世界銀行は新幹線への借款にあたり「東京オリンピックまでの開通」の条件をつけたのか検証してみる
1956年5月には島を会長とする「東海道線増強調査会」を国鉄に設置し、東海道線の将来の輸送量、輸送力、サービスの程度、動力方式、車両、保安施設などを検討させた。同会議では、(1)現在線併置案、(2)別線狭軌案、(3)別線広軌案などが検討されたが、(3)の別線広軌案を採用すべきであるという結論に達した。1957年8月には運輸大臣の諮問機関として運輸省内に「日本国有鉄道幹線調査会」を設置し、58年7月に新幹線に関する具体的な答申を運輸大臣に提出した。また同年秋ごろから世界銀行と接触し、東京オリンピックまでには開業するという条件のもとに総額8000万ドルの借款を受け入れ、1961年5月に調印した。これによって、東海道新幹線の建設は日本のいわば国際公約となった。
「日本の事業構想家 新幹線の生みの親 十河信二」老川慶喜(立教大学経済学部 教授)・著
ヤフーによるキャッシュデータがこちら
島は世銀を訪れ、総額8000万ドル、年利5.75パーセント、3年半すえおき、20年償還という条件の借款を受け入れ、1961年五月に調印した。そのさいに、資金の5分の4は日本政府が負担し、1964年のオリンピックまでに完成させるという条件が付された。
「日本鉄道史 昭和戦後・平成篇」149頁 老川慶喜・著 中公新書2530
このような「世界銀行が東海道新幹線事業に融資するにあたって、オリンピックまでの開通を条件にした」という話を耳にした(目にした)方は割といらっしゃるであろう。
しかし調印当時の記事を見てもそんな「条件」は書いていない。
1961(昭和36)年5月3日付読売新聞
どこかに世界銀行との借款の契約書の本文はないものかと探していたら、国立公文書館のデジタルアーカイブにあった。
https://www.digital.archives.go.jp/das/image/M0000000000001580713
ところが、契約書にはオリンピックの「オ」の字も出てこない。
貸付金の引出期限が1964年9月30日となっており、償還計画の第1回支払期日が1964年11月15日となっているので、まあオリンピックが開催される1964(昭和39)年10月あたりに開通するイメージなんだろうなあとは思うが。
ちなみに契約書附属書にある「対象事業の概要」では、「本事業は1964年なかばに完成するものと予定される」としか書いていない。
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もともと、東海道新幹線の工期は、オリンピック決定以前の1958(昭和33)年7月の国鉄幹線調査会の答申で、「工期は概ね五ヶ年で完了」とされている。
これは、最も困難な工事である新丹那トンネルの工期にあわせたものである。
東海道新幹線の工事は、オリンピック決定以前の1959(昭和34)年4月20日に起工式が行われており、そこから5年なので、オリンピックがあろうとなかろうと「1964年なかばに完成するものと予定」になっていた。
なので、「1964年なかばに完成するものと予定」と契約書に書かれていたことが、直ちに「東京オリンピックまでには開業するという条件」であるとは断言できない。交渉記録にそう書いてあるというなら別だが。
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ということで、かねてから「東京オリンピックまでには開業するという世銀の条件」という”都市伝説”のソースを探してきたところ、ある方から「国鉄技師長だった瀧山養氏がそう語っている。」とご教示いただいた。
「証言・高度成長期の日本(上)」エコノミスト編集部・編 毎日新聞社・1984年刊
「新幹線の推進」192頁
確かに「64年のオリンピックまでに間に合わせるという条件で、承認されたんです」と語っている。
また、「交通技術」1974(昭和49)年10月号に掲載された島秀雄氏との対談「東海道新幹線10年を振り返って」においても、瀧山養氏は「世銀との間では、とにかくオリンピックまでに5年間でやること」と語っている。
(なお、世銀の調査団が来日したのは昭和35(1960)年なので、その段階ではあと4年なのであるが。)
ところが、瀧山氏は、世銀借款の交渉を行った当事者ではなく、事前の事業調査に世銀の調査団が来日したときの説明員なんである。
むしろ瀧山氏は国鉄審議室勤務で在来線増強の立場からアンチ新幹線、アンチ十河だったと角本良平氏は語っている。
(「角本良平オーラルヒストリー」242頁)
瀧山氏は 「証言・高度成長期の日本(上)」の196~197頁で、鈴鹿峠越えルートをややめたのも「オリンピックまでに間に合わせる」ためとしており、私個人としては非常に信憑性が低い。
(※鈴鹿峠越えルートとオリンピックの話は、ここでは関連性が低いので、関心ある方は→http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/cat24240428/index.html)
