森口将之氏が「首都高速ではない首都高速? 無料で走れるKK線が生まれた理由」http://getnavi.jp/vehicles/80733/という一文をGetNaviwebという媒体で発表しているのがひっかかった。
ざっくりまとめると「東京高速道路株式会社線(KK線)は、ビルの賃貸料収入で運営しているので無料だ。首都高も一部でも導入していれば高速料金が安くなったのに」ということらしい。
どうも、ツッコミどころ満載である。
■ 無料ならなんでもいいのか?
森口将之氏はこう記す。
銀座でKK線の脇を歩いたことがある人なら、下に飲食店などが入っていることを知っているはず。実はこれらのお店からの賃貸料収入で運営しているのだ。KK線が部分開業したのは1959年で、首都高速より早いのだが、そうとは思えないほど先進的な思想にあふれた道なのである。
東京高速道路のなりたちを全く知らないような素朴な書きぶりだ。
では、私お得意の国会議事録から東京高速道路が建設された当時にどのような扱いになっていたかを紹介してみよう。
■ 東京高速道路(KK線)は自民党議員からも「利権道路」と呼ばれていた
○久野(忠治)委員 今日交通需要が限界に達しておることは衆目の見るところでございます。こうした点から一部経済人がこれに目をつけまして、御存じの通り新橋―京橋間に東京高速自動車道路の建設が計画をされ、目下この事業が進行中でございまするが、数年前に計画されたこの事業が今もって完成をしないのであります。しかも当建設委員会におきましては、この高速自動車道路の建設については多分な疑惑の目をもって見ておりまして、そうしてこの内容についても幾多の質疑が発せられました。そのとき――この問題には関係ありませんけれども、重要でありますから一つお尋ねをいたしたいと思うのであります。その際私が質問をいたしましたことはこういうことでありました。その下部の利用は一体何にするかという質問に対して、当時の東京都の副知事――名前はちょっと忘れましたが、副知事はこう答えました。
倉庫もしくはガレージに利用する、こう言ったのであります。
万一その利用目的が変った場合にはどういう処置をとるかという質問に対して、撤去を命ずる、こう言いました。それからもう一つ、
この都市計画全体からいって、下水あるいは雨水の排水のための重要な都市水路であるから、これは残しておくべきではないかという意見もそのときに出たのであります。その質問に対しては、地下はいわゆる水路として残しておくように設計をされておる、万一それを埋め立て等にする場合があれば、これまた当初の設計に反するものであるから撤去を命ずるということを、現に当委員会で言明をされたのであります。それは当時の建設委員会の速記録をお調べになればよくわかることでございます。ところが今日でき上りましたものを拝見いたしますると、
堂々たるキャバレーができたり、あるいは飲食店ができたり、事務所ができたり、倉庫というのは名ばかりで、今ガレージなどというのは名目的に一、二カ所あるだけでございます。それから私たちが指摘をいたしましたように、地下の水路はすでに埋め立てをいたしてしまいまして、そうしてこれを地下の倉庫に利用しようといたしております。そうして莫大な利権を握って、東京都の交通難を緩和するという美名に隠れて利権のちまたにこれがなろうとしていることは、衆目の見るところであります。
○西村委員長 それからこれは今日私風評で聞いておるのでありますが、設計変更の認可もないうちに高速自動車の私営のやつが行われている。しかもこれは世間では利権道路と言っているということ、そういうことからくる都の機構、あるいはその行政の運営に対しての疑惑というものも世間に伝えられている。
この久野委員も西村委員長も自民党である。野党が政府を追及しているわけではない。
「テナント料で費用を賄っているので高速道路料金はタダ!民間の知恵だ!PFIの先駆けだ!」と持て囃されているKK線であるが、当時の国会では与野党こぞっての「利権」集中砲火であった。
なお、今のコリドー街やGINZA9等を考えると上記で「倉庫、ガレージ」と議論しているのは違和感を感じるが、「もともと倉庫、ガレージにしか使わせない」という目的で許可を得ておきながら後で知らぬ間に飲食、店舗等に使わせることになっていたというのも世間から指弾された点である。
こんなことは、国会議事録で検索すればすぐ分かる話だ。
ちなみに、当時の新聞記事ではこんな扱いである。
1956(昭和31)年9月6日付読売新聞から引用
東京高速道路は「利権の長城」と呼ばれていたと書いてある。
書籍ではどのように扱われているかも見てみよう。
とくに革新系の庁内誌「都政新報」社がつくったパンフレット「東京の七不思議-裏から見た都政」は、都内の一般書店でも販売されて都民の反響が大きく、安井都政の汚職批判はかなり都民に浸透した。
この「七不思議」のうち、もっとも有名なのはすでにのべた数寄屋橋の下の濠を埋め立て、いま京橋から新橋へかけて高速道路が走っているが、この高速道路建設の名目でその下につくれらた(ママ)貸ビルの問題である。安井知事は、このためにできた「東京高速道路株式会社」なる民間会社に、この外濠の埋立権を与え、六千坪の土地に地上二階地下一階の貸ビルをつくって営業してもよいことにしてしまった。(一九五七年七月、フードセンター、数寄屋橋ショッピングセンターなど開業。)埋め立ての費用は都が負担し、この会社からとる地代は月坪四百円。当時この辺は坪当たり地価五万円といわれていたから、会社は店子から莫大な家賃や権利をとれるはずだ。
「東京都知事」日比野登著 41~42頁から引用
都民の公共資産である外堀の埋め立て地を特定の企業が安価に都から手に入れて高額なテナント料を手に入れる・・・そのおこぼれとしての料金無料なのである。
東京高速道路は、35年たてば東京都に寄付されるはずだったが、それを拒んだため東京都が東京高速道路を相手取り、訴訟を提起した。結果は第一審から最高裁まですべて都が勝訴。結果的に東京高速道路が都から買収する形で現在に至っている。このズブズブが森口将之氏のいうところの「先進的な思想にあふれた道」なのである。
1988(昭和63)年6月22日付読売新聞から引用
コンプライアンス的に言えば、東京高速道路株式会社は、超ブラック企業である。森口将之氏はブラックだろうが利権だろうがタダになれさえすれば「先進的」と言うのだろうか。なんとも貧しいおこぼれ頂戴根性であろうか。
■ 首都高速は一部でもKK線のような高架下建築を導入していないのだろうか?
