2019年8月13日 (火)

古市憲寿氏「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール 五輪に間に合わせた急ごしらえの代償」を検証する。

 文春新書から「昭和の東京12の貌」という本が出ている。
 この本の編集方針は下記のとおりである。

平成31年は、天皇陛下が退位して皇太子が新天皇に即位し、5月からは新しい元号になります。また、翌年には2回目の東京五輪が開催されます。一回目の東京五輪は昭和39年に開催され、それを契機に昭和後半の日本は高度経済成長の波に乗り、経済大国の道を突き進みました。しかし、平成に入ると、バブルが崩壊し、政治や社会の様々な歪みが顕著となってきました。この間、日本の首都・東京はどのように変貌を遂げたのか。
本書は、月刊『文藝春秋』で連載した「50年後の『ずばり東京』」から、主に東京の街の変遷を描いた12本の記事を選んで収録しました。毎回違うノンフィクション作家が自身で取材するテーマや街を選び、リレー形式で執筆したもので、昭和と平成という二つの時代を筆者が行き来するルポルタージュです。


https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784166612000

 その12本の記事のトップバッターが、古市憲寿氏「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール」である。

 本当に1964年のオリンピックは「成功」だったのだろうか、と。もちろんあのオリンピックの功績が多いことは否定しない。
 しかし、東京という街を中心に考えてみると、あのオリンピックが残した「負の遺産」は思いの外多いのである。そして、オリンピック「成功」の陰に隠れて、大きな不利益を被った人々も決して少なくなかったのである。

 

「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール」古市憲寿・著(文春新書)10頁

 

 古市氏は、こう切り出しつつ、副題にある「首都高とモノレール」に加え、東海道新幹線に対して「東京オリンピックに間に合わせて交通インフラを整備したかったという当時の事情もわかる」としつつ、「五輪に間に合わせた急ごしらえの代償」として、「より理想的なルート」がとれなかった、

 もしも東京オリンピックまでに開通という目標がなければ、東海道新幹線はより理想的なルートを通っていた可能性がある。そうすればとっくに新大阪まで2時間くらいで行けたのではないだろうか?

 

「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール」古市憲寿・著(文春新書)25頁


 とし、同様に首都高の日本橋上の高架や都心環状線の片側2車線の構造を「オリンピックの負の遺産」と指摘し、それらをキーとして、新旧東京オリンピックに係る日本、東京の世相をとりまぜて批評している。


 社会学者が世相を描き、評価するのは、私の専門外だし、とやかくいうところではないが、そのイントロになっている「首都高速道路や東海道新幹線が、オリンピックに間に合わせるために急ごしらえとなったため、理想的でないルート、構造となっており、オリンピックの負の遺産となっている。」という部分については、いち「ドボクマニア」としてモノ申したい。

 

 

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 「首都高速道路や東海道新幹線が、東京オリンピックに間に合わせた急ごしらえで建設されたために理想的でないルート、構造となっている」という説は、今の日本でも割と広く支持されており、首都高の日本橋を覆う高架橋や新幹線の最短である鈴鹿峠を迂回した関ケ原ルート(それに伴う新幹線の雪害)について批判的に評価されることが多い。


 しかし、結論を言うと「首都高速道路や東海道新幹線が、東京オリンピックに間に合わせた急ごしらえで建設されたために理想的でないルート、構造となっている」という説は、事実ではないと言えよう。


 「昭和の東京12の貌」が単なるエッセイであれば「そういう人もいるよねー」でよいのだが、「ノンフィクション作家」による「ルポルタージュ」ということであれば、とりあえず一次資料を並べることで、諸兄のご判断を仰ぎたいところである。

目次

1-1 東海道新幹線は「五輪に間に合わせた急ごしらえ」なのか?鈴鹿峠はオリンピックに間に合わないから関ケ原経由になったのか?


1-2 新幹線が鈴鹿峠を断念して関ケ原経由となったのは、「五輪に間に合わせた急ごしらえ」だからなのか?


1-3 東海道新幹線の工期5年は「五輪に間に合わせた急ごしらえ」なのか?


1-4 東海道新幹線にカーブが多いのは「五輪に間に合わせた急ごしらえ」に伴う「負の遺産」なのか?


2-1 首都高速は「五輪に間に合わせて急ごしらえ」した「負の遺産」なのか?


2-2 首都高が川の上を曲がりくねって走ることは、「五輪に間に合わせた急ごしらえ」たことに伴う「負の遺産」なのか?


2-3 「空中作戦」という用語は「ルポルタージュ」「ノンフィクション」に耐えられるのか?


2-4 首都高都心環状線が片側2車線しかないため渋滞することは、「五輪に間に合わせた急ごしらえ」に伴う「負の遺産」なのか?


2-5 首都高の速度制限が低いのは、「五輪に間に合わせた急ごしらえ」に伴う「負の遺産」なのか?


3 結論


4 東京モノレールは「五輪に間に合わせた急ごしらえ」による「負の遺産」なのか?

 

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1-1 東海道新幹線は「五輪に間に合わせた急ごしらえ」なのか?鈴鹿峠はオリンピックに間に合わないから関ケ原経由になったのか?

 

 

 もしも東海道新幹線の開業がもう少し遅かったら、違う未来があったのかもしれない。
 現在の新幹線は名古屋を出たあと、関ヶ原まで北上した後で京都へと進む。実は当時、関ヶ原を経由せずにそのまま京都を目指す鈴鹿ルートが検討されたことがあった。しかし技術力と工期の都合で断念されてしまう。
 そもそも東海道新幹線はカーブが多く、それが所要時間短縮を阻む一因となっている。
(中略)ここ最近はあまり速くなっていないのだ。
 もしも東京オリンピックまでに開通という目標がなければ、東海道新幹線はより理想的なルートを通っていた可能性がある。そうすればとっくに新大阪まで2時間くらいで行けたのではないだろうか?

 

「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール」古市憲寿・著(文春新書)25頁

 個人的には、「関原」じゃなくて「関原」だろうがと言いたいところだが、今回はそれがネタではないのでスルーして、この古市氏の文を検証していく。

 

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1-2 新幹線が鈴鹿峠を断念して関ケ原経由となったのは、「五輪に間に合わせた急ごしらえ」だからなのか?

 

 これを信じている方は結構多い。例えば、ネットでも「新幹線 鈴鹿峠 オリンピック」で検索すると、下記のような記事がヒットする。それも大手マスコミだ。


五輪前の開業へ、鈴鹿越えを断念

 

 名古屋から大阪まで、新幹線がどんなルートを取るかは、戦前の弾丸列車構想の時代から議論されてきた。最短ルートは名古屋から西へ進み、鈴鹿山脈を越えて草津付近に出るコースだったが、鈴鹿山脈を越えるには12キロメートルの長大トンネルを掘らなければならず、しかも地下水が多いことから極めて難工事となることが予想された。
1964(昭和39)年の東京オリンピックまでの開業にはとても間に合いそうになく、このルートは断念された

 代わって注目されたのが、関ケ原を越えるルートだ。名阪間には、鈴鹿山脈と伊吹山地という2つの険しい山が立ちはだかっている。関ケ原は、2つの山脈の間にたった1カ所開いた谷だった。鈴鹿山脈越えよりも10キロメートル以上距離が長くなるが、工期と確実性が優先された。

 

東洋経済ONLINE「新幹線「利用者数最少駅」は、なぜできたのか」栗原景
https://toyokeizai.net/articles/-/141928

 ほら「関ヶ原」じゃなくて「関ケ原」だよね。(だから今回はそこじゃない。)
 天下の東洋経済がオリンピックに間に合わせるために鈴鹿峠を断念したとの記事を掲載している。

 では、実際に工事を担当した国鉄の記録ではどうなっているのか?


 ネットで気軽に閲覧できるものとしては、伊崎晃氏の「国鉄新幹線関ケ原ずい道の地質」があげられよう。

 伊崎氏は、執筆時は鉄道技術研究所地質研究室勤務で、戦前では朝鮮海峡トンネル、戦後では青函トンネル等数多くのトンネルの調査に携わった技術者だ。東海道新幹線の路線選定にあたっての現地の地質調査も担当している。

1.  ルート決定のいきさつ

 国鉄の東海道新幹線は,計画当初名古屋-京都間のルートをいかにとるかについて,非常に大きな比較問題に直面した。すなわちここを最短距離で結べば標高1000m級の鈴鹿山脈をどこかで大トンネルにより横断しなければならず,これを避けて低処を越えるとすれば,北方へ関ケ原付近まで迂回する外ない。

 そこで昭和33~34年頃図上でいろいろルートを検討したり現地で地質の概査を行って比較研究した結果,鈴鹿越えの主ルートと目されていた御池岳~鈴ケ岳付近を貫くトンネルは多くの断層に遭遇する上,伏流水に富んだ石灰岩の部分が多いので,多量の湧水が予想され,また南方の八風峠ルートは地形上片勾配の長大トンネルとなるため工期的に非常な難点のあることが明らかとなった。

 一方関ケ原付近も大きく見れば地質的には鈴鹿主脈と大差がないが,トンネル延長が比較的短かくてすむこと,および北陸方面との連絡に至便(米原で)なため,結局ここが最終案として本決りとなった次第である。

 

「国鉄新幹線関ケ原ずい道の地質」 伊崎 晃・著「応用地質」 Vol. 4 (1963) No. 4 199~200頁
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjseg1960/4/4/4_4_199/_pdf

 ほら「関ヶ原」じゃなくて「関ケ原」だよね。(もうええっちゅうの。)


 「北陸方面との連絡に至便(米原で)」と書いてある。古市氏の言うような「技術力と工期の都合」だけではなく、「北陸方面と米原で連絡する」という目的もあって関ケ原経由となったのである。
 仮に「東京オリンピックまでに開通という目標が」なかったとしても、「北陸方面との連絡」が判断材料としてある以上は、やはり関ケ原経由となったのではないか?
 
 ググるだけでなく、ちゃんと図書館に行って、国鉄が発行した東海道新幹線の工事史もあわせて見てみよう。

東海道新幹線が鈴鹿峠を通らない理由

 名古屋-京都間を直線で結べば標高1,000m級の鈴鹿山脈越えとなるのであるが、(中略)工期的に非常な難点のあることが明らかになった。一方関ケ原附近も地質的には鈴鹿越えと大差はないが、ずい道が比較的短くすむこと及び北陸との連絡に至便なことから、結局ここが最終案として本決まりになった。こうして全線の基本ルートが定められ、33年8月幹線調査事務所の発注によって航空写真測量が開始されたのである。

 

「東海道新幹線工事誌 名幹工篇」日本国有鉄道名古屋幹線工事局 編


 確かにここでも「北陸との連絡に至便」とある。さらに見逃せない一文がある。


 「こうして全線の基本ルートが定められ、(昭和)33年8月幹線調査事務所の発注によって航空写真測量が開始されたのである。」
 ご存知のとおり、東京オリンピック開催が決定されたのは、1959(昭和34)年である。

そして、1958(昭和33)年8月に「全線の基本ルートが定められ」たとなれば、「鈴鹿峠をやめて関ケ原ルートに決定したのは、東京オリンピック開催決定前」である

 国会ではどのように答弁されているのか?

