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2013年2月11日 (月)

三原橋地下街に係る疑獄について(その2)

三原橋の地下街、建物については以前も国会議事録等にのこされた疑獄について書いたところであるが、撮り壊しも目前に迫ったということでいろいろ記事も出始めた。

銀座シネパトス

読売新聞編集委員・永峰好美氏の署名記事「名画座最後の特集で、昭和の銀座をしのぶ」では

 45年の歴史を持ち、銀座唯一の名画座として映画ファンに親しまれてきた映画館「銀座シネパトス」の3月末での閉館が、刻々と近づいている。
 閉館は、劇場がある三原橋地下街の耐震性の問題で昨年夏に取り壊しが決まり、東京都から立ち退き命令があったためだ。
 同映画館は、1967年(昭和42年)から翌年、「銀座地球座」「銀座名画座」としてオープン。2009年からは3スクリーンのうちの1スクリーンを邦画専門の名画座としていて、特集上映のラインナップの自由さに私は魅惑されていた。そのことは、2010年4月23日付けの小欄に書いた。
 名画座番組のプログラム・ディレクターをやっていたのが、映画評論家の樋口尚文さんで、2月4日付けの日経新聞朝刊に「さらば名画座」という一文を寄せている。彼は記す。「昭和の経済と文化の発展を支えた原動力は好きな道でとことん無茶をやるという、コンプライアンスに束縛されぬ自由な精神の賜物だった」と。

と呑気な記事が書いてあるのだが、三原橋の地下街、建物そのものが「コンプライアンスに束縛され」ない代物であったという笑えないお話である。

お怒りのシンジくんも、そこの劇場がどういう経緯でそこにあるのか下記の記事等を読んでいただけると幸いだ。

      

読売新聞 1951(昭和26)年9月11日

生まれかわる三原橋下 将来はテレビ館も

三十間堀の埋立工事により三原橋下に近代的な遊歩階段ができたと思ったトタンリンゴ箱の掘立小屋が出現、都市美台無しと嘆かせているが、このほど都および都観光協会のキモいりで某観光会社が橋下に都内でも珍しい総合娯楽場を設けることとなり今月末着工、12月25日に完成する。
 同計画によると橋下300坪を利用、通路をはさんで道路下三十間堀沿いに総工費6千万円で各120坪の建物2むねを向かい合せて建て一方は戦後始めてのニュース専門の映画館として15円で入場させ、また一方はアメリカから輸入の近代遊戯器具を一揃い入れるほかテレヴィジョンを設け将来は東京温泉などと並んで三十間堀の新名所としてお目見得する。

まだ、この辺はよかったのだが。。(この「ニュース専門映画館」が銀座シネパトス1の源流のようだ。

      

朝日新聞 1953(昭和28)年6月9日

三原橋地下街が大モメ 都・観光協会・地元が三つどもえで
”違約”と怒る区議会 業者は涼しい顔で工事

近ごろ三原橋の地下街(中央区三十間堀埋立地)はパチンコ屋、飲み屋が軒なみにふえてきた。ところがこれは「都の観光事業のために使う」という約束で都が財団法人東京都観光協会(代表安井都知事)に貸したもので、地元の中央区議会では「まるでバクチ場みたいになってしまった。約束が違う」とカンカン。都観光協会、地元が三つどもえになって争っている。だが業者たちはどこ吹く風と涼しい顔だ。この紛争、いつ解決するか見通しもつかないようだ。

問題の三原橋下(253坪)は26年7月、東京都観光協会が観光案内書、全国の名物、商品陳列所などの観光事業に使用するといって金60万円余を寄付して東京都から借り受けた同協会はこれを同年8月新東京観光株式会社(代表宮地知覚氏)に又貸ししてしまった。このとき使用目的については都の三十間堀埋立運営委員会の決定に従わなければならないとの条件がついていたというのだ。ところが実際にはパチンコ屋、飲み屋が軒をつらね、最近はまた堂々とビルの建築がはじまった。そこで三十間堀埋立運営委員会では、観光事業どころか風致風俗を俗悪化するばかりだ、と撤去を申し入れたがラチがあかないので、遂に地元中央区議会は「契約を無視した不法使用だ」といきまき、都議会に意見書を提出するほどこじれてしまった

