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2021年4月に作成された記事

2021年4月29日 (木)

構想以来65年ぶりに西武新宿駅と新宿駅を結ぶ地下道が実現に向けて動き出した~西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(23)

西武鉄道のプレスリリースにいきなりこんなのが出た。

https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2020/20210426_shinjyuku.pdf

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (96)

西武新宿駅の乗換利便性向上による新宿線のさらなる沿線価値向上のため、「西武新宿駅と東京メトロ丸ノ内線新宿駅をつなぐ地下通路」の整備に向けた検討・協議を進めます。

 私のブログでもしつこく記事にしているように、ここらあたりには、計画が二転三転というか頓挫した未成計画ばかり眠っている。

 ざっと経緯を整理するとこんな感じだ。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (97)

 ネットでは「マイシティ2階の計画がやっと形を変えて復活」みたいなことを書いている方もいらっしゃるが、実際には、その後の地下複々線化の亡霊の復活でもあるし、サブナード地下街の幻の「西武新宿駅-国鉄新宿駅直結2期計画」の復活である。 

  

 ざくっと過去の経緯をおさらいしていこう。 

  

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■ 西武新宿線 新宿駅への二度の乗り入れ断念  

 私のブログを読んでいただいている方なら十分ご存じかとは思うが、「新宿ステーションビル=マイシティ=ルミネエスト」の2階に西武新宿線が接続する計画があった。 

西武鉄道が乗り入れるはずだった新宿ステーションビル (1)  

 現在の新宿駅東口の駅ビル「ルミネエスト新宿」の2階北側には、天井が高い吹き抜け部分があるが、この空間こそが西武新宿駅となるものだった。

 

「なるほど西武 仮駅が本駅となった西武新宿駅」結解義幸・著 トラベルムック「新しい西武鉄道の世界」交通新聞社・刊

 

 ときどきこんなデマをばらまく困ったライターや出版社がいるが、実際には

西武鉄道が乗り入れるはずだった新宿ステーションビル (13)

 こんな感じでホームと吹き抜けは全く関係ないことが分かる。

「新宿ステーションビルの店舗募集資料から西武線のホームと吹き抜けの関係を確認してみる~西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(18) 」

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2020/01/post-66d29f.html 

 にこの辺は紹介してある。 

  

 なお、西武の社内報には 

「当初新宿への地下鉄乗入線を予想し地下での乗換えの便を考慮して、終点附近は地下に潜ぐる様考えたのであるが、(中略)これを断念」 

 との記載がある。 

 詳細は 

「西武新宿駅は、元々地下鉄乗換えを考慮して地下に設置する構想だった~西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(17)」 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2020/01/post-98776e.html 

 を参照されたい。 

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 さて、西武のプレスリリースの末尾に 

【参考】

「新宿駅北東部地下通路線」について(新宿区)

https://www.city.shinjuku.lg.jp/kusei/toshikei01_000001_00016.html

「新宿の拠点再整備方針~新宿グランドターミナルの一体的な再編~」について(東京都都市整備局)

https://www.toshiseibi.metro.tokyo.lg.jp/topics/h29/topi063.html

 

 と参考リンク先があげられている。 

 ここに興味深い資料がある。 

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (94)  

「都市計画変更素案について 東京都市計画道路 特殊街路 新宿歩行者専用道第4号線 東京都市計画通路 新宿駅北東部地下通路線」 

https://www.city.shinjuku.lg.jp/content/000309906.pdf 

 今回の地下道は「東京都市計画通路 新宿駅北東部地下通路線」として都計決定されるように手続きが進められているようなのだが、この資料の脚注に興味深い一文が添えられている。 

参考

西武新宿駅~東京メトロ丸ノ内線新宿駅間の地下歩行者ネットワークについては、西武鉄道新宿線複々線化計画(地下急行線)の改札外コンコースとして整備される予定であったが、現在、東京都において都市計画変更(廃止)に向けた手続き中。

 

 そして上記図面にも「西武鉄道新宿線複々線化計画(地下急行線)【都市計画廃止手続き中】」との記載があり、緑色で西武新宿線が「メトロプロムナード」まで伸びているのが分かる。

 これが二回目の西武新宿線延伸構想の跡地である。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (92)

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (93)

 上図は、「西武新宿線 西武新宿-上石神井間複々線化事業 環境影響評価案の概要」15~17頁から 

 新宿アルタ横あたりの地下6階に新宿線のホームが出来て、その上に西武新宿駅と新宿駅を結ぶ地下道が「改札外コンコースとして整備される予定」だったと。 


西武新宿線 新宿―上石神井駅間複々線化計画 無期延期決定 費用の膨張理由に

 

 輸送力の増強を目指し、西武新宿―上石神井駅間の約十二・八キロの地下に、新たに急行線を走らせて複々線化する事業計画を進めていた西武鉄道は、建設費が当初見込み額を大幅に上回る見通しとなったことなどを理由に、事業の無期延期を決定し、十九日までに沿線自治体の中野区に伝えた。

 西武鉄道は八七年十二月、運輸省の特定都市鉄道整備事業計画の認定を受け、複々線化予定区間の運賃に十円上乗せし、工事費を積み立て。九三年に都の都市計画決定が下り、昨夏には建設省に工事施行許可を申請、手続きはほぼ整っていた。

 ところが、ラッシュ時の乗客数は九一年をピークに下降気味。当初は千六百億円と見込んでいた総事業費も、地下水の水位が予想より高かったことや、現在の西武新宿駅をJR新宿駅寄りに移動することにしたことなどから、約二千九百億円に膨れ上がることがわかった。

 このため、同社は複々線化を延期せざるを得ないとし、十九日には、特定都市鉄道整備事業計画の認定取り消しを運輸省に申請。これまで十円を上乗せしてきた区間では、乗客への還元を図るとしている。同社広報課は「計画を無理に進めれば、工事費の負担は運賃にはねかえり、逆にご迷惑をかける」としている。

