『首都高が日本橋の上を通るにあたって、当時の技術者は「苦渋」「冒瀆」と感じた』と土木学会や佐藤健太郎はいうけれども本当だろうか
相変わらず長い記事を書いてしまった。
そこで今回は要約パワポを作ってみた。
土木業界にありがちな「首都高と日本橋にまつわる、『本当は土木技術者もいいことを考えていたんだけど』風ちょっといい話」のエビデンスを検証してみたというわけだ。
関心ある方は是非このままお進みくださいませ。
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首都高速道路と東海道新幹線の開通50周年を記念した土木学会のイベントにおいて、家田仁東大教授(当時、現・土木学会会長)が、 首都高速の河川上の利用について「恐らく当時の道路計画者たちにとっても苦渋の選択であったものと思われる。」と述べている。
他方、「国道者」において佐藤健太郎氏は、こう述べる。
「 オリンピック開催決定後5年では間に合わないので河川上空を使った」というのは大嘘なのだが、まあここは今日の本題ではない。
「 道路・橋梁のプロである彼らにとっても、日本橋は最大の聖地だ。そこを踏みつけにするかのような道路の建設は、冒瀆とも思えたことだろう」と記している。
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私のいやらしい性格をご存じの方は、上記の土木学会現会長や、国道マニアのフリーライターが書いた「思われる」や「思えたことだろう」という微妙な書き方のところをガシガシとエビデンスを掘ってみようではないか!という今回の記事の目的と結論がもう見えたことだろう。
断言できないのよ。連中は。
本来は「土木の日」にあわせて書き上げようとしたが、怠惰な性格故に間に合わなかったことだよ。
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まずは、実際にオリンピック決定以前に、河川上の首都高速のルートをひいた当時の東京都局長の山田正男氏である。
出典は「東京の都市計画に携わって: 元東京都首都整備局長・山田正男氏に聞く」である。
「高速道路の景観はそんなにおかしいか」「見るだけのために構造物を作っているんじゃないからな。そう圧迫感を感ずると僕は思わんから。」というあたりに、道路計画者の「苦渋感」や「冒瀆感」が満ち溢れていますね。
なお、佐藤健太郎氏が触れている日本橋付近を干拓して首都高をしたに通す話にも山田正男氏は触れているが、日本橋の景観の保全どころか、首都高と新幹線で二階建てで日本橋川に入れようと国鉄と話をしていたというのである。
「東京都市高速道路の建設について」(1959年4月 東京都・刊)から抜粋。
首都高における河床の掘割区間は上記のような考え方で設定されている。「最も望ましい構造」というわけだ。
ところで、山田氏の対談で出てくる日本橋の下を通す案は1957年に出されたもので、それをあきらめた「神田川があふれんばかりの状況」は、狩野川台風(1958年9月)の被害状況である(「首都高速道路のネットワーク形成の歴史と計画思想に関する研究」古川公毅 44~45頁)。
佐藤健太郎氏の言うような「1959年のオリンピック決定後に短期間で工事をするために河川を通さざるを得ないが、聖地日本橋を冒瀆しないために下を通すアイデアが出された」というのは時系列的にデタラメで破綻しているのだ。
時系列はともかくとして、「最も望ましい構造」という一般的な意味以上に、「聖地日本橋のために河床を通す」という意思を示した文献を浅学ながら見かけたことがない。もしご存じの方がいらっしゃればご教示いただけると幸甚である。佐藤健太郎は本に書く以上はお持ちだと思うのだが。。。
下記は、1962年に作成された当初の都市計画の案である
路線に四角いハッチがかけられている部分が「半地下部分」である。
日本橋川については、三崎町付近から江戸橋までが半地下である。
「聖地日本橋」を特別扱いしたのではなく、都心環状線の中央区・千代田区あたりは基本的に半地下扱いとみるのが妥当ではなかろうか?皆様のご意見はどうだろうか?
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続いては、建設省、首都高速道路公団等で建設行政実務を経験し、のちに東京大学工学部名誉教授となった、井上孝氏である。
出典は「都市計画を担う君たちへ」である。
「ここで一番重要なのは、日本橋の上ですら高速道路をかぶせるというくらいの度胸が都市高速道路を計画していたグループにはこの時あったわけです。」と述べている。
また、「首都高で東京の水辺が失われた」との批判に対しても「戦災復興で瓦礫を運河に捨てたときから失われている」と述べている。
東大工学部の大先輩のこの言を踏まえて、家田仁氏は「道路計画者の苦渋」を感じとったのであろう。
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これらは、技術者の「うちわ向けの昔語り」であり、世間向けには当時どう言っていたかを首都高速道路公団の広報誌「首都高速」No33(1964年2月15日号)から見てみよう。
NHKの大河ドラマ「いだてん」の冒頭に出てきたような首都高速道路が日本橋を跨ごうとしている写真が掲載されている。
右上の煉瓦造りが山田正男氏が敬意を表して避けた帝国製麻か。
右下に何か書いてあるので拡大してみよう。
「新二重橋として、東京の新名所になる日も、間近い」これこそが、当時の首都高速道路公団の道路技術者の心意気である。
では、日本橋付近を通過する際に、美観は考慮されなかったのか?
