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2017年8月19日 (土)

首都高はオリンピックに間に合わせるために河川上に作ったというのは嘘と言ってよいのではないか-首都高日本橋附近の地下化関連(3)

 前の記事で、2017(平成29)年7月30日付の読売新聞社説「首都高地下化 日本橋の景観を取り戻そう」を取り上げたところである。

 そこにこんな記事がある。

首都高日本橋 (1)

 「首都高の整備を翌年の東京五輪に間に合わせるため、用地取得の手間や費用を省ける河川上のルートが採用されたためだ。」とある。

オリンピックに関係なく首都高は川の上だった

 ところで、1957(昭和32)年9月29日付の読売新聞は、上記のように「都内に高架道路の網」「川の上や二階建」と報じている。

 

 ちなみに東京オリンピックが決定したのは、1959(昭和34)年5月26日である。

 

 あれれ?順番が違いませんかねえ?

 念のために読売以外の新聞も見てみよう。

オリンピックに関係なく首都高は川の上だった2

 1957(昭和32)年8月16日付朝日新聞も同様の趣旨の記事を掲載している。

 

 「できるだけ既設の幹線道路や河川等公有地の上に建設」とあるし、「東京高速度道路計画図」も現在の路線図と似ている(よく見ると違うところはあるが。)。

 

 つまりオリンピック決定の約2年前に河川上を活用した首都高の路線は概ね固まっていたということである。

 

 ええっ、まさか「日本のクオリティペーパー」、天下の読売新聞様が嘘、しかも自社が過去に報じたことと違うことを社説で書いているの??

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ざくっと時系列を整理してみよう。

・1953(昭和28)年4月 首都建設委員会勧告「首都高速道路に関する計画」

→今とは全然違う路線網http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/07/28-7e37.html

 

 

 

 

・1956(昭和31)年11月 日本道路公団 東京調査事務所を設置

 

→都市高速道路の調査を開始

 

 

・1957(昭和32)年7月 建設省「東京都市計画都市高速道路に関する基本方針」

→河川や公有地の活用方針

 

・1957(昭和32)年8月 東京都市計画地方審議会「高速道路調査特別委員会」設置

→上記新聞記事 当初の路線の原型。

 

 

・1957(昭和32)年12月 東京都市計画地方審議会「高速道路調査特別委員会」東京都知事へ報告書提出

→当初の路線がほぼ固まる

 

 

 

・ 1958(昭和33)年4月 衆議院建設委員会「都内高速度道路整備計画に関する件」

 

→「経過地に当っては不利用地、治水、利水上の支障のない河川、または運河を使用して、やむを得ざる場合だけが幅員四十メートルの道路に設置する」と答弁http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/028/0120/02804100120023a.html

 

 

・1958(昭和33)年4月 日本道路公団が「東京高速道路」西戸越~銀座間(現在の2号線等の一部)を翌年度に着手との新聞記事

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-a9d4.html

 

・1959(昭和34)年1月 首都高速道路公団法案 閣議決定

 

・1959(昭和34)年2月 日本道路公団が西戸越~銀座間の工事に着手

 

・1959(昭和34)年4月 首都高速道路公団法 成立

 

・1959(昭和34)年5月 東京オリンピック開催決定

 

・1959(昭和34)年6月 首都高速道路公団 発足

 

・1959(昭和34)年8月 首都高速道路公団 当初計画71km都市計画決定

 

・1964(昭和39)年10月 東京オリンピック開催

 

 とまあ、こんな感じである。オリンピック決定のはるか前に河川活用を決め、首都高速道路公団ができる前に日本道路公団が工事着手していたというのが実態であるのだ。

 

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 ここから上記の時系列について詳細な資料を提示していきたい。

・1953(昭和28)年4月 首都建設委員会勧告「首都高速道路に関する計画」

→今とは全然違う路線網http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/07/28-7e37.html

 

昭和28年の首都高速道路網図

 

 

 

 

・1956(昭和31)年11月 日本道路公団 東京調査事務所を設置

 

→首都公団ではなく、日本道路公団が首都高速道路の調査を開始した。

 

http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/m_jsce/41-12/41-12-003.pdf の「土木学会誌」昭和31年12月号60頁を参照されたい。

 

 

・1957(昭和32)年7月 建設省「東京都市計画都市高速道路に関する基本方針」

→河川、運河や公有地を活用した路線の経過地の選定を行う方針が建設省により決定された。

 

首都高が河川を活用することはオリンピック決定よりずっと前に決定

 

「東京都市高速道路の建設について」から引用。詳細はhttp://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-c06b.html

 

