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2012年8月16日 (木)

小林一郎著「ガード下」の誕生-鉄道と都市の近代史(祥伝社新書)が糞だった(その5) 小野田滋氏と比較してみる

 引続き、小林一郎氏の妄想をチェックしていく。

     
 駅舎を営業に使う駅ナカの開発は、派手な宣伝を展開してオモテ舞台に立たせているのにもかかわらず、ガード下利用についてはなぜ、そもそものなり立ちから隠さなければならないのだろうか。
 これについては、このように考えられるかもしれない。人・モノを運ぶのが鉄道輸送の目的で、駅と駅との間はあくまで通路。その通路下が空いているから使おうというのはあくまでも副次的な利用。人やモノを輸送するという本来の業務とはまったく交わらない。あえていえば、鉄道会社がやるべきものではない。
 つまり通路である高架下空間を金を取って利用させるということに抵抗感があったのではなかろうか。通路下の利用は立派な価値創造なのだが、「うしろめたさ」の影を見ずにはいられない。だから社史にも書きこめない。
 副次的な利用法から一歩踏み出し、ガード下の使用を正々堂々と進めるには、それまでの鉄道輸送の既成概念をいったん破壊しなければ出発できなかったかも知れない。価値の薄い通路という既成概念を破壊し、それを読み替え、新たな解釈で新たな価値を創造する。これ自体、革命的な発想の転換だ。
 鉄道関係者に認知されるのに長い長い時間を要したことが、社会的に認知されている現在においてもガード下=裏町のイメージが払拭されない理由のひとつなのではないだろうか。
 こんなことも含めて、さまざまな推測が可能なのがガード下のなり立ちである。

 
小林一郎著「ガード下」の誕生 31~32頁から引用  

 まあ「さまざまな推測が可能」なのではなく、勝手な妄想をこじらせているだけなのだが。

 ところで、小野田滋氏といえば、鉄道総研勤務の技術者で「高架鉄道と東京駅」等の鉄道構造物の著書がある方である。(ブラタモリでもおなじみ)

 その小野田氏が、土木学会の「土木史研究」第21号に「阿部美樹志とわが国における黎明期の鉄道高架橋」という審査付論文を掲載しているので比較してみたい。

(なお、阿部美樹志氏は、東京~万世橋高架橋の設計等に携わった技術者である。)

 当該論文については、http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00044/2001/21-0113.pdf に掲載されている。

     
2.3 都市鉄道の発展と高架鉄道の普及

 東京の都市計画を掌握していた東京市区改正委員会では、都市部における道路交通との平面交差を解消するため、市中に乗り入れる鉄道については高架鉄道または地下鉄道を原則とする方針を固めていた。そして1900(明治33年)~1910(明治43)年にかけて建設された新永間市街線高架橋は、実質的にその最初の適用事例となってその後の模範を示し、引続いて鉄道院によって東京-万世橋間、神田-上野間の高架工事が行われた。
 一方、鉄道国有化後の1910(明治43)年に公布された軽便鉄道法は、第二次私鉄ブームを惹起し、昭和戦前期に至る約30年間の間に民間資本による郊外鉄道の整備が積極的に進められた。(中略)阿部が関わったほとんどの鉄道高架橋は、この第二次私鉄ブームに呼応して建設されたもので、高架鉄道はまさに時と人を得て発展を遂げたと言える。
 こうした高架鉄道の多くは、国私鉄を問わず駅部を除いた高架下を商店や住宅として賃貸することを前提条件としており、高架下の利用は建設費を補填するための重要な収入源として位置づけられていた。このため、高架橋は単に列車の荷重を支えるのみならず、内部空間の利用を考慮して設計されることとなった。こうしたことから、内部空間が狭く使い勝手の悪いアーチ構造よりも内部区間を最大限に活用できるラーメン構造が好まれ、柱の配置や間隔、隣接する高架橋との継目部の漏水防止などに意が払われた。