 

1995(平成7)年1月20日付読売新聞から

 

 といった理由で事業は中断された。 

西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(10)西武新宿線の地下複々線化による新宿駅乗り入れ 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/jr-dd3c.html 

 西武鉄道新宿線(西武新宿駅~上石神井駅間)の複々線化計画の廃止にあたっての質疑で下記のような記載がある。 

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (98)

https://www.toshiseibi.metro.tokyo.lg.jp/kiban/pamphlet/pdf/pamphlet_111.pdf

 「西武新宿駅とJR線や丸ノ内線との乗換経路の改善について(略)当社としても積極的に乗換改善に努めていきたい」

 地下複々線事業計画を廃止して、新たに地下道のみ新設する手続きが東京都や新宿区等による「新宿グランドターミナルの一体的な再編」の一環として行われることになったわけだ。 

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (95)  

https://www.city.shinjuku.lg.jp/content/000309906.pdf 

  

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■ 幻となった新宿駅への地下道直結計画

 現在、西武新宿駅と東京メトロ・JR新宿駅はサブナード地下街とメトロプロムナードによって迂回する形で連絡されている。 

 今回、ここを直結する地下道が実現しようとしている。 

  

 ところで、西武では昭和30年代に、西武新宿線を新宿ステーションビルに乗り入れる計画と並行して、ここを直結する地下道の構想があった。 

 先日までヤマダ電器があった西武新宿駅のトイメンのビルを「西武フロントビル」として地下街と一体開発するものだった。 

 その資料が早稲田大に保存されており、 

「西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(7)地下道による西武新宿駅と営団地下鉄・国鉄新宿駅との連絡」 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/jr-aa77.html 

 に紹介してある。 

 ザクっというと「国鉄新宿駅に西武新宿線を乗り入れても西武として今更東口に活用の余地はなく、地下街と西武フロントビル等で一体として開発する方が投資としては有効ではないか」というものであり、この計画が実現していえば、ヤマダ電器ではなく、西武百貨店新宿店がそこに建っていたかもしれない。 

  

 その後、サブナード地下街計画が具体化し、 

 「昭和37年2月20日には有志が会合」「まず最初は、西武プラス歌舞伎町振興会で動き出した」と「新宿サブナード30年のあゆみ」29~30頁にある。 

  西武は、「西武新宿線のステーションビル乗り入れ」と「サブナード地下街による西武新宿駅と新宿駅の直結」の二本立ての計画を推進していたのである。

 しかし、西武線乗り入れ断念後の1967(昭和42)年に西武百貨店社長だった堤清二は、「会社としては地下街会社に出資しない」旨を創立事務所に伝えている。(「新宿サブナード30年のあゆみ」から) 

  

 ご存じのように1965(昭和40)年に、西武新宿線は新宿ステーションビルへの乗り入れを断念している。 

 鉄道と地下街の二本立て計画の両方を止めたわけだ。なぜだろうか? 

 そのヒントとなるのが、1964(昭和39)年の堤康次郎の死去かもしれない。 

 堤康次郎亡き後の西武の事業について、このような記述がある。


 事業の世界では義明はまだ赤子同然で、このような巨大な組織を継ぐには未熟かつ経験不足であった。父親は彼に、10年間は何もするなという遺言を残した。

(略)

 義明はグループの事業内容を隅々まで掌握するまで、しっかりと満を持して学ぶべきである、というのが康次郎の意向だった。とりわけ、新規事業は固く禁じられた。10年経てば状況も変化する。その時こそきちんとどう動くかを決める時なのだ。

 

「血脈 西武王国・堤兄弟の真実」レズリー・ダウナー・著 常岡千恵子・訳 徳間書店・刊 242頁から

 

 ひょっとしたら、この一環で両事業がストップした可能性もあるんじゃないかなあなんて夢想している。

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 ところで、西武の資本参加はなくとも、サブナード地下街は、西武新宿駅と国鉄新宿駅を直結する構想を実現しようとしていた。1964(昭和39)年に策定された地下街の「基本構想」には第二期計画として盛り込まれている。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (17)  

 しかしこの計画は実現しなかった。


「道路幅は全体で25m(国鉄寄り歩道4.4m、民地側歩道3.8mを含む)。16.80mのみが車線である。地下建物の地表への階段出入口(幅員3m)をとるためには、歩道を両側7mにしなければならない。すると残りの車道は11m幅になる。これだと、車線確保はギリギリであり、しかもS形にカーブしていて、車輌運行上の危険がある。しかもこれは地下駐車場から地表へのランプ設置場所が確保できない」。

 「協議会(※引用者注 新宿地下駐車場第2期計画国鉄寄り協議会)」はこの案を断念するしかなかった。ただし将来構想としては、残されているのである。

 

「新宿サブナード30年のあゆみ」 新宿地下駐車場株式会社・発行 55~56頁から引用

 このように1970(昭和45)年に、地下道による直結の道も閉ざされてしまった。

 

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 これは余り知られていないが、都営大江戸線と西武新宿駅を地下道で直結する構想もあった。

西武新宿駅地下鉄大江戸線直結計画 (3)  

新宿区「新宿駅周辺にかかわる諸問題について」答申付属資料 1982(昭和57)年 から 

 都営地下鉄12号線(大江戸線)のルートや駅の配置が現在とは異なるが、これは現在のリニアメトロが導入される前のルートである。 

  今や新宿西口駅の場所も変わっており、実現は不可能だったということか。

 ただし、上記答申附属資料には、今回の「東京都市計画通路 新宿駅北東部地下通路線」にあたるような地下道の構想も見られる。 

西武新宿駅地下鉄大江戸線直結計画 (5)  

 これが都市計画決定するまで40年かかった(途中地下急行線がらみの動きはあったが)ということか。 

(参考) 

