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2020年8月 9日 (日)

「日本では高速道路より先に鈴鹿サーキットが出来て、それの舗装を参考にして高速道路が作られた」というホンダの人の話を検証する

 ホンダ創業者で、多摩川スピードウェイで行われた第1回大会にも参戦した本田宗一郎は、レースの勝利とモータースポーツの普及のためには本格的なサーキットが必要であると確信し、自社で建設するよう命を下した。巨額の投資を危ぶむ声もあったが、藤沢武夫専務が自宅を抵当に入れるなどして推進に向けての意見をまとめ、社内にレース場建設委員会が発足した。

(略)

 後にホンダランド取締役となる塩崎定夫がコースレイアウト設計グループの責任者となった。塩崎は鈴鹿製作所の生産管理を担当していたが、サーキット設計に関しては全くの素人だった[6]。1960年8月に最初のコースレイアウト原案を作成したが[7]、この初期案は立体交差が3か所あるという特異なレイアウトだった[4]

(略)

 欧州視察時にはサーキットの舗装を靴べらで削って持ち帰り、舗装工事を受注した日本鋪道KK(現NIPPO)にサンプルとして提供した。その際、さらに施工会社が容易に特殊なサーキット舗装の構造を理解できるように、フーゲンホルツは各地サーキットの走行路の路面の舗装を茶筒状にくりぬいた供試体(サンプルコーン)を調査団に提供した。当時のA.I.C.P.加盟サーキットの舗装路面の転圧、幾層もの舗装の積み重ねかたなどの最先端技術をこの供試体によって日本へと持ち帰ることができた。当時の日本ではまだ高速道路が整備されておらず[注釈 2]、塩崎は「日本では高速道路より先にサーキットが出来て、それの舗装を参考にして高速道路が作られた」と述べている[6]。

 1961年2月、ホンダの全額出資により運営母体となるモータースポーツランド(現モビリティランド[注釈 3])が設立され、同年6月に工事着工。1962年9月にサーキットが完成し、同年11月3日 - 4日にかけてオープニングレースとして第1回全日本選手権ロードレースが開催された[7]。

 

[注釈 2] 鈴鹿サーキット開業から8ヵ月後の1963年7月に日本初の高速道路として、名神高速道路が部分開通した。

[6]大串信 「ゼロから鈴鹿サーキットを作り上げた塩崎定夫に訊く-『まさか50年後にも褒めてもらえるなんて』」『Racing On 総力特集 鈴鹿サーキット (No.461) 』 三栄書房、2012年10月、pp.12-16

 

 wikipedia 「鈴鹿サーキット」 2020(令和2)年8月9日閲覧

 塩崎定夫氏が述べる「日本では高速道路より先にサーキットが出来て、それの舗装を参考にして高速道路が作られた」は、本当なのか?

 時系列だけで見ていると疑問が生じる。

 確かに、日本で最初に開通した高速自動車国道は名神高速道路の尼崎~栗東間で、1963(昭和38)年7月であるから、Wikipediaの脚注2のいうように、鈴鹿サーキットの開業(1962(昭和37)年11月)よりも遅い。

 しかし、道路マニアや廃線マニアの間では有名だが、京都市内(京都東IC~京都南IC)の東海道本線跡地において「山科試験工事」が先行して行われているのである。

 担当したのは奇しくも、鈴鹿サーキットと同じ日本鋪道(現NIPPO)である。

 (株)NIPPO総合技術部部長 山岸宏氏と総合技術部生産開発センター長 相田尚氏が「名神・東名から新名神・新東名への施工技術〜機械化施工からICT・IoT活用の時代へ〜」と題して、土木施工2020年4月号に寄稿している。

鈴鹿サーキットの舗装が高速道路の参考になったというホンダの関係者の話を検証する

https://www.akasakatec.com/_apps/wp-content/uploads/2020/03/doboku-sekou-2020-04_news.pdf

 山科試験工事の工期は、1960(昭和35)年8月〜1961(昭和36)年1月とある。

 鈴鹿サーキットの工期が、1961(昭和36)年6月~1962(昭和37)年9月というから、名神高速の最初の舗装工事が終わってから鈴鹿サーキットの工事が始まったことになる。

「日本では高速道路より先にサーキットが出来て、それの舗装を参考にして高速道路が作られた」というのは、営業開始したのは、確かに高速道路より鈴鹿サーキットが先だが、実際の舗装工事に着手したのは、高速道路より鈴鹿サーキットの方が後だ。

