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2020年5月に作成された記事

2020年5月20日 (水)

昭和22年に田中清一が作成した初期縦貫道案~日本の戦後高速道路ネットワークの推移(4)~

 読者の方は、そろそろ7600km構想に行くんじゃないかなーなんて思われるかもしれないが、実は、更に時間を遡るのである。

 第3回は、田中清一が1949(昭和24)年に昭和天皇に縦貫道の「田中プラン」を説明した話を書いたが、そこに至る前段としてはこんな話がある。

田中清一の縦貫道構想(最初期) (12)

「中央自動車道建設をめぐる政治力学ー田中清一プランを中心としてー」栗田直樹 愛知学院大学論叢第39巻第1号10~11頁から

引用文献の(6)は、「東久邇宮日記 日本激動期の記録」東久邇宮稔彦・著 徳間書店・刊 232頁

 

 田中清一は、1945(昭和20)年の敗戦直後から各方面に働きかけをしていたのである。

 ということで、今回お見せする図面は、田中清一が東久邇宮に説明してから昭和天皇に説明するまでのちょうど間になる、1947(昭和22)年のものである。

田中清一の縦貫道構想(最初期) (5)

(以下、青焼き図面は、富士製作所において保管されている資料を閲覧、撮影させていただいたもの)

 ※左上の「国土」の字が2回出てきたりするのは、複数枚に分けて撮影した写真を「image composer」でひっつけたときに上手くいかなかったものである。

田中清一の縦貫道構想(最初期) (13)

 「国土開発自動車道予定路線及び接続主要道路又は一般自動車道」という題名。

 「縦貫自動車道」ではない。

田中清一の縦貫道構想(最初期) (4)

 「昭和22年3月23日著作」とある。

 ざくっと見ると、今まで見てきた縦貫道の路線図のなかで一番まともというか現実の高速道路に近いというか既存の鉄道路線に近いというか。。。といった感想をお持ちになったのではなかろうか?

 田中清一は、5万分の1地形図を丹念に調べ、実際に現地を踏破しながら縦貫道の案を練り上げていったというが、初期はそんな余裕もなく、既存の鉄道路線が記載された地図を見ながら高速道路網を落としていったためではないだろうか?

 その後、「背骨と肋骨」といった思想が優先されていったのではないだろうか?(地図の題名にも「縦貫」と入っていないし。)

 また、例によって各地方毎に見ていこう。

田中清一の縦貫道構想(最初期) (7)  

 北海道は、道東へ向かう路線が、 勇払から日高山脈を越えることになっている。日勝峠と日高横断道の中間くらいだろうか?旧国鉄富内線よりも更に南か?

 長万部~札幌間は、最初からぶれずに中山峠経由の最短路だ。

 それ以外は基本的に国鉄の路線をなぞっているような感じである。

田中清一の縦貫道構想(最初期) (8)  

 北東北地区も各地への「肋骨」路線の曲がり方が国鉄っぽい。 また、津軽半島と下北半島の両方へ支線が伸びている。

田中清一の縦貫道構想(最初期) (6)  

 新潟へは、関越自動車道ルートと磐越自動車道ルートの二本が引かれている。 

 最も注目すべき点は、東北道が「西東京(調布あたりか?)」から、関越道の更に西側を北上し、熊谷、舘林あたりを巻いたループを描きながら宇都宮に至る点である。

田中清一の縦貫道構想(最初期) (3)  

 身延から静岡へ抜ける肋骨線は、以降の絵では直進しているが、この線はあきらかに国鉄身延線に影響されているであろう。田中清一氏は、戦前に沼津に富士製作所を移設して以来、静岡東部には特に地理感があると思われるが、それでもこの頃は直進していない(いわんや、東北、北海道をや)というところだろうか。 

 紀伊半島に三本の支線が伸びているが、当時はまだ国鉄の紀勢本線は東線、西線に分断されており、国鉄ですら一周していない頃である。林業開発等に期待を寄せていたのだろうか?

田中清一の縦貫道構想(最初期) (2)  

 中国地区は、山陽道がないくらいで、今のネットワークに近い。 

 注目すべきは四国である。今まで、高松が四国自動車道の本線から離れた支線扱いという冷遇ぶりを説明してきたが、最初期は、徳島が起点ではなく、高松起点(本州とは 、玉野ー高松で連絡)となっているのである。

 それが、何等かの理由で、少なくとも1949(昭和24)年以降は、「徳島が起点で高松は支線」という扱いになっている。本四間の連絡を神戸ー鳴門ルートに一本化した故なのかもしれない。

田中清一の縦貫道構想(最初期) (1)  

 九州も、東九州自動車道が無いことを除けば、今の高速道路ネットワークに近い。 

 興味深いのは、長崎への路線が、西海橋経由となっているところである。ただし、実際に西海橋が着工したのは、1952(昭和27)年、竣工したのは1955(昭和30)年である。 

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 全国図はこれくらいにして、中央道の古いバージョンの青焼き図面も保管されていたので紹介したい。 

田中清一の縦貫道構想(最初期) (9)  

 「国土開発中央自動車道案略図」である。

田中清一の縦貫道構想(最初期) (10)  

 八王子ー横浜間に国鉄横浜線に沿った支線状のものが見られるが、他には支線のような記載がない。 

 先にあげた1947(昭和22)年の「国土開発自動車道予定路線及び接続主要道路又は一般自動車道」よりも古い図面である可能性がある。 

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田中清一の縦貫道構想(最初期) (14)  

 また、「TOKYO-KOBE SUPER HIGHWAY ROUTE」と題された青焼き図面も保存されている。

 栗田氏の論文にあるGHQへ説明したものだろうか?

 この図面で注目すべき点は、東名高速道路ルートが「SEPARATELY PLANNED ROUTE」とされていることだ。

 田中清一氏をはじめとする「縦貫道派」は、「東海道派」と激しく対立した(当時の敗戦国日本の体力では二本同時に施工することは困難とみられていたことも背景にある)のだが、この図面が作成された頃は、東海道への高速道路の建設も「SEPARATELY PLANNED ROUTE」扱いとなっていたということである。

 それが、どこかの段階で対立する敵対案に変わっていったわけだ。

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田中清一の縦貫道構想(最初期) (11)  

 前の図面は「国土開発中央自動車道案略図」であったが、この冊子は「資源開発中央道の建設に就て」である。

 後に縦貫道派の中でも「あまり資源開発いうな」という点で問題になったのであるが、それは別途。

 この冊子の「新日本の建設と世界の楽園」というキャッチが気になった方もいらっしゃるかもしれない。

 次回はその辺に逸れてみよう。

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2020年5月19日 (火)

昭和24年に田中清一が昭和天皇に説明した縦貫道計画のルート案~日本の戦後高速道路ネットワークの推移(3)~

 第1回、第2回と「日本縦貫高速自動車道協会」による、縦貫道のネットワーク図をご紹介してきたが、今度はそれを遡る昭和20年代の田中清一氏によるネットワーク図だ。

田中清一の縦貫自動車道初期案 (1)

 このポスターは、田中清一氏が興した富士製作所(沼津市)に現在も保存されているものである。(※特別に見学の許可をいただいた方からお声かけいただいて、ご一緒させていただき、閲覧等させていただきました。)

 ポスター右上に田中清一氏の写真が載っている。参議院議員との肩書がついている。田中氏が参議院全国区に自民党から立候補し、当選したのは、1959(昭和34)年であるが、このルート自体は、田中氏のご子息が設立した「財団法人 田中研究所」作成のパンフレット「大いなる先見」に1949(昭和24)年に昭和天皇に「田中プラン」を説明したとするネットワーク図をその後も使い続けてきた(字面だけはアップデートした)ものと推測される。

田中清一の縦貫自動車道案の説明、講演 (3)  

田中清一の縦貫自動車道案の説明、講演 (2)  

写真は、富士製作所所蔵のもの 

説明文は 、「大いなる先見」財団法人田中研究所・刊 2頁から引用

 

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 そんな能書きはいいから早く細かい路線図を見せろと言われそうなので、どんどんアップしていく。

田中清一の縦貫自動車道初期案 (6)

 北海道については、本線の縦貫道部分は、其の後の「縦貫道協会」のものよりも、むしろ現在に近い。

 支線も数は多いが、第2回に紹介した支線よりもまともな(工事がしやすそうな)ルートのように見える。

 国鉄名羽線マニアにとっては、「高速道路にも名羽線が未成線として計画された時期があったのか」と感銘を受けるかも。それだけ炭鉱へのアクセス改善が重要視されていたということなのだろうが。追分、富良野周辺の支線網がやたら細かいのも炭鉱へのアクセスを考慮したのだろうか?

 北海道の福島まで、青森の三厩までの支線が計画されているのは、その間をフェリーで結ぶ構想とセットなのだろうか?

田中清一の縦貫自動車道初期案 (2)  

 東北地区は、三厩への支線と岩船への支線が他の構想には見かけないくらいか? 

 新潟へは、関越道と同じようなルートであるが、逆にこれは後の縦貫道協会の案では消えている。技術的に困難だったのだろう。 

田中清一の縦貫自動車道初期案 (3)  

 この絵で、特徴的なのは、飯田~松本~軽井沢~高崎~宇都宮と結ぶ本線、そして、関ケ原~敦賀~和田山の本線である。縦貫道法に取り込まれていない本線である。前者は 旧・中山道の高規格化という位置づけだろうか?後者は、関ケ原から列島を「横断」したり、若狭湾沿いを走ったりと「縦貫道」の定義からはずれているので、支線としてはともかく、本線扱いは不可解である。

 前者は、実際には、中央道、上信越道、北関東道等で具体化されているが、松本~軽井沢間だけは高速道路としてはネットワークされていない。三才山トンネル有料道路が結んでいる。奇しくも、武部健一氏が「道路の日本史」で追加を提唱している区間である。 

 このほかに注目すべき路線は、松本~富山間である。安房峠手前から国道471号沿いに抜けていくのだろうか?

 

田中清一の縦貫自動車道初期案 (4)

 ここで目をひくのは、中国道である。大阪から一旦和田山まで北上してから津山へ折り返している。大阪よりも下関から敦賀を直結することを優先した思想なのかもしれない。 

 四国については、神戸~徳島が本線扱いだ。当該区間は、第1回で紹介した1956(昭和31)年の縦貫道協会の案では、支線扱いで、第2回で紹介した1957(昭和32)年の案では、支線からも落とされている。 

 また、法律で定められた四国自動車道は、徳島~高知~松山というV字型ルートだが、当初は途中高松を経由し、宇和島へ 降りるM字型ルートだったことが分かる。これが「縦貫道」として「純化」していく中で、高松と宇和島が本線から落ちたということだろうか?

田中清一の縦貫自動車道初期案 (5)

 九州では、福岡~佐世保がわざわざ脊振山地を本線として「縦貫」している点が注目点か。縦貫道法はなぜか長崎ではなく佐世保を重視している。 

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田中清一の縦貫自動車道初期案 (8)

「国土建設一円会本部」の字が見えるだろうか?

