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2013年5月25日 (土)

三原橋地下街等をめぐる経緯を年表にしてみた

今まで、三原橋地下街等をめぐる経緯を年表の形でまとめたものを見たことがなかったので、作ってみた。
(もし、追加すべきいいネタがあれば是非ご教示いただきますようお願いします。)
19530331

年月日  事象  引用元
1919年1月19日  現・三原橋開通。歌舞伎座寄贈の大アーチに、橋の両側には紅白の柱に万国旗を渡した式場を設け、東京市長らが渡り初め。築地精養軒で祝賀会。  1919年1月20日読売新聞
1948年2月6日 連合国最高司令部「統制団体除去政策に関する覚書」発出。 長谷川淳一氏論文 
1948年3月30日  東京都議会は、三十間堀川等の都心部河川の残土による埋立案を通過させた。 長谷川淳一氏論文
1948年4月1日  三十間堀川埋め立て工事着工。年内完成予定。「商店もマーケット化を防ぐため都が統制して美しい様式の商店街とする」とのこと。  1948年4月2日朝日新聞
1948年4月2日 朝日新聞に「三十間堀に第二銀座」の記事掲載。 1948年4月2日朝日新聞 
1948年10月22日  読売新聞に「”東銀座”早くも紛争 文化的商店街と分割案対立」の記事掲載。 1948年10月22日読売新聞 
1949年3月8日  三十間堀川埋立地処理審議会規程  東京都公文書館 
1949年3月9日  東京都同人会が三原橋下の使用申請を東京都へ提出(都政相談所、救急治療所、職員倶楽部?、商品陳列、観光案内)。 1956年2月28日東京都庁議 
1949年3月19日  読売新聞に「来春にはモダン街 ”東銀座”月末から入札」の記事掲載。「三原橋付近は事務所として売り出す」とのこと。 1949年3月19日読売新聞
1949年7月 東京都知事名で露天商組合94団体に対して解散指示書が発せられた。 長谷川淳一氏論文 
1949年7月30日 三十間堀川埋立工事竣功認可について  東京都公文書館
1949年9月  東京都と警視庁が露店自体の撤廃(1950年4月から)を決定。 長谷川淳一氏論文 
1949年9月29日  東京都露店整理連絡委員会規程制定 東京都公文書館
1949年12月  東京都観光協会が三原橋下の使用申請を東京都へ提出(観光案内、商品陳列)。 1956年2月28日東京都庁議 
1949年12月13日  読売新聞に「銀座の土地売却中 東京の中心地三十間堀川埋立地を売却いたします」との広告掲載。 1949年12月13日読売新聞
1950年 新東京観光株式会社設立 1982年4月15日朝日新聞 
1950年1月17日 三原橋及び鍛冶橋下の占用について 東京都公文書館 
1950年2月1日  都は、東京都同人会に対して許可することとし、権利金相当の寄付金632万5千円の納入方を通知した。 1956年2月28日東京都庁議 
1950年2月14日  東京都建設局内に臨時露店対策部を設置。石川栄耀局長の指揮の下、露店業者との折衝を強化。 東京都組織沿革
1950年5月12日  東京都同人会は寄付金があまりにも高額であることを理由に申請を取り下げた。 1956年2月28日東京都庁議 
1950年7月21日  東京都同人会が申請を取り下げたため、東京都観光協会へに対して許可することとし、権利金相当の寄付金632万5千円の納入方を通知した。 1956年2月28日東京都庁議 
1951年7月10日  東京都観光協会は寄付金632万5千円の納付を条件として新東京観光株式会社と土地の管理利用に関する事業委託の仮契約を締結した。 1956年2月28日東京都庁議 
1951年8月28日  都は、東京都観光協会に対して三原橋下の道路占用許可を与えた。 1956年2月28日東京都庁議 
1951年8月28日  東京都観光協会は新東京観光株式会社と占用許可を受けた土地の管理利用に関する事業委託の契約を正式に締結した。 1956年2月28日東京都庁議 
1950年10月11日 衆議院地方行政委員会で東京都の露店対策が議論され、東京都石川栄耀局長等が参考人として説明。  衆議院議事録
1951年5月22日  読売新聞に「銀座バタ屋部落 一流の心地よさ 三十間堀埋立地に68戸」の記事掲載。  1951年5月22日読売新聞 
