1962年の三原橋
「明日への日本」日映科学映画製作所1962年製作
38分29秒に当時の三原橋ビルが写ってる!
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だそうですよ。
昭和41年6月1日 - 衆議院 - 建設委員会
○ 岡本 隆一委員 (略) それからそれに付随してお尋ねしたいと思うのでございますが、先日新聞を見ておりますと、大文字山にドライブウエーをつくるのだ、そうして道路公団にそれをやらせる、こういうふうな新聞記事が出ておりました。そして道路公団はすでに予備調査を済ませておるというようなことでございますが、これは純粋の観光道路です。東山ドライブウエーというのは大臣お上がりになったのではないかと思いますが、東山の将軍塚まで上がっていく観光道路ができました。ところがその観光道路を岸さんのときに、高山さんが陳情して岸さんのお声がかりでできたというような道路の模様でございますが、利用率が非常に悪い。道路公団がつくった道路について利用率を、事業費百万円当たり一日の料金徴収額どれくらいかということで比率を私見てみました。そうしますと参宮道路と鳥飼大橋、これは非常にいいです。七百三十九円が鳥飼大橋、八百三十円が参宮道路。これだけ利用率の高いものはどんどん早く償却していくのですね。ところが、それに比べまして大山道路、これが一番悪いのです。これは鳥取県の観光資源の開発ということである程度意味があるかもしれませんが、とにかく大山道路が百四十一円。だから参宮道路に比べまして五分の一というようなことになっているわけですね。さらに東山道路が二百三十一円でそれに続いておるわけなんです。ものすごく利用率が悪い。あるいはそれはこの大文字山のルートをつくれば東山道路の利用効果が少しあがるかもしれません。しかしながらこういうふうな純粋の観光道路を道路公団がやるべきでないと私は思う。また今日道路公団の帯びてきた使命というものは非常に大きなものになってきたと思うのです。国土縦貫自動車道法ができまして、改正されまして、それで道路公団としては開発道路、高速自動車道を全国的に大きく建設していかなければならない。そのためには道路公団としては非常に多くの資金が要る。さらにまた非常に多くの技術者が要るのであります。そういうふうな非常に大きな使命を帯びてきた道路公団がこういうような道草を食うべきでないと私は思うのでございますが、道路公団は、このみずからの使命にかんがみてやはりこういうふうな道草もときにはやむを得ぬ、こういうふうにお考えになりますか。いまのところ実はとても困難だとお考えになりますか。その辺私はお伺いしたいと思います。
○富樫凱一参考人 (日本道路公団総裁) ただいまお話しの東山の有料道路は、仰せのように利用率が悪うございます。したがいましてこれをどうしたら利用率がよくなるかということも検討いたしてみました。それにつながるいわゆる大文字山の有料道路、これは昭和三十六年に京都市の御要望がございまして三十七年に予備調査をいたしました。その結果有料道路としては若干問題もございましたので、それ以上進展いたしませんで現在に至っております。最近京都市のほうでまたこの道路をやってもらいたいという御要望が大阪支社のほうにあったと聞いておりますが、まだ本社のほうには正式には承っておりません。いま先生のお話の御趣旨はよくわかるのでございますが、東山道路につながる大文字の有料道路につきましては、あの辺の情勢も昭和三十七年ごろとはだいぶ変わってもおりますので、それらを今後必要に応じて検討いたしたいと考えております。
○岡本委員 必要に応じて検討いたしたいということは、やる用意がある、こういうふうな意味にとるべきなのですか。私は、こういうふうな純粋の観光道路は民間の資本でやるべきである。だから開発銀行その他の融資がありますから、またその地域は国有地が多いそうでありますね。だからこれは、政府が払い下げるなり出資するなり、そういうことについては、私は財政上のことをよく知りませんが、とにかく私は、道路公団としてはこういうふうなレジャー道路を――大体日本はレジャーが多過ぎると思うのです。たとえていえば、こういうふうな道路をつくるということは、これはもうパチンコ屋を建てたり、温泉マークはどんどん建つけれども、庶民の住宅は相変わらずのあばら家だ、それが日本の実態です。だから、道路にいたしましても、国十開発に必要な道路、あるいはまたほんとうに国民が日常の経済活動に必要な道路、そういうふうな国民生活に欠くべからざる必要な道路というものが非常に立ちおくれておる今日の現状の中で、山をどんどんくずして風致を害する。しかもそれがレジャーのために利用されておる。しかもそのレジャー道路がどんどん発達いたしますと、そのレジャー道路へ行くための取りつけ道路が非常に狭くなって、そのためにそのレジャー道路への取りつけ口でもって非常な交通の困難を来たしておる。 たとえば、適例を申しますと、今度、比叡山のドライブウエーの次に、それに隣接して、奥比叡ドライブウエーというのができました。それが堅田のほうにおりることになっております。そうしますと、堅田方面は従来から、あの国道は何号線でございましたか、旧二級国道でございますが、あれが非常に交通麻痺で困っておったのが、より一そう交通麻痺がひどくなってきて、いまではどうにもならない程度にまでなってきておるわけですね。 だから、一般道路の開発がおくれておる段階で、レジャー道路をどんどん開発して、そこへ多くの観光バスを誘致する。したがって、その周辺の道路は一そう混雑をきわめるというふうな今日の段階において、政府が当然政府資金でやるべき一般道路の開発をなおざりにしておいて、しかもこんなレジャー道路に国の資金を投入する、私はそういうふうな態度はとるべきでないと思うのです。それに対して、いま道路公団の総裁のお答えでは、いや検討さしてもらいたいと思うというふうなことでは、都合によって、採算が成り立つのならやってもいい、採算が成り立たないのならしようがないというふうな意味にもとれないではないのです。しかしながら私は、採算は度外視して――そういうふうなレジャー道路、観光道路については、これは民間資本の開発にまかすべきである。道路公団のような国家目的を持った性格の団体は、これはもっと国土開発のほうに専念してもらうべきである。ことに、いま、道路開発のための人がなくて困っておられるのでしょう。これから後開発しなければならない多くの任務をかかえ、それをどう果たしていくかということについて、あなたのほうは相当人的な面で大きな障壁に当たっておられるというふうに私は見ております。しかし、そういう余技をやる余裕があなたのほうにあるのなら話は別でございます。そういうふうな余裕があるのかないのか、そういうふうな点も加えて、ひとつお答えを願いたいと思います。
○富樫参考人 御趣旨のとおりであると思います。ただ、この席であれはやらないのだというふうにきめるだけ調査がいっておりませんので、先ほどのようにお答えを申し上げたわけであります。
将軍塚へ向かう「東山ドライブウェー」は、当初は日本道路公団の有料道路だったのである。
日本道路公団年報から引用
料金所が分かるだろうか。。
大文字山までどのようなルートをたどるはずだったのだろうか???