 

 これは、敗戦国で金が無かった当時の日本で、縦貫道等の田中清一が提案する施策を実現するために、国民に毎日一人一円の貯金を呼び掛けたものである。

 田中清一の縦貫自動車道初期案 (7)

1956(昭和31)年3月29日付朝日新聞から  

 この記事によると、この一円貯金の運動には、「片山哲、藤山愛一郎、杉道助、神野金之助、清瀬一郎、河合弥八、松方三郎、郷古潔、大野伴睦、石井光二郎、下村海南、鶴見祐輔、三浦伊八郎の諸氏ら政界、財界の名士が就任」とある。 

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田中清一の縦貫自動車道案の説明、講演 (1)  

 田中清一が全国を講演して自分のプランの実現を訴えていた様子が写真に残されている。 

※「大いなる先見」財団法人田中研究所・刊 23頁から引用

 背景の路線図は、このバージョンである。

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 せっかく路線図のバージョン違いを貼るのだから路線計画の趣旨もバージョン違いを貼っておく。「縦貫道協会」によるものではなく、田中清一個人名で書いた報文である。

 田中清一の縦貫自動車道初期案 (9)

「縦貫道路による国土の改造」田中清一・著 「資源」1956年1月号 34頁から引用 

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2020年5月18日 (月)

日本縦貫高速自動車道協会の1957年のルート案~日本の戦後高速道路ネットワークの推移(2)~

 前回の第1回では、国土開発縦貫自動車道のネットワークとその思想について紹介したところである。

 

 で、その推進民間団体として「日本縦貫高速自動車道協会」も紹介したのだが、その縦貫道協会については、別のネットワーク案もある。

 第1回で紹介したのは、1956(昭和31)年段階の案だったが、その1年後の1957(昭和32)年に発行された「第三の道 縦貫自動車道 早わかり」に掲載された「高速自動車道網計画図」を紹介したい。

日本縦貫高速自動車道協会案2 (1)

 本線となる「国土開発縦貫自動車道」については大きな変更はないと思われるが、支線扱いとなる「縦貫道に連絡する高速自動車道」については、随分なバージョン違いとなっている。

 前回同様、背骨となる縦貫道と肋骨となる支線の路線図とあわせて紹介したい。 

日本縦貫高速自動車道

 小学三年生1957(昭和32)年9月号から(田中清一氏が監修している)  

 

○中央自動車道 

日本縦貫高速自動車道協会案2 (2)  

 支線が「高田ー長野ー磐田線」「富山ー福井ー米原線」「瀬田ー松坂線」「大阪ー新宮線」である。 

 大阪ー新宮線は国鉄紀勢本線沿いかと思いきや、紀伊半島を縦貫している徹底ぶりである。 

  

○東北自動車道 

日本縦貫高速自動車道協会案2 (1)  

 支線が「能代ー毛馬内(けまない)-八戸線」「秋田ー盛岡ー小本線」「本庄ー平泉ー高田線」「鶴岡ー仙台ー石巻線」「新潟ー宇都宮ー水戸線」である。 

 北から順番に東西に線を引いてみました感があるのだが。。。毛馬内は現在の十和田インターチェンジである。 

 特筆すべきは、「新潟ー宇都宮ー水戸線」であろうか。前回の案では新潟へは磐越自動車道ルートだったが、このルートでは、宇都宮から国道121号から400号のルートに沿っているような感じだ。 

 また、本線である東北自動車道の起点(中央道との分岐点)は、調布、府中あたりということなのだろうか? 

  

○北海道自動車道 

日本縦貫高速自動車道協会案2 (3)  

 支線は「上幌内ー大雪山線」「旭川ー美幌線」「阿寒岳ー網走線」「釧路ー根室線」である。 

 上幌内ってここだ。 

 

 トムラウシや石狩岳の間を縫っていくのだろうか?開拓路線としてもかなりの難易度であろう。 

 また、本線の北海道自動車道も中山峠を越えており、「縦貫道」思想に沿ってのルートと思われる。阿寒湖のあたりは国道241号~240号あたりのルートだろうか? 

  

○中国自動車道 

日本縦貫高速自動車道協会案2 (4)

 支線は「舞鶴ー姫路線」「鳥取ー勝田線」「津山ー岡山線」「米子ー新見線」「庄原ー尾道線」「大田ー十日市線」「大田ー広島線」「石見ー六日市線」「萩ー山口ー防府線」である。 

 他の地区に比べて随分密度が濃い感じだ。 それだけ中国道のルートが需要地から遠いということなのだろうか。

 

○四国自動車道

日本縦貫高速自動車道協会案2 (5)  

 支線は「富岡ー高知線」「西條ー九万ー宿毛線」だが、九万ー宿毛なんて酷道ヨサクだし、「富岡(現・阿南市)-高知線」は酷道195号だ。 

 まあ、酷道のような山間部を開拓するのが縦貫道といえばその思想を体現しているのだろうが。 

 それに比べて高松の冷遇ぶりよ。 

  

○九州自動車道 

日本縦貫高速自動車道協会案2 (6)  

 支線は、「佐世保ー久留米ー別府線」「宇土ー砥用ー延岡線」「川内ー加治木ー宮崎線」である。 

 川内ー加治木は、そんな端っこで肋骨線にこだわらなくてもと思うのだが、宮崎だけでは片手落ちということなのだろうか? 

 九州道の本線は、現在は八代から球磨川沿いに人吉・えびの方面へ向かっているところ、この絵では、阿蘇のすそ野から五木村附近へ直行し、人吉・えびの方面へ向かっている


 まず計画の内容を申し上げますと、「国土開発縦貫自動車道建設法」に基いて、北海道の稚内から九州の鹿児島までの幹線高速自動車国道を、概ね日本列島の中央に近い、背稜山脈の南斜面を縦貫するように一本建設し、それに肋骨状連結路線を整備して、表裏日本両方の重要都市、重要地域を結ぼうというのです。

 

「第三の道 縦貫自動車道 早わかり」日本縦貫高速自動車道協会・刊 19頁から引用

 

 

 皆様、肋骨ぷりはお楽しみいただけただろうか?

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2020年5月17日 (日)

1957年国土開発縦貫自動車道建設法のルート思想とは? ~日本の戦後高速道路ネットワークの推移(1)~

 これからシリーズもので、日本の戦後高速道路ネットワークの推移を追っていきたいと思う。

 ざくっと流れを追うとこんな感じだ。

●1957(昭和32)年 「国土開発縦貫自動車道建設法」の制定

 民間の田中清一等を中心にした「田中プラン」を元に議員立法した3,000キロの国土を縦貫する自動車道

●1966(昭和41)年 「国土開発幹線自動車道建設法」の制定

 新たに7,600kmのネットワーク

●1969(昭和44)年 「新全国総合開発計画(いわゆる「新全総」)

 7,600kmに9,000kmを追加する構想

●1987(昭和62)年 「第4次全国総合開発計画(いわゆる「四全総」)

 14,000kmの「高規格幹線道路」

●1987(昭和62)年 「国土開発幹線自動車道建設法」の改正

 14,000kmのうち、11,520kmを高速自動車国道に指定

 

(参考)

https://www.mlit.go.jp/road/ir/ir-council/hw_arikata/pdf9/3.pdf

 これらを数回に分けて、どのような思想でどのような路線を形成していったかを整理していきたい。 

国土を拓く縦貫道路  

「国土をひらく縦貫道路」小松崎茂 「こども家の光」1957(昭和32)年11月号

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(第1回)「国土開発縦貫自動車道建設法」の制定 

  

 早速だが、縦貫道法のネットワークは下記のとおりである。 

国土開発縦貫自動車道  

 後に北陸自動車道を追加。東名高速道路は「東海道幹線自動車国道建設法」として、別の法律で1960(昭和35)年に制定。 

 この縦貫道案を推進するために、「日本縦貫高速自動車道協会」が設立されていた。 

 ここでは、「縦貫道協会」が1956(昭和31)年に作成した「国土開発縦貫自動車道建設計画概要(改訂版)」を基にその思想等を紹介したい。

 国土開発縦貫自動車道ネットワーク (2)

国土開発縦貫自動車道ネットワーク (1)  

 長くなるが、その思想を理解するために、「縦貫道法案」を国会に提案した際の「提案要旨」を抜粋する。

国土開発縦貫自動車道ネットワーク (8)  

 

国土開発縦貫自動車道ネットワーク (9)  

国土開発縦貫自動車道ネットワーク (10)

 縦貫道法というと、中央道が南アルプスをぶち抜くルートが有名だが、そういったルートをとった趣旨が赤枠部分に書かれている。「外に失った領土を、内に求める」ために「未開後進の山岳高原地帯をも縦横断する」ことで「人の住むに値する領域」を拡大するためである。 

 この冊子には「農家の二男、三男対策」という言葉は出てこないが、戦前は農地を相続できない「農家の二男、三男」を海外植民地に送り込んできたのだが、敗戦によりそれができなくなったため、縦貫自動車道によって新たに「二男、三男」を送り込むべき土地を切り拓くという趣旨も含まれている。

国土開発縦貫自動車道ネットワーク (11)  

 そして「国民の完全雇用を期するための就労対策事業」である。 

 「ナチスドイツのアウトバーンが失業対策事業として行われた」と世界史の授業で習った人も多いかもしれないが、それは「ナチスのプロパガンダ」に過ぎないものとして、現在では経済効果としては否定する説も多い。 

(例)https://www.express-highway.or.jp/info/document/rpt2017001.pdf の17~18頁

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 また、その趣旨の1つとしての「国土の普遍的開発の促進」についても抜粋しておく。

国土開発縦貫自動車道ネットワーク (12)  

国土開発縦貫自動車道ネットワーク (13)  

国土開発縦貫自動車道ネットワーク (14)  

 「この国土の普遍的開発を促進することにより、各地方における適地産業の立地促進、新都市及び新農村の建設をはかり、国民生活の領域の拡大を期することができる」「国土開発縦貫自動車道が国土開発を冠する所以である」とある。 

 既存の幹線の飽和対策ではなく、あくまでも地方の新都市及び新農村の建設を図るための「開発道路」なのである。 なので東海道を外して敢えて山間部を通しているのだ。

国土開発縦貫自動車道ネットワーク (15)  

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 ここまでが「思想」の部分。これから「それを具体化するためのルートの考え方」をご紹介。 

国土開発縦貫自動車道ネットワーク (3)  

 「中国自動車道が、なぜ山陽道筋ではなく、山間部を通るルートが先行したか」については②の「表日本及び裏日本の両方えの連絡を容易にし、できるだけ巾広い勢力圏をもたせ」というあたりを体現しているのだろうか。 

 また、③の「地形の許す限り、未開発後進の資源地帯、山地高原地帯をも貫通させ、高速自動車交通による国土開発の徹底をはかる」というのが先に述べた「国土開発を冠する所以」の具体化である。 

国土開発縦貫自動車道ネットワーク (4)  

 ④の「農耕地の潰廃を極力避け」「村落及び都市の中心を通すことを避け」というのは敗戦後10年しか経っておらず、食料供給にも不安があった時期を反映している。都市も戦災でせっかく焼け残ったのに、せっかく復興したのにそこを立ち退くのかという観点があるのではないか。(※首都高が河川や運河等の公有地の上を通すことを選択したのもこういった戦後の背景を考慮したものでないか。) 

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 これらの方針に沿って、縦貫道の予定路線が決まっている。

 また、下記のように、「支線となるべき主要な一般道路又は一般自動車道の路線」についても提言されている。

国土開発縦貫自動車道ネットワーク (7)  

 これらをあわせてご紹介したい。 

○中央自動車道 

国土開発縦貫自動車道ネットワーク (1)  

中央自動車道  

 現在なお建設中である三遠南信自動車道や中部横断自動車道の前身というような路線が支線としてあげられている点が興味深い。 

  

○東北自動車道 

国土開発縦貫自動車道ネットワーク (2)  

東北自動車道  

 新潟への支線が磐越自動車道ルートである。当時の技術では現在の関越自動車道で関越トンネルをぶち抜くのは困難だったことのあらわれであろうか? 

