずれにしてもはっきりしてもらいたいと思います。都市計画についてはいろいろございますけれども、かいつまんでその点だけにしておきます。

(略)

 

首都整備局長(山田正男君) 

(略)

 最後に、三原橋─日比谷間の地下の自動車道路計画の問題について、経緯のご質問があったわけでございます。実はこの問題につきましては、都心部の道路交通を解決いたしますために、地下鉄の二号線を建設いたします際に同時に地下の一階に自動車道路を作る必要がある、こういう立案をいたしまして、数年来営団当局と協議を進めて参ったわけでございますが、営団当局がどうしても同意をいたしませんために、この計画については、建設・運輸両省並びに首都圏整備委員会が問題を取り上げまして、この三者の間で都の案について検討が行なわれたのでございます。そうしてその三者の間で技術委員会を作っていろいろ検討いたしたわけでございますが、東京都の主張にもかかわりませず地下の一階に道路を作ることを否定いたしまして、地下鉄のレベルと同じ地下の三階に自動車専用道路全作ることが適当であろう、こういう決定がされたわけでございます。その決定の理由は、地下の一階に道路を作る費用と地下の三階に作る費用とは、それほど費用の差がないということが主たる理由のようであったわけでございます。そこで、この決定を受けまして、都といたしましては、はたしてその決定の通りであろうかどうか、費用がその程度でできるかどうかということを検討して参ったのであります。特に地下鉄二号線の建設を急ぎますので、営団当局と鋭意協議を進めて参ったのでございます。当初十八億余で地下の三階に自動車道路ができるということであったのでございますが、いよいよ実際に協議してみますと、あるときは二十五億円といい、あるときは三十六億円といい、最近に至っては五十億円もかかるというような申し出があったわけであります。これでは都といたしましては自動車道路を作る投資効率、投資に対する効果が少ない、こういうことで建設省当局に、一応そういう決定がされたけれども投資効率が少ないんだ、さてどうするか、こういう協議をいたしておる際に、たまたま河野建設大臣からのご注意がありました。そういう決定がかって行なわれたけれども、実際にそういう投資効率が低いならば、最初想定されたよりも工事費が非常に高いならば、もっと再検討するべきである、こういうご発言かあった次第であります。現在建設運輸両省及び首都圏整備委員会と東京都の間で検討いたしておる途中でございますが、おそらく三階に地下自動車道路を作ることは、投資効率の点からいって必ずしも採用すべき性質のものでないと考えております。しかし、この都心部の道路交通能力をこのままで放置しておくことは適当でないのでございまして、これにかわる対策を目下関係者間で協議中でございます。いずれ遠からず決定を見るものと存ずるのでございます。

 

1962.09.29 : 昭和37年第3回定例会(第14号) 

 東京都と営団地下鉄で、日比谷線の計画はそのまま、日比谷地下道は地下3階に決定したが、地下道の予算が想定よりもふくらんだため、事業を見直しせざるを得なくなり、地下3階案は放棄したということか。

 このあたり、山田正男氏の別の著書(対談)でも経緯が出てくる。

総反対くった都心の自動車専用トンネル

片岡(片岡護・読売新聞記者) こうして安井時代を経て、首都高速道路公団ができたのは昭和三十四年ですね。この首都高速のプランをつくったときに、私、さっき言った十年後の東京という取材であなたにいろいろ教えていただいたんですが、ほぼそうなっていますね。

山田 そうですな。

片岡 十年後にできなかったこともありますけどね。

山田 物価のズレぐらい遅れただけですね。全然できなかったというのは殆どないが、一つだけ、計画すら成立しなかったのがある。それは都心の東西方向の道路交通解決の最後の決め手と して桜田門と三原橋間に地下の自動車専用のトンネルをつくることです。地下鉄日比谷線はその 下を通してね。東京オリンピック大会の前にその計画を決めようと思ったところが、地下鉄営団の総反対をくった。総裁の鈴木清秀さん以下、副総裁の牛島辰弥さん、技師長の水谷当起さんとか、政官界の運輸族を総動員して反撃を受けましてね。それに対抗する都庁側は私一人だから、 四面楚歌、孤軍奮闘ですから、とても勝負になりません。向こうは大先輩が揃っている、カネはいくらでもある、国会のほうにも手を回す。こちらは孤軍奮闘で、徒手空拳だった

片岡 反対の理由はなんだったんですか。

山田 地下鉄銀座線の銀座駅のコンコースを自動車道でチョンぎることになるし、地下鉄日比谷線が下になるので、やりにくいから反対だというんだ。それで相互の友人が見るに見かねて仲裁に入りましてね。築地の某所で、仲裁人が入って会談をやったんですが、激論になりまして ね、私が机叩いて帰りかけたら、「まあ、まあ」と引き止められたりして。それで結局、営団がやる地下鉄の二号線がオリンピックに間に合わなくなるとかいいましてね。間に合わなくたってオリンピックに支障はないと私は思っていたけれども、連中にしてみれば、オリンピックに名をかりて造りたいもんだから。オリンピック関連事業と称するものの中に入ってるんですよ。きのうも新聞見ると、名古屋がオリンピックを招致するといって関連事業としていろんなものをたくさん盛りこんだ誇大広告をやっている。ああいう名を借りた便乗計画を流行させたハシリですね。それで結局、政治力に負けたといっては何ですが、私もあきらめて、いま数寄屋橋から日比谷公園までの片道だけの地下自動車道があるでしょう、あれだけで手を打ったんです。この計画だけは負けましたね。数に負けた。孤軍奮闘なんだもの、私は。もう少しこっちにもついてくれるものがいてもよさそうなもんだけど、ダメなんだなあ。

 

「明日は今日より豊かか 都市よどこへ行く」政策時報社・刊 山田正男・著 236~237頁

 

 東京都と営団地下鉄との協議は山田氏の孤軍奮闘で東京都が協議負けし、「数寄屋橋から日比谷公園までの片道だけの地下自動車道があるでしょう、あれだけで手を打ったんです」ということになった。

 なお、これによって日比谷地下道をぶつけることで力づくで撤去しようとしていた三原橋地下街が生き残ることになってしまった。

 山田は、後に自著において

 しかし今でも残念なのは、銀座界隈の最後の道路交通対策として計画した,祝田橋方面と三原橋方面とを結ぶ地下自動車道計画を地下鉄2号線(※引用者注:日比谷線のこと)の工事と同時に施工し、三原橋を撤去することによりついでに七不思議の一つを解消しようとしたが,オリンピック東京大会をひかえて工期の関係等もあって断念せざるを得なくなり、遂に中途半端な一方通行の地下道に終わってしまい,七不思議の一つも今だにその醜態をさらしていることである。

時の流れ・都市の流れ」都市研究所刊、山田正男著 25頁

と記し、「安井都政の七不思議」の一つである三原橋問題を地下道建設とあわせて解決しようとしたが達成できなかったことが分かる。

 これによって三原橋地下街は2014年まで生きながらえることとなった。

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2018年6月 3日 (日)

東武東上線に乗って「関越トンネルバス停」に行ってみた

 読者諸兄におかれましては、「関越トンネル」というと

関越トンネルバス停 (7)

こんなイメージをお持ちであろう。

 ところが、駅すぱあとで検索しているときに、「関越トンネルバス停」なるものを見つけた。

関越トンネルバス停 (6)

 ライフバス?

 で、行ってきましたよ。関越トンネルバス停に。

関越トンネルバス停 (2)

関越トンネルバス停 (1)

関越トンネルバス停 (3)

 東武東上線鶴巣駅から出ている。

 で、「関越トンネル」はどこなのか?