東海道新幹線鈴鹿峠を止めて関ケ原経由にした理由

 名古屋と関が原と申しますか、米原の間のルートにつきましては、実は、昭和三十三年の夏ごろから、まだ正式に新幹線をつくるかつくらないかきまる前から、航空測量だけはいたしておりました。航空測量の結果、ルートといたしましては、名古屋から鈴鹿峠を越えまして京都に入るルート、もう一つ、それと非常に近いところで、名古屋から八風と申しますところを通りましてやはり京都に抜けるルート、もう一つは、濃美平野を真横に横切るルート、この三つのルートを航空測量で大体測量いたしまして、このいずれにすべきかということを検討したわけでございますが、前二者につきましては、非常にトンネルが多く、工事も非常にむずかしいということで、事務当局といたしましては、前二者を捨てまして、もっぱら濃美平野を横断するという案で具体的な検討を進めてまいったわけでございます。その後、昭和三十四年になりまして、徐々に東海道新幹線の問題が予算化され、また、各地におきまして地上の測量を開始したわけでございます。http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/046/0514/04606020514020.pdf

 1958(昭和33)年に航空測量をして、鈴鹿峠は捨てて関ケ原経由とし、1959(昭和34)年から予算が付いたので地上の測量を始めたと磯崎国鉄副総裁(当時)が答弁している。やはりオリンピック決定前に鈴鹿峠は捨てられているのであった。


 古市氏の言うような「東京オリンピックまでに開通という目標」があろうがなかろうが、「米原での北陸線への連絡」を考慮しつつ、オリンピック開催決定前に鈴鹿峠ルートは断念されていたということである。


 東海道新幹線が最短距離である鈴鹿峠を経由しなかったことは、少なくとも古市氏の言うような「五輪に間に合わせた急ごしらえの代償」ではないことが明らかになったと言えよう。
 
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1-3 東海道新幹線の工期5年は「五輪に間に合わせた急ごしらえ」なのか?


 
 東海道新幹線が5年余りの工期で東京オリンピック開催直前に開通したことから「東海道新幹線の工期はオリンピック開催に合わせて決定された」と考えている方はそれなりにいらっしゃるようだ。
 実際の経緯をおってみよう。

官報に載っていた新幹線電車予想図


1958(昭和33)年8月ということで、東京オリンピック開催決定前の官報である。
ここに、新幹線計画に着手した「日本政府公認」の理由が書いてある。


 曰く「昭和36、7年頃には東海道線の輸送に行詰りが生ずる。したがって、早急に、新たな鉄道路線を建設する必要がある。」と。東京オリンピック開催のためではなく、「(東京オリンピック開催前である)1961、2(昭和36、7)年頃にはに東海道線の輸送が行き詰まるので新線が必要だ。」という理由なのである。


 そして、1958(昭和33)年7月の国鉄幹線調査会の答申で、「工期は概ね五ヶ年で完了」とされている。
古市憲寿氏東京五輪負の遺産 (6)
https://www.digital.archives.go.jp/das/image/M0000000000001176706

新幹線工期 (1)


新幹線工期 (2)

 


 なお、答申に添付された「幹線調査会第二分科会報告」では、「新規路線の工期は、現在線の輸送の行詰りを考えると、技術的に最短期間である5ヶ年を延ばさないよう適切な措置をとる要があり、このことは投資に対する資金効率の面から見ても必要なことである。」としている。

 では、この「技術的に最短期間である5ヶ年」の根拠は何かということについては、国鉄幹線調査室・幹線局・新幹線総局・新幹線局で東海道新幹線建設に従事した角本良平氏はこのように述べている。


 五ヵ年とした一つの根拠は、新丹那トンネル完成におそらくそれくらいかかるだろうという見通しであった。

 

「新幹線開発物語」角本良平・著(中公文庫)18頁
※初版発行1964年4月30日「東海道新幹線」(中公新書)

 

 「東海道新幹線の工期はオリンピック開催に合わせて決定された」のではなく、「東京オリンピック開催決定前に、工事期間が最長となる新丹那トンネルの工期に合わせて決定された」のである。古市氏の言うような「五輪に間に合わせた急ごしらえ」ではないのだ。


 そして、鈴鹿峠ルートの「工期的に非常な難点」とは、「新丹那トンネル工事の工期5年」よりも長くかかってしまうことであった。

 

 なお、新幹線の工期については、世界銀行の融資条件もからんでくる。


 当時国鉄新幹線局に勤務していた高橋正衛の記した「新幹線ノート」によると「昭和39年なかばに完了すること。(135頁)」とある。 「世界銀行が東京オリンピック開催に間に合うような融資条件を付けた」という説もあるが、私はそのような資料を見かけたことはない。

 

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1-4 東海道新幹線にカーブが多いのは「五輪に間に合わせた急ごしらえ」に伴う「負の遺産」なのか?

古市憲寿氏東京五輪負の遺産 (4)



 この表は、国鉄東京第三工事局(東北新幹線の東京都内及び埼玉県内の工事を担当)が作成した各新幹線の規格の対比表である。
 確かに、東海道新幹線は、東北・上越新幹線よりも最小曲線半径が小さい(曲線がきつい)。これは東海道新幹線が「五輪に間に合わせた急ごしらえ」だからなのだろうか?


 東海道新幹線の曲線の規格の考え方について、当時国鉄新幹線総局計画審議室長だった加藤一郎氏はこのように述べている。


 曲線半径は、開業当初の速度は200km/hとするが、将来は250km/hの可能性も考慮して、路線計画にあたってはこれに見合う曲線半径を2,500m標準と考えた。標準軌で250km/hは技術的にも可能であり、交通機関としての馬力効率(馬力/重量・速度)からみても妥当性があることが検討の結果認められている。

 

「国鉄東海道新幹線計画について」加藤一郎・著 「電気学会雑誌」81巻879号(昭和36年12月)76頁
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ieejjournal1888/81/879/81_879_2053/_pdf/-char/ja

 私は鉄道車両の専門家ではないので、これの妥当性を判断する術はないが、新幹線担当の室長が「曲線半径2,500mは妥当性がある」と言っているということで。


 また、当時国鉄幹線調査室調査役だった大石寿雄氏は、このように述べている。

 (前略)この点からも検討した結果、曲線半径2,500m。許容最大カント量195mmならば時速250キロで走っても危険でないことが判明したので、最小曲線半径2,500mを標準とすることになった。

 

「東海道新幹線の構想」大石寿雄・著「電気車の科学」12巻3号(1959(昭和34)年3月号)7頁


 東北新幹線が時速300キロ台で走る現在では、当初の「将来は250km/hの可能性も考慮」というのが志が低かったということになるのかもしれないが。。。
 
 なお、この「曲線半径2,500m」についても、1958(昭和33)年7月の国鉄幹線調査会の答申で、「標準半径2,500m」とされている。そもそも答申では東京大阪間を「概ね3時間」で結ぶこととしているのだから、必要な仕様を満たしているのである(それ以上の速度への対応は求められていない。当時の世界最速の旅客列車は140km/h程度であった。)と言えよう。


 東海道新幹線のカーブは、確かにその後に開通した新幹線よりもカーブがきついことは間違いないが、それは東京オリンピック開催前に決定されていたことであって、古市氏の言うような「五輪に間に合わせた急ごしらえ」に伴う「負の遺産」ではないのだ。


 なお、古市氏は「カーブが多く」と書いている。最高速度は、カーブの数の多少ではなく半径の長短で表されるカーブの緩急に左右されるのではないかと思うのだが。。。

 

 ということで、古市氏が「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール」25頁で縷々述べている「東海道新幹線に係る五輪に間に合わせた急ごしらえ」による「負の遺産」については、実際には東京オリンピック以外に原因がある(しかも東京オリンピック開催決定前に決められている)ことがお分かりになるのではないか?


 同25頁には、「JR東海はリニア中央新幹線を自力で建設できるくらい東海道新幹線で稼いだ。ということは、そのお金をリニア用に貯めずに、東海道新幹線の値下げにも使えたはずだ。」という記述もあるが、ここは人それぞれの政策判断の箇所だから私がとやかくいうものではない。

 

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2-1 首都高速は「五輪に間に合わせて急ごしらえ」した「負の遺産」なのか?

 

 これを信じている方は結構多い。例えば、ネットでも「首都高 オリンピック」で検索すると、下記のような記事がヒットする。

 

 日本道路公団による高速道路建設が動き出したころ、東京オリンピックの開催が決まります。当時の日本の道路は、地方は劣悪な未舗装路ばかりで、長距離移動には使おうにも使えないひどさでした。
 しかしクルマは増加の一途をたどっていて、東京ではひどい混雑が発生していました。
 このままオリンピックを開催しても、失敗の烙印を押される。その解決策として考えられたのが、首都高速道路でした。
 先進国では、戦前に一般道が整備され、戦後、自動車の大衆化と高性能化に合わせて高速道路が発達しましたが、日本では一般道が劣悪な状態のまま、自動車が大衆化へと向かったため、混乱が生じたのです。
 ただ、まだ自動車による長距離移動はほぼ皆無でしたから、東名のような「都市間高速道路」より、当面の渋滞対策としての都市内高速が、オリンピックに追われる形で先に完成することになりました。
 首都高はオリンピック対策ですから、オリンピックに間に合わせなければなりません。
 そのため、土地の買収に時間がかかるルートは極力避け、川や運河の上や埋め立てた川床、海上、道路上などをフル活用して、突貫工事が行われました。
 現在、首都高が景観を悪化させていると言われる原因は、土地買収に時間がかけられなかったことにあります。
 まずはオリンピックに必要な区間を優先ということで、都心と羽田空港、そして競技場のある代々木の3点を結ぶことが優先されました。 最初の開通は、1962年12月の京橋~芝浦間(料金100円)。
 その後、64年10月の東京オリンピックまでに、都心環状線の約4分の3と、そこから羽田および初台までの区間が完成しています。

 

「【高速道路】首都高の建設はオリンピック対策だった!」清水草一
https://autoc-one.jp/word/480124/


 後述するが、これはNHKの「プロジェクトX」の影響も大きいと思われる。

 

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 古市氏は、神宮外苑の内外苑連絡道路や日本橋上の高架橋をあげたうえで、次のように述べている。

 このように、首都高によって破壊された東京の景観は少なくない。なぜこのようなことになってしまったのだろうか。
 最大の理由が、まさに東京オリンピックなのである。首都高の計画自体はオリンピック以前からあったが、1959年に開催が正式決定してから計画が見直され、工事が急ピッチに進んでいくことになった。
 普通に考えたら、絶対間に合わない工事。そこで当時の首都高が採用したのが「空中作戦」である。特に時間がかかる用地買収を回避するために、今ある道路や川の上など公用地をフル活用したのだ。だから日本橋の上にためらいなく高速道路は作られたし、いくつもの川が埋め立てられ、そのまま高速道路に転用された。

 

「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール」古市憲寿・著(文春新書)12~13頁


 東海道新幹線と同じく、この古市氏の記述に対して、一次資料で検証してみよう。


 ここでは、東京都の山田正男氏(下記参照)の著作を中心に検証していく。山田氏は「山田天皇」と呼ばれ、戦後の東京都の都市計画、都市開発(首都高、五輪対策、新宿副都心、多摩ニュータウン等々)に深く携わった方であることは言うまでもない。

山田正男
首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦
対談「東京都における都市計画の夢と現実」 「時の流れ都市の流れ」403頁
 山田氏はズバリ「オリンピックのために道路をつくるとかそんなことは夢にも考えておりません。」「それはオリンピックのためではなく、当然の事業であると考えてやっております。」と述べている。古市氏とはまるで正反対ではないか。

 

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2-2 首都高が川の上を曲がりくねって走ることは、「五輪に間に合わせた急ごしらえ」たことに伴う「負の遺産」なのか?