 

○北海道自動車道 

国土開発縦貫自動車道ネットワーク (3)  

北海道自動車道  

 「洞爺湖の西北方を通り最短距離で札幌市附近に至る」あたりが現在と大きく異なる。また、支線の表にはかいていないが地図には載っている浦河への支線は日高山脈を横断する難易度の極めて高いルートだ。北海道は本線支線含めて「安易な態度は棄てゝ思い切って自然を克服する」にもほどがあるチャレンジ精神極まるルートどりだ。 

  

○中国自動車道 

国土開発縦貫自動車道ネットワーク (4)  

中国自動車道と四国自動車道  

 「中央部を行くことにより(山陽山陰の)両地域を勢力圏におさめる」「両地域の開発に同時に資するため多少地形上の不利を忍んで敢えて本路線を選んだ」を読めば、なぜ中国道が真ん中を通っているのかがお分かりであろう。 

  

○四国自動車道 

国土開発縦貫自動車道ネットワーク (5)  

 現在、ほぼその形を残していないのが四国自動車道である。比較路線の那賀川~物部川ルートも含めて「ヨサク」並みの酷道ルートだ。確かに四国の未開発の山地開発にはよいかもしれないが。 

 また、高松ではなく徳島が起点となっている背景には、「神戸~洲本~徳島」の支線による本四連絡が念頭にあったことが推測される。 

  

○九州自動車道 

国土開発縦貫自動車道ネットワーク (6)  

九州自動車道  

 九州道のルートの特色は「直方市附近を経て南下し、鳥栖市と日田市の中間」を通って「門司~鹿児島の最短路線」をとるところである。九州最大の都市である福岡市を経由するつもりはないのだ。 

 その後の建設省の資料では、犬鳴峠を経由する案等があったようだ。もし犬鳴峠を九州自動車道が通過していれば、怪談や肝試しも減ったかもしれない。 

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 以上が、「国土開発縦貫自動車道建設計画概要(改訂版)」による高速道路ネットワークの概要である。 

  

  同書では、この他に「自動車道」とは何か?、「高速道路」と何が違うのか?についても触れている。

国土開発縦貫自動車道ネットワーク (16)  

国土開発縦貫自動車道ネットワーク (17)  

 ネット上でも、少なくない方が「自動車道と高速道路の違い」について定義づけようとチャレンジしていると思われるが、一応これが「公式回答?」である。 

 背景を解説するなら、当時の道路法では「自動車専用道路」といった規定はなかった。道路法第48条の2が追加されたのは1959(昭和34)年である。 

  「縦貫道協会」では、建設省が所管する道路法では自動車専用の道路はできないので、道路法に基づく「高速道路」では自動車以外を排除できない。運輸省と建設省が共管する道路運送法に基づく「自動車道」として整備すべきだとしているのだ。

 素人からすると、「自動車道と高速道路の違いは、役所の管轄争い」とでもすべきところなのだろうか?? 

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 このようなルートの「縦貫道」は技術的な困難を伴うこと等から、「国土開発幹線自動車道建設法」等でルート変更されていく。最も有名なのが、中央自動車道の諏訪回りへの変更であるが、建設省道路局長・事務次官等を歴任した高橋国一郎氏は、高速道路調査室長在職時を振りかえってこう語っている。 

国土開発縦貫自動車道ネットワーク (18)  

土木史研究におけるオーラルヒストリー手法の活用とその意義 : 高速道路に焦点をあてて 」高橋国一郎編101頁から引用。 

 九州道や東北道を山から都市に下ろすのに苦労したが、中国道は無理だったと。仙台宮城インターチェンジが仙台市内から離れた旧宮城町にあるのもその名残で、本当は仙台の東を通したかったと。現在の仙台東部道路、仙台北部道路が高橋氏が想定した変更ルートなどだろうか? 

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 こんな感じで手持の高速道路資料の虫干しをやっていく予定です。 

 宜しくお付き合いのほどを。 

 

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安比奈、是政、河辺 西武鉄道の砂利事業の往時を社内報から掘り上げてみる

 元来、2.5次元とか擬人化には興味がないのだが、故あって西武鉄道ネタにはまって堤康次郎所有の安比奈砂利採取場の図面等をアップしたりしていると、そういう方面のお姐さま方からリアクションをいただくことが増えた。

 また「乱脈の帝都電鉄界」などという見出しだけでご飯がすすむ層もいらっしゃることに気づかされた。

乱脈の帝都電鉄界  

(1936(昭和11)年10月15日付東京朝日新聞) 

 そういったなか、安比奈砂利採取場の実態も明らかでない部分があるようにお見受けしたので、西武の社内報から砂利事業の関係部分をコピペしてみた。 

 まずは、西武社内報1961(昭和36)年4月15日号4面から安比奈砂利採取場の紹介記事を

事業場めぐり(13)

復興社初の砂利事業

素人ばかりで創業の苦心

安比奈砂利

 当採取所は川越市の北を流れる入間川流域を砿区として、砂利・砕石などを生産しています。

位置

 西武新宿線南大塚駅より西へ約四粁、安比奈線の終端、入間川の河岸にあります。

沿革

 当所は復興社が最初に建設した砂利採取工場で、創設のいきさつは次のとおりです。

 入間川の砂利採取はその歴史も古く、大正十二年ごろ埼玉県直営事業として始まり、一時は県費の大きな財源であったといわれ、現在の引込線は大正十五年ごろ敷設されたものと聞いています。旧西武鉄道東村山、高田馬場間建設工事が開始されるや道床砂利を出荷 するため、引込線を河川敷内に敷いたが、当時のこととて昼夜兼行で人力によって採取し、その大半をまかなったと土地の古老たちが語っています。
当所の創立は昭和二十一年で、同年建設に着手し、二十二年生産に入りました。当時現場の幹部は工場建設も砂利採取も経験皆無で発足したときのいろいろな失敗や貴重な教訓は、堤会長の著書「人を生かす事業」にも書いてあるとおりです。

 発足当初は木造船二隻で始めましたが、この船はもともと砂船を解体し組み立てた老朽船で、作業の不馴れもあり修理に要する時間が非常に多く、暴風、水害等の場合は船が分解するのではないかと心配するほどで、従って生産能力も上らないため、改造に改造を加えて努力してまいりました。しかし、大きな成果がないままついに昭和二十五年、会長の大英断により日本最初の鉄鋼大型の利採取船を建造し、始めて面目を一新した次第です。

 一方貨車輸送の面でも、当初は蒸気機関車によって南大塚駅までの引き上げをしていましたが、けん引重量が少ないため、途中で貨車を切り離したり、入換中に作業不能になって川越機関庫まで給水に戻るという笑話のようなこともありました。しかし、それも鉄鋼船建造と同時に引込線電化が完成し、二十五年下期より本格的な生産に入り、二十七、八年の最盛期には採取船も五隻となり、月産三万トンの関東第一の工場に発展しました。

 その間西武デパートの第一・二期工用砂利の大半を納入したほか、池袋線、新宿線の道床砂利も毎日一こ列車ずつ運行し、一日の貨車入換が五回におよぶほどに事業も伸びたのですが、三十二年ごろから砿区の荒廃、縮少により、逐次採取船を他事業所に移勘しました。

現況

 三十五年四月開設以来十四年間、主として砂利の生産だけであったところへ反発式四型砕石機を新設して、砕石工場を併設するように変貌いたしました。 新たに「バックフオー」で切り込みを採取の上、水洗選別機により砂利、砂、砕石原料を分類するようになり、砂利、砕石の工場として再出発した次第です。

 初めは砕石の生産出荷も不順でしたが、近ごろは埼玉県西南部でも住宅団地を始め大工場の建設が活発で、砂利、砕石の需要が目立って多くなり、また、大宮、浦和方面へも道路用砕石を自動車によって発送しています。

 今月に入ってから最高一日一千トンを出荷する日もありますが、さらに、近く埼玉県朝霞にオリンピック村が建設される見込みなのでますます発展を予想される状態です。

 当所としては、この間狭山市鵜木に三万坪の公園建設に伴なう砂利採取を始め、安比奈工場付近に約六千坪の砿区をすでに確保し、大型可搬式砂利採取機によって増産をはかるつもりです。

将来への抱負

 今後私どもは当社最初の開設採取所という誇りをもって、ますます増産に努力し、月産二万五千トンの目標を達成の上、古い歴史のある引込線その他の各設備を十分に活用し、過去の最盛期に近い成績を早急に上げるよう、従業員一同、一致協力して邁進する所存です。

(小山記)

 

 ついで、西武社内報1960(昭和35)年10月15日号4面から是政砂利採取場の紹介記事を

事業場めぐり(10)

砂利部門の草分け

 深堀採取船で増産進む

 是政砂利

砂利部門草分けの地

 中央線武蔵境駅で西武多摩川線に乗り換え終点の是政駅で下りると、東方に二十五万平方メートルの砿区 (今は大部分水面)と事務所、倉庫等の諸備をもつ是政砂利採取所が広がっています。

 戦後荒廃した国土の復興に寄与しようとの考えから始まった復興社の砂利部門が最初に木造採取船一隻で生産を開始したのがこの採取所で、言わば当社砂利部門草分けの地であり、砿区も採取船も逐次増加され、採取の方法も幾度か改変されはしても、常に東京周辺に於ける砂利採取の重要事業所と して「良質の多摩川産砂利」の名のもとに都内各地に輸送された総量は実に数百万トンに及び、建物に道路に、国土の復興に大いに役立って来たと自負している。

