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2016年5月に作成された記事

2016年5月14日 (土)

「国鉄バスに羽島を譲った?」岐阜羽島駅の駅名決定の理由とは?「角本良平オーラル・ヒストリー」を読む(その3)

角本 (前略)ついでに今言っておきますが、岐阜羽島という駅名を決めたことについては、中畑三郎さん(※引用者注:新幹線総局 総務局長)の功績。ということは、局長会議か理事会議か私は憶えがありませんが、この問題を議論すると き、岐阜県内に1駅つくるかどうかを決定しないまま相談に出していると思います。やはり岐阜県内に1駅つくらなければ運転上困る。しかも、滋賀県の側は米原のほうから来る。したがって、関ケ原の難所を通る、という前提で議論しまして、そのときに1駅をつくる。「その場所は羽島だ」と。ところが、 羽島という場所は岡山県の国鉄自動車線に羽島とい う駅名があります。これもそのままにして羽島にするかどうかということが話題になったときに、中畑三郎が「岐阜羽島にしてはどうですか」と突然言っ た。それで岐阜羽島の駅名が瞬時にして決まった。

二階堂 なるほど、わかりました

鈴木 新岐阜というのも、名鉄にありますからね。

角本 そこらのところです。それから、岐阜羽島 という名前にすることによって、岐阜県に1駅つく るという顔が立った。羽島を識別するためじゃなくて、岐阜県を象徴するための駅名にしたということ で、大野伴睦の顔が立った。

 

角本良平オーラル・ヒストリー」229頁から引用

東海道新幹線 岐阜羽島駅 命名の経緯

 新幹線の岐阜羽島駅は、岡山県の国鉄バスに羽島というバス停があったため、「岐阜」をつけたと。また既に名古屋鉄道に新岐阜駅があったため、「新横浜」のようにはならなかったということか。

 1933年3月25日付けの官報によると確かに岡山県に羽島という停車場がある

新幹線岐阜羽島駅に勝った国鉄羽島バス停

 

 ちなみに、名神高速道路のインターチェンジ名称も「岐阜羽島IC」だ。しかし、こちらは、先行して羽島PAがあった(岐阜羽島ICは、名神が全線開通した後に追加された)ためか?(高速道路のバスストップは「名神羽島」)

 名鉄電車は「新羽島」なので、羽島市へのアクセス施設の名前でズバリ「羽島」は無いことになるのか。(※誤りをご指摘いただいたので削除します。)

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新幹線予算超過の経緯はどのようなものだったのか?~「角本良平オーラル・ヒストリー」を読む(その2)

 貨物新幹線の経緯はどのようなものだったのか?~「角本良平オーラル・ヒストリー」を読む(その1)で触れたのだが、元国鉄技術者の長・信州大元教授のウェブサイトから再度引用したい。

 東海道新幹線の計画から開業後の暫くまで、国鉄の責任者・関係者は貨物輸送を真剣に考えていたことは、次のような幾つかの事実から間違いない

(中略)

*貨物列車を引き込むための本線を跨ぐ施設が造られていた。しかも大阪鳥飼の車両基地への貨物引き込み用の構造物は世銀からの借款の調印の昭和36年5月2日から一年後に着工している。もし世銀から融資を受けるためであるならば、予算膨張に悩んでいたので、前項の用地買収を含めてこんなに見え見えの無駄なことはしなかったはずである。

(中略)

 

高橋団吉著「新幹線を走らせた男 国鉄総裁十河信二物語」について 長 尚のホームページ

 総裁の首が飛ぶほど予算が足りないにもかかわらず、「世銀への見せかけ」にすぎない(?)貨物輸送への投資(単に貨物駅の用地買収だけでなく、橋脚全体が貨物の荷重に耐えられる規格なのである。)ができるというこの矛盾。一体、新幹線の予算はどうなっていたのか?

 予算の積み上げの実態から不足に伴う予算改訂の状況についても角本氏は語っている。

二階堂 角本さんが担当されていた営業の資料というのは、この時期に新たにつくられたのか、それとも過去のものを踏襲したんでしようか。

角本 これは、過去のものをそのまま使わなきゃいけなかった。ということは、非常におかしい話ですけ ど、国内は建設開始以前の資料で理解しているわけです。そうすると、1900億円でできると了解している。 実際は、そのときもうインフレがかなり進んでいる。 しかし、過去の数字を変えると国内の信用を失う。それから、国外に対しても過去の数字を変えるわけにいかない。そのために、非常に苦しい説明を島さんと大石さんがしていたと思います。我々は、言われる数字をそのまま説明するということです。

二階堂 世銀に対しては、「こういう計画でやって、 お金がいくらかかって、いくらぐらいあなたのところから借りたい」というような建前にすると思うん ですが、それというのは、今までの計画の数字のなかから算出したわけですね。

角本 1900億あまりでできると言い切っていたわけです。

二階堂 この時点で新たに経理の方と打合せされたりとか、そういうことではなかったわけですね。

角本 この段階では全くありません。ということは、大変おかしい、詐欺行為ですよね。

 

角本良平オーラル・ヒストリー」224頁~225頁から引用

 

 たしかに昭和37年ごろまでは、世銀融資を受けている関係もあり、国際信用上、大幅な予算オーバーを公言しにくいという事情もあった。しかしこのころになると、新幹線建設が膨大な予算不足を抱えていることは、国鉄全体、政府・国会関係者の誰もが知る既成事実であった。

 だから、38年2月、国会の予算審議の場で、経理局経由の最終報告を受けて、十河はこう啖呵を切った。

「全部で2926億円で完成できる。これ以上は要求しない」

 ところが、この39年度予算が成立して間もない4月末日に、「計算し直してみたら、さらに874億円足りない」という情報が新聞にリークされ、国鉄周辺が騒然となる。事実、さらなる工事費不足874億円という報告が十河にも届いた。この十河引責の実弾を届けたのは、新幹線総局長の大石重成であった。

 

新幹線をつくった男 島秀雄物語」髙橋団吉・著 233頁から引用

 この「島秀雄物語」だと、「世銀融資の額に引っ張られて、予算不足がなかなか公言できなかった」という趣旨の書き方だが、角本氏の話によると、既に世銀融資の段階で「もうインフレがかなり進んで」おり、予算オーバーすることは必定で、「1900億でできる」と世銀に説明したこと自体が「詐欺行為」だったと。

 また、予算修正の「計算し直したら再度不足」というのも、そもそも十河信二、島秀雄、大石重成、兼松學の三味線だったのではないかというのである。

 大石氏が「十河引責の実弾を届けた」もなにも、「4人で「小出しで行こう」 と判断したということ」と角本氏は語る。

二階堂 建設の予算の話に移りたいと思うんですが、1962年から63年に工事が本格化して、「当初の1900億では足りないな」ということが、内々にはおそらく気がつかれていたのではないかと思うんです。

角本 内々もない(笑)。みんながわかっていた。 だって、1957年価格で計算したものが、5年たって通用するなんてだれも思わないでしょう。ただし、世界銀行の手前があるという妙なことから、だれもそれを修正しようとはしなかった。それだけのこと です。

二階堂 なるほど。それで、来るところまで来て、まず1962年度の年度末に、まず2900億円に増やすと。 それから、数カ月後にまた1000億円ぐらい増えているんです。これ、「何で一気に3800億にしなかっ たのかな」と思うんですが、どうなんでしようか。

角本 それは、私にもわかりません。ということは、十河信二と島秀雄と大石重成、この3人でしょう。 それで横に兼松さんがいた。これで4人ですか。そういうことでしょう。

二階堂 彼らが何らかの判断を・・・・・・。

角本 何らかの判断をしたと。「小出しで行こう」 と判断したということでしょう。「小出しに行って、 最初乗り切れなかったら、次にもう一つ加える」と、そう彼らは判断していたんだと思います。

二階堂 やはり予算を1000億円ずつ増やすというのは、それなりに大変な作業を伴うものなんでしょうか。

角本 作業としては大したことない。「政治的に説明するのが骨が折れるかどうか」ということで判断したと思います。

二階堂 国会で予算を通すとか、それはかなり面倒なことは面倒なわけですよね。

角本 大蔵省の担当官の能力じやないんでしょう か。おそらく大蔵省が積極的な人で、理解力があれば一気にやれたはずです。 1900億で足りるわけがないどころか、5年前の単価で決めていることを、当時の物価上昇を考えたら 足りるわけないですよ。だから、だれが考えても足りるわけがない計算を、表向きもっともらしくやっ ていると。大変不思議なんですよ。

二階堂 遠藤さんがなさった最初の計算は、調査会に短期間のうちに出さなければいけなかった。それは、その当時できることとしてはかなり最大限のところまでやって、ある意味、それはそれで正確だったと、こういうようなお話を前回同いました。

角本 非常に正確です。ということは、最初は57年価格でしよう。当時の人件費と物価の上昇を考えてそれを掛ければ、最後は当然倍になるわけですよ。実際3800億ですから、ちょうど倍になっていますでしよう。逆に言いますと、57年の遠藤鐵二・大石重成の計算は非常に正しかった。恐るべ く正しかった

二階堂 物価の上昇なり、人件費の上昇以外にも、 土地が高くなったりとかもあったようですし、線路を高架にしたり、そういう要求が続出して、その分予想外の事態、不可抗力もあったと角本さんの著書に書かれているわけですね。

角本 それは、当然、加えなければいけません。 不可抗力でしよう。それから、私が東京駅に入れたということもあります。それは大きいと思います。

二階堂 そういうものは、当初から予想はできないわけですね。

角本 大計画を立てますとき、それをやるとできないと思います。だから、大計画というのは思い切って線を引く。黒板に白墨で大きな線を引く、そういうものだと思います。

二階堂  その線を、当初は2000億というところで 切ったわけですね。

角本 そう。それから、当初は「これ以内でやる」 ということにしておかないと、これはまた無限な要求が始まる。地元から次々物を言われたら、収拾がつかなくなると思います。