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今まで述べたことをおさらいするために年表にしてみた。
■おさらい
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内務省・建設省 日本道路公団 |
東京都 首都高速道路公団 |
その他 |
1940年 昭和15年 |
「重要道路調査」を実施 |
石川栄耀「大東京地方計画と高速度自動車道路」 |
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1941年 昭和16年 |
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石川栄耀「高速度道路と國土防衞」 |
1942年 昭和17年 |
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1943年 昭和18年 |
「自動車国道計画」を策定(東海道ルートあり) |
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1944年 昭和19年 |
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1945年 昭和20年 |
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1946年 昭和21年 |
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1947年 昭和22年 |
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1948年 昭和23年 |
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1949年 昭和24年 |
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「国土計画展覧会」で田中清一が縦貫道計画(田中プラン)を披露 |
1950年 昭和25年 |
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「スカイウェイ構想」 |
1951年 昭和26年 |
東京神戸間高速道路調査再開 |
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1952年 昭和27年 |
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東京高速道路株式会社に一般自動車道免許 |
1953年 昭和28年 |
「弾丸道路着工」の新聞報道 |
首都建設委員会「首都高速道路に関する計画」(2号玉川線が東海道高速道路と接続) |
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1954年 昭和29年 |
建設省が「東京・神戸間高速有料道路建設計画概要書」取りまとめ(東海道ルート) |
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東急ターンパイク及び箱根ターンパイク一般自動車道免許申請 東京高速道路につき国会で審議 |
1955年 昭和30年 |
国土開発縦貫自動車道法提案も廃案 |
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1956年 昭和31年 |
日本道路公団設立 ワトキンス調査団来日 |
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1957年 昭和32年 |
国土開発縦貫自動車道法公布(中央道南アルプスルート) 名神高速道路施行命令 |
建設省「東京都市計画都市高速道路に関する基本方針」策定(首都高は概ね環状6号ま で) |
湘南ターンパイク一般自動車道免許申請 |
1958年 昭和33年 |
第三京浜道路調査(菊名バイパス)開始
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首都圏整備委員会「都市高速道路整備計画」を策定 |
産業計画会議「高速自動車道路についての勧告」 |
1959年 昭和34年 |
東京高速道路(戸越~汐留)着工→後に首都高へ引き継ぎ(2号線) |
首都高速道路公団設立 |
東京オリンピック開催決定 |
1960年 昭和35年 |
「第三京浜道路調査報告書」 「中央道・東名論争」 中央自動車道の予定路線を定める法律・東海道幹線自動車国道建設法公布 |
「東京都市高速道路調査報告書」(3号線は第三京浜へ) |
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1961年 昭和36年 |
第三京浜道路に有料道路事業許可 |
東京都道路整備10ケ年計画(3号線は第三京浜へ) |
東急ターンパイク申請取り下げ |
1962年 昭和37年 |
東海道幹線自動車国道建設法施行令施行 (東名は渋谷起点) 東名高速初の施行命令 |
首都高速道路初の開通 「首都高速道路と都市間幹線道路との連絡に関する研究」(2号線は第二京浜を西へ、 3号線は東名へ、9号線が第三京浜へ)、 |
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1963年 昭和38年 |
名神高速道路初の開通 |
2号線の第二京浜方面延伸及び9号線の第三京浜方面への延伸を割愛 |
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1964年 昭和39年 |
国土開発縦貫自動車道法改正(中央道は諏訪回りルートへ) 第三京浜(玉川~川崎)開通 |
「羽田横浜高速道路建設計画」(3号線の延伸が城南線として東名と第三京浜の中間 へ) |
東京オリンピック開催 |
1965年 昭和40年 |
第三京浜全線開通 |
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1966年 昭和41年 |
東海道幹線自動車国道建設法施行令の廃止(高速自動車国道の路線を指定する政令に統 合され、起点は渋谷区から世田谷区へ変更) |
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東京高速道路株式会社線全通 |
1967年 昭和42年 |
中央高速道路初の開通 |
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1968年 昭和43年 |
東名高速道路初の開通 |
第二次基本計画(2号線は第三京浜へ、3号線は東名へ) |
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【参考文献】
「道路」国会図書館にて閲覧
「第三京浜道路調査報告書」川崎市立図書館にて閲覧
「第三京浜道路工事報告」神奈川県立図書館にて閲覧
「東京都市高速道路調査報告書」首都大図書館にて閲覧
「首都高速道路と都市間幹線道路との連絡に関する研究」東京都立図書館にて閲覧
「首都高速道路のネットワーク形成の歴史と計画思想に関する研究」東京都立図書館にて閲覧
「羽田横浜高速道路建設計画に関する資料-世界銀行提出」川崎市立図書館にて閲覧
「時の流れ・都市の流れ」首都大図書館にて閲覧
「東京の都市計画に携わって : 元東京都首都整備局長・山田正男氏に聞く」東京都立図書館にて閲覧
「東京・神戸間 高速自動車国道計画図」早大大学史資料センターにて閲覧
「伸びゆく首都高速道路」早大大学史資料センターにて閲覧
「日本道路協会五十年史」東京都立図書館にて閲覧
「道を拓く 高速道路と私」古書店にて購入
著者の肩書は、それぞれ文献公開当時のものである。
(古書購入費とコピー費と交通費で1万円くらいかかっとんのとちゃうか。。。)
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清
水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(1)
清
水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(2)
清
水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(3)
清
水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(4)
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水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(5)
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水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(6)
清
水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(7)
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清水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察を続けていく。
一方、2号目黒線も京浜間の輸送力増強を目的にしていますが、横浜方面へ向かう中原街道、第二京浜(国道1号線)と品川区内の戸越、荏原で接続するに留まっており、中途半端に見えます。そこから延伸する計画も、おぼろげなものでした。
ただ3号渋谷線が東名に「取られて」からは、第三京浜との接続路線に2号目黒線が浮上。基本計画に組み入れられました。しかし1960年代にお蔵入り状態になり、現在へ至っています。中原街道も第二京浜も、新たにそこへ3号線のような高架構造の4車線道路を建設するには幅員が少し足りなかったのが最大の理由で、中原街道と第二京浜で上下線を分担して敷設する案まで出たようですが、具体化しませんでした。
清水草一氏「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」から引用
■首都高速道路2号目黒線の第三京浜道路への延長計画はいつからのものなのか?
清水草一氏はここでは「第三京浜との接続路線に2号目黒線が浮上。基本計画に組み入れられました。しかし1960年代にお蔵入り状態になり、現在へ至っています。」と記しており、他方、オートックワンの「第三京浜ってどうして安いの?玉川ICはなぜ中途半端なところにあるの?」においては、「実際、首都高2号線は、昭和30年代までは第三京浜まで延長される構想でした。」と記している。
私の調べた経緯を下記に述べて行こう。
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■首都高速道路2号目黒線の第三京浜道路への延伸計画
昭和40年9月、第12回東京都市計画高速道路調査特別委員会(委員長:金子源一郎)は、首都高速道路の延伸計画の検討に入った。(略)
高速道路のランプ配置に当って、ランプ利用圏を都心部では半径500m、副都心環6付近では半径1km、外周部では半径2kmという設定をし、外環の内側における地域をほぼこの考えで覆うこととした。このため昭和39年度大都市幹線街路調査における提案の網計画を一部修正し、更に城南方面に2号線延伸の1路線、城東方面に11号線の1路線を追加し、それぞれの方面の将来の交通需要に対処することとした。(略)
「首都高速道路のネットワーク形成の歴史と計画思想に関する研究」 古川公毅 62~64頁から引用
「首都高速道路のネットワーク形成の歴史と計画思想に関する研究」 古川公毅 75頁から引用
上記の資料によると、首都高2号線の第三京浜道路への延伸計画は、1968(昭和43)年に首都高速の基本計画に組み入れられており、1970(昭和45)年には国の「首都圏整備計画」に位置づけられたようだ。
また、1975(昭和50)年の「PLANNING OF TOKYO 1975 首都の整備」(東京都発行)にも2号目黒線が第三京浜へ延伸する「計画構想線」が掲載されている。
清水草一氏の「昭和30年代までは第三京浜まで延長される構想でした」「1960年代にお蔵入り状態」という記述とは食い違いを見せている。清水草一氏が論拠を開示してそれぞれの資料を突合せれば食い違いの原因も分かるだろうか。
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■首都高2号線の「中原街道と第二京浜で上下線を分担して敷設する案まで出たようですが、具体化しませんでした。」は、どこへ向かう路線だったのか?
昭和37年度には、2号延伸線について、幅員40mの導入空間が無いことから、往復分離させて、第2京浜及び中原街道の上を通す案とした。また3号延伸線は、新たに決まった東名高速道路と接続する案に変更した。併せて第3京浜と接続し中央環状線の中目黒付近とを結ぶ線を加えた。(略)
昭和38年度には、2号線延伸について、幅員25mの中原街道と幅員30mの放射1号(第2京浜)に往復分離で入れることの困難性などから割愛した。また、第3京浜との接続路線についても、用地取得の困難性から取り止めることとした。(略)
「首都高速道路のネットワーク形成の歴史と計画思想に関する研究」 古川公毅 57~58頁から引用
古川氏によると「2号延伸線について、幅員40mの導入空間が無いことから、往復分離させて、第2京浜及び中原街道の上を通す案とした」とあるが、その行き先は第三京浜ではなく、第2京浜国道部分の神奈川県境までの延伸である。
「首都高速道路と都市間幹線道路との連絡に関する研究」(昭和37年)から引用。
前述のとおり、3号線は、東名高速へ接続し、2号線は第二京浜国道を神奈川県境へ向かい、第三京浜には新たに9号線をもって接続させようというのが1962(昭和37)年の計画だったのである。
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2号目黒線延伸 |
3号渋谷線延伸 |
9号線新設 |
1961(昭和36)年度 「調査報告書」 |
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第三京浜へ接続 |
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1962(昭和37)年度 「研究」 |
第二京浜国道及び中原街道を神奈川県境へ |
東名高速へ接続 |
第三京浜へ接続 |
1964(昭和39)年度 「羽田横浜高速道路計画 」 |
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第三京浜と東名高速道路の中間で外環に接続(城南線) |
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1968(昭和43)年度 「基本計画」 |
第三京浜へ接続 |
東名高速へ接続 |
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清水草一氏の「ただ3号渋谷線が東名に「取られて」からは、第三京浜との接続路線に2号目黒線が浮上。基本計画に組み入れられました。しかし1960年代にお蔵入り状態になり、現在へ至っています。中原街道も第二京浜も、新たにそこへ3号線のような高架構造の4車線道路を建設するには幅員が少し足りなかったのが最大の理由で、中原街道と第二京浜で上下線を分担して敷設する案まで出たようですが、具体化しませんでした。」というのは、そこらあたりがチャンポンになっているのではないか? 私も整理しきれているわけではないが、ソースは御覧のようにオープンにしているのでブログの読者の方も含めて考察が進めばよいのではないか?
