名阪国道の「千日道路」の由来と「非名阪」が未だに国道25号のままの理由
かつて河野一郎という政治家がいた。今の河野太郎代議士の祖父である。
彼が建設大臣だったころにはいろいろなエピソード(悪事?)があった。
例えば
・東名高速道路を自分の地盤である小田原に曲げるよう指示し、従わなかった道路公団副総裁を更迭した。
・その代わりに小田原厚木道路の建設を命じ、小田原厚木道路一本だけを国道昇格させた。
等。
一番有名なのは、国道25号「名阪国道」を「千日」で建設させたというものだろうか。
奈良県知事だった奥田良三は、自著でこう語っている。
「燦々菁々滾々 : 私の県政史」奥田良三・著 ぎょうせい・刊 88~89頁
河野大臣が「絶対、千日間で開通させよ」と指示したとある。
世間的にも大体こんなイメージで受け止められているだろう。
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ところで、この「千日」は誰が言い出したのか?
建設省道路局国道第一課長等を歴任された、「国道のプロ中のプロ」辻靖三氏がこんなことを記している。
「国道を走る-その16 名阪国道旧道を行く」日本道路協会「道路」2018年7月号 51頁から
当時の現場の国道工事事務所長が河野大臣から「どのくらいかかるか」と問われ、「最速の目標値を分かりやすく『千日』と言ったらその通り発言されたためそうなった」ということである。
別の建設省関係者の発言もこれを裏付ける。
「土木史研究におけるオーラルヒストリー手法の活用とその意義 : 高速道路に焦点をあてて」実践編・高橋国一郎氏87~88頁から
高橋国一郎氏は、建設省道路局長、事務次官等を歴任した技官である。
普通役人の場合は3年かかるというが、それを所長が千日と言ったことが河野大臣は気に入ったらしく「よし、千日でやれ」と命令したと。
住友所長が「3年かかります」と上申していたら、名阪国道は「3年道路」と言われていたのかもしれない。
なお、前述の小田原厚木道路については、3年どころか、「調査3日、計画設計3週間、工事3カ月」で完成させよと命じていた。さすがにそんなに早くはできない。
この辺は、以前記事にしているので、ご関心があれば是非。
「小田原厚木道路は河野一郎の政治路線だった?」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-5789.html
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武部(健一)氏(元建設省→日本道路公団:「道路の日本史」の著者)は「天理教の何か大会があったのでそれに間に合わせろというのがターゲットだった」旨語っている。
天理教関係のサイトを検索してみると「教祖80年祭」が1966(昭和41)年1月26日から2月18日まで開催されている。
名阪国道は、その1箇月前の1965(昭和40)年12月16日の供用開始である。
他の文献にもあたってみよう。
A 当時の河野建設大臣を悪くいいたくないが、千日間と期間を切ったいきさつは41年はじめ、天理教の大祭があってこの天理教関係者に押されたともいわれている。
「ルポルタージュ 完成した名阪国道 -産業道路としての期待を負ってー」 建設月報 1966(昭和41)年1月号53頁
先のオーラルヒストリーは建設省OBによるもの、こちらのルポルタージュは新聞記者によるものだが、どちらも天理教の大会/大祭のために千日という期限が設定された旨を語っている。
信者さんを名阪国道を走るバスが輸送する様子が残されている。
よく、「千日で間に合わせるために、危険なΩカーブが出来た」なんて言われるのだけれども、「千日」はあくまでも目安に過ぎないのであって、「河野建設大臣が天理教の教祖80年祭というイベントに間に合うように国道建設を命じたために」というところが問題なのである。
宗教団体のイベントのために、首相候補でもあった自民党の大物が職権で便宜供与したという点はあまり語られないが、もっと研究されるべきではなかろうか?
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ところで、いわゆる「非名阪」と言われる国道25号の旧道区間がどうして県道に格下げされずに国道(酷道)のままなのか?
これは、道路マニアのなかでもよく話題になるネタである。
これについて、辻氏はこう回答している。
「国道を走る-その16 名阪国道旧道を行く」日本道路協会「道路」2018年7月号 50~51頁から
「山間部での道路整備で長居トンネル等でバイパス化した結果、従来の峠越えの国道もそのまま国道となっているケース」「バイパス道路が、自動車専用道路である場合は、通行可能な車両が制限されるため(一部の二輪車は通行不可)、国道のまま残っている」というケースに国道25号も該当するとしている。
なお、これについては別の論説もある。
「名阪国道における自動車専用道路管理問題」中部地方建設局路政課長 小手沢照二・著 「道路セミナー」1969(昭和44)年1月号69~70頁
「自動車専用道路(名阪国道)の管理者と迂回路(旧名阪)の管理者が同一主体であること」という建設省道路局の内規があるというのである。
辻氏は技官で小手沢氏は文官だ。その辺で拠り所が違うのかもしれない。
ところで、辻氏は「非名阪」という道路マニアのスラングも使っている。
バリキャリ道路エリート技官が、道路マニアと同じ用語を使っているのは少し愉快でもある。
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ここから少し脱線する。
ウソペディアもといwikipediaの「名阪国道」の項には
「1962年(昭和37年)3月の計画当初から、名阪国道は「無料の一般道路」として整備される予定であった。」
とある。(2020年5月10日閲覧)
建設省中部地方建設局が発行した「名阪国道工事誌」から、名阪国道のルーツを示す箇所を抜粋してみよう。
このルートは、戦前の弾丸道路時代から高速道路のルートとして調査され(このあたり東海道新幹線との相似が認められて興味深い)、戦後も名神高速道路のルートとして検討された後に、日本道路公団の有料道路「大四道路」(大阪と四日市の頭文字をとったのであろう)として調査したとある。
現在、名阪国道の天理から西側は、高速自動車国道「西名阪自動車道」である。
しかし、この区間はもともとは国道25号の一般有料道路「大阪天理道路(のちに「西名阪道路」)であった。
「一般有料道路の概要」日本道路公団・1967(昭和42)年12月発行 119頁から
「名阪国道の建設が建設省直轄事業として行われていますが、本道路は、名阪国道のうち、大阪府松原市から奈良県天理市に至る区間を公団が受け持ち、有料道路として建設するものです」とある。
当時は名阪国道全体事業のうち「有料道路区間:松原~天理」及び「無料区間:天理~亀山」という区分であったことがうかがわれる。
そしてそれは有料道路「大四道路」構想の名残であったのではないだろうか?
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