2020年9月21日 (月)

アマルフィの13世紀の暗渠(暗渠のせせらぎが聞こえる動画あり)

 ということで、拙ブログも遅ればせながら暗渠支援である。

 と書くと、「またこいつは東京人の記事の『検証』をやらかすのか」と危惧される方もいらっしゃるかもしれないが、今回は検証はしないw

 

 アマルフィの暗渠ネタでも如何?

 アマルフィといえば、織田様のハズレ映画としても有名であるが、ここに暗渠が!?

 


  ナポリの南、約45キロの位置に、南イタリアが誇る魅力的な中世海洋都市アマルフィがある。ピザ、ジェノバ、ヴェネツィアといった北イタリアの名高い中世海洋都市よりもいち早く、地中海を舞台にオリエント、イスラーム世界との交易に活躍したこの都市は、共和制の下で10~11世紀にはすでに繫栄を極めた。(略)

 いかにも地中海の港町らしく、太陽に溢れたアマルフィは、背後に険しい崖が迫る高密な迷宮都市を築き上げている。(略) 

  

「興亡の世界史 イタリア海洋都市の精神」陣内秀信・著 講談社学術新書 159頁 

 

アマルフィの暗渠 (1)  

 これが海側から見たアマルフィの街である。

 ここのどの辺に暗渠があるのだろうか?

 

 


 川の上にできたメインストリート

 (略)アマルフィの商業機能は、このフェッラーリ広場、そしてドゥオモ広場から続き、谷底の部分を南北に貫くメインストリートに集中している。

 目抜き通りに入っていこう。このメインストリートの商業空間は、13世紀後半に、谷底に流れていた川を暗渠にすることで発展した。イスラーム都市のスークのように、道路沿いの一階に小さな店がぎっしり並び、活気がある。(略)

 

「興亡の世界史 イタリア海洋都市の精神」陣内秀信・著 講談社学術新書 213~214頁

 


大きな地図を表示

アマルフィ暗渠 (1)  

 ドゥオモ広場である。 

アマルフィ暗渠 (2)  

 如何にもな蓋があるではないか! 

アマルフィの暗渠 (5)  

 メインストリートを歩いてみると如何にもな蓋が続いている。 

アマルフィの暗渠 (6)  

アマルフィの暗渠 (4)  

 両サイドには観光客向けのお土産屋さんが並んでいる。そこを一人下を向いて暗渠サイン(by暗渠マニアックス)を探す私。。。 

アマルフィ暗渠 (3)  

 おお、泉っぽいモニュメント。これは暗渠サインに違いない。 

アマルフィ暗渠 (4)  

 緩やかなカーブ 

アマルフィの暗渠 (7)  

 こちらも下りながらの緩やかなカーブ。川の上に蓋をしたっぽいですね! 

アマルフィの暗渠 (9)  

 そしてこのマンホールの並び方!これぞ暗渠サイン! 

 

 動画です。結構な勢いで水が流れているのが聞こえますでしょうか? 

アマルフィの暗渠 (2)  

 多分、この橋の下に流れ出ているのでしょうな? 

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 <おまけ> 

アマルフィの暗渠 (3)

 ドゥオモ広場の噴水 (この水も暗渠由来かしらん?)

 

アマルフィの暗渠 (8)  

 ドゥオモ広場でおっちゃんが広げていた新聞にグレンダイザーの超合金の全面広告が!! 

 

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2020年8月31日 (月)

豊島園遊園地モノレール「空飛ぶ電車」は国鉄三木忠直の指導で日立が作った「弾丸列車の試作品」

 西武のとしまえん遊園地が営業終了するという。

 ところで、私のブログの趣旨でいけば、豊島園のモノレールに触れなければならない。

日立と豊島園モノレール (2)

日立と豊島園モノレール (3)

日立と豊島園モノレール (1)

 メーカーの日立製作所の技報に世界の実用車と肩を並べて堂々と遊園地の遊具が載っている。

 これには訳がある。西武の社内報に下記のような記事が掲載されている。


 今中央広場に偉容を誇っている「空飛ぶ電車」は、もう七、八年前にできたものであるが、当時国鉄の技術研究所で、三木さんが研究されて居った「モノレール電車」の構想が、某新聞に載って居ったものにヒントを得て、同氏の指導を受けながら、車体を日立製作所の笠戸(山口県)工場で製作させ、架構を清水建設に建設させたものである。今年になって上野公園にやっとできた東京都が日本初めてと自称する懸吊電車も、とうの昔豊島園にできていた「空飛ぶ電車」と同構想のものである。この際「空飛ぶ電車」という名称の名付親は宮内常務であることを附記しておく。

 

「復興社の事ども(3)」 復興社事業部長 加藤 肇

「西武」昭和33年5月15日号掲載

 文中「国鉄の技術研究所の三木さん」といえば、旧軍の航空機研究者で戦後国鉄に入り新幹線の開発に寄与し、その後日本エアウェイ開発等でモノレールの普及にも携わった技術者である。 

 三木氏の報文にも豊島園のモノレールに触れたものがある。 

国鉄三木忠直と豊島園モノレール (2)  

国鉄三木忠直と豊島園モノレール (3)  

国鉄三木忠直と豊島園モノレール (1)  

「モノレールについて」三木忠直(国鉄技研、客貨車研究室長:当時)「電気鉄道」1957(昭和32)年1月号  

 豊島園のモノレールについて「我国でもこの方式(引用者注:懸垂鉄道)のものを子供の乗物ではあるが昭和25年に作った」としている。 

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 では、開業当時の報道を見てみよう。 

豊島園モノレール6  

1951(昭和26)年3月31日 付け朝日新聞

豊島園モノレール  

1951(昭和26)年3月31日 付け読売新聞

 読売の方に気になる書きぶりがある。 

 東京-大阪間を二時間半で走るというわが国最初の”空飛ぶ電車”は国鉄技術研究所三木技師を中心に研究が進められてきたが試作品が完成、来月一日から豊島園にお目見えする

  遊園地の遊具ではなく、思いっきり「試作品」とされている。 

 あわせて当時の新聞広告を見てみよう。 

豊島園モノレール5  

1951(昭和26)年3月31日 付け読売新聞

「世紀の驚異!空飛ぶ電車!出現!」 

 

豊島園モノレール2  

1951(昭和26)年4月7日 付け読売新聞

「東京-大阪を2時間で走る弾丸列車の試作」「空飛ぶ電車!出現!」

 

豊島園モノレール3

 

1951(昭和26)年4月21日 付け読売新聞(夕刊)

「東京-大阪を2時間で走る弾丸列車の試作」「空飛ぶ電車」

  

豊島園モノレール4  

1951(昭和26)年5月26日 付け読売新聞(夕刊)

「東京-大阪を2時間で走る空中弾丸列車の試作」「空飛ぶ電車」

  

 一回一回微妙にキャッチコピーが異なっている。 

 なお、広告のイラストではプロペラが強調されているが、新聞記事では朝日と読売でプロペラの役割が異なっている。 

 としまえんのウェブサイトでは 

懸垂型プロペラ推進方式を計画していましたが、推力が出ないために台車をモーターで回す方式に変更しました。」 

http://www.toshimaen.co.jp/final.html2020年8月30日閲覧 

 と書かれている。 

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  三木忠直が所属していた国鉄の鉄道技術研究所が創立50周年記念講演会で東海道新幹線構想の実現可能性について触れたのが1957(昭和32)年5月である。

 「弾丸列車の試作品」である豊島園モノレールの完成から6年後だ。 

 場合によっては、豊島園のモノレールが新幹線の原型と言われていたかもしれない。 作った工場も同じだし。

 サンダーバードでも高速モノレールが出てきたし。 

 なお、三木忠直は、国鉄退職後、日本エアウェイ開発で懸垂式モノレールの普及に貢献した。下記の東京~千葉のモノレール構想(未成)が一例である。その後の湘南モノレールや千葉都市モノレールにも参画しており、さしずめ豊島園モノレールは、湘南モノレールや千葉都市モノレールのお兄さん格であるといって差し支えないだろう。