しかし2号目黒線と第三京浜の接続にあたり、現在なら、そうした幅員不足の問題はシールドトンネル化で解決できます。加えて、このトンネルを乗用車専用(大型車通行禁止)にすれば、トンネルを1本にしてそれを上下2層構造とし、建設費を大幅に節約することができます。
(中略) パリにできて東京にできないはずはありません。首都高最後の「夢」として、実現を目指せないものでしょうか。
清水草一氏「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」から引用
首都高は、バブル期に都心の地下を乗用車専用の高速道路を作る計画があったのだから、相応のノウハウはあるはずだ。もっともこいつは単独路線だったはず。本線料金所で一旦停止していた時代ならいざしらず、ETC時代でノンストップで100km/h近い速度で突進してくる大型車の誤進入を排除するのはとても難しそうだ。パリのお友達にその辺の交通処理方法について是非深堀して調べていただきたいものだ。
1988(昭和63)年5月28日朝日新聞
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清
水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(1)
清
水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(2)
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水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(3)
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水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(4)
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水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(5)
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水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(6)
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水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(7)
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清水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察を続ける。
1950年代、まだ日本の道路は恐ろしいほど貧しく、長距離輸送は旅客・運輸ともに鉄道が主役。東京~名古屋間をクルマで移動するなど夢物語でした。当時の自動車交通にとって、それよりはるかに重要なのは近距離移動。たとえば東京~横浜間でした。第三京浜はそこを強化するため東名より先に計画され、完成は東名より4年早い1965(昭和40)年です。よって第三京浜が3号渋谷線との接続を想定していたとしても、不思議はありません。
清水草一氏「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」から引用
■第三京浜は東名より先に計画されていたのか?
東名高速道路の計画は戦前から行われ、1953(昭和28)には、既に首都高速と接続する計画が公表されていた。
他方、第三京浜道路の計画着手は1958(昭和33)年である。
第三京浜道路工事報告「第2節 着工までの経緯」1-5頁から引用
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■第三京浜は当初東名高速の一部だったのか?
ちょっと脇道に逸れてみる。
国道研究家の松波さんはこう指摘する。
「第三京浜の工事記録である『第三京浜道路工事報告』によると、第三京浜は当初、東名高速の一部として考えられていました。東名高速の起点は玉川で、そこまでは首都高速がつなぐ構想でした」
「しかし東名のルートは最終的に、横浜経由ではなく厚木経由に決まり、用賀が起点となりました。首都高 も用賀へ向かい、その結果、本来東名の一部になるはずだった第三京浜が中途半端な道路となったのです」
東急ターンパイク計画の浮上で下火になっていた高速道路構想を、建設省がターンパイクつぶしのために蒸し返した。しかし急ごしらえで仕立て上げた第三京浜計画は結局、東名高速のルートとはならず、中途半端な状態で実現してしまった――。これが真相ではないか。そしてそのどちらにも近藤氏がかかわっていた。
「田園都市線のルーツは高速道路 東急、幻の計画」河尻定
2013/2/1 6:30 日本経済新聞 電子版
http://image02w.seesaawiki.jp/w/t/wkmt/a5a8a3790ee6d63e.pdfにUPされている。
第三京浜道路工事報告「第2節 着工までの経緯」1-6頁に下記の表記がある。
この表記から「もともと東名高速は第三京浜を延長するはずだった」と考える人がいると推測しているのだが、ここだけ読んでいたのでは十分な理解には至らないのである。
前述のように、1953(昭和28)年の段階で、東名高速は現在のルートで工事着工が新聞報道されるレベルであったのに、「なぜ1958(昭和33)年に計画を開始した第三京浜の延伸を東名高速の案として検討する必要があったのか?」というスタートの部分が第三京浜道路建設誌には書いていない。
「道を拓く 高速道路と私」から『世銀借款交渉の日々』斎藤義治(元建設省高速道路課長:先の「道路」1961年11月号「東海道幹線自動車国道の計画について」の著者でもある。)著 153~154頁から引用する。
先に青木一男氏が「東海道が交通渋滞して困るのならば、バイパスを建設してこれに対処すればよい」と述べていたのをご記憶だろうか?
「建設省は、本当は既に調査が進んでいた東名をやりたいのだけど、中央道との論争の結果次第で東名に着工できない場合を想定して、第三京浜経由でも東海道の交通量増加に対処できるように手は打ってあった。そのためにも玉川ICは首都高速と接続できるよう対策しておいた。」ということであろう。あくまでも「場合によっては」という位置づけであったことを見落としてはならないのである。
1960(昭和35)年2月27日付朝日新聞に「東京周辺自動車道は第三京浜道路終点の横浜から小田原方面に通る道で、公団は現在の東海道1号国道の北側を予定しているが、国会で問題化している東海道第二国道建設問題にからむのでルートの公表を避けている」との記事が報じられている。ここの部分が斎藤義治の著述と整合性がとれるのである。
それが、「中央道対東名」の対決は同時着工で収束し、1960(昭和35)年7月に「東海道幹線自動車国道建設法」が成立したために、もうそんな備えが必要なくなったのであろう。
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ちなみに「山手案」があれば「海岸案」があるのだが、それにご関心の方は、「産業計画会議第3次勧告「高速自動車道路についての勧告」 http://criepi.denken.or.jp/intro/matsunaga/recom/recom_03.pdf にお目通しいただきたい。
(松波さん、この辺は落ち着いたら是非一献やりましょうw)
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清
水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(1)
清
水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(2)
清
水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(3)
清
水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(4)
清
水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(5)
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水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(6)
清
水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(7)
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清水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察を続ける。
首都高3号線は結局、東名高速と接続されていますが、この第三京浜が計画された段階では、東名の計画はまだはっきりしていませんでした。
というのも、戦後の都市間高速道路の計画において、まず構想されたのは東名ではなく中央道だったからです。計画された当初の中央道は、現在建設中のリニア中央新幹線とほぼ同じ南アルプス縦貫ルートが想定され、東京~名古屋間を最短距離で結ぼうと考えられました。そしてこれが実現した場合、東名は建設されないはずでした。
清水草一氏「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」から引用
■「中央道(南アルプス縦貫ルート)が実現した場合、東名は建設されないはず」だったのか?
ちなみに、南アルプス縦貫ルートとは下記の路線(緑色の破線)のことである。
「東京・神戸間 高速自動車国道計画図」建設省(昭和38年8月1日)から引用
自分の知っている範囲では「東名は建設されないはず」とまで断言できるソースはないのだが、清水草一氏は何かいいネタをお持ちなのだろうか?
本稿の読者の方には、当時の「中央道対東名」の様子が分かる文献を御紹介したい。
古書店で「道を拓く 高速道路と私」という本を購入した。高速道路の創世記に携わった国会議員や建設省道路局の幹部が往年を振り返って述べるというものである。
まずは、「道を拓く 高速道路と私」から『「高速道路の青木」と呼ばれて』青木一男(参議院議員)著 9~13頁から引用する。
次いで「道を拓く 高速道路と私」から『大所に立ち所信貫く』瀬戸山三男(衆議院議員)著 80~82頁から引用する。
「中央道対東名」の対立の状況がざっくりとお分かりになるのではないか。
なお、当時の建設省道路局幹部が後に業界誌の対談で下記のようなことを述べている。
「日本道路協会五〇年史」座談会「道路行政を語る」83、84頁から引用
尾之内=尾之内由紀夫氏
「日本道路協会五〇年史」座談会「富樫凱一氏を囲んで」207頁から引用
富樫=富樫凱一氏、高橋=高橋国一郎氏、山根=山根孟氏、村上=村上圭一氏(司会)
建設省側の中央道に対する温度差が感じ取れるのではないか?