 

 最大の理由が、まさに東京オリンピックなのである。首都高の計画自体はオリンピック以前からあったが、1959年に開催が正式決定してから計画が見直され、工事が急ピッチに進んでいくことになった。 普通に考えたら、絶対間に合わない工事。そこで当時の首都高が採用したのが「空中作戦」である。特に時間がかかる用地買収を回避するために、今ある道路や川の上など公用地をフル活用したのだ。

 

「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール」古市憲寿・著(文春新書)13頁

 

 ここで、首都高計画と東京オリンピック誘致の経緯をみてみよう。

1953(昭和28)年4月28日 首都建設委員会が高速道路網の新設を建設省及び東京都に対して勧告。

1957(昭和32)年7月20日 建設省が「東京都市計画都市高速道路に関する基本方針」を決定。経過地の選定に不利用地、河川、運河等を利用することを定めた。

1957(昭和32)年8月5日 東京都市計画地方審議会に、高速道路調査特別委員会を設置。東京都が作成した街路、河川等を利用した首都高の原案の審議検討を開始。

1957(昭和32)年12月9日 東京都市計画高速道路調査特別委員会が、東京都市計画地方審議会長 安井誠一郎(東京都知事)あてに東京都市高速道路網計画を報告。

1958(昭和33)年1月22日 東京オリンピック準備委員会・設立準備委員会及び第1回総会開催。

1958(昭和33)年4月 国会でオリンピック東京招致決議案を可決(衆議院15日、参議院16日)

1958(昭和33)年12月5日 建設大臣が、東京都市計画街路に都市高速道路を追加決定するための案件を東京都市計画地方審議会に付議。

1958(昭和33)年12月10日 東京都市計画地方審議会が一部を留保して原案どおり議決。

1959(昭和34)年1月30日 首都高速道路公団法が閣議決定され国会へ提出。

1959(昭和34)年2月25日 日本道路公団(現・東日本高速道路株式会社)が西戸越~汐留間の工事に着手。(後に首都高に移管)

1959(昭和34)年4月8日 首都高速道路公団法成立(同14日公布・施行)

1959(昭和34)年5月26日 東京オリンピック開催決定

1959(昭和34)年6月17日 首都高速道路公団(現・首都高速道路株式会社)発足

1959(昭和34)年8月7日 東京都市計画地方審議会で保留部分につき原案どおり議決。

 古市氏が「首都高の計画自体はオリンピック以前からあった」と述べているところを詳細に落とし込むと上記のとおりである。

 前述のとおり、東海道新幹線は、東京オリンピックに間に合わせるためではなく、「昭和36、7年頃にはに東海道線の輸送が行き詰まるので新線が必要だ。」という理由であったが、首都高速道路も、東京オリンピックに間に合わせるためではなく、先に山田氏の対談に出てきた「昭和40年の交通危機に対する解決策」であった。

 

(前略)主要幹線街路の主要交叉点の交通量は、現在1日3万台以上となっており、なかでも江戸橋、祝田橋の如きは、8万台から9万台の自動車交通が通過している。従って、主要幹線街路の主要交叉点の交通量と街路の交通量とを比較すると、交通量、自動車保有台数の増加傾向からみて、昭和50年には、23区全部の自動車は、120万台と思われるので(現在は32、3万台)、多少交叉点によっては凸凹はあるとしても、昭和40年代にはラッシュ時における都心部の交通は、まったく麻痺状態に陥ることが推定される。ということは、自動車が歩くスピードと異ならないということになるのである。

 

「都市高速道路を中心とした東京都の道路政策」山田正男・著 「道路」昭和32年12月号
※「時の流れ都市の流れ」山田正男・著249頁に掲載

 

 これを解消するために、1965(昭和40)年全線開通を目標に首都高速道路を計画したのであり、東京オリンピックのためではない。

古市憲寿氏東京五輪負の遺産 (5) 首都高速道路当初の開通時期

 東京都の「東京都市高速道路の建設について」から引用。

 詳しくは
http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-c06b.html

 オリンピックに関係なく、「つとめて不利用地、河川又は運河を使用」「止むを得ざる場合には広幅員の道路上に設置」とある。
 オリンピックが決まってから間に合わなくなって「空中作戦」になったのではなくて、オリンピックが決まる(招致決定もしていない)1957(昭和32)年7月に河川上を利用することは建設省の方針で決定していたのである。

オリンピックに関係なく首都高は川の上だった
 そして、それは新聞報道等で既に広く知られるところとなっている。(1957(昭和32)年9月29日付読売新聞)

1957(昭和32)年8月16日付朝日新聞
オリンピックに関係なく首都高は川の上だった2
 中央区あたりを除いて、ほぼ現在の首都高速のネットワークに近い路線を「できるだけ既設の幹線道路や河川など公有地に建設」する案が公表されている。


 そして、これが1962(昭和37)年に作成された当初の都市計画の案である。

古市憲寿氏東京五輪負の遺産 (3)


 古市氏は「首都高の計画自体はオリンピック以前からあったが、1959年に開催が正式決定してから計画が見直された。普通に考えたら、絶対間に合わない工事。そこで当時の首都高が採用したのが「空中作戦」である。特に時間がかかる用地買収を回避するために、今ある道路や川の上など公用地をフル活用したのだ。」とするが、実際には、オリンピック招致以前に、道路や川の上をフル活用した計画が出来ていたのである。

 そして、前述の「昭和40年の交通危機に対する解決策」なので、開通目標は1965(昭和40)年度内の全通を目論んでいた。


 では、古市氏が言う「オリンピックが正式決定してからの計画の見直し」とは何なのか?


 この1962(昭和37)年段階の計画図が現在と違うところといえば

・日本橋川区間については、中央・総武線を跨いでから江戸橋ジャンクションまでは日本橋川を半地下として通過している。(現在の築地川区間のような構造)
・江戸川ジャンクション以東の日本橋川区間は通過せずに、人形町・浜町附近を両国まで高架で通過している。(この区間は東京オリンピック後に、日本橋川の上空を高架で通過し、箱崎ジャンクションを経由するルートに変更となった。詳しくはhttp://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2018/09/post-0d26.html
・英国大使館、三宅坂ジャンクション周辺が半地下になっている。
・7号線小松川線の終点の接続道路が違う。


 といったあたりだろうか。(当然微小な修正は沢山ある。)

秋庭大先生2
 オリンピック決定前の首都高計画とオリンピック決定後の首都高計画はさほど変わらない。下図は首都高速道路公団発足直後のパンフレットに掲載された路線図である。

首都高速と東京オリンピック (7)
 この二つの図面を見比べたところで、古市氏の「このように、首都高によって破壊された東京の景観は少なくない。なぜこのようなことになってしまったのだろうか。最大の理由が、まさに東京オリンピックなのである。」という文にご納得がいくだろうか?


「だから日本橋の上にためらいなく高速道路は作られた」と古市氏は言うが、オリンピック決定前から「日本橋の上」だったし、なんなら当初は「日本橋の下」だったわけだ。

 


ということで、首都高が川の上を曲がりくねって走ること自体は、東京オリンピック招致前からほぼ決定済で「五輪に間に合わせた急ごしらえ」でも「負の遺産」でもないのである。そういう交通政策、景観政策が誤りだったという批判は有りうるが、五輪に間に合わせたせいではない。


山田氏の言う「オリンピックのために道路をつくるとかそんなことは夢にも考えておりません。」「それはオリンピックのためではなく、当然の事業であると考えてやっております。」の意味が分かったであろうか?

 

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2-3 「空中作戦」という用語は「ルポルタージュ」「ノンフィクション」に耐えられるのか?

 

 

 最大の理由が、まさに東京オリンピックなのである。首都高の計画自体はオリンピック以前からあったが、1959年に開催が正式決定してから計画が見直され、工事が急ピッチに進んでいくことになった。
 普通に考えたら、絶対間に合わない工事。そこで当時の首都高が採用したのが「空中作戦」である。特に時間がかかる用地買収を回避するために、今ある道路や川の上など公用地をフル活用したのだ。

「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール」古市憲寿・著(文春新書)13頁


 古市氏は、首都高速がオリンピック決定後に「計画を見直して、絶対間に合わない工事に「空中作戦」を採用した。」旨書いているのだと思う。(この辺、文脈がはっきり読み取れない。)
 
ところで「空中作戦」という言葉は、首都高が河川上を通過することを指す言葉としては、割と一般的に使われていると思うが、この言葉が使われるようになったのは、2005(平成17)年にNHKで放送された、プロジェクトX「首都高速 東京五輪への空中作戦」からである。


そして「空中作戦」が意味するところは厳密には何なのか?プロジェクトX以降は、主に3冊の書籍でその内容が語られている。

 

 

 オリンピック開催まで、期間はわずか5年。羽田空港から代々木までの限られた路線とはいえ、その間にビルがひしめく東京で、用地を買収して道路をつくることなどできるはずもない。これは「大パニック」になる。

(中略)

 そのときだった。悩む大崎たちのもとに、一人の男が現れた。都市計画部長の山田正男。とんでもないアイデアを出した。

「”空中作戦”はどうか」

 いままでにある道路の上や、街なかを流れる河川に沿って、その上に高架橋の道路をつくれば、用地買収の手間が一気に省ける。5年間の短い期間でも、渋滞が解消できるという前代未聞の作戦だった。

 

「プロジェクトX 挑戦者たち 28 次代への胎動」日本放送出版協会(2005年) 74~75頁

 

山田の主張によって、首都高速道路公団が設けられ、一号線(羽田・中央区本町間)、四号線(日本橋本石町・代々木初台間)を中心とする約三十二キロの建設がオリンピック関連事業として建設されることになった。

「オリンピックまで、あとわずか五年しかない。果たして間に合いますか」

 国会に呼ばれて、そう議員から質問をされたとき、山田は傲然と答えた。

「絶対に間に合わせてみせます。見ていてください」

 山田には腹案があった。時間がないから、地権者たちの反対、土地買収などにかかわっている暇はない。だから、地権者たちに文句を言わせない方法をとる。

「空中作戦だ」

 日ごろ冗談一つ言わない上司の不可解な言葉に、部下たちは目を白黒させる。

「俺の言っている意味が分からないのか」

 山田はわざとうんざりして言った。皆の戸惑いが、実のところ、いまは心地よい。

「既設の道路、運河の上を通せ。下は公共の土地だから、誰も文句はいえないよ」

「果たして、そんなことができますか。実例は海外にありますか」

「じゃあ、君たちはどうしたらオリンピックに間に合わせられるんだ」

 大声で怒鳴ると、部下たちは従うしかなかった。部下だけではなく、安井の後任である東龍太郎都知事も、そして「影の知事」といわれ、実際の都政を仕切っている鈴木俊義副知事も少し首を傾げはしたものの了承した。

 こうして「空中作戦」は実行された。高速道路はまるで鉄でできた大蛇のように、東京の都心をのたうち回り、時には三回も四回も交差しながら、ビルの間を通り抜けた。

 生きた河川や由緒ある日本橋の上を高速道路が屋根のように通る形になったのも、この時である。

 

「東京の都市計画家 高山 英華」東秀紀・著 2010年(鹿島出版会) 253~254頁

 

 首都高の建設ぶりを、世間は「空中作戦」と呼んだ。川や道路という公共用地の上の、文字通り「空中」に、みるみる高速道路ができていったからだ。しかし山田の空中作戦は、オリンピックに間に合わせるために急遽編み出したわけではなく、当初からの慧眼が、たまたまオリンピックという最高の舞台を得ただけだった。

「首都高速の謎」清水草一・著  2011年(扶桑社) 50~51頁

 

 興味深いのは、著者によって「空中作戦」の意味が違うのである。

 プロジェクトX及び東秀紀氏は
・オリンピック決定後に首都高を空中に上げた
・空中作戦と呼んだのは山田正男氏


 清水草一氏は
・首都高が空中に上がったのはオリンピックに間に合わせるために急遽編み出したわけではなく、当初からの慧眼
・空中作戦と呼んだのは山田ではなく、世間


 私が先にお示しした時系列と比較すると、清水氏の方が時系列の並びは正しいと思われる。

 

 では、当時の新聞や雑誌で「空中作戦」の用例を調べてみようと私は国会図書館等に通い詰めた。
 実は私が探した範囲ではプロジェクトX以前の使用例が見つからないのである。


 新聞のデータベース、首都高の広報誌、東京都や首都高職員が書いた建設関係業界誌の報文等をかなり力を入れて探したのだが、プロジェクトX以前は私の能力では見つけられないのである。


 プロジェクトX及び東秀紀氏の著書では、山田正男氏が「空中作戦」と呼んだことになっているが、山田氏の著書、対談集を読んでも「空中作戦」という言葉は出てこない。
 そして、当該番組を見ても「空中作戦」の言葉は、東京都や首都高の当時の担当者の口から出たものではなく、ナレーターのト書きの部分で出ているのだ。


 どなたかこの秘密が分かった方は是非私に教えてほしい。「空中作戦とはだれがいつどのような意味で発言したのか」を。
 (「演出の一環」ですかね。。。)
 
 ということで、「空中作戦」という言葉を使うなら、その出典が明らかでない現状では、「空中作戦(清水説)」とか「空中作戦(プロジェクトX説)」等と使い分けることを提唱する。


 そしてその視点で古市氏の「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール」を読んでみると、どうやら古市氏は、内容を読むと「プロジェクトX説」に近いようだが、文献としては「首都高速の謎」をあげているので「清水説」なのだろうか??どちらでしょうか?

