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2017年8月 5日 (土)

明石海峡大橋に鉄道が建設されなかった経緯等

 これは本四高速の明石海峡大橋の車道の下の管理用通路の部分である。

 先日、ここの写真をTwitterにUPしたところ、「新幹線が通るはずだったところ」といった指摘をいただいたので、ちょっとその辺の経緯を調べてみた。

明石海峡大橋に鉄道(新幹線)が建設されなかった経緯 (8)

 まずは、調査の経緯から。国鉄→鉄道建設公団による鉄道の調査と建設省→日本道路公団による道路の調査が並行して行われている。これが本州四国連絡橋公団が設立されて一本化されたわけだ。

 

 明石海峡大橋部分の鉄道(本四淡路線)の調査は、1950(昭和30)年4月に開始されている。

明石海峡大橋に鉄道(新幹線)が建設されなかった経緯 (9)

 本四公団設立にあわせて鉄道と道路の基本計画(調査)指示がなされている。

 

 そして1972(昭和47)年に本四公団から調査報告書が出ているのだが、そのうち明石海峡大橋に係る部分を抜粋してみる。

明石海峡大橋に鉄道(新幹線)が建設されなかった経緯 (4)

明石海峡大橋に鉄道(新幹線)が建設されなかった経緯 (6)

 冒頭にUPした動画の管理用通路のところに複線の鉄道が予定されていたことが分かる。(当然構造は異なるが。)

明石海峡大橋に鉄道(新幹線)が建設されなかった経緯 (5)

 「図2」を見ると「鉄道(本四淡路線)」と「鉄道(新幹線)」の2種類のルートが引いてあるのが分かるが、当時は在来線か新幹線かどちらかになるかが決まっていなかったため両論併記となっていたということだろうか。

 

(新幹線が徳島市内に入らず、高徳本線吉成駅あたりに接続しているように見えるのも興味深い。世が世であればここが新幹線の「新徳島駅」だったのだろうか?)

 

※ ここまでの図面や文章の引用元は、「道路」1973年1月号「本州四国連絡橋の計画」本州四国連絡橋公団。

 ここまで見ると、今にでも明石海峡を新幹線が通りそうなものだが、実際には技術的なハードルは高かったようだ。

明石海峡大橋に鉄道(新幹線)が建設されなかった経緯 (2)

 「道路」1985年6月号「大鳴門橋の開通にあたって思う」村上永一・著によれば上記のように「明石海峡大橋の架橋の困難さは他の橋梁に較べて格段の差があった。」「早期に完成すべき道路鉄道併用ルートを選ぶとすれば,児島・坂出ルートなりと受け止めてもよい。」としている。

 

 そこにオイルショックによる工事中止や国鉄改革等が重なった。1981(昭和56)年には、社会経済情勢、国鉄の財政事情等を勘案し、関係省庁協議のうえ「道路単独橋の可能性等」を本四公団に検討させており、「道路単独橋は「技術的にも採算性の面からも可能」との報告が大鳴門橋開通の2か月前となる1985(昭和60)年4月に行われている。

明石海峡大橋に鉄道(新幹線)が建設されなかった経緯 (1)

 「道路」1985年6月号「最盛期を迎えた本州四国連絡橋」花市 頴悟(本州四国連絡橋公団企画開発部長)著

 

 ここで興味深いのは神戸・鳴門ルートに建設するはずだった鉄道利用客が道路に転換することで道路の利用客が増えて採算性が取れるようになるという点である。巷間言われるように「予算削減するために鉄道をやめた」のではなくて、「41%(11%は誤植と思われ)費用負担するはずだった鉄道が「撤退する」って言ってるけど、道路単独の費用負担でペイできるかどうか」の検討をしたのではないか?

