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2015年1月に作成された記事

2015年1月31日 (土)

東海道新幹線開通後の貨物新幹線に係る国鉄の取り組み等(貨物新幹線は世銀向けのポーズなのか)

阪神高速道路が直結するはずだった新幹線大阪貨物駅 において、「新幹線の貨物輸送は世界銀行の融資を受けるためのダミー(フェイク)」説について、主に建設時の国会議事録等を中心に検証してきたが、この項では、東海道新幹線開業後の貨物新幹線に係る国鉄の取り組み等を検証してみたい。

 この提案を受けて国鉄はさっそく世銀との接触を開始する。(中略)また、当時の世界では、鉄道は「経済動脈」として旅客と貨物をあつかうことが常識だった(世銀の本部が置かれるアメリカでは当時、鉄道輸送のじつに95%が貨物であった)ため、東海道新幹線による貨物輸送のプランも示す必要に迫られた。

 とはいえ、技師長である島の頭にははなから貨物新幹線構想などなかった。世銀への説明資料には貨物輸送の青写真も加えたものの、それはあくまでもポーズだった。このプランでは、新幹線における貨物輸送は、コンテナとピギーパック方式(トラックを直接貨車に積み込む方式)により、夜間輸送、東京~大阪を時速150キロ、5時間半程度で結ぶことが示されていた。

新幹線と日本の半世紀」交通新聞社刊、近藤正高著 76~77頁

 このように「世銀への説明資料には貨物輸送の青写真も加えたものの、それはあくまでもポーズだった」との趣旨で記す本は多い。また、当の島秀雄氏も下記のように語っている。

島はしみじみと回想する。

「私たちの新幹線に対する基本的な考え方は、東海道在来線の貨物を含む総輸送力を最も合理的に強化する方法として、新線を旅客中心にしてしまうということだった。つまり新線建設によって在来線には以前よりはるかに大きな貨物輸送力を確保することができるという、総合的な見地から決めたものであり、東海道輸送力増強の方策としてはわれわれの新幹線原案こそが最良最高のものであると考えていた。

  ところがこの考えを国鉄内部でも理解することなく、新線にも貨物輸送をすべきだと単純に発言する者もあり、まして世界銀行に理解してもらうには時間がかかりすぎるおそれがあった。

  したがって世界銀行に対しても一応本心は伏せて、新線でも貨物輸送をしないわけではないという態度でのぞむことにした。しかし、話し合っている最中にもつい本心が出てしまいそうで、はらはらしながらの交渉だった。日本語で日本人に話してさえなかなか理解してもらえないのに、外国人に外国諾で話すのではとても無理だろうな、と何度も思った。

  ところが私たちの話を聞いたローゼンさんのほうが、『そういうことであれば、在来の東海道線は貨物輸送を中心とし、新線は旅客中心でやることにしたほうが新線建設の意味も大きいのではないか』といってくれたので、ホッとした。(以下略)

超高速に挑む 新幹線に賭けた男たち」文芸春秋刊、碇義朗著 181~182頁

 また、JR東海元会長の須田寛氏は、下記のように述べている。

須田 (中略)しかし大きな課題は、新幹線の建設資金は世界銀行から約1億ドル借りることでした。

- 世界銀行というのは国際復興開発銀行(IBRD)のことですね。

須田 IBRDは開発途上国や戦災復興の援助を目的に設立された機構です。したがって貨物をやらないような鉄道には援助はできない、貨物も旅客もやってはじめて日本の開発になるのだから、Developmentになるのだから、旅客だけでは協力しにくいと言われたので、貨物をやりますと言わざるを得なくなってしまったのです。それでいずれは貨物もやることになって、鳥飼貨物駅を新幹線基地の横に造ったりしましたが、新幹線開通のころになると、貨物をすぐやる気持ちはほとんどなくなっていましたね。今のように新幹線と在来線で使い分けて東海道の線増効果を出そうとしたのが経緯でしょうね。

- 結果論ですが、東海道新幹線で夜行貨物列車を運転していたら、貨物の輸送シェアも変わっていたのかと思ったりします。

須田 輸送シェアはともかく、新幹線で郵便と新聞の輸送をやることは強く要請されました。これは貨車ではなくて電車でいいからと。しかしいざ実施となると、新幹線で輸送時間の厳しい新聞輸送をやるとダイヤが構成できないだろうということになってお断りしましたが、民営化の頃までこの要請はありました。一時期「RAIL GOサービス」をやっていましたが、あれはそのような要望の一部に応えたのです。(以下略)

須田寛の鉄道ばなし」JTBパブリッシング刊 68頁

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 しかしながら、上記の「定説」と異なり、東海道新幹線開業後も貨物新幹線の実施について検討した証拠は残っている。

 元日本国有鉄道総裁の仁杉巌氏は、東海道新幹線開業後の昭和43年に下記のように述べている。

貨物輸送

 新幹線は、いま貨物輸送をおこなっていませんが、将来それをおこなう考えは十分にあり、そのために最初からいろいろ研究していましたし、貨物駅の用地もすでに買入れてあります。

 はじめから貨物輸送をおこなわなかったのは、一つは、旅客輸送のための工事だけで資金がいっぱいだったことと、もう一つは、新幹線で大急ぎに荷物を運びたいという要望がまだそれほど高くなかったからです

 (中略)

 そこで、いずれ新幹線による貨物輸送をもとめる声も高くなってくるだろうと思いますが、そのときは、おそらく新幹線が関西よりももっとさきへのびたときではないかと考えられます。つまり、現在建設中の山陽新幹線が下関までのびたときとか、博多までのびたときとかです

 (中略)

 新幹線が日本を縦貫するようになったそのときこそ、新幹線は、直接、産業開発の一與もにない、日本の発展のために、もっともっと大活躍することになるのだろうと思います。

世界一の新幹線」鹿島研究所出版会刊、仁杉巌・石川光男共著 157頁

 この本は、子供向けに出版されたものなので、口調が子供向けに平易になっている。

 なお、この本が出版されたのは、昭和43年であり、新幹線が世界銀行からの融資獲得のためのポーズなら、わざわざリップサービスをする必要もないにもかかわらず、ポーズ説を否定し、貨物新幹線の将来構想について述べているのである。

 ちなみに、仁杉氏は、東海道新幹線建設にあたっては、名古屋幹線工事局長及び東京幹線工事局長を歴任しており、須田氏などよりも新幹線建設の実情を熟知していると思われる。

 同様に「山陽新幹線博多延伸時には貨物営業したい」旨のことは、昭和41年に出版された「国鉄は変わる」至誠堂刊、一条幸夫(国鉄審議室長)・石川達二郎(国鉄経理局主計課長) 著においても述べられている。

 このへんの面子が島氏のいう「この考えを国鉄内部でも理解することなく、新線にも貨物輸送をすべきだと単純に発言する者」なのだろうか?いずれにせよ、わざわざ島氏も言及するほど、国鉄社内における貨物新幹線に係るスタンスは一枚岩ではなかったということなのだろう。島氏の言い分だけ聞いて「貨物新幹線は世銀向けのポーズ」と断言してしまうのも一面的な取材にすぎないというわけだ。

 なお、東京大学名誉教授の曽根悟氏は、

幻の貨物新幹線

「十河総裁と「島技師長」対「その他国鉄首脳」との戦いはかろうじて総裁・技師長組の勝ちになったのだが,実現までにはさまざまな困難があった。

 まず,新幹線への最大の反対理由は,貨物輸送がネックになっているのに,貨車が直通できないことだった。これに対しては,今のコンテナ電車のような高速貨物列車を新幹線にも走らせることにした。こうして高速貨物電車の絵や図面は作られたのだが,どこまで本気でやる気だったのかは今となってはよく判らない。実際には,新幹線は開業直後から大人気で,旅客輸送だけで手一杯になり,開業後に貨物輸送の議論は全く立ち消えになった。

新幹線50年の技術史」講談社ブルーバックス 曽根悟著 24頁

と述べており、「国鉄内部での新幹線実施に向けた路線対立の収束のために貨物新幹線が検討された」との見解を示している。実際のところ、世銀との交渉以前に新幹線の諸規格が貨物新幹線ありきで決定されていることとも整合が取れるものである。

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 国鉄が発行した「新幹線十年史」には、山陽新幹線の建設にあたって下記の記述がある。

路線の有効長は、将来の貨物運行を考慮して500mとしている。

新幹線十年史」313頁

 世銀向けのポーズなら対応しなくてもよいと思われる山陽新幹線にも貨物用の規格が盛り込まれているというわけだ。ただ、この本には、貨物輸送についてはそれ以上のことは触れられていない。

 いろいろと調べていると、「旬刊通運」という交通出版社が発行していた運送業界誌の17巻33号(昭和39年11月発行)に「どうなるか新幹線の貨物輸送問題」という記事が掲載されており、ここに、東海道新幹線開業後の国鉄内部での検討状況が非常に詳しく記載されているので、紹介したい。

どうなるか新幹線の貨物輸送

-牛歩ながら検討は続行中-

旅客営業は順調にスタートしたが

 スピード時代に対応した鉄道の花形として、去る十月一日華々しくスタートを切つた東海道新幹線も、ようやく一ケ月を経過した。開業当初はパンタグラフの故障をはじめ、信号、ドアなどいろいろな故障が続発して、一時は前途に暗い影を投げかける一コマもあつたが、最近はこれら開業当初特有の部分故障も殆んど影をひそめるに至り国鉄当局もようやく焦眉を開いたというのが実情で、あとは悪質な妨害を防ぐことか当面の課題になつているようである。そんなわけで国鉄公約の「一年以内に東京-大阪間三時間運転の実現」は、見通しが明るくなつたとみられている。

 こうして東海道新幹緑は、未開の大地にようやく根を下した感があるが、これは旅客輸送の場合であつて、貨物輸送については未だに実施時期さえメドがついていない実情である。

 当初の計画では、先づ旅客輸送から営業を開始して、追つかけ一年後に貨物輸送を開始するということであつたし、事実そのような段収りで貨物輸送に関する検討も同時に進められてきたものだが、既に旅客営業は開始された現在に至るも、貨物輸送は何時、どのような形で実施するか、今もつてそれらの基本的方針さえ決まつていないというのが実情である

貨物輸送に対する消極論

 これには、新幹線の工事半ばで完成所要資金に対し八百数十億の不足を生じ、国会の問題にまでなつて、国鉄総予算中から優先充当等特別の資金手当をもつてやつと穴埋めをしたという過去のイキサツやら、開業期限に制約された事情(聞業予定の十月はオリンピツクの開催を控えていたので、面子のうえからも開業延期は許されないと、国鉄当局は背水の陣で臨んでいた〉から、資金面は勿論のこと、あらゆる点で当面は旅客輸送の開業体制確立一本ヤリで臨まざるを得なかつたものと思われる。

 つまり、これまでの状況から判断して貨物輸送の営業準備にまで手が廻わらなかつたのではないか、とする見方である。それに国鉄内部には、以前から新幹線で貨物輸送を行つてもあまり意義はないのではないか、とする消極論もある。これは、現在線から旅客の優等列車が新幹線へ移行すれば、現在線はそれだけユトリができるわけだから、その分を貨物輸送に充当するだけでも、輸送力はかなり増強できる、との観点に立つた考え方だが、その消極論というのは、東海道新幹線のような短い区間では、東京-大阪間に貨物の夜間運行をして早朝の三時、四時に着駅に着いても、即時引取りの受入体制を整えようがない実情なので、新幹線の一枚看板ともいうべきスピード化の効果が生かせないというのてある。

 そこから、強いて新幹線に貨物輸送を行うまでのことはなく、更らに輪送力増強の必要があるなら、現在線から 準急程度の旅客便も新幹線へ移し、線路容量に一層余裕をつくつて貨物輪送に振り向けた方が一挙両得だ、との議論も出ているのである。

 客貨分離の思想に通ずるもので、近年相次いで発生した重大事故を契機として、過密ダイヤの解消が大きくクローズアップするに至つた実情に微しても、その一環として客貨分離は必然の方向とも云えるわけで、考え方としては時宜を得たものと云える。

 しかし、これには日本の国情からみてゼイタクだとする反論のあることも事実で、理想的な鉄道経営のあり方と しては確かにそうあるべきだし、鉄道輪送をサービス本位に考え、事故の絶減を期そうとするには、少くとも幹線 ぐらいは客貨分離を図らねばムリなことはわかつているが、伝統的に客貨混合の過密ダイヤを基調として成り立つている国鉄の現行体制はそう簡単に改められるものではなく、又資金面でも厖大な投資を要することでもあるので国の強力なバックアップなくしては不可能なことだ。というわけである。