「西武新宿駅を大江戸線新宿西口駅に直結させる計画が1982年にあった~西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(16)」 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2020/01/post-727461.html 

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  鉄道マニヤ、未成線マニヤの一部には、今回の動きを受けて

「次は、西武新宿線の東京メトロ東西線への乗り入れだ!」

 と期待している方もいらっしゃるようだ。 

 しかし、地下急行線廃止計画手続きにおける質疑では下記のような回答が出ている。 

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (99)  

https://www.toshiseibi.metro.tokyo.lg.jp/kiban/pamphlet/pdf/pamphlet_111.pdf 

 「交通政策審議会の答申に位置付けていない」「東京都としても具体的な計画はない」 

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 ところで、今回の記者発表を受けて、こんなツイートがあった。

 そう、今回記者発表あった4月26日は堤康次郎氏の命日なのである。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (98)  

 実に堤会長没後57年を経た命日でのプレスリリースであった。

 冒頭のプレスリリースにはこう書いてある。

この度、新宿区により「新宿駅北東部地下通路線」の都市計画手続きが開始されたことを受け、当社は本通路の事業予定者として、都市計画決定後の本通路の早期実現に向け、具体的な検討および関係者との協議を進めてまいります。

https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2020/20210426_shinjyuku.pdf

 西武グループの新宿駅東口進出は、まだ始まったばかりだぜ!!

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2021年4月25日 (日)

今度開通する名二環(名古屋西JCT~飛島JCT)は、政令上は「近畿自動車道伊勢線」ということで、東名阪道ではなく伊勢道の仲間である件

2021(令和3)年5月1日に、名古屋第二環状自動車道 名古屋西JCT~飛島JCTが開通する。

 ところで、この新規開通区間である名古屋西JCT~飛島JCT間は、「高速自動車国道の路線を指定する政令」によると、「近畿自動車道伊勢線」である。

名二環が近畿自動車道伊勢線である件 (1)

https://www.cbr.mlit.go.jp/kikaku/jigyou/data/r0112/110_shiryou_6.pdf

 近畿自動車道伊勢線というと普通イメージするのは伊勢自動車道だ。

 一方、同じ名古屋第二環状自動車道でも、名古屋南JCT~楠JCT~飛島JCTは、「近畿自動車道名古屋亀山線」である。

 東名阪自動車道は名古屋亀山線だし、名古屋第二環状自動車道は以前は東名阪自動車道と呼んでいたので違和感はない。

 なぜ名古屋西JCT~飛島JCT間だけ、東名阪道系列ではなく伊勢道系列なのだろうか?

 

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 まずは、「国土開発幹線自動車道建設法」の別表を見てみよう。 

名二環が近畿自動車道伊勢線である件 (6)  

 近畿自動車道伊勢線と近畿自動車道名古屋大阪線は、共に名古屋を起点として四日市を経由したのちに分岐し、伊勢市、吹田市を終点にしている。 

 国幹道法の名古屋大阪線は、道路名でいうと、名二環、東名阪道、(国道25号名阪国道)、西名阪道及び近畿道を形づくっている。 

 また、名古屋神戸線は、道路名でいうと新名神(第二名神)である。

 しかし、これでは今回開通する名古屋西JCT~飛島JCT間が、法律上何自動車道にあたるかが分からない。 

 

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 そこで、「高速自動車国道の路線を指定する政令」で見てみよう。 

 先にあげた国土開発幹線自動車道建設法の別表は、第四次全国総合開発計画で第二東名・名神等約1万4千キロの高規格幹線道路が位置づけられたことを受けて、1987(昭和62)年に改正されたものである。 

  

 そして、1989(平成元)年1月に開催された第28回国土開発幹線自動車道建設審議会での審議を踏まえ、高速自動車国道の路線を指定する政令が改正された。 

名二環が近畿自動車道伊勢線である件 (3)  

 細かいところは目をつぶって、ザクっと路線網を描くと下記のような感じだ。 

名二環が近畿自動車道伊勢線である件 (3)  

 この段階では、「高速自動車国道の路線を指定する政令」では「近畿自動車道関伊勢線」であり、現在と異なり、名二環どころか、東名阪道とも重用していない。 

 名阪国道と接続していた「関ジャンクション」の名前が懐かしい方もいらっしゃるかもしれない。

 「高速自動車国道の路線を指定する政令」は、この後、何度も改正されているのであるが、そのうち重要なものを取り上げていく。

  

 1996(平成8)年12月に開催された第30回国土開発幹線自動車道建設審議会で、近畿道名古屋市緑区~名古屋市名東区が基本計画区間とされたことを受けて、1997(平成9)年2月に「高速自動車国道の路線を指定する政令」が改正された。 

名二環が近畿自動車道伊勢線である件 (4)  

名二環が近畿自動車道伊勢線である件 (2)  

 従前までは関町が起点だった「関伊勢線」が、このとき名古屋市が起点の「伊勢線」に変更された。 

 しかし、名古屋南JCT~楠JCT~名古屋西JCT~亀山が名古屋関線と重用し、亀山市で分岐するものとされたにとどまり、まだ今回開通区間である名古屋西JCT~飛島JCT間は、高速自動車国道としては出てこない。

 (※このときの改正で法令上は名古屋~伊勢が繋がったため、便宜上現在の「伊勢関」を図に入れているが、実際に東名阪と伊勢道が直結したのは、2005(平成17)年3月である。ご注意くださいませ。)

 

 

 

 やっと今回開通区間である名古屋西JCT~飛島JCT間が出てくるのが1999(平成11)年12月に開催された第32回国土開発幹線自動車道建設審議会である。 

 このときに、今回開通区間となる、近畿道 名古屋市中川区~愛知県海部郡飛島村間が基本計画となった。 

 ちなみに、いわゆる「道路公団改革」の一環として、国土開発幹線自動車道建設審議会は、この後「 国土開発幹線自動車道建設会議」に改められた。最後の「国幹審」の審議内容の一つが今回開通区間だったわけである。