明石海峡大橋に鉄道(新幹線)が建設されなかった経緯 (7)

 「道路」1986年4月号「大規模プロジェクトの新たな展開」溝口忠(建設省道路局有料道路課建設専門官)著 によると、本四公団からの調査結果の報告を受けて、1985(昭和60)年8月に、国土庁長官、建設大臣、運輸大臣による道路単独橋として整備する方針が合意されている。

 これだけだと、政治的、経済的理由で鉄道の建設を取りやめたように見えるが、前述のとおり技術面でも厳しい部分があったようだ。

伊東 鉄道をやめたのはどんな理由なのですか。当初、三橋とも鉄道が併設されるという話でしたね。

井上 西は違っていたと思います、鉄道はなし。

伊東 真ん中と明石海峡。

井上 それで、真ん中ももうできましたし、鉄道もできていますが、東の明石海峡をやめたのは、やはりあれだけの長大吊り橋になると、 たわみが大きくて、吊り橋のジョイントというのか、あそこで非常に危険があるというようなのが最後の決め手になったみたいでやめましたけれども。

伊東 技術的な理由で。

井上 ええ。まあ、克服できないものではないと思いますがね。あそこしかないとなったらやるでしょうけれどもね。鉄道もあそこはあきらめるということで、割にすんなりといきました。

 

土木史研究におけるオーラルヒストリー手法の活用とその意義:高速道路に焦点をあてて

井上孝氏(元建設省事務次官・元参議院議員・元国土庁長官)

 鉄道橋を明石海峡に架けるのが難しいのなら、鉄道単独でトンネルを掘ればよいと思う方もいらっしゃるかもしれないが、それもまた難しいようだ。

伊東 明石海峡大橋を鉄道は通さないことにして、あと別ルートを考えるとすれば、どんなことが今考えられているのですか。

山根 トンネルにする案では、水深100mの明石海峡の下をトンネルで通っても、明石海峡大橋に乗せても、鉄道の規格にもよりますが、 神戸の駅に取り付かないのですね。

伊東 そうなのですか。たわみがすごくなるということですか。

山根 そうではなくて。

伊東 取り付けの問題なのですか。

山根 そうです。方法としては紀淡海峡を抜ける案が考えられます。

伊東 経営上はどうですか。

山根 備讃線でもう精一杯ではないでしようか。備讃線でさえ止めようと話が出たくらいですから。

伊東 止めようというのは、鉄道だけでは採算性がとれないということですか。

山根 四国の中の鉄道のお客さんが本当に少なくなってしまって、しかし役に立っていますよ。役に立っているけれども、投資に比べてどうかという話になると、なかなか大変ではないでしょうか。でも、それは45対55で45分は負担してもらっていますからね、今。備讃線がなければ、ますます四国の鉄道はだめになるのではないですかね。

 

土木史研究におけるオーラルヒストリー手法の活用とその意義:高速道路に焦点をあてて

山根孟氏(元建設省道路局長・元本州四国連絡橋公団総裁)

 

 山根氏のいう「備讃線でさえ止めようと話が出たくらいですから。」については、以前ブログで記事を書いたので参照されたい。

「JR30周年記念:国鉄改革で本四備讃線(瀬戸大橋線)は建設中止になるはずだった!?」

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/04/jr30-0cd3.html

 つまり、技術的にも採算的にも神戸・鳴門ルートの鉄道は困難だったということか。

瀬戸大橋 (2)

 「明石海峡大橋に鉄道を架設しなかったのはけしからん」、「大鳴門橋の鉄道投資が無駄になった」等との話をよく目にするが、実際には大鳴門橋建設中に「やっぱ鉄道やめよっかな」という話になっていた。

明石海峡大橋に鉄道(新幹線)が建設されなかった経緯 (3)

 これは「道路」1985年6月号に掲載された「大鳴門橋の建設を振り返って」という対談からの抜粋である。

 

 発言しているのは、布施洋一(建設省道路局高速国道課長)、遠藤武夫(本州四国連絡橋公団工務第一部長)、松崎彬麿(元本州四国連絡橋公団副総裁・トピー工業(株)常任顧問)の各氏である。

 

 1977(昭和52)年の段階で、神戸・鳴門ルートの鉄道建設については「やめるかもしれない」ということになっていたというのだ。

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 道路側の発言だけでなく、鉄道側の発言の裏もとってみよう。

