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2018年6月に作成された記事

2018年6月 9日 (土)

アド街・日比谷特集記念/日比谷地下駐車場は日比谷公園をオープンカットで作られた

 今日は、アド街ック天国で日比谷特集らしいので、記念して、日比谷ネタをUPしてみる。の「しょのにーーーー」(谷岡ヤスジ先生風に)

 先ほどは、日比谷地下道について取り上げたが、同じ日比谷の地下ということで日比谷公園の地下にある日比谷地下駐車場について触れてみたい。

 日比谷地下駐車場は、1956(昭和31)年4月に都市計画決定され、日本道路公団(当時)により、1960(昭和35)年5月に竣工した最初期の日本の都市計画駐車場である。

 その辺の能書きは後で関係論文をご紹介するのでそちらで見ていただくとして、日比谷公園の帝国ホテル側に下記のような入口があるのをご存知の方もいらっしゃるであろう。

 私が今回ご紹介したいのはこの写真。

日比谷地下駐車場 (3)

 下にフランク・ロイド・ライトの帝国ホテル、左に日比谷図書館に日比谷公会堂が見えるだろう。

 このように日比谷公園をオープンカットすることによって日比谷駐車場は建設されたのである。

 せっかくなので建設当時の図面を見てみよう。下記の図面はいずれも土木学会誌 昭和35年7月号「日比谷公園地下自動車駐車場建設工事の概要について」 津田敬一(日本道路公団建築課長)著から引用したものである。

日比谷地下駐車場 (4)

 日比谷公園の数か所にあるこいつが、日比谷駐車場の避難口兼給気筒であることが分かるだろう。

日比谷地下駐車場 (2)

 地下鉄丸ノ内線に隣接していることが分かる。

 下記は地下1階の図面。

日比谷地下駐車場 (5)

 下記は地下2階の図面。

日比谷地下駐車場 (6)

 下記は、実際に工事したオープンカットの図面である。ただでさえ近い地下鉄丸ノ内線が更に近くなっているのがお分かりであろう。ご存知のように日比谷公園は江戸時代には海だったわけで、想定外の軟弱地盤に大変苦労したようだ。

日比谷地下駐車場 (7)

 下記は数年前に撮影した駐車場内の様子である。

日比谷地下駐車場 (1)

アイドルのMVが撮影されたこともある。

 最近は、自転車通勤用の駐輪場施設等も設置されているようだ。

http://hibiya-ride.jp/

 駐車場としての現在の営業案内は下記を参照のこと。現在はNEXCO東日本に引き継がれている。

https://www.driveplaza.com/hibiya_parking/

「日本最初の東京日比谷地下自動車駐車場都市計画決定及び建設経緯」 堀江 興

https://www.jstage.jst.go.jp/article/journalhs1990/17/0/17_0_57/_pdf/-char/ja

「日比谷公園地下自動車駐車場建設工事の概要について」 津田 敬一

http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00034/45-07/45-7-14457.pdf

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アド街・日比谷特集記念/日比谷地下道はなぜ一方通行なのか?

 今日は、アド街ック天国で日比谷特集らしいので、記念して、日比谷ネタをUPしてみる。

日比谷地下道

 しつこいけど、また日比谷地下道の話。

 今回は「なぜ、日比谷地下道は片道だけになったのか?」ということを探ってみる。

 

 私は、かつて「もともと日比谷地下道は三原橋まで伸びる計画であったが東京オリンピックを前に営団地下鉄日比谷線と計画が競合し、結果日比谷線が勝って日比谷地下道が負け、地下3階を日比谷地下道が走ることとなった。そしてそのバーターで地下鉄三田線は営団地下鉄から都営地下鉄へ経営権が譲渡された。」という趣旨の記事をUPしてきた。

三原橋地下街を潰すはずだった銀座地下道計画

 

〇東京五輪関連:地下鉄と競合して未成となった銀座の地下自動車専用道路にして首都高速計画線の名残

 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/03/--4890.html

 

〇東銀座「幻の地下街」を作った経緯が(ほぼ)分かった

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/02/post-3bf6.html

 

〇日比谷未成地下道とのバーターで地下鉄三田線が営団から東京都へ譲渡されていた

 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-b86d.html

三原橋地下街と地下鉄日比谷線と有楽町ガード下地下道の関係

 ところが、1962年の計画(上記上段)でも日比谷地下道は地下3階を経由して三原橋交差点までは行っている。

 現状は三原橋どころか銀座四丁目交差点までも行っていない。何故なのか?

 これがずっと分からなかったのだが、東京都議会の議事録について過去分が遡って公開されていることに気づいた。で、検索すると答え(らしきもの)が書いてあったのである。

 


◯三十二番(田村徳次君)

(略)