 

 このような現状で「ノンフィクション」「ルポルタージュ」に「空中作戦」という用語を定義づけなしに使うことの妥当性については、諸兄がご判断いただければ。

 

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2-4 首都高都心環状線が片側2車線しかないため渋滞することは、「五輪に間に合わせた急ごしらえ」に伴う「負の遺産」なのか?

 

 

 首都高の整備はオリンピック後も進められたが、長らく深刻な問題に苦しめられることになる。渋滞だ。

 特に、片側2車線だった都心環状線を片側3車線にしておけば、だいぶ事態は緩和されただろうと言われている。様々なルートから車が流入する環状線が片側2車線では、渋滞は必至だというのだ(清水草一『首都高速の謎』)。これも、首都高の建設を急いだことの代償だろう。

「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール」古市憲寿・著(文春新書)14頁

 

 ここで山田正男氏の登場である。
古市憲寿氏東京五輪負の遺産 (2)
古市憲寿氏東京五輪負の遺産 (1)
「東京の都市計画に携わって : 元東京都首都整備局長・山田正男氏に聞く 」東京都新都市建設公社まちづくり支援センター

 

 実際に首都高速計画の立ち上げに関与していた山田氏によれば、
・もともと戦災復興の都市計画で街路を拡げようとしたところができなかった。
・都市高速道路はランプが近接して交通の織り込みが発生するので交通能率が落ちる。
・別ルートを作った方がまし。
・大蔵省は採算性から片側2車線でも反対していた。
 といったところか。これも「五輪に間に合わせた急ごしらえ」による「負の遺産」ではなさそうだ。

 なお、「別ルートを作った方がまし」という言葉を裏付けるかのように、東京オリンピックに向けての新設工事中に既に新しいネットワークの検討を行っている。
 下記は昭和37年段階での「東京都市高速道路将来計画図」である。

昭和36年の首都高速道路構想(未成道が山盛り)


 山田の「別のルートを作った方がまし」の言葉どおり、片側2車線の都心環状線を補完するように「内環状線」が神田川の上空を通過し、「中環状線」が(現在とは違い)目黒川の上空を通過している。
 「オリンピックに間に合わせるため」だけではなく、オリンピック終了後も首都高速を河川の上を通過させる気マンマンだったのだ。


 結果的には中環状線は、目黒川の上空から目黒川の地下を潜ることに変更され「中央環状線」として開通した。
 内環状線は、ついに工事に着手されることはなかった。これが開通していれば都心環状線の渋滞は大幅に解消されていただろう。

 

 というわけで、首都高都心環状線が片側2車線しかないため渋滞することは、「五輪に間に合わせた急ごしらえ」に伴う「負の遺産」ではない。ただし、行政の施策としては、「別のルートを作ることは長い間できず、結果的に長期の間大渋滞を発生させていた」ということの批判を免れるわけではない。ただ「五輪の負の遺産」ではなく「道路政策失敗の負の遺産」というだけである。

 

 ちなみに、総武快速線の馬喰町駅は国鉄で一番地下深い駅として知られていたが、地下深くを施工しなければならなかった理由の一つとして両国から神田川にかけて首都高速内環状線の杭を打つ計画があったところ、それを避けているからである。あの階段を毎日昇り降りする方は「首都高の負の遺産」に苦労させられているわけだ。
http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/09/post-7868.html


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2-5 首都高の速度制限が低いのは、「五輪に間に合わせた急ごしらえ」に伴う「負の遺産」なのか?



古市憲寿氏東京五輪負の遺産 (5)
東京都の「東京都市高速道路の建設について」から引用。詳しくは
http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-c06b.html

 

 ところで、前述の「東京都市高速道路の建設について」では、「設計速度は1時間60粁を原則とする」とある。しばしば「首都高速道路は、オリンピックに間に合わせるために河の上を曲げて通しているので、(100km/h出せる東名や名神等の高速道路とは違い)60km/h」しか出せない。」と言われることがあるが、これも「オリンピック招致前からの仕様」であり、「五輪に間に合わせた急ごしらえ」による「負の遺産」ではない。

古市氏はそこについてあまり触れていないため、詳細はここでは割愛する。

 

 

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3 結論


 以上、だらだらと述べてきたが、古市氏が指摘する首都高と東海道新幹線の「負の遺産」については、多くが「五輪に間に合わせた急ごしらえ」による「負の遺産」ではないというのが私の結論である。
 首都高建設や東海道新幹線建設にあたって「東京オリンピックにまにあわせる」ということが大義名分となって広く関係者に共有され、そのおかげもあって首都高や東海道新幹線が東京オリンピックに貢献できたということは事実ではあるが、なんでもかんでもが「五輪に間に合わせた」わけではないのだ。

 

<誤解されたまま広がっている東海道新幹線建設の経緯>

 

・東京オリンピック開催決定

  ↓

・オリンピックに間に合うように東海道新幹線の工期5年を設定

・オリンピックに間に合うように鈴鹿峠を止めて関ケ原経由を選択

 

<実際の東海道新幹線建設の経緯>

 

・在来線が昭和36、7年頃にはパンクする虞。

  ↓

・一番長く工事がかかる新丹那トンネルの工期にあわせて、東海道新幹線の工期5年を設定

・所要時間、曲線等の規定を決定

・新丹那トンネルの工期より長くなること、米原で北陸線に接続することから鈴鹿峠を止めて関ケ原経由を選択。


 ↓

・東海道新幹線工事着工

  ↓

・東京オリンピック開催決定

 

<誤解されたまま広がっている首都高速道路建設の経緯>

 

・東京オリンピック開催決定

  ↓

・首都高速道路公団設立

  ↓

・オリンピックに間に合うように「空中作戦」で高速道路を川の上に

 

<実際の首都高速道路建設の経緯>

 

・都内の一般道が昭和40年にはパンクする虞。

  ↓

・昭和40年に間に合うように高速道路を川の上に

  ↓

・日本道路公団が首都高の一部を先行建設開始(川の上、公園等を活用した2号線)

  ↓

・首都高速道路公団法が国会で成立

  ↓

・東京オリンピック開催決定

  ↓

・首都高速道路公団設立(日本道路公団から先行部分を引き継ぎ)

 

 世間で広がっている誤解と実際の流れを再整理してみた。

 これを元に、古市憲寿氏「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール 五輪に間に合わせた急ごしらえの代償」を読んでいただければ。

 

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 上記で「日本道路公団が首都高の一部を先行建設開始(川の上、公園等を活用した2号線)」と書いた。

 実際には、「オリンピック開催決定前」の昭和33年度に「首都高速道路公団ができる前に日本道路公団が」「川や公園の上を活用して」高速道路建設に着手していたのである。

 ※詳しくは、http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-a9d4.html

 

 話は変わるが、先日のブラタモリで、白金の住民が公園の自然を守るために、首都高速道路のルートを変えた話が出てきたのを覚えている方はいらっしゃるだろうか?

 

 それが、この日本道路公団が先行着手した部分なのである。そして折衝等に時間がかかった結果、オリンピックには間に合わなかったのである。

 「空中作戦」にしたから有無を言わせず、オリンピックまでに間に合わせるための工事ができたわけではないのだ。

 そして「江戸っ子はオリンピックに向けた高速道路の工事に反対するなんて野暮なことはしなかったんだ」というのも眉唾なのだ。

 

 古市氏は、「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール 五輪に間に合わせた急ごしらえの代償」のなかで、東海道新幹線に係る「用意買収係の悲哀」について紹介している。

 私も、当時首都高建設に従事した職員の悲哀について紹介している。是非こちらもお目通しいただきたい。http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2018/08/post-422f.html

 

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4 東京モノレールは「五輪に間に合わせた急ごしらえ」による「負の遺産」なのか?

 

 東京モノレールについては、私はあまり詳しくないのだが、一点だけ古市氏に判断の参考にしていただきたい材料があるので紹介しよう。


 東京モノレールの親会社であるJR東日本も、自ら東京モノレールに死刑宣告を出すような計画を打ち出している。羽田空港と都心を結ぶ羽田空港アクセス線を整備し、東京や新宿、臨海部まで一本の電車で行けるようにするプランだ。
 ものすごく便利そうだ。しかしここで浮かんでくるつっこみがある。
「だったら初めからそれを作れば良かったじゃん」

 もちろん、東京オリンピックに間に合わせて交通インフラを整備したかったという当時の事情もわかる。だがそもそも1964年のオリンピックがなければ、東京モノレールの計画自体なかっただろう。そして東京モノレールがなければ、羽田空港アクセス線がもっと早く整備されていたかも知れない。

「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール」古市憲寿・著(文春新書)21~22頁

 

 これに対する直接の回答ではないのだが、「だったら初めからそれを作れば良かったじゃん」に関する参考資料のご提供である。

菅 (前略)ただ、中央線の都心部の増強を図りたい気持ちは国鉄のなかに多分あって、かなり東西線のルートと重なるわけですよね。東西線は、結果的には日本橋を通って江東区のほうへ抜けていきますけれども、また西船橋で国鉄とつながるんですから、あれこそ営団なんかにやらせずに、国鉄が自分でやってもおかしくなかった線のはずですよね。

角本 ええ。ですから、東西線を国鉄が自分でやってくだされば、営団の資金をもっと新しい線に向けられましたね。

鈴木 国鉄がそれほど都市内の交通に関心がなかった。

角本 というより、お金がない(笑)。やはりそれだと思う。「国鉄の本来の使命にもっとお金を入れたい」ということ。特に東海道新幹線もやっていましたから。

菅 そういうことなんでしょうね。私たちが(国鉄に)入った1960年代半ばにも、「都市鉄道というのは儲からない」という議論がありました。

 

「角本良平オーラルヒストリー」交通協力会

 

角本良平(元 国鉄)
菅建彦(元 国鉄)
鈴木勇一郎(立教大学術調査員)

 

 東海道新幹線建設費用を捻出するために、既に建設が決まっていた地方路線の予算を削っていた当時の国鉄に、「羽田空港対策の余裕資金があったか」という観点でご参考にしていただきたい。

