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2013年6月12日 (水)

三原橋地下街の当初占用許可に係る東京都庁議公文書

さんざん書き散らかしてきた三原橋についてだが、やっと本丸にたどりついた感じ。
日経新聞の「東京ふしぎ探検隊」、「東銀座に地下広場出現 現役最古の地下街は閉鎖へ」での河尻定氏の

東銀座周辺にはかつて三十間堀川が流れ、三原橋という橋が架かっていた。終戦後、戦災で生じたがれきの処分先として川は埋め立てられたが、なぜか橋桁だけが残った。1952年(昭和27年)に露天商を収容する目的で地下街を造った際も、橋桁を残したまま開業した。 

という記述のインチキさを証明しようとして、ずいぶん無理なアクセルを踏み込んできたような気もするが。

川尻定氏のインチキ記事と下記東京都の公文書とを比較していただきたいものだ。

(記事はクリックすると大きい写真にジャンプします。)

三原橋地下街経緯公文書018

三原橋地下街経緯公文書019

三原橋地下街経緯公文書020

三原橋地下街経緯公文書021

三原橋地下街経緯公文書022

三原橋地下街経緯公文書023

川尻定さん見てる~?「露店商を収容」ってどこに書いてある~?

「なぜか橋桁だけが残った」(川尻定サイト)のではなくて「交通その他の事情を考慮し現状の儘当分これを存置」(上記文書1頁目)ともあるねえ。

それはさておき、三原橋下の出願者は第1に「東京都同人会」とあるが、これは許可は得たものの、寄付金の高さに辞退した。そこで、件の「東京都観光協会」が繰り上がったものである。この辺の経緯は別頁で。

また、許可条件に「13.許可期間が満了したときは、道路管理者の指示に従い、遅滞なく施設物を撤去し現状に回復すること」とある。

どなたかのブログに、現在三原橋地下街で営業中の店主が「都は立ち退き料も払わない」と言った云々という記事を拝見したが、そもそも、立ち退き料どころか、自費で地下街を撤去して都に返すというのが条件なのである。

しかし、これを読んでいると鍛冶橋の下にも同じような(それも三原橋よりも大規模な)地下街が作られることになっていたのである。この辺どうなったのだろう。

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