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2013年4月22日 (月)

日経新聞 「東京ふしぎ探検隊」河尻定氏記事「東銀座に地下広場出現 現役最古の地下街は閉鎖へ」に係る疑義

※この項は、日経新聞に掲載された記事を検証することを主目的にしております。

「銀座の幻の地下街」の設立経緯等にご関心の方は、別項
東銀座「幻の地下街」を作った経緯が(ほぼ)分かった
http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/02/post-3bf6.html
をご覧ください。

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日経新聞の「東京ふしぎ探検隊」に、「東銀座に地下広場出現 現役最古の地下街は閉鎖へ」という河尻定氏の署名記事が掲載されていた。

http://megalodon.jp/2013-0422-0253-00/www.nikkei.com/article/DGXNASFK17045_Y3A410C1000000/

http://megalodon.jp/2013-0422-0254-04/www.nikkei.com/article/DGXNASFK17045_Y3A410C1000000/?df=2

http://megalodon.jp/2013-0422-0256-56/www.nikkei.com/article/DGXNASFK17045_Y3A410C1000000/?df=3

http://megalodon.jp/2013-0422-0257-20/www.nikkei.com/article/DGXNASFK17045_Y3A410C1000000/?df=4

三原橋地下街と歌舞伎座をからめて書いた記事で、今時ありがちな記事ではある。
ただ、私も今までそれなりに三原橋地下街について調べてきた目で見て、河尻定氏の記事の中身に疑義があるので、整理してみる。
IMG_4490


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三原橋地下街は、露店を収容するためのものだったのか?

河尻定氏の記事では、

東銀座周辺にはかつて三十間堀川が流れ、三原橋という橋が架かっていた。終戦後、戦災で生じたがれきの処分先として川は埋め立てられたが、なぜか橋桁だけが残った。1952年(昭和27年)に露天商を収容する目的で地下街を造った際も、橋桁を残したまま開業した。 

とある。

(※「橋桁だけが残った」と書いてあるが、じゃあその桁が載っている柱(下部工)はどこへいったんだ。自分の書いている記事に引用した図面に載っている柱はなんなんだ。)

戦後、銀座周辺のみならず、繁華街に多くの露店やマーケットが展開され、三十間堀川を埋め立てた三原橋付近に多くの露店があったのは事実である。
しかし、三原橋地下街がその収容先とすることを目的として作られたとは思いがたいのである。

当時の報道を確認してみる。

朝日新聞 1953(昭和28)年6月9日

近ごろ三原橋の地下街(中央区三十間堀埋立地)はパチンコ屋、飲み屋が軒なみにふえてきた。ところがこれは「都の観光事業のために使う」という約束で都が財団法人東京都観光協会(代表安井都知事)に貸したもので、地元の中央区議会では「まるでバクチ場みたいになってしまった。約束が違う」とカンカン。都観光協会、地元が三つどもえになって争っている。だが業者たちはどこ吹く風と涼しい顔だ。この紛争、いつ解決するか見通しもつかないようだ。

問題の三原橋下(253坪)は26年7月、東京都観光協会が観光案内所、全国の名物、商品陳列所などの観光事業に使用するといって金60万円余を寄付して東京都から借り受けた。
同協会はこれを同年8月新東京観光株式会社(代表宮地知覚氏)に又貸ししてしまった。このとき使用目的については都の三十間堀埋立運営委員会の決定に従わなければならないとの条件がついていたというのだ。ところが実際にはパチンコ屋、飲み屋が軒をつらね、最近はまた堂々とビルの建築がはじまった。
そこで三十間堀埋立運営委員会では、観光事業どころか風致風俗を俗悪化するばかりだ、と撤去を申し入れたがラチがあかないので、遂に地元中央区議会は「契約を無視した不法使用だ」といきまき、都議会に意見書を提出するほどこじれてしまった。 

朝日新聞 1953(昭和28)年8月29日

「明らかに使用目的違反だから撤去するよう申し入れる」と岡安副知事が言明した問題の三原橋下ゲームセンター(中央区三十間堀埋立地)は、それから2カ月半もたつというのに都当局や中央区議会をあざ笑うかのように相変わらずパチンコ屋、飲み屋が軒を連ねて大はんじょうだ。
「都の弱腰が業者にナメられているのだ」「イヤ、都と業者がグルになっているからだ」とうるさいウワサも飛んで都側の言行不一致と生ぬるい処置に地元はカンカンだ。