 それに、当初の計画では貨物列車は夜間だけ運転することになつている(但し、夜間一週に一回運転を休止して、保線作業の時間に充当する)が、開業後の実情はどうかというと、毎週一夜の予定の保線作業が毎夜行われているため、現状ではたとえ夜間であつても貨物列車を運転するユトリがなく、この面でも大きなカベに突当つている。勿論、線路の保守が軌道に栗れば毎夜保線作業を行う必要はなく、開業初期とあつて大事をとつた過渡的ソチには違いないのだが、何時常態になるか見通しがつかない現状だけに、問題点の一つになつていることは否めない。

 当初の基本構想

 しかし、だからと云つて貨物輸送の検討が全くなおざりにされているわけではない。囚みに三十七年当時まとめ られた一応の構想を掲げてみると次のとおりである。

(略)

白紙に戻して再検討に着手

 三十七年当時まとめた東海道新幹線の貨物輸送に関する基本構想は、概ね以上のようなもので、このうち停車場(取扱駅)の設置個所とか車両形式、輸送方法等の所謂基本事項は殆んどコンクリートしているようなものゝ、輸送計画に関する事項、即ち列車計画(運転計画)などは、概ね従来の基礎資料から試算したものに過ぎないので、新らたなデーターがまとまればそれに伴つて逐次修正することになつていると云われていた。

 そして、制度や施設等に関する具体的細目についても、新幹線総局(本年四月、新幹線支社に改組、貨物関係の担当者は営業局配車課へ配置換えをした)を中心に営業、運転等の関係各局担当者の間で逐次研究、協議することになつていた。

 ところが、前述のようにその後新幹線の建設それ自体に資金不足等の不測の事態が生じたことから、この際新幹線で貨物輸送を行うべきか否かという基本的問題に戻して、いわば白紙の状態で問題を検討すべきだとの意見が出され、それを契機として企面的に再検討することになつた。このため新幹線の貨物輸送に関する検討は一時中断も同然の状熊になつていたが、全線試運転の成功から旅客営業の予定期日開業の目鼻がつくに至つて、貨物輸送についても四十一年度乃至四十二年度の開業を目途に、輸送計画の具体的検討を再開することになつたもので、新幹線支社営業準備委員会、本社営業局配車課、貨物課などの担当者が逐次打合わせを行つている

コンテナ方式が有力

 現在検討されている新幹線の貨物輸送方式は、(一)フラットカーを使用する方式と(二)その他大型貨車による力式の二案があり、(一)案の中にも(イ)コンテナ方式、(ロ)フレキシバンを乗せる方式、(ハ)ピギーパツク方式(トレーラーを乗せる方式とトラックそのものを乗せる方式がある)などがあるが、このうち予算駅設備等の点で最も問題が少なく、現行のものと共用がでぎるという経済性の面からも五トンコンテナ方式が有力視されており、概ねこの方式を重点に検討を推進することにしているようである。

 コンテナ方式では電機牽引方式と電車貨車方式があるが.前者の場合は貨車一両当り六個積載、一列単二五両編成とし、後者なら五個積載の三〇両編成にすることが考えられている。

 とはいうものゝ、これらのコンテナ方式でも全く問題がないわけではない。一例をあげると、電気機関車牽引方式にしろ電車貨車方式にしても、積卸線に架線があつては積卸作業に著しく支障を来たすので、これをどう解決するかという問題がある。この点についてば、(一)積卸線にぱ架緑を設げず、列車が構内に入つたら積卸場所までデイゼル機関車に牽引して入、出線する。(二)コンテナの貨車積卸には従来のようにフオークリフトを用いず、コンベヤ方式で積卸しができるようにする……等の考え方があるが、具体的にば未だ何らの結論も出ていない。

 又、前述のように貨物輸送の予定時間帯となつている夜間は、毎夜線路の保守に当てられている現状では、貨物列車の運転のしようがないわけで、いずれは一週一夜程度の保守で間に合うようになるとしても、その時期は目下見当がつかないということだから、この点も大きな問題点に違いない。

 そこで、これらの問題点も含め、東海道新幹線の貨物輸送計画はどうなつているかについて、担当の営業局配車課堀本補佐に聞いてみた

 昼間運転も考慮

問 東海道新幹線の貨物輸送計画については、巷間消極論をはじめいろいろな説が流布されているが、当局の方針はとうなのか。

答 一応、実施することを前提にいろいろな角度から検討は続けているが決定した事柄は一つもない。

問 実施時期のメドはどうか。

答 四十年度の予算にはボカして一部を組入れて要求してあるので、そのまゝ大蔵省の承認が得られば四十一年度から営業を開始することもできるわけだ。予算ソチが整つても、開業までに二年かゝるというのが常識になつている。

問 貨物関係の所要資金としてどの位を見込んているか。

答 当面考えているように、電車によるコンテナ方式で開業当初は一日往復四列車でも間に合うという見通しが ハッキリすれば、取敢えずは東京(品川)と大阪(鳥飼)の二駅を設置するだけで用が足りるわけだから、既略九 〇億円ほど投貸すれば開業できる筈だ。しかし、取扱予想数量がこの程度の輸送計画では間に合わないとすれば東京の場合、品川では相応の施設をする用地のユトリがないので、設置場所を大井臨埠頭当りにかえなければならなくなるわけだから、この埋立費用だけでも相当な額に達するばかりでなく、途中静岡と名古屋にも駅を設ける必要があるので、一日往復二六列車を運行する規模に見積つて、所要経費はざつと六〇〇億門ほどかゝる計算になつている。

問 予定通り十月一日から旅客営業を開始してからかれこれ一月になるが大事をとる意味からか、夜間は毎夜保線作業が行なわれているという。このまゝでは夜間運転を予定している貨物輸送は不可能になると思うが

答 実はそれで弱つているわけだ。開業当初ではあり、安全運転のため過渡的ソチとしては止むを得ないことゝ 思うが、では、何時になつたら保守の手がゆるめられるかとなると、目下のところ皆同見当がつかない実情なのでこの点も一つの問題点になつているわけだ。消極論云々の話しがあつたが、資金などの問題もさることながら、幹部が貨物輸送に明確な基本方針を打出しかねているのも、こんなところにも理由があると思われる。

貨車の客車並み高速化を研究中

問 仮りに夜間の運行は先行きとも不可能になった場合には昼間運行に計画変更をせざるか得まいが、貨物の昼間運行を考慮されたことはないか

答 勿論、そういう考え方もあるがそうするにはスピードの問題から解決する必要がある。と、いうのはこれまでの観念によれば電車貨車方式では時速一三〇キロが限度なので、このような低速の貨車を新幹線に昼間運転するとなれば高速の旅客列車と時間調整をするため、要所々々に待避所を設置する必要があるが、新幹線には用地の面でそのようなユトリはないので不可能の実情にある。

 そこで、この解決策としては旅客列車並みに貨物列車のスピードアップを図る以外に方法はないわげだから、さき頃貨車を旅客列車並みにスピードアップすることができないものかどうか、技術陣に早急研究方を依頼したわけである。

問 旅客列車並みのスビードアップというと、時速二〇〇キロということか。

答 貨車の場合もこんな高速で運転している国は何処にもなく、全く未開の分野なので、技術的に果して可能性 があるかどうか、今後の研究に待たねばならないわけだ。しかし、これが完成すると、東海道新幹線では距離的に切角の高速も十分に生かし切れない憾もあるかも知れないが、将来山陽新幹線ができて東海道新幹線と直通運転するようになると、現在の「たから号」並みに夕方東京から発送するコンテナ貨物は、翌朝九州に到着してその日のタ方迄には荷受人に配達できるようになるから、驚異的な効果を発揮するものと思う。

問 最後に、新幹線の貨物輸送に関連して、通運体制をどうすべきかについて検討しているか。かつて、磯崎副総裁が常務理事当時(三十七年)、国会でこの点の質問を受けた際「新幹線の貨物輸送は、原則的にコンテナ輸送方式を採用するつもりなので、国鉄と通運会社の共同出資による新会社に任せることは考えられる」という意味の答弁をしたいきさつがあるが、こんなことがあつてから、業界内部には「国鉄はこの点についても内々研究しているのではないか」とみている向きも少なくないようだが。

答 新会社去々の問題は、当時磯崎副総裁が一つの考え方として述べたに過ぎないと思う。幹部はどう考えてい るか知らないが、われわれはその問題について検討したことは一度もない。しかし、新幹線でのコンテナ輸送と もなれば、その特殊性から云つても何らかの新方策を考えることは必要だろうから、いずればそう云つた間題とも 取組むようになるかも知れない。

 「貨物新幹線ポーズ論」の根拠の一つとして「夜間は保守を行っているのだから貨物輸送を行う余地はもともとなかった」というものがあるようだが、この記事を読むと、「当初は夜間の保守は週一日で、その日は貨物新幹線は運休する予定であった。しかしながら開業後想定外に毎夜保守を行うこととなってしまい、それが貨物運行の妨げになっている」旨の記載となっている。「夜間は保守を行っているのだから貨物輸送を行う余地はもともとなかった」という論は後付にすぎないもののようだ。なにより、昼間に旅客電車並のスピードで走行できる貨物電車の開発を検討しているのだから!

(※ 新幹線の開業後の保守体制等は上述の曽根悟氏「新幹線50年の技術史」に詳しい。)

 また、昭和39年11月時点でのこの記事では

「問 実施時期のメドはどうか。

答 四十年度の予算にはボカして一部を組入れて要求してあるので、そのまゝ大蔵省の承認が得られば四十一年度から営業を開始することもできるわけだ。予算ソチが整つても、開業までに二年かゝるというのが常識になつている。」

とのやりとりがなされているが、昭和40年3月の国会では、

国鉄が新幹線を開業いたしますまでには、先生も御承知のとおりに予算不足の問題がございまして、昨三十九年の十月に旅客の輸送開始をいたすまでの間に、いろいろとやむを得ない予算上の事情から、計画の変更と申しますか、一部をおくらせざるを得なかったということがございまして、その結果として、貨物輸送は、できれば一番最初は三十九年の十月、昨年の十月同時に開業するという計画でございましたけれども、ただいま申しましたような事情でおくれざるを得ない、ただいまの予定では四十三年の秋、これはどうしてもその時期になるという事情がございます

との答弁をおこなっている。

 国鉄幹線局調査役、新幹線総局調査役を歴任し、新幹線の企画から開業までを手掛けた角本良平氏は、中央公論新社のインタビューで下記のように答えている。

――本書にあるように、当初は新幹線も貨物輸送を想定していた?

 開業当時は、高速道路がまったく発達していなかった。東京から名古屋、大阪まで、トラックを動かすことは考えられなかった。その後、全国に高速道路網が張り巡らされた。結果的に、新幹線は貨物輸送をせずに正解だった。無駄な競争に参入しなくてよかった。

御年94歳、『新幹線開発物語』の著者・角本良平氏にきく。

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 ところで、山陽新幹線博多延伸時に実施されるはずだった貨物新幹線はどうなったのか?