関越トンネルバス停 (4)

 どうやらあの向こうにあるアンダーパスが「関越トンネル」のようだ。

関越トンネルバス停 (5)

 近くまで寄ってみた。関越トンネルに。

関越トンネルバス停 (11)

 関越道の側道から「関越トンネル」を見たところ。ハイウェイラジオの標識があると高速道路っぽい。

関越トンネルバス停 (9)

 右が関越自動車道、真ん中が側道、奥に「関越トンネル」。「高側道」のたかなさんhttps://twitter.com/takana_sokudoにも喜んでいただけそうな絵ヅラだ。

関越トンネルバス停 (10)

 「日本道路公団」の杭と、側道と関越道。

関越トンネルバス停 (8)

 もっと南側によると、側道と高速道路の本線がほとんど同じレベルだ。

 なぜこのような構造になったかというと、日本の道路建設における経費削減の試み(盛り土を低くする)だったようだ。

 建設省道路局長、事務次官等を歴任した高橋国一郎氏が下記のように語っている。

高橋 ええ、確かにそれは建設費は安くなるのだけれども、低盛土というのは日本では難しいですね。実を言いますと、建設省の道路局の局議でもそれは決まりまして、建設省の直轄の道路でもやることにな ったのです。 この「低盛土方式」を実現するために、まず一番大事なのは農林省の協力が得られることです。当時の田圃は今では想像できない程、不規則な形の小さな区画から成り立っていました。それらの田圃をきちんと四角の区画に区画整理し、しかも横断する水路は例えば500mに一本にするとか、横断する道路にしましても、少なくとも1000mに一本通すとかするようにしたいと考えて、それを農林省に働きかけたのです。農林省もかなり積極的に協力してくれたのですが、結局うまく行きませんでした。その最大の理由は田圃の区画整理には余りにも時間がかかりすぎて、それを待って高速道路を建設することはとてもできなかったからです。

津田 東北道で実現しませんでしたか。

高橋 今は関越道になっていますけれども、東京~川越道路というのが一般有料道路で着工したのですね。それだけができたのです。

津田 あそこでですか。

高橋 あれは田圃が余りなかったせいがありますね。畑でしたから「低盛土方式」でできたのです。外国は大体畑みたいなものでしょう。

津田 そうですね。

高橋 横断する水路も、道路もほとんどないですから。だからできたのだろうと思いますけれどもね。あれは玉田茂芳君が所長だったと思 います、私の親友でして、彼が一生懸命.........。

津田 事務所はどこの所長ですか。

高橋 どこだろう、川越かな。

武部 川越の所長は玉田さんじゃなかった。

高橋 とにかく、玉田君のところでやったのですね。

武部 玉田さんはそのときに東京支社の部長をしていらした。

高橋 それじゃあ、事務所長ではなかったのですか。

武部 玉田さんはもう事務所長ではなかった。

高橋 そうですか。それでは、東京支社として協力してくれたのかな。 あそこだけ、とにかく一応やってくれたのですね。一つには、やはり田圃が余りなかったということだと思いますよ。それはあったら難しいですよ、やはり、時間がかかり過ぎる。建設省の直轄工事でも、当時の国道一課長の蓑輪健二郎という人が、やはり局議で決まったものだから、全国の直轄国道の工事にも「低盛土方式」の号令をかけてやったけれども、やはり途中でギブアップした。と言うのは、時間がかかり過ぎてとても道路をつくるのに間に合わない。区画整理事業の完成を待っていたら、五年、10年もかかる、本当に時間がかかるのだ。 そのかわり、側道もちゃんとつくってやると言ったのですがね、みんな。それで成功していませんので、これは残念ながら当時のやったこ との失敗の一つですね。

「土木史研究におけるオーラルヒストリー手法の活用とその意義:高速道路に焦点をあてて」https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-14350279/

 そういう意味では、「日本の近代化土木遺産」に推薦したいような場所なわけだ。

 日本はコスト高だというけれども、フランスの高速道路なんかひたすら側道も盛り土も(ほとんど)なくてまっ平な平原をつっぱしっているだけだったからなあ。

フランスの高速道路

 (もちろん山岳部では橋やトンネルはありましたが)

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 関越トンネルバス停に行ってみたくなった方はこちらへどうぞ。

 徒歩圏に関越道の三芳PA(パサール三芳)もあって、裏から入れる入口もある。

関越道パサール三芳

 

※なお、ライフバスの写真は撮り忘れた模様。(乗るときに時間がなかった)

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2018年6月 2日 (土)

祝!外環道 三郷南~高谷開通!東京外環道って法令上の名称じゃないけどどうなってんの?

 外環の三郷南IC~高谷JCTが目出度く開通した。

 ところで、日本の法律上は東京外環自動車道という路線はない。放射状に東京から各地へ散らばっていく高速道路の一部分が環状になっていてそれの貼り合わせのような形になっている。

東京外環自動車道と法令上の道路名称jpg (3)

 高速自動車国道の路線を指定する政令http://elaws.e-gov.go.jp/search/elawsSearch/elaws_search/lsg0500/detail?lawId=332CO0000000275&openerCode=1によるとこうなっている。

 

東京外環自動車道と法令上の道路名称jpg (4)

※スペースの関係から中央自動車道長野線は割愛している。

 例えば、東京都練馬区(大泉JCT)から川口市(川口JCT)の間は、東関東自動車道と常磐自動車道と東北縦貫自動車道の3路線が政令上は重複しているが、高速自動車国道の整備計画は、東北縦貫自動車道にしか出ていない。

 当初の図で路線の色に濃淡をつけているのは、「政令上は路線指定されているが整備計画が出ていない区間」を薄い色で、「実際に整備計画が出ている区間」を濃い色で着色してみたもので私のオリジナルである。

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 ということで、よく見てみると、三郷南と三郷JCTの間は、濃い色が二種類塗ってある。これは間違いではない。順当にいくと当該区間は東関東自動車道として整備計画が出るべき区間である。

 ところが、その前に、三郷南ICは常磐自動車道の追加ICとして整備計画が出ているのである。

東京外環自動車道と法令上の道路名称jpg (1)

 上記は「道路」1997年2月号に掲載された「第30回国土開発幹線自動車道建設審議会について」(近藤清久 建設省高速自動車国道課長補佐・著)から抜粋したものである。

東京外環自動車道と法令上の道路名称jpg (2)

 また、上記は「平成12年版 日本道路公団(JH)年報」の常磐自動車道の項である。三郷南ICが常磐道のICとして位置づけられているのが分かるだろうか?

 だから何だ?と言われると困っちゃうのだが、「これマメな!」としか言いようがない。

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このリゲインのCMの高速道路がまさに外環の三郷JCT~三郷南ICで撮影したものらしい。

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 ところで、外環道を構成する各高速道路の起点で一つだけ異なるものがあるのにお気づきだろうか?

 それは、中央自動車道である。

 例えば、外環の大泉JCT以南が事業化された際に、関越自動車道は従来の起点が「東京都練馬区(練馬IC)」だったものを「三鷹市(中央JCT)」に変更し、重要な経過地に「杉並区、武蔵野市」を追加している。

東京外環自動車道と法令上の道路名称jpg (5)

「道路行政セミナー」2008年3月号「高速自動車国道の路線を指定する政令の一部を改正する政令について」http://www.hido.or.jp/14gyousei_backnumber/2007_data/seminar0803.pdfから抜粋。

 しかし、中央自動車道は、起点が「東京都杉並区(高井戸IC)」のままである。これはどうしたことか?

 実は、この理由についても上記「道路行政セミナー」2008年3月号「高速自動車国道の路線を指定する政令の一部を改正する政令について」http://www.hido.or.jp/14gyousei_backnumber/2007_data/seminar0803.pdfに記されている。

東京外環自動車道と法令上の道路名称jpg (6)

 外環道のうち、中央自動車道として事業化される区間は、中央JCT(三鷹市)~東名JCT(世田谷区)の間である。

 当該報文の※2に「中央自動車道の基本計画の区間については、同政令中の起点、終点、重要な経過地に変更はないため、この部分についての変更はありません。」と書いてある。

 ざっくり言うと「外環延伸部分の地名(三鷹市、世田谷区)は、従来の中央自動車道の起終点、経過地に既に含まれているので、今更高速自動車国道の路線を指定する政令の中央道部分を改正する必要はありませんよ」ということなのである。納得がいかないかもしれないが、地名を何回も書くものではなく、1回出てくれば必要十分ということらしい。

 「あれ?高井戸ICは杉並区だけど、世田谷区なんか中央道が通っていたっけ?」という方もいらっしゃるかもしれない。

 実は杉並区はちょっとしか通過していなくて、例えば烏山のシェルターがあるあたりが世田谷区である。「杉並のプロ市民のせいで~」などという方もいらっしゃるが、本当は世田谷区内の中央道反対運動が元祖である。

中央自動車道烏山シェルター

ここがまさに世田谷区である。

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 ところで、どうして「高速自動車国道の路線を指定する政令」等に「東京外環自動車道」は独立した路線として位置づけられていないのだろうか?

