浅草十二階 凌雲閣の赤レンガ遺構(とみられるもの)を見てきた
【社会】工事現場に「凌雲閣」遺構 浅草、基礎部分などhttps://t.co/WOuIkLRYNk
— 東京新聞(TOKYO Web) (@tokyo_shimbun) 2018年2月9日
明治から大正期にかけての日本で最も高い建築物で、関東大震災で半壊し解体された「凌雲閣(りょううんかく)」の基礎部分とみられるれんがと、八角形のコンクリートの土台の一部が、東京都台東区浅草二のビル工事現場で掘り起こされた。「話には聞いていたが、初めて見た」と街の話題になっており、工事の柵越しにスマートフォンで撮影する人もいる。
東京新聞 2018年2月10日 朝刊
開業を伝える1890(明治23)年11月9日付朝日新聞掲載の広告
早速私も行ってきて写真をTwitterにあげたところ沢山のリアクションをいただいた。
凌雲閣基礎煉瓦
ひさご通り商店街 すき焼き米久角西入る pic.twitter.com/kwte0A5MEM— 骨まで大洋ファンby革洋同 (@FanTaiyo) 2018年2月11日
RT> 関東大震災で倒壊した凌雲閣の痕跡がまだ残ってたなんて。びっくり‼️ pic.twitter.com/mL0g8ARMas
— フリート横田 (@fleetyokota) 2018年2月11日
なんで調子にのって早速ブログにUPしてみる。
場所は、浅草花やしきの西側、ひさご通り商店街の「すき焼き米久本店」さんのところの角を西に入ったところ。幸信ビル(1階はラーメン屋さん)の交差点の南東側角。
http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/images/002978781_o.html
「東京市全圖 : 早見」1922(大正11)年・刊 国際日本文化研究センター・所蔵
http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/images/004922845_o.html
「東京市淺草區全圖 : 明治四十年一月調査」1907(明治40)年・刊 国際日本文化研究センター・所蔵
※上2つの国際日本文化研究センター所蔵の地図は右が北側。
ここが当該現場。写真を撮っている同好の士がいらっしゃる。
肉眼だと工事のフェンス越しとなってしまうので、カメラをフェンスの上からかざす形でみんな撮影している。
フェンスの上からだとこんな感じ。東京新聞の記事だと「基礎部分とみられるれんがと、八角形のコンクリートの土台の一部」とのことである。
京都大学 デジタルアーカイブシステムhttp://das.rra.museum.kyoto-u.ac.jp/infolib/supsearch/defaultの「京都帝国大学工学部建築学教室35mmフィルム : 実写 関東地方大震災」の10分50秒過ぎに写った凌雲閣のレンガの壁と比べてどんなものだろうか?
この管は当時のものかな?違うかな?
煉瓦のことはよく分からないので、お詳しい方でお気づきの点があればコメント欄にでも記入いただければ幸いです。
ぼんやりしてよく分からないのだけれども、東京スカイツリーとも一緒に収めてみた。
南側のパチンコ屋さん(サンシャイン浅草店)の前に「浅草凌雲閣 記念碑」がある。
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(追記)
新聞記事にも「「凌雲閣」の基礎部分とみられる」とあるように、断定するのは尚早ではないかとご指摘するツイートがあったので引用させていただく。(あわせて題名も修正した。)
ここ https://t.co/yU6TXygcAq …
が件の現場で、地面にみえるのが例の八角形の一部なのだとしたら、塔はこの敷地 https://t.co/FDLgGPeesH … のあたりに中心があったということになりそうで、現在ある記念碑の位置とだいぶはずれる。
そこが気になる。記念碑自体も、南側の縁の位置だとは思うが。— 後備役 (@Schlieffen_Plan) 2018年2月11日
写真は手元にある震災当時の生写真のスキャン。
親疎通りは区画整理の時もあまり大きく変更されていないように記憶する。
その道がこのように見えるとなると、先述の「多角形の向き」とあわせて、ちょっと今回の煉瓦遺構は十二階じゃないような気もするんだが...(基礎が浅すぎる気もする) pic.twitter.com/jTWwE9k6LB— 後備役 (@Schlieffen_Plan) 2018年2月11日
多角形の角度が西に開いている(より西側に中心があることになる)ことを考えても、十二階ではなくて、十二階下の魔窟の一廓の遺構、ではないだろうか...(だから区が冷淡というなら納得もいく)。
— 後備役 (@Schlieffen_Plan) 2018年2月11日
あれこれ考えましたが、今回の地下遺構は違うのではないかと思います。
— 後備役 (@Schlieffen_Plan) 2018年2月11日
さきほどの写真で写っている遠景の通りが親疎通りだとしたら、今回の敷地はその延長線よりももう少し南(ほかの角度の写真と合わせれば、南東)にないとおかしいし、同じく先述の道が親疎通りの一本南(これが多分正しい)の道だとすれば、今回の敷地は十二階の位置からだいぶずれているような...
