2018年5月20日 (日)

チコちゃんを叱ってみる「お年寄りをシルバーで呼ぶのは国鉄のシルバーシート由来なのか?」

 「骨まで大洋ファン」なので、大洋ファンつながりのチコちゃんは応援している。

 ところで、「チコちゃんに叱られる! #6」で

人生経験が豊富な岡村にチコちゃんが「なぜ高齢者のことをシルバーという?」と質問。「白髪が出てくるから」と答え、不正解だったので叱られた。正解は、「たまたま銀の布が残っていたから」。

国語辞典編纂者の飯間さんが解説。1974年発行の三省堂国語辞典にはシルバーに高齢・老人の意味はない。1973年に国鉄に登場した優先席「シルバーシート」が由来。実際に名付けた相談役の須田さんは当時のJR東海の社長。須田さんは名前について、必然的、ケガの巧妙と語る。

シルバーシート誕生について映像で紹介。1973年7月、国鉄では私鉄に逃れた私鉄から客を取り戻す策を考えていた。須田さんは、お年寄りの為のシートについて話題性がほしいと考え敬老の日から導入することを決定。約2ヵ月の期間で議論を開始するも赤字財政が続いており新しい座席は作れなかった。当時の新幹線に使われた銀の生地が残っており、座る部分だけを銀にしてシルバーシートとした。その後、私鉄・バスにも広がりシルバーが高齢者を表す代名詞となった。他の色が残っていればその色の名前になっただろうと須田さんがコメント。

https://tvtopic.goo.ne.jp/program/nhk/72821/1164188/

 参考までに「国有鉄道」1973年10月号によると下記のとおりとなっている。

チコちゃんに叱られるで、高齢者のことをシルバーというのはシルバーシート由来と言っていたが果たして (4)

 ところで、同じく国鉄が発行している「国鉄線」1973年3月号に気になる表現が載っている。

チコちゃんに叱られるで、高齢者のことをシルバーというのはシルバーシート由来と言っていたが果たして (3)

 これは、国鉄新潟鉄道管理局営業部販売センターの田辺恵三氏が書いた「5つの需要層に向け商品づくり ヨンナナからヨンパーへ売る営業の発展」という記事で、昭和48年度の国鉄の旅行商品の売り上げ促進策を報告しているものである。そこに「シルバーエイジ」という言葉が出てくるのである。内容としては明らかにお年寄りを指していると言えるのではないか?

 まあ同じ国鉄社内とはいっても当時の国鉄はそこんじょそこらの大企業よりもデカイ図体の組織なので、須田寛旅客局営業課長(当時)は、「国鉄線」なんて読んでいなかったかもしれない。

チコちゃんに叱られるで、高齢者のことをシルバーというのはシルバーシート由来と言っていたが果たして (1)

「交通年鑑 昭和48年」に掲載された国鉄職員名簿

 ところで、「国鉄線」の編集はどこでやってたかなんてえのを調べてみますと。。。

チコちゃんに叱られるで、高齢者のことをシルバーというのはシルバーシート由来と言っていたが果たして (2)

 営業課と同じ局内の国鉄旅客局総務課じゃないですか。

 「国鉄線企画編集委員会委員長」は、名簿では須田営業課長の二つ上に掲載されている八田総務課長じゃないですか。

 なら須田営業課長も読んでいるでしょうよ。シルバーシートを世に出す半年前に。

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 ということで、新幹線の座席の生地が余っていたかはともかくとして、

「シルバーシート以前に国鉄社内ではシルバーエイジという言葉を使っていたし、須田営業課長はそれを知っていた可能性は極めて高い」

ということは言えるのではなかろうか。

 国語学者であれば、この「シルバーエイジ」という言葉の由来等を当時の新聞や雑誌での用例あたりから調べるのだろうが、そこは専門家にお任せしますが。。。とりあえず言ってみたいので。。。

ボーっと生きてんじゃねえよ!

(参考)

https://togetter.com/li/1228829

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 せっかくなので、須田つながりで、ベイスターズの須田投手が昨年サヨナラ満塁ホームランを打たれたところでも貼っておきますかね。

須田ァ baystars (1)

須田ァ baystars (2)

須田ァ baystars (3)

ボーっと生きてんじゃねえよ!

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2018年4月 8日 (日)

「首都高をオリンピックに間に合わせるためには『空中作戦だ』」のアンビリバボーを検証してみる

 フジテレビの「奇跡体験!アンビリバボー」の2018年1月4日の放送で、「東京オリンピックをつくった男たちSP 首都高建設に挑んだ男たち」という題名で首都高速道路を東京オリンピックに向けて建設していく取り組みが放送されていた。

http://www.fujitv.co.jp/unb/contents/180104_2.html

魚拓https://megalodon.jp/2018-0317-1753-33/www.fujitv.co.jp/unb/contents/180104_2.html

 その中で気になる点が幾つかあったので検証してみたい。

 東京オリンピック開催のニュースが駆け巡った直後、東京都庁・都市計画部の職員たちは、青ざめていた。 戦後の目覚ましい復興とともに東京には車が溢れていた。 毎年、3万台近くのペースで増加、都心の道路は、至るところで大渋滞が発生していた。 そこでオリンピック開催が決まる6年前、政府は慢性的な渋滞を解消するため、総延長およそ49kmに及ぶ高速道路を張り巡らせる計画を立案。 東京都と建設省に実行するよう勧告を行った。

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (1)

 しかし、用地買収に難航し、計画は一向に進んでいなかった。

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (7)

そんな中、オリンピック開催が決定したのだ。 東京でオリンピックをやるとなれば、当然、開催期間中は世界中から選手や観光客が訪れる。 その数、実に4万人以上。 もちろん多くの日本国民も会場を訪れる。 連日、大渋滞が起きている東京にそれだけの人が1度に詰め掛ければ、都心の交通網は破綻。 オリンピックが失敗に終わるのは目に見えていた。

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (8)

 国民の悲願である東京オリンピックを絶対に成功させる…そのためには、高速道路を必ず完成させなければならかった。 しかし、実際問題、用地買収は一向に進んでいない。 計画は到底不可能に思えた。

 だが…既存の道路や川の上に道路を造れば、用地を買収しなくて済む。 この時、建てられた計画…『空中作戦』!それは、日本初の試みだった。

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (9)

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (10)

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (13)

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (14)

http://www.fujitv.co.jp/unb/contents/180104_2.htmlから引用

 テレビの粗筋はこんなところである。

 ・既存の高速道路計画は用地買収が難航して進んでいなかった

 ・そこに東京オリンピックが決まったが、これでは観客輸送が行き詰まる

 ・それを打破するために空中に首都高速道路を作ることにしてオリンピックに間に合わせようとした。

 ・これが「空中作戦」だ!

 

 果たしてそうなのか、検証してみよう。

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・「既存の高速道路計画は用地買収が難航して進んでいなかった」のか?

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (1)

 1958年に立案された首都高速道路の計画路線はこれである。

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (2)

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (3)

出典「首都高速道路建設に関する計画」東京都都民室首都建設部 1953年3月

 この道路は果たして用地買収に難航していたのか?

 アンビリバボーのいうとおりであれば、この道路網が事業化され、用地買収の予算もついて動き出していなければならない。公団もまだできていないのに?

 また、都内高速道路網計画については、首都建設委員会告示第12号によって5路線49粁の路線網が決定されているが、具体的実現方策について検討した結果、概ね8路線62.5粁の路線網を決定している。

 

「首都圏における地下高速鉄道と都内高速道路との総合的考察」 月刊「道路」1957年11月号 石塚久司(首都圏整備委員会事務局計画第二部長)著

 用地買収が難航したから計画が変更されたのではなく、「具体的実現方策について検討した結果」今の首都高速道路路線網に決定されたというのだ。そして変更結果がこの路線である。

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (4)

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (5)

 作成時期は、1957(昭和32)年12月、オリンピック開催が決まったのは、1959(昭和34)年4月であるから約1年半前となる。その割には、今の路線網とほとんど同じではないか?(箱崎ジャンクションが無いなど微妙に異なる)

 アンビリバボーでは、オリンピック決定後に首都高速道路公団が設立(6月)され、更にその後に首都高速道路の最初の都市計画が決定した(8月)としているのにどうしたことか。

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (15)

 確かに都市計画決定はオリンピック開催決定後の1959年8月だが、その原案は既に1957(昭和32)年12月に決まっていたのである。

 更に付言するなら、河川や道路の上を活用する方針は、1957(昭和32)年7月に決定していたのである。

 もうちょっと細かく説明するとこんな感じ。

(2)東京都建設局都市計画部案の策定

 首都建設委員会が、首都高速道路の新設について1953(昭和28)年4月建設省と東京都に勧告したのを受けて、東京都は独自の考えで高速道路の計画案の策定を進めた。 とりわけ、1955(昭和30)年12月 、東京都建設局都市計画部長に就任した山田正男は、様々な観点から精力的に職員を督励しながら東京都建設局都市計画部案の検討を したのである

(略)

