三原橋ビル(三原橋観光館)解体済(その4)
三原橋地下街の上に乗る三原橋センタービル(三原橋観光館)の解体(除却)工事が完了し、東京都に引き渡しのうえ、東京都による補修工事が行われている。
カレーコーナー三原があったあたり
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三原橋地下街の上に乗る三原橋センタービル(三原橋観光館)の解体(除却)工事が完了し、東京都に引き渡しのうえ、東京都による補修工事が行われている。
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で、過去の経緯等を整理してきたところであるが、2015(平成27)年2月段階での現状を確認してきた。
大阪市によるこのような張り紙が各所に掲出されている。
大阪市会建設消防委員会記録 ◯平成26年9月12日
◆伊藤良夏委員 大阪維新の会、伊藤です。建設局にお伺いします。
大阪市では、去る9月1日から6日にかけて大阪880万人訓練や災害対策本部設置運用訓練、津波発生を想定した防潮扉閉鎖訓練、防災関係機関の連携体制の強化を図るための実働訓練など、市を挙げて総合的な防災訓練に取り組まれたところであります。近い将来発生が懸念される南海トラフ巨大地震など大規模地震の発生に備え、これらの実践的な訓練を初め、ソフト・ハードの両面から引き続き防災・減災対策を強く推し進めてもらいたいと思います。
さて、ハード対策の重要な施策の一つとして橋梁の耐震対策がありますが、建設局より管理橋梁の耐震対策は約96%の進捗率とお聞きしており、おおむね終息に向かっているようであります。一方、残る橋梁の中には高架下に占用区画を有する高架橋が6橋あり、最初に淀川区の三津屋高架橋に着手される際には、占用者への対応も含めた市の方針について、本委員会で市位委員より質疑させていただきました。その後、三津屋高架橋については、占用区画の明け渡しも無事に終わり、現在、順調に工事を進められているとお聞きしています。
しかし、次に着手された北区の中津高架橋については、災害時の広域緊急交通路に位置することもあり、早期の対策が求められているところでありますが、一部の占用者について明け渡しが難航し、本委員会でも昨年度に複数回の議論が行われています。
そこで、中津高架橋における現在の明け渡しの状況についてお聞かせください。
◎横山建設局管理部路政課長 お答えします。
中津高架橋につきましては、昨年度来、高架橋下の占用区画の明け渡しに取り組んでいるところでございまして、現在のところ、全119区画のうち予定も含めまして7割を超える区画につきまして明け渡しが完了しており、順次、区画内の物件の解体工事を進める予定でございます。
しかしながら、委員御指摘のとおり、残る区画の中には残念ながら現在に至るも明け渡しに応じていただけないところがございまして、対応に苦慮しているところでございます。以上です。
◆伊藤良夏委員 たしか中津高架橋については、道路占用許可は本年3月末日をもって終了しているはずでありますが、それにもかかわらず明け渡しに応じないのは単なる居座りにほかならず、法的には不法占拠であります。また、これら一部の占用者の区画の中には、占用許可条件に反し、占用者みずからが使用していない、いわゆる転貸されている区画が複数あると聞きます。
我が会派では、たとえ公共的に必要な工事であっても長年にわたり高架下を利用してきた方々にとって明け渡し自体は大変なことでありますから、丁寧な説明で粘り強く理解・協力を求めていくよう、建設局に要望しておきたいです。しかし、許可条件に反する行為をこれまで継続した上、占用許可終了後も依然として明け渡しに応じないのは明らかな背信行為であり、もはやこれ以上の議論の余地はないと考えますが、どうお考えですか。
◎横山建設局管理部路政課長 お答えいたします。
当該区画につきましても、他と同様に、これまで占用者や区画を実際に使用している方々に対しまして繰り返し御理解・御協力を求めてきたところでございます。
当局といたしましても、高架橋の耐震対策のこれ以上の遅延は許されないものと認識しておりまして、今後、法的措置を含むあらゆる手段を選択肢として対応してまいりたいと考えております。以上です。
◆伊藤良夏委員 冒頭申し上げたとおり、南海トラフ巨大地震などいつ何どき発生するかわからない大規模地震に備え、市民の生命や財産を守るために建設局には速やかに耐震対策を進める責任があり、中津高架橋に続く残りの高架橋についても滞りなく取り組みを進めていただきたいと思います。
もちろん、長年にわたって高架下の利用を生活の糧や場としてこられた方々がいることも承知しており、繰り返しになりますが、建設局には取り組みに際して十分な検討・配慮を求めてきました。しかし、三津屋高架橋では全件、中津高架橋では7割以上の占用者が明け渡しに応じていただいている事実に目を向けた場合、一部の占用者による振る舞いをこれ以上許しておくことは、工事のおくれというだけでなく、公平性・公正性の観点からも看過できないと考えます。
中津高架橋の占用許可が終了し間もなく半年を迎えるに当たって、建設局には毅然とした対応を要望しておきたいと思います。以上です。
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/150214/20150214034.html
江坂に移転し復活 中津の文化拠点ピエロハーバー
2015年2月14日
大阪市北区の国道176号・中津高架橋の耐震化工事計画に伴い、高架下の拠点から立ち退いた「中津芸術村ピエロハーバー」が吹田市江坂町3丁目に拠点を移し、「えさか芸術文化館ピエロハーバー」として活動を再開した。毎週金曜~日曜日に演劇や歌謡などのステージを上演。『昭和』のぬくもりのある地域文化拠点を目指している。
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「ふしぎな国道」講談社現代新書2282(佐藤健太郎著)の、気になる点を整理してみる続きものの4回目である。
「ふしぎな国道」佐藤健太郎著236頁
なにが、「ちょっと違う」のかは、この本には一切触れていない。佐藤健太郎氏の「ふしぎな国道」には、このように「思わせぶり」に書いておきながら「検証不可能」」な書き方が目につく。小保方さんの一件で、日本の科学界における検証可能性についていろいろ議論されたところであるが。。。