— 後備役 (@Schlieffen_Plan) 2018年2月11日
たしかに、建っていたころの中心は、記念碑よりもう少し北に入ったあたりとは思うのですが。。
— 後備役 (@Schlieffen_Plan) 2018年2月11日
これが「親疎通りの一本南」だとすると、既存の十二階記念碑の位置が十二階の南側の縁という認識が正しいことになるが、その場合も、今回の地下構造物は十二階ではあり得ないような。。 pic.twitter.com/tlPIrhzfDT
— 後備役 (@Schlieffen_Plan) 2018年2月11日
先程の写真だけでは荒すぎるため、関係史料を書庫から出してきた。
東京震災録、地図及写真帖から、東京市火災動態地図。
中央やや左の赤丸が十二階。
これで見ると、親疎通りの延長線やや南。
図面での白抜きが、震災非常焼失地区。
よって、手元生写真で十二階の右手に見えるのが親疎通り。 pic.twitter.com/iZ0CLSPfsn— 後備役 (@Schlieffen_Plan) 2018年2月11日
思ったほどではないが、やはり、少し北にズレているように思うのだが。。
第38地区の区画整理前の敷地割り。
これは地籍図の類だから、地図と違い、相対的な位置関係くらいしか信用できないが、赤丸の「二ノ一 合四」が、十二階とそのアプローチ部分に相当。
親疎通りは区画整理で変更ほぼ無し。 pic.twitter.com/11zQmY9U3T— 後備役 (@Schlieffen_Plan) 2018年2月11日
最後に、『帝都復興記念帖』にある震災前の空撮。
この程度の解像度なので、親疎通りの延長線との位置関係がそこまではっきり見えないが。。
全否定もできないか、とも思えてくる。
考えてみると、最初の写真も、親疎通りの入射角(?)まで見える訳でもないから、そこまでの材料でもないか。。 pic.twitter.com/my3j1Slu4C— 後備役 (@Schlieffen_Plan) 2018年2月11日
とりあえず、全否定でもないか、な、(でもなんとなく…)という認識に。。。
— 後備役 (@Schlieffen_Plan) 2018年2月11日
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(追記その2)
過去にも近くで発見されているようだ。そういう意味では、今回の発見は「世紀の大発見」というわけではなさそうだ。
1981(昭和56)年7月21日付読売新聞
このときの発掘記録が「浅草六区 : 興行と街の移り変り 」台東区教育委員会 編 に掲載されている。
また、「震災予防調査会報告. 第97号甲」には、凌雲閣の図面が掲載されている。
この辺を重ね合わせていくとこんな感じか。
もう今日はそわそわどきどきして上の空デーなので、全部うっちゃって凌雲閣の遺構を見に行ってきたーーーーー!!!!!煉瓦はタッチの差でトラックで運ばれていったよー!ざんねん! pic.twitter.com/8WRg7AelMp
— maybe K (@caolico) 2018年2月13日
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※余談 杉並区南阿佐ケ谷駅付近に「阿佐ケ谷凌雲閣マンション」がある。
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