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2020年8月31日 (月)

豊島園遊園地モノレール「空飛ぶ電車」は国鉄三木忠直の指導で日立が作った「弾丸列車の試作品」

 西武のとしまえん遊園地が営業終了するという。

 ところで、私のブログの趣旨でいけば、豊島園のモノレールに触れなければならない。

日立と豊島園モノレール (2)

日立と豊島園モノレール (3)

日立と豊島園モノレール (1)

 メーカーの日立製作所の技報に世界の実用車と肩を並べて堂々と遊園地の遊具が載っている。

 これには訳がある。西武の社内報に下記のような記事が掲載されている。


 今中央広場に偉容を誇っている「空飛ぶ電車」は、もう七、八年前にできたものであるが、当時国鉄の技術研究所で、三木さんが研究されて居った「モノレール電車」の構想が、某新聞に載って居ったものにヒントを得て、同氏の指導を受けながら、車体を日立製作所の笠戸(山口県)工場で製作させ、架構を清水建設に建設させたものである。今年になって上野公園にやっとできた東京都が日本初めてと自称する懸吊電車も、とうの昔豊島園にできていた「空飛ぶ電車」と同構想のものである。この際「空飛ぶ電車」という名称の名付親は宮内常務であることを附記しておく。

 

「復興社の事ども(3)」 復興社事業部長 加藤 肇

「西武」昭和33年5月15日号掲載

 文中「国鉄の技術研究所の三木さん」といえば、旧軍の航空機研究者で戦後国鉄に入り新幹線の開発に寄与し、その後日本エアウェイ開発等でモノレールの普及にも携わった技術者である。 

 三木氏の報文にも豊島園のモノレールに触れたものがある。 

国鉄三木忠直と豊島園モノレール (2)  

国鉄三木忠直と豊島園モノレール (3)  

国鉄三木忠直と豊島園モノレール (1)  

「モノレールについて」三木忠直(国鉄技研、客貨車研究室長:当時)「電気鉄道」1957(昭和32)年1月号  

 豊島園のモノレールについて「我国でもこの方式(引用者注:懸垂鉄道)のものを子供の乗物ではあるが昭和25年に作った」としている。 

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 では、開業当時の報道を見てみよう。 

豊島園モノレール6  

1951(昭和26)年3月31日 付け朝日新聞

豊島園モノレール  

1951(昭和26)年3月31日 付け読売新聞

 読売の方に気になる書きぶりがある。 

 東京-大阪間を二時間半で走るというわが国最初の”空飛ぶ電車”は国鉄技術研究所三木技師を中心に研究が進められてきたが試作品が完成、来月一日から豊島園にお目見えする

  遊園地の遊具ではなく、思いっきり「試作品」とされている。 

 あわせて当時の新聞広告を見てみよう。 

豊島園モノレール5  

1951(昭和26)年3月31日 付け読売新聞

「世紀の驚異!空飛ぶ電車!出現!」 

 

豊島園モノレール2  

1951(昭和26)年4月7日 付け読売新聞

「東京-大阪を2時間で走る弾丸列車の試作」「空飛ぶ電車!出現!」

 

豊島園モノレール3

 

1951(昭和26)年4月21日 付け読売新聞(夕刊)

「東京-大阪を2時間で走る弾丸列車の試作」「空飛ぶ電車」

  

豊島園モノレール4  

1951(昭和26)年5月26日 付け読売新聞(夕刊)

「東京-大阪を2時間で走る空中弾丸列車の試作」「空飛ぶ電車」

  

 一回一回微妙にキャッチコピーが異なっている。 

 なお、広告のイラストではプロペラが強調されているが、新聞記事では朝日と読売でプロペラの役割が異なっている。 

 としまえんのウェブサイトでは 

懸垂型プロペラ推進方式を計画していましたが、推力が出ないために台車をモーターで回す方式に変更しました。」 

http://www.toshimaen.co.jp/final.html2020年8月30日閲覧 

 と書かれている。 

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  三木忠直が所属していた国鉄の鉄道技術研究所が創立50周年記念講演会で東海道新幹線構想の実現可能性について触れたのが1957(昭和32)年5月である。

 「弾丸列車の試作品」である豊島園モノレールの完成から6年後だ。 

 場合によっては、豊島園のモノレールが新幹線の原型と言われていたかもしれない。 作った工場も同じだし。

 サンダーバードでも高速モノレールが出てきたし。 

 なお、三木忠直は、国鉄退職後、日本エアウェイ開発で懸垂式モノレールの普及に貢献した。下記の東京~千葉のモノレール構想(未成)が一例である。その後の湘南モノレールや千葉都市モノレールにも参画しており、さしずめ豊島園モノレールは、湘南モノレールや千葉都市モノレールのお兄さん格であるといって差し支えないだろう。

千葉モノレール

1962(昭和37)年1月9日 付け読売新聞

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 なお、豊島園ローラースケート場では堤康次郎の葬儀が1964(昭和39)年4月30日に行われている。 

 各界から弔電が寄せられているが、広尾の堤邸を訪れたこともある俳優アラン・ドロンのそれを抜粋しておこう。

 「堤会長の逝去の報、ただ今拝受いたしました。生前なみなみならぬ親愛の情うけたまわりましたこの偉大な人の逝去に深くお悔やみ申し上げます。ご夫人に謹んで弔意を呈したてまつります。 アラン・ドロン」

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コメント

豊島園のモノレール懐かしいです。
子供の頃、乗った事があります。
確か、子供しか乗れなかったと思いますが、
子供にとっても中は狭かった記憶があります。

投稿: ナショナルキッド | 2021年7月 2日 (金) 19時02分

ナショナルキッド様

コメントありがとうございます。

実際に乗られたんですね。貴重な経験談ありがとうございました。

投稿: 革洋同 | 2021年7月10日 (土) 19時53分

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