 「国鉄線」昭和47年3月号(財団法人交通協力会発行)に「新幹線鉄道時代を迎えて - 21世紀の鉄道を目指して -」という国鉄局長級の座談会が掲載されている。ここで、泉幸夫貨物局長が、貨物新幹線の検討結果について下記のように述べている。

司会 さて、新幹線建設と関連して、貨物輸送をどうするかということも、国鉄としては非常に大きな問題だと思います。

泉 その前に、東海道新幹線を作りましたときに、将来は貨物もコンテナ輸送をやるという前提がありました。昭和34年に登場した5トンコンテナも、今縦積みにすれば、新幹線で使えるようにできているわけです。しかし、その後、100キロ貨車が開発され、東京~大阪間は、8時間で走るようになりましたから新幹線の貨物輸送は将来博多まで延びたときに、検討するという感じだったのです。

 その博多開業時期も大体きまってきたわけですが、貨物局を中心に勉強しまして、100キロ程度を出せるコキ車を使うと、博多から東京までといっても、そう時間に大きな差があるわけでもないことと、新幹線で5トンコンテナを運んでみたところでフリークェンシーに富んだ輸送は必ずしも期待できないこと等から、現時点では新幹線による貨物輸送は原則として考えていないのです。

 むしろ航空機が運んでいる-主として1トン以下の少量物品-あるいは現在旅客列車で輸送されている小荷物等を対象に、新幹線のもつ高速性が荷主さんに認められ、しかもフリークェントサービスが保てるならば、附随車を使って小型コンテナで迅速に積卸しのできる形態でやるぐらいのことが、新幹線での貨物輸送の範囲だと考えています。

 いざ検討してみたら、在来線の貨物に対しての貨物新幹線のメリットはなかったということですかね。いずれにせよ、島氏のいう「この考えを国鉄内部でも理解することなく、新線にも貨物輸送をすべきだと単純に発言する者」は相応の勢力があったということでしょうな。

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 以上、国鉄における東海道新幹線開業後の貨物新幹線に係る動きを整理してみた。近藤正高氏の述べるような単純なものではないことはお分かりいただけたかと思う。

 この他に、運輸省(当時)側の動きもあったようだ。運輸省系のシンクタンクともいえる「財団法人運輸調査局」において昭和40年3月に「東海道新幹線における貨物輸送方式」という調査報告がなされている。貨物新幹線がポーズであれば、こんな時期に運輸省が検討を行う必要はないはずだ。

 ちなみにその検討結果はというと

〔8〕結論

(略)

 現状においては、新幹線に直ちに全面的にコンテナ輸送を実施するためにはコンテナ輸送を応用するのは疑問とする要素が多い。この場合、新幹線において貨物輸送を実施するためにはコンテナ方式と電車貨車方式で行うことが方法としては最もふさわしいといえるが,これに要する莫大な投資に見合う利用財源,運賃問題,経済効果に疑問が多いばかりではなく,現在線の輸送力逼迫緩和にどれ程役立つか,また保守間合いをいかに生み出すか,フォークリフトなどの荷扱機械を如何にするか,通運業との関連をいかにするか,輸送速度をいかに調節するか,列車編成の問題をいかに処理するか等幾多の懸案が残されるので本格的に貨物輸送を開始するのは時期尚早であるというほかない。

 いずれにしても新幹線貨物輸送は一応採算を度外視して試行錯誤によつてやつてみることもよいが,これを本格的に実施することは余程慎重を期するというべきであろう。

調査資料第616号「東海道新幹線における貨物輸送方式 - 流通技術を中心として - 」財団法人運輸調査局 93頁

 となかなか辛辣である。

 同時期の昭和40年3月の国会における

国鉄といたしましては、新幹線を利用いたしまして高速の貨物輸送を行なうということが、国鉄の営業上どうしても必要なことでございまして、またその需要につきましても十分の採算を持っておりますので、なるべく早く新幹線による貨物輸送を行ないたい、こういうふうに考えて計画を進めております。

との国鉄側答弁と大きく異なっている。

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 ところで、東北・上越新幹線での貨物の取り扱いはどのようになっていたのか?

1.新幹線

【東北・上越新幹線】

1.17技術的諸課題解決に一歩前進

 全国新幹線鉄道ネットワークには、技術的に幾多の諸問題がある。つまり、ⅰ)東海道新幹線との建設基準の相違(標準活荷重・最高速度)、ⅱ)ネットワークとしての直通・分割・併合問題、ⅲ)豪雪・寒冷地域の高速運行、ⅳ)全国的な営業施策としての夜行運転・貨物輸送、などがそれである。これらの技術的課題については、新幹線整備の進捗に先立つて解決してゆくことが必要であるが、ネットワークの総合技術の第1段階として、東北および上越新幹線などを対象として、次項以下の方針を打ち出している。

(中略)

1.23 検討すすむ営業対策(夜行運転など)

(中略)

 一方、貨物輸送については、全国ネットを想定して、規格としては、東海道新幹線と同様N標準活荷重を採用することとなつているが、貨物輸送の要求する諸条件・新幹線的な高速度の必要性・航空貨物輸送との競合などの問題について検討した結果、数10年先の輸送構造の変化は予知し難いことなどから、線路設備としては対応できるものとしておくこととなった。

 

「交通技術」1972年10月増刊号、財団法人交通協力会発行 410・411頁から引用

 つまり、貨物を運ぶ具体的な見込みは当面ないけれど、未来永劫絶対ないとは言い切れないのでとりあえず貨物輸送には使えるように作っておく ということか。

 「世界銀行のためのダミー」であればここまでやる必要があるのだろうか??

4-2 車両限界と建築限界

車両限界

 車両限界とは、車両の断面寸法を一定の大きさに納める範囲の限界のことです。通常、在来鉄道の車両は肩部は丸い形状ですが、新幹線の肩部は四角い特別な形状となっており、しかもすべて直線からなる極めて単純な形状をしています。

 これは、新幹線の開発当初、旅客電車のほかに貨物輸送を考慮して、新幹線の車両限界が決定されたからです。後年、この大きな車両限界が生かされ、2階建て新幹線の誕生につながりました。

「図解入門よくわかる最新新幹線の基本と仕組み」秀和システム・刊、秋山芳弘・著 146頁から引用

 2階建て新幹線は貨物新幹線規格故に出来たということのようだ。

 

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 なお、元・信州大学教授で国鉄勤務時代に東海道新幹線建設工事に従事した長尚氏のウェブサイトによると、新幹線の建設基準にある活荷重(列車荷重)のうち、N標準活荷重(貨物列車荷重)は、2002年(平成14年)に改正されるまで、生きていた。つまり、それまでは貨物新幹線が走れるような構造で建設が続けられてきたのである。

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2015年1月21日 (水)

圏央道はなぜ高速道路ではなく一般国道なのか?~「ふしぎな国道(佐藤健太郎著)」の不思議(その3)

 

「ふしぎな国道」講談社現代新書2282(佐藤健太郎著)の、気になる点を整理してみる続きものの3回目である。

 第三京浜道路、首都圏中央連絡自動車道(圏央道)、東海環状自動車道などは、ほとんどの区間が制限速度80kmあるいは100kmで、どこからどう見ても高速道路だが、実際にはそれぞれ466号・468号・475号というナンバーを持った一般国道だ。これらは東名高速や中央自動車道などと、何がどう違うのだろうか?

「ふしぎな国道」佐藤健太郎著14頁

高規格幹線道路の体系

http://www.mlit.go.jp/road/ir/kihon/25/3.pdf

 

 この高規格幹線道路を、高速道路(上記でいう東名高速や中央自動車道等)と一般国道自動車専用道路(圏央道、東海環状道路等)に振り分ける基準等について国会で建設省道路局長(当時)が答弁をしているので引用してみる。

http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/109/1350/10908251350003a.html

 

参議院 建設委員会 - 3号

昭和62年08月25日

○太田淳夫君 この四全総で高幹道路網の整備を打ち出しているわけですけれども、この高規格幹線道路という概念はどういうものであるのか、あるいは従来の高速自動車道とはどのように違っているのか、あるいは今回の法改正の対象となっている国土開発幹線自動車道とはどのような関係になっているのか、あるいはまたその高規格幹線道路となる路線の要件はどのような基準になっているのか、説明してもらいたい。

○政府委員(鈴木道雄君(引用者注:建設省道路局長)) 高規格幹線道路につきましては、第三次の全国総合開発計画、三全総で一万キロの高規格幹線道路網を将来策定していくというときに提言されておりまして、その定義でございますが、私どもといたしましては、全国の各都市間を結ぶ自動車専用道路ということで考えております。したがいまして、現在の国土開発幹線自動車道は当然国土を縦貫し横断している路線でございますから、高規格幹線道路の一つに入るわけでございますし、また、本州四国連絡橋も同じ高規格幹線道路でございますし、また、国土を縦貫あるいは横断をしない路線でありましても、各地域を結ぶ一般国道の自動車専用道路もこの高規格幹線道路ということで私ども定義しておりまして、まとめて申し上げますと、高規格幹線道路の中には、従来の国土開発幹線自動車道、それから本州四国連絡橋、一般国道の自動車専用道路、この三種類があるということになります。

 それから、構造的にはどうかということでございますが、いずれも定義のときに申し上げましたように自動車専用道路でございまして、そういった観点からいえば、一般国道の自動車専用道路も国土開発幹線自動車道路も自動車専用道路でございますので、構造規格からいえば、一級とか二級とか、その程度の差はありますけれども、同じ自動車専用道路ということで、同じ構造でございます。

○太田淳夫君 この一万四千キロの高規格幹線道路につきましては、国土開発幹線自動車道と一般国道の自動車専用道、このいずれかに振り分けて整備されることになっているんですが、この一系統の整備体系にした理由はどのような理由なのか。また、振り分けの基準というのは一体何か。さらに、そのいずれかに振り分けられることによって生ずるメリット、デメリット、こういうものはどういうような状況でしょうか。

○政府委員(鈴木道雄君) 二つといいますか、国土開発幹線自動車道と一般国道の自動車専用道路の差でございますが、国土開発幹線自動車道の定義といたしましては、国土を縦貫し横断する全国的な枢要な自動車道路網をなすという定義でございまして、今回選びました一万四千キロにつきましては、全国の各地から一時間で高規格幹線道路に達成できるというようなネットワーク的な面から選んでおりますので、必ずしも国土を縦貫しあるいは横断をしている分野に入らないということでございまして、そういう道路につきましては一般国道の自動車専用道路でやるということで、路線の性格に応じてこの両者を分けたわけでございます。

 それからもう一つは、国土開発幹線自動車道路になりますと、従来の所掌でございますと日本道路公団で全線プールということでやってきているわけでございますが、先ほど来御審議いただいておりますように、やはり道路公団の施工能力ということにも限度がございますし、国土開発幹線自動車道路で道路公団となりますと原則として有料道路ということになるわけでございますが、今度行うものにつきましては、過疎地帯においては必ずしも有料道路になじまない路線もあるということもありますし、また建設省の直轄の施行主体も大いに活用しようということもこの二つに分けた理由のうちの一つでございます。

 この鈴木道路局長の答弁を私なりに整理してみると、高規格幹線道路を国土開発幹線自動車道(いわゆる高速道路)と一般国道の自動車専用道路に振り分ける基準は

1) 「国土を縦貫し横断する全国的な枢要な自動車道路網をなす」という国土開発幹線自動車道の定義に合致するか?

 佐藤健太郎氏は、道路法第5条による国道の要件は説明するものの、国土開発幹線自動車道建設法第1条の「国土を縦貫し、又は横断する高速幹線自動車道」という定義には触れていない。「どこからどう見ても高速道路(ふしぎな国道14頁)」でも、国土開発幹線自動車道建設法の要件を満たしていないと「高速道路」とは認められていないようだ。

(国土を縦貫しあるいは横断をしている分野に入らない道路は、一般国道の自動車専用道路)

2) 有料道路としての採算から日本道路公団(当時)の全国プール制になじむか?

(過疎地の道路等は採算上有料道路として全国プール制になじまないので一般国道の自動車専用道路)

3) 施行体制として建設省(当時)が直轄工事をするか?