 コースレイアウトの原案は1960年8月に完成した。ヘアピンカーブ2カ所、立体交差が3カ所と変化に富んだ内容であったが、工費などの面で見直しが必要となった。同年12月にプロジェクトメンバーがヨーロッパに飛び、設備、競技規則、運営方法を視察・調査し、レイアウトなどが最終決定された。メンバーはこの視察の際に、コースやアウトバーンの路面を靴ベラではがして持ち帰った。これらは貴重な技術資料となった。大きな技術的課題となっていたアスファルト舗装技術に見通しを付ける足掛かりとなったのである。

 当時、コース舗装を請け負った日本鋪道では、オーバルテストコースの工事経験はあったものの、ロードコースの表面舗装は経験がなかった。視察時にメンバーが持ち帰った路面材料を分析しながら、各地の川砂を研究。木曾川の雑岩を中心としたものに決定したが、その集積に約6カ月を費やした。

(略)

 当時は、名神高速道路の一部が、京都山科地区で工事が始まった状態であり、その工事関係者が鈴鹿に見学にくるほどの注目を浴びたものであった

 

Honda | 語り継ぎたいこと | 鈴鹿サーキット完成 / 1962

https://www.honda.co.jp/50years-history/challenge/1962suzuka/page03.html

 確かに、施工業者は同じ日本鋪道なのだから、お互いに視察したり参考にしたりというのは当然あるだろう。場合によっては名神でできなかった/失敗したことを鈴鹿でチャレンジしたかもしれない。ただし「名神高速道路の一部が、京都山科地区で工事が始まった状態」ではなく、既に工期を終えていたのではないか。

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鈴鹿サーキットの舗装が高速道路の参考になったというホンダの関係者の話を検証する2  

https://www.express-highway.or.jp/info/document/07_50ayumi2.pdf 

 日本鋪道が施工した名神高速道路の山科試験工事の場所では竣工後ただちに「自動車走行試験」が行われている。上記「高速道路50年史」によると、1961(昭和36)年3月からである。これはwikipediaに書かれた鈴鹿サーキットの工事着工である1961(昭和36)年6月よりも先である。

 ホンダがこの自動車走行試験に参加している可能性は高い。となれば、wikipediaに引用された塩崎定夫氏の言とは逆に、むしろ名神高速道路の舗装工事とそれに伴う走行試験の結果を鈴鹿サーキットの工事に持ち込んだ可能性もあるのではないだろうか?

  

 ちなみに、名神高速道路の施工にあたっては、「お雇い外国人」の存在が大きい。 

鈴鹿サーキットの舗装が高速道路の参考になったというホンダの関係者の話を検証する3  

https://www.express-highway.or.jp/info/document/07_50ayumi2.pdf

 舗装については、 ソンデレガー氏とラブ氏の名前が挙げられている。

 「道を拓く -高速道路と私ー」によれば、ソンデレガー氏は1959(昭和34)年2月に「名神高速道路の土質・舗装に関する報告書」を提出し、それらを踏まえて日本道路公団は、1960(昭和35)年春には仕様書を作成している(上記のNIPPOの報文によると、山科試験工事の結果を踏まえ仕様書は修正されている。)。 

 いずれも鈴鹿サーキットの担当者がヨーロッパの道路やサーキットの舗装を靴ベラで削って持って帰ってくるよりも前である。 

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 鈴鹿サーキットの舗装が高速道路の参考になったというホンダの関係者の話を検証する4

 名神高速道路と鈴鹿サーキットの舗装の歴史を時系列で並べなおすと上記のとおりとなる。 

 本来であれば、大串信氏による塩崎完夫氏に係る記事自体にあたってから書くべきであるが、このような状況で国会図書館で原本にあたるのもままならない。 

 また、そもそもサーキット自体が私は門外漢である。 

 有識者の方でアドバイスを頂戴できる方は、ぜひ、コメント欄に記入していただけると幸甚である。 

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(余談) 

 「鈴鹿サーキット」の知られざる奥深い歴史 思わず人に話したくなる蘊蓄100章

https://toyokeizai.net/articles/-/193400?page=2 

 32. 舗装を請け負った日本舗装(現NIPPO)はオーバルテストコースの経験はあったがロードコースは未経験

 33. 日本舗装のスタッフは視察団から提供された欧州の路面材料を分析しながら、日本各地の川砂を研究した 

 「モノ情報誌のパイオニア『モノ・マガジン』(ワールドフォトプレス社)と東洋経済オンラインのコラボ企画。」とのことだが、ビジネス誌なのだから、会社の名前くらい校正をかけないものか。

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