私は英語は得意ではないので、参考著書を小まめに調べて引用するしか能がないので下記をご覧いただきたい。
1-1 高速自動車国道の意義及び路線指定
a 高速道路とは
(略)
「高速道路」は昭和30年代の新造語であるが、これはエキスプレスウェイ(EXPRESSWAY)という米語の訳語と云ってよい。米国の各州道路行政官協会(AA・SHOと略称されている)によれば、「全面的または部分的に出入制限を行い、一般的には交差点を立体交差とした、通過交通用の、往復分離した幹線道路」と定義されている。出入制限とは、「沿道の土地の所有者あるいは居住者その他の者が、その道路に近接し、乗下車する権利、空中権あるいは眺望権を、公共の権力によって全面的にもしくは部分的に制限すること」とされている。
さらに、全面的な出入制限においては、選ばれた公共道路とは接続路(これがインターチェンジである)を設け、かつ平面交差や私設の出入路の取付を禁ずることによって通過交通に都合がよいようにするものであり、また部分的な出入制限においては、選ばれた公共道路との接続路のほかに若干の平面交差や私設の出入路の取付が認められ、通過交通に優先権を与えたものだと説明されている。完全な出入制限をした高速道路をフリーウェイ(FREEWAY)とも呼んでいるが、その意味からは、わが国の高速道路はすべてフリーウェイである。部分的出入制限は、わが国でも自動車専用道路に関して認められており、例えば横浜新道や小田原厚木道路などの一般有料道路に幾つも例がある。
わが国での法律上の名称である高速自動車国道は、欧州系の呼び名に近く、英国の高速道路のモーターウェイ(MORTORWAY)、ドイツのアウトバーン(AUTOBAHN)、イタリーのアウトストラーダ(AUTOSTRADA)、フランスのオートルート(AUTOROUTE)など(いずれも直訳すれば自動車道路の意)に通じている。通称は米国系、法律上の名称は欧州系、というと、自らわが国の高速道路が両者の影響の所産であるという歴史的経緯が示されているようである。ついでに、高速道路に関係のある外国語を少し御紹介しておこう。パークウェイ(PARKWAY)は、高速道路の一種であるが、特にトラック、バスなどの商業車の通行を禁止したもので、通常公園または公園状に開発された地帯に設けられたもので、ニュージャージー州のガーデンステートパークウェイなどは有名であるが、この名称は有料制には関係がない。
有料道路はトルロ一ド(TOLLROAD)と総称されるが、かつて料金所に踏切遮断機のようなポールをおいて、料金を支払ったらこれをはね上げて通過させる方式がとられたことから、ターンパイク(TURNPIKE)、つまり回転ポールという意味の語が有料道路の名称になり、米国ではペンシルヴァニアターンパイクなどの有名な高速道路の名称に使われている。わが国の高速道路は、すべて有料制で運営されているから・ターンパイクと云ってもよいかも知れないが、方針として料金所には遮断機を設けないことにしている。
ハイウェイ(HIGHWAY)というのは、幹線の都市間道路の総称であり、ローマン・ロードが、高く盛り上げて造られたところから発していると云われている。高速道路もハイウェイの一部ではあるが、出入制限の性格が盛られていない点が物足りない。わが国の高速道路を、ちょっとしゃれて英語で呼びたいと思われる方々には、やはり「フリーウェイ」をおすすめしたい。
「高速道路のプランニング」日本道路公団理事 三野 定 監修 全国加除法令出版刊 1~2頁
三野氏は、建設省でワトキンス調査団に携わり、後に日本道路公団に転じた高速道路建設の創世記から実施段階まで勤めたエキスパートである。
そこでは「わが国の高速道路はすべてフリーウェイである。」「わが国の高速道路を、ちょっとしゃれて英語で呼びたいと思われる方々には、やはり「フリーウェイ」をおすすめしたい」と述べている。
一冊だけでは偏っているかもしれないので、他の論文も探してみようと思う。
7. 高速道路の問題と今後の路面交通の在り方
路面交通需要に対して, 積極的な供給策は駐車場の整備と, 高速道路の建設である。 高速道路は他の一切の交通路線とは立体交叉をなし, 沿道とも絶縁された高速で走行しうる構造をもつた自動車専用道路である。 これは一般街路に比して, 高速性, 安全性, 大量性で秀れている。 欧州では自動車道路 (Motor Way英, Reichoutobahnen独, Autostrade伊) と言われ, 米国ではExpress way, Park way, Throughfare, Free wayなどと都市によつて夫々呼称が違つている。 最近特にFree wayと呼ぶ都市が多くなつたが, この言葉が高速道路の性格を最も適確に表現している。 即ちFree wayとは『沿道の土地所有者が採光, 換気, 出入に対し一切の権利を有しない帯状の交通用の公共用地である』。 つまり一切の障碍から自由な高速度自動車専用道路というべきものである。 これは鉄道と同じように通行料金をとる有料道路 (Turnpike) の場合が多い。自動車文化の国といわれる米国は, 又道路文化の国といつても差し支えたい。 即ち自動車の発達と道路の発達とが連鎖反応式過程を経て今日に及んだからである。 わが国が鉄道網によつて国の大本を支えているように, 米国では巨大な国土の交通と, 混乱した都市交通を支えているものは高速道路網である。
「大都市の都心路面交通の諸問題」清水馨八郎・著
清水氏の政治的な立場はさておき、本来の専門分野の話である。
「最近特にFree wayと呼ぶ都市が多くなつたが, この言葉が高速道路の性格を最も適確に表現している」んだそうだ。まあ最近とはいってもこの論文は随分古いのだが。
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上述したように佐藤健太郎氏が、何をもって「ちょっと違う」と言っているか分からないのだが、私の調べたところでは、実務者も学者も「フリーウェイ」がよいと言っているようだ。
ところで、佐藤健太郎氏の記事は、道路にちなんだ楽曲を紹介するなかで、松任谷由実(荒井由実)の「中央フリーウェイ」について触れたものであるが、「中央道は有料道路だから、フリーウェイじゃないよ」とドヤ顔でおっしゃる方をネット上等でお見かけすることがある。