”目的違反だ”
中央区議会の言い分 ①観光協会が新東京観光株式会社への又貸しは都有財産条例第25条違反だ。②地元の意見を無視し、運営委員会の決議に従わないでパチンコ屋、飲み屋の業者に貸しつけ不健全な娯楽機関にしたことは占用目的違反だ。③観光会社が三原橋の両端に建築中のビルも違反だ。

”違反ではない”
観光会社取締役佐藤宗丕総務部長の談 ①三十間堀埋立委員会の最初の決議に従ってパチンコ屋、飲み屋の業者に貸したので使用目的に違反してません。そんな決議はしていないと協会がいっているとすれば、それはおかしい。教会の事務局長は何も知りませんよ。都民室の島村総務部長に聞いてください。

”使用目的は変更したはず”
運営委員会委員島村都総務局監査部長(前都民室総務部長)の話 運営委員会でパチンコ、飲み屋街にしてもよいと使用目的を変更したでしょう。いやしたか、どうかわからないことにしておきます。書類をみたらわかるかどうですかねえ。

”再三撤去を申し入れたが”
観光協会三浦事務局長の話 観光協会では同会社に事業を委託したので又貸しではない。だから観光事業のためにしようしなければならないはずだ。また運営委員会も使用目的を変更する決議はしていない。協会としては観光会社に対し、パチンコ屋、飲み屋では困るから観光事業のために使ってくれと再三申し入れているが、なかなかいうことを聞かない。島村部長が明確に返答しないのはおかしい話だ。

と、間もなく本来の用途ではない使用状況(これは現在にも続いているようだが)が問題になった。
(※ウェブで機種依存文字である丸数字を使うのは私のポリシーに反するのであるが、原文ママということでお許しを)

三原橋
パチンコ屋、飲み屋では困るから観光事業のために使ってくれと再三申し入れているが、なかなかいうことを聞かない

       

朝日新聞 1953(昭和28)年8月29日朝刊

なめられた都 弱腰に地元住民怒る
”副知事言明”あざ笑う 相変わらずのパチンコ屋

「明らかに使用目的違反だから撤去するよう申し入れる」と岡安副知事が言明した問題の三原橋下ゲームセンター(中央区三十間堀埋立地)は、それから2カ月半もたつというのに都当局や中央区議会をあざ笑うかのように相変わらずパチンコ屋、飲み屋が軒を連ねて大はんじょうだ。「都の弱腰が業者にナメられているのだ」「イヤ、都と業者がグルになっているからだ」とうるさいウワサも飛んで都側の言行不一致と生ぬるい処置に地元はカンカンだ。

 一昨年、新東京観光株式会社(代表宮地知覚氏)が東京都観光協会(会長安井都知事)の委託で観光事業に使うという条件で、同地下街を借り受けたが、その大半をパチンコ屋、飲み屋にまた貸ししてしまったもの。これに強く反対した中央区議会では都議会に意見書を出したり、地元有志は「まるでバクチ場みたいだ」と憤っている。
 去る6月の都議会で地元選出の守本又雄議員(社)の「使用目的違反だから都側の善処を要望する」との質問に前記岡安副知事の言明となったもの。
 都側がその直後、東京都観光協会同地下街運営委員会と共同で観光会社に対し「パチンコ、飲み屋営業は観光事業としてふさわしくないし、世間から批判されているので健全な施設に替えてもらいたい」と確かに申し入れたという。(都民室津野総務部長談)
 ところが観光会社側では、そんな申し入れは受けていない。立派に許可を得てやっていることだから止めることもないと思って今までやってきた。(観光会社佐藤総務部長談)と話は全く対立したままだ。
 守本都議が「副知事が都議会で言明した以上は速かに実行すべきだ。去る6月都に提出した三原橋地下街と三十間堀埋立地をめぐる質問書にもまだ回答がない始末だ。こんなダラシのない調子ではいろいろと疑問も出てくる」といっている。地元では都側のやり方を不可解としてあくまでも究明するといっている。