二階堂 「足りないんじゃないか」ということで、62年ころから建設のほうでも予算を色々節約しようという動きがあったと聞いています。

角本 それは、随分節約してくれたと思いますし、 逆に言うと頭を決めておいたことが節約効果になった。その意味では、大石重成というのは非常に偉い人だったと思います。大ざっぱに言いますが、彼ははじめ、1957年価格で3800億円と出たのを、半分に切ったんです。当時の土木の計算から言うと、「積み上げ計算を半分に切って、大体工事ができる」と いうのが常識だったと思います。積み上げ計算をする担当者は、それぞれ膨らませて持ってきます。査定するほうは半分に切る。それで大体できる。もちろん物価上昇は別ですよ。これが彼らの常識であって、もしも賃金と物価の上昇がなければ、1900億円でできていたはずなんです。 ところが、どうしたわけか、国鉄当局は十河さんを援護しなかった。大石重成を援護しなかった。島さんも援護しなかった。ですから、私が申し上げたような説明を私自身がすればよかったんだけど、それは越権行為になりますから、私もできなかった。 非常に残念なことです。

二階堂 このとき、建設費がどんどん増えて問題になって、1963年の5月に十河さん、島さん、大石さんが辞任されますよね。そのときの報告書、正式な名前は『東海道新幹線工事費不足問題特別監查報告書」というものが出ています。

角本 その責任者はだれだったですか。

二階堂  事務局は監察局になっているわけです。それをちょっと読んで私が驚いたのは、大石さんへの個人攻撃がかなり露骨に書いてあるんです。

角本 そうなんです。ですから、そのときの監査を目のある人がやっていたら、「上がったほうが正しかった、査定したほうも正しかった」となるはずです。物価の上昇というのは責任の外でしょう。ですから、「地価と物価の上昇を除けば、当初の査定が正しかったと」いう答えを出すべきだったんです。 それをなぜ出さなかったか。査定したほうに意地悪があったか、能力不足があったか、どちらかでしょう

二階堂 そこまで激しく大石さんの独断専行ぶりを批判する理由は、新幹線総局という体制に問題があって、彼が理事として全権を持っていたことが諸悪の根源だと、このような論法になっているわけです。

角本 諸悪ではないんです。当たり前に査定して、当たり前に物価並みに工事費が上がっただけなんで す。ですから、何も諸悪はなかった。そう言うべきだった。あの監査報告書は、 大石さんを目のかたきにした。あるいは「十河憎し」 という人たちがいた。そして、この監査報告書を認め たのが石田禮助であるかどうかなんです。

二階堂  この調査をはじめるときの監査委員長は石田さんのはずですよね。

角本 でしょう。そうすると、石田禮助というのはいかに悪者か、ということです。後世、石田禮助を褒める本ばかりが出ている。大変おかしいと思いますよ。

二階堂 このあと、吾孫子豊さんに代わって、副総裁には磯崎さんがなっているわけですが・・・・・・。

角本 磯崎さんは、「アンチ十河」の代表です。 計画決定前、自分は東海道新幹線に反対しているわけでしょう。それで、東海道新幹線という国鉄の功績が自分の枠外で出てしまっている。それに対する恨みというのは最後まであった。それで自分は、今度は山陽新幹線をつくるわけでしょう。それで大赤字の原因をつくっているということ。

二階堂 磯崎さんが新幹線にあまりいい思いをされていないというのは、角本さんは具体的にどういうところで感じられたんですか。

角本 どういうところというよりも、磯崎さんが 新幹線に反対であって、あるいは磯崎さん個人より も、当時の営業局が反対であったということは、57年の段階からはっきりしていたわけです。だから、 遠藤鐵二は非常に微妙な立場だったと思います。遠藤と磯崎は2年違いで仲が良かったということです けど、仕事上は意見が対立したという格好になっているわけです。

二階堂 このとき、瀧山さんも理事におられるわけです。

角本 これは一言で言うと、「どうにもならない人だった」ということです。

二階堂 瀧山さんは、新幹線計画についてどう思っていたんでしようか。

角本 絶対反対。瀧山さんがなぜ在来線増強にこだわったかというと、瀧山さんは審議室にいて1957年からたしか審議室長になったでしよう。それで在来線増強計画を立てていた。そこへ降って湧いたように新幹線がかぶさってきた。そのとき、磯崎さんと瀧山さんは転進できないんですよ。これは石頭と言うしかしょうがない。国鉄で石頭でない人は、菅さんだけ。ほかは皆、石頭 (笑)。

二階堂 では、瀧山さんは、十河さんに対してもある意味・・・・・・。

角本  絶対反対。だから、瀧山・磯崎は「アンチ十河」の2人ですよ。

 

「角本良平オーラル・ヒストリー」240頁~242頁から引用

 ここで冒頭の元国鉄技術者の長・信州大元教授の問いかけを振り返りたい。

 「貨物が見せかけならば、ただでさえ資金不足なのに貨物駅に投資するわけないだろう」という長氏の問いかけに対して「予算不足は最初からわかっていたことで、予算改定も小出しにして行けると思っていたからこそ貨物への投資もできたということなのではないだろうか?

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貨物新幹線の経緯はどのようなものだったのか?~「角本良平オーラル・ヒストリー」を読む(その1)

 「貨物新幹線は世界銀行向けの見せかけのものだ」という論がある。

第13話=世銀借款

 

 この貨物問題に関しては、当初から国鉄側も頭を悩ませていた。技師長・島の頭には、のっけから貨物新幹線構想の「貨」の字もない。速度の違う旅客と貨物が同じ路線に混在するからこそ、東海道の輸送力がますます逼迫するのだ。(略)ハイウェイのように速度によって棲み分けさせることが新幹線の大前提である。しかし、国鉄内部にも根強い貨物新幹線論者が存在したし、なにより当時のアメリカでは、旅客輸送は「5%ビジネス」であった。鉄道輸送の95%は貨物であり、旅客はもっぱら自動車と航空機に移っていたのである。

 そこで、世銀への説明資料には、貨物新幹線の青写真も挟み込むことになった。将来は貨物新幹線も走らせたい・・・・・・という世銀向けの苦しいポーズである。当時のパンフレットや世銀向けの説明資料をみると、貨物新幹線のポンチ絵、つまり簡単な設計図が入っている。

 

新幹線をつくった男 島秀雄物語」髙橋団吉・著 小学館 193~194頁から引用

 他方、ご自身が国鉄の技術者として新幹線建設に従事した長・元信州大教授はこう述べる。

 東海道新幹線の計画から開業後の暫くまで、国鉄の責任者・関係者は貨物輸送を真剣に考えていたことは、次のような幾つかの事実から間違いない

*東海道新幹線の建設基準にある活荷重(列車荷重)は、N標準活荷重(貨物列車荷重)とP標準活荷重(旅客列車荷重)とからなっていて、平成14(2002)年に改正されるまで、この基準は生きていた。

*貨物駅のための用地買収が各地でなされていた。

*貨物列車を引き込むための本線を跨ぐ施設が造られていた。しかも大阪鳥飼の車両基地への貨物引き込み用の構造物は世銀からの借款の調印の昭和36年5月2日から一年後に着工している。もし世銀から融資を受けるためであるならば、予算膨張に悩んでいたので、前項の用地買収を含めてこんなに見え見えの無駄なことはしなかったはずである。

*東海道新幹線開業後の昭和40年3月15日の国会の法務委員会で、国鉄常務理事が「国鉄といたしましては、新幹線を利用いたしまして高速の貨物輸送を行なうということが、国鉄の営業上どうしても必要なことでございまして、またその需要につきましても十分の採算を持っておりますので、なるべく早く新幹線による貨物輸送を行ないたい、こういうふうに考えて計画を進めております」と答弁している。

 確かに、当時の技師長の島秀雄氏は開業後に「世界銀行に対しても一応本心は伏せて、新線でも貨物輸送をしないわけではないという態度でのぞむことにした」と語っているので、作者の高橋氏もそれに基づいて書いたのであろう。個人的に島氏がそのように考えていたかもしれないが、事実は上記したように、国鉄として旅客だけとする意思統一はまったくされていない 。そればかりか、開業後も暫くは貨物輸送を真剣に考えていたことは間違いない。島氏は車両設計が専門で、新幹線建設工事や建設費などについては詳しくなく、基本的にこの問題には関わっていなかったはずである。

 

高橋団吉著「新幹線を走らせた男 国鉄総裁十河信二物語」について 長 尚のホームページ

 私も貨物新幹線についてはいくつかの記事を書いてきたところである。

阪神高速道路が直結するはずだった新幹線大阪貨物駅

東海道新幹線開通後の貨物新幹線に係る国鉄の取り組み等(貨物新幹線は世銀向けのポーズなのか)

 島の思いはどうあれ、貨物新幹線が実際に取り組まれていたのは間違いない。しかし、島の気持ちと現場の進み方のギャップがどうも腑に落ちない。

 そこに国鉄新幹線局営業部長等を歴任し、実際に新幹線の貨物計画に携わり、「新幹線開発物語」等の著書でも貨物新幹線に触れていた角本良平氏のオーラルヒストリーに出会ったので、貨物新幹線に関係する箇所を紹介していきたい。

 菅 世銀に対しては、少なくともこの時点では「貨物輸送もやる」という前提でお話されているわけですね。

角本 「徹底してやる」と。

菅 そのあたりのことも、角本さんがご担当されたんですか。

菅 そうです。私は旅客、貨物と両方やっていまして、前後を正確に言えませんけれども、1960年の秋にアメリカの貨物輸送を見てからは、世銀との関係も随分やりやすくなった

 ただ、世銀の相手もあまり馬鹿じゃないから、貨物輸送をやるかやらないかということについては、島さんはやるそぶりはみせていたけれども「これは本当かうそかわからないな」ということは、最後の段階で気がついていたと思いますね。

二階堂 角本さんが実際に貨物輸送を説明された感触として、そうじゃないかと。

角本 そう。

二階堂 ということは、角本さんの説明もある意味、旅客を重点にされていたということなんですか。

角本 いやいや、そうじゃない。私は、貨物駅の用地まで買っているわけだし、大井埠頭の海の上を買っているわけですから。その段階では、私はやるつもりでいます

二階堂 では、世銀の人がそう気づいたというのはどういう節で。

角本 島さんがあまりのり気じゃない様子がわかってきたんじゃないか。私は最後までやりたかったんです。

 

「角本良平オーラル・ヒストリー」226頁~227頁から引用

「1960年の秋にアメリカの貨物輸送を見てからは」というのはどういうことなのか。

二階堂 1960年の11月、アメリカに視察に行かれたときの話をちょっと伺いたいと思うんですが、これというのは生産性本部の視察団ですね。その報告書が出ていまして、メンバーを見ると貨物関係の方々がたくさんおられて、貨物の近代化の現状也をアメリカに見に行くという視察だったと思います、角本さんがこれに加わることになったきっかけというのは何だったんですか。