首都高速道路公団では線形が決定した1960年12月橋梁設計会社20社から「このインターチェンジ(※引用者注:当時の首都高速の「インターチェンジ」は、現在の「ジャンクション」を意味する。)を如何なる構造にすべきか?」広くアイデアを募り,構造型式選定の資料とした。
「江戸橋インターチェンジについて」西野祐治郎・和田宏造・前田邦夫「道路」1964年7月号517頁から引用
と、当時の建設会社等からデザインを募集している。
詳細は「首都高の日本橋川区間のデザイン検討について-首都高日本橋附近の地下化関連(1)」を参照いただきたいが、
民間企業からはこんなデザインも出て、「好評を得た」とのことである。まさに「新二重橋を日本橋に架けよう」という当時の官民問わない道路技術者の熱気が伝わってくるではないか。
日本橋に架かる首都高速道路の想像図は、上記のように首都高速道路公団の「顔」として、会社案内の表紙に採用されている。
「苦渋感」や「冒瀆感」があれば、「会社の顔」「首都高の顔」に採用するだろうか?
これに対して、1962(昭和37)年12月24日付読売新聞は、「感傷も吹き飛ばすように工事が近づいてきた日本橋」「スマートになる完成予想図」と報じている。
「少年少女東京オリンピック全集4」94頁から引用。
「大空間の美しさは、日本に新しい美観をそえたものと言えましょう」とまで言い切っているのだ。
世間からも一定の支持を得ていたわけだ。
家田仁氏の言うような「苦渋感」や、佐藤健太郎氏の言うような「冒瀆感」は、後知恵のものと言えるのではないだろうか?
同じ首都高の広報誌に載ったこのあっけらかんとしたイラストを見よ。
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もちろん、首都高の日本橋付近があのままでよいわけではないと思った人もいる。
同じ広報誌に首都高速道路公団理事長の神崎丈二氏と地元日本橋関係者らとの対談が載っているので、冗長となるが全文掲載したい。
諸橋雅之・首都高速道路株式会社 日本橋区間更新事業推進室長は、「日本橋の上に首都高を通すことに対しては、建設当時から新聞などである程度の反対はあったようです。ただ、地元の方々は「国を挙げてオリンピックをやろうというときに、建設に反対するなんてヤボだ」ということで、容認していただいていたようです。」 と語っているが、実際には色んな動きがあったことが分かる。
注目すベきは、高松宮が「日本橋はどうにかならないものか」という「残念というか複雑な気持」を伝えていたというあたりとか、神崎理事長が「日本橋の左側の家屋を買収してということを無理を承知で調査させた」とか「日本橋をどうしても越さなければならないならもっといい型で越えたいと思いまして、ずいぶん権威者の考えを伺ったわけです。技術委員会や審美委員会の意見を聞き、完成予想図も30~40枚画いたんです。けれども、いま出来上がってみると私のイメージと少しちがうようですね。」といったあたりである。神崎理事長は、民間から来た事務系の理事長である。その彼が道路技術者に対して意見を聞き、いろんな完成予想図を画かせていたけどうまくいかなかったというのが首都高の記録である。
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土木屋、都市計画屋はダメでも、建築屋、都市景観屋は「苦渋感」「冒瀆感」を出していたのではないかという意見もあろう。
ここに興味深い座談会の記録がある。その名もズバリ「首都高速道路計画を語る」
「公共建築」1960年8月号ということで、既に首都高速道路公団も発足し、河川上のルートも決まって事業が動き出した後のタイミングである。
なかでも芦原義信氏は、日本の都市景観の第一人者だ。さぞかし、日本橋の上に架けようとする高速道路計画を批判していると思うだろう。
ところが、8頁を費やしたこの対談に「日本橋のにの字」も出てこない。
それどころか、芦原義信氏は「わたくしは道路のことは素人ですが、道路を作っているのを見るのは希望や夢があって楽しいものですね」(同61頁)なんて言っている。(氏の名誉のために補足しておくと、個別の景観ではなく都市計画全体における首都高の位置づけについての発言が太宗であった)
むしろ河川については「川の上をやたらつぶしてしまうと、この次に誰かが潰す時に何も潰すものがなくなっちゃう。少し早まっているんじゃないかということなんです。」という大塚全一氏(当時は建設省から首都高速道路公団計画課長として出向。その後任が井上孝氏である。大塚氏は後に早大教授。)の発言に対して誰もつっこまない。