千葉モノレール

1962(昭和37)年1月9日 付け読売新聞

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 なお、豊島園ローラースケート場では堤康次郎の葬儀が1964(昭和39)年4月30日に行われている。 

 各界から弔電が寄せられているが、広尾の堤邸を訪れたこともある俳優アラン・ドロンのそれを抜粋しておこう。

 「堤会長の逝去の報、ただ今拝受いたしました。生前なみなみならぬ親愛の情うけたまわりましたこの偉大な人の逝去に深くお悔やみ申し上げます。ご夫人に謹んで弔意を呈したてまつります。 アラン・ドロン」

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2020年8月24日 (月)

福島県監査報告「只見線が1本に繋がってこそ意味があり、機能を発揮すると考えるのは共同幻想にすぎない。約54億円は別の事業で有効活用できたのではないか。」

 ちょっと前に、こんなツイートが一部監査、決算マニアの間で話題となった。

 福島県の外部監査で、災害で不通となっていたJR只見線の復旧費用は「他事業に充てるべきで、只見線は1本に繋がってこそ意味があると考えるのは幻想にすぎない。」と批評したというのだ。

 しがないサラリーマンの私からすると「公認会計士の監査なんだから『批評』どころじゃねえだろう」と思うのだが、単なる批評ということにしたい願望がどこかから漏れ出ているのかしらんと思っていた。

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 で、密かに全文が公開されるのを待っていたのだが、福島県のウェブサイトにUPされていたので、ここに紹介したい。

https://www.pref.fukushima.lg.jp/uploaded/attachment/388324.pdf

 当該只見線の部分は、134頁からだ。

 まあ、私はとてもやさしいので結論部分を抜粋してみよう。

只見線全線復旧という精神的価値に54億円を費やし、年間2.1億円の運営費を毎年負担するよりは、会津川口駅~只見駅間はバス代行輸送にした方が、現実的対応だったと思う。会津川口駅~只見駅間の鉄路復旧、只見線の全線開通それ自体が、特に経済的価値を生む訳ではなく、過疎、人口減少に対する地域振興策でもない。それを望むのであれば、不通になる以前に達成できていたはずである。只見線が1本に繋がってこそ意味があり、機能を発揮すると考えるのは共同幻想にすぎない。約54億円は別の事業で有効活用できたのではないか。

 「お、お、お前たちは鉄道の本当の価値を分かっていない!お前のかーちゃんでべそ!!わーん(泣)」

 と思った方は、この先は読まん方がよかろう。

 新聞記事では「幻想」だったが、実際には「共同幻想」である。大学のゼミで読んだ岸田秀や栗本慎一郎を思い出すな。パンツをはいたサルですよ。

 閑話休題。監査報告書に戻ろう。 

只見線復旧は税金の無駄遣いと福島県の監査報告 (1)  

 只見線復旧は税金の無駄遣いと福島県の監査報告 (2)

 今回の監査テーマがこちら。別に只見線だけ狙い撃ちしたわけではない。 担当したのは公認会計士だ。

 只見線の他にも興味深い項目がたくさんあって目移りするのだが、まずは本題である只見線の部分を紹介しよう。 

只見線復旧は税金の無駄遣いと福島県の監査報告 (12)  

 JR只見線会津川口駅~只見駅間の鉄道復旧により、利便性の向上及び只見線を核とした地域振興を図るため、東日本旅客鉄道株式会社(以下、JR東日本とする)が実施する災害復旧工事等に要する費用の一部を補助する。 

 ということで、 

 JR東日本が実施する詳細設計及び災害復旧工事に要する費用の一部を補助する(補助率:2/3) 

  JR東日本が実施する災害復旧工事に必要となる資材置場、作業ヤード等の賃借料、土地取得費、測量、その他の関連費用を補助する(補助率:3/3)

 という部分が福島県の支出となる(今回の監査対象となる部分だ) 

只見線復旧は税金の無駄遣いと福島県の監査報告 (13)  

 こちらが、 

 会津川口駅~只見駅間の今後に関し、平成28年6月にJR東日本は、バス転換案と鉄道復旧上下分離案を提示した。その際にJR東日本はバス転換に際しての具体的支援策を提示した。 

 というものである。 

 バスの方が本数も多いし、所要時間も大差ない。 

只見線復旧は税金の無駄遣いと福島県の監査報告 (14)  

 この辺は実際にバスではなく、鉄道復旧を選んだ経緯等が書いてある。 

 で、ここからが公認会計士の監査意見だ。 

只見線復旧は税金の無駄遣いと福島県の監査報告 (15)  

 意見 

 会津若松駅発の只見線は、朝2本、昼1本、夕方から夜4本、計7本(うち、1本は会津坂下までなので実質6本)というダイヤであり生活路線(通学や病院へ通うために利用)である。朝は6時と7時半の2本しかないために、会津若松市に宿泊した旅行者が奥会津(只見)方面へ向かう場合には、宿で朝食を取ってから駅に向かうというスケジュールでは電車に乗れないだろう。旅行者にとって宿を出る時間帯である8時以降の列車ダイヤは昼1時まで全くない。このことは只見線がもっぱら生活路線であり、観光路線等にはなり得ないことを物語っている。特に会津若松駅~会津坂下駅間は学生の乗降客が多いが、会津坂下駅以降の下りは生活路線としても厳しい状況である。特に不通区間となっている、会津川口駅~只見駅間の1日当たり利用者数は平成22年度ベースで49人。同年度ベースの利用者数ではJR線最下位(岩泉線が平成26年で廃線となったため)である。只見線全線では1日当たり370人で、下から8番目の路線ではある。この49人と370人の違いは、会津若松駅~会津坂下駅間の利用者数が圧倒的に多くて、この区間が只見線全線を何とか維持させていることを示している。 

 生活路線としての只見線の本質を捉えると、会津川口駅~只見駅間を県・会津17市町村負担54億円掛けて鉄路で復旧させる必要はなかったのではないか。同区間はバス代行輸送により生活路線としての機能は維持できている。54億円は別の事業で有効活用できたのではないか。JR東日本がバス転換案で提示した地域振興策のように、古民家を活用した宿泊施設やサテライトオフィスを整備することも可能であろう。若しくは、医師、看護師招致(只見町朝日診療所などの国保診療所や県立宮下病院等)のための費用や、過疎地域でも都会と同じレベルの教育が受けられる受講費用、学習環境整備費用(自習室、図書室整備)など、医療、教育、福祉の分野での活用もできたのではないか。 

 不通区間の復旧は疑問視するが、不通区間以外の只見線の観光資源、観光振興を否定するものではない。只見線沿線の観光資源はもっと広く知られるべきであり、観光振興も強化されるべきであると思う。しかし、会津川口駅~只見駅間を約81億円(県・市町村負担54億円)掛けて復旧しても、年間運営費(平成21年ベースで)2.8億円(県・市町村負担2.1億円)掛かり、老朽化により経費はさらに増えると予想される。更に今後の災害復旧時には全額負担することになる。 

只見線復旧は税金の無駄遣いと福島県の監査報告 (16)  

 同区間が復旧したがために、特に経済的効果が見込まれるものでもない。たとえ、企画列車を運行し、年間3,600人が新規に会津若松駅~只見駅間を往復したとしても、1,216万円(往復運賃@3,380円×3,600人)の収入増にしかならない。運行経費や当該企画のためのプロモーション費用(1千万円単位で予算化される事業)を考えると、実質赤字になるか、あまり経費補填には繋がらない結果になろう。会津川口駅~只見駅間の年間運営費の抜本的軽減策にはならない(なお、運賃収入はJRの収入である。)。 

