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2018年10月21日 (日)

名橋「日本橋」保存会副会長、細田安兵衛氏の「(首都高が日本橋の上に架かることへの反対は)全然、記憶にないね。」というのは本当か?-首都高日本橋附近の地下化関連(6)


 ――建設前に、地元で議論とか反対とかなかったのですか。

 

 「全然、記憶にないね。当時、私の父も含めて日本橋の旦那衆は、高速道路なんて見たことなかったんだ。私のじいさんなんて『なんだ、高速道路はもっと(背が)高いのかと思ったよ。随分低いんだな』と。そんな笑い話もあるくらい、よく知らなかった。むしろ便利になるからいいことだと。手塚治虫さんが描いた未来都市のイメージで、『羽田空港から日本橋まで15分で着いちゃうらしいぞ』『それは、すごいね』なんて気楽な話をしていた。『国策として大事な時に、お上のいうことに反対するなんてみっともねえじゃないか』という思いもあった。そんな時代だよ」

 

NIKKEI STYLE 2020年から見える未来

「日本橋に首都高いらない」 地元重鎮が地下化に異議

「栄太楼総本舗」6代目、細田安兵衛さんに聞く

https://style.nikkei.com/article/DGXMZO20830810W7A900C1000000

(オリパラ編集長 高橋圭介)

 

 

 首都高速道路の日本橋附近の地下化において、ネット上では大変多くRT等されている記事である。

 『お上のいうことに反対するなんてみっともねえじゃないか』あたりが、なんとなく「いかにも江戸っ子らしい」イメージとも合致する。

 上記の日経新聞だけでなく、朝日新聞の天声人語も追随する。

 

 


▼橋のすぐそばに本店を構える百貨店「三越」(現三越伊勢丹)の元社長、中村胤夫(たねお)さん(81)は入社時がちょうど 首都高の建設中だった。「高速道は戦後復興の象徴でした。心を躍らせて工事を見守ったものです」。建設反対の声を聞くことはなかったという

 

(天声人語)日本橋を歩く

2018(平成30)年6月9日 朝日新聞朝刊

 細田安兵衛氏は、名橋「日本橋」保存会副会長で、中村胤夫氏は、名橋「日本橋」保存会会長である。両名は、日本橋の首都高速道路撤去(地下化)にあたっては各所に働きかけ多くの発言を行っている。

 

 細田安兵衛氏は、同様にこんな発言もしている。

 

 


(太田美代)

ところで、オリンピックの負の置き土産が、日本橋の上に架ってしまった高速道路。日本の原点のような名橋が、大きく美観を損なってしまったわけですが、これに関して地元で大きな反対運動が起きるというようなことなかったのですか?

(細田)

なかった。なぜって、高速道路なんて誰も見たことがないんだから、反対もなにもない。それどころか、「高速が架かると、羽田から15分で日本橋に着いちゃうんだってさ」「それはすごいな」「かっこいいぞ、未来都市だな」なんて、気楽な話をしてた。それに、「お国がやることに反対したら、みっともない」というのが当時の空気だった。 もちろん工事が進む様子は毎日見ていたけど、遠くの方からだんだんと高架橋が延びてきて、右からも左からも延びてきて、最後は一晩で日本橋の上に架けちゃった。 朝、起きたら、日本橋の上に高速道路が架っているんで、びっくりしたよ。「なんだこりゃ」「ひどいねえ」なんて。

 

大旦那のちょっといい話【細田安兵衛(榮太樓總本鋪相談役、東都のれん会会長) 昭和39年(1964)第18回夏季オリンピック 東京オリンピックの思い出】

東都のれん会

http://www.norenkai.net/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%83%E3%82%AF%E3%81%AE%E6%80%9D%E3%81%84%E5%87%BA/

 

 

 

 上記から、「反対運動は全然ない」というのは日経新聞の高橋圭介記者が書きすぎたり聞き間違ったのではなく、複数のメディアで細田安兵衛氏が語っているということで一定のウラはとれたのではないかと思う。

