新幹線岐阜羽島駅は大野伴睦の政治駅だったか検証してみる
東海道新幹線が架線事故のため岐阜羽島駅等で立ち往生したことを受けて、「岐阜羽島駅が政治駅だ」とかそうじゃないとか新幹線の駅じゃないとかコンビニがあるとかないとかいう話がTwitter等で盛り上がった。
岐阜羽島駅といえば、私なんぞはすぐに大野伴睦がムリクリに誘致した政治駅だと言われた頃を思い起こしますよ。今はもう、そういうことは忘れられてるのかな?>RT
— 松井計 (@matsuikei) 2017年6月21日
西村京太郎先生の長編で「岐阜羽島駅は人に知られておらず周囲に何もないので、何十人もの人間を新幹線から拉致してもわからない」というトリックがあって、剛腕やなあと思っていたが、あの作品かれこれ40年前のですよ。全然状況が変わってなかったとは驚いた。政治駅はダメだなやはり。
— 芦辺 拓 (@ashibetaku) 2017年6月22日
怒られるかも知れないが「地元の悲願」という言葉を聞くたび新幹線と大野伴睦を想起する。岐阜羽島駅のことである。極論すれば線路沿いのすべての地元が「悲願」の駅を待望しているわけで、不足とかニーズといった統計のごときものはどのようにしても作ることができる。問題は別の水準にあるのに。
— Ken ITO 伊東 乾 (@itokenstein) 2017年6月24日
これに関して、「乗りものニュース」がまたもや「いかにもタイミングを逃さずヤフーニュースで注目してもらうためだけに粗製しました」と言わんばかりのしょっぱい記事を書いたので、ちゃんと調べてやろうかと思った次第。
羽島駅が東海道新幹線に追加されると分かった際の新聞記事がこちら。
1959(昭和34)年11月18日付朝日新聞
1959(昭和34)年11月18日付読売新聞
朝日は「政党幹部」とぼやかしているが、読売はいきなりしょっぱなから「伴睦老に寄切られる?」と大野伴睦代議士(当時は自民党副総裁)の名前を出している。
そして早速当日の国会で野党から追及されるわけである。
1959(昭和34)年11月18日付朝日新聞夕刊
1959(昭和34)年11月18日付読売新聞夕刊
では、ここで国会で追及された国鉄・運輸省側の言い分を聞いてみよう。
○十河信二説明員(国鉄総裁) ただいまお話のありましたように、私は国鉄の経営についてはガラス張りで仕事をやっていきたいという信念も変わりませんし、今日もそういうふうにやっておるつもりであります。東海道新幹線の経過地並びに停車駅につきましては、いろいろな検討をいたしまして、名古屋までは比較的順調に進んだのでありますが、名古屋から先、なるべく直線に行きたいと思って、鈴鹿の山脈の地質調査を長いことかかって検討いたしました。そうしていろいろなルートを調べてみたのでありますが、どうも地質がよろしくない。しかしながらできるだけ短距離で結びたいということで、名古屋から関ケ原の方へ直線で結ぶことにいたしました。そうなりますと豊橋から米原までの間は相当長い距離になりまして、豊橋、名古屋、米原という三つの駅を置くか、あるいはもう一つその間に駅を置くかということをいろいろ検討いたしまして三駅案、四駅案と、いろいろな案がありますが、御承知のように、新幹線はなるべく曲線をなくして直線にして、そうして踏み切りをなくして、経済的の最高のスピードで走るようにしたい、そういうことを考えまして、そうすれば特急は大体最高二百キロくらいの速力で走れば三時間で、非常に経済的にスピードアップができるということで三駅の方がよかろうかということを考えておりました。ところが特急だけではいけない、特急は東京、名古屋、大阪、この三駅へとまる計画でありますが、それだけではいけない、やはり地方の都市にもとまる必要があるということで、特急のほかに急行をどうしても走らさなければならぬ。そうなりますと、特急と急行との行き違いの関係もありまして、豊橋、名古屋、米原と行くよりか、その間に一つ駅を作ったらよかろうというふうなことが最終の案として決定いたしまして、それで運輸大臣に申請して認可になった次第であります。その間、そういうふうに長いことかかっていろいろ検討いたしておりましたので、それで世間で――いろいろその間を測量するとか調査をするということがありまして、事前にいろいろなことが漏れて、皆さんにいろいろな疑惑をおかけしたことは、はなはだ遺憾であります。事情は今申し上げた通りであります。さよう御了承を願いたいと存じます。