 

大鳴門橋も鉄道(新幹線)建設をやめるはずだった

 

 昭和54年交通年鑑の、昭和53年3月9日の項に、大鳴門橋を鉄道併用橋から道路単独橋に変更する方針を固めた」とある。いや鉄道さん全然やる気ないじゃないですか。

 

 そして、実際の施工にあたっては「単線載荷」にする等必要最小限の工事だけにしている。もうこの段階で明石海峡大橋への鉄道の施工は実体的にはほぼ可能性がなくなっていたのだろうな。

 前述のとおり、1981(昭和56)年に「道路単独橋の可能性等」を本四公団に検討させているのは、この大鳴門橋の問題を踏まえて、とどめを刺す(あるいは関係者に言い含める)ための手順だったということだろうか。

新全総新幹線

 ※ 参考 1967「(昭和44)年5月30日に新全総(新全国総合開発計画)が閣議決定されており、そこに記された新幹線計画の抜粋

「東京発成田経由仙台行常磐新幹線~未成新幹線を国立公文書館デジタルアーカイブからまとめてみる」

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-855c.html

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 言い出したヤツは誰だ?地元の声はどうだっただろうか?

 明石海峡大橋と新幹線

1979(昭和54)年7月27日付朝日新聞 

  よく、徳島県をはじめとした四国にお住まいの方が、「明石海峡大橋が鉄道との併用橋だったならば。。。」てなことをおっしゃるが、徳島県知事が、大鳴門橋建設真っ最中の1979(昭和54)年に「徳島県としては鉄道併用橋より道路単独の方がいいと思う」と「方向転換」している。

 1981(昭和56)年に「道路単独橋の可能性等」を本四公団に検討させたのは、この徳島県知事の発言がトリガー(の1つ)になった可能性はある。

  ということで、神戸ー鳴門ルートに鉄道が載っていないことを嘆く徳島県人の方は、ヨソを恨まず、徳島県を、そんな知事を選んだ自分の親を恨んでください。

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 また、鉄道側の事情でいくと、この頃、中曽根内閣における国鉄民営化の動きがあったことも忘れてはいけない。


 1981年11月9日、第四部会は「国鉄分割民営化」を臨調全体のコンセンサスにしようと、土光たち9名の委員で構成される臨時行政調査会の会議に論客を送り込む。その論客は角本良平。戦中に鉄道省に入り、東京、四国、門司などの鉄道管理局に勤務後、運輸官僚として東海道新幹線の建設計画に参加。退官後は交通評論家として活動する、国鉄の表も裏も知り尽くした人物だった。角本は、土光たちの前で国鉄の末期的症状を解説した。

(中略)

「四国については鉄道を全部外したほうがよいと思う。四国の国鉄財産を全部売って高速道路をつくったほうが四国のためになる。とくに本四連絡橋の上にレールを乗せるのは何事かと思う。それだけで、四国の管理局で生じているのと同額の300億~400億円の赤字が出る。この際、岡山からバスで高知へ行くというような体制を作ったほうがよい」

 

「土光敏夫―「改革と共生」の精神を歩く」山岡淳一郎・著

http://webheibon.jp/dokotoshio/2012/11/post-17.html

 

 瀬戸大橋線がJR四国の唯一の黒字路線であることから、本四架橋の鉄道が儲かるものだと勘違いしている輩が大勢見られるが、角本氏が言うように、本来は大赤字が見込まれていた。

 中曽根政権の第二次臨調はそこも問題視していたため、瀬戸大橋線の工事中止についても議題となっていた。


行政改革に関する第三次答申(基本答申)(抄)

昭和57年7月30日臨時行政調査会

大規模プロジェクト;進行中の大規模プロジェクト(青函トンネル,本州四国連絡鉄道)については,完成時点において分割会社(国鉄)の経営を圧迫しないよう国は措置する。

 

「昭和57年度 運輸白書」

https://www.mlit.go.jp/hakusyo/transport/shouwa57/ind020102/001.html

 