(3)建設省の基本方針

 建設省は1957(昭和32)年7月20日 、「東京都市計画都市高速道路に関する基本方針」を決定した。これは、 かねてより東京における高速道路の必要性を重視していた建設省が、上記(2)で述 べた首都建設委員会の勧告を受けてまとめた東京都の原案をもとに、同委員会(当時は首都圏整備委員会に変わっている)と協議の上、作成したものである。

(略)

(4)東京都市計画高速道路調査特別委員会の設置

 建設省の基本方針が決定されてから半月後の同年8月5日、東京都市計画地方審議会は、高速道路の建設は急施を要する として、首都高速道路網計画の調査立案のため、同審議会の中に東京都市計画高速道路調査特別委員会を設置した。

(略)

 そして12月9日開催された東京都市計画地方審議会において会長東京都知事安井誠一郎に対し、東京都市計画高速道路調査特別委員会委員長金子源一郎は調査結果について報告をした。 これによって、東京都市計画都市高速道路網計画案が決定されるに至ったのである。

 

「東京の高速道路計画の成立経緯」堀江 興 https://www.jstage.jst.go.jp/article/journalip1984/13/0/13_0_1/_article/-char/ja

 河川や道路の上を活用する方針が、1957(昭和32)年7月に決定していたというのは下記の通りである。

首都高が河川を活用することはオリンピック決定よりずっと前に決定

 東京都の「東京都市高速道路の建設について」から引用。詳しくはhttp://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-c06b.html

オリンピックに関係なく首都高は川の上だった

 1957(昭和32)年9月29日付の読売新聞は、上記のように「都内に高架道路の網」「川の上や二階建」と報じている。

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (12)

 このシーンは、オリンピック開催決定後に演じられたのではないのだ。決定の1年半前なのだ。

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (14)

 この映像とは逆に「オリンピックに間に合わせること」と「空中に道路を架けること」とは全く別の問題であった。

 この眼鏡のおっさんは番組では「部長」と呼ばれていたことから、東京都の山田正男部長ではないかと推測される。

山田正男

 山田正男は実際にはこんな風に語っている。

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦

対談「東京都における都市計画の夢と現実」 「時の流れ都市の流れ」403頁

 ということで、「用地買収に難航していた首都高速道路を、オリンピックに間に合わせるために河川等の上に作るように変更した」というのは嘘確定。

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首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (11)

 では、山田正男は(時期は違うとしても)首都高速を河川等の上に架けることを「空中作戦」と本当に呼んでいたのだろうか?

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (13)

 「言ったことになっているけれども実際には言ってないんじゃないか」というのを調べるのは非常に困難だ。

 とりあえず、オフィシャルなものを当たってみる。

 ・「首都高速道路公団20年史」(山田氏を含めた対談「公団20年のあゆみとその展望」あり)→空中作戦なし

 ・山田正男の著書「時の流れ都市の流れ」「変革期の都市計画」→空中作戦なし

 ・山田正男のオーラルヒストリー「東京の都市計画に携わって : 元東京都首都整備局長・山田正男氏に聞く 」→空中作戦なし

 ・「21世紀の首都圏を考える ―そのかぎは道路づくりに―」(山田氏を含めた対談)「高速道路と自動車」1983年3月号→空中作戦なし

 ・建設時の首都高速道路公団の広報誌「首都高速」→空中作戦なし

 ・「オリンピックと山田正男」塚田博康・著(「シリーズ東京を考える 3 都庁のしくみ」都市出版・刊)→空中作戦なし

 どこにも「空中作戦」などという言葉は出てこない。

 当時の土木関係業界誌等に発表された首都高速関係の報文(末尾に記載)を見ても出てこない。

 

 ところがある時期以降「空中作戦」という言葉が出てくることが分かった。

 それは、NHKの「プロジェクトX」である。その名も「首都高速 東京五輪への空中作戦」(2005年4月5日放送)http://www.nhk-ep.com/products/detail/h16460AA

 オリンピック開催まで、期間はわずか5年。羽田空港から代々木までの限られた路線とはいえ、その間にビルがひしめく東京で、用地を買収して道路をつくることなどできるはずもない。これは「大パニック」になる。

(中略)

 そのときだった。悩む大崎たちのもとに、一人の男が現れた。都市計画部長の山田正男。とんでもないアイデアを出した。

「”空中作戦”はどうか」

 いままでにある道路の上や、街なかを流れる河川に沿って、その上に高架橋の道路をつくれば、用地買収の手間が一気に省ける。5年間の短い期間でも、渋滞が解消できるという前代未聞の作戦だった。

 

「プロジェクトX 挑戦者たち 28 次代への胎動」日本放送出版協会 74~75頁

 プロジェクトXでは、オリンピック開催決定後に山田正男が「”空中作戦”はどうか」と提案したことになっている

 既に述べたように、オリンピック以前に道路や河川の上に首都高速を作ることは決定されていたのでこれは眉唾である。フジテレビは、NHKの眉唾をコピペして番組を作ったのだろうか?

 この後に「空中作戦」を持ち出したのは、自称「首都高研究家」の清水草一氏である。

 首都高の建設ぶりを、世間は「空中作戦」と呼んだ。川や道路という公共用地の上の、文字通り「空中」に、みるみる高速道路ができていったからだ。しかし山田の空中作戦は、オリンピックに間に合わせるために急遽編み出したわけではなく、当初からの慧眼が、たまたまオリンピックという最高の舞台を得ただけだった。

 

「首都高速の謎」扶桑社・刊 清水草一・著  2011年 50~51頁

 清水草一氏によると「空中作戦」は山田正男が言ったのではなく、「世間が呼んだ」ということになっている。

 では、当方も関係者の書籍ではなく、世間が呼んだことの証跡を得るために、新聞を調べてみた。

 朝日新聞、毎日新聞、読売新聞、日本経済新聞を各オンラインデータベースで検索したが「空中作戦」では一つもヒットしなかった。また、国会図書館のデジタルアーカイブでも検索したが「空中作戦」では一つもヒットしない。

 東京オリンピックの舞台裏を描いた塩田潮氏のルポルタージュ「東京は燃えたか」にも出てこない。

 清水草一氏の言う「世間」はどの辺に証跡があるのだろうか。

 

 この後になってくると首都高の公式文書等でも「空中作戦」の言葉が見えてくる。

 工期短縮の特効薬となり、建物密集市街地対策にも適した工法として打ち出されたのが、高架を多用する「空中作戦」やトンネル利用の「地中作戦」だった。いずれも、用地買収などの苦労や工事費を減らせるメリットがあった。

 

「首都高物語: 都市の道路に夢を託した技術者たち」青草書房・刊 首都高速道路協会・著 2013年 96頁

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (23)

 江戸橋ジャンクションは、空中作戦といって橋梁では初めて「立体ラーメン構造」を採用し、橋脚本数を劇的に減らした。

 

「首都高速道路50年の歩み」橋本鋼太郎(土木学会顧問、元首都高速道路株式会社社長) 「東海道新幹線と首都高 1964東京オリンピックに始まる50年の軌跡」土木学会・刊 2014年 47頁

 この瞬間、「空中作戦」は土木学会と首都高速の公認の歴史となっちゃったのである。きっと私の調べが足りないどこかに「空中作戦」を証する根拠があるのだろう。

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 ところで、「空中作戦」という用語を使っている書籍がもう一つある。

東京の都市計画家 高山 英華」鹿島出版会 東秀紀 2010年

 山田の主張によって、首都高速道路公団が設けられ、一号線(羽田・中央区本町間)、四号線(日本橋本石町・代々木初台間)を中心とする約三十二キロの建設がオリンピック関連事業として建設されることになった。

「オリンピックまで、あとわずか五年しかない。果たして間に合いますか」

 国会に呼ばれて、そう議員から質問をされたとき、山田は傲然と答えた。

「絶対に間に合わせてみせます。見ていてください」

 山田には腹案があった。時間がないから、地権者たちの反対、土地買収などにかかわっている暇はない。だから、地権者たちに文句を言わせない方法をとる。

空中作戦だ

 日ごろ冗談一つ言わない上司の不可解な言葉に、部下たちは目を白黒させる。

「俺の言っている意味が分からないのか」

 山田はわざとうんざりして言った。皆の戸惑いが、実のところ、いまは心地よい。

「既設の道路、運河の上を通せ。下は公共の土地だから、誰も文句はいえないよ」

「果たして、そんなことができますか。実例は海外にありますか」

「じゃあ、君たちはどうしたらオリンピックに間に合わせられるんだ」

 大声で怒鳴ると、部下たちは従うしかなかった。部下だけではなく、安井の後任である東龍太郎都知事も、そして「影の知事」といわれ、実際の都政を仕切っている鈴木俊義副知事も少し首を傾げはしたものの了承した。

 こうして「空中作戦」は実行された。高速道路はまるで鉄でできた大蛇のように、東京の都心をのたうち回り、時には三回も四回も交差しながら、ビルの間を通り抜けた。

 生きた河川や由緒ある日本橋の上を高速道路が屋根のように通る形になったのも、この時である。

 

