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2016年11月に作成された記事

2016年11月23日 (水)

首都高初期のパンフ「伸びゆく首都高速道路」

 先の記事でUPした「首都高速道路公団のあらまし」よりも後に作られたパンフレットのようで、建設事業が進んでいることが伺えるものだ。

伸びゆく首都高速道路 (1)

 いわゆる「表4」の部分が柿色である。表紙が建設中の鉄骨を映していることを考えると、錆止めの柿色が当時の首都高を象徴するカラーだったということだろうか。

伸びゆく首都高速道路 (2)

伸びゆく首都高速道路 (3)

伸びゆく首都高速道路 (4)

伸びゆく首都高速道路 (5)

 皇居前のオート3輪!

伸びゆく首都高速道路 (6)

「首都高速道路の必要性」

伸びゆく首都高速道路 (7)

伸びゆく首都高速道路 (9)

伸びゆく首都高速道路 (8)

「首都高速道路公団の誕生」

伸びゆく首都高速道路 (10)

伸びゆく首都高速道路 (12)

 汐留付近は、首都高速道路公団設立前から、日本道路公団が建設に着手していたため、この頃では最も工事が進んでいるようだ。

伸びゆく首都高速道路 (11)

伸びゆく首都高速道路 (13)

伸びゆく首都高速道路 (15)

 都心の運河を掘割式の高速道路に施工中の様子が分かる。

伸びゆく首都高速道路 (14)

「首都高速道路構造別平面図」

伸びゆく首都高速道路 (16)

 隅田川にクレーン船が多数取り付いて6号線の施工をしている様子。

伸びゆく首都高速道路 (18)

 「記念病院」とあるのは、同愛記念病院かな?

伸びゆく首都高速道路 (17)

伸びゆく首都高速道路 (19)

 「首都高速道路公団のあらまし」にも出てきた東京タワー周辺のフォトモンタージュ

伸びゆく首都高速道路 (21)

伸びゆく首都高速道路 (20)

伸びゆく首都高速道路 (22)

伸びゆく首都高速道路 (24)

 今話題の築地市場付近のフォトモンタージュ

 「迂回は有楽町線。」の記述が気になる。8号線を有楽町線と呼んでいたのだろうか?

伸びゆく首都高速道路 (23)

 こちらは、渋谷駅付近で山手線を跨ぐ箇所のフォトモンタージュ

伸びゆく首都高速道路 (25)

伸びゆく首都高速道路 (27)

「立体交差」 完成時にはそのダイナミックなスケールと、そのメカニックな美しさのため東京の新名所となることでしょう。

 「日本橋を跨ぐことで景観が(略)」というのは、やはり後付けの理屈で、当時はこれこそが「美しさ」だったのだ。

伸びゆく首都高速道路 (26)

「首都高がないと、将来一般道だけでは渋滞してこんなに時間がかかっちゃいますよ」というグラフ

伸びゆく首都高速道路 (28)

「用地などの補償について」 自転車で用地買収の交渉に行ってきまーす

伸びゆく首都高速道路 (30)

伸びゆく首都高速道路 (31)

「駐車場整備計画」

伸びゆく首都高速道路 (33)

伸びゆく首都高速道路 (32)

伸びゆく首都高速道路 (34)

伸びゆく首都高速道路 (36)

 オリンピックまでに供用する路線のなかで2号線もあげられているが、地元の反対運動もあって間に合わなかった。

伸びゆく首都高速道路 (35)

「首都高速道路案内図」

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首都高初期のパンフ「首都高速道路公団のあらまし」

 早大大学史資料センターに、首都高速の立ち上げのころのパンフがあったのでUPしてみる。背景等はさんざん前の記事でやったので、淡々とUPするだけ。これも西武の堤康次郎が保管していたもの。

首都高速道路公団事業のあらまし  (1)

 表紙は、日本橋を渡るところだ。「景観が(略)」と言われがちなところであるが、首都高も意識していたのか、それとも逆に「日本橋を高架橋が乗り越えていくところこそ首都高の象徴となるシーン」と考えていた(世間もそれを受け入れていた)のかなとも思う。

首都高速道路公団事業のあらまし  (34)

首都高速道路公団事業のあらまし  (35)

 今は、首都高の英訳は「Metropolitan Expressway」であるが、当初路線は都内(23区内)しかなかったからなのか「Tokyo Expressway」である。

 左下の「HEIBON」は何だろうか。気になる。

首都高速道路公団事業のあらまし  (2)

 旧標識好きな方にはお喜びいただけるのではないか。走行していてこれを瞬時に判別できるかどうかは微妙だが。

首都高速道路公団事業のあらまし  (4)

 「首都高速道路の必要性」

首都高速道路公団事業のあらまし  (3)

首都高速道路公団事業のあらまし  (5)

首都高速道路公団事業のあらまし  (7)

首都高速道路公団事業のあらまし  (6)

「人口の増加」

首都高速道路公団事業のあらまし  (8)

首都高速道路公団事業のあらまし  (9)

 橋が見えるのでどこかの川を締め切って工事をしているところだろうか?

首都高速道路公団事業のあらまし  (10)

「自動車の激増」

首都高速道路公団事業のあらまし  (11)

首都高速道路公団事業のあらまし  (13)

「ビルラッシュと住宅団地の発達」

首都高速道路公団事業のあらまし  (14)

首都高速道路公団事業のあらまし  (16)

首都高速道路公団事業のあらまし  (15)

「首都高速道路公団の誕生」

首都高速道路公団事業のあらまし  (17)

東京タワー周辺のフォトモンタージュ

首都高速道路公団事業のあらまし  (19)

首都高速道路公団事業のあらまし  (18)

首都高速道路公団事業のあらまし  (20)

首都高速道路公団事業のあらまし  (22)

「首都高速道路案内図」

首都高速道路公団事業のあらまし  (21)

「首都高速道路公団の事業内容」

首都高速道路公団事業のあらまし  (23)

首都高速道路公団事業のあらまし  (25)

「首都高速道路建設路線」

首都高速道路公団事業のあらまし  (24)

「首都高速道路の建設計画」

首都高速道路公団事業のあらまし  (26)

首都高速道路公団事業のあらまし  (28)

「首都高速道路はどんな道路か」

 気になるのは「B」の「一般宅地の上を通る場合」

 先に紹介した「東京都市高速道路の建設について」は積極的に高架下に住宅、店舗を導入するイメージだったのに、それについての言及が無くなっている。イラストは建築物が入りそうな感じではあるが。

首都高速道路当初の高架下建築計画

首都高速道路公団事業のあらまし  (27)

首都高速道路公団事業のあらまし  (29)

首都高速道路公団事業のあらまし  (31)

「首都高速道路の資金計画」

「用地などの補償について」

首都高速道路公団事業のあらまし  (30)

「駐車場整備計画」

首都高速道路公団事業のあらまし  (32)

首都高速道路公団事業のあらまし  (33)

「一般道路と高速道路を走行した場合の比較効率」

首都高速道路公団事業のあらまし  (36)

「首都高速道路ができた場合の効果」

 

 次は「伸びゆく首都高速道路」という、これよりも後年に発行されたと思われるパンフを紹介したい。http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-8798.html

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2016年11月22日 (火)

「東京道路奇景」(川辺謙一・著)を読んでいて「東京都市高速道路の建設について」に関心を持った方に全部見せちゃう。

 「東京道路奇景」川辺謙一・著 草思社・刊 を読んでいて引用されている「東京都市高速道路の建設について」に関心を持った方もいらっしゃるだろう。太っ腹な私がそんなあなたに全部見せちゃう。

 ただスキャンするだけじゃアレなのでところどころにネタというか解説も突っ込んでいこう。自分も過去にこの資料をネタに幾つかブログの記事を書いているので併せてご紹介したい。

東京都市高速道路の建設について (1)

 首都高速道路公団ではなく、その設立前に東京都が作成している。

東京都市高速道路の建設について (2)

東京都市高速道路の建設について (3)

東京都市高速道路の建設について (4)

 「昭和40年の交通危機」という言葉が出てくるが、首都高速は東京オリンピックを目指して計画されたのではなく、もともと、昭和40(1965)年ごろには道路交通がパンクするため、対策を講じなければならないということで着手されたものなのだ。

東京都市高速道路の建設について (7)

東京都市高速道路の建設について (8)

 皇居の堀が見えているので日比谷交差点の風景かな?

 戦前にここに防空壕の機能も兼ねた地下道の計画(宮城外苑地下道計画)があった。

宮城外苑地下道計画1

「山田正男「宮城外苑地下道計画案に就いて」」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/post-6c82.htmlに紹介している。

東京都市高速道路の建設について (5)

東京都市高速道路の建設について (6)

 「都市高速道路は高架式が普通です。」と見出しをつけておきながら、写真は掘割部である。都心の河川を干拓して高速道路を作るにあたって、関係者にこの写真を見せて「こんな風に出来ます」と説明していたのだろうか。(尤も、この写真は片側3車線なので随分イメージが異なるが。)

東京都市高速道路の建設について (9)

 当初は、首都高速は「インターチェンジ」と「ジャンクション」ではなく、「ランプ」と「ジャンクション」だった。平成初期まではそうだったはず。

 この写真も「高速道路同士を立体交差で接続するときはこうなるんですよ。これをインターチェンジというんです」なんて言いながら見せていたんだろうか。

昔の首都高のインターチェンジとランプ

(「ワイドミリオン全東京1/1万」東京地図出版・刊 1992年1月発行 から引用)

東京都市高速道路の建設について (10)

 昭和28年4月28日に、首都建設委員会は「首都高速道路に関する計画」の勧告を発表している。 その路線図に着色して分かり易くしたものが下記の路線図である。

昭和28年の首都高速道路網図

 詳細は「昭和28年の首都高速道路計画」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/07/28-7e37.htmlをご覧いただきたい。

東京都市高速道路の建設について (11)

 上段部分が、路線選定の考え方を紹介している。首都高速はオリンピックに間に合わせるために河川や運河の上を通ったのではなく、オリンピック決定のはるか前から河川や運河の上を通る計画だったことが分かる。

 また、下段部分の「附帯意見」では

「2 皇居の南側において国会方面から銀座方面に通づる路線の計画につき検討する。」とある。

 これの名残が、現在のJR有楽町駅付近の日比谷地下道である。

日比谷地下道

三原橋地下街を潰すはずだった銀座地下道計画

(「都市計画と東京都」都政調査会発行(1960)から引用)

 ※日比谷地下道は、上記「附帯意見2」の首都高路線の代わりに、都道として計画されたが、紆余曲折あって今のような中途半端な地下道ができたのである。

 ブログでは「東京五輪関連:地下鉄と競合して未成となった銀座の地下自動車専用道路にして首都高速計画線の名残」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/03/--4890.htmlに記してあるのでご覧いただきたい。

 同様に「3 外濠と日本橋河を利用する区間については神田川との治水上の関連を真重(ママ)に検討のうえ可能ならば河川を通すこと」としており、昨今非難されがちな「日本橋の上を通る首都高」は、本来は「日本橋の下を通る首都高」となるはずだったのである。

首都高と日本橋の位置関係

(「東京の都市計画に携わって-元東京都首都整備局長・山田正男氏に聞く」84頁から引用)

東京都市高速道路の建設について (12)

東京都市高速道路の建設について (13)

東京都市高速道路の建設について (14)

 首都高の一番最初の路線網である。これの大判の青焼き図面を早大大学史資料センターで見たことがある。

首都高速道路初期の青焼き図面 (2)

 右上に赤鉛筆で「大将用」と書いてある。西武鉄道の堤康次郎個人用ということだ。堤康次郎は多くの高速道路関係資料を収集していた。その目的は西武建設の名神高速建設工事であり、近江鉄道バスの名神高速への乗り入れであったりするのだが。

首都高速道路初期の青焼き図面 (1)

 赤ペンで印が入っているのは芝のプリンスホテル等であろうか?