類のない深掘採取船

 年々需要に追われ、増産につぐ 増産は普通型砂利採取船二隻による砂利の採取で、七年間に十五万平方メートルの砿区もついに人造池に化してしまった。

 普通ならばこゝで砂利採取の事業は終止符を打つところであるがボーリングの結果、深さ十メートルまではまだ砂利層であることが確認されたので、何等かの方法によって全部が採取できないかということが問題となり、加藤事業部長の発案で関係者が種々検討を加えた結果、他に例をみない深掘採取船が建造されて昭和二十九年四月に進水した。

 これは偏えに、日頃からの会長殿の指導にもとずく遊休施設の活用が形を変えたものであって、当社技術陣の研究と現場の努力で更に磨き上げられた他に類をみないすばらしい着想であると考える。

 この採取船の就役によって、一旦は水面と化した十万平方メートルの砿区も再び生産の場を得て、従業員も安心して増産に励むことができ今日に至っている。この間において、砂利を採取しつゝ競艇場の建設に従事したことも忘れられない思い出である。

設備と作業の概要

 当初は採取船によって八分砂利だけを採取していたのが、新小金井の旧関東石産(現当社小金井砕石工場)に原料玉石を供給するようになり、年をおってその生産量は増加し砿区の拡大ならびに製品の多種需要に伴なって、陸上選別機を逐次設置し、貨車積の合理化を計って今日に及んでいる。元来本採取所は堤防の外側の平地から採取しているので、洪水等による流入砂利は望むべくもなく、採取すれば池となってしまうので前記の深堀船が考案されたものである

 深掘船は船体の主モーターは五十馬力で、バケットコンベアーによって深度十メートルまで掘さくし、受船と操舟機により水上曳航して着船場につく。ここからガソリンカ ーによって原料ビンに投入され、水洗装置で各種のサイズに選別さ れ、玉石は直接貨車に積み込まれ小金井砕石工場へ送って砕石の原料となる。砂利、砂は先年までは貨車輸送であったものが、近内自動車輸送の発達によりほとんどがダンブトラックに依存するようになった。現在では西武運輸の出張所が是政にあって大半を都内所の需要地に送っている。

 この是政本工場に隣接している常久採取所では、採取船ならびにドラグラインにより直接にダンプトラックへ原料を積み込み、更に下流の調布採取所では、ドラグラインにより採掘したものを同様の方法によって、是政の三基ある水 洗機に輸送し前記同様製品化している。

 以上の設備を次に列記すれば

 水洗機 三基

 深堀採取船 三隻

 普通採取船 二隻

 ドラグライン 二基

 受船 十隻

 操舟機 四台

 ダンプカー 二十台

 ショベルローダー 一台

という大きな規模の綜合工場を形成している。

結び

 是政及び常久の献区は前記のように砂利をほとんどとりつくしたので、先に中河原の埋立によって紙上に紹介されたとおり、国土計画の手によって埋立工事が開始され、是政二万五千平方メートル、常久三万平方メートルがすでに埋立を完了して引き続き継続中で、毎日延千五百台のダンプトラックが、多摩川対岸の稲城山より山の切取土砂を運んで埋め立てているので、近い将来実に三千万平方メートルに達する一大住宅地が造成されるであろう。今更ながらわれわれの従事している事業の東大なことと、会長殿の事業の偉大さに驚くとともに、この作業に従事できることに誇りをもつものである。

 いままた第三水洗機の完成を見この事業の更に飛躍する時期にあたり、月産四万トンを六万トンに引き上げ御期待に答えるよう最善の努力をつくしたい。 (細田記)

 

 最後に、西武社内報1961(昭和36)年8月15日号4面から河辺(かべ)砂利採取場の紹介記事を

事業場めぐり(15)

砿区広げ増産に拍車

良質安山岩の砂利生産

河辺工場

 

位置と現況

 中央線立川駅で青梅線に乗りかえ約三十分、河辺駅で降りると正面に見えるのが萩島石材工業(株) 河辺工場である。(徒歩七分)
工場の南側には二本の貨車積込線があり、専用側線で河辺駅と結ばれている。工場には選別及洗条プラントとクラッシャー(破砕する機械)プラントがあり、二つの櫓を中心にそれぞれベルトコンベアーとバケットエレベーターで結ばれている。

トラックで河原から進んでくる原石はプラントに間断なく送りこまれ、クラッシャーが原石を喰む音が威勢よく響いている。製品は品種別に貯えられ、トラックでひんぱんに運び出されている。

沿革

 当工場は大正十四年河辺砂利合資会社として発足、河辺駅から約一キロの専用側線を敷設し、多摩川でとれる良質安山岩の砂利類を生産していた。(この地域の砂利は元宮内省御用のもので富士火山系に属する。)

 昭和三年に昭和石材社と改名、二十二年株式会社に組織替えし、三十一年九月堤会長の傘下に入り西武鉄道・復興社から資金援助をうけ財政的に安定した。三十五年六月本社の設計指導で工場を大改造して、現在のような近代的設備となった。その結果、生産は急速にのびて、三十四年度、月産五〇〇〇トンだったものが三十五年度は一三、〇〇〇トンと増加した。

 三十五年九月不動産課の尽力により、いままでの砿区の上流に約二倍に相当する広大な新砿区を入手することができ、ようやく赤字工場の汚名を返上して黒字経営に出発する機会を得た。同年十一月萩島石材工業(株)と合併し、同社河辺工場として、今日に至っている。

工場のあらまし

工場敷地 一万三千平米

多摩川砂利砿区 五万五千平米

設備

選別洗条プラント=砂利類用、砕石用各一棟。ホッパーベルトコンベア附帯設備=原石用、砕石用各1式。インペラーブレーカー=一基、パワーショベル=一台、ブルドーザー=一台、ショベルローダー=一台、専用側線=1キロ

私たちの信条

 従業員一同は、昭和三十一年堤会長のけいがいに接してから、心機一転して業績向上に励んできました。幸い会長はじめ関係各位の一方ならぬ御指導により、今日のような立派な工場に生れ変ることができました。 私たちはこれに報いるよう感謝と奉仕の信念を身につけ、今後ますます増産に励む覚悟であります。

(石井)

 

  

 詳細な社史が無い西武鉄道関連では、西武の社内報が、貴重な一次資料である。 

 私は、

■公益財団法人三康文化研究所附属三康図書館http://sanko-bunka-kenkyujo.or.jp/sanko_tosyo.html 

■早稲田大学大学史資料センターhttps://www.waseda.jp/culture/archives/ 

を利用させていただいております。 

 

 皆様の妄想の「深堀掘削」にお役に立ちましたら幸いであります。

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2020年5月16日 (土)

中央道建設反対の背景に、石川栄耀の戦中の遺産?亡霊?「防火保健道路」があった?

中央道烏山北団地2

中央道烏山北団地

いずれも「道路セミナー」全国加除法令出版・刊から

 世田谷区の烏山北団地での中央道建設反対の様子が動画に残っている。

 3分過ぎに出てくる「建設第一部長」は、「道路の日本史」等の著作で知られる故・武部健一氏である。

武部健一と中央道

 2015(平成27)年6月13日付朝日新聞 be on Saturday 「みちのものがたり 中央自動車道」から

 ここが拗れた理由の一つに「路線の変更」があるという。

中央道路線変更

 「蟻んごの闘い-道路公害に命燃えて」井上アイ・著 12頁から引用

 そして、その路線変更の背景には、戦前の都市計画で定められた「防火保健道路」があった。

 この経緯を追ってみたい。

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■当初の中央自動車道計画 

 中央自動車道の起点は、本来は渋谷区幡ケ谷の東京第一インターチェンジであり、現在の起点の高井戸インターチェンジは東京第三インターチェンジであった。 この書類は、1961(昭和36)年当時のものである。

中央自動車道 南アルプスルート詳細図4  

 中央自動車道報告書3

 この辺の詳細な経緯はhttp://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/04/post-c50d.htmlで。 

(1963(昭和38)年当時のカラー図面は、こちらhttp://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/post-0e8f.htmlもご参照のほどを) 

 当初は、首都高速道路は環状6号まで、環状6号からは日本道路公団の高速自動車国道(東名高速道路及び中央自動車道)とされていた。 

 この境界は後に建設省と東京都の間で協議され、現状の環状8号若しくは東京外環道に変更されている。 

中央自動車道 南アルプスルート詳細図5  

 現在の地図と比べてみよう。 

 

 現在の高井戸インターチェンジは、京王井の頭線の南側で、そのまま甲州街道へ南下して新宿へ向かうが、当初は京王井の頭線の北に東京第三インターチェンジを置き、そのまま甲州街道と青梅街道の間を真っすぐ新宿へ向かうルートのようだ。 

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  ところで、上記の中央道幡ケ谷起点の計画が生きていた同時期に、別の経路を示す図面がある。

 東京都の「道路整備事業10年計画」である。 

 これは東京都首都整備局が作成したもので、「昭和36年度を初年度とし、昭和45年度を終期とする道路整備事業計画を図示したものの」とされている。(「首都圏整備計画・都市計画」東京都 1964年・刊 18頁から引用) 

東京都道路整備事業10年計画0

 首都高3号線が東名高速ではなく、第三京浜道路に直結しているなあといった見どころもあるが、首都高4号線~中央道は、現在のルートのように甲州街道の途中から北上するようになっている。ただし、外環道と中央道の接続部となるジャンクションは現在よりも北側だ。 

 また、放射5号が、甲州街道と環状8号の交差点から北西に伸びている点も違う。現在は、中央道に沿って北西に向かっている。

東京都道路整備事業10年計画02

 同じ、昭和36年の段階で国と東京都では首都高4号~中央道のルートについては、違うルートを考えていたことになる。 

中央道と防火保健道路

 ところで、東京都のルートの根拠となったものと思われる資料がある。 

  東京都首都整備局都市計画部が作成した「東京都市高速道路調査報告書」である。

  先に述べたように、当初の首都高速道路のエリアは環状6号線内であったが、それを外環道まで延伸するための調査報告である。

東京都市高速道路調査報告書0

東京都市高速道路調査報告書03

 そして、4号線の延長部分の説明が下記である。 

東京都市高速道路調査報告書02

 「東京都市高速道路調査報告書」3頁から引用。

 ここに「環状7号線からは50mの保健防火道路の計画を利用して玉川上水上を通り」と出てくる。 

 では「保健防火道路」とは何か?世田谷とか杉並とかややこしそうなところに「50m」もの巾があるのか? 

防火保健道路0

昭和17年4月22日付官報から引用

  これの「2号 玉川上水線」が確かに「50米の幅員」があるのである。

 首都高4号線と中央自動車道は、この昭和17年の都市計画の幅を使って玉川上水の上に作られたのである。 

  では、戦中の1942(昭和17)年に都市計画決定されたこの道路はいったい何なのか?

 これを追ってみたい。 

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 「防火保健道路」の実現には石川栄耀氏が寄与しているということでよいのだろうか?