「地元はカンカン」で、東京都議会で取り上げられ、都も撤去を申し入れることになったものの対応されない状況。
私が前の記事で取り上げた国会での問答(岡安副知事の答弁については、国会でも行われている。)もこのころに行われている。

三原橋地下街

都当局や中央区議会をあざ笑うかのように相変わらずパチンコ屋、飲み屋が軒を連ねて大はんじょうだ。

銀座シネパトス閉館記念映画?「インターミッション」のウェブサイトによると、上記記事でやり玉に挙げられた「ゲームセンター」は、1954(昭和29)年に、「銀座東映」になり、後に現在のシネパトス2及び3になったと記されている。

      

読売新聞 1954(昭和29)年10月30日

三原橋商店街は不法建築 都幹部も運営参加
使用目的 ”観光案内所”が化ける

土一升、金一升といわれる東京だけに道路にまで家がはみ出す不法建築が少なくない。都建設局ではこうした無法な道路侵略者が千数百件にものぼっているので告発や強制執行などの強権を発動して一掃につとめているが、皮肉なことに中央区銀座三原橋の都有地が問題を起こしている。三十間堀の埋立がすんだあとこの三原橋の両側と橋下は道路と指定されたにもかかわらず、安井都知事自身が会長をしている東京観光協会が観光事業のためといって借り受けたうえ、使用料をとて第三者に譲り、いまは商店街に早変わりするという現状である。しかもこの三原橋の運営には都庁幹部も監督上参画しており、都庁自ら道路を不法占用しているという事実がある。

三原橋は三十間堀の埋立工事が行われたとき橋下もふくめて道路ということになった。ところが26年8月28日、東京観光協会の安井協会長名義で橋下を観光案内所と商品陳列所にしたいと都へ使用方が申請され、そのまま許可された。ついで27年9月30日、橋下では観光案内に不適当であるというので橋上の料は輪に2階建のビルを建てたいと同じく安井協会長の名前で申請され、同10月30日観光案内所、常設物産即売所として許可された。
ところがこれらの土地(総坪数359坪)は許可のあと年間約75万円の使用料で新東京観光株式会社(社長宮地知覚氏)に譲渡されてしまったのである。同社では橋下(253坪)は坪6万円の権利金(半額敷金)で店舗を作り業者に貸付け、橋上両側のビル(106坪)は坪60万円から75万円という八重洲口名店街以上の高い権利金で業者に転貸された。このため橋上ビルの1階に会社事務所兼用の直営案内所があるだけで物産即売所のなければ商品陳列所もなく、あるものは飲食店、パチンコ屋をはじめ20数軒の店舗ばかりとなった。
ところが都の建築法規をみると道路や公有地に家を建てることは原則として禁止されているが、たとえ許可された場合でもその権利を他人に譲渡したり、使用目的を変更するときは道路管理者(都当局)の許可を受けることになっている。これに違反すれば即座に占用権は取消されることになっているが、観光協会の場合、橋下の商品陳列所と観光案内所の一部を映画劇場、娯楽場に使用目的を変更したいと申請しているに過ぎない。橋上の場合は申請もなければ、橋下の場合でも一部の変更を届け出て商店街に化けている。さらに不可解なのはこの三原橋の問題について第1回の申請のあった26年8月に都庁の富田都民室長はじめ直接監督取締りにあたる坪田道路部長、福田管財部長らをふくめて観光協会理事、観光会社側幹部三者の間に三原橋運営委員会が組織されているにかかわらず、こういうズサンな運営がなされている。しかも土地の権利金を寄付金として新観光会社から都に収めることになっていたが橋下の632万5千円は納付済だが橋上の約9百万円は未納といわれ、ナゾを秘めたままとなっている。