 「環状道路は、法律上高速道路にはなりえない」という仮説がある。

道路法第5条第1項第1号

(一般国道の意義及びその路線の指定)

第5条 第3条第2号の一般国道(以下「国道」という。)とは、高速自動車国道と併せて全国的な幹線道路網を構成し、かつ、次の各号のいずれかに該当する道路で、政令でその路線を指定したものをいう。

一 国土を縦断し、横断し、又は循環して、都道府県庁所在地(北海道の支庁所在地を含む。)その他政治上、経済上又は文化上特に重要な都市(以下「重要都市」という。)を連絡する道路

 

国土開発幹線自動車道建設法第1条

(目的)

第1条 この法律は、国土の普遍的開発をはかり、画期的な産業の立地振興及び国民生活領域の拡大を期するとともに、産業発展の不可欠の基盤たる全国的な高速自動車交通網を新たに形成させるため、国土を縦貫し、又は横断する高速幹線自動車道を開設し、及びこれと関連して新都市及び新農村の建設等を促進することを目的とする。

 上記の条文の違いを理由に、一般国道は「国土を縦断し、横断し、又は循環」することができるが、高速道路(国土開発幹線自動車道)は、「国土を縦貫し、又は横断する」だけで、循環することはできないのではないかという仮説である。

 そういわれてみると、圏央道も東海環状自動車道も京奈和自動車道も環状道路は一般国道の自動車専用道路である。

 それゆえに、「外環道は、環状道路としては高速道路たりえず、東北縦貫自動車道等の部分部分を継ぎ足して構成しているのではなかろうか??」というものである。

 「道路の日本史」http://www.chuko.co.jp/shinsho/2015/05/102321.html等の著作がある武部健一氏が、建設省道路局在籍時に実際に路線設定を担当した井上孝氏(建設事務次官から参議院議員、国土庁長官)にそこを問うている。

鈴木(伸) もう一つ、尾之内さん(※引用者注 尾之内由紀夫・元建設事務次官)が路線をパッパッパッと名前を言ったということは、それは独自のビジョンなのか、それともまた別に何か検討されておられたのか......。

井上 結局、御本人に聞くのが一番早いのですけれども、私がびっく りしたのは、七六○○キロのルートが決まったときにパッともう名前が 出てきているのですね。ほとんどは縦貫自動車道で決まっていましたけれども、例えば、磐越などというがそうではなかったかな。それから、常磐自動車道というもの、あれは茨城県からずっと行っているで しょう、あの辺は常磐とは言わないはずですよね。

津田 手前の方ですね。

井上 手前でしょう。あれを「常磐自動車道」と言ったと思うのですよ。はぁと思ってね。それから一番感心したのは東京外環、これは抜けているではないかというと、いやそうではない。あれはみんな終末が東京で、全部反時計回り、今そうなっているのですね。

津田 ええ。

武部 ただ、私はなぜそういうふうにしなければいけなかったかというのを逆に疑問に思っているのです。なぜ環状の一本の道路にしなかったかという。

井上 それはそうですね。ただ、あのころはともかく縦貫道というのが先行しているわけですよね。

武部 何か、国土開発幹線自動車道の中には「国土を横断し、縦断し」 とあるけれども、「循環し」と書いていないからだめだという、そういう話もあったようなことを聞いたのですが。

井上 環状線という物の考え方が、環状が一つの使命を持っているという考え方もあるよ。あるけれども、全部よそへ行くための道路だ、 ここからこっちへ行くためにはこう通ってこう行くとね。そういう意識が尾之内さんにあったのではないかね。

津田 先にそういう何かがあったからですか、後の苦肉の策ではなくて。

井上 ええ。

津田 今、東北道がこう来て川口でこっちまで回っていて、常磐道が三郷でこっち回りでこう、ここからここが高速道路になっているわけ ですね。ただ、そういう呼び方をしたのはここの二区間だけですか。

井上 まだそれしかできていなかったからね。だから、その辺で尾之内さんはいろいろ、毎日眺めていたのかな(笑い)。考え方があったのだなと思ったね。

津田 そうすればいいということだったのですか。

井上 ええ。

津田 でも、きちっと「外環」という格好で位置付けられていたら、 もっと早く整備されたのではないかと。

井上 そうそう。それが、要するにおくれているのは美濃部都知事のせいですよ。美濃部都知事がそういうことで説得できたかというと、 どうかなあという気がしますね。

 

「土木史研究におけるオーラルヒストリー手法の活用とその意義:高速道路に焦点をあてて」https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-14350279/

 井上氏は武部氏の問いには直接回答していないのだが、法律上のロジックにはめこんだのではなく、事業としての「意識」があったのではないかと述べている。

 掲載順序としては逆になるが、下記のようにも述べている。

津田 では、もう少しお伺いしたいのですが、七六○○キロの案の最大の功労者というのはやはり尾之内さんになるのでしょうか。

井上 尾之内さんね。私はびっくりしたのは、これはまだ話していないから、七六○○キロが決まったでしょう。決まったらその場だと思う けれども、「井上君、この道路は何々道」と、名前がみんな決まっているのですよ。もっとも大半は議員立法で決まっていましたけれどもね。決まっていなかったのが大分あるでしょう。これは何々道、何々道と、 それと今でもみんなが、ここにも出ている東京外環、あれが入っていないでしょう。

津田 入っていないのですね。

井上 あれは全部端末を環状線の中に入れ込む。

津田 ああ、当時からもうそういう。

井上 当時からそう。

津田 確かに、その方が効率的に.........。

井上 それを尾之内さんがズバッと言うのだから。しかも、私は時計回りだと思ったら、山根君(※引用者注 山根孟・元建設省道路局長)に、「それは違いますよ、反時計回りですよ」 と言われた。

津田 ああ、その当時からもうそういうふうに。

井上 あれは何だ、常磐道は三郷......。

津田 東北道が川口.........。

井上 それで中央道の方へ行くのですね。

津田 はい。

井上 それで外郭環状道路が全部、全部そうなっているのですってね、 今でも。

津田 なっていますね。

井上 ねえ、名前が出てこないな、外環がだからところどころに、ここは東北道とか、ここは常磐道とか書いてあるのですか、あれは。

津田 法律名はそうなりますが、道路名は「東京外環自動車道」です。 その当時、外環は一本で高速道路でという案はなかったのでしょうか。

井上 いやいや、あったのですよ。外郭環状道路と我々は調査も取って一生懸命やって、美濃部、絶対にやらないと。要するに、橋の理論というのがあったでしょう、あのころ。

津田 ええ、一人でも.........。

井上 一人でも反対すればやらないという、あれでもう.........。

津田 ちょうど美濃部さんのときだったのですか。

井上 ええ、都市計画決定ができなかったわけですよ。何とその隣の埼玉県は社会党知事ですよ、あの畑さんというのは。畑さんは道路が 好きで、どんどん、どんどん道路を認定して、「ああ、やってください、 やってください」と陳情に来てね。それで外環は埼玉県部分だけはできているでしょう。全部そういうのに関連している。

 

「土木史研究におけるオーラルヒストリー手法の活用とその意義:高速道路に焦点をあてて」https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-14350279/

 先に紹介したところと違い、同じ本のなかで、外環道を一本にしなかった理由が異なっている。先に紹介した方では「苦肉の策ではなく当初からそういう思想があった」と。後に紹介した方では、「美濃部都知事対策で一本にしなかった」というものである。

 確かに美濃部都知事は外環道の事業遂行にあたっては建設省と対立したことがあるのは間違いない。しかし時系列的におかしい。

 文中「7600キロ」というのは、国土開発幹線自動車道建設法(国土開発縦貫自動車道建設法の一部を改正する法律)http://www.houko.com/00/01/S41/107.HTMによって1966(昭和41)年7月に定められたものである。

