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2017年8月に作成された記事

2017年8月17日 (木)

首都高の日本橋川区間のデザイン検討について-首都高日本橋附近の地下化関連(1)

 細かく引用しなくても大丈夫だと思うが、最近首都高の日本橋周辺の地下化の話題がいろいろ出ている。

 で、首都高の日本橋附近が景観を無視しているとか無粋だとかなんとか言われたりもしているので、例の如く当時の資料から実際にはどのように進められてきたかを検証してみる。

 

 このブログでは何度も出しているネタだが一応おさらいで。

 もともと日本橋川は高架ではなく、1号線の都心区間のように川底を走ることを検討していた。

首都高速の日本橋附近は掘割型式で進めるはずだった

 「東京都市高速道路の建設について」(1959年4月 東京都・刊)から抜粋。

 全体をご覧になりたい方は、http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-c06b.htmlをご参照されたい。

 ところが、神田川の治水上、日本橋川を干拓することはできず、現在のように高架を日本橋川上空に架けることとなった。

首都高速の日本橋川に架かる高架橋のデザイン等  (10)

 「首都高速1・4号線の開通に当って」西畑正倫(元・首都高速道路公団理事)「高速道路と自動車」1964(昭和39)年9月号27頁から引用。

 当時から地元の地下化要望はあったようだ。地下化については、工期や技術的な問題ではなく「日本橋川の河積を狭めることは殆ど不可能」なのでできなかったとしている。

 ところで、日本橋川附近の施工にあたってデザイン等はどのように考慮されていたのか?

 それを順次紹介したい。

 首都高速道路公団では線形が決定した1960年12月橋梁設計会社20社から「このインターチェンジ(※引用者注:当時の首都高速の「インターチェンジ」は、現在の「ジャンクション」を意味する。)を如何なる構造にすべきか?」広くアイデアを募り,構造型式選定の資料とした。

 

 「江戸橋インターチェンジについて」西野祐治郎・和田宏造・前田邦夫「道路」1964年7月号517頁から引用

 その募集に応じたアイデアのうちの幾つかが「日本橋及び江戸橋周辺の高速道路について」西野 祐治郎・前田 邦夫「道路」1961年6月号427頁以降に掲載されている。

首都高速の日本橋川に架かる高架橋のデザイン等  (2)

 「地元の要望」がなければ道路元標等を「取壊し」していた可能性があったのか気になるところではある。

首都高速の日本橋川に架かる高架橋のデザイン等  (3)

首都高速の日本橋川に架かる高架橋のデザイン等  (5)

首都高速の日本橋川に架かる高架橋のデザイン等  (4)

首都高速の日本橋川に架かる高架橋のデザイン等  (6)

 この「写真-6」のアーチ橋は、「道路」1964年7月号517頁によると「好評を得た」とのことである。こんな風に豪快なアーチ橋も思い切っていてよいものだ。

 以下の案は、「道路」1961年6月号431頁によると「高架橋のファンタジー」として提出されたものということだ。

首都高速の日本橋川に架かる高架橋のデザイン等  (7)

首都高速の日本橋川に架かる高架橋のデザイン等  (8)

ガラスブロックで採光をよくするというアイデア。

首都高速の日本橋川に架かる高架橋のデザイン等  (9)

 モノレール計画などなかったはずだが、モノレールとの合築案。

首都高速の日本橋川に架かる高架橋のデザイン等  (14)

首都高速の日本橋川に架かる高架橋のデザイン等  (13)

首都高速の日本橋川に架かる高架橋のデザイン等  (12)

 首都高が日本橋の上に架かることを報じる1962(昭和37)年12月24日付読売新聞

 「橋脚や街燈は原型損なわない」という見出しに 「感傷も吹き飛ばすように工事が近づいてきた日本橋」「スマートになる完成予想図」というキャプションがついている。

 当時の読売にとっては、日本橋なんかは感傷にすぎなかったと。

首都高速の日本橋川に架かる高架橋のデザイン等  (11)

 「首都高速 記念切手」の画像検索結果

首都高速の日本橋川に架かる高架橋のデザイン等  (1)

 首都高開通の記念切手と風景印(特殊通信日附印)は、首都高が日本橋を覆いかぶさっているところを採用している。

 そういう風景を前向きに捉えている時代の雰囲気があったことは間違いないと思うのだ。(当時から反対していた人がいたのは前述のとおりだが。)

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2017年8月 5日 (土)