このあたりが清水草一氏がおっしゃる「中央道(南アルプス縦貫ルート)が実現した場合、東名は建設されないはずでした。」について、私なりに一次資料を調べた成果である。
ところで、この「南アルプス縦貫ルートがどのような経緯で諏訪回りになったのか」等は、http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/04/post-c50d.html等もあわせてご覧いただければ幸いである。
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水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(1)
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水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(2)
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水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(3)
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水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(4)
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水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(5)
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水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(6)
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水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(7)
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清水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察を続けていく。
1950年代、まだ日本の道路は恐ろしいほど貧しく、長距離輸送は旅客・運輸ともに鉄道が主役。東京~名古屋間をクルマで移動するなど夢物語でした。当時の自動車交通にとって、それよりはるかに重要なのは近距離移動。たとえば東京~横浜間でした。第三京浜はそこを強化するため東名より先に計画され、完成は東名より4年早い1965(昭和40)年です。よって第三京浜が3号渋谷線との接続を想定していたとしても、不思議はありません。
清水草一氏「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」から引用
■第三京浜道路と首都高3号渋谷線の接続計画は、東名高速道路の具体化の後のものだった。
第三京浜道路の計画開始前に1953(昭和28)年の段階で東名高速道路の前身と首都高速道路3号渋谷線の前身(当時は2号玉川線)が接続する計画があったことは前述のとおりである。
では、第三京浜道路と首都高速3号渋谷線が接続する計画はいつからいつまでのものだったのか?
私の調べた範囲では、始まりは、1961(昭和36)年度の「東京都市高速道路調査報告書」(東京都首都整備局 都市計画部)
であり、「東京都道路整備10ケ年計画」(昭和36年度を初年度とし、昭和45年度を終期とする道路整備事業計画)である。
「時の流れ・都市の流れ」山田正男(元東京都首都整備局長)著 560頁から引用
本稿ではこの後に、「中央道対東名高速」論争を紹介するので時点が前後するが、この論争を経て、中央道と東名高速道路が同時着工することとされたのが昭和35年であり、東名高速道路を法律上位置づけた「東海道幹線自動車国道建設法」http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_housei.nsf/html/houritsu/03419600725129.htm が成立したのは1960(昭和35)年7月25日である。
つまり清水草一氏が言うように「第三京浜はそこを強化するため東名より先に計画され、完成は東名より4年早い1965(昭和40)年です。よって第三京浜が3号渋谷線との接続を想定していたとしても、不思議はありません。」というよりも、「中央道との論争が決着し、東名高速道路(東海道幹線自動車国道)が正式に法律上位置づけられたにもかかわらず、あえて首都高3号渋谷線は第三京浜道路と接続する計画をたてた」と考えられないだろうか?
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■第三京浜道路と首都高9号線の接続計画
次いで、1962(昭和37)9月の首都高速道路公団からの委託による「首都高速道路と都市間幹線道路との連絡に関する調査」(財団法人都市計画協会)では、下記のような路線構想が計画されている。
「首都高速道路と都市間幹線道路との連絡に関する調査」(財団法人都市計画協会)から引用
3号線を第三京浜に接続させようとする1960(昭和35)年の計画に対し、3号線は、東名高速へ接続し、2号線は第二京浜国道を神奈川県境へ向かい、第三京浜には新たに9号線をもって接続させようというのが1962(昭和37)年の計画だった。
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■首都高3号渋谷線が東名高速道路と第三京浜道路の中間点で外環に接続する計画
これにて一件落着といいたいところだが、悩ましい計画がある。
この後、首都高速道路公団が作成した「羽田横浜高速道路建設計画に関する資料-世界銀行提出-(1964年5月)」添付図面では、下記のとおりとなっている。(世銀への提出資料なので、英文表記である模様。)
3号線の延伸部分が「城南高速道路」として、東名高速道路と第三京浜道路の間(玉川通りをそのまま二子橋までいく感じ)に進み、東京外郭環状道路を介して接続する形となっている。
これについて東京都の山田正男は、1964(昭和39)年の「東京都道路整備10ヶ年計画について -生まれ変わる大東京- <首都道路協議会における講演要旨>」において次のように述べている。
「時の流れ・都市の流れ」山田正男(元東京都首都整備局長)著 556頁から引用
この山田氏の発想「長距離高速道路の交通をそのまま都心部まで持ってくるということはばかげている」ということからすると、清水草一氏の「東名に相手を取られた第三京浜」といった考え方自体が成り立たないのかもしれない。
このように路線が転々としていることが篠原修氏の言う「設計思想上の混乱を引き起こすこととなる」ということなのだろうか?
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清水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察を続けていこう。
首都高3号線は結局、東名高速と接続されていますが、この第三京浜が計画された段階では、東名の計画はまだはっきりしていませんでした。
というのも、戦後の都市間高速道路の計画において、まず構想されたのは東名ではなく中央道だったからです。計画された当初の中央道は、現在建設中のリニア中央新幹線とほぼ同じ南アルプス縦貫ルートが想定され、東京~名古屋間を最短距離で結ぼうと考えられました。そしてこれが実現した場合、東名は建設されないはずでした。
清水草一氏「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」から引用
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■「戦後の都市間高速道路計画」はともかく、「戦前の都市間高速道路計画」で東海道路線を検討したことには触れなくてよいのだろうか?
まずは、戦前から東名、中央道の計画が定まるまでの経緯を概括してみる。
「道路」1961年11月号「東海道幹線自動車国道の計画について」斎藤義治(日本道路公団計画部長)著854頁から引用
戦前の高速道路計画はどのようなものだったのだろうか?
昭和15年8月、時の近衛内閣は「基本国策要綱」の中で「日満支を通ずる総合国力の発展を目標とする国土計画の確立」を掲げ、わが国で初めて国土計画の必要性を述べた。昭和15年9月になると「国土計画設定要綱」が閣議決定され、続く昭和17年には「大東亜国土計画大綱素案」が策定された。この中では、共栄圏内の資源開発や物流、諸民族の生活向上が目標とされた。この様な中、内務省土木局は、昭和15年に「重要道路調査」を実施し、その成果として「自動車国道計画」を策定した(昭和18年)。本計画は、当時の国土計画上の重要拠点を設計速度120kmの高規格な道路で結び、中国や韓国等への連絡を志向した路線設定となっていた。
JICE REPORT vol.5「高規格幹線道路網に係る国家政策の歴史的変遷」瀬尾卓也・島村喜一・丸山大輔著 http://www.jice.or.jp/report/pdf05/jice_rpt05_04.pdf23頁から引用
上記の図からも東名高速道路に相当するような東海道を通る自動車国道の計画が戦前にあったことが分かる。
※戦前の道路政策全般については http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00902/1998/18-0123.pdf が詳しい。
戦前に計画された東名高速道路相当区間のルートはどのようなものだったのだろうか?
「道路」1963年8月号「名神高速道路の一部完成までをかえりみて」片平信貴(日本道路公団高速道路第一部長)著から引用
http://www.katahira.co.jp/archives/img/mr_k_1_1.pdf
「二級国道の東京沼津線」とは、現在の国道246号である。中目黒からR246へ抜けるということであれば、首都高速2号目黒線がそのまま東名高速道路に接続するようなものだったのだろうか?
そして、戦後の調査状況はどうだったのか?
前述の斎藤氏の報文では「昭和26年度より東京・神戸間の高速道路の本格的な調査を再開」とある。
「玉川田賀町」起点とあるが「玉川用賀町」の誤植だろうか?
東京~沼津間は、1951(昭和26)年時点で、現在のルートと大差ないようだ。
「道路」1951年7月号「三国国道新路線と高速度自動車道路計画について」松本 正雄(建設省関東地方建設局企画課長)著 226及び229頁から引用
その後の経過がうかがえる新聞報道を紹介しよう。
1953(昭和28)年1月18日朝日新聞
1953(昭和28)年1月29日朝日新聞
記事を見るとおおむね現在の東名・名神と同じルートのようだ。
第三京浜道路の計画が始まったのは1958(昭和33)年であるから、「第三京浜が計画された段階では、東名の計画はまだはっきりしていませんでした」と言い切れるものだろうか。もっとも「実際には着工できていないし、こんな紙上の計画は、はっきりしたものというレベルじゃないのだ」と言ってしまえばそこまでかもしれないが。清水草一氏が何をもって「はっきりしていません」とするのか論拠を挙げていただけると「はっきり」するかもしれないが。
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■1953(昭和28)年の首都高速道路2号玉川線~東海道自動車道の接続構想
前掲の1953(昭和28)年1月18日朝日新聞の記事の末尾に注目してほしい。「起点から都心への路線設定は目下首都建設委員会で研究しており」とある。
同年4月28日に、首都建設委員会は「首都高速道路に関する計画」の勧告を発表した。
その路線図が下記のものである。
そこには、永田町から玉川へ延びる「2号玉川線」が設定されており、「東海道高速道路(中略)へ連絡せしめるよう策定した」とある。
なお、この段階では第三京浜道路は計画にも着手していない。東急ターンパイクが道路運送法に基づき免許申請したのはこの後の1954(昭和29)年3月である。
「道路」1954年1月号「都市に於ける高速道路計画について」町田保(首都建設委員会事務局長)著7~8頁から引用
(私が見やすいように路線を着色したもの)
http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/07/28-7e37.html
第三京浜の計画開始(1958年)よりも東急ターンパイクの免許申請(1954年)よりも、首都高と東名高速道路が直結した計画が先行(1953年)していたわけである。
しかし、その構想は一旦消えてしまったようだ。
土木計画学研究・論文集No2「首都高速道路の計画と設計思想」篠原修(建設省土木研究所主任研究員)著 40頁から引用
http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00041/1985/02-0037.pdf
近藤=近藤謙三郎氏、石川=石川栄耀氏
「東海道高速道路を二子玉川まで迎えにいっている(この点が後の計画では不明瞭となり、設計思想上の混乱を引き起こすこととなる)。」とあるが、何故不明瞭になり、設計思想上の混乱とは具体的にどのようなものだったのだろうか。教えてMJブロンディ!
