東銀座「幻の地下街」を作った経緯が(ほぼ)分かった
東銀座のいわゆる「幻の地下街」については、営団地下鉄の「日比谷線建設史」において
地下3階構造の日比谷線構築はこの橋梁(※引用者注:三原橋のこと)の真下を通過する。この構築の地下1階は東銀座・日比谷間のコンコースとなり,地下2階は東京都で将来三原橋を撤去するとき橋下および橋台敷き附近に居を構えている諸店舗を移転収容するための施設として使用し,地下3階は日比谷線の隧道部分となる計画である。このように地下2階部分は東京都施設であるが,銀座四丁目交差点付近までの同施設を営団が受託施工した。
「東京地下鉄道 日比谷線建設史」帝都高速度交通営団 387~389頁
と記され、東京都の計画に基き、営団地下鉄が日比谷線建設にあわせて受託施工したことが分かる。しかし、どのような経緯で、東京都がこの移転計画を実施しようとしたかはこれでは分からない。
他方、東京都では、首都高速道路計画にあたって
皇居の南側において国会方面から銀座方面に通づる路線の計画につき検討する
「東京都市計画高速道路網計画案大綱 附帯決議2」東京都市計画高速道路調査特別委員会(1957)
こととしており、その関連として、祝田橋~三原橋間の地下自動車道路の計画を具体化させていた。
※「都市計画と東京都」都政調査会発行(1960)から引用
この地下自動車道と日比谷線は導入空間が競合するため、紆余曲折があり、結果現況の有楽町駅付近のガード下付近のみ一方通行の地下道になっている。
このあたりの経緯は、東京五輪関連:地下鉄と競合して未成となった銀座の地下自動車専用道路にして首都高速計画線の名残に記したところである。
そこでも指摘したのだが、山田正男 元・東京都建設局長は、後に自著において
しかし今でも残念なのは、銀座界隈の最後の道路交通対策として計画した,祝田橋方面と三原橋方面とを結ぶ地下自動車道計画を地下鉄2号線(※引用者注:日比谷線のこと)の工事と同時に施工し、三原橋を撤去することによりついでに七不思議の一つを解消しようとしたが,オリンピック東京大会をひかえて工期の関係等もあって断念せざるを得なくなり、遂に中途半端な一方通行の地下道に終わってしまい,七不思議の一つも今だにその醜態をさらしていることである。
「時の流れ・都市の流れ」都市研究所刊、山田正男著 25頁
と記し、「安井都政の七不思議」の一つである三原橋問題を地下道建設とあわせて解決しようとしたが達成できなかったことが分かる。
しかし、この山田局長の意向と「幻の地下街」を繋げる確証がなかった。それが見つかったのである。
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「交通技術」1962年10月号(財団法人交通協力会刊)に「営団地下鉄2号線銀座-日比谷間建設計画」という報文が掲載されている。著者は安藤正人 帝都高速度交通営団建設部第1設計課長である。
この報文が貴重である理由は、上に記した東京都の地下自動車道と日比谷線の導入空間調整において、一旦は合意しながらその後流れて幻に終わった「地下道路は地下2階(銀座駅付近は地下3階)・地下鉄は地下3階相当の一体構造」に基づくものを図面入りで紹介しているところである。
これだけではよくわからないので、現況と比較してみる。
お手元に「パンフレットで読み解く東京メトロ建設と開業の歴史」実業之日本社刊をお持ちの方がいらっしゃれば、是非97~101頁の記事と見比べてほしい。(同誌100頁の図面では「幻の地下街」部分を人が歩いているイラストが!)
