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2017年9月に作成された記事

2017年9月10日 (日)

本四橋・大鳴門橋への四国新幹線架設は本来中止するはずが徳島の政治家が復活させた?

 先日読売新聞にこんな記事が報道された。

 

大鳴門橋の下部、観光活用へ…トロッコ列車案も

 

 兵庫県南あわじ市は、淡路島と四国を結ぶ大鳴門橋(1629メートル)に鉄道を敷設するため造られた橋の下部について、観光への活用の可能性を探る調査を始めた。

(中略)

 大鳴門橋は、上部が自動車専用道路、下部は新幹線規格の鉄道を通す計画で建設された2層構造の道路・鉄道併用橋。神戸淡路鳴門自動車道として1985年に開通したが、鉄道の敷設計画は具体化していない。

 

(中略)

 一方、紀淡海峡をまたいで本州と四国を結ぶ新幹線の整備構想があることを踏まえ、「四国の経済界は今も新幹線の実現に期待しており、下部の他用途転用はそれを遠ざけると受け取られないか。安全性の観点からも慎重な検討が必要だ」との声もある。(高田寛)

 2017年09月06日 20時50分 http://www.yomiuri.co.jp/economy/20170906-OYT1T50051.html

 

 本州四国連絡橋神戸・鳴門ルート関連の鉄道はこのように建設されるはずであった。

明石海峡大橋に鉄道(新幹線)が建設されなかった経緯 (4)

明石海峡大橋に鉄道(新幹線)が建設されなかった経緯 (6)

 「道路」1973年1月号「本州四国連絡橋の計画」本州四国連絡橋公団 から引用。

 明石海峡大橋に鉄道を架けるのをやめた話は、先日「明石海峡大橋に鉄道が建設されなかった経緯等」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-98f1.htmlに書いたところである。

 ネットやTwitterでは、「明石海峡大橋を道路専用にしたため、大鳴門橋の鉄道施設が無駄になった。」「四国新幹線が建設できなくなったせいでJR四国の経営が悪化した。」といった書き込みが見られる。

 そもそも大鳴門橋だって新幹線設備は建設せずに道路専用橋とすることで政府の方針は固まっていたのだが、徳島の政治家(三木武夫元首相)がひっくり返したのである。当時四国新幹線のアテはほぼ無くなっていたにもかかわらず。

 昭和54年版「交通年鑑」の、昭和53年3月9日の項に、「大鳴門橋を鉄道併用橋から道路単独橋に変更する方針を固めた」とある。

大鳴門橋も鉄道(新幹線)建設をやめるはずだった

 

 当時の報道も確認してみよう。

本四橋⼤鳴門橋は鉄道はずし「道路単独橋」に――3省庁、建設促進で⽅針固める。

 

 建設、運輸、国土省庁は9日、本州四国連絡橋の神戸・鳴門ルートにかける大鳴門橋を当初計画の「道路鉄道併用橋」から「道路単独橋」に変更する方針を固めた。「国鉄財政が悪化しているのに、開通の見込みの立たない鉄道を併設するのはおかしい」との異論が以前から政府部内にあったが、政府は公共事業促進の一環として、道路単独橋にして完成を急ぐことになったもので、4月中に鉄道建設審議会に諮って正式決定する。

 

1978(昭和53)年3月10日付 ⽇本経済新聞


 この報道の後、国会質疑でも大鳴門橋への鉄道架設の件が取り上げられているので紹介したい。

○二宮文造君 ところで、やっとこのごろに到達したんですが、去る三月の七日に建設、運輸、国土、この三省庁の事務当局者の話し合いで、神戸-鳴門間のいわゆるAルートですね、これの大鳴門橋を、ずっと進んできた道路、鉄道併用橋から道路単独橋に変更する方向で合意に達したというふうな報道がされておりますが、この件はどうでしょうか。

○政府委員(浅井新一郎君(建設省道路局長)) 御指摘の点でございますが、新聞情報でそういうようなことが流れております。事実、事務当局間で会ったことはございますが、これは大鳴門橋の建設に絡みまして、先ほどもございました、従来併用橋ということで工事がずっと進んでまいっておりまして、いよいよ塔の発注時期を迎えておるわけでございます。ただ、鉄道橋併用問題につきましては後ほど御説明あると思いますが、新幹線問題についていろいろな運輸当局の考え方もあるようでございます。そういうことを絡めまして情勢分析をするために集まったわけで、その席で方針が決められたというようなことはございません。

○二宮文造君 じゃ、新聞報道はうそですか。困りますか、答弁に。

○政府委員(浅井新一郎君) うそというわけでもないんですが、話し合いをしただけのことでございまして、結論を確認したわけでも何でもないわけでございますので、結論を出したというようなふうに報道されるのは、ちょっと大げさな報道ではないかというふうに考えます。

(中略)

○二宮文造君 新聞等を見ますと、国鉄さんいよいよ登場ですが、新聞報道を見ますと、国鉄の方、いわゆる運輸関係ですね、こちらの方が一おりたで、採算上の理由で、非常に強硬な御意見でこの会合をリードされて、それがいわゆる道路単独橋に踏み切ったと、こういうニュアンスになったと思うんですが、鉄道側の事情、いわゆる道路単独橋に至る鉄道側の事情を、ちょっとでなく詳しく説明いただきたい。