 当該区間を取り込んだ「高速自動車国道の路線を指定する政令」は、2000(平成12)年1月に改正された。 

  

 そして現在の「高速自動車国道の路線を指定する政令」が下記のとおりとなっている。 

名二環が近畿自動車道伊勢線である件 (2) 

名二環が近畿自動車道伊勢線である件 (1) 

 亀山以東を名古屋関線(東名阪道)と重用していた伊勢線が、四日市JCTから分岐し、今度は名古屋大阪線(伊勢湾岸道)と重用して飛島まで向かい、飛島JCTで名古屋大阪線と分岐し、単独で名古屋西JCTへ向かい、そこで名古屋関線(名二環)へ再び合流して起点の名古屋南JCTへ向かうという奇天烈なルートを辿ることになったのである。 

  

 近畿自動車道伊勢線の起点(名古屋市)から終点(伊勢市)を分類すると下記のようになる。 

名二環が近畿自動車道伊勢線である件 (5)

 参考までに「日本道路公団年報 平成15年」から近畿自動車道伊勢線の部分を抜粋してみよう。小さな文字で「(名古屋関線と重用」「名古屋神戸線と重用」と書いてあるのがお分かりになるだろうか。

名二環が近畿自動車道伊勢線である件 (7)

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 以上が、名古屋第二環状自動車道 名古屋西JCT~飛島JCTが、「高速自動車国道の路線を指定する政令」では、近畿自動車道伊勢線となる経緯である。 

 ところで、「なんでこんな蛇がのたうち回るような路線にしたのか」が本当は皆様の知りたいところであろうが、それを明確に示す証跡は見つけていない。 

 いずれ国立公文書館で「高速自動車国道の路線を指定する政令」の改正経緯の資料が公開されるであろうから、そのときまでのお楽しみといったところか。 

 個人的な推測としては、「国土開発幹線自動車道建設法」の別表を改正せずに、事実上追加となる路線を建設したいという行政手続き上の理由で、既存の路線に潜り込ませるような形を取ったのではないかと推測している。 

 法律を改正して新規路線を追加しようとすると、「なんで名二環だけ?うちの地元の路線もこの際入れろや」との要望が全国から押し寄せられるため、政令の改正に潜り込ませたのではないか。 

 しかし不思議なのは、名古屋南JCT~上社JCT間及び名古屋西JCT~飛島JCT間約28キロが事実上追加されたにも拘わらず、高速自動車国道の総延長は追加以前と変わらず、11,520キロのままなんである。 

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 ということで、路線政令の文言上の言葉遊びみたいになってしまった。 

 

 同じような「路線名遊び」は、以前も「祝!外環道 三郷南~高谷開通!東京外環道って法令上の名称じゃないけどどうなってんの?」という記事を書いているので、お好きな方はあわせてどうぞ。

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2018/06/post-450c.html

 

 話は変わるが、名古屋二環といえば、国鉄の貨物幹線となるはずだった城北線が一部区間を並走して走っており、ジャンクションのランプの中を車窓から眺められるという特異な路線でもある。 

名古屋二環と城北線 (1) 

名古屋二環と城北線 (2) 

名古屋二環と城北線 (3) 

 しかし、名二環に新交通システムが走る構想があったことはあまり知られていない。 

(b)名古屋市周辺(名古屋環状二号線)

 継続

 名古屋市東部の国道302号(名古屋環状二号線)周辺の丘陵地域においては、宅地開発が急速に進められているが、この東京(ママ)地域tp都心部とは地下鉄で結ばれており、更に地下鉄三号線が計画されている。これら住宅地域と地下鉄を有機的に結ぶ環状方向の新道路交通システムを環状二号線に併せ導入することについて検討する。

 

「特集-昭和52年度予算の概要と重点施策 新道路交通システムに関する調査費について」建設省道路局路政課課長補佐・沢山民季「道路セミナー」1976年10月号69頁から

 

 未成線マニヤの方からは「おい、bときたら、aやcも出すのが社会人のマナーだろう」と詰め寄られそうだが、

a) 仙台市周辺(北仙台線) 

c) 岡山市周辺(市内環状線) 

d) 広島市周辺(国道54号)

である。 

 このうち、実現したのは、「d) 広島市周辺(国道54号)」だけかな? 

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 「俺はまじめに名二環の成り立ちについて勉強しようと思ってこのページを開いたのに全く役にたたないではないか」と怒られそうなので、最後にそういう方向けのリンクを紹介しておこう。 

■ 「名古屋環状2号線(一般国道302号」の整備について」道路行政セミナー 1992年8月号

https://www.hido.or.jp/14gyousei_backnumber/1992_data/seminar9208.pdf 

■「名古屋圏における環状道路と放射道路の整備」道路行政セミナー 1995年7月号 

https://www.hido.or.jp/14gyousei_backnumber/1995_data/seminar9507.pdf 

■「名古屋都市圏の新たな可能性の幕開け「環状時代」!」道路行政セミナー 2000年6月号 

http://www.hido.or.jp/14gyousei_backnumber/2000_data/seminar0006.pdf 

■名古屋都市計画史 

https://www.nup.or.jp/nui/information/toshikeikakushi/index.html 

 名古屋都市計画史Ⅱ(昭和45年~平成12年度)上巻の381頁以降が名古屋二環にあてられている。 

■「名古屋環状2号線の開通による経済効果」 三菱UFJリサーチ&コンサルティング

https://www.murc.jp/report/rc/policy_rearch/politics/seiken_170822/ 

■「土地区画整理事業から見た名古屋環状 2 号線のあゆみ」 

https://www.nup.or.jp/nui/user/media/document/investigation/h24/NUI.sugiyama.pdf 

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(余談)