横断図は下記のとおり。
どのような構想だったのか、下記に引用する。
Ⅱ 地下自動車道路との共存計画
(中略)
ⅰ) 2号線はおおむね道路中心線に沿つて建設し、既設地下鉄各線の下(地下3階に相当)に位置すること。銀座駅はホーム延長152m、幅9mの島式、日比谷駅はホーム延長152m、幅4.975mの相対式とする。
ⅱ) 地下自動車道は幅員7m、高さ4m以上の片側2車線。出入口は三原橋付近の道路中心と、日比谷交差点・祝田橋の中間道路両側に設ける。
ⅲ) 銀座-西銀座(引用者注:当時の丸ノ内線銀座駅は「西銀座駅」と称していた)間は、既設地下鉄線の下を潜り、かつ地下鉄2号線銀座駅の両側に同一の深さで設け、道路幅員の関係で、地下鉄の構造とは一体として設計する。
ⅳ) 東海道本線下付近は、両者が平行して経由できるだけの幅員がないので、地下自動車道路は地下鉄の上に重ねる。日比谷駅でもそのままの状態で計画、これらは一体構造として設計する。
ⅴ) 東銀座-銀座-日比谷の3駅間を結ぶ東京都計画の一般公衆用地下歩道をこれに加える。
ⅵ) 地下自動車道路の換気及び排水装置は、地下鉄とは分離した独立の計画とするが、ディーゼル機関付の自動車は通行させない。三原橋付近にはUターン用のループウェーを設け、三原橋下及びこの付近の店舗の一部は地下に収容する。
ⅶ) 地下自動車道路・地下歩道・地下鉄は同時施工
「交通技術」1962年10月号「営団地下鉄2号線銀座-日比谷間建設計画」安藤正人著 22~23頁
上の図面では着色しなかったが、確かに三原橋の地下に本線の出入口の坂道以外に、ループウェーらしき横破線が見える。山田局長はこうやって「都政七不思議」のひとつである三原橋の問題を解決してしまおうとしたわけだ。
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余談であるが、鍛冶橋の下にも同様の七不思議で埋め立てた橋の下に映画館があった。山田局長は、同著で「鍛冶橋の下の映画館の問題も首都高速道路の建設によって解消した。(「時の流れ・都市の流れ」24頁)」と述べている。それも同じ七不思議の東京高速道路と首都高速道路を連結することによってである。このあたり石川栄耀の残した負の遺産に新しい開発計画を(意図的に?)ぶつけることで片付けにかかっていたわけだ。
「土浦亀城と白い家」鹿島出版会刊、田中厚子著によると、三原橋センタービルを設計した土浦亀城は、鍛冶橋下に「映画館および遊技場をつくる「鍛冶橋計画案」もあった。それ等は実現しなかったが、この時期の復興計画の事例として興味深い。(同著267頁)」
三原橋ほどではないが、鍛冶橋下の映画館も、開発時にその不透明さ等から世間の批判をあびている(読売新聞昭和28年10月6日付記事「自動車ラッシュの鍛冶橋 撤去請願、採択したが橋下は個人に貸付 都議会で都へ善処申入れ」を参照のこと)。石川栄耀と土浦亀城と都政七不思議=戦後復興にからむ利権とをつなぐコネクションがあったのだろうか?