石川栄耀

「東京都を食い物にする男たち 三十間堀埋立に踊るボス群」から似顔絵を引用

 石川榮耀氏がどのような方かというのは、私がガタガタ言うよりも 

http://ud.t.u-tokyo.ac.jp/resources/_docs/%E9%83%BD%E5%B8%82%E8%A8%88%E7%94%BB%E5%8F%B23%E3%80%80%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E6%A0%84%E8%80%80.pdf 

や 

http://eiyoukai.la.coocan.jp/history.html 

をご覧いただければよいのだが、戦前戦後の東京のみならず日本の都市計画の理論と実践に大きな足跡を残した人で、都市計画屋さんからすると神様みたいな人のようだ。今でも石川賞というのがあって、土浦ニューウェイが受賞するような賞である。 

 

 その石川栄耀氏が「保健道路」についてこう語っている。 

(略)

 さて、自分等は都市人の保健上よりしても、又、慰楽よりしても「散歩に適した道路」の必要性を痛感してきた。

 「ダンスは躰によって音楽を味ふものなり、散歩は躰によって都市美を鑑賞する方法なり」とは自分が緑地協議会で弁じた所である。

 芸術(の一種)を通して健康を得る。

 此は非常時局と云はず、いずれの場合と云はず都市計画技術の任務であると思ふ。

 我々が土木道路から緑地道路の分野に熱を以つて半回転せんとする所以である。

 (略 ニューヨーク、ボストン、カンサス、ウエストチェスターの緑道計画を説明)

 かく、外国に於て五十年に近き旺んな歴史を持つ緑道が何故に日本に於て今日一本もないか。

 世の中に此に勝る不思議はあるまい。

(略)

 さて、かくして東京緑道計画となるワケであるが、実は此れは内協議の形を了した丈で、未だ法律上の力を有するに至つて居ない。

(略)

 先ず先づ我々は云ふまでもなく、東京緑地協議会で決定された行楽道路計画を有する。

 計劃の大要は次のとおりである。

 一、東京緑地計画行楽道路 延長3,629粁

 内 歩車兼用道路 2,771粁(略 東京、神奈川、埼玉、千葉)

  遊歩道路 858 

(略) 

 続いて、我々は現在市城内-にして郊外に当る部分の水路沿ひ等の地を相し、徒歩の専問の行楽道路を計画してる。 

 称して保健道路と云ふ。 

 延長244粁。(工費約2200万円) 

 その幅員12米。(水路の幅員を含まず) 

 加へるに騎馬道35粁。 

 騎馬道は又、乗馬公園を結ぶ事になつてる。 

 此の保健道路選定には大した理論はない。現在の風致よき水辺を保留する事とそれに直接してる車道を引き離す事である。 

(略) 

 

「東京『緑道』計画解説」石川栄耀・著 「公園緑地」1939(昭和14)年 2号/3号 91~102頁から引用

 石川栄耀はこの稿を「緑道救国!」の言葉で締めくくっている。

 ただし、この稿では「保健道路」の趣旨と総延長244kmしかでてこない。

 次に、244kmのうち玉川上水:現首都高4号線及び中央道となっている区間が出てくる記事を紹介したい。

 第一章 保健道路の使命

 一国々民の体格の優劣、体力の強弱如何は国運の消長、国家の存立にも関する重大問題である。

 然るに我が国民の保健状態を欧米主要諸国のそれに比較するとき、甚しく遜色があるのは国家の為洵に遺憾とするところである。

(略 一般死亡率と結核死亡率の国別比較)

 玆に於て、我が国民の健康増進体力向上等保健衛生に関する方策は、刻下の重要国策となつたのである。

 殊に今や日支事変は長期戦に入り、戦争は単に武力戦のみに止らず、遂に国家総力戦となり、人的資源の涵養は直接強力な戦闘員を供給するため、且つ又生産力拡充に要する労働力を供給するための、二重の意味に於て重要性を有するのである。 

(略) 

 近時我が国に於ける人口は大都市集中の傾向益ゝ激しく、密住生活における市民体位の低下は愈ゝ甚しいものがある。 

 今試みに、壮丁の体格に付き大都市と地方農村とを比較してみるに、甚しき逕庭を認められ国家の前途洵に深憂に堪へないものがある。 

(略 東京、大阪と全国平均の壮丁体格検査比較表) 

 右表に明かなる如く昭和10年の丙丁種即ち不合格率(千分比)は全国平均の3割8分に対し、東京、大阪両市共4割6分台であつて、殊に内地人口の1割を占むる東京市の不合格率が大正14年の3割1分より年毎に増加して、昭和10年には4割6分に激増してゐる状況に鑑みるも、国家将来の為大都市に於ける市民の体位向上は正に刻下の急務である。 

 大都市に於ける市民の健康増進、体力向上には多々方策があるであらうが、中に就き老若男女誰にも容易に直く実行のできるのは歩くことである。 

 即ち歩行は自然に遠ざかり運動不足となつてゐる市民にとつて、通学、通勤に、日曜祭日の郊外散歩や遠足或いは国体的強行軍等、気軽に而も手軽に実行の出来る自然の与へた最上の健康法である。 

 然るに、歩行の実行に当つて問題となるのは、大都市に於て未だ特に歩行者の為にする道路施設のないことであつて、歩行専用道路要望の声は最近頓に高まつてきたのも之が為である。 

 是が今同保健道路計画を樹立せんとする所以であつて、この計画実現の暁に保健道路の帝都市民に対する魅力は如何ばかりであろうか。 

(略) 

  

「東京保健道路計画」 都市計画東京地方委員会・著 「全国都市問題会議総会文献第6回 第2 都市計画の基本問題(下)」 1940(昭和15)年 143~148頁から引用 

 石川栄耀が1939(昭和14)年に発表して1年で随分戦争の色を濃くした内容となっている。 

 日本人は欧米諸国より体力が劣り、都会人は地方人より兵役の合格率が劣るので、国家の存立に関する重大問題として東京に気軽に運動できる歩行者専用道路を「保健道路」として作ろうというストーリーになった 

 そして下記が同文献中に示された保健道路計画一覧表である。石川栄耀のいう244kmの内訳でもある。 

東京保健道路計画一覧表  

 この6号玉川上水線の一部が、現在首都高4号線及び中央自動車道となっている。 

 東京保健道路計画図1

 全体の位置図から「玉川上水線」部分を切り出してみる。 

東京保健道路計画図2玉川上水線  

六 玉川上水線

 これは東京府北多摩郡小平村字上鈴木から東京市淀橋区角筈三丁目に至る延長約22,250米の線であつて、幅員は22米乃至51米とし、花の名所小金井に就ては特に老桜の保護、風致の保存、危険防止等を考慮して、府県道を付替へ幅員51米の大緑地帯と化する計画にして、境橋、井之頭公園、烏山二子線起点間には4米の乗馬道を設け、又新水路利用区間は村山貯水池への自動車の連絡を考慮して幅9員米の車道を設け、沿線に広場13箇所を設ける予定である。

 玉川上水は徳川時代の大水道工事の一であつて、このコースは小金井から玉川上水に沿つて和田堀浄水場附近に至り、此処から淀橋浄水場迄は新水路を利用する。

 上流は史蹟に指定された延長約3粁に及ぶ小金井の桜で花季は観花客で雑踏を極めている。

 地勢は平坦にして、北側は畑や山林が多く土手には野生の薄が一面に生へ茂つて銀の穂をそよかせて武蔵野の野趣を偲ばせ秋の稲荷橋附近は満堤尾花に埋るの概あり秋草と蟲聴きも亦武蔵野の一大特色である。

 境には東京市の浄水場があつて新旧時代の上水道のコントラストも興深く桜上水の桜も中々見事である。

 明大(予科)や本願寺墓地前の厚い雑木林に覆はれた小暗い中を音もなく忍びやかに流れていく上水風景はこゝならでは見られぬ情景である。

 尚沿線には井の頭恩賜公園があり清水湧く池の周囲には松、杉、檜、楢等が鬱蒼として繁茂し水の公園、森の公園として、プールあり、緑陰あり、林地ありて市民の一大慰業地である。

 新水路の沿線は人家連亘して既に住宅地と化してしまつている。

 

「東京保健道路計画」 都市計画東京地方委員会・著 「全国都市問題会議総会文献第6回 第2 都市計画の基本問題(下)」 1940(昭和15)年 157~159頁から引用

保健道路玉川上水線  

  同稿158頁に掲載された玉川上水線の標準断面は上記のとおりである。歩道だけでなく、「乗馬道」も備えられていることがお分かりであろうか?

  

 ここまで、戦争の色濃くなるなかで、保健道路の位置付けが変わってくるところを見てきた。 

 その後、太平洋戦争が開戦されると、「保健道路」が「防火保健道路」となった。 

(略 国木田独歩の武蔵野描写を引用しつつ東京の若者の体力低下を問題視)

 又保安上より考慮する場合は、平時の火災、震災時に於ける防火或は避難の為のみならず空襲時の対策として、幾多の貴重な問題がある。大東亜戦の宣戦布告以後4ケ月にして甚だ遺憾乍ら敵機の潜入を許したが、此の貴重なる経験に徴して見ても密集市街地の疎開、空緑地の保存拡充が極めて緊急必要である。

 今般以上の様な風致保存、体位向上、疎開市街地造成等の諸種の使命を有する広幅員の道路を、東京市並に其の近郊の武蔵野町、調布町等の都市計画施設として決定したものを玆に略述する。

 計劃目的

 道路の重要なる使命は一般交通の用に供するにあるが、其の他多数の使命を有する。殊に市街地の道路即ち街路は、街廊を構成すること即ち、建築施設や自由地施設の敷地の形態を決定すること、都市の美観を形成すること、慰楽厚生の施設を兼ねること、市街地防災の地帯となること等の使命がある。

 然らば之等の使命が従来考慮され或いは施設されたであらうか。その中今度の計画街路に関係のある項目に就て若干考慮して見よう。

 防災地帯としての道路

 葛西、震災或は風水害等の災害に対して、一般に道路が消防、避難、救護等の諸活動を為すのに役立つのは勿論である。其の他消極的には防火帯としての使命もある。故に空襲等の人工的災害に対しても極めて重要である。或は云ふ空襲は全面的に行はれる虞れがあるから、斯る路線的防災地帯は不適当であると。これに対しては今度の事例を見ても説明を要せぬ処である。

 然らば過去に於て防災道路として施設されたものがあるか、実現されたものは尠ないが機会のある毎に計画しつゝある。

 更に古くは徳川時代江戸市中は再々大火に見舞れ、彼の有名な明暦大火後六間道路を十間に拡張して防災の目的に資したが、其の後も大火が絶えずその度に各所に広小路或いは火除地(防災の為の空地)を設けた。降つて明治初年には再度銀座に大火があつたので大略現在の幅員の銀座通りに復興せしめた等の歴史がある。

 新しく防災道路として計画実施されたものには、函館或は静岡の大火後の復興に36米乃至50米のものがある、又最近の新興工業都市等の街路計画には何れも防災目的を考慮して広路を配置してある。

 都市美構成分子としての道路

(略)

 遊歩道としての道路

(略)

 

「防火保健道路」奥田教朝(都市計画東洋地方委員会技師) 「道路」1942(昭和17)年6月号 27~28頁から引用

 今までの保健機能や都市美化としての保健道路から、空襲を考慮した防災機能が最前に出されている。

 また、前回の244km構想よりも計画は縮小されている。

防火保健道路一覧

防火保健道路位置図

 幅員 

 幅員は保健或は風致保存の点よりしては基準となるべき根拠がない。防火的考慮をする場合は将来両側が密集市街地となつても(略)延焼を防止し得、且消防或は避難活動をするに充分な幅員として50米を一応の標準としている。 

 此の幅員は河川敷或は水路敷を中心として両側に当分に計画してあるが、土地の状況より止むを得ず30米位とした処もある。又大なる河川の堤防敷を供用する処は堤外に軒先通路を見込める位の幅員即ち堤防の高さにもよるが堤内側の法肩から30乃至40米を探つてゐる。 

(略) 

「防火保健道路」奥田教朝(都市計画東京地方委員会技師) 「道路」1942(昭和17)年6月号 27~28頁から引用

 先の計画では玉川上水線の幅員は22~51mとされていたが、ここで防火のために必要な幅員として「50米を一応の標準としている」ということになった。 

 これで、戦後に高速道路が収まる幅ができたということになる。 

防火保健道路標準断面図  

 この図は「玉川上水線の標準横断図」との説明がついている。「50m」という数字が見えるだろうか? 