 ちょっと高速道路名称の仕組みについてかじって、いきったネットキッズが

「東名阪道の法令上の正式名称は~」

とか言ってみたくなるところであるが、

 上記を見て分かるように

 「国土開発幹線自動車道建設法」では、「近畿自動車道名古屋大阪線」だが

 「高速自動車国道の路線を指定する政令」では、「近畿自動車道名古屋亀山線」だ。

 安易に「法令上は」なんては言ってはいけないということだね。

 よいこは、法律上なのか政令上なのか理解したうえで使い分けようね。

 なお、「東名阪自動車道」だって、日本道路公団の内規に基づいて正式に決裁を取ってつけられた名称なので、別に「正式ではない」のではない。官報にだって東名阪自動車道ということで掲載されている。(官報掲載が名称決定手続きの要件ではないが)

(応用問題)

 平成元年は「名古屋亀山線」→平成9年は「名古屋関線」と変更し、現在はまた「名古屋亀山線」に戻っている理由を考えてみよう。

 何かの間違いで検索してヒットしてしまったNEXCO職員は、コメント欄に理由を書いてみよう!

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2021年4月15日 (木)

夜行新幹線と兵庫県内の新幹線駅の関係が2頁読めばすぐ分かる国鉄課長の報文

 「山陽新幹線に当初は夜行新幹線の計画があって、兵庫県内に幾つもの駅がある」というのは、割と知られているが、具体にどの駅がどうだというのは、ググってみると色々出てくる。

しかし、これでは上下の列車が行き違いできなくなります。そこで、姫路駅には待避線を設置。姫路駅から約20km博多寄りにも待避線を設けた相生駅を建設し、上下の夜行列車が行き違いできるようにしました。このときの計画が実現していれば、東海道・山陽新幹線の東京~博多間が全通した1975(昭和50)年から新幹線の夜行列車が運行されていたかもしれません。

 

※写真キャプション

山陽新幹線の姫路駅は「単線運転」に対応するため列車待避用の線路を増やして建設された 

 

乗りものニュース「新幹線で夜行列車が走っていないのはなぜ? かつては運転の計画もあったが…」 草町義和・著

https://trafficnews.jp/post/80517/2

 


その計画とは「夜行新幹線」。新大阪~岡山間の新幹線開通を前に国鉄が検討を開始し、昭和41年(1966年)の「山陽新幹線技術基準調査委員会報告」では、東京~博多間を一晩に計24本運行するダイヤ案や、片道平均5,000~7,000人台の利用客見込みなど具体的なデータがそろえられていた。

計画では、新大阪~岡山間は線路の保守点検作業などの関係で、博多方面、東京方面いずれか一方の線路を使う単線運転を想定。この区間は東京と博多の中間に位置するため、単線運行するには一方が通るのをやり過ごす(すれ違わせる)待避場所として4~5カ所の駅が必要となった。

しかも、当時は中国・四国縦断新幹線の計画もあり、山陽新幹線と中国・四国新幹線が交差する駅として想定されていた岡山駅よりも手前で、この退避用駅を置く必要があり、これが兵庫県内に4つの新幹線駅が設置される一因となったわけだ。

 

マイナビニュース「なぜ兵庫県に新幹線の駅が4つもある!? 秘められた幻の計画とは 」OFFICE-SANGA・著

https://news.mynavi.jp/article/20130919-hyogo/

 

●幻の夜行新幹線

 東海道・山陽新幹線では「夜行新幹線」を走らせる計画もありました。夜間に行わねばならない線路の保守作業は、上下線2本の線路のうち1本を使って夜行列車を走らせ、片方の線路で保守作業をするという形で解決。列車の行き違いは駅で行う、というものです。行き違いは東京駅と博多駅の中間付近に位置する兵庫県内の西明石、姫路、相生駅で行うことが想定されていました。

 

乗りものニュース「夜行新幹線、ギネス 山陽新幹線40周年の歴史」 恵知仁・著

https://trafficnews.jp/post/38626/3

 

夜行新幹線の検討

新幹線計画段階では夜行新幹線も検討されており、夜間運行の際は片側1線を日によって交互に単線で運用して残りの1線は保守点検作業を行う計画であった。山陽新幹線では、夜間の単線運行で上下列車を離合させるための待避線として姫路駅の下り線に13番ホームが追加され、予備の待避駅として西明石駅・相生駅が建設された[43]。

 

[43]^ 兵庫に4駅集中なぜ?幻の「夜行新幹線」計画(『神戸新聞』 2012年3月15日)

 

Wikipedia「夜行列車」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9C%E8%A1%8C%E5%88%97%E8%BB%8A

こんな話もあるようだ。 

 

  

 なんかみんな言っていることがビミョーに違うぞ。誰かが嘘をついているのだろうか? 

  

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 で、タイトルにある「夜行新幹線と兵庫県内の新幹線駅の関係が2頁読めばすぐ分かる国鉄課長の報文」である。 

  

 表題は「山陽新幹線の計画概要と施工上の問題点」 

 著者は斉藤徹・国鉄本社山陽新幹線建設部工事課長である。 

 掲載されていたのは「土木施工」という土木業界誌であり、私が参照したのは、「土木工事施工例集 1道路・鉄道編」1967年 山海堂・刊の258頁以降に転載されたものである。 

  

 さっそく(1)新大阪ー岡山間の駅設置について という章があり、駅の設置についての考え方について触れている。

夜行新幹線と山陽新幹線兵庫県内の駅 (1)  

「山陽新幹線の計画概要と施工上の問題点」斉藤徹  「土木工事施工例集 1道路・鉄道編」258頁から

 まず、新神戸、姫路、岡山が決定されたと。これは順当であろう。 

 そして、夜行新幹線の運行上必要な駅の話に入る。 

夜行新幹線と山陽新幹線兵庫県内の駅 (2)  

「山陽新幹線の計画概要と施工上の問題点」斉藤徹  「土木工事施工例集 1道路・鉄道編」258頁から

  