安井知事談『あの問題は私の知らない間に申請、建設されたもので、知事の怠慢といわれればそれまでだが、全く都民に対し申訳ないと思っている。現在都民の納得ゆくような改善工作をすすめ、徹底的に整備するつもりでいるが、なかなか思うようにゆかず困っている

宮路(原文ママ)新東京観光株式会社社長談『私は二代目社長だが都との使用契約についてよく知らない』

読売新聞は「不法建築」と紹介している。永峰好美記者も三文ライターならともかく編集委員なら「名画座最後の特集で、昭和の銀座をしのぶ」なんて呑気な記事を書いていないで、自社記事をひもといて「昭和の銀座の混乱期の象徴もやっと解消」くらいは触れるべきなんじゃないの?
そもそも耐震性の問題よりも「そこにあること自体が問題で行政や地元が長年苦慮してきたところ、やっと耐震の問題もからめて協議に応じた」という状況のように推測されるのだが、「閉館は、劇場がある三原橋地下街の耐震性の問題で昨年夏に取り壊しが決まり、東京都から立ち退き命令があったためだ。」と劇場側の言い分をそのまま書いていいの?それでも編集委員?(読売新聞の記者のレベルはこんなものなんですということを編集委員自らが体現しているというのであればそれはそれで結構)

そんな記事を書くから、上記の@higuchishinjiの怒りのツイートを呼びこんでしまうのだろう。都庁の担当さんは怒られ損だ。

三原橋
ここに、本来の観光案内所があったはず

      

朝日新聞 1969(昭和44)年7月1日

ぜいたくな流用 銀座・三原橋の地下街

商店が入居に反対 万策つきて倉庫街 4年越しお役所仕事の末路      

 1億81千万円の工費をかけ、40年3月に完成した銀座の地下商店街が、ついに倉庫に化ける。完成当時、都が入居してくれるはずと信じた三原橋会の商店16店舗は「人の通らない場所では商売ができない。地下には絶対、行かぬ」との態度を終始変えず、弱り果てた都が、ついに「とりあえず倉庫と会議室にする」ことにしてしまった。ズサンなお役所仕事が生んだこの地下街騒動、4年を過ぎたが、いまでも解決のメドすらついていない。
 地下街が倉庫にかわるまでのいきさつは--。
 都がこの地下商店街を建設したのは、三原橋の晴海通り両側にある2階建ビルをたちのかせ、ここを緑地帯にする計画で、ビルにはいっている16店舗をここに移転させる計画だった。
 当時、帝都高速度交通営団が日比谷線の建設中で、地下1階はプロムナード、地下3階が日比谷線、地下2階が空いていた。都は「この地下鉄工事に便乗すれば、工費も安くすむし、三原橋からも近い。代替地としては理想的だ」として総工費1億8千万円をかけ、1年がかりで40年3月に完成させた。
 地下商店街は、銀座四丁目と日比谷線東銀座駅をつなぐ地下2階で、総延長167メートル、片側に約25平方メートルの店舗用敷地17戸がある。地下1階のプロムナードに出るための入り口は5カ所。
 都は「建設当時の責任者がかわってしまったので、はっきりしないが、移転については商店主の了解を得ていたはず・・・・・」という。一方、商店主たちは「相談なんてとんでもない。はじめに話があればやめろといった。商売人だから、地下商店街がいい場所なら喜んでいきますが、あそこはひどい。袋小路みたいなところを、わざわざ地下2階まで降りてくれるお客さんが何人いますか。とても商売になりません。それに換気が十分にできないというので、ガスも使えないというし・・・・・・」と、相手が何年待っても、絶対に地下には降りないといっている。
 完成以来、4年3カ月、地下商店街の入り口は相変らずベニヤ板でおおわれたまま。軽金属の引戸と人造大理石はまだ新しいが、天井のところはすでに雨もりの跡ができてしまった。
 都では「あの場所を他に転用するわけにはいかない。三原橋会と話がつけばすぐにでも提供できるようにしておくのがスジ」と、17室のうち3室を会議室、残りを倉庫にすることに決め、倉庫には書類を入れ始めており、会議室にもイスや机を運び入れた。都も早期解決をあきらめているが、超スローペースのお役所ぶりに、銀座のダンナ衆「民間ならとっくに倒産、親方日の丸とはいえ、あまりにひどい」とあきれている。