○政府委員(山地進君(運輸省鉄道監督局国有鉄道部長)) 国鉄が再三の財政援助を仰ぎながら毎年巨大な赤字を計上していることは先生方の御承知のとおりでございまして、昨年の運賃法定制度の緩和ということをやっていただいたのもその一連の助成の中の一つでございまして、五十年以降運賃を五〇%も値上げするというような非常にドラスチックなことをやったにもかかわらず年間九千億にも上る赤字を計上しておりまして、今回の運賃の法定制度を緩和したということを軸にする再建の基本方針というのは昨年の十二月の二十九日に政府で決定したわけでございますけれども、今後の国鉄再建については並み並みならぬ努力が必要だろう、これは政府の助成もさることながら国鉄自身の経営というものを立て直さなければならないという事態になったわけでございます。このような国鉄の再建というものを今後五十三年、五十四年にわたりまして五十年代中に何らかのめどをつけたいというような中でこの本四の架橋の併用部分を考えてみますと、四国新幹線、いまの大阪から大分に至る新幹線というのがいつできるかということについては非常に見通すことがむずかしい問題の一つになってきております。いま整備五線というすでに整備計画のできているものについても、一体これは財源問題も含めましてどういうことになっていくのかということで議論されているわけでございますが、その他の計画路線についてはさらに時間がかかる問題だろうと思うわけでございます。
 こういうことを考えてみると、一体その併用部分の金というもの、まあ六百億ぐらいの負担を国鉄がせざるを得ないわけでございますが、これが四国新幹線ができない間、まさに何らの効果も生まないままに置くということは金利が毎年積み重なってまいりますので、これは国鉄、それから本四公団についても大変な圧迫要因になる。こういうことを考えまして、一体この併用橋というものについてもう一回見直すべきじゃないだろうかという議論をわれわれの方でいたしまして、今後も本四における鉄道部分というのは、新幹線で行くにしても併用橋であることが必要なのかどうかということで、とりあえず私どもとしては、単独橋の考え方というものは一体いままでの経緯から見て認められるものかどうか、かような観点で国土庁並びに建設省といろいろお話をしているというのが現状でございます。

(中略)

○二宮文造君 運輸省にお伺いしますが、結論は、鉄建審に諮問をして、その最終決定を得て方針が決まると、こういうことですが、鉄建審への諮問はいつと考えていますか。また、やっていますか。

○政府委員(山地進君) 鉄道建設審議会にかける部分と言いますのは、先ほど御説明いたしました本州四国連絡橋公団法に基づいて基本計画を決めた神戸-鳴門ルートについて併用橋ということが出ておりますので、それを直すための諮問を鉄建審にかけなければならない。それからもう一つ、新幹線鉄道網の整備に関する法律の基本計画というのはこれは何ら変更がないわけでございます。したがって、こちらの部分は鉄建審にはかけなくてもいいと、こういうのが事情でございます。私どもとしては、できるだけ早く鉄建審も開いていただいてこの問題の結論を得たいと、かように考えております。

 

1978(昭和53)年3月28日 参議院予算委員会

 ざくっというと、「四国新幹線なんかいつできるかアテもつかないのに大鳴門橋に鉄道施設を造っても600億+金利がかかるばかりなので道路単独橋にしたい。」ということであろう。

○森下委員 (略) 三月二十八日の参議院の建設委員会で運輸省の山地国鉄部長は、四国新幹線の問題でこういうふうに答弁をしております。要旨は「四国新幹線大阪-大分間の完成など見通しを立てるのも難しい。大鳴門橋の新幹線併用部分に対する国鉄の分担金は、金利だけでも国鉄を圧迫するので、併用を見直すべきだという議論を内部でしてきた。」それから「大鳴門橋の計画から新幹線併用を外すため、鉄建審にかけるよう、関係者間のコンセンサスを得る努力をしている。しかし新幹線整備法に基づく四国新幹線の基本計画はなんら変更するものではない。」こういうふうに答弁をされております。

 それから四月十四日に住田鉄監局長は、紀尾井町の赤坂プリンスホテルで開かれました高知県関係者との懇談会でこういうふうにおっしゃっておるようです。「大鳴門橋に新幹線を通すのは国民経済的にも問題があり計画を変更したい。その際四国新幹線はトンネルにすることになるので単独橋が正式決定されれば、明石-鳴門のトンネル調査を始めたい。」それから「計画変更を鉄道建設審議会に諮る際は徳島、高知など関係県の了解を得ることを前提にする」こういうふうに実はおっしゃっております。

 その内容を見ますと、現在の国鉄の財政内容を見ましても、併用橋の場合は六百億ばかりの巨額の金を運輸省が負担するわけでございますから、これも大変でございますし、大阪から淡路を通って四国それから大分県、これが四国新幹線のルートでございますけれども、これができ上がるには二十年も、遅ければ三十年も四十年もかかるのではなかろうか。残念ながらわれわれ自身もそういうふうに予想をされるわけです。そのために運輸省の持つべき六百億の負担金、これが金利等を考えますと、現在の貨幣価値でも二千億も三千億もかかる。効率的に非常によくない。われわれも、決算面から考えましても、併用橋ができて早く開通できればいいと思いますけれども、現実はそう簡単なものじゃないということを考えまして、最善よりもむしろ次善の策をとって、そして単独橋でもいいから早く橋をかけてもらいたい。いろいろ条件はあると思いますけれども、実はそういう方向で進んでもらいたいと私は思うのです。

 そこで、いろいろお聞きになっておると思いますけれども、運輸大臣に次のことをずばりお聞きしたいわけでございまして、ひとつ明快にお答え願いたい。
 まず、大阪から四国を通りまして大分へ参ります四国新幹線、これはすでに豊後水道、大分と愛媛県の間ではトンネル調査をやっております。運輸省で予算を二億円ばかり毎年つけておりますから実績がございます。そういうことで、併用橋問題は別にして、四国新幹線は絶対に断念しないのだ、あくまでもやるのだ、これをまずお聞きしたい。

 それから、鉄建審、先ほど私が申し上げました鉄監局長や国鉄部長の発言の内容にも、鉄建審とか閣議でこれは前に併用橋ということで決めておりますから、これをおろすのはそう簡単にいかないと思うのです。その点やはり運輸大臣の決断によって早く決まる。しかも、不景気なときでございますから、早く公共事業をやらなくてはいけないし、下部構造は大鳴門の場合はできておりますから、上部構造にかかる場合に併用か単独かということが非常に問題になりますし、どうしても六月までに決めないとまた一年延ばされる。実は昨年も予算をそのまま使わずに置いてあるようなことでございまして、これも決算から見ましてもまことに効率の悪い問題でございますから、ひとつ大臣の方からお答え願いまして、また具体的な問題は鉄監局長の方から補足していただいても結構でございますから、大臣からよろしくお願いします。