角本 私は個人的なつながりだと思います。この事務局をなさったのが、鉄道貨物協会の事務局長をしていた宮野武雄さんで、私の中学の7年ぐらい上の先輩で、昔、私が金沢管理部で見習いをしていたときの業務課長です。その人が私のことを知っていて、誘いがかかった。ただ名目から言えば「新幹線に貨物輸送をやる」というのが理由なんです。

(中略)

二階堂 では、そういう個人的なつながりで呼んでいただいて、角本さんはそのなかで、例えばピギーバックとか、大型コンテナとか、そういうのを・・・・・・。

角本 そう。「新幹線に応用できる技術がないか」ということで一生懸命見て歩いたということです。

(中略)

二階堂 これを見て、日本の新幹線計画にどういう見通しを持たれたか、そこをお聞きしたいんです。

角本 10何トンのピギーバックの大型コンテナはとても無理でした。日本の道路では動けません。ですから、「これを5トンコンテナの我々の計画に直して、同じアイデアで方式を決めればよい」と考えました。大きさを見にサイズ、大体3分の1にするという感じです。「新幹線について考えていた計画は変える必要はありません」と。

二階堂 コンテナやピギーバックというのは、トラック業界との「共同輸送」が盛んにできるという名目で計画されていたと思うんですが、日本だと通運業者との協力が必要ということになるわけです。その見通しというのは、当時どう思っていらっしゃったんですか。

角本 これは日本通運が既に5トンコンテナを試しで使っていましたし、当然やる気になると思っていました。(後略)

 

「角本良平オーラル・ヒストリー」232頁から引用

 世銀借款が締結されたのは、1961(昭和36)年である。

 島隆が研修期間を経て本社に戻ってきたのは昭和33年である。(中略)隆は新幹線設計グループの1期生。(中略)

「貨物新幹線用のラフスケッチをもっともらしく描いてくれ」

 ある日、隆は幹線調査室の調査役から、こんなふうに頼まれた。(後略)

 

「新幹線をつくった男 島秀雄物語」髙橋団吉・著 小学館 194頁から引用

 これは、冒頭に引用した「貨物は世銀向けのポーズ」という文脈で髙橋氏が記載しているのだが、これで見ると「もっともらしく描いて」というところが「ポーズ」らしく読めるのだが、この「幹線調査室の調査役」は貨物も含めた営業担当調査役の角本氏ではなかろうか?車両担当の加藤一郎氏という可能性もあるが。後にアメリカに貨物新幹線のために視察に行った担当調査役が命じたとなれば意味合いは全く逆になってくるのではないか?そういう意味では髙橋氏はミスリードしている可能性がある。「島秀雄物語」では角本氏にも取材しているのに。。。

幹線調査室

 当時の幹線調査室はこのような体制だった。

 また、世界銀行融資決定後に国鉄法を改正して貨物新幹線に必要な通運体制を確立しようとしている。ダミーならこんなことしませんぜ。

○關谷委員 次に、今後対象となりますもの、これが業界あたりで非常に疑心暗鬼と申しますか、大へん心配をいたしておるところでありますので、一つお尋ねをいたしたいと存じます。(中略)

 第三は東海道新幹線荷役会社というふうなもの、東海道新幹線関係の荷役は、全部直営にするというふうにいわれておるのでありますが、それがどういうふうになるのか、その点もあわせて伺いたいと思います。第四はピギーバック会社、これはどういうふうなことになりますか、この点を業界あたりが間違えないようにはっきりとお答えを願いたいと思います。

○磯崎説明員 ただいま御列挙されました各事業につきましては、内容のはっきりしないものもございますが、一応今私どもの考えておる立場からだけ御回答申し上げます(中略)

 それから、三番目と四番目の、東海道の新幹線関係の貨物輸送でございますが、東海道新幹線関係の貨物輸送を私どもの方が直営する意向は全くございません。しかしながら、東海道新幹線の貨物輸送は、原則として、先ほど四番目のピギーバック、すなわち自動車の足のついたまま貨車に載せるという案よりも、むしろ足をとりまして、現在町中でごらんになるコンテナの輸送を考えておりますので、コンテナ輸送につきましては、通運業者と国鉄と合体した会社を作る必要があるのではないかということを今研究いたしております。

 

昭和37年3月16日衆議院 運輸委員会議事録から引用

 ピギーバックの扱いが角本氏の訪米視察の結果どおりとなっている点も興味深い。

二階堂 貨物営業のことについてちょっと伺いたいんですけども、貨物営業の計画というのは、この時期かなり具体的に進んでいますよね。例えばターミナルの用地の買い上げなどです。

角本 それが島さんと兼松さんはまことにずるい人で、私に対しては「貨物輸送は最後までやるよ」というような顔していた。私は、大まじめで大井ふ頭の土地を買いました。それから、静岡も名古屋も大阪も貨物駅の用地、みんな買ったんですよ。

二階堂 名古屋は日比津、静岡は柚木ですね。

角本 そう、柚木です。大阪は鳥飼。

二階堂 あとは、コンテナの規格を決めて、在来線は縦で新幹線は横にするとか、そういう具体的なことまで・・・・・・。

角本 そうそう。その寸法を決めて、在来線のコンテナ規格を決めるときに、「直角に曲げれば新幹線貨車に5個載せる」ということまで決めました。具体計画の直前まで決めて、担当者も私も大真面目でやっていた。世界銀行に対しても、「やらない、うそだ」ということは一言も言わなかった。

 ところが、島さんと兼松さんは、「それはうそである」ということを承知でやっていた。そこのところにギャップがあったということです。

二階堂 実際のところ、本当にやる気がなかったのか、あるいは旅客の二の次にしていたということでしょうか。

角本 いや、そうじゃない。彼らはずるいですから、本当にやる気がなかった。それでいて、私に大井埠頭の海の上を買わせたということです。

二階堂 では、完全に無駄な・・・・・・。

角本 それが無駄じゃない。あの大井埠頭の土地があったんで、今どれだけ助かっているか。あそこがなかったら、今は電車置く場所ないでしょう。それは、新幹線の旅客電車を置く場所でもあり、貨物のヤードでもあったということで、大きな土地を買った。そのうち新幹線旅客用は、今、そのまま生きていて、貨物用地のなかへ進入していったし、膨らませていった。だから今でもびくともしないということだと思います。

鈴木 当時、大井埠頭は将来のことまで考えて買ったんですか。貨物のために買ったはずなんだけれども、そのままだったら、本当に無駄になりかねなかったのではないでしようか。

角本 東京都にしてみれば、海の上ですから買い手がない。できるだけたくさん買ってくれるお客は大歓迎。こちらは、できるだけ広く買っておけば、 東京が伸びるから無駄にならない。両方の思惑が一 致した。だから海の上をでっかく買ったんです。そういう意味では、貨物のことだけではなく、将来のことを考えて買ったわけです。 ただし、「羽田のそばはやかましい」ということで、北のほうへずらして買った。そのとき、たしか南は 京浜二区という埋立地だった。「京浜二区では嫌だ、もうちょっと北のほうがいい」と言ったときに、東京都は何も言わなかった。ですから、品川からすぐ電車を入れられるという場所が確保できたわけです。これは、私がしたうちの一番いい仕事のうちの一つでしょうね。

渡邉 鳥飼基地というのは、もともと貨物営業用を想定して・・・・・・。

角本 貨物用として買ったと思います。

鈴木 あそこは、もともと何だったんですか。

角本 おそらく淀川の湿地帯じゃないでしようか。ほかの利用があまり進んでいなかったから買えたと思います。その意味では、名古屋の西のほうもそうだった。庄内川の西側でしょう。

菅 結局、新幹線の貨物ターミナルにはならなかったけど、みんな生きていますよ。名古屋は新幹線の車両の置き場になったし、静岡は在来線の旅客車を置いているのかな。

角本 静岡、柚木のところね。そうでしよう。

菅 大井は、お話があったとおり、新幹線の車両基地と東京貨物ターミナルになっているしね。それでも土地が余ったから、東京貨物ターミナルの一部は、一時ベトナム難民の収容キャンプみたいに使われたことがありましたね。

角本 ああ、そうですか。

渡邉 用地を買われたときに、車両基地だったら全く周囲と孤立した島みたいなものですけども、貨物駅になると、そこに通運の店が来たり、地域との関係も出てくるわけですね。ですから、土地を買うときにも、単なる車両置き場になるのか、それとも、そこに貨物駅ができて、周辺との物流との起点になるのかというのは大きな違いがあるように思うんで すが。

角本 買うときには、そこまで言わなかったと思います。ですから、貨物の場所、旅客電車の場所、 それぐらいの大まかな話だけをして、東京都と話がついたんじゃないでしようか。東京都としては売りたい一心ですから、私たちはお客様だったんです。 海だった、水の上を買ったわけですから。

渡邉 鳥飼についても、貨物だから売ったとか。

角本 いや、そういうことはないと思う。

菅 それは逆に、新幹線の車両基地が先にできて、隣接地はずっと長い間使われていなかったんですけれども、大阪に在来線の貨物ターミナルをつくることになりまして、実際につくって、今、稼働しているんですが、それについては結構反対運動があったんです。特に吹田操車場から持ってくる鉄道をこしらえなければいけませんね。これなんかはすごい反対運動を受けて、菅原操さんが大阪工事局長 として話をおさめるのに随分苦労されていますよね。

 

「角本良平オーラル・ヒストリー」244頁~246頁から引用

大井貨物駅跡

柚木貨物駅跡

日比津貨物駅跡

鳥飼貨物駅跡

 次に、島の「トリック」について引用してみる。

二階堂 貨物担当の補佐だった森繁さんが書かれた資料をちょっと拝見したことがあるんですが、1963年7月、要するに大石さんたちが辞めてすぐ、角本さんは貨物営業のことに関して石原常務に説明されているんですね。 そのときには、角本さんは「貨物をやるべきだ」 と言われているんですが、石原さんは「採算は多分 とれないだろう」というようなことを言われて、「それでもやる意義があるのか」と尋ねられて、角本さんは「トラックへ対抗するという意味、それから通運業者に対して国鉄の態度を示すという意味で、 貨物はやったほうがいい。将来性もあるんだ」というようなことを言われて、旅客営業から1年おくれ の1965年10月に貨物営業開始ということで、石原さんも合意された。そういう記録があります。 それに加えて、1964年の座談会なんかを拝見し ますと、当時の今村営業局長も「新幹線を使って貨物営業が早くできないか」ということを模索されていたようです。こういうことから考えると、先ほどのトリックというのは、ごく一部の方しか知らなかったということでしょうか