防火保健道路0  

 そして、「防火保健道路」の報文の約1年後に、玉川上水線(2)の部分が幅員50mで都市計画決定されたわけである。 

(防火保健道路は数回に分けて都市計画決定されている。上記はそのうちの1つである。(参考「近代街路の景観計画・設計思想発展史に関する研究」天野光一)

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 随分時空を遡っていたが、20年後の東京に戻ろう。 

 前述のように、防火保健道路玉川上水線の都市計画を活かそうとする東京都側と、中央道建設を担当する日本道路公団側との調整が行われたのだが、道路公団側ではこう残している。 

中央道路線選定に係る東京都都市計画との調整  

「中央自動車道高井戸~調布間の開通」河内稔典(日本道路公団維持施設部長 前日本道路公団東京第二建設局建設第一部長)・著 「道路」1976(昭和51)年7月号23頁から引用

 

 調布以東の区間は東京都との都市計画との調整に時間を要したとし、調布以西の区間にくらべて約4年間路線の発表が遅れたとしている。 

 よく「反対派のせいで開通が遅れた」というのがあるが、実際には大都市区間だとこのような行政内部での事前調整に時間を要していることもあり、全てを反対派のせいにするのは適切ではない。このような事例は東北新幹線大宮以南でも「一旦東北新幹線の路線を発表したけども、其の後上越新幹線の新宿ルートとの調整に国鉄内部で時間を要したため実質的な地元行政との調整が進められなかった」というような件もある。 

 また余談であるが上記文中「設計速度の相違から都市間高速と都市高速を直結することに問題があり、むしろ(外環を通して接続することで)間隔を置く千鳥型がよい」とあるが、先にお見せした東京都の「道路整備事業10年計画」で東名高速と首都高速が直結していないのは、まさにそういうことである。100km/hの東名と60km/hの首都高は直結せずに間に外環をはさんで千鳥型に接続すべきという考えだったのだ。 

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 閑話休題。中央道と東京都の調整の話に戻ろう。 

 上記河内氏の報文の更に詳細な経緯が「中央高速道路工事誌」に掲載されている。 

中央道路線選定に係る東京都都市計画との調整2  

中央道路線選定に係る東京都都市計画との調整3

「中央高速道路工事誌」日本道路公団高速道路八王子建設局・刊 118~119頁から引用 

 

 上記の「62年当時における高井戸インターチェンジの計画」とは、先の河内氏の報文中の中央道の施行命令を日本道路公団が受けた年である。 

 「図2-34」には「旧ルート」とある。 

  井上アイ氏が語る「中の橋を起点に広い畑の中を通るルート」というのはこの「旧ルート」だろうか?

 それが東京都の放射5号の計画変更に伴い、「新放5」とともに幅員50mの「防火保健道路」に入ることとなった。

 その計画変更の手続きが、井上アイ氏の語る「昭和41年の都市計画審議会」である。

 これが「旧ルート」のままなら、少なくとも烏山北団地は通過していないと思われる。

団地と高速道路 (1)

「野村鋠一顧問 談話録」編集・発行 財団法人東京市政調査会 67頁から引用 

 しかも、東京都は団地入居時(1965(昭和40)年に入居募集開始。翌年から入居開始。)に高速道路通過を事前説明していない。 都市計画変更直前のことである。

 これが冒頭の写真にもあるような反対運動に繋がったのだ。

 井上アイ氏の「蟻んごの闘い」にも山田正男に直談判しに都庁へ行った様子が残されている。

 ちなみに、首都高速道路を運河や河川の上に持っていったのも山田正男氏である。

 ここでも玉川上水の上に首都高と中央道を持ってきたのか。

 なお、東京都建設局長のポストは石川栄耀や山田正男が歴任している。(石川が旧内務省の官僚だった山田をスカウトしてきた。)

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 其の後、中央自動車道は1976(昭和51)年に供用開始した。 

 そして、放射5号は紆余曲折を伴いながら、2019(令和元)年に供用開始した。 

放射5号線

  戦前の防火保健道路としての都市計画決定からは実に77年ぶりのこととなる。

  昭和36年の「東京都市高速道路調査報告書」では、久我山二丁目を経て三鷹市下本宿までが首都高速4号線の計画だったので、そのまま計画が実行されていれば、上記の赤い事業区間も玉川上水の上を高速道路が走ることになっていたはずだ。

 東京都市高速道路調査報告書03

放射5号線と防火保健道路  

 旧都市計画の幅員50mは、防火保健道路玉川上水線のそれである。

「東京の都市づくり通史 第2巻」東京都都市づくり公社・刊 241頁から

 放射五号の事業の進め方については、下記のサイトをご覧いただきたい。

■東京都第三建設事務所 街路整備事業

https://www.kensetsu.metro.tokyo.lg.jp/jimusho/sanken/doro_seibi_zigyokasyo.html 

■杉並区 玉川上水・放射5号線周辺地区まちづくり

 https://www.city.suginami.tokyo.jp/kusei/toshiseibi/machi/1013923.html

  

 中央道と玉川上水暗渠

 中央自動車道と玉川上水の暗渠と開渠の分かれ目(放射五号事業完成前に撮影したもの) 

 

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2020年5月11日 (月)

名阪国道が無料から有料に変更できなかった理由

 前回の記事「名阪国道の「千日道路」の由来と「非名阪」が未だに国道25号のままの理由」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2020/05/post-09efaa.htmlが沢山のアクセスをいただいたので、調子にのって名阪国道ネタを。

 

 名阪国道は「無料」であるが、元々は、日本道路公団の有料道路「大四道路」の調査結果が元になっていることについては、前回の記事で述べたところである。

 しかし、建設中に有料道路化の話が出て消えている。それについても建設省中部地方建設局が発行した「名阪国道工事誌」から引用したい。

 (今回は殆どコピペしただけなので、著作権的にはアレだが、50年以上前の公的な文書だから許して。。。)

 

まずは、そもそも論である。名阪国道は当初計画は有料道路だったのか否か?


1962年(昭和37年)3月の計画当初から、名阪国道は「無料の一般道路」として整備される予定であった。

 

wikipedia 名阪国道 

 

 しかし、前述のように、名阪国道を施工した当の建設省の工事誌に、日本道路公団の有料道路計画が元になっている旨記されている。

 では、他に資料はないか?

名阪国道は本来有料道路になるはずだった

「燦々菁々滾々 : 私の県政史」奥田良三・著 ぎょうせい・刊 91頁

 当時の奈良県知事であった奥田氏が「名阪道路は当初全線を有料道路として計画されたのだが、(中略)、少なくとも山間地法だけは県が地元負担をするから公共道路として無料の道にすべきであると主張し、三重県にもこれに同調していただいて天理ー亀山間73キロは通行料金はいらないことになっている。」と語っている。

 他の文献にもあたってみよう。


A こんど開通した区間は無料だが、これにはわけがあったのか。

C 建設省も当初、有料、無料でいろいろ論議があった。早く仕上げるのは有料道路だということで一時は有料に落ち着いたが、その後、早くできても有料なら利用しにくいと地元側の要望が出て、この区間だけは無料となった。

 

「ルポルタージュ 完成した名阪国道 -産業道路としての期待を負ってー」 建設月報 1966(昭和41)年1月号53頁

 この記事は、朝日、毎日、日経の記者の対談という形をとっているのだが、奥田奈良県知事(当時)の記述と矛盾しない。

 では、当該部分のwikipediaが何を根拠に「当初から無料」と言っているのだろうか??

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 ということで、当初の有料道路計画から、「地元側の要望」により天理ー亀山間だけ無料(=全額税金負担)となった名阪国道だが、事業開始後に、「やっぱり有料道路にして」という「地元側の要望」が出てきた。

 

 

名阪国道が無料から有料に変更できなかった理由 (5)

 一旦は「無料」の一般国道として建設開始した名阪国道だが、地元三重県知事が三重県の負担に音を上げて、有料道路化を陳情したというのが切っ掛けというのだ。

 これはまず、国道の建設費用が誰によって支払われているのかを知らなければ理解できない。

道路法

(国道の管理に関する費用負担の特例等)

第五十条 国道の新設又は改築に要する費用は、国土交通大臣が当該新設又は改築を行う場合においては国がその三分の二を、都道府県がその三分の一を負担し、都道府県が当該新設又は改築を行う場合においては国及び当該都道府県がそれぞれその二分の一を負担するものとする。

(第二項以下省略)

 国道は国の道路だから建設費用は全部国が出すと思っている方は結構いらっしゃると思うが実際には違うのだ。

・国土交通大臣が当該新設又は改築を行う場合⇒国がその三分の二を、都道府県がその三分の一を負担

・都道府県が当該新設又は改築を行う場合⇒国及び当該都道府県がそれぞれその二分の一を負担

 国道によっても、国が管理(直轄)する場合と都道府県が管理する場合で費用負担が異なる。

 今回の名阪国道は、文中「直轄」とあるように、国(当時は建設省)が管理しているので、国が2/3を負担する一方で、地元の三重県と奈良県が1/3を負担しなければならない。

 「無料」と言えば聞こえはいいが、実際には税金(ガソリン税や重量税等)で国や県が支払っているというわけだ。

 国は大臣の命令でもあるし、所帯も大きいので、千日で建設するための工事費用は捻出できるが、三重県レベルではそこに付き合うことは財政上大変な負担だったということであろう。

 では、「有料道路」ならよいのか?