 只見線全線復旧という精神的価値に54億円を費やし、年間2.1億円の運営費を毎年負担するよりは、会津川口駅~只見駅間はバス代行輸送にした方が、現実的対応だったと思う。会津川口駅~只見駅間の鉄路復旧、只見線の全線開通それ自体が、特に経済的価値を生む訳ではなく、過疎、人口減少に対する地域振興策でもない。それを望むのであれば、不通になる以前に達成できていたはずである。只見線が1本に繋がってこそ意味があり、機能を発揮すると考えるのは共同幻想にすぎない。約54億円は別の事業で有効活用できたのではないか。 

  

 とまあばっさりである。 54億円あれば地元のためにもっと有効利用できたよと。

 よく全国各地で「赤字解消のために観光列車を走らせよう!」とあるが、「プロモーション費用考えたら赤字じゃね?」とつれない。 

 まあ、「公共交通マニア」には「それでも只見線全通は54億円以上の換算できない精神的価値があるんだ!地元の教育や医療なんかよりも鉄道だ!!!111」という原理主義者もいらっしゃるのかもしれない。 

 昔なら「時刻表の地図に路線と地名が載ることにかけがえのない価値があるんだ」的なことを言う人もいたが、今の子は時刻表なんか見ないでグーグルマップの起点終点をクリックするだけだからなあ。

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 上記にプロモーション費用の話がでてきたが、只見線のプロモーション事業についても監査が入っている。 

只見線復旧は税金の無駄遣いと福島県の監査報告 (10)  

只見線復旧は税金の無駄遣いと福島県の監査報告 (11)  

 こちらは只見線復旧費用への断罪に比べて意見なしだ。 

 ただ気になるのが、「只見線魅力発信業務委託」である。受託者が「株式会社よしもとクリエイティブ・エージェンシー」で約1500万円払っている。何やったんですかね?

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 只見線は以上で終わり。 

 あとは、個人的に関心をひいたものを抜粋してみる。 

 

 

「ふくしま地域公共交通強化支援事業」81頁以降

「来て。乗って!あいづ二次交通強化支援事業」:交通事業者等に対し、観光資源等を活用した二次交通対策に係る経費を補助する。①二次交通バス運行、②交通結節点からの二次交通の確保・強化。

 ということで、よくある観光の教科書的な「二次交通の支援」である。

只見線復旧は税金の無駄遣いと福島県の監査報告 (4)  

 

 只見線の有名撮影スポットや東武特急リバティとの連携等まあありそうな話だ。 

 で、監査結果はどうかというと。 

 只見線復旧は税金の無駄遣いと福島県の監査報告 (5)

意見 

 実証事業である「来て。乗って!あいづ二次交通強化支援事業」に関して、「奥会津ぶらり旅」には、1,993万円補助金を支出して、794人の乗降客、一人当たり補助金は2万5千円。「冬奥会津ぶらり旅」には999万円補助金を支出して、1,584人の乗降客、一人当たり補助金は6千3百円。「いなきた号」には、980万円を支出して、53人の乗降客、一人当たり補助金は18万5千円実証事業といえども、ある程度の効果が見込めない実証事業への補助はもともと行われるべきではない。補助対象とする実証事業選定に当たって、どの程度の効果(集客数、乗降者数)が見込まれるかの、結果として単位当たり(一人当たりなど)いくらまでの補助金となる事業なら実証事業を行う意味があるか(例えば、一人当たり補助金が1万5千円以下になると見込まれる実証事業なら補助可能とか)、といった事前の判断基準の設定がない。実証事業に係る補助を効果的に行うには、単位当たり(一人当たりなど)補助金上限額や見込み入込数(集客数、乗降客数)を予め設定し、それが見込めない実証事業は、たとえ実証といえども補助対象としない、という補助金制度にすべきである。 

  

 全国で二次交通への実証実験とか社会実験という形での公共支援は行われていると思われるが、結果はどこもこんなものなのだろうか? 

  

 という感じで、「公共交通マニア」にとっては涙目の連続である。 

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「福島イノベ構想」周辺環境整備交通網形成事業 94頁以降 

 福島イノベーション・コースト構想周辺環境整備として、施設と拠点間等を結ぶ交通ネットワークを形成し、地域産業の集積と交流人口の拡大などイノベ構想を更に推進する。 

 というもの。これは中身よりも委託先のお話。どこかの国のコロナ対策に似ているなあ?? 

只見線復旧は税金の無駄遣いと福島県の監査報告 (6)  

 この仕事は県が設立した「機構」しかできないので、随意契約しますた! 

只見線復旧は税金の無駄遣いと福島県の監査報告 (7)  

 

只見線復旧は税金の無駄遣いと福島県の監査報告 (9)  

 機構は業務を外部委託して、一般管理費と人件費をとりました!

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「福島県産農産物等販路拡大タイアップ事業」 203頁以降 

 専門家等を交えた農業者へのコンサルティングチームを組織し、農産物等の販路開拓等を支援する 

 というもの。 

 只見線復旧は税金の無駄遣いと福島県の監査報告 (17)

 農業経営の専門家が、生産者と出荷の検討会を開くことになっていましたが、実際の検討会は、福島市内の居酒屋で関係者を交えて行っていたもので、関係者には「支援対象者の周辺の生産者」はいませんでした! 

  

 なんともはや 

 

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2020年8月16日 (日)

波床正敏先生「この辺の話は,東海道新幹線の工事誌に公式に書かれている.」→「じゃあ見てみますか」の結果

波床正敏氏「鉄道で国づくり」の精度  

http://wr19.osaka-sandai.ac.jp/ce/rt/ByRail/?p=307 

 これは、大阪産業大学の波床正敏先生のブログ「鉄道で国づくり」に記載されているお話である。 

  世間でよく言われている「東海道新幹線は東京オリンピックに間に合わせるために鈴鹿峠からルートを変更した」というお話だ。

  波床正敏先生は「この辺の話は,東海道新幹線の工事誌に公式に書かれている.」とも書かれている。

  

 じゃあ、実際に東海道新幹線の工事誌にはどう書いているのだろうか? 

 

東海道新幹線が鈴鹿峠を通らない理由

 名古屋-京都間を直線で結べば標高1,000m級の鈴鹿山脈越えとなるのであるが、(中略)工期的に非常な難点のあることが明らかになった。一方関ケ原附近も地質的には鈴鹿越えと大差はないが、ずい道が比較的短くすむこと及び北陸との連絡に至便なことから、結局ここが最終案として本決まりになった。こうして全線の基本ルートが定められ、33年8月幹線調査事務所の発注によって航空写真測量が開始されたのである。

 

「東海道新幹線工事誌 名幹工篇」日本国有鉄道名古屋幹線工事局 編


 「こうして全線の基本ルートが定められ、(昭和)33年8月幹線調査事務所の発注によって航空写真測量が開始されたのである。」
 ご存知のとおり、東京オリンピック開催が決定されたのは、1959(昭和34)年である。

 そして、1958(昭和33)年8月に「全線の基本ルートが定められ」たとなれば、「鈴鹿峠をやめて関ケ原ルートに決定したのは、東京オリンピック開催決定前」である

 他にも裏取りのネタを探してみよう。国会ではどのように答弁されているのか?