昭和41年高速道路網図

 ところが、美濃部亮吉氏が東京都知事に就任したのは1967(昭和42)年4月である。

 ちなみに井上氏は「都市計画決定ができなかったわけですよ」とも述べているが、国交省東京外かく環状国道事務所のウェブサイトhttp://www.ktr.mlit.go.jp/gaikan/gaiyo/keii.htmlによると、都内の都市計画決定は1966(昭和41)年7月になされている。その頃の都知事は保守の東龍太郎氏である。いずれにせよ、美濃部都知事が外環道の路線の在り方に影響を及ぼした可能性は極めて低いと言わざるを得ない。

 伊東孝教授をはじめ、土木脳の方は「革新自治体が反対したから」と言えば納得したのかもしれないが、きちんと裏取りをしていれば真実に迫れたかもしれないと思うと大変残念である。井上氏も尾之内氏も武部氏も鬼籍に入られてしまった。もう真実には迫れないかもしれない。せめてデマ発生源にならないよう関係者の方にはフォローをお願いしたいところだ。

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 ということでせっかく科研費を使ったオーラルヒストリーがこの辺ではあてにならないので国立公文書館で探してみるとこのような想定問答があった。まさに7600キロの高速道路のネットワークを決めた1966(昭和41)年の法律改正に伴う想定問答集である。

想定問答

 ここにまさにピンズドのQ&Aがあるではないか。

東京外環自動車道と法令上の道路名称jpg (7)

問「東京外かく環状は別表にはないが、どうするか」

答 東京都のような大都市においては、幹線自動車道を都心部に乗り入れることは交通処理上好ましくないので、別途首都高速道路等により都心部への連絡を保つようにしているが、これらの交通の流れを円滑にするには幹線自動車道の起点を環状線で形成するのがもっとも合理的である。 したがって、東京を起点とする幹線自動車についての法案の別表の扱いは起点を東京都と表示し概念上、各路線が東京外かく環状線を重複して起点としてい るというような取扱いとしたものである。

 分かったようでよく分からないのだが、いずれにせよ、美濃部都知事とは関係ない時代に、建設省では外環を独自の路線とせずに「東京を起点とする幹線自動車についての法案の別表の扱いは起点を東京都と表示し概念上、各路線が東京外かく環状線を重複して起点としているというような取扱いとしたもの」とすることが道路の機能面からも合理的と整理されていたということのようだ。

 なお、外環と縦貫道の関係については、当初環状6号線のなかだけであった首都高速道路の延伸計画と、当初は渋谷区が起点であった東名高速道路及び中央高速道路との調整が東京都の山田正男氏と建設省の尾之内由紀夫氏との間で行われたと山田氏が語っており、このあたりも絡めたいのだが、あまりに冗長にすぎると誰も読んでくれなくなるのでとりあえずこの辺で第一部終了としておこう。

昭和36年の首都高速道路構想(未成道が山盛り)

 1962(昭和37)年段階での外環の計画が分かる図面。

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2018年5月20日 (日)

チコちゃんを叱ってみる「お年寄りをシルバーで呼ぶのは国鉄のシルバーシート由来なのか?」

 「骨まで大洋ファン」なので、大洋ファンつながりのチコちゃんは応援している。

 ところで、「チコちゃんに叱られる! #6」で

人生経験が豊富な岡村にチコちゃんが「なぜ高齢者のことをシルバーという?」と質問。「白髪が出てくるから」と答え、不正解だったので叱られた。正解は、「たまたま銀の布が残っていたから」。

国語辞典編纂者の飯間さんが解説。1974年発行の三省堂国語辞典にはシルバーに高齢・老人の意味はない。1973年に国鉄に登場した優先席「シルバーシート」が由来。実際に名付けた相談役の須田さんは当時のJR東海の社長。須田さんは名前について、必然的、ケガの巧妙と語る。

シルバーシート誕生について映像で紹介。1973年7月、国鉄では私鉄に逃れた私鉄から客を取り戻す策を考えていた。須田さんは、お年寄りの為のシートについて話題性がほしいと考え敬老の日から導入することを決定。約2ヵ月の期間で議論を開始するも赤字財政が続いており新しい座席は作れなかった。当時の新幹線に使われた銀の生地が残っており、座る部分だけを銀にしてシルバーシートとした。その後、私鉄・バスにも広がりシルバーが高齢者を表す代名詞となった。他の色が残っていればその色の名前になっただろうと須田さんがコメント。

https://tvtopic.goo.ne.jp/program/nhk/72821/1164188/

 参考までに「国有鉄道」1973年10月号によると下記のとおりとなっている。

チコちゃんに叱られるで、高齢者のことをシルバーというのはシルバーシート由来と言っていたが果たして (4)

 ところで、同じく国鉄が発行している「国鉄線」1973年3月号に気になる表現が載っている。

チコちゃんに叱られるで、高齢者のことをシルバーというのはシルバーシート由来と言っていたが果たして (3)

 これは、国鉄新潟鉄道管理局営業部販売センターの田辺恵三氏が書いた「5つの需要層に向け商品づくり ヨンナナからヨンパーへ売る営業の発展」という記事で、昭和48年度の国鉄の旅行商品の売り上げ促進策を報告しているものである。そこに「シルバーエイジ」という言葉が出てくるのである。内容としては明らかにお年寄りを指していると言えるのではないか?

 まあ同じ国鉄社内とはいっても当時の国鉄はそこんじょそこらの大企業よりもデカイ図体の組織なので、須田寛旅客局営業課長(当時)は、「国鉄線」なんて読んでいなかったかもしれない。

チコちゃんに叱られるで、高齢者のことをシルバーというのはシルバーシート由来と言っていたが果たして (1)

「交通年鑑 昭和48年」に掲載された国鉄職員名簿

 ところで、「国鉄線」の編集はどこでやってたかなんてえのを調べてみますと。。。

チコちゃんに叱られるで、高齢者のことをシルバーというのはシルバーシート由来と言っていたが果たして (2)

 営業課と同じ局内の国鉄旅客局総務課じゃないですか。

 「国鉄線企画編集委員会委員長」は、名簿では須田営業課長の二つ上に掲載されている八田総務課長じゃないですか。

 なら須田営業課長も読んでいるでしょうよ。シルバーシートを世に出す半年前に。

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 ということで、新幹線の座席の生地が余っていたかはともかくとして、

「シルバーシート以前に国鉄社内ではシルバーエイジという言葉を使っていたし、須田営業課長はそれを知っていた可能性は極めて高い」

ということは言えるのではなかろうか。

 国語学者であれば、この「シルバーエイジ」という言葉の由来等を当時の新聞や雑誌での用例あたりから調べるのだろうが、そこは専門家にお任せしますが。。。とりあえず言ってみたいので。。。

ボーっと生きてんじゃねえよ!

(参考)

https://togetter.com/li/1228829

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 せっかくなので、須田つながりで、ベイスターズの須田投手が昨年サヨナラ満塁ホームランを打たれたところでも貼っておきますかね。

須田ァ baystars (1)

須田ァ baystars (2)

須田ァ baystars (3)

ボーっと生きてんじゃねえよ!