○福永国務大臣 まず四国新幹線の件につきましては、お話にもありましたように、これの計画には変更は別にないわけでございます。率直な話、やりようにもよりますけれども、どっちが先になるか、これはなかなか、世に急がば回れというような言葉等もございますので、今後どうなるかと思います。そういうように私は思いますけれども、いずれにしてもその四国新幹線につきましては、考え方を変えるものではなく、推進していきたいと存じます。

 それから、鉄道建設審議会との話等につきましては、いま閣議で決めたかのようにお話がございましたが、これはどっちでも大した差はないと言えばそれまででございますが、閣議で決めたのではなくて運輸大臣が決めたことになっております。いずれにいたしましても、それについて変更する措置を講じなければならないことは、これはもう御指摘のとおりでございます。

 なかなかこの節、運輸省に振りかかってまいります問題が多い。一方においてはやれとおっしゃるし、一方においてはやるなと言う方が実は多いのでございます。気の弱い小生、いろいろ悩んでおりますが、いずれにいたしましても、お話のように決めるべきことは決めていかなければならない。せいぜい努力をいたしたいと存じます。

○住田政府委員(運輸省鉄道監督局長) 鳴門大橋と明石大橋の併用橋でございますが、これは閣議了解とか閣議決定ということではなくて、運輸大臣が鉄道建設審議会に諮問いたしまして、その答申を得て、本四公団に併用橋でやるように基本計画で指示をいたしたものでございます。

○森下委員 鉄道建設審議会ですね、四月の上旬ということでわれわれ非常に期待しておったのですが、いろいろな問題が起こったものですから延びておるし、いろいろ関係府県とも連絡を意欲的にやっておるようでございますけれども、私は、でき得ればこの四月中にぜひお願いしたい、またやるべきである、こういうふうに実は思っておるのですが、大臣の方で、非常にむずかしい問題がございます。一〇〇%了解を得るということは非常にむずかしいと思うのですけれども、少なくとも四月中にできなければ連休明けぐらいにはひとつ鉄道建設審議会を開いていただきまして、前向きでやるという私はお約束を得たいと思います。この点、どうでございますか。

 もう六月からこれやってもらわないと、また一年延びますからね。景気浮揚ということで公共事業で大型予算をつけておるわけでございますから、その点ひとつでき得れば四月の下旬でも、どうしてもぐあい悪いときには連休明け直ちに、ぜひ私は鉄建審ではっきりしてもらいたい。どうでございますか。

○福永国務大臣 森下さんお話しのように、私どもも実は四月、なるべく早くやりたいというような気持ちがあったことは事実でございます。正直に申します。いろいろございまして、そういうように運んでいっていないということを大変残念に思いますが、いま、いつ開くということを申し上げると、すぐこれまたいろいろなことになりますので、よく森下さんのお話を伺っておいて……というように存じます。いずれにしても、できるだけ早いことが望ましいと思っていることに変わりはございません。御了承いただきたいと存じます。

○森下委員 この併用橋か道路橋かという問題は、地元の国会議員もわれわれも含めまして十数年前から論議されておる問題でございまして、運輸省だけの責任じゃなしに私どもの責任も実はございます。しかし、政治家である以上、やはり決断すべきときには決断して、県民なり選挙民からの非難を受けることもあるだろうし、先見性がいかになかったかということの批判を受ける場合もあると思うのです。しかし、やはり決断すべきときには決断して、そして後の批判を受けていくのが、批判を避けて通れないのが政治家の一つの宿命でございますから、あえて私も申し上げるわけでございます。
 そういうことで、はっきり言いにくい点もよくわかりますが、ひとつ意欲的にそういう方向でぜひお願いしたい。これは尖閣諸島の問題や成田の問題よりは、国内の問題でございますから簡単にいけるし、われわれ自身も、関係機関、また関係民に呼びかけて了解を得るように努力をしていきたいと思います。

 

1978(昭和53)年4月18日 衆議院決算委員会


 この森下元晴代議士は自民党で徳島県選出である。大鳴門橋の地元議員が、「さっさと鉄道建設審議会にかけて大鳴門橋に鉄道を架けないことを決めて道路単独橋でよいから早く造ってくれ」と政府に申し出ているのである。

 他方、運輸省も「本四架橋では新幹線はできなくても、別途本四間に新幹線用のトンネルを掘るからいいじゃないか」と高知県に申し出ていたことも分かる。

 1978(昭和53)年6月5日付毎日新聞は、その後の駆け引きを下記のとおり報じている。

大鳴門橋も鉄道(新幹線)建設をやめるはずだった2

 先の国会答弁では、持って回った言い方だった運輸省だが、この記事ではもっとズバズバ発言している。

 方針転換の理由を運輸省の住田鉄道管理局長(※引用者注 後のJR東日本社長)は、「新幹線の併用橋を造るには、全部の新幹線計画が決まらなければならない。大鳴門橋はともかく世界最長のつり橋になる明石海峡大橋に新幹線を乗せることは、騒音対策も含め、技術的に極めて困難だ。それに新幹線はいつできるかわからない。21世紀までむずかしいという見方もある。併用橋にすると赤字の国鉄が約4割の費用を負担し、利子だけでも大変。21世紀まで通らないなら、そのときに別にトンネルを掘った方が安くつく」と説明する。

 この考え方で運輸省は建設省、国土庁、大蔵省と事務レベルの根回しを始めておおむねの了解を取り付け、関係県の国会議員も大部分が「道路だけなら早くできる」と単独橋に傾いた。

 ところが、ここで大きく「待った」をかけたのが地元徳島選出の三木前首相。

(中略)

 この動きを横目に見ながら運輸省は「三木さんは併用橋を造っておけば、将来、新幹線を引く”人質”になる、とお考えのようですが、たとえ併用橋になっても人質にはなりませんよ。本土―四国間の新幹線計画は神戸―鳴門ルートのほかに、岡山―坂出―高松―高知ルートの計画もあります」と冷ややかだ。

 

1978(昭和53)年6月5日付毎日新聞


 ネット世論では「なんで明石海峡大橋を道路単独にしたのだ。そのせいで新幹線ができなかったじゃないか」と言わんばかりだが、実際には大鳴門橋建設の段階で国は四国新幹線はできないから大鳴門橋だって鉄道施設は不要であるとしていたのである。