東海道新幹線鈴鹿峠を止めて関ケ原経由にした理由

 名古屋と関が原と申しますか、米原の間のルートにつきましては、実は、昭和三十三年の夏ごろから、まだ正式に新幹線をつくるかつくらないかきまる前から、航空測量だけはいたしておりました。航空測量の結果、ルートといたしましては、名古屋から鈴鹿峠を越えまして京都に入るルート、もう一つ、それと非常に近いところで、名古屋から八風と申しますところを通りましてやはり京都に抜けるルート、もう一つは、濃美平野を真横に横切るルート、この三つのルートを航空測量で大体測量いたしまして、このいずれにすべきかということを検討したわけでございますが、前二者につきましては、非常にトンネルが多く、工事も非常にむずかしいということで、事務当局といたしましては、前二者を捨てまして、もっぱら濃美平野を横断するという案で具体的な検討を進めてまいったわけでございます。その後、昭和三十四年になりまして、徐々に東海道新幹線の問題が予算化され、また、各地におきまして地上の測量を開始したわけでございます。http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/046/0514/04606020514020.pdf

 1958(昭和33)年に航空測量をして、鈴鹿峠は捨てて関ケ原経由とし、1959(昭和34)年から予算が付いたので地上の測量を始めたと磯崎国鉄副総裁(当時)が答弁している。やはりオリンピック決定前に鈴鹿峠は捨てられているのであった。

 

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山陽新幹線は世界銀行からの融資を断られていた

 「新幹線は世界銀行の優等生」なんて言葉を聞くことがある。しかし、世界銀行から融資を受けたのは東海道新幹線のみである。

 高速道路は、名神、東名、首都高と融資を受けているのに。

 

 日本道路公団20年史に興味深い記述がある。

山陽新幹線は世界銀行の融資を断られていた

 日本道路公団20年史126頁から

 

 世界銀行から融資枠を取り付けたので、日本政府は、「国鉄の山陽新幹線、外郭環状鉄道(武蔵野線かな?)、日本道路公団の東京川越道路(関越自動車道の練馬~川越間)でどうか?」と打診したところ、「一定の事業ボリュームが望ましいので東名高速道路に融資したい」との回答があり、東名高速道路に融資することとなったというのだ。

 しかし、山陽新幹線もそれなりに事業ボリュームはあるはずだ。何故山陽新幹線への世界銀行の融資は実現しなかったのか?

 

 「世界銀行は、東海道新幹線の度重なる予算膨張に対して、国鉄の積算能力に不信感を抱いていた」という非公開資料を読んだことがある。世銀の東海道新幹線担当者は更迭されたとも書いてあった。

 それが影響したのかどうかは分からないが、後年「優等生」と評価されるまでは紆余曲折があったのだろう。

 国鉄にとっては「黒歴史」なのか、私の不勉強故なのか、国鉄側資料でこの件の話を見たことはない。ご存じの方は是非ご教示ください。

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<追記>

 そのものズバリではないにしろ、世界銀行における国鉄の新幹線事業能力への不信感を示す新聞報道があった。

東海道新幹線と世界銀行

1963(昭和38)年9月18日付読売新聞

 東海道新幹線の事業費拡大に対する追加融資に世界銀行が難色を示していることが分かる。

 

山陽新幹線と世界銀行 

1966(昭和41)年2月20日付読売新聞

 

 山陽新幹線にも世界銀行の融資をもくろんだが、見通しは難しいとする記事。 

 東海道新幹線の予算管理がなっていなかったから山陽新幹線への融資を拒否したとは書いていないが、日本道路公団20年史の裏付けにはなるであろう。 

 少なくとも当時は「新幹線は世界銀行融資の優等生」とは思われていなかったのであろう。 

 

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※ 首都高への世界銀行融資を東京オリンピックに絡めて語る者がいるが、首都高の世銀融資は横羽線なので、東京オリンピックは関係ないので、注意喚起しておく。

https://www.worldbank.or.jp/31project/shutokou/index.html

 

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2020年8月 9日 (日)

「日本では高速道路より先に鈴鹿サーキットが出来て、それの舗装を参考にして高速道路が作られた」というホンダの人の話を検証する

 ホンダ創業者で、多摩川スピードウェイで行われた第1回大会にも参戦した本田宗一郎は、レースの勝利とモータースポーツの普及のためには本格的なサーキットが必要であると確信し、自社で建設するよう命を下した。巨額の投資を危ぶむ声もあったが、藤沢武夫専務が自宅を抵当に入れるなどして推進に向けての意見をまとめ、社内にレース場建設委員会が発足した。

(略)

 後にホンダランド取締役となる塩崎定夫がコースレイアウト設計グループの責任者となった。塩崎は鈴鹿製作所の生産管理を担当していたが、サーキット設計に関しては全くの素人だった[6]。1960年8月に最初のコースレイアウト原案を作成したが[7]、この初期案は立体交差が3か所あるという特異なレイアウトだった[4]

(略)

 欧州視察時にはサーキットの舗装を靴べらで削って持ち帰り、舗装工事を受注した日本鋪道KK(現NIPPO)にサンプルとして提供した。その際、さらに施工会社が容易に特殊なサーキット舗装の構造を理解できるように、フーゲンホルツは各地サーキットの走行路の路面の舗装を茶筒状にくりぬいた供試体(サンプルコーン)を調査団に提供した。当時のA.I.C.P.加盟サーキットの舗装路面の転圧、幾層もの舗装の積み重ねかたなどの最先端技術をこの供試体によって日本へと持ち帰ることができた。当時の日本ではまだ高速道路が整備されておらず[注釈 2]、塩崎は「日本では高速道路より先にサーキットが出来て、それの舗装を参考にして高速道路が作られた」と述べている[6]。

 1961年2月、ホンダの全額出資により運営母体となるモータースポーツランド(現モビリティランド[注釈 3])が設立され、同年6月に工事着工。1962年9月にサーキットが完成し、同年11月3日 - 4日にかけてオープニングレースとして第1回全日本選手権ロードレースが開催された[7]。

 

[注釈 2] 鈴鹿サーキット開業から8ヵ月後の1963年7月に日本初の高速道路として、名神高速道路が部分開通した。

[6]大串信 「ゼロから鈴鹿サーキットを作り上げた塩崎定夫に訊く-『まさか50年後にも褒めてもらえるなんて』」『Racing On 総力特集 鈴鹿サーキット (No.461) 』 三栄書房、2012年10月、pp.12-16

 

 wikipedia 「鈴鹿サーキット」 2020(令和2)年8月9日閲覧

 塩崎定夫氏が述べる「日本では高速道路より先にサーキットが出来て、それの舗装を参考にして高速道路が作られた」は、本当なのか?

 時系列だけで見ていると疑問が生じる。

 確かに、日本で最初に開通した高速自動車国道は名神高速道路の尼崎~栗東間で、1963(昭和38)年7月であるから、Wikipediaの脚注2のいうように、鈴鹿サーキットの開業(1962(昭和37)年11月)よりも遅い。

 しかし、道路マニアや廃線マニアの間では有名だが、京都市内(京都東IC~京都南IC)の東海道本線跡地において「山科試験工事」が先行して行われているのである。

 担当したのは奇しくも、鈴鹿サーキットと同じ日本鋪道(現NIPPO)である。

 (株)NIPPO総合技術部部長 山岸宏氏と総合技術部生産開発センター長 相田尚氏が「名神・東名から新名神・新東名への施工技術〜機械化施工からICT・IoT活用の時代へ〜」と題して、土木施工2020年4月号に寄稿している。

鈴鹿サーキットの舗装が高速道路の参考になったというホンダの関係者の話を検証する

https://www.akasakatec.com/_apps/wp-content/uploads/2020/03/doboku-sekou-2020-04_news.pdf

 山科試験工事の工期は、1960(昭和35)年8月〜1961(昭和36)年1月とある。

 鈴鹿サーキットの工期が、1961(昭和36)年6月~1962(昭和37)年9月というから、名神高速の最初の舗装工事が終わってから鈴鹿サーキットの工事が始まったことになる。

「日本では高速道路より先にサーキットが出来て、それの舗装を参考にして高速道路が作られた」というのは、営業開始したのは、確かに高速道路より鈴鹿サーキットが先だが、実際の舗装工事に着手したのは、高速道路より鈴鹿サーキットの方が後だ。

