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2016年10月に作成された記事

2016年10月31日 (月)

東銀座 幻の地下街について東京都の公式コメント(議会答弁)があった。

 三原橋ネタを見つけるとつい飛びついてしまう革洋同である。

 過去にも、「東銀座「幻の地下街」を作った経緯が(ほぼ)分かった」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/02/post-3bf6.htmlという記事を書いてその太宗を明らかにしたところであるが、東京都議会の会議録に、東銀座幻の地下街に係る東京都の答弁が載っていたことに今更気づいた。

http://asp.db-search.com/tokyo/

東銀座幻の地下街

(※「日比谷線建設史」掲載図面に加筆等したもの)

1969.03.29 : 昭和44年第1回定例会(第7号)

◯議長(大日向蔦次君) 休憩前に引き続き会議を開きます。

 まず、議事部長をして諸般の報告をいたさせます。

   〔星議事部長朗読〕

 一、文書質問に対する答弁書の送付について

(中略)

     ─────────────

四四財主議発第一一六号

昭和四十四年三月二十八日

        東京都知事  美濃部亮吉

 東京都議会議長 大日向 蔦次殿

   文書質問に対する答弁書の送付について

 昭和四十四年第一回東京都議会定例会における左記議員の文書質問に対する答弁書を別紙のとおり送付します。

       記

   加藤 清政議員

   金子 伝吉議員

   青木幸太郎議員

   的場  茂議員

   角田 太郎議員

   山口 虎夫議員

     ─────────────

(中略)

  文 書 質 問 趣 意 書

        提出者  青 木 幸太郎

質 問 事 項

 三原橋、八重洲駐車場、および箱崎インターチェンジについて

 私は中央区選出の議員として、中央区の問題点について質問をいたします。

(中略)

 第二点として、三原橋の両側建物について質問いたします。

 ご存じのように、この建物は都政七不思議の一つとして、都民からひんしゅくをかったものであります。昭和二十七年、この建物の建築途上において銀座一帯の町会、中央区議会を中心として、保守都政に対する批判が集中しました。しかし、都建設局、ならびに東京都観光協会は、世評をよそに建築を強行し、現在にいたったものです。

 都がこの建築を許可することによって、付近の住民は、当初緑地帯として残すと約束してあった土地に建物を建てたことを怒り、一部の人々は都を相手どり損害賠償の訴訟をおこしました。そのため、都は、中央区に管理を移した区有財産である公衆便所と約十坪の土地を蔡明裕に与え、かわりに一二坪以上の公衆便所をつくらせる約束をかわしました。しかしながらその約束はいまだに果たされておりません。

 三原橋の建物は、昭和二十七年から昭和三十三年までの使用許可をしたもので、また、許可の条件として、他に反対がある場合は、いつでも立ち退くという約束のもとに、都が許可したものであります。当然、地元から強い反対があったので、約束に従えば撤去しなければならないはずであるにもかかわらず、いすわりをつづけ、現存しています。その上、建物を撤去するため、一億三千万のお金をかけて昭和四十年三月三原橋の地下街をつくったが、橋上の人々を地下に収容することができないで、地下街を今なお空き家にしていることは納得ができません。明快なる措置について、ご答弁願いたい。なおいやがる中央区から公衆便所を取り上げたが、十年間も、今なお、使用できないで区民に迷惑をかけていることについて、どのような措置をとろうとしているのかを、お答え願いたい。

(中略)

昭和四十四年第一回都議会定例会

 青木幸太郎議員の文書質問に対する答弁書

(中略)

質 問 事 項

 二、三原橋両側建物について

回   答

  三原橋両側建物については、ご指摘のとおり、地元住民の反対があり、昭和三十一年建物撤去に関する請願が都議会に提出され、昭和三十三年九月に採択されたので、その趣旨にそうべく両側土地の使用者に対し、その明渡しを求めるとともに、代替移転先として地下鉄銀座駅のコンコースと線路部分との空間を利用する地下施設を建設することとし、昭和四十年三月その完成をみた。その間この施設の建設と並行して土地の使用者等と明渡し、移転に関し、しばしば折衝を重ねたが、遺憾ながら協議が整わないので、昭和四十三年六月以来法的措置を講ずべく、この土地が国有地であるところから国と協議中である。

  さらに、地下施設の利用については、移転折衝と不可分の関係にあるので、これまでその使用を差し控えていたが、とりあえず都の倉庫または会議室として利用する予定である。

  また、元三原橋橋台敷所在の公衆便所については、蔡明裕の都有地不法占拠により都が訴訟を提起し、昭和三十年十二月、裁判上の和解の結果、蔡が無償で原告の指示どおりにつくって引渡すことになっていたものである。

  しかしながら、蔡は、和解の条件である原有者たる中央区が指示したとおりの構造にせず、しかも地下において一部再び不法占拠をしている疑いがあり、昭和四十一年六月、都は建物収去および土地明渡し等の訴えを提起した。