 そこで私は首都整備局長にお聞きするんですが、私の聞いたことがもしあやまちであれば幸いでありますが、もしあやまちでなければ、これから私が申し上げる問題については、議員の皆さんも大いにご検討願いたいと考えるのであります。というのは、今日その地下鉄の主力的立場に立っているものは、何といっても帝都高速度交通営団であると思います。この交通営団の構想をお聞きいたしまずと、現在地下鉄の第二号線の建設に努力中でありまして、すでに南千住から仲御徒町までは開通済みであり来年はその二号線は北千住から人形町まで開通するという予定のもとに今日努力されておる。これが人形町から右折して築地に参りまして、築地から右折して銀座、日比谷を通って、桜田門から左折いたしまして中目黒に達する。いわゆる第二号線であります。そこで今三原橋の下あたりが、これもがっての都政のしわよせが来まして、橋下の住民の反対に会いまして、あそこでもそもそしているようでありますが、いずれにいたしましても、あの線を通ってくることは間違いありません。そこでその構想を承りますと、まず築地からこっちへ来たところにいわゆる東銀座の停車場がある。この二号線はまず三号線の下をくぐる。いわゆる渋谷、浅草間のあの銀座線の下をもぐる。そしてその次は四号線、いわゆる池袋、新宿の線の下をくぐることになっております。従ってそこにできるところの停車場の構想は、いわゆる数寄屋橋と銀座四丁目の間のところに駅をこしらえる。そして地下三際に乗降場ができるということです。その連絡のためには、まず幅員二十メートルの、いわゆる数寄屋橋と銀座の間に停留所をこしらえる。そしてそれが地下一階においてエスカレーターその他によって四号線並びに三号線に通ずるように連絡口ができるというのが、今日すでに決定したところの高速度交通営団の構想なんです。ところが私の不審に思うところは、今申し上げましだように、高速度交通営団、交通局を問わず、これを努力して、都の執行者は一日も早く完成すべきにもかかわらず、これに対して妨害を加えるような地下自動車道路の計画案というものがあるそうであります。ごのことを私は質間したいのでありますが、それは三原橋の西隅から警視庁前に至る一・三キロばかりのどころに自動車専用の地下道としてこれを通そう。先ほど私が申し上げましたように、東銀座の新しい銀座駅は一般のも開放されて地下道として使われ、将来は日比谷の交差点附近までもこれを延ばしていこうということであって、信号をたよって通るところの路上交通に対する援助にもなり、あるいは混雑するところの地上へ出てまたは連絡するということのない、いわゆる三号、四号線に連絡されるといういろいろの効果を持っているわけでございますが。これに対しても首都整備局を中心としてお考えになっている自動車道路は、その地下一階のいわゆる連絡囗へ持っていって自動車を桜田門から三原楊まで通そう。そうなってきますと、この高速度交通営団の考えている地下鉄網についての一頓挫を来たすということであって、このことについては非常に悲しむべき考えである。というのは、自動車は二人か三人とはいいませんけれども少なくとも十人も二十人も乗っては乗合以外にはありません。この間もある婦人の会合に行きましたところが、何で都心にそう自動車を入れなげればならないのだろうか、日比谷なら日比谷でおろして銀繿は歩てもらうようにしたらどうかというようなご意見のあつた婦人団もございますが、そこを私はお間きしたいのです。もしそういう計画があるとするならば、今喫緊の声のかかっている地下鉄完成に対する阻害をなすのは東京都みずからである。私はこういう考えを持つのでありまして、少数の人間が乗る自動車をこういうことまでして都心に入れなければならないかどうか。その理論的根拠は一体どうなんだ。これをわれわれが納得のできるようなと説明があるならしていただきたい、もし私の間いたことが誤りであり、訂正されておるのであったならば、その訂正のことについてのお考えを間かしていただきたい。

 それからこれと柤伴いまして、当然自動車地下道路をこしらえるということになりますと、排気ガスその他に対する抜け穴をこしらえなければならぬから、あの舗道の両側においては柱が立つか煙突が立つか知りませんが、排気口もできるでありましよう。それと同時に都電の徹去ということも当然副産物的に出てくる。というのは、自動車がもぐったり上がったりするというようなことから、この出入口をこしらえるということになりますと、都電は当然あそこは撤去になる。そうなってきますと、二、三人しか乗らない自動車を通すために、高速度交通営団に対する影響と、もう一つ都電そのものの大衆輸送機間を中断するということになる。交通機間というものは起点があって終点がある。これが起点から終点まで乗って初めて交通を意味するのであって、これを中断するならば、人間の胴中から首を切ったと同じ結果になるのだが、こういうことまでもして二人や三人の乗用自動車を通さなければならない、自動車道を保謾しなければならないという根拠がいずれにあるかをご説明願いたい。

 

(略)

首都整備局長(山田正男君) ただいまの地下鉄の二号線の問題につきましてご説明を申し上げます。実は首都整備局が営団の行なっております地下鉄工事を妨害でもしているかのごとき風説が流布されておることは私も承知いたしております。私実はこういうふうに考えておるのでございまして、地下鉄を含めまして都市高速鉄道というものは単なる法律上の地方鉄道であってはならない。なぜかと申しますと、これは都市の交通を構成いたします一つの施設でございますから、都市計画の総合設計のもとにこの都市高速鉄道というものは組み立てられ、また事業が行なわるべきものであろう、こういうふうに考えておるのでございます。実はご承知のように都心部を中心といたします道路交通事情、あるいは都市鉄道の事情が年々悪化いたしておるのでございまして、都心部の道路交通及び都市鉄道の打開につきまして、数年来都市計画審議会の中には道路の問題の特別委員会、あるいは地下鉄道の問題に関する特別委員会、こういうような機関を設けまして、いろいろ対策を講じて参ったのでございます。そこでそういう立場から、実は三年ほど前から今後都心部の道路の地下を都市高速鉄道に利用する場合には、将来道路が、たとえば首都高速道路のように全部高架の工事をする場合がある、二重の道路を作る場合がある、あるいは主要交差点を高架あるいは堀割式で立体交差の工事をする場合がある。そういうことになりますと、これは道路本来の使用の目的でありますから、道路を利用して作るこの地下鉄道の地面下の深さにつきましては、工事の実施設計をする以前に当局と十分協議をされたい、こういう旨を通牒いたしてあるのでございます。幸い都営の地下鉄道におきましては交通局と私どもと十分協議を行ないまして、昭和通りの道路交道需要を補足する意味におきまして、都営の地下鉄道の工事が実施される際に、同時に主要交差点の立体交差の工事を行ない、しかもその間に地下の自動車駐車場を設けるという工事が合併施行されまして、これによりまして昭和通りといたしましては未来永劫に掘り返しをする必要のない施設ができ上がる、こういうふうに考えておるのであります。そういう意味におきまして、地下鉄の二号線の三原橋から日比谷に至る区間、これにつきましても三年前から鋭意営団当局と事務的な協議を進めて参っだのでございますが、中途にいたしましてどういうものか協議に応じなくなりました。従いましてその後一年くらい協議がとだえておったのでございますが、これに対しまして地下鉄道というものはやはり都市計画の施設でございまして、私どもといたしましても、妨害どころか一刻も早く地下鉄道が完成することを望んでおるのでございますから、実は最近もその両者の協議を復活いたしまして、鋭意協議を進めている、こういうのが実情でございます。

