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2013年4月に作成された記事

2013年4月29日 (月)

三原橋地下街や観光センターの経営者の新東京観光株式会社についてのメモ

三原橋地下街や三原橋観光センターについて文献をあさると出てくる新東京観光株式会社について調べてみた。

はまちゃん氏の「地下鉄日比谷線の上に謎の映画館!? (1) 三原橋地下街の謎」によると

戦後の混乱期の闇に発生した政商といわれる人間と、土地を所有していた東京都との複雑な利権関係があったようです。

その政商とは小宮山英蔵氏と云われる平和相互銀行創業者で、小佐野賢治などと同様に戦後の混乱に乗じて屑鉄商などから始め、裏の利権社会を生きて来た人だそうだ。
そして当時の東京都知事の安井誠一郎との間で政商ぶりを発揮し、小宮山氏は新東京観光㈱と云う受皿会社を設立し三原橋地下街・観光館の権利を得たとのではないかとのお話でした。

はまちゃん氏には、この一連の記事を書くにあたり随分参考にさせていただいているので、その援護射撃にならないものかと思い、官報等をあたってみた。
● 運輸省告示 第二百八十八号
 旅行あつ旋業法(昭和二十七年法律第二百三十九号)第五条第一項及び同法施行令(昭和二十七年政令第四百十六号)第三条の規定により東京都知事が次のように旅行あつ旋業の登録をした。

 昭和二十八年七月四日

運輸大臣 石井光次郎

3 登録邦人第三号

イ 旅行あつ旋業の種別 邦人旅行あつ旋業

ロ 営業所の名称及び位置 新東京観光株式会社 東京都中央区銀座東四の五

ハ 商号 新東京観光株式会社

ニ 申請者の名称及び住所 新東京観光株式会社 東京都中央区銀座東四の五

ホ 役員の氏名及び住所

宮路知覚 東京都世田谷区北沢三の九四九
山本 博 同港区本芝一の三
杉田 栄 同中野区桜山町四四
久保田栄 同荒川区日暮里町三の一五三
田中正次郎 同杉並区和泉町一四三
多久安信 同港区麻布広尾町二
金谷鮮治 栃木県塩谷郡藤原町滝五四五
村上磊介 東京都世田谷区北沢一の一三〇四
千葉胤次 同新宿区十二社三一七
菊池庫三郎 同千代田区神田鍛冶町三の一一

ヘ 登録年月日 昭和二十七年十一月二十日

宮路知覚氏は、下記のように国会で朝鮮銀行の戦後整理の中で名前が出てくる方である。なお、読売新聞 1954(昭和29)年10月30日の記事では、『私は二代目社長だが都との使用契約についてよく知らない』と述べている。

衆議院 決算委員会 - 30号
昭和32年04月27日
○山田委員 旧朝鮮銀行の当時の整理の衝に当っている者の名前は何というのですか。そしてあなたの方の折衝した人の名前は……。
○渡部証人(前第一相互銀行常務取締役) 朝鮮銀行のは星野喜代治さんが責任者であります。そこに頼みに行きました。
○山田委員 これが全部証人が当ったということは理解できないのですが、証人に話を持ってきた人はだれですか。
○渡部証人 この話を持ってきたのは宮地さんという人でございます。その人が紹介しております。
○山田委員 宮地さんというのは、宮地何という人です。
○渡部証人 宮地智覚という人でございます。
○山田委員 宮地智覚という人はどういう人ですか。
○渡部証人 この宮地智覚という人は三原橋の橋の建築をやった人で、あそこの権利を持っております。

役員のうち、多久安信氏は、戦前の公選知事、金谷鮮治氏は、日光金谷ホテル千葉胤次氏は弓道家にして戦前の公選東京区長、大政翼賛会局長、のようであり、すごいメンバーが揃っているようだ。

小宮山氏の名前は無いようだが、平和総合銀行系の人が入っているのだろうか??(その他の役員についてご存じの方はご教示いただけますと幸いです。)

 