 一昨年、新東京観光株式会社(代表宮地知覚氏)が東京都観光協会(会長安井都知事)の委託で観光事業に使うという条件で、同地下街を借り受けたが、その大半をパチンコ屋、飲み屋にまた貸ししてしまったもの。これに強く反対した中央区議会では都議会に意見書を出したり、地元有志は「まるでバクチ場みたいだ」と憤っている。
 去る6月の都議会で地元選出の守本又雄議員(社)の「使用目的違反だから都側の善処を要望する」との質問に前記岡安副知事の言明となったもの。 都側がその直後、東京都観光協会同地下街運営委員会と共同で観光会社に対し「パチンコ、飲み屋営業は観光事業としてふさわしくないし、世間から批判されているので健全な施設に替えてもらいたい」と確かに申し入れたという。(都民室津野総務部長談)  

読売新聞 1954(昭和29)年10月30日

三原橋は三十間堀の埋立工事が行われたとき橋下もふくめて道路ということになった。ところが26年8月28日、東京観光協会の安井協会長名義で橋下を観光案内所と商品陳列所にしたいと都へ使用方が申請され、そのまま許可された。ついで27年9月30日、橋下では観光案内に不適当であるというので橋上の両側に2階建のビルを建てたいと同じく安井協会長の名前で申請され、同10月30日観光案内所、常設物産即売所として許可された。
ところがこれらの土地(総坪数359坪)は許可のあと年間約75万円の使用料で新東京観光株式会社(社長宮地知覚氏)に譲渡されてしまったのである。同社では橋下(253坪)は坪6万円の権利金(半額敷金)で店舗を作り業者に貸付け、橋上両側のビル(106坪)は坪60万円から75万円という八重洲口名店街以上の高い権利金で業者に転貸された。このため橋上ビルの1階に会社事務所兼用の直営案内所があるだけで物産即売所もなければ商品陳列所もなく、あるものは飲食店、パチンコ屋をはじめ20数軒の店舗ばかりとなった。
(中略)
観光協会の場合、橋下の商品陳列所と観光案内所の一部を映画劇場、娯楽場に使用目的を変更したいと申請しているに過ぎない。橋上の場合は申請もなければ、橋下の場合でも一部の変更を届け出て商店街に化けている。 

    これらの記事からは、「露天商を収容する目的で地下街を造った」どころか、「観光案内所や商品陳列所を設置する目的で橋下の占用許可を受けたが、目的に違反して、飲食店、パチンコ屋(これは後に映画館になる)に又貸し」して、地元行政が条件に違反していると「カンカン」という図式が読み取れる。

河尻定氏以外でも、多くの記事やウェブが「三原橋地下街は露店を収容する目的」と書いており、むしろ定説になっているようにも見受けられるのだが、実際には、「露店のような店舗を排除するはずだったのに、結果的に条件を違反する形で入られてしまった」というように考えられないか。

報道だけでなく、国会でも 昭和29年11月10日衆議院地方行政委員会において

三原橋の問題につきましては、「昭和三十三年、三十間堀埋立てに始り、代表的な市街を建設するため特に安井都知事を会長に都議会議員各派代表、関係都理事者、地元都議会議員、中央区議会代表者、区理事者、地元住民代表者二十九名をもつて三十間堀埋立運営委員会を組織し、衆知を集めて慎重に同地利用開発と健全発展方策を決定した。」三原橋下は「三原橋下は三十間堀埋立地の中心部であつて、観光都市東京にふさわしい施設たるべきものとし橋上周囲は緑地並にロータリーとすることに決定した。しかるに現在橋下はニユース館が一部を占めるのみで、他の大部分は不健全娯楽で営利を目的とする経営に充てられている。」  

という発言がある。

三原橋下は「観光都市東京にふさわしい施設たるべきもの」を目的としたのであって、残念ながら「露店を収容する」というのとは真逆なように思える。

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では銀座周辺や三十間堀川埋立地にあった露店はどこへいったのか?