上記の清水馨八郎氏の論文にもあるように、「free」は「一切の障碍から自由な高速度自動車専用道路」という文脈で使われており、「無料」という意味ではない。
英英辞典でしらべてみよう。
free‧way
a very wide road in the US, built for fast travel [↪ motorway, expressway, highway]:
freeway
(in the US) a wide road, where traffic can travel fast for long distances. You can only enter and leave freeways at special ramps
freeway
a wide road for fast-moving traffic, especially in the US, with a limited number of places at which drivers can enter and leave it:
freeway
a wide highway that is built for fast travel
Full Definition of FREEWAY
1: an expressway with fully controlled access
2: a highway without toll fees
「a highway without toll fees」という用例もあるので、「無料道路」でも間違いではないが、「フリーウェイ=無料道路」と決め打ちせずに文脈をよく考えて使った方がよさそうだ。
「文字通りフリーウェイである」という書き方を見かけるが、果たしてどうだろうか?
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蛇足だが、日本道路公団は「Japan Highway Public Corporation」
民営化後の高速道路会社は「NEXCO:Nippon Expressway Company」だ。
「通称は米国系、法律上の名称は欧州系」と「高速道路のプランニング」には書いてあるが、現場の看板は、「高速道路」も「自動車道」もまとめて「EXPWY = expressway」だ。
「高速道路のプランニング」の43頁には、「英文字で表示する場合、「自動車道」の部分はEXPRESSWAY(標識ではEXPWYと略す。)とする。」と書いてある。
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國學院大學の受験生用イメージアップ目的と思われる「渋谷学生探偵団Z」というシブヤ経済新聞とのタイアップ記事がウェブで公開されている。
現役の学生さんとシブヤ経済新聞西樹編集長の「渋谷の町を良く知っている最強タッグ?」が渋谷の街を探検してネタを紹介して、学生さんを呼び込もうとしているようだ。
http://kokugakuin-univ.jp/tanteidan/20150114/
魚拓は下に
http://megalodon.jp/2015-0216-2126-33/kokugakuin-univ.jp/tanteidan/20150114/
後ろに見えるのは、西武百貨店のA館とB館です。実はここには宇田川が流れていて、ちょうど私たちが立っている付近で渋谷川と合流しているのです。宇田川の上流には、『春の小川』のモデルになった河骨(こうぼね)川があります。
「あ、そうか!」もう一人のカメラ担当、可奈子が叫びました。「川が流れているから、A館とB館を結ぶ地下通路がないのですね」。おー、1年生なのに鋭い視点を持っていますねー。感心しました。
「その通りです」。西編集長がうなずきました。ちなみに、東急百貨店東横店の旧東館も川の上に建てたために地下フロアが造れなかったそうです。百貨店の構造まで左右するとは、宇田川も渋谷川もなかなかの強者(つわもの)ですね。
ああ、やっちゃった。
私のブログを読んでいる方ならご存知の方もいらっしゃるかもしれないが、西武百貨店のA館とB館を結ぶ地下通路はある。
http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/11/ab-3cd6.html
http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/12/ab-9a88.html
(上記はいずれも建築界1968年7月号「SKビル(西武渋谷店)の施工」から引用)
普通のライターさんならともかく、「渋谷のことは全部任せておけ」的なところがタッグを組んだはずなのに、両方とも実際には取材も確認もせずに記事にしていたのがばれてしまった。
一時期は、何かあると「小倉(元)渋谷区長は國學院OB!」といってた國學院は区役所に確認できなかったのか。(この地下通路は渋谷区が設置の許可をしております。)
シブヤ経済新聞は西武百貨店渋谷店に取材ルートはないのか。
それぞれ地元のはずなのに。
まあ灯台下暗しともいいますしね。
渋谷区にあるからといって渋谷のことに詳しいとは限りませんし。センター街方面なんか行かずに、学バス降りたらまっすぐ電車に乗って帰宅してるかもしれませんし。
おまけに、とあるツイートを。
シブヤ経済新聞さんには、是非、潜入ルポをお願いしたい。
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前回書いた「東銀座「幻の地下街」を作った経緯が(ほぼ)分かった」で
「都市計画家 石川栄耀」鹿島出版会刊 中島直人、西成典久、初田香成、佐野浩祥、津々見崇:共著を読んでみると「有名建築家がこの設計に参加しているのも、盛り場の建築美を目指した石川の仲介によると考えられる。(238頁)」とあるが、それ以上の追及はない。まるで有名建築家さえ呼んで来れば、その背景に官民の不透明な関係があろうとなかろうと万々歳のような感想を持った。
と書いたのだが、その補足で。
この辺をもうちょっと引用すると