旅行あつ旋業の営業保証金取戻し公告

旅行あつ旋業法第二十一条及び旅行あつ旋業者営業保証金規則第七条の規定により次のように公告する。

一、

 商号又は名称及び氏名 新東京観光株式会社 井上喜一郎

 事務所所在地 東京都中央区銀座四の五

二、

 登録年月日 昭和二十七年十一月二十日

 更新昭和三十五年五月一日

 登録抹消年月日 昭和三十八年六月十八日

三、営業保証金の額 金五万円也

四、前号の営業保証金につき旅行あつ旋業法第十七条第一項の権利を有する者は本公告の日から六箇月以内にその債権の額、及び債権の発生の原因たる事実並びに住所及び氏名又は名称を記載した申出書二通を東京都オリンピツク準備局観光部に提出して下さい。

五、申出書の提出がないときは、営業保証金は取りもどされます。

昭和三十八年七月十三日

東京都中央区銀座四の五

新東京観光株式会社

代表取締役 井上喜一郎

下記は、旧平和相互銀行系の「総武都市開発(小宮山義孝社長)」が経営破たんした際に、関連する厚生年金基金が解散したことを告知する公告。この3に挙げられている会社が「旧平和相互銀行系」ということなのだろう。

厚生年金基金解散公告

 当厚生年金基金は解散したので、厚生年金保険法第116条及び厚生年金基金令第42条の規定に基づき、次の通り公告します。

1.厚生年金基金の名称 総武厚生年金基金

2.事務所の所在地 東京都千代田区神田須田町1-12

3.設立事業所の名称及び所在地

 総武都市開発株式会社 東京都江東区木場1-4-12、
 株式会社武蔵野ゴルフクラブ 東京都八王子市宮下町656、
 新東産業株式会社 東京都豊島区西池袋1-16-1新東第1ビル、
 総武商事有限会社 東京都中央区銀座5丁目10番2号、
 足立産業株式会社 東京都中央区銀座5丁目10番2号、
 新東京観光株式会社 東京都中央区銀座5丁目10番2号
 総武健康保険組合 東京都千代田区神田須田町1-12、
 総武厚生年金基金 東京都千代田区神田須田町1-12、
 総武都市開発株式会社総武カントリークラブ 千葉県印西市草深302、
 株式会社中山カントリークラブ 千葉県八千代市桑橋1299番地、
 総武流山電鉄株式会社 千葉県流山市流山1丁目264番地、
 株式会社グリーンセクション 千葉県印西市草深242-1、
 東京書庫株式会社 埼玉県川越市下赤坂字大野原752番地、
 株式会社川越カントリークラブ 埼玉県東松山市大字大谷4189、
 妙高観光開発株式会社 新潟県中頸城郡妙高村関山大洞原6323-4、
 株式会社軽井沢森泉ゴルフクラブ 長野県北佐久郡御代田町茂沢森泉371-300、
 スプリングフィルズゴルフクラブ 茨城県真壁郡協和町小栗浦山6588

4.解散の理由 厚生年金保険法第145条第2項による

5.解散の認可の年月日 平成16年6月24日

 平成 16 年7月8日

  東京都千代田区神田須田町1-12

総武厚生年金基金 

お目当ての新東京観光とともに、総武流山電鉄(現・流鉄)が入っている。
流鉄は、現在も小宮山英一氏が社長であり、大株主に新東京観光等が名を連ねているという。

余談だが、つくばエクスプレスが建設中の際に「流山電鉄がつくばエクスプレスに乗客減の補償を要求し、その要求が呑まれなければ、交差協議に応じない」というような新聞記事をかつて読んだような気がする。
かつて、堤家の近江鉄道が新幹線建設にあたり、国鉄に沿線風致阻害観光価値減殺による旅客収入減補償1億5410万余円を要求したという事案と似たようなものを感じたものだったが、やはり似た者同士の社風だったのだろうか。

旅行あつ旋業の営業保証金取りもどし公告


 旅行あつ旋業法第二十一条及び旅行あつ旋業者営業保証金規則第七条の規定により次のように公告します。  昭和三十六年三月二十七日

  東京都中央区銀座四丁目五番地

宮路 知覚

一、(一)登録番号 東京都知事登録邦人第四四四号

  (二)住所及び氏名 東京都中央区銀座四丁目五番地宮路知覚

  (三)商号 宮路興業株式会社

  (四)主たる営業所の位置及び名称

     東京都中央区銀座四丁目五番地

     宮路興業株式会社

二、(一)登録年月日 昭和三十二年十一月十三日

  (二)登録抹消年月日 昭和三十六年二月二十三日

三、営業保証金の額 金五万円也

四、前号の営業保証金につき旅行あつ旋業法第十七条第一項の権利を有する者は本公告の日から六箇月以内にその債権の額、債権発生の原因たる事実並びに住所及び氏名又は名称を記載した申出書二通を東京都オリンピツク準備局観光部に提出して下さい。