 そこをひっくり返しにかかったのは、地元徳島出身の三木武夫前首相(当時)である。記事にもあるが、この騒動の2年前である1976(昭和51)年に大鳴門橋を少々強引な形(それゆえに四国新幹線の神戸―鳴門ルートへの敷設については正式なオーソライズを得ていない形でもある。)で着工に持ち込んだのは首相在任中の三木である。その後いわゆる「三木おろし」で党内派閥争いに敗れ首相の座をひきずりおろされた後に、政敵の福田内閣が大鳴門橋への鉄道工事を中止させようとするのである。

 今の人は知らないかもしれないが、三木首相は「金権」田中角栄内閣が世論の批判をあびて倒れた後に「クリーン三木」として脆弱な党内基盤にもかかわらず登場時は国民から一定の人気を得ていた政治家である(いわゆる「バルカン政治家」でもあったが。)。そのクリーン三木が地元利益のためになりふり構わず動いたのである。

 この記事によると、淡路島を含む兵庫2区を地盤とし、明石海峡大橋建設に力を入れていた原健三郎(ハラケン)代議士が中曽根派であることもあり、中曽根康弘(当時鉄道建設審議会会長)の支援を受けたようだ。当時の自民党はいわゆる「三角大福中」の派閥争いの真っ最中であり、中曽根にとっては、福田の敵の三木は「敵の敵は味方」ということになるのだろうか。

 一方で、ちょっと時間を遡るがこんな記事もある。

 


 田中がヨーロッパ、ソ連を歴訪していた(※引用者注:1973(昭和48)年)9月28日、田中不在の閣議で主要閣僚が、全国新幹線網計画について一斉に批判を開始する。膨大な新幹線網建設は全国的な地価上昇、物価上昇につながりかねないということを問題にしていたが、批判の理由はそれだけではなかった。田中主導で行われている新幹線の路線決定に、不満が募っていたのである。

(中略)

 これに対し、三木武夫副総理はもっと露骨だった。

「新幹線建設にあたり、特定の人が不当な利益を得るおそれがあるので、こうした面での配慮が必要だ」

 

「列島改造 田中角栄の挑戦と挫折」「NHKスペシャル 戦後50年 その時日本は 5」366頁 日本放送出版協会・刊

 総論賛成各論反対とはよく聞くが、総論反対各論賛成じゃないかw

 いかにもバルカン三木である。

 なお、当初の全国新幹線網計画では、岡山~高知の四国新幹線計画は含まれていなかったが、最後の最後にこの路線を押し込んだのは田中角栄なんだけどねw

 

 ところで、中曽根は首相在籍時には国鉄分割民営化を実施している。その際、本四架橋については、瀬戸大橋に架かる国鉄線「本四備讃線」の建設を中止しようとする動きすらあった。

 その動きは「JR30周年記念:国鉄改革で本四備讃線(瀬戸大橋線)は建設中止になるはずだった!?」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/04/jr30-0cd3.htmlに書いてある。

 中曽根氏も国鉄改革の際には偉そうなことを言っていたが、自分もちょっと前には党利党略というかそれ以前の党内派閥利益の駆け引きために鉄道建設審議会会長の座を悪用?して国鉄の赤字を増やしていたのである。

 1978(昭和53)年7月31日付朝日新聞でも同様の動きが報じられている。

大鳴門橋も鉄道(新幹線)建設をやめるはずだった3

 

 徳島県では当初、運輸省のこんな計画変更案に対し「やむをえない」との空気が支配的だった。武市恭信同県知事も3月の県議会で「早期完成が最優先」と弱気の答弁をしたほどだ。あまり新幹線にこだわって、橋そのものの完成が遅れたのではもとも子もなくなる、との心配も手伝って、橋の運命は「単独橋」に決まったかに見えた。

1978(昭和53)年7月31日付朝日新聞


 地元徳島県も四国新幹線をあきらめかけていたというわけだ。

 ここで当時の日経新聞の関連記事の見出しを追ってみよう。

 

大鳴門橋問題、道路単独への変更は流動的――武市徳島県知事語る。 1978/03/19  日本経済新聞 地方経済面 四国

大鳴門橋、道路単独なら条件付き、近く6団体で協議――徳島県知事示唆。 1978/03/23  日本経済新聞 地方経済面 四国

高知県、強まる大鳴門橋の「道路単独」に強く反発――架橋資金調達の縁故債拒否も。 1978/04/15  日本経済新聞 地方経済面 四国 

徳島県、議会で大鳴門橋の道路単独橋への変更受け入れを示唆、57年度完成変えず。 1978/04/20  日本経済新聞 地方経済面 四国

高知県と徳島県、大鳴門橋の新幹線併用橋実現で意見一致。 1978/05/10  日本経済新聞 地方経済面 四国

大鳴門橋の新幹線併用橋建設は厳しい情勢――徳島県議会特別委員長ら語る。 1978/05/27  日本経済新聞 地方経済面 四国

大鳴門橋の新幹線併用の見通しは明るい――運輸省などに陳情の徳島県会委員長ら語る。 1978/07/15  日本経済新聞 地方経済面 四国

徳島県、大鳴門橋建設問題で併用橋推進へ高知・兵庫両県知事と意見集約へ――知事談。 1978/07/18  日本経済新聞 地方経済面 四国

大鳴門橋は道路新幹線併用橋――自民党四国開発委が決定。 1978/07/21  日本経済新聞 地方経済面 四国

大鳴門橋、政治決着にメド、新幹線併用で前進――高知県知事語る。 1978/07/22  日本経済新聞 地方経済面 四国

本四架橋の大鳴門橋は道路・鉄道の「併用橋」に――建設相、経団連会長に意向表明。 1978/08/01  日本経済新聞

大鳴門橋は新幹線併用橋に――三木武夫前首相、徳島市で語る。 1978/09/05  日本経済新聞 地方経済面 四国

高知県、大鳴門橋鉄道併用問題で国の負担での早期着工を建設・運輸両省に強く要請へ。 1978/09/08  日本経済新聞 地方経済面 四国

大鳴門橋は基本方針通り併用橋――中曽根康弘自民党総務会長、徳島で語る。 1978/10/15  日本経済新聞 地方経済面 四国

本四架橋神戸―鳴門の「大鳴門橋」は道路だけの単独橋に――自民調査会が決議。 1978/12/13  日本経済新聞

大鳴門橋はあくまで併用橋で――国鉄基本問題調査会の単独橋決議で徳島県知事語る。 1978/12/14  日本経済新聞 地方経済面 四国

高知県、国鉄基本問題調査会の大鳴門橋「単独橋」決議で対応策迫られる。 1978/12/14  日本経済新聞 地方経済面 四国

 このように、自民党も揺れるし地方も揺れていたのである。徳島県は一時期弱気になるのだが、高知県が強気だったという。

 