角本 大石さんがどうか知らないけど、島さんと 兼松さん、そこらでしょう

二階堂 遠藤鐵二さんはどうだったんでしょう

角本 中立でしよう。どちらでもつくと。

二階堂 角本さんは、営業部長退任のときまで、トリックということは全く気づかなかったわけですよね。

角本 気づかなかったし、たとえトリックであっ ても、逆に突破しようと思っていた

二階堂 「トリックなんじゃないかな」というようなことは、薄々は・・・・・・。

角本 思わなかった。私は突破できると思っていた。

二階堂 石原さんも、こうやって論破しているということで、それが「実際にはやる気がなかったんだな」ということがわかったのはいつだったんですか

角本 十河、島が辞めたときです。

二階堂 それは1963年になるわけですが、そのときも角本さん、大まじめに貨物のことをなさっているわけです。

角本 はい。私は自分で突破できると思っていた

二階堂 島さんの真の意思を知ったのは、どういう きっかけだったんですか。

角本 島さんが辞めるころ「島さんはやる気がなかったんだな、ごまかしだったな。兼松さんもごまかしだったな」ということは、私にはわかった。しかし私は「これはやるべきだ」と思っていました。 だから、中公新書の「東海道新幹線」に「貨物をこうやります」ということを書いたということです。 これは1964年の2月に出した本です。

二階堂 「突破できる」というのは、石原さんへの 説明にもあるように、「トラック対抗」ということ と「通運対策」ということなんですが、将来的に新幹線貨物をやればトラックに対抗できる根拠という のは、どういうことだと考えていらっしやいました か。

角本 時間です。ということは「夜遅く集めて、 朝早くに着く」という何本かの列車をつくっておけ ば、その分は貨物を確保できる。そう信じていた。 これは、トラックより断然速いし、しかも確実ですから、「これはやれる」と。

二階堂 「通運対策」というのは、具体的にはどう いうことですか。

角本 通運業者は、利益があればよいわけですから。自分のトラックであろうと、国鉄利用であろう と、彼らは利益があればやってくれる。

二階堂 では、「その利益を彼らに充分与えられる」と。

角本 そうです。「そうすれば、彼らもまた鉄道 に戻ってくるだろう」と。ですから、東京・大阪という地区について、雑貨がそれぞれに動くということで、大部分はトラックであっても、国鉄利用の部分も残ると考えていた。

二階堂 通運業者を通さず、国鉄がコンテナを直営するということは考えておられましたか。

角本 いや、直営というのは手足についてはでき ません。やはり荷主との直接接触は通運業者でない とできない。

二階堂 「貨物営業が経理の上では赤字になる」という石原さんの指摘についてはどうですか。

角本 私は赤字になるとは思わなかった。ということは、線路が既に存在するわけですから。それから、貨物用地も既に押さえてあるということですから。列車本数は限られている。だから、限られた列車本数を満たすだけの貨物は充分集められると考えていた。

二階堂 「途中のヤードでつないで、離して」ということではなく・・・・・・。

角本 「それでないから成功する」ということです。しかも、「ダイヤどおりにあなたの貨物は動きます」ということですから。

渡邉 その意味では、貨物列車は1日に1本でも2本でもよかったわけですね。

角本 そうです。

菅 貨物に関して、実際に需要の想定とか、運賃の試算といいますか、そういうことも当時なさいましたか。

角本 はい。ですから、貨物の担当で森さんはじめ3人か4人来ていたと思いますし、実際に貨物駅の用地は4駅とも買ったわけですから、それをそのまま利用して、しかも夜明けに列車を入れるという ことで充分できると思っていました

二階堂 九州方面や東北方面と、どうつなぐかとい うことは・・・・・・。

角本 そこまでは考えなかったと思います。九州まで考える余力はなかったし、山陽新幹線がいつできるかも当時はわからなかった。

二階堂 いえ、そうではなくて、大阪で在来線に積みかえてやるという形です。森さんの資料では、そういう内容も出てくるので・・・・・・。

角本 それはやっていたでしよう。我々は「貨物営業はやるものだ」と信じていて、それで上の人が 「やめろ」と言った。しかしこちらは「突破できるんだ」と思っていたということです。

 

「角本良平オーラル・ヒストリー」246頁~248頁から引用

 このあたりの経緯は、私の知る限りでは今まで明らかにされていないと思う。

 「島は貨物やる気ない」「現場は土地も買ったし準備工もやってる」「国鉄だけではなく通運業者も動いている」「開業後も暫くは貨物輸送を真剣に考えていた」という矛盾が今まで繋がらなかったのだが、ここで繋がるわけだ。

 「島は貨物やる気ない」
 ↓
しかし、島は在任中は内外に「やる気ない」とは言わなかった(むしろ社内にも「最後まで貨物はやる」という姿勢を示していた(角本氏のいう「トリック」))
 ↓
現場は当然貨物の準備をする
 ↓
「現場は土地も買ったし準備工もやってる」
 ↓
角本営業部長(貨物担当)は、島が辞める頃にやる気がないと気づく
 ↓
それでも突破できる(すべき)と考え、島辞任後も貨物実現に向けて動く
 ↓
「開業後も暫くは貨物輸送を真剣に考えていた」
山陽、東北、上越新幹線も貨物走行可能な規格で建設
 ↓
島は国鉄を辞めた後に「貨物やる気なかった」と公言

という流れで宜しいんじゃないかと思う。

新幹線総局

 こちらは新幹線総局の組織図。ちゃんと「貨物担当の補佐だった森繁さん」がいらっしゃる。

 

 (その2)では、長氏の指摘する「*貨物列車を引き込むための本線を跨ぐ施設が造られていた。しかも大阪鳥飼の車両基地への貨物引き込み用の構造物は世銀からの借款の調印の昭和36年5月2日から一年後に着工している。もし世銀から融資を受けるためであるならば、予算膨張に悩んでいたので、前項の用地買収を含めてこんなに見え見えの無駄なことはしなかったはずである。」つまり予算超過問題について角本良平オーラル・ヒストリーから紹介してみたい。

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2016年5月 8日 (日)

土浦ニューウェイ(筑波研究学園都市新交通システム)について(その9)

 自分が都市と交通の問題に関心を持つようになったきっかけは、約30年前に出会った岡並木氏の「都市と交通」、田村明氏の「都市ヨコハマをつくる」ともう一冊、これが書名も出版社名も全部忘れており探しあぐねていた。

 ところがあっさりと歩いていける図書館にあったのだ。おお懐かしい。

地域交通を歩く

 大西隆氏の「地域交通をあるく」。大西氏が東大教員になる前にODみたいな形で開銀にいたころの著作だ。全国の様々な交通問題を抱える街を歩いてトヨタ系の雑誌に連載していたものをまとめたものだという。

札幌-地下鉄とバス、マイカーの結合を

沢内・湯田-集落移転と山村生活の改善

仙台-地下鉄は切札たりうるか

郡山-拠点性を高める交通都市

筑波-デュアル・モード・バスの社会実験

高崎・前橋-競い合う双子都市の将来

長岡-ビッグプロジェクトが集中して

金沢-非戦災都市という「災褐」

長野-成功するか「セル方式」

岐阜-計画の自立性と推進力をどう確立するか

掛川-地方の時代の郷土づくり

矢作川-水がとりもつ「共同体」

和歌山-恵まれた交通環境の将来展望

鳥取-過疎の足バスの運命は

岡山・香川(その一)-「本四架橋悲願」の彼方に

岡山・香川(その二)-本四架橋の陰影にも光を

高知-三○万都市への飛躍

北九州-都市の足、モノレール第一号

長崎-突端の町を行く路面電車

宮崎-試練の秋か、パーク・アンド・ライド方式

那覇-ナナサンマルを越えて新しい交通体系を

 おお、「筑波-デュアル・モード・バスの社会実験」があったではないか。ということで、いつまでも終わらない『終わる終わる詐欺』「土浦ニューウェイ(筑波研究学園都市新交通システム)について(その9)」をいってみよう。

筑波に新交通は本当に必要なのか

 今回のテーマである筑波での新交通システム-デュ アル・モード・バスシステム-の実用化の問題もまた概成期以後の筑波の進むべき道と密接に関連してくる。 すなわち、新交通システムは筑波に本当に必要な都市施設として建設されるのか、それとも研究都市にふさわしい社会実験として試みられるのかである。

 筑波研究学園都市は、職住近接の街である。東京への通勤交通は街の生命線ではない。総事業費一兆円を超えるプロジェクトだけあって、道路の整備状態はよく、九〇%を越す保有率のマイカー交通を支えている。これに路線バス、ハイヤー、自転車、徒歩が加わり、筑波の交通体系が構成されている。「地区内交通の現在の課題 は、自転車専用道網の整備」(石黒氏)といわれるように比較的恵まれた交通環境にある。土浦方面への交通に しても、道路(土浦学園線)にまだ余裕があり、公共交通もバスの増便で対応できそうである。

 つまり、現状は少なくとも都市交通の必須の手段として新交通システムが他の諸都市に先駆けて優先的に敷設されなければならないという状態ではない。しかし、現状はそうであるにしても将来はどうなのか。そこで概成期以後の筑波の将来が、新交通システムをめぐって重要となってくるのである。

東京のベッドタウンにすれば七万人の不足分ぐらいすぐに埋められる、といった乱暴な声もある。筑波の理想を真っ向から否定するため、さすがに大きな声になり難いが、もしこうなれば、たちまち新交通システムは住宅 地と国鉄ターミナルを結ぶ通勤幹線となる。

「地域交通をあるく」50頁から引用

 いきなりであるが、「筑波に新交通は本当に必要なのか」ときた。本来職住接近型の学園研究都市だし道路もしっかりしているので新たな公共交通はいらないのではないかというもの。確かに下図の都市名を見ても多くは既存市街地の路面電車置き換えやニュータウン等のバス・自動車では飽和してしまうような箇所が多そうだ。

都市モノレール・新交通システム 未成線及び事業化路線一覧

公共事業ガイドシリーズ 都市モノレール・新交通システム事業」公共投資ジャーナル社編集部 編から引用。

しかも「七万人の不足」である。これはどういうことかというと、学園研究都市の計画人口約10万人に対して、当時は約3万人に止まっているということである。

 一旦事業化されながら、採算性が合わなくて事業中止になったのはここにポイントがあるのかもしれない。10万人を見込んで事業化したが実際にはその3分の1しか住民がいないので採算がとれないと。。。

