東急五島慶太の自動車道計画の全貌~東急ターンパイクの考察(その2)
(その1)では、東急ターンパイクの実際の書類について紹介した。
この頁では、五島の計画は渋谷~箱根間にとどまるものではないということをご紹介したい。
ところで、ここで我々は、五島の言う専業建設会社という概念の中に、いままで辿ってきたのとは別の、「道路会社」というイメージがあったことについて、振りかえっておかなければならない。
五島は、鉄道事業を営むものとして、早くから道路に対する強い関心を持っていた。しかもその構想は雄大であった。
東京建設工業の取締役経理課長だった千葉胤比古は、「私が東京建設工業に入社する二十二年六月以前のことだが、その頃からすでに、五島さんは『弾丸道路』を作って自動車を走らせる構想を持っていた。五島さんはこの計画のため、マッカーサー司令部に出す申請書を作っており、英文ができたので、私に、校正を手伝わせた」と語っているし、また、 同じく東京建設工業時代から土木分野で働いた佐々木静も、「私も『弾丸道路』の計画地図を見た。私が入社したのは昭和二十一年の十一月だが、そのときはもう計画はできていた」と言う。
「東急建設の二十五年」から引用
五島が東急建設を設立した際のエピソードを引用したが、これは東急が弾丸道路を建設する道路会社をイメージしていたものだというのである。その弾丸道路とは何かをおさらいしてみると
『日本道路公団二十年史』によれば、この「弾丸道路」という名称は、昭和十五年頃からあったようである。当時の内務省は、北は樺太・北海道から、南は九州・長崎へ達する総延長五千四百五十キロメートルに及ぶ全国的自動車国道網計画を検討していたが、その結果、「東京ー神戸間を最優先区間として、更に詳しい調査を行うため、十八年から『国道建設調査』という名で正式に調査が行われることとなった。この調査は、翌年の十九年まで続き、ルートの選定・踏査、千分の一地形測量、設計等が行われた」。この東京-神戸間の自動車国道が「弾丸道路」と俗称されていたのであった。
昭和十九年と言えば、五島慶太が運輸通信大臣をつとめていた年である。この大計画を知らないはずはなく、千葉や佐々木が見たという計画地図は、この時作成されたものではなかったかと推定される。五島は、終戦によって国が放り出したこの大計画を、場合によれば自分が取上げて実現しようと考えたのであろう。
こうした五島が、東京建設工業を設立した時、道路建設事業を念頭に置かないはずがない。事実、当時の社員のうちには、五島の「道路会社になる」という言葉を耳にしたものが少なくなかった。
「東急建設の二十五年」から引用
戦前から戦後直後にかけての高速道路の調査については、以前、清水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(2)にまとめたのであわせてご参照いただきたい。
また、この間もバスによる東海道連絡についても五島東急は構想していたのである。
(昭和22年4月29日付読売新聞)
上記の記事からするとバス計画が世に出た昭和22年当時には弾丸道路についても「そのときはもう計画はできていた」のであり、五島東急は高速道路と長距離バスを同時並行で進めていたことになる。
だが、戦後の経済事情と公職追放は、五島の野望を挫き、その間に建設省は、しばらく捨てて置かれた「東京神戸間高速道路調査」を再開した。調査の予算がついたのは昭和二十六年からである。おそらく、この追放期間中のことであろうが五島の許へ、日本中に有料高速道路網を建設する必要を各方面に説得するため奔走していた近藤謙三郎(のち当社取締役、東急道路株式会社社長)が、阪神急行電鉄元社長小林一三から、「道路をやるなら五島慶太だ」と言って、紹介されてきた。近藤は、東京帝国大学土木科卒、東京市道路 局出身の根っからの道路マンであり、戦時中満州国政府の土木分野で働き、引揚げ後、全国道路利用者会議事務局長として、活躍した人物である。
「東急建設の二十五年」から引用
「近藤謙三郎」と言えば、杉並区阿佐谷北の「トトロの家」のもともとの持ち主でもある。
以前、「トトロの住む家」が本社だった高速道路会社があったで近藤氏については取り上げている。
近藤の記すところによると、この時の二人の話合いは、五島が鉄道マンらしく、「トン キロ、人キロ」で話をするのに対し、近藤が「車キロ」で話すというように食違ったまま終わったようだが、追放解除後間もなく五島慶太は、大川博東京急行電鉄専務ほか数名を欧米に派遣し、交通事情の視察を行わせた。彼らの帰朝報告は、「いずれ、わが国においても自動車の発達、観光地の広域化が進み、ターンパイクが将来性のある事業となるであ ろう」というものであった。
ターンパイクとは、英国の馬車専用道路の出入口に備えられた横木のことで、転じて自動車専用道路の意味だが、この新しい言葉は、東海道弾丸道路の夢を捨てていなかった五島の心をとらえ、その手始めとして、まず、これを城西南開発計画と結びつけることを考えた。彼は、社内にターンパイクの検討を指示する一方、建設省関係の知人にも相談したらしい。話は、そのルートで、前記の近藤謙三郎のところへ回ってきた。近藤は再び五島 に会う。
「五島老はいった。『湘南鉄道は東海道本線の隘路のために交通需要を満たすことができない。これを救うために渋谷から鎌倉まで自動車道路を造りたい。バス運営の黒字で補うならば何とか算盤に合うと思うが、お前はどう思うか』私は答えた『計画さえ正しければバス経営の援けはなくとも必ず算盤に合います』と。彼はまた問うた。『この出願は免許になると思うか、どうか』と。私は答えた『国民のためになると認めたら、免許しなければならんと法律に書いてある。だから免許になると思います』と」。その後間もなく、近藤は、東京急行電鉄の顧問に迎えられ、道路問題についてのアドバイスを行うことになった。
「東急建設の二十五年」から引用