 そこでどういう協議を進めておるかと申しますと、実は桜田門から三原橋を経まして勝閧橋に至る道路、これは実は都心部門の主要幹線街路の将来の交通需要を推定いたしまして、現在の道路施設では当然不足な道路の一つでございます。また都心部におきまして将来の交通需要に対しまして何とか改良をしなければいけない、こういう道路が先ほど申し上げました昭和通り、これは現在工事をいたしておりますから解決いたしますが、なお虎ノ門から汐留に至る区間、あるいは田村町から日比谷を経まして大手町に至る区間、あるいは勝閧橋を渡る道路の問題、こういう問題がございます。そこでこの三原橋から桜田門に至る区間につきましては、いろいろ都市計画寨議会内においても議論をいたしました結果、高架の自動車専用道路をかぶせるか、あるいは地下の道路を作るか、そのいずれかしかない、こういうことでございます。しかしこの区間に高架の道路を作りますと、国有鉄道とか既存の高速道路がございまして、地上三階以上を通ることになる。これは都市美上耐えられない。従ってこれは何とかして地下の自動車道にする必要がある、こういうことでございます。たまたま地下鉄の銀座線あるいは新宿線、これは地下の二階を通っておりまして、地下の一階に駅のコンコースがございます。そこで地下の自動車道といたしましては、この地下一階のコンコースを横断いたしますが、これ以上に方法はないから地下一階に自動車道を作ろう。そのかわり地下二階にコンコースを作ろう。従いまして地下鉄道のみを建設いたしますなぢぱ、地下一階にできるべかりしコンコースを地下二階に移しまして、そのかわり地下一階を自動車道にしよう、こういう考え方をいたしておるのでございます。特にこの銀座地区を中心にいたします都心部につきましては、ご承知のような道路交通事情でございますから、将来、ただいま申し上げましたような道路交通能力を補足する措置を講じましても、現在のような建築基準法のもとに工事いたしますと、九階建のビルディングが連続いたすわけでございます。これでは将来の都市施設とそれに対する需要がますますアンバランスするわけでございます。全般的にただいま申し上げましたような道路計画を含めまして市街地再開発を行なう。そこで再開発の結果できましたビルディングの地下室には大規模の自動車駐車場を設ける。ただいま申し上げましたような地下の自動車道路は、そのビルの駐車場に地下で直結をしてやる。そういたしますと、道路上に自動車が出ないで各ビルに相互に連絡できる。こういう考え方は、いわゆるディストリビューター、分配道路という思想でございまして、シカゴにおきましては自動車専用道路からおりた車を各地区に誘導いたしますために、このデベストリビューターという自動車専用道路、本来の高速道路よりも規格の低い道路を作りまして、そして平面道路の交通能力を補っておるというのが実情でございます。現に市街地再開発といたしましては、丸の内の赤れんが街の一帯は、すでに再開発中でございますが、この下には約二千六百台分の自動車駐車場を作る計画になっております。そういう際には、この地下の自動車道路ができますならば、地下においてこの駐車場と接続をする、こういうふうに考えております。他の場所におきましても市街地再開発計画の一環といたしまして、この自動車道路との連絡を考慮している、こういうような実情でございます。

 また換気の問題がございましたが、この換気は実は米国におきましてもこういう程度のディストリビューター式の地下自動車道略がございまして、きわめて簡易な、縋の方向の換気ではなくて横断式の換気装置によりまして簡単に換気ができる見込みを持っておるのでございます。もちろんこういう自動車遠路の建設は、直ちに賂面電車の撤去ということとは関連なく研究をいたしております。もっとも工事をいたします際には、この地下の自動車道路の工事をいたしますならば、土かぶりがゼロになります。そういう工事をいたします際には、やはり路面電車の運行を一時中止せざるを得ないという場合が考えられます。しかし地下の一階が自動車道路でございますが、地下の二階がコンコース、その一階と二階の間にさらに約二メートル余の空間がございまして、ここを共同溝にする。そこで埋設物は全部この共同溝に入れることにいたしたい。そういたしますと土かぶりがゼロでございますから、通常やっておりますように木の矢板をとりまして、そこへまた土を持ってきまして、埋設物をそっと納めまして、また自動車で自然転圧を長々とやりまして、簡易舗装の仮舗装をする、二年ほどたってからまた本舗装の工事をやる、こういうだらだらした工事でなくて、地下鉄の工事と同時に本舗装が完成する。将来永久に掘り返しがない。なおかつあわせまして共同溝ができる、こういう利便があるわけでございます。それにいたしましても、地下鉄の駅の現在のコンコースをちょん切るという問題がございます。また路面電車の運行を一時中止するということも問題である。あるいは施工方法の問題等々、いろいろの問題がございますので、目下関係各省を含めまして、交通営団当局と鋭意協議中でございます。この自動車道路が建設できるかいなかというその判定は、十月中にはいたしたい。いずれかを決定いたしまして、いやしくも地下鉄の工事を妨害するというような批判を受けることのないように努めたいと存じておるのであります。以上であります。

 

1961.09.29 : 昭和36年第3回定例会(第16号) 

 

 ここまでは、日比谷地下道の期待される効果について述べられている。比較案として高架で国鉄を跨ぐ案も考えられたが、「これは都市美上耐えられない」として地下道とされた。

 山田正男とオリンピック関係の道路といえば、首都高と日本橋との関係のように、山田正男は悪者になってきているのだが、実際には都市美を考慮して事業を進めているのである。

 

 あえて悪いことを書くと「銀座の都市美は考慮するけど、日本橋の都市美は考慮しなかった」ということなのかしらん?