デュアル・モード・バスシステムの特性

 こうした中での新交通システムの登場である。計画は研究学園地区の中心部から、常磐線土浦駅まで約一五キロメートル。このうち、研究学園地区内の大学病院-ターミナル間一・五キロメートルが事業決定され、総工費四二億円をかけて着工されようとしている

 筑波の新交通システムは、デュアル・モード・バスシステムと呼ばれ、専用軌道(ガイドウェイ)と一般道路 を同一車両が走り分ける。ガイドウェイ上ではコンピュータのコントロールで無人走行し、一般道路では通常のバスと同様の有人走行となる。ガイドウェイを走行する新交通システムの試みは大阪の南港や神戸のポートアイ ランド等で工事が進められているから、筑波での試みは、デュアル・モード・システムとして初めてのものとなる。

 実は、このデュアル・モード・バスシステムと研究学園都市とはとりわけ縁が深い。学園都市内に移転した建設省土木研究所で、実験コースが設けられ、技術開発が進められてきたからである。「昭和五十三年度末で必要な研究はすべて終わり、あとは実用の段階に入った」(神崎紋郎·建設省土木研究所新交通研究室長)。

 その第一弾が、研究学園都市となったというわけである。

 しかし、建て前は研究学園都市のデュアル・モード・バスシステムが実用化第一号であっても、内実は土木研究所内での実験から、一般市街地での社会実験という性格を持つことは否定できない。「無人運転のガイドウェイ上での客扱いがどうなるか」 (神崎室長)など、研究開発陣も社会実験に強い関心を寄せている。

 事業決定された筑波でのデュアル・モード・バスシステムが、実験的性格を持つといわれるのは技術的領域についてだけではない。デュアル・モード・バスシステム は、どのような都市にどのような目的で適用されるべきか、というソフトウェアの核心に、何らかの解答を引き出すことも社会実験の重要なねらいに違いない。実際今度事業決定された一・五キロメートルは広幅員の街路や歩行車専用道が既設され、ガイドウェイを敷設する必要性は最も少ない地区である。また土浦駅までの延伸計画にしても、職住近接、低密度の研究学園都市を前提とすれば、交通計画的にどれほどの緊張性があるか疑問であろう。そこでの事業化はあくまでも今後の全国的適用のためのパイロット事業的性格を持つのは当然であろう。

 

「地域交通をあるく」51~53頁から引用

 既存の交通手段では飽和していないにもかかわらず、新交通システムを事業化した理由は、筑波にある建設省機関が従前から研究していた「デュアル・モード・バス」が使い物になるかどうかの「パイロット事業的性格を持つ」のだという。

 ところで、筑波での「社会実験」を前にしたデュアル・モード・バスシステムは、どのような特性を持っているのだろうか。

 第一に、電車の定時性とバスの利便性を兼ねる点で画期的なシステムである。ガイドウェイ上は専用軌道であるから最小ヘッド間隔一○秒間で、時速四○キロメート ルの定速走行が可能である。一般路上では、通常のバスとほぼ同じ機能を発揮。ダイヤ走行やデマンド走行で、住宅地や業務地できめ細かいサービスが可能である。

 第二に、地下鉄に比べ三分の一か四分の一のコストで建設できる。しかも、インフラ部分-つまりガイドウェイと支柱-は街路事業とされ、高率の国庫補助制度が適用されるため、施設者、利用者の負担軽減が図れ る。

 第三に、省力化である。ガイドウェイ上の完全無人走行システムが開発されている。運転者はモードインターチェンジと呼ばれる一般道路とガイドウェイの接合点までバスを入れればよい。あとはコンピュータに管理されながら誘導装置に従ってガイドウェイ上を無人走行す る。

 第四に、電気バス方式による無公害化である。バスはガイドウェイ上で送電のほか、バッテリーへの充電を受け、一般道路ではバッテリー走行する。

 こうした特性のデュアル・モード・バスシステム。その適用地として、土木研究所では、①住宅団地と鉄道駅 ②空港や港湾と都心、③鉄道駅とレクリエーション地域などをあげている。つまり、二地点間にある程度まとまった量の交通需要があり、かつ各端末では最終目的地が分散しているケースである。

 

「地域交通をあるく」53~55頁から引用

 「デュアルモードの導入促進に関する調査業務報告書」によると、 「2001年 3 月 23 日、国内初の実用路線として名古屋ガイドウェイバス志段味線(ゆとりーとライン)が開業。」

デュアルモードバス1

デュアルモードバス2

 こんな感じのものが筑波にできる目論みだったということだ。

 「地下鉄に比べ三分の一か四分の一のコストで建設できる。しかも、インフラ部分-つまりガイドウェイと支柱-は街路事業とされ、高率の国庫補助制度が適用されるため、施設者、利用者の負担軽減が図れ る。」というメリットがあるものの、これは建設に係るコストが削減されるだけである。日々の運用の赤字を補填してくれるわけではない。そもそも「筑波に新交通は本当に必要なのか」というような情勢のなかで、新交通システムを運用するに値する需要が疑問視されるような状態では「収支見通しがつかない」として事業中止になるのもむべなるかなといったところだ。

 なにせ、10万人住む計画が3万人しかいなかったのだから。

 そうなると、土浦ニューウェイが想定している「4両編成分の新交通システム」というのは遥かにオーバースペックのような気がする。バス1台でも採算が取れなかったのに。

土浦ニューウェイ (5)

日本交通計画協会機関誌「都市と交通」1985年6号「土浦高架街路」(茨城県土木部都市施設課長 田沢 大・著)から引用。

 そして、筑波でのデュアル・モード・バスシステムの実用化の最も大きな役割は、こうした既存の、あるいは開発途上にある他のシステムや対策との比較に十分耐えられるような生きたデータを社会実験の中から得ることである。将来の適用を考えてデュアル・モード・システムに関心を寄せる人々が欲するデータは、例えば次のような事項であろう。

 道路上に高架建設されるガイドウェイの景観への影響。ガイドウェイの設置可能な道路幅員の目安。ガイド ウェイ上の走行システムの維持管理の容易さ。デュアル・モード・バスの普及によるガイドウェイへの自由乗入れ方式の可能性。片端末、両端末で一般道路走行する場合での運転者の必要数、等々・・・・・・。

 

「地域交通をあるく」56頁から引用

 

 ところで、都市形成の点からも、新交通システムの点からも、概成期という転機を迎えている筑波研究学園都市には、いま科学技術博覧会待望論が起こっている。昭和六十年に科学技術博(万国博)を誘致し、五、〇〇〇億円とも一兆円ともいわれる関連公共投資により、懸案を一気に片付けようというわけである。そうなれば土浦駅から会場までの足として新交通システムも整備されようし、周辺の開発ピッチが上がる。確かに研究学園都市 を中心とする茨城県南部に大きな変化をもたらすだろう。しかし、科学技術博待望論から生まれる帰結は、東京への時間距離の短縮によるベッドタウン化ではないのか。もしそうであるならば、かつては東京一〇〇キロメートル圏を断念し、五○キロメートル圏の筑波に立地決定したとき、当時のプランナーたちの胸をかすめた「過密助長につながりはしないか」という危惧は、はからずも適中することになる。この道は避けなければならない。

 

「地域交通をあるく」56~57頁から引用

 ネット上では「科学万博の足として新交通システムの導入が検討された」という話が散見されるが、この部分を見ても「新交通システムの事業化が先、万博の誘致が後」ということが分かる。

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土浦ニューウェイ(筑波研究学園都市新交通システム)について

土浦ニューウェイ(筑波研究学園都市新交通システム)について(その2)

土浦ニューウェイ(筑波研究学園都市新交通システム)について(その3)

土浦ニューウェイ(筑波研究学園都市新交通システム)について(その4)

土浦ニューウェイ(筑波研究学園都市新交通システム)について(その5)

土浦ニューウェイ(筑波研究学園都市新交通システム)について(その6)

土浦ニューウェイ(筑波研究学園都市新交通システム)について(その7)

土浦ニューウェイ(筑波研究学園都市新交通システム)について(その8)

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2016年5月 7日 (土)

道路収入の1割を稼ぐ「路下室」とは何か~東急ターンパイクの考察(その4)

 東京江之島間有料専用道路申請書が出て来た~東急ターンパイクの考察(その1)において

「収入の約1割を「路下室賃貸料」つまり高架下建築による賃貸料を見込んでいることも注目すべきだ。」

と書いた。

東急ターンパイク免許申請書 (20)

 ではいったい「路下室」とは何か?

 当時の報文に図面が示されている。

東急ターンパイク路下室

「道路」1957年5月号「東急ターンパイクについて(その1)」(東急電鉄KK道路課・著)から引用

(東急に「道路課」という組織があったのだな)

 住宅の兼営

 東急ターンパイクの寄与に就ては交通効果の外に、路下室の提供を掲げなければならない。即ち渋谷-多摩川間8粁を主とする既成市街地区域では、ノンクロスを確保する関係上、道路は高架構造となり、路下に空間ができる。この空間をガレーヂ、倉庫、商店、事務所、住宅として利用するために約8億円の造室費が計上されている。

 その面積は約26,000坪であるから、平均二層構造に造るならば52,000坪。一戸当り15坪として約3,500戸の永久不燃家屋が提供されるわけである。一戸平均4人として収用人口は14,000人となる。実に一都市の全家屋に平均する膨大な造営である。一面に於て支障となる既成家屋の取りこわしが起るのは止むを得ないが、その個数は約500戸内外におさまる。

 東急ターンパイクは勿論交通を主眼とするものではあるが、以上の見地から眺めるならば、一定線上に計画的の不燃家屋を建てて、僅かにその屋上を道路として借用するものであるという事ができる。

 路下室の提供が7億円の特別造室費の支出と同時に年3億円の室料収入が既に見込まれている。

 併し現内閣が住宅問題を道路整備事業とともにその重要政策として取り上げている今日、3,500戸の家屋が都内に、而も自らの築き上げる交通の至便と共に実現することは、極めて大きく評価されねばならない。

 

道路総覧 昭和32年版466頁から引用

 