 「分割会社(国鉄)の経営を圧迫しないよう国は措置する」の具体策としては、本来は国鉄が返済するはずであった瀬戸大橋及び大鳴門橋の鉄道施設の建設費を税金で返済することとなった。

 他方、1983(昭和58)年3月には、臨調は、本四連絡橋の建設を当面1ルート4橋に限定することとした。

 この時点で、鉄道(四国新幹線)どころか、道路部分も含めて、明石海峡大橋の建設は凍結されたのである。

 

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明石大橋、道路単独で早期着工――促進議員連が総会決議。

 

 本州四国連絡橋の明石海峡大橋の早期実現を目指し、大阪、兵庫、徳島、高知各府県選出の国会議員(自民)で組織している明石・鳴門架橋促進議員連盟(原健三郎会長)は十七日午前、東京・永田町のホテルで総会を開き、政府に対し同大橋を道路単独橋として早期着工するよう求めた要望を決議した。

 総会には三木元首相、後藤田総務庁長官、河本経済企画庁長官、水野建設相、細田運輸相、稲村国土庁長官、日向関経連会長、中内神戸商工会議所副会頭ら政財界の実力者をはじめ、関係者約百六十人が参加、熱気に包まれた総会となった。

 冒頭あいさつに立った原会長は「明石海峡大橋を早期に完成を図る橋として、六十一年度に策定される第四次全国総合開発計画(四全総)にぜひとも盛り込んでほしい」と述べた。

 このあと来賓として水野建設相らがあいさつに立ったが、なかでも細田運輸相は「明石大橋は四国新幹線を通す道路、鉄道併用橋の計画だが、現在の国鉄の財政事情、鉄道の採算性からすると併用橋は非常に困難である。道路単独橋にするのに足を引っ張ることは避けたい」と計画変更もやむを得ないとの考えを示した

 また、河本企画庁長官は「政府資金で明石大橋を進めるには現在の財政事情からすれば難しい問題だ。しかし、民間には資金が余っており、これをいかに活用するかが課題だ」と民間活力を導入しての早期着工実現を訴え、注目された。

 この後、後藤田総務庁長官、坂井兵庫県知事らがあいさつし、最後に(1)本州四国連絡橋神戸・鳴門ルートを早期に完成を図るルートとして四全総に位置づける(2)明石海峡大橋を道路単独橋として、早期着工を図る(3)鉄道についてはトンネル工法を採用し、その実施調査を促進する――との政府に対する要望を決議。議員連盟の代表らが自民党や関係省庁に陳情した。

 

1984(昭和59)年10月18日付 日本経済新聞 地方経済面 四国

 「現在の国鉄の財政事情、鉄道の採算性からすると併用橋は非常に困難である。道路単独橋にするのに足を引っ張ることは避けたい」と運輸大臣が語っているのは大きい。「予算不足」ではなく「鉄道の採算性」が課題だったわけだ。

 ネットでは「明石海峡大橋に鉄道をひいていればJR四国の採算は改善されたはず」とか「ドル箱路線だったはず」といった声が聞かれるが、当の運輸大臣は「鉄道の採算性からすると非常に困難」と言っているのだ。

 そういうと「いや関西から徳島まで鉄道が直結すると相当の需要があるはずだ」という反論が予想されそうだが、問題は明石海峡大橋の建設費なのである。道路と鉄道の荷重比で分担しているのだが、道路分は有料道路料金で返済する一方、鉄道分はJRの売り上げから橋の使用料という形で返済していく。その額は本四備讃線(JR瀬戸大橋線)で、年間550億円と国会で答弁されており、JR四国の年間売上高をはるかに上回っている。しかし、瀬戸大橋及び大鳴門橋の場合は、国鉄民営化にあわせて建設費は他の債務と同様JRは引き継がなかった。ところが明石海峡大橋は今更そうはいかない。JR西日本なのか四国なのかは分からないが、明石海峡大橋の建設費を毎年数百億円単位で負担する必要がある。大赤字プロジェクトとなるのは必須であろう。