 高知県はこれに猛反発した。鉄道併用橋は高知県民の願いであった。ルート争いでは神戸―鳴門ルートを支持してきたのに簡単にあきらめるのかと徳島県を厳しく非難した。

 

本州四国連絡橋神戸―鳴門ルートの計画史 羽田野剛士、近藤光男、近藤明子

https://www.jsce.or.jp/library/open/proc/maglist2/00039/200411_no30/pdf/232.pdf

大鳴門橋も鉄道(新幹線)建設をやめるはずだった4

 上記の記事は、自民党の国鉄基本問題調査会が道路単独橋決議したことを報じる1978(昭和53)年12月13日付読売新聞記事である。

 この記事では2点興味深い点がある。

 一つ目は、厳しい国鉄財政を踏まえて、運輸省だけでなく国鉄も鉄道併用橋に反対しているという点である。

 二つ目は、道路橋を所掌する建設省は併用橋を主張しているという点である。日頃から「鉄道と違って道路はお金があってズルイズルイ」と言っている鉄道マニヤ諸氏には不思議であろう。そこには、本四架橋については、道路と鉄道が費用按分して事業を進めているという事情がある。つまり鉄道が撤退してしまうと全額道路が負担しなくてはならなくなる。また単純に道路だけの問題ではなく、本四公団に出資している国、関係地方公共団体の出資金の追加負担が出てくるのではないかという問題もある。そのために「国鉄が赤字だからといって、自分の都合だけで撤退しちゃいかんよ」と釘を刺しているのではなかろうか。この辺はあてずっぽうの推測にすぎないのだが。

 

 最終的には現在あるように大鳴門橋は鉄道併用橋で決着がついた。下記は、それを報じる1979(昭和54)年1月5日付読売新聞記事である。

大鳴門橋も鉄道(新幹線)建設をやめるはずだった5

 この記事によると

・もともとは道路と鉄道は、(応力比率に基づき)59:41で、総工費1,527億円のうち、道路901億円、鉄道626億円を負担するはずだった。

・このときの見直し(経費削減)と負担比率の見直しで、総工費1,527億円を1,325億円に下げるとともに、89:11の負担比率とし、道路1,175億円、鉄道150億円の負担となった。

 結果的に増額となった道路分274億円については、その後、本四道路の料金で返済することになっていると思われる。

 また、このときの経費削減のなかで「新幹線は「単線載荷方式」をとることとし、複線にはするものの、上下線の電車がいっしょに通らないように配慮し、工事費を切り詰めることにした。」のである。

 

 wikipediaの「大鳴門橋」では

また、着工後に四国新幹線建設の見通しが不明確なことと建設費の圧縮を理由として、一度に1列車しか橋上を通過できない「単線載荷」への設計変更が1980年になされているため、仮に鉄道が敷設されても大鳴門橋の区間は実質的に単線運行となる。(参考:参議院建設委員会議事録1981年6月2日)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%B3%B4%E9%96%80%E6%A9%8B 2017年9月10日閲覧

 とだけあるが、そこに至るまではこれだけ長い前振りがあったのである。

 それを知らない鉄道マニヤが「予算をけちったせいで単線運行しかできないものができた」等というのである。

 wikipediaついでに指摘しておくと

1978年(昭和53年)3月 - 関係大臣により大鳴門橋と明石海峡大橋の道路単独橋への変更が合意。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%B3%B4%E9%96%80%E6%A9%8B 2017年9月10日閲覧

とあるが、実際の国会答弁では

○二宮文造君 ちょっと大臣にお伺いしますがね、この三省の事務当局者の会合というのは大臣御承知の上で行われたんでしょうか、知らないうちに事務当局で話し合いしたんでしょうか。簡単で結構です。

○国務大臣(櫻内義雄君) これは、私が指示をしたことのないことだけは事実でございますが、しかし、事務当局者間で必要があってそういう会合をしておる、それを私が不必要だということではございません。私が指示したんではないということは事実です。

○二宮文造君 じゃ、その事務当局の会合があった報告は大臣受けられましたか。非常に大事な問題でこういう三省の話し合いが行われたんですと、報告は受けられましたか。建設も国土も兼ねていらっしゃるんですから、どっちかから入るんじゃないかと思いますが。

○国務大臣(櫻内義雄君) 新聞報道をちょうど見た後に、ちょっとこの報道の真相は違いますと、三者が会いまして、いまの公共投資の、先行投資の必要があるので協議をいたしましたと、こういう報告を受けました。

 

1978(昭和53)年3月28日 参議院予算委員会

 と「大臣は知らずに事務方だけの会合だった」とされている。

 ということでwikipediaの当該箇所は嘘だと思われるので、どなたか直しておいてください。

 

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大鳴門橋も鉄道(新幹線)建設をやめるはずだった6


 これは、1985(昭和60)年6月8日大鳴門橋開通を前にした、小学3年生1985(昭和60)年4月号の挿絵である。

 しかし、上記の経緯を踏まえ、1981(昭和56)年6月に建設省から本四公団に、明石海峡大橋の道路単独橋の可能性について検討するよう指示がなされ、大鳴門橋開通の2箇月前である1985(昭和60)年4月に「明石海峡大橋は道路単独橋で技術的にも採算的にも可能である」旨の調査報告がなされている。