 新神戸、姫路、岡山の3つの駅以外に「待避線をもつ駅が別に2駅必要」としている。 

 なぜ2駅必要なのかは下記の4案の運転方式から導きだされている。 

夜行新幹線と山陽新幹線兵庫県内の駅 (3)  

夜行新幹線と山陽新幹線兵庫県内の駅 (4)

夜行新幹線と山陽新幹線兵庫県内の駅 (5)

「山陽新幹線の計画概要と施工上の問題点」斉藤徹  「土木工事施工例集 1道路・鉄道編」259頁から

 

  

 4つの案から「第1案」が採用された。 

 第1案では「下り列車が新大阪等4個所で上り列車群と行き違いをする」とある。 

 一方、「(新)神戸については、地形上退避設備をとることが非常に困難なため神戸以外の場所を選定する必要がある」 

 そこで、「山陽新幹線が現在の山陽本線と交るか、相接するかした旅客の乗換が便利な地点で、かつかなりの乗降客が予想される地点」として西明石・相生に山陽新幹線の駅を設けることに決定した。 

  

 極めて明快である。 

  相生駅は、姫路には至近だわ、自民党の派閥の領袖である故・河本敏夫氏の地元だわで「政治駅」と言われることがあるが、国鉄の運行上の必要性が改めて明らかにされたということでよいのかもしれない。

 

※ 夜行新幹線がすれ違う駅は「新大阪」「西明石」「姫路」「相生」の4箇所 

 実は先に上げたWikipediaの記事や各鉄道ライター氏の中でこれと同じことを書いた人は一人もいないのであった。 

 これはどうしたことか。 

 「姫路以外は予備」どころか4駅ともがっつり停まっているではないか。

 Wikipediaの元ネタとなっている神戸新聞の記事はリンク切れだし、各ライターの人がそう書いた根拠には一切触れられていないので突き合せの仕様がないのだが、いずれにせよ全員斉藤課長とは違うことを書いている。 

 ひょっとしたら斉藤課長が間違っているかもしれない。国鉄本社山陽新幹線建設部工事課長なんてどこまでホントのこと書いているか疑わしいしな。 

 別の文献にもあたってみよう。 

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 国鉄が毎年開催していた「停車場技術講演会記録」の第18回に佐藤康・国鉄山陽新幹線建設部企画課長が「山陽新幹線の計画について」という報告をしている。 

 これを見れば「のりものニュース」が正しいことが証明されるかもしれない。工事課長より企画課長の方がなんか偉そうだし。

夜行新幹線と山陽新幹線兵庫県内の駅 (8)

「山陽新幹線の計画について」佐藤康 「停車場技術講演会記録」第18回316頁から

 やはり、がっつりと「新大阪、西明石、姫路、相生」の4駅でがっつり行き違いをしているのであった。

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 ところで、姫路駅の新幹線ホームは、上りは11番線のみだが、下りは12番線と13番線の2線がある。

 参照 JRおでかけネット「姫路駅」https://www.jr-odekake.net/eki/premises?id=0610619

 上記のWikipediaにも「山陽新幹線では、夜間の単線運行で上下列車を離合させるための待避線として姫路駅の下り線に13番ホームが追加され」とあるし、草町義和氏も「姫路駅は「単線運転」に対応するため列車待避用の線路を増やして建設された」としている。ネット上でも多くの方が「これは夜行新幹線の名残!」としている。

 これについても資料にあたってみよう。

 国鉄が「山陽新幹線停車場関係資料集」という資料集を刊行している。

https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002797328-00

夜行新幹線と山陽新幹線兵庫県内の駅 (11)

「山陽新幹線停車場関係資料集」76頁から

 姫路駅は上り線も下り線同様の待避線の絵があるが破線になっている=つまり当初から計画はあるが今は実装されていないということだ。

 ではなぜ下り線の待避線だけ施工されたのか?

夜行新幹線と山陽新幹線兵庫県内の駅 (12)

「山陽新幹線停車場関係資料集」77頁から

 

 「姫路、相生駅には着発線6線可能」としてある。

 ではそのうちなぜ姫路駅下りの13番線だけ施工されているのか?

 なお、東海道新幹線の実績にもとづき、事故時における運転整理などのため、姫路駅には開業当初より下り待避2番線を設置することにしている。

 はい。夜行関係ありませんでした。

 

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(余談)

 話は夜行新幹線から逸れるので恐縮なのだが、しれっと

「新大阪駅の将来計画としては、着発線6線(旅客)通過線2線(貨物)、島ホーム3本になるよう考慮されている。」

 と書かれている。

 貨物新幹線は「世界銀行向けのダミー」どころか、当時着々と準備されていたのである。

(余談終わり) 

 

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 これも「山陽新幹線の計画について」佐藤康・国鉄山陽新幹線建設部企画課長 著で、裏取りをしてみよう。

夜行新幹線と山陽新幹線兵庫県内の駅 (10)

「山陽新幹線の計画について」佐藤康 「停車場技術講演会記録」第18回318頁から

 

 「1.姫路駅が5線になっているのは下り退避2番線を事故時の留置線としているため。」

 はい。夜行関係ありませんでした。

 

 正確に書くと「姫路駅の下り13番線は、夜行新幹線運行の際の退避として計画されたが、それは姫路駅の上り線や相生駅にも同様の計画があった。姫路駅の13番線だけ完成しているのは、夜行新幹線の運行のためではなく、事故時における運転整理などのためである。」といったところか。

 国鉄の両課長の報文からすると、夜行新幹線計画がなくても、運行上の必要性から、姫路駅13番線は作られていた可能性が高い。

 であれば「姫路駅13番線は、夜行新幹線計画のために作られたが、夜行新幹線計画が頓挫したため、通常の運行に転用されている」というような言いぶりは誤りであろうし、「姫路駅13番線こそが夜行新幹線計画があった証拠」とまでも言い切れないのではないか。