五、申出書の提出がないときは営業保証金は取りもどされます。

二代目社長の宮路氏は、三原橋観光センター内に「宮路興業株式会社」を設けていたようだ。

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2013年4月23日 (火)

竹内正浩著「地図と愉しむ東京歴史散歩」を読んで思ったこと(駄)

あまりにどうでもよいことを書くので、まあ読み飛ばしてもらってよいですw

竹内正浩著「地図と愉しむ東京歴史散歩」146頁に下記のような記述がある。

 首都高速道路羽田線の一部として平成2年に開通したにもかかわらず、わずか八年で供用中止にいたった羽田可動橋も不思議な存在である。
(中略)
 羽田可動橋は間違いなく東京一の無用の長物である。その無用ぶりが愛らしい。 

だが、竹内氏は、何故に
『「湾岸線が未開通で羽田線の渋滞が深刻だった」平成2年に開通し、「平成6年に空港西~大黒JCTが開通する等湾岸線の整備が進んだ後に」供用中止にいたった』
と書かなかったのだろうか?

平成2年開通等といったことを調べた際に、上記のことは当然出てくるはずなのだが。。

羽田可動橋の意義等については、「道路行政セミナー」1990年8月号 首都高速道路の渋滞対策 ―大井インターチェンジ・羽田トンネル付近改良の効果― に詳しい。
http://www.hido.or.jp/14gyousei_backnumber/1990_data/seminar9008.pdf

     
 高速横羽線上りは、横浜市内と東京23区、千葉方面を直接接続する自動車専用道路であるため、交通需要が集中し、昼間は、羽田トンネルを先頭に10~15kmの激しい渋滞が慢性的に発生していた。この渋滞は、
 ①多大な交通需要
 ②羽田トンネルによる、交通容量の低下
 ③トンネル直前の空港入路からの一日約14,000台もの利用交通量
が、主な原因である。このうち、①の多大な交通需要を分散するために、現在、湾岸線3、4期の建設を進めており、これらが完成する平成6年度には、この渋滞は、解消すると予想される。 

ということで、当初から湾岸線開通までの時限の渋滞対策だったように思われる。
肝心の羽田可動橋については下記の目的だった。

       
その、一期工事は、渋滞原因のひとつである、現在の空港入路をトンネル通過後の森ケ崎側に移設するもので、この場合、海老取川を渡河する際には、船舶の航行を考慮して大型の船舶航行時に橋桁が回転して開くユニークな「可動橋」を採用している。

その効果については、下記のとおり。

       
一期工事完成前は、下りの縦断勾配部のトンネル入口という交通容量を減少させる要因のある区間に空港入路が合流していた。完成後は、空港入路の合流が比較的線形が良く、交通容量の減少要因の少ない地点に移ったため、捌け量が増加し、渋滞の緩和に効果を発揮していると考えている。 

羽田可動橋が役に立ったことを書いてしまうと「無用の長物」という結論が書きにくくなってしまうので、竹内氏はわざと伏せたのだろうか?

なお、上記の「空港入路」は、湾岸線開通後に改称され「空港西」となっているほか、当時は首都高ではジャンクションという用語は使っていなかったため「大井インターチェンジ」となっている。

こちらも併せて読みたい。

http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00035/1990/45-01-0628.pdf

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2013年4月22日 (月)

日経新聞 「東京ふしぎ探検隊」河尻定氏記事「東銀座に地下広場出現 現役最古の地下街は閉鎖へ」に係る疑義

※この項は、日経新聞に掲載された記事を検証することを主目的にしております。

「銀座の幻の地下街」の設立経緯等にご関心の方は、別項
東銀座「幻の地下街」を作った経緯が(ほぼ)分かった
http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/02/post-3bf6.html
をご覧ください。

