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2018年9月 9日 (日)

首都高に高松宮が「日本橋はどうにかならないものか」と申し入れし、オリンピック後に地元からの要望で日本橋川の上に首都高のルートを変更していた

 相変わらず、なんでも詰め込もうとして頭の悪い題名になってしまったことだよ。

 

 首都高の日本橋附近の話はいろいろ記事にしてきたが、また小ネタを追加。

――建設前に、地元で議論とか反対とかなかったのですか。

 

「全然、記憶にないね。当時、私の父も含めて日本橋の旦那衆は、高速道路なんて見たことなかったんだ。私のじいさんなんて『なんだ、高速道路はもっと(背が)高いのかと思ったよ。随分低いんだな』と。そんな笑い話もあるくらい、よく知らなかった。むしろ便利になるからいいことだと。手塚治虫さんが描いた未来都市のイメージで、『羽田空港から日本橋まで15分で着いちゃうらしいぞ』『それは、すごいね』なんて気楽な話をしていた。『国策として大事な時に、お上のいうことに反対するなんてみっともねえじゃないか』という思いもあった。そんな時代だよ」

 

「日本橋に首都高いらない」 地元重鎮が地下化に異議 「栄太楼総本舗」6代目、細田安兵衛さんに聞く

https://style.nikkei.com/article/DGXMZO20830810W7A900C1000000

 地元の「重鎮」がそうおっしゃっている。

首都高研究家清水草一の日本橋関連の嘘

 自称「首都高研究家」の清水草一氏も「当時それを批判する声はなかった」とおっしゃっている。(まあ嘘なんだけど)

 「栄太楼総本舗」6代目、細田安兵衛氏の記憶に反して、日本橋の地元が首都高に反対していた記録は残されている。

清水草一が知らない首都高反対の動き3

1960(昭和35)年4月13日付読売新聞

首都高速の日本橋川に架かる高架橋のデザイン等  (10)

 「首都高速1・4号線の開通に当って」西畑正倫(元・首都高速道路公団理事)「高速道路と自動車」1964(昭和39)年9月号27頁から引用。

 『国策として大事な時に、お上のいうことに反対するなんてみっともねえ』ことを当時の日本橋地区の方は実際にはやっていたのである。当然の権利だからそれを批判するつもりはないが。

 この辺までは、今までのブログに書いてきたことのおさらい。これからが新規のネタである。

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 斯様に今では「オリンピックのための協力もあるし、高速道路のこともよく分からなかったし、日本橋の上に首都高をかけることの影響の度合いもわからないなか、反対はなかった」的な印象が今の世間を覆っているのだが、宮様が日本橋の上に首都高をかけることについて懸念を伝えていたとはあまり知られていないだろう。

首都高と日本橋 (3)

 これは首都高速道路公団の広報誌「首都高速」に掲載された対談「仁丹の広告塔も見ゆ橋も見ゆ」からの抜粋で、「神崎」は当時の首都高速道路公団理事長神崎丈二氏である。

 なんと高松宮が東京都を通して首都高に「日本橋はどうにかならないものか」という「残念というか複雑な気持」を伝えていたというのである。

 

首都高と日本橋 (5)

 この対談では、上記のように日本橋ゆかりの文化人が口々に「残念な気持」を表している。それが首都高の広報誌に載るというのが当時の社会の認知度を図るモノサシだったのではないか。

 

 これに対して首都高の神崎理事長は、首都高なりに審美についても検討したのだがなかなか。。。といったことを返している。

首都高と日本橋 (4)

 

首都高と日本橋 (7)

 東洋経済の一井純氏は「そこに景観や都市計画という視点はなかった」と言い切っているが、「当時なりに審美は考えたんだけどなかなか上手くいかなかったよね」というのが正確なところだろう。

 

 まあ地元の重鎮とかに取材するのはいいのだろうけど、50年以上昔の話でもあるし、裏取りは必須じゃないですかねということで、ライターさん達は今後ご留意いただければ宜しいのではないかと。広報誌「首都高速」は都立中央図書館に行けば閲覧できますしね。

 

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 ところで、「日本橋川の上に首都高を架けたのは、オリンピックを前にして急ぐためにやむを得ず施工したもので、地元も後から残念に思っている」というのが通説っぽくなっているのだが、「オリンピック後に、地元の要望を受けて日本橋川の上に架けるように首都高の計画を変更している」というと意外に思われる方も多いのではないか?