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2015(平成27)年4月5日付けで、乗りものニュース「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」清水草一(首都高研究家)著
http://trafficnews.jp/post/39257/
http://megalodon.jp/2015-0517-1117-15/trafficnews.jp/post/39257/2/
というレポートがネット上に発表されたので、私なりに調べた事、考えた事を述べて行きたい。
東名に相手を取られた第三京浜
そもそも第三京浜は、なぜある意味中途半端な玉川ICが終点なのでしょう。
建設当時の記録から読み取れることは、当初から玉川ICは暫定的な終点で、「そのへんにしておけば、あとあと都合がよかろう」という意図だった、ということです。具体的には、「いずれ首都高3号渋谷線との接続に好適」ということでした。
清水草一氏「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」から引用
ところで清水草一氏は以前はこう言っていた。
続いて、玉川ICがなぜあんなところにあるのか、という質問ですが、もともと第三京浜は、東急グループが渋谷-江の島間に「東急ターンパイク」という名前で高速道路を建設しようとしたのが始まりです。
時は昭和29年。東急グループは、宅地・観光開発のために、非常に積極的に動いていました。箱根ターンパイクも、東急グループが観光のために建設した有料道路です。
東急ターンパイク構想は、その後建設省に横取りされてしまい、それが第三京浜となりました(仕方なく東急は田園都市線を造りました)
起点が玉川なのは、「暫定的に」という意味合いが強かったのだと私は推定しています。
実際、首都高2号線は、昭和30年代までは第三京浜まで延長される構想でした。その後沿道の宅地化が非常に進み、まったく不可能となって、現状のまま取り残されたような形です。
ただ、首都高2号線は、当初は第2京浜(国道1号線)上に延長する構想もあったようで、そのあたりははっきりしません。
さらなる歴史の掘り起こしが必要だなぁ、と思ってます。
オートックワン 教えてMJブロンディ 「第三京浜ってどうして安いの?玉川ICはなぜ中途半端なところにあるの?」
この間に「歴史の掘り起し」が進まれたようだ。
ちなみに、この両記事の間に、「第三京浜は首都高3号線と結ぶ計画があった」ということを言いだしたのは、私の知る限りでは、私のブログくらいしか無いと思う。清水草一氏が「読み取」ったという「建設当時の記録」とは何なのか?「私も是非読みたいので件名だけでもご開示いただけないかなー」と思う次第である。
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■当初は、第三京浜は自力で渋谷方面へ向かうはずだった。
昭和33年10月31日衆議院 - 建設委員会
○石塚説明員(首都圏整備委員会事務局計画第二部長) 東急が考えております、三軒茶屋から多摩川を通りまして江ノ島方面に参ります東急ターンパイクと称する有料道路がございます。これは、運輸省並びに建設省に申請は出ておるようでございますが、実はまだ認可にはなっておりません。この問題につきまして、首都圏道路網計画でどう考えていくべきかという問題がありしました。しかし、一方におきまして実はこれが国道網の整備計画と若干調整を要するという問題がございまして、私どもの方といたしましては、その調整さえつければ別に異存はないという考え方をとっておったわけでございます。これは、多々ますます弁ずという意味から異存がない。しかし、やはり交通道路網の一環として考えますと、できるだけこれは有効に、また効率的に考えて参らなければならぬと考えております。そこで、実は現在第三京浜と申します路線がございます。これは、横浜から三軒茶屋に抜ける路線でございますが、この第三京浜の整備という問題を私どもも幹線道路網計画で実はうたっておるわけでございます。ところが、戸塚線の道路公団で現在やっております有料道路、これが大体来年一応完成するわけでございまして、これを都内にさらにどう延ばすかという問題を現在道路公団でも検討中でございまして、第三京浜の交通量の調査を現在やっておるわけでございます。
ここには、第三京浜について「横浜から三軒茶屋に抜ける路線」「都内にさらにどう延ばすかという問題を現在道路公団でも検討中」と述べられている。
1960(昭和35)年8月18日付読売新聞には「公団としては、将来玉川野毛町から渋谷までも同様の自動車専用道路を作って結ぶ考え」とある。
「第三京浜道路調査報告書」3頁には
とある。
全体路線構想(渋谷~三軒茶屋~玉川~横浜)のうち「差し当り」玉川以西を事業化したということか。
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■東名高速は渋谷区起点だった時期がある。
下記に示すように、東海道幹線自動車国道として最初に路線が指定された際には、起点は東京都渋谷区とされている。
※余談だが、東名高速道路に路線番号12と13が割り当てられていることが分かる。現在では高速自動車国道に路線番号はない。
※中央道も杉並区起点ではなく、新宿区起点だ。
http://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/DGDetail_0000001953
そういう意味では、首都高3号線が第三京浜道路と接続していても東名高速道路は自力で都内(環状6号あたり?)まで入ることができるのだから特段の支障はなかったことになる。
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■環状6号線と環状8号線の間は、首都高速道路公団がやるのか日本道路公団がやるのかは明確ではなかった。
1958(昭和33)年の首都高速道路の当初基本計画では羽田線以外は、環状6号線内の路線網であった。
「伸びゆく首都高速道路」首都高速道路公団刊 21頁から引用
そこから延伸していくにあたって、東京都・首都高速道路公団と建設省・日本道路公団の間でいろいろ綱引きがあったようだ。
東名が決まってからだな。首都高速道路を延ばすか、東名をもっと中にもってくるという論争を建設省の尾之内由紀夫と僕の間で何回か往復したですね。その時ああいう道路を都心まで持ってこられちゃ迷惑だな。都市計画のことを考えないで持ってこられるから。それで都市内はこちらで引き受けると。
外郭環状線の計画をつくっているから、それから中はこちらが引き受けるということにした。だから、外郭環状線を造ることを条件として、都市内高速と都市間高速を接続すると言う約束をしたんだが、約束を守ってくれないんだから困るんだな。都心まで持ってくる分を曲げれば、同じ金でできちゃうんだ。各都市間高速をね。
「東京の都市計画に携わって : 元東京都首都整備局長・山田正男氏に聞く」 91頁から引用
このように、建設省と東京都の間で調整がされ、外環まで及び外環は日本道路公団が、外環の内側は首都高速道路公団がそれぞれ分担することに決まったようだ。
なお、前述の東名高速道路の起点が渋谷区から現在の世田谷区に変更されたのは、1966(昭和41)年7月30日の政令改正(建設省組織令の一部を改正する等の政令)による。
(余談だが、1961(昭和36)年3月23日付けの朝日新聞では、「東北自動車道へ第一歩 第1回調査まとまる」と題して東北道の路線計画を紹介しているが、その起点は「北区田端新町の都道環状5号線とする」としており、こちらは、東名高速、中央道の当初起点であった環状6号線よりも更に都心側に入り込んでいる。)
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水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(1)
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水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(2)
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水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(3)
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水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(4)
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水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(5)
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水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(6)
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水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(7)
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[ベイスターズ応援ほっこりブログ]のはずが、[未成モノレール・新交通システムブログ]になってしまっている今日この頃ですが皆さんどんなもんでしょうか?
狙っているわけでもないのに、ネタが向うから飛び込んでくる感じです。
で、土浦ニューウェイを調べていたらたまたまヒットしたのがこれ。「東京湾横断道路併用モノレール」
東京湾アクアラインの通行料金が高くて交通量が少ない時に「軌道系交通を作れ」みたいな声が結構あったものだが、日本モノレール協会が真面目に考えていたよ。
日本モノレール協会の会誌「モノレール」1983年3月号「東京湾横断道路と併用モノレール」渡部与四郎(筑波大学教授・東京湾横断道路併用モノレール検討委員会委員長)著76~77頁から引用
そもそもこの構想の発端はなにか?