 類似計画

 東急ターンパイクの道路・住宅・バスの3事業兼営計画は、住宅金融公庫法の29年改正にもられた都心における既存建築物上部の遊休空間の利用法としての多層家屋建設の構想を、若干発展せしめたものであって、必ずしも新規のものではない。従ってこの類似計画としては、民間では、銀座-新橋間の屋上道路、屋下事務室、商店等の計画が既に着工しており、官公庁においては、九州北部に海上橋梁を建設して、路下遊休空間を共同住宅に使用する案、或は関門道路トンネル両端における路下住宅建設計画がある。尚外国では、フランスのコルビジエーがこれと同様の着想をもって幾多の参考とすべき設計を発表している。

道路総覧 昭和32年版468頁から引用

 流石「総合デベロッパーとしての東急」としての書きっぷりである。

 「銀座-新橋間の屋上道路、屋下事務室、商店等の計画」については、言わずと知れた東京高速道路と西銀座デパート、コリドー街等の商店である。

東京高速道路

 「九州北部に海上橋梁を建設して、路下遊休空間を共同住宅に使用する案」は、北九州市内の若戸大橋のことであろうか?(実際には共同住宅は建築されていない。)

若戸大橋

 また、「外国では、フランスのコルビジエーがこれと同様の着想をもって幾多の参考とすべき設計を発表している」については

 道路と建築が一体化された「ロードタウン」の系譜についていえば、チャンプレスの計画のほかには少ないが、ル・コルビジェがレザミ・ダルジェ主催の展覧会に出展した「オビュ計画」(1930年)と(中略)が代表的であろう。

 チャンプレスとル・コルビジェの計画では、屋上に配置された道路が建築と等しい断面を持つ矩形断面が採用された(略)。

 

自動車と建築」堀田典裕・著  84頁から引用

なんだそうだ。

 

 尤も、日本も戦前から高架下に住宅等を建築した例はある。

中津高架下 (8)

 私がいくつか記事を書いた中津の高架下建築群である。

大阪の中津高架下建築に係る現状のまとめ(その1)

大阪の中津高架下建築に係る現状のまとめ(その2)

大阪の中津高架下建築に係る現状のまとめ(その3)

 

 フランスまで飛んだりと、高架下建築の世界は奥が深いな。

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東京江之島間有料専用道路申請書が出て来た~東急ターンパイクの考察(その1)

東急五島慶太の自動車道計画の全貌~東急ターンパイクの考察(その2)

何故に東急ターンパイクの免許は認可されなかったのか~東急ターンパイクの考察(その3)

(参考)

箱根ターンパイクがNEXCO中日本に買収されて子会社になっていた

東急プラザは東急ターンパイクのバスターミナルになるはずだった

「トトロの住む家」が本社だった高速道路会社があった

第三京浜道路調査報告書を読む~玉川ICは、何故そこにあるのか?~

清水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(2)

東急ターンパイクに係る東京都庁議書類

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2016年5月 6日 (金)

サンクトペテルブルグ地下鉄車中で踊るスパイダーマン

車内に本棚があるのね。。

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2016年5月 5日 (木)

伊東温泉球場(伊東スタジアム)と東急

 東急ついでに、東急が持っていたプロ野球チーム「東急フライヤーズ」と伊東温泉球場(伊東球場、伊東スタジアム)と東急の関係について書いておく。

 wikipediaの「伊東スタジアム」の頁を見てもその由来については大したことは書いていないが、先の東急ターンパイクの記事で都度都度引用した「東急建設の二十五年」に伊東温泉球場の由来が書いてあったので引用したい。

 そうした中で、追放中の五島慶太が関与して、東京建設工業(※引用者注:東急建設の前身)が昭和二十五年春に受注した伊東温泉野球場新設工事は、「当社の機械施工の本格的試験場」(安藤芳雄)として記憶 に留めるべきものであろう。

 同球場は、静岡県伊東市と東京急行電鉄が施主となり、伊東市の市民球場、並びに東京急行電鉄の関連会社が所有する東急フライヤーズのフランチャイズ球場として建設された。同球団は、昭和二十一年、「社員の慰安と士気の鼓舞を目的として」旧東京セネターズを買収、改名したもので、青パットの大下弘選手などを擁して球界に新風を吹込んだが、その後の成績は必ずしも芳しくなく、同球団強化のための球場設置が検討されていた。これがたまたま伊東市の野球場設置のニーズとマッチしたのである。

 建設場所は、伊東市西側の岡区広野地区。両サイド九十メートル、センター百三十メー トル、内外野席収容人員約五千名という規模である。着工は二十五年四月、途中、中断もあって竣工は二十六年九月となった。

「この工事では、当社ブル二台を持って行ったが、これは、牽引力はあるが押す力は弱い。そこで、もう一台、三島にあった建設省の土木技術員養成所から、進駐軍の払下げのD7というキャタピラーを借りて、造成にかかった。工事は順調に行ったが、途中で一度、施主の方から金がこなくなった。ちょうど球場の周囲のフェンスをコンクリート打ちしているところだったが、鈴木寅吉専務がやってきて、『金をくれないなら、現場を放棄 しろ』と言う。技術者としては、あとでコンクリートを打ち継ぐと、仕上がりが汚くなるので、どうしても打ち終わってしまいたい。私はとにかくやってしまったが、専務から は、『おれの命令に違反したから昇給停止だ』とひどく怒られた。造成中に、フライヤーズの安藤監督や大下選手などがやって来て大変喜んでくれた記憶もある。また、工事を視察に来られた五島慶太さんから金一封をもらったが、これが何と、みんなで一晩ドンチャン騒ぎをしても、まだ残りがあった」(安藤芳雄)。

 しかし、こうして完成した伊東温泉野球場も、東急フライヤーズのフランチャイズ球場としては十分な規模のものではなく、東急側では現在の世田谷区駒沢公園の位置する場所に別個の新たな野球場の建設を計画した。東京都ではこの地域を総合グラウンドとする計画を立てていたので、東急側では、「当社が公式野球場を建設して東京都に寄付する」という条件で、都と折衝した結果、両者間に協定が締結され、臨時建設部の事業の一環とし て、駒沢野球場を建設することが決まり、二十八年四月に工事が着工され、同年九月に竣工した。

 

「東急建設の二十五年」から引用

 例によって「今昔マップ」で確認してみると左図の空中写真に野球場が見える。現在は病院になっているようだ。

 電鉄会社の所有する球団が球場を作るのは、その沿線と相場が決まっている。近鉄バファローズなら藤井寺、南海ホークスならなんば、阪急ブレーブスなら西宮、西武ライオンズなら所沢である。東急フライヤーズも後には駒沢に作ったが、なぜ伊東なのか?

 東急ターンパイク伊豆へ でも書いたが、東急は戦後伊豆の開発に大変力を入れていた。その一環としての伊東への投資ということではないだろうか?

 球場わきを通る電車も東急系の伊豆急行である。

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 伊東スタジアムといえば、世間的には、東急フライヤーズのキャンプ地というよりは、ジャイアンツの長嶋監督時代の伊東キャンプが有名なんだろう。

 私は大洋ファンだから、関根監督の時代に始まった伊東秋季キャンプが印象深い。高木豊や屋鋪等のスーパーカートリオは、近藤監督時代に花開く前に関根監督時代に伊東で鍛えられていたのだ。月刊ホエールズで「地獄の秋季キャンプ」の様子を何度も見たものだ。

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 東急フライヤーズの本格フランチャイズとなった駒沢球場と、東京都の関係は上記ではあっさりと書かれているが、実際には東京都と東急のいくつもの癒着(渋谷地下街、砧ゴルフ場等)とあわせて物議をかもしたものである。

 「安井都政の七不思議」って結局どの七つなのか調べてみた。

 

 また、東急フライヤーズ(後に東映フライヤーズに。現:北海道日本ハムファイターズ)のオーナーは、東急五島慶太の自動車道計画の全貌~東急ターンパイクの考察(その2) において、「追放解除後間もなく五島慶太は、大川博東京急行電鉄専務ほか数名を欧米に派遣し、交通事情の視察を行わせた。」と出てくる「大川博」その人である。

 

(参考サイト)

BALLPARK 野球場研究所(カイリューズ様) 伊東スタジアムの頁

http://www.geocities.co.jp/Playtown-Darts/7539/yakyujosi/chubu/itou.htm

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何故に東急ターンパイクの免許は認可されなかったのか~東急ターンパイクの考察(その3)

東急ターンパイクの経緯

 

東京急行電鉄50年史」626頁から引用

 皆さんご存知のとおり、東急が申請した東急ターンパイク(渋谷~江ノ島)、湘南ターンパイク(~小田原)、箱根ターンパイク(~箱根)の3つのターンパイクのうち、認可されたのは箱根ターンパイクのみである。

 自動車評論家MJブロンディこと清水草一氏は下記のように述べている。

続いて、玉川ICがなぜあんなところにあるのか、という質問ですが、もともと第三京浜は、東急グループが渋谷-江の島間に「東急ターンパイク」という名前で高速道路を建設しようとしたのが始まりです。

時は昭和29年。東急グループは、宅地・観光開発のために、非常に積極的に動いていました。箱根ターンパイクも、東急グループが観光のために建設した有料道路です。

東急ターンパイク構想は、その後建設省に横取りされてしまい、それが第三京浜となりました(仕方なく東急は田園都市線を造りました)。

 

第三京浜ってどうして安いの?玉川ICはなぜ中途半端なところにあるの?

 清水草一氏はその「横取り」の根拠は示していない。

 (その2)で引用したはまれぽの記事「1950年代に渋谷から二子玉川を経て江の島まで延びる「東急ターンパイク」という高速道路計画があったそうです。何かその痕跡が残っている場所があるかどうか気になります」では、やはり(その2)で紹介した近藤謙三郎氏の著書「一里塚」を引用している。

 その該当部分がこちらだ。

東急ターンパイクと第三京浜

 「一里塚」472頁から引用

 「東急ターンパイクを横取りして第三京浜道路にした」としているものは、多くがここを引用しているか、読みもせずに孫引きしているものと思われる。

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■第三京浜道路のルートはどのようにして決められたのか?

 近藤氏の言い分だけでなく、日本道路公団側の言い分も聞いておく必要はないのだろうか?