(略)
○平井委員長 委員長からこの席で総裁に質問をいたします。
新幹線の駅は初めからどうして十カ所にしなかったのですか。九カ所と発表してあと十カ所となったので、井岡君が非常に心配をして質問いたしておるのでありますが、その点をはっきりさしていただきたい。岐阜にできるのはけっこうでございますけれども……。
○十河説明員 東海道新幹線の駅は初めからおよそ十ほどということをわれわれは言っておったわけであります。きまったものとして、九つにきまったとか十になったとかいうことは今日まで発表しておりません。昨日発表したのが初めてであります。いろいろ調査をしておる過程で皆さんが想像して、新聞なんかでいろいろ書かれることはありますけれども、正式に発表したものではないのであります。その点は御了承を願いたいと思います。
(略)
○山内公猷説明員(運輸省鉄道監督局長) 現在考えておる新しい岐阜県内の駅というものは、まだ始点がはっきりいたしておりません。それで的確にお答えできないわけでございますが、このところにどうして駅を置くかということでございますが、実はわれわれ審査をいたしました事務当局といたしましては、大臣が言われましたように、岐阜県内に一つも駅がないということも一つの理由であるし、かつまたこれは釈迦に説法のきらいがありますが、現在の線におきましても運転上の都合によりまして方々に信号所を置いている。運転の整理のためにはどちらかといえば駅がたくさんあった方が、運転の整理がつきやすい。しかし、これを全部とめれば非常に時間がかかるということでございまして、この駅にどういう列車をとめるかということは、やはり運転上の必要で十分考えまして、ダイヤを入れてから十分検討すべき問題である、かように考えております。とりあえずは特急線がとまるということはない。御承知のように特急と普通急行とを走らせるつもりでございますから、ある程度スピードの違う列車を走らせるので、行き違いにそういう施設があった方が国鉄としては便利であるという観点に立っておりますし、われわれの方はそれに加えて岐阜県の中で三十キロに新しい線の延びがある。そこに一駅も置かないということは県民の協力も得られないし、かつまた岐阜、大垣の方々の利用を得ることも必要であるということで、実は事務的には一つの駅を作る方がベターであるという結論に達したわけでございます。そうしますと、今度これができますのが今の計画では五年計画になっております。結局その場合の交通上の状態を考えて、いかにしてこの駅が利用されるかということは、われわれとしては今後見ていかなければならないわけでございます。現在の道路の状況でいいますと、はっきりはいたしておりませんが、大体考えられる駅の地点というものは、大よそ岐阜市から十五キロくらい、大垣市から十キロくらい、それから羽島市から八キロくらいという、岐阜、大垣の方々に利用していただこうというふうに考えておるわけであります。
昭和34年11月18日衆議院運輸委員会
この国会論争を受けて、読売新聞は18日付夕刊で「退避駅」ではなく「政治家の圧力からの退避した結果」だと追及している。
また、朝日新聞は翌朝の社説で「政治駅の設置はご免だ」との論説をはっている。
1959(昭和34)年11月19日付朝日新聞
また、羽島市への新幹線駅の設置は駅誘致に動いていた周辺各地からも反発をかったようだ。
1960(昭和35)年1月12日付朝日新聞
そもそも岐阜県自体が反対したまま正式決定されたというのも異例ではある。
1960(昭和35)年1月12日付朝日新聞
この記事にあるように「国鉄原案」から「本決まりになった路線」が羽島市を通るように北へ移っているあたりも「政治駅」としての印象を強くさせているようだ。尤も後述のように国鉄によれば、この辺のルートどりは、大河川を渡ることによる制約が大きかったようであるが。
1960(昭和35)年1月15日付読売新聞
このように国鉄や運輸省の弁解?にもかかわらず、マスコミは「政治駅だ」としたわけである。
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実際のところはどうだったのか。国鉄新幹線総局で営業部長等を務めた角本良平氏は、「角本良平オーラル・ヒストリー」において、次のように語っている。