 首都高が日本橋川の上に架かっている区間については、江戸橋ジャンクション以西は東京オリンピックに間に合わせて建設した部分だが、江戸橋ジャンクション以東箱崎までの区間は東京オリンピック後に建設された部分だ。

 よく見るとまっすぐ両国ジャンクションまで進めばよかろうものをわざわざ箱崎に迂回していることが分かるだろう。

 実はここは人形町、浜町を両国まで直進するルートが当初の計画だったのである。

首都高と日本橋 (1)

 これも首都高速道路公団の広報誌「首都高速」に掲載されていた記事からの引用であるが、図中破線の「6号廃止路線」が人形町、浜町を通る当初のルートで、「変更決定路線」が日本橋川の上に架かる現在のルートである。

 その変更理由がこちら。

首都高と日本橋 (2)

 「大きな犠牲を極力回避するよう地元関係権利者の人達より叫ばれ」「日本橋川、箱崎川等にルートを変更した。」とある。

 オリンピック後に、実際に首都高の高架が川の上に架かるとどうなるか分かったうえで、地元の要望に基づいて日本橋川の上にルートを変更しているのである。

 

 ということでこの辺りもライター諸兄には心の片隅に留めておいていただきたく。

 

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 日本橋ついでに、詩人の谷川俊太郎氏が日本橋の上に首都高が架かったことについて詩を書いている。私には、図書館から資料をコピーする能力はあっても、芸術を解釈する能力がなくて分からないので、これがどういう気持ちを歌ったものなのか解説いただけますと幸甚です。

 

首都高と日本橋 (6)

 下から5行目の「老人は京都に向かって歩き始めた」は、最後の行も考えると京橋の誤植ではないかと思われる。(東海道を歩くのであれば京都でよいのではないかとのご指摘をいただいたので修正します。ご指摘に感謝します。)

 「造ったのは汽車会社ですよ」というのは、下記の広告にもあるように、SL等を製造していた「汽車製造株式會社(通称「汽車会社」)」が、首都高速道路の日本橋上空の橋の建設を担当していたのである。

首都高と日本橋 (8)

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コメント

>>下から5行目の「老人は京都に向かって歩き始めた」は、最後の行も考えると京橋の誤植ではないかと思われる。

日本橋から(東海道を)歩き始めたのなら行先は京都で合ってるんじゃないですかね。

投稿: | 2018年9月11日 (火) 09時18分

はじめまして。
谷川俊太郎の誌は、首都高によって日本橋がガード下のごとく矮小化されてしまった、という風刺ですね。
また文中の「キリンのいる所」は日本橋の麒麟像のことと思われます。
谷川氏も首都高に残念な気持ちを抱いていたのではと思います。

投稿: K | 2018年9月11日 (火) 18時32分

執筆者は全共闘世代の方ですか?

投稿: | 2018年9月15日 (土) 01時05分

>日本橋から(東海道を)歩き始めたのなら行先は京都で合ってるんじゃないですかね。

なるほどご指摘のとおりです。ありがとうございます。

投稿: 革洋同 | 2018年11月 6日 (火) 22時44分

>谷川俊太郎の誌は、首都高によって日本橋がガード下のごとく矮小化されてしまった、という風刺ですね。

コメントありがとうございます。
私には美的センスが皆無なもので。。。

投稿: 革洋同 | 2018年11月 6日 (火) 22時46分

>執筆者は全共闘世代の方ですか?

おっさんではありますが、そこまでおっさんではありません。
いわゆる「共産趣味」世代ですね。

投稿: 革洋同 | 2018年11月 6日 (火) 22時47分

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