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2018年4月 8日 (日)

「首都高をオリンピックに間に合わせるためには『空中作戦だ』」のアンビリバボーを検証してみる

 フジテレビの「奇跡体験!アンビリバボー」の2018年1月4日の放送で、「東京オリンピックをつくった男たちSP 首都高建設に挑んだ男たち」という題名で首都高速道路を東京オリンピックに向けて建設していく取り組みが放送されていた。

http://www.fujitv.co.jp/unb/contents/180104_2.html

魚拓https://megalodon.jp/2018-0317-1753-33/www.fujitv.co.jp/unb/contents/180104_2.html

 その中で気になる点が幾つかあったので検証してみたい。

 東京オリンピック開催のニュースが駆け巡った直後、東京都庁・都市計画部の職員たちは、青ざめていた。 戦後の目覚ましい復興とともに東京には車が溢れていた。 毎年、3万台近くのペースで増加、都心の道路は、至るところで大渋滞が発生していた。 そこでオリンピック開催が決まる6年前、政府は慢性的な渋滞を解消するため、総延長およそ49kmに及ぶ高速道路を張り巡らせる計画を立案。 東京都と建設省に実行するよう勧告を行った。

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (1)

 しかし、用地買収に難航し、計画は一向に進んでいなかった。

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (7)

そんな中、オリンピック開催が決定したのだ。 東京でオリンピックをやるとなれば、当然、開催期間中は世界中から選手や観光客が訪れる。 その数、実に4万人以上。 もちろん多くの日本国民も会場を訪れる。 連日、大渋滞が起きている東京にそれだけの人が1度に詰め掛ければ、都心の交通網は破綻。 オリンピックが失敗に終わるのは目に見えていた。

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (8)

 国民の悲願である東京オリンピックを絶対に成功させる…そのためには、高速道路を必ず完成させなければならかった。 しかし、実際問題、用地買収は一向に進んでいない。 計画は到底不可能に思えた。

 だが…既存の道路や川の上に道路を造れば、用地を買収しなくて済む。 この時、建てられた計画…『空中作戦』!それは、日本初の試みだった。

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (9)

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (10)

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (13)

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (14)

http://www.fujitv.co.jp/unb/contents/180104_2.htmlから引用

 テレビの粗筋はこんなところである。

 ・既存の高速道路計画は用地買収が難航して進んでいなかった

 ・そこに東京オリンピックが決まったが、これでは観客輸送が行き詰まる

 ・それを打破するために空中に首都高速道路を作ることにしてオリンピックに間に合わせようとした。

 ・これが「空中作戦」だ!

 

 果たしてそうなのか、検証してみよう。

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・「既存の高速道路計画は用地買収が難航して進んでいなかった」のか?

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (1)

 1958年に立案された首都高速道路の計画路線はこれである。

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (2)

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (3)

出典「首都高速道路建設に関する計画」東京都都民室首都建設部 1953年3月

 この道路は果たして用地買収に難航していたのか?

 アンビリバボーのいうとおりであれば、この道路網が事業化され、用地買収の予算もついて動き出していなければならない。公団もまだできていないのに?

 また、都内高速道路網計画については、首都建設委員会告示第12号によって5路線49粁の路線網が決定されているが、具体的実現方策について検討した結果、概ね8路線62.5粁の路線網を決定している。

 

「首都圏における地下高速鉄道と都内高速道路との総合的考察」 月刊「道路」1957年11月号 石塚久司(首都圏整備委員会事務局計画第二部長)著

 用地買収が難航したから計画が変更されたのではなく、「具体的実現方策について検討した結果」今の首都高速道路路線網に決定されたというのだ。そして変更結果がこの路線である。

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (4)

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (5)

 作成時期は、1957(昭和32)年12月、オリンピック開催が決まったのは、1959(昭和34)年4月であるから約1年半前となる。その割には、今の路線網とほとんど同じではないか?(箱崎ジャンクションが無いなど微妙に異なる)

 アンビリバボーでは、オリンピック決定後に首都高速道路公団が設立(6月)され、更にその後に首都高速道路の最初の都市計画が決定した(8月)としているのにどうしたことか。

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (15)

 確かに都市計画決定はオリンピック開催決定後の1959年8月だが、その原案は既に1957(昭和32)年12月に決まっていたのである。

 更に付言するなら、河川や道路の上を活用する方針は、1957(昭和32)年7月に決定していたのである。

 もうちょっと細かく説明するとこんな感じ。

(2)東京都建設局都市計画部案の策定

 首都建設委員会が、首都高速道路の新設について1953(昭和28)年4月建設省と東京都に勧告したのを受けて、東京都は独自の考えで高速道路の計画案の策定を進めた。 とりわけ、1955(昭和30)年12月 、東京都建設局都市計画部長に就任した山田正男は、様々な観点から精力的に職員を督励しながら東京都建設局都市計画部案の検討を したのである

(略)

(3)建設省の基本方針

 建設省は1957(昭和32)年7月20日 、「東京都市計画都市高速道路に関する基本方針」を決定した。これは、 かねてより東京における高速道路の必要性を重視していた建設省が、上記(2)で述 べた首都建設委員会の勧告を受けてまとめた東京都の原案をもとに、同委員会(当時は首都圏整備委員会に変わっている)と協議の上、作成したものである。

(略)

(4)東京都市計画高速道路調査特別委員会の設置

 建設省の基本方針が決定されてから半月後の同年8月5日、東京都市計画地方審議会は、高速道路の建設は急施を要する として、首都高速道路網計画の調査立案のため、同審議会の中に東京都市計画高速道路調査特別委員会を設置した。

(略)

 そして12月9日開催された東京都市計画地方審議会において会長東京都知事安井誠一郎に対し、東京都市計画高速道路調査特別委員会委員長金子源一郎は調査結果について報告をした。 これによって、東京都市計画都市高速道路網計画案が決定されるに至ったのである。

 

「東京の高速道路計画の成立経緯」堀江 興 https://www.jstage.jst.go.jp/article/journalip1984/13/0/13_0_1/_article/-char/ja

 河川や道路の上を活用する方針が、1957(昭和32)年7月に決定していたというのは下記の通りである。

首都高が河川を活用することはオリンピック決定よりずっと前に決定

 東京都の「東京都市高速道路の建設について」から引用。詳しくはhttp://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-c06b.html

オリンピックに関係なく首都高は川の上だった

 1957(昭和32)年9月29日付の読売新聞は、上記のように「都内に高架道路の網」「川の上や二階建」と報じている。

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (12)

 このシーンは、オリンピック開催決定後に演じられたのではないのだ。決定の1年半前なのだ。

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (14)

 この映像とは逆に「オリンピックに間に合わせること」と「空中に道路を架けること」とは全く別の問題であった。

 この眼鏡のおっさんは番組では「部長」と呼ばれていたことから、東京都の山田正男部長ではないかと推測される。

山田正男

 山田正男は実際にはこんな風に語っている。

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦

対談「東京都における都市計画の夢と現実」 「時の流れ都市の流れ」403頁

 ということで、「用地買収に難航していた首都高速道路を、オリンピックに間に合わせるために河川等の上に作るように変更した」というのは嘘確定。

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首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (11)

 では、山田正男は(時期は違うとしても)首都高速を河川等の上に架けることを「空中作戦」と本当に呼んでいたのだろうか?

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (13)

 「言ったことになっているけれども実際には言ってないんじゃないか」というのを調べるのは非常に困難だ。

 とりあえず、オフィシャルなものを当たってみる。

 ・「首都高速道路公団20年史」(山田氏を含めた対談「公団20年のあゆみとその展望」あり)→空中作戦なし

 ・山田正男の著書「時の流れ都市の流れ」「変革期の都市計画」→空中作戦なし

 ・山田正男のオーラルヒストリー「東京の都市計画に携わって : 元東京都首都整備局長・山田正男氏に聞く 」→空中作戦なし

 ・「21世紀の首都圏を考える ―そのかぎは道路づくりに―」(山田氏を含めた対談)「高速道路と自動車」1983年3月号→空中作戦なし

 ・建設時の首都高速道路公団の広報誌「首都高速」→空中作戦なし

 ・「オリンピックと山田正男」塚田博康・著(「シリーズ東京を考える 3 都庁のしくみ」都市出版・刊)→空中作戦なし

 どこにも「空中作戦」などという言葉は出てこない。

 当時の土木関係業界誌等に発表された首都高速関係の報文(末尾に記載)を見ても出てこない。

 

 ところがある時期以降「空中作戦」という言葉が出てくることが分かった。

 それは、NHKの「プロジェクトX」である。その名も「首都高速 東京五輪への空中作戦」(2005年4月5日放送)http://www.nhk-ep.com/products/detail/h16460AA

 オリンピック開催まで、期間はわずか5年。羽田空港から代々木までの限られた路線とはいえ、その間にビルがひしめく東京で、用地を買収して道路をつくることなどできるはずもない。これは「大パニック」になる。

(中略)

 そのときだった。悩む大崎たちのもとに、一人の男が現れた。都市計画部長の山田正男。とんでもないアイデアを出した。

「”空中作戦”はどうか」

 いままでにある道路の上や、街なかを流れる河川に沿って、その上に高架橋の道路をつくれば、用地買収の手間が一気に省ける。5年間の短い期間でも、渋滞が解消できるという前代未聞の作戦だった。

 

「プロジェクトX 挑戦者たち 28 次代への胎動」日本放送出版協会 74~75頁

 プロジェクトXでは、オリンピック開催決定後に山田正男が「”空中作戦”はどうか」と提案したことになっている

 既に述べたように、オリンピック以前に道路や河川の上に首都高速を作ることは決定されていたのでこれは眉唾である。フジテレビは、NHKの眉唾をコピペして番組を作ったのだろうか?