 既存の通勤電車のラッシュ対策にも手が回っていなかったのが当時の実態である。首都圏の通勤対策(5方面作戦)が行われたのは、東海道新幹線開通後である。そしてその巨額な投資は赤字転落した国鉄経営を更に苦しめて行ったのである。

 

 ※オリンピック当時の全国でのモノレールブームについては、広報ひめじに詳しい。https://www.city.himeji.lg.jp/kouhou/kouhoushi/backpdf/s30/pdf_s39/19640215339.pdf

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2019年7月 1日 (月)

【道路会社公式】高速道路地図リンク集【無料ダウンロード】

※デイリーポータルZのリニューアルは成功したが、ココログのリニューアルは失敗したと聞いて、ブログを触る気がしなかったのだが、一度やってみるテスト。

 ドライブ旅行をするにあたって、無料の公式高速道路地図をダウンロードしたいという需要は一定数あると思うのだが、道路会社毎にいろんな階層の奥深くにあって、なかなか見つけられないので、一念発起してそのリンク集を作ってみた。

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■NEXCO東日本(東日本高速道路株式会社)

 道路公団民営化以降、NEXCO東日本は一枚物の地図からハイウェイウォーカーの中の地図頁という体裁に変更したので、ウェブでも「ハイウェイウォーカー」の頁内に地図のリンクがある。

 https://www.driveplaza.com/sapa/hw/

 「北海道版」「東日本版」の項にそれぞれ「SA・PA エリアMAP」があるので、その下のエリアマップのリンクからPDFをダウンロードできる。

 ガソリンスタンドの地図は、https://www.driveplaza.com/sapa/shisetsu_service/gas_station/pdf/gas_station_map_enexco.pdf

 また、外国語の高速道路地図もダウンロードできる。

 ・英語 https://en.driveplaza.com/haikara/の「MAP」の項から、北海道東北、関東、信越のPDFをダウンロードできる。

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■NEXCO中日本(中日本高速道路株式会社)

 NEXCO3社の中で、一番「道路公団っぽい」風采である。「サービスエリアガイド」の頁内に地図のリンクがある。

 https://sapa.c-nexco.co.jp/guide/book

 「東名・新東名版」「中央道版」「名神・北陸道版」の項にそれぞれ「SA・PA エリアMAP」があるので、その下のエリアマップのリンクからPDFをダウンロードできる。ただし、高速道路地図面の解像度はイマイチである。

 ガソリンスタンドの地図は、https://sapa.c-nexco.co.jp/Content/storage/pdf/gas.pdf

 また、外国語の高速道路地図もダウンロードできる。

 ・英語 https://globalsapa.c-nexco.co.jp/Content/Pdf/en/english.pdf

 ・簡体中文 https://globalsapa.c-nexco.co.jp/Content/Pdf/cn/simplifiedchinese.pdf

 ・繁體中文 https://globalsapa.c-nexco.co.jp/Content/Pdf/tw/traditionalchinese.pdf

 ・ハングル https://globalsapa.c-nexco.co.jp/Content/Pdf/kr/korean.pdf

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■NEXCO西日本(西日本高速道路株式会社)

 NEXCO東日本同様、PR誌の「遊・悠・WesT」の頁から電子書籍をめくっていくと、中ほどに高速道路地図が出てくる。

 https://www.w-holdings.co.jp/yuyu/

 従来からの一枚物の高速道路地図は、「高速道路ガイドマップ」の頁内に地図のリンクがある。

 https://www.w-nexco.co.jp/search/highway_guide/

 ガソリンスタンドの地図は、https://www.w-holdings.co.jp/gasoline/の頁内に地図のリンクがあり、PDFをダウンロードできる。

 また、外国語の高速道路地図もダウンロードできる。

 ・英語 https://global.w-nexco.co.jp/en/の「 Toll & Roadways 」の項から

 ・簡体中文 https://global.w-nexco.co.jp/cn/の「 收费处及道路 」の項から

 ・繁體中文 https://global.w-nexco.co.jp/tw/の「 收費站及道路 」の項から

 ・ハングル https://global.w-nexco.co.jp/kr/roadways/kansai_area.htmlの「요금소 및 도로 」の項から

 それぞれ関西、中国四国、九州のPDFをダウンロードできる。

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■国土交通省

 高速道路ナンバリング路線図

  https://www.mlit.go.jp/road/sign/numbering/map/index.html

 全国の高速自動車国道等のインターチェンジ、ジャンクションとナンバリングが一目で分かるのだが、いかんせん平成29年から更新されていないのが。。。

 

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■首都高速道路

 「首都高ナビマップ(路線概略図)」の項から、PDFをダウンロードできる。

 https://www.shutoko.jp/use/network/navimap/

 また、外国語の高速道路地図もダウンロードできる。

 ・英語 https://www.shutoko.co.jp/en/index/roadways/map/の「Printable Network Map」の項から、PDFをダウンロードできる。

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■阪神高速道路

 

 「路線・出入口案内図」の頁の「路線網図」の項から、PDFをダウンロードできる。

 https://www.hanshin-exp.co.jp/drivers/douro/route/index.html#rosen

 ・英語の地図は、https://www.hanshin-exp.co.jp/english/drive/toll-roadways/map.htmlで、見ることができる。

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■JAF

 

 「高速道路案内図」の頁があり、JAF会員以外でも地方毎の高速道路路線図が利用できるが、更新頻度は高速道路会社公式ほどではない。

 http://www.jaf.or.jp/member/dguide/exway/index.php

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■ Twitter等を見ていると、道路公団が分割民営化されて10年以上たった今日でも、「昔ながらの道路公団(道路施設協会)の地図がどうしてもいい」というドライバーさんが一定数いらっしゃるようだ。その是非はさておき、日本で初めて名神高速道路が開通したときに、日本で初めての高速道路地図を作製した日本道路公団担当者の報文と当時の名神高速道路地図が下記からダウンロードできるのでご参考まで。

 「名神高速道路地図」について 中野 達彦 https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjca1963/1/2/1_2_39/_pdf/-char/ja

 「名神高速道路地図」https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjca1963/1/2/1_2_AP1/_pdf/-char/ja

 また、日本道路公団が創立35周年を記念して、堀淳一氏を迎えて高速道路地図をリニューアルした際の日本道路公団担当者の報文と当時の地図の一部が下記からダウンロードできる。

 「日本道路公団の新版高速道路地図」田村 幸久 https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjca1963/31/1/31_1_41/_pdf/-char/ja

 https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjca1963/31/1/31_1_AP2/_pdf/-char/ja

 

 

 

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2019年2月25日 (月)

神田上水や渋谷川(キャットストリート)の上空に首都高速道路が計画されていた

 東京オリンピックに向けて建設の槌音が響く1962(昭和37)年1月20日の毎日新聞に、オリンピック後の東京の交通をにらんだ首都高速道路の延伸計画が掲載された。

 なんと渋谷川(現在のキャットストリート)等に首都高速道路を通そうというものである。

 

都心を包む環状高速道路

川から川へ30キロ 高架式 都が40年完成めざす

 ひどくなる一方の東京都の交通マヒを打開する対策の1つとして都は都心部を包む環状高速道路計画を練っていたが、19日、具体案がまとまった。路線は、ほとんどが川の上を走る高架式なので、補償費の心配がなく、総工費は480億。陸上を走らせる場合の6分の1ですみ、昭和40年完成を目標にしている。

神田上水や渋谷川の上空を走る首都高速道路計画があった

 

 都は都内の交通マヒを打開するため、放射四号線をはじめオリンピック関連道路23路線、首都高速道路8路線の建設を進めているが、いたるところで用地買収とこれに伴う補償問題につき当たって工事は進まない。そこで都内を流れる中小河川を利用してその上に道路をつくることになり、目黒川、神田川、江戸川を結んで高速道路を走らせる計画をたてた。

 道路幅は現在建設中の高速道路より2倍以上も広い40メートル(片側を自動車が4台並んで走れる)と予定されており、途中交差する各高速道路とはインターチェンジ(立体交差による方向転換)で接続させる。

 37年度中に1千万円の予算で調査を終わり、38年度から測量、ボーリングをはじめる。民家の立退きなど補償費を必要とする部分は世田谷区代田から杉並区和泉町までの2キロと分岐線の千代田区市谷-新宿区信濃町の1キロの計3キロだけ、あとは工事費だけですむ。現在建設中の高速道路はいずれも都心部から副都心部に向かう放射線なので、こんど決まった高速道路は都ではじめての環状線になる。

神田上水や渋谷川の上空を走る首都高速道路計画があった2

 ※新聞記事に掲載されたルートに私が着色してみた。

本線 現在建設中の高速1号線(羽田―上野)の経由地点、品川区東品川を起点に目黒川の上を高架で西北に走り、東急目蒲線、同玉川線をまたいだあと世田谷区代田付近から北上、小田急線、京王線を越え、杉並区和泉町付近で神田上水に乗って下流に進む。さらに国鉄中央線、山手線と交差して走り、飯田橋、お茶の水を通って東に向かい墨田区の両国橋に出る。そこから隅田川東岸を江東区深川清澄町まで下り、小名木川の上を荒川放水路西岸に達する。全長は約30キロ。

分岐線 (1)千代田区飯田橋から外ぼり川(ママ)に乗って同区市谷、新宿区四谷、信濃町を通り、渋谷川上を南下、港区麻布新広尾町で高速2号線と合する延長7キロ(2)江東区深川白河町から運河に乗って7号埋立地へ出る延長4キロ

 記事では「道路幅は現在建設中の高速道路より2倍以上も広い40メートル(片側を自動車が4台並んで走れる)と予定」とあるが、神田川にしろ渋谷川にしろ、そんな幅員の道路を追加の用地買収なしに、河川の範囲内に収められるとは到底思えないのだが。。。

 それでも原宿から渋谷にかけて現在のキャットストリートを片側4車線の高速道路が高架で走っているところはなかなか想像がつかない。

 気になるのは、いわゆる「36答申」つまり「東京都市計画河川下水道調査特別委員会 委員長報告」(昭和36年10月17日付)との関連である。

 例えば、36答申では、渋谷川は渋谷駅付近(宮益橋)から上流は暗渠化して都市下水とされることとなっていたが、その数か月後に、更に広い範囲で渋谷川の上に高速道路を架けようという新聞記事が出たわけである。

 36答申が出たから心置きなく河川の上に高速道路計画をたてたのか、開渠のまま残す部分との調整がつかなかったから、結局この分岐線(1)は実現しなかったのか、明らかではないが興味はつきないところである。

 また、当時ドブ川だった日本橋川ならともかく、神田上水のように水道局が管理する水路の上に高速道路を架けていいものなのだろうか?