秀島乾氏は「わたくしは、形態的には、大体、高架線が市内を走るのは不愉快千番だと思います」と発言してるが、最後にそもそも銀座の川を潰して高架の東京高速道路(KK線)を計画したのは秀島乾だろうとつっこまれて、秀島がもそもそ言い訳をして対談を閉じるといった体なんである。
「この次に潰すものがなくなっちゃう」という意味では、家田仁氏の言うような「苦渋の選択」であることは間違いないようだ。やっとエビデンスが出てきたぞ。
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というわけで、都市景観屋も当時は注目すべき論点としてすら捉えていないのだ。
「都史資料集成II 都制施行から昭和30年代までを対象にした東京都の歴史に関する資料集」の第2巻にある「図録東京都政2 「文化スライド」でみる東京~昭和30年代」でも「それにしてもすばらしい光景ですね」としているではないか。
家田仁氏は「恐らく当時の道路計画者たちにとっても苦渋の選択であったものと思(いたいんだけど、当時の実力者はそんなことは言っていないし、首都高の記録にもそんなことは残っていなさそうなんだけど、やっぱり道路計画者は今に通じる気持ちを持っていたと信じたいのは土木学会の聴衆のみんなは分かってく)れる。」と述べるべきだったのかもしれない。
「すべての土木技術者が首都高が河川の上を走ることや日本橋の景観について遺憾に思うことはなかった」なんてことはないだろうけど、メインストリームはあまり重視していなかったのは間違いなさそうだ。
「東大では、度胸と書いて、苦渋と読むんだ」とでもおっしゃるのだろうか? どうせ言うなら「恐らく~思われる」なんて憶測でものを言わないで、ちゃんとエビデンスだそうよ。大学教授の記念講演なんだからさ。
エビなしに「恐らく~思われる」で「いいこと言った感」を出しちゃうのは、当時の制約条件の中で奮闘した諸先輩方に対してかえって失礼なんじゃないかねえ。
当時と今では価値観も違うし、当時の価値観と諸制約条件のなかでは最善を尽くしたのは間違いないのだから、「今の価値観を当時の技術者が併せ持ちながら苦渋の気持ちでやった」ということに後付けでしなくてもいいじゃないと思うのだが、土木学会方面の方はそうではないのだろうか。
そこは、土木学会の「隙あればパッテンライ押し」と通じるものがあるのではないか?
「土木技術者が環境破壊の一翼を担った」「土木技術者が植民地支配の一翼を担った」という現実に対して、当時はこういう情勢のなかでこうだったと冷静に分析して今後の反省点を導き出すという緊張感に堪えられず、「土木技術者は本当はいい人だった。本当は今に通じる素晴らしい感覚を当時から持っていたのだけど苦渋の選択だった。土木技術者は悪くないんだ!」と言ってしまうのではないか?
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首都高の戦前の計画は、山田正男が1938年に「満洲で高速道路をやっていたので日本でも計画した」というものである。
振り返ってみるに、国鉄の十河信二総裁、日本道路公団の岸道三総裁、表舞台にはあまり出てこないが、東急ターンパイク、道路利用者会議の近藤謙三郎(杉並区の「トトロの家」の持ち主でもある)、東京高速道路(KK線)の秀島乾、戦後のオリンピックに向けた復興には満洲人脈がつながっている。
新幹線や高速道路工事にちょっかいをかけてきた西武の堤康次郎も満洲人脈だ。 私が過去にブログの記事にしてきた、西武による「近江鉄道景観補償」「伊豆箱根鉄道下土狩線」「西熱海ホテル事件」「新横浜駅土地買い占め」といった新幹線工事にまつわる「係争ごと」に、国鉄の現場職員が筋を通そうとすると「大てい十河総裁や側近幹部の慰留で、徒労に帰せられた」と「運輸ジャーナル」127号にある。この裏には堤ー十河の満鉄時代のつながりがあったという話を聞いたことがある。
この辺は大変気になる分野ではあるが、わたくし如きの力では到底手におえない。
上記のメンツと直接は関係ないが、最近「大東亜」を建設する 帝国日本の技術とイデオロギーという本が出版されたので、よろしければ是非。
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話が時空を超えてとっちらかりすぎてしまったのでそろそろ閉めよう。
佐藤健太郎氏は「国道者」において下記のように述べている。
あなたは何が見えただろうか?
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おまけ
当時なりに「都市美にマッチした構造」と考えてやっているところは、誤解なきよう。
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