明石海峡大橋に鉄道が建設されなかった経緯等

 これは本四高速の明石海峡大橋の車道の下の管理用通路の部分である。

 先日、ここの写真をTwitterにUPしたところ、「新幹線が通るはずだったところ」といった指摘をいただいたので、ちょっとその辺の経緯を調べてみた。

明石海峡大橋に鉄道(新幹線)が建設されなかった経緯 (8)

 まずは、調査の経緯から。国鉄→鉄道建設公団による鉄道の調査と建設省→日本道路公団による道路の調査が並行して行われている。これが本州四国連絡橋公団が設立されて一本化されたわけだ。

 明石海峡大橋部分の鉄道(本四淡路線)の調査は、1950(昭和30)年4月に開始されている。

明石海峡大橋に鉄道(新幹線)が建設されなかった経緯 (9)

 本四公団設立にあわせて鉄道と道路の基本計画(調査)指示がなされている。

 そして1972(昭和47)年に本四公団から調査報告書が出ているのだが、そのうち明石海峡大橋に係る部分を抜粋してみる。

明石海峡大橋に鉄道(新幹線)が建設されなかった経緯 (4)

明石海峡大橋に鉄道(新幹線)が建設されなかった経緯 (6)

 冒頭にUPした動画の管理用通路のところに複線の鉄道が予定されていたことが分かる。(当然構造は異なるが。)

明石海峡大橋に鉄道(新幹線)が建設されなかった経緯 (5)

 「図2」を見ると「鉄道(本四淡路線)」と「鉄道(新幹線)」の2種類のルートが引いてあるのが分かるが、当時は在来線か新幹線かどちらかになるかが決まっていなかったため両論併記となっていたということだろうか。

(新幹線が徳島市内に入らず、高徳本線吉成駅あたりに接続しているように見えるのも興味深い。世が世であればここが新幹線の「新徳島駅」だったのだろうか?)

※ ここまでの図面や文章の引用元は、「道路」1973年1月号「本州四国連絡橋の計画」本州四国連絡橋公団。

 ここまで見ると、今にでも明石海峡を新幹線が通りそうなものだが、実際には技術的なハードルは高かったようだ。

明石海峡大橋に鉄道(新幹線)が建設されなかった経緯 (2)

 「道路」1985年6月号「大鳴門橋の開通にあたって思う」村上永一・著によれば上記のように「明石海峡大橋の架橋の困難さは他の橋梁に較べて格段の差があった。」「早期に完成すべき道路鉄道併用ルートを選ぶとすれば,児島・坂出ルートなりと受け止めてもよい。」としている。

 そこにオイルショックによる工事中止や国鉄改革等が重なった。1981(昭和56)年には、社会経済情勢、国鉄の財政事情等を勘案し、関係省庁協議のうえ「道路単独橋の可能性等」を本四公団に検討させており、「道路単独橋は「技術的にも採算性の面からも可能」との報告が大鳴門橋開通の2か月前となる1985(昭和60)年4月に行われている。

明石海峡大橋に鉄道(新幹線)が建設されなかった経緯 (1)

 「道路」1985年6月号「最盛期を迎えた本州四国連絡橋」花市 頴悟(本州四国連絡橋公団企画開発部長)著

 ここで興味深いのは神戸・鳴門ルートに建設するはずだった鉄道利用客が道路に転換することで道路の利用客が増えて採算性が取れるようになるという点である。巷間言われるように「予算削減するために鉄道をやめた」のではなくて、「41%(11%は誤植と思われ)費用負担するはずだった鉄道が「撤退する」って言ってるけど、道路単独の費用負担でペイできるかどうか」の検討をしたのではないか?

明石海峡大橋に鉄道(新幹線)が建設されなかった経緯 (7)

 「道路」1986年4月号「大規模プロジェクトの新たな展開」溝口忠(建設省道路局有料道路課建設専門官)著 によると、本四公団からの調査結果の報告を受けて、1985(昭和60)年8月に、国土庁長官、建設大臣、運輸大臣による道路単独橋として整備する方針が合意されている。

 

 これだけだと、政治的、経済的理由で鉄道の建設を取りやめたように見えるが、前述のとおり技術面でも厳しい部分があったようだ。

伊東 鉄道をやめたのはどんな理由なのですか。当初、三橋とも鉄道が併設されるという話でしたね。

井上 西は違っていたと思います、鉄道はなし。

伊東 真ん中と明石海峡。

井上 それで、真ん中ももうできましたし、鉄道もできていますが、東の明石海峡をやめたのは、やはりあれだけの長大吊り橋になると、 たわみが大きくて、吊り橋のジョイントというのか、あそこで非常に危険があるというようなのが最後の決め手になったみたいでやめましたけれども。