(建設省が直轄工事をする場合は、一般国道の自動車専用道路)

※3)は、新直轄制度導入後の現在は異なってくる。

というくくりになりそうだ。

 また、道路局長は「一般国道の自動車専用道路も国土開発幹線自動車道路も自動車専用道路でございますので、構造規格からいえば、一級とか二級とか、その程度の差はありますけれども、同じ自動車専用道路ということで、同じ構造でございます。」と答弁している。

 道路構造令を確認すると下記のとおりである。

道路構造令における自動車専用道路

http://www.mlit.go.jp/road/sign/pdf/kouzourei_2-1.pdf

ということで、「一見すると高速道路にしか見えない道路が一般国道(ふしぎな国道105頁)」であっても何ら不思議ではないわけだ。

 そして、高規格幹線道路のうち一般国道の自動車専用道路に振り分けたものを国道昇格の際に整理していくこととなる。

 

○一井淳治君 ちょっと質問を変えさせていただきます。

 県道等の国道昇格の時期でございますけれども、たしか昭和五十五、六年ごろに行われまして、それからなされてないわけでございます。そろそろ一斉昇格の時期が来ているのではないかというふうに思いますが、その時期やそれをなさる場合の進行順序についての御説明をお願いしたいと思います。

○政府委員(鈴木道雄君) 国道昇格につきましては、前回の昭和五十七年の四月一日に五千五百四十八キロを国道昇格しております。それで、現在、高規格幹線道路網が一応決定をいたしまして、今後具体的に第十次の道路整備五カ年計画でそれが事業に進めるわけでございますので、そういった中で当然全体の道路網の再編成という問題が出ております。来年、六十三年以降、五カ年計画の中で国幹道の拡大あるいは国道昇格を考えているわけでございますので、五カ年計画の前半の時期に、都道府県の要望等をも踏まえまして、今御質問の国道昇格の選定を行いたいと考えております。

http://www.hido.or.jp/14gyousei_backnumber/1992_data/seminar9204.pdf

の「一般国道の路線を指定する政令の一部を改正する政令について」でこの国道昇格の説明がされており、一般国道の自動車専用道路については下記のように整理されている。

高規格幹線道路のうちの一般国道自動車専用道路  

※ 余談だが、圏央道は、国道468号となる前は、国道16号として建設されていた。

圏央道は国道16号だった

 そして、後に路線番号を変更しているのである。

国道番号の変更

 この辺を佐藤健太郎氏の「ふしぎな国道」から引用すると

 またこの時の国道指定では、圏央道(国道468号)、東海環状自動車道(国道475号)、京都縦貫自動車道(国道478号)など、一見すると高速道路にしか見えない道路が、一般国道の名のもとに指定を受けた。第三京浜道路(中略)も、建設から28年目にして国道昇格し、466号を名乗ることとなった。このあたり、いろいろ大人の事情があったことが窺われるが、詳細は表に出てこない。というわけで、450号以降の国道は、いわゆる高速道路に相当する道と、酷道区間を抱えた道(国道471号・477号など)が入り混じって現れるという、奇妙な状態になっている。

「ふしぎな国道」佐藤健太郎著105~106頁

 その1、その2と異なり、その3ではインターネットに公開されている資料で佐藤健太郎氏が言う「いろいろ大人の事情があったことが窺われるが、詳細は表に出てこない」「奇妙な状態」を説明してきたが、「ふしぎ」は解消されただろうか?(第三京浜の国道昇格の理由については私もわからないのだが)

 なお、第三京浜については、日本道路公団の「第三京浜道路工事報告」(神奈川県立図書館等で閲覧できる)に、建設時に「第三京浜を国道にしたくて縷々検討したが要件を満たさなかったので東京都道・神奈川県道にした」という趣旨のことが書いてあるが、それがどうしてひっくりかえったのかは私も関心があるところだ。

 

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ほとんどの国道は、国が一部補助金をだしているだけなのか?~「ふしぎな国道(佐藤健太郎著)」の不思議(その2)

 「ふしぎな国道」講談社現代新書2282(佐藤健太郎著)の、気になる点を整理してみる続きものの2回目である。

というわけで、1965(昭和40年)に一級・二級国道の区別は撤廃され、全てが「一般国道」の名で管理されることとなった。ただし、特に重要な区間のみを「指定区間」として国土交通省で直轄し、他の部分は「補助国道」として都道府県または政令指定都市が管理を受け持つよう、制度が変更されている。国道というのは国の道というくらいだから全部国で管理しているのかと思いきや、実はほとんどの部分は国が一部補助金を出しているだけというのが実情なのである。

「ふしぎな国道」佐藤健太郎著102頁

 道路法の該当する条文を引用すると

(国道の維持、修繕その他の管理)

第13条  前条に規定するものを除くほか、国道の維持、修繕、公共土木施設災害復旧事業費国庫負担法 (昭和26年法律第97号)の規定の適用を受ける災害復旧事業(以下「災害復旧」という。)その他の管理は、政令で指定する区間(以下「指定区間」という。)内については国土交通大臣が行い、その他の部分については都道府県がその路線の当該都道府県の区域内に存する部分について行う。(以下略)

 更にいうと、戦前の道路法では

第17条 国道ハ府県知事、其ノ他ノ道路ハ其ノ路線ノ認定者ヲ以テ管理者トス(以下略)

全ての国道が「府県知事」の管理とするところであり、戦後も昭和33年の道路法改正で「指定区間」の制度ができるまでは

(一級国道又は二級国道の維持、終戦その他の管理)

第14條 (前略)一級国道又は二級国道の維持、修繕、(中略)その他の管理は、都道府県知事がそれぞれその路線が当該都道府県の区域内に存する部分について行う。

と、全ての国道が都道府県知事の管理するところとされていた。

 なお、費用負担については、http://www.mlit.go.jp/road/sisaku/dorogyousei/2.pdf

道路の管理と費用負担

とされている。

 これだけで見ると、「革洋同は佐藤健太郎氏の何にいちゃもんつけとんねん」ということになるが、ここからは道路法の字面だけでは理解できないところである。

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■戦前から戦後にかけての中央地方関係のおさらい等

 戦前の大日本帝国憲法には「地方自治」の定めはなかった。

「府県制は、知事が府県を代表し、統括することを定めていた。しかし地方官官制にもとづき、知事は国の普通地方行政機関であり、天皇によって任命される国の役人であった。これは一般に地方団体と地方官官制の二元体系といわれているが、このようなシステムの結果、自治団体としての府県とは名ばかりであり、実際には府県は国の地方行政機関であった。(「FOR BEGINNERS 地方自治」 現代書館刊(新藤宗幸著)から引用)」

 つまり、戦前は、全ての国道は知事が管理していたとはいっても、官選知事が国の機関として管理を行っていたのである。

 「道路法解説」の第10条の項には「旧法(引用者注:旧道路法を指す)のもとでは国道は国の営造物とされたものの、その管理は国の機関としての都道府県知事が行い、費用はその公共団体が負担することとされ、例外的に国自らが新設、改築を行うことができることになっていた。」とある。

 敗戦後、日本国憲法に地方自治が規定され、知事は公選制となったが、「戦前の行政執行を継承する方法として機関委任事務が大幅に導入された。」

「機関委任事務とは、都道府県知事、市町村長、都道府県と市町村の行政委員会を法令で国の機関と位置づけ、これらに国の事務の執行を委任した仕事の処理方法である。」

「基本的に国の仕事を国の機関に委任したものであるから、地方自治法上、地方議会の議決権も調査権も及ばないものとされてきた。」

「機関委任事務の執行にあたって、知事は主務大臣の(中略)指揮監督と職務命令に従わなければならないことになっている。」(同上)

 そして、古い版の「道路法解説」の第13条の項には「国道の管理については、(中略)知事に機関委任する形態をとっていた」とある。

 補助国道の管理は、国の機関としての都道府県知事が国の仕事として行ってきたのである。

(※手頃に引用するのに「FOR BEGINNERS 地方自治」 を使ってしまったが、関心のある方は「機関委任事務 国道」といったキーワードで検索して自分で調べていただきたい。)

 数年前に「地方分権」がキーワードとなって政府の仕事を見直したことがあったのを覚えている方もいらっしゃるかもしれない。上記の「機関委任事務」は見直しがなされたのである。

 その際、国道の管理についても地方から多くの要望がなされた。

(※「地方分権 国道」といったキーワードで検索されたい。)

http://www.soumu.go.jp/main_content/000032768.pdf

一般国道の都道府県管理は法定受託事務2

 

一般国道の都道府県管理は法定受託事務1

 補助国道の管理は新たに「法定受託事務」と位置づけされ、結局のところ「国が本来果たすべき役割に係る事務」とされ、「指示」、「代執行」といった国の強い関与が地方自治法に定められている

http://www.mlit.go.jp/road/ir/kihon/25/3.pdf

一般国道の都道府県管理は法定受託事務

 国土交通省のサイトでも指定区間外の国道(補助国道)は「法定受託事務」であり、都道府県道及び市町村道は「自治事務」であると切り分けられている。

 なお、道路関係の地方分権一括法に係る改正事項等に関心がある方は下記PDFの「地方分権に伴う道路関係法律の改正について(道路法編)」を参照されたい。

 http://www.hido.or.jp/14gyousei_backnumber/1999_data/seminar9909.pdf

 このように佐藤健太郎氏が言うような「国が一部補助金を出しているだけ」ではなく、戦前からの日本の行政の歴史を踏まえた国の指揮監督・関与について定められてきたのである。

 

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 佐藤健太郎氏も「国が一部補助金を出している」と 書いていれば、「まあそんなもんだね」となるが, 「国が一部補助金を出しているだけ」と書いてしまうと「デデーン♪佐藤健太郎アウト~、(バシッ)」となってしまうわけだ。

 社会の授業で近現代史と政経(佐藤健太郎氏の頃はまだ「現代社会」かな?)をちゃんと勉強していないとアカンのですよ。

 法律の読み方でいけば、前回の国道の廃止うんぬんでは、「法律に書いていないからやらないのではなく、書かなくても当然にできるから書いていないだけ」というところを説明したものだが、今回は「法律に書いていないけど、別の法律に書いてある場合もある」というところか。

 

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■なぜ北海道の国道は全て指定区間なのか

ちなみに旧一級国道のほとんどと、北海道の国道は全てが指定区間となっている。

「ふしぎな国道」佐藤健太郎著102頁

 

 佐藤健太郎氏は「ふしぎ」事項に挙げていないのだが、道路法では北海道も道内の補助国道を管理することができるはずなのに、全ての国道が指定区間=国=北海道開発庁が管理している。この経緯についてもネタを一つ紹介してみたい。

「民主化の進められる戦後の政治状況のなかで革新・左翼系の知事が多数登場するのではないかという、一種の政治的危機感が支配層にあった。(中略)内務省地方局は最後まで知事直接公選制に抵抗したといえる。(「FOR BEGINNERS 地方自治」 現代書館刊(新藤宗幸著)から引用)」

 昭和22年の初めての知事選挙では、北海道、長野県、福岡県、徳島県で4人の革新知事が誕生し、このうち農民運動や炭労等が強い勢力を持った北海道では革新知事(田中敏文)が3選を果たしている。これが国道の管理にどうつながってくるのかというと。。。

 第2期田中革新道政が確定した昭和26年4月30日を待っていたかのように、道開発の国費事業を北海道庁から切り離して、独自に北海道開発局として独立させようとする動きがはじまった。中心になったのは黒沢候補(引用者注:田中知事に対して、知事選で自由・民主・農協の3党が推した黒沢酉蔵氏)をかついだ初代北海道開発庁長官の増田甲子七建設大臣と、道庁にあって反田中の中核となっていた池田土木部長(のち初代開発局長)とであった。
 こうした動きは道政の奪還に失敗した政府が、革新知事には国費事業はまかせられないという不信感と、北海道に直接国の支配をおよぼそうとする集権化を狙いとするものであった。せっかく、国費をつぎこんだ開発事業の成果が、革新知事の手柄にされては不本意だとする旧内務土木官僚と反田中の保守政治家の意趣返しだというのが定説となっている(鈴木英一『戦後道政史』北海タイムス社、昭和52年)。
 道開発局独立の動きは、北海道に大きなショックを与えただけでなく、国会においても保守・革新の対決点になった。田中知事は上京して精力的に反対を説いてまわった。「北海道における二元行政を招く」「道民自治を有名無実にする」という理由をあげて反対運動に走り回ったが、吉田内閣は知事選が終わって二か月も経たない5月末、北海道開発法の一部改正案を国会に提出した。改正案は国会審議で荒れたが、与党の強引な質疑打ち切りによって6月4日に成立した。その結果、道庁の土木部・開拓部の大部分が国の開発部に移り、同じ庁内の一角に自治体としての北海道庁と国の機関として道開発局が同居することとなった。当時で約100億円の公共事業の主体となった道開発局の池田局長は土木知事と呼ばれ、田中民選知事とならんで北海道行政の二元化がはじまることとなる。政府に押し切られた田中知事は、男泣きに泣いたものだという。保守中央政府による露骨な革新首長いじめの、戦後自治史のなかの典型であった。
 
 「戦後自治体改革史」日本評論社刊(鳴海正泰著)

 この件は、裏取りをしたわけではないので、「これが真相だ」というつもりはなく、あくまでも「こういうことを書いている本があるよ」という御紹介として受け止めていただければ。「日評で鳴海正泰著なんで」ということで、分かる人は分かってちょ。

 アメリカ占領下で瀬長亀次郎を那覇市長に選出するような沖縄県では、沖縄総合事務局とでは同様の問題はないのかといったことも調べかけたけれども、力尽きました。ご免なさい。

 その3に続く。

※国道には全く関係ないが鳴海正泰氏のこれ↓はおもしろかった。
http://kjk.gpn.co.jp/work/publishing/newsletter/pdf/0141_0205.pdf

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2015年1月18日 (日)

国道は廃止されないのか?~「ふしぎな国道(佐藤健太郎著)」の不思議(その1)