東銀座の謎の地下街がこんなところでつながってくるのか。。日比谷線建設工事に伴い三原橋地下街が支障となるので、地下鉄工事建設にあわせて立ち退き先を準備→しかし移転しない。→地下街の通路も三原橋地下街を残したままに今もへこんでいる。というわけか。

行政側の視点でいくと「立ち退かないのであれば、行政側で立ち退き場所を公費で準備してまでやっても、結局居すわった」ということですかね。業者側にも言い分はあるのでしょうが。

先ほどの読売新聞永峰記者もそうだが、この朝日新聞記者も、そもそも三原橋に営業する業者がどのような経緯でそこで営業しているかを自社記事で調べて書けばこのような「親方日の丸」で済ませるような記事にはならなかったのではないか。

三原橋地下街
このあたりのドアを開けると、幻の地下街に通じるのだろうか?(あてずっぽうで全く根拠はありませぬ。)

なお
地下鉄日比谷線の上に謎の映画館!?
によると、下記のへっ込んでいるところが三原橋地下街だという。

三原橋

東銀座駅~銀座駅の地下通路が一旦上がってまた降りてまた上がるという不思議な階段になっているのは、そこに三原橋地下街があるかららしい。

三原橋

なお、地下街に係る不法占拠物件に係るトラブルというと大阪の梅田駅地下街新聞販売スタンドにまつわるあれこれ(大阪花の博覧会前に撤去)が有名であるが、下記PDFの31頁以降に経緯が掲載されているのでご参考まで。

http://www.hido.or.jp/14gyousei_backnumber/1991_data/seminar9105.pdf

≪追記≫

ありがとう、さようなら、銀座シネマパトス」には

Q なぜ閉館してしまうの?
A 2011年3月の大震災をきっかけに、劇場のある三原橋地下街の耐震性の問題が浮上。取り壊しが決まり、東京都より立ち退き要請があったため、2013年3月31日に閉館が決定した。

と記されている。各種記事の「立ち退き命令」とは違う。シンジくんの怒りのツイートのハシゴが外されてしまった。読売の永峰記者の記事も嘘になってしまった。昨年7月20日の最初の記事から何かリアクションがあったことを邪推させる。

また、都議会ネットリポートでは、「二棟の建物所有者とは、これまで話し合いを行ってまいりましたが、本年(注:平成20年=2008年)二月に至り、双方、解決に向けて協議していくことを確認いたしました。」となっているし、この質問の中で三原橋の老朽化についても問答がなされている。シネパトスの「2011年3月の大震災をきっかけ」よりも3年前だ。

このあたりの矛盾も、年月が経てば明らかになってくるのか?矛を収めるためには、それぞれの立場でそれぞれの大義名分が必要ということは理解できる。

その後、当初の目的である観光案内所としての機能が終了したため」という東京都建設局長の答弁は、そういう意味では簡潔かつ関係各所の顔をつぶさないという意味では名文だ。相当練りこんだものと推測される。

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8月3日(日)14時から、東京国際フォーラム5階 G505会議室で、三原橋の未来と価値を検証する 緊急シンポジウムを開催します。皆様是非ご参加ください。https://www.facebook.com/events/428467660629373/?fref=ts

投稿: 三原橋を考える市民の会 | 2014年7月27日 (日) 11時30分

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