東京五輪決定前の首都高速道路計画に係る考察~昭和33年4月10日衆議院建設委員会議事録を読む~
東京五輪開催が決まって、前回の五輪関係のエピソードも話題になっている。
本稿では、五輪決定前の首都高速の検討状況について、国会での議論(昭和33年4月10日衆議院建設委員会)http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/028/0120/02804100120023a.htmlを紹介したい。
表題の委員会の議題は「都内高速度道路整備計画に関する件」ということで、藤本勝満露東京都建設局長や藤森謙一日本道路公団計画部長等を参考人として呼び意見を聴取したものである。
なお、東京五輪の決定及び首都高速道路公団の設立は翌年の昭和34年である。
1. 水路の利用は、東京五輪とは関係なく決定済だった
○藤本参考人 経過地に当っては不利用地、治水、利水上の支障のない河川、または運河を使用して、やむを得ざる場合だけが幅員40mの道路に設置する、建前としては道路上には設置しないように(略)
物件移転費という欄の一番下の欄をごらんいただきますと、878という数字が出ております。これは移転棟数の合計でございます。これだけの事業をいたしますのに、移転棟数がともかく千棟以下であるという点については、やはりできるだけ民有地あるいは民家というような面において御迷惑を少くするという配慮をいたした一つの現われだと存ずるのであります。
「五輪に間に合わせるために」ではなく、「民家への迷惑を少なくするために」水路等を活用しているのである。当時の国会では「高速道路建設による耕地の潰れを最小限におさえよ」といった議論も多く見られた。敗戦後まもなく、食糧生産や国民の生活維持がまだまだ政策の中でも重要な位置を占めていた時代であり、ある意味「(景観よりも)人にやさしい」道路だったのである 。
もともとの路線網については、こちらを参照されたい。http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/07/28-7e37.html
2. 日本橋は高架ではなく、掘割で通過することを優先で検討されていた
○藤本参考人 かように都市計画審議会人の特別調査委員会が調査し、その決定を知事に報告をしたのでありますが、その調査委員会におきましても、決してこの案で満足しておるわけではございません。従って、かように決定し答申をしましたが、そのするに当りまして、やはり附帯意見をつけておる次第でございます。(略)
外濠と日本橋川を利用する区間については、神田川との治水上の関連を慎重に検討の上、可能ならば河床を通すことが望ましいが、困難な場合には高架式その他の方法をとるのもまたやむを得ない。
上記の「附帯意見」の抜粋がこちら。(「東京都市高速道路の建設について」1959年東京都作成)
この計画どおりいけば、宝町付近の掘割構造がそのまま日本橋川まで続き、日本橋の上空の景観は守られたことになる(川面に水はないけど。)。
「首都高物語―都市の道路に夢を託した技術者たち」(首都高速道路協会)によると
『景観の悪化が指摘されている日本橋の上の高架橋については、「川の干拓をして、日本橋の上ではなく、下に高速を通そうと検討していた。ところが河川管理者サイドがこれを認めない。さらにその地下を掘って高速を通す時間的な余裕がないことから、高架で日本橋を越えるはめとなった」と、本意ではなかったと明かした。』
また、「東京の都市計画に携わって-元東京都首都圏整備局長・山田正男氏に聞く-」によると
『(聞き手)あれ、記録によると、一番はじめ高速道路は神田川を干拓して高速道路を入れようとしたけど、河川側があそこは絶対水を残してほしいと言うことで、道路側が折れて高架にしたというふうに読み取れるんですけれど。
(山田)それは、まだ内部の話だな。いや本当にそうしてやりたかったんだ、僕は。
(聞き手)日本橋の下に道路が行くという。その前に山田さんが神田川があふれんばかりの状況を見て・・・。
(山田)そうそう、ああこりゃ無理だということがわかったんだ。あれは、新幹線も新宿を経由して東京駅まで持ってきたいと。それで、好井宏海と話して、それならこの付近は神田川を干拓して、おまえは下の方を通れと、俺はその上を通りましょうというような話は、内部的にはしていたけれどね。
(中略)
(山田)あの日本橋のたもとには、帝国製麻という古い赤煉瓦の建物があったね。あれなんかも、敬意を表して全部避けてやっているわね。あれ、避けなくても良ければ、1号線とインターもできたんだけれどね。』
3. 霞が関~銀座の路線が検討されていた
○藤本参考人 皇居の南側において、すなわちこの国会方面から、桜田門、日比谷、数寄屋橋を通って銀座方面に通ずる路線の計画が、この計画には入っておらない。その点については、実際上、技術上非常な困難があるけれども、この路線はぜひほしいところなんで、これについても慎重検討をして結論を出すように(略)
上記の「附帯意見」の2を参照されたい。
「首都高物語―都市の道路に夢を託した技術者たち」によると