 「ふしぎな国道」講談社現代新書2282(佐藤健太郎著)という本を図書館で借りたのだが、気になる点があったので貸出期間中に気が付いた範囲で整理してみることにした。

 順不同で書くことについてはご承知おきのほどを。

 なお、参考文献は、必ず書くことにするので、ご関心を持たれた「ふしぎな国道」の読者の方は是非、原本を確認してほしい。

では、一発目。

そもそも、現行の道路法には、「国道の廃止」という規定が存在しない。国道が国道でなくなるという事態は、そもそも想定されていないのだ。

「ふしぎな国道」佐藤健太郎著107頁

 なるほど、道路法第10条では、都道府県道と市町村道の廃止については定められているが、国道の廃止について定めた規定はないように見える。

 さて、道路法の条文については、ネットを検索するとすぐ出てくるのだが、その解説となるとその名もずばり「道路法解説」という本がある。

 ここで、道路法第10条について調べてみよう。

佐藤健太郎の「ふしぎな国道」の答え合わせ1

(私がスキャンしたものは古い版なので、最新の版とは書き方が異なっている可能性があります。ご了承ください。)

 引用してみると「高速自動車国道法及び法(引用者注:道路法のこと)は、高速自動車国道及び国道の路線の廃止又は変更に関する規定を定めていないが、これは、これらの路線の指定が政令でなされている以上、当然、その廃止、変更が政令の改廃によってなされるべきなので特に法律ではこれに関する規定をおかなかったことによる。」とある。

 「国道が国道でなくなるという事態は、そもそも想定されていない」から規定がないのではなく、手続きは別に決まっているから、わざわざ書く必要がなかったということか。

 なお、国道の路線の指定を定めている規定は、道路法第5条であるが、「道路法解説」の第5条の頁には「本条は、路線の指定のみを規定しており、路線の廃止・変更は規定されていないが、これは、道路法が国道の路線の廃止・変更を予定していないからではなく、国道の場合には、政令の改廃という形で処理されるからにほかならない。」とある。

 

 「道路法解説」は、大変お高いのであるが、amazonで安い中古が出ることもあるし、大きな公共図書館においてあったりする。少なくとも東京都中央図書館にはあるので、是非手に取っていただきたい。ここは都民ではなくても利用できる。

その2に続く。

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2015年1月17日 (土)

新幹線と近江鉄道にまつわる「景観補償」の検証(蛇足)

新幹線と近江鉄道にまつわる「景観補償」の検証(その9)/多分(終)で締めたつもりが、締まらなかったw

 この、近江鉄道と新幹線のネタを始めたのは、もとはといえば、小川裕夫氏の「封印された鉄道史」の記述があまりにドイヒーだったからだった。もう11箇月も前なのか。

封印したい「封印された鉄道史」(小川裕夫)とウィキペディアと堤さんの所業

 せっかくなので、小川裕夫氏の記述の答え合わせをしてみよう。

 単行本でいうと144頁 Episode42【新幹線を走らせるなら1億円ください!】「近江鉄道眺望権裁判」の真相

 まず、表題から全く違うわ。なんでこれで「真相」と言えるのか?

小川裕夫氏 革洋同調べ
他方、滋賀県では新幹線と高宮駅-五個荘駅間で併走する近江鉄道が国鉄相手に訴訟を起こしている。 訴訟はおこしていない。通常の補償の交渉を行っているだけである。
これは新幹線の線路が高架線であるのに対して併走している近江鉄道の線路はそのまま地上にあるので、踏切や警報機の位置を変えたり新しく設置し直さなければならなくなったからだ。 踏切については請求項目に入っているが、それだけではない。詳細はhttp://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/12/post-1055-1.htmlにて。
その費用として近江鉄道は国鉄に1億円を請求した。 国鉄によると、当初は要求額総計4億1626万770円→後に7億7600万円を要求。詳細はhttp://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/12/post-1055-1.htmlにて。
近江鉄道が国鉄に提出した要望書に挙げた項目の中に、「近江鉄道の車窓から見える伊吹山や鈴鹿山脈の眺望が失われる補償」という文言が含まれていた。 「眺望が失われる補償」という言い方は近江鉄道も国鉄もしていない。直接的には旅客が減ることに対する補償である。
国鉄の大石重成新幹線総局長の国会答弁では
「近江鉄道は観光的な鉄道でございますので、お客さんが、沿線の景色をながめながら走っていくというようなことを大きな目的にした鉄道でございますのに、これが隣に大きな築堤ができまして、あたかも谷の下を走っていくような状況になったということによりまして、この営業上の損失と申しますか、観光客が減っていくというようなことの算定もいたしました。」
なお、近江鉄道側は、当初は「新幹線を現計画に依り敷設せらるるに於ては、当社鉄道は全く展望を遮蔽する高い壁を以って遮断され、当社乗客は窓外の眺めも不可能となり、斯くては交通の快適性と観光価値を奪い去られる結果となり、これは旅客輸送機関として堪えうる処に非ざる点を再三再四訴えている」と述べているが、最終的には「近江鉄道がもらった減客補償が゛風景補償″だなんて、まるで寝耳に水です」(小島正治郎西武鉄道社長のコメント)という立場に転じている。
当時、眺望料などという概念はなく、そうした聞きなれない権利が新聞に面白半分に報じられることになった。 繰り返すが、「眺望料」等とは国鉄も近江鉄道も言っていない。
ただし、国鉄側の国会答弁で「景色補償」という言葉を使っており、あえていうならば、悪いのは国鉄ではないか。
当時の新聞記事を検証したものはhttp://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/03/post-ffee.htmlにて。
なお、堤康次郎は「然るにこの国鉄交渉の真相を知らずして例の連中がまた事を構え、その結果国会論議の種とされ、答弁した国鉄側が不用意に景色が悪くなるから補償した分もあるなどと言うたので、新聞種にされた。」と述べている。http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/01/post-134d.html
もちろん、近江鉄道が眺望権を侵害されたとして国鉄(新幹線)を訴えたわけではない。現在でも近江鉄道が眺望権の侵害で訴えたなどと都市伝説のように語られているが、発端は当時のマスコミでの取り上げられ方にあったのだ。 そもそも「近江鉄道が国鉄を訴えた」という「都市伝説」を寡聞にして聞いたことがない。

なお、発端については、堤康次郎や西武の小島社長の上記のコメントもあるが、記事よりも国鉄である。
むしろ、この件を報道したサンデー毎日は「゛景色補償″とんでもない。われわれは一度もそんな要求を出したことはない。新幹線と名神高速道路の谷間に沈んで、斜陽化の道を歩かねばならぬあわれな地方鉄道だ。それを国鉄が不手ぎわな答弁をしたために、まるで不当利得をえたようなことをいわれ、まことに心外だ。まったく弱い者いじめだ」との近江鉄道山本社長のインタビューを掲載しているのである。http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/01/post-040a.html

 ということで、小川裕夫氏の記事の検証を終わる。「高宮駅」とか「五個荘駅」という固有名詞以外はほぼ嘘といっていいだろう。浅草キッドが東スポを評して「日付以外全部嘘」と言ったのを思い出す。というか、今回近江鉄道の件をいろいろ調べてきたが、小川裕夫氏の記事に沿ったものが見当たらないのである。いったい何を根拠にこんなデマを書いたのかわからない。

 

 ところで、堤康次郎氏ですらやらなかった、交差してくる新設鉄道に対する請求を実際に法廷に持ち込んだ鉄道会社があるのだ。

 それは、「走る平和相互銀行」こと総武流山鉄道(当時)である。ここは実際につくばエクスプレス(当時は「常磐新線」)建設に係る減収の補償請求の「調停」を裁判所に申し立てたのだ。これはまた別の機会に

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2015年1月11日 (日)

新幹線と近江鉄道にまつわる「景観補償」の検証(その9)/多分(終)

 東海道新幹線の新横浜駅及び新大阪駅付近の土地の買占めに西武・堤康次郎に代わって暗躍した「中地新吾」氏について、2回ほどブログで紹介している。

新横浜駅と新大阪駅の土地を買い占めたのは元国鉄職員?買収資金を貸したのは三和銀行?

新横浜駅と新大阪駅の土地を買い占めたのは元国鉄職員?(その2)

 その際に紹介した、七尾和晃氏の「堤義明 闇の帝国」から近江鉄道景観補償関係個所を再度引用してみる。中地新吾氏は近江鉄道の補償についても堤康次郎氏と国鉄の間で私費をはたいてまで仲介に動いたというのだ。

一通の手紙

 数年前、堤義明宛に送られた一通の手紙がある。送り主は「中地新樹」という。中地は現在、千葉県松戸にある牧の原団地に隠棲し、齢は八十三を超えている。埼玉、神奈川と住まいを転々としたが、一時期の生活ぶりは困窮を極めていた。

 約三千五百字にのぼるその手紙はこう始まっている。

東海道新幹線の新大阪駅、新横浜駅設置場所発表前に、貴殿の父上の堤康次郎先生にお目にかかり、駅付近の用地買収を提言した中地新樹です

 兵庫県出身の中地は、旧国鉄の大阪鉄道局に勤めていた。当時の局長は、後に首相となる佐藤栄作である。「手紙」にはその佐藤もかかわった西武グループの用地買収や裏金作り、小佐野賢治と京浜急行とのトラブルでの立ち回りなどが仔細に記されていた。

 (中略)

 一九六〇年前後、中地は康次郎と佐藤栄作のために土地の買収に明け暮れていた。そして新たな難題が持ち上がった。それが近江鉄道と東海道新幹線をめぐる暗闘だ。

 再び、中地の手紙を引用する。

〈又其の後近江鉄道より申し入れがあったと思います。お父上より米原駅西へ三キロ程、近江鉄道と建設される新幹線に並行して走る所が有る、その区内は新幹線が高架に建設されるために近江鉄道の電車の窓より田園風景が見えなくなるので、なんとか国鉄の幹部に話をして景色保障代金として、二億五千万程払う様頼んでくれと言われました。近江鉄道は私の出身県の鉄道で深い愛着心がある、今資金難で踏切改修車輌補修も思う様にならず困っているので、なんとかしてくれと託されましたので早速国鉄幹部遠藤総局長、赤木新幹線用地部長にこの旨話した所、景色保障という話は聞いたこともなければ、そんな予算もない。今経理局長はアメリカへ行き、世界銀行より借り入れの交渉をしている、そんな金出す余裕がないと断られました。そこで今一度御父上にお目にかかり国鉄側の申すことをお伝えした所、国鉄がどうしても払わないというなら新横浜、新大阪の駅用地路線要地、簡単には売り渡さないと脅され困り果てました。そのうち、新幹線大阪建設局長等がどうしても売らないなら強制施行(ママ)の手続きを取るとの発言があったとする報道も有り、オリンピック迄になんとか新幹線開通させねば佐藤栄作先生と国鉄に対して用地買収を進め、協力すると云う大名題(ママ)がなくなってしまうと中嶋先生と宮内氏に私が大決意をもって、家屋敷その他所有する土地を保証に銀行等より、七千五百万円を借り入れて遠藤総局長、赤木用地部長、大石重成副総裁に対する対策費として用意して渡し、近江鉄道に対する景色保障を実行して貰うから、通常取引として、この立替金は必ず返済下さいと、念を押して実行致しました。その折宮内専務は大将に伺うと御父上に御話しましたところ、なにをぐずぐず云って居るのだ、早くしないと近江鉄道が死んでしまうぞ、後はどうにでもなる、早く実行して貰えと強くしかられました〉

 国鉄とコクド・康次郎との板ばさみになった中地は、事態打開のために私財を提供することになる。そして、その七千五百万円がいまだ返還されていないと、この手紙は訴えている。

 それにしても、この「景色保障(景観補償)」とはいったい何か。鉄道業界では鉄道敷設の際に「景観補償」するのが一般的だったのだろうか。関西最古の私鉄本社の関係者は次のように話す。

「景観補償を払うなど聞いたことがありません。高架や線路ができるからといって損なわれる景色を補償していたら、沿線の住民すべてに補償をしなければならず、ありえない話です。これまでも国鉄でも私鉄でも景観補償という名目を公に払ったという話は聞いたことがありません」

 それだけに中地の手紙にある近江鉄道の景観補償についての詳細は圧巻である。この近江鉄道と国鉄との「密約」の存在は地元滋賀県や鉄道愛好家の間ではまことしやかに語り継がれていた。しかし、現在までそれを裏づける資料は見つかっていなかった。

