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2020年5月16日 (土)

中央道建設反対の背景に、石川栄耀の戦中の遺産?亡霊?「防火保健道路」があった?

中央道烏山北団地2

中央道烏山北団地

いずれも「道路セミナー」全国加除法令出版・刊から

 世田谷区の烏山北団地での中央道建設反対の様子が動画に残っている。

 3分過ぎに出てくる「建設第一部長」は、「道路の日本史」等の著作で知られる故・武部健一氏である。

武部健一と中央道

 2015(平成27)年6月13日付朝日新聞 be on Saturday 「みちのものがたり 中央自動車道」から

 ここが拗れた理由の一つに「路線の変更」があるという。

中央道路線変更

 「蟻んごの闘い-道路公害に命燃えて」井上アイ・著 12頁から引用

 そして、その路線変更の背景には、戦前の都市計画で定められた「防火保健道路」があった。

 この経緯を追ってみたい。

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■当初の中央自動車道計画 

 中央自動車道の起点は、本来は渋谷区幡ケ谷の東京第一インターチェンジであり、現在の起点の高井戸インターチェンジは東京第三インターチェンジであった。 この書類は、1961(昭和36)年当時のものである。

中央自動車道 南アルプスルート詳細図4  

 中央自動車道報告書3

 この辺の詳細な経緯はhttp://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/04/post-c50d.htmlで。 

(1963(昭和38)年当時のカラー図面は、こちらhttp://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/post-0e8f.htmlもご参照のほどを) 

 当初は、首都高速道路は環状6号まで、環状6号からは日本道路公団の高速自動車国道(東名高速道路及び中央自動車道)とされていた。 

 この境界は後に建設省と東京都の間で協議され、現状の環状8号若しくは東京外環道に変更されている。 

中央自動車道 南アルプスルート詳細図5  

 現在の地図と比べてみよう。 

 

 現在の高井戸インターチェンジは、京王井の頭線の南側で、そのまま甲州街道へ南下して新宿へ向かうが、当初は京王井の頭線の北に東京第三インターチェンジを置き、そのまま甲州街道と青梅街道の間を真っすぐ新宿へ向かうルートのようだ。 

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  ところで、上記の中央道幡ケ谷起点の計画が生きていた同時期に、別の経路を示す図面がある。

 東京都の「道路整備事業10年計画」である。 

 これは東京都首都整備局が作成したもので、「昭和36年度を初年度とし、昭和45年度を終期とする道路整備事業計画を図示したものの」とされている。(「首都圏整備計画・都市計画」東京都 1964年・刊 18頁から引用) 

東京都道路整備事業10年計画0

 首都高3号線が東名高速ではなく、第三京浜道路に直結しているなあといった見どころもあるが、首都高4号線~中央道は、現在のルートのように甲州街道の途中から北上するようになっている。ただし、外環道と中央道の接続部となるジャンクションは現在よりも北側だ。 

 また、放射5号が、甲州街道と環状8号の交差点から北西に伸びている点も違う。現在は、中央道に沿って北西に向かっている。

東京都道路整備事業10年計画02

 同じ、昭和36年の段階で国と東京都では首都高4号~中央道のルートについては、違うルートを考えていたことになる。 

中央道と防火保健道路

 ところで、東京都のルートの根拠となったものと思われる資料がある。 

  東京都首都整備局都市計画部が作成した「東京都市高速道路調査報告書」である。

  先に述べたように、当初の首都高速道路のエリアは環状6号線内であったが、それを外環道まで延伸するための調査報告である。

東京都市高速道路調査報告書0

東京都市高速道路調査報告書03

 そして、4号線の延長部分の説明が下記である。 

東京都市高速道路調査報告書02

 「東京都市高速道路調査報告書」3頁から引用。

 ここに「環状7号線からは50mの保健防火道路の計画を利用して玉川上水上を通り」と出てくる。 

 では「保健防火道路」とは何か?世田谷とか杉並とかややこしそうなところに「50m」もの巾があるのか? 

防火保健道路0

昭和17年4月22日付官報から引用

  これの「2号 玉川上水線」が確かに「50米の幅員」があるのである。

 首都高4号線と中央自動車道は、この昭和17年の都市計画の幅を使って玉川上水の上に作られたのである。 

  では、戦中の1942(昭和17)年に都市計画決定されたこの道路はいったい何なのか?

 これを追ってみたい。 

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 「防火保健道路」の実現には石川栄耀氏が寄与しているということでよいのだろうか?