 「新かん線も走る!大鳴門橋」とのキャプションはこの時点で実現可能性はかなり厳しくなっていたと言ってよいだろう。

 これを受けて同年8月27日、河本嘉久蔵国土庁長官、山下徳夫運輸大臣、木部佳昭建設大臣の間で、「明石海峡大橋は道路単独橋に変更し、本州・淡路島間の鉄道計画については、別途検討する」旨の合意がなされた。

 

本州四国連絡橋神戸―鳴門ルートの計画史 羽田野剛士、近藤光男、近藤明子

https://www.jsce.or.jp/library/open/proc/maglist2/00039/200411_no30/pdf/232.pdf

 その後紀淡海峡経由のルートの検討等が行われたのはご存知のとおりである。

 

伊東 明石海峡大橋を鉄道は通さないことにして、あと別ルートを考えるとすれば、どんなことが今考えられているのですか。

山根 トンネルにする案では、水深一○○mの明石海峡の下をトンネルで通っても、明石海峡大橋に乗せても、鉄道の規格にもよりますが、 神戸の駅に取り付かないのですね。

伊東 そうなのですか。たわみがすごくなるということですか。

山根 そうではなくて。

伊東 取り付けの問題なのですか。

山根 そうです。方法としては紀淡海峡を抜ける案が考えられます。

伊東 経営上はどうですか。

山根 備讃線でもう精一杯ではないでしようか。備讃線でさえ止めようと話が出たくらいですから。

 

土木史研究におけるオーラルヒストリー手法の活用とその意義:高速道路に焦点をあてて

山根孟氏(元建設省道路局長・元本州四国連絡橋公団総裁)

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大鳴門橋の鉄道事業分のお金は結局誰が負担しているのだろうか?

 建設費については、本州四国連絡橋公団から道路公団民営化委員会に提出された資料http://www.kantei.go.jp/jp/singi/road/dai4/4siryou4-1.pdfによると「鉄道の事業費は平成13年度までに国鉄清算事業団(現鉄建公団)の負担により償還済。」とのこと。

 維持管理費については、http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/hyouka/honsyu_a.htmによると

 本州四国連絡鉄道事業のうち、明石海峡大橋が道路単独橋とされたため(昭和60年8月)、本四淡路線の鉄道事業は凍結状態となっている。このため、これと一体をなすものとして先行して建設された大鳴門橋の鉄道部分(資産価額331億円)が未利用のままとなっている。

 この大鳴門橋の鉄道部分の維持管理費については、負担分を賄う収入の途がないため(本来は、鉄道開通の際に旧国鉄から得られる予定であった。)、一般会計からの補助金(昭和62年度から平成8年度の累計額1億9,100万円)により賄っている。今後、大鳴門橋が鉄道施設として利用される可能性は低いものとなっており、このままでは、公的資金の投入が累増することとなる。

としている。この後はどうなったのだろうか。

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(追記)

 大鳴門橋の鉄道施設については、その後1円に減損されていることが分かった。

大鳴門橋の四国新幹線関係鉄道資産の簿価は1円だった。

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2020/04/post-49cd46.html

 をあわせてごらんいただきたい。

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2017年9月 3日 (日)

高速道路やICの名称決定基準

 鉄道の駅名についてはいろいろ本が出ていたりする。

 一方、高速道路についてはあまり出ていないのだが、「高速道路のプランニング」という本にその決定基準等が掲載されている。

 監修は建設省から日本道路公団において高速道路の計画・建設等に従事した三野定氏であり、実際に執筆したのは日本道路公団の現役職員だとあるから、それなりの精度とレベル感であることが期待されよう。

 ただし、この本が執筆されたのは1973年である。その後道路公団民営化や新直轄高速道路等といった変化があるため、現在もこのとおりなのかは定かではないので注意されたい。

 まず、高速道路の道路名称についてである。

高速道路の名称決定基準 (2)

 「中央高速道路」が「中央自動車道」に変更された理由が掲載されている。

東京ふしぎ探検隊 新東名、残りの区間は… 中央道が名前を変えた理由

 

■中央自動車道はかつて「中央高速道路」だった

 ところでこの中央道、現在の一般名称は「中央自動車道」だが、開通当初は別の名前を使っていた。その名も「中央高速道路」。東名、名神と同じく、高速道路を名乗っていた。なぜ、変更したのか。

 NEXCO中日本に尋ねたところ、「名前が変わったのは知っているが、時期も理由も分からない」とのこと。国土交通省の高速道路担当者に聞くと「変わったことも知らなかった」。そこで東京都立中央図書館(港区)を訪れ、文献をあさってみた。

 まずあたったのが「日本道路公団三十年史」(1986年=昭和61年発行)。細かく見たが、「中央高速道路」という名称は1回も出てこなかった。

 次に1976年(昭和51年)発行の「二十年史」を見てみると、こちらもほとんどのページで「中央自動車道」と書いてある。しかし時々「中央高速」と書いてあり、そのなかに「中央高速道路(のちに中央自動車道と改称)」とのくだりを見つけた(160ページ)。やはり名前が変わったのは間違いないようだ。

■「中央高速」、仕切りなしの対面通行区間も

 「高速道路の謎」などの著書があるモータージャーナリストの清水草一さんによると、「中央道では大月-河口湖間が開通した1969年(昭和44年)から事故が多発し、『高速』という名称は危険走行を助長しかねないと問題になった。そこで自動車道に改称した」という。

https://style.nikkei.com/article/DGXNASFK12038_T10C12A9000000/?page=3

 河尻定氏の調査能力の程度はまあ御察しということで置いておいて、NEXCO中日本にはしっかりしてほしいものだ。

 なお、清水草一氏は、大月~河口湖の対面通行での開通をきっかけとしているが、実際には、八王子以西が当初は対面通行で開通している。

 

 ただこれだけだと変更時期は明確ではない。

東北道などの開通後の道路名称決まる

 

 日本道路公団では、このほど,東北縦貫自動車道などの開通後の道路名称を次のように決定した。

 なお,中央自動車道富士吉田線(現在の「中央高速道路」)については,西宮線多治見・小牧間が開通する時点(昭和47年秋)に「中央自動車道」に名称変更する

路線名(区間) 開通後の道路名称
東北縦貫自動車道青森線
(川口~青森間)
東北自動車道
中央自動車道西宮線
(大月~小牧間)
中央自動車道
北陸自動車道
(米原~朝日間)
北陸自動車道
関門自動車道 関門橋