東京都市高速道路の建設について (15)

 「民地の買収による都民の迷惑をできる限りさける」「多少の線形の屈曲を犠牲」とある。首都高はカーブが多くてなんだ!とお怒りの方は「都民の迷惑」も少しは考えた方がいいのかもしれない。

 「高架構造物の路下を建築物として利用」という点についてはおって触れたい。

東京都市高速道路の建設について (16)

 「あれ?都心環状線が無いぞ?」と気が付いた方はいらっしゃるだろうか?

 実は、本来は放射路線となっている2号、3号、4号の一部が、通称「都心環状線」を形成しているのである。

伸びゆく首都高速道路 (35)

(「伸びゆく首都高速道路」首都高速道路公団・刊から引用)

東京都市高速道路の建設について (17)

東京都市高速道路の建設について (18)

 「高架下は軌道がない限り、駐車場に利用」って、軌道すなわち路面電車とは並存する気だったのか。東急玉川線と首都高3号渋谷線は結局玉川線が地下化して首都高と一体構造として整備ということになったが、都電もそのまま残す余地があったのだろうか?

東京都市高速道路の建設について (19)

 「新しい街路にそつた土地の建物を中高層化して共同で店舗,住宅等に利用」というのはオリンピック前の青山通りの拡幅等でも採用された手法だ。

東京都市高速道路の建設について (20)

 首都高では、結局高架下に建築が入ったのは箱崎のTCAT等少数に留まったのだが、当初は積極的に高架下に建物(住宅までも!)を作って積極的に利用する計画だったようだ。

 首都高の高架下利用の経緯については「森口将之氏「首都高速ではない首都高速? 無料で走れるKK線が生まれた理由」は勉強不足」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/kk-9f0e.htmlにまとめてある。

IMG_8117

 上記は実際に首都高が高架下に店舗を建築した例である。

東京都市高速道路の建設について (21)

東京都市高速道路の建設について (22)

 掘割式が「都市の美歓(ママ)上も、工事の点からも最も望ましい構造」だとのことである。

東京都市高速道路の建設について (23)

東京都市高速道路の建設について (24)

 こんな光景は実際には見られないような気がするがどうだろうか。。。

東京都市高速道路の建設について (25)

東京都市高速道路の建設について (26)

 先にも述べたように、オリンピック対策ではなく、昭和40年までに首都高速が出来ないと、都内の道路交通がパンクしてしまうのでその予防のための工程である。

東京都市高速道路の建設について (27)

 首都高速道路公団ができる前に、日本道路公団が2号線等の一部に着工していた。

首都高速道路は日本道路公団が建設開始していた

 「首都高速道路を当初建設着手したのは日本道路公団(JH)だった」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-a9d4.htmlにそのあたりのことを書いてある。

東京都市高速道路の建設について (28)

 当初構想では、1回70円程度の料金を10年前後徴収する計画だったようだ。ここが今とは随分違う点だ。

東京都市高速道路の建設について (29)

東京都市高速道路の建設について (30)

 「東京都市高速道路の建設について」については以上である。振り返ってみると、川辺謙一氏だけではなく私も随分ネタに使っていることだよ。

(追記)

 首都高速の設立当初のパンフレットを下記のとおりUPしたので併せてご覧いただければ。

・首都高初期のパンフ「首都高速道路公団のあらまし」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-2f3b.html

・首都高初期のパンフ「伸びゆく首都高速道路」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-8798.html

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 「東京都市高速道路の建設について」とは関係ないが、「東京道路奇景」では、東京高速道路(KK線)を「都政七不思議」の観点から取り上げている。大変素晴らしい。

 21世紀に入ってからというものの、「都市計画家・石川栄耀―都市探求の軌跡」中島直人、初田香成、佐野浩祥、津々見崇、西成典久・著 鹿島出版会・刊や 「自動車と建築-モータリゼーション時代の環境デザイン」堀田典裕・著 河出書房新社・刊 のように、ロクに調べもせずに、東京高速道路は素晴らしい!石川栄耀マンセー!な本ばかりなところで貴重なスタンスである。最近では「都政七不思議」にからめて東京高速道路を論じていたのは、素で私のブログくらいしかなかったから喜ばしいことである。

 東京高速道路以外の「都政七不思議」に関心を持たれた方は、私の記事「「安井都政の七不思議」って結局どの七つなのか調べてみた。」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/06/post-c0c2.htmlを是非見ていただきたい。

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2016年11月21日 (月)

西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(15・終)エピローグ

 これをもって、連載15回。画像90枚を費やした連載を終了したいと思う。

 いろんな関係者が出てきたが、パワポのプレゼン風に関係者のチャートを作ってみた。

 少しは分かり易くなったかな。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (91)

 

 ところで、これを書いていて思ったんだけど

 俺、西武新宿線の西武新宿駅から電車乗ったこと無いわ。。。。

(追記)

 ベルクの井野店長から過分なお言葉を頂戴しました。ありがとうございます。

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(1)プロローグ

(2)戦前の新宿駅乗り入れ構想

(3)戦後新宿駅乗り入れの具体化へ

(4) 魑魅魍魎うずまく新宿ステーションビル

(5)新宿ステーションビルへの西武線乗り入れ

(6)新宿ステーションビルへの乗り入れ中止

(7)地下道による西武新宿駅と営団地下鉄・国鉄新宿駅との連絡

(8)西武新宿線の営団地下鉄東西線・有楽町線乗り入れ構想

(9)西武新宿駅の開発

(10)西武新宿線の地下複々線化による新宿駅乗り入れ

(11)西武百貨店堤清二による新宿ステーションビル乗っ取り失敗

(12)高島屋、西武に競り勝ち、新宿へ悲願の進出

(13)新宿駅東口2階の吹き抜けに西武新宿線が乗り入れるはずだったのか?

(14)新宿ステーションビルとベルクと井野家

(15・終)エピローグ

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2016年11月20日 (日)

西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(14)新宿ステーションビルとベルクと井野家

 冒頭にも述べたが、このブログをまとめるきっかけになったのが、togetter「幻の西武新宿線のマイシティ(現ルミネエスト)乗入れとベルクさん店内の三本の柱」http://togetter.com/li/984087 にもまとめてある、私の連続ツイートに対するベルク店長井野朋也氏からのリプライである。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (88)

 ベルクさん

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (87)

 確かに太い円柱が見えるがこのままではよく分からない。(店内から撮るのもはばかられるし)

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (81)

(「新宿駅最後の小さなお店ベルク: 個人店が生き残るには?」井野朋也・著 スペースシャワーネットワーク ・刊 から引用)

 この「BERG MAP」には2本しか見えないなあ。。。まあいいか。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (83)

(「建築界」1964年8月号「新宿東口民衆駅の設計計画」 80頁から引用)

 この図面の右上に伸びていくのが西武新宿線のホームに係る柱である。これのどれかにベルク店内の円柱が該当するのであろう。

 ちなみに、上図は完成形だが見ずらい。下図は1959(昭和34)年段階のものなので、詳細な場所は一致しないだろうが、イメージはしやすいのではないか?

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (35)

 「西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(11)西武百貨店堤清二による新宿ステーションビル乗っ取り失敗」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/jr-4b9a.htmlにおいて、西武百貨店(セゾングループ)堤清二氏による新宿ステーションビル乗っ取り工作には、井野家が持つ新宿ステーションビル株が大きな役割を果たしたと述べたところである。

 井野店長の祖父にあたる井野硯哉氏(元衆議院議員、元参議院議員、元法務大臣)は、高島屋が新宿民衆駅に進出しようとした際に、対抗馬となる地元からの計画としての「新宿ステーション・ミーティング・ホール・センター」の発起人の一人であり、その後高島屋、伊勢丹、西武の三つどもえ(国鉄=鉄道弘済会も入れれば四つどもえ)となった新宿ステーションビルの社長(後に会長)となった方である。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (5)

「いまでは制服の納入一つとってみてもセゾンとの取引は中止となっていますし、ほとんどお付き合いはなくなっています。うちの関連会社関係でもセゾンとの取引はほとんどやっていないんじゃないですか」(JR系OB役員)というほどの冷たい関係になっている。

 

「月刊経営塾」1991年6月号「完全に城を明け渡した新宿ステーションビル・・・・・・敗戦処理に入った堤・セゾン」 150頁から引用

 とあるから井野店長のJRと西武セゾンとの関係悪化に係るツイートも裏が取れる。

 (余談だが、三島由紀夫の盾の会の制服は西武百貨店謹製だそうだ。)

 もともと、駅ビルの実力者だった祖父が、公衆電話の並ぶコーナーを、脱サラした父のために店を出してくれたのです。

 その祖父もとっくに亡くなり、ビルの勢力地図もどんどん変わりますから、昔の関係者の店などかえってうとまれます。

 

「新宿駅最後の小さなお店ベルク: 個人店が生き残るには?」井野朋也・著 スペースシャワーネットワーク ・刊 148~149頁から引用

 単なる「昔の関係者」どころか、保有株の名義変更が、西武セゾンによる乗っ取りのきっかけになったのだから、西武に対して「根にもっている」と同様な感情をJR東日本がベルク=井野家に抱いていても不思議ではない。

 新宿駅東口駅ビル「マイシティ」は、2006年の4月、突然「ルミネエスト」と名を改めました。

 名前が変わっただけでなく、家主だった新宿ステーションビルディング株式会社が、株式会社ルミネに吸収合併されました。その途端、「マイシティ」時代の店が次々と出ていきました。出ていきたくて出て行ったとは考えられません。私の知る限り、数店舗は、駅ビルから「出ていけ」といわれ、出ていきました。

 うちも、ビル幹部から営業部の一室に呼び出され、「出ていけ」といわれることになるのですが、呼び出しは一度でなく数度におよんでいます。

 

「新宿駅最後の小さなお店ベルク: 個人店が生き残るには?」井野朋也・著 スペースシャワーネットワーク ・刊 148~149頁から引用

 高島屋単独出店阻止のための高島屋、伊勢丹、西武、国鉄、地元の共同出資体制としての新宿ステーションビル株式会社そしてその運用基準としての「3原則」に沿ってマイシティの運営はなされ、ベルクをはじめとしたテナントが営業してきた。その経緯は「西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(4) 魑魅魍魎うずまく新宿ステーションビル」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/jr-0131.htmlに詳しく述べてきたところだ。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (50)

 それが国鉄民営化に乗じた西武セゾンによる乗っ取り失敗→JR東日本の反攻により、共同出資会社としての新宿ステーションビル株式会社は、JR東日本の子会社としての「ルミネエスト」になってしまった。そこには「3原則」の及ぶ余地はない。しかも、因縁の井野家である。

 その後、契約もなんとか更新され、今でもベルクは営業を継続しているのは皆さんご存知のとおりである。

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 閑話休題。関連のツイートの中で、新宿駅にモノレール乗り入れ構想があったとの話が出た。

 まだいろんな話が埋もれているのかもしれない。

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(1)プロローグ

(2)戦前の新宿駅乗り入れ構想

(3)戦後新宿駅乗り入れの具体化へ

(4) 魑魅魍魎うずまく新宿ステーションビル

(5)新宿ステーションビルへの西武線乗り入れ

(6)新宿ステーションビルへの乗り入れ中止

(7)地下道による西武新宿駅と営団地下鉄・国鉄新宿駅との連絡

(8)西武新宿線の営団地下鉄東西線・有楽町線乗り入れ構想

(9)西武新宿駅の開発

(10)西武新宿線の地下複々線化による新宿駅乗り入れ

(11)西武百貨店堤清二による新宿ステーションビル乗っ取り失敗

(12)高島屋、西武に競り勝ち、新宿へ悲願の進出

(13)新宿駅東口2階の吹き抜けに西武新宿線が乗り入れるはずだったのか?

(14)新宿ステーションビルとベルクと井野家

(15・終)エピローグ

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西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(13)新宿駅東口2階の吹き抜けに西武新宿線が乗り入れるはずだったのか?

