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2014年10月12日 (日)

首都高直結の八重洲地下駐車場の場所に新幹線の東京駅が入る計画があった

国鉄の「東海道新幹線工事誌」によると、東京駅の設置個所については、下記のとおりの選択肢があった。

東海道新幹線東京駅案3

それに伴う路線の比較線は下記のとおり。

東海道新幹線東京駅案2

起点附近を拡大してみる。

東海道新幹線東京駅案1

ところで、これらの案の他に、現在の八重洲地下街に新幹線の地下駅を設置する案もあったようだ。

「東京の都市計画に携わって -元東京都首都整備局長・山田正男氏に聞く-」に下記のようなやりとりが出てくる。

9.新幹線問題と東京駅周辺整備

 新幹線の東京駅乗り入れ

(山田)東海道新幹線についてだが、これは首都圏整備委員会が品川止まりということを、水野岑(当時の委員会事務局長)を先頭に立てて決定までしたんだろう?

(聞き手)一応、決めました。

(山田)それは、副都心的育成を図るためとロンドンのターミナルの例に従って、都心まで乗り入れるべきでない、都心集中を抑制するためもあってという主張をはっきり態度で表したんだ。
 だから、僕らも反対をするわけには行かないから、一応その通りにやったんだ。その当時、国鉄は、湘南電車のため東海道線を複々線化していたから、湘南線専用の線路を増設したいということに一生懸命だった。湘南線のための線増は、相手になった。そのかわり、有楽町とか新橋の駅前広場については、費用が負担すべきものは負担してちゃんと造らなければだめだという約束をしたんだが、それは未だに費用は払っていないらしいね。

(聞き手)未だに守られていない約束が他にもいくつかあります。

(山田)両駅前の費用は負担しないと決めたらしいが、広場の造成については協力をしているんだね。

(聞き手)協力をするという約束になっている。

(山田)それで、有楽町では新線の下に交通会館のところにいた店舗をいくつか収容しなさいということで、いくつかを収容した。
 あの時に続いて、有楽町のBビルのサイドだけやっておけばよかったんだけれど、あそこで手を抜いたから残念だ。

(聞き手)あの時は、国鉄もその気になったんですよね。

(聞き手)国鉄はいやだったんでしょうね。品川始発というのは。

(山田)嫌だった。それで何とかして、東京駅まで持っていきたいというのが悲願なんだな。それで、僕も密かに首都圏整備委員会に背いたことになるんだけど、その前に造り始めた湘南線の新線を振り替えてやるよと。レールの幅だけの話だから。線路の数が増えたわけではないから。
 その結果、湘南線は貨物線を使うことになったのかな。それは、品川の話であって・・・。

(聞き手)結局は最終的には別線で東京駅の下に入って来た。

(山田)それは、ずっと後の話だね。その時には湘南線の増設は後回しにして東海道線と併用して湘南線分を新幹線に振り替えてやったんだ。国鉄の悲願だから。

(聞き手)それで高速道路株式会社の横を通るでしょう。株式会社の敷地ぎりぎりを通る。大変でしたよね。

(山田)だから、株式会社の敷地を侵すことにはならないようにと、国鉄に条件を呑ませて、ぎりぎりで入っている。土橋のランプウェイも必ず造るんだからそれを侵してはならないと言うことも呑ませてある。それで、東京駅まで仕方がないから呑んでやれよというのが僕の考え方。
 理由は、将来東北新幹線も造りたいといっているのだから、飛行機と競争させるには、東海道新幹線と東北新幹線が東京でつながらなければ意味ないよと。品川で降りて乗り換えて、また上野で乗り換えるのでは話にならないよと。
 それから、東京駅の管理局が焼けたとき、あそこを駅前広場にせよという計画に国鉄は乗らないが、こちらが計画をたてて、国鉄にその案を突き付けた。
 それよりも前、銀座の高速道路を首都高速道路の計画の中に取り込んでやって、あれを鍛冶橋から東京駅の方に伸ばしたときの話だが、その時は八重洲の駅の地下を通ることは困るというのだ。それをいうのは十河総裁で、総裁まで談判に行った。そこの地下へ東海道新幹線を持ってこようとしていたんだ。
 だからこれを侵されては困るというんだな。でも、それは呑ませてしまった。あそこで東海道新幹線を西寄りに振ってきたんだろうね。振ってきたから何のことはない、東北新幹線とつなげるようになったんだよね。八重洲の方によっていたら、東北新幹線と繋げやしない。
その時、首都圏整備委員会は、品川ターミナルを変更するのにもめたかな・・・。

(聞き手)一応新聞か何かに出てだいぶ大騒ぎをして・・・。

(山田)湘南線の増設を始めたのは32、3年でしょうね。

国鉄が、鉄道技術研究所記念講演会で新幹線の可能性をぶちあげたのが1957(昭和32)年、一方、首都高速道路の現在のネットワークの基礎が都市計画決定されたのが1958(昭和33)年)。ということは、1957(昭和32)~1958(昭和33)年頃に、八重洲地下街の場所をめぐって新幹線と首都高速道路で鍔迫り合いをやっていたんですな。

上記に出てくる「銀座の高速道路」は、東京高速道路株式会社線のこと。石川栄耀が中途半端に「やりっぱなし」で「安井都政の七不思議」と言われた難件を片付けるために、後付けで首都高速道路のネットワークに取り込むことで解決しようとした旨を山田正男は「時の流れ・都市の流れ」の中で述べている。(鍛冶橋を通ることで、これまた「安井都政の七不思議」の一つであった鍛冶橋下の映画館も撤去している。三原橋地下街もオリンピック関連道路で撤去しようとしたが、これは営団地下鉄との協議が整わずできなかった。) 石川英耀のとばっちりで十河国鉄が泣かされたと言えるのかもしれない。

また、品川ターミナルから東京駅乗り入れの変更の経緯については、この山田の回想を踏まえると、新幹線工事誌に掲載されている下記の文書のやりとりが一層理解できるわけだ。

東海道新幹線東京駅案4

東海道新幹線東京駅案5

なお、上記の新幹線路線図に、新幹線が代々木方面から飯田橋経由で代官町まで乗り入れてくるルートがある。それについても山田正男は言及している。

(聞き手)あれ、記録によると、一番はじめ高速道路は神田川を干拓して高速道路を入れようとしたけど、河川側があそこは絶対水を残してほしいと言うことで、道路側が折れて高架にしたというふうに読み取れるんですけれど。

(山田)それは、まだ内部の話だな。いや本当にそうしてやりたかったんだ、僕は。

(聞き手)日本橋の下に道路が行くという。その前に山田さんが神田川があふれんばかりの状況を見て・・・。

(山田)そうそう、ああこりゃ無理だということがわかったんだ。あれは、新幹線も新宿を経由して東京駅まで持ってきたいと。それで、好井宏海と話して、それならこの付近は神田川を干拓して、おまえは下の方を通れと、俺はその上を通りましょうというような話は、内部的にはしていたけれどね。

(参考:下記附帯意見の3を参照のこと)

東京都市高速道路の建設について2

好井宏海は、日本国有鉄道建設局長等を歴任した国鉄の技術屋の偉いさん。これが実現していたならば、飯田橋から大手町にかけて外堀は埋め立てられて、首都高速と新幹線の2段構造が入ってきていたことになる。

なお、上記のように1960(昭和35)年には、新幹線は東京駅乗り入れの協議を進めていたのだが、廃案となった外堀ルートは、今度は中央線の複々線化のルートとしての活用が検討されていたようだ。

中央線複々線化1

中央線複々線化2

土木学会誌 第45巻 第11号から引用

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