朝日新聞 1953(昭和28)年9月22日

  追い立てられて、昨年4月から三原橋わき三十間堀川埋立地の空地(中央区東銀座5丁目三井不動産所有地)で仮営業していた銀座の露天商(銀座商業協同組合)440店が、いよいよ来月から同区東銀座1丁目に建築中の銀座館マートに移ることになった。これで都内の露天商は27年1月の禁止以来1年10カ月で事実上消える。 

三原橋付近に露天商は多くあったし、その収容を目的とした建物もあった。しかしそれは「銀座館」であって、三原橋地下街とは書いていない。

また、東京都議会1990(平成2)年3月15 日: 平成2年度_予算特別委員会の議事録には

◯西田委員 それでは、勝どき一丁目の都有地の、戦後から今日までの管理の状況について伺います。関係各局はご説明ください。

◯一ノ倉財務局長 (中略) それから昭和二十五年七月に、臨時露店対策本部が、中央区銀座四丁目三原橋の露店を撤去するため、代替地として、月島誠栄商業協同組合に本件土地を使用を許可しております。これは二十五年十月から三十九年九月まで、一年更新ということで許可をされておりました。 

とある。  三原橋付近の露天商は勝どきに移転しているのである。

このように、三原橋付近に露天商は多く営業していたし、それを収容する目的の建物もあったほか、移転先もあった。しかし、それは三原橋地下街ではなさそうである。

もっともこれらの記事には「三原橋下には絶対露天商は移転していない」とは書いていない。そこを河尻定氏はきっと証拠をお持ちなんじゃないかと期待している。

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(追記 8/24)

東京都の公文書等を調べたが、やはり「露店を収容」等とは一切書いていない。占用目的は他にちゃんと書いてある。(川尻氏は電車の公文書を探すのは大好きなようだが、こういう公文書はお得意でないらしい。)

当初占用許可時の公文書
http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/post-3f36.html

東京都議会での答弁
http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post-4930.html

東京都庁議
http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/31228-d1e1.html

東京都史、中央区史、当時の安井都知事の自伝等にも目を通したが、露天の解決への取り組みの記事はあり、収容先の渋谷地下街や上野の西郷さんの下等にも言及しているが三原橋に収容という記事は見つけられなかった。

川尻定氏は、嘘を書いていると断言して良いのではないか。

ちなみに、川尻定氏は「川は埋め立てられたが、なぜか橋桁だけが残った。」と記載しているが、許可の公文書には「交通その他の事情を考慮し現状の儘当分これを存置」と書いてある。もちろん橋桁だけ残したわけではない。

(追記終わり)

三原橋地下街


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地下街に係る消防規制の強化が壁になり、三原橋の商店は「幻の地下街」へ移転できなかったのか?

河尻定氏の「東銀座に地下広場出現 現役最古の地下街は閉鎖へ」の記事中、疑念がある箇所がまだある。

1960年代に地下鉄日比谷線を建設する際、当時の帝都高速度交通営団(現・東京メトロ)は、銀座から東銀座までの間の地下を4層構造とした。三原橋地下街を地下1階とすると、その下の地下2階部分を通路とし、地下鉄は地下4階を走る。地下3階部分には広大な空間を造った。 日比谷線開通後、地下街を管理する東京都が橋桁を撤去し、同時に地下街に入っていた店舗を新たに整備した空間に移す段取りだったようだ。
 しかし、思わぬ壁が待っていた。地下街に詳しい都市地下空間活用研究会(東京・文京)の粕谷太郎主任研究員によると、「日比谷線開通後、地下街で起きた火災事故を受けて消防法が変わり、地下街には地上に通じる出口が必要となった」という。 移転先を失ったことで三原橋地下街の取り壊しも宙に浮き、銀座の地下に広大な空間が残った。これが一部で噂されている「幻の地下街」だ。  

これを読むと、「日比谷線建設に合わせた三原橋地下街の「幻の地下街」への移転が、消防規制の強化のため予定どおりできなくなってしまった。」というように読める。
しかし、これも当時の報道と比較してみたい。

朝日新聞 1969(昭和44)年7月1日

1億81千万円の工費をかけ、40年3月に完成した銀座の地下商店街が、ついに倉庫に化ける。完成当時、都が入居してくれるはずと信じた三原橋会の商店16店舗は「人の通らない場所では商売ができない。地下には絶対、行かぬ」との態度を終始変えず、弱り果てた都が、ついに「とりあえず倉庫と会議室にする」ことにしてしまった。ズサンなお役所仕事が生んだこの地下街騒動、4年を過ぎたが、いまでも解決のメドすらついていない。 地下街が倉庫にかわるまでのいきさつは--。