1 はじめに
現在,東京湾横断道路計画があり,日本道路公団によって調査がなされております。第9次道路整備五箇年計画をふまえて,当該計画も相当急速に固まりつつあります。この調査の中で,この横断道路に自動車だけでなく高速軌道交通機関併設の必要性が検討されてきたわけです。その一つの考え方として,将来の開発に伴う総合的な交通事情から考えてみて,モノレールが最適ではないかと言われてきております。そういうことで,今回,日本モノレール協会が,東京湾横断道路にモノレールを併設する場合について計画を自主的に検討することになったわけであります。
(中略)
東京湾横断道路にモノレールを併用したらどうかというアイディアは,最近の省エネルギーの要請の中で,交通騒音等の障害も少なく,大衆的な交通機関であって短時間でアクセスできるという形のものが大東京圏のこれからのあるべき再編成に寄与するのではないかということから始まったわけです。検討にあたっては,基本となる横断道路計画の道路構造との関係から跨座型モノレールの採用を仮定しており,まず需要予測を推定し,建設費を算定し,収支を検討するといった検討過程を通っているわけです。
(後略)
「モノレール」1983年3月号「東京湾横断道路と併用モノレール」72頁から引用
ということで、建設省や日本道路公団(いずれも当時)が検討していたわけではなく、モノレール協会が自主的に検討していた青写真ということか。もっとも検討メンバーは「学識経験者および企業の専門技術者をあわせた14名の委員と6名の作業班で構成されて」いたということなのであながち荒唐無稽なものではないようだ。
3 東京湾横断道路併用モノレール計画の検討
●目的
これは先程も申上げましたように跨座型モノレールについて、併設の可能性を事業,建設収支面で明らかにすることによって都市モノレールの設置をなんとか実現し,もって,大東京圏の交通の便益に寄与しようというものであります。
● 基本的考え方と路線計画
東京湾横断道路の関連地域ではいろいろな将来計画が立てられております。たとえば,港北ニュータウンから上総ニュータウンまで,数多くあるわけです。そういうことを念頭において土地利用を想定し,それによって交通ルートを考え,最適路線を選定し,結果として利用者数,運転計画,収支計画の段階に行こうというわけです。
このモノレール計画路線は,大雑把に言えば,新横浜駅に始まって川崎駅前を通り東京湾に出,羽田新空港へのブランチを考えながら東京湾横断道路15kmに載り,木更津側に上陸するわけです。木更津側については,内房線が走っていますので,その交差する所に新駅を造ることになると思いますが,その先は非常にフレキシブルな(弾力性ある)話でありまして,上総研究学園都市の構想による町づくりも考えられておりますので,この辺は相当に変化すると考え,その中心部と目される所まで交通サービスしようということであります。もちろん,これでやめるわけではなく,やがてはもっと延伸する可能性を持っています。図2に示しましたように,新横浜駅と川崎駅間約9km川崎駅から東京湾横断までは約10.5km,羽田新空港ブランチ5km東京湾横断道路が約15km,木更津側に上陸してから約7km,合計46.5kmのルートを考えたわけです。主要駅は7駅,中間駅は23駅,駅間距離は平均1kmと考えています。
「モノレール」1983年3月号「東京湾横断道路と併用モノレール」75~78頁から引用
● 沿線の現況と将来
このモノレール路線の沿線は,前にも述べたとおり膨大な人口を擁する首都圏の一環にある横浜,川崎の地域,および将来が期待される房総半島の南部といったそれぞれに特徴をもった所であります。新横浜駅は現在は「こだま」だけ停まるわけですが,「ひかり」も停車させたいとの運動が起っており,駅周辺は将来は商業流通業務機能を持たせようと期待されている地域です。
それから川崎の駅西地区は,首都機能を分散配置させるべき核都市の候補地の一つとなっている所で,特に,技術的な研究開発,中枢業務機能を集中させ,わが国の代表的産業研究のインフォメーション・センター的な地域にするという構想がある所です。また,川崎臨海部は,流通業務機能を充実させたいとしております。
羽田沖には新空港の建設が予定されていますし,今の空港の跡地も開発して有効に使おうということです。
木更津の臨港部については,卸売物流業務機能を入れ,いわゆる核都市に準ずる形でこれを育成しようとしています。木更津の内陸部については,先程も触れましたように,上総研究学園都市の構想を県で立てておりますので,それを受けて技術,情報,文化機能を新たに入れると,実質人口10万人位は定着するであろうと想定しています。
「モノレール」1983年3月号「東京湾横断道路と併用モノレール」78頁から引用
「上総研究学園都市」は、現在でいうところの「かずさアカデミアパーク」のこと。なかなか想定通りの開発とはいっていないようだが、モノレールが来ていれば結果も違ったかも?(共倒れしている可能性もあるが。。。)
現在の「かずさアカデミアパーク」の位置はこちら。モノレールの計画路線と見比べてほしい。
● モノレールの利用者推計
(前略)
1日の利用者数は,昭和65年には21万8千人,75年には37万3,300人という数字になりました。全区間にわたるピーク時1時間最大交通量では,65年に1万700人,75年に1万7700人です。それでは横断道を渡る同様の交通量はどうかというと,65年には3,700人,75年には9,000人と予想されているわけです。
「モノレール」1983年3月号「東京湾横断道路と併用モノレール」78頁から引用
この想定が多いのか少ないのか判断する物差しを持たないので分からないのだが、「アクアライン高速バスの利用実態に関する研究」http://www.trpt.cst.nihon-u.ac.jp/PUBTRPLAN/member/graduate/outline/2009%20B4/D-1.pdf によると「アクアライン高速バス乗客数は、開業した平成9年度の約 35 万人から平成 20 年度の約 400 万人にまで乗客数が伸びている」ということなので、1日約1万人以上が横断道路を渡っているということであれば需要予測はそれなりにいいところにいっているということかもしれない。
● 施設計画,実施方式
路線延長は46.5km,最少曲線半径100~50m,最急勾配4.5%~6%,軌道桁はPCを使い,その断面は850×1,500×20,000という形を考えております。しちゅはT型RC支柱で,橋梁部は箱桁でガードを張ります(図3~4参照)。車輌は,大型2軸ボギー跨座型殿堂車両6編成を考えています。信号保安設備は,複線自動固定閉塞方式とし,その他変電設備,車輌基地を設けるということになるわけです。
運転計画は,表定速度は30~60km/h,ピーク時運転間隔は8~10分,乗車効率は155~177%,総車輌数114~168両位と考えております。
(後略)
「モノレール」1983年3月号「東京湾横断道路と併用モノレール」78頁から引用
この後、事業費の説明等があるが個人的にあまり関心がないので省略させていただくが、この段階での試算では、最大に見積もっても単年度黒字転換は7年,累積で10年ということで、一般的なモノレールの場合はそれぞれ7年,15年が相場なので「おおよそ合格」ということだったようだ。
(追記)
東京湾を横断する道路・鉄道の過去の計画については、下記も参照されたし。
産業計画会議第7次勧告「東京湾2億坪の埋め立てについての勧告」 いわゆる「ネオ・トウキョウプラン」
http://criepi.denken.or.jp/intro/matsunaga/recom/recom_07.pdf
産業計画会議第12次勧告「東京湾の横断堤を~高潮と交通の解決策として~」
http://criepi.denken.or.jp/intro/matsunaga/recom/recom_12.pdf
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土浦ニューウェイ(筑波研究学園都市新交通システム)について(その2)
とそれぞれ「道路セミナー」及び「橋梁」に書かれた新交通システムの記事を紹介してきた。
本稿では、日本モノレール協会の会誌「モノレール」1979年6月号掲載の「筑波研究学園都市の交通計画 」黒川洸(当時:筑波大学助教授)著からご案内したい。
3 筑波研究学園都市の交通計画
3-1 基本計画
図4に示した都市計画道路主要8路線を中心とした交通計画は,昭和40年に日本住宅公団が日本都市計画学会に委託した「研究・学園都市開発基本計画」をベースにしたものである。しかし,井上孝(横浜国立大学教授)が述べているように,都市計画的に見ると基本的に南北18km,東西2kmの区域に,研究機関,住宅,都市施設が散在している現在の筑波研究学園都市の計画は必ずしも適当なものではない。交通計画的に見ても,区域内動線が何億に走り,その中央より,区域外の土浦へ向けての内外交通動線がT形に走るパターンは,その処理が非常に難しいパターンである。したがって,もし計画区域が細長くなるとしても,内外動線と同方向の場合(例えば,筑波学園都市の場合,東西に細長くした場合)の方が処理がまだ効率的に出来るはずである。このため,上記の日本都市計画学会の調査時点では,現在のような新交通システムのような公共交通機関は考えられておらず,むしろ東京との連絡用に通勤新幹線的鉄道が考えられており,位置的には,土浦学園線の北側の都市計画道路中央通りに駅を設置し,南北の区域内動線との連絡を図っていた。しかし,その後の経過により,この鉄道は実施計画に入らず,現在のパターンとなっているわけである。また鉄道駅用地分は,中央通り沿いに現在も公団用地として確保されている。
このような状態であったため,基本計画では,区域内の交通は,主に自動車とバスで対処することとなっていた。しかし,この考え方がすべての施設計画に反映されているとは言い難い。
「モノレール」1979年6月号「筑波研究学園都市の交通計画 」46~47頁から引用
「通勤新幹線」キタ━━━ヽ(∀゚ )人(゚∀゚)人( ゚∀)ノ━━━!!