 コースレイアウトの原案は1960年8月に完成した。ヘアピンカーブ2カ所、立体交差が3カ所と変化に富んだ内容であったが、工費などの面で見直しが必要となった。同年12月にプロジェクトメンバーがヨーロッパに飛び、設備、競技規則、運営方法を視察・調査し、レイアウトなどが最終決定された。メンバーはこの視察の際に、コースやアウトバーンの路面を靴ベラではがして持ち帰った。これらは貴重な技術資料となった。大きな技術的課題となっていたアスファルト舗装技術に見通しを付ける足掛かりとなったのである。

 当時、コース舗装を請け負った日本鋪道では、オーバルテストコースの工事経験はあったものの、ロードコースの表面舗装は経験がなかった。視察時にメンバーが持ち帰った路面材料を分析しながら、各地の川砂を研究。木曾川の雑岩を中心としたものに決定したが、その集積に約6カ月を費やした。

(略)

 当時は、名神高速道路の一部が、京都山科地区で工事が始まった状態であり、その工事関係者が鈴鹿に見学にくるほどの注目を浴びたものであった

 

Honda | 語り継ぎたいこと | 鈴鹿サーキット完成 / 1962

https://www.honda.co.jp/50years-history/challenge/1962suzuka/page03.html

 確かに、施工業者は同じ日本鋪道なのだから、お互いに視察したり参考にしたりというのは当然あるだろう。場合によっては名神でできなかった/失敗したことを鈴鹿でチャレンジしたかもしれない。ただし「名神高速道路の一部が、京都山科地区で工事が始まった状態」ではなく、既に工期を終えていたのではないか。

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鈴鹿サーキットの舗装が高速道路の参考になったというホンダの関係者の話を検証する2  

https://www.express-highway.or.jp/info/document/07_50ayumi2.pdf 

 日本鋪道が施工した名神高速道路の山科試験工事の場所では竣工後ただちに「自動車走行試験」が行われている。上記「高速道路50年史」によると、1961(昭和36)年3月からである。これはwikipediaに書かれた鈴鹿サーキットの工事着工である1961(昭和36)年6月よりも先である。

 ホンダがこの自動車走行試験に参加している可能性は高い。となれば、wikipediaに引用された塩崎定夫氏の言とは逆に、むしろ名神高速道路の舗装工事とそれに伴う走行試験の結果を鈴鹿サーキットの工事に持ち込んだ可能性もあるのではないだろうか?

  

 ちなみに、名神高速道路の施工にあたっては、「お雇い外国人」の存在が大きい。 

鈴鹿サーキットの舗装が高速道路の参考になったというホンダの関係者の話を検証する3  

https://www.express-highway.or.jp/info/document/07_50ayumi2.pdf

 舗装については、 ソンデレガー氏とラブ氏の名前が挙げられている。

 「道を拓く -高速道路と私ー」によれば、ソンデレガー氏は1959(昭和34)年2月に「名神高速道路の土質・舗装に関する報告書」を提出し、それらを踏まえて日本道路公団は、1960(昭和35)年春には仕様書を作成している(上記のNIPPOの報文によると、山科試験工事の結果を踏まえ仕様書は修正されている。)。 

 いずれも鈴鹿サーキットの担当者がヨーロッパの道路やサーキットの舗装を靴ベラで削って持って帰ってくるよりも前である。 

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 鈴鹿サーキットの舗装が高速道路の参考になったというホンダの関係者の話を検証する4

 名神高速道路と鈴鹿サーキットの舗装の歴史を時系列で並べなおすと上記のとおりとなる。 

 本来であれば、大串信氏による塩崎完夫氏に係る記事自体にあたってから書くべきであるが、このような状況で国会図書館で原本にあたるのもままならない。 

 また、そもそもサーキット自体が私は門外漢である。 

 有識者の方でアドバイスを頂戴できる方は、ぜひ、コメント欄に記入していただけると幸甚である。 

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(余談) 

 「鈴鹿サーキット」の知られざる奥深い歴史 思わず人に話したくなる蘊蓄100章

https://toyokeizai.net/articles/-/193400?page=2 

 32. 舗装を請け負った日本舗装(現NIPPO)はオーバルテストコースの経験はあったがロードコースは未経験

 33. 日本舗装のスタッフは視察団から提供された欧州の路面材料を分析しながら、日本各地の川砂を研究した 

 「モノ情報誌のパイオニア『モノ・マガジン』(ワールドフォトプレス社)と東洋経済オンラインのコラボ企画。」とのことだが、ビジネス誌なのだから、会社の名前くらい校正をかけないものか。

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2020年5月20日 (水)

昭和22年に田中清一が作成した初期縦貫道案~日本の戦後高速道路ネットワークの推移(4)~

 読者の方は、そろそろ7600km構想に行くんじゃないかなーなんて思われるかもしれないが、実は、更に時間を遡るのである。

 第3回は、田中清一が1949(昭和24)年に昭和天皇に縦貫道の「田中プラン」を説明した話を書いたが、そこに至る前段としてはこんな話がある。

田中清一の縦貫道構想(最初期) (12)

「中央自動車道建設をめぐる政治力学ー田中清一プランを中心としてー」栗田直樹 愛知学院大学論叢第39巻第1号10~11頁から

引用文献の(6)は、「東久邇宮日記 日本激動期の記録」東久邇宮稔彦・著 徳間書店・刊 232頁

 

 田中清一は、1945(昭和20)年の敗戦直後から各方面に働きかけをしていたのである。

 ということで、今回お見せする図面は、田中清一が東久邇宮に説明してから昭和天皇に説明するまでのちょうど間になる、1947(昭和22)年のものである。

田中清一の縦貫道構想(最初期) (5)

(以下、青焼き図面は、富士製作所において保管されている資料を閲覧、撮影させていただいたもの)

 ※左上の「国土」の字が2回出てきたりするのは、複数枚に分けて撮影した写真を「image composer」でひっつけたときに上手くいかなかったものである。

田中清一の縦貫道構想(最初期) (13)

 「国土開発自動車道予定路線及び接続主要道路又は一般自動車道」という題名。

 「縦貫自動車道」ではない。

田中清一の縦貫道構想(最初期) (4)

 「昭和22年3月23日著作」とある。

 ざくっと見ると、今まで見てきた縦貫道の路線図のなかで一番まともというか現実の高速道路に近いというか既存の鉄道路線に近いというか。。。といった感想をお持ちになったのではなかろうか?

 田中清一は、5万分の1地形図を丹念に調べ、実際に現地を踏破しながら縦貫道の案を練り上げていったというが、初期はそんな余裕もなく、既存の鉄道路線が記載された地図を見ながら高速道路網を落としていったためではないだろうか?

 その後、「背骨と肋骨」といった思想が優先されていったのではないだろうか?(地図の題名にも「縦貫」と入っていないし。)

 また、例によって各地方毎に見ていこう。

田中清一の縦貫道構想(最初期) (7)  

 北海道は、道東へ向かう路線が、 勇払から日高山脈を越えることになっている。日勝峠と日高横断道の中間くらいだろうか?旧国鉄富内線よりも更に南か?

 長万部~札幌間は、最初からぶれずに中山峠経由の最短路だ。

 それ以外は基本的に国鉄の路線をなぞっているような感じである。

田中清一の縦貫道構想(最初期) (8)  

 北東北地区も各地への「肋骨」路線の曲がり方が国鉄っぽい。 また、津軽半島と下北半島の両方へ支線が伸びている。

田中清一の縦貫道構想(最初期) (6)  

 新潟へは、関越自動車道ルートと磐越自動車道ルートの二本が引かれている。 

 最も注目すべき点は、東北道が「西東京(調布あたりか?)」から、関越道の更に西側を北上し、熊谷、舘林あたりを巻いたループを描きながら宇都宮に至る点である。

田中清一の縦貫道構想(最初期) (3)  

 身延から静岡へ抜ける肋骨線は、以降の絵では直進しているが、この線はあきらかに国鉄身延線に影響されているであろう。田中清一氏は、戦前に沼津に富士製作所を移設して以来、静岡東部には特に地理感があると思われるが、それでもこの頃は直進していない(いわんや、東北、北海道をや)というところだろうか。 

 紀伊半島に三本の支線が伸びているが、当時はまだ国鉄の紀勢本線は東線、西線に分断されており、国鉄ですら一周していない頃である。林業開発等に期待を寄せていたのだろうか?