石川栄耀

「東京都を食い物にする男たち 三十間堀埋立に踊るボス群」から似顔絵を引用

 石川榮耀氏がどのような方かというのは、私がガタガタ言うよりも 

http://ud.t.u-tokyo.ac.jp/resources/_docs/%E9%83%BD%E5%B8%82%E8%A8%88%E7%94%BB%E5%8F%B23%E3%80%80%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E6%A0%84%E8%80%80.pdf 

や 

http://eiyoukai.la.coocan.jp/history.html 

をご覧いただければよいのだが、戦前戦後の東京のみならず日本の都市計画の理論と実践に大きな足跡を残した人で、都市計画屋さんからすると神様みたいな人のようだ。今でも石川賞というのがあって、土浦ニューウェイが受賞するような賞である。 

 

 その石川栄耀氏が「保健道路」についてこう語っている。 

(略)

 さて、自分等は都市人の保健上よりしても、又、慰楽よりしても「散歩に適した道路」の必要性を痛感してきた。

 「ダンスは躰によって音楽を味ふものなり、散歩は躰によって都市美を鑑賞する方法なり」とは自分が緑地協議会で弁じた所である。

 芸術(の一種)を通して健康を得る。

 此は非常時局と云はず、いずれの場合と云はず都市計画技術の任務であると思ふ。

 我々が土木道路から緑地道路の分野に熱を以つて半回転せんとする所以である。

 (略 ニューヨーク、ボストン、カンサス、ウエストチェスターの緑道計画を説明)

 かく、外国に於て五十年に近き旺んな歴史を持つ緑道が何故に日本に於て今日一本もないか。

 世の中に此に勝る不思議はあるまい。

(略)

 さて、かくして東京緑道計画となるワケであるが、実は此れは内協議の形を了した丈で、未だ法律上の力を有するに至つて居ない。

(略)

 先ず先づ我々は云ふまでもなく、東京緑地協議会で決定された行楽道路計画を有する。

 計劃の大要は次のとおりである。

 一、東京緑地計画行楽道路 延長3,629粁

 内 歩車兼用道路 2,771粁(略 東京、神奈川、埼玉、千葉)

  遊歩道路 858 

(略) 

 続いて、我々は現在市城内-にして郊外に当る部分の水路沿ひ等の地を相し、徒歩の専問の行楽道路を計画してる。 

 称して保健道路と云ふ。 

 延長244粁。(工費約2200万円) 

 その幅員12米。(水路の幅員を含まず) 

 加へるに騎馬道35粁。 

 騎馬道は又、乗馬公園を結ぶ事になつてる。 

 此の保健道路選定には大した理論はない。現在の風致よき水辺を保留する事とそれに直接してる車道を引き離す事である。 

(略) 

 

「東京『緑道』計画解説」石川栄耀・著 「公園緑地」1939(昭和14)年 2号/3号 91~102頁から引用

 石川栄耀はこの稿を「緑道救国!」の言葉で締めくくっている。

 ただし、この稿では「保健道路」の趣旨と総延長244kmしかでてこない。

 次に、244kmのうち玉川上水:現首都高4号線及び中央道となっている区間が出てくる記事を紹介したい。

 第一章 保健道路の使命

 一国々民の体格の優劣、体力の強弱如何は国運の消長、国家の存立にも関する重大問題である。

 然るに我が国民の保健状態を欧米主要諸国のそれに比較するとき、甚しく遜色があるのは国家の為洵に遺憾とするところである。

(略 一般死亡率と結核死亡率の国別比較)

 玆に於て、我が国民の健康増進体力向上等保健衛生に関する方策は、刻下の重要国策となつたのである。

 殊に今や日支事変は長期戦に入り、戦争は単に武力戦のみに止らず、遂に国家総力戦となり、人的資源の涵養は直接強力な戦闘員を供給するため、且つ又生産力拡充に要する労働力を供給するための、二重の意味に於て重要性を有するのである。 

(略) 

 近時我が国に於ける人口は大都市集中の傾向益ゝ激しく、密住生活における市民体位の低下は愈ゝ甚しいものがある。 

 今試みに、壮丁の体格に付き大都市と地方農村とを比較してみるに、甚しき逕庭を認められ国家の前途洵に深憂に堪へないものがある。 

(略 東京、大阪と全国平均の壮丁体格検査比較表) 