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 ところで、相生駅は夜行新幹線の上下線の退避のために運行上必要な駅であって、政治駅ではないと書いてみたが、「相生駅がない夜行新幹線の運行図」もあるので、次はそれを紹介したい。

 

 

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<余談 その2>

 マイナビニュース「なぜ兵庫県に新幹線の駅が4つもある!? 秘められた幻の計画とは 」OFFICE-SANGA・著 では

「「山陽新幹線技術基準調査委員会報告」では、(略)待避場所として4~5カ所の駅が必要となった。」

と書いてあるが、

夜行新幹線と山陽新幹線兵庫県内の駅 (6)

では、

夜行新幹線と山陽新幹線兵庫県内の駅 (7)  

「4ヵ所」と書いているのであって「4~5カ所の駅」とは書いていない。 

「山陽新幹線技術調査委員会の成果」立松俊彦・著「交通技術」1966(昭和41)年10月号452~453頁から

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2021年4月11日 (日)

名神高速道路 大津IC→京都東ICへの名称変更と大津SAへのIC追加等にまつわるあれこれ

 高速道路のIC名称については、過去にブログで触れている。

 「高速道路やICの名称決定基準」

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/09/post-edc5.html

名神高速道路 京都東と大津 (9)

高速道路のプランニング」という本に、上記のような決定基準等が掲載されている。

 鉄道の駅は、「西舞鶴」「東舞鶴」と地名の前に東西南北がつくが、高速道路の場合は「舞鶴西」「舞鶴東」と地名の後に東西南北がつく。

 こういった話の中でよく出てくるのが、名神高速道路の京都東インターチェンジである。

 鉄道風に呼べば「東京都インターチェンジ」となり、「とうきょうとインターチェンジ」と読めてしまうからである。

 こういった命名規則となった理由が、少なくとも2種類あるようだ。(私は最近気づいた。)

 

 まずは、日本道路公団公式記録である「名神高速道路建設誌(総論)」1966年・刊 222頁から

名神高速道路 京都東と大津 (3)

 ついで、元日本道路公団職員で実際に名神高速道路建設に従事していた武部健一氏の「道路の日本史」2015年・刊 196~197頁から

名神高速道路 京都東と大津 (2)

 東京都ICを避けて京都東ICとしたところの説明が双方異なっている。

 道路公団公式→「東京都とならないように方角を都市名の下に付した」

 武部健一氏 →「アメリカ式に都市名の下に方角を付したことによる偶然の成功」

  

 また、 地名の後に東西南北がつくお手本も双方異なっている。

 道路公団公式→「Frankfurt-Ost」ドイツ式?

 武部健一氏 →「Oregon-west」アメリカ式

  

 さてどちらが正しいのやら。 

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 次の話題に移りたい。 

 名神高速道路は当初計画では、今の大津ICはなく、今の京都東ICが当初は大津ICで、今の京都南ICが当初の京都ICだった。 

名神高速道路 京都東と大津 (1)  

 「名古屋-神戸 高速道路の構想」日本道路公団 1957年・刊 から 

 後から今の大津ICが追加されたことで、上述の京都東ICという悩ましいIC名問題が勃発したわけだ。 

 ところで、その追加理由について、Wikipediaにはこのように書いてある。 

名神高速道路 京都東と大津 (5)  


 名神高速道路が建設された当時、現在の京都東ICが大津ICとして計画されていた。それに対して当時の大津市長上原茂次は「それでは大津ICとは言えない、京都市内にあるではないか」と猛抗議した。そこで、当初大津SAのみの予定であった場所に急遽、大津ICが併設され、当初予定の大津ICは1963年7月16日、京都東ICに改称の上で設置された[要出典]

 

「Wikipedia」大津インターチェンジ (滋賀県) 2021年4月11日 閲覧

 

  「それでは大津ICとは言えない、京都市内にあるではないか」ということであるが、大津市の地形に詳しい方は、大津市の境界って山科にすごく近いところまで入り込んでいるということをご存じであろう。

 

 上図の一点破線が大津市と京都市の境界線である。 

名神高速道路 京都東と大津 (6)  

「名神高速道路建設誌(各論)」1966年・刊 271頁から 

 この上記「図3-65 京都東(1)」の図面を見るとお分かりのように、当初の大津IC(=現・京都東IC)の出入り口は、大津市追分において国道1号と接続しており、立派に大津市内だったのである。 

 ただし、これは武部氏を含む日本の技術者が初めて高速道路設計に取り組んだ成果であるところ、西ドイツから迎えたアウトバーン技術者であるクサヘル・ドルシュ氏とのやり取りを通して、度々修正されている。 

 「名神高速道路建設誌(各論)」にはその経緯が詳細に記されているがここでは、大津ICの変遷に関係する箇所のみ抜粋して引用したい。 

 ドルシュ氏と取り組んだ修正経過の中で、旧・大津IC(=現・京都東IC)の出入り口を変更して片方向だけの出入りにしようとした時期があった。それにより、大津ICと言いながら、大津市からの利用がしづらい方向に限定しようとしたため、大きな反対の声があがった
 

 それを解消するため、既存の大津SAにICを併設し、神戸・大阪側のみの出入り口を設けることとした

名神高速道路 京都東と大津 (7)  

「名神高速道路建設誌(各論)」1966年・刊 274頁から

 

 片側のみの出入りに変更された京都東ICのサブゲートとして、大津SAに追加された出入口は、当初は片側方向だけの出入り口だったが、最終的には両方向に通行可能となった。 

名神高速道路 京都東と大津 (8)  

「名神高速道路建設誌(各論)」1966年・刊 276頁から

 

名神高速道路 京都東と大津 (9)  