1951年8月  東京都幹部、東京都観光協会、新東京観光株式会社で「三原橋運営委員会」を組織  1954年10月30日読売新聞 
1951年8月28日 東京都観光協会(会長:安井都知事)が、三原橋下を観光案内所にしたいと都に申請  1954年10月30日読売新聞 
1951年9月11日 読売新聞に「生まれかわる三原橋下 将来はテレビ館も 年末に総合娯楽場お目見得」の記事掲載 1951年9月11日読売新聞 
1951年10月25日  新東京観光株式会社は三原橋下の建築許可を受けた。 1956年2月28日東京都庁議 
1951年11月17日  東京都観光協会からの願出により、都は三原橋下の一部を劇場並びに娯楽場に変更することを許可した。 1956年2月28日東京都庁議 
1952年1月  岩波写真文庫47「東京-大都会の顔-」に三十間堀の埋立地、三原橋地下街の写真掲載。キャプションとして「埋立中の壕は被整理露店商の収容地に予定されている」と記載されている。  岩波写真文庫47「東京-大都会の顔-」
1952年3月31日 東京都臨時露店対策部廃止  東京都組織沿革
1952年4月3日 読売新聞に「銀座露店また引越し こんどは三十間堀に」の記事掲載。「露店廃止で銀座を追われ数寄屋橋公園に移転した露店が銀座五丁目三十間堀埋立地に移転。4日から店開きする。」とのこと。   1952年4月3日読売新聞  
1952年4月25日  三原橋下建築の工事完成。 1956年2月28日東京都庁議 
1952年8月7日  新東京観光株式会社が東京都観光協会にビルの貸付を申請(観光協会による都への申請よりも前に?)  都議会議事録 
1952年9月30日 東京都観光協会(会長:安井都知事)が、三原橋の両側にビルを建てたいと都に申請   1954年10月30日読売新聞
都議会議事録
1956年2月28日東京都庁議  
1952年10月30日 上記申請に対しビルの建設が観光案内所、常設物販即売所として許可 1954年10月30日読売新聞
都議会議事録
1956年2月28日東京都庁議
1952年10月31日  東京都観光協会は新東京観光株式会社と三原橋両側の土地の管理利用に関する事業委託の契約を締結した。 1956年2月28日東京都庁議 
1952年11月20日  新東京観光株式会社が旅行あっ旋業の登録(役員の氏名等が掲載)  1953年7月4日官報 
1952年1月26日  都は新東京観光株式会社に三原橋下建築物の増築申請に対して建築許可を与えた。 1956年2月28日東京都庁議 
1953年1月15日  新東京観光株式会社が三原橋両側建築物の建設に着工した。 1956年2月28日東京都庁議 
1953年3月20日   読売新聞に「ニュース専門館に文化映画が進出」の記事掲載。
文中「ニュース映画専門上映劇場」として「テアトル(三原橋)」があげられる。 
1953年3月20日読売新聞  
1953年3月31日  朝日新聞に「銀座 三原橋上にビル 二階建で観光事業に」の記事掲載。
ビル建設中の写真やビル模型の写真が掲載されている。新東京観光の会長が多久元東京市助役とのこと。
1953年3月31日朝日新聞 
1953年6月9日  朝日新聞に「三原橋地下街が大モメ 都・観光協会・地元が三つどもえで ”違約”と怒る区議会 業者は涼しい顔で工事」の記事掲載。  1953年6月9日朝日新聞 
1953年6月10日 中央区議会が都知事並びに都議会へ「三原橋問題に関する質問書」を提出  1953年10月9日都政新報 
1953年6月15日  東京都議会で守本又雄議員が、三原橋地下街等について質問  都議会議事録 
1953年6月19日  朝日新聞に「近く取払い 三原橋地下街ゲームセンター」の記事掲載。  1953年6月19日朝日新聞
1953年8月29日  朝日新聞に「なめられた都 弱腰に地元民怒る ”副知事言明”あざ笑う 相変わらずのパチンコ屋」の記事掲載。 1953年8月29日朝日新聞 
1953年8月31日  三原橋両側建築物が完成した。 1956年2月28日東京都庁議 
1953年9月8日  朝日新聞に「三原橋の両側に橋上ビル店開き」の記事掲載。 1953年9月8日朝日新聞
1953年9月22日 朝日新聞に「遂に消える露天商 三原橋わきの440店 銀座館マートへ」の記事掲載。 1953年9月22日朝日新聞