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日経新聞の「東京ふしぎ探検隊」に、「東銀座に地下広場出現 現役最古の地下街は閉鎖へ」という河尻定氏の署名記事が掲載されていた。

http://megalodon.jp/2013-0422-0253-00/www.nikkei.com/article/DGXNASFK17045_Y3A410C1000000/

http://megalodon.jp/2013-0422-0254-04/www.nikkei.com/article/DGXNASFK17045_Y3A410C1000000/?df=2

http://megalodon.jp/2013-0422-0256-56/www.nikkei.com/article/DGXNASFK17045_Y3A410C1000000/?df=3

http://megalodon.jp/2013-0422-0257-20/www.nikkei.com/article/DGXNASFK17045_Y3A410C1000000/?df=4

三原橋地下街と歌舞伎座をからめて書いた記事で、今時ありがちな記事ではある。
ただ、私も今までそれなりに三原橋地下街について調べてきた目で見て、河尻定氏の記事の中身に疑義があるので、整理してみる。
IMG_4490


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三原橋地下街は、露店を収容するためのものだったのか?

河尻定氏の記事では、

東銀座周辺にはかつて三十間堀川が流れ、三原橋という橋が架かっていた。終戦後、戦災で生じたがれきの処分先として川は埋め立てられたが、なぜか橋桁だけが残った。1952年(昭和27年)に露天商を収容する目的で地下街を造った際も、橋桁を残したまま開業した。 

とある。

(※「橋桁だけが残った」と書いてあるが、じゃあその桁が載っている柱(下部工)はどこへいったんだ。自分の書いている記事に引用した図面に載っている柱はなんなんだ。)

戦後、銀座周辺のみならず、繁華街に多くの露店やマーケットが展開され、三十間堀川を埋め立てた三原橋付近に多くの露店があったのは事実である。
しかし、三原橋地下街がその収容先とすることを目的として作られたとは思いがたいのである。

当時の報道を確認してみる。

朝日新聞 1953(昭和28)年6月9日

近ごろ三原橋の地下街(中央区三十間堀埋立地)はパチンコ屋、飲み屋が軒なみにふえてきた。ところがこれは「都の観光事業のために使う」という約束で都が財団法人東京都観光協会(代表安井都知事)に貸したもので、地元の中央区議会では「まるでバクチ場みたいになってしまった。約束が違う」とカンカン。都観光協会、地元が三つどもえになって争っている。だが業者たちはどこ吹く風と涼しい顔だ。この紛争、いつ解決するか見通しもつかないようだ。

問題の三原橋下(253坪)は26年7月、東京都観光協会が観光案内所、全国の名物、商品陳列所などの観光事業に使用するといって金60万円余を寄付して東京都から借り受けた。
同協会はこれを同年8月新東京観光株式会社(代表宮地知覚氏)に又貸ししてしまった。このとき使用目的については都の三十間堀埋立運営委員会の決定に従わなければならないとの条件がついていたというのだ。ところが実際にはパチンコ屋、飲み屋が軒をつらね、最近はまた堂々とビルの建築がはじまった。
そこで三十間堀埋立運営委員会では、観光事業どころか風致風俗を俗悪化するばかりだ、と撤去を申し入れたがラチがあかないので、遂に地元中央区議会は「契約を無視した不法使用だ」といきまき、都議会に意見書を提出するほどこじれてしまった。 

朝日新聞 1953(昭和28)年8月29日

「明らかに使用目的違反だから撤去するよう申し入れる」と岡安副知事が言明した問題の三原橋下ゲームセンター(中央区三十間堀埋立地)は、それから2カ月半もたつというのに都当局や中央区議会をあざ笑うかのように相変わらずパチンコ屋、飲み屋が軒を連ねて大はんじょうだ。
「都の弱腰が業者にナメられているのだ」「イヤ、都と業者がグルになっているからだ」とうるさいウワサも飛んで都側の言行不一致と生ぬるい処置に地元はカンカンだ。