伊東 技術的な理由で。

井上 ええ。まあ、克服できないものではないと思いますがね。あそこしかないとなったらやるでしょうけれどもね。鉄道もあそこはあきらめるということで、割にすんなりといきました。

 

土木史研究におけるオーラルヒストリー手法の活用とその意義:高速道路に焦点をあてて

井上孝氏(元建設省事務次官・元参議院議員・元国土庁長官)

 鉄道橋を明石海峡に架けるのが難しいのなら、鉄道単独でトンネルを掘ればよいと思う方もいらっしゃるかもしれないが、それもまた難しいようだ。

伊東 明石海峡大橋を鉄道は通さないことにして、あと別ルートを考えるとすれば、どんなことが今考えられているのですか。

山根 トンネルにする案では、水深一○○mの明石海峡の下をトンネルで通っても、明石海峡大橋に乗せても、鉄道の規格にもよりますが、 神戸の駅に取り付かないのですね。

伊東 そうなのですか。たわみがすごくなるということですか。

山根 そうではなくて。

伊東 取り付けの問題なのですか。

山根 そうです。方法としては紀淡海峡を抜ける案が考えられます。

伊東 経営上はどうですか。

山根 備讃線でもう精一杯ではないでしようか。備讃線でさえ止めようと話が出たくらいですから。

 

土木史研究におけるオーラルヒストリー手法の活用とその意義:高速道路に焦点をあてて

山根孟氏(元建設省道路局長・元本州四国連絡橋公団総裁)

 山根氏のいう「備讃線でさえ止めようと話が出たくらいですから。」については、以前ブログで記事を書いたので参照されたい。

「JR30周年記念:国鉄改革で本四備讃線(瀬戸大橋線)は建設中止になるはずだった!?」

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/04/jr30-0cd3.html

 つまり、技術的にも採算的にも神戸・鳴門ルートの鉄道は困難だったということか。

瀬戸大橋 (2)

 「明石海峡大橋に鉄道を架設しなかったのはけしからん」、「大鳴門橋の鉄道投資が無駄になった」等との話をよく目にするが、実際には大鳴門橋建設中に「やっぱ鉄道やめよっかな」という話になっていた。

明石海峡大橋に鉄道(新幹線)が建設されなかった経緯 (3)

 これは「道路」1985年6月号に掲載された「大鳴門橋の建設を振り返って」という対談からの抜粋である。

 発言しているのは、布施洋一(建設省道路局高速道路課長)、遠藤武夫(本州四国連絡橋公団工務第一部長)、松崎彬麿(トピー工業(株)常任顧問)の各氏である。

 1977(昭和52)年の段階で、神戸・鳴門ルートの鉄道建設については「やめるかもしれない」ということになっていたというのだ。

 道路側の発言だけでなく、鉄道側の発言の裏もとってみよう。

大鳴門橋も鉄道(新幹線)建設をやめるはずだった

 昭和54年交通年鑑の、昭和53年3月9日の項に、「大鳴門橋を鉄道併用橋から道路単独橋に変更する方針を固めた」とある。いや鉄道さん全然やる気ないじゃないですか。

 そして、実際の施工にあたっては「単線載荷」にする等必要最小限の工事だけにしている。もうこの段階で明石海峡大橋への鉄道の施工は実体的にはほぼ可能性がなくなっていたのだろうな。

 前述のとおり、1981(昭和56)年に「道路単独橋の可能性等」を本四公団に検討させているのは、この大鳴門橋の問題を踏まえて、とどめを刺す(あるいは関係者に言い含める)ための手順だったということだろうか。

新全総新幹線

 ※ 参考 1967「(昭和44)年5月30日に新全総(新全国総合開発計画)が閣議決定されており、そこに記された新幹線計画の抜粋

「東京発成田経由仙台行常磐新幹線~未成新幹線を国立公文書館デジタルアーカイブからまとめてみる」

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-855c.html

 ※ ときどき「阪神淡路大震災で予算が不足したから新幹線ができなくなった」とか「阪神淡路大震災で主塔がずれたから新幹線ができなくなった」という説を目にするのだが、取りやめたのは1985年なので、全くのデマである。

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