「東京の都市計画家 高山 英華」東秀紀 253~254頁

 とても臨場感あふれる記述である。しかし、これには出典が明記されていない。この本は巻末に参考文献という形でまとめられているのだが、個別に脚注がついているわけではないので容易に証跡をあたることができないのである。

 ところが、時系列で考えると、どう見てもこの東秀紀氏の記述はおかしい。

 改めて整理してみよう。

1953(昭和28)年4月28日 首都建設委員会が高速道路網の新設を建設省及び東京都に対して勧告。

1957(昭和32)年7月20日 建設省が「東京都市計画都市高速道路に関する基本方針」を決定。経過地の選定に不利用地、河川、運河等を利用することを定めた。

1957(昭和32)年8月5日 東京都市計画地方審議会に、高速道路調査特別委員会を設置。東京都が作成した街路、河川等を利用した首都高の原案の審議検討を開始。

1957(昭和32)年12月9日 東京都市計画高速道路調査特別委員会が、東京都市計画地方審議会長 安井誠一郎(東京都知事)あてに東京都市高速道路網計画を報告。

1958(昭和33)年1月22日 東京オリンピック準備委員会・設立準備委員会及び第1回総会開催。

1958(昭和33)年4月 国会でオリンピック東京招致決議案を可決(衆議院15日、参議院16日)

1958(昭和33)年12月5日 建設大臣が、東京都市計画街路に都市高速道路を追加決定するための案件を東京都市計画地方審議会に付議。

1958(昭和33)年12月10日 東京都市計画地方審議会が一部を留保して原案どおり議決。

1959(昭和34)年1月30日 首都高速道路公団法が閣議決定され国会へ提出。

1959(昭和34)年2月25日 日本道路公団が西戸越~汐留間の工事に着手。(後に首都高に移管)

1959(昭和34)年4月8日 首都高速道路公団法成立(同14日公布・施行)

1959(昭和34)年4月23日 安井誠一郎都知事の後任に東竜太郎氏(IOC委員)が当選。

1959(昭和34)年5月26日 東京オリンピック開催決定

1959(昭和34)年6月12日 鈴木俊一氏(前・内閣官房副長官)が東京都副知事(オリンピック担当)に就任。 

1959(昭和34)年6月17日 首都高速道路公団発足

1959(昭和34)年8月7日 東京都市計画地方審議会で保留部分につき原案どおり議決。

 本稿で何度も申し上げているように、東京都などが首都高速道路について河川等を利用した路線網を計画したのは、東京オリンピック招致決定前である。また首都高速道路公団法が成立したのは東京オリンピック開催決定前である。そして東竜太郎氏が都知事に、鈴木俊一氏が副知事に就任したのはその後である。

 一般的には、1959(昭和34)年4月にオリンピック開催決定→6月に公団発足→8月に都市計画決定という流れで語られるため、それを基に東秀紀氏の「東京の都市計画家 高山 英華」を読んでいると「ふーーん」と読み過ごしてしまうところだが、まともに都市計画の歴史をおっていくと、(「空中作戦」と言ったかどうかは別にして)、オリンピック決定後に東竜太郎知事や鈴木俊一副知事が首都高速道路網について意思決定を下す場面は出てこないはずである。(前任の安井知事時代に殆ど手続き済みであった。首都公団の設立にしても都市計画の最終的な決定にしても全て安井知事時代のレールに乗ったものである。)

 更に、東秀紀氏は「少し首を傾げはしたものの了承した」と書くが、これは東知事や鈴木副知事が「空中作戦」について不本意であったようなことをうかがわせるものだが、東知事の前職はIOC委員、鈴木副知事の前職は官房副長官であり、首都高速計画について知らなかったわけでもなかろう。いやむしろ熟知しているはずである。東秀紀氏は、何を根拠にしてこのくだりを書いたのか是非ご教示いただきたいものである。

 東秀紀氏は、鈴木俊一副知事の名前を「俊義」と書くような人(単なる誤植ではなくわざわざ「としよし」とフリガナをふっている。)だから、東京都の都市計画の歴史についてはよく分かっていない人なので、首都高速道路の経緯とオリンピックの経緯についてはよく整理できてないのは仕方がないし、そもそも知識がない可能性もあるのだが、上記の年表は、「東京の都市計画家 高山 英華」の379頁に参考文献としてあげられている堀江興氏の「東京の幹線道路に関する史的研究」の235~251頁の記述を基にして作成したものである。知らないはずがない。(参考文献にあげただけで読んでいない可能性は否定できないが。)

 他にも気になる記述がある。

 山田には腹案があった。時間がないから、地権者たちの反対、土地買収などにかかわっている暇はない。だから、地権者たちに文句を言わせない方法をとる。

「空中作戦だ」

 

「東京の都市計画家 高山 英華」東秀紀 253頁

 「かかわっている暇はない」「文句を言わせない」こんな高圧的なことを山田正男は言っていたのだろうか?今回調べた文献ではそんな不遜な言葉は見つけられなかった。(山田氏自身は不遜なんだろうなという記述は幾つもあったがw)

 参考までに、東京オリンピック開催決定前の国会での審議(1958(昭和33)年4月10日衆議院建設委員会)http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/028/0120/02804100120023a.html)での関連する答弁を見てみよう。

○藤本参考人 経過地に当っては不利用地、治水、利水上の支障のない河川、または運河を使用して、やむを得ざる場合だけが幅員40mの道路に設置する、建前としては道路上には設置しないように(略)

 物件移転費という欄の一番下の欄をごらんいただきますと、878という数字が出ております。これは移転棟数の合計でございます。これだけの事業をいたしますのに、移転棟数がともかく千棟以下であるという点については、やはりできるだけ民有地あるいは民家というような面において御迷惑を少くするという配慮をいたした一つの現われだと存ずるのであります。

 藤本勝満露東京都建設局長の答弁は「文句を言わせない」という態度ではないと思われるが如何であろうか。

首都高研究家清水草一の日本橋関連の嘘

 あれ?オリンピック開催決定前に河川を利用した首都高計画に地元が文句を言っているぞ?おかしいですね。東秀紀センセ。

 

 他にも判然としない記述がある。

「オリンピックまで、あとわずか五年しかない。果たして間に合いますか」

 国会に呼ばれて、そう議員から質問をされたとき、山田は傲然と答えた。

「絶対に間に合わせてみせます。見ていてください」

 

「東京の都市計画家 高山 英華」東秀紀 253頁

果たしてそのような答弁がなされているのか?

 国会議事録http://kokkai.ndl.go.jp/で山田正男が答弁している部分を検索してみる。

山田正男の国会答弁

 「あとわずか5年しかない」というだけあって、該当する会議は、昭和34年8月10日の衆議院建設委員会であろう。

 その議事録は、http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/032/0120/03208100120004a.htmlである。

 皆さん「絶対に間に合わせてみせます。見ていてください」もしくは、それに類する発言は読み取ることができたであろうか?「傲然」な態度は読み取れただろうか?どうやら私の読解力では無理であるようだ。

 

「既設の道路、運河の上を通せ。下は公共の土地だから、誰も文句はいえないよ」

「果たして、そんなことができますか。実例は海外にありますか」

 

「東京の都市計画家 高山 英華」東秀紀 253頁

 海外の事例については、「欧米の高速道路と首都高速道路」西畑正倫 「新都市」15巻3号や「東京都の都市交通と首都高速道路」西畑正倫「高速道路」1960年3月号によると、アメリカはボストンのCentral Arteryや、サンフランシスコのEmbarcadero Freeway等を研究していたようだ。

 下記は、当時の業界誌に掲載されたボストン市内の高架道路の様子である。首都高っぽい。

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (24)

 東京都立図書館では、当時の首都高速道路公団担当者が研究したと思われる海外の都市の報告書が閲覧できるのでご関心のある方は是非。

 

 東秀紀氏は当時首都大勤務で東京都の生データも見ることができる立場だったと思われるのだがこれはどうしたことか。おまけに、都市計画史が専門と自称しているではないか。

 また、出版元も鹿島出版会ということで、編集者もそれなりの方がいらっしゃると思うのだがどうなんだろう。

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(追記)

 この記事をUPした翌日に注文していた本が届いた。

「私の都市計画生活 -喜寿を迎えて-」山海堂 鈴木信太郎・著

 鈴木信太郎氏は、元東京都都市計画局技監で、山田正男と一緒に東京都で仕事をしてきた方である。 山田正男と共著で「東京都市計画都市高速道路計画の計画諸要素について 」を土木学会誌1960(昭和35)年8月号に発表しているというこの問題を語るにふさわしい方である。

 そこに東京オリンピックと首都高の関係について明快に書いてあった。(35頁)

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (25)

 文中、「山田さんの発言もあったように」とは下記のこと。(27頁)

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (26)

 「東京の都市計画家 高山 英華」の参考文献にこの本はあげられていない。

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(参考文献:順不同→いずれも「空中作戦」という記述はない