 「幻の西武新宿線のマイシティ(現ルミネエスト)乗入れとベルクさん店内の三本の柱」http://togetter.com/li/984087 にまとめた連続ツイートをした際に

 この画面をツイートすると

 という反応をいただいた。

 「西武新宿駅の乗り入れは、新宿ステーションビルの中にホームを作る」という説があるということのようなので、調べてみた。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (90)

 ここの吹き抜けスペースに

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (89)

 こんな風に乗り入れるイメージを持たれていたということか。(上記画像は、北九州モノレール小倉駅)

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (38)

 1959(昭和34)年段階の計画でもちょっとは食い込んでいるが、ホームの殆どは駅の外側である。

 調べてみると、確かに新宿ステーションビルの吹き抜けにホームを予定していたかのような記述が見られる。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (86)

(「西武沿線の不思議と謎」高嶋修一・監修 実業之日本社・刊 40頁から引用)

 ちょうど新宿駅の建て替えが計画されており、西武もその計画に参加。それまでは仮駅舎での営業が決まったが、それが現在の西武新宿駅の場所である。そこから新宿駅までわずかで、そもそもその区間はかつて西武電気軌道が持っていた都電杉並線の休止区間だったため、そのまま真っ直ぐ新宿駅に乗り入れればOKだったわけである。

 新しい駅ビル内の2階に西武線のホームが入る予定で、そこに改札や何やら建設時に用意されていたのである。ところがこの西武新宿駅、ホームの長さは電車6両分、線路は2本しかなかった。すでに乗降客が急速に増えていた西武新宿線はこの駅ではキャパ不足で、結局乗り入れは中止。現在に至るのである。

 ルミネエストの正面を入ると、みどりの窓口付近の天井に当時のホームの一部が残る。天井はアーチ形状になっており、2階両サイドには明らかに不自然な長い廊下がある。現在は休憩所になっているが、ここがホームだったのである。もしつながっていたら、間違いなく西武新宿線人気はアップしていたはずだ。

 

【vol.22-2】日本再発見ジムニー探検隊>>ビハインド・ザ・新宿 http://www.apio.jp/sp/jimnylife/rediscovery-022-2.html 山崎友貴・著 から引用

 ということで、高嶋修一氏や山崎友貴氏は、ここの吹き抜けに西武線ホームが作られるはずだったと主張している。

 私の手元には、「建築界」1964年8月号「新宿東口民衆駅の設計計画」山口裕(国鉄東京建築工事局)、目良純(鉄道会館技術部建築課)・著 という建築専門誌に当時の国鉄及び駅ビルの建築担当者が書いた報文がある。そこから関係個所を抜粋して検証してみたい。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (85)

(「新宿東口民衆駅の設計計画」 77頁から引用)

 そもそもこのスペースは、1階コンコースのスパンを拡げて旅客の混雑を避けるためのものだとしている。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (84)

(「新宿東口民衆駅の設計計画」 79頁から引用)

 また、この「吹き抜け」は国鉄の「駅本屋」の機能としての「吹抜ホール」と位置付けられている。

 これを裏付けるように、「新宿ステーションビルディング30年の歩み」には「国鉄の駅機能として1階のほとんどと2階の吹き抜けを取られたので、商業ビルとしては使いづらい」といった趣旨の記述がある。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (80)

(「新宿東口民衆駅の設計計画」 80頁から引用)

 山崎友貴氏が「2階両サイドには明らかに不自然な長い廊下がある。現在は休憩所になっているが、ここがホームだったのである」と主張する部分も「回廊」と明記されている。

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 なぜ、このようなデマがはやることとなったのか?

 原因の一つに、日経の「東京ふしぎ探検隊 西武新宿駅はなぜ遠いのか 幻の東口乗り入れ計画 」が考えられる。

実はこのときの計画の痕跡が今も残っている。ルミネエストの建物は1階の天井が高く、2階はかなり低い。1階の吹き抜けもやたらと広い。かつての設計図を見ると、このフロアの形が西武線乗り入れ計画の名残だとわかる。

「東京ふしぎ探検隊 西武新宿駅はなぜ遠いのか 幻の東口乗り入れ計画 」http://style.nikkei.com/article/DGXNASFK2103N_S2A121C1000000?channel=DF280120166608&style=1&page=2から引用

 先に国鉄建築担当者の報文でも紹介したように「1階の吹き抜けもやたらと広い」のは、国鉄のコンコースとしての機能に起因するものである。

 ライターの河尻定氏は、設計図を見たうえで、このように述べているはずなのであるが、いったいどのように見たらこんな嘘っぱち(若しくは著しい誤読を誘うような文)が書けるのか?

 河尻定氏は、鉄道や街づくりについて「東京ふしぎ探検隊」に多く寄稿し、本も出版しているが、デマ発生器としての弊害も多い。是非「カボチャの上手な育て方」といった方面に転身していただきたいと思っている。

 ※私は、以前も河尻氏のウソを指摘している。→「日経新聞 「東京ふしぎ探検隊」河尻定氏記事「東銀座に地下広場出現 現役最古の地下街は閉鎖へ」に係る疑義」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/post-0de1.html

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 いわゆる「トリビア本」のウソについて、ついでなのでもう一つ。

 「西武鉄道のひみつ」PHP研究所編・刊の175頁に下記のような「マメ知識」的コーナーが載っている。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (82)

 「オープン当初は新宿民衆駅を名乗り、すぐに新宿ステーションビルに改称された」ということであるが、では、このオープン前日の「新宿ステーションビル」を名乗る新聞広告はなんだということになる。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (75)

 PHP研究所編集部は、新宿ステーションビルにいったいいつ改称されたのか明記していただきたいものである。

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(1)プロローグ

(2)戦前の新宿駅乗り入れ構想

(3)戦後新宿駅乗り入れの具体化へ

(4) 魑魅魍魎うずまく新宿ステーションビル

(5)新宿ステーションビルへの西武線乗り入れ

(6)新宿ステーションビルへの乗り入れ中止

(7)地下道による西武新宿駅と営団地下鉄・国鉄新宿駅との連絡

(8)西武新宿線の営団地下鉄東西線・有楽町線乗り入れ構想

(9)西武新宿駅の開発

(10)西武新宿線の地下複々線化による新宿駅乗り入れ

(11)西武百貨店堤清二による新宿ステーションビル乗っ取り失敗

(12)高島屋、西武に競り勝ち、新宿へ悲願の進出

(13)新宿駅東口2階の吹き抜けに西武新宿線が乗り入れるはずだったのか?

(14)新宿ステーションビルとベルクと井野家

(15・終)エピローグ

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2016年11月13日 (日)

西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(12)高島屋、西武に競り勝ち、新宿へ悲願の進出

貨物駅跡地の再開発 新宿“デパート戦争” 高島屋進出で再燃へ

 

 東京都心に残された一等地、JR新宿駅南口前の旧国鉄貨物用地跡地に、デパートの高島屋がキーテナントとして出店することが六日、決まった。国鉄清算事業団が、同跡地の大規模再開発事業の“目玉”として招致した。新宿は、新都庁舎の移転に伴い、一段の商圏拡大が見込まれるため、そごう、西武百貨店など五社で競ってきた。高島屋は、五年後のオープン目指して意欲満々。新宿駅をはさんで六社目の大型店の進出は、地元ばかりか都内の百貨店競争を激化させそうだ。

 清算事業団によると、同跡地は、面積約二万二千平方メートル。再開発計画として、十三、十四階建てのインテリジェントビルを建設。高島屋は、そのキーテナントとして入る。売り場面積は六―七万平方メートルで、駐車場などを含めると十万平方メートルの巨艦店となる。工事着工は平成五年度、営業開始は八年度の予定。

 今回の決定に、高島屋は「新宿に出店を希望して三十年の念願がかなった。有望な場所」として、初年度売り上げは千六百億円を見込んでいる。

 

1991(平成3)年11月7日付読売新聞から引用

 1955(昭和30)年に新宿駅ビルへの進出計画が明らかになって以来36年目の新宿進出決定となったと同時に西武百貨店の新宿進出の希望は絶たれたこととなった。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (67)

(1955(昭和30)年8月27日付朝日新聞から引用)

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (6)

(「財界」1959(昭和34)年9月号39頁から引用)

 苦難の展開であった新宿ステーションビルからようやく悲願の新宿出店となったわけである。(あんまり業績は宜しくないらしいが。。。)

 

タカシマヤタイムズスクエア

(「近代建築」51巻1号「作品 タイムズスクエアビル 設計監理 日建設計」から引用)

 なお、「新宿高島屋の地下に上越新幹線の駅のスペースが確保されている、ホームが造られている」という話がネット上に出回っているが、おそらくデマである。この辺をお知りになりたい方は、「上越新幹線新宿駅は実際のところどうなっているのか?」をご覧いただきたい。

 

 かくして、堤康次郎が目論んだ西武鉄道及び西武百貨店の新宿駅進出は堤兄弟に託されたが、堤義明(コクド・西武鉄道)も堤清二(セゾングループ・西武百貨店)も画策の結果成果は得られず、現在は西武鉄道も西武百貨店も堤家の手を離れてしまったのである。

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(1)プロローグ

(2)戦前の新宿駅乗り入れ構想

(3)戦後新宿駅乗り入れの具体化へ

(4) 魑魅魍魎うずまく新宿ステーションビル

(5)新宿ステーションビルへの西武線乗り入れ

(6)新宿ステーションビルへの乗り入れ中止

(7)地下道による西武新宿駅と営団地下鉄・国鉄新宿駅との連絡

(8)西武新宿線の営団地下鉄東西線・有楽町線乗り入れ構想

(9)西武新宿駅の開発

(10)西武新宿線の地下複々線化による新宿駅乗り入れ

(11)西武百貨店堤清二による新宿ステーションビル乗っ取り失敗

(12)高島屋、西武に競り勝ち、新宿へ悲願の進出

(13)新宿駅東口2階の吹き抜けに西武新宿線が乗り入れるはずだったのか?

(14)新宿ステーションビルとベルクと井野家

(15・終)エピローグ

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西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(11)西武百貨店堤清二による新宿ステーションビル乗っ取り失敗

西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(4) 魑魅魍魎うずまく新宿ステーションビル」で述べたように、高島屋、伊勢丹、西武、地元資本の「三原則」と伊勢丹と西武の「不可侵条約」により、西武は新宿ステーションビルの建物そのものには手を出せないはずだった。ところが、堤清二率いるセゾングループが乗っ取りにかかったのである。

 

 新宿ステーションビル株式会社の株主構成は下記のとおりであった。

財団法人鉄道弘済会

高島屋

伊勢丹

西武鉄道(のちに西武百貨店)   各10万株(各16.7%)

丸正食品 飯塚正司 8万5千8百株(14.3%)

濱野茂(東京都議会議員) 8万株(13.3%)

井野硯哉(参議院議員・ステーションビル初代社長・ベルク井野店長の祖父) 2万株(3.3%)

内田道治(東京都議会議員) 1万株(1.7%)

その他 4千2百株(0.7%)

 そして国鉄関係4人と伊勢丹、高島屋、西武、丸正、濱野、井野から一人ずつの取締役を出していた。土地と建物は国鉄のものであるから国鉄主導の経営であった。

 ところで1987(昭和62)年の国鉄民営化にあたり、今までかかっていなかった固定資産税等がかかるようになり、それをテナントの家賃に反映させなければならない(4倍近い家賃値上げをJR側が迫ったといわれる。)ということで、JR側とテナント側に不協和音が響くようになった。

 そこをついて1988(昭和63)年に西武百貨店(セゾングループ)堤清二は上記のパワーバランスを崩しにかかったのである。濱野一郎ステーションビル社長(当時)を篭絡にかかり、井野が所有していた2万株も入手した(井野氏が選挙資金の応援を受けるカタに堤氏に株を預けたものだという。ベルクの井野店長はツイッターで「井野家と堤家は家族ぐるみの付き合いだった」旨ツイートしている。)。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (14)