 まあ、実際には日本橋については橋の下を日本橋川を干拓して首都高を通すのが本来の構想だったので「日本橋の上空」は守られるはずだったのだが。

 

 閑話休題。上記は東京都と営団地下鉄が協議中ということだったが、その後の協議結果が1年後の都議会で報告されている。

 


◯五十一番(竜年光君)

(略)

 なおこの都市計画が一たんきまっても、今までときどき耳にしていることは、いろんな抵抗や圧力があって、これが変更される。実情に応じて変更されることは一向差しつかえないともいえますけれども、ある部分においては変更され、ある部分では三年も五年も十年もがまんをしてきて、みすみすほかの方では有利に変更されているということが、やはり起きて参りますと、正直者がばかを見るというようなことで、都民はこういうことに対しては協力できなくなる。最近でも、二、三そういう事例があったそうでございますが、いずれにしてもこの都市計画と、実施という問題については、計画は計画だけだ、しかもそれが首都整備局の一部の人が知っているというだけの計画であっては、決してこれは都市計画が満足にいくはずがない。私が聞くところによりますと、区役所でもわからない。都庁の中でもだれに聞いてもわからない。ある部分のところにいかなければわからぬ。ところが外国の都市計画は三年でも五年でも一つの問題についてこじきに至るまでそれをよく周知させて、いざきまったら直ちにそこで実施をする。これが都市計画のいき方らしい。そこへいくと全然今の東京都は逆のことをやっているわけでございます。でははたして今かかえておる都市計画が実施できる計画か、今の都市計画をほんとうに実際に予算面から検討して実施するとするならば、一体何千億、何兆かかるかということをこの際私はできるならば発表してもらいたいと思うのです。できない計画ならばこの際はっきりどこに重点を置くかというふうに定めて、抜本的にこれを重点的にやる所だけの計画にしてもらいたい。そうしなければ、今の都市計画というものは、単なるこれは都民を泣かせるだけの計画に終わるということを私は申し上げたい。なおこれに関連してでございますが、最近新聞を通じて知ったのですが、三原橋と日比谷間の地下自動車道について、九月に河野建設大臣が現地を視察したときに、一体この都心部で四十尺も六十尺も掘り下げて地下鉄の下にしかも自動車道を通す、トラックも入らないような自動車道を通して、四十億も幾らもかける。そんなばかな話があるか、世界に類例をみない、おれの在職中は絶対そういう計画はやらせないということをいわれたそうでございますが、私は正確にそのことを聞いでおりませんので、そのときにいられた当面のおそらく首都整備局長かどなたかはっきりお聞きになったと思いますが、この際はっきり私どもの前でどういうことであったのかということを説明をしてもらいたい、私は要望いたします。東京都の都市計画というものは、これほどずさんなもので、いいかげんなものであるということであったのか、あるいは大臣のいうことが間違いであったのか、いずれにしてもはっきりしてもらいたいと思います。都市計画についてはいろいろございますけれども、かいつまんでその点だけにしておきます。

 

(略)

 

 

首都整備局長(山田正男君) 

 

(略)

 最後に、三原橋─日比谷間の地下の自動車道路計画の問題について、経緯のご質問があったわけでございます。実はこの問題につきましては、都心部の道路交通を解決いたしますために、地下鉄の二号線を建設いたします際に同時に地下の一階に自動車道路を作る必要がある、こういう立案をいたしまして、数年来営団当局と協議を進めて参ったわけでございますが、営団当局がどうしても同意をいたしませんために、この計画については、建設・運輸両省並びに首都圏整備委員会が問題を取り上げまして、この三者の間で都の案について検討が行なわれたのでございます。そうしてその三者の間で技術委員会を作っていろいろ検討いたしたわけでございますが、東京都の主張にもかかわりませず地下の一階に道路を作ることを否定いたしまして、地下鉄のレベルと同じ地下の三階に自動車専用道路全作ることが適当であろう、こういう決定がされたわけでございます。その決定の理由は、地下の一階に道路を作る費用と地下の三階に作る費用とは、それほど費用の差がないということが主たる理由のようであったわけでございます。そこで、この決定を受けまして、都といたしましては、はたしてその決定の通りであろうかどうか、費用がその程度でできるかどうかということを検討して参ったのであります。特に地下鉄二号線の建設を急ぎますので、営団当局と鋭意協議を進めて参ったのでございます。当初十八億余で地下の三階に自動車道路ができるということであったのでございますが、いよいよ実際に協議してみますと、あるときは二十五億円といい、あるときは三十六億円といい、最近に至っては五十億円もかかるというような申し出があったわけであります。これでは都といたしましては自動車道路を作る投資効率、投資に対する効果が少ない、こういうことで建設省当局に、一応そういう決定がされたけれども投資効率が少ないんだ、さてどうするか、こういう協議をいたしておる際に、たまたま河野建設大臣からのご注意がありました。そういう決定がかって行なわれたけれども、実際にそういう投資効率が低いならば、最初想定されたよりも工事費が非常に高いならば、もっと再検討するべきである、こういうご発言かあった次第であります。現在建設運輸両省及び首都圏整備委員会と東京都の間で検討いたしておる途中でございますが、おそらく三階に地下自動車道路を作ることは、投資効率の点からいって必ずしも採用すべき性質のものでないと考えております。しかし、この都心部の道路交通能力をこのままで放置しておくことは適当でないのでございまして、これにかわる対策を目下関係者間で協議中でございます。いずれ遠からず決定を見るものと存ずるのでございます。

 

1962.09.29 : 昭和37年第3回定例会(第14号) 

 

 東京都と営団地下鉄で、日比谷線の計画はそのまま、日比谷地下道は地下3階に決定したが、地下道の予算が想定よりもふくらんだため、事業を見直しせざるを得なくなり、地下3階案は放棄したということか。

 このあたり、山田正男氏の別の著書(対談)でも経緯が出てくる。

 


総反対くった都心の自動車専用トンネル

片岡(片岡護・読売新聞記者) こうして安井時代を経て、首都高速道路公団ができたのは昭和三十四年ですね。この首都高速のプランをつくったときに、私、さっき言った十年後の東京という取材であなたにいろいろ教えていただいたんですが、ほぼそうなっていますね。

