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2018年8月に作成された記事

2018年8月16日 (木)

前回の東京オリンピックの際の首都高速道路公団職員の声

首都高速と東京オリンピック (3)

 これは、前回の東京オリンピックを直後に控え、首都高速道路の開通を告知するポスターである。

 首都高速道路公団は、急ピッチで道路建設を進めていた。

首都高速と東京オリンピック (7)

 ※当初は、都心環状線や2号目黒線もオリンピックに間に合わせるはず(黄色で着色)だったが間に合わなかった。

 ※江戸橋~両国間や羽田空港周辺のルートが現在と異なる

 当然関係職員のご苦労も相当なものだったと思われる。

 「首都高速道路公団20年史」には下記のような回顧コラムが掲載されている。

首都高速と東京オリンピック (1)

 「職員全員が寝食を忘れ火の玉のように一丸となって」 「多忙のなかにも和気あいあいとして業務に邁進できた」とある。

 しかし、これは相当時間が経過した後に公団の正史となった部分である。

 リアルタイムの職員の声が、当時の公団の広報誌「首都高速」に掲載されているのでピックアップしてみる。

首都高速と東京オリンピック (4)

 「オリンピックまでに完成させよ---この命令は私を、蟻地獄に追い込まれた哀れな虫の心境にさせた。」

首都高速と東京オリンピック (6)

 「仕事がどんどん重なって身動きができなくなり、せっぱ詰まった気持から大声で喧嘩を始めることも度々であった。」「今、その当時を振りかえってみて、楽しかった思い出は一つもなく、ただただ、苦しかった思いでだけが、かたく頭に残っているに過ぎない。」

 

 これ、担当者がブーたれているのではなく、役職者(現場責任者)の声であり、なおかつ当時の公団本社のチェックが入った結果でもこんな感じだった。

 

 発注者の役職者がこうなら、実際に現場で働く職人さんも大変なご苦労であったようだ。

首都高速と東京オリンピック (5)

 汐留駐車場というのは、首都高速1号線の建設にあわせて首都高速道路公団によって作られた有料自動車駐車場である。

 「2晩徹夜しましてね、3日目にふらふらになっているところを、機械の下敷きになって亡くなったんです。」「停電されたら前の日から徹夜でやってるんですから、左官屋に逃げられちゃう(笑)」「お金はいらないから家に帰してくれ」

 

 最後に、「首都高速」に載った詩?で本稿を〆ることとしよう。

首都高速と東京オリンピック (2)

 

【関連記事】

「首都高をオリンピックに間に合わせるためには『空中作戦だ』」のアンビリバボーを検証してみる

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2018/04/post-f51a.html

首都高と河川利用と景観

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/12/post-0a1e.html

首都高初期のパンフ「首都高速道路公団のあらまし」

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-2f3b.html

首都高初期のパンフ「伸びゆく首都高速道路」

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-8798.html

東京新聞福岡範行記者「首都高は『高速』にあらず?→『自動車専用道路』です」を検証する。

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2018/02/post-f8a8.html

首都高速の工事中に首相官邸から東条英機が作った防空壕が出てきた

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2018/01/post-7af7.html

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2018年8月15日 (水)

国道1号が「酷道」と呼ばれた時代

 整備状態が悪い国道を「酷道」、県道を「険道」と呼ぶことについては、かなり定着していると思われる。

 私も気になって調べてみたところ、「国道=酷道」と題するエッセイが1955(昭和30)年9月5日付毎日新聞に掲載されていた。「県道=険道」も文中に出てくる。

国道1号が酷道と呼ばれた時代 (2)

 今では、酷道といえば、ヨサクこと国道439号だったりするわけだが、1955年現在では東海道たる国道1号がロクに舗装もなくすれ違いも困難な酷道扱いだったわけだ。

 どんな状態か気になったところ、たまたま収集した資料に1954(昭和29)年の国道1号の写真が掲載されていたのでお目にかけよう。

国道1号が酷道と呼ばれた時代 (5)

国道1号が酷道と呼ばれた時代 (6)

国道1号が酷道と呼ばれた時代 (7)

国道1号が酷道と呼ばれた時代 (8)

国道1号が酷道と呼ばれた時代 (9)

 

 横浜附近はともかく、富士川や水口附近では、江戸時代の参勤交代のままなんじゃないかという幅員である。

 出典元はこちら。

国道1号が酷道と呼ばれた時代 (4)

 国道1号がすれ違いもできない区間があり、ほとんどが砂利道のころに、東京-神戸間に片側2車線の高速道路を作ろうという計画書に添付された現状の国道1号の写真というわけだ。

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 この後も、主要国道が「酷道」扱いされている記事は出てくる。

 下記は、「38豪雪」の様を「白い酷道8号線」と伝える1963(昭和38)年2月5日付読売新聞である。

国道1号が酷道と呼ばれた時代 (3)

 昭和40年代になっても主要1桁国道が酷道扱いされている。下記は、脂肪事故が多発する国道4号を「酷道死号線」と呼ぶ1969(昭和44)年8月16日付毎日新聞である。

国道1号が酷道と呼ばれた時代 (1)

 ネットスラングどころか、ついこの前までひとケタ国道を走るのも命がけだったのだ。

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地下鉄の色(ラインカラー)はどうやって決まったのか( #ねるねちけい 便乗)

 NHKの「ねるねちけいONLINE!」という番組で「東京の地下鉄のラインカラーがどうやって決まったのか」が話題として取り上げられたそうな。(番組は見ていません。)

 これについては、土木学会誌1988年6月号に三好迪男氏が「地下鉄のラインカラー」と題したそのものずばりの報文を執筆しているので紹介したい。

 

東京地下鉄のラインカラー(色) (2)

 

 この報文によると、「色彩的なバランスを考えた」ということであり、NHKの「ねるねちけいONLINE!」でいうような、「古い路線ははっきりした色」「新しい路線はぼんやりした色」という説明は違和感があるな。

 

東京地下鉄のラインカラー(色) (1)

 

 番組では、色の名前しか言及されなかったが(この表-1と同じ呼称でしたな。)、色を決めたときには、例えば銀座線を「オレンジライン」という路線のニックネームとしても使おうとしたということである。

 実は、この色を使ったニックネームというのはそれなりに便利で、先日渋谷駅で外国人旅行者に地下鉄の乗り換えを説明する際に、路線図を指さしながら「このパープルラインに乗って永田町ステーションでゴールドラインに乗り換えたらええねん」と説明すると、私の稚拙な英語でもバシッと通じたのである。

 

 なお、この色彩の決定には財団法人日本色彩研究所の児玉晃氏の協力によるものということだ。

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