森口将之氏はこう記す。
なぜ首都高速はKK線のようなビジネススタイルを取り入れなかったのだろうか。一部でも導入していれば高いと言われる料金が少しは安くなったのではないだろうか。
首都高速も高架下への建築は「一部」くらいは導入している。
箱崎の東京シティエアターミナル(T-CAT)等がその例だ。首都高の高架下に道路法に基づく占用許可によって設置されており、道路側に占用料収入が入っているはずである。
また、数は少ないものの高架下に建物を首都高が作り、テナントを入れている。
赤羽橋のあたりを走っていると上記のような高架下建築が見える。
東京都の「平成15年度財政援助団体等監査報告書」には下記のとおり記されている。
http://www.kansa.metro.tokyo.jp/PDF/03zaien/15zaien/15zaien362.PDF
本事業は、2号目黒線高架下において、移転困難な地権者に対し、昭和43年から公団が施設(事務所・店舗用、駐車施設等)を設置し賃貸しているものであり、平成14年度の総収益は6,208万余円で、前年度に比べ232万余円(3.6%)減少している。一方、総費用は4,576万余円で、311万余円(7.3%)増加したため、当期利益金は1,631万余円となり前年度と比較して543万余円(25.0%)減少している。
■ 首都高速は、実はやる気マンマンであった
下記は、1959(昭和34)年に東京都が作成した「東京都市高速道路の建設について」という冊子からの引用である。首都高設立に向けての東京都のPR資料と思われる。
このように現在と異なり、首都高速は東京高速道路株式会社と同様に高架下建物の建設に積極的だったように見える。これが実際にはT-CATと「移転困難な地権者向け」等に縮小してしまった(もっとも駐車場や公園としての活用はされているが。)。
なぜ、そうなったのだろうか?
冒頭に引用した国会議事録は首都高速道路計画の審議の際の発言である。それだけ都市内高速道路の建設にあたっては、「利権道路」東京高速道路がトラウマになっており、「KK線の再現は許さない」空気があったのではないか。事実、首都高速道路公団法案の国会審議には何度となくKK線についての質疑がなされ、東京高速道路社長まで参考人で呼び出されている。
また、タイミングの悪いことに、国鉄でも「ガード下疑惑」のようなものが持ち上がっていた。鉄道会館事件や京急デパート事件のように身内に便宜を図ったり、ガード下にテナントが入れるように便宜を図ることで国鉄職員が収賄で逮捕されるといった疑惑・汚職を招く一方、アメ横のガード下等は転貸に転貸を重ね、地主である国鉄も管理できないありさまであった。別の記事でも触れているが国会の場で当時の総裁が何度も陳謝している状況である。
1954(昭和29)年10月9日付朝日新聞から引用
(参考)「小林一郎著「ガード下」の誕生-鉄道と都市の近代史(祥伝社新書)が糞だった(その2)」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/--c177.html
このように世間は「高架下(ガード下)利権許すまじ」の情勢があったのは間違いない。そこに運悪く首都高が巻き込まれて高架下の積極的な利活用に制限がかかってしまったのではないか。
そして、建設省は「高架道路の路面下の占用許可について」(昭和40年8月25日付け建設省道発第367号建設省道路局長通達。平成17年廃止)を発出し、道路の高架下利用を非常に限定的に行うこととした。鉄道のバラエティあふれる高架下の利用に対して、道路の高架下の利用が公園、駐車場等が主であり、商業用施設が極めて限定されてきたのはこの通達によるものである。
(この直前に、新幹線の高架下利用が問題となっており、その影響があったのかもしれない。)
1964(昭和39)年5月4日付朝日新聞から引用
(「建設のうごき」No.109号11頁から引用。)
直接的な証拠が見つけられておらず、個人的な感想にとどまるのであるが、「KK線が高架下の活用ができているのに首都高はできない」のではなくて、「KK線や国鉄がやりすぎたので、そのあおりをくらって首都高は大した高架下の活用ができなくなった」のではないかと思っている。
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ところでKK線は役に立っているのだろうか?
「山田天皇」と呼ばれた東京都元首都圏整備局長の山田正男氏は下記のように述べている。
(「時の流れ・都市の流れ」24頁から引用)
「1km余で取付道路がどちらも並木通りではどうにもならないが」「遅まきながら」後付けで首都高のネットワークに取り込んでやって解決したということだ。
商業利用が期待できる箇所だけのおいしいところどりの1km余ではどうにもならなかったのを都が救済してやったということである。
森口将之氏は何を書いている人なのか実はよく知らないのだが、交通機関やその社会的背景等を真面目に勉強してから、書いてみた方が宜しいのではないか?
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