山田 そうですな。

片岡 十年後にできなかったこともありますけどね。

山田 物価のズレぐらい遅れただけですね。全然できなかったというのは殆どないが、一つだけ、計画すら成立しなかったのがある。それは都心の東西方向の道路交通解決の最後の決め手と して桜田門と三原橋間に地下の自動車専用のトンネルをつくることです。地下鉄日比谷線はその
下を通してね。東京オリンピック大会の前にその計画を決めようと思ったところが、地下鉄営団の総反対をくった。総裁の鈴木清秀さん以下、副総裁の牛島辰弥さん、技師長の水谷当起さんとか、政官界の運輸族を総動員して反撃を受けましてね。それに対抗する都庁側は私一人だから、 四面楚歌、孤軍奮闘ですから、とても勝負になりません。向こうは大先輩が揃っている、カネはいくらでもある、国会のほうにも手を回す。こちらは孤軍奮闘で、徒手空拳だった

片岡 反対の理由はなんだったんですか。

 

山田 地下鉄銀座線の銀座駅のコンコースを自動車道でチョンぎることになるし、地下鉄日比谷線が下になるので、やりにくいから反対だというんだ。それで相互の友人が見るに見かねて仲裁に入りましてね。築地の某所で、仲裁人が入って会談をやったんですが、激論になりまして ね、私が机叩いて帰りかけたら、「まあ、まあ」と引き止められたりして。それで結局、営団がやる地下鉄の二号線がオリンピックに間に合わなくなるとかいいましてね。間に合わなくたってオリンピックに支障はないと私は思っていたけれども、連中にしてみれば、オリンピックに名をかりて造りたいもんだから。オリンピック関連事業と称するものの中に入ってるんですよ。きのうも新聞見ると、名古屋がオリンピックを招致するといって関連事業としていろんなものをたくさん盛りこんだ誇大広告をやっている。ああいう名を借りた便乗計画を流行させたハシリですね。それで結局、政治力に負けたといっては何ですが、私もあきらめて、いま数寄屋橋から日比谷公園までの片道だけの地下自動車道があるでしょう、あれだけで手を打ったんです。この計画だけは負けましたね。数に負けた。孤軍奮闘なんだもの、私は。もう少しこっちにもついてくれるものがいてもよさそうなもんだけど、ダメなんだなあ。

 

「明日は今日より豊かか 都市よどこへ行く」政策時報社・刊 山田正男・著 236~237頁

 

 東京都と営団地下鉄との協議は山田氏の孤軍奮闘で東京都が協議負けし、「数寄屋橋から日比谷公園までの片道だけの地下自動車道があるでしょう、あれだけで手を打ったんです」ということになった。

 

 なお、これによって日比谷地下道をぶつけることで力づくで撤去しようとしていた三原橋地下街が生き残ることになってしまった。

 

 山田は、後に自著において

 

 しかし今でも残念なのは、銀座界隈の最後の道路交通対策として計画した,祝田橋方面と三原橋方面とを結ぶ地下自動車道計画を地下鉄2号線(※引用者注:日比谷線のこと)の工事と同時に施工し、三原橋を撤去することによりついでに七不思議の一つを解消しようとしたが,オリンピック東京大会をひかえて工期の関係等もあって断念せざるを得なくなり、遂に中途半端な一方通行の地下道に終わってしまい,七不思議の一つも今だにその醜態をさらしていることである。

時の流れ・都市の流れ」都市研究所刊、山田正男著 25頁

 

 

と記し、「安井都政の七不思議」の一つである三原橋問題を地下道建設とあわせて解決しようとしたが達成できなかったことが分かる。

 

 これによって三原橋地下街は2014年まで生きながらえることとなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2018年6月 3日 (日)

東武東上線に乗って「関越トンネルバス停」に行ってみた

 読者諸兄におかれましては、「関越トンネル」というと

関越トンネルバス停 (7)

こんなイメージをお持ちであろう。

 ところが、駅すぱあとで検索しているときに、「関越トンネルバス停」なるものを見つけた。

関越トンネルバス停 (6)

 ライフバス?

 で、行ってきましたよ。関越トンネルバス停に。

関越トンネルバス停 (2)

関越トンネルバス停 (1)

関越トンネルバス停 (3)

 東武東上線鶴巣駅から出ている。

 で、「関越トンネル」はどこなのか?

関越トンネルバス停 (4)

 どうやらあの向こうにあるアンダーパスが「関越トンネル」のようだ。

関越トンネルバス停 (5)

 近くまで寄ってみた。関越トンネルに。

関越トンネルバス停 (11)

 関越道の側道から「関越トンネル」を見たところ。ハイウェイラジオの標識があると高速道路っぽい。

関越トンネルバス停 (9)

 右が関越自動車道、真ん中が側道、奥に「関越トンネル」。「高側道」のたかなさんhttps://twitter.com/takana_sokudoにも喜んでいただけそうな絵ヅラだ。

関越トンネルバス停 (10)

 「日本道路公団」の杭と、側道と関越道。

関越トンネルバス停 (8)

 もっと南側によると、側道と高速道路の本線がほとんど同じレベルだ。

 なぜこのような構造になったかというと、日本の道路建設における経費削減の試み(盛り土を低くする)だったようだ。

 建設省道路局長、事務次官等を歴任した高橋国一郎氏が下記のように語っている。

高橋 ええ、確かにそれは建設費は安くなるのだけれども、低盛土というのは日本では難しいですね。実を言いますと、建設省の道路局の局議でもそれは決まりまして、建設省の直轄の道路でもやることにな ったのです。 この「低盛土方式」を実現するために、まず一番大事なのは農林省の協力が得られることです。当時の田圃は今では想像できない程、不規則な形の小さな区画から成り立っていました。それらの田圃をきちんと四角の区画に区画整理し、しかも横断する水路は例えば500mに一本にするとか、横断する道路にしましても、少なくとも1000mに一本通すとかするようにしたいと考えて、それを農林省に働きかけたのです。農林省もかなり積極的に協力してくれたのですが、結局うまく行きませんでした。その最大の理由は田圃の区画整理には余りにも時間がかかりすぎて、それを待って高速道路を建設することはとてもできなかったからです。