 「第三京浜道路工事報告」によると下記のようになっている。

第三京浜道路路線選定経緯 (1)

 第三京浜道路工事報告1-5頁から引用

第三京浜道路路線選定経緯 (2)

 第三京浜道路工事報告2-6頁から引用

 第三京浜道路はもともと中原街道の渋滞緩和のための日吉から横浜バイパス(現在の横浜新道)起点までのバイパス計画から始まっているとされている。

 それが、「京浜間の交通渋滞を一挙に解決すべく」東京都内を起点としたものとされている。

 なお、文中の「東京、小田原を結ぶ東京周辺道路」について報じる新聞記事を参考にあげておく。

東京周辺自動車道記事

 第三京浜道路のルート選定については、第三京浜道路調査報告書を読む~玉川ICは、何故そこにあるのか?~ にも書いているのでそちらもあわせてお目通しいただけると幸いである。(下記は、「第三京浜道路調査報告書」から引用。)

第三京浜調査報告-21

※臨海高速道路とは、現在の首都高速横羽線のことである。内陸部の通過交通は第三京浜、臨海部分は横羽線とで分担する計画だったのである。

第三京浜調査報告-22第三京浜調査報告-4

 いずれにせよ、日本道路公団としては「もともと短距離のバイパスだったものが、その後玉川まで延伸された」という記録を残している。

 もし「公団が横取りした」と主張するならば、この点も紹介したうえで、自分がどちらが正しいと思ったかという根拠を述べる必要があるのではないか?(清水草一氏のように根拠も何も示さないのは論外であろう。)

 私の私見を述べるとすれば、「建設省:道路公団サイドとしては、東急ターンパイクはもともとありえないので眼中になく、既存のネットワーク等との整合を考えて自然体でルート検討を行ったらたまたま東急ターンパイクと似たようになった」ということではないだろうか?

 ※近藤氏は「東急路線とほとんど全く重複する路線を選んで横浜バイパスと名付けた」とするが、「横浜バイパス」は「横浜新道」の建設中の名称であり、第三京浜とは異なる。近藤氏が取り違えたのではないか?

横浜バイパス

 「日本道路公団5年の歩み」から引用

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■東京都も東急ターンパイクにはもろ手を上げての賛成ではなかった

 一般的に「建設省が反対した」「道路公団が横取りした」とばかり言われているのだが、地元自治体である東京都はどのような態度だったのか?

 これについては、以前、東急ターンパイクに係る東京都庁議書類 で紹介している。

 東急ターンパイクの免許申請前となる昭和28年に、4月28日に、首都建設委員会は「首都高速道路に関する計画」の勧告を発表した。

 その路線図が下記のものである。

昭和28年の首都高速道路計画図

 渋谷~玉川間については、東急ターンパイクの先に「2号玉川線」が公表され、競合していたのである。

 そのため、この免許申請については「将来高速道路網を一元的に経営する必要がある場合買収に応ずること」という条件がつけられているのだ。

 東急にとっては一番交通量が多く、東急王国の集客目的地となる渋谷に直結する区間をみすみす東京都(首都高速)に売り渡すこととなる。また、(その1)で指摘した「路下室賃貸料」も都内区間から発生するのであるから、残された区間からはほとんど賃貸収入は見込めなくなってしまう。

 斯様に、仮に建設省(日本道路公団)が東急ターンパイクを認めたとしても、東京都から召し上げられてしまう可能性が高かったと言えるのだ。

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 この他にも「世田谷区の地元が反対した」とか「そもそもターンパイクの規格は十分なものではなく、技術的な観点からも認可すべきではなかった」という記事を読んだような記憶もあるが元ネタが出てこない。また見つかれば追記したい。

(追記)

 「自動車と建築<」(堀田典裕・著)82頁に「残念ながら、地主による自動車道建設反対運動によって、東急田園都市線に取り換えられ、渋谷-玉川間は高架でなく地下に埋設されることになった。」とあった。なんか違和感があるなあ。ちなみに堀田氏はその論拠を示していない。

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東京江之島間有料専用道路申請書が出て来た~東急ターンパイクの考察(その1)

東急五島慶太の自動車道計画の全貌~東急ターンパイクの考察(その2)

■何故に東急ターンパイクの免許は認可されなかったのか~東急ターンパイクの考察(その3)

(参考)

箱根ターンパイクがNEXCO中日本に買収されて子会社になっていた

東急プラザは東急ターンパイクのバスターミナルになるはずだった

「トトロの住む家」が本社だった高速道路会社があった

第三京浜道路調査報告書を読む~玉川ICは、何故そこにあるのか?~

清水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(2)

東急ターンパイクに係る東京都庁議書類

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東急五島慶太の自動車道計画の全貌~東急ターンパイクの考察(その2)

 (その1)では、東急ターンパイクの実際の書類について紹介した。

 この頁では、五島の計画は渋谷~箱根間にとどまるものではないということをご紹介したい。

 

 ところで、ここで我々は、五島の言う専業建設会社という概念の中に、いままで辿ってきたのとは別の、「道路会社」というイメージがあったことについて、振りかえっておかなければならない。

 五島は、鉄道事業を営むものとして、早くから道路に対する強い関心を持っていた。しかもその構想は雄大であった

 東京建設工業の取締役経理課長だった千葉胤比古は、「私が東京建設工業に入社する二十二年六月以前のことだが、その頃からすでに、五島さんは『弾丸道路』を作って自動車を走らせる構想を持っていた。五島さんはこの計画のため、マッカーサー司令部に出す申請書を作っており、英文ができたので、私に、校正を手伝わせた」と語っているし、また、 同じく東京建設工業時代から土木分野で働いた佐々木静も、「私も『弾丸道路』の計画地図を見た。私が入社したのは昭和二十一年の十一月だが、そのときはもう計画はできていた」と言う。

東急建設の二十五年」から引用

 五島が東急建設を設立した際のエピソードを引用したが、これは東急が弾丸道路を建設する道路会社をイメージしていたものだというのである。その弾丸道路とは何かをおさらいしてみると

戦前の高速道路計画網

 『日本道路公団二十年史』によれば、この「弾丸道路」という名称は、昭和十五年頃からあったようである。当時の内務省は、北は樺太・北海道から、南は九州・長崎へ達する総延長五千四百五十キロメートルに及ぶ全国的自動車国道網計画を検討していたが、その結果、「東京ー神戸間を最優先区間として、更に詳しい調査を行うため、十八年から『国道建設調査』という名で正式に調査が行われることとなった。この調査は、翌年の十九年まで続き、ルートの選定・踏査、千分の一地形測量、設計等が行われた」。この東京-神戸間の自動車国道が「弾丸道路」と俗称されていたのであった。

 昭和十九年と言えば、五島慶太が運輸通信大臣をつとめていた年である。この大計画を知らないはずはなく、千葉や佐々木が見たという計画地図は、この時作成されたものではなかったかと推定される。五島は、終戦によって国が放り出したこの大計画を、場合によれば自分が取上げて実現しようと考えたのであろう

 こうした五島が、東京建設工業を設立した時、道路建設事業を念頭に置かないはずがない。事実、当時の社員のうちには、五島の「道路会社になる」という言葉を耳にしたものが少なくなかった。

 

「東急建設の二十五年」から引用

 戦前から戦後直後にかけての高速道路の調査については、以前、清水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(2)にまとめたのであわせてご参照いただきたい。

 また、この間もバスによる東海道連絡についても五島東急は構想していたのである。

東京神戸弾丸バス

(昭和22年4月29日付読売新聞)

 上記の記事からするとバス計画が世に出た昭和22年当時には弾丸道路についても「そのときはもう計画はできていた」のであり、五島東急は高速道路と長距離バスを同時並行で進めていたことになる。

 だが、戦後の経済事情と公職追放は、五島の野望を挫き、その間に建設省は、しばらく捨てて置かれた「東京神戸間高速道路調査」を再開した。調査の予算がついたのは昭和二十六年からである。おそらく、この追放期間中のことであろうが五島の許へ、日本中に有料高速道路網を建設する必要を各方面に説得するため奔走していた近藤謙三郎(のち当社取締役、東急道路株式会社社長)が、阪神急行電鉄元社長小林一三から、「道路をやるなら五島慶太だ」と言って、紹介されてきた。近藤は、東京帝国大学土木科卒、東京市道路 局出身の根っからの道路マンであり、戦時中満州国政府の土木分野で働き、引揚げ後、全国道路利用者会議事務局長として、活躍した人物である。

 

「東急建設の二十五年」から引用

 「近藤謙三郎」と言えば、杉並区阿佐谷北の「トトロの家」のもともとの持ち主でもある。

トトロの家

 以前、「トトロの住む家」が本社だった高速道路会社があったで近藤氏については取り上げている。

 近藤の記すところによると、この時の二人の話合いは、五島が鉄道マンらしく、「トン キロ、人キロ」で話をするのに対し、近藤が「車キロ」で話すというように食違ったまま終わったようだが、追放解除後間もなく五島慶太は、大川博東京急行電鉄専務ほか数名を欧米に派遣し、交通事情の視察を行わせた。彼らの帰朝報告は、「いずれ、わが国においても自動車の発達、観光地の広域化が進み、ターンパイクが将来性のある事業となるであ ろう」というものであった。

 ターンパイクとは、英国の馬車専用道路の出入口に備えられた横木のことで、転じて自動車専用道路の意味だが、この新しい言葉は、東海道弾丸道路の夢を捨てていなかった五島の心をとらえ、その手始めとして、まず、これを城西南開発計画と結びつけることを考えた。彼は、社内にターンパイクの検討を指示する一方、建設省関係の知人にも相談したらしい。話は、そのルートで、前記の近藤謙三郎のところへ回ってきた。近藤は再び五島 に会う。

 「五島老はいった。『湘南鉄道は東海道本線の隘路のために交通需要を満たすことができない。これを救うために渋谷から鎌倉まで自動車道路を造りたい。バス運営の黒字で補うならば何とか算盤に合うと思うが、お前はどう思うか』私は答えた『計画さえ正しければバス経営の援けはなくとも必ず算盤に合います』と。彼はまた問うた。『この出願は免許になると思うか、どうか』と。私は答えた『国民のためになると認めたら、免許しなければならんと法律に書いてある。だから免許になると思います』と」。その後間もなく、近藤は、東京急行電鉄の顧問に迎えられ、道路問題についてのアドバイスを行うことになった。

 

「東急建設の二十五年」から引用

 そして昭和29年3月に道路運送法に基づく一般自動車道の免許申請書を提出したのは(その1)に記したとおりである。

 三十一年一月、五島慶太は、この三つのターンパイクだけではなく、いまだに自らの手で弾丸道路を建設する構想を捨てていなかった。 「私は、我が国の現状に鑑み、早くから高速道路網の建設を念願しておりますが、その一環として、当社の手によって東京-神戸間のターンパイクロードを計画中であります。 ・・・・・・本計画の完成には、数百億という莫大な資金を要する国家的大事業でありますが、これらの資金については何ら心配するに当らないと思います。・・・・・・採算のとれる事業であれば百億や、二、三百億の資金は立ちどころに集って来るのであります」

