« 中央道建設反対の背景に、石川栄耀の戦中の遺産?亡霊?「防火保健道路」があった? | トップページ | 1957年国土開発縦貫自動車道建設法のルート思想とは? ~日本の戦後高速道路ネットワークの推移(1)~ »

2020年5月17日 (日)

安比奈、是政、河辺 西武鉄道の砂利事業の往時を社内報から掘り上げてみる

 元来、2.5次元とか擬人化には興味がないのだが、故あって西武鉄道ネタにはまって堤康次郎所有の安比奈砂利採取場の図面等をアップしたりしていると、そういう方面のお姐さま方からリアクションをいただくことが増えた。

 また「乱脈の帝都電鉄界」などという見出しだけでご飯がすすむ層もいらっしゃることに気づかされた。

乱脈の帝都電鉄界  

(1936(昭和11)年10月15日付東京朝日新聞) 

 そういったなか、安比奈砂利採取場の実態も明らかでない部分があるようにお見受けしたので、西武の社内報から砂利事業の関係部分をコピペしてみた。 

 まずは、西武社内報1961(昭和36)年4月15日号4面から安比奈砂利採取場の紹介記事を

事業場めぐり(13)

復興社初の砂利事業

素人ばかりで創業の苦心

安比奈砂利

 当採取所は川越市の北を流れる入間川流域を砿区として、砂利・砕石などを生産しています。

位置

 西武新宿線南大塚駅より西へ約四粁、安比奈線の終端、入間川の河岸にあります。

沿革

 当所は復興社が最初に建設した砂利採取工場で、創設のいきさつは次のとおりです。

 入間川の砂利採取はその歴史も古く、大正十二年ごろ埼玉県直営事業として始まり、一時は県費の大きな財源であったといわれ、現在の引込線は大正十五年ごろ敷設されたものと聞いています。旧西武鉄道東村山、高田馬場間建設工事が開始されるや道床砂利を出荷 するため、引込線を河川敷内に敷いたが、当時のこととて昼夜兼行で人力によって採取し、その大半をまかなったと土地の古老たちが語っています。
当所の創立は昭和二十一年で、同年建設に着手し、二十二年生産に入りました。当時現場の幹部は工場建設も砂利採取も経験皆無で発足したときのいろいろな失敗や貴重な教訓は、堤会長の著書「人を生かす事業」にも書いてあるとおりです。

 発足当初は木造船二隻で始めましたが、この船はもともと砂船を解体し組み立てた老朽船で、作業の不馴れもあり修理に要する時間が非常に多く、暴風、水害等の場合は船が分解するのではないかと心配するほどで、従って生産能力も上らないため、改造に改造を加えて努力してまいりました。しかし、大きな成果がないままついに昭和二十五年、会長の大英断により日本最初の鉄鋼大型の利採取船を建造し、始めて面目を一新した次第です。

 一方貨車輸送の面でも、当初は蒸気機関車によって南大塚駅までの引き上げをしていましたが、けん引重量が少ないため、途中で貨車を切り離したり、入換中に作業不能になって川越機関庫まで給水に戻るという笑話のようなこともありました。しかし、それも鉄鋼船建造と同時に引込線電化が完成し、二十五年下期より本格的な生産に入り、二十七、八年の最盛期には採取船も五隻となり、月産三万トンの関東第一の工場に発展しました。

 その間西武デパートの第一・二期工用砂利の大半を納入したほか、池袋線、新宿線の道床砂利も毎日一こ列車ずつ運行し、一日の貨車入換が五回におよぶほどに事業も伸びたのですが、三十二年ごろから砿区の荒廃、縮少により、逐次採取船を他事業所に移勘しました。

現況

 三十五年四月開設以来十四年間、主として砂利の生産だけであったところへ反発式四型砕石機を新設して、砕石工場を併設するように変貌いたしました。 新たに「バックフオー」で切り込みを採取の上、水洗選別機により砂利、砂、砕石原料を分類するようになり、砂利、砕石の工場として再出発した次第です。

 初めは砕石の生産出荷も不順でしたが、近ごろは埼玉県西南部でも住宅団地を始め大工場の建設が活発で、砂利、砕石の需要が目立って多くなり、また、大宮、浦和方面へも道路用砕石を自動車によって発送しています。