 一昨年、新東京観光株式会社(代表宮地知覚氏)が東京都観光協会(会長安井都知事)の委託で観光事業に使うという条件で、同地下街を借り受けたが、その大半をパチンコ屋、飲み屋にまた貸ししてしまったもの。これに強く反対した中央区議会では都議会に意見書を出したり、地元有志は「まるでバクチ場みたいだ」と憤っている。
 去る6月の都議会で地元選出の守本又雄議員(社)の「使用目的違反だから都側の善処を要望する」との質問に前記岡安副知事の言明となったもの。 都側がその直後、東京都観光協会同地下街運営委員会と共同で観光会社に対し「パチンコ、飲み屋営業は観光事業としてふさわしくないし、世間から批判されているので健全な施設に替えてもらいたい」と確かに申し入れたという。(都民室津野総務部長談)  

読売新聞 1954(昭和29)年10月30日

三原橋は三十間堀の埋立工事が行われたとき橋下もふくめて道路ということになった。ところが26年8月28日、東京観光協会の安井協会長名義で橋下を観光案内所と商品陳列所にしたいと都へ使用方が申請され、そのまま許可された。ついで27年9月30日、橋下では観光案内に不適当であるというので橋上の両側に2階建のビルを建てたいと同じく安井協会長の名前で申請され、同10月30日観光案内所、常設物産即売所として許可された。
ところがこれらの土地(総坪数359坪)は許可のあと年間約75万円の使用料で新東京観光株式会社(社長宮地知覚氏)に譲渡されてしまったのである。同社では橋下(253坪)は坪6万円の権利金(半額敷金)で店舗を作り業者に貸付け、橋上両側のビル(106坪)は坪60万円から75万円という八重洲口名店街以上の高い権利金で業者に転貸された。このため橋上ビルの1階に会社事務所兼用の直営案内所があるだけで物産即売所もなければ商品陳列所もなく、あるものは飲食店、パチンコ屋をはじめ20数軒の店舗ばかりとなった。
(中略)
観光協会の場合、橋下の商品陳列所と観光案内所の一部を映画劇場、娯楽場に使用目的を変更したいと申請しているに過ぎない。橋上の場合は申請もなければ、橋下の場合でも一部の変更を届け出て商店街に化けている。 

    これらの記事からは、「露天商を収容する目的で地下街を造った」どころか、「観光案内所や商品陳列所を設置する目的で橋下の占用許可を受けたが、目的に違反して、飲食店、パチンコ屋(これは後に映画館になる)に又貸し」して、地元行政が条件に違反していると「カンカン」という図式が読み取れる。

河尻定氏以外でも、多くの記事やウェブが「三原橋地下街は露店を収容する目的」と書いており、むしろ定説になっているようにも見受けられるのだが、実際には、「露店のような店舗を排除するはずだったのに、結果的に条件を違反する形で入られてしまった」というように考えられないか。

報道だけでなく、国会でも 昭和29年11月10日衆議院地方行政委員会において

三原橋の問題につきましては、「昭和三十三年、三十間堀埋立てに始り、代表的な市街を建設するため特に安井都知事を会長に都議会議員各派代表、関係都理事者、地元都議会議員、中央区議会代表者、区理事者、地元住民代表者二十九名をもつて三十間堀埋立運営委員会を組織し、衆知を集めて慎重に同地利用開発と健全発展方策を決定した。」三原橋下は「三原橋下は三十間堀埋立地の中心部であつて、観光都市東京にふさわしい施設たるべきものとし橋上周囲は緑地並にロータリーとすることに決定した。しかるに現在橋下はニユース館が一部を占めるのみで、他の大部分は不健全娯楽で営利を目的とする経営に充てられている。」  

という発言がある。

三原橋下は「観光都市東京にふさわしい施設たるべきもの」を目的としたのであって、残念ながら「露店を収容する」というのとは真逆なように思える。

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では銀座周辺や三十間堀川埋立地にあった露店はどこへいったのか?