津田 東北道で実現しませんでしたか。

高橋 今は関越道になっていますけれども、東京~川越道路というのが一般有料道路で着工したのですね。それだけができたのです。

津田 あそこでですか。

高橋 あれは田圃が余りなかったせいがありますね。畑でしたから「低盛土方式」でできたのです。外国は大体畑みたいなものでしょう。

津田 そうですね。

高橋 横断する水路も、道路もほとんどないですから。だからできたのだろうと思いますけれどもね。あれは玉田茂芳君が所長だったと思 います、私の親友でして、彼が一生懸命.........。

津田 事務所はどこの所長ですか。

高橋 どこだろう、川越かな。

武部 川越の所長は玉田さんじゃなかった。

高橋 とにかく、玉田君のところでやったのですね。

武部 玉田さんはそのときに東京支社の部長をしていらした。

高橋 それじゃあ、事務所長ではなかったのですか。

武部 玉田さんはもう事務所長ではなかった。

高橋 そうですか。それでは、東京支社として協力してくれたのかな。 あそこだけ、とにかく一応やってくれたのですね。一つには、やはり田圃が余りなかったということだと思いますよ。それはあったら難しいですよ、やはり、時間がかかり過ぎる。建設省の直轄工事でも、当時の国道一課長の蓑輪健二郎という人が、やはり局議で決まったものだから、全国の直轄国道の工事にも「低盛土方式」の号令をかけてやったけれども、やはり途中でギブアップした。と言うのは、時間がかかり過ぎてとても道路をつくるのに間に合わない。区画整理事業の完成を待っていたら、五年、10年もかかる、本当に時間がかかるのだ。 そのかわり、側道もちゃんとつくってやると言ったのですがね、みんな。それで成功していませんので、これは残念ながら当時のやったこ との失敗の一つですね。

「土木史研究におけるオーラルヒストリー手法の活用とその意義:高速道路に焦点をあてて」https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-14350279/

 そういう意味では、「日本の近代化土木遺産」に推薦したいような場所なわけだ。

 日本はコスト高だというけれども、フランスの高速道路なんかひたすら側道も盛り土も(ほとんど)なくてまっ平な平原をつっぱしっているだけだったからなあ。

フランスの高速道路

 (もちろん山岳部では橋やトンネルはありましたが)

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 関越トンネルバス停に行ってみたくなった方はこちらへどうぞ。

 徒歩圏に関越道の三芳PA(パサール三芳)もあって、裏から入れる入口もある。

関越道パサール三芳

 

※なお、ライフバスの写真は撮り忘れた模様。(乗るときに時間がなかった)

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2018年6月 2日 (土)

祝!外環道 三郷南~高谷開通!東京外環道って法令上の名称じゃないけどどうなってんの?

 外環の三郷南IC~高谷JCTが目出度く開通した。

 ところで、日本の法律上は東京外環自動車道という路線はない。放射状に東京から各地へ散らばっていく高速道路の一部分が環状になっていてそれの貼り合わせのような形になっている。

東京外環自動車道と法令上の道路名称jpg (3)

 高速自動車国道の路線を指定する政令http://elaws.e-gov.go.jp/search/elawsSearch/elaws_search/lsg0500/detail?lawId=332CO0000000275&openerCode=1によるとこうなっている。

 

東京外環自動車道と法令上の道路名称jpg (4)

※スペースの関係から中央自動車道長野線は割愛している。

 例えば、東京都練馬区(大泉JCT)から川口市(川口JCT)の間は、東関東自動車道と常磐自動車道と東北縦貫自動車道の3路線が政令上は重複しているが、高速自動車国道の整備計画は、東北縦貫自動車道にしか出ていない。

 当初の図で路線の色に濃淡をつけているのは、「政令上は路線指定されているが整備計画が出ていない区間」を薄い色で、「実際に整備計画が出ている区間」を濃い色で着色してみたもので私のオリジナルである。

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 ということで、よく見てみると、三郷南と三郷JCTの間は、濃い色が二種類塗ってある。これは間違いではない。順当にいくと当該区間は東関東自動車道として整備計画が出るべき区間である。

 ところが、その前に、三郷南ICは常磐自動車道の追加ICとして整備計画が出ているのである。

東京外環自動車道と法令上の道路名称jpg (1)

 上記は「道路」1997年2月号に掲載された「第30回国土開発幹線自動車道建設審議会について」(近藤清久 建設省高速自動車国道課長補佐・著)から抜粋したものである。

東京外環自動車道と法令上の道路名称jpg (2)

 また、上記は「平成12年版 日本道路公団(JH)年報」の常磐自動車道の項である。三郷南ICが常磐道のICとして位置づけられているのが分かるだろうか?

 だから何だ?と言われると困っちゃうのだが、「これマメな!」としか言いようがない。

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このリゲインのCMの高速道路がまさに外環の三郷JCT~三郷南ICで撮影したものらしい。

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 ところで、外環道を構成する各高速道路の起点で一つだけ異なるものがあるのにお気づきだろうか?

 それは、中央自動車道である。

 例えば、外環の大泉JCT以南が事業化された際に、関越自動車道は従来の起点が「東京都練馬区(練馬IC)」だったものを「三鷹市(中央JCT)」に変更し、重要な経過地に「杉並区、武蔵野市」を追加している。

東京外環自動車道と法令上の道路名称jpg (5)

「道路行政セミナー」2008年3月号「高速自動車国道の路線を指定する政令の一部を改正する政令について」http://www.hido.or.jp/14gyousei_backnumber/2007_data/seminar0803.pdfから抜粋。

 しかし、中央自動車道は、起点が「東京都杉並区(高井戸IC)」のままである。これはどうしたことか?