・1957(昭和32)年8月 東京都市計画地方審議会「高速道路調査特別委員会」設置

→1957(昭和32)年8月16日付朝日新聞に当初の路線の原型が掲載されている。

オリンピックに関係なく首都高は川の上だった2

 

 記事中にも「できるだけ既設の幹線道路や河川など公有地の上に建設」とある。

 

 

 

・1957(昭和32)年12月 東京都市計画地方審議会「高速道路調査特別委員会」東京都知事へ報告書提出

→当初の路線がほぼ固まる

 

首都高速の日本橋附近は掘割型式で進めるはずだった

 「東京都市高速道路の建設について」から引用。4以降の附帯意見等、詳細はhttp://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-c06b.html

 日本橋川附近については「神田川との治水上の関連を慎重に検討のうえ可能ならば河床を通すこととし、もし困難な場合は高架方式又はその他の方法を検討し採用する。」とされた。

 

 なお、この特別審査委員会の審議においては、下記のような経緯があった。

首都高速の日本橋附近は掘割型式で進めるはずだった2

 

 「首都高速道路のネットワーク形成の歴史と計画思想に関する研究」古川公毅・著 45頁から引用。

首都高速道路の初期計画路線網

 1958年(昭和33年)4月4日付読売新聞

 「4割は川上を走らせる」とある。

 

 

 

・ 1958(昭和33)年4月 衆議院建設委員会「都内高速度道路整備計画に関する件」

 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/33410-1e35.html


○藤本参考人(藤本勝満露東京都建設局長) 経過地に当っては不利用地、治水、利水上の支障のない河川、または運河を使用して、やむを得ざる場合だけが幅員40mの道路に設置する、建前としては道路上には設置しないように(略)

 

物件移転費という欄の一番下の欄をごらんいただきますと、878という数字が出ております。これは移転棟数の合計でございます。これだけの事業をいたしますのに、移転棟数がともかく千棟以下であるという点については、やはりできるだけ民有地あるいは民家というような面において御迷惑を少くするという配慮をいたした一つの現われだと存ずるのであります。

 

 

  「五輪に間に合わせるために」ではなく、「民家への迷惑を少なくするために」水路等を活用していると言えるのではないか。当時の国会では「高速道路建設による耕地の潰れを最小限におさえよ」といった議論も多く見られた。敗戦後まもなく、食糧生産や国民の生活維持がまだまだ政策の中でも重要な位置を占めていた時代であり、ある意味「(景観よりも)人(の生活)にやさしい」道路だったのではないだろうか 。

 

 

1958(昭和33)年4月 日本道路公団が「東京高速道路」西戸越~銀座間(現在の2号線等の一部)を翌年度に着手との新聞記事

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-a9d4.html

読売19580429

 

 1958年(昭和33年)4月29日付読売新聞

 

 

 

 

・1959(昭和34)年1月 首都高速道路公団法案 閣議決定

 

首都高速道路公団法閣議決定
 1959(昭和34)年1月30日付朝日新聞

 

 

・1959(昭和34)年2月 日本道路公団が西戸越~汐留間の工事に着手

 

JHが首都高を建設開始した

 

 官報から

 

 「首都高速は、東京オリンピックのために羽田と都心を結ぶ路線から建設された」というのは嘘なのである。

 

 (本区間については、首都高速道路公団発足後に、日本道路公団から引き継がれている。なお、オリンピックには間に合わんかった模様。)

 

 

・1959(昭和34)年4月 首都高速道路公団法 成立

 

・1959(昭和34)年5月 東京オリンピック開催決定

 

東京オリンピックと道路

1959(昭和34)年5月27日付読売新聞

 

・1959(昭和34)年6月 首都高速道路公団 発足

 

・1959(昭和34)年8月 首都高速道路公団 当初計画71km都市計画決定

 

首都高速の日本橋附近は掘割型式で進めるはずだった3

 

 「首都高速道路のネットワーク形成の歴史と計画思想に関する研究」古川公毅・著 45頁から引用。

 ここで気になるのは、狩野川台風の水害を踏まえて、日本橋川部分は高架構造としていることである。明示されていないが、1958(昭和33)年12月までにはそのような決定がなされているものと読める。つまり、日本橋川を高架としたのは、東京オリンピック開催決定前であり、「東京オリンピックに間に合わせるために日本橋川部分を高架にした」というのは嘘ということになるのではないか。

首都高速の日本橋川に架かる高架橋のデザイン等  (10)