これらの建物の中には露店デパートと呼ばれ、鳴り物入りでオープンしたものも少なくない。例えば、銀座三十間堀埋立地には、銀座館(新銀座ショッピングセンター)(丹下健三設計)、銀一マート(後藤一雄設計、協働東京工業大学清家清研究室)、現三原橋地下街(土浦亀城設計)、上野百貨店(通称西郷会館、土浦設計)、新宿サービスセンターなどが挙げられ、当時の新聞や雑誌において報道がなされている。有名建築家がこの設計に参加しているのも、盛り場の建築美を目指した石川の仲介によると考えられる。
「都市計画家 石川栄耀」鹿島出版会刊 中島直人、西成典久、初田香成、佐野浩祥、津々見崇:共著 238頁
これに対して、商業専門家の見解で下記のようなものがある。
その頃、私はまだ元気だった。そして全国を一宿一飯の旅をして回った外、東京では、戦後至る処の空地に乱雑に建てられた小店舗群や露天商を収容するために、銀座三十間堀その他の河川を埋立て、その上に、共同店舗を造り始めたので、その仕事も手伝った。私は都の委嘱を受けて、これらの指導にも当った。この計画では従来の店舗を捨てて共同店舗に収容される零細業者を集めて何回も講演し、何度も企画会議に出たりした。が、東京都が設計して建てる建物がいずれもその目的に添うようなものではなく、出来る前から失敗するように決まっているようなものばかりであった。特にその著しいものは銀座裏の三十間堀に出来る共同店舗であった。私はその設計が不適当であることを文書で述べたが、東京都の役人達はそれが建築の大家丹下健三氏の設計であるとの理由で、商店経営の専門家である私の意見を容れないので、丹下先生との対決を要求したりしたが、結局、私が手を引くこととなった。
「日本商人史考」商業界刊 倉本長治著 305頁
このように、分野が違うと対称的な評価となっており、「一面的な物の見方はよくないなあ」と思った次第。
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建築屋って、その建物の本来の使用目的よりも有名建築家を使うことが自己目的化することがあるよねえ。
先般の国立競技場のザハをめぐる論争で、内藤廣氏の【建築家諸氏へ】を読んだのだが、PDF5頁にわたってイロイロと書いているなかで、「選手のため」「観客のため」という観点が一切出てこないうえに「ザハの代表作がソウルではなく東京であるべき」という本来のミッションではない方にいっちゃってることに大いなる違和感を覚えたものだ。
ちなみに、この内藤氏の東京高速道路評はというと
今で言う民活やPFIの先駆けだ。建設費と運営費をテナントの賃貸料で回収するという画期的なアイデアだった。その筋金入りの勇気と熱意は、経済的な収支が合いさえすれば何でもありのいまどきの安易な都市再生とは違う。
「償却が終われば都に引き渡すという契約の執行を拒み最高裁まで都と争う」ような事業を「民活やPFIの先駆け」と評価していいのか?
ちなみに内藤氏の上記文中の「何故このような他に例のない面白い道路が出来たのか。」という問いに対しての一つの答えとしては、「本当は首都高速も路下の建物を積極的にやりたかったが、東京高速道路がデタラメやりすぎたことと、国鉄も高架下でデタラメやりすぎた(新橋の京浜百貨店等)こと等を受けて、世間や国会の高架下に対する厳しい視線の下で、建設省が高架下の利用を厳しく制限したから他ではできなくなった」と考えている。「東京高速道路がエライから、他の道路にはないことが出来ているのではなく、東京高速道路がやりすぎたので、他の道路はできなくなった」のであろう。
東京高速道路こそが「コンプライアンスも何もない利権まみれの『何でもあり』」の状況だった。
この工事が「水面占用」で認可され、暫次「埋立」に変貌した事実-当時の認可を与えた都建設局長石川栄耀氏が、現在、高速度道路会社の顧問になっている事実は、あたかも「鉄道会館」の人事ケースと同じような表情を呈していることも、ことさら地元民の神経を刺戟しているようである。
「疑惑をもたれる〝高速度道路″という貸しビル」寺下辰夫(「経済往来」1954年12月号141頁)
石川栄耀は、不適切な便宜を民間企業に与えて、自らそこに天下った官僚で世間の不評をかっていたというわけですな。これが「筋金入りの勇気と熱意」「PFIの先駆け」とは寂しいものだ。。。
なお、「都市計画家 石川栄耀」の「石川栄耀 年譜」には、「東京高速道路株式会社顧問就任」とか「渋谷地下街株式会社 取締役就任」といった経歴は出てこない。何か理由があって載せられないのだろうか??それともとるに足らない事項と判断されたのだろうか?
石川栄耀と東京高速道路には、また別の「疑惑」があるのだ。
○中井(徳)委員 (中略)これは賛否両論ですが、東京で今高速道路というのをやっていましょう。あの堀を埋めまして、数寄屋橋がなくなってしまった、それを四、五年前に、自民党、社会党両党の委員がこぞって――村瀬さんもいらっしゃいますが、当時の建設委員が大いに反対したのです。ああいうものは風致を害するということでもって、やりました。そのときにだれが判を押したか調べてみた。そうしたら、安井君が二期か三期目の選挙の途中に、もう死にました石川栄耀さんという人が判を押しています。安井さんは留守です。あの人は、局長さんか何かでおられた。そういうことがあるのですよ。ですから、これはたまたま一つの事実にすぎませんが、私は十分起り得ると思うのです。皆さんのお考えの方が人がよ過ぎるように思いますので、一つ強くこの点を要望いたしておきます。御研究をいただいて、必要があるならば、この選挙期間中は代理者の行政に対する幅に規制をされた方がいいのではなかろうか、こう思います。これは強く要望いたしておきます。
要するに、この東京高速道路に関する都庁内の決裁については、世間の反対の中、本来は都知事が行うべきものを選挙期間中だったので石川栄耀が決裁したと。これは規制すべき事項ではないかと。
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ところで、「都市計画家 石川栄耀」鹿島出版会刊 中島直人、西成典久、初田香成、佐野浩祥、津々見崇:共著の238頁に話を戻すが、「有名建築家がこの設計に参加しているのも、盛り場の建築美を目指した石川の仲介によると考えられる」物件の中に「現三原橋地下街(土浦亀城設計)」があげられている。
ここでは無批判に、さも良いことをしたように書いてある。しかし、それでいいのか?