 

高速道路と自動車」1972(昭和47)年6月号98頁

 中央道の多治見・小牧間が開通したのは1972(昭和47)年10月5日なので、それにあわせて、調布~河口湖間も「中央高速道路」から「中央自動車道」に改称されたことになるのであろう。

 現在のNEXCOの高速道路の「路線名」と「道路名称」の一覧表が、NEXCO総研の「設計要領第五集 交通管理施設 標識編」に掲載されている。

 現在のところ新旧対照表がUPされているのであわせて参照されたい。http://www.ri-nexco.co.jp/Portals/0/%E6%9B%B8%E7%B1%8D%E9%96%A2%E4%BF%82/%E6%96%B0%E6%97%A7%E8%A1%A8/%E8%A8%AD%E8%A8%88%E8%A6%81%E9%A0%98/%E8%A8%AD%E8%A8%88%E8%A6%81%E9%A0%98%E7%AC%AC%E4%BA%94%E9%9B%86_%E6%A8%99%E8%AD%98%E7%B7%A8_2907_%E6%96%B0%E6%97%A7_1.pdf

高速道路の名称決定基準 (1)

 「法定路線名」とか「営業路線名」というのはネットスラングにすぎないので、こういう公式文書には出てこないのでご注意あれ。

 えっ?「NEXCO西日本のウェブサイトには「法定路線名」「営業路線名」って載ってる」って?「先輩の書いた本をよく読んだ方がいいんじゃないんですか?」「NEXCO西日本はwikipedia見て仕事しているんですか?」って言ってやればええんちゃうのん?

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 閑話休題、次はインターチェンジの名称である。

高速道路の名称決定基準 (3)

 鉄道の駅は、「西舞鶴」「東舞鶴」と地名の前に東西南北がつくが、高速道路の場合は「舞鶴西」「舞鶴東」と地名の後に東西南北がつく。

 これについては、三野氏同様に建設省から日本道路公団で高速道路の調査・建設に従事した武部健一氏が自著「道路の日本史」の中でこう語っている。

 ここで高速道路での施設の名称について、その歴史的由来を説明しておこう。

 高速道路の施設としてはまずインターチェンジが挙げられる。できればこれを漢字一文字で表現したい。駅という字がすぐに浮かび上がるが、これはすでに鉄道で手あかにまみれているし、まぎらわしい。「道駅」などもすっきりしない。駅がもともと道路のものだったなどとは、当時の関係者が知る由もない。その後、「道の駅」が一般国道など幹線道路の休憩所として整備され、平成26年(2014)末で全国で1,040ヵ所に達している。

 「インター」との略も「第三インター」など戦前の左翼用語を思い出させるとの古い幹部からのクレームでつぶれ、結局略語の使用は見送りとなり、現在に至っている。英語をうまく使った例では「ジャンクション」がある。本来の英語の意味は交差点でしかないが、これを高速道路相互の分岐・交差箇所に用い、一般道路に乗り降りする普通のインターチェンジと区別したのは賢明であった。

 インターチェンジの命名法もアメリカ流儀を採用した。日本では一般に東西南北などは地名の前につける。しかしアメリカでは逆にOregon-westのように後につける。名神高速道路ではアメリカ流儀を採用した。偶然のことながら名神の場合、後につけることが成功につながった。京都東インターチェンジである。これを従来の方式通りとすれば、東京都インターチェンジになるところであった。

 

「道路の日本史」武部健一・著 中央公論社・刊 196~197頁

 私は「日本最初の開通区間である名神高速道路の京都東ICを東京都ICにしないために、高速道路のインターチェンジ名は、地名の後に方角を入れた」のかと勝手に思っていたのだが、武部氏によると偶然の産物であるようだ。

 

 ところで、「高速道路ファン手帳」佐滝剛弘・著にはこんな箇所がある。

同名のインターチェンジ

 

 これほど高速道路網が広がると、全国では、同じ名前のICも登場しそうに思われるが、(中略)、高速道路の中では、重複しないよう、後からできたICが地名の前後に区別できるような名前を付けている。

(中略)

 同名の話に戻ると、「川崎IC」だと神奈川県にも宮城県にもあるので、前者は「東名川崎」、後者は「宮城川崎」となっている。さすがに「神奈川川崎」というのはあまりに不自然なので、そんなことにはならなかった。

 

「高速道路ファン手帳」佐滝剛弘・著 中央公論社・刊 90~91頁

 まあ、この佐滝剛弘氏の論も、実際には「高速道路のプランニング」記載の記述によると

・「市町村名の前に路線名をつける」

・第三京浜の川崎ICが先にあったので、東名川崎にした

ということで的外れな記述とあいなってしまった。

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 (余談)

 高速道路の名称は起終点の地域名、都道府県名、市町村名等からとるように書いてあるが、最初の高速道路である名神高速道路は、名古屋市も神戸市も通っていない(小牧市~西宮市)。

 名古屋市については、接続する東名高速に名古屋ICがあるからいいとしても、神戸ICはどうだったのか?

 実は神戸ICは当初は建設する予定はあったのである。

名神高速道路の西宮-神戸間の幻の計画路線図

http://www.archives.go.jp/exhibition/digital/high-growth/contents/15/photo27/imgs/i_zoom01.jpg

 詳細は「「名神全通50周年企画」なぜ名神高速道路は神戸まで行かないのか」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/post-d2b3.htmlをご覧いただきたい。

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南アルプスの少女ハイジ

 (余談その2)

 中部横断道の「南アルプスIC」は、高速自動車国道としては初めての「カタカナ」を使ったIC名だったはず。(※都市高速道路を含めると、阪神高速道路の「ユニバーサルシティ」の方が先。)

 上記開通案内を見るとこのときの開通区間は「南アルプスIC~白根IC」である。ところで白根ICは、旧・中巨摩郡白根町に存在したところ、2003年4月に周辺自治体と合併して「南アルプス市」になっている。

