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2020年5月20日 (水)

昭和22年に田中清一が作成した初期縦貫道案~日本の戦後高速道路ネットワークの推移(4)~

 読者の方は、そろそろ7600km構想に行くんじゃないかなーなんて思われるかもしれないが、実は、更に時間を遡るのである。

 第3回は、田中清一が1949(昭和24)年に昭和天皇に縦貫道の「田中プラン」を説明した話を書いたが、そこに至る前段としてはこんな話がある。

田中清一の縦貫道構想(最初期) (12)

「中央自動車道建設をめぐる政治力学ー田中清一プランを中心としてー」栗田直樹 愛知学院大学論叢第39巻第1号10~11頁から

引用文献の(6)は、「東久邇宮日記 日本激動期の記録」東久邇宮稔彦・著 徳間書店・刊 232頁

 

 田中清一は、1945(昭和20)年の敗戦直後から各方面に働きかけをしていたのである。

 ということで、今回お見せする図面は、田中清一が東久邇宮に説明してから昭和天皇に説明するまでのちょうど間になる、1947(昭和22)年のものである。

田中清一の縦貫道構想(最初期) (5)

(以下、青焼き図面は、富士製作所において保管されている資料を閲覧、撮影させていただいたもの)

 ※左上の「国土」の字が2回出てきたりするのは、複数枚に分けて撮影した写真を「image composer」でひっつけたときに上手くいかなかったものである。

田中清一の縦貫道構想(最初期) (13)

 「国土開発自動車道予定路線及び接続主要道路又は一般自動車道」という題名。

 「縦貫自動車道」ではない。

田中清一の縦貫道構想(最初期) (4)

 「昭和22年3月23日著作」とある。

 ざくっと見ると、今まで見てきた縦貫道の路線図のなかで一番まともというか現実の高速道路に近いというか既存の鉄道路線に近いというか。。。といった感想をお持ちになったのではなかろうか?

 田中清一は、5万分の1地形図を丹念に調べ、実際に現地を踏破しながら縦貫道の案を練り上げていったというが、初期はそんな余裕もなく、既存の鉄道路線が記載された地図を見ながら高速道路網を落としていったためではないだろうか?

 その後、「背骨と肋骨」といった思想が優先されていったのではないだろうか?(地図の題名にも「縦貫」と入っていないし。)

 また、例によって各地方毎に見ていこう。

田中清一の縦貫道構想(最初期) (7)  

 北海道は、道東へ向かう路線が、 勇払から日高山脈を越えることになっている。日勝峠と日高横断道の中間くらいだろうか?旧国鉄富内線よりも更に南か?

 長万部~札幌間は、最初からぶれずに中山峠経由の最短路だ。

 それ以外は基本的に国鉄の路線をなぞっているような感じである。

田中清一の縦貫道構想(最初期) (8)  

 北東北地区も各地への「肋骨」路線の曲がり方が国鉄っぽい。 また、津軽半島と下北半島の両方へ支線が伸びている。

田中清一の縦貫道構想(最初期) (6)  

 新潟へは、関越自動車道ルートと磐越自動車道ルートの二本が引かれている。 

 最も注目すべき点は、東北道が「西東京(調布あたりか?)」から、関越道の更に西側を北上し、熊谷、舘林あたりを巻いたループを描きながら宇都宮に至る点である。

田中清一の縦貫道構想(最初期) (3)  

 身延から静岡へ抜ける肋骨線は、以降の絵では直進しているが、この線はあきらかに国鉄身延線に影響されているであろう。田中清一氏は、戦前に沼津に富士製作所を移設して以来、静岡東部には特に地理感があると思われるが、それでもこの頃は直進していない(いわんや、東北、北海道をや)というところだろうか。 

 紀伊半島に三本の支線が伸びているが、当時はまだ国鉄の紀勢本線は東線、西線に分断されており、国鉄ですら一周していない頃である。林業開発等に期待を寄せていたのだろうか?

田中清一の縦貫道構想(最初期) (2)  

 中国地区は、山陽道がないくらいで、今のネットワークに近い。 

 注目すべきは四国である。今まで、高松が四国自動車道の本線から離れた支線扱いという冷遇ぶりを説明してきたが、最初期は、徳島が起点ではなく、高松起点(本州とは 、玉野ー高松で連絡)となっているのである。

 それが、何等かの理由で、少なくとも1949(昭和24)年以降は、「徳島が起点で高松は支線」という扱いになっている。本四間の連絡を神戸ー鳴門ルートに一本化した故なのかもしれない。

田中清一の縦貫道構想(最初期) (1)  

 九州も、東九州自動車道が無いことを除けば、今の高速道路ネットワークに近い。 

 興味深いのは、長崎への路線が、西海橋経由となっているところである。ただし、実際に西海橋が着工したのは、1952(昭和27)年、竣工したのは1955(昭和30)年である。 

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 全国図はこれくらいにして、中央道の古いバージョンの青焼き図面も保管されていたので紹介したい。 

田中清一の縦貫道構想(最初期) (9)  

 「国土開発中央自動車道案略図」である。

田中清一の縦貫道構想(最初期) (10)  

 八王子ー横浜間に国鉄横浜線に沿った支線状のものが見られるが、他には支線のような記載がない。 

 先にあげた1947(昭和22)年の「国土開発自動車道予定路線及び接続主要道路又は一般自動車道」よりも古い図面である可能性がある。 

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田中清一の縦貫道構想(最初期) (14)  

 また、「TOKYO-KOBE SUPER HIGHWAY ROUTE」と題された青焼き図面も保存されている。

 栗田氏の論文にあるGHQへ説明したものだろうか?

 この図面で注目すべき点は、東名高速道路ルートが「SEPARATELY PLANNED ROUTE」とされていることだ。

 田中清一氏をはじめとする「縦貫道派」は、「東海道派」と激しく対立した(当時の敗戦国日本の体力では二本同時に施工することは困難とみられていたことも背景にある)のだが、この図面が作成された頃は、東海道への高速道路の建設も「SEPARATELY PLANNED ROUTE」扱いとなっていたということである。

 それが、どこかの段階で対立する敵対案に変わっていったわけだ。

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田中清一の縦貫道構想(最初期) (11)  

 前の図面は「国土開発中央自動車道案略図」であったが、この冊子は「資源開発中央道の建設に就て」である。

 後に縦貫道派の中でも「あまり資源開発いうな」という点で問題になったのであるが、それは別途。

 この冊子の「新日本の建設と世界の楽園」というキャッチが気になった方もいらっしゃるかもしれない。

 次回はその辺に逸れてみよう。

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