 以前、東京都公文書館にネタ漁りに行った際に、「玉川上水はもう上水道の役割を果たさなくなったので、所管部署を水道局から建設局に移管するよ」といった文書を見た記憶があるがコピーはとっていない。

 「普通河川の維持管理について(玉川上水路を含めて)」だとしたら、1971(昭和46)年なので、まだ水道局所管のままだ。

 また、首都高が河川の上を通るのは「オリンピックに間に合わせるため」という俗説(嘘)があるが、オリンピック以降を見通してもなお、積極的に河川上の空間を高速道路に活用しようという意思が明確に示されている点も興味深い。(※江戸橋~両国間は、オリンピック後に、地元の意向を受けて、地上を通るルートから日本橋川い上を通るルートに変更されていたりする。http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2018/09/post-0d26.html

 

早く正式決定へ

山田首都整備局長の話

 都心の交通マヒの打開は都の都市計画の上でも重要な問題だ。幸い民有地を通る部分がきわめて少ないので、なるべく早く都市計画審議会で正式に決めるようにしたい。

 なかなか、にわかに信じがたいルートではあるが、山田正男”天皇”のインタビューも掲載されているので、それなりにオーソライズされていた計画(プロトタイプではあったが)だったのだろう。

 首都高速道路の最初のネットワークは下記のとおりである。

首都高速と東京オリンピック (7)

 

 また、オリンピック後を見据えて、1962(昭和37)年9月に策定された延伸構想は下記のとおりである。

昭和36年の首都高速道路構想(未成道が山盛り)

 今回取り上げた新聞記事はこの間をつなぐ段階の構想を示していると位置付けられ、大変興味深い。

 「本線」は、現在の中央環状線(目黒川沿い)、未成となった内環状線(神田川沿い)等の原型と言える。

 また、分岐線(2)は、現在の9号線の原型とも思われるが、1962年9月の段階でもまだ現在のルートにはなっていない。

 当時は、江戸橋以東が日本橋川箱崎川経由ではなく、箱崎インターチェンジ(後にジャンクション)自体の計画が無かったため、これはやむを得ないところか。

 なお、実務家が首都高の経緯を整理した「首都高速道路のネットワーク形成の歴史と計画思想に関する研究」古川公毅 [著] にもこの新聞記事のルートは載っていないので、ひょっとしたら貴重かも(ジュルジュルー)。

 

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(参考地図)

・東京都第二建設事務所管内図・・・神田川等の確認に

 http://www.kensetsu.metro.tokyo.jp/content/000039191.pdf

・東京都第三建設事務所管内図・・・渋谷川、目黒川等の確認に

 http://www.kensetsu.metro.tokyo.jp/content/000028318.pdf

・『渋谷川って、どんな川だったの?』

 https://www.city.shibuya.tokyo.jp/assets/detail/files/kurashi_machi_pdf_spub03_09.pdf

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2019年2月24日 (日)

首都高の景観は当時は会心の自信作だったようだ-マスコミは「首都高で日本橋の景観が損なわれた」って言うけど、作った当時は何て言ってたのさ(その2)-首都高日本橋附近の地下化関連(7)

 随分さぼっていました。またボチボチ書きはじめます。

 

マスコミは「首都高で日本橋の景観が損なわれた」って言うけど、作った当時は何て言ってたのさ-首都高日本橋附近の地下化関連(2)

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/--d6b7.html

 で、首都高の日本橋附近等の景観について建設当時はどう触れられていたかを検証してみたところである。

 例えば、下記の 東洋経済の一井純氏は「そこに景観や都市計画という視点はなかった」と言い切っていることに対して、いや実際はどうだったのよというところをネチネチとエビデンスを探してきたわけである。

首都高と日本橋 (7)

 

 で、新年の一発目のブログ更新にあたり、その新ネタを追加したい。

 東京都が「都史資料集成II 都制施行から昭和30年代までを対象にした東京都の歴史に関する資料集」という素敵な本を出版しているのだが、その第2巻で「図録東京都政2 「文化スライド」でみる東京~昭和30年代」というものがある。

http://www.soumu.metro.tokyo.jp/01soumu/archives/0602t_syusei2_z2.htm

 「東京都が都政広報のために作製・発行した「東京都文化スライド」を素材に、昭和30年代の東京の様子を紹介したものです。 急激な人口集中や経済発展、それに伴う公害の顕在化等、オリンピック開催を迎えて変ぼうを遂げていく東京の姿をご覧ください。」

 ということで、当時の首都高速道路がどのように扱われてるかが気になって調べてみた。

 「第四 都市整備とオリンピック 4-大東京(昭和41年2月)」に完成した首都高速道路が出てくる。

首都高速道路と都市景観 (1)

 日本橋川上空を跨ぐ江戸橋インターチェンジ(現ジャンクション)についての解説がそれにしてもすばらしい光景ですね。」ときた。

 

首都高速道路と都市景観 (2)

 そしてもう一か所首都高速道路と都市景観の関係に触れているのが赤坂見附附近である。「みごとな都市美を見せています。」ときた。

 

 私は、従前から「高度成長期、もしくはオリンピックのための突貫工事のため、都市美・景観を顧みずに首都高速道路が作られた」という説に対して「いやそうとちゃうんちゃうのん?」と当時の言説を拾い集めているのだが、むしろ施主である東京都にとっては景観無視どころか、自信満々の会心作くらいの気持ちで広報していることが分かる。

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2018年10月21日 (日)

名橋「日本橋」保存会副会長、細田安兵衛氏の「(首都高が日本橋の上に架かることへの反対は)全然、記憶にないね。」というのは本当か?-首都高日本橋附近の地下化関連(6)

 ――建設前に、地元で議論とか反対とかなかったのですか。

 

 「全然、記憶にないね。当時、私の父も含めて日本橋の旦那衆は、高速道路なんて見たことなかったんだ。私のじいさんなんて『なんだ、高速道路はもっと(背が)高いのかと思ったよ。随分低いんだな』と。そんな笑い話もあるくらい、よく知らなかった。むしろ便利になるからいいことだと。手塚治虫さんが描いた未来都市のイメージで、『羽田空港から日本橋まで15分で着いちゃうらしいぞ』『それは、すごいね』なんて気楽な話をしていた。『国策として大事な時に、お上のいうことに反対するなんてみっともねえじゃないか』という思いもあった。そんな時代だよ」

 

NIKKEI STYLE 2020年から見える未来

「日本橋に首都高いらない」 地元重鎮が地下化に異議

「栄太楼総本舗」6代目、細田安兵衛さんに聞く

https://style.nikkei.com/article/DGXMZO20830810W7A900C1000000

(オリパラ編集長 高橋圭介)

 

 首都高速道路の日本橋附近の地下化において、ネット上では大変多くRT等されている記事である。

 『お上のいうことに反対するなんてみっともねえじゃないか』あたりが、なんとなく「いかにも江戸っ子らしい」イメージとも合致する。

 上記の日経新聞だけでなく、朝日新聞の天声人語も追随する。

▼橋のすぐそばに本店を構える百貨店「三越」(現三越伊勢丹)の元社長、中村胤夫(たねお)さん(81)は入社時がちょうど 首都高の建設中だった。「高速道は戦後復興の象徴でした。心を躍らせて工事を見守ったものです」。建設反対の声を聞くことはなかったという

 

(天声人語)日本橋を歩く

2018(平成30)年6月9日 朝日新聞朝刊

 細田安兵衛氏は、名橋「日本橋」保存会副会長で、中村胤夫氏は、名橋「日本橋」保存会会長である。両名は、日本橋の首都高速道路撤去(地下化)にあたっては各所に働きかけ多くの発言を行っている。

 

 細田安兵衛氏は、同様にこんな発言もしている。

(太田美代)

ところで、オリンピックの負の置き土産が、日本橋の上に架ってしまった高速道路。日本の原点のような名橋が、大きく美観を損なってしまったわけですが、これに関して地元で大きな反対運動が起きるというようなことなかったのですか?

(細田)

なかった。なぜって、高速道路なんて誰も見たことがないんだから、反対もなにもない。それどころか、「高速が架かると、羽田から15分で日本橋に着いちゃうんだってさ」「それはすごいな」「かっこいいぞ、未来都市だな」なんて、気楽な話をしてた。それに、「お国がやることに反対したら、みっともない」というのが当時の空気だった。 もちろん工事が進む様子は毎日見ていたけど、遠くの方からだんだんと高架橋が延びてきて、右からも左からも延びてきて、最後は一晩で日本橋の上に架けちゃった。 朝、起きたら、日本橋の上に高速道路が架っているんで、びっくりしたよ。「なんだこりゃ」「ひどいねえ」なんて。

 

大旦那のちょっといい話【細田安兵衛(榮太樓總本鋪相談役、東都のれん会会長) 昭和39年(1964)第18回夏季オリンピック 東京オリンピックの思い出】

東都のれん会

http://www.norenkai.net/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%83%E3%82%AF%E3%81%AE%E6%80%9D%E3%81%84%E5%87%BA/

 上記から、「反対運動は全然ない」というのは日経新聞の高橋圭介記者が書きすぎたり聞き間違ったのではなく、複数のメディアで細田安兵衛氏が語っているということで一定のウラはとれたのではないかと思う。

 

ところで、明橋「日本橋」保存会が1992(平成4)年3月に発行した「日本橋架橋80周年記念誌」に掲載された対談「21世紀の日本橋を考える」において、細田安兵衛氏はこのように語っている。

日本橋は首都高に反対していた (1)

 

日本橋は首都高に反対していた (2)

 細田■日本橋のほうは橋の上に高速道路を掛けるときもいま一つ反対の声が弱かったし、金融機関の進出にも何ら異議を唱えなかったし、そのあたりの意識からちょっと違うんですね。

 まあ日本橋の旦那衆は大まかというか、人がよすぎるというか(笑)、仲良く遊ぶことは好きだが、この点は反省部分がありますね。

 

「日本橋架橋80周年記念誌」 明橋「日本橋」保存会・刊

対談「21世紀の日本橋を考える」103~104頁

 

 反対してるじゃん。「今一つ反対の声が弱かったのは反省部分」だって自分で言ってるじゃん。

 

 整理すると

 

■2017年の細田安兵衛氏

 

「(反対は)全然、記憶にないね」「国策として大事な時に、お上のいうことに反対するなんてみっともねえじゃないか」

 

■1992年の細田安兵衛氏

 

「いま一つ反対の声が弱かった」「そのあたりの意識から(銀座と日本橋は)ちょっと違う」「この点は反省部分があります」

 

 25年以上経つと言うことが随分違ってきたようだ。いや本当に「記憶」がなくなっているのかもしれないのだが。

 

 他に当時の発言はないか探してみた。

 

 今から三十余年前、東京は、初めてオリンピックを開く熱気に包まれていた。敗戦国が五輪開催国になる。街のあちこちにつち音が響いた。

 その興奮の中で、あわれ、お江戸日本橋は空をふさがれる。1963年12月、橋の上に首都高速都心環状線が開通した。

 「地元には反対する人もあったんですが、『オリンピック』が錦の御旗になりまして。『近代的でなかなかいいじゃないか』といった声も出ましたが、あたしは、あんなふたをかぶせたようなものになるとは思いませんでした」

 六八年に発足した「名橋日本橋保存会」の副会長で、日本橋六之部町会連合会長も務める成川孝行さん(六七)は言う。

 

日本橋に残る東京五輪の傷跡(すとりーとスケッチ)

1998(平成20)年2月8日 朝日新聞朝刊

 朝日新聞でも2018年の「天声人語」と1998年の記事では言っていることが違いますねえ。。

 

 細田安兵衛氏の現在のポストである名橋「日本橋」保存会副会長(当時)の成川孝行氏は「地元に反対する人もあった」と語っている。

 この後から小泉政権において、日本橋附近の首都高の撤去・地下化が表立って取り上げられるようになる。

 そういった動きのなかで、「日本橋の住民は反対したけど弱かったし、それは反省すべきだった」ということでは何等かの不都合が生じ、「江戸っ子の心意気から全く反対しなかった」という方が都合がよいということになったのだろうか?