小野田滋著「阿部美樹志とわが国における黎明期の鉄道高架橋」から引用 

  整理してみると下記のとおり、小林一郎氏の「高架下ロマン(妄想)」は徹底粉砕されている。

小林一郎氏「ガード下」の誕生  小野田滋氏「阿部美樹志とわが国における黎明期の鉄道高架橋」 
人・モノを運ぶのが鉄道輸送の目的で、駅と駅との間はあくまで通路。その通路下が空いているから使おうというのはあくまでも副次的な利用。人やモノを輸送するという本来の業務とはまったく交わらない。あえていえば、鉄道会社がやるべきものではない。
高架鉄道の多くは、国私鉄を問わず駅部を除いた高架下を商店や住宅として賃貸することを前提条件としており
通路である高架下空間を金を取って利用させるということに抵抗感があったのではなかろうか。  高架下の利用は建設費を補填するための重要な収入源として位置づけられていた。  
副次的な利用法から一歩踏み出し、ガード下の使用を正々堂々と進めるには、それまでの鉄道輸送の既成概念をいったん破壊しなければ出発できなかったかも知れない。   高架橋は単に列車の荷重を支えるのみならず、内部空間の利用を考慮して設計されることとなった。こうしたことから、内部空間が狭く使い勝手の悪いアーチ構造よりも内部区間を最大限に活用できるラーメン構造が好まれ、柱の配置や間隔、隣接する高架橋との継目部の漏水防止などに意が払われた。 

 補足資料としては、土木学会誌「阪神急行電氣鉄道高架線建設紀要」
http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/m_jsce/13-03/13-3-11657.pdf
の末尾に「写真第7 茶屋町附近高架下店舗」が掲載されており、大正15年に既に高架下に店舗を配置し、学会誌に写真も掲載されるように、会社も隠していないことが推測される。

 小林一郎氏は「高架下は土木と建築と都市計画の学際分野なので研究が進んでいない」というが(それはそうかもしれないが)、好き勝手に妄想を書き散らかしていいわけではないだろう。しかもタチの悪いことに、「第1章」では、上記のように「なかろうか」とか「かもしれない」とか「推測」と書いてあるところが、筆が進むにつれてラリってきたのか「おわりに」では断定した言いぶりになって確定事項になってしまうのである。いやはや。

(ガード下学会には、建築士やら大学教員等もいるとのことだが、その専門知識を踏まえて査読して、「土木学会のウェブサイトくらい調べた方がいいよ」なんて小林一郎氏にアドバイスしたりしてあげなかったのだろうか。「素人のコバヤシの野郎がはずかしい本書いてるぜ~。」「推測が妄想に化けてる本が出たら晒しものにしようぜ~。」「素人のくせにえらそうな本書くんじゃないよ。はっはっはっ」なんて生温かくウオッチしていただけなんじゃないか??などと邪推してしまいますなあ。)

 なお、こんなトンデモ文もある。

 ところで、新橋-有楽町間の鉄道敷設を設計したのは、ドイツ人のバルツァーという技師。えっ、ドイツ人?と思われる読者も多いかもしれない。
 わが国で初めて新橋-横浜間に鉄道を敷設したのは鉄道発祥国のイギリス人技師。車両もイギリスから輸入された。日本の本州はイギリス、北海道はアメリカ人技師、九州はドイツ人技師-と棲み分けがされえちたようだが、この流れからしてもイギリス人技師に依頼するのが自然。ところが、なぜかこの区間は、お雇い外国人のドイツ人に依頼している。なぜ、ドイツ人に依頼したのかは不明だが、日本の中心部においてはドイツの鉄道技術が導入されていた。 

小林一郎著「ガード下」の誕生 79~80頁から引用  

 
 というか、仮にも「鉄道と都市の近代史」をなのる本が「本来イギリス人に依頼すべきで、なぜバルツァーに依頼したか不明」って断言していいの?祥伝社の担当編集はこんな本を野放しにしていいの?ちゃんとチェックしたの?

 小林一郎氏には、是非、小野田滋氏に論戦を挑んでいただきたいところである。

 

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