首都高速道路事業のあらまし

伸びゆく首都高速道路

「東京都市計画都市高速道路網計画」岩出進 「新都市」 12巻6号

「東京の都市高速道路の其後」岩出進 「新都市」13巻2号

「東京都市高速道路のあれこれ」 「新都市」 13巻6号

「首都高速道路公団の使命」神崎丈二 「新都市」 15巻3号

「首都高速道路公団の歩み」美馬郁夫 同上

「欧米の高速道路と首都高速道路」西畑正倫 同上

「首都高速道路の実施に関連する問題点」五十嵐醇三 同上

「首都高速道路の構造について」矢内保夫 同上

「首都高速道路工事の進捗状況」細貝元次郎 同上

「首都高速道路の将来」河野正三 同上

「首都高速道路の用地の諸問題」大塩洋一郎 同上

「オリンピック関連街路の建設とさらに続ける”道造り”」石井興良 「新都市」 18巻9号

「首都高速1・4号線(オリンピック関連)の完成まで」広瀬可一・菊田聰裕 同上

「オリンピックと天皇賜杯の感激に寄せて(三宅坂インターチェンジの工事概要」尾崎一宣 同上

「オリンピック東京大会と道路交通」広川楡吉 同上

「都市における高速道路計画に就て」町田保 「道路」1954年1月号

「首都圏における地下高速鉄道と都内高速道路との総合的考察」石塚久司 「道路」1957年11月号 

「東京における交通問題解決の現段階」山田 正男、鈴木信太郎 「道路」1957年11月号

「東京の都市高速道路計画;首都高速道路公団の発足」小林忠雄 「道路」1959年4月号

「日本橋及び江戸橋周辺の高速道路について」西野祐治郎、前田邦夫 「道路」1961年6月号

「首都高速道路のインターチェンジの線形計画について」 「土木技術」17巻2号、3号、4号、5号

「首都高速道路の計画」大塚全一 「高速道路」1959年3月号

「東京都の都市交通と首都高速道路」西畑正倫「高速道路」1960年3月号

「首都高速道路の技術上の諸問題(1)」村山幸雄、菊田聰裕「高速道路」1960年5月号

「首都高速道路の技術上の諸問題(2)」橘高元「高速道路」1960年6月号

「首都高速1・4号線の開通に当って」西畑正倫「高速道路と自動車」1964年9月号

「思い出すままに」中島武 同上

「開発と保存の調整された首都高速1号・4号」五十嵐醇三 同上

「首都高速道路の生いたちとこれから」村山幸雄 同上

「首都高速1・4号線の概要」黒木清和 同上

「首都高速道路以前の構想をめぐって」新谷洋二 「高速道路と自動車」1979年7月号

「首都高速道路の路線計画に関する史的研究(前編)」新谷洋二 「高速道路と自動車」1980年1月号

「首都高速道路の路線計画に関する史的研究(後編)」新谷洋二 「高速道路と自動車」1980年3月号

「首都高速道路」鈴木信太郎 「土木学会誌」1988年6月号

「首都高速道路の設計および施工概要」 「土木技術」22巻4号

「首都高速道路のインターチェンジ」 同上

「首都高速道路建設に関する計画」東京都都民室首都建設部 1953年3月

「オリンピックと山田正男」塚田博康 「シリーズ東京を考える 3都庁のしくみ」都市出版・刊

「道路網の整備」堀江興 「シリーズ東京を考える 5都市を創る」都市出版・刊

「東京の都市計画」大崎本一 鹿島出版会・刊

「回想・地方自治五十年」鈴木俊一 ぎょうせい・刊

「未完の東京計画」石田頼房編 筑摩書房

「東京都市計画物語」越沢明 日本経済評論社・刊

「日本の首都 江戸・東京 都市づくり物語」河村茂 都政新報社・刊

「江戸東京まちづくり物語」田村明 時事通信社・刊

「東京は燃えたか 黄金の60年代」塩田潮 講談社・刊

「オリンピック・シティ東京 1940・1964」片木篤 河出書房新社・刊

「首都高速道路のネットワーク形成の歴史と計画思想に関する研究」古川公毅

「東京の幹線道路に関する史的研究」堀江興

「東京都市計画高速道路調査特別委員会報告」

「首都高速道路公団法案参考資料」

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2018年2月11日 (日)

浅草十二階 凌雲閣の赤レンガ遺構(とみられるもの)を見てきた

 明治から大正期にかけての日本で最も高い建築物で、関東大震災で半壊し解体された「凌雲閣(りょううんかく)」の基礎部分とみられるれんがと、八角形のコンクリートの土台の一部が、東京都台東区浅草二のビル工事現場で掘り起こされた。「話には聞いていたが、初めて見た」と街の話題になっており、工事の柵越しにスマートフォンで撮影する人もいる。

 

東京新聞 2018年2月10日 朝刊

浅草12階 凌雲閣 (19)

 開業を伝える1890(明治23)年11月9日付朝日新聞掲載の広告

 早速私も行ってきて写真をTwitterにあげたところ沢山のリアクションをいただいた。

 なんで調子にのって早速ブログにUPしてみる。

 場所は、浅草花やしきの西側、ひさご通り商店街の「すき焼き米久本店」さんのところの角を西に入ったところ。幸信ビル(1階はラーメン屋さん)の交差点の南東側角。

浅草12階 凌雲閣 (16)

http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/images/002978781_o.html

東京市全圖 : 早見」1922(大正11)年・刊 国際日本文化研究センター・所蔵

浅草12階 凌雲閣 (17)

http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/images/004922845_o.html

東京市淺草區全圖 : 明治四十年一月調査」1907(明治40)年・刊 国際日本文化研究センター・所蔵

※上2つの国際日本文化研究センター所蔵の地図は右が北側。

浅草12階 凌雲閣 (6)

 ここが当該現場。写真を撮っている同好の士がいらっしゃる。

浅草12階 凌雲閣 (2)

 肉眼だと工事のフェンス越しとなってしまうので、カメラをフェンスの上からかざす形でみんな撮影している。

浅草12階 凌雲閣 (8)

 フェンスの上からだとこんな感じ。東京新聞の記事だと「基礎部分とみられるれんがと、八角形のコンクリートの土台の一部」とのことである。

浅草12階 凌雲閣 (12)

浅草12階 凌雲閣 (10)

浅草12階 凌雲閣 (11)

浅草12階 凌雲閣 (18)

 京都大学 デジタルアーカイブシステムhttp://das.rra.museum.kyoto-u.ac.jp/infolib/supsearch/defaultの「京都帝国大学工学部建築学教室35mmフィルム : 実写 関東地方大震災」の10分50秒過ぎに写った凌雲閣のレンガの壁と比べてどんなものだろうか?

浅草12階 凌雲閣 (13)

 この管は当時のものかな?違うかな?

浅草12階 凌雲閣 (4)

浅草12階 凌雲閣 (5)

 煉瓦のことはよく分からないので、お詳しい方でお気づきの点があればコメント欄にでも記入いただければ幸いです。

浅草12階 凌雲閣 (14)

浅草12階 凌雲閣 (15)

 ぼんやりしてよく分からないのだけれども、東京スカイツリーとも一緒に収めてみた。

浅草12階 凌雲閣 (1)

 南側のパチンコ屋さん(サンシャイン浅草店)の前に「浅草凌雲閣 記念碑」がある。

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(追記)

 新聞記事にも「「凌雲閣」の基礎部分とみられる」とあるように、断定するのは尚早ではないかとご指摘するツイートがあったので引用させていただく。(あわせて題名も修正した。)

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(追記その2)

 過去にも近くで発見されているようだ。そういう意味では、今回の発見は「世紀の大発見」というわけではなさそうだ。

浅草12階 凌雲閣 (20)

浅草12階 凌雲閣 (21)

1981(昭和56)年7月21日付読売新聞

 このときの発掘記録が「浅草六区 : 興行と街の移り変り 」台東区教育委員会 編 に掲載されている。

浅草12階 凌雲閣 (22)

浅草12階 凌雲閣 (24)

 また、「震災予防調査会報告. 第97号甲」には、凌雲閣の図面が掲載されている。

浅草12階 凌雲閣 (25)

 この辺を重ね合わせていくとこんな感じか。

浅草12階 凌雲閣 (23)

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※余談 杉並区南阿佐ケ谷駅付近に「阿佐ケ谷凌雲閣マンション」がある。

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2018年2月10日 (土)

TOKYO LITTLE HOUSE

TOKYO LITTLE HOUSE とは

東京・赤坂で築70年の民家を改修するプロジェクトです。

東京の喧騒の真ん中にあって、三世代にわたって家族の暮らしの場所として残されてきた赤坂の家。焦土の暗闇からネオンの光まで、文字通り歴史の明暗を見守ってきた家の記憶を、現在に開こうとするプロジェクトです。

https://www.facebook.com/TokyoLittleHouse/から引用

昨年12月にオープンした2階の宿泊施設に加え、いよいよ明後日より1階のカフェがオープンします。そこで、2/9(金)、10(土)、11(日)の3日間、約半年にも及んだ改修工事の完成を記念し、2階の内覧会を開催します!