(「月刊経営塾」1991年6月号「完全に城を明け渡した新宿ステーションビル・・・・・・敗戦処理に入った堤・セゾン」148頁から引用)

 西武は、JRと家賃値上げに抵抗するテナント側の紛糾に乗じ、株主構成のパワーバランスを崩し、新宿ステーションビルの実権を握ろうとしたのである。

 1989(平成元)年には、西武はJRにステーションビルの社長交代(反JR派への交代)や役員増員などを要求し、6月の臨時取締役会で西武百貨店からステーションビルへ人材を送り込み「マイシティは西武百貨店の植民地と化している」と言われた。しかしJR側も巻き返し、翌1990(平成2)年6月には西武系役員は退陣するに至った。

 1991(平成3)年3月には、第三者割当増資が行われ、JR東日本がステーションビルの株式の51%を抑え、筆頭株主となった。ここに20数年にわたる「三すくみ」は解消されたのである。

 「マイシティ」から「ルミネエスト」になったのは名称だけでなく、国鉄、3百貨店、地元の共同運営からJRの子会社へ経営体制が変わったということを意味する。

 時あたかも、同年1月には堤清二はセゾングループ代表等からの引退を表明したのである。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (8)

(この項は「月刊経営塾」1991年6月号「完全に城を明け渡した新宿ステーションビル・・・・・・敗戦処理に入った堤・セゾン」及び「月刊宝石」1991年9月号「仮面の経営者・堤清二<第7弾!>新宿ステーションビルから追放された日」林一仁・著 を参考にした。)

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(1)プロローグ

(2)戦前の新宿駅乗り入れ構想

(3)戦後新宿駅乗り入れの具体化へ

(4) 魑魅魍魎うずまく新宿ステーションビル

(5)新宿ステーションビルへの西武線乗り入れ

(6)新宿ステーションビルへの乗り入れ中止

(7)地下道による西武新宿駅と営団地下鉄・国鉄新宿駅との連絡

(8)西武新宿線の営団地下鉄東西線・有楽町線乗り入れ構想

(9)西武新宿駅の開発

(10)西武新宿線の地下複々線化による新宿駅乗り入れ

(11)西武百貨店堤清二による新宿ステーションビル乗っ取り失敗

(12)高島屋、西武に競り勝ち、新宿へ悲願の進出

(13)新宿駅東口2階の吹き抜けに西武新宿線が乗り入れるはずだったのか?

(14)新宿ステーションビルとベルクと井野家

(15・終)エピローグ

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西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(10)西武新宿線の地下複々線化による新宿駅乗り入れ

バブルの世の中になり、国鉄は民営化された。一方、西武新宿線の新宿駅乗り入れが地下複々線化構想によって戻ってきた。

1987(昭和62)年12月 特定都市鉄道整備事業の事業認定

1989(平成元)年3月 複々線化の事業基本計画の変更認可

1993(平成5)年3月 鉄道施設の変更認可

1993(平成5)年3月 環境影響評価書の告示

1993(平成5)年4月 都市計画の変更告示

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (73)

(1987(昭和62)年9月14日付朝日新聞から引用)

 新駅は靖国通りと新宿通りの間にできる計画だったようだ。

 「西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(7)地下道による西武新宿駅と営団地下鉄・国鉄新宿駅との連絡」で紹介した地下街計画のリベンジのようにも見える。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (74)

(1992(平成4)年5月9日付朝日新聞から引用)

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (2)

(「JREA」1993年 Vol.6 No.6「西武鉄道新宿線複々線化工事計画」 林利喜朗(西武鉄道株式会社建設部部長)・著 21782頁から引用)

 今度は地下6階にホームを作るというのである。

 なぜこんなに深いのか?

 高田馬場駅を見ても地下2階を走る東西線を避けなければならないのは分かるが、それにしては深すぎやしないだろうか?

 上記引用元のJREA「西武鉄道新宿線複々線化工事計画」では、「縦断線形は当該区間に地下鉄12号線(※引用者注:都営大江戸線)や環七地下河川などの計画があり、また、上下水道管などの既存の施設が多く存在することから,平均40~60mと従来の地下鉄に比較して深い線形となっている」(21782頁)としているのだが、ひょっとしたら上越新幹線を避けているのではないか?

 以前「上越新幹線新宿駅(地下3階)構想を図面で現認する (玉川上水と新宿駅南口地区の開発について・超番外編その3)」でも書いたが、上越新幹線の新宿駅乗り入れ構想というものがあって、田端から山手貨物線の地下を通って新宿に至ることとなっている。新宿駅では、地下3階に上越新幹線が来ることになっているのである。

上越新幹線新宿駅位置図

 高田馬場駅の縦断面図を見ると地下2階・東西線~なぞの空間?~地下6階・西武新宿線となっており、なんとなく地下3階の上越新幹線の分を空けてあるような気がしないでもない。

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 この地下複々線化構想に対して、西武新宿駅周辺の歌舞伎町関係者は怒りの声をあげた。「西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(3)戦後新宿駅乗り入れの具体化へ」で紹介しているように、地元歌舞伎町とは「国鉄新宿駅へ延伸しても歌舞伎町駅は存続させる」と約束したからこそ、地元は区画整理中の土地の提供や都バス車庫の移転等の協力を行ったのである。急行線は素通りで各停しか歌舞伎町には停車しないのであればこれは約束違反だとの主張だ。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (7)

(「政界往来」1992年9月号50頁から引用)

 「それなのに」と今日、憤りを隠さないのは歌舞伎町商店街振興組合の下村理事長である。

「いくら各駅停車用に地上駅舎を残すと言っても、急行と準急用のホームは地下に潜るから今の西武新宿駅に本駅としての価値を存続してもらわなければ困る。これは実質的な駅の移転であり、駅の廃止なんです」。つまる、西武新宿駅の地下駅化計画は「駅の廃止は考えていない」とした40年前の約束違反であり、信義にもとる裏切り行為だというのが地元の言い分なのである。

 しかも、歌舞伎町商店街振興組合は88年末に西武の堤義明社長に宛てて「西武新宿線の終着駅は西武新宿駅ビルを主体とする現体制を維持されたい」という要望を行っているが、回答はなく無視されてしまっている。

 

「政界往来」1992年9月号「西武新宿駅「地下化計画」にみる義明・西武の”ゴリ押し”商法」54頁から引用

 

 「40年前の約束」を再掲しておこう。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (63)

 

 しかし、バブルははじけ、西武新宿線の地下複々線化構想はおじゃんになってしまった。上越新幹線の新宿駅延伸も音沙汰がない。

■企画され一部着工されたが中止されたもの

(略)

②新宿線地下化について

特々法ができたとき,それに併せて新宿線の直下地下線増工事(西武新宿-上石神井)に名乗りを上げ,都市計画決定もされ,特々運賃の加算も行われ,一部調査も行なったのですが地下水位の上昇や消防法による諸設備の設置費用増大などで,当初考えていた工費が倍増することとなってしまいました.一方輸送も減少しはじめたために結局中止することになりました.

 

「西武鉄道でのこと」 長谷部和夫(元・西武鉄道常務取締役) レイル51号 63頁から引用

西武新宿線 新宿―上石神井駅間複々線化計画 無期延期決定 費用の膨張理由に

 

 輸送力の増強を目指し、西武新宿―上石神井駅間の約十二・八キロの地下に、新たに急行線を走らせて複々線化する事業計画を進めていた西武鉄道は、建設費が当初見込み額を大幅に上回る見通しとなったことなどを理由に、事業の無期延期を決定し、十九日までに沿線自治体の中野区に伝えた。

 西武鉄道は八七年十二月、運輸省の特定都市鉄道整備事業計画の認定を受け、複々線化予定区間の運賃に十円上乗せし、工事費を積み立て。九三年に都の都市計画決定が下り、昨夏には建設省に工事施行許可を申請、手続きはほぼ整っていた。

 ところが、ラッシュ時の乗客数は九一年をピークに下降気味。当初は千六百億円と見込んでいた総事業費も、地下水の水位が予想より高かったことや、現在の西武新宿駅をJR新宿駅寄りに移動することにしたことなどから、約二千九百億円に膨れ上がることがわかった。

 このため、同社は複々線化を延期せざるを得ないとし、十九日には、特定都市鉄道整備事業計画の認定取り消しを運輸省に申請。これまで十円を上乗せしてきた区間では、乗客への還元を図るとしている。同社広報課は「計画を無理に進めれば、工事費の負担は運賃にはねかえり、逆にご迷惑をかける」としている。

 一方、中野区では、地下化により「ラッシュ時は一時間に通算五分しか踏切が開かない」(区都市計画部計画課)という状態が改善されるとして、事業着手に期待していただけに、神山好市区長は十九日、「(延期は)到底受け入れがたい」とのコメントを出した。区担当者も「遅れてもやるものと思っていた。公共交通機関として余りにも無責任」と批判、「都とも相談して、再開を迫っていく」と語った。

 

1995(平成7)年1月20日付読売新聞から引用

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(1)プロローグ

(2)戦前の新宿駅乗り入れ構想

(3)戦後新宿駅乗り入れの具体化へ

(4) 魑魅魍魎うずまく新宿ステーションビル

(5)新宿ステーションビルへの西武線乗り入れ

(6)新宿ステーションビルへの乗り入れ中止

(7)地下道による西武新宿駅と営団地下鉄・国鉄新宿駅との連絡

(8)西武新宿線の営団地下鉄東西線・有楽町線乗り入れ構想

(9)西武新宿駅の開発

(10)西武新宿線の地下複々線化による新宿駅乗り入れ

(11)西武百貨店堤清二による新宿ステーションビル乗っ取り失敗

(12)高島屋、西武に競り勝ち、新宿へ悲願の進出

(13)新宿駅東口2階の吹き抜けに西武新宿線が乗り入れるはずだったのか?

(14)新宿ステーションビルとベルクと井野家

(15・終)エピローグ

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西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(9)西武新宿駅の開発

 新宿線の乗り入れと地下道直結の両面作戦に出ていた西武だが、どちらも頓挫してしまった。かくなるうえは歌舞伎町をターミナルとして本格開発していく必要がある。

 早稲田大大学史資料センターには、下記のような資料が残されている。いずれも作成年代は不明であるが、現在のプリンスホテル等ができる前の開発構想ということだろうか?

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (56)

「西武新宿ビル(想像図)」 

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (55)

(「義明」のサインが記されている。)

 西武新宿駅ビル構想の最上階にアイススケート場がある。早稲田大大学史資料センターは東伏見にあるので、いつもダイドードリンコアイスアリーナを横目に行くのだが、「堤義明って本当にアイススケート好きなんだなあ」と思う次第。

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(1)プロローグ

(2)戦前の新宿駅乗り入れ構想

(3)戦後新宿駅乗り入れの具体化へ

(4) 魑魅魍魎うずまく新宿ステーションビル

(5)新宿ステーションビルへの西武線乗り入れ

(6)新宿ステーションビルへの乗り入れ中止

(7)地下道による西武新宿駅と営団地下鉄・国鉄新宿駅との連絡

(8)西武新宿線の営団地下鉄東西線・有楽町線乗り入れ構想

(9)西武新宿駅の開発

(10)西武新宿線の地下複々線化による新宿駅乗り入れ

(11)西武百貨店堤清二による新宿ステーションビル乗っ取り失敗

(12)高島屋、西武に競り勝ち、新宿へ悲願の進出

(13)新宿駅東口2階の吹き抜けに西武新宿線が乗り入れるはずだったのか?