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実際に世銀との交渉を現地で行っていた兼松学・国鉄常務(当時)は、「運輸と経済」1988(昭和63)年11月号に「歴史の中の鉄道 東海道新幹線と整備新幹線」という計8頁の報文を書いており、そのうち6頁が東海道新幹線建設までの経緯で、うち3頁が「外資導入」という題名の世銀との交渉経緯に詳しく触れている。
しかし、ここでは「オリンピック」という言葉は一切出てこない。
これは世銀との調印直後の「国有鉄道」1961(昭和36)年7月号に掲載された「時の話題 世銀に信用された新幹線ー世銀借款の調印を終えて」という記事中の「借款の条件」である。やはり「オリンピック」という言葉は出てこない。
こちらも3頁にわたってびっしりと世銀の交渉経緯も含めて解説しているのだが、一切「オリンピック」には触れていない。
それどころか「担保としては、政府保証以外になんら要求がございませんし、その他国鉄の経営に介入するとか、そういう条件は何もありません」としている。
こちらは「運輸」1961(昭和36)年8月号に掲載された「国鉄の世銀借款」という畔柳今朝登氏(運輸省鉄道監督局国有鉄道部財政課)による報文による「国鉄世銀借款の内容」である。やはりオリンピックは借款条件に入っていない。
更に興味深いのは「五 むすび」にある「国鉄総裁の談話」である。
「私どもは、この工事の完成が、国連の機関である世界銀行に対しての、否、世界各国に対しての日本の国際的信用をかけたものであることを銘記いたしまして、予定どおり、昭和三九年の開業を目指しております。」
十河総裁も世銀融資とオリンピックは結び付けていないのである。この段階では。
瀧山養氏が「世銀との間では、とにかくオリンピックまでに5年間でやること」と語っているにもかかわらず、十河総裁も交渉にあたった兼松常務も運輸省の担当官も誰も契約時にオリンピックに触れていないのは極めて不自然ではなかろうか?
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これは、「国鉄線」1964(1934)年10月号「座談会 夢でなかった超特急 その回顧と展望」における遠藤鉄二氏、角本良平氏、加藤一郎氏、森茂氏による新幹線局の「中の人」達による振り返りからオリンピックに触れた部分である。
オリンピックは「全く考えていなかった」けどあとから「一つの目途」になったと。
彼らにとっては、オリンピックよりも前に決まっていた工期5年の新幹線計画が達成できればよかったのである。
ところがそんな呑気なことは言っていられなくなった。
新幹線の予算不足である。
「東京は燃えたか: 黄金の'60年代」塩田潮・著 講談社文庫 194頁から
世銀融資後の予算不足問題を突破するために、途中から「十河は新幹線をオリンピックに絡める作戦を思いついた」とある。
これなら納得できる。ここで「新幹線=オリンピック=世界銀行」と絡めて 「世界銀行が東海道新幹線事業に融資するにあたって、オリンピックまでの開通を条件にした」というストーリーを後から作ったのではないだろうか?
瀧山氏の発言も、部外者として頓珍漢なことを言っているのではなく、十河氏の作戦変更の路線を後日になっても忠実に守っているということかもしれない。
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《まとめ》
・ 「世銀との間では、とにかくオリンピックまでに5年間でやること」「64年のオリンピックまでに間に合わせるという条件で、承認されたんです」という国鉄幹部の発言はある。
・ただしその国鉄幹部は借款交渉の当事者ではないし、開通10年後以降の話で、リアルタイムのものではない。
・実際に世銀との交渉にあたった常務理事はオリンピックについて一言も触れていない。
・調印時には、国鉄も運輸省もマスコミも「オリンピックまでの開通が世銀の条件」とは言っていない。
・予算不足突破のために、途中から「新幹線をオリンピックに絡める作戦」に出たとするルポがある。
→このへんを踏まえて各自ご判断を。
如何だろうか?
最後はエビデンスが弱い私なりの推論になってしまっているのだが、国鉄の世銀借款に関する一次ソースがあれば是非ご教示いただきたい。それに基づいて更に深堀できればと思う。
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世銀借款に係る、新幹線局の「中の人」による記録としては、上記で触れたものの他に、高橋正衛氏による「新幹線ノート」 がある。
これらの他に今回参考にしたもの
「国有鉄道」1959年2月号「世銀借款」
「国有鉄道」1960年4月号「世銀借款受け入れのための法律と予算」
「交通技術」1960年6月号「世銀調査団来日」
「交通技術」1960年7月号「世銀調査団帰米」
「交通技術」1960年8月号「世銀調査団を迎えて」
「運輸調査月報」1961年6月号「国鉄の世銀借款の調印」
「運輸と経済」1961年6月号「国鉄の世銀借款成立」
「鉄道通信」1962年2月号「世銀借款」
「東海道新幹線」角本良平
「東海道新幹線工事誌 土木編」 「世銀借款と国際入札」
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