 実は、この理由についても上記「道路行政セミナー」2008年3月号「高速自動車国道の路線を指定する政令の一部を改正する政令について」http://www.hido.or.jp/14gyousei_backnumber/2007_data/seminar0803.pdfに記されている。

東京外環自動車道と法令上の道路名称jpg (6)

 外環道のうち、中央自動車道として事業化される区間は、中央JCT(三鷹市)~東名JCT(世田谷区)の間である。

 当該報文の※2に「中央自動車道の基本計画の区間については、同政令中の起点、終点、重要な経過地に変更はないため、この部分についての変更はありません。」と書いてある。

 ざっくり言うと「外環延伸部分の地名(三鷹市、世田谷区)は、従来の中央自動車道の起終点、経過地に既に含まれているので、今更高速自動車国道の路線を指定する政令の中央道部分を改正する必要はありませんよ」ということなのである。納得がいかないかもしれないが、地名を何回も書くものではなく、1回出てくれば必要十分ということらしい。

 「あれ?高井戸ICは杉並区だけど、世田谷区なんか中央道が通っていたっけ?」という方もいらっしゃるかもしれない。

 実は杉並区はちょっとしか通過していなくて、例えば烏山のシェルターがあるあたりが世田谷区である。「杉並のプロ市民のせいで~」などという方もいらっしゃるが、本当は世田谷区内の中央道反対運動が元祖である。

中央自動車道烏山シェルター

ここがまさに世田谷区である。

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 ところで、どうして「高速自動車国道の路線を指定する政令」等に「東京外環自動車道」は独立した路線として位置づけられていないのだろうか?

 「環状道路は、法律上高速道路にはなりえない」という仮説がある。

道路法第5条第1項第1号

(一般国道の意義及びその路線の指定)

第5条 第3条第2号の一般国道(以下「国道」という。)とは、高速自動車国道と併せて全国的な幹線道路網を構成し、かつ、次の各号のいずれかに該当する道路で、政令でその路線を指定したものをいう。

一 国土を縦断し、横断し、又は循環して、都道府県庁所在地(北海道の支庁所在地を含む。)その他政治上、経済上又は文化上特に重要な都市(以下「重要都市」という。)を連絡する道路

 

国土開発幹線自動車道建設法第1条

(目的)

第1条 この法律は、国土の普遍的開発をはかり、画期的な産業の立地振興及び国民生活領域の拡大を期するとともに、産業発展の不可欠の基盤たる全国的な高速自動車交通網を新たに形成させるため、国土を縦貫し、又は横断する高速幹線自動車道を開設し、及びこれと関連して新都市及び新農村の建設等を促進することを目的とする。

 上記の条文の違いを理由に、一般国道は「国土を縦断し、横断し、又は循環」することができるが、高速道路(国土開発幹線自動車道)は、「国土を縦貫し、又は横断する」だけで、循環することはできないのではないかという仮説である。

 そういわれてみると、圏央道も東海環状自動車道も京奈和自動車道も環状道路は一般国道の自動車専用道路である。

 それゆえに、「外環道は、環状道路としては高速道路たりえず、東北縦貫自動車道等の部分部分を継ぎ足して構成しているのではなかろうか??」というものである。

 「道路の日本史」http://www.chuko.co.jp/shinsho/2015/05/102321.html等の著作がある武部健一氏が、建設省道路局在籍時に実際に路線設定を担当した井上孝氏(建設事務次官から参議院議員、国土庁長官)にそこを問うている。

鈴木(伸) もう一つ、尾之内さん(※引用者注 尾之内由紀夫・元建設事務次官)が路線をパッパッパッと名前を言ったということは、それは独自のビジョンなのか、それともまた別に何か検討されておられたのか......。

井上 結局、御本人に聞くのが一番早いのですけれども、私がびっく りしたのは、七六○○キロのルートが決まったときにパッともう名前が 出てきているのですね。ほとんどは縦貫自動車道で決まっていましたけれども、例えば、磐越などというがそうではなかったかな。それから、常磐自動車道というもの、あれは茨城県からずっと行っているで しょう、あの辺は常磐とは言わないはずですよね。

津田 手前の方ですね。

井上 手前でしょう。あれを「常磐自動車道」と言ったと思うのですよ。はぁと思ってね。それから一番感心したのは東京外環、これは抜けているではないかというと、いやそうではない。あれはみんな終末が東京で、全部反時計回り、今そうなっているのですね。

津田 ええ。

武部 ただ、私はなぜそういうふうにしなければいけなかったかというのを逆に疑問に思っているのです。なぜ環状の一本の道路にしなかったかという。

井上 それはそうですね。ただ、あのころはともかく縦貫道というのが先行しているわけですよね。

武部 何か、国土開発幹線自動車道の中には「国土を横断し、縦断し」 とあるけれども、「循環し」と書いていないからだめだという、そういう話もあったようなことを聞いたのですが。

井上 環状線という物の考え方が、環状が一つの使命を持っているという考え方もあるよ。あるけれども、全部よそへ行くための道路だ、 ここからこっちへ行くためにはこう通ってこう行くとね。そういう意識が尾之内さんにあったのではないかね。

津田 先にそういう何かがあったからですか、後の苦肉の策ではなくて。

井上 ええ。

津田 今、東北道がこう来て川口でこっちまで回っていて、常磐道が三郷でこっち回りでこう、ここからここが高速道路になっているわけ ですね。ただ、そういう呼び方をしたのはここの二区間だけですか。

井上 まだそれしかできていなかったからね。だから、その辺で尾之内さんはいろいろ、毎日眺めていたのかな(笑い)。考え方があったのだなと思ったね。

津田 そうすればいいということだったのですか。

井上 ええ。

津田 でも、きちっと「外環」という格好で位置付けられていたら、 もっと早く整備されたのではないかと。

井上 そうそう。それが、要するにおくれているのは美濃部都知事のせいですよ。美濃部都知事がそういうことで説得できたかというと、 どうかなあという気がしますね。

 

「土木史研究におけるオーラルヒストリー手法の活用とその意義:高速道路に焦点をあてて」https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-14350279/