(14)新宿ステーションビルとベルクと井野家

(15・終)エピローグ

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西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(8)西武新宿線の営団地下鉄東西線・有楽町線乗り入れ構想

 国鉄新宿駅への乗り入れも地下街直結も駄目なら地下鉄への乗り入れという手があるのではないか。

 西武新宿線は、主要な在京私鉄で数少ない地下鉄に乗り入れていない路線である。かつて、西武は、新宿駅乗り入れに並行して、営団地下鉄東西線及び有楽町線への乗り入れにも動いていたが、いずれも成功に至っていない。

戦後、東京の私鉄各社は都心乗り入れを希望していましたが,西武は希望しませんでした.

 

 これは堤康次郎氏が宿敵としていた,五島慶太運輸大臣の下で,官僚主導で戦時中行なわれた交通統制そして戦後も続くその体制に対して,都心乗り入れを希望することは五島の軍門に下ることを意味し,堤としては耐えられないことでありました.

 

 この結果都市交通審議会では,西武池袋線のみ中村橋-目白の並行ルートを新設し,他社線については、それぞれ都心直通ルート(当時ターミナル駅の混雑に手を焼いていた国鉄の意向により渋谷,新宿,池袋を外した)が決定されました.このとき5号線で中央線の東西線への乗り入れが決まると,さすがに堤も乗り入れ反対とばかりいっていられず,急遽新宿線の下落合から高田馬場の乗り入れを申し入れましたが,当然のことながら拒否されてしまいました.この乗り入れ問題は,かたちを変えて現在まで尾を引いております.

 

「西武鉄道でのこと」 長谷部和夫(元・西武鉄道常務取締役) レイル51号 57頁から引用

 

 下図は、西武が新宿線と池袋線の両方を有楽町線に乗り入れしようとする「地下高速鉄道網改訂路線図」である。現在は、練馬から西武池袋線が有楽町線(副都心線)に乗り入れているが、西武は中村橋から池袋線を、野方から新宿線を乗り入れたいという要望を出したのである。

西武堤康次郎が有楽町線のルートを曲げていたのか (14)

 詳細は、「堤康次郎は、目白経由だった有楽町線のルートを池袋経由に曲げて、西武池袋線と新宿線を乗入れさせようとしていた?」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/01/post-4e5b.htmlをご覧いただきたい。

 

 なお、現在も中野区は西武新宿線と東京メトロ東西線の相互直通運転についていろいろ構想を立てている。

例)http://kugikai-nakano.jp/shiryou/15316152129.pdf

http://www.jterc.or.jp/kenkyusyo/product/tpsr/bn/pdf/no39-10.pdf

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(1)プロローグ

(2)戦前の新宿駅乗り入れ構想

(3)戦後新宿駅乗り入れの具体化へ

(4) 魑魅魍魎うずまく新宿ステーションビル

(5)新宿ステーションビルへの西武線乗り入れ

(6)新宿ステーションビルへの乗り入れ中止

(7)地下道による西武新宿駅と営団地下鉄・国鉄新宿駅との連絡

(8)西武新宿線の営団地下鉄東西線・有楽町線乗り入れ構想

(9)西武新宿駅の開発

(10)西武新宿線の地下複々線化による新宿駅乗り入れ

(11)西武百貨店堤清二による新宿ステーションビル乗っ取り失敗

(12)高島屋、西武に競り勝ち、新宿へ悲願の進出

(13)新宿駅東口2階の吹き抜けに西武新宿線が乗り入れるはずだったのか?

(14)新宿ステーションビルとベルクと井野家

(15・終)エピローグ

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西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(7)地下道による西武新宿駅と営団地下鉄・国鉄新宿駅との連絡

 現在、西武新宿駅と東京メトロ・JR新宿駅はサブナード地下街によって連絡されている。

 実は、サブナード地下街(新宿地下駐車場株式会社)の設立には西武が大きな役割を演じていた(実際には出資等は行わなかったが。)のである。

 

 早稲田大大学史資料センターに、下記のように西武新宿駅と地下鉄・国鉄新宿駅を直結する地下街の構想図が残されている。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (27)

 この図面は、立花次郎氏による「新宿東側交通センター計画と西武終端駅の建設について」と題した文書に添付されているものである。1956(昭和31)年というから、まだ民衆駅騒動が決着していない段階である。

 この段階で「西武新宿駅は歌舞伎町に置いたまま、地下道で連絡する方が西武にとって得策である」旨を説いたのがこの文書である。「交通センター」とは新宿ステーションビルのことを指している。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (28)

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (29)

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (30)

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (31)

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (32)

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (33)

高架下や駅周辺に何も作れない国鉄新宿駅乗り入れよりも歌舞伎町の方に駅ビル等を作って開発する方が西武グループにとって儲かるんじゃないの」ということか。

 ちなみに文中の「西武フロントビル」の想定地は、現在ヤマダ電機が入っている下図の場所である。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (20)

 西武鉄道が、念願の新宿駅乗り入れをあっさりと断念して歌舞伎町を本格ターミナルとしたのはこのような両面作戦があったからなのかもしれない。

 その証拠がサブナード地下街への西武の関与である。

創立事務所を設ける

 

 「特許事業」へと決意し、準備を始めた。

 早い動きである。昭和37年2月20日には有志が会合し、議長を選任、次のことを申し合わせている。

1.「新宿東口地下駐車場(株)創立事務所」を設置する。

2.当日の出席者を発起人とする。

3.発起人代表を藤森作次郎歌舞伎町振興会組合長とする。

4.創立事務所準備金として西武百貨店と歌舞伎町振興会がそれぞれ50万円、拠出する。

5.創立事務所は当面、歌舞伎町振興会事務所内に置く。

 同年3月6日、西武鉄道設計部作成の基本概略設計図面を基とした「地下駐車場および地下道建設のためにする道路占用許可申請」を、都の首都整備局都市計画第二部施設計画課に提出した。

(中略)

 つまりまず最初は、西武プラス歌舞伎町振興会で動き出したのである。

 

「新宿サブナード30年のあゆみ」 新宿地下駐車場株式会社・発行 29~30頁から引用

 

 また、第1回発起人会には西武関係者として

堤清二(西武百貨店社長)

小島正治郎(西武鉄道社長)

宮内巌(西武鉄道専務)

加藤肇(西武鉄道常務)

田中利一(西武百貨店常務)

と錚々たるメンバーが名を連ねている。(「新宿サブナード30年のあゆみ」 30頁から引用)

 1962(昭和37)年といえば、新宿ステーションビルの開業を2年後に控えた時期ではあるが、西武としては新宿線の乗り入れとサブナード地下街の両面作戦に出ていたと言えるだろう。

しかし、西武線乗り入れ断念後の1967(昭和42)年に西武百貨店堤清二社長は、会社としては地下街会社に出資しない旨を創立事務所に伝えている。新宿地下駐車場株式会社の初代社長は伊勢丹会長の小菅千代市氏が就任した。

 そして1964(昭和39)年には、地下街の「基本構想」が策定された。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (17)

 立花次郎が示した西武新宿駅と地下鉄・国鉄新宿駅を直結する地下道が、第2期計画に盛り込まれていることが分かるだろう。

 しかしこの所謂「国鉄寄りの袖」は実現しなかった。

「道路幅は全体で25m(国鉄寄り歩道4.4m、民地側歩道3.8mを含む)。16.80mのみが車線である。地下建物の地表への階段出入口(幅員3m)をとるためには、歩道を両側7mにしなければならない。すると残りの車道は11m幅になる。これだと、車線確保はギリギリであり、しかもS形にカーブしていて、車輌運行上の危険がある。しかもこれは地下駐車場から地表へのランプ設置場所が確保できない」。

 「協議会(※引用者注 新宿地下駐車場第2期計画国鉄寄り協議会)」はこの案を断念するしかなかった。ただし将来構想としては、残されているのである。

 

「新宿サブナード30年のあゆみ」 新宿地下駐車場株式会社・発行 55~56頁から引用

 このように1970(昭和45)年に、地下道による直結の道も閉ざされてしまった。

 なお、1975(昭和50)年10月22日に第1期計画第2期工事の柳通り地下部分が完成し、西武新宿駅と営団地下鉄・国鉄新宿駅はまがりなりにも連絡することとなった。1952(昭和27)年の西武新宿駅開業以来23年後のことであった。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (72)

(1975(昭和50)年10月9日付読売新聞から引用)

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(1)プロローグ

(2)戦前の新宿駅乗り入れ構想

(3)戦後新宿駅乗り入れの具体化へ

(4) 魑魅魍魎うずまく新宿ステーションビル

(5)新宿ステーションビルへの西武線乗り入れ

(6)新宿ステーションビルへの乗り入れ中止

(7)地下道による西武新宿駅と営団地下鉄・国鉄新宿駅との連絡

(8)西武新宿線の営団地下鉄東西線・有楽町線乗り入れ構想

(9)西武新宿駅の開発

(10)西武新宿線の地下複々線化による新宿駅乗り入れ

(11)西武百貨店堤清二による新宿ステーションビル乗っ取り失敗

(12)高島屋、西武に競り勝ち、新宿へ悲願の進出

(13)新宿駅東口2階の吹き抜けに西武新宿線が乗り入れるはずだったのか?

(14)新宿ステーションビルとベルクと井野家

(15・終)エピローグ

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西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(6)新宿ステーションビルへの乗り入れ中止

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (70)

(1964(昭和39)年4月28日付毎日新聞から引用)

 1964(昭和39)年5月20日に新宿ステーションビルがオープンした。高島屋の新宿駅民衆駅構想が世に出てから9年が経っている。そしてその開業を知らせる新聞記事には「来年には西武鉄道が2階に乗り入れる予定」と書かれている。

 また、「株式会社新宿ステーションビルディング」(井野硯哉社長)となっている点にも注意である。ベルクの井野店長の祖父が初代社長となっている。(後に会長。1980(昭和55)年に亡くなった際には「ステーションビル準社葬」が行われている。)

 ところで、wikipediaの「ルミネエスト新宿」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%9F%E3%83%8D%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%83%88%E6%96%B0%E5%AE%BFの項に

開業時のキャッチコピーは、「250の粒よりの名店=虹のターミナル」。

とあるが、その由来は書いていない。

 下記のオープン前日の広告に「名づけて虹のターミナル」とあるのが分かるだろう。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (75)

 何を以て「虹のターミナル」なのか。広告左側を拡大してみよう。ドン!

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (76)

 「山手線、中央線、総武線、西武線、地下鉄、小田急、京王線-新宿ステーションビルは、七つの線が集まる「虹のターミナル」です。」とある。

 新宿駅に乗り入れる(西武線は乗り入れ予定)7つの路線を以て「虹のターミナル」と名付けたのだ。西武線は未だ乗り入れていない割には、国鉄の次にあげられているのは、株主だからだろうか?

 しかし、実際に西武線は新宿ステーションビルに乗り入れることはなかった。(そういう意味では、この時点で「虹のターミナル」ではなくなってしまったのだが。)1965(昭和40)年3月16日付の朝日新聞は下記のように乗り入れ断念を報道している。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (71)

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (19)

(「新宿サブナード30年のあゆみ」 新宿地下駐車場株式会社・発行 37頁から引用)

 両方の記事に見られるのは「運輸省側が建設計画に難色を示した」「運輸省関係の勧告もあり」という運輸省側からの働きかけである。堤康次郎が存命のころは箱根山戦争を巡って、五島に有利と思われた行政指導をした運輸官僚に対して刑事告発、告訴を乱発したもので、唯々諾々と運輸省の勧告に西武が従うとはにわかに信じ難いものがあるが、康次郎も1964(昭和39)年4月に亡くなっており、そういう時代ではなくなっていたのかもしれない。

 

 既に1960(昭和35)年10月15日付社内報「西武」には、新宿線の6両運転化が報じられており、長きにわたる民衆駅騒動の間に構想が陳腐化してしまったということなのだろうか。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (59)

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(1)プロローグ

(2)戦前の新宿駅乗り入れ構想

(3)戦後新宿駅乗り入れの具体化へ

(4) 魑魅魍魎うずまく新宿ステーションビル

(5)新宿ステーションビルへの西武線乗り入れ

(6)新宿ステーションビルへの乗り入れ中止

(7)地下道による西武新宿駅と営団地下鉄・国鉄新宿駅との連絡

(8)西武新宿線の営団地下鉄東西線・有楽町線乗り入れ構想

(9)西武新宿駅の開発

(10)西武新宿線の地下複々線化による新宿駅乗り入れ

(11)西武百貨店堤清二による新宿ステーションビル乗っ取り失敗

(12)高島屋、西武に競り勝ち、新宿へ悲願の進出

(13)新宿駅東口2階の吹き抜けに西武新宿線が乗り入れるはずだったのか?