『国会の永田町と銀座、築地を直結する高速道路建設が、都市計画審議会でも何度か議題に上がったが、これは実現していない。山田が当時の事情を語っている。「首都高とは直接つなげられなくても、銀座界隈の最後の道路交通対策として、地下鉄丸ノ内線(ママ※管理人注 日比谷線の誤りであろう。)の工事と一緒に地下の自動車専用道路でつなぐ工事を実施しようとした。けれど、オリンピックのために工期の期限があって、断念した。結局、銀座側から日比谷側へ抜ける地下道路だけできたけれど、反対車線ができないなんて、中途半端なことになってしまった・・・・・。」』
五輪決定後に渋滞対策として「日比谷~数寄屋橋~銀座4丁目~三原橋」に地下自動車専用道路の計画があった。地下鉄日比谷線に沿って、地下1階の地下鉄コンコースを潰す形である。これが紆余曲折あって、銀座マリオン横のJRをくぐるガード下の立体交差に規模縮小された。http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/03/--4890.html
三原橋地下街移転先予定だった銀座の「幻の地下街」との関連性等も含めて追いかけていきたいテーマである。 当該地下道路に三原橋地下街が支障となる為の移転先として、日比谷線建設にあわせて幻の地下街を作ったのならタイミングはバッチリなのだが、そんなうまい話でもないだろうな。
上記の山田(正男)は、自著「時の流れ・都市の流れ」で下記のように述べているので上手くはまりそうな気がするのだが。。(営団地下鉄への委託工事の起案書でも出てくるとはっきりするのだが。。)
4. 首都高速道路公団は未だなく、日本道路公団が計画・建設開始しており、路線の優先順位も大きく異なった
○藤森参考人 道路公団は御承知の通り、31年の4月に設立されたのでございますが、同年の11月に東京調査事務所というものを設けまして、ただいま藤本局長から御説明がありました東京都市交通を緩和するために、都市高速道路を有料道路として調査を開始いたしたわけでございます。それで31年度と32年度の二カ年にわたりまして調査をやって参ったのでございますが、どういう調査をして参ったかということをちょっと説明させていただきます。
31年度はとりあえず調査を五反田線――これはただいまの御計画にございましたが、五反田のところから国電を越しまして、芝公園を通って新橋から岩本町に行く線でございますが、これをまず調査を始めて、昭和31年度に350万円程度の予算をもちまして調査を行いました。それから昭和32年になりまして、同じくこの五反田線の調査を続けると同時に、ただいま説明がございました京浜臨海線、つまり羽田空港と東京を結び、それからなおこれは横浜の方まで延ばす、こういう線の調査をやって参ったわけでございます。それでこの調査はどういう方針でやって参ったかと申しますと、これもただいま藤本局長が御説明しました資料の11ページにございますが、建設省の方で昭和32年7月20日におきめ願った東京都市高速道路に関する基本方針、東京都市計画都市高速道路に関する基本方針、この方針に基きまして、有料道路として調査を開始いたしたわけでございます。
調査はどういう調査をやって参ったかと申しますと、交通量の調査をやりますし、それから起点、終点、調査をいたしました。車がどこから出てどこに立ち去るかという調査をやりまして、たとえば五反田線にどの程度の車が乗るだろうかという調査をやったわけでございます。それから現在その線に乗った道路を自動車を走らせまして、新しい道路ができた場合に、どの程度の経済効果があるかというふうな点を調査をいたしました。これを昭和31年に一部やったわけでございますが、32年に引き続いてやって参ったわけでございます。32年には同じような調査を続けましたほかに、京浜臨海線というものが、これも非常に早くやらなくてはいかぬということになって参りましたので、構想といたしましては芝のところから品川を通りまして、東京都の港湾の方で御計画の埋立地を通りまして、羽田空港のわきを通り、それから多摩川を橋梁で越しまして、神奈川県の産業道路というものに乗りまして、横浜の方へ行くという線の調査をやったわけでございます。調査費といたしましては昭和32年度には約2千万円余の調査費を使ったわけでございます。それで現在東京都のされた御調査と一緒になって計画を立てておりますが、33年度から五反田線の一部工事を開始しようということで予算要求をやって参りまして、大体お認め願い、まだ最終的な決定には至っておりませんが、開始をできる準備になっております。
それから次に道路公団といたしまして五カ年計画に東京高速道路のことをどう考えておるかということを申しますと、建設省の御指示で五カ年計画の資料を作っておるわけでございますが、五カ年計画では、五反田から岩本町に参ります線のうちの、新橋までの部分を五カ年で完成する、これは延長が9キロ半でございまして、事業費約111億見込んでおります。これは五カ年間で完成する。それから臨海京浜線の方も、五カ年のうち、昭和35年度あたりから開始をいたしまして、羽田のところまではつなぐようにする、こういう計画を持っております。そのほかに調査といたしましては、先ほどの基本方針にもございました千葉の方と結ぶ、京葉道路とを結ぶという小松川線の方の調査に重点を置くということを大体五カ年の間に考えております。