 細田安兵衛氏は、他の書籍で「日本橋のことは自分が一番詳しい」というような趣旨のことをおっしゃっていたが、ご自分のおっしゃっていることが時代とともに変わった理由も説明してほしいものだ。

 

八木長本店 八木長兵衛会長によると、首都高建設に当地元は大反対だったが、オリンピックのためという雰囲気に気持ちを押し殺したという。

 

「再生「首都高地下化」で空と川が… 景観改善で東京どう変わる?」あさチャン! けさのボード

2017(平成29)年7月24日放送

https://datazoo.jp/n/%E5%86%8D%E7%94%9F%E3%80%8C%E9%A6%96%E9%83%BD%E9%AB%98%E5%9C%B0%E4%B8%8B%E5%8C%96%E3%80%8D%E3%81%A7%E7%A9%BA%E3%81%A8%E5%B7%9D%E3%81%8C%E2%80%A6+%E6%99%AF%E8%A6%B3%E6%94%B9%E5%96%84%E3%81%A7%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%81%A9%E3%81%86%E5%A4%89%E3%82%8F%E3%82%8B%EF%BC%9F/13389551

 もっともこのように近年でも「地元は大反対だった」という証言もあるようだ。

 

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 参考までに補足すると当時の報道では、日本橋上への架橋について地元が反対している旨の記事が掲載されている。

清水草一が知らない首都高反対の動き3

1960(昭和35)年4月13日付読売新聞

 

 首都高速道路公団においても「地元ではこの橋の下を隧道で通るように強く要望された」と記している。

首都高速の日本橋川に架かる高架橋のデザイン等  (10)

 「首都高速1・4号線の開通に当って」西畑正倫(元・首都高速道路公団理事)「高速道路と自動車」1964(昭和39)年9月号27頁から引用。

 この辺の経緯は、かつて「首都高に高松宮が「日本橋はどうにかならないものか」と申し入れし、オリンピック後に地元からの要望で日本橋川の上に首都高のルートを変更していた」

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2018/09/post-0d26.html

もあわせてお読みいただきたい。

 江戸橋ジャンクション以東の日本橋川上空の区間は、もともと地上を通るはずだったのを、「オリンピック後に」「地元の要望を受けて」日本橋川の上を塞ぐようにルート変更していること等も紹介している。この辺には「江戸っ子」はいなかったのだろうか?

首都高と日本橋 (2)

 

 ところで、1962(昭和37)年5月29日付の朝日新聞に「東京の橋」と題して下記のような記事が載っている。

日本橋は首都高に反対していた (3)

 日本橋近辺の江戸情緒の喪失の例として「榮太樓アメ」の高層ビルと首都高速が同列に並べられているのだ。

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 しかし1963年、翌年に開催される東京オリンピックのため、日本橋の上に覆いかぶさるように首都高速道路が建設されたのだ。江戸の旦那衆は「お上」に従順な気性であり、高速道路に未来都市的な感覚や憧れもあり、反対する住民はいなかった。しかし、一晩で設置された日本橋の橋梁を見て、日本橋周辺の景観が変わってしまったことに呆然としたという。

(中略)

 細田氏は、日本橋の将来像について、次のように話す。 「大切なのは粋がらないことだ。粋なまちをつくろうとしたら、逆に野暮なまちになる、というのが日本橋の旦那衆の考え方。野暮にならないまちを目指し、江戸の伝統を活かした『大人のまち』をつくりたい。」

 

「地域経済活性化とファミリービジネス 事例集」17-18頁

経済産業省地域経済産業グループ地域経済産業政策課

 

 「大切なのは粋がらないことだ。粋なまちをつくろうとしたら、逆に野暮なまちになる」とはカッコイイことをおっしゃいますねえ。

 「江戸の旦那衆の気性から反対する住民はいなかった」というのは粋がりすぎて野暮になってませんかねえ。

 「銀座と違って日本橋の旦那衆は反対の声が弱かった。今は反省して頑張っている。」でいいじゃないですか。

 それに「江戸の旦那衆」で大くくりにしすぎちゃうと、ご自分でおっしゃっていた「銀座と日本橋の旦那衆の危機感の違い」が分からなくなっちゃいませんかねえ。

 

 

※(余談)「旦那衆=住民」ではない(旦那衆以外の住民はアウトオブ眼中なのか)と思うのだが、その辺の問題意識は私には手が負えないので、どなたか。。。

※(余談その2)

 資料探索中に大正天皇即位の礼における日本橋奉祝門の写真を目にすることができた。なかなか江戸情緒にあふれている??

 これの様式等お分かりの方はご教示いただけますと幸いです。

日本橋奉祝門

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2018年9月19日 (水)

WEB CARTOP 「軽自動車のナンバープレートが黄色いワケ」が嘘くさい

料金所の係員が目で簡単に判断できるため

 

(略)

 そうしたなか、軽自動車の黄色のナンバープレートが目立ちすぎるというか、ボディカラーと合わせにくいというか、ちょっと気になる……。

 そこでなぜ軽自動車のナンバープレートが黄色なのかを調べてみた。歴史的にみると、軽自動車枠が360㏄だった最後の年の1975年1月から、この黄色いナンバープレートが導入されている。

 それまでは、2輪車と同じ小さなサイズのナンバーで、白地に緑文字という組み合わせだった。しかし、1975年から軽自動車のナンバーサイズも普通車と同じ大きさになり、普通車と見分けるために、軽自動車はもっとも視認性のいい黄色に黒の文字(事業用は黒に黄色の文字)が選ばれることになった。

 ではなぜ軽自動車のナンバーに視認性の良さが求められたかというと、高速道路料金が普通車と軽自動車では違ったため(軽自動車は2割安い)。ETCが普及するまでは、高速道路の料金所で係員が一台一台精算をしていたため、ゲートの係員がひと目で判別できるようにということだ。昼・夜を問わず認識しやすい黄色いナンバープレートが採用されたというわけだ。

(略)

 

軽自動車のナンバープレートが黄色いワケ 投稿日: 2018年7月21日 TEXT: 藤田竜太

https://megalodon.jp/2018-0919-2230-52/https://www.webcartop.jp:443/2018/07/258600

 なんか納得しちゃうかもしれない。yahoo!知恵袋でもそんな回答だ。

 しかし、下記の表をよく見てほしい。

高速道路料金車種区分

 https://www.express-highway.or.jp/info/document/rpt_e_007a1.pdf

 日本道路公団の高速道路料金は、1989(平成元)年までは、3車種区分しかない。普通車と大型車Ⅰと大型車Ⅱ(特大車)である。軽自動車単独の料金が普通車から分かれて設定されたのは1989(平成元)年6月1日以降である。

 首都高速道路に至っては、長く普通車と大型車の2車種区分であり、軽自動車等の区分ができたのはついこの前の2016(平成28)年4月1日である。

  WEB CARTOPの藤田竜太氏の記事では、軽自動車のナンバープレートが黄色くなったのは1975年1月ということだから、1975年の段階では、軽自動車は「普通車」の料金の枠の中で同額であり、「ゲートの係員がひと目で判別できるように」する必要は全くないのではないか?

 

web car top

 問い合わせを入れておいたので、答えがくれば皆様にお知らせします。

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2018年9月18日 (火)

JR東海リニア担当副社長はかつて「リニアができると新幹線は大赤字で、公的資金が必要」と書いていた

 日経ビジネス2018年8月20日号が「「陸のコンコルド」、リニア新幹線の真実」という特集を組み、一つの論点が、「リニアは公的資金抜きで採算が取れるのか?(採算が取れないからこそ第三のモリカケ案件として財投が投入されたのではないのか?)」ということであったかと思う。

 

 (葛西は)88年、常務に昇格し、その秋に関西経済連合会の会合で講演に立ち、こう話している。

 「東海道新幹線とリニアは一元的に経営されなければならない」

 「(リニア計画の)全額を民間資金で行うことは難しい。3分の2は民間資金で行ってもよいが、残る3分の1は国のカネが必要ではないか。つまりナショナルプロジェクトとして推進しなくてはなりません」

日経ビジネス2018年8月20日号が「「陸のコンコルド」、リニア新幹線の真実」

 ところで、この講演については、東京新聞はもうちょっと踏み込んで書いている。

 国鉄民営化から日も浅い1988年10月。JR東海のリニア対策本部長だった葛西敬之名誉会長は、「中央リニアエクスプレスの実現に向けて」と題した大阪市内の財界の講演会で、こう訴えた。

 「リニアができると東海道新幹線は赤字になる。リニアの建設費の3分の1は国の金が必要ではないか。つまりナショナルプロジェクトとして推進しなくてはならない」

 まだ実用化のめどすら立っていなかった時代。国鉄民営化に尽力した葛西氏の頭には、既に国の支援によるリニア建設と言う構想が描かれていた。

(略)

 JR東海の元労組幹部は「自前でスタートを切って、それを呼び水に途中から国策に転換するというのが葛西の口癖だった。葛西の戦略通り、リニアは国策となった」と振り返る。

 

2018(平成30)年3月7日付東京新聞「四強時代 リニア談合の底流 2」

 

 私が気になったのは、この葛西リニア対策本部長が講演したベースがどこかにないかということである。

 で、調べてみるとこのような報文がでてきた。

JR東海副社長のリニア採算性報文 (1)

 JREA(社団法人日本鉄道技術協会)1988年11月号に掲載された「中央リニアの概略と採算性検討」。執筆者は東海旅客鉄道リニア対策本部の宇野護氏である。

 まさに葛西リニア対策本部長が講演した1988年10月と時期は合っているし、部署も同じリニア対策本部である。

 そして宇野護氏は現在、JR東海のリニア担当副社長である。

 報文の要約ベースの箇所に「新幹線の赤字が大きく公的資金の導入等が必要となる。」とあり、葛西リニア対策本部長の講演内容(東京新聞による)の 「リニアができると東海道新幹線は赤字になる。リニアの建設費の3分の1は国の金が必要ではないか。つまりナショナルプロジェクトとして推進しなくてはならない」と平仄があうではないか。

 つまり、この宇野護氏の報文は、葛西氏の講演の(全て一致しているかどうかはともかく)バックデータとしての位置づけを担っているのではないか。

 

 全部をコピペするわけにもいかないのでポイントだけ紹介しよう。全部読みたい方は国会図書館等へどうぞ。

JR東海副社長のリニア採算性報文 (2)

 リニアの東京-大阪間全通時には、東海道新幹線の旅客の55%がリニアに転換するという。(リニアの運賃水準は東京~大阪の航空機往復割引の片道分の9割と設定。)

 この結果、「東海道新幹線単独で見た場合、見掛け上△2.5兆円の大きな赤字を生じることになるともいえ、とても存続できる状況にはない」と宇野護氏は述べる。

 ということは、葛西リニア対策本部長の講演での「東海道新幹線とリニアは一元的に経営されなければならない」という発言は、宇野護氏の「東海道新幹線は単独ではとても存続できる状況にはない」という報文の裏腹であると言えるのではないか。

 

 では、「東海道新幹線とリニアは一元的に経営」された場合の見通しはどうなるのか。

JR東海副社長のリニア採算性報文 (4)

JR東海副社長のリニア採算性報文 (3)

 左側のグラフにあるように、リニア単独であれば初期投資額を現在価値が上回り、採算が見込めるが、右側のグラフによると、大きな赤字を生じる東海道新幹線を加味すると、資本コスト7%はおろか、3%でも現在価値が下回り、不採算となる。

 この資本コストの差を埋めて採算性を確保するために一定の公的資金等が必要というわけだ。

 葛西リニア対策本部長の 「リニアができると東海道新幹線は赤字になる。リニアの建設費の3分の1は国の金が必要ではないか。」というのはこういうことであろうか。もっとも、宇野護氏の報文には「資本コストが相当小さくならないと採算が取れない」とはあるが「3分の1」を明示したものはない。そこは経営判断レベルということなのだろうか。

 

JR東海副社長のリニア採算性報文 (5)

 