朝日新聞 1953(昭和28)年9月22日

  追い立てられて、昨年4月から三原橋わき三十間堀川埋立地の空地(中央区東銀座5丁目三井不動産所有地)で仮営業していた銀座の露天商(銀座商業協同組合)440店が、いよいよ来月から同区東銀座1丁目に建築中の銀座館マートに移ることになった。これで都内の露天商は27年1月の禁止以来1年10カ月で事実上消える。 

三原橋付近に露天商は多くあったし、その収容を目的とした建物もあった。しかしそれは「銀座館」であって、三原橋地下街とは書いていない。

また、東京都議会1990(平成2)年3月15 日: 平成2年度_予算特別委員会の議事録には

◯西田委員 それでは、勝どき一丁目の都有地の、戦後から今日までの管理の状況について伺います。関係各局はご説明ください。

◯一ノ倉財務局長 (中略) それから昭和二十五年七月に、臨時露店対策本部が、中央区銀座四丁目三原橋の露店を撤去するため、代替地として、月島誠栄商業協同組合に本件土地を使用を許可しております。これは二十五年十月から三十九年九月まで、一年更新ということで許可をされておりました。 

とある。  三原橋付近の露天商は勝どきに移転しているのである。

このように、三原橋付近に露天商は多く営業していたし、それを収容する目的の建物もあったほか、移転先もあった。しかし、それは三原橋地下街ではなさそうである。

もっともこれらの記事には「三原橋下には絶対露天商は移転していない」とは書いていない。そこを河尻定氏はきっと証拠をお持ちなんじゃないかと期待している。

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(追記 8/24)

東京都の公文書等を調べたが、やはり「露店を収容」等とは一切書いていない。占用目的は他にちゃんと書いてある。(川尻氏は電車の公文書を探すのは大好きなようだが、こういう公文書はお得意でないらしい。)

当初占用許可時の公文書
http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/post-3f36.html

東京都議会での答弁
http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post-4930.html

東京都庁議
http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/31228-d1e1.html

東京都史、中央区史、当時の安井都知事の自伝等にも目を通したが、露天の解決への取り組みの記事はあり、収容先の渋谷地下街や上野の西郷さんの下等にも言及しているが三原橋に収容という記事は見つけられなかった。

川尻定氏は、嘘を書いていると断言して良いのではないか。

ちなみに、川尻定氏は「川は埋め立てられたが、なぜか橋桁だけが残った。」と記載しているが、許可の公文書には「交通その他の事情を考慮し現状の儘当分これを存置」と書いてある。もちろん橋桁だけ残したわけではない。

(追記終わり)

三原橋地下街


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地下街に係る消防規制の強化が壁になり、三原橋の商店は「幻の地下街」へ移転できなかったのか?

河尻定氏の「東銀座に地下広場出現 現役最古の地下街は閉鎖へ」の記事中、疑念がある箇所がまだある。

1960年代に地下鉄日比谷線を建設する際、当時の帝都高速度交通営団(現・東京メトロ)は、銀座から東銀座までの間の地下を4層構造とした。三原橋地下街を地下1階とすると、その下の地下2階部分を通路とし、地下鉄は地下4階を走る。地下3階部分には広大な空間を造った。 日比谷線開通後、地下街を管理する東京都が橋桁を撤去し、同時に地下街に入っていた店舗を新たに整備した空間に移す段取りだったようだ。
 しかし、思わぬ壁が待っていた。地下街に詳しい都市地下空間活用研究会(東京・文京)の粕谷太郎主任研究員によると、「日比谷線開通後、地下街で起きた火災事故を受けて消防法が変わり、地下街には地上に通じる出口が必要となった」という。 移転先を失ったことで三原橋地下街の取り壊しも宙に浮き、銀座の地下に広大な空間が残った。これが一部で噂されている「幻の地下街」だ。  

これを読むと、「日比谷線建設に合わせた三原橋地下街の「幻の地下街」への移転が、消防規制の強化のため予定どおりできなくなってしまった。」というように読める。
しかし、これも当時の報道と比較してみたい。

朝日新聞 1969(昭和44)年7月1日

1億81千万円の工費をかけ、40年3月に完成した銀座の地下商店街が、ついに倉庫に化ける。完成当時、都が入居してくれるはずと信じた三原橋会の商店16店舗は「人の通らない場所では商売ができない。地下には絶対、行かぬ」との態度を終始変えず、弱り果てた都が、ついに「とりあえず倉庫と会議室にする」ことにしてしまった。ズサンなお役所仕事が生んだこの地下街騒動、4年を過ぎたが、いまでも解決のメドすらついていない。 地下街が倉庫にかわるまでのいきさつは--。