「交通技術」1968年1月号「東京周辺の改良工事施工上の諸問題」菅原操著35頁から引用
そもそも、「通勤新幹線」とはなんぞやということになるのだが
第二の柱である東京周辺の都市交通対策の構想では、東京を中心に放射状の通勤新幹線5本(このうち1本は東北新幹線の宇都宮付近までの線で兼用)を建設する。最高時速は160キロ、駅間距離は30キロ以上、車両は現在の新幹線より1両あたり50人多い6人掛け25列、150人乗りで、原則として全員が座れるようにする。1線1時間あたりの輸送量は3万6000人で、100キロ以内の首都圏に住む人は50分足らずで都心に出られることになる。
路線は、東京から千葉県の新東京国際空港付近(50キロ)に至るもの、東京から茨城県の中央部(100キロ)、東京から群馬県の南部(100キロ)、東京から神奈川県の湘南地区(70キロ)に至るものと、前記東北新幹線兼用の5つ。
「R」1966年11月号「10年後の国鉄 -鉄道網整備の基本構想-」21頁から引用
ということはアレですかね
・筑波学研都市への公共交通機関は、まずは「通勤新幹線」を想定していた。
・通勤新幹線がぽしゃったので「新交通システム」で常磐線と結ぼうとした。
・新交通システムもぽしゃったので「常磐新線(つくばエクスプレス:TX)」で都心と直結した。(駅は通勤新幹線用にとっておいた用地を活用した。)
てなことになるのでしょうか?思いがけないものが釣れてしまったようだ。
黒川洸先生の報文に戻ろう。
3-2 学園都市の新交通システム導入計画
3-1で述べたように,基本計画時点では新交通システムのような公共輸送機関は考慮されていなかった」。しかし,その後,昭和45年の大阪万国博覧会等を契機として,わが国では新交通システムの開発が脚光を浴び,その都市への導入問題が本格化してきた。さらに「モノレール等の整備に関する法律」やインフラ補助方式等により導入の促進がされてきた。また筑波研究学園都市も独自の交通問題として,バスのみによる公共交通機関のサービスが問題となってきた。特に,学園都市へのバス交通の土浦市内,土浦駅前広場での処理問題,バス経営上の問題,国際的な計画的研究学園都市としての交通サービス水準確保の問題となり,新交通システムの導入が昭和49年頃より当該都市でも本格的に検討されてきた。代表的な調査報告書としては,以下の調査が挙げられる。
①「研究学園都市光津施設整備計画に関する研究調査」運輸経済研究センター,昭和49年
②「茨城県南広域都市交通システム調査報告書」日本都市計画学会,昭和52年3月
③「筑波研究学園都市新交通システムの需要予測等調査報告書」茨城県,昭和52年
以上の調査のうち,後者2つを対比させながら筑波研究学園都市の新交通システムの計画について以下述べて行く。(後略)
(イ) 人口想定(略)
(ロ) 交通需要想定(略)
(ハ) 新交通システムのルート
②の調査では,将来構想として図10のようなネットワークを提案しており,段階建設比較案として,図11に示すようなI型とT型ルートを提案している。また③の調査では図12に示すような,②の調査のT型ルートと同じルートを検討対象としている。①のT型ルートの全線は路線長が24.0kmであり,段階施工は15.0kmである。また③の調査では路線長が15.0kmで,②の段階施工とほぼ同じである。このため両者をベースに以下の比較検討を進める。
「モノレール」1979年6月号「筑波研究学園都市の交通計画 」47~53頁から引用
今まで紹介したものには出てこなかった荒川沖駅への詳細なルートが出て来た。
段階建設のT型は土浦駅と結ぶもの、I型は荒川沖駅と結ぶもののようだ。
で、ご案内のように、実際にはこの構想は実現しなかったわけだが、科学万博にあわせて「土浦ニューウェイ」が建設されている。その辺を比較してみる。
土浦駅の東口へ入るルートは図10と同じような感じ
図10の「川口町」あたり
図10の「保健所前」あたり
図10の「虫掛」あたり。上記3個所と異なり、現在のバス停とは若干位置が異なるようだ。
現在の土浦ニューウェイは、おおむね新交通システムの計画と同じものと言えそうだ。しかし後述のようにこの区間は、新交通システムとしては事業化されていない(=予算がついていない)ため、「新交通システムの施設を転用した」というのは言い過ぎである。せいぜい「新交通システムの計画を参考に(or空けてあった導入空間を活用して)新たに高架道路を作った」というところであろう。
なお、黒川先生の報文中「大阪万国博覧会等を契機として,わが国では新交通システムの開発が脚光を浴び,その都市への導入問題が本格化してきた。」とあるが、私が先日このブログで紹介した東京都のモノレール構想も、万博のモノレールを参考にしており、いろいろな事業のトリガーとなっているのだなあと感じた。
(二) 経営収支
(前略)以上の結果により,両調査とも,筑波学園都市の新交通システムは,経営上若干の問題はないとも言えないが,その必要性については認め,導入に向けての新たな展開を計ることを述べている。
これらの調査結果を受けて,上記T型ルートをベースにし,このうちの交通需要の比較的多い筑波大学の北側より花室地区を通り土浦駅に至るL型の14.6kmについて昭和53年度予算要求が行われ,結果的には,筑波大学附属病院より花室バスセンターに至る1.5kmの区間が事業採択された。現在は,この事業化に向けて関係機関が鋭意努力中である。
4 今後の課題
筑波研究学園都市建設は,あと1~2年でその概成期を迎えようとしている。現在そこで提供されている各種都市的サービス,交通サービスは,東京より移転してきた者にとって決して満足できるものではなく,「陸の孤島」という意見すら聞かれるものである。今後数年間における新交通システムを含む都市施設整備によってこれらに対する感覚はかなり解消されるとは予想されるが,筑波研究学園都市建設は,わが国で手掛けたユニークな,また国際的な研究学園都市であり,1兆円にも及ぶ国家プロジェクトであることを考えると,現計画は,施設整備計画が中心であり,あたかも「物理的な仏像を造り,その仏像の完成が間近にせまった状態である」という感がしてならない。本来の仏像づくりは,今後これにどのような魂を入れるかによるのではないだろうか。その意味では新交通システムの導入は,経営収支上の問題を,その障害となると考えるよりも,むしろ,筑波研究学園都市建設を実験的都市建設と考え,そこへの新交通システムの導入が,今後のわが国の都市交通問題を考える際の新交通システムの位置付けを見極める実験であるとすべきである。(以下略)
「モノレール」1979年6月号「筑波研究学園都市の交通計画 」53~54頁から引用
要するに「経営上問題あるかもしれないけど、国家プロジェクトなんだし、東京から引っ越してきた俺らも不便しているし、多少の赤字は実験代と思って大きく構えようぜ」てなことか?