(14)新宿ステーションビルとベルクと井野家

(15・終)エピローグ

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西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(5)新宿ステーションビルへの西武線乗り入れ

 ということで紆余曲折を経て、やっと西武線の新宿駅ビルへの乗り入れが決まった。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (3)

(「新宿ステーションビルディング30年の歩み」新宿ステーションビルディング社史編纂委員会 ・編 55頁から引用)

 2階に西武鉄道が乗り入れる予定とされた。(初期には3階に乗り入れる構想もあった。)

 早大大学史資料センターに残された図面を見てみよう。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (23)

 あくまでも1956(昭和31)年7月段階の図面である点にはご留意いただきたい。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (25)

 先ほどの図面と異なり「国鉄駅舎新築の場合」である。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (26)

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (61)

 高島屋、伊勢丹、西武、地元等が合意した1958(昭和33)年よりも前の1956(昭和31)年段階の図面であるからなのか、伝えられている(交通技術1960年11月号に記載されている)2線2面の構造ではなく、6両連結2面5両連結1面の2線3面となっている。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (79)

 高田馬場駅から2km437m地点が停車場中心となっている。

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 新宿ステーションビルの各階の構想図面も残されている。ただし、1959(昭和34)年段階のものということで現在のものとは異なる。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (34)

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (35)

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (36)

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (37)

 1階部分に西武線の出札及び改札があることが分かる。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (38)

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (77)

 2階は現在のような吹き抜けはなく、線路及びホームの一部がビルの中に入り込んでいる。

 既出の1956(昭和31)年段階の図面同様、2線3面のホームである。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (1)

 「交通技術」1960年11月号に掲載されているものとは改札やホームの位置が随分異なっている。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (39)

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (40)

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (41)

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (42)

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (43)

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (44)

 6階から8階まで吹き抜けとなっている大講堂がある。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (45)

 前述のように、新宿民衆駅については多くの者が出願しているため、色々な経緯を引きずった構想段階が幾つもあるのだろうか。

 吹き抜けの大講堂であればベルクの井野店長の祖父井野硯哉氏らが出願した「新宿ステーション・ミーティング・ホール・センター」にも同様の構想が見て取れる。高島屋の出願に対抗して地元中小商業者に配慮するためか店舗は極力少なくし、講堂や会議場等が中心となっている点が特徴だ。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (5)

(「新宿ステーションビルディング30年の歩み」新宿ステーションビルディング社史編纂委員会 ・編 32頁から引用)

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 1961(昭和36)年3月15日付社内報「西武」には、「新宿駅乗り入れ決まる」という記事が掲載されている。(広岡友紀氏は、この記事をご覧になったうえで「西武は駅ビル建設に反対したため西武線の新宿駅乗り入れができなくなった」とおっしゃっているのだろうか?)

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (57)

 この時期になると、現在のステーションビル(マイシティ→ルミネエスト)に近いものとなっている。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (58)

 ステーションビルの右側に高架橋とホームが見て取れる。

 記事中に「建物外にホーム1面」とある。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (4)

(「新宿ステーションビルディング30年の歩み」新宿ステーションビルディング社史編纂委員会 ・編 54頁から引用)

 この写真で見ると、ちょうど2階の端に仮設工で穴をふさいでいるような部分が見える。ここに西武線のホームが取り付くはずだったのだろうか。

 この記事に掲載された現在のビルの写真と比べるとよく分かる。

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(1)プロローグ

(2)戦前の新宿駅乗り入れ構想

(3)戦後新宿駅乗り入れの具体化へ

(4) 魑魅魍魎うずまく新宿ステーションビル

(5)新宿ステーションビルへの西武線乗り入れ

(6)新宿ステーションビルへの乗り入れ中止

(7)地下道による西武新宿駅と営団地下鉄・国鉄新宿駅との連絡

(8)西武新宿線の営団地下鉄東西線・有楽町線乗り入れ構想

(9)西武新宿駅の開発

(10)西武新宿線の地下複々線化による新宿駅乗り入れ

(11)西武百貨店堤清二による新宿ステーションビル乗っ取り失敗

(12)高島屋、西武に競り勝ち、新宿へ悲願の進出

(13)新宿駅東口2階の吹き抜けに西武新宿線が乗り入れるはずだったのか?

(14)新宿ステーションビルとベルクと井野家

(15・終)エピローグ

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2016年11月12日 (土)

西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(4) 魑魅魍魎うずまく新宿ステーションビル

 西武新宿駅開業を知らせる1952(昭和27)年3月8日付読売新聞には「2年後に予定されている国電新宿駅の大改造を見越して当分新宿終点は仮駅とし将来は国電駅と直結する」とある。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (64)

 実際に新宿駅東口の「大改造」(新宿ステーションビル(後にマイシティ→ルミネエスト)の開業)が果たされたのは、2年後どころか12年後の1964(昭和39)年なのである。

 なぜこんなに時間がかかったのか?そこには高島屋、伊勢丹、西武に地元商店がからんだ利権ドロドロの争いがあったためである。1955(昭和30)年8月27日付朝日新聞に高島屋の新宿駅進出が報じられている。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (67)

 現在、新宿高島屋といえば、新宿駅新南口の貨物駅跡地のタイムズスクエアにあるが、戦後直後には、新宿駅東口駅ビルへの進出を企んだのである。

 当時の国鉄は戦災復興や需要の急増に対応するための駅舎の改築が急務であったが資金が不足しているため「民衆駅」という形で民間資金を導入して駅舎の増改築を行っていたものであり、その制度を使って高島屋の資本を入れて新宿駅東口駅舎を改築して駅ビルにしようとしたものだ。

 これに対して地元商店が反対運動を起こした。1955(昭和30)年9月12日付朝日新聞は下記のように報じている。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (69)

 ここに、地元新宿の伊勢丹や新宿進出を狙う西武がからんできたのである。ここの紆余曲折は非常にややこしく、それだけでも本が書けるくらいなのであるが、ここでは結果だけを書いておこう。

 1959(昭和34)年11月24日付の「新宿ステーションビル役員会社長挨拶」にステーションビル設立の経緯が述べられている。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (46)

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (47)

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (48)

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (49)

 発起人は以下にも続いているが省略した。

 なお、ここで出てくる「井野硯哉」氏は、ルミネエスト地下1階の「ベルク」の井野朋也店長の祖父にあたる。大資本に対抗する地元中小商店の代表としての位置づけである。ベルクが大資本のJR東日本からの追い出しに抵抗したところも踏まえると興味深い。

 決議事項1の赤線部分にもあるが、高島屋、伊勢丹、西武、地元資本等が「均等」に出資することになったところがミソである。

 また、決議事項4の「資本の異動についてはあらかじめ日本国有鉄道に協議すること。」とあるがこれを守らなかった者がいる。西武である。後に新宿ステーションビル乗っ取りを画策した堤清二は水面下に「均等を分かつ」ことを破ろうとしたのだ。

 早大にある別の資料でも経緯を追うことができるので見てみよう。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (52)

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (53)

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (50)

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (51)

 高島屋を排除し、地元商店街の権益を守るため、新宿ステーションビルは百貨店形式をとらず、地元中小企業を圧迫しないこととなった。マイシティ時代の店舗が駅ビルにしては小規模な地元名店街の集合体の域を越えなかったのは、当時の「三原則」に沿ったためである。

 ベルクの井野店長はこのように、今でも新宿ステーションビルの「三原則」を引用している。(残念ながら、新宿駅が日本最初の駅ビルではないのだが。)

 

 ところで「日本の私鉄 西武鉄道」広岡友紀・著(毎日新聞社・刊)に以下のような記述がある。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (13)

 「西武は、伊勢丹の池袋出店との引き換えに高島屋の駅ビル建設に反対したため、西武線の新宿駅ビルへの乗り入れができなくなった。」という主張である。

 しかし、これは事実に反する。確かに高島屋の駅ビル建設には反対したが、上記資料のように最終的には高島屋、伊勢丹、西武が均等に駅ビルに出資し、駅ビル会社の副社長には西武鉄道の小島正治郎社長を送り込んでいるのである。

 当時の記事(「財界」1959(昭和34)年9月号)を見てみよう。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (6)

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (15)

 西武と伊勢丹が「不可侵条約」を結んだことは書いてあるが「西武は新宿に電車を乗り入れても建物そのものに手を出さない」とある。広岡友紀氏は、西武関係ではいわく有り気な発言を度々しているが、西武線乗り入れに係る主張は失当であると言えるのではないか。

 また、上記のようにベルクの店長が西武駅施設着工のための準備工事が地下で行われていたことをツイートしていることからも広岡友紀氏の主張が失当であることをうかがわせるものである。

 他方、広岡友紀氏の言うように、百貨店同士の「不可侵条約」が主眼となっているのであれば、西武からの出資は「西武鉄道」ではなく、「西武百貨店」でなければならない。しかし実際に新宿ステーションビルに出資したのは「西武鉄道」であり、西武鉄道社長の小島正治郎氏が新宿ステーションビルの副社長に就任しているのである。これは西武鉄道乗り入れを主眼とした出資ということと考えられるのではないか?(西武鉄道の新宿ステーションビル乗り入れ後に西武百貨店に名義が変わっている点もそれを裏付けると思われる。)

 なお、「財界」にあるように西武は建物そのものに手を出さないはずだったのだが、実際には新宿ステーションビルの共有株主である国鉄の民営化のゴタゴタに乗じて堤清二氏が「建物そのものに手を出した」のであるがそれはおって紹介したい。

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(1)プロローグ

(2)戦前の新宿駅乗り入れ構想

(3)戦後新宿駅乗り入れの具体化へ

(4) 魑魅魍魎うずまく新宿ステーションビル

(5)新宿ステーションビルへの西武線乗り入れ

(6)新宿ステーションビルへの乗り入れ中止

(7)地下道による西武新宿駅と営団地下鉄・国鉄新宿駅との連絡

(8)西武新宿線の営団地下鉄東西線・有楽町線乗り入れ構想

(9)西武新宿駅の開発

(10)西武新宿線の地下複々線化による新宿駅乗り入れ

(11)西武百貨店堤清二による新宿ステーションビル乗っ取り失敗

(12)高島屋、西武に競り勝ち、新宿へ悲願の進出

(13)新宿駅東口2階の吹き抜けに西武新宿線が乗り入れるはずだったのか?

(14)新宿ステーションビルとベルクと井野家

(15・終)エピローグ

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西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(3)戦後新宿駅乗り入れの具体化へ

(前略)高田馬場始発をしばらく続けた後、戦後の昭和27年(1952)3月25日に高田馬場~西武新宿間が開業して現在に至る。本来は昭和23年(1948)に国鉄新宿駅までの免許を取得していたので、西武新宿というのは一時的な仮駅のはずだったのだが、事情により叶わなかった。

 

「地図と鉄道省文書で読む私鉄の歩み 2 京王・西武・東武」今尾恵介・著 白水社・刊 136頁から引用

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (66)

 1950(昭和25)年11月2日付毎日新聞に、草町義和氏が記事にしている「西武新大久保駅」の記述がみられる。(草町氏の記事では「新」はなく、「西武大久保駅」)

 

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (64)

 開業を知らせる1952(昭和27)年3月8日付読売新聞には「2年後に予定されている国電新宿駅の大改造を見越して当分新宿終点は仮駅とし将来は国電駅と直結する」とある。

 実際に新宿駅東口の「大改造」(新宿ステーションビル(後にマイシティ→ルミネエスト)の開業)が果たされたのは、2年後どころか12年後の1964(昭和39)年なのであるが。

 

 ところで、冒頭に紹介したように、新宿ステーションビルへの西武の乗り入れについては、簡単な図面は見られるところであるが、今尾氏の記述には「昭和23年(1948)に国鉄新宿駅までの免許を取得していた」とある。

 当時の国鉄新宿駅東口の様子は下記のようなものであった。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (62)

「図説 駅の歴史 東京のターミナル」交通博物館・編 河出書房新社・刊 139頁から引用

 この旧駅舎の段階でも西武線の乗り入れが計画されていたのだろうか?