田中清一の縦貫道構想(最初期) (2)  

 中国地区は、山陽道がないくらいで、今のネットワークに近い。 

 注目すべきは四国である。今まで、高松が四国自動車道の本線から離れた支線扱いという冷遇ぶりを説明してきたが、最初期は、徳島が起点ではなく、高松起点(本州とは 、玉野ー高松で連絡)となっているのである。

 それが、何等かの理由で、少なくとも1949(昭和24)年以降は、「徳島が起点で高松は支線」という扱いになっている。本四間の連絡を神戸ー鳴門ルートに一本化した故なのかもしれない。

田中清一の縦貫道構想(最初期) (1)  

 九州も、東九州自動車道が無いことを除けば、今の高速道路ネットワークに近い。 

 興味深いのは、長崎への路線が、西海橋経由となっているところである。ただし、実際に西海橋が着工したのは、1952(昭和27)年、竣工したのは1955(昭和30)年である。 

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 全国図はこれくらいにして、中央道の古いバージョンの青焼き図面も保管されていたので紹介したい。 

田中清一の縦貫道構想(最初期) (9)  

 「国土開発中央自動車道案略図」である。

田中清一の縦貫道構想(最初期) (10)  

 八王子ー横浜間に国鉄横浜線に沿った支線状のものが見られるが、他には支線のような記載がない。 

 先にあげた1947(昭和22)年の「国土開発自動車道予定路線及び接続主要道路又は一般自動車道」よりも古い図面である可能性がある。 

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田中清一の縦貫道構想(最初期) (14)  

 また、「TOKYO-KOBE SUPER HIGHWAY ROUTE」と題された青焼き図面も保存されている。

 栗田氏の論文にあるGHQへ説明したものだろうか?

 この図面で注目すべき点は、東名高速道路ルートが「SEPARATELY PLANNED ROUTE」とされていることだ。

 田中清一氏をはじめとする「縦貫道派」は、「東海道派」と激しく対立した(当時の敗戦国日本の体力では二本同時に施工することは困難とみられていたことも背景にある)のだが、この図面が作成された頃は、東海道への高速道路の建設も「SEPARATELY PLANNED ROUTE」扱いとなっていたということである。

 それが、どこかの段階で対立する敵対案に変わっていったわけだ。

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田中清一の縦貫道構想(最初期) (11)  

 前の図面は「国土開発中央自動車道案略図」であったが、この冊子は「資源開発中央道の建設に就て」である。

 後に縦貫道派の中でも「あまり資源開発いうな」という点で問題になったのであるが、それは別途。

 この冊子の「新日本の建設と世界の楽園」というキャッチが気になった方もいらっしゃるかもしれない。

 次回はその辺に逸れてみよう。

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2020年5月19日 (火)

昭和24年に田中清一が昭和天皇に説明した縦貫道計画のルート案~日本の戦後高速道路ネットワークの推移(3)~

 第1回、第2回と「日本縦貫高速自動車道協会」による、縦貫道のネットワーク図をご紹介してきたが、今度はそれを遡る昭和20年代の田中清一氏によるネットワーク図だ。

田中清一の縦貫自動車道初期案 (1)

 このポスターは、田中清一氏が興した富士製作所(沼津市)に現在も保存されているものである。(※特別に見学の許可をいただいた方からお声かけいただいて、ご一緒させていただき、閲覧等させていただきました。)

 ポスター右上に田中清一氏の写真が載っている。参議院議員との肩書がついている。田中氏が参議院全国区に自民党から立候補し、当選したのは、1959(昭和34)年であるが、このルート自体は、田中氏のご子息が設立した「財団法人 田中研究所」作成のパンフレット「大いなる先見」に1949(昭和24)年に昭和天皇に「田中プラン」を説明したとするネットワーク図をその後も使い続けてきた(字面だけはアップデートした)ものと推測される。

田中清一の縦貫自動車道案の説明、講演 (3)  

田中清一の縦貫自動車道案の説明、講演 (2)  

写真は、富士製作所所蔵のもの 

説明文は 、「大いなる先見」財団法人田中研究所・刊 2頁から引用

 

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 そんな能書きはいいから早く細かい路線図を見せろと言われそうなので、どんどんアップしていく。

田中清一の縦貫自動車道初期案 (6)

 北海道については、本線の縦貫道部分は、其の後の「縦貫道協会」のものよりも、むしろ現在に近い。

 支線も数は多いが、第2回に紹介した支線よりもまともな(工事がしやすそうな)ルートのように見える。

 国鉄名羽線マニアにとっては、「高速道路にも名羽線が未成線として計画された時期があったのか」と感銘を受けるかも。それだけ炭鉱へのアクセス改善が重要視されていたということなのだろうが。追分、富良野周辺の支線網がやたら細かいのも炭鉱へのアクセスを考慮したのだろうか?

 北海道の福島まで、青森の三厩までの支線が計画されているのは、その間をフェリーで結ぶ構想とセットなのだろうか?

田中清一の縦貫自動車道初期案 (2)  

 東北地区は、三厩への支線と岩船への支線が他の構想には見かけないくらいか? 

 新潟へは、関越道と同じようなルートであるが、逆にこれは後の縦貫道協会の案では消えている。技術的に困難だったのだろう。 

田中清一の縦貫自動車道初期案 (3)  

 この絵で、特徴的なのは、飯田~松本~軽井沢~高崎~宇都宮と結ぶ本線、そして、関ケ原~敦賀~和田山の本線である。縦貫道法に取り込まれていない本線である。前者は 旧・中山道の高規格化という位置づけだろうか?後者は、関ケ原から列島を「横断」したり、若狭湾沿いを走ったりと「縦貫道」の定義からはずれているので、支線としてはともかく、本線扱いは不可解である。

 前者は、実際には、中央道、上信越道、北関東道等で具体化されているが、松本~軽井沢間だけは高速道路としてはネットワークされていない。三才山トンネル有料道路が結んでいる。奇しくも、武部健一氏が「道路の日本史」で追加を提唱している区間である。 

 このほかに注目すべき路線は、松本~富山間である。安房峠手前から国道471号沿いに抜けていくのだろうか?

 

田中清一の縦貫自動車道初期案 (4)

 ここで目をひくのは、中国道である。大阪から一旦和田山まで北上してから津山へ折り返している。大阪よりも下関から敦賀を直結することを優先した思想なのかもしれない。 

 四国については、神戸~徳島が本線扱いだ。当該区間は、第1回で紹介した1956(昭和31)年の縦貫道協会の案では、支線扱いで、第2回で紹介した1957(昭和32)年の案では、支線からも落とされている。 

 また、法律で定められた四国自動車道は、徳島~高知~松山というV字型ルートだが、当初は途中高松を経由し、宇和島へ 降りるM字型ルートだったことが分かる。これが「縦貫道」として「純化」していく中で、高松と宇和島が本線から落ちたということだろうか?

田中清一の縦貫自動車道初期案 (5)

 九州では、福岡~佐世保がわざわざ脊振山地を本線として「縦貫」している点が注目点か。縦貫道法はなぜか長崎ではなく佐世保を重視している。 

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田中清一の縦貫自動車道初期案 (8)

「国土建設一円会本部」の字が見えるだろうか?