三十間堀を埋め立てるにあたり、闇マーケット化等を懸念した地元の反対をおさえるために「三十間堀埋立運営委員会」を設け、利用計画として「建築物は公共的、国家的、文化的用途に供するものを主とし、工場、倉庫、ブラックマーケット等は認めない」としたうえで、入札参加資格には「禁止営業-工場、倉庫、ヤミ市的売買、将来土地発展上不適当な営業」と定め、健全な「第二銀座」として運営することを目指していた。「東京都を食いものにする男たち 三十間堀埋立に踊るボス群」大住山人著(「真相」1949年5月号)では「目的は貿易物産館、事務所またはアパートの文化的な商店街をつくり、映画館、キャバレー、ダンスホールなどの娯楽期間や工場、倉庫およびマーケットは許さない」とある。
ところが。。
○中井委員長 御異議なしと認め、さように決定をいたします。
参考人の諸君から陳述を、承るに先だちまして、参考人諸君に申し上げて御参考に供したいと思うのでありますが、諸君にここに御出席を願うことになりましたゆえんは、本年十月十九日付をもちまして東京都中央区議会議長宮入正則君から請願書の名をもつて本委員会に陳情書が提出されたのであります。この陳情書の要旨によりますると、高速自動車道路建設に伴い紺屋橋と難波橋との間の公有水面埋立てと、中央区銀座四丁目地先三原橋道路上の建物について疑義があるから貴職において調査を願いたい、こういうのが一つ。もう一つは、三原橋の両側の道路占用による建物について都が許可せられたる趣旨とは全然異なりたる使用方法において現在使用されておる、そこに不正があるように思われる、この許可については都と区との間に行き違いがあり、地方自治法上はなはだ遺憾であるという趣旨のものであります。
(中略)
それから三原橋の問題につきましては、「昭和三十三年、三十間堀埋立てに始り、代表的な市街を建設するため特に安井都知事を会長に都議会議員各派代表、関係都理事者、地元都議会議員、中央区議会代表者、区理事者、地元住民代表者二十九名をもつて三十間堀埋立運営委員会を組織し、衆知を集めて慎重に同地利用開発と健全発展方策を決定した。」三原橋下は「三原橋下は三十間堀埋立地の中心部であつて、観光都市東京にふさわしい施設たるべきものとし橋上周囲は緑地並にロータリーとすることに決定した。しかるに現在橋下はニユース館が一部を占めるのみで、他の大部分は不健全娯楽で営利を目的とする経営に充てられている。」結局これについては、そういう敷地を特に許されたものは、新東京観光株式会社であるのに、それはその目的のために使わずして、他の者に転貸しをし、ここに何らかの不正が行われているのではないか、かようなことを都がなさるについては、その都を形成するところの特別区に対しその意見を無視してやられる等のことについては、この際自治法を改正して区の意見が都の行政の上に徹底するようはかられることが必要であると思う、その点につき地方行政委員会の格別なる考慮を望む、こういうようなことがこの趣旨なのであります。
昭和29年11月10日 衆議院 地方行政委員会
東京都公文書館保管の関係図面でも三原橋付近は、売却の対象外であったことが分かる。そこになぜ石川栄耀は「盛り場の建築美を仲介」したのか?