カフェは東京のルーツをテーマにした小さな展示とライブラリーを併設、かつてこの都市に生きた人々が目にした風景をおさめた貴重書なども手にとってご覧いただくことができます。

そして最初の企画展は、第二次世界大戦後・占領期の東京や、米国立公文書館に収蔵されている写真の調査・研究を行ってきた佐藤洋一氏をキュレーターに招き、佐藤氏が近年進めている「東京零年」プロジェクトより、米軍によって撮影された敗戦直後の東京を題材とした写真の展示を行います。

コーヒーやビール、ソフトドリンク、焼き菓子を販売します。お時間のある方、ぜひこの機会に赤坂にお越しいただき、全館まるごとお楽しみください。

ということで、図々しく初日2月9日にお邪魔してきました。

tokyo little house (5)

tokyo little house (3)

tokyo little house (2)

 コーヒーやビールをいただけます。私はビールを。。。

tokyo little house (1)

 「東京零年」プロジェクトの写真の展示の様子です。

tokyo little house (17)

 本を展示している後ろの緑色の板は2階の雨戸だったとか。こんな感じで元の家の部材を活用しています。

tokyo little house (16)

 元の家の図面。

tokyo little house (4)

 2階の宿泊施設も見せていただきました。

tokyo little house (8)

tokyo little house (6)

tokyo little house (11)

tokyo little house (9)

tokyo little house (13)

 外交官ナンバーのBMWが停まっている赤坂の夜の風景と古民家のギャップが。。。

tokyo little house (10)

tokyo little house (14)

tokyo little house (7)

tokyo little house (12)

tokyo little house (15)

 階段を下りるのはちょっと怖い。

http://www.littlehouse.tokyo/

https://www.airbnb.jp/rooms/22035987

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2018年2月 4日 (日)

東京新聞福岡範行記者「首都高は『高速』にあらず?→『自動車専用道路』です」を検証する。

 前回の「佐々木俊尚氏の「高速道路は基本100kmh制限です」ツイートを整理してみる」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2018/02/100kmh-4ecd.htmlに続いて、高速道路の最高速度に関する記事である。

【TOKYO発】首都高は「高速」にあらず? 「自動車専用道路」です

 

「首都高速は『高速道路』ではありません」。警視庁が昨年末から、謎かけのような呼び掛けを道路上やネット上で続けている。名前は「高速」。料金もかかる。違反車を取り締まるのも「高速隊」。それなのに高速道ではないとは? 理由を探ってみた。

文・福岡範行

http://www.tokyo-np.co.jp/article/thatu/list/CK2018012202000159.html

 

 2018(平成30)年1月22日付東京新聞に上記のような記事が載っていた。

 東京新聞のウェブサイトでは全文は読めないが、なぜか販売店のウェブサイトでは読めるようになっている。http://seibuhanbai.com/column/1%E6%9C%8831%E6%97%A5%E3%80%80%E9%A6%96%E9%83%BD%E9%AB%98%E3%81%AF%E3%80%8C%E9%AB%98%E9%80%9F%E3%80%8D%E3%81%AB%E3%81%82%E3%82%89%E3%81%9A%EF%BC%9F/

 一応魚拓もとっておく。 http://gyo.tc/1JXuj

ざっくりまとめると

・首都高速道路は「高速道路」なのに制限速度が50km/hの区間も多い。何故か?

・そもそも高速道は「高速自動車国道」と「自動車専用道路」に分けられ、首都高は後者。

・設計速度も高速自動車国道の大半は80~120km/hだが、首都高など大都市や山間部は60km/hと定められている。

・首都高の生い立ち(東京五輪のため完成を急ぎ川の上などにルートを設定した結果、カーブが多い)にも起因。

・あくまでも「高速」だが首都高は実体が伴わない。

といったところか?

 記事中紹介のあった「警視庁が最近配ったチラシにも「首都高は『高速道』ではない」と書いてあった。 」とは、下記のチラシのことか。

http://www.keishicho.metro.tokyo.jp/kotsu/jikoboshi/torikumi/kotsu_joho/sogo.files/20171127.pdf

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 まずは、基礎的なデータから。

 国土交通省のウェブサイトに掲載された資料http://www.mlit.go.jp/road/ir/ir-council/syutokou/06/02.pdfによると、首都高速道路の設計速度と規制速度は下記のとおりである。

(設計速度と規制速度の違いは、http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2018/02/100kmh-4ecd.htmlを参照のこと。)

首都高速の最高速度 (2)

首都高速の最高速度 (1)

 そして、「道路構造令の解説と運用」日本道路協会・刊126頁に掲載された高速自動車国道及び自動車専用道路の設計速度は下記のとおりである。

高速道路の速度9

 ここでいう「2種2級」が、首都高速道路の設計速度60km/hの区間の規格なのである。

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 ということであれば、「何もお前が東京新聞福岡範行記者の記事をとやかくいう必要はねえじゃねえか」ということであるが、ではこの60km/hの制限は首都高速道路の計画が立てられた際に「道路構造令」に定められていたのだろうか?

 旧道路構造令の制定当時(33年8月)、我が国で初めての高速道路である名神高速道路の計画が検討中であったが、高速道路に関する知識も乏しく、構造令の規定はもっぱら一般国道などに関する事項となっていた。

 

「首都高速道路公団20年史」63頁

 福岡範行記者は「首都高など大都市の都心部や交通量の少ない山間部は60キロと法令で定められている。」と記事に書いているが、首都高の当初計画時にはその「法令(道路構造令)」には都心部の自動車専用道路についての定めはそもそも無かったのである。それは理由にはならないのではなかろうか?

 というか、仮に「大都市の都心部や交通量の少ない山間部は60キロと法令で定められている。」というのが先に定められていたにせよ、「どうして道路構造令は都心部は高速自動国道と異なり60キロに定めたのか?」という理由・思想を書かないとダメなのではないか?「60キロに定めたから60キロなんだ」では、堂々巡りになるのではないか?

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 どういう経緯で60km/hになったのか整理してみる。

 東京都が1959(昭和34)年に発行した「東京都市高速道路の建設について」には下記のとおり書かれている。

首都高が河川を活用することはオリンピック決定よりずっと前に決定

 

 福岡範行記者は「1964年の東京五輪を目指し完成を急ぎ、用地買収の必要がない曲がりくねった川の上などにルートを設定した結果、カーブが多くなった。」と書くが、オリンピック開催決定(1959年)の前の1957年に既に「設計速度は1時間60キロを原則とする」とし、「つとめて不利用地、河川又は運河を使用する」と決めているのである。

オリンピックに関係なく首都高は川の上だった2

 1957(昭和32)年8月16日付朝日新聞に当初の路線の原型が掲載されている。

 なお、この辺の経緯は、以前「首都高はオリンピックに間に合わせるために河川上に作ったというのは嘘と言ってよいのではないか」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/--bdc4.htmlという記事にまとめているので、興味のある方はお目通しいただきたい。

 また、オリンピック後に建設された7号小松川線や、3号渋谷線の国道246号上の部分が60km/hとなっていることもこれでは説明できないのではなかろうか?

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 福岡範行記者が首都高速が「60キロ以下制限が大半」である理由とする

・60キロと法令で定められている

・東京五輪を目指し完成を急ぎ、用地買収の必要がない曲がりくねった川の上などにルートを設定した結果、カーブが多くなった。

について、このブログを見ていただいている皆様はどのようにお感じになるだろうか?

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 では、福岡範行記者が書いていない「どうして首都高速道路が60km/hとなったのか」についての思想について深堀してみよう。

二 東京都市高速道路の性格

 此の高速道路は主として東京都内の外周部一帯から発生して、都心部に流入する膨大な都市内交通量に短時間で、円滑に処理するために、一般の街路とは分離して設けられる平面交叉のない自動車専用の高速道路である。簡単に申せば、都市内交通のための高速道路であり、能率的な都市内の平面交差点のない立体道路である。それ故高速道路網の組み方も主要な放射幹線を各方面(八方向)に配置してあるのである。東京の高速道路も各都市間を連絡する、遠距離道路との連絡も一応考えてはいるが、あくまでもそれが主目的ではないのである。したがって諸外国において既に数多く建設されている所謂高速道路とは大分趣を異にしておるのである。

三 東京都市計画都市高速道路網計画

 東京の全般的交通処理方策にもとづき、この都市高速道路は環状六号線以内の平面の幹線道路の交通能力を補うのが目的であって、高速度そのものが直接の目的ではない。いわば交差点のない道路をつくろうということである。したがって、設計速度は60粁/時度とした。

 

東京の都市高速道路の其後」 新都市1959年1月号 岩出進(東京都建設局都市計画部技術課計画第二主査・当時)