「都市計画家 石川栄耀」鹿島出版会刊 中島直人、西成典久、初田香成、佐野浩祥、津々見崇:共著を読んでみると「有名建築家がこの設計に参加しているのも、盛り場の建築美を目指した石川の仲介によると考えられる。(238頁)」とあるが、それ以上の追及はない。まるで有名建築家さえ呼んで来れば、その背景に官民の不透明な関係があろうとなかろうと万々歳のような感想を持った。
もっとも、国会で与野党から「利権道路」と追及され、契約に定められた期間満了後の返還に応じず最高裁まで争った(都勝訴、会社敗訴)東京高速道路についても一切そのような経緯は触れず、石川と地元議員の「深イイ話」だけ載せて「PFIの先駆け(235頁)」と紹介するような問題意識の本だからこれ以上求めるのは酷なのかもしれない。
なお、山田局長は、「安井知事が後に知事を辞めたときに、「(略)石川栄耀はあのわけのわからん銀座の高速道路なんかを人に勧めてやらせておいて後始末をしなかったが、あれを後始末をしてくれて本当にありがとう」と言ってくれた。(「東京の都市計画に携わって:元東京都首都整備局長・山田正男氏に聞く」東京都新都市建築公社まちづくり支援センター刊 17頁)」「東京都と東京高速道路株式会社との契約は、全くいい加減だ。(同 71頁)」と述べている。この辺の深掘りこそ「都市計画家 石川栄耀」に求めたいものだ。
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閑話休題。
関係者間の合意が成立したことで日比谷線の工事が本格化した。
上記の決定(引用者注:地下道路は地下2階(銀座駅付近は地下3階)・地下鉄は地下3階相当)に従って営団はただちに橋本(引用者注:橋下敬之)案の自動車道路が地下3階に造られるものとして,東銀座・霞ヶ関間の設計をまとめ、昭和37年3月東京都経由で建設省へ認可申請を行ない,同年8月認可を受けた。そして同年9月中旬から順次工事に着手した。ようやく工事も軌道にのりかけた頃,同年11月6日運輸,建設両次官,首都圏整備委員会事務局長および東京都副知事の間で下記のような覚書がつくられ,営団は運輸省鉄道監督局長から覚書の趣旨の実現に努力するよう指示を受けた。
三原橋・日比谷間における交通施設に関する覚書
記
1.地下3階道路案を廃止する。
2.数寄屋橋交差点西側付近より日比谷交差点西側付近まで,西行き交通を処理するため,地下1階に2車線の自動車道路を公共事業として,地下鉄工事と同時施工する。
3.日比谷交差点・数寄屋橋間,銀座四丁目・三原橋間の地下歩道の設置は従前通りとする。
4.営団地下鉄の工期については,オリンピックまでに完了することとするが,可能な限りその工期の短縮を図るものとする。
「日比谷線建設史」264~265頁
地下2階(銀座駅付近は地下3階)の地下自動車道と日比谷線の建設工事着工後に、地下自動車道は大幅にその規模を縮小することになった。「日比谷線建設史」はその理由を書いていないが、上記山田局長の著書では「オリンピック東京大会をひかえて工期の関係等もあって断念せざるを得なくなり(時の流れ・都市の流れ)」とある。上記覚書の「4」とリンクしているのだろうか?
(※日比谷線銀座駅は、上記「横断面図」のように、晴海通りの下に両側を地下自動車道に挟まれた形で設計された。そのためホームの幅が少し狭くなった。地下自動車道計画がなくなった後も、地下鉄の構造物の基本的な構造は変更されていないため、今でもホームは狭いままだ。)
いずれにせよ「出入口は三原橋付近」「三原橋付近にはUターン用のループウェーを設け、三原橋下及びこの付近の店舗の一部は地下に収容する(営団地下鉄2号線銀座-日比谷間建設計画)」はずが、「東京都で将来三原橋を撤去するとき橋下および橋台敷き附近に居を構えている諸店舗を移転収容するための施設(日比谷線建設史)」になってしまった。
オリンピック関連工事にあわせて三原橋周辺を完全に撤去し、店舗を移転する目論みだったものが、三原橋は残り、移転時期も期限がない「将来」になってしまったことが、「幻の地下街」化の一因であったと思われる。よくいわれる「消防法の改正」などは後付にすぎないし直接の理由ではない。
実は、東京都は、これ以前にも、昭和31年に三原橋付近の店舗を理詰めの法律論により撤去すべく、庁議まではかったが、「関係局間においてなお調整すること」とされ、実現できなかった。理詰めでダメなら、物理的に公共事業をぶちあてて三原橋もろとも収去を目論んだが、またもや断念を余儀なくされたのである。