「東京不動産史話(3)三十間堀川埋立始末(上)上坂倉次著 「不動産鑑定」1976年3月号」によると、上記三十間堀川埋立竣工認可の「緑地395.78坪」は「三原橋両側4カ所」のことだという。
三原橋商店街は不法建築 都幹部も運営参加
使用目的 ”観光案内所”が化ける
土一升、金一升といわれる東京だけに道路にまで家がはみ出す不法建築が少なくない。都建設局ではこうした無法な道路侵略者が千数百件にものぼっているので告発や強制執行などの強権を発動して一掃につとめているが、皮肉なことに中央区銀座三原橋の都有地が問題を起こしている。三十間堀の埋立がすんだあとこの三原橋の両側と橋下は道路と指定されたにもかかわらず、安井都知事自身が会長をしている東京観光協会が観光事業のためといって借り受けたうえ、使用料をとて第三者に譲り、いまは商店街に早変わりするという現状である。しかもこの三原橋の運営には都庁幹部も監督上参画しており、都庁自ら道路を不法占用しているという事実がある。
三原橋は三十間堀の埋立工事が行われたとき橋下もふくめて道路ということになった。ところが26年8月28日、東京観光協会の安井協会長名義で橋下を観光案内所と商品陳列所にしたいと都へ使用方が申請され、そのまま許可された。ついで27年9月30日、橋下では観光案内に不適当であるというので橋上の料は輪に2階建のビルを建てたいと同じく安井協会長の名前で申請され、同10月30日観光案内所、常設物産即売所として許可された。 ところがこれらの土地(総坪数359坪)は許可のあと年間約75万円の使用料で新東京観光株式会社(社長宮地知覚氏)に譲渡されてしまったのである。同社では橋下(253坪)は坪6万円の権利金(半額敷金)で店舗を作り業者に貸付け、橋上両側のビル(106坪)は坪60万円から75万円という八重洲口名店街以上の高い権利金で業者に転貸された。このため橋上ビルの1階に会社事務所兼用の直営案内所があるだけで物産即売所のなければ商品陳列所もなく、あるものは飲食店、パチンコ屋をはじめ20数軒の店舗ばかりとなった。
ところが都の建築法規をみると道路や公有地に家を建てることは原則として禁止されているが、たとえ許可された場合でもその権利を他人に譲渡したり、使用目的を変更するときは道路管理者(都当局)の許可を受けることになっている。これに違反すれば即座に占用権は取消されることになっているが、観光協会の場合、橋下の商品陳列所と観光案内所の一部を映画劇場、娯楽場に使用目的を変更したいと申請しているに過ぎない。橋上の場合は申請もなければ、橋下の場合でも一部の変更を届け出て商店街に化けている。さらに不可解なのはこの三原橋の問題について第1回の申請のあった26年8月に都庁の富田都民室長はじめ直接監督取締りにあたる坪田道路部長、福田管財部長らをふくめて観光協会理事、観光会社側幹部三者の間に三原橋運営委員会が組織されているにかかわらず、こういうズサンな運営がなされている。しかも土地の権利金を寄付金として新観光会社から都に収めることになっていたが橋下の632万5千円は納付済だが橋上の約9百万円は未納といわれ、ナゾを秘めたままとなっている。
安井知事談『あの問題は私の知らない間に申請、建設されたもので、知事の怠慢といわれればそれまでだが、全く都民に対し申訳ないと思っている。現在都民の納得ゆくような改善工作をすすめ、徹底的に整備するつもりでいるが、なかなか思うようにゆかず困っている』
宮路新東京観光株式会社社長談『私は二代目社長だが都との使用契約についてよく知らない』
読売新聞 1954(昭和29)年10月30日
ざっくりいうと、石川栄耀は、自らが運営委員となっている「三十間堀埋立運営委員会」の決定に反して、三原橋周辺に、本来設置されてはならないはずの映画館、ゲームセンター、パチンコ屋等の設置に加担していた。さらにそれは都の条例に反する「又貸し」という形をとっていた。また、知事が「あの問題は私の知らない間に申請、建設されたもの」と言っているにもかかわらず、実際には都の幹部が関与していた。ということか。
本来、三原橋は「盛り場の建築美」を持ち込んではいけない場所であり、石川栄耀は健全運営を条件に埋立を了解した地元に対して背信行為を行ったというべきではないか。
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ところで、 「東京都を食いものにする男たち 三十間堀埋立に踊るボス群」大住山人著(「真相」1949年5月号) に興味深い記述がある。
戦災ガラを河川に埋め立てる件については、安井知事から依頼を受けた石川栄耀が考案したこととされているが、そうではないということか?公職追放された者が考案したのだと通りが悪いので後に石川栄耀が考案したこととしたのか?なかなかおもしろい。
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東銀座のいわゆる「幻の地下街」については、営団地下鉄の「日比谷線建設史」において
地下3階構造の日比谷線構築はこの橋梁(※引用者注:三原橋のこと)の真下を通過する。この構築の地下1階は東銀座・日比谷間のコンコースとなり,地下2階は東京都で将来三原橋を撤去するとき橋下および橋台敷き附近に居を構えている諸店舗を移転収容するための施設として使用し,地下3階は日比谷線の隧道部分となる計画である。このように地下2階部分は東京都施設であるが,銀座四丁目交差点付近までの同施設を営団が受託施工した。
「東京地下鉄道 日比谷線建設史」帝都高速度交通営団 387~389頁
と記され、東京都の計画に基き、営団地下鉄が日比谷線建設にあわせて受託施工したことが分かる。しかし、どのような経緯で、東京都がこの移転計画を実施しようとしたかはこれでは分からない。
他方、東京都では、首都高速道路計画にあたって
皇居の南側において国会方面から銀座方面に通づる路線の計画につき検討する
「東京都市計画高速道路網計画案大綱 附帯決議2」東京都市計画高速道路調査特別委員会(1957)
こととしており、その関連として、祝田橋~三原橋間の地下自動車道路の計画を具体化させていた。
※「都市計画と東京都」都政調査会発行(1960)から引用
この地下自動車道と日比谷線は導入空間が競合するため、紆余曲折があり、結果現況の有楽町駅付近のガード下付近のみ一方通行の地下道になっている。
このあたりの経緯は、東京五輪関連:地下鉄と競合して未成となった銀座の地下自動車専用道路にして首都高速計画線の名残に記したところである。
そこでも指摘したのだが、山田正男 元・東京都建設局長は、後に自著において
しかし今でも残念なのは、銀座界隈の最後の道路交通対策として計画した,祝田橋方面と三原橋方面とを結ぶ地下自動車道計画を地下鉄2号線(※引用者注:日比谷線のこと)の工事と同時に施工し、三原橋を撤去することによりついでに七不思議の一つを解消しようとしたが,オリンピック東京大会をひかえて工期の関係等もあって断念せざるを得なくなり、遂に中途半端な一方通行の地下道に終わってしまい,七不思議の一つも今だにその醜態をさらしていることである。
「時の流れ・都市の流れ」都市研究所刊、山田正男著 25頁
と記し、「安井都政の七不思議」の一つである三原橋問題を地下道建設とあわせて解決しようとしたが達成できなかったことが分かる。
しかし、この山田局長の意向と「幻の地下街」を繋げる確証がなかった。それが見つかったのである。
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「交通技術」1962年10月号(財団法人交通協力会刊)に「営団地下鉄2号線銀座-日比谷間建設計画」という報文が掲載されている。著者は安藤正人 帝都高速度交通営団建設部第1設計課長である。
この報文が貴重である理由は、上に記した東京都の地下自動車道と日比谷線の導入空間調整において、一旦は合意しながらその後流れて幻に終わった「地下道路は地下2階(銀座駅付近は地下3階)・地下鉄は地下3階相当の一体構造」に基づくものを図面入りで紹介しているところである。
これだけではよくわからないので、現況と比較してみる。
お手元に「パンフレットで読み解く東京メトロ建設と開業の歴史」実業之日本社刊をお持ちの方がいらっしゃれば、是非97~101頁の記事と見比べてほしい。(同誌100頁の図面では「幻の地下街」部分を人が歩いているイラストが!)