1953年10月9日  都政新報に「安井謙氏も関係か?=三原橋に歓楽街出現= 中央区会の抗議も無視」の記事掲載。 
安井謙氏は安井都知事の実弟とのこと。
1953年10月9日都政新報  
1953年12月26日  都から東京都観光協会へ三原橋両側土地についての権利金相当の寄付金984万円を納付するよう通知した。東京都観光協会は委託契約により新東京観光株式会社へ同金額を納付するよう通知した。(しかし、1956年2月20日現在で700万円が未納となっている。) 1956年2月28日東京都庁議 
1954年5月25日  朝日新聞に「バタ屋立退き 銀座三原橋きわ」の記事掲載。 1954年5月25日朝日新聞 
1954年7月7日  読売新聞に「三原橋地下街 銀座ゲームセンター」の広告掲載  1954年7月7日読売新聞
1954年10月21日  衆議院地方行政委員会で取り上げられる。 国会議事録 
1954年10月30日  読売新聞に「三原橋商店街は不法建築 使用目的”観光案内所”が化ける」との記事掲載 1954年10月30日読売新聞 
1954年11月10日 衆議院地方行政委員会で取り上げられる。中央区議会議長及び東京都副知事が参考人として事情を説明。  国会議事録 
1954年  銀座ゲームセンターが銀座東映に 銀座シネパトスについて
1956年2月25日 【庁議】「三原橋」問題の処理について 東京都公文書館
1956年2月28日 【庁議】「三原橋」問題の処理について  東京都公文書館 
1957年5月6日 地元ビル会社が都知事、都観光協会等を相手取り、「三原橋の両側使用許可の無効確認、撤去」の訴えを東京地裁に持ち込んだ。  1957年5月28日朝日新聞
1957年5月27日 東京都議会建設労働委員会が、三原橋建物撤去期成同盟から出されていた「三原橋両側の建物撤去」の請願を審議。
(※都議会図書館に確認したところによると、当時の委員会の議事録は作成されていないとのこと。)
1957年5月28日朝日新聞
1957年5月28日 朝日新聞に「三原橋ぎわの建物撤去問題 判決あるまで留保 都議会建設労働委 態度決定延ばす」の記事掲載。  1957年5月28日朝日新聞
1958年2月5日 読売新聞に「三原橋の東映焼く 朝の銀座 まだ開館しないうち」の記事掲載。 1958年2月5日読売新聞
1958年 付近住民から「この土地は緑地になるはずだったのだから、ビルは撤去してほしい」との請願が出され、都議会が採択。 1982年4月15日朝日新聞 
1958年4月 東京都がビルに係る土地使用料(ママ)を請求しなくなる。 1982年4月15日朝日新聞 
1959年5月26日  IOC総会において、東京オリンピックの開催が決まる  
1961年  東京都観光協会が解散 1982年4月15日朝日新聞 
1961年2月  「オリンピックを迎える首都東京の展望」(株式会社政治新聞社刊)に写真掲載。「銀座東映、テアトルニュース」の看板等が見える。  
1961年10月27日 東京都首都整備局は都心部の幹線道路網の改良計画を検討しており、日比谷-三原橋間の地下自動車専用道路計画を発表。
なお地下鉄2号線(日比谷線)が競合する帝都高速度交通営団は反対。
1961年10月28日読売新聞 
1961年10月28日  読売新聞に「都心に地下道 日比谷から三原橋」の記事掲載。 1961年10月28日読売新聞
1961年11月29日 読売新聞に「地下自動車道修正して着工 日比谷-三原橋」の記事掲載。 1961年11月29日読売新聞 
1962年1月13日 読売新聞に「日比谷→三原橋 自動車専用道路 地下三階ときまる 来月早々にも着工」の記事掲載。 1962年1月13日読売新聞
1963年3月15日 読売新聞に「銀座-日比谷地下自動車道 計画本きまり」の記事掲載。 三原橋まで建設されることはなくなった。 1963年3月15日読売新聞 
1964年8月29日 営団地下鉄日比谷線東銀座~霞ケ関開通  東京メトロwebサイト 
1964年10月9日 読売新聞に「愈々明10日・新装開店 テアトル三原橋」の広告掲載。 1964年10月9日読売新聞
1964年10月10日  東京オリンピック開催  
1965年3月  三原橋の商店の移転先として地下街が完成。しかし移転交渉は難航し、移転は実現せず。 1969年7月1日朝日新聞