 日本道路公団が郵便貯金等の財政投融資により借金して道路建設費にあてて、その借金を利用客が払った料金で長期返済していくので、三重県の財政上の負担はないのである。(いわゆる「合併施行方式」はこの際目をつぶるとして。)

  しかし、それを後出しで用地買収に入る直前に(関町は三重県内)、そんな話を持ち出したので、「話が違う」と事業がストップしたというわけだ。

名阪国道が無料から有料に変更できなかった理由 (6)  

 「道路計画課」によるメモとあるが、これはこの工事誌を発行した「建設省中部地方建設局道路建設課」であろう。

  上野地区は側道だけで開通させようかといった案も出たようだ。

名阪国道が無料から有料に変更できなかった理由 (1)  

 インターチェンジは無料前提で計画しちゃったためか、トンネルだけ有料にしようかといった案も出たようである。 

  後半は実際に現場で工事を担当した建設省名阪国道工事事務所による有料道路化検討メモである。

 名阪国道が無料から有料に変更できなかった理由 (3)

  インターチェンジの型式について触れているので補足しておく。

  例えば、これが名阪国道山添インターチェンジ(ダイヤモンド型)である。料金所を設置しなくてよいので上下線それぞれの出入り口が一般道に接続しており、土地等が比較的小さくてすんでいる。

 

 一方、こちらは名神高速道路の竜王インターチェンジである。料金所を一箇所に集約するためにランプウェイの土地等が比較的大きくなっている。 

 

 「この変更の重大さは歴然」というわけだ。 

  また、地元民に対しては公共道路(無料)であることを説明し、(略)相互信頼の念を確立するまでに達した」ものが、「白紙にもどすという通告まで受けている」ということで、「用地の取得が非常に困難となる」というのだ。

名阪国道が無料から有料に変更できなかった理由 (3)

 有料道路化の代替として、酷道区間の「旧名阪」を一級国道として整備することの困難さも指摘されている。 

名阪国道が無料から有料に変更できなかった理由 (4)  

  まとめにあたって「1級および2級国道の昇格に運動し、昇格したら早期完成をうたいながら、分担能力がないから全額国庫或いは有料道路とは言語道断といわざるを得ない。」と三重県知事を激しく糾弾しているあたりが興味深い。

 まあ、そういったところで結局は「無料=建設費を国と県で分担」という形で当初の予定通り名阪国道は建設が進んだのである。 

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 ところで、名阪国道開通後の1966(昭和41)年に、「国土開発縦貫自動車道建設法の一部を改正する法律」が成立し、名阪国道に高速自動車国道近畿自動車道名古屋大阪線がかぶってきた。 

 昭和41年高速道路網図

  

 想定問答

  その想定問答が国立公文書館のアーカイブに残っており、名阪国道の位置付けについても触れられている。

名阪国道の高速化想定問答  前述の工事誌にもあるように「千日道路」として開通させる際には、片側1車線、往復2車線で開通している。

 これを片側2車線、往復4車線に拡巾したいのだが、「支障がなければ幹線自動車道(つまり高速道路)として実施」し、「有料、無料制については慎重に検討したい」とされている。

 実際には「支障があった」のだろうか、高速自動車国道となることはなく、無料の一般国道まま往復4車線に拡幅されているのはご承知のとおりだ。

 なお、一般国道25号の有料道路として開通した「西名阪道路」及び一般国道1号の有料道路として開通した「東名阪道路」は、1973(昭和48)年に、高速自動車国道「西名阪自動車道」及び「東名阪自動車道」に切り替えられている。

高速切り替え

 

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 さて、昨今、奈良県が名阪国道の有料化の提言をしていることが話題になっている。 

http://www.pref.nara.jp/44056.htm 

http://www.pref.nara.jp/secure/124436/11kousokudouro.pdf 

 過去の経緯を踏まえ、沿線自治体から反対の声もあがっているようだ。 

https://www.vill.yamazoe.nara.jp/life/wp-content/uploads/2014/09/c82d80e6e0eacf9226e1f41a63533640.pdf 

 これは、当初の「建設費を賄う財源としての有料道路制度の活用」ではなく、「交通需要をマネジメントするための有料道路制度の活用」である。 

 リンク先の奈良県知事の記者会見でも述べられた「TDM」とは「Transportation Demand Management」の略で、「交通需要マネジメント」等と訳される。 

  詳細は、ぐぐっていただければよいのだが、東京オリンピック2020で実施されようとした「首都高速道路の料金をあげることで利用を減らす」といった取り組みが一例である。

 

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2020年5月10日 (日)

名阪国道の「千日道路」の由来と「非名阪」が未だに国道25号のままの理由

 かつて河野一郎という政治家がいた。今の河野太郎代議士の祖父である。

 彼が建設大臣だったころにはいろいろなエピソード(悪事?)があった。

例えば

・東名高速道路を自分の地盤である小田原に曲げるよう指示し、従わなかった道路公団副総裁を更迭した。

・その代わりに小田原厚木道路の建設を命じ、小田原厚木道路一本だけを国道昇格させた。

等。

 一番有名なのは、国道25号「名阪国道」を「千日」で建設させたというものだろうか。

 奈良県知事だった奥田良三は、自著でこう語っている。

名阪国道千日道路の由来 (5)

燦々菁々滾々 : 私の県政史」奥田良三・著 ぎょうせい・刊 88~89頁

 河野大臣が「絶対、千日間で開通させよ」と指示したとある。

 世間的にも大体こんなイメージで受け止められているだろう。

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 ところで、この「千日」は誰が言い出したのか?

 建設省道路局国道第一課長等を歴任された、「国道のプロ中のプロ」辻靖三氏がこんなことを記している。

名阪国道千日道路の由来 (1)

 「国道を走る-その16 名阪国道旧道を行く」日本道路協会「道路」2018年7月号 51頁から

 当時の現場の国道工事事務所長が河野大臣から「どのくらいかかるか」と問われ、「最速の目標値を分かりやすく『千日』と言ったらその通り発言されたためそうなった」ということである。

 別の建設省関係者の発言もこれを裏付ける。

名阪国道千日道路の由来 (6)

土木史研究におけるオーラルヒストリー手法の活用とその意義 : 高速道路に焦点をあてて」実践編・高橋国一郎氏87~88頁から

 高橋国一郎氏は、建設省道路局長、事務次官等を歴任した技官である。

普通役人の場合は3年かかるというが、それを所長が千日と言ったことが河野大臣は気に入ったらしく「よし、千日でやれ」と命令したと。

 住友所長が「3年かかります」と上申していたら、名阪国道は「3年道路」と言われていたのかもしれない。 

  

  なお、前述の小田原厚木道路については、3年どころか、「調査3日、計画設計3週間、工事3カ月」で完成させよと命じていた。さすがにそんなに早くはできない。

 この辺は、以前記事にしているので、ご関心があれば是非。 

 「小田原厚木道路は河野一郎の政治路線だった?」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-5789.html

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  武部(健一)氏(元建設省→日本道路公団:「道路の日本史」の著者)は「天理教の何か大会があったのでそれに間に合わせろというのがターゲットだった」旨語っている。

 天理教関係のサイトを検索してみると「教祖80年祭」が1966(昭和41)年1月26日から2月18日まで開催されている。

 名阪国道は、その1箇月前の1965(昭和40)年12月16日の供用開始である。 

 他の文献にもあたってみよう。

A 当時の河野建設大臣を悪くいいたくないが、千日間と期間を切ったいきさつは41年はじめ、天理教の大祭があってこの天理教関係者に押されたともいわれている。

 

「ルポルタージュ 完成した名阪国道 -産業道路としての期待を負ってー」 建設月報 1966(昭和41)年1月号53頁

 先のオーラルヒストリーは建設省OBによるもの、こちらのルポルタージュは新聞記者によるものだが、どちらも天理教の大会/大祭のために千日という期限が設定された旨を語っている。

 

 信者さんを名阪国道を走るバスが輸送する様子が残されている。 

 よく、「千日で間に合わせるために、危険なΩカーブが出来た」なんて言われるのだけれども、「千日」はあくまでも目安に過ぎないのであって、「河野建設大臣が天理教の教祖80年祭というイベントに間に合うように国道建設を命じたために」というところが問題なのである。

 宗教団体のイベントのために、首相候補でもあった自民党の大物が職権で便宜供与したという点はあまり語られないが、もっと研究されるべきではなかろうか?

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 ところで、いわゆる「非名阪」と言われる国道25号の旧道区間がどうして県道に格下げされずに国道(酷道)のままなのか? 

 これは、道路マニアのなかでもよく話題になるネタである。 

 これについて、辻氏はこう回答している。 

名阪国道千日道路の由来 (7)  

名阪国道千日道路の由来 (2)

 「国道を走る-その16 名阪国道旧道を行く」日本道路協会「道路」2018年7月号 50~51頁から

  「山間部での道路整備で長居トンネル等でバイパス化した結果、従来の峠越えの国道もそのまま国道となっているケース」「バイパス道路が、自動車専用道路である場合は、通行可能な車両が制限されるため(一部の二輪車は通行不可)、国道のまま残っている」というケースに国道25号も該当するとしている。

 なお、これについては別の論説もある。 

名阪国道千日道路の由来 (8)  

「名阪国道における自動車専用道路管理問題」中部地方建設局路政課長 小手沢照二・著 「道路セミナー」1969(昭和44)年1月号69~70頁 

 「自動車専用道路(名阪国道)の管理者と迂回路(旧名阪)の管理者が同一主体であること」という建設省道路局の内規があるというのである。

 辻氏は技官で小手沢氏は文官だ。その辺で拠り所が違うのかもしれない。

 名阪国道千日道路の由来 (3)

 ところで、辻氏は「非名阪」という道路マニアのスラングも使っている。 

 バリキャリ道路エリート技官が、道路マニアと同じ用語を使っているのは少し愉快でもある。 

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 ここから少し脱線する。

 ウソペディアもといwikipediaの「名阪国道」の項には

「1962年(昭和37年)3月の計画当初から、名阪国道は「無料の一般道路」として整備される予定であった。」

とある。(2020年5月10日閲覧)

 建設省中部地方建設局が発行した「名阪国道工事誌」から、名阪国道のルーツを示す箇所を抜粋してみよう。

名阪国道千日道路の由来 (4)

 このルートは、戦前の弾丸道路時代から高速道路のルートとして調査され(このあたり東海道新幹線との相似が認められて興味深い)、戦後も名神高速道路のルートとして検討された後に、日本道路公団の有料道路「大四道路」(大阪と四日市の頭文字をとったのであろう)として調査したとある。

 現在、名阪国道の天理から西側は、高速自動車国道「西名阪自動車道」である。

 しかし、この区間はもともとは国道25号の一般有料道路「大阪天理道路(のちに「西名阪道路」)であった。

大阪天理道路  

「一般有料道路の概要」日本道路公団・1967(昭和42)年12月発行 119頁から 

 「名阪国道の建設が建設省直轄事業として行われていますが、本道路は、名阪国道のうち、大阪府松原市から奈良県天理市に至る区間を公団が受け持ち、有料道路として建設するものです」とある。 

 当時は名阪国道全体事業のうち「有料道路区間:松原~天理」及び「無料区間:天理~亀山」という区分であったことがうかがわれる。 

  そしてそれは有料道路「大四道路」構想の名残であったのではないだろうか?

