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2015年1月11日 (日)

新幹線と近江鉄道にまつわる「景観補償」の検証(その9)/多分(終)

 東海道新幹線の新横浜駅及び新大阪駅付近の土地の買占めに西武・堤康次郎に代わって暗躍した「中地新吾」氏について、2回ほどブログで紹介している。

新横浜駅と新大阪駅の土地を買い占めたのは元国鉄職員?買収資金を貸したのは三和銀行?

新横浜駅と新大阪駅の土地を買い占めたのは元国鉄職員?(その2)

 その際に紹介した、七尾和晃氏の「堤義明 闇の帝国」から近江鉄道景観補償関係個所を再度引用してみる。中地新吾氏は近江鉄道の補償についても堤康次郎氏と国鉄の間で私費をはたいてまで仲介に動いたというのだ。

一通の手紙

 数年前、堤義明宛に送られた一通の手紙がある。送り主は「中地新樹」という。中地は現在、千葉県松戸にある牧の原団地に隠棲し、齢は八十三を超えている。埼玉、神奈川と住まいを転々としたが、一時期の生活ぶりは困窮を極めていた。

 約三千五百字にのぼるその手紙はこう始まっている。

東海道新幹線の新大阪駅、新横浜駅設置場所発表前に、貴殿の父上の堤康次郎先生にお目にかかり、駅付近の用地買収を提言した中地新樹です

 兵庫県出身の中地は、旧国鉄の大阪鉄道局に勤めていた。当時の局長は、後に首相となる佐藤栄作である。「手紙」にはその佐藤もかかわった西武グループの用地買収や裏金作り、小佐野賢治と京浜急行とのトラブルでの立ち回りなどが仔細に記されていた。

 (中略)

 一九六〇年前後、中地は康次郎と佐藤栄作のために土地の買収に明け暮れていた。そして新たな難題が持ち上がった。それが近江鉄道と東海道新幹線をめぐる暗闘だ。

 再び、中地の手紙を引用する。

〈又其の後近江鉄道より申し入れがあったと思います。お父上より米原駅西へ三キロ程、近江鉄道と建設される新幹線に並行して走る所が有る、その区内は新幹線が高架に建設されるために近江鉄道の電車の窓より田園風景が見えなくなるので、なんとか国鉄の幹部に話をして景色保障代金として、二億五千万程払う様頼んでくれと言われました。近江鉄道は私の出身県の鉄道で深い愛着心がある、今資金難で踏切改修車輌補修も思う様にならず困っているので、なんとかしてくれと託されましたので早速国鉄幹部遠藤総局長、赤木新幹線用地部長にこの旨話した所、景色保障という話は聞いたこともなければ、そんな予算もない。今経理局長はアメリカへ行き、世界銀行より借り入れの交渉をしている、そんな金出す余裕がないと断られました。そこで今一度御父上にお目にかかり国鉄側の申すことをお伝えした所、国鉄がどうしても払わないというなら新横浜、新大阪の駅用地路線要地、簡単には売り渡さないと脅され困り果てました。そのうち、新幹線大阪建設局長等がどうしても売らないなら強制施行(ママ)の手続きを取るとの発言があったとする報道も有り、オリンピック迄になんとか新幹線開通させねば佐藤栄作先生と国鉄に対して用地買収を進め、協力すると云う大名題(ママ)がなくなってしまうと中嶋先生と宮内氏に私が大決意をもって、家屋敷その他所有する土地を保証に銀行等より、七千五百万円を借り入れて遠藤総局長、赤木用地部長、大石重成副総裁に対する対策費として用意して渡し、近江鉄道に対する景色保障を実行して貰うから、通常取引として、この立替金は必ず返済下さいと、念を押して実行致しました。その折宮内専務は大将に伺うと御父上に御話しましたところ、なにをぐずぐず云って居るのだ、早くしないと近江鉄道が死んでしまうぞ、後はどうにでもなる、早く実行して貰えと強くしかられました〉

 国鉄とコクド・康次郎との板ばさみになった中地は、事態打開のために私財を提供することになる。そして、その七千五百万円がいまだ返還されていないと、この手紙は訴えている。

 それにしても、この「景色保障(景観補償)」とはいったい何か。鉄道業界では鉄道敷設の際に「景観補償」するのが一般的だったのだろうか。関西最古の私鉄本社の関係者は次のように話す。

「景観補償を払うなど聞いたことがありません。高架や線路ができるからといって損なわれる景色を補償していたら、沿線の住民すべてに補償をしなければならず、ありえない話です。これまでも国鉄でも私鉄でも景観補償という名目を公に払ったという話は聞いたことがありません」

 それだけに中地の手紙にある近江鉄道の景観補償についての詳細は圧巻である。この近江鉄道と国鉄との「密約」の存在は地元滋賀県や鉄道愛好家の間ではまことしやかに語り継がれていた。しかし、現在までそれを裏づける資料は見つかっていなかった。

 ところがこの近江鉄道と国鉄との間で交わされた景観補償の密約文書もまた、中嶋忠三郎の死後、忠三郎名義の貸金庫の中から見つかったのだ(127ページ参照)。

一九六一(昭和三十六)年十月十五日付の「受領書」には、国鉄側幹部の名前と印が押されている。国鉄副総裁の吾孫子豊、新幹線局長の遠藤鐵二、新幹線用地部長の赤木渉の三人だ。いずれもすでに故人となり受領書についての説明を聞くことはできない。