字ばかりで読む気が起きない方は、下記のパワポにざっくりまとめてみたのでどうぞ。
(追記:上図中「銀座マート」は「銀座館」と「銀一マート」を混同して書いてしまいました。申し訳ありませんが各自脳内で修正くださいますようお願いいたします。)
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「三原橋地下街の「幻の地下街」への移転が、消防規制の強化のため予定どおりできなくなってしまった。」とする説は多いようだ。
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しかし、これも当時の報道と比較してみたい。
1億8千万円の工費をかけ、40年3月に完成した銀座の地下商店街が、ついに倉庫に化ける。完成当時、都が入居してくれるはずと信じた三原橋会の商店16店舗は「人の通らない場所では商売ができない。地下には絶対、行かぬ」との態度を終始変えず、弱り果てた都が、ついに「とりあえず倉庫と会議室にする」ことにしてしまった。ズサンなお役所仕事が生んだこの地下街騒動、4年を過ぎたが、いまでも解決のメドすらついていない。 地下街が倉庫にかわるまでのいきさつは--。
都がこの地下商店街を建設したのは、三原橋の晴海通り両側にある2階建ビルをたちのかせ、ここを緑地帯にする計画で、ビルにはいっている16店舗をここに移転させる計画だった。
当時、帝都高速度交通営団が日比谷線の建設中で、地下1階はプロムナード、地下3階が日比谷線、地下2階が空いていた。都は「この地下鉄工事に便乗すれば、工費も安くすむし、三原橋からも近い。代替地としては理想的だ」として総工費1億8千万円をかけ、1年がかりで40年3月に完成させた。
地下商店街は、銀座四丁目と日比谷線東銀座駅をつなぐ地下2階で、総延長167メートル、片側に約25平方メートルの店舗用敷地17戸がある。地下1階のプロムナードに出るための入り口は5カ所。
都は「建設当時の責任者がかわってしまったので、はっきりしないが、移転については商店主の了解を得ていたはず・・・・・」という。一方、商店主たちは「相談なんてとんでもない。はじめに話があればやめろといった。商売人だから、地下商店街がいい場所なら喜んでいきますが、あそこはひどい。袋小路みたいなところを、わざわざ地下2階まで降りてくれるお客さんが何人いますか。とても商売になりません。それに換気が十分にできないというので、ガスも使えないというし・・・・・・」と、相手が何年待っても、絶対に地下には降りないといっている。
これを読むと、三原橋地下街の商店が日比谷線上地下街に移転しなかったのは、「消防規制が壁になって移転先を失った」のではなさそうだ。
時系列で見てみると
・昭和40年に日比谷線上に「幻の地下街」が完成
・移転交渉を進めるも、三原橋地下街の商店側が拒否。
・昭和44年に暫定的に都が倉庫等として使用。
・昭和49年に関係省庁の通達「地下街に関する基本方針」により規制強化
順番も違うし、移転拒否から規制強化までの時間も空きすぎている。
また、「袋小路みたいなところを、わざわざ地下2階まで降りてくれるお客さんが何人いますか。とても商売になりません。」と商店主がインタビューに答えているが、「営団地下鉄2号線銀座-日比谷間建設計画」記載の縦断面図では、三原橋付近はループウェーを設置する関係で、公共歩道が地下2階に降りてきているようだ。当初の計画どおりであれば、「幻の地下街」も公共歩道の人通りがあり、「袋小路みたいなところ」にはならなかったのかもしれない。
そして、現在、「幻の地下街」は、「建設局三原橋地下倉庫 」と呼ばれている。現在、東京都建設局では、三原橋の撤去とそれに伴う地下道のバリアフリー化及び「幻の地下街」の活用策の検討を進めているようだ。(リンク先の「道路施設再整備計画検討(三原橋周辺)」を参照されたい。)
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写真は、銀座駅付近の清掃用具入れになっている「幻の地下道」の入口である。
無理やり開けたのではなく、たまたま通りががった際に清掃作業が行われて扉が開閉されたのを覗き込んだだけである。
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