 また、「鉄道が重視されていなかったから道路単独になった」「道路のような族議員がいなかったから」といった意見もネットでは見られるが、「鉄道の採算性からすると非常に困難」と発言した細田吉蔵運輸大臣は、運輸省OBの運輸族議員の重鎮である。そして、国鉄改革に取り組んだ中曽根内閣においては、細田氏は国鉄改革に消極的(現状維持)な姿勢を示していたことで知られている。(「国鉄改革」草野厚・著 中公新書を見よ)

 神戸ー明石ルートの鉄道(四国新幹線)計画は、そんな国鉄護持的運輸族重鎮に見切られていたのである。

 また、大鳴門橋を道路単独にしようとしたときにはあんなに抵抗した三木元首相もあっさりその場に並んでいることにも注目したい。

 そして、その後道路単独橋と正式に決められた経緯は下記のとおり。

建設省・国土庁、明石海峡大橋の建設凍結を解除――道路単独橋に変更。 

 建設省と国土庁は内需振興の目玉になるプロジェクトとして明石海峡大橋を六十一年度に着工するため、政府の建設凍結方針を改める。現在は道路と鉄道の併用橋として認可されている工事計画を道路単独橋に変更し、年末の六十一年度予算案決定までに閣議にかけて正式に凍結を解除する。このほど運輸省も加えた三省庁で協議を始めた。

 明石海峡大橋は兵庫県神戸市と淡路島を結ぶ世界最大級のつり橋。政府・自民党は六十一年度着工の方針。しかし(1)本州四国連絡橋公団が建設、運輸両省から四十八年十月に認可を受けた工事実施計画は新幹線規格の鉄道と道路との併用橋となっているため、費用がかさむ(2)臨時行政調査会が五十六年七月の第一次答申、五十八年三月の第五次(最終)答申で本四架橋を一ルート四橋にとどめるよう求め、政府も五十八年五月に「臨調答申を最大限尊重する」と閣議決定した――の二点が着工するのに問題となる。

 このため建設省と国土庁はまず道路単独橋への計画変更を急ぐことにした。本四公団の試算によると、道路単独橋の場合、工事費用は併用橋に比べて二六%少ない三千七百四十億円ですみ、風による影響が減って安全性が高まる。建設省、国土庁は早ければ八月にも運輸省との間で道路単独橋への変更について合意したいとしている。運輸省も原則的に応じる構え。

 続いて、臨調答申尊重を決めた閣議決定の変更に取りかかる。臨調答申は財政再建を目標とし政府支出の増加には反対している。臨調答申通り本四架橋を一ルート四橋にとどめるとすると、すでに四橋は決まっているので、明石海峡大橋は着工できないことになる。

 中曽根首相は明石海峡大橋など大規模プロジェクトは民間活力を導入することを条件に六十一年度の着工を支持している。そこで建設省、国土庁は建設費用をできるだけ民間資金でまかなうことにして臨調答申尊重の閣議決定を“修正”したい考え。総事業費の九割程度を民間資金でまかなう案がでている。修正する場合、新たに閣議決定するか、閣議了解を求めるか今後検討する。

 

1985(昭和60)年7月22日付 日本経済新聞 朝刊

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  そして国会ではどう答弁されているか?

 

○新井(彬之)委員 次に、明石海峡大橋の問題についてちょっとお伺いしますが、建設省からきのう大々的に新聞に発表なさったわけでございまして、江藤大臣になってこういう決定をしていただいた、こういうことで、今までにもずっと経過はあったわけでございますが、やはりそのときの大臣のお力、そういうことで地元の方としては非常に喜んでおるわけでございます。起工式、それから大橋関連区間のルートの発表、それから明石海峡大橋の橋梁計画、こういうことについては資料をいただいておるわけでございまして、本来十三年かかるものが、大臣のお力といいますか誠意、あるいはまた本四架橋公団、あるいはまた建設省の方々の努力によって十年になるということでございます。