 井上氏は武部氏の問いには直接回答していないのだが、法律上のロジックにはめこんだのではなく、事業としての「意識」があったのではないかと述べている。

 掲載順序としては逆になるが、下記のようにも述べている。

津田 では、もう少しお伺いしたいのですが、七六○○キロの案の最大の功労者というのはやはり尾之内さんになるのでしょうか。

井上 尾之内さんね。私はびっくりしたのは、これはまだ話していないから、七六○○キロが決まったでしょう。決まったらその場だと思う けれども、「井上君、この道路は何々道」と、名前がみんな決まっているのですよ。もっとも大半は議員立法で決まっていましたけれどもね。決まっていなかったのが大分あるでしょう。これは何々道、何々道と、 それと今でもみんなが、ここにも出ている東京外環、あれが入っていないでしょう。

津田 入っていないのですね。

井上 あれは全部端末を環状線の中に入れ込む。

津田 ああ、当時からもうそういう。

井上 当時からそう。

津田 確かに、その方が効率的に.........。

井上 それを尾之内さんがズバッと言うのだから。しかも、私は時計回りだと思ったら、山根君(※引用者注 山根孟・元建設省道路局長)に、「それは違いますよ、反時計回りですよ」 と言われた。

津田 ああ、その当時からもうそういうふうに。

井上 あれは何だ、常磐道は三郷......。

津田 東北道が川口.........。

井上 それで中央道の方へ行くのですね。

津田 はい。

井上 それで外郭環状道路が全部、全部そうなっているのですってね、 今でも。

津田 なっていますね。

井上 ねえ、名前が出てこないな、外環がだからところどころに、ここは東北道とか、ここは常磐道とか書いてあるのですか、あれは。

津田 法律名はそうなりますが、道路名は「東京外環自動車道」です。 その当時、外環は一本で高速道路でという案はなかったのでしょうか。

井上 いやいや、あったのですよ。外郭環状道路と我々は調査も取って一生懸命やって、美濃部、絶対にやらないと。要するに、橋の理論というのがあったでしょう、あのころ。

津田 ええ、一人でも.........。

井上 一人でも反対すればやらないという、あれでもう.........。

津田 ちょうど美濃部さんのときだったのですか。

井上 ええ、都市計画決定ができなかったわけですよ。何とその隣の埼玉県は社会党知事ですよ、あの畑さんというのは。畑さんは道路が 好きで、どんどん、どんどん道路を認定して、「ああ、やってください、 やってください」と陳情に来てね。それで外環は埼玉県部分だけはできているでしょう。全部そういうのに関連している。

 

「土木史研究におけるオーラルヒストリー手法の活用とその意義:高速道路に焦点をあてて」https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-14350279/

 先に紹介したところと違い、同じ本のなかで、外環道を一本にしなかった理由が異なっている。先に紹介した方では「苦肉の策ではなく当初からそういう思想があった」と。後に紹介した方では、「美濃部都知事対策で一本にしなかった」というものである。

 確かに美濃部都知事は外環道の事業遂行にあたっては建設省と対立したことがあるのは間違いない。しかし時系列的におかしい。

 文中「7600キロ」というのは、国土開発幹線自動車道建設法(国土開発縦貫自動車道建設法の一部を改正する法律)http://www.houko.com/00/01/S41/107.HTMによって1966(昭和41)年7月に定められたものである。

昭和41年高速道路網図

 ところが、美濃部亮吉氏が東京都知事に就任したのは1967(昭和42)年4月である。

 ちなみに井上氏は「都市計画決定ができなかったわけですよ」とも述べているが、国交省東京外かく環状国道事務所のウェブサイトhttp://www.ktr.mlit.go.jp/gaikan/gaiyo/keii.htmlによると、都内の都市計画決定は1966(昭和41)年7月になされている。その頃の都知事は保守の東龍太郎氏である。いずれにせよ、美濃部都知事が外環道の路線の在り方に影響を及ぼした可能性は極めて低いと言わざるを得ない。

 伊東孝教授をはじめ、土木脳の方は「革新自治体が反対したから」と言えば納得したのかもしれないが、きちんと裏取りをしていれば真実に迫れたかもしれないと思うと大変残念である。井上氏も尾之内氏も武部氏も鬼籍に入られてしまった。もう真実には迫れないかもしれない。せめてデマ発生源にならないよう関係者の方にはフォローをお願いしたいところだ。

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 ということでせっかく科研費を使ったオーラルヒストリーがこの辺ではあてにならないので国立公文書館で探してみるとこのような想定問答があった。まさに7600キロの高速道路のネットワークを決めた1966(昭和41)年の法律改正に伴う想定問答集である。

想定問答

 ここにまさにピンズドのQ&Aがあるではないか。

東京外環自動車道と法令上の道路名称jpg (7)

問「東京外かく環状は別表にはないが、どうするか」

答 東京都のような大都市においては、幹線自動車道を都心部に乗り入れることは交通処理上好ましくないので、別途首都高速道路等により都心部への連絡を保つようにしているが、これらの交通の流れを円滑にするには幹線自動車道の起点を環状線で形成するのがもっとも合理的である。 したがって、東京を起点とする幹線自動車についての法案の別表の扱いは起点を東京都と表示し概念上、各路線が東京外かく環状線を重複して起点としてい るというような取扱いとしたものである。

 分かったようでよく分からないのだが、いずれにせよ、美濃部都知事とは関係ない時代に、建設省では外環を独自の路線とせずに「東京を起点とする幹線自動車についての法案の別表の扱いは起点を東京都と表示し概念上、各路線が東京外かく環状線を重複して起点としているというような取扱いとしたもの」とすることが道路の機能面からも合理的と整理されていたということのようだ。

 なお、外環と縦貫道の関係については、当初環状6号線のなかだけであった首都高速道路の延伸計画と、当初は渋谷区が起点であった東名高速道路及び中央高速道路との調整が東京都の山田正男氏と建設省の尾之内由紀夫氏との間で行われたと山田氏が語っており、このあたりも絡めたいのだが、あまりに冗長にすぎると誰も読んでくれなくなるのでとりあえずこの辺で第一部終了としておこう。

昭和36年の首都高速道路構想(未成道が山盛り)

 1962(昭和37)年段階での外環の計画が分かる図面。

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