 右表に明かなる如く昭和10年の丙丁種即ち不合格率(千分比)は全国平均の3割8分に対し、東京、大阪両市共4割6分台であつて、殊に内地人口の1割を占むる東京市の不合格率が大正14年の3割1分より年毎に増加して、昭和10年には4割6分に激増してゐる状況に鑑みるも、国家将来の為大都市に於ける市民の体位向上は正に刻下の急務である。 

 大都市に於ける市民の健康増進、体力向上には多々方策があるであらうが、中に就き老若男女誰にも容易に直く実行のできるのは歩くことである。 

 即ち歩行は自然に遠ざかり運動不足となつてゐる市民にとつて、通学、通勤に、日曜祭日の郊外散歩や遠足或いは国体的強行軍等、気軽に而も手軽に実行の出来る自然の与へた最上の健康法である。 

 然るに、歩行の実行に当つて問題となるのは、大都市に於て未だ特に歩行者の為にする道路施設のないことであつて、歩行専用道路要望の声は最近頓に高まつてきたのも之が為である。 

 是が今同保健道路計画を樹立せんとする所以であつて、この計画実現の暁に保健道路の帝都市民に対する魅力は如何ばかりであろうか。 

(略) 

  

「東京保健道路計画」 都市計画東京地方委員会・著 「全国都市問題会議総会文献第6回 第2 都市計画の基本問題(下)」 1940(昭和15)年 143~148頁から引用 

 石川栄耀が1939(昭和14)年に発表して1年で随分戦争の色を濃くした内容となっている。 

 日本人は欧米諸国より体力が劣り、都会人は地方人より兵役の合格率が劣るので、国家の存立に関する重大問題として東京に気軽に運動できる歩行者専用道路を「保健道路」として作ろうというストーリーになった 

 そして下記が同文献中に示された保健道路計画一覧表である。石川栄耀のいう244kmの内訳でもある。 

東京保健道路計画一覧表  

 この6号玉川上水線の一部が、現在首都高4号線及び中央自動車道となっている。 

 東京保健道路計画図1

 全体の位置図から「玉川上水線」部分を切り出してみる。 

東京保健道路計画図2玉川上水線  

六 玉川上水線

 これは東京府北多摩郡小平村字上鈴木から東京市淀橋区角筈三丁目に至る延長約22,250米の線であつて、幅員は22米乃至51米とし、花の名所小金井に就ては特に老桜の保護、風致の保存、危険防止等を考慮して、府県道を付替へ幅員51米の大緑地帯と化する計画にして、境橋、井之頭公園、烏山二子線起点間には4米の乗馬道を設け、又新水路利用区間は村山貯水池への自動車の連絡を考慮して幅9員米の車道を設け、沿線に広場13箇所を設ける予定である。

 玉川上水は徳川時代の大水道工事の一であつて、このコースは小金井から玉川上水に沿つて和田堀浄水場附近に至り、此処から淀橋浄水場迄は新水路を利用する。

 上流は史蹟に指定された延長約3粁に及ぶ小金井の桜で花季は観花客で雑踏を極めている。

 地勢は平坦にして、北側は畑や山林が多く土手には野生の薄が一面に生へ茂つて銀の穂をそよかせて武蔵野の野趣を偲ばせ秋の稲荷橋附近は満堤尾花に埋るの概あり秋草と蟲聴きも亦武蔵野の一大特色である。

 境には東京市の浄水場があつて新旧時代の上水道のコントラストも興深く桜上水の桜も中々見事である。

 明大(予科)や本願寺墓地前の厚い雑木林に覆はれた小暗い中を音もなく忍びやかに流れていく上水風景はこゝならでは見られぬ情景である。

 尚沿線には井の頭恩賜公園があり清水湧く池の周囲には松、杉、檜、楢等が鬱蒼として繁茂し水の公園、森の公園として、プールあり、緑陰あり、林地ありて市民の一大慰業地である。

 新水路の沿線は人家連亘して既に住宅地と化してしまつている。

 

「東京保健道路計画」 都市計画東京地方委員会・著 「全国都市問題会議総会文献第6回 第2 都市計画の基本問題(下)」 1940(昭和15)年 157~159頁から引用

保健道路玉川上水線  

  同稿158頁に掲載された玉川上水線の標準断面は上記のとおりである。歩道だけでなく、「乗馬道」も備えられていることがお分かりであろうか?