  その後、蔡は、訴訟中にもかかわらず、上屋を撤去する行為にでたため、昭和四十二年三月、現状凍結のため仮処分を申請、直ちに執行されている。

  現在まで、三回の口頭弁論および延十九回の準備手続を行ない、いまなお訴訟係属中である。

 「法的措置を講ずべく、この土地が国有地であるところから国と協議中」と答弁しているが、13年後の1982(昭和57)年になっても「国とさっそく協議する」なんて言っているような状態であった。

東銀座幻の地下街に係る立ち退き交渉

(1982(昭和57)年4月15日付朝日新聞から引用)

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 この投稿によると、鉄道ジャーナル誌には「地下鉄工事のための三原橋地下の映画館等の代替地」である旨記載されているようであるが、東京都の答弁はこの記事とはニュアンスが異なる。  都の答弁は、「地元から撤去を求められた橋の両側の建物の明け渡しを求めるための代替移転先」であって「地下鉄建設支障による代替地」とは言っていないのである。

 ちなみに、「元三原橋橋台敷所在の公衆便所については、蔡明裕の都有地不法占拠により都が訴訟を提起し、昭和三十年十二月、裁判上の和解の結果、蔡が無償で原告の指示どおりにつくって引渡すことになっていたもの」というのは、下記の新聞記事を読むと経緯がわかる。

三原橋公衆便所

(1966(昭和41)年4月20日付毎日新聞から引用)

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2016年10月30日 (日)

小田原厚木道路は河野一郎の政治路線だった?

 建設省→日本道路公団→コンサルタントと戦後の道路建設に携われていた武部健一氏の遺著「道路の日本史 - 古代駅路から高速道路へ (中公新書) 」については、今更私ごときが語るべきものではない名著であるのだが、小田原厚木道路について触れており、「ああこのことは書いても問題ないのだな」と思ったので、表記のタイトルになったわけである。

 

 先に、「清水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(4)」で引用した「道を拓く 高速道路と私」に、その題名もズバリ「河野号令にびっくり」ということで小林 元橡氏(建設省道路局高速道路課長等を歴任)が下記のように述べている。

小田原厚木道路は河野一郎の政治路線だった2

 (武部氏の記述よりも小林氏の記述の方が詳しいのは、実際に建設省の課長として直接河野大臣と対峙したからなのであろうか?)

1962(昭和37)年8月7日付朝日新聞では下記のように報じられている。

小田原厚木道路は河野一郎の政治路線だった3

 小林氏の高速道路課長在任期間は、1962(昭和37)年8月10日から1965(昭和40)年1月16日までということだから、整合性はとれる。

 しかし、通常の公共工事は、大まかに言うと、前年の夏に概算要求→前年の年末に大蔵省(当時)予算折衝→政府予算案決定→年度末の国会で予算決定→新年度から予算執行できる・・・という経緯が必要なのに、8月の記者会見で「有料道路として今年末にも着手させる意向」とは驚きだ。

 もっとも、小林高速課長には「調査3日、計画設計3週間、工事3か月で完成」と下命したというのだからもっと驚きだ。

 また、「日本道路協会50年史」に収録されている座談会「富樫凱一氏を囲んで」では、下記のやりとりが収録されている。

小田原厚木道路は河野一郎の政治路線だった

 富樫凱一氏、高橋國一郎氏ともに、建設省道路局長及び日本道路公団総裁を歴任している。文中の「名神高速のルート」は、「東名高速のルート」の誤植ではないか

 河野一郎氏の地盤は小田原周辺である。河野洋平氏を経て現在も孫の河野太郎氏が地盤を引き継いでいる。

 河野一郎氏は「東名を自分の方(小田原)にもってこい」というようなことを建設大臣就任時に主張して、それをはねつけた富樫凱一日本道路公団副総裁(当時)が更迭されたと読める。

 土木学会のサイトによると富樫凱一氏は「1962年日本道路公団副総裁、1966年より1970年まで総裁」とあり、コトバンクによると「(昭和)37年三菱地所取締役、39年菱和不動産社長を経て、41年日本道路公団総裁」とある。

 対談中の「河野一郎さんの頼みをはねつけてしばらくやめられた」というのが「37年三菱地所取締役、39年菱和不動産社長」という時期にあたるのか?

 河野一郎氏は、1965(昭和40)年に亡くなっているから、河野氏の没後に富樫氏は復権(道路公団総裁就任)したということか?