 

 これは、敗戦国で金が無かった当時の日本で、縦貫道等の田中清一が提案する施策を実現するために、国民に毎日一人一円の貯金を呼び掛けたものである。

 田中清一の縦貫自動車道初期案 (7)

1956(昭和31)年3月29日付朝日新聞から  

 この記事によると、この一円貯金の運動には、「片山哲、藤山愛一郎、杉道助、神野金之助、清瀬一郎、河合弥八、松方三郎、郷古潔、大野伴睦、石井光二郎、下村海南、鶴見祐輔、三浦伊八郎の諸氏ら政界、財界の名士が就任」とある。 

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田中清一の縦貫自動車道案の説明、講演 (1)  

 田中清一が全国を講演して自分のプランの実現を訴えていた様子が写真に残されている。 

※「大いなる先見」財団法人田中研究所・刊 23頁から引用

 背景の路線図は、このバージョンである。

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 せっかく路線図のバージョン違いを貼るのだから路線計画の趣旨もバージョン違いを貼っておく。「縦貫道協会」によるものではなく、田中清一個人名で書いた報文である。

 田中清一の縦貫自動車道初期案 (9)

「縦貫道路による国土の改造」田中清一・著 「資源」1956年1月号 34頁から引用 

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2020年5月18日 (月)

日本縦貫高速自動車道協会の1957年のルート案~日本の戦後高速道路ネットワークの推移(2)~

 前回の第1回では、国土開発縦貫自動車道のネットワークとその思想について紹介したところである。

 

 で、その推進民間団体として「日本縦貫高速自動車道協会」も紹介したのだが、その縦貫道協会については、別のネットワーク案もある。

 第1回で紹介したのは、1956(昭和31)年段階の案だったが、その1年後の1957(昭和32)年に発行された「第三の道 縦貫自動車道 早わかり」に掲載された「高速自動車道網計画図」を紹介したい。

日本縦貫高速自動車道協会案2 (1)

 本線となる「国土開発縦貫自動車道」については大きな変更はないと思われるが、支線扱いとなる「縦貫道に連絡する高速自動車道」については、随分なバージョン違いとなっている。

 前回同様、背骨となる縦貫道と肋骨となる支線の路線図とあわせて紹介したい。 

日本縦貫高速自動車道

 小学三年生1957(昭和32)年9月号から(田中清一氏が監修している)  

 

○中央自動車道 

日本縦貫高速自動車道協会案2 (2)  

 支線が「高田ー長野ー磐田線」「富山ー福井ー米原線」「瀬田ー松坂線」「大阪ー新宮線」である。 

 大阪ー新宮線は国鉄紀勢本線沿いかと思いきや、紀伊半島を縦貫している徹底ぶりである。 

  

○東北自動車道 

日本縦貫高速自動車道協会案2 (1)  

 支線が「能代ー毛馬内(けまない)-八戸線」「秋田ー盛岡ー小本線」「本庄ー平泉ー高田線」「鶴岡ー仙台ー石巻線」「新潟ー宇都宮ー水戸線」である。 

 北から順番に東西に線を引いてみました感があるのだが。。。毛馬内は現在の十和田インターチェンジである。 

 特筆すべきは、「新潟ー宇都宮ー水戸線」であろうか。前回の案では新潟へは磐越自動車道ルートだったが、このルートでは、宇都宮から国道121号から400号のルートに沿っているような感じだ。 

 また、本線である東北自動車道の起点(中央道との分岐点)は、調布、府中あたりということなのだろうか? 

  

○北海道自動車道 

日本縦貫高速自動車道協会案2 (3)  

 支線は「上幌内ー大雪山線」「旭川ー美幌線」「阿寒岳ー網走線」「釧路ー根室線」である。 

 上幌内ってここだ。 

 

 トムラウシや石狩岳の間を縫っていくのだろうか?開拓路線としてもかなりの難易度であろう。 

 また、本線の北海道自動車道も中山峠を越えており、「縦貫道」思想に沿ってのルートと思われる。阿寒湖のあたりは国道241号~240号あたりのルートだろうか? 

  

○中国自動車道 

日本縦貫高速自動車道協会案2 (4)

 支線は「舞鶴ー姫路線」「鳥取ー勝田線」「津山ー岡山線」「米子ー新見線」「庄原ー尾道線」「大田ー十日市線」「大田ー広島線」「石見ー六日市線」「萩ー山口ー防府線」である。 

 他の地区に比べて随分密度が濃い感じだ。 それだけ中国道のルートが需要地から遠いということなのだろうか。

 

○四国自動車道

日本縦貫高速自動車道協会案2 (5)  

 支線は「富岡ー高知線」「西條ー九万ー宿毛線」だが、九万ー宿毛なんて酷道ヨサクだし、「富岡(現・阿南市)-高知線」は酷道195号だ。 

 まあ、酷道のような山間部を開拓するのが縦貫道といえばその思想を体現しているのだろうが。 

 それに比べて高松の冷遇ぶりよ。 

  

○九州自動車道 

日本縦貫高速自動車道協会案2 (6)  

 支線は、「佐世保ー久留米ー別府線」「宇土ー砥用ー延岡線」「川内ー加治木ー宮崎線」である。 

 川内ー加治木は、そんな端っこで肋骨線にこだわらなくてもと思うのだが、宮崎だけでは片手落ちということなのだろうか? 

 九州道の本線は、現在は八代から球磨川沿いに人吉・えびの方面へ向かっているところ、この絵では、阿蘇のすそ野から五木村附近へ直行し、人吉・えびの方面へ向かっている


 まず計画の内容を申し上げますと、「国土開発縦貫自動車道建設法」に基いて、北海道の稚内から九州の鹿児島までの幹線高速自動車国道を、概ね日本列島の中央に近い、背稜山脈の南斜面を縦貫するように一本建設し、それに肋骨状連結路線を整備して、表裏日本両方の重要都市、重要地域を結ぼうというのです。

 

「第三の道 縦貫自動車道 早わかり」日本縦貫高速自動車道協会・刊 19頁から引用

 

 

 皆様、肋骨ぷりはお楽しみいただけただろうか?

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2020年5月17日 (日)

1957年国土開発縦貫自動車道建設法のルート思想とは? ~日本の戦後高速道路ネットワークの推移(1)~

 これからシリーズもので、日本の戦後高速道路ネットワークの推移を追っていきたいと思う。

 ざくっと流れを追うとこんな感じだ。

●1957(昭和32)年 「国土開発縦貫自動車道建設法」の制定

 民間の田中清一等を中心にした「田中プラン」を元に議員立法した3,000キロの国土を縦貫する自動車道

●1966(昭和41)年 「国土開発幹線自動車道建設法」の制定

 新たに7,600kmのネットワーク

●1969(昭和44)年 「新全国総合開発計画(いわゆる「新全総」)

 7,600kmに9,000kmを追加する構想

●1987(昭和62)年 「第4次全国総合開発計画(いわゆる「四全総」)

 14,000kmの「高規格幹線道路」

●1987(昭和62)年 「国土開発幹線自動車道建設法」の改正

 14,000kmのうち、11,520kmを高速自動車国道に指定

 

(参考)

https://www.mlit.go.jp/road/ir/ir-council/hw_arikata/pdf9/3.pdf

 これらを数回に分けて、どのような思想でどのような路線を形成していったかを整理していきたい。 

国土を拓く縦貫道路  

「国土をひらく縦貫道路」小松崎茂 「こども家の光」1957(昭和32)年11月号

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(第1回)「国土開発縦貫自動車道建設法」の制定 

  

 早速だが、縦貫道法のネットワークは下記のとおりである。 

国土開発縦貫自動車道  

 後に北陸自動車道を追加。東名高速道路は「東海道幹線自動車国道建設法」として、別の法律で1960(昭和35)年に制定。 

 この縦貫道案を推進するために、「日本縦貫高速自動車道協会」が設立されていた。 

 ここでは、「縦貫道協会」が1956(昭和31)年に作成した「国土開発縦貫自動車道建設計画概要(改訂版)」を基にその思想等を紹介したい。

 国土開発縦貫自動車道ネットワーク (2)

国土開発縦貫自動車道ネットワーク (1)  