 

「東急建設の二十五年」から引用

 と、渋谷~箱根間にとどまらない意欲を持っていたことが分かる。

東急ターンパイク伊豆へ

 「東京急行電鉄50年史」によると、伊豆半島開発においても伊豆急電鉄よりもむしろターンパイクを延長した自動車専用道路による開発を先行して検討していたことが分かるのである。

 

東急ターンパイク免許申請書 (19)

 交通経済1955年1月号から引用

 業界誌の新春対談の大見出しが「高速道路に邁進」なんである。この力の入れっぷり。

本社 併しこのターンパイクというのはできるんですか。

五島 できるよ、こんなもの。(全く自信満々というところ)

本社 一般では本当にできるかどうか非常にあやぶんでいると思うんですが・・・・・・。

五島 あやぶむほうがおかしい。頭がないんだよ。戸塚の専用道路(※引用者注:横浜新道戸塚支線、いわゆる「ワンマン道路」と思われる。)までは、これは93億かかるが、これはすぐやるよ。免許さえ受ければすぐやっちまう。戸塚までが一番儲かる。

本社 では資金の見通しは極めて楽観されておるわけですね。

五島 それは160億借金しなければできんけれども、あそこの専用道路までは93億、そんなものは君、何でもないんだよ。160億はちょっとすぐできない。これは外資導入をしようと思っている。今の愛知用水、佐久間ダム、皆そうだ。あれと同じような恰好で、向うの請負人に請負わせて、向うの請負人が地方銀行から借りるんだ。政府保証なんというものは面倒でしようがないからね。向うの請負人が地方銀行から借りるんだ。千万ドルで幾らだ。

本社 36億・・・・・・。

五島 その半分ぐらいはすぐできるよ。地方銀行で・・・・・・。

本社 貸してくれるというわけですね。

五島 向うの相当な請負人。佐久間ダムと愛知用水はアトキンソンだが、こっちは今トメラーという会社と相談しているがね。サンフランシスコのトメラーという請負会社と相談して、トメラーで借りてくれるよ

 

交通経済1955年1月号23頁から引用

 国道愛好家の松波成行氏は、はまれぽの「1950年代に渋谷から二子玉川を経て江の島まで延びる「東急ターンパイク」という高速道路計画があったそうです。何かその痕跡が残っている場所があるかどうか気になります」という記事において、英文による東急ターンパイクの資料を示し、「残念ながら提出先は不明ですが、英文で書かれているところから、外資系企業に向けてのものだったのではないかと推測されます」と述べているが、上記の五島会長の談によると外資導入に向けての米国建設会社との協議資料だった可能性が高いのではないか?

本社 (略)面も東海バスなんかも合併したいという以降もあるような話も聞いたんですが、伊豆半島というものに対しては相当やはり熱意を以てやられる予定ですか。

五島 そうそう。あれを見てくれ。(会長室の壁には東京から伊豆半島までの大きな地図が張られ、赤線で新計画のターンパイクが書きこまれている。)渋谷から箱根峠まで出願して、箱根峠から向うはいず開発のスカイライン、分水嶺を通って88キロある。これが25億かかる。箱根峠までに160億かかる。ということで、こんなものはすぐできるよ。一番楽なのは藤沢までだ。あそこまで先ずやって、それからあと小田原から箱根峠までが第二期工事で、これをやってみて、熱海専用道路までやってみて、あれから向うの88キロはちょっと考えるよ。あそこまでは一番先にやる。これは間違いなく算盤がとれるんだ。

本社 そうすると、伊豆半島そのものの開発ということはその次のわけですね。

五島 その次だけれども、伊豆半島の開発というものは国家的の問題で、これだけのものを、あそこの88キロ作ってから、ずっと天城から遠笠山まで行くが、この専用道路を作って見たまえ、ここはいつも1日か2日外人が行くのを認めるよ、2日にしたらどれくらい金を落とすか、国民のためだな、少なくとも1日に3万や5万は落としていくな、日本の金で・・・・・・。併しこれを一つ足を長くすれば10万は落とすよ、それだけのものを何人来るか知らんがみんな落とすんだから、どうしても伊豆の開発というものは実につまらんことだけれども、国家的に考えればこれはどうしても作らなければならない。(略)

 

交通経済1955年1月号24頁から引用

 その後、東急は鉄道新線敷設に切り替えていくのであるが、その経緯は下記のようなものである。

東急ターンパイクと田園都市線

 「東京急行電鉄50年史」447頁から引用

 まあ実際には、箱根ターンパイク部分にしか免許が下りなかったわけだが、その辺を(その3)で追ってみたい。

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東京江之島間有料専用道路申請書が出て来た~東急ターンパイクの考察(その1)

東急五島慶太の自動車道計画の全貌~東急ターンパイクの考察(その2)

何故に東急ターンパイクの免許は認可されなかったのか~東急ターンパイクの考察(その3)

(参考)

箱根ターンパイクがNEXCO中日本に買収されて子会社になっていた

東急プラザは東急ターンパイクのバスターミナルになるはずだった

「トトロの住む家」が本社だった高速道路会社があった

第三京浜道路調査報告書を読む~玉川ICは、何故そこにあるのか?~

清水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(2)

東急ターンパイクに係る東京都庁議書類

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東京江之島間有料専用道路申請書が出て来た~東急ターンパイクの考察(その1)

 東急ターンパイクといえば、今やNEXCO中日本の子会社となってしまった箱根ターンパイクと加えて、渋谷~江ノ島~小田原~箱根と結ぶ計画であった東急の有料道路である。

 そのうち渋谷~江ノ島について、運輸大臣及び建設大臣あての免許申請書を某図書館から発掘したのでご紹介したい。また、おって私なりの考察をその2その3で加えてみたい。

東急ターンパイク免許申請書 (1)

東急ターンパイク免許申請書 (2)

 この資料では日付等は入っていない。

 こうして、昭和29年3月、東京急行電鉄は、「国道1号線の混雑緩和を図ると同時に、城西地区の幹線道路とするため、渋谷-江ノ島間自動車専用道路(東急ターンパイク)を建設することとし、道路運送法に基づく自動車道事業経営免許申請書を運輸大臣・建設大臣あてにそれぞれ提出した。続いて、同年8月23日、富士箱根伊豆国立公園への観光ルート開発を目的として、小田原-箱根峠間(箱根ターンパイク)、ⅲ2年8月26日に藤沢-小田原間(湘南ターンパイク)の免許申請を行なった」。

 

東急建設の二十五年」から引用

東急ターンパイク免許申請書 (3)

東急ターンパイク免許申請書 (4)

 インターチェンジ(使用料金徴収所)の場所が明確に分かる。

 下に示すのは、「道路」1957年5月号「東急ターンパイクについて(その1)」東急電鉄KK道路課に掲載された梶ヶ谷料金所の図面である。

東急ターンパイク 梶ヶ谷インターチェンジ

東急ターンパイク免許申請書 (5)

東急ターンパイク免許申請書 (6)

東急ターンパイク免許申請書 (7)

 南横浜料金所は戸塚区平戸で国道1号と接続するということか。

東急ターンパイク免許申請書 (9)_stitch

 申請理由では、壮大な理念を述べている。

東急ターンパイク免許申請書 (10)

東急ターンパイク免許申請書 (11)

 都内区間は高架で神奈川県内は盛土ということかな?また、料金の単価も示されている。

 添付書類については抜粋してお見せしたい。

東急ターンパイク免許申請書 (13)

 路線図である。バス停の位置を明確にしている資料は見かけたことは無いぞ。

東急ターンパイク免許申請書 (14)

東急ターンパイク免許申請書 (15)

 収支見積の抜粋である。13年目の昭和44年度で単年度黒字となり、17年目の昭和48年度で累損解消との予定となっている。

 また、収入の約1割を「路下室賃貸料」つまり高架下建築による賃貸料を見込んでいることも注目すべきだ。「路下室」については別に紹介してみた

東急ターンパイク免許申請書 (20)

東急ターンパイク免許申請書 (16)

 IC間の車種毎の交通量の見込みである。IC間の距離も分かる。

東急ターンパイク免許申請書 (17)

 路線バスの計画である。

 1 渋谷-玉川 80往復

 2 渋谷-野沢 40往復

 3 渋谷-梶ヶ谷 20往復

 4 渋谷-西横浜 60往復

 5 渋谷-江ノ島 6往復

 6 渋谷-小田原 10往復

 等の渋谷(東急プラザがあった場所がバスターミナルとなるはずだった)を起点にする路線バスが計画されていた他、区間路線も予定されていたようだ。

渋谷駅 2階

 ※上図のみ、「汎交通」1958年5月号に掲載された「渋谷周辺の交通事情と東急の計画」(馬淵寅雄 東急電鉄常務取締役・著)から引用。

東急ターンパイク免許申請書 (18)

 IC間の車種別交通量とその収入だ。

 

 次いで(その2)では、東急五島慶太氏の自動車道構想の全体像について触れてみたい。

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■東京江之島間有料専用道路申請書が出て来た~東急ターンパイクの考察(その1)

東急五島慶太の自動車道計画の全貌~東急ターンパイクの考察(その2)

何故に東急ターンパイクの免許は認可されなかったのか~東急ターンパイクの考察(その3)

(参考)

箱根ターンパイクがNEXCO中日本に買収されて子会社になっていた

東急プラザは東急ターンパイクのバスターミナルになるはずだった

「トトロの住む家」が本社だった高速道路会社があった

第三京浜道路調査報告書を読む~玉川ICは、何故そこにあるのか?~

清水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(2)

東急ターンパイクに係る東京都庁議書類

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2016年5月 2日 (月)

イースタンリーグに梶谷隆幸選手を見に行った

 アレックス・ラミレス新監督を迎え絶不調の我らが横浜DeNAベイスターズであるが、2番センターを予定されていた梶谷r隆幸選手を負傷で欠いているのも不調の大きな原因である。

 そんな梶谷選手が二軍で試合出場を開始したというので、戸田球場で行われたイースタンリーグ 東京ヤクルトスワローズ対横浜DeNAベイスターズ戦を見て来た。

第1打席

第2打席

第3打席

第4打席

第5打席には盗塁も見せてくれた。

 一日も早い一軍復帰を願うものである。

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