« 山陽新幹線は世界銀行からの融資を断られていた | トップページ | 福島県監査報告「只見線が1本に繋がってこそ意味があり、機能を発揮すると考えるのは共同幻想にすぎない。約54億円は別の事業で有効活用できたのではないか。」 »

2020年8月16日 (日)

波床正敏先生「この辺の話は,東海道新幹線の工事誌に公式に書かれている.」→「じゃあ見てみますか」の結果

波床正敏氏「鉄道で国づくり」の精度  

http://wr19.osaka-sandai.ac.jp/ce/rt/ByRail/?p=307 

 これは、大阪産業大学の波床正敏先生のブログ「鉄道で国づくり」に記載されているお話である。 

  世間でよく言われている「東海道新幹線は東京オリンピックに間に合わせるために鈴鹿峠からルートを変更した」というお話だ。

  波床正敏先生は「この辺の話は,東海道新幹線の工事誌に公式に書かれている.」とも書かれている。

  

 じゃあ、実際に東海道新幹線の工事誌にはどう書いているのだろうか? 

 

東海道新幹線が鈴鹿峠を通らない理由

 名古屋-京都間を直線で結べば標高1,000m級の鈴鹿山脈越えとなるのであるが、(中略)工期的に非常な難点のあることが明らかになった。一方関ケ原附近も地質的には鈴鹿越えと大差はないが、ずい道が比較的短くすむこと及び北陸との連絡に至便なことから、結局ここが最終案として本決まりになった。こうして全線の基本ルートが定められ、33年8月幹線調査事務所の発注によって航空写真測量が開始されたのである。

 

「東海道新幹線工事誌 名幹工篇」日本国有鉄道名古屋幹線工事局 編


 「こうして全線の基本ルートが定められ、(昭和)33年8月幹線調査事務所の発注によって航空写真測量が開始されたのである。」
 ご存知のとおり、東京オリンピック開催が決定されたのは、1959(昭和34)年である。

 そして、1958(昭和33)年8月に「全線の基本ルートが定められ」たとなれば、「鈴鹿峠をやめて関ケ原ルートに決定したのは、東京オリンピック開催決定前」である

 他にも裏取りのネタを探してみよう。国会ではどのように答弁されているのか?

東海道新幹線鈴鹿峠を止めて関ケ原経由にした理由

 名古屋と関が原と申しますか、米原の間のルートにつきましては、実は、昭和三十三年の夏ごろから、まだ正式に新幹線をつくるかつくらないかきまる前から、航空測量だけはいたしておりました。航空測量の結果、ルートといたしましては、名古屋から鈴鹿峠を越えまして京都に入るルート、もう一つ、それと非常に近いところで、名古屋から八風と申しますところを通りましてやはり京都に抜けるルート、もう一つは、濃美平野を真横に横切るルート、この三つのルートを航空測量で大体測量いたしまして、このいずれにすべきかということを検討したわけでございますが、前二者につきましては、非常にトンネルが多く、工事も非常にむずかしいということで、事務当局といたしましては、前二者を捨てまして、もっぱら濃美平野を横断するという案で具体的な検討を進めてまいったわけでございます。その後、昭和三十四年になりまして、徐々に東海道新幹線の問題が予算化され、また、各地におきまして地上の測量を開始したわけでございます。http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/046/0514/04606020514020.pdf

 1958(昭和33)年に航空測量をして、鈴鹿峠は捨てて関ケ原経由とし、1959(昭和34)年から予算が付いたので地上の測量を始めたと磯崎国鉄副総裁(当時)が答弁している。やはりオリンピック決定前に鈴鹿峠は捨てられているのであった。

 

| |

« 山陽新幹線は世界銀行からの融資を断られていた | トップページ | 福島県監査報告「只見線が1本に繋がってこそ意味があり、機能を発揮すると考えるのは共同幻想にすぎない。約54億円は別の事業で有効活用できたのではないか。」 »

鉄道」カテゴリの記事

東海道新幹線 開通50周年」カテゴリの記事

東京オリンピック」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 山陽新幹線は世界銀行からの融資を断られていた | トップページ | 福島県監査報告「只見線が1本に繋がってこそ意味があり、機能を発揮すると考えるのは共同幻想にすぎない。約54億円は別の事業で有効活用できたのではないか。」 »