1992年8月1日読売新聞  
1967年10月3日 テアトルニュース跡に「銀座地球座」をオープン。洋ピンを上映。 銀座シネパトスについて
1968年9月1日 銀座東映跡に「銀座名画座」をオープン。こちらは邦画ピンク映画。  銀座シネパトスについて 
1969年7月1日  朝日新聞に「ぜいたくな流用 銀座・三原橋の地下街 商店が入居に反対 万策つきて倉庫外 四年越し お役所仕事の末路」の記事掲載。  1969年7月1日朝日新聞 
1973年7月31日 通達「地下街の取扱いについて」  
1974年6月28日 通達「地下街に関する基本方針について」地下街の規制に関する取扱方針や設置計画策定に関する基準を示した。  
1982年4月15日  朝日新聞に「銀座のまん中 借地料タダ 都が管理 緑地計画がらみの国有地 立ち退き不調・・・24年 「払う」「いや待ってくれ」」の記事掲載 1982年4月15日朝日新聞
1988年5月17日 朝日新聞に「サラバ ポルノ映画館よ」の記事掲載。
ポルノ映画を上映してきた銀座名画座(邦画)及び銀座地球座(洋画)を一般映画劇場へ、
1988年5月17日朝日新聞
1992年8月1日 読売新聞に「とうきょう地下探訪⑥ 27年開かずの”商店街” 「商売できない」入居ゼロ 結局は都の文書倉庫に」 の記事掲載。 1992年8月1日読売新聞 
2008年2月27日  東京都議会において都建設局長が「二棟の建物所有者とは、これまで話し合いを行ってまいりましたが、本年二月に至り、双方、解決に向けて協議していくことを確認いたしました。」 と答弁 都議会ネットリポート
2010年4月23日  読売新聞に「銀座通信 今だから新鮮な銀座レトロ・スポット 三原橋地下街を探訪」の記事掲載。
「戦後しばらくは、闇市の露店を整理した三原橋観光館があった。」とのこと
2010年4月23日読売新聞
2011年3月11日 東日本大震災   
2012年7月20日 銀座シネパトスの3月末閉館が報道される。  2012年7月20日共同通信ほか
2012年8月27日 東京新聞に「三原橋地下街よさらば 老朽化で取り壊しへ」の記事掲載。
「銀座では路上にあふれる露店商も問題となった。地下街は彼らの営業場所として整備された」とのこと。
取材を受けた方のブログに掲載
2013年4月4日 日刊spaにおいて「名物映画館も消滅…新歌舞伎座の脇に佇む最古の地下街を歩く」の記事掲載。
「震災を機に、この土地を持っている東京都がさ、耐震性がどうのこうのって言ってきたらしくてね。それで、ここで一番大きい(テナントの)映画館が『立ち退きます』って言ってハンコを押しちゃったわけ。映画館がハンコ押しちゃったらもう、ウチらもおしまいだよ」「所有する東京都などは震災後、耐震性や防災上の観点から、こうしたテナント類の道路占有(ママ)許可について更新を断った。」 とのこと。
 日刊spa
2013年4月19日  日本経済新聞に河尻定氏が「東銀座に地下広場出現 現役最古の地下街は閉鎖へ」というずさんな取材のお笑い記事を書く。 2013年4月19日日本経済新聞

こうやって見ると、三原橋地下街等を露店整理のためとした記事は、2010年以降に限られるのであった。
岩波写真文庫のキャプションも「壕」であって、「地下街に露店商を収容」とは書いていない。

読売新聞永峰好美、東京新聞小林由比、日経新聞河尻定の皆さんにはぜひその根拠をご教示いただきたいものだ。

また、建物の保存を各所に働きかけている方は、上記に見るような地元との関係を理解されたうえで取り組まれていることであろうことを望むものである。

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コメント

http://d.hatena.ne.jp/josaiya/20140209/1391954284

おひさしぶりです 三原橋から さほど遠くもない 銀座三愛ビル建築のさいのちょっとした裏話
こういう問題も 銀座の復興というか 再開発のさいには いまでもある話でしょうね

田辺さんは 小林一三の異父弟 怖いお兄さんたちは たぶん銀座警察の面々

投稿: くれど(junksai5) | 2014年5月20日 (火) 08時37分

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