 ところがこの近江鉄道と国鉄との間で交わされた景観補償の密約文書もまた、中嶋忠三郎の死後、忠三郎名義の貸金庫の中から見つかったのだ(127ページ参照)。

一九六一(昭和三十六)年十月十五日付の「受領書」には、国鉄側幹部の名前と印が押されている。国鉄副総裁の吾孫子豊、新幹線局長の遠藤鐵二、新幹線用地部長の赤木渉の三人だ。いずれもすでに故人となり受領書についての説明を聞くことはできない。

 中地が西武を信じ、私財を投じて問題解決に道を拓いたこの年、康次郎が「百貨店をやらせる」と中地に紹介した清二は西武百貨店の代表取締役に就任している。

 康次郎のための土地の買収がひと息ついたころ、中地は一度海外に送られている。それは慰労目的ではなく、大規模な土地買収に不審を感じた司法当局の目先をくらませたい西武の思惑でもあった。

〈用地買収がほぼ終わった新横浜、新大阪に関する用地買収の記事が大々的に報道されましたので、西武の名前が出ると又裏金の事や近江鉄道に対する景色保障に関する事で七千五百万円国鉄幹部に渡したことがわかれば、大変な事になるのでアメリカ其の他中南米諸国に渡り、時の過ぎるのを待ちました。当時ロサンゼルスに滞在中ロサンゼルスのホテルに中嶋先生が尋ねて(ママ)こられ、ロサンゼルスの西武百貨店で用立てして貰ったとして一万ドル御届け頂き滞在費として使わせて頂きました〉

 一九六二年三月、西武百貨店ロサンゼルス店は開店している。しかし二年後、同店はすぐに閉店してしまう。

 康次郎としては、裏の買収工作人であった中地をしばらく海外に留め置きたかったのであろう。忠三郎が当時、中地の面倒を見るためにアメリカに渡ったことは息子の康雄が覚えている。

(中略) 

 私がこの〝情報"に接したのは〇三年夏のことだった。

 ホテルオークラの「ハイランダー」で中嶋忠三郎の息子、康男と話をしていたとき、

「親父はこんなこともしていたみたいだな」

 と言いながら、赤判を押した書類を見せてくれた。それが、忠三郎の貸し金庫から見つかった「手紙」と「受領書」だった。

 私はそれをその場でコピーさせてもらった。書かれていた住所を頼りに、神奈川、埼玉と中地新樹を訪ね歩き、千葉の団地へとたどり着いたのだ。

 取材ははじめ、中地に対してこの「手紙」と「受領書」を入手していることを告げず、そこで触れられていることについて件名のみを挙げて話を聞いた。団地の一室で取材に応じた中地は概ね、この手紙に記された話を展開した。食い違っている点はなかった。残された記憶だけが、中地の今を支えている。中地もまた、西武の「鉄路開拓」の犠牲者ともいえた。

 「堤義明 闇の帝国」127頁に掲載されている、中地氏が、国鉄幹部と締結した密約文書は下記のものとされている。

受領書

一金7千5百萬圓也

右金額正に受取り近江鐵道より申入れの有る景色保障代金2億5仟萬圓の補充費に当てると共に総裁室新幹線総局現場工事局等の調整費に計上して處置した。

日本國有鐵道

副総裁 吾孫子 豊

新幹線局長 遠藤 鐵二

新幹線用地部長 赤木 渉

昭和36年10月15日

中地新樹殿

本書は門外不出として某所に保管し近江鐡道が約束果たした時焼却處分する。

 ところが、これが怪しさ満載なのだ。七尾和晃氏には申し訳ないけど。

1)国会議事録や報道では「中地新吾」であるのに、「新樹」となっているのは何故なのか?

2)2億5千万円の内訳は、1億5千万は踏切等の施設改良に伴う補償であり、いわゆる景観補償は1億円であること、西武側は景観補償という形での要求はしていないと途中からは趣旨が変わっていること、要求額はもともと2億5千万をはるかに超えるものであったこと等から、「景色保障代金2億5仟萬圓」という表現はありえない。国鉄の新幹線工事誌によると「36年10月末に至って(略)次の補償要求が提出された。要求額総計416,260,770円」で、そのうち「景色保障」に相当する項目は「併設による旅客収入減 154,104,825円」なのだから全く勘定が合わない。

3)そもそも「保障代金」という用語が間違っている。「保障」ではなく「補償」が正当である。用地部長が入って「保障」という誤字を書くことはありえない。

4)国鉄側のメンバーが不自然。なぜ、責任者である新幹線総局長の大石重成氏がいないのか?また、遠藤鉄二氏はこの時期は「営業局長」ではないのか?赤木渉氏は「新幹線総局用地部長」であり、補償業務を担当する部長のポスト名を省略することは不自然。

(追記) 「国有鉄道」等から国鉄の組織等の変遷を追ってみた。やっぱりおかしい。

昭和34年4月13日~ 昭和35年4月11日~
幹線局(遠藤鉄二局長)

総務課、用地課、路線計画課、工事課
(用地部はまだない)
新幹線総局(大石重成局長)

計画審議室、総務局、工事局、用地部(赤木渉部長)、契約審査課
遠藤鉄二氏は営業局長

 となると、「新」幹線局長の遠藤鉄二氏と、新幹線「総」局用地部長の赤木渉氏が昭和36年10月15日の日付で並んで記名押印しているのはあり得ないことではないのか?

 また、本文中に「大石重成副総裁」と出てくるが、大石氏は昭和38年5月31日に常務理事新幹線総局長を辞しており、副総裁というのもありえない。(中地氏の手紙部分なら記憶違いかもしらんが。)

 こういったことから、この「受領書」は極めて不可思議な「怪文書」であると考える。では、いったい、何故このような怪文書を中地氏は中嶋氏のところに持ち込んだのか?7500万円はいったい何の金だったのか?このあたりを是非七尾氏にうかがってみたいところである。

 斯様に景観補償の闇は深いのである。

 (この項終わり)

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2015年1月10日 (土)

新幹線と近江鉄道にまつわる「景観補償」の検証(その8)

新幹線と近江鉄道にまつわる「景観補償」の検証(その7)では、堤康次郎氏による、近江鉄道社員への訓示について紹介した。

 ここでは、「景観補償は都市伝説」「デマ」「真相は異なる」とwikipedia(修正済み)や一部ブログ等で書かれるようになったきっかけとなったと思われる、鉄道ピクトリアル誌の記事を検証してみる。

 問題の記事は、鉄道ピクトリアル50巻5号(2000年5月刊)の「近江鉄道の鉄道事業を語る」と題した近江鉄道株式会社取締役総務部長 林常彦氏と大東文化大学経済学部教授 今城光英氏の対談である。

近江鉄道の鉄道事業を語る

=誇張されて伝わった景観料=

今城「道路が新幹線をくぐってすぐに近江鉄道の踏切に入るという構造はどうですか.」

林「新幹線と併走する区間では踏切警報器が新幹線ガードの外側にあるところもありますので,保守点検に手間がかかっています.」

今城「本当は新幹線と同じ高架にすればよかったですね.」

林「当時そういう要望をしたようですが,地方の私鉄には配慮がありませんでした.新幹線については景観料のことばかり有名になってしまいましたが,これは新聞がおもしろく書いただけのことで,当社としては新幹線建設により被る影響の最後の一項目として挙げたにすぎません.実際,新幹線の高圧の電力による影響などで少なからぬ対策を強いられています.」

今城「新幹線の築堤は地域社会を分断してしまいますね.(以下略)」

 

 日本語の解釈の問題かもしらんが、この文章がどこが「景観補償を否定」「景観補償はデマ」と読めるのかさっぱりわからん。

 「誇張されて伝わった景観料」「最後の一項目として挙げたにすぎない」というのは、「1しかないものを10と言われた」ということではあっても「無いのものを有ると言われた」とは明らかに異なる。ちなみに、最後の一項目にすぎない要求ではあっても、当初要求で1億5千万、国鉄資料によると最後は5億円の要求だったということは林部長は触れていない。嘘ではないが「なんだかなあ」という感じを受ける。

 また、「新聞がおもしろく書いただけのこと」とあるが、新聞(下記は朝日新聞1963年3月14日)は国会答弁を踏まえて書いており、wikipediaに書いてあるように「風評」というほどのものではない。(林部長も「風評」とは言っていない。)十河総裁や大石常務がそう書かれても仕方ないような答弁を実際にしているのだから。

近江鉄道眺望権補償 朝日新聞1963年3月14日

 堤康次郎が近江鉄道社員への訓示で述べたように「答弁した国鉄側が不用意に景色が悪くなるから補償した分もあるなどと言うたので、新聞種にされた。」と言うべきであろう。林部長の対談内容は近江鉄道の公式見解としてあるべき姿からは外れておるなあ。(もっと言うならば、減収補償は求めたが景観補償としては求めていないことになっているのだから、「最後の一項目として」減収補償は求めたが、「近江鉄道がもらった減客補償が゛風景補償″だなんて、まるで寝耳に水です」(小島正治郎西武鉄道社長のコメント)と言わなければならない。)

 ところで、鉄道ライターという人もこんなことを書いておるんだなあ。2者択一でしか考えられないのか?

 閑話休題。この対談でも踏切対策について述べられているが、国鉄の新幹線工事誌に興味深い一文がある。

東海道新幹線工事誌の近江鉄道関連部分7

 要するに、「もともと近江鉄道は踏切等の整備について地元からの要望に対応してきておらず不興をかっており、地元は本来近江鉄道がやるべきことまで国鉄に申入れる始末であった」ということか。今まで「安全がー」とか「乗務員の疲労がー」とか言って1億5千万の補償金を得ているが、国鉄は「そもそも本来やるべきことをやっていなかったくせに、新幹線のせいにして新幹線の補償金で踏切を整備しやがって」と言いたげに見えてしまうのは私だけだろうか。

 実際には、金を貰っても近江鉄道はなかなか踏切工事を実施しなかったようだ。昭和38年6月28日の参議院決算委員会では、下記のような報告がされており、その後も「ちゃんと踏切は作ったのか?」との質問が度々なされている。「景観料のことばかり有名になってしまって」と林部長は言うが、踏切等の保安設備に係る補償についても十分世間を騒がせているのだ。

○横山フク君 なお、本件の場合、さきに支払った保安施設改善等に必要な経費一億五千万円については、その積算の内容には疑問の点もありますが、併設によって現実に踏切等の危険度が増し、四十八カ所についてその改善が必要となる点は了解できました。ただ、ここで注意したいのは、近江鉄道が補償金を受け取ってすでに一年半も経過しているにかかわらず、いまだ何らの保安施設の改善を行なっていない点であります。現に、新幹線併設工事も相当進み、踏切等の危険が増大しており、早急にその改善に着手すべき必要性が認められました。運輸省は、この点、近江鉄道に対し強力な行政指導を行なうべきであります

 なお、「地方の私鉄には配慮がありませんでした」というのは阪急には対応したくせに近江鉄道には対応しないということへのコメントですな。

○大石説明員 ただいま私は実は現地を図面でしか存じておりませんが、高架の部分もございますが、全部が高架ではございません。全部が築堤でもございません。高架の部分もありますが、築堤の部分もたくさんございますので、その点につきましては私たちは今先生の写真全部がそういうことじゃないということを言わしていただきたいということと、もう一つ補償について妥協したのかという面につきまして、全体的なお話を申し上げたいと思いますが、実は近江鉄道と並行いたしますところにつきましては、種々路線につきまして検討いたしました結果、ただいまのように近江鉄道に並行して路線をつくることが地元に対しましても一番被害が少ないというような観点からいたしまして、路線をきめたのであります。そのときにいろいろな補償の中で、その線路が大阪-京都間におきます京阪神と並行した部分がございます。これは図面の十六ページにちょっと概略書いておきましたが、このところでは約二キロ余り並行しております。ここは地元の方々またその他の要求からいたしまして、踏切が非常に不安全になるので、新幹線と同じレベルにその私鉄を上げてくれ、こういうことで結局上げるということに相なりまして、三キロ余りで一億六千五百万円ほどの分担をこちらがやったのでございます。これと同じような考え方で近江鉄道は要求されて参ったのでありますが、その場合の金が約四億あまりになります。そういうことで私たちといたしましては、近江鉄道にはまことに申しわけないのでありますけれども、近江鉄道のあの程度の鉄道で京阪神のように上げてしまうようなことをする必要はなかろうということを強く会社側にも申し上げまして、その四億円余りというものは困るということで、できるだけそうでないことで安全を増していただきたいというような交渉をいたしたのであります。そういたしまして、今ここにお手元に資料を差し上げましたような項目につきまして、近江鉄道からしからば高架にすることはやめるが、これこれの項目について補償をしていただきたいということを申し出て参ったのでございます。その項目がこの前申し上げましたように、最初は五億余り、次に七億数千万円というような数字になって出て参ったのでございます。高架にしてしまって四億余りで工事ができますものに対しまして、五億ないし六億の補償をするというようなことはとうてい考えられませんので、私たちといたしましては、その項目について逐一折衝と申しますか、こちら側の考え方を当てはめまして折衝をして参りまして、お手元に差し上げましたような一応の内訳を、相手方と折衝をしながら相手に了承をさせて、その総額を二億五千万円としたのでございます。