  

 ここまで、戦争の色濃くなるなかで、保健道路の位置付けが変わってくるところを見てきた。 

 その後、太平洋戦争が開戦されると、「保健道路」が「防火保健道路」となった。 

(略 国木田独歩の武蔵野描写を引用しつつ東京の若者の体力低下を問題視)

 又保安上より考慮する場合は、平時の火災、震災時に於ける防火或は避難の為のみならず空襲時の対策として、幾多の貴重な問題がある。大東亜戦の宣戦布告以後4ケ月にして甚だ遺憾乍ら敵機の潜入を許したが、此の貴重なる経験に徴して見ても密集市街地の疎開、空緑地の保存拡充が極めて緊急必要である。

 今般以上の様な風致保存、体位向上、疎開市街地造成等の諸種の使命を有する広幅員の道路を、東京市並に其の近郊の武蔵野町、調布町等の都市計画施設として決定したものを玆に略述する。

 計劃目的

 道路の重要なる使命は一般交通の用に供するにあるが、其の他多数の使命を有する。殊に市街地の道路即ち街路は、街廊を構成すること即ち、建築施設や自由地施設の敷地の形態を決定すること、都市の美観を形成すること、慰楽厚生の施設を兼ねること、市街地防災の地帯となること等の使命がある。

 然らば之等の使命が従来考慮され或いは施設されたであらうか。その中今度の計画街路に関係のある項目に就て若干考慮して見よう。

 防災地帯としての道路

 葛西、震災或は風水害等の災害に対して、一般に道路が消防、避難、救護等の諸活動を為すのに役立つのは勿論である。其の他消極的には防火帯としての使命もある。故に空襲等の人工的災害に対しても極めて重要である。或は云ふ空襲は全面的に行はれる虞れがあるから、斯る路線的防災地帯は不適当であると。これに対しては今度の事例を見ても説明を要せぬ処である。

 然らば過去に於て防災道路として施設されたものがあるか、実現されたものは尠ないが機会のある毎に計画しつゝある。

 更に古くは徳川時代江戸市中は再々大火に見舞れ、彼の有名な明暦大火後六間道路を十間に拡張して防災の目的に資したが、其の後も大火が絶えずその度に各所に広小路或いは火除地(防災の為の空地)を設けた。降つて明治初年には再度銀座に大火があつたので大略現在の幅員の銀座通りに復興せしめた等の歴史がある。

 新しく防災道路として計画実施されたものには、函館或は静岡の大火後の復興に36米乃至50米のものがある、又最近の新興工業都市等の街路計画には何れも防災目的を考慮して広路を配置してある。

 都市美構成分子としての道路

(略)

 遊歩道としての道路

(略)

 

「防火保健道路」奥田教朝(都市計画東洋地方委員会技師) 「道路」1942(昭和17)年6月号 27~28頁から引用

 今までの保健機能や都市美化としての保健道路から、空襲を考慮した防災機能が最前に出されている。

 また、前回の244km構想よりも計画は縮小されている。

防火保健道路一覧

防火保健道路位置図

 幅員 

 幅員は保健或は風致保存の点よりしては基準となるべき根拠がない。防火的考慮をする場合は将来両側が密集市街地となつても(略)延焼を防止し得、且消防或は避難活動をするに充分な幅員として50米を一応の標準としている。 

 此の幅員は河川敷或は水路敷を中心として両側に当分に計画してあるが、土地の状況より止むを得ず30米位とした処もある。又大なる河川の堤防敷を供用する処は堤外に軒先通路を見込める位の幅員即ち堤防の高さにもよるが堤内側の法肩から30乃至40米を探つてゐる。 

(略) 

「防火保健道路」奥田教朝(都市計画東京地方委員会技師) 「道路」1942(昭和17)年6月号 27~28頁から引用

 先の計画では玉川上水線の幅員は22~51mとされていたが、ここで防火のために必要な幅員として「50米を一応の標準としている」ということになった。 

 これで、戦後に高速道路が収まる幅ができたということになる。 

防火保健道路標準断面図  

 この図は「玉川上水線の標準横断図」との説明がついている。「50m」という数字が見えるだろうか? 

防火保健道路0  

 そして、「防火保健道路」の報文の約1年後に、玉川上水線(2)の部分が幅員50mで都市計画決定されたわけである。 

(防火保健道路は数回に分けて都市計画決定されている。上記はそのうちの1つである。(参考「近代街路の景観計画・設計思想発展史に関する研究」天野光一)

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 随分時空を遡っていたが、20年後の東京に戻ろう。 

 前述のように、防火保健道路玉川上水線の都市計画を活かそうとする東京都側と、中央道建設を担当する日本道路公団側との調整が行われたのだが、道路公団側ではこう残している。 