横断図は下記のとおり。
どのような構想だったのか、下記に引用する。
Ⅱ 地下自動車道路との共存計画
(中略)
ⅰ) 2号線はおおむね道路中心線に沿つて建設し、既設地下鉄各線の下(地下3階に相当)に位置すること。銀座駅はホーム延長152m、幅9mの島式、日比谷駅はホーム延長152m、幅4.975mの相対式とする。
ⅱ) 地下自動車道は幅員7m、高さ4m以上の片側2車線。出入口は三原橋付近の道路中心と、日比谷交差点・祝田橋の中間道路両側に設ける。
ⅲ) 銀座-西銀座(引用者注:当時の丸ノ内線銀座駅は「西銀座駅」と称していた)間は、既設地下鉄線の下を潜り、かつ地下鉄2号線銀座駅の両側に同一の深さで設け、道路幅員の関係で、地下鉄の構造とは一体として設計する。
ⅳ) 東海道本線下付近は、両者が平行して経由できるだけの幅員がないので、地下自動車道路は地下鉄の上に重ねる。日比谷駅でもそのままの状態で計画、これらは一体構造として設計する。
ⅴ) 東銀座-銀座-日比谷の3駅間を結ぶ東京都計画の一般公衆用地下歩道をこれに加える。
ⅵ) 地下自動車道路の換気及び排水装置は、地下鉄とは分離した独立の計画とするが、ディーゼル機関付の自動車は通行させない。三原橋付近にはUターン用のループウェーを設け、三原橋下及びこの付近の店舗の一部は地下に収容する。
ⅶ) 地下自動車道路・地下歩道・地下鉄は同時施工
「交通技術」1962年10月号「営団地下鉄2号線銀座-日比谷間建設計画」安藤正人著 22~23頁
上の図面では着色しなかったが、確かに三原橋の地下に本線の出入口の坂道以外に、ループウェーらしき横破線が見える。山田局長はこうやって「都政七不思議」のひとつである三原橋の問題を解決してしまおうとしたわけだ。
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余談であるが、鍛冶橋の下にも同様の七不思議で埋め立てた橋の下に映画館があった。山田局長は、同著で「鍛冶橋の下の映画館の問題も首都高速道路の建設によって解消した。(「時の流れ・都市の流れ」24頁)」と述べている。それも同じ七不思議の東京高速道路と首都高速道路を連結することによってである。このあたり石川栄耀の残した負の遺産に新しい開発計画を(意図的に?)ぶつけることで片付けにかかっていたわけだ。
「土浦亀城と白い家」鹿島出版会刊、田中厚子著によると、三原橋センタービルを設計した土浦亀城は、鍛冶橋下に「映画館および遊技場をつくる「鍛冶橋計画案」もあった。それ等は実現しなかったが、この時期の復興計画の事例として興味深い。(同著267頁)」
三原橋ほどではないが、鍛冶橋下の映画館も、開発時にその不透明さ等から世間の批判をあびている(読売新聞昭和28年10月6日付記事「自動車ラッシュの鍛冶橋 撤去請願、採択したが橋下は個人に貸付 都議会で都へ善処申入れ」を参照のこと)。石川栄耀と土浦亀城と都政七不思議=戦後復興にからむ利権とをつなぐコネクションがあったのだろうか?