 

ところで、明橋「日本橋」保存会が1992(平成4)年3月に発行した「日本橋架橋80周年記念誌」に掲載された対談「21世紀の日本橋を考える」において、細田安兵衛氏はこのように語っている。

日本橋は首都高に反対していた (1)

 

日本橋は首都高に反対していた (2)

 

 


 細田■日本橋のほうは橋の上に高速道路を掛けるときもいま一つ反対の声が弱かったし、金融機関の進出にも何ら異議を唱えなかったし、そのあたりの意識からちょっと違うんですね。

 まあ日本橋の旦那衆は大まかというか、人がよすぎるというか(笑)、仲良く遊ぶことは好きだが、この点は反省部分がありますね。

 

「日本橋架橋80周年記念誌」 明橋「日本橋」保存会・刊

対談「21世紀の日本橋を考える」103~104頁

 

 

 

 

 反対してるじゃん。「今一つ反対の声が弱かったのは反省部分」だって自分で言ってるじゃん。

 

 整理すると

 

 

 

■2017年の細田安兵衛氏

 

 

 

「(反対は)全然、記憶にないね」「国策として大事な時に、お上のいうことに反対するなんてみっともねえじゃないか」

 

 

 

■1992年の細田安兵衛氏

 

 

 

「いま一つ反対の声が弱かった」「そのあたりの意識から(銀座と日本橋は)ちょっと違う」「この点は反省部分があります」

 

 

 

 

 25年以上経つと言うことが随分違ってきたようだ。いや本当に「記憶」がなくなっているのかもしれないのだが。

 

 他に当時の発言はないか探してみた。

 

 


 今から三十余年前、東京は、初めてオリンピックを開く熱気に包まれていた。敗戦国が五輪開催国になる。街のあちこちにつち音が響いた。

 その興奮の中で、あわれ、お江戸日本橋は空をふさがれる。1963年12月、橋の上に首都高速都心環状線が開通した。

 「地元には反対する人もあったんですが、『オリンピック』が錦の御旗になりまして。『近代的でなかなかいいじゃないか』といった声も出ましたが、あたしは、あんなふたをかぶせたようなものになるとは思いませんでした」

 六八年に発足した「名橋日本橋保存会」の副会長で、日本橋六之部町会連合会長も務める成川孝行さん(六七)は言う。

 

日本橋に残る東京五輪の傷跡(すとりーとスケッチ)

1998(平成20)年2月8日 朝日新聞朝刊

 

 朝日新聞でも2018年の「天声人語」と1998年の記事では言っていることが違いますねえ。。

 

 

 

 細田安兵衛氏の現在のポストである名橋「日本橋」保存会副会長(当時)の成川孝行氏は「地元に反対する人もあった」と語っている。

 この後から小泉政権において、日本橋附近の首都高の撤去・地下化が表立って取り上げられるようになる。

 そういった動きのなかで、「日本橋の住民は反対したけど弱かったし、それは反省すべきだった」ということでは何等かの不都合が生じ、「江戸っ子の心意気から全く反対しなかった」という方が都合がよいということになったのだろうか?

 細田安兵衛氏は、他の書籍で「日本橋のことは自分が一番詳しい」というような趣旨のことをおっしゃっていたが、ご自分のおっしゃっていることが時代とともに変わった理由も説明してほしいものだ。

 

 

 


八木長本店 八木長兵衛会長によると、首都高建設に当地元は大反対だったが、オリンピックのためという雰囲気に気持ちを押し殺したという。

 

「再生「首都高地下化」で空と川が… 景観改善で東京どう変わる?」あさチャン! けさのボード

2017(平成29)年7月24日放送

https://datazoo.jp/n/%E5%86%8D%E7%94%9F%E3%80%8C%E9%A6%96%E9%83%BD%E9%AB%98%E5%9C%B0%E4%B8%8B%E5%8C%96%E3%80%8D%E3%81%A7%E7%A9%BA%E3%81%A8%E5%B7%9D%E3%81%8C%E2%80%A6+%E6%99%AF%E8%A6%B3%E6%94%B9%E5%96%84%E3%81%A7%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%81%A9%E3%81%86%E5%A4%89%E3%82%8F%E3%82%8B%EF%BC%9F/13389551