 宇野護氏の報文の結論は、

 (1) 中央リニアと東海道新幹線を別々に運営することは困難である。

 (2) 金利7%の資金をすべて使っての実施は困難であり、一定の公的資金、利子負担の軽減、運賃の値上げ等の施策を組み合わせることが必要といえる。

ということとなっている。

 日経ビジネスの記事へのSNSでの読者の感想には「JR東海は自力で資金を調達できるのだから、そもそも財投等の公的資金はいらないのだ」というものがあったが、金利まで考えると、資金を調達できるだけではダメなのだということか。

 

 尤も、この報文は、30年前に執筆されたもので、現在では金利も旅客需要の想定も大きく異なるし、当時は新幹線はリースのままだ。3~4兆円を見込んでいた建設費は東京~名古屋間で5兆5千億円、東京~大阪で9兆円とも言われる。この段階でのざっくりとした想定の試算をもって直ちに現在のリニアが不採算であると結論づけることは誤りであろう。

 だからこそ、日経ビジネスの金田信一郎記者には、宇野護リニア担当副社長にこの30年前の報文を持っていって「あなたが昔書いたこのペーパーを赤ペンで時点修正してくれ」と要求してほしかったなーなんて思ったりする。それで採算が大丈夫というデータが分かるのならそれはそれでいいことではないか。

 「のぞみプラス1000円という破格の料金で大丈夫なのか?」という聞き方よりも「あなたは30年前に運賃の値上げ等の施策の組み合わせが必要と書いていたではないか?」と聞けばもっと掘り下げられたんじゃないかなあとかね。

 

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 鉄道をこよなく愛する方からは、「JR東海が公的支援を受けるのは、当初の計画よりも前倒しで大阪延伸するためであって、おかしいことではない」という声もあったような気がする。

 それに対して「当初の名古屋までの計画の自己資金だって口だけで、担保がなかったんじゃね?」と指摘するのが「ZAITEN」2017年4月号 「特集:わが国の大動脈に居座る「安倍政権の後見人」の正体とは― JR東海「葛西敬之名誉会長」の研究」である。

 

 加えて、関係者が「27年開通は無理」と推定していたのは、名古屋までの5兆5000億円という建設費が調達できないのではと見ていたからだ。

(略)

 国交省鉄道局は、5兆5000億円のうち2兆5000億円は、東海道新幹線の収益で充てることができると説明する。それでも3兆円足りない。これをどう工面するのか。

 同社の純資産額は2兆2199億円しかない(16年3月期決算、単体)。3兆円分の担保がない以上、市中銀行は貸し渋るから、社債の大量発行で乗り切るのかと予想する関係者もいた。

 ところが驚いたことに、昨年6月1日、安倍晋三首相が「リニアや整備新幹線などに財政投融資を活用する」と表明したのだ。

 

「ZAITEN」2017年4月号 31~32頁

 「所詮財界誌じゃねえか」と言われると身も蓋もないのだが、この特集には財界誌らしく、葛西氏の「女性スキャンダル」が写真週刊誌に掲載された顛末等も載っているのでそういうゲスな方面がお好きな方は是非。

 

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 日経ビジネス2018年8月20日号「「陸のコンコルド」、リニア新幹線の真実」では、用地買収に係る地元とのトラブルを取材して、「第二の成田」なんて書き方もしていた。

 静岡県等の地元自治体ともめつつも土地収用法の手続きは進めたいようである。

 個人的には「地元自治体とうまく足並みがそろっていないと、横浜貨物線のときもそうだったけど、土地収用はうまくいきませんぜ」等とも思ってしまう。

 

 日経ビジネスの記事では市役所への用地交渉委託を何か「自治体を金で買った」ように書いているように見えるが、公共事業で地方自治体に用地交渉を委託すること自体は決して珍しくない。

 ただし、リニアでは興味深い委託がなされている。

 

リニア新幹線/JR東海、大深度地下使用で近く認可申請へ/用地取得業務支援体制構築  [2016年6月16日4面]

 

 用地取得の取り組みについて、後藤部長は「土地の取得面積は350万平方メートル、土地所有者数は約5000人に上り、ノウハウを持つ方々の支援・協力を得ながら事業を進める体制を構築した」と説明。ほとんどの区間の用地取得事務を自治体(相模原市、神奈川県、山梨県、長野県、同県飯田市、岐阜県、愛知県、名古屋市)に委託し、補償説明などを進めている。

 自治体とは別に、用地取得支援・補助業務を首都高速、中日本高速、阪神高速の3高速道路会社のほか、土木工事の一部発注業務を担当する鉄道建設・運輸施設整備支援機構に委託している。

 

日刊建設工業新聞

https://www.decn.co.jp/?p=70372

 

 首都高速道路、阪神高速道路、NEXCO中日本に「用地取得支援・補助業務」という業務を委託しているという報道だ。自治体と違って阪神高速は土地勘もない仕事だ。NEXCO中日本はライバルだ。支援・補助って何をやっているのかこの記事では分からないが。

 

 SNSでは、「JR東海は民営化した後に大規模な新線建設工事をやっていないから委託したんじゃないか」との声もあったような記憶がある。

 用地買収経験がないからトラブルを起こして、ゼネコンから「道路会社ではこんなことは。。」なんてことを言われてしまうのだろうか?

 

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(余談)

JR東海副社長のリニア採算性報文 (7)

 これは、同じ日経BP社でも日経ビジネスではなく、日経コンストラクションという建設業界向けの専門誌で2018年2月26日号「特集 リニア談合 悪いのは誰か」の冒頭の記事に掲載された建設業界アンケートの回答である。

 SNSの鉄道マニアの書き込みでは「リニア談合ではJR東海は被害者なのに。。。」という声が多く見られたが、業界向けアンケートでは、JR東海は「加害者 48%」「被害者 26%」とダブルスコア近くのポイントでJR東海が加害者と思われているとのデータである。

 アンケートのコメントには「JR東海の調達行為は不透明で、官製談合のような加害者側にあると言える。」「発注・入札に限らずJR東海は全体的に説明が足りない。」といったことが太字で載っている。

 他の発注者と比べてみないとこれだけでは何とも言えないが。

 まあ、日経BP社とJR東海はこの辺から既にチャンバラやっていて、今回は第2弾ということになるんですかね。

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2018年9月17日 (月)

首都高速の路線変更から秋庭大先生の嘘をあばく

 秋庭大先生といえば、まあアレである。

 ところで、先日書いた「首都高に高松宮が「日本橋はどうにかならないものか」と申し入れし、オリンピック後に地元からの要望で日本橋川の上に首都高のルートを変更していた」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2018/09/post-0d26.htmlを書いていると、秋庭大先生の嘘が一つ分かった。

 

 「帝都東京・隠された地下網の秘密<2>」という著作があり、まあいつものとおりなのだが、こんな記載がある。

秋庭大先生

 「帝都東京・隠された地下網の秘密<2>」秋庭俊・著 122~123頁から引用

 「中央区浜町附近に首都高速と異なる妙な街路計画がある」と秋庭大先生は指摘し、またいつものようなアレな妄想を膨らませている。

 しかし、私のブログの読者ならお分かりのように、これは首都高が江戸橋から両国に向かう(箱崎を通らない)当初の都市計画決定ルートにすぎない。

秋庭大先生2

 別に地下に秘密の施設があるわけでもなんでもない。

 この路線が東京オリンピック後の地元要望等により、江戸橋から日本橋川、箱崎を経て両国へ向かうように変更されたのが現在の首都高速道路6号線である。

首都高と日本橋 (1)

 首都高速道路公団広報誌「首都高速」から引用。

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団地内に高速道路の敷地を確保していても事前に説明しておかないとトラブルになる

 吹田市立博物館&パルテノン多摩歴史ミュージアムの連携展示「ニュータウン誕生」の図録を見ていたら、38頁にこんな記載があった。

団地と高速道路 (2)

 南多摩尾根幹線は、高速道路でも十分な幅員の空き地があいている未成道ということくらいは知っていたが、もともと道路予定地を確保していたが団地入居前に説明がされていなかったこと等を原因として、現在は生活道路の高規格版といった形で整備が進められている。

団地と高速道路 (3)

 詳細は、こちらをごらんいただきたい。http://www.toshiseibi.metro.tokyo.jp/kiban/minamitama/pdf/slide.pdf?1503

 

 そういえば、中央道の世田谷区内烏山北団地付近も似たようなトラブルがあった。ちょうどシェルターがある箇所である。

団地と高速道路 (1)

 出典「野村鋠一顧問 談話録」編集・発行 財団法人東京市政調査会 67頁

 こちらも「山田正男首都整備局長が団地のど真ん中を高速道路が通るように空けていたが入居前に住民にしらせていなかったようです」とある。

 野村氏は、この紛争解決の際に日本道路公団と団地住民の間を調整した東京都都民室長だったので情報の精度は相当なものと思われる。(ただし建て替えはあったはず)。

 

 烏山北団地については、山田正男氏の名前が出てきているが、多摩ニュータウンの計画に深く関与していることも旧知の事実である。

山田正男

 山田正男は「山田天皇」と呼ばれ、東京の都市計画に辣腕、剛腕をふるったものだが、時代とともに、住民への事前の根回しなしには事業は進まなくなっていたということであろうか。団地入居前に道路の説明をしておけば結果的に急がば回れになっていたのかもしれない。こういった背景を調べもしないで「プロ市民」呼ばわりすれば俺国士様カッコイーみたいな風潮があるがけしからんことだ。

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2018年9月16日 (日)

南海ホークスはダイエーではなく、九州のスーパー「ユニード」へ売却されるはずだった

 今から30年前の夏、福岡の高校から関西の大学へ進学していた私は、下宿の近くの新聞スタンドに積んであったスポーツ新聞(大阪版)の見出しに噴いた。

 「新球団ユニード」だと!?

南海ホークスの身売り先はダイエーではなくユニード (2)

 ユニードといえば、福岡でその辺にある地場のスーパーにすぎない。全国級の知名度なんてあるわけない。

 スクープしたスポーツ新聞にもわざわざユニードとはなんぞやとの解説記事が載っている。

ユニード

 当時の私は、ダイエーが九州進出のために地場のスーパーをその勢力下に入れていたことは知らなかった(だってダイエーはダイエーで福岡にあったやんか)。

 

 スクープした1988年8月29日付の報知新聞(大阪版)一面はこちら。

南海ホークスの身売り先はダイエーではなくユニード (1)

 そして翌日の報知新聞はこちら。

南海ホークスの身売り先はダイエーではなくユニード (3)

 やはり「新球団ユニード」が一面トップだ。

南海ホークスの身売り先はダイエーではなくユニード (4)

 2面では当時巨人の監督だった王貞治氏のコメントが載っている。まさかこの後に自分がホークスの監督になるとは思ってもいなかっただろう。

 

南海ホークス対阪急ブレーブスちけっと

 私もお別れを言いに大阪球場に行ってきた。このときのメガホンと球団旗はまだ持っている。

 相手は奇しくも同じ年に身売りした阪急ブレーブス。有名なダミ声の阪急応援団長が「なんか~い!はよ~やめ~!」とやじっていたのを今でも覚えている。

 阪急ブレーブスがオリエントリースへの身売りを発表する約1カ月前であった。

小倉球場

<おまけ>

読売ジャイアンツVS横浜大洋ホエールズ@小倉球場

バッティング練習をする田代富雄選手を見守る土井監督

 

※自分の昔の記憶を国会図書館のマイクロフィルムで掘り出すのが楽しかったという「自己満足」記事です。「そんなの常識やん」というツッコミはご容赦いただきたければ幸いです。。。

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«首都高に高松宮が「日本橋はどうにかならないものか」と申し入れし、オリンピック後に地元からの要望で日本橋川の上に首都高のルートを変更していた