 今月に入ってから最高一日一千トンを出荷する日もありますが、さらに、近く埼玉県朝霞にオリンピック村が建設される見込みなのでますます発展を予想される状態です。

 当所としては、この間狭山市鵜木に三万坪の公園建設に伴なう砂利採取を始め、安比奈工場付近に約六千坪の砿区をすでに確保し、大型可搬式砂利採取機によって増産をはかるつもりです。

将来への抱負

 今後私どもは当社最初の開設採取所という誇りをもって、ますます増産に努力し、月産二万五千トンの目標を達成の上、古い歴史のある引込線その他の各設備を十分に活用し、過去の最盛期に近い成績を早急に上げるよう、従業員一同、一致協力して邁進する所存です。

(小山記)

 

 ついで、西武社内報1960(昭和35)年10月15日号4面から是政砂利採取場の紹介記事を

事業場めぐり(10)

砂利部門の草分け

 深堀採取船で増産進む

 是政砂利

砂利部門草分けの地

 中央線武蔵境駅で西武多摩川線に乗り換え終点の是政駅で下りると、東方に二十五万平方メートルの砿区 (今は大部分水面)と事務所、倉庫等の諸備をもつ是政砂利採取所が広がっています。

 戦後荒廃した国土の復興に寄与しようとの考えから始まった復興社の砂利部門が最初に木造採取船一隻で生産を開始したのがこの採取所で、言わば当社砂利部門草分けの地であり、砿区も採取船も逐次増加され、採取の方法も幾度か改変されはしても、常に東京周辺に於ける砂利採取の重要事業所と して「良質の多摩川産砂利」の名のもとに都内各地に輸送された総量は実に数百万トンに及び、建物に道路に、国土の復興に大いに役立って来たと自負している。

類のない深掘採取船

 年々需要に追われ、増産につぐ 増産は普通型砂利採取船二隻による砂利の採取で、七年間に十五万平方メートルの砿区もついに人造池に化してしまった。

 普通ならばこゝで砂利採取の事業は終止符を打つところであるがボーリングの結果、深さ十メートルまではまだ砂利層であることが確認されたので、何等かの方法によって全部が採取できないかということが問題となり、加藤事業部長の発案で関係者が種々検討を加えた結果、他に例をみない深掘採取船が建造されて昭和二十九年四月に進水した。

 これは偏えに、日頃からの会長殿の指導にもとずく遊休施設の活用が形を変えたものであって、当社技術陣の研究と現場の努力で更に磨き上げられた他に類をみないすばらしい着想であると考える。

 この採取船の就役によって、一旦は水面と化した十万平方メートルの砿区も再び生産の場を得て、従業員も安心して増産に励むことができ今日に至っている。この間において、砂利を採取しつゝ競艇場の建設に従事したことも忘れられない思い出である。

設備と作業の概要

 当初は採取船によって八分砂利だけを採取していたのが、新小金井の旧関東石産(現当社小金井砕石工場)に原料玉石を供給するようになり、年をおってその生産量は増加し砿区の拡大ならびに製品の多種需要に伴なって、陸上選別機を逐次設置し、貨車積の合理化を計って今日に及んでいる。元来本採取所は堤防の外側の平地から採取しているので、洪水等による流入砂利は望むべくもなく、採取すれば池となってしまうので前記の深堀船が考案されたものである

 深掘船は船体の主モーターは五十馬力で、バケットコンベアーによって深度十メートルまで掘さくし、受船と操舟機により水上曳航して着船場につく。ここからガソリンカ ーによって原料ビンに投入され、水洗装置で各種のサイズに選別さ れ、玉石は直接貨車に積み込まれ小金井砕石工場へ送って砕石の原料となる。砂利、砂は先年までは貨車輸送であったものが、近内自動車輸送の発達によりほとんどがダンブトラックに依存するようになった。現在では西武運輸の出張所が是政にあって大半を都内所の需要地に送っている。

 この是政本工場に隣接している常久採取所では、採取船ならびにドラグラインにより直接にダンプトラックへ原料を積み込み、更に下流の調布採取所では、ドラグラインにより採掘したものを同様の方法によって、是政の三基ある水 洗機に輸送し前記同様製品化している。