※旧漢字は引用者が修正した。

 いかがであろうか?もういっちょいこう。

 都市高速道路という高速道路は、 これは名神高速道路とか東名高速道路とかいう高速道路とは違うのであります。 スピードをあげるための高速道路ではないのであります。先ほども申し上げましたように、平面の道路だけでは処理できないから、土地を空間的に使う,立体的に使うわけです。そのための道路です。また平面の道路は交通能率が非常に悪い。悪いのは交差点があるからだ。そこで交差点を立体化しよう。ところが都市内の交差点は連続しておりますから、一連の連続している交差点を立体化してみたところが、 これは高架の道路になった。あるいは掘割式の道路になったというのが都市高速道路であります。そこで私どもはこんな道路にスピードを期待する必要がないわけでございます。時間的スピードはもちろん期待はしておりますが、物理的な速度は期待する必要がない。そこで設計速度平均 60 km とこういうことにいたしておりますが、もう一つこの都市高速道路の特長となることは、これは長距離の高速道路と違いますから、長距離を短時間で結ぶのではなくて、その道路の流域から最能率的に交通をそこに吸収することが使命でございます。道路を作りましても、使わない道路を作っても能はないわけでございます。なるべく使い易くしてやる必要がある。首都高速道路の計画をごらんになりますと、曲りくねっている。これはまあ、まっすぐに作りにくい市街地がすでにできておることもございますが、曲った方がそれだけ流域面積がふえるわけでございます。道路の流域面積がふえるということは道路利用価値が上がるということです。そういう意味で もっとも曲がっていることをはずかしいとは思っていないわけでございます。曲がった方がいい場合が多々あるわけです。

 

「東京都の都市計画について」昭和38年トヨペットマネジメントスクールにおける講演要旨 「時の流れ・都市の流れ」 山田正男(東京都整備局長・当時)

 長いよ、読めねえよと怒られそうなのでシンプルなやつもいっとこう。

 市街地に於いては主要な交叉点を立体化しようとすれば、結局高架の道路となる。従ってこの都市高速道路は、名古屋-神戸間の高速自動車国道のような長距離的な道路とは根本的に違う。これは平面街路の交通能力の不足を補うものである。従ってスピードも100キロ、120キロを要求する必要はなく、60キロで結構だと思う。

 「都市高速道路を中心とした東京都の道路政策」昭和33年 「時の流れ・都市の流れ」 山田正男(東京都整備局長・当時)

 如何であろうか?福岡範行記者の記事を読んだときのモヤモヤ感は解消していただけただろうか?

 福岡範行記者は「あくまでも「高速」だが実態が伴わない首都高」と書くが、実際に計画を担当していた東京都の技術者にとっては、首都高に求める「実態」が、機能が「東名高速や中央道、東北道など」とはそもそも違っているということなのだ。

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 福岡範行記者は、「もうひとつ、首都高が「高速」と異なる点がある。道路の右側の出入り口が多いことだ。」とも書いている。

 しかし、「なぜ首都高は右側の出入り口が多いか?」には触れていない。

 日本道路協会が発行する「道路用語辞典」で調べてみた。

センターランプ

 どうやら高架道路が接続する街路の幅員、交差点との関係、交通状況によっては、道路の中央に設けなければならないということである。

 「東名や東北道などでは、出入り口は基本的に左側」なのは、接続する街路の幅員、交差点との関係、交通状況に制約されることが少ないからということであろうか。

 いや、事実を並べて違うというだけではなくて、こういう違う理由を調べて読者に伝えることが新聞記者にとって大事なんじゃないの?

 なお、上記の文献は、東京新聞のある日比谷から地下鉄日比谷線ですぐ行ける都立中央図書館にあることを申し添える。

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2018年2月 3日 (土)

佐々木俊尚氏の「高速道路は基本100kmh制限です」ツイートを整理してみる

 togetterで「高速道路で追い越し車線を90Kmくらいで延々とのんびり走ってる車の後ろについた場合どうすべきか「諦める」?「追い越す」?」https://togetter.com/li/1195319というまとめを読んだ。

 本筋の諦めるか追いこすかはここでは触れない。気になったのは「高速道路における法定速度について」の項のところ。

 「90キロは法定速度超過だ」とか「そうじゃない」とか各種ツイートがまとめられているなかで、佐々木俊尚@sasakitoshinao氏がこんなツイートをしている。

 ええっ。それは正しい断面もありつつも非常に誤解を招くツイートではないのか?

 少し古い統計なのだが、警察庁が公表しているものがあるので見てみよう。

高速道路の速度

https://www.npa.go.jp/bureau/traffic/seibi2/kisei/mokuteki/kiseisokudo/pdf/H18houkokusyo.pdf

「警察庁委託調査研究 平成18年度 規制速度決定の在り方に関する調査研究 報告書」 から

 もう10年ほど前の資料となり、詳細については変更されていると思うが、この段階では規制速度が100km/hが最高の区間と同じくらい80km/hの区間があるように見える。

 佐々木俊尚氏は「世の中には高速道路の最高速度が80kmhぐらいと思い込んでる人が案外多いのではないでしょうか」とツイートしているが、実際には相当の割合の区間の規制速度が最高速度80km/hなんである。

 ちょいとこの辺を順をおって整理してみる。

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 まずは、道路交通法の世界から整理してみる。

 道路交通法を所管する警察庁のウェブサイトに「高速自動車国道等における最高速度規制について」というPDFがUPされている。http://www.npa.go.jp/koutsuu/kikaku/jidounten/kentoiinkai/02/shiryou3.pdf

高速道路の速度2

 高速自動車国道等の最高速度は道交法第22条第1項道交法施行令第27条に基づいて定められている。

高速道路の速度3

 これが佐々木俊尚氏がいう「高速道路は基本100kmh制限です。」の根拠なのだろう。「法定速度」ということに限ればそれで正解である。しかし冒頭に示したグラフにあるように実際には相当の80km/hの区間がある。

高速道路の速度5

警察庁「交通事故抑止に資する取締り・速度規制等の在り方に関する懇談会 速度規制等ワーキンググループ検討状況中間報告資料」から引用。

https://www.npa.go.jp/koutsuu/kikaku/regulation_wg/2/shiryou5.pdf

 詳細はよく分からないけど、道路の構造や交通事故の発生状況等を踏まえて個別に定めていくということだろう。この作業を踏まえて、都道府県公安委員会が実際に高速道路に建てられる速度規制標識の具体の数字が定まっていくわけだ。それによって、一律100km/hではなく、80km/hや70km/hの区間もできてくる。

※例えば千葉県内の高速道路の規制速度は下記のように定められている。

http://www.police.pref.chiba.jp/kotsukiseika/traffic-safety_revision-speed_limit.html

(参考)高速道路における100km/hを超える規制速度の試行開始について

http://www.npa.go.jp/koutsuu/kikaku92/shinntoumei.pdf

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 ここまでは警察の役割について述べてきた。しかし実際に高速道路を作るのは、各道路会社(旧道路関係公団)だったりする。ここからは、国土交通省(旧建設省)のサイトから関係資料をUPしてみる。

「道路構造令について」から引用

http://www.mlit.go.jp/road/sign/pdf/kouzourei_full.pdf

 高速自動車国道や一般国道等の道路法に定められている道路の構造は、道路構造令において規定されている。

高速道路の速度6

高速道路の速度7

 道路の種類を大きく4つに分けている。高速道路は「高速自動車国道及び自動車専用道路」として第1種(地方部)か第2種(都市部)に分類される。更に地形や交通量によって細分化された区分ごとに道路構造令第13条において120km/hから50km/hの間で設計速度が定められる。

高速道路の速度9

道路構造令の解説と運用」日本道路協会・刊126頁から引用

 ちなみに設計速度は下記のように定義づけられている。

高速道路の速度10

 具体的には、各道路の整備計画において定められている。下記は、外環道の関越道~中央道の間の区間の整備計画である。http://www.mlit.go.jp/road/ir/ir-council/kansen/20090427.htmlから引用。

高速道路の速度11

 全国の高速自動車国道の設計速度を一覧できる資料としては、やや古いが日本道路公団の年報がある。国会図書館のアーカイブに平成15年版の年報が掲載されているのでそこからピックアップしてみよう。http://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/236639/www.jhnet.go.jp/publish/nenpou/H15/pdf/4-03.pdf

 110km/hの試行が話題になっている新東名高速道路の設計速度は下記のとおりである。

高速道路の速度12

 一方、中央自動車道の設計速度は、下記のとおりほとんどが80km/hであり、一部都内区間では60km/hの区間もある。

高速道路の速度13

 以上のところを読んでいただけると

というツイートはちょっと大丈夫ですかねえという私の危惧もご理解いただけるんではないかと。

 

(参考)首都高速道路の設計速度と規制速度は下記PDFをご参照あれ。

http://www.mlit.go.jp/road/ir/ir-council/syutokou/06/02.pdf

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 ところで、

 とあるように、「高速道路(高速自動車国道)と自動車専用道路は異なっていて、最高速度も異なっている。(自動車専用道路の方が劣る)」と思われているようなフシがある。

 道路構造令で見れば

高速道路の速度6

高速自動車国道及び自動車専用道路は大きくひとくくりにされて同じ規格を適用されているし、

高速道路の速度9

「道路構造令の解説と運用」でも若干の違いはあるものの大きな違いには見えない。

 冒頭に紹介したhttps://www.npa.go.jp/bureau/traffic/seibi2/kisei/mokuteki/kiseisokudo/pdf/H18houkokusyo.pdf

