小田原厚木道路は河野一郎の政治路線だった?
建設省→日本道路公団→コンサルタントと戦後の道路建設に携われていた武部健一氏の遺著「道路の日本史 - 古代駅路から高速道路へ (中公新書) 」については、今更私ごときが語るべきものではない名著であるのだが、小田原厚木道路について触れており、「ああこのことは書いても問題ないのだな」と思ったので、表記のタイトルになったわけである。
先に、「清水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(4)」で引用した「道を拓く 高速道路と私」に、その題名もズバリ「河野号令にびっくり」ということで小林 元橡氏(建設省道路局高速道路課長等を歴任)が下記のように述べている。
(武部氏の記述よりも小林氏の記述の方が詳しいのは、実際に建設省の課長として直接河野大臣と対峙したからなのであろうか?)
1962(昭和37)年8月7日付朝日新聞では下記のように報じられている。
小林氏の高速道路課長在任期間は、1962(昭和37)年8月10日から1965(昭和40)年1月16日までということだから、整合性はとれる。
しかし、通常の公共工事は、大まかに言うと、前年の夏に概算要求→前年の年末に大蔵省(当時)予算折衝→政府予算案決定→年度末の国会で予算決定→新年度から予算執行できる・・・という経緯が必要なのに、8月の記者会見で「有料道路として今年末にも着手させる意向」とは驚きだ。
もっとも、小林高速課長には「調査3日、計画設計3週間、工事3か月で完成」と下命したというのだからもっと驚きだ。
また、「日本道路協会50年史」に収録されている座談会「富樫凱一氏を囲んで」では、下記のやりとりが収録されている。
富樫凱一氏、高橋國一郎氏ともに、建設省道路局長及び日本道路公団総裁を歴任している。文中の「名神高速のルート」は、「東名高速のルート」の誤植ではないか?
河野一郎氏の地盤は小田原周辺である。河野洋平氏を経て現在も孫の河野太郎氏が地盤を引き継いでいる。
河野一郎氏は「東名を自分の方(小田原)にもってこい」というようなことを建設大臣就任時に主張して、それをはねつけた富樫凱一日本道路公団副総裁(当時)が更迭されたと読める。
土木学会のサイトによると富樫凱一氏は「1962年日本道路公団副総裁、1966年より1970年まで総裁」とあり、コトバンクによると「(昭和)37年三菱地所取締役、39年菱和不動産社長を経て、41年日本道路公団総裁」とある。
対談中の「河野一郎さんの頼みをはねつけてしばらくやめられた」というのが「37年三菱地所取締役、39年菱和不動産社長」という時期にあたるのか?
河野一郎氏は、1965(昭和40)年に亡くなっているから、河野氏の没後に富樫氏は復権(道路公団総裁就任)したということか?
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時系列で再整理してみよう。
1962(昭和37)年7月18日 池田改造内閣成立・河野一郎建設大臣就任
1962(昭和37)年8月7日 記者会見で「東海道新バイパス」の建設を発表
1963(昭和38)年3月22日 道路審議会 小田原厚木間だけを二級国道に指定するよう答申
1963(昭和38)年3月30日 二級国道の路線を指定する政令を改める政令で二級国道271号小田原厚木線だけを追加
自分の選挙区に自分で国道を引っ張て来るだけの政令に署名。これぞ「ザ・政治路線」って感じですな。
https://www.digital.archives.go.jp/das/image-j/F0000000000000113272
1963(昭和38)年4月1日 上記政令施行
1964(昭和39)年1月23日 一般有料道路小田原厚木道路 事業許可
1965(昭和40)年7月8日 河野一郎氏死去
1966(昭和41)年 富樫凱一氏 日本道路公団総裁に就任(道路公団に復帰)
1969(昭和44)年3月19日 一般有料道路小田原厚木道路 供用開始
いやはや物凄く短期間で異例である。
通常、国道昇格にあたっては2年程かけて調整し、数十本の国道をまとめて昇格させるのだが、大臣の記者会見から半年で道路審議会から政令制定まで終わって、政令制定から施行も通常1年後なのに2日後に施行である。それも271号小田原厚木線一本のためだけの手続きなのである。
すさまじいのは、法令審査の短期間ぶりだ。3月25日に道路審議会の答申があった後、同日付で建設省が内閣法制局に持ち込み、法令審査を3月28日に終え、3月29日に閣議という超綱渡りスケジュールである。はっきり言ってこんな短期間の審査はありえない。並みの政治路線ではない。
当該資料は、国立公文書館デジタルアーカイブで見ることができる。
https://www.digital.archives.go.jp/das/image/M0000000000001454032
法令審査資料に添付されている図面には「厚木-小田原線」と書いてある。
かねがね、「なぜ厚木起点ではなく小田原起点なのだろうか?」と疑問を持っていたのだが、やっぱり厚木起点だよねえ。河野一郎に配慮して小田原起点にしたのかしらん。それとも一級国道1号から分岐する方を起点とすることが法令上のテクニックとして重視されたのだろうか?
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実は、この記事は「道路の日本史」出版前に「道を拓く 高速道路と私」で当該記述を見つけて着手していたのだが、「道路の日本史」であらかた出てしまった。そこでこのままではわざわざブログに書く意味がなくなってしまうのでチマチマと補足資料を追加していったので公開に時間がかかってしまった。(その間にwikipedia等にも出てしまい、記事としてはおもしろみが半減してしまったので残念である。)
「道路の日本史」発売直後にコピペして金をとる記事にしてしまうような佐藤健太郎氏のような厚顔無恥ではないのでな。(「国道者」参照のこと。サイエンスライターって楽な商売だねえ。。。)
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コメント
つまり小田原厚木道路は政治路線の無駄な公共事業であって建設されるべきではなかった路線ということですね。
投稿: | 2020年5月10日 (日) 22時13分
現在は相当利用されていますから無駄とは言いませんが、建設される時期は、河野一郎の政治力がなければ、もっと遅くなっていたと思います。
投稿: 革洋同 | 2020年5月16日 (土) 17時06分