 この後に「空中作戦」を持ち出したのは、自称「首都高研究家」の清水草一氏である。

 首都高の建設ぶりを、世間は「空中作戦」と呼んだ。川や道路という公共用地の上の、文字通り「空中」に、みるみる高速道路ができていったからだ。しかし山田の空中作戦は、オリンピックに間に合わせるために急遽編み出したわけではなく、当初からの慧眼が、たまたまオリンピックという最高の舞台を得ただけだった。

 

「首都高速の謎」扶桑社・刊 清水草一・著  2011年 50~51頁

 清水草一氏によると「空中作戦」は山田正男が言ったのではなく、「世間が呼んだ」ということになっている。

 では、当方も関係者の書籍ではなく、世間が呼んだことの証跡を得るために、新聞を調べてみた。

 朝日新聞、毎日新聞、読売新聞、日本経済新聞を各オンラインデータベースで検索したが「空中作戦」では一つもヒットしなかった。また、国会図書館のデジタルアーカイブでも検索したが「空中作戦」では一つもヒットしない。

 東京オリンピックの舞台裏を描いた塩田潮氏のルポルタージュ「東京は燃えたか」にも出てこない。

 清水草一氏の言う「世間」はどの辺に証跡があるのだろうか。

 

 この後になってくると首都高の公式文書等でも「空中作戦」の言葉が見えてくる。

 工期短縮の特効薬となり、建物密集市街地対策にも適した工法として打ち出されたのが、高架を多用する「空中作戦」やトンネル利用の「地中作戦」だった。いずれも、用地買収などの苦労や工事費を減らせるメリットがあった。

 

「首都高物語: 都市の道路に夢を託した技術者たち」青草書房・刊 首都高速道路協会・著 2013年 96頁

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (23)

 江戸橋ジャンクションは、空中作戦といって橋梁では初めて「立体ラーメン構造」を採用し、橋脚本数を劇的に減らした。

 

「首都高速道路50年の歩み」橋本鋼太郎(土木学会顧問、元首都高速道路株式会社社長) 「東海道新幹線と首都高 1964東京オリンピックに始まる50年の軌跡」土木学会・刊 2014年 47頁

 この瞬間、「空中作戦」は土木学会と首都高速の公認の歴史となっちゃったのである。きっと私の調べが足りないどこかに「空中作戦」を証する根拠があるのだろう。

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 ところで、「空中作戦」という用語を使っている書籍がもう一つある。

東京の都市計画家 高山 英華」鹿島出版会 東秀紀 2010年

 山田の主張によって、首都高速道路公団が設けられ、一号線(羽田・中央区本町間)、四号線(日本橋本石町・代々木初台間)を中心とする約三十二キロの建設がオリンピック関連事業として建設されることになった。

「オリンピックまで、あとわずか五年しかない。果たして間に合いますか」

 国会に呼ばれて、そう議員から質問をされたとき、山田は傲然と答えた。

「絶対に間に合わせてみせます。見ていてください」

 山田には腹案があった。時間がないから、地権者たちの反対、土地買収などにかかわっている暇はない。だから、地権者たちに文句を言わせない方法をとる。

空中作戦だ

 日ごろ冗談一つ言わない上司の不可解な言葉に、部下たちは目を白黒させる。

「俺の言っている意味が分からないのか」

 山田はわざとうんざりして言った。皆の戸惑いが、実のところ、いまは心地よい。

「既設の道路、運河の上を通せ。下は公共の土地だから、誰も文句はいえないよ」

「果たして、そんなことができますか。実例は海外にありますか」

「じゃあ、君たちはどうしたらオリンピックに間に合わせられるんだ」

 大声で怒鳴ると、部下たちは従うしかなかった。部下だけではなく、安井の後任である東龍太郎都知事も、そして「影の知事」といわれ、実際の都政を仕切っている鈴木俊義副知事も少し首を傾げはしたものの了承した。

 こうして「空中作戦」は実行された。高速道路はまるで鉄でできた大蛇のように、東京の都心をのたうち回り、時には三回も四回も交差しながら、ビルの間を通り抜けた。

 生きた河川や由緒ある日本橋の上を高速道路が屋根のように通る形になったのも、この時である。

 

「東京の都市計画家 高山 英華」東秀紀 253~254頁

 とても臨場感あふれる記述である。しかし、これには出典が明記されていない。この本は巻末に参考文献という形でまとめられているのだが、個別に脚注がついているわけではないので容易に証跡をあたることができないのである。

 ところが、時系列で考えると、どう見てもこの東秀紀氏の記述はおかしい。

 改めて整理してみよう。

1953(昭和28)年4月28日 首都建設委員会が高速道路網の新設を建設省及び東京都に対して勧告。

1957(昭和32)年7月20日 建設省が「東京都市計画都市高速道路に関する基本方針」を決定。経過地の選定に不利用地、河川、運河等を利用することを定めた。

1957(昭和32)年8月5日 東京都市計画地方審議会に、高速道路調査特別委員会を設置。東京都が作成した街路、河川等を利用した首都高の原案の審議検討を開始。

1957(昭和32)年12月9日 東京都市計画高速道路調査特別委員会が、東京都市計画地方審議会長 安井誠一郎(東京都知事)あてに東京都市高速道路網計画を報告。

1958(昭和33)年1月22日 東京オリンピック準備委員会・設立準備委員会及び第1回総会開催。

1958(昭和33)年4月 国会でオリンピック東京招致決議案を可決(衆議院15日、参議院16日)

1958(昭和33)年12月5日 建設大臣が、東京都市計画街路に都市高速道路を追加決定するための案件を東京都市計画地方審議会に付議。

1958(昭和33)年12月10日 東京都市計画地方審議会が一部を留保して原案どおり議決。

1959(昭和34)年1月30日 首都高速道路公団法が閣議決定され国会へ提出。

1959(昭和34)年2月25日 日本道路公団が西戸越~汐留間の工事に着手。(後に首都高に移管)

1959(昭和34)年4月8日 首都高速道路公団法成立(同14日公布・施行)

1959(昭和34)年4月23日 安井誠一郎都知事の後任に東竜太郎氏(IOC委員)が当選。

1959(昭和34)年5月26日 東京オリンピック開催決定

1959(昭和34)年6月12日 鈴木俊一氏(前・内閣官房副長官)が東京都副知事(オリンピック担当)に就任。 

1959(昭和34)年6月17日 首都高速道路公団発足

1959(昭和34)年8月7日 東京都市計画地方審議会で保留部分につき原案どおり議決。

 本稿で何度も申し上げているように、東京都などが首都高速道路について河川等を利用した路線網を計画したのは、東京オリンピック招致決定前である。また首都高速道路公団法が成立したのは東京オリンピック開催決定前である。そして東竜太郎氏が都知事に、鈴木俊一氏が副知事に就任したのはその後である。

 一般的には、1959(昭和34)年4月にオリンピック開催決定→6月に公団発足→8月に都市計画決定という流れで語られるため、それを基に東秀紀氏の「東京の都市計画家 高山 英華」を読んでいると「ふーーん」と読み過ごしてしまうところだが、まともに都市計画の歴史をおっていくと、(「空中作戦」と言ったかどうかは別にして)、オリンピック決定後に東竜太郎知事や鈴木俊一副知事が首都高速道路網について意思決定を下す場面は出てこないはずである。(前任の安井知事時代に殆ど手続き済みであった。首都公団の設立にしても都市計画の最終的な決定にしても全て安井知事時代のレールに乗ったものである。)