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 時系列で再整理してみよう。

1962(昭和37)年7月18日  池田改造内閣成立・河野一郎建設大臣就任

1962(昭和37)年8月7日 記者会見で「東海道新バイパス」の建設を発表

1963(昭和38)年3月22日 道路審議会 小田原厚木間だけを二級国道に指定するよう答申

小田原厚木道路は河野一郎の政治路線  (1)

1963(昭和38)年3月30日 二級国道の路線を指定する政令を改める政令で二級国道271号小田原厚木線だけを追加

小田原厚木道路は河野一郎の政治路線  (3)

 自分の選挙区に自分で国道を引っ張て来るだけの政令に署名。これぞ「ザ・政治路線」って感じですな。

https://www.digital.archives.go.jp/das/image-j/F0000000000000113272

1963(昭和38)年4月1日 上記政令施行

1964(昭和39)年1月23日 一般有料道路小田原厚木道路 事業許可

1965(昭和40)年7月8日 河野一郎氏死去

1966(昭和41)年 富樫凱一氏 日本道路公団総裁に就任(道路公団に復帰)

1969(昭和44)年3月19日 一般有料道路小田原厚木道路 供用開始

 

 いやはや物凄く短期間で異例である。

 通常、国道昇格にあたっては2年程かけて調整し、数十本の国道をまとめて昇格させるのだが、大臣の記者会見から半年で道路審議会から政令制定まで終わって、政令制定から施行も通常1年後なのに2日後に施行である。それも271号小田原厚木線一本のためだけの手続きなのである。

 すさまじいのは、法令審査の短期間ぶりだ。3月25日に道路審議会の答申があった後、同日付で建設省が内閣法制局に持ち込み、法令審査を3月28日に終え、3月29日に閣議という超綱渡りスケジュールである。はっきり言ってこんな短期間の審査はありえない。並みの政治路線ではない。

小田原厚木道路は河野一郎の政治路線2

小田原厚木道路は河野一郎の政治路線  (2)

 当該資料は、国立国会図書館デジタルアーカイブで見ることができる。

https://www.digital.archives.go.jp/das/image/M0000000000001454032

小田原厚木道路は河野一郎の政治路線  (4)

 法令審査資料に添付されている図面には「厚木-小田原線」と書いてある。

 かねがね、「なぜ厚木起点ではなく小田原起点なのだろうか?」と疑問を持っていたのだが、やっぱり厚木起点だよねえ。河野一郎に配慮して小田原起点にしたのかしらん。それとも一級国道1号から分岐する方を起点とすることが法令上のテクニックとして重視されたのだろうか?

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 実は、この記事は「道路の日本史」出版前に「道を拓く 高速道路と私」で当該記述を見つけて着手していたのだが、「道路の日本史」であらかた出てしまった。そこでこのままではわざわざブログに書く意味がなくなってしまうのでチマチマと補足資料を追加していったので公開に時間がかかってしまった。(その間にwikipedia等にも出てしまい、記事としてはおもしろみが半減してしまったので残念である。)

 「道路の日本史」発売直後にコピペして金をとる記事にしてしまうような佐藤健太郎氏のような厚顔無恥ではないのでな。(「国道者」参照のこと。サイエンスライターって楽な商売だねえ。。。)

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2016年10月 3日 (月)

バスタ新宿の成功に味を占めた国交省道路局がバスタプロジェクトを立ち上げて全国にバスタを作る構想がでてきた

 これまでバスタ新宿については幾つかの記事を書いてきた。

 ここで、国土交通省が「バスタプロジェクト」を立ち上げて全国にバスタを作る構想がでてきた

 2016年9月27日に開催された社会資本整備審議会道路分科会第55回基本政策部会http://www.mlit.go.jp/policy/shingikai/road01_sg_000316.html における資料を見てみよう。

バスタ新宿に味を占めた国交省がバスタプロジェクト展開の構想 (1)

 複数の交通機関の結節点「マルチモードバスタ」

バスタ新宿に味を占めた国交省がバスタプロジェクト展開の構想  (7)

 高速道路のSAPAを活用した「ハイウェイバスタ」

バスタ新宿に味を占めた国交省がバスタプロジェクト展開の構想  (6)

 道の駅等を活用した「地域の小さなバスタ」

バスタ新宿に味を占めた国交省がバスタプロジェクト展開の構想  (2)

を道路事業として推進していくのだという。

(上記資料はいずれもhttp://www.mlit.go.jp/common/001146884.pdfから引用)

 上記でも紹介したブログ記事バスタ新宿は、やっぱり国道20号だった。を追認するかのように、バスタ新宿の立体道路区域についての紹介資料も掲載されている。

バスタ新宿に味を占めた国交省がバスタプロジェクト展開の構想 (3)

 国土交通省道路局としては、立体道路制度を積極的に活用して交通結節点整備を進めていくようだ。http://www.mlit.go.jp/common/001146885.pdf

バスタ新宿に味を占めた国交省がバスタプロジェクト展開の構想 (4)

 

 なお、「交通ジオメディアサミット 〜 IT×公共交通 2020年とその先の未来を考える〜」 でも指摘された「国土数値情報におけるバス停情報の古さ」については問題意識がもたれている模様である。

バスタ新宿に味を占めた国交省がバスタプロジェクト展開の構想 (2)

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※ 上記審議会資料に添付されている モーダルコネクトの強化「バスを中心とした道路施策(たたき台)」参考資料集

http://www.mlit.go.jp/common/001146881.pdf

 は、バスを中心とした公共交通網について脳内妄想を垂れ流すのが大好きな方にはこたえられない資料が満載なのでマニアックな方は是非。

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