中央道路線選定に係る東京都都市計画との調整  

「中央自動車道高井戸~調布間の開通」河内稔典(日本道路公団維持施設部長 前日本道路公団東京第二建設局建設第一部長)・著 「道路」1976(昭和51)年7月号23頁から引用

 

 調布以東の区間は東京都との都市計画との調整に時間を要したとし、調布以西の区間にくらべて約4年間路線の発表が遅れたとしている。 

 よく「反対派のせいで開通が遅れた」というのがあるが、実際には大都市区間だとこのような行政内部での事前調整に時間を要していることもあり、全てを反対派のせいにするのは適切ではない。このような事例は東北新幹線大宮以南でも「一旦東北新幹線の路線を発表したけども、其の後上越新幹線の新宿ルートとの調整に国鉄内部で時間を要したため実質的な地元行政との調整が進められなかった」というような件もある。 

 また余談であるが上記文中「設計速度の相違から都市間高速と都市高速を直結することに問題があり、むしろ(外環を通して接続することで)間隔を置く千鳥型がよい」とあるが、先にお見せした東京都の「道路整備事業10年計画」で東名高速と首都高速が直結していないのは、まさにそういうことである。100km/hの東名と60km/hの首都高は直結せずに間に外環をはさんで千鳥型に接続すべきという考えだったのだ。 

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 閑話休題。中央道と東京都の調整の話に戻ろう。 

 上記河内氏の報文の更に詳細な経緯が「中央高速道路工事誌」に掲載されている。 

中央道路線選定に係る東京都都市計画との調整2  

中央道路線選定に係る東京都都市計画との調整3

「中央高速道路工事誌」日本道路公団高速道路八王子建設局・刊 118~119頁から引用 

 

 上記の「62年当時における高井戸インターチェンジの計画」とは、先の河内氏の報文中の中央道の施行命令を日本道路公団が受けた年である。 

 「図2-34」には「旧ルート」とある。 

  井上アイ氏が語る「中の橋を起点に広い畑の中を通るルート」というのはこの「旧ルート」だろうか?

 それが東京都の放射5号の計画変更に伴い、「新放5」とともに幅員50mの「防火保健道路」に入ることとなった。

 その計画変更の手続きが、井上アイ氏の語る「昭和41年の都市計画審議会」である。

 これが「旧ルート」のままなら、少なくとも烏山北団地は通過していないと思われる。

団地と高速道路 (1)

「野村鋠一顧問 談話録」編集・発行 財団法人東京市政調査会 67頁から引用 

 しかも、東京都は団地入居時(1965(昭和40)年に入居募集開始。翌年から入居開始。)に高速道路通過を事前説明していない。 都市計画変更直前のことである。

 これが冒頭の写真にもあるような反対運動に繋がったのだ。

 井上アイ氏の「蟻んごの闘い」にも山田正男に直談判しに都庁へ行った様子が残されている。

 ちなみに、首都高速道路を運河や河川の上に持っていったのも山田正男氏である。

 ここでも玉川上水の上に首都高と中央道を持ってきたのか。

 なお、東京都建設局長のポストは石川栄耀や山田正男が歴任している。(石川が旧内務省の官僚だった山田をスカウトしてきた。)

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 其の後、中央自動車道は1976(昭和51)年に供用開始した。 

 そして、放射5号は紆余曲折を伴いながら、2019(令和元)年に供用開始した。 

放射5号線

  戦前の防火保健道路としての都市計画決定からは実に77年ぶりのこととなる。

  昭和36年の「東京都市高速道路調査報告書」では、久我山二丁目を経て三鷹市下本宿までが首都高速4号線の計画だったので、そのまま計画が実行されていれば、上記の赤い事業区間も玉川上水の上を高速道路が走ることになっていたはずだ。

 東京都市高速道路調査報告書03

放射5号線と防火保健道路  

 旧都市計画の幅員50mは、防火保健道路玉川上水線のそれである。

「東京の都市づくり通史 第2巻」東京都都市づくり公社・刊 241頁から

 放射五号の事業の進め方については、下記のサイトをご覧いただきたい。

■東京都第三建設事務所 街路整備事業

https://www.kensetsu.metro.tokyo.lg.jp/jimusho/sanken/doro_seibi_zigyokasyo.html 

■杉並区 玉川上水・放射5号線周辺地区まちづくり

 https://www.city.suginami.tokyo.jp/kusei/toshiseibi/machi/1013923.html

  

 中央道と玉川上水暗渠

 中央自動車道と玉川上水の暗渠と開渠の分かれ目(放射五号事業完成前に撮影したもの) 

 

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