実際には「計画どおりの人口及び乗客数が見込めない,経営収支上も難があるといたしまして,昭和57年に事業休止となり,今日に至っております。(茨城県議会平成14年第3回定例会(第5号)足立寛作議員の発言)」となってしまったわけだが。
なお、この黒川先生の報文では一切科学万博については触れられていない。よって、科学万博輸送のために新交通システムを計画したということについては消極的に考えるものである。
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下記の記事を参考にさせていただきました。ありがとうございました。
・鉄道ジャーナル 2015年6月号「幻の鉄路をたどる(7)磁気観測圏に残る三者三様の未成線 加波山鉄道/土浦ニューウェイ/常南電気鉄道」草町義和著
・【幻の新交通システム(2)】土浦高架道は万博の置き土産!http://sciencecity.tsukuba.ch/e240811.html
・土浦高架橋http://satoshi.quu.cc/moku/nippn.files/hashi6/tuchiuracouka.htm
・「土浦ニューウェイ」に都市内交通のヒントを見た!?http://ken-show.net/gallery/report/046.html
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土浦ニューウェイ(筑波研究学園都市新交通システム)について(その2)
土浦ニューウェイ(筑波研究学園都市新交通システム)について(その3)
土浦ニューウェイ(筑波研究学園都市新交通システム)について(その4)
土浦ニューウェイ(筑波研究学園都市新交通システム)について(その5)
土浦ニューウェイ(筑波研究学園都市新交通システム)について(その6)
土浦ニューウェイ(筑波研究学園都市新交通システム)について(その7)
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革洋同さんに取り上げられるとマジで緊張する(汗)。でも「支援」ありがとうございます。『道路』『橋梁』『プレストレスト・コンクリート』あたりは確認したんだけど『道路セミナー』は漏れてました(汗)。 http://t.co/7JTetQW2B5
— 草町義和 (@kusa_yoshi) 2015, 4月 28
前回、土浦ニューウェイについて記事を書いたら、草町氏からこんなツイートをいただいてしまった。単なる「横浜ベイスターズ応援ほっこりブログ」なのに、何故プロの鉄道ライターさんがそんなに緊張することに。。。
ところで、前回は上記草町氏のツイートのとおり「道路セミナー」から筑波学園研究都市に係る新交通システムについての記事を御紹介したわけだが、その後追加で調べてみた。今回はまずは「橋梁」1978年8月号に掲載された「筑波研究学園都市における新交通システム」大川勝克氏(当時:建設省都市局街路課長補佐)著から前回記事の補足となる部分を紹介してみようと思う。
3 新交通システム導入の必要性(抄)
(4) 新交通システム導入の必要性
以上の道路網整備の動向,交通需要の推計と道路交通の予測等からすると,研究学園都市内及び土浦市内及び土浦市内において、既存の道路網を使った自動車交通及びバス交通のみで、将来の交通需要に対応することは無理であると考えられる。特に土浦市中心部においては,土浦駅を中心として,バス交通の混雑,自動車交通の渋滞,駐車場不足等の問題が予測され,何らかの抜本的な対策が必要である。このような観点から,一般道路から独立した走行面を持ち,バス交通の容量を相当に上回る新交通システムの導入が検討され,その一部が事業化されたのである。なお都市規模及びそれに伴う交通発生量から言ってモノレールや地下鉄等の大量輸送機関は必要とされていない。
「橋梁」1978年8月号「筑波研究学園都市における新交通システム」13頁から引用
「特に土浦市中心部においては,土浦駅を中心として,バス交通の混雑,自動車交通の渋滞,駐車場不足等の問題が予測され,何らかの抜本的な対策が必要である。このような観点から,一般道路から独立した走行面を持ち,バス交通の容量を相当に上回る新交通システムの導入が検討され,その一部が事業化されたのである。」のあたりが、新交通システムが事業廃止された後もニューウェイが建設された所以かもしれませんな。根拠はない私的な推測にすぎないけど。
4 新交通システムの計画の概要(抄)
(1) 新交通システムの路線計画
研究学園都市の土地利用計画は,南北軸に細長く伸びており,商業業務施設を中心として,南北に教育,研究機関,住宅地が配置されている。このため研学都市と周辺市町村の需要量を見ると図-4(引用者略)において,常磐線沿線都市との交通需要が多いことがわかる。研学都市に近接する国鉄駅は,土浦,荒川沖,牛久駅があるが,このうち土浦と荒川沖の両駅は,研学都市の中心部から直線距離で7~8kmの位置にあり,このいずれかの駅に公共輸送機関を整備する必要がある。
以上の二つの需要を満足する比較案として図-5の如き3案が考えられた。この比較案について,利用者への利便性,地域住民への環境上の配慮,運営者の問題,建設性,等の観点から検討行い(ママ),当面の整備対象路線としては,研学都市を南北に縦断する路線と花室地区から土浦駅を結ぶ路線から成るT字型路線が考えられた。総延長はである。(ママ)
昭和53年度の予算要求にあたっては,このうち交通需要の比較的多いと見込まれる筑波大学の北側より土浦駅までのL字型(延長14.6km)部分について予算要求を行った(図-6)。結果としてはこの路線のうち緊急に整備を必要とする大学病院からバスセンターまでの1.5km区間について昭和53年度より事業採択することとなった。
「橋梁」1978年8月号「筑波研究学園都市における新交通システム」13~14頁から引用
図-5 比較案
図-6 昭和53年度予算要求
(2) 新交通システムの交通需要の推計 (略)
(3) 新交通システムの経営収支の予測 (略)
(4) 新交通システムの事業化区間の諸問題
新交通システムが事業化された第1期の1.5kmの区間は,北は筑波大学の附属病院から南はセンター地区のバスセンターまでという事であり,新交通の建設されるルートは,研究学園都市を南北にほぼその中央を通る学園中通り線(仮称)である。その沿道にある主な施設としては,松見公園,図書館,短期大学,商業ビル等がある。またこの地区は研学都市のセンター地区と呼ばれ,周辺地区も含めて将来地区の核として整備される地区である。
当区間の計画,設計については,茨城県が中心となり,建設省,住宅公団がこれに協力して現在検討を進めている。従って詳細な内容の紹介は後日に譲ることとして本稿では,検討すべき主な事項の紹介にとどめておく。
①新交通システムとして採用する機種については,未だ確定していないが,新交通システムを利用する交通需要が,67,000人/日程度という公共輸送機関としては比較的少ない量であること,研学都市の熟成に応じ段階的建設に適すること,研学都市というNew Cityのイメージに合う技術的に斬新なものであること等の理由から,従来の列車タイプのものでなく,単車でかつ一般道路にもサービスできるデュアルモード型のものを想定して路線計画等の検討を進めている。いずれにしても早期に機種を決定する事が,事業推進上望ましい。
②新交通システムの通るルートは先に述べたとおりであるが,新交通システムとこれが建設される下の道路との関係については詳細な検討が必要であり,かつ早期に決定しなければならない。またインフラ部の構造は,安定性,経済性,管理問題,デモンストレーション効果等の観点から高架が望ましいと考えられる。(以下略)
③経営主体については,他の新交通システム,都市モノレールを実施する県,市の場合と同様,公共主導型の第3セクターの設立によることになる。この場合地元町村の規模が小さい事からこれへの参画は困難であり,公共団体は県が中心とならざるを得ない。一方,研究学園都市は,国が企画したナショナルプロジェクトとも言えるものであるから,これの経営について,何等かの援助が望まれる。
「橋梁」1978年8月号「筑波研究学園都市における新交通システム」14~15頁から引用
先に紹介した「道路セミナー」の記事同様、デュアル・モード・バスを想定したようだ。また、地元自治体がつくば市発足前の町村レベルだったので、第3セクターとしては財政基盤が脆弱であることが指摘されている。
6.あとがき
(略)
本稿の執筆中に,研学都市において昭和59年に,万国博,海洋博に続くわが国第3番目の国際博覧会とし「科学博覧会」を開催する方針を決めた事を報ずる新聞記事を見たが,もしこれが実現するとすれば,その開催時期までには全体計画である土浦駅までの新交通システムを完成しておく必要があろう。従って,当面の1.5kmに続き是非とも早期に全体路線の事業化を図りたいと考えている。
(略)
「橋梁」1978年8月号「筑波研究学園都市における新交通システム」16頁から引用
道路セミナーの記事と異なり、科学万博に触れている。中央官庁のキャリア官僚が「新聞記事を見たが」などととぼけたことを書いているが、当然事前に協議を受けているはずだと思うのだがw。いずれにせよ科学万博までに土浦駅と筑波研究学園都市を新交通システムで結ぶ必要があるという見解を非公式に示したものであることは興味深い。
更に記事を見つけたので(その3)で紹介したい。
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土浦ニューウェイ(筑波研究学園都市新交通システム)について(その2)
土浦ニューウェイ(筑波研究学園都市新交通システム)について(その3)
土浦ニューウェイ(筑波研究学園都市新交通システム)について(その4)
土浦ニューウェイ(筑波研究学園都市新交通システム)について(その5)
土浦ニューウェイ(筑波研究学園都市新交通システム)について(その6)
土浦ニューウェイ(筑波研究学園都市新交通システム)について(その7)
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