「首都高速1・4号線の開通に当って」西畑正倫(元・首都高速道路公団理事)「高速道路と自動車」1964(昭和39)年9月号27頁から引用。

 「河積の確保のための高架」という意味では、こちらとも平仄があう。

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 こんな感じで見ていくと、東京蘊蓄本にもいい加減なものが多いことが分かる。

三浦展ってアホか

 これは三浦展氏の「昭和「娯楽の殿堂」の時代」の107~108頁であるが、オリンピックに至る首都高の経緯はデタラメであることがお分かりになるであろう。

 また、数寄屋橋の高速道路は昭和20年代の石川栄耀局長のころに立案され、都政七不思議のひとつに数えられた東京高速道路株式会社線(KK線)であって、オリンピックとは一切関係ない。「東京人」御用達文化人だからといって東京の歴史等に詳しいとは限らないようだ。

 

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 尤も、行政の計画の順番がオリンピック以前に決定したものであったとしても、それは役所の中だけの理屈であって、オリンピックまでに竣工するためには、関係者の理解を得る必要がある。

 そのために「空中作戦」といった広く社会に事業理解を得るためのストーリーはそれはそれとして必要であっただろうこととは想像に難くないし、それ自体を悪く言うつもりはない。

 ただ、歴史として把握する部分と行政を円滑に進めるためのストーリーは峻別しておさえる必要があるだろう。

 

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 ところで、オリンピックに間に合わせるために河川上に作ったというなら、オリンピック終了後の計画は河川上には作らない可能性が高い。なんせそう急がなくてもいいはずだから。

 

ところが、実際にはオリンピック終了後も河川上に首都高速道路は計画されていた。

 

首都高速道路内環状線

 

 神田川の上に首都高速道路内環状線が計画されている。これが出来ていれば箱崎や竹橋の渋滞はもっと緩和されているはずだったのだ。これが実現できなかった理由は不勉強にして知らない。

 

※ この図面全体がご覧になりたい方はhttp://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/07/37-ddb3.htmlへ。

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【参考】過去に書いた首都高関係の記事

 

首都高の日本橋川区間のデザイン検討について-首都高日本橋附近の地下化関連(1)

 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/--5ca7.html

 

マスコミは「首都高で日本橋の景観が損なわれた」って言うけど、作った当時は何て言ってたのさ-首都高日本橋附近の地下化関連(2)

 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/--d6b7.html

 

首都高はオリンピックに間に合わせるために河川上に作ったというのは嘘と言ってよいのではないか-首都高日本橋附近の地下化関連(3)

 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/--bdc4.html

 

産経抄が言うほど、山田正男は首都高を日本橋の下にできなかったことを心残りに思っていないんじゃないの-首都高日本橋附近の地下化関連(4)

 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/--f613.html

 

清水草一氏は「当時それを批判する声はなかった」というがそれは明白な嘘-首都高日本橋附近の地下化関連(5)

 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/--8d24.html

 

首都高と河川利用と景観

 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/12/post-0a1e.html

 

首都高初期のパンフ「伸びゆく首都高速道路」

 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-8798.html

 

首都高初期のパンフ「首都高速道路公団のあらまし」

 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-2f3b.html

 

「東京道路奇景」(川辺謙一・著)を読んでいて「東京都市高速道路の建設について」に関心を持った方に全部見せちゃう。

 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-c06b.html

 

森口将之氏「首都高速ではない首都高速? 無料で走れるKK線が生まれた理由」は勉強不足

 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/kk-9f0e.html

 

首都高直結の八重洲地下駐車場の場所に新幹線の東京駅が入る計画があった

 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/10/post-f1bf.html

 

東京五輪決定前の首都高速道路計画に係る考察~昭和33年4月10日衆議院建設委員会議事録を読む~

 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/33410-1e35.html

 

昭和63年の首都高速道路計画

 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/07/post-a2cf.html

 

昭和37年の首都高速道路将来計画

 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/07/37-ddb3.html

 

昭和28年の首都高速道路計画

 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/07/28-7e37.html

首都高大橋JCTと玉電

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/02/jct-3c08.html

第三京浜道路調査報告書を読む~玉川ICは、何故そこにあるのか?~

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/post-79c0.html

首都高速 大橋JCTの地下に潜ってきた

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/post-c87a.html

首都高速の料金所ブースの中はどうなっているのか

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-1667.html

首都高速道路高架下建物入居者募集中・大家さんは首都高?

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-0786.html

首都高速道路が三多摩地区を含まない理由

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-ee49.html

首都高速道路を当初建設着手したのは日本道路公団(JH)だった

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-a9d4.html

第3新東京市には首都高速が乗り入れているようだ

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/cat22398228/index.html

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