「警察庁委託調査研究 平成18年度 規制速度決定の在り方に関する調査研究 報告書」では、自動車専用道路の設計速度と規制速度は下記のように紹介されている。

高速道路の速度14

 自動車専用道路でも100km/h規制は普通にあるのが分かる。

 なお、設計速度60km/hの道路が高速自動車国道に比べて多いのは、ここに首都高速道路や阪神高速道路が含まれるからである。

 実際に圏央道(高速自動車国道ではなく、一般国道468号の自動車専用道路)の規格はどうなっているjかを、高速道路債務返済機構のウェブサイトにUPされた資料で見てみる。http://www.jehdra.go.jp/pdf/kyoutei/k1002_1.pdf

高速道路の速度15

高速道路の速度16

 道路構造令の第1種第2級で設計速度100km/hである。高速自動車国道に比べて遜色はない。

 こういったツイートについても、上記を読んでいただければ判断できるであろう。

 高速道路の最高速度は100km/hとか80km/hとか決めつけで思い込まないで、都市部なのか山地なのか等によって変わってくることを念頭に規制標識に気を付けることが重要だと思われる。

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※次も高速道路の速度関係の記事を書いたので是非!

「東京新聞福岡範行記者「首都高は『高速』にあらず?→『自動車専用道路』です」を検証する。」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2018/02/post-f8a8.html

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2018年1月27日 (土)

首都高速の工事中に首相官邸から東条英機が作った防空壕が出てきた

 今回は秋庭大先生ぽい「帝都の地下」ネタである。それも大先生の大好きな「首相官邸の地下」である。

 まあ、題名のとおりでそれ以上でもそれ以下でもないのだが。

 首都高速道路公団の広報誌「首都高速」のバックナンバーを見ていたら「秘密のヴェールをぬいだ防空ごう」の題字が飛び込んできた。

場所は

である。

 首相官邸の南側が擁壁となってその下を首都高速道路都心環状線が走っている。ここを切り開く際に防空壕が発掘されたというのだ。

首都高工事時に首相官邸から防空壕が発掘された (2)

 この記事のキャプションを転記してみる。

  都心と渋谷を結ぶ高速3号線(延長6.30キロメートル)の建設工事は、その1部をオリンピックまでに完成するためいま急ピッチで工事を進めていますが、3月25日午後、永田町の首相官邸裏の工事現場にぽっかりと大穴があいた。

---縦1.8メートル、横2.26メートル、厚さ0.5メートルで固められた防空ごうはがんじょうそのもの。昭和17年に東条英機首相が空襲したの閣議用に建築した防空ごうあとだということ。

---官邸の食堂わきにある入口かららせん状の階段を下りて地下20メートルのところに閣議室(40平方メートル)が中央廊下をはさんで3室づつ6室、浄化装置、自家発電装置も完備されている。250キロ爆弾の直撃でも大丈夫だそうだが、これをこわすのがひと仕事。「東条さんも大変なものを残してくれたものです」と作業員はぼやいていた。

首都高工事時に首相官邸から防空壕が発掘された (3)

首都高工事時に首相官邸から防空壕が発掘された (4)

 

 同じく首都高速道路公団の「首都高速」No47(1965年6月15日発行)において、公団の担当者が当時の工事を振り返っているのだがそこでも首相官邸の防空壕について触れられている。

首都高工事時に首相官邸から防空壕が発掘された (1)

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 同様の戦争遺構は他でも発見されている。皇居の北の丸を横断する箇所でも防空壕が工事の支障となっていた。

首都高工事時に首相官邸から防空壕が発掘された (5)

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 それなら参謀本部があった三宅坂インターチェンジ(ジャンクション)はもっとどでかいものが出てきそうである。

首都高工事時に首相官邸から防空壕が発掘された (6)

 しかしながら「首都高速」の別の号によると「図面が消失してしまい地下の埋設管が分からなかった」とだけある。地下に何が埋まっているかわからないまま東京オリンピック開催に間に合わせるためにあの巨大な地下ジャンクション工事を発注していたということだ。(なおこういう場合にありがちなことだが、用地買収もしていないうちに発注している。)

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(参考)

山田正男「宮城外苑地下道計画案に就いて」

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/post-6c82.html

 以前の記事では、戦前の皇居前広場にいざというときには地下防空壕になる地下自動車道の計画があったことにも触れているのであわせてご覧いただければ幸甚である。

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(追記)

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2018年1月10日 (水)

「夢の超特急」は、国鉄社内からの「新幹線なんかできっこない」とバカにする気持ちを込めた蔑称だった

 講談社の「現代ビジネス」というウェブサイトに、川口 マーン 惠美氏が「ドイツ版新幹線がお披露目した「夢」のようなポンコツっぷり」という記事を寄稿した。

 私はドイツの新幹線には関心がないのでスルーするとして、文中「東海道新幹線の構想が公にされたのは1957年。しかし当時は、鉄道は過去の交通機関で、これからは飛行機と自動車の時代という風潮が強く、「できないもの、無用のもの」という揶揄を込めて、「夢」の超特急と呼ばれていたという。」という記載に対して、鉄道趣味者の方から「初耳だ」「ソースを出せ」「どうせマスコミが(ry」といったリアクションが見受けられた。

 

 私は天邪鬼なので、「じゃあソースを探してみるか」とちょいと探したら、すぐ出てきた。

 

 国鉄幹線調査室調査役から新幹線局営業部長等を歴任した角本良平氏はこう語っている。角本氏は、中公新書「東海道新幹線」等の著書もある。

高嶋 「夢の超特急」という言い方はいつごろ出てきたんですか。

角本 最初だと思います。誰がつけたか、私は知らない。だけど、最初のころでしょう。これは2つ意味があって、「夢の」というのは「どうせできっこない」ということです。営業局の人たち、彼らは「どうせできっこない」と思っていた。実際に予算がついて、建設が始まってからも、非常に多くの営業局マンは、そう思っていた。ということは、我々、期限を切っているでしょう。「そんな期限でできるはずはない」と。実際は半年期限延びたわけですから。

二階堂 「新幹線自体が永久にできるわけない」ということではなくて、「そんなに早くできるわけがないということ。

角本 そうそう、そういう意味。それからそんなに速い速度のものができるわけがない」と、そんな意味もあったと思います。ですから、篠原研究所長、それから海軍出身の技術屋、皆それを実際にやったことがないから、「そんなのできるだろうか」という疑問でしょうね。営業から言えば。

二階堂 「できっこない」と思っていたのは営業局、という認識が、角本さんのなかで強いわけですね。

角本 私は、そう思っています。

 

角本良平オーラル・ヒストリー」交通協力会・刊

 「できないもの」と揶揄して夢の超特急と呼んでいたのは、マスゴミではなくて最初から国鉄社内だったということだ。

 角本良平氏一人のコメントだけでは不十分かもしれない、角本氏と同時期に幹線調査室の総括補佐を務めていた矢田貝淑朗氏のコメントも見てみよう。

幹線調査室

中村 幹線調査室が発足した段階では、もちろん予算もついていなければ、計画も雲を掴むようなものであった、と。

矢田貝 もう何もなかったはずです。私が行ったときですら、ほとんど何もありませんでしたから。「弾丸列車、夢の超特急、速度が凄いらしいが、矢田貝さん、そんなことできるの?」とどこへ行ってもそうだったのです

中村 その段階ではもう、時速200キロという数字は出ていましたか。

矢田貝 出ておったんです。だから「夢の超特急」という言葉があったんです。これはそんなことできるわけがない」という意味の「夢」で、部内でバカにされるときの言葉なんです。そろそろ幹線調査室から幹線局になる頃にも、有名な作家で「万里の長城、戦艦ヤマトと並ぶ大バカだ」と言ったのがおったじゃないですか。

二階堂 阿川弘之です。

矢田貝 そうだ。そうやって笑い物にされたり、バカにされたり、「普通の鉄道なら地方に利益もあるだろうが、田んぼに万里の長城を造られたって困る」という雰囲気だったんですよ。そういうときですから。

矢田貝淑朗オーラル・ヒストリー」交通協力会・刊

 角本氏は「国鉄営業局が」と語っているが、矢田貝氏は「どこへ行ってもそうだった」「部内でバカにされる」と語っている。

 川口 マーン 惠美氏の肩を持つつもりもないし、余計な詮索をするつもりもないが、ジャンピング土下座を自主的にやった方がよい方もいらっしゃるのではないか。

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2018年1月 8日 (月)

シン・ゴジラと条文の書き方

 今更「シン・ゴジラ」ネタでもないかもしれないのだが、一点野暮なネタでも。

シン・ゴジラと条文の書き方 (1)