 中地が西武を信じ、私財を投じて問題解決に道を拓いたこの年、康次郎が「百貨店をやらせる」と中地に紹介した清二は西武百貨店の代表取締役に就任している。

 康次郎のための土地の買収がひと息ついたころ、中地は一度海外に送られている。それは慰労目的ではなく、大規模な土地買収に不審を感じた司法当局の目先をくらませたい西武の思惑でもあった。

〈用地買収がほぼ終わった新横浜、新大阪に関する用地買収の記事が大々的に報道されましたので、西武の名前が出ると又裏金の事や近江鉄道に対する景色保障に関する事で七千五百万円国鉄幹部に渡したことがわかれば、大変な事になるのでアメリカ其の他中南米諸国に渡り、時の過ぎるのを待ちました。当時ロサンゼルスに滞在中ロサンゼルスのホテルに中嶋先生が尋ねて(ママ)こられ、ロサンゼルスの西武百貨店で用立てして貰ったとして一万ドル御届け頂き滞在費として使わせて頂きました〉

 一九六二年三月、西武百貨店ロサンゼルス店は開店している。しかし二年後、同店はすぐに閉店してしまう。

 康次郎としては、裏の買収工作人であった中地をしばらく海外に留め置きたかったのであろう。忠三郎が当時、中地の面倒を見るためにアメリカに渡ったことは息子の康雄が覚えている。

(中略) 

 私がこの〝情報"に接したのは〇三年夏のことだった。

 ホテルオークラの「ハイランダー」で中嶋忠三郎の息子、康男と話をしていたとき、

「親父はこんなこともしていたみたいだな」

 と言いながら、赤判を押した書類を見せてくれた。それが、忠三郎の貸し金庫から見つかった「手紙」と「受領書」だった。

 私はそれをその場でコピーさせてもらった。書かれていた住所を頼りに、神奈川、埼玉と中地新樹を訪ね歩き、千葉の団地へとたどり着いたのだ。

 取材ははじめ、中地に対してこの「手紙」と「受領書」を入手していることを告げず、そこで触れられていることについて件名のみを挙げて話を聞いた。団地の一室で取材に応じた中地は概ね、この手紙に記された話を展開した。食い違っている点はなかった。残された記憶だけが、中地の今を支えている。中地もまた、西武の「鉄路開拓」の犠牲者ともいえた。

 「堤義明 闇の帝国」127頁に掲載されている、中地氏が、国鉄幹部と締結した密約文書は下記のものとされている。

受領書

一金7千5百萬圓也

右金額正に受取り近江鐵道より申入れの有る景色保障代金2億5仟萬圓の補充費に当てると共に総裁室新幹線総局現場工事局等の調整費に計上して處置した。

日本國有鐵道

副総裁 吾孫子 豊

新幹線局長 遠藤 鐵二

新幹線用地部長 赤木 渉

昭和36年10月15日

中地新樹殿

本書は門外不出として某所に保管し近江鐡道が約束果たした時焼却處分する。

 ところが、これが怪しさ満載なのだ。七尾和晃氏には申し訳ないけど。

1)国会議事録や報道では「中地新吾」であるのに、「新樹」となっているのは何故なのか?

2)2億5千万円の内訳は、1億5千万は踏切等の施設改良に伴う補償であり、いわゆる景観補償は1億円であること、西武側は景観補償という形での要求はしていないと途中からは趣旨が変わっていること、要求額はもともと2億5千万をはるかに超えるものであったこと等から、「景色保障代金2億5仟萬圓」という表現はありえない。国鉄の新幹線工事誌によると「36年10月末に至って(略)次の補償要求が提出された。要求額総計416,260,770円」で、そのうち「景色保障」に相当する項目は「併設による旅客収入減 154,104,825円」なのだから全く勘定が合わない。

3)そもそも「保障代金」という用語が間違っている。「保障」ではなく「補償」が正当である。用地部長が入って「保障」という誤字を書くことはありえない。

4)国鉄側のメンバーが不自然。なぜ、責任者である新幹線総局長の大石重成氏がいないのか?また、遠藤鉄二氏はこの時期は「営業局長」ではないのか?赤木渉氏は「新幹線総局用地部長」であり、補償業務を担当する部長のポスト名を省略することは不自然。

(追記) 「国有鉄道」等から国鉄の組織等の変遷を追ってみた。やっぱりおかしい。

昭和34年4月13日~ 昭和35年4月11日~
幹線局(遠藤鉄二局長)

総務課、用地課、路線計画課、工事課
(用地部はまだない)
新幹線総局(大石重成局長)

計画審議室、総務局、工事局、用地部(赤木渉部長)、契約審査課
遠藤鉄二氏は営業局長

 となると、「新」幹線局長の遠藤鉄二氏と、新幹線「総」局用地部長の赤木渉氏が昭和36年10月15日の日付で並んで記名押印しているのはあり得ないことではないのか?

 また、本文中に「大石重成副総裁」と出てくるが、大石氏は昭和38年5月31日に常務理事新幹線総局長を辞しており、副総裁というのもありえない。(中地氏の手紙部分なら記憶違いかもしらんが。)

 こういったことから、この「受領書」は極めて不可思議な「怪文書」であると考える。では、いったい、何故このような怪文書を中地氏は中嶋氏のところに持ち込んだのか?7500万円はいったい何の金だったのか?このあたりを是非七尾氏にうかがってみたいところである。

 斯様に景観補償の闇は深いのである。

 (この項終わり)

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