そして昭和29年3月に道路運送法に基づく一般自動車道の免許申請書を提出したのは(その1)に記したとおりである。
三十一年一月、五島慶太は、この三つのターンパイクだけではなく、いまだに自らの手で弾丸道路を建設する構想を捨てていなかった。 「私は、我が国の現状に鑑み、早くから高速道路網の建設を念願しておりますが、その一環として、当社の手によって東京-神戸間のターンパイクロードを計画中であります。 ・・・・・・本計画の完成には、数百億という莫大な資金を要する国家的大事業でありますが、これらの資金については何ら心配するに当らないと思います。・・・・・・採算のとれる事業であれば百億や、二、三百億の資金は立ちどころに集って来るのであります」
「東急建設の二十五年」から引用
と、渋谷~箱根間にとどまらない意欲を持っていたことが分かる。
「東京急行電鉄50年史」によると、伊豆半島開発においても伊豆急電鉄よりもむしろターンパイクを延長した自動車専用道路による開発を先行して検討していたことが分かるのである。
交通経済1955年1月号から引用
業界誌の新春対談の大見出しが「高速道路に邁進」なんである。この力の入れっぷり。
本社 併しこのターンパイクというのはできるんですか。
五島 できるよ、こんなもの。(全く自信満々というところ)
本社 一般では本当にできるかどうか非常にあやぶんでいると思うんですが・・・・・・。
五島 あやぶむほうがおかしい。頭がないんだよ。戸塚の専用道路(※引用者注:横浜新道戸塚支線、いわゆる「ワンマン道路」と思われる。)までは、これは93億かかるが、これはすぐやるよ。免許さえ受ければすぐやっちまう。戸塚までが一番儲かる。
本社 では資金の見通しは極めて楽観されておるわけですね。
五島 それは160億借金しなければできんけれども、あそこの専用道路までは93億、そんなものは君、何でもないんだよ。160億はちょっとすぐできない。これは外資導入をしようと思っている。今の愛知用水、佐久間ダム、皆そうだ。あれと同じような恰好で、向うの請負人に請負わせて、向うの請負人が地方銀行から借りるんだ。政府保証なんというものは面倒でしようがないからね。向うの請負人が地方銀行から借りるんだ。千万ドルで幾らだ。
本社 36億・・・・・・。
五島 その半分ぐらいはすぐできるよ。地方銀行で・・・・・・。
本社 貸してくれるというわけですね。
五島 向うの相当な請負人。佐久間ダムと愛知用水はアトキンソンだが、こっちは今トメラーという会社と相談しているがね。サンフランシスコのトメラーという請負会社と相談して、トメラーで借りてくれるよ。
交通経済1955年1月号23頁から引用
国道愛好家の松波成行氏は、はまれぽの「1950年代に渋谷から二子玉川を経て江の島まで延びる「東急ターンパイク」という高速道路計画があったそうです。何かその痕跡が残っている場所があるかどうか気になります」という記事において、英文による東急ターンパイクの資料を示し、「残念ながら提出先は不明ですが、英文で書かれているところから、外資系企業に向けてのものだったのではないかと推測されます」と述べているが、上記の五島会長の談によると外資導入に向けての米国建設会社との協議資料だった可能性が高いのではないか?
本社 (略)面も東海バスなんかも合併したいという以降もあるような話も聞いたんですが、伊豆半島というものに対しては相当やはり熱意を以てやられる予定ですか。
五島 そうそう。あれを見てくれ。(会長室の壁には東京から伊豆半島までの大きな地図が張られ、赤線で新計画のターンパイクが書きこまれている。)渋谷から箱根峠まで出願して、箱根峠から向うはいず開発のスカイライン、分水嶺を通って88キロある。これが25億かかる。箱根峠までに160億かかる。ということで、こんなものはすぐできるよ。一番楽なのは藤沢までだ。あそこまで先ずやって、それからあと小田原から箱根峠までが第二期工事で、これをやってみて、熱海専用道路までやってみて、あれから向うの88キロはちょっと考えるよ。あそこまでは一番先にやる。これは間違いなく算盤がとれるんだ。
本社 そうすると、伊豆半島そのものの開発ということはその次のわけですね。
五島 その次だけれども、伊豆半島の開発というものは国家的の問題で、これだけのものを、あそこの88キロ作ってから、ずっと天城から遠笠山まで行くが、この専用道路を作って見たまえ、ここはいつも1日か2日外人が行くのを認めるよ、2日にしたらどれくらい金を落とすか、国民のためだな、少なくとも1日に3万や5万は落としていくな、日本の金で・・・・・・。併しこれを一つ足を長くすれば10万は落とすよ、それだけのものを何人来るか知らんがみんな落とすんだから、どうしても伊豆の開発というものは実につまらんことだけれども、国家的に考えればこれはどうしても作らなければならない。(略)
交通経済1955年1月号24頁から引用
その後、東急は鉄道新線敷設に切り替えていくのであるが、その経緯は下記のようなものである。
「東京急行電鉄50年史」447頁から引用
まあ実際には、箱根ターンパイク部分にしか免許が下りなかったわけだが、その辺を(その3)で追ってみたい。
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■東京江之島間有料専用道路申請書が出て来た~東急ターンパイクの考察(その1)
■東急五島慶太の自動車道計画の全貌~東急ターンパイクの考察(その2)
■何故に東急ターンパイクの免許は認可されなかったのか~東急ターンパイクの考察(その3)
(参考)
■箱根ターンパイクがNEXCO中日本に買収されて子会社になっていた
■東急プラザは東急ターンパイクのバスターミナルになるはずだった
■第三京浜道路調査報告書を読む~玉川ICは、何故そこにあるのか?~
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