 ゴジラに対して自衛隊をどういう理屈で出動できるのかを関係各省の官僚が議論するシーンがあり、そこに自衛隊法の条文がだーっと出てくる

 私は法律をちょこっと齧ったことがあるので、この字面のレイアウトが気になった。

シン・ゴジラと条文の書き方 (2)

 正確に書くならこうである。

 シン・ゴジラの出来には満足しており、ケチをつけるつもりは毛頭ないのだが、「せっかくならこの辺も気合入れてくれると約1名が喜びましたよー」というだけである。

 あ、でもそれを分かっていたうえで、「例のフォントで画面いっぱいに文字を埋め尽くすことの様式美」を追求した可能性もあるな。それならそれで美しいかもしれない。

 

 ちなみに、読み方はこうなる。

シン・ゴジラと条文の書き方 (3)

 時々、「76条の一」とか「76条の2」といった書き方・読み方をする方が見受けられるが、「アラビア数字の2」は「第2項」であり、「漢数字の二」は「第二号」という決めである。

 「第1項のアラビア数字の1は無いのか?」という方もいるかもしれないが、「日本の法令の書き方では、通常、第1項の1は書かないが、私企業の社内文や契約書では書いてもいいんじゃないの?」ということになる。

 この際覚えていただけるとおじさんは嬉しい。

 

 ついでに書くと、マイクロソフトワードで「項」、「号」の条文を書くときにスペースを入れて調整する人がいるが、それをやると修正するときに一字ずつずらさなければならなくなるので大変うっとおしいし、ミスを誘発する可能性もある。

シン・ゴジラと条文の書き方 (5)

 「行間のオプション」を選択し、

シン・ゴジラと条文の書き方 (4)

 「インデント」を設定するとうまくいくぞ。

 ゴジラとは全く関係なくなってしまった。

 ちなみに私は、郵研社の「公文書作成の手引」を愛用しています。

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2018年1月 6日 (土)

京葉道路と首都高7号小松川線の境界はどこだ?

 今年は、ガンガンと道路ネタで攻めていきたいと思いますので宜しくお願いします。

 

 さて、表題のようにNEXCO東日本のE14京葉道路と首都高速道路7号小松川線は接続しているのだが、そこの境界はいったいどこでしょうか?というチビネタが今回の話題。

京葉道路と首都高小松川線

 上記は、NEXCO東日本のドラぷらから引用してきた路線図だが、ICやJCTといった施設で明確に区切られているわけではない。

 で、各種地図サイトを見るとこれがバラバラなのだ。

 ※著作権的には、地図サイトの画面をキャプチャしてUPすることはアウトですが、各地図の内容を検証し、よりよいものにするための提言を行うための最小限の作業ということでお許しください。

 

 まずは、googleである。

googlemap

 首都高一之江~京葉道路篠崎間は、全て京葉道路という扱いであり、更に一之江から都心側にも京葉道路の表記がある。

 次いで、ヤフー!である。

Yahoo

 ヤフー!も、首都高一之江~京葉道路篠崎間は、全て京葉道路という扱いである。

 そして、ゼンリンのいつもNAVIである。

itsumonavi

 ゼンリンもgoogle、ヤフー!と同様に、首都高一之江~京葉道路篠崎間は、全て京葉道路という扱いである。尤も、google、ヤフー!ともに、地図のベースはゼンリンなので同じ結果であってもおかしくはない。

 

 こちらもゼンリンをベースにしているNVITIMEである。

navitime

 やはり同様の結果である。

 ではMapionはどうか。

Mapion

 Mapionも、首都高一之江~京葉道路篠崎間は、全て京葉道路という扱いである。ゼンリンの地図をベースにしているとみんな同じなのだな。当然か。

 次は、カーナビベースのMapfanである。

mapfan

 今までと違って、首都高一之江~京葉道路篠崎間は、全て首都高速という扱いである。

 衆知を集めて作られているはずのOpenstreetmapはどうか?

openstreetmap


大きな地図を表示

 こちらも、首都高一之江~京葉道路篠崎間は、全て首都高速という扱いである。ルートマーカーの「7」が篠崎をこえて江戸川まで入っているのが気になるが。

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 というわけで、地図会社には大きく2つの表記があるようだ。

 では、本家首都高速道路株式会社の地図ではどうなっているのか?

 「首都高ナビマップ(路線概略図)」http://www.shutoko.jp/use/network/navimap/の頁からダウンロードできる地図を見てみよう。

syutoko

 こちらも、首都高一之江~京葉道路篠崎間は、全て首都高速という扱いである。

 ということで、取りまとめてみるとこんな感じ。

keiyou_syutoko1

 ということで、「正解はMapfanとopenstreetmapでした!」パフパフパフ~  

 

とならないのが俺の性格である。こんな簡単なことなら記事にはしないのだ。

 

 首都高速道路株式会社のサイトには、「首都高最終出口のご案内」http://www.shutoko.jp/use/network/jct/exit/という頁がある。「首都高の終点に一般道路への出口がない(他の高速道路のみに接続している)場所をご案内します。」という趣旨だ。

 そして、この頁の真っ先に登場するのが「【谷河内】(7号小松川線下り→京葉道路接続)」である。

yagouti

 一之江出入口と篠崎ICの間に出入口のない「谷河内」が接続点だということである。

 NEXCO東日本のサイトではどうか?「首都高速7号小松川線 一之江 ~ 京葉道路 原木IC間 夜間通行止めのお知らせ」http://www.e-nexco.co.jp/pressroom/press_release/kanto/h26/1219b/には、下記のような図面が掲載されている。

01

 数字が若干違うけど、中間地点にて区分が違うようになっていることが分かる。

 つまり、こういうこと。

keiyou_syutoko2

 大丈夫か、首都高ナビマップ。

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 現地にそれらしい標識等はないのか?

 まずは、上り線都心方面に向かう区間に、「ここから首都高速道路」の標識と「0キロポスト」がある。

 逆に、下り線都心から千葉方面へ向かう区間には「ここから京葉道路」の標識と「0キロポスト」がある。

 よく見ると中央分離帯のガードレールや遮音壁の形態もその前後で異なっている。

京葉道路起点

 場所は、ここ。ここが江戸川区谷河内なんである。ここが首都高速道路7号小松川線とE14京葉道路との本当の境界なのである。首都高ナビマップと違って。

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 なぜ、こんな中途半端なところが境界なのか?

 ここからは、私の推測である。

 そこには、京葉道路の成り立ちが関係あると思われる。

京葉道路当初路線図

 これは「道路公団年報」(1958年刊行)に掲載された京葉道路の路線図である。

 京葉道路は、もともと、日本道路公団による、江戸川区一之江から船橋までの一般有料道路として1960年に開通し、途中に一つ料金所があるだけだった。現在の無料区間はその名残であろう。

 一之江橋のたもとには、今でも「京葉道路終点」の標識と「0キロポスト」がある。

 先ほども紹介したNEXCO東日本のサイトに掲載された路線図で「首都高区間1.5km」とされた赤い部分の上部にある緑の線が京葉道路の現在は無料で一般道路とは違いが分からないのだけれども、現在もNEXCO東日本によって管理されている区間である。参考→http://www.jehdra.go.jp/pdf/hoyu/h027.pdf

01

 この京葉道路の後に、首都高速小松川線が建設された(1971年開通)。そこで、もともと日本道路公団の京葉道路の敷地であった部分(谷河内から篠崎まで)はそのまま京葉道路として日本道路公団が建設・管理することとなったのではないか?

 その結果、江戸川区谷河内という出入口も何もないところに京葉道路と首都高7号小松川線の境界ができたのではなかろうか?

 以上、推測終わり。

 ということで、地図会社各位におかれましては、表記方法をご検討いただければ宜しいのではないかと。。

 特に自動運転等の技術においては、デジタルマップの役割は大きいので。

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(追記)

 「こんなのは一般道路利用者には関係なくて、オタクだけしか気にしないんじゃないの?」という趣旨のレスポンスを頂戴しました。

 細かいことを言い出しますとですね、首都高速は、ETC車に従前の均一料金から対距離制の料金制度を導入した際に、従来は無料というか料金に変動はなかった「一之江~京葉道路接続部(谷河内)」にもその距離分の料金を設定したのである。

首都高7号線の距離

http://www.jehdra.go.jp/pdf/kyoutei/k1004_8.pdfから抜粋。2.1km分料金が違うのだ。

 そういった意味でも、料金トラブルを防ぐために、正確に表示することで一般道路利用者に寄与する部分もあるのではないかと思う。

(追記終わり)

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 他の道路でも同様の問題は多発している。

 ※中央自動車道と首都高速道路4号新宿線の境界は環状八号線だが、googlemapの表記は実際とは異なっている。

首都高と中央道の位置が違う地図

 現地に行くとこんな誤った地図が表示されていたりする。(まさにここで中央道反対運動を展開していたにもかかわらず!)

 データの持たせ方がうまくいっていないんだろうなあ。ICやJCTの分岐点にしか代表点を持たせられない仕組みになっていて、本線の途中で切り替える現実に対応できていないのかなあ。

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