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2016年11月13日 (日)

西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(7)地下道による西武新宿駅と営団地下鉄・国鉄新宿駅との連絡

 現在、西武新宿駅と東京メトロ・JR新宿駅はサブナード地下街によって連絡されている。

 実は、サブナード地下街(新宿地下駐車場株式会社)の設立には西武が大きな役割を演じていた(実際には出資等は行わなかったが。)のである。

 

 早稲田大大学史資料センターに、下記のように西武新宿駅と地下鉄・国鉄新宿駅を直結する地下街の構想図が残されている。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (27)

 この図面は、立花次郎氏による「新宿東側交通センター計画と西武終端駅の建設について」と題した文書に添付されているものである。1956(昭和31)年というから、まだ民衆駅騒動が決着していない段階である。

 この段階で「西武新宿駅は歌舞伎町に置いたまま、地下道で連絡する方が西武にとって得策である」旨を説いたのがこの文書である。「交通センター」とは新宿ステーションビルのことを指している。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (28)

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (29)

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (30)

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (31)

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (32)

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (33)

高架下や駅周辺に何も作れない国鉄新宿駅乗り入れよりも歌舞伎町の方に駅ビル等を作って開発する方が西武グループにとって儲かるんじゃないの」ということか。

 ちなみに文中の「西武フロントビル」の想定地は、現在ヤマダ電機が入っている下図の場所である。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (20)

 西武鉄道が、念願の新宿駅乗り入れをあっさりと断念して歌舞伎町を本格ターミナルとしたのはこのような両面作戦があったからなのかもしれない。

 その証拠がサブナード地下街への西武の関与である。

創立事務所を設ける

 

 「特許事業」へと決意し、準備を始めた。

 早い動きである。昭和37年2月20日には有志が会合し、議長を選任、次のことを申し合わせている。

1.「新宿東口地下駐車場(株)創立事務所」を設置する。

2.当日の出席者を発起人とする。

3.発起人代表を藤森作次郎歌舞伎町振興会組合長とする。

4.創立事務所準備金として西武百貨店と歌舞伎町振興会がそれぞれ50万円、拠出する。

5.創立事務所は当面、歌舞伎町振興会事務所内に置く。

 同年3月6日、西武鉄道設計部作成の基本概略設計図面を基とした「地下駐車場および地下道建設のためにする道路占用許可申請」を、都の首都整備局都市計画第二部施設計画課に提出した。

(中略)

 つまりまず最初は、西武プラス歌舞伎町振興会で動き出したのである。

 

「新宿サブナード30年のあゆみ」 新宿地下駐車場株式会社・発行 29~30頁から引用

 

 また、第1回発起人会には西武関係者として

堤清二(西武百貨店社長)

小島正治郎(西武鉄道社長)

宮内巌(西武鉄道専務)

加藤肇(西武鉄道常務)

田中利一(西武百貨店常務)

と錚々たるメンバーが名を連ねている。(「新宿サブナード30年のあゆみ」 30頁から引用)

 1962(昭和37)年といえば、新宿ステーションビルの開業を2年後に控えた時期ではあるが、西武としては新宿線の乗り入れとサブナード地下街の両面作戦に出ていたと言えるだろう。

しかし、西武線乗り入れ断念後の1967(昭和42)年に西武百貨店堤清二社長は、会社としては地下街会社に出資しない旨を創立事務所に伝えている。新宿地下駐車場株式会社の初代社長は伊勢丹会長の小菅千代市氏が就任した。

 そして1964(昭和39)年には、地下街の「基本構想」が策定された。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (17)

 立花次郎が示した西武新宿駅と地下鉄・国鉄新宿駅を直結する地下道が、第2期計画に盛り込まれていることが分かるだろう。

 しかしこの所謂「国鉄寄りの袖」は実現しなかった。

「道路幅は全体で25m(国鉄寄り歩道4.4m、民地側歩道3.8mを含む)。16.80mのみが車線である。地下建物の地表への階段出入口(幅員3m)をとるためには、歩道を両側7mにしなければならない。すると残りの車道は11m幅になる。これだと、車線確保はギリギリであり、しかもS形にカーブしていて、車輌運行上の危険がある。しかもこれは地下駐車場から地表へのランプ設置場所が確保できない」。

 「協議会(※引用者注 新宿地下駐車場第2期計画国鉄寄り協議会)」はこの案を断念するしかなかった。ただし将来構想としては、残されているのである。

 

「新宿サブナード30年のあゆみ」 新宿地下駐車場株式会社・発行 55~56頁から引用

 このように1970(昭和45)年に、地下道による直結の道も閉ざされてしまった。

 なお、1975(昭和50)年10月22日に第1期計画第2期工事の柳通り地下部分が完成し、西武新宿駅と営団地下鉄・国鉄新宿駅はまがりなりにも連絡することとなった。1952(昭和27)年の西武新宿駅開業以来23年後のことであった。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (72)

(1975(昭和50)年10月9日付読売新聞から引用)

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(1)プロローグ

(2)戦前の新宿駅乗り入れ構想

(3)戦後新宿駅乗り入れの具体化へ

(4) 魑魅魍魎うずまく新宿ステーションビル

(5)新宿ステーションビルへの西武線乗り入れ

(6)新宿ステーションビルへの乗り入れ中止

(7)地下道による西武新宿駅と営団地下鉄・国鉄新宿駅との連絡

(8)西武新宿線の営団地下鉄東西線・有楽町線乗り入れ構想

(9)西武新宿駅の開発

(10)西武新宿線の地下複々線化による新宿駅乗り入れ

(11)西武百貨店堤清二による新宿ステーションビル乗っ取り失敗

(12)高島屋、西武に競り勝ち、新宿へ悲願の進出

(13)新宿駅東口2階の吹き抜けに西武新宿線が乗り入れるはずだったのか?

(14)新宿ステーションビルとベルクと井野家

(15・終)エピローグ

 一旦終わった後に、その後ネタを追記

(番外編)「東京 消えた! 鉄道計画」中村建治(著)が怪しい

(16)西武新宿駅を大江戸線新宿西口駅に直結させる計画が1982年にあった

(17) 西武新宿駅は、元々地下鉄乗換えを考慮して地下に設置する構想だった

(18) 新宿ステーションビルの店舗募集資料から西武線のホームと吹き抜けの関係を確認してみる

(19)西武新宿線の新宿駅ビル乗り入れの図面を国鉄の内部資料から確認してみる。

(20)西武新宿線の新宿駅ビル乗り入れの図面を国鉄の内部資料から確認してみる。(その2)

(21)思いもつかないところから西武線新宿駅乗入れのカラー想像図が

(22)都庁幹部が語る西武乗り入れ中止の背景

(23)構想以来65年ぶりに西武新宿駅と新宿駅を結ぶ地下道が実現に向けて動き出した

(24)西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れ撤退の理由が書かれた公文書

(25)「ステイション新宿」をそのまま一次資料として丸呑みしては危険

(26)交通新聞社「新しい西武鉄道の世界」結解喜幸氏の新宿駅乗り入れ記事がひどい

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