 早稲田大学大学史資料センターには、旧駅舎への西武線乗り入れの図面が残されている。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (21)

 赤線が西武新宿線、赤色塗りつぶし部分は西武線新宿駅ホームである。緑線は地下鉄丸ノ内線、緑色塗りつぶし部分は丸ノ内線ホームである。西武線ホーム付近を拡大してみる。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (22)

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (68)

 戦前の西武軌道線と同じ形で新宿駅東口駅舎と線路の間に入り込んでいることが分かる。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (24)

 駅施設の規模としては4両連結2面3両連結1面の3面2線のホームである。この程度の施設で足りるのかとも思うが、上記に紹介した西武新宿駅開業を知らせる1952(昭和27)年3月8日付読売新聞でも「4台編成電車の発着が可能」とあるので平仄が合う。現在の西武新宿線からは想像がつかないが、当時は4両編成で間に合ったということであろう。

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※歌舞伎町(新宿第一復興土地区画整理組合)との関係

 戦後、歌舞伎町では戦災復興のために区画整理事業を行ってきた。そこに西武新宿駅が入りこんできたわけである。

 その際、西武は区画整理事業地を買収しているのだが、事業協力にあたり区画整理組合との間で下記の文書を取り交わしている。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (78)

(「歌舞伎町」鈴木喜兵衛・著(大我堂・刊)から引用)

歌舞伎町「国鉄新宿駅まで延伸したときも、歌舞伎町駅(西武新宿駅)は存続するよな」

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (63)

(「歌舞伎町」鈴木喜兵衛・著(大我堂・刊)から引用)

西武「国鉄新宿駅に乗り入れても歌舞伎町駅の廃止は考えていません」

 これが、35年後、西武の地下複々線化工事の際に地元歌舞伎町から「約束違反だ」とのの反発を招くことになる。

 また、西武新宿駅予定地には東京都営バスの車庫があり、この移転のための代替地が必要となり、土地区画整理組合もかなりの労力をかけた結果井伊家の土地を確保し車庫の移転・西武新宿駅用地の確保に成功した。(この用地交渉にあたっては堤家が井伊家の家臣であったツテ等も活用されたという。)

 早大大学史資料センターに「都バス関係 新宿線費用明細」という書類が残されたのはこの都バス車庫の移転費用の整理のための資料と思われる。

(「歌舞伎町」鈴木喜兵衛・著(大我堂・刊)から引用)

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (54)

 草町義和氏は、地元と西武鉄道が西武新宿駅の恒久化で合意したことに伴い、当初計画のあった西武大久保駅が中止されたのではないかとの仮説を示している。なるほど。

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(1)プロローグ

(2)戦前の新宿駅乗り入れ構想

(3)戦後新宿駅乗り入れの具体化へ

(4) 魑魅魍魎うずまく新宿ステーションビル

(5)新宿ステーションビルへの西武線乗り入れ

(6)新宿ステーションビルへの乗り入れ中止

(7)地下道による西武新宿駅と営団地下鉄・国鉄新宿駅との連絡

(8)西武新宿線の営団地下鉄東西線・有楽町線乗り入れ構想

(9)西武新宿駅の開発

(10)西武新宿線の地下複々線化による新宿駅乗り入れ

(11)西武百貨店堤清二による新宿ステーションビル乗っ取り失敗

(12)高島屋、西武に競り勝ち、新宿へ悲願の進出

(13)新宿駅東口2階の吹き抜けに西武新宿線が乗り入れるはずだったのか?

(14)新宿ステーションビルとベルクと井野家

(15・終)エピローグ

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西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(2)戦前の新宿駅乗り入れ構想

西武新宿線は、国分寺~東村山~川越(現・本川越)間に建設された川越鉄道を起源とする。国分寺駅で甲武鉄道(現・JR中央線)に接続することで東京都心へのルートを確保したが、後に川越鉄道を引き継いだ西武鉄道(初代)が、都心に直接向かう独自のルートを建設。1927年に高田馬場~東村山間が開業した。

 

西武「大久保駅」構想は、なぜ幻となったのか 新宿乗り入れの裏に隠されたルートと新駅 草町 義和 から引用

http://toyokeizai.net/articles/-/85651

 上記で引用した草町氏の記事はこの後、戦後の新宿駅乗り入れの記述に移っていくのであるが、戦前にも新宿駅乗り入れ構想があったようだ。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (18)

(1936(昭和11)年10月7日付東京朝日新聞から引用)

 西武鉄道の高田馬場開業9年後の記事である。「起点が高田馬場でとかく成績が面白くないので(中略)総工費700万円を持って同線下落合駅から地下線として淀橋区柏木五丁目を通って新宿に出る新地下鉄の敷設認可を鉄道省に申請、(中略)近く鉄道省の認可を得る運びとなった」というのである。小滝橋通りの地下を走って新宿西口に至る予定だったのだろうか?

 今尾恵介氏の「地図と鉄道省文書で読む私鉄の歩み 2 京王・西武・東武」133頁によると「そこ(高田馬場)から早稲田方面へ延伸し、都心と結ぶ構想のあった「市営地下鉄」に連絡する心づもりだったためである。」とあるが、高田馬場開通後に新宿へ自社で乗り入れる算段も生じていたということである。

 

 

 新線計画としては戦前から,中井から地下線で新宿駅西口へ乗り入れる線と,新宿西口から地下で暫く行き多摩墓地前駅で多摩川線と接続する(中略)という2線の計画を持っていました。

 

「西武鉄道でのこと」 長谷部和夫(元・西武鉄道常務取締役) レイル5192号 32頁から引用

 これとも平仄があう(分岐駅が中井か下落合かの違いがあるが)。

 

 なお、「堤康次郎は五島慶太と事を構えたくないから都心乗り入れには積極的ではなかった」ように言われるが、この時期は西武鉄道は(上記記事にもあるように)根津家(現在でも東武鉄道の社長を輩出)のものである。

 西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (65)

 これは新宿駅西口広場の整備を報じる1939(昭和14)年3月1日付東京朝日新聞の記事であるが、新宿駅東口に乗り入れている「西武電車」が目に入る。

 現在の西武鉄道の過去の系譜には2つの路面電車があった。(中略)いま1つは、大正10年に開業した西武軌道(武蔵水電→帝国電灯を経て西武鉄道新宿軌道線。新宿~荻窪間7.5km。軌間1,067mm)。(中略)昭和17年に東京市に経営委託、昭和26年に東京都に譲渡されて都電の一員となる。昭和38年に全線廃止となった。

 

「西武鉄道 昭和の記憶」園田正雄・編 三好好三・文 彩流社・刊 88頁から引用

 この東口駅舎裏に入る路線を生かして、戦後新宿駅乗り入れを図ったのである。

 当時の西武新宿の様子は、「西武鉄道 昭和の記憶」95頁に写真が載っているのでご参考まで。

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(1)プロローグ

(2)戦前の新宿駅乗り入れ構想

(3)戦後新宿駅乗り入れの具体化へ

(4) 魑魅魍魎うずまく新宿ステーションビル

(5)新宿ステーションビルへの西武線乗り入れ

(6)新宿ステーションビルへの乗り入れ中止

(7)地下道による西武新宿駅と営団地下鉄・国鉄新宿駅との連絡

(8)西武新宿線の営団地下鉄東西線・有楽町線乗り入れ構想

(9)西武新宿駅の開発

(10)西武新宿線の地下複々線化による新宿駅乗り入れ

(11)西武百貨店堤清二による新宿ステーションビル乗っ取り失敗

(12)高島屋、西武に競り勝ち、新宿へ悲願の進出

(13)新宿駅東口2階の吹き抜けに西武新宿線が乗り入れるはずだったのか?

(14)新宿ステーションビルとベルクと井野家

(15・終)エピローグ

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西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(1)プロローグ

 ちょっとしたマニヤであれば、「西武新宿線は国鉄(JR)新宿駅に乗り入れるはずだった」というのはご存知のネタである。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (1)

(「交通技術」1960年11月号から引用)2線2面の西武線ホームが東口駅ビル北側に取り付いているのがわかる。

 

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (12)

(「国鉄線」1963年5月号から引用)④から①に向けて矢印が見える。この矢印に沿って歌舞伎町から新宿駅まで乗り入れる構想であった。

 

 この辺をまとめてトゥギャッたのが「幻の西武新宿線のマイシティ(現ルミネエスト)乗入れとベルクさん店内の三本の柱」http://togetter.com/li/984087 である。

 大変好評で2016年10月22日現在で16,261viewを稼ぎ出しており、「ブログにまとめるのがアホらしくなった」と思われるほどであった。

 

 ここに、以前新幹線と近江鉄道の景観補償ネタや新幹線と伊豆箱根鉄道下土狩線ネタ等の堤康次郎のアレコレにまつわる資料を保存している早稲田大学大学史資料センターさんに「西武鉄道新宿線国鉄新宿駅乗り入れ図面」がありそうだということで閲覧してきたのでその成果も含め、西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れ関係諸々を整理せんとするものである。

 

全部で14章くらいの長文になりそうなので、宜しくお付き合いいただければ。

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(1)プロローグ

(2)戦前の新宿駅乗り入れ構想

(3)戦後新宿駅乗り入れの具体化へ

(4) 魑魅魍魎うずまく新宿ステーションビル

(5)新宿ステーションビルへの西武線乗り入れ

(6)新宿ステーションビルへの乗り入れ中止

(7)地下道による西武新宿駅と営団地下鉄・国鉄新宿駅との連絡

(8)西武新宿線の営団地下鉄東西線・有楽町線乗り入れ構想

(9)西武新宿駅の開発

(10)西武新宿線の地下複々線化による新宿駅乗り入れ

(11)西武百貨店堤清二による新宿ステーションビル乗っ取り失敗

(12)高島屋、西武に競り勝ち、新宿へ悲願の進出

(13)新宿駅東口2階の吹き抜けに西武新宿線が乗り入れるはずだったのか?

(14)新宿ステーションビルとベルクと井野家

(15・終)エピローグ

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2016年11月10日 (木)

石神井にあった小山医院の湘南電車の経緯が西武鉄道社内報に載っていた

 もう現存しないらしいが、「小山医院 湘南電車」といったキーワードで検索すると、東京は石神井の病院で、湘南電車のレプリカを待合室にした病院の話が出てくる。

 このレプリカができたころの記事が、当時の西武鉄道社内報(1958(昭和33)年11月5日号)に掲載されていたので紹介したい。

石神井小山病院の湘南電車80系記事1

 院長の小山憲三博士は大の鉄道マニヤ(鉄道友の会の電車調査部長)で西武鉄道の嘱託医でもあったという。

 本物そっくりな具合を具体的に紹介している。

 いわく

「国鉄から湘南電車の青写真を借受け、その通りのものを造ったというだけあって大きさ色彩とも実物とまつたく同じ」

「ドアーは汽車製造、窓はナニワ工機とそれぞれ専門メーカーに発注」

「車体の標記は三鷹電車区に依頼」

とある。

 また車号「クハ86374号」については

「これは国鉄の現存車が86372号まであるし、国鉄では86形は今後製造しないからそれより多い数字を選び一つ多い偶数の車号をつけた」

 所属電車区「東ヤマ」については

「東京鉄道管理局の小山電車区」

 鉄道趣味者のブログ等には「待合室」と紹介されているようだが、この記事では

「長さ20米、約14坪の車内は外科、小児科、内科等の診察室に仕切られていて、それぞれに診察台と医療器具が設けられている」とあり、往時はここで診察していたようだ。「私は好きな電車の中で毎日仕事ができて満足だ。」とのコメントが載っている。

 またこの湘南電車だけではなく

「戦前池袋に開業していたが、そのときはモハ40形を模した病室を置き好評を博していた。」というから筋金入りである。

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2016年11月 4日 (金)

森口将之氏「首都高速ではない首都高速? 無料で走れるKK線が生まれた理由」は勉強不足

 森口将之氏が「首都高速ではない首都高速? 無料で走れるKK線が生まれた理由http://getnavi.jp/vehicles/80733/という一文をGetNaviwebという媒体で発表しているのがひっかかった。

 ざっくりまとめると「東京高速道路株式会社線(KK線)は、ビルの賃貸料収入で運営しているので無料だ。首都高も一部でも導入していれば高速料金が安くなったのに」ということらしい。

 どうも、ツッコミどころ満載である。

東京高速道路

■ 無料ならなんでもいいのか?