五輪に向けて建設された区間とは随分優先順位が異なる。東名、中央道との接続も後回しになっている。尤も、当初の計画では、東名は渋谷、中央道は新宿起点だった ので大きな支障はなかったのかもしれないが。http://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/DGDetail_0000001953
日本道路公団東京調査事務所は、首都高速道路公団設立前に、首都高速道路の計画業務等も行ってきた。(土木学会誌昭和31年12月号60頁参照)「首都高物語―都市の道路に夢を託した技術者たち」では黙殺されているが。日本道路公団が作成した横羽線(上記では「京浜臨海線」)の調査報告書が川崎市立中原図書館にあり、閲覧できる。
なお、官報に掲載された日本道路公団による首都高速工事開始の公告は下記のとおり。
5. 東京高速道路(KK線)は自民党議員からも「利権道路」と呼ばれていた
○久野(忠治)委員 今日交通需要が限界に達しておることは衆目の見るところでございます。こうした点から一部経済人がこれに目をつけまして、御存じの通り新橋―京橋間に東京高速自動車道路の建設が計画をされ、目下この事業が進行中でございまするが、数年前に計画されたこの事業が今もって完成をしないのであります。しかも当建設委員会におきましては、この高速自動車道路の建設については多分な疑惑の目をもって見ておりまして、そうしてこの内容についても幾多の質疑が発せられました。そのとき――この問題には関係ありませんけれども、重要でありますから一つお尋ねをいたしたいと思うのであります。その際私が質問をいたしましたことはこういうことでありました。その下部の利用は一体何にするかという質問に対して、当時の東京都の副知事――名前はちょっと忘れましたが、副知事はこう答えました。倉庫もしくはガレージに利用する、こう言ったのであります。万一その利用目的が変った場合にはどういう処置をとるかという質問に対して、撤去を命ずる、こう言いました。それからもう一つ、この都市計画全体からいって、下水あるいは雨水の排水のための重要な都市水路であるから、これは残しておくべきではないかという意見もそのときに出たのであります。その質問に対しては、地下はいわゆる水路として残しておくように設計をされておる、万一それを埋め立て等にする場合があれば、これまた当初の設計に反するものであるから撤去を命ずるということを、現に当委員会で言明をされたのであります。それは当時の建設委員会の速記録をお調べになればよくわかることでございます。ところが今日でき上りましたものを拝見いたしますると、堂々たるキャバレーができたり、あるいは飲食店ができたり、事務所ができたり、倉庫というのは名ばかりで、今ガレージなどというのは名目的に一、二カ所あるだけでございます。それから私たちが指摘をいたしましたように、地下の水路はすでに埋め立てをいたしてしまいまして、そうしてこれを地下の倉庫に利用しようといたしております。そうして莫大な利権を握って、東京都の交通難を緩和するという美名に隠れて利権のちまたにこれがなろうとしていることは、衆目の見るところであります。
○西村委員長 それからこれは今日私風評で聞いておるのでありますが、設計変更の認可もないうちに高速自動車の私営のやつが行われている。しかもこれは世間では利権道路と言っているということ、そういうことからくる都の機構、あるいはその行政の運営に対しての疑惑というものも世間に伝えられている。
「テナント料で費用を賄っているので高速道路料金はタダ!民間の知恵だ!PFIの先駆けだ!」と持て囃されているKK線であるが、当時の国会では与野党こぞっての「利権」集中砲火であった。
なお、ソウルの清渓川における高架道路撤去の事例 をもって「日本橋の高速道路も撤去を!」と主張する方がいるが、街づくりのロケーション的にも道路のネットワーク的にも清渓川を見本に撤去するならKK線ではないか。どうして「利権まみれのコリドー街を撤去して、銀座の水辺空間を復活させよう」と言わないのだろうかと不思議なのである。
清渓川路は、京釜道等の他の高速国道ネットワークには一切接続しない、市内連続立体交差道路であった。手元の「韓國道路地圖」「全國道路地圖」を見ても「cheonggye elevated road」と書いてある。これを「高速道路」と書く者がいるが、無知なのか、一定の意図をもって誘導しようとしているのであろう。
また、ソウル外環道は北漢山をトンネルでぶち抜いており、お坊さんの反対デモが起こる等「風水」論も含めて大議論をまきおこした。決して韓国の道路政策が環境優先というわけではない。
※コミックマーケット85テクノスケープガイドVol3に寄稿したものに加筆修正しました。購入はこちらで。
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