 時系列でいくと、2002年3月中部横断道白根IC(旧・白根町 現・南アルプス市)開通→2003年4月南アルプス市成立→2004年3月中部横断道南アルプスIC(旧・若草町、櫛形町 南アルプス市)開通という流れである。

 これが、もし南アルプス市の成立が白根IC開通よりも先だった場合には、南アルプス市内にICが南北に二つできることとなり、現白根ICが「南アルプス北IC」、現南アルプスICが「南アルプス南IC」になっていた可能性がなかったわけではない。。。

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総武快速線は首都高速道路の未成線を避けて走っているのであんなに深い

 ※最後に追記があります。

 我々が子供の頃は、国鉄で一番深い駅と言えば、総武快速線の馬喰町駅であった。(その後青函トンネルが開通したりして変動したらしいが。)

 http://www.ecomo-rakuraku.jp/stationmap/22919.htmlに掲載された構内図などを見ると地下5階にホームがある。

 で、何故にこんなに深いのかを調べてみると、首都高速道路の未成線が関係していることが分かった。

総武快速線は首都高の未成線を避けて深く走っている

 「交通技術」1972年8月号「東京地下駅の防災体制について」山本卓朗・著 291頁から引用

 馬喰町駅から錦糸町側で神田川をくぐるあたりで「高速環状線」の杭の下を避けるように総武快速線が走っているのが分かる。

 これは首都高速道路の未成線「内環状線」のことである。

首都高速道路内環状線計画図

 この図面について詳しいことはこちら→http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/07/37-ddb3.html

 6号線の両国から隅田川を渡り、神田川に蓋をするように飯田橋で5号線に接続するような経路である。

 それが柳橋のあたりで総武快速線と交差する予定だったのだ。

首都高内環状線接続予定部分

 飯田橋附近の首都高5号線。赤丸部分が内環状線が接続する部分の準備工と思わしきもの。

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西武堤康次郎が有楽町線のルートを曲げていたのか (2)

 また、上図には出てこないが、地下鉄有楽町線(8号線)も、当初は新木場へ向かわず、錦糸町へ向かうはずだった(10号線)ので、内環状線と同様に錦糸町駅~馬喰町駅の間で地下鉄10号線の下をくぐっている。

交通技術1968年7月号「東京周辺地下高速鉄道網の整備計画」から

 

西武堤康次郎が有楽町線のルートを曲げていたのか (14)

 地下鉄10号・8号線のあたりは、他に記事を書いているのでよろしければこちらも是非。

 「堤康次郎は、目白経由だった有楽町線のルートを池袋経由に曲げて、西武池袋線と新宿線を乗入れさせようとしていた?」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/01/post-4e5b.html

 記事公開後、重要な指摘を頂戴したのでお許しを得て追記としたい。

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2017年9月 1日 (金)

昭和15年 東京帝国大学 行幸奉迎次第書

 亡くなった身内の遺品から東京帝国大学の「行幸奉迎次第書」なるものが出てきた。

昭和天皇東京帝国大学行幸 (12)

 東大のウェブサイトhttp://www.u-tokyo.ac.jp/history/03_03_02_j.htmlによると「紀元二千六百年関係行事」として「十月の天皇行幸」が確かにある。そのときの手順のマニュアルなのであろう。

 私には価値は分からんので、どなたか価値が分かる方に届け~ということでUPしてみる。

昭和天皇東京帝国大学行幸 (13)

 これは挟み込んであった別紙。

昭和天皇東京帝国大学行幸 (14)

昭和天皇東京帝国大学行幸 (15)

昭和天皇東京帝国大学行幸 (16)

昭和天皇東京帝国大学行幸 (17)

昭和天皇東京帝国大学行幸 (18)

 今の東大構内図と比べてみよう。http://www.k2.t.u-tokyo.ac.jp/location/photo/restaurantmap.png

東大構内

昭和天皇東京帝国大学行幸 (19)

昭和天皇東京帝国大学行幸 (20)

昭和天皇東京帝国大学行幸 (21)

昭和天皇東京帝国大学行幸 (22)

昭和天皇東京帝国大学行幸 (23)

昭和天皇東京帝国大学行幸 (24)

昭和天皇東京帝国大学行幸 (25)

 各学部ごとに昭和天皇に奏上するわけだが、このメニューが当時の最先端の学問だったのだろうか?

昭和天皇東京帝国大学行幸 (26)

昭和天皇東京帝国大学行幸 (27)

昭和天皇東京帝国大学行幸 (28)

昭和天皇東京帝国大学行幸 (29)

 古畑種基の「血液型の研究」が上奏されている!(※「A型は真面目でB型はいい加減」ということを研究しているわけではありませぬ。)

昭和天皇東京帝国大学行幸 (30)

昭和天皇東京帝国大学行幸 (31)

昭和天皇東京帝国大学行幸 (32)

昭和天皇東京帝国大学行幸 (33)

昭和天皇東京帝国大学行幸 (34)

 ここからは動線を示した図面集。

昭和天皇東京帝国大学行幸 (35)

昭和天皇東京帝国大学行幸 (36)

昭和天皇東京帝国大学行幸 (37)

昭和天皇東京帝国大学行幸 (38)

昭和天皇東京帝国大学行幸 (39)

昭和天皇東京帝国大学行幸 (1)

昭和天皇東京帝国大学行幸 (2)

昭和天皇東京帝国大学行幸 (3)

昭和天皇東京帝国大学行幸 (4)

昭和天皇東京帝国大学行幸 (5)

 昭和天皇東京帝国大学行幸 (5)

 ポスターセッションみたいな感じでぐるぐる回っていたのかな?

昭和天皇東京帝国大学行幸 (6)

昭和天皇東京帝国大学行幸 (7)

昭和天皇東京帝国大学行幸 (8)

昭和天皇東京帝国大学行幸 (9)

昭和天皇東京帝国大学行幸 (10)

昭和天皇東京帝国大学行幸 (11)

 天皇行幸を伝える1940(昭和15)年10月9日付読売新聞

昭和天皇東京帝国大学行幸 (40)

 同じく1940(昭和15)年10月10日付読売新聞

昭和天皇東京帝国大学行幸 (41)

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