 都がこの地下商店街を建設したのは、三原橋の晴海通り両側にある2階建ビルをたちのかせ、ここを緑地帯にする計画で、ビルにはいっている16店舗をここに移転させる計画だった。
 当時、帝都高速度交通営団が日比谷線の建設中で、地下1階はプロムナード、地下3階が日比谷線、地下2階が空いていた。都は「この地下鉄工事に便乗すれば、工費も安くすむし、三原橋からも近い。代替地としては理想的だ」として総工費1億8千万円をかけ、1年がかりで40年3月に完成させた。
 地下商店街は、銀座四丁目と日比谷線東銀座駅をつなぐ地下2階で、総延長167メートル、片側に約25平方メートルの店舗用敷地17戸がある。地下1階のプロムナードに出るための入り口は5カ所。
 都は「建設当時の責任者がかわってしまったので、はっきりしないが、移転については商店主の了解を得ていたはず・・・・・」という。一方、商店主たちは「相談なんてとんでもない。はじめに話があればやめろといった。商売人だから、地下商店街がいい場所なら喜んでいきますが、あそこはひどい。袋小路みたいなところを、わざわざ地下2階まで降りてくれるお客さんが何人いますか。とても商売になりません。それに換気が十分にできないというので、ガスも使えないというし・・・・・・」と、相手が何年待っても、絶対に地下には降りないといっている。  

これを読むと、三原橋地下街の商店が日比谷線上地下街に移転しなかったのは、消防規制が「壁になって」「移転先を失った」のではなさそうだ。

時系列で見てみると
・昭和40年に日比谷線上に「幻の地下街」が完成
・移転交渉を進めるも、三原橋地下街の商店側が拒否。
・昭和44年に暫定的に都が倉庫等として使用。

では、消防規制が強化されたのはいつかということなのだが、河尻定氏の記事には書いていないのだが、昭和49年の「地下街に関する基本方針」のことではないかと推測される。

(参考)
http://www.hiroi.iii.u-tokyo.ac.jp/index-genzai_no_sigoto-toshi_suigai-higai-chikagai.htm
http://www.sonpo.or.jp/archive/publish/bousai/jiho/pdf/no_222/yj22242.pdf

もしそうだとしたら、消防規制の強化の5年以上前に、三原橋店舗の「幻の地下街」への移転はとん挫しているのである。
消防規制が「壁になって」「移転先を失った」のではなく「移転を拒否されていたところ、消防規制の強化によってトドメを刺された」程度なのではないかというのが朝日新聞の記事を読んだ感想である。

※追記(4/25)

消防庁昭和45年12月1日付通達「地下街に対する防火対策の強化について」かもしれない。それにしても、倉庫利用の後だが。

(追記終わり)

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河尻定氏は、ウェブ上に書き散らかしている私のような素人とは違うだろうし、新聞社には過去の記事のデータベース等も簡単に検索できる環境もあるのだから、このような記事も見たうえで、それでも「三原橋地下街は露店を収容する目的で作った」「消防規制が壁になって三原橋の商店が幻の地下街に移転できなかった」と言える根拠がおありなのだと思う。
日経新聞という日本を代表するクオリティペーパーだ。朝日や読売のヨタ記事なんか問題にならないのだろう。私もいろいろ調べてきたので、是非その根拠が知りたいと切望している。

(そもそも、当初占用許可の条件に「許可満了時は、遅滞なく施設物を撤去し現状に回復すること」とあるのに、なぜ、条件どおりに撤去を命じることができないのか、なぜ、わざわざ税金で移転先を作ってやらなければならないのか、そこに何か事情(当時は「安井都政の七不思議」のひとつと言われていたらしい。)があったのではないか?ということに疑問をもって調べるのが新聞記者の仕事ではないだろうか。根拠もなく「三原橋地下街がこのまま取り壊しとなると、「幻の地下街」が脚光を浴びそうだ。」等と書いて煽るだけなら2ちゃんねるとかと変わらんよね。さすがゆとり世代ライターだww)

ところで、日経電子版というと、やはりみなさん、これを思い出しますよね。河尻定氏もきっとこんな感じの方なんでしょうね。

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2013年4月21日 (日)

東急東横線渋谷駅跡地(4月20日&4月21日)