「都市計画家 石川栄耀」鹿島出版会刊 中島直人、西成典久、初田香成、佐野浩祥、津々見崇:共著を読んでみると「有名建築家がこの設計に参加しているのも、盛り場の建築美を目指した石川の仲介によると考えられる。(238頁)」とあるが、それ以上の追及はない。まるで有名建築家さえ呼んで来れば、その背景に官民の不透明な関係があろうとなかろうと万々歳のような感想を持った。
もっとも、国会で与野党から「利権道路」と追及され、契約に定められた期間満了後の返還に応じず最高裁まで争った(都勝訴、会社敗訴)東京高速道路についても一切そのような経緯は触れず、石川と地元議員の「深イイ話」だけ載せて「PFIの先駆け(235頁)」と紹介するような問題意識の本だからこれ以上求めるのは酷なのかもしれない。
なお、山田局長は、「安井知事が後に知事を辞めたときに、「(略)石川栄耀はあのわけのわからん銀座の高速道路なんかを人に勧めてやらせておいて後始末をしなかったが、あれを後始末をしてくれて本当にありがとう」と言ってくれた。(「東京の都市計画に携わって:元東京都首都整備局長・山田正男氏に聞く」東京都新都市建築公社まちづくり支援センター刊 17頁)」「東京都と東京高速道路株式会社との契約は、全くいい加減だ。(同 71頁)」と述べている。この辺の深掘りこそ「都市計画家 石川栄耀」に求めたいものだ。
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閑話休題。
関係者間の合意が成立したことで日比谷線の工事が本格化した。
上記の決定(引用者注:地下道路は地下2階(銀座駅付近は地下3階)・地下鉄は地下3階相当)に従って営団はただちに橋本(引用者注:橋下敬之)案の自動車道路が地下3階に造られるものとして,東銀座・霞ヶ関間の設計をまとめ、昭和37年3月東京都経由で建設省へ認可申請を行ない,同年8月認可を受けた。そして同年9月中旬から順次工事に着手した。ようやく工事も軌道にのりかけた頃,同年11月6日運輸,建設両次官,首都圏整備委員会事務局長および東京都副知事の間で下記のような覚書がつくられ,営団は運輸省鉄道監督局長から覚書の趣旨の実現に努力するよう指示を受けた。
三原橋・日比谷間における交通施設に関する覚書
記
1.地下3階道路案を廃止する。
2.数寄屋橋交差点西側付近より日比谷交差点西側付近まで,西行き交通を処理するため,地下1階に2車線の自動車道路を公共事業として,地下鉄工事と同時施工する。
3.日比谷交差点・数寄屋橋間,銀座四丁目・三原橋間の地下歩道の設置は従前通りとする。
4.営団地下鉄の工期については,オリンピックまでに完了することとするが,可能な限りその工期の短縮を図るものとする。
「日比谷線建設史」264~265頁
地下2階(銀座駅付近は地下3階)の地下自動車道と日比谷線の建設工事着工後に、地下自動車道は大幅にその規模を縮小することになった。「日比谷線建設史」はその理由を書いていないが、上記山田局長の著書では「オリンピック東京大会をひかえて工期の関係等もあって断念せざるを得なくなり(時の流れ・都市の流れ)」とある。上記覚書の「4」とリンクしているのだろうか?
(※日比谷線銀座駅は、上記「横断面図」のように、晴海通りの下に両側を地下自動車道に挟まれた形で設計された。そのためホームの幅が少し狭くなった。地下自動車道計画がなくなった後も、地下鉄の構造物の基本的な構造は変更されていないため、今でもホームは狭いままだ。)
いずれにせよ「出入口は三原橋付近」「三原橋付近にはUターン用のループウェーを設け、三原橋下及びこの付近の店舗の一部は地下に収容する(営団地下鉄2号線銀座-日比谷間建設計画)」はずが、「東京都で将来三原橋を撤去するとき橋下および橋台敷き附近に居を構えている諸店舗を移転収容するための施設(日比谷線建設史)」になってしまった。
オリンピック関連工事にあわせて三原橋周辺を完全に撤去し、店舗を移転する目論みだったものが、三原橋は残り、移転時期も期限がない「将来」になってしまったことが、「幻の地下街」化の一因であったと思われる。よくいわれる「消防法の改正」などは後付にすぎないし直接の理由ではない。
実は、東京都は、これ以前にも、昭和31年に三原橋付近の店舗を理詰めの法律論により撤去すべく、庁議まではかったが、「関係局間においてなお調整すること」とされ、実現できなかった。理詰めでダメなら、物理的に公共事業をぶちあてて三原橋もろとも収去を目論んだが、またもや断念を余儀なくされたのである。
字ばかりで読む気が起きない方は、下記のパワポにざっくりまとめてみたのでどうぞ。
(追記:上図中「銀座マート」は「銀座館」と「銀一マート」を混同して書いてしまいました。申し訳ありませんが各自脳内で修正くださいますようお願いいたします。)
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「三原橋地下街の「幻の地下街」への移転が、消防規制の強化のため予定どおりできなくなってしまった。」とする説は多いようだ。
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しかし、これも当時の報道と比較してみたい。
これを読むと、三原橋地下街の商店が日比谷線上地下街に移転しなかったのは、「消防規制が壁になって移転先を失った」のではなさそうだ。
時系列で見てみると
・昭和40年に日比谷線上に「幻の地下街」が完成
・移転交渉を進めるも、三原橋地下街の商店側が拒否。
・昭和44年に暫定的に都が倉庫等として使用。
・昭和49年に関係省庁の通達「地下街に関する基本方針」により規制強化
順番も違うし、移転拒否から規制強化までの時間も空きすぎている。
また、「袋小路みたいなところを、わざわざ地下2階まで降りてくれるお客さんが何人いますか。とても商売になりません。」と商店主がインタビューに答えているが、「営団地下鉄2号線銀座-日比谷間建設計画」記載の縦断面図では、三原橋付近はループウェーを設置する関係で、公共歩道が地下2階に降りてきているようだ。当初の計画どおりであれば、「幻の地下街」も公共歩道の人通りがあり、「袋小路みたいなところ」にはならなかったのかもしれない。
そして、現在、「幻の地下街」は、「建設局三原橋地下倉庫 」と呼ばれている。現在、東京都建設局では、三原橋の撤去とそれに伴う地下道のバリアフリー化及び「幻の地下街」の活用策の検討を進めているようだ。(リンク先の「道路施設再整備計画検討(三原橋周辺)」を参照されたい。)
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写真は、銀座駅付近の清掃用具入れになっている「幻の地下道」の入口である。
無理やり開けたのではなく、たまたま通りががった際に清掃作業が行われて扉が開閉されたのを覗き込んだだけである。
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