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角本氏は、「岐阜市を外れることについて揉めない」ための国鉄の策において、「悪いくじを引き受けてくれたのが大野伴睦という政治家」「本来ならば、大野伴睦が非常に強く言えば、岐阜市に寄せざるを得なかっただろうということ。」「羽島を識別するためじゃなくて、岐阜県を象徴するための駅名にしたということで、大野伴睦の顔が立った。」という見方を示している。
他方、角本氏は京都駅が当初予定から変更されたことについて、地元に苦言を呈している。リニアモーターカーの京都誘致に対してJR東海がつれないのもこの辺が国鉄からJRへと引き継がれているのかしらん。
なお、鈴鹿経由とならず、関ケ原経由となったことについては、以前、「新幹線が鈴鹿山脈越えをあきらめた理由を検証してみる」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/10/post-1c6b.htmlという記事を書いたので、併せて参照いただきたい。
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とまあ、駆け足で当時の報道や関係者の言い分を振り返ってみた。この辺を踏まえて「岐阜羽島駅は政治駅だったか」をご判断いただければ宜しいのではないかと。
ところで、マスコミはその後どう扱っているかというと
1964(昭和39)年9月1日付朝日新聞夕刊
というように「交渉に手を焼いた国鉄が大野伴睦老に頼み込んでこの人を引張り出し、岐阜県側の主張を押さえてもらって、そのお陰でやっと現在の線で話がついたのが真相だという」「駅の決定についても伴睦老は、国鉄の技術的な決定によるべきだと、全く干渉がましいことはいわなかった。」と、つい数年前に社説で「政治駅の設置はご免だ」と叩いたのをすっかり忘れたかのような書きぶりである。
神田記者もこうツイートしている。
ちなみに。そもそもなぜ東海道新幹線が関ケ原なんかを通っているのかという理由で、岐阜出身の大物政治家が岐阜県を何が何でも通すように線路を曲げたという説がありますが、これは眉唾モノです。
— 神田大介 (@kanda_daisuke) 2012年3月8日
他方、読売新聞はというと
1989(昭和54)年7月19日付読売新聞
と、少なくとも昭和末期においても「岐阜羽島駅は大野伴睦の政治駅」という認識を持っていたようである。今はどうか知らんが。
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ところで、現在岐阜羽島駅には名鉄線が延伸されているが、当時岐阜市内からモノレールを建設する構想があったことを1961(昭和36)年2月8日付読売新聞夕刊が伝えている。
岐阜市内の路面電車が廃止となった際に、鉄道マニアが「無策だ」なんだと勝手なことを言っていたが、岐阜市内線のモノレール化計画は日本でも先頭をきって進められていたのである。
その辺は「大阪モノレール南伸と都市モノレール死屍累々の調査路線」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/post-3d23.htmlにかつてのモノレール計画の一覧表を載せているのであわせてご参照いただきたい。
新幹線開業直前の何もないっぷりを伝える1964(昭和39)年7月12日付読売新聞。
その後の状況は「今昔マップ」でどうぞ。
岐阜羽島と大野伴睦。ここに駅を造ったのは、今となっては先見の明だと思う。 pic.twitter.com/gQqiIeiflK
— watanabejin (@watanabejin) 2017年6月4日
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コメント
政治的に勝ち取った駅でないと地元(の一部の輩)が納得しない、という面、
鬼の首を取りたいマスコミ、このあたりの複合要素が岐阜羽柴=政治駅という通説を作り上げているのでしょうね
投稿: | 2017年8月 6日 (日) 21時57分
あの辺りは南へ行くほど地盤が軟弱で、只でさえ工費の超過が問題になっていた時に、工費の関係で現在のルートに。
それを大野伴睦先生が一人で被ったというのが真相。
投稿: 悟空 | 2018年4月 2日 (月) 22時23分
岐阜羽島駅について尋ねられて、大野伴睦の感想の一言は何だったでしょうか
投稿: ホシガラス | 2019年11月25日 (月) 11時25分