ユニクロ等の大きなイベントが終わった渋谷エキアトだが、目立ったイベントもなく閑散としていた。

無料開放中


イベントの案内が一切ない


ちなみに、これは前週のもの、「coming soon」のはずが、その表示すらなくなっていた


改札跡をとおると、ビールやジュースを売っていたが誰も買わない。係り員のお兄さんも所在なげ。ちなみにこれで渋谷の土曜日の5時。





混雑もなくゆっくりと駅跡地を確認できた。



ヒカリエからみるとこんな感じ。ユニクロのときのような派手な広告もなし。

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2013年4月 8日 (月)

三原橋地下街 銀座シネパトス最終日

2015年3月31日(日)三原橋地下街の銀座シネパトスが最終日を迎えた。

三原橋 銀座シネパトス

奥に、2日後にこけら落としを迎える新・歌舞伎座が見える

三原橋 銀座シネパトス最終日

三原橋 銀座シネパトス

三原橋 銀座シネパトス最終日

三原橋 銀座シネパトス

三原橋 銀座シネパトス最終日

三原橋 銀座シネパトス

三原橋 銀座シネパトス最終日

三原橋 銀座シネパトス最終日

三原橋 銀座シネパトス最終日

三原橋 銀座シネパトス最終日

三原橋 銀座シネパトス最終日

三原橋 銀座シネパトス最終日

三原橋 銀座シネパトス最終日

新歌舞伎座

三原橋交差点を挟んで対峙する新歌舞伎座はあと2日で初日

新歌舞伎座

渋谷の東急百貨店東館(旧・東横百貨店)もこの日最終日だった。

東急百貨店東館最終日

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スーパーカーブームのころの展示会@横浜駅東口

70年代のスーパーカーブーム リアル消防で「サーキットの狼」読みながらBOXYのボールペンでスーパーカー消しゴムでレースしてたころ

場所は横浜駅東口の市バスターミナル横(今は、そごうがあるあたり)





後ろに横浜市営バスが写っている





【ご参考】昭和51年の昭文社エアリアマップ 横浜・川崎区分地図表紙
 みなとみらいがまだ造船所。横浜駅東口も当然旧駅舎


裏面はこんな感じ。横浜市営地下鉄2号線が。

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東急、先駆ステンレス車が引退へ

     
        
      

東急、先駆ステンレス車が引退へ 副都心線直通の余波

 日本初の全面ステンレス製車両から車体を引き継いだ東京急行電鉄の「7700系」が、数年後に引退する見通しになった。東急が3月に東横線と東京メトロ副都心線との直通運転を始めたのを契機に、車両の置き換えを進めるため。鉄道ファンらから惜しむ声が出そうだ。

 東急は鋼鉄製の車体が主流だった1962年にオールステンレス車両と呼ばれる、外板や骨格をステンレスにした旧7000系を登場させた。後に普及した全面ステンレス製車両の先駆けとなった。

 この車体を再利用し、駆動用装置などを更新して87年にデビューしたのが7700系。

2013/04/06 17:19   【共同通信】

こいつのことか。。 撮影場所は桜木町駅


おまけに青ガエルも貼っておく。桜木町のガード下が今と違ってキレイだ。


今の景色はこんな感じランドマークタワーあたりがすっぽりないことになる。(撮影当時は重工の造船所だった)

大きな地図で見る

ガードの海側はこんな感じだった


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2013年4月 7日 (日)

京都・一乗寺の名画座 京一会館のチラシが出てきた

一乗寺のスーパーの2階にあった名画座「京一会館」のチラシが、本の間から出てきた。

昭和60年代のものだから20年以上前のもの。
近頃、銀座シネパトスの記事ばかり書いていたので、その縁なのか。。。
京都一乗寺・京一会館チラシ
京都一乗寺・京一会館チラシ
京都一乗寺・京一会館チラシ
京都一乗寺・京一会館チラシ
「コミック雑誌なんかいらない」とか「家族ゲーム」とか「うる星やつらビューティフルドリーマー」とか見たような気がする。
保存状態はよいので、映画館の資料を収集されているところ等で必要な方がいらっしゃれば差し上げます。(追記→もう差し上げてしまったのでご了承ください)

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2013年4月 3日 (水)

国鉄横浜線 3色




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