 長くなるが、その思想を理解するために、「縦貫道法案」を国会に提案した際の「提案要旨」を抜粋する。

国土開発縦貫自動車道ネットワーク (8)  

 

国土開発縦貫自動車道ネットワーク (9)  

国土開発縦貫自動車道ネットワーク (10)

 縦貫道法というと、中央道が南アルプスをぶち抜くルートが有名だが、そういったルートをとった趣旨が赤枠部分に書かれている。「外に失った領土を、内に求める」ために「未開後進の山岳高原地帯をも縦横断する」ことで「人の住むに値する領域」を拡大するためである。 

 この冊子には「農家の二男、三男対策」という言葉は出てこないが、戦前は農地を相続できない「農家の二男、三男」を海外植民地に送り込んできたのだが、敗戦によりそれができなくなったため、縦貫自動車道によって新たに「二男、三男」を送り込むべき土地を切り拓くという趣旨も含まれている。

国土開発縦貫自動車道ネットワーク (11)  

 そして「国民の完全雇用を期するための就労対策事業」である。 

 「ナチスドイツのアウトバーンが失業対策事業として行われた」と世界史の授業で習った人も多いかもしれないが、それは「ナチスのプロパガンダ」に過ぎないものとして、現在では経済効果としては否定する説も多い。 

(例)https://www.express-highway.or.jp/info/document/rpt2017001.pdf の17~18頁

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 また、その趣旨の1つとしての「国土の普遍的開発の促進」についても抜粋しておく。

国土開発縦貫自動車道ネットワーク (12)  

国土開発縦貫自動車道ネットワーク (13)  

国土開発縦貫自動車道ネットワーク (14)  

 「この国土の普遍的開発を促進することにより、各地方における適地産業の立地促進、新都市及び新農村の建設をはかり、国民生活の領域の拡大を期することができる」「国土開発縦貫自動車道が国土開発を冠する所以である」とある。 

 既存の幹線の飽和対策ではなく、あくまでも地方の新都市及び新農村の建設を図るための「開発道路」なのである。 なので東海道を外して敢えて山間部を通しているのだ。

国土開発縦貫自動車道ネットワーク (15)  

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 ここまでが「思想」の部分。これから「それを具体化するためのルートの考え方」をご紹介。 

国土開発縦貫自動車道ネットワーク (3)  

 「中国自動車道が、なぜ山陽道筋ではなく、山間部を通るルートが先行したか」については②の「表日本及び裏日本の両方えの連絡を容易にし、できるだけ巾広い勢力圏をもたせ」というあたりを体現しているのだろうか。 

 また、③の「地形の許す限り、未開発後進の資源地帯、山地高原地帯をも貫通させ、高速自動車交通による国土開発の徹底をはかる」というのが先に述べた「国土開発を冠する所以」の具体化である。 

国土開発縦貫自動車道ネットワーク (4)  

 ④の「農耕地の潰廃を極力避け」「村落及び都市の中心を通すことを避け」というのは敗戦後10年しか経っておらず、食料供給にも不安があった時期を反映している。都市も戦災でせっかく焼け残ったのに、せっかく復興したのにそこを立ち退くのかという観点があるのではないか。(※首都高が河川や運河等の公有地の上を通すことを選択したのもこういった戦後の背景を考慮したものでないか。) 

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 これらの方針に沿って、縦貫道の予定路線が決まっている。

 また、下記のように、「支線となるべき主要な一般道路又は一般自動車道の路線」についても提言されている。

国土開発縦貫自動車道ネットワーク (7)  

 これらをあわせてご紹介したい。 

○中央自動車道 

国土開発縦貫自動車道ネットワーク (1)  

中央自動車道  

 現在なお建設中である三遠南信自動車道や中部横断自動車道の前身というような路線が支線としてあげられている点が興味深い。 

  

○東北自動車道 

国土開発縦貫自動車道ネットワーク (2)  

東北自動車道  

 新潟への支線が磐越自動車道ルートである。当時の技術では現在の関越自動車道で関越トンネルをぶち抜くのは困難だったことのあらわれであろうか? 

 

○北海道自動車道 

国土開発縦貫自動車道ネットワーク (3)  

北海道自動車道  

 「洞爺湖の西北方を通り最短距離で札幌市附近に至る」あたりが現在と大きく異なる。また、支線の表にはかいていないが地図には載っている浦河への支線は日高山脈を横断する難易度の極めて高いルートだ。北海道は本線支線含めて「安易な態度は棄てゝ思い切って自然を克服する」にもほどがあるチャレンジ精神極まるルートどりだ。 

  

○中国自動車道 

国土開発縦貫自動車道ネットワーク (4)  

中国自動車道と四国自動車道  

 「中央部を行くことにより(山陽山陰の)両地域を勢力圏におさめる」「両地域の開発に同時に資するため多少地形上の不利を忍んで敢えて本路線を選んだ」を読めば、なぜ中国道が真ん中を通っているのかがお分かりであろう。 

  

○四国自動車道 

国土開発縦貫自動車道ネットワーク (5)  

 現在、ほぼその形を残していないのが四国自動車道である。比較路線の那賀川~物部川ルートも含めて「ヨサク」並みの酷道ルートだ。確かに四国の未開発の山地開発にはよいかもしれないが。 

 また、高松ではなく徳島が起点となっている背景には、「神戸~洲本~徳島」の支線による本四連絡が念頭にあったことが推測される。 

  

○九州自動車道 

国土開発縦貫自動車道ネットワーク (6)  

九州自動車道  

 九州道のルートの特色は「直方市附近を経て南下し、鳥栖市と日田市の中間」を通って「門司~鹿児島の最短路線」をとるところである。九州最大の都市である福岡市を経由するつもりはないのだ。 

 その後の建設省の資料では、犬鳴峠を経由する案等があったようだ。もし犬鳴峠を九州自動車道が通過していれば、怪談や肝試しも減ったかもしれない。 

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 以上が、「国土開発縦貫自動車道建設計画概要(改訂版)」による高速道路ネットワークの概要である。 

  

  同書では、この他に「自動車道」とは何か?、「高速道路」と何が違うのか?についても触れている。

国土開発縦貫自動車道ネットワーク (16)  

国土開発縦貫自動車道ネットワーク (17)  

 ネット上でも、少なくない方が「自動車道と高速道路の違い」について定義づけようとチャレンジしていると思われるが、一応これが「公式回答?」である。 

 背景を解説するなら、当時の道路法では「自動車専用道路」といった規定はなかった。道路法第48条の2が追加されたのは1959(昭和34)年である。 

  「縦貫道協会」では、建設省が所管する道路法では自動車専用の道路はできないので、道路法に基づく「高速道路」では自動車以外を排除できない。運輸省と建設省が共管する道路運送法に基づく「自動車道」として整備すべきだとしているのだ。

 素人からすると、「自動車道と高速道路の違いは、役所の管轄争い」とでもすべきところなのだろうか?? 

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 このようなルートの「縦貫道」は技術的な困難を伴うこと等から、「国土開発幹線自動車道建設法」等でルート変更されていく。最も有名なのが、中央自動車道の諏訪回りへの変更であるが、建設省道路局長・事務次官等を歴任した高橋国一郎氏は、高速道路調査室長在職時を振りかえってこう語っている。 

国土開発縦貫自動車道ネットワーク (18)  

土木史研究におけるオーラルヒストリー手法の活用とその意義 : 高速道路に焦点をあてて 」高橋国一郎編101頁から引用。 

 九州道や東北道を山から都市に下ろすのに苦労したが、中国道は無理だったと。仙台宮城インターチェンジが仙台市内から離れた旧宮城町にあるのもその名残で、本当は仙台の東を通したかったと。現在の仙台東部道路、仙台北部道路が高橋氏が想定した変更ルートなどだろうか? 

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 こんな感じで手持の高速道路資料の虫干しをやっていく予定です。 

 宜しくお付き合いのほどを。 

 

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