 

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2020年5月 9日 (土)

東海道新幹線が予算オーバーした国鉄幹部は引責辞任したけど、東名・名神高速道路も予算オーバーしたのに道路関係者は辞めなかったのは、ズルイ??

 また扇情的な題名をつけてしまった。

 ただ、実際に国鉄関係者にはそう思っている方がいらっしゃるようなのだね。

新幹線の予算と高速道路の予算 (1)

新幹線の予算と高速道路の予算 (2)

「鉄道ルート形成史―もう一つの坂の上の雲 」高松良晴・著 日刊工業新聞社・刊 84~85頁

 引用した末尾には、「東京・神戸間の高速道路建設総事業費は、(略)、概算工事費の(略)ほぼ3倍であった。この東京・神戸間高速道路の建設費の増額は、十河が国鉄総裁が(ママ)辞めた昭和38年(1963年)当時、すでに明らかになっていた。だが、十河も島も、東海道新幹線の出発式に招かれることはなかった。」とある。

 最後の「だが」が文章が繋がらないのだが、要するにこのブログの件名のようなことを敢えて??書かなかったから繋がらないのである。著者の高松良晴氏は、国鉄OBである。

 鉄道(国鉄)ばかり予算オーバーの責任をとって、高速道路は予算オーバーの責任をとらずズルイズルイなのだろうか?

 この東海道新幹線の予算騒動について、建設省の高速道路担当官がどう見ていたかについても残されているのであわせて見てみたい。

新幹線の予算と高速道路の予算 (3)

「道を拓く -高速道路と私-」全国高速自動車国道建設協議会・刊 184・185頁

 当該頁の執筆者は、小林元橡氏(元・建設省道路局高速道路課長)である。

 「国鉄は黙っていたからあんなことになったけど、建設省は都度都度関係者に説明して了解を得ていたもんね」ということか。

 新幹線の予算オーバーが国会で問題になったときに、当時の国鉄副総裁も予算オーバーについて知らなかったと答弁していたのだが、(実際に知っていたかどうかはともかく)関係者への根回しをちゃんとやっていた建設省と社内でも秘密になっていた国鉄との差である。

 まあ国鉄もそうせざるをえない事情があったのかもしれないが、高松氏のように高速道路を逆恨み??するのはお門違いであろう。

 

 1964(昭和39)年2月29日付毎日新聞に「企業の森(242) 批判と称賛 -「新幹線物語」-」という羽間乙彦氏の連載記事が掲載されている。

 そこでも東海道新幹線と名神高速道路の予算問題を比較している。

 新幹線の予算と高速道路の予算 (4)

新幹線の予算と高速道路の予算 (5)  大石重成新幹線総局長の気持ちも分からないではないが、そのような国鉄の体制に世間は納得しなかったという。

 

 なお、ソースは公開できないのだが、当時の官僚が「新幹線の予算オーバーの責任をとって、世界銀行の担当者が更迭された」旨を語っているのを読んだことがある。

 十河信二、島秀雄は自己責任だが、騙された世銀担当者はとんだトバッチリである

 その後、高速道路については、東名高速道路、首都高速道路及び阪神高速道路に対して世界銀行の融資が行われたが、国鉄は東海道新幹線が最初で最後の融資となっているのは単なる偶然だろうか?

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  ところで、小林氏の話にも出てくる名神高速道路の予算だが、実際に予算管理に苦労し、当初計画から削減されたりした部分がある。

 せっかくなので、そういった部分についても紹介したい。 

名神高速道路は神戸まで行かないのはなぜ (4)  

「名古屋-神戸高速道路の構想」日本道路公団・刊 

 「本書は、昭和32年7月16日 大阪クラブにおける当公団 岸道三総裁の講演を要約し、さらに、その後、「整備計画の決定」等事態の推移にともない、若干の補訂を加えたものであります。」との説明がついている。 

 「名神高速道路は名古屋市も神戸市も通っていない」というのは、一部ではネタになっている。名古屋は東名高速道路が通っているが、神戸市には、中国自動車道の神戸三田ICができるまでは高速自動車国道のインターチェンジはなかった。 

 実は、名神高速道路の西宮~神戸間は、予算超過の帳尻をあわせるために、カットされていたのである。 

 名神高速道路は神戸まで行かないのはなぜ (5)

 これは、名神高速道路の初期の計画図の一部分である。 

名神高速道路は神戸まで行かないのはなぜ (2)  

 よく見ると、西宮~神戸間の路線が描かれている。 

 実際には、この区間は阪神高速道路として施行された。(この当時はまだ阪神高速道路の計画も阪神高速道路公団もなかった。)

 また、岸総裁は「長いトンネルや橋は当面暫定2車線(片側1車線・往復2車線)とする」とも語っているが、これは予算の手当てがついたのか実際にはそのような区間はなかった。

 もののついでに、「道を拓く」からも当該関係個所を引用してみよう。

名神高速道路は神戸まで行かないのはなぜ (3)  

  当該部分は、斎藤義治氏(元・建設省道路局高速道路課長)である。先に引用した小林氏の文中に出てくる「斎藤氏」である。

 実際に暫定2車線とする長大橋、トンネルの名前もあげられている。 

 国鉄の新幹線と同様に、「まずは当初計画を通すために削減したけど、そのうち復活させるつもりだった」という趣旨が共通するのは興味深い。

 ちなみに、世界銀行も暫定2車線による施工を検討することを融資条件としていたようである。 

名神高速道路は神戸まで行かないのはなぜ (1)  

  これも「道を拓く」からの引用であり、大塚勝美氏(元・建設省→日本道路公団理事)の執筆部分である。

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 名神高速道路の予算カット部分で随分寄り道をしたが、 

 昨今では、「自ら責任をかぶった悲運のリーダー」的に語られることが多い十河、島氏であるが、「当時の霞が関ではこんな風に見られていた」ということで。 

 国鉄に騙された世銀の担当者はかわいそうだが、語られることはほぼ無いようだ。 

 

※この記事を書くにあたっては、同じベイスターズファンのけんちん氏のご協力をいただいている。末尾ではあるが感謝の意を表したい。

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2020年5月 2日 (土)

昭和41年の日本道路公団「関東周辺有料道路地図」(各一般有料道路解説付き)

 先に投稿したこの地図。片面は第三京浜道路だが、裏面は関東周辺有料道路のマップである。

関東周辺有料道路 (1)

 そちらが気になる方もいらっしゃるだろう。

関東周辺有料道路

 東名高速道路も中央高速道路も建設中で、高速自動車国道が1mmも開通していない時代の首都圏の有料道路地図となる。

 既に無料開放して馴染みのない一般有料道路も多く掲載されているため、関係記事を「一般有料道路の概要」日本道路公団・1967(昭和42)年12月・刊から抜粋して添付する。

関東周辺有料道路 (2-2)

 左上の拡大図。

 まだ志賀草津道路はない。

 草津道路

 草津道路

 伊香保榛名道路

伊香保榛名道路  

伊香保榛名道路2  

関東周辺有料道路 (1-2)

 右上の拡大図。

 

 金精道路

金精道路  

 日光道路(いろは坂)

日光道路

第二いろは坂  

 海門橋

 海門橋

関東周辺有料道路 (4)

 左下の拡大図。

 笹子トンネル

笹子トンネル  

 乙女道路

乙女道路  

 富士宮道路

富士宮道路  

 箱根新道

 箱根新道

 東伊豆道路

東伊豆道路  

東伊豆道路2

東伊豆道路3

東伊豆道路4

  遠笠山道路

遠笠山道路

 真鶴道路 (当時は、いわゆる「旧道」のみ)

真鶴道路  

 湘南道路

湘南道路  

湘南道路2

  小田原厚木道路は建設中だ。本線格の東名ですらまだ建設中なのに、枝線格の小田原厚木道路が既に建設着手されている。

小田原厚木道路  

 【参考記事】

 「小田原厚木道路は河野一郎の政治路線だった?」

 http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-5789.html

 

関東周辺有料道路 (3-2)

 右下の拡大図。

 東京オリンピックで首都圏の道路の整備が進んだといっても、未だ国道16号がまともにつながっておらず、荒川を渡る上江橋は有料道路である。

 上江橋

上江橋  

 境大橋

境大橋  

 芽吹大橋

 芽吹大橋

 銚子大橋

銚子大橋  

 京葉道路

 京葉道路

 

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第三京浜道路全通直後(昭和41年)のロードマップ

 日本道路公団が第三京浜道路を全通させたのは、1965(昭和40)年12月19日だ。

 1964(昭和49)年の東京オリンピックに間に合わせるはずが、一部(玉川~川崎)しか間に合わなかった。

 ところで、全通後1966(昭和41)年4月に作成した公団製の路線図でもどうぞ。

関東周辺有料道路 (1)

 

関東周辺有料道路 (2)

 ドライバーへの注意書き。ベルトはまだ「できるだけつけましょう」の頃である。

第三京浜 (2)_stitch

 第三京浜全線の絵面。右端に首都高の出入り口の案内図がある。

第三京浜 (2)

 左上部の拡大。

 実は、中央道の高井戸~調布の路線位置が違う。高井戸地区がもめたのは、路線変更したことも一因と言われている。

第三京浜 (1)

 右上部の拡大。

 オリンピック直後の東京の様子がうかがえる。

第三京浜 (3)

 左下部の拡大。

 まだ第三京浜道路と横浜新道が直結していない。直結路は横浜新道の追加路線としてこの後に建設された。

 

第三京浜 (4)

 右下部の拡大。

 第三京浜道路のインターチェンジの拡大図面がある。

 下記は「一般有料道路の概要」日本道路公団・1967(昭和42)年12月刊

第三京浜道路  

 横浜新道

【関連記事】

昭和41年の日本道路公団「関東周辺有料道路地図」(各一般有料道路解説付き)

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2020/05/post-d73e45.html 

 

首都高横浜環状北西線開通記念「昭和45年横浜市高速道路計画案」~当時は横浜環状線ではなく第二外郭環状道路だった~

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2020/02/post-a6c9f9.html

 

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ブルートレイン瀬戸を3分割して高松、松山、高知へ直通させる構想があった

 先日、サンライズ瀬戸の四国内分割構想がtwitterに流れていたが、ブルートレイン時代の瀬戸でも高松、松山、高知への三分割の運行構想が世間に出ていた。


ブルートレイン瀬戸


1987(昭和62)年3月7日付毎日新聞から


 新聞記事を貼るだけではアレなので、往時の写真でも。


ブルートレイン瀬戸


 1970年代末の国鉄横浜駅で撮影したもの。


ブルートレイン瀬戸


 まだ、客車の方にはマークが入っていないころ。


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