 国鉄の常務理事に「近江鉄道のあの程度の鉄道で京阪神のように上げてしまうようなことをする必要はなかろう」と国会で答弁されると腹も立ちますわな。ここばかりは近江鉄道に同情しないわけでもない。

 

 

 もうネタも尽きてきたので、最後にもう一つだけ、新幹線と近江鉄道にまつわる「景観補償」の検証(その9)へ。。

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新幹線と近江鉄道にまつわる「景観補償」の検証(その7)

新幹線と近江鉄道にまつわる「景観補償」の検証(その6)で、「景観補償」が世の中に明らかになった際の当事者の言い訳集をご覧いただいた。

 その中で、堤康次郎氏による近江鉄道社員への訓示について触れられているが、その全文を紹介したい。

近江鉄道の緊急問題に就いて(堤康次郎) (1)

社報 8号 昭和38年3月19日 近江鉄道株式会社

訓示

社員諸君へ

近江鉄道の緊急問題に就て 会長 堤 康次郎

一、国鉄東海道新幹線は当社高宮―五箇荘間7.5粁の区間は当社線との距離零米即ち密着並行し、その他の大部分区間が近接並行して建設されるが、斯様の状況で巨大な国鉄新幹線が建設され運行が実施されゝば、その遥か下を通る近江鉄道の軌道線は、正常な運行は不可能となる。少なくとも旅客輸送機関としては意味をなさないものになる。

この侭手を拱いていれば歴史ある近江鉄道は、国鉄新幹線と名神高速自動車道との谷間に沈んで滅亡に至る事は間違いない。

一、斯くては近江鉄道従業員2、500人、家族合わせて壱万人は路頭に迷う他なく、滋賀県南半部地帯唯一の地方鉄道としての使命を没却する結果となる。

この事態は何としても回避すべき責任があるとして私(堤会長)は観光事業の積極的開発、名神高速道に乗る自動車事業の推進を指示すると共に、新幹線敷設に伴う極悪の影響を最小限度に喰止めるための方法に就て、国鉄当局と協議するよう指示した。

一、国鉄当局と協議する場合の基本方針が、新幹線の建設を認める前提に立つ事、即ち国の交通の発展として国鉄新幹線の建設には協力するとの前向きの姿勢である事は申すまで

近江鉄道の緊急問題に就いて(堤康次郎) (2)

もない。そこで当社は国鉄当局に対し、当社線を国鉄新幹線と同じ高さに上げるよう国鉄で施工かたを要請した。

斯うすれば新幹線の影響は一応最小限に喰止められる。これは新幹線に対処しつゝ当社線の旅客誘致をやろうとの積極策である。

一、当社は新幹線と同一の高さに上げて貰い度い、さすれば減益補償など何らの要求はしないとの公明な態度に出た。ところが国鉄側で計算した処、同じ高さに当社線の密着並行区間をあげるだけで5億以上かゝる、何とかもっと安くあげたい、何か別途の方法を考えようではないかという事で、国鉄側と種々折渉し協議を重ねた。その結果踏切増設、信号警報機の増設等の保安施設を中心に之に若干の営業補償を加えて2億5千万という最少限度のもので妥結せざるを得ないことになったものである。併し乍らこの程度の補償で新幹線の谷間を通る当社線を旅客輸送機関として満足なものに出来る筈はない。

全くこれは、国の交通幹線を強化しようとする国鉄には協力しなければならぬとの私の基本方針に基づく妥協である。

一、然るにこの国鉄交渉の真相を知らずして例の連中がまた事を構え、その結果国会論議の種とされ、答弁した国鉄側が不用意に景色が悪くなるから補償した分もあるなどと言うたので、新聞種にされた。

今回の景色補償云々の新聞記事はそれだけの事である。

近江鉄道の緊急問題に就いて(堤康次郎) (3)

一、従って今回の問題は不用意な国鉄側が景色補償などと目新しい言葉を使ったのでジャーナリズムが喰いついただけのことであるが、併し、何れにしても当社線の中心部が7.5粁もの間巨大な新幹線の底を通らねばならぬことは重大であるし、国鉄新幹線や名神高速道等に依り近江鉄道の事業範囲に交通の核心が進行しつつあるという新事態については根本的に方針を考えねばならぬ。交通革新の新事態にうまく乗れば当社は明るい将来が開けるし、一歩を誤れば明治29年の創立以来の危急事態となる。私は日夜この事を考えているし腹案も出来ている。ただ如何なる事態が惹起しようとも、縁あって近江鉄道に奉職する社員諸君の身分保障については、観光部門、自動車部門に完全に吸収して、聊かも不安のない様措置する考えは固くもっているから、この点はどうか安心してくれるよう、特記しておく。

一、たとえ今すぐ電車をどうするという事態に至らぬとしても、国鉄新幹線、名神高速道の実現は勿論、道路の改善と共に自社他社の自動車輸送が更に発展する事は自然の成いきであり、その結果旅客、貨物を問わず近江鉄道の電車線が圧迫を受ける事は、も早や動かせぬ時代の趨勢であるから、来るべき事態に備えて幹部職は勿論全社員諸君が真剣に考えて貰い度い。時勢におされる電車の運営は苦労の多いことであるが 赤字を喰止める事に最善を尽くさねばならないし、観光事業と自動車部門の強化と成績の向上には全力を挙げて努力して貰いたい。ただ前にも述べたように如何なる事態が来ても真面目に働く社員諸君の休戚には最善の措置をする考えであるから安んじて社業に精励して呉

近江鉄道の緊急問題に就いて(堤康次郎) (4)

れるよう、切に希う次第である。

昭和38年3月18日

 

東海道新幹線と近江鉄道が近接して走っている様子

「新幹線の谷間を通る」近江鉄道線の現在の様子は上記写真のとおりである。「巨大な国鉄新幹線が建設され運行が実施されゝば、その遥か下を通る近江鉄道の軌道線は、正常な運行は不可能」なのだろうか?

 

 これだけ読むと、御尤もなことばかりである。ただし、以前、新幹線を妨害しようとした?伊豆箱根鉄道下土狩線(未成というか無免許工事線)その2 においても紹介したように、「国鉄に協力」といいながら、無免許状態で突然上土狩線の建設工事を開始し「国鉄からできる丈の保証額を取る」ようにと指示する御仁である。彼の脳内では全てが正当にリンクしているのかもしれないが、私のような凡人では到底理解し難いハチャメチャな状態である。

 また、景観補償については「国会論議の種とされ、答弁した国鉄側が不用意に景色が悪くなるから補償した分もあるなどと言うたので、新聞種にされた。」と被害者面しているが、国鉄十河総裁への陳情書で「(1)新幹線を現計画に依り敷設せらるるに於ては、当社鉄道は全く展望を遮蔽する高い壁を以って遮断され、当社乗客は窓外の眺めも不可能となり、斯くては交通の快適性と観光価値を奪い去られる結果となり、これは旅客輸送機関として堪えうる処に非ざる点を再三再四訴えている」と述べているのは近江鉄道側であるし、旅客減収の補償を当初要求で1億5千万、国鉄資料によると最後は5億円の要求したのも近江鉄道側である。

 近江鉄道側の「昭和36年10月31日附甲より乙宛の新幹線並行敷設に対して補償御願書中の観光旅客収入減その他の補償」の詳細な内容が分かるものが見つけられていないので、近江鉄道・堤康次郎側がここまでムキになって「景観補償」を否定することになったのかの流れがよく分からないのである。

新幹線と近江鉄道にまつわる「景観補償」の検証(その8)では、「景観補償は都市伝説」「景観補償はデマ」「景観補償は真実ではない」とwikipedia(修正済み)や一部ブログ等で書かれるようになったきっかけとなった、鉄道ピクトリアル誌の記事を検証してみる。

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新幹線と近江鉄道にまつわる「景観補償」の検証(その6)

新幹線と近江鉄道にまつわる「景観補償」の検証(その5)では、ようやく補償契約にこぎつけた国鉄と近江鉄道の経緯を紹介した。

 これで一件落着かと思いきや、国会で本件が問題となったのである。それも東海道新幹線の事業費不足で追及されている中で、近江鉄道(しかもそのバックには衆議院議長までつとめた地元選出の自民党議員堤康次郎がいる)にゴリ押しされたかのような補償をしたわけだから野党もマスコミも黙ってはいないのである。

 その詳細は、封印したい「封印された鉄道史」(小川裕夫)とウィキペディアと堤さんの所業及び封印したい「封印された鉄道史」(小川裕夫)とウィキペディアと堤さんの所業(その2)において紹介しているのでそちらを参照されたい。

 近江鉄道林常務に「新聞がおもしろく書いただけのこと」と言わしめた新聞記事の検証についても、封印したい「封印された鉄道史」(小川裕夫)とウィキペディアと堤さんの所業(その2)に記載している。新聞記事は決して変なことは書いていない(国会での討議に沿って書いている→しかし近江鉄道はそもそも国鉄の答弁内容が気に入らない模様)と考えている。

交通経済新聞

国会論争は省略するとして、「関係者の見解」について、「交通経済情報」から紹介していきたい。

関係者の見解をきく

△堤康次郎氏の談

①当初近江鉄道としては余りうちの鉄道にくっつけて走ってもらっては困る、ということで国鉄に対し、せめて500米位は離してもらいたいと申し入れていた。ところが、用地買収が困難なのでどうしても当社路線に並べて敷設したい、といってきた。全く弱り切ったがこちらも新幹線建設には協力しなければならんし、それでは新幹線の路盤と近江鉄道の路盤を同じ高さにしてほしいと申入れた。

②しかし、国鉄ではそれは出来ないから「補償で我慢して協力してほしい」と再三言ってきた。うちは小島(西武鉄道社長)が接渉に当って、わしは余り詳しくは知らないが、こちらの申入れはすべて断られ、その結果があのようになったと聞いている。

③それを国会で問題にされていると聞いて゛全く意外というほかはない″一部では十河氏が私に直接会って頼み込んだのじゃないかとか、十河氏の三任問題にからんでいるとか言っているそうだが、そんなことは何も関係ないことだ。私は彼の再任以後は十河君に会ったこともないし、電話をしたこともない。これは国鉄の方にも行って調べてもらいたい。第一十河君の三任問題云々というが、十河君は三任を誰に頼もうとしているのかね(さっぱり分からんといった表情)

政商などとは見当違いも甚だしい。わしは常に政治と事業は混同しないことにしている。筋のとおらぬことは、わしは絶対やらぬ。いわんや一億円、二億円の僅かのことでなんでそんな阿呆らしい………(語気鋭く)それよりもわしがいま心配しているのは、おそらく鉄道は将来取り外す以外に途はなくなるのではないかということだ。この点は近江鉄道の従業員も心配しているので、今日も「鉄道が新幹線でダメになっても、これからは観光と自動車事業で諸君を吸収するから、心配しないでしっかりやってくれ」と訓示したところだ。

国鉄のいいなりになって、おかしなことをいろいろ言われてはかなわん。こっちは新幹線で全くの犠牲になっているのだ全く阿呆らしい………(くりかえす)

何回聞かれても同じことで、これ以上何も言うことはありません(きっぱり打ち切る。)

と全く心外の至りというところであった。

 堤氏による近江鉄道社員への訓示についてはおって紹介する

 ここで取り沙汰されている十河国鉄総裁との関係だが別のタブロイド紙(運輸ジャーナル127号昭和38年2月10日)ではこのような記載がある。

 もう一つここに黙視できない問題がある。これは推理ではない。国鉄と交渉にあたる堤コンツェルンの某幹部が吐いたセリフがある。

「あなたのほうのオヤジ(十河国鉄総裁を指す)のクビをつないでやったのは、うちの堤なんですよ。それを考えれば、2億や3億安いものじゃないですか…」

 こうタンカを切られると、事務当局者はガクンとするという。事実、この殺し文句のとおりに、上層部から妥協が指示され、事務当局や第一線の職員は骨折り損のクタビレのうけを味わされることしばしばという。