 以上の設備を次に列記すれば

 水洗機 三基

 深堀採取船 三隻

 普通採取船 二隻

 ドラグライン 二基

 受船 十隻

 操舟機 四台

 ダンプカー 二十台

 ショベルローダー 一台

という大きな規模の綜合工場を形成している。

結び

 是政及び常久の献区は前記のように砂利をほとんどとりつくしたので、先に中河原の埋立によって紙上に紹介されたとおり、国土計画の手によって埋立工事が開始され、是政二万五千平方メートル、常久三万平方メートルがすでに埋立を完了して引き続き継続中で、毎日延千五百台のダンプトラックが、多摩川対岸の稲城山より山の切取土砂を運んで埋め立てているので、近い将来実に三千万平方メートルに達する一大住宅地が造成されるであろう。今更ながらわれわれの従事している事業の東大なことと、会長殿の事業の偉大さに驚くとともに、この作業に従事できることに誇りをもつものである。

 いままた第三水洗機の完成を見この事業の更に飛躍する時期にあたり、月産四万トンを六万トンに引き上げ御期待に答えるよう最善の努力をつくしたい。 (細田記)

 

 最後に、西武社内報1961(昭和36)年8月15日号4面から河辺(かべ)砂利採取場の紹介記事を

事業場めぐり(15)

砿区広げ増産に拍車

良質安山岩の砂利生産

河辺工場

 

位置と現況

 中央線立川駅で青梅線に乗りかえ約三十分、河辺駅で降りると正面に見えるのが萩島石材工業(株) 河辺工場である。(徒歩七分)
工場の南側には二本の貨車積込線があり、専用側線で河辺駅と結ばれている。工場には選別及洗条プラントとクラッシャー(破砕する機械)プラントがあり、二つの櫓を中心にそれぞれベルトコンベアーとバケットエレベーターで結ばれている。

トラックで河原から進んでくる原石はプラントに間断なく送りこまれ、クラッシャーが原石を喰む音が威勢よく響いている。製品は品種別に貯えられ、トラックでひんぱんに運び出されている。

沿革

 当工場は大正十四年河辺砂利合資会社として発足、河辺駅から約一キロの専用側線を敷設し、多摩川でとれる良質安山岩の砂利類を生産していた。(この地域の砂利は元宮内省御用のもので富士火山系に属する。)

 昭和三年に昭和石材社と改名、二十二年株式会社に組織替えし、三十一年九月堤会長の傘下に入り西武鉄道・復興社から資金援助をうけ財政的に安定した。三十五年六月本社の設計指導で工場を大改造して、現在のような近代的設備となった。その結果、生産は急速にのびて、三十四年度、月産五〇〇〇トンだったものが三十五年度は一三、〇〇〇トンと増加した。

 三十五年九月不動産課の尽力により、いままでの砿区の上流に約二倍に相当する広大な新砿区を入手することができ、ようやく赤字工場の汚名を返上して黒字経営に出発する機会を得た。同年十一月萩島石材工業(株)と合併し、同社河辺工場として、今日に至っている。

工場のあらまし

工場敷地 一万三千平米

多摩川砂利砿区 五万五千平米

設備

選別洗条プラント=砂利類用、砕石用各一棟。ホッパーベルトコンベア附帯設備=原石用、砕石用各1式。インペラーブレーカー=一基、パワーショベル=一台、ブルドーザー=一台、ショベルローダー=一台、専用側線=1キロ

私たちの信条

 従業員一同は、昭和三十一年堤会長のけいがいに接してから、心機一転して業績向上に励んできました。幸い会長はじめ関係各位の一方ならぬ御指導により、今日のような立派な工場に生れ変ることができました。 私たちはこれに報いるよう感謝と奉仕の信念を身につけ、今後ますます増産に励む覚悟であります。

(石井)

 

  

 詳細な社史が無い西武鉄道関連では、西武の社内報が、貴重な一次資料である。 

 私は、

■公益財団法人三康文化研究所附属三康図書館http://sanko-bunka-kenkyujo.or.jp/sanko_tosyo.html 

■早稲田大学大学史資料センターhttps://www.waseda.jp/culture/archives/ 

を利用させていただいております。 

 

 皆様の妄想の「深堀掘削」にお役に立ちましたら幸いであります。

| |

« 中央道建設反対の背景に、石川栄耀の戦中の遺産?亡霊?「防火保健道路」があった? | トップページ | 1957年国土開発縦貫自動車道建設法のルート思想とは? ~日本の戦後高速道路ネットワークの推移(1)~ »

鉄道」カテゴリの記事

堤康次郎・西武・近江鉄道・伊豆箱根鉄道」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 中央道建設反対の背景に、石川栄耀の戦中の遺産?亡霊?「防火保健道路」があった? | トップページ | 1957年国土開発縦貫自動車道建設法のルート思想とは? ~日本の戦後高速道路ネットワークの推移(1)~ »