 更に、東秀紀氏は「少し首を傾げはしたものの了承した」と書くが、これは東知事や鈴木副知事が「空中作戦」について不本意であったようなことをうかがわせるものだが、東知事の前職はIOC委員、鈴木副知事の前職は官房副長官であり、首都高速計画について知らなかったわけでもなかろう。いやむしろ熟知しているはずである。東秀紀氏は、何を根拠にしてこのくだりを書いたのか是非ご教示いただきたいものである。

 東秀紀氏は、鈴木俊一副知事の名前を「俊義」と書くような人(単なる誤植ではなくわざわざ「としよし」とフリガナをふっている。)だから、東京都の都市計画の歴史についてはよく分かっていない人なので、首都高速道路の経緯とオリンピックの経緯についてはよく整理できてないのは仕方がないし、そもそも知識がない可能性もあるのだが、上記の年表は、「東京の都市計画家 高山 英華」の379頁に参考文献としてあげられている堀江興氏の「東京の幹線道路に関する史的研究」の235~251頁の記述を基にして作成したものである。知らないはずがない。(参考文献にあげただけで読んでいない可能性は否定できないが。)

 他にも気になる記述がある。

 山田には腹案があった。時間がないから、地権者たちの反対、土地買収などにかかわっている暇はない。だから、地権者たちに文句を言わせない方法をとる。

「空中作戦だ」

 

「東京の都市計画家 高山 英華」東秀紀 253頁

 「かかわっている暇はない」「文句を言わせない」こんな高圧的なことを山田正男は言っていたのだろうか?今回調べた文献ではそんな不遜な言葉は見つけられなかった。(山田氏自身は不遜なんだろうなという記述は幾つもあったがw)

 参考までに、東京オリンピック開催決定前の国会での審議(1958(昭和33)年4月10日衆議院建設委員会)http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/028/0120/02804100120023a.html)での関連する答弁を見てみよう。

○藤本参考人 経過地に当っては不利用地、治水、利水上の支障のない河川、または運河を使用して、やむを得ざる場合だけが幅員40mの道路に設置する、建前としては道路上には設置しないように(略)

 物件移転費という欄の一番下の欄をごらんいただきますと、878という数字が出ております。これは移転棟数の合計でございます。これだけの事業をいたしますのに、移転棟数がともかく千棟以下であるという点については、やはりできるだけ民有地あるいは民家というような面において御迷惑を少くするという配慮をいたした一つの現われだと存ずるのであります。

 藤本勝満露東京都建設局長の答弁は「文句を言わせない」という態度ではないと思われるが如何であろうか。

首都高研究家清水草一の日本橋関連の嘘

 あれ?オリンピック開催決定前に河川を利用した首都高計画に地元が文句を言っているぞ?おかしいですね。東秀紀センセ。

 

 他にも判然としない記述がある。

「オリンピックまで、あとわずか五年しかない。果たして間に合いますか」

 国会に呼ばれて、そう議員から質問をされたとき、山田は傲然と答えた。

「絶対に間に合わせてみせます。見ていてください」

 

「東京の都市計画家 高山 英華」東秀紀 253頁

果たしてそのような答弁がなされているのか?

 国会議事録http://kokkai.ndl.go.jp/で山田正男が答弁している部分を検索してみる。

山田正男の国会答弁

 「あとわずか5年しかない」というだけあって、該当する会議は、昭和34年8月10日の衆議院建設委員会であろう。

 その議事録は、http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/032/0120/03208100120004a.htmlである。

 皆さん「絶対に間に合わせてみせます。見ていてください」もしくは、それに類する発言は読み取ることができたであろうか?「傲然」な態度は読み取れただろうか?どうやら私の読解力では無理であるようだ。

 

「既設の道路、運河の上を通せ。下は公共の土地だから、誰も文句はいえないよ」

「果たして、そんなことができますか。実例は海外にありますか」

 

「東京の都市計画家 高山 英華」東秀紀 253頁

 海外の事例については、「欧米の高速道路と首都高速道路」西畑正倫 「新都市」15巻3号や「東京都の都市交通と首都高速道路」西畑正倫「高速道路」1960年3月号によると、アメリカはボストンのCentral Arteryや、サンフランシスコのEmbarcadero Freeway等を研究していたようだ。

 下記は、当時の業界誌に掲載されたボストン市内の高架道路の様子である。首都高っぽい。

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (24)

 東京都立図書館では、当時の首都高速道路公団担当者が研究したと思われる海外の都市の報告書が閲覧できるのでご関心のある方は是非。

 

 東秀紀氏は当時首都大勤務で東京都の生データも見ることができる立場だったと思われるのだがこれはどうしたことか。おまけに、都市計画史が専門と自称しているではないか。

 また、出版元も鹿島出版会ということで、編集者もそれなりの方がいらっしゃると思うのだがどうなんだろう。

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(追記)

 この記事をUPした翌日に注文していた本が届いた。

「私の都市計画生活 -喜寿を迎えて-」山海堂 鈴木信太郎・著

 鈴木信太郎氏は、元東京都都市計画局技監で、山田正男と一緒に東京都で仕事をしてきた方である。 山田正男と共著で「東京都市計画都市高速道路計画の計画諸要素について 」を土木学会誌1960(昭和35)年8月号に発表しているというこの問題を語るにふさわしい方である。

 そこに東京オリンピックと首都高の関係について明快に書いてあった。(35頁)

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (25)

 文中、「山田さんの発言もあったように」とは下記のこと。(27頁)

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (26)

 「東京の都市計画家 高山 英華」の参考文献にこの本はあげられていない。

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(参考文献:順不同→いずれも「空中作戦」という記述はない