 訴訟沙汰が十八番の堤コンツェルンは、これまで国鉄とのあいだにもたえず係争ごとを構えてきたが、まじめに筋を通そうとする事務当局の努力は、池袋西武デパートの不法建築事件にしろ、西武西熱海ホテルうら国鉄用地の埋め立て妨害事件にしろ、大てい十河総裁や側近幹部の慰留で、徒労に帰せられてきたものだ。

(中略)

 西武がそんなに何故こわい- 

 それは西武の御大、堤康次郎氏の政治力であり、げんに西武某幹部が国鉄当局者を恫喝した言葉通り十河総裁のクビを左右できるほど強大なものである。そこへもってきて十河総裁は新幹線完成の栄光を夢みて、老いてますます総裁の席に執念を燃やしている。

 34年春、再任か更迭かの土壇場で、永野運輸相とたたかい遂に永野氏を大臣の椅子から蹴落としたときの因縁いらい、堤康次郎氏はもはや十河総裁にとってなくてはならぬ人である。堤の水は大磯の吉田に通じ池田に流れているから、これほど頼りになるものはいないというのが十河総裁の心境であろう。一方、堤康次郎氏のほうはソロバン高い商売人である。十河を総裁にしておいて、しぼれるだけしぼろうという算段か、それだからこそ十河総裁を傷つけ、新幹線建設史に泥を塗るような悪どい商売を平気でやってのける。

 そうして、総裁がそうならと、側近幹部や職員までがこれにならいしまいに相手が堤なら安全とばかり、法律無視のムダ使いや、資産の投売りを平然とやるようになる。しかも監察役ならぬモミ消し役の嘱託までおくというごていねいさだが、これまた西武とツーツー、中地新吾とヒンビンという怪物ばりで、国鉄に妖気をただよわせている。

 まあ、所詮業界ゴロみたいなタブロイド紙ですからね。どこまでホントか分からんですけどね。新幹線50周年関係の報道や出版物で出て来た十河総裁とは随分イメージが違いますわね。。。

 池袋西武デパートの件は、中嶋忠三郎氏の「西武王国 その炎と影  ~ 側近No.1が騙る狂気と野望の実録」に詳しい。あそこはもともと国鉄用地だったのだ。

 引続き「交通経済情報」から「関係者の見解」を紹介する。

△慎重に検討している

-岡本鉄監局長(※引用者注:運輸省鉄道監督局長)の言-

①よく実情を調査して報告するように、といわれ目下検討している。

②とにかく今までに例のない補償だし、今後どういう結論を運輸省として出すことになるのか、まだ見当がつかない。

③国鉄のとった措置は止むを得ないと思われる面もあるが、やはり例外なら例外として筋が通らねばならぬわけだから、この点われわれとしても慎重に調査、検討を加えたいと思う。

△実情を理解してもらいたい

-国鉄新幹線総局中畑総務局長の言-

①用地買収が極端に困難だった上、湿地帯であるため、今のところでなければ敷設はむつかしいということで、近江鉄道の了解を求めた。

②近江鉄道に支払った金額も十分調査をした上、もっとも妥当であるという線に立って結論を出したもので、あそこの場合例外的な措置として認めてもらいたい。これは十分国会答弁でも説明するつもりだ。

記者手帳

「寝耳に水」とおどろく小島さん

=インタビューを拒否する十河さん=

△「近江鉄道がもらった減客補償が゛風景補償″だなんて、まるで寝耳に水です」と小島正治郎氏(西武鉄道社長)は、十河氏の国会答弁に驚いていたが「とにかく国鉄に全面的に協力しようとしたことが、こんな破目になってはやり切れんです」とすっかりあきれている。

△一方、十河さんの方は本誌記者のインタビュー申込みには゛逃げ″の手を打つばかりで、総裁公館に電話しても、女中を通して居留守をつかい、朝の七時半だというのに゛外出中″という返事をさせ、取材にあたったB記者をすっかりおこらせてしまった。

 それじゃルールを重んじよう、ということで国鉄弘報部長に、十河総裁のインタビューを申し込んだところ「その問題は私自身がよく理解していないし、取り次ぎようがない」と、てんで自信のない答えをよこし、ここでも記者をカンカンにおこらせてしまった。

そのあとで弘報担当の河村常務理事に電話をしてみると「総裁は疲れていて今日は頭がフラフラしているんですよ」ということであったが「それじゃ仕方もなかろう」ということで記者も始めて納得した、という次第。

△一方、国会から実情調査を命ぜられた運輸省でも、今までに例のないことだけに関係首脳陣もすっかり頭をかかえている。

 岡本鉄監局長も、本誌取材記者に対して「一体どういうことでしょうかねえ?」と逆に質問を発してきたが、謙虚に聞いてきた岡本さんの態度はピカ一だった。

 サンデー毎日昭和38年3月31日号では「この景色1億円ナリ? 国鉄のヘンな新幹線補償」という記事が掲載されている。ここからも関係者の言い分を引用してみる。

 なお、この記事には、新幹線建設中の近江鉄道の様子が分かる写真が掲載されているので関心のある方は是非ご覧いただきたい。(早大で閲覧しました。)

「゛景色補償″とんでもない。われわれは一度もそんな要求を出したことはない。新幹線と名神高速道路の谷間に沈んで、斜陽化の道を歩かねばならぬあわれな地方鉄道だ。それを国鉄が不手ぎわな答弁をしたために、まるで不当利得をえたようなことをいわれ、まことに心外だ。まったく弱い者いじめだ」

 代表取締役の山本広治氏は、憤然とした面持ちだった。

(中略)

「踏切側溝だけでも少なくとも2億6、7千万円はかかる、それに、壁にそって走ることになれば、当然客も減る。それもみてもらわなければならない。しかし、新幹線の建設は、日本にとっても大事な公共事業だ。われわれもできるだけ協力しなければいかんという前提に立ち、妥協に妥協を重ねて、2億5千万円をのんだ」(山本代表)

「堤会長から゛国策には協力せよ″といわれ、これ以上要求してはガメツイと思われても……と泣き寝入りです」(山川庄太郎、森喜造取締役)

(中略)

「おそらく、頭上を夢の超特急がかけ抜けるとき、騒音はものすごいだろう。お客さんは耳にセンでもつめておかなければいかんだろう」

 と、山本代表はなげく。

「総額2億5千万円、あとはまかせてくれといわれ、国鉄を信頼していたのに……。なんでそんな名目をつけたのか。これではまったく踏んだりけったりだ。われわれは新幹線と同じ高さにしてもらえばそれでよかった。補償金なんか一銭もほしくなかったのだ。まことに心外である。」

 山本代表は、さかんに゛心外″を連発していた。

 上記が、近江鉄道側のコメントである。タブロイド紙よりもよっぽど近江鉄道側に好意的な書き方に思える。

 ただ、「゛景色補償″とんでもない。われわれは一度もそんな要求を出したことはない。」とおっしゃるが、昭和36年7月17日付の国鉄十河総裁あての陳情書で「新幹線を現計画に依り敷設せらるるに於ては、当社鉄道は全く展望を遮蔽する高い壁を以って遮断され、当社乗客は窓外の眺めも不可能となり、斯くては交通の快適性と観光価値を奪い去られる結果となり、これは旅客輸送機関として堪えうる処に非ざる点を再三再四訴えている次第でありますが、貴国鉄当局に於かれては之に対し一顧も与えられず、未だ何らの解決策もお示しになっておりません。」と書いたのはいったいどこの会社だと言いたい。

 一方の国鉄側の言い分もこのサンデー毎日に載っている。

ところが、

「心外なのは、こちらも同じだ」

といわんばかりなのが国鉄側だ。大石新幹線総局長は、まず゛景色補償″の呼び方について、

「゛景色補償″なんて、われわれはいったことはない。もともと、近江鉄道が『客も減るだろうから、それもふくめてくれ』といってきた。そのほうがわかりやすいから、といってきたので、そうしたまでだ。こちらで決めた費目でなければ、支払わないというのも子供っぽいと思う。だいたい補償というものは、下から積み上げるものではない。われわれははじめからコミでいってるんだ。これは人が洋服を作るときも同じだろう。一着いくらということで注文する。決して上着、ズボンと分けて勘定しないだろう」

 と、やはり゛総額″を問題にする。そしてその2億5千万円の総額についても、こういった。

「はじめ向こうは、新幹線と同じ高さにあげるか、買収してくれるか、さもなくばカネをよこすかといってきた。こちらは4億以下でおさえるべきだとの考えをもっていた。だからあの金額は、国鉄がウマく事を運んだと思っているくらいだ。

「相手が西武系だから甘かったなどと、とんでもない。人が思うのは勝手だが、゛ゴネ得″どころか、こちらは゛ゴネ損″させたと思っているよ」

 いや、びっくりだ。全国で用地の買収にあたっている鉄道屋、道路屋、ダム屋、その他もろもろの皆さんは、国鉄の役員が「だいたい補償というものは、下から積み上げるものではない。われわれははじめからコミでいってるんだ。これは人が洋服を作るときも同じだろう。一着いくらということで注文する。決して上着、ズボンと分けて勘定しないだろう」と放言するとは仰天するだろうw

 実際には、例えば家屋を移転させる必要があるなら、畳の数まで1枚1枚調べ上げて引っ越し費用をまさに「下から積み上げていく」ことになっている。内部監査や会計検査院の調査があるときは、全部その積み上げの根拠をチェックされるものだ。関心のある方は「公共用地の取得に伴う損失補償基準」等をごらんいただきたい。相手のある交渉事だから当然総額が幾らかという話にはなるが、「2億5千万の内訳の根拠なんかない」と開き直っている様は見苦しい。案の定、会計検査院からは「従来からその例を見ないばかりでなく、通例の補償限度を著しく逸脱するもので、その処置当を得ないと認められる。」と不当な支出であるとの指摘を受けている。

 また、大石氏は「゛景色補償″なんて、われわれはいったことはない。」と言っているが、国会で「近江鉄道は観光的な鉄道でございますので、お客さんが、沿線の景色をながめながら走っていくというようなことを大きな目的にした鉄道でございますのに、これが隣に大きな築堤ができまして、あたかも谷の下を走っていくような状況になったということによりまして、この営業上の損失と申しますか、観光客が減っていくというようなことの算定もいたしました。先ほど申しました実害が二つの面があるということから算定をいたしまして、補償額を決定をしたのであります。」と答弁した「日本国有鉄道常務理事 大石 重成君」とはどこのどいつなんですかねえ。

 この点について、国会での大石武一運輸政務次官及び磯崎叡国鉄副総裁の答弁は次のとおりである。

○大石(武)政府委員 私の申し上げますことが少し乱暴な、あるいは個人的な見解になった場合にはお許しを願いたいと思います。これを前提として申し上げますが、二億五千万という補償は、いろいろな理屈をつけてはございますけれども、根本はつかみ金じゃないかと思うのであります。つまり六億何ぼに吹っかけられましたものを何とかして削りたいという考えで二億五千万まで減らした、ただしその中のいろいろの理由、つかみ金でありますから理由をつけなければなりませんが、その理由に景色だとか補償とかいろいろな問題が出てきてこういうことになったんじゃなかろうかと思います。

○磯崎説明員 その点については、実は私のほうの部内の処理の問題でございますが、いわゆるつかみ金という金を出す方法がございませんし、また慣例上たとえ一万円の金にいたしましても一応積算の基礎をつくって出すといういままでのやり方になっております。いままで国会に御説明いたしました景色補償の金その他につきましては、金を出すための一つの積算の基礎というよりも、支払いのための一つの調書であるというふうに了解いたしております。ただ、先生の御指摘のとおり、二億五千万円の金額自体の妥当なり妥当でないかという問題は、やはり問題として残ると思います。しかしこれは折衝の過程で一応不満足ながら両方で妥結をした金でありますので、部内の経理処理としてそういう方法をとりまして、その点につきましても非常に説明が不十分であったという点につきましてはまことに申しわけないと考えております。

新幹線と近江鉄道にまつわる「景観補償」の検証(その7)では、堤康次郎氏による近江鉄道社員への訓示を紹介したい。

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