 森口将之氏はこう記す。

銀座でKK線の脇を歩いたことがある人なら、下に飲食店などが入っていることを知っているはず。実はこれらのお店からの賃貸料収入で運営しているのだ。KK線が部分開業したのは1959年で、首都高速より早いのだが、そうとは思えないほど先進的な思想にあふれた道なのである。

 東京高速道路のなりたちを全く知らないような素朴な書きぶりだ。

 では、私お得意の国会議事録から東京高速道路が建設された当時にどのような扱いになっていたかを紹介してみよう。

■ 東京高速道路(KK線)は自民党議員からも「利権道路」と呼ばれていた

○久野(忠治)委員 今日交通需要が限界に達しておることは衆目の見るところでございます。こうした点から一部経済人がこれに目をつけまして、御存じの通り新橋―京橋間に東京高速自動車道路の建設が計画をされ、目下この事業が進行中でございまするが、数年前に計画されたこの事業が今もって完成をしないのであります。しかも当建設委員会におきましては、この高速自動車道路の建設については多分な疑惑の目をもって見ておりまして、そうしてこの内容についても幾多の質疑が発せられました。そのとき――この問題には関係ありませんけれども、重要でありますから一つお尋ねをいたしたいと思うのであります。その際私が質問をいたしましたことはこういうことでありました。その下部の利用は一体何にするかという質問に対して、当時の東京都の副知事――名前はちょっと忘れましたが、副知事はこう答えました。倉庫もしくはガレージに利用する、こう言ったのであります。万一その利用目的が変った場合にはどういう処置をとるかという質問に対して、撤去を命ずる、こう言いました。それからもう一つ、この都市計画全体からいって、下水あるいは雨水の排水のための重要な都市水路であるから、これは残しておくべきではないかという意見もそのときに出たのであります。その質問に対しては、地下はいわゆる水路として残しておくように設計をされておる、万一それを埋め立て等にする場合があれば、これまた当初の設計に反するものであるから撤去を命ずるということを、現に当委員会で言明をされたのであります。それは当時の建設委員会の速記録をお調べになればよくわかることでございます。ところが今日でき上りましたものを拝見いたしますると、堂々たるキャバレーができたり、あるいは飲食店ができたり、事務所ができたり、倉庫というのは名ばかりで、今ガレージなどというのは名目的に一、二カ所あるだけでございます。それから私たちが指摘をいたしましたように、地下の水路はすでに埋め立てをいたしてしまいまして、そうしてこれを地下の倉庫に利用しようといたしております。そうして莫大な利権を握って、東京都の交通難を緩和するという美名に隠れて利権のちまたにこれがなろうとしていることは、衆目の見るところであります。

○西村委員長 それからこれは今日私風評で聞いておるのでありますが、設計変更の認可もないうちに高速自動車の私営のやつが行われている。しかもこれは世間では利権道路と言っているということ、そういうことからくる都の機構、あるいはその行政の運営に対しての疑惑というものも世間に伝えられている

 この久野委員も西村委員長も自民党である。野党が政府を追及しているわけではない。

 「テナント料で費用を賄っているので高速道路料金はタダ!民間の知恵だ!PFIの先駆けだ!」と持て囃されているKK線であるが、当時の国会では与野党こぞっての「利権」集中砲火であった。

 なお、今のコリドー街やGINZA9等を考えると上記で「倉庫、ガレージ」と議論しているのは違和感を感じるが、「もともと倉庫、ガレージにしか使わせない」という目的で許可を得ておきながら後で知らぬ間に飲食、店舗等に使わせることになっていたというのも世間から指弾された点である。

 こんなことは、国会議事録で検索すればすぐ分かる話だ。

 ちなみに、当時の新聞記事ではこんな扱いである。

疑惑の東京高速道路KK線 (1) 

1956(昭和31)年9月6日付読売新聞から引用

 東京高速道路は「利権の長城」と呼ばれていたと書いてある。

 書籍ではどのように扱われているかも見てみよう。

 とくに革新系の庁内誌「都政新報」社がつくったパンフレット「東京の七不思議-裏から見た都政」は、都内の一般書店でも販売されて都民の反響が大きく、安井都政の汚職批判はかなり都民に浸透した。

 この「七不思議」のうち、もっとも有名なのはすでにのべた数寄屋橋の下の濠を埋め立て、いま京橋から新橋へかけて高速道路が走っているが、この高速道路建設の名目でその下につくれらた(ママ)貸ビルの問題である。安井知事は、このためにできた「東京高速道路株式会社」なる民間会社に、この外濠の埋立権を与え、六千坪の土地に地上二階地下一階の貸ビルをつくって営業してもよいことにしてしまった。(一九五七年七月、フードセンター、数寄屋橋ショッピングセンターなど開業。)埋め立ての費用は都が負担し、この会社からとる地代は月坪四百円。当時この辺は坪当たり地価五万円といわれていたから、会社は店子から莫大な家賃や権利をとれるはずだ

東京都知事」日比野登著 41~42頁から引用

 都民の公共資産である外堀の埋め立て地を特定の企業が安価に都から手に入れて高額なテナント料を手に入れる・・・そのおこぼれとしての料金無料なのである。

 東京高速道路は、35年たてば東京都に寄付されるはずだったが、それを拒んだため東京都が東京高速道路を相手取り、訴訟を提起した。結果は第一審から最高裁まですべて都が勝訴。結果的に東京高速道路が都から買収する形で現在に至っている。このズブズブが森口将之氏のいうところの「先進的な思想にあふれた道」なのである。

疑惑の東京高速道路KK線 (2)

1988(昭和63)年6月22日付読売新聞から引用

 コンプライアンス的に言えば、東京高速道路株式会社は、超ブラック企業である。森口将之氏はブラックだろうが利権だろうがタダになれさえすれば「先進的」と言うのだろうか。なんとも貧しいおこぼれ頂戴根性であろうか。

 

■ 首都高速は一部でもKK線のような高架下建築を導入していないのだろうか?

 森口将之氏はこう記す。

なぜ首都高速はKK線のようなビジネススタイルを取り入れなかったのだろうか。一部でも導入していれば高いと言われる料金が少しは安くなったのではないだろうか。

 首都高速も高架下への建築は「一部」くらいは導入している。

 箱崎の東京シティエアターミナル(T-CAT)等がその例だ。首都高の高架下に道路法に基づく占用許可によって設置されており、道路側に占用料収入が入っているはずである。

TCATと首都高速道路

 また、数は少ないものの高架下に建物を首都高が作り、テナントを入れている。

IMG_8117

 赤羽橋のあたりを走っていると上記のような高架下建築が見える。

東京都の「平成15年度財政援助団体等監査報告書」には下記のとおり記されている。
http://www.kansa.metro.tokyo.jp/PDF/03zaien/15zaien/15zaien362.PDF

 本事業は、2号目黒線高架下において、移転困難な地権者に対し、昭和43年から公団が施設(事務所・店舗用、駐車施設等)を設置し賃貸しているものであり、平成14年度の総収益は6,208万余円で、前年度に比べ232万余円(3.6%)減少している。一方、総費用は4,576万余円で、311万余円(7.3%)増加したため、当期利益金は1,631万余円となり前年度と比較して543万余円(25.0%)減少している。

■ 首都高速は、実はやる気マンマンであった

 下記は、1959(昭和34)年に東京都が作成した「東京都市高速道路の建設について」という冊子からの引用である。首都高設立に向けての東京都のPR資料と思われる。

首都高速道路当初の高架下建築計画

 このように現在と異なり、首都高速は東京高速道路株式会社と同様に高架下建物の建設に積極的だったように見える。これが実際にはT-CATと「移転困難な地権者向け」等に縮小してしまった(もっとも駐車場や公園としての活用はされているが。)。

 なぜ、そうなったのだろうか?

 冒頭に引用した国会議事録は首都高速道路計画の審議の際の発言である。それだけ都市内高速道路の建設にあたっては、「利権道路」東京高速道路がトラウマになっており、「KK線の再現は許さない」空気があったのではないか。事実、首都高速道路公団法案の国会審議には何度となくKK線についての質疑がなされ、東京高速道路社長まで参考人で呼び出されている。

 また、タイミングの悪いことに、国鉄でも「ガード下疑惑」のようなものが持ち上がっていた。鉄道会館事件や京急デパート事件のように身内に便宜を図ったり、ガード下にテナントが入れるように便宜を図ることで国鉄職員が収賄で逮捕されるといった疑惑・汚職を招く一方、アメ横のガード下等は転貸に転貸を重ね、地主である国鉄も管理できないありさまであった。別の記事でも触れているが国会の場で当時の総裁が何度も陳謝している状況である。

国鉄ガード下汚職

1954(昭和29)年10月9日付朝日新聞から引用

(参考)「小林一郎著「ガード下」の誕生-鉄道と都市の近代史(祥伝社新書)が糞だった(その2)」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/--c177.html

 このように世間は「高架下(ガード下)利権許すまじ」の情勢があったのは間違いない。そこに運悪く首都高が巻き込まれて高架下の積極的な利活用に制限がかかってしまったのではないか

 そして、建設省は「高架道路の路面下の占用許可について」(昭和40年8月25日付け建設省道発第367号建設省道路局長通達。平成17年廃止)を発出し、道路の高架下利用を非常に限定的に行うこととした。鉄道のバラエティあふれる高架下の利用に対して、道路の高架下の利用が公園、駐車場等が主であり、商業用施設が極めて限定されてきたのはこの通達によるものである。

(この直前に、新幹線の高架下利用が問題となっており、その影響があったのかもしれない。)

新幹線ガード下不当利用

1964(昭和39)年5月4日付朝日新聞から引用

高架下利用は抑制

(「建設のうごき」No.109号11頁から引用。)

 直接的な証拠が見つけられておらず、個人的な感想にとどまるのであるが、「KK線が高架下の活用ができているのに首都高はできない」のではなくて、「KK線や国鉄がやりすぎたので、そのあおりをくらって首都高は大した高架下の活用ができなくなった」のではないかと思っている。

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 ところでKK線は役に立っているのだろうか?

 「山田天皇」と呼ばれた東京都元首都圏整備局長の山田正男氏は下記のように述べている。

疑惑の東京高速道路KK線

(「時の流れ・都市の流れ」24頁から引用)

 「1km余で取付道路がどちらも並木通りではどうにもならないが」「遅まきながら」後付けで首都高のネットワークに取り込んでやって解決したということだ。

 商業利用が期待できる箇所だけのおいしいところどりの1km余ではどうにもならなかったのを都が救済してやったということである。

 森口将之氏は何を書いている人なのか実はよく知らないのだが、交通機関やその社会的背景等を真面目に勉強してから、書いてみた方が宜しいのではないか?

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