 

 

 もっともこのように近年でも「地元は大反対だった」という証言もあるようだ。

 

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 参考までに補足すると当時の報道では、日本橋上への架橋について地元が反対している旨の記事が掲載されている。

清水草一が知らない首都高反対の動き3

 

1960(昭和35)年4月13日付読売新聞

 

 首都高速道路公団においても「地元ではこの橋の下を隧道で通るように強く要望された」と記している。

首都高速の日本橋川に架かる高架橋のデザイン等  (10)

 「首都高速1・4号線の開通に当って」西畑正倫(元・首都高速道路公団理事)「高速道路と自動車」1964(昭和39)年9月号27頁から引用。

 

 この辺の経緯は、かつて「首都高に高松宮が「日本橋はどうにかならないものか」と申し入れし、オリンピック後に地元からの要望で日本橋川の上に首都高のルートを変更していた」

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2018/09/post-0d26.html

もあわせてお読みいただきたい。

 江戸橋ジャンクション以東の日本橋川上空の区間は、もともと地上を通るはずだったのを、「オリンピック後に」「地元の要望を受けて」日本橋川の上を塞ぐようにルート変更していること等も紹介している。この辺には「江戸っ子」はいなかったのだろうか?

首都高と日本橋 (2)

 

 ところで、1962(昭和37)年5月29日付の朝日新聞に「東京の橋」と題して下記のような記事が載っている。

日本橋は首都高に反対していた (3)

 日本橋近辺の江戸情緒の喪失の例として「榮太樓アメ」の高層ビルと首都高速が同列に並べられているのだ。

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 しかし1963年、翌年に開催される東京オリンピックのため、日本橋の上に覆いかぶさるように首都高速道路が建設されたのだ。江戸の旦那衆は「お上」に従順な気性であり、高速道路に未来都市的な感覚や憧れもあり、反対する住民はいなかった。しかし、一晩で設置された日本橋の橋梁を見て、日本橋周辺の景観が変わってしまったことに呆然としたという。

(中略)

 細田氏は、日本橋の将来像について、次のように話す。
「大切なのは粋がらないことだ。粋なまちをつくろうとしたら、逆に野暮なまちになる、というのが日本橋の旦那衆の考え方。野暮にならないまちを目指し、江戸の伝統を活かした『大人のまち』をつくりたい。」

 

「地域経済活性化とファミリービジネス 事例集」17-18頁

経済産業省地域経済産業グループ地域経済産業政策課

 

 

 「大切なのは粋がらないことだ。粋なまちをつくろうとしたら、逆に野暮なまちになる」とはカッコイイことをおっしゃいますねえ。

 「江戸の旦那衆の気性から反対する住民はいなかった」というのは粋がりすぎて野暮になってませんかねえ。

 「銀座と違って日本橋の旦那衆は反対の声が弱かった。今は反省して頑張っている。」でいいじゃないですか。

 それに「江戸の旦那衆」で大くくりにしすぎちゃうと、ご自分でおっしゃっていた「銀座と日本橋の旦那衆の危機感の違い」が分からなくなっちゃいませんかねえ。

 

 

※(余談)「旦那衆=住民」ではない(旦那衆以外の住民はアウトオブ眼中なのか)と思うのだが、その辺の問題意識は私には手が負えないので、どなたか。。。

 

※(余談その2)

 

 資料探索中に大正天皇即位の礼における日本橋奉祝門の写真を目にすることができた。なかなか江戸情緒にあふれている??

 

 これの様式等お分かりの方はご教示いただけますと幸いです。

 

日本橋奉祝門

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