 非常に感謝申し上げるわけでございますが、一つだけちょっと聞いておきたいのは、これは初め道路、鉄道併用橋であった。その後いろいろと検討をなされまして、昨年の八月に道路単独橋という方針が決まったわけでございます。我々はその経過はよくわかるわけでございますが、ほかの方はやはり一車線でもいいから汽車が通る、淡路島で幾らでも交代ができるわけでございますので、そういうこともあわせて希望していた方も大分あると思いますが、それについてわかっていることがありましたら、こういうわけで一応道路だけになったのだということをお伺いしたいと思います。

 

○萩原(浩 建設省道路局長)政府委員 いわゆる明石−鳴門ルートにつきましては、先生今御指摘のとおり、本来、道路と新幹線規格の鉄道が通るということで計画をされまして、大鳴門橋は既にそういう計画で完成をしているわけでございます。ところが、明石海峡大橋は道路単独橋として昨年の夏に御決定をいただきましたけれども、それの経緯の中では、大鳴門橋が完成をいたしまして、そのままでは非常に効用が落ちる、やはり明石海峡大橋をつなげなければ効果は半減以下になるという問題がございます。ところが、現在国鉄の財政状況が非常に逼迫をいたしておりまして、この打開というものは容易ではない。したがって、その解決を待っていたのでは大鳴門橋の非効率性というものが非常に長く続くおそれがある。そういういろいろな情勢の変化のもとに、今回、道路単独橋として明石海峡大橋を架橋するという御決定をいただいたわけでございます。

 しからば、それでは鉄道はどうなっちゃうのか、そういうあれでございますが、これは私の立場で申し上げるべきことではないかもしれませんけれども、鉄道につきましては何らかの形で大鳴門橋とつなげていただくということで、今いろいろな調査が行われているというふうにお聞きをいたしておりまして、計画の熟成にはまだしばらく時間がかかるものであるというふうに理解をいたしておる次第でございます。

 

1986(昭和61)年4月9日 衆議院 建設委員会

 「現在国鉄の財政状況が非常に逼迫をいたしておりまして、この打開というものは容易ではない。したがって、その解決を待っていたのでは大鳴門橋の非効率性というものが非常に長く続くおそれがある。」との政府の答弁である。

 実際問題、現在に至っても整備新幹線以外の新幹線については未だに着工の目途は立っていない。そこの打開を待っていたら未だに明石海峡大橋は架かっていなかった。

 

 「明石海峡大橋が道路単独になったので、四国新幹線ができなかった」のではなく、「四国新幹線の実現のアテがないため、道路単独となった」。「ドル箱路線になるはずが予算不足でできなかった」のではなく、「鉄道の採算性が困難なため、道路単独となった」。そのあおりで、「道路と鉄道の割り勘にするはずの投資額も道路が負担することとなった」というのが正解である。

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 ※ ときどき「バブルがはじけたため予算が不足したから新幹線ができなくなった」、「阪神淡路大震災で予算が不足したから新幹線ができなくなった」とか「阪神淡路大震災で主塔がずれたから新幹線ができなくなった」という珍説を目にするのだが、取りやめたのは、バブルが弾けたり、阪神淡路大震災が発災するより前の1985年なので、全くのデマである。

  

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<関連記事>

明石海峡大橋を四国まで新快速が走り、鳴門線が複線電化されるなんてどこから出てくるの?~本四架橋神戸-鳴門ルートに四国新幹線が決まった経緯~ 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2020/04/post-7c7516.html

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http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/09/post-5277.html

 

 

 

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コメント

明石海峡大橋の建設費のアロケの件で、道路:鉄道=59:11とあるのを「41%(11%は誤植と思われ)」と書かれておられますが、大鳴門橋は89:11なので、道路側の誤植なんじゃないかと推測してみたり。

投稿: 名無し | 2018年4月18日 (水) 12時35分

名無し様
書き込みありがとうございます。
アロケについては、大鳴門橋も59対41だったのを、新幹線の工事止める止めないのどさくさで、大鳴門橋だけアロケの考え方を変えて道路側に重たくした経緯があります。

http://www.mlit.go.jp/hakusyo/transport/shouwa54/ind030303/frame.html

投稿: 革洋同 | 2018年4月24日 (火) 22時48分

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