首都高速道路事業のあらまし

伸びゆく首都高速道路

「東京都市計画都市高速道路網計画」岩出進 「新都市」 12巻6号

「東京の都市高速道路の其後」岩出進 「新都市」13巻2号

「東京都市高速道路のあれこれ」 「新都市」 13巻6号

「首都高速道路公団の使命」神崎丈二 「新都市」 15巻3号

「首都高速道路公団の歩み」美馬郁夫 同上

「欧米の高速道路と首都高速道路」西畑正倫 同上

「首都高速道路の実施に関連する問題点」五十嵐醇三 同上

「首都高速道路の構造について」矢内保夫 同上

「首都高速道路工事の進捗状況」細貝元次郎 同上

「首都高速道路の将来」河野正三 同上

「首都高速道路の用地の諸問題」大塩洋一郎 同上

「オリンピック関連街路の建設とさらに続ける”道造り”」石井興良 「新都市」 18巻9号

「首都高速1・4号線(オリンピック関連)の完成まで」広瀬可一・菊田聰裕 同上

「オリンピックと天皇賜杯の感激に寄せて(三宅坂インターチェンジの工事概要」尾崎一宣 同上

「オリンピック東京大会と道路交通」広川楡吉 同上

「都市における高速道路計画に就て」町田保 「道路」1954年1月号

「首都圏における地下高速鉄道と都内高速道路との総合的考察」石塚久司 「道路」1957年11月号 

「東京における交通問題解決の現段階」山田 正男、鈴木信太郎 「道路」1957年11月号

「東京の都市高速道路計画;首都高速道路公団の発足」小林忠雄 「道路」1959年4月号

「日本橋及び江戸橋周辺の高速道路について」西野祐治郎、前田邦夫 「道路」1961年6月号

「首都高速道路のインターチェンジの線形計画について」 「土木技術」17巻2号、3号、4号、5号

「首都高速道路の計画」大塚全一 「高速道路」1959年3月号

「東京都の都市交通と首都高速道路」西畑正倫「高速道路」1960年3月号

「首都高速道路の技術上の諸問題(1)」村山幸雄、菊田聰裕「高速道路」1960年5月号

「首都高速道路の技術上の諸問題(2)」橘高元「高速道路」1960年6月号

「首都高速1・4号線の開通に当って」西畑正倫「高速道路と自動車」1964年9月号

「思い出すままに」中島武 同上

「開発と保存の調整された首都高速1号・4号」五十嵐醇三 同上

「首都高速道路の生いたちとこれから」村山幸雄 同上

「首都高速1・4号線の概要」黒木清和 同上

「首都高速道路以前の構想をめぐって」新谷洋二 「高速道路と自動車」1979年7月号

「首都高速道路の路線計画に関する史的研究(前編)」新谷洋二 「高速道路と自動車」1980年1月号

「首都高速道路の路線計画に関する史的研究(後編)」新谷洋二 「高速道路と自動車」1980年3月号

「首都高速道路」鈴木信太郎 「土木学会誌」1988年6月号

「首都高速道路の設計および施工概要」 「土木技術」22巻4号

「首都高速道路のインターチェンジ」 同上

「首都高速道路建設に関する計画」東京都都民室首都建設部 1953年3月

「オリンピックと山田正男」塚田博康 「シリーズ東京を考える 3都庁のしくみ」都市出版・刊

「道路網の整備」堀江興 「シリーズ東京を考える 5都市を創る」都市出版・刊

「東京の都市計画」大崎本一 鹿島出版会・刊

「回想・地方自治五十年」鈴木俊一 ぎょうせい・刊

「未完の東京計画」石田頼房編 筑摩書房

「東京都市計画物語」越沢明 日本経済評論社・刊

「日本の首都 江戸・東京 都市づくり物語」河村茂 都政新報社・刊

「江戸東京まちづくり物語」田村明 時事通信社・刊

「東京は燃えたか 黄金の60年代」塩田潮 講談社・刊

「オリンピック・シティ東京 1940・1964」片木篤 河出書房新社・刊

「首都高速道路のネットワーク形成の歴史と計画思想に関する研究」古川公毅

「東京の幹線道路に関する史的研究」堀江興

「東京都市計画高速道路調査特別委員会報告」

「首都高速道路公団法案参考資料」

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2018年2月11日 (日)

浅草十二階 凌雲閣の赤レンガ遺構(とみられるもの)を見てきた

 明治から大正期にかけての日本で最も高い建築物で、関東大震災で半壊し解体された「凌雲閣(りょううんかく)」の基礎部分とみられるれんがと、八角形のコンクリートの土台の一部が、東京都台東区浅草二のビル工事現場で掘り起こされた。「話には聞いていたが、初めて見た」と街の話題になっており、工事の柵越しにスマートフォンで撮影する人もいる。

 

東京新聞 2018年2月10日 朝刊

浅草12階 凌雲閣 (19)

 開業を伝える1890(明治23)年11月9日付朝日新聞掲載の広告

 早速私も行ってきて写真をTwitterにあげたところ沢山のリアクションをいただいた。

 なんで調子にのって早速ブログにUPしてみる。

 場所は、浅草花やしきの西側、ひさご通り商店街の「すき焼き米久本店」さんのところの角を西に入ったところ。幸信ビル(1階はラーメン屋さん)の交差点の南東側角。

浅草12階 凌雲閣 (16)

http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/images/002978781_o.html

東京市全圖 : 早見」1922(大正11)年・刊 国際日本文化研究センター・所蔵

浅草12階 凌雲閣 (17)

http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/images/004922845_o.html

東京市淺草區全圖 : 明治四十年一月調査」1907(明治40)年・刊 国際日本文化研究センター・所蔵

※上2つの国際日本文化研究センター所蔵の地図は右が北側。

浅草12階 凌雲閣 (6)

 ここが当該現場。写真を撮っている同好の士がいらっしゃる。

浅草12階 凌雲閣 (2)

 肉眼だと工事のフェンス越しとなってしまうので、カメラをフェンスの上からかざす形でみんな撮影している。

浅草12階 凌雲閣 (8)

 フェンスの上からだとこんな感じ。東京新聞の記事だと「基礎部分とみられるれんがと、八角形のコンクリートの土台の一部」とのことである。

浅草12階 凌雲閣 (12)

浅草12階 凌雲閣 (10)

浅草12階 凌雲閣 (11)

浅草12階 凌雲閣 (18)

 京都大学 デジタルアーカイブシステムhttp://das.rra.museum.kyoto-u.ac.jp/infolib/supsearch/defaultの「京都帝国大学工学部建築学教室35mmフィルム : 実写 関東地方大震災」の10分50秒過ぎに写った凌雲閣のレンガの壁と比べてどんなものだろうか?

浅草12階 凌雲閣 (13)

 この管は当時のものかな?違うかな?

浅草12階 凌雲閣 (4)

浅草12階 凌雲閣 (5)

 煉瓦のことはよく分からないので、お詳しい方でお気づきの点があればコメント欄にでも記入いただければ幸いです。

浅草12階 凌雲閣 (14)

浅草12階 凌雲閣 (15)

 ぼんやりしてよく分からないのだけれども、東京スカイツリーとも一緒に収めてみた。

浅草12階 凌雲閣 (1)

 南側のパチンコ屋さん(サンシャイン浅草店)の前に「浅草凌雲閣 記念碑」がある。

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(追記)

 新聞記事にも「「凌雲閣」の基礎部分とみられる」とあるように、断定するのは尚早ではないかとご指摘するツイートがあったので引用させていただく。(あわせて題名も修正した。)

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(追記その2)

 過去にも近くで発見されているようだ。そういう意味では、今回の発見は「世紀の大発見」というわけではなさそうだ。

浅草12階 凌雲閣 (20)

浅草12階 凌雲閣 (21)

1981(昭和56)年7月21日付読売新聞

 このときの発掘記録が「浅草六区 : 興行と街の移り変り 」台東区教育委員会 編 に掲載されている。

浅草12階 凌雲閣 (22)

浅草12階 凌雲閣 (24)

 また、「震災予防調査会報告. 第97号甲」には、凌雲閣の図面が掲載されている。

浅草12階 凌雲閣 (25)

 この辺を重ね合わせていくとこんな感じか。

浅草12階 凌雲閣 (23)

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※余談 杉並区南阿佐ケ谷駅付近に「阿佐ケ谷凌雲閣マンション」がある。

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2018年2月10日 (土)

TOKYO LITTLE HOUSE

TOKYO LITTLE HOUSE とは

東京・赤坂で築70年の民家を改修するプロジェクトです。

東京の喧騒の真ん中にあって、三世代にわたって家族の暮らしの場所として残されてきた赤坂の家。焦土の暗闇からネオンの光まで、文字通り歴史の明暗を見守ってきた家の記憶を、現在に開こうとするプロジェクトです。

https://www.facebook.com/TokyoLittleHouse/から引用

昨年12月にオープンした2階の宿泊施設に加え、いよいよ明後日より1階のカフェがオープンします。そこで、2/9(金)、10(土)、11(日)の3日間、約半年にも及んだ改修工事の完成を記念し、2階の内覧会を開催します!

カフェは東京のルーツをテーマにした小さな展示とライブラリーを併設、かつてこの都市に生きた人々が目にした風景をおさめた貴重書なども手にとってご覧いただくことができます。

そして最初の企画展は、第二次世界大戦後・占領期の東京や、米国立公文書館に収蔵されている写真の調査・研究を行ってきた佐藤洋一氏をキュレーターに招き、佐藤氏が近年進めている「東京零年」プロジェクトより、米軍によって撮影された敗戦直後の東京を題材とした写真の展示を行います。

コーヒーやビール、ソフトドリンク、焼き菓子を販売します。お時間のある方、ぜひこの機会に赤坂にお越しいただき、全館まるごとお楽しみください。

ということで、図々しく初日2月9日にお邪魔してきました。

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 コーヒーやビールをいただけます。私はビールを。。。

tokyo little house (1)

 「東京零年」プロジェクトの写真の展示の様子です。

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 本を展示している後ろの緑色の板は2階の雨戸だったとか。こんな感じで元の家の部材を活用しています。

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 元の家の図面。

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 2階の宿泊施設も見せていただきました。

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 外交官ナンバーのBMWが停まっている赤坂の夜の風景と古民家のギャップが。。。

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 階段を下りるのはちょっと怖い。

http://www.littlehouse.tokyo/

https://www.airbnb.jp/rooms/22035987

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«東京新聞福岡範行記者「首都高は『高速』にあらず?→『自動車専用道路』です」を検証する。