 都がこの地下商店街を建設したのは、三原橋の晴海通り両側にある2階建ビルをたちのかせ、ここを緑地帯にする計画で、ビルにはいっている16店舗をここに移転させる計画だった。
 当時、帝都高速度交通営団が日比谷線の建設中で、地下1階はプロムナード、地下3階が日比谷線、地下2階が空いていた。都は「この地下鉄工事に便乗すれば、工費も安くすむし、三原橋からも近い。代替地としては理想的だ」として総工費1億8千万円をかけ、1年がかりで40年3月に完成させた。
 地下商店街は、銀座四丁目と日比谷線東銀座駅をつなぐ地下2階で、総延長167メートル、片側に約25平方メートルの店舗用敷地17戸がある。地下1階のプロムナードに出るための入り口は5カ所。
 都は「建設当時の責任者がかわってしまったので、はっきりしないが、移転については商店主の了解を得ていたはず・・・・・」という。一方、商店主たちは「相談なんてとんでもない。はじめに話があればやめろといった。商売人だから、地下商店街がいい場所なら喜んでいきますが、あそこはひどい。袋小路みたいなところを、わざわざ地下2階まで降りてくれるお客さんが何人いますか。とても商売になりません。それに換気が十分にできないというので、ガスも使えないというし・・・・・・」と、相手が何年待っても、絶対に地下には降りないといっている。  

これを読むと、三原橋地下街の商店が日比谷線上地下街に移転しなかったのは、消防規制が「壁になって」「移転先を失った」のではなさそうだ。

時系列で見てみると
・昭和40年に日比谷線上に「幻の地下街」が完成
・移転交渉を進めるも、三原橋地下街の商店側が拒否。
・昭和44年に暫定的に都が倉庫等として使用。

では、消防規制が強化されたのはいつかということなのだが、河尻定氏の記事には書いていないのだが、昭和49年の「地下街に関する基本方針」のことではないかと推測される。

(参考)
http://www.hiroi.iii.u-tokyo.ac.jp/index-genzai_no_sigoto-toshi_suigai-higai-chikagai.htm
http://www.sonpo.or.jp/archive/publish/bousai/jiho/pdf/no_222/yj22242.pdf

もしそうだとしたら、消防規制の強化の5年以上前に、三原橋店舗の「幻の地下街」への移転はとん挫しているのである。
消防規制が「壁になって」「移転先を失った」のではなく「移転を拒否されていたところ、消防規制の強化によってトドメを刺された」程度なのではないかというのが朝日新聞の記事を読んだ感想である。

※追記(4/25)

消防庁昭和45年12月1日付通達「地下街に対する防火対策の強化について」かもしれない。それにしても、倉庫利用の後だが。

(追記終わり)

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河尻定氏は、ウェブ上に書き散らかしている私のような素人とは違うだろうし、新聞社には過去の記事のデータベース等も簡単に検索できる環境もあるのだから、このような記事も見たうえで、それでも「三原橋地下街は露店を収容する目的で作った」「消防規制が壁になって三原橋の商店が幻の地下街に移転できなかった」と言える根拠がおありなのだと思う。
日経新聞という日本を代表するクオリティペーパーだ。朝日や読売のヨタ記事なんか問題にならないのだろう。私もいろいろ調べてきたので、是非その根拠が知りたいと切望している。

(そもそも、当初占用許可の条件に「許可満了時は、遅滞なく施設物を撤去し現状に回復すること」とあるのに、なぜ、条件どおりに撤去を命じることができないのか、なぜ、わざわざ税金で移転先を作ってやらなければならないのか、そこに何か事情(当時は「安井都政の七不思議」のひとつと言われていたらしい。)があったのではないか?ということに疑問をもって調べるのが新聞記者の仕事ではないだろうか。根拠もなく「三原橋地下街がこのまま取り壊しとなると、「幻の地下街」が脚光を浴びそうだ。」等と書いて煽るだけなら2ちゃんねるとかと変わらんよね。さすがゆとり世代ライターだww)

ところで、日経電子版というと、やはりみなさん、これを思い出しますよね。河尻定氏もきっとこんな感じの方なんでしょうね。

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