 超ザクっと表すとこんな感じだろうか。実際には変更①②どころではない 7頁にもわたる経緯がある。

 ということで、道路公団の公式記録には、Wikipediaに書いてあるような「大津市長上原茂次は「それでは大津ICとは言えない、京都市内にあるではないか」と猛抗議した。そこで、当初大津SAのみの予定であった場所に急遽、大津ICが併設され」たというような記録はでてこない。 

  

 ちなみに武部健一氏は、この辺のやりとりをこう述べている。 

名神高速道路 京都東と大津 (4)  

 「土木史研究におけるオーラル・ヒストリー手法の活用とその意義―高速道路に焦点をあてて― 姉妹版 武部健一氏」33頁 


 大津が「うちのところはなくなったじゃないか。どうするんだ」と文句をいったので、それじゃ、しようがない、とにかく大津サービスエリアを予定したところにくっつけちゃおう。インターを併設しようということになったんです。

 

 「大津ICとSAを併設したのはぐちゃぐちゃになって大失敗で、以降20年くらい禁止になった」というエピソードも興味深い。 

 武部氏の述べる設計変更の経緯とザクっとした経緯図は若干違うが、そこを正確に反映した経緯を図式化して出すと訳がわからなくなるのでご容赦いただきたい。(明らかに間違っているということであればご指摘くださいませ。) 

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 大津ついでに、さらにややこしい話をつっこんでおこう。 

 

 実は、北陸自動車道は、当初は大津市が終点であった。

縦貫道法北陸道

昭和39年当時の高速道路図では下記のような塩梅である。

昭和39年高速道路路線図

昭和39年高速道路路線図2

 

 

 「北陸道の終点を米原にしてくれ」と彦根付近を地盤とする国会議員堤康次郎に地元自治体が陳情している記録が残されている。 

https://archive.waseda.jp/files/pdf/sdb18/22709/yVNl7Xma_1.pdf 

 北陸自動車道建設促進同盟会のパンフレットも興味深い。

https://archive.waseda.jp/files/pdf/sdb18/22711/GfNsGjEb_1.pdf 

 

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あまり知られていない成田空港関連の国鉄未成線

 また成田空港関連である。

 今度は成田空港関連で国鉄のあまり知られていない未成線構想があったというお話。

成田空港への国鉄未成線 (1)

1967(昭和42)年8月23日付毎日新聞から

 成田空港建設資材輸送用に、新東京国際空港公団が土地を買収し、成田線から分岐する鉄道を建設する。

 これを利用して国鉄が成田空港への旅客輸送を図る「空港線(仮称)」を新設する。

というもの。

 

 同様の報道は他にもある。

成田空港への国鉄未成線 (2)

1967(昭和42)年10月6日付朝日新聞から

 こちらには「成田市土屋」と具体の地名が出ているので、今の成田エクスプレス等が利用している線と同様なのかな?

 これが計画どおり実施されていれば成田空港開港から在来線経由の東京直行の鉄道ができたのになあ。

成田新幹線ルートと千葉ニュータウン (4)

1967(昭和42)年9月1日付読売新聞から

 時を同じくして、「首都圏高速鉄道=通勤新幹線」構想も動いていたので、両方を検討した結果、成田新幹線とすることになったのだろうか?

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 成田とは話が変わるが、工事資材用の運搬線路と国鉄、新幹線の他公団との協定にこんなものがある。

 

 埼玉県川口市にある日本住宅公団川口芝園団地の敷地は、元々は鉄道車両を製造していた「日本車輌」の工場であった。

 日本車輛が国鉄線まで引き込み線を持っていたのを転用したのか、公団住宅建設のために新設したのかは不明であるが、蕨駅から「日本住公団専用線」を分離させ、資材搬入に活用したようで、国鉄と住宅公団の間で締結した覚書が残されている。

 その中で興味深い条項があって

・新幹線建設工事着工のため専用線を使用できるのは昭和50年3月まで

・住宅公団は団地入居者の募集にあたり新幹線計画を周知させ、苦情があったら適切な措置をとる

・新幹線建設工事で移転する一般の者の入居に住宅公団は協力する

といったようになっている。

 蕨駅を新幹線が通る計画なんてあったんですね(すっとぼけ)

上越新幹線 新宿-大宮間ルート (1)

1976(昭和51)年1月 「交通技術」1976年1月号「”ひかり”を北へ 東北・上越両新幹線建設計画の概要とその現況」から

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2021年4月10日 (土)

成田新幹線の南ルートと北ルート ~千葉ニュータウンを通るのは既定事項ではなかった~

 また、成田新幹線のルートの話をやります。

  ネットの鉄道関係記事では、成田新幹線と千葉ニュータウンの関係について下記のように書かれている。

 千葉ニュータウンが構想されたのは1960年代のことで、1966年5月に千葉県が整備構想を発表。続いて同年7月には、成田市三里塚に新しい国際空港を整備することを政府が閣議決定し、東京都心と新空港を結ぶ「高速電車」の運行も同時に決まった。これが成田新幹線計画の起源になる。

 千葉県はニュータウンの造成に際し、2路線分の鉄道用地を確保することにした。通勤鉄道用地は当初から確保する方針だったが、構想の発表から2カ月後に「高速電車」が閣議決定されたため、高速鉄道用地も確保することにしたようだ。国鉄発行の『日本国有鉄道百年史』第13巻(1974年2月)にも、以下のように記されている。

 成田新幹線については、当面、新空港と東京都心とをできるだけ短い時間で結ぶことがおもな使命となるが、途中に1か所だけ、将来のニュータウン予定地に駅を設けることとした(中略)ニュータウン計画当初から、この中に通勤鉄道と高速鉄道のそれぞれ複線分の用地が予定されていたためである。

  

「成田新幹線用地が「日本最長メガソーラー」に 京王線も来るはずだった千葉ニュータウン 」草町義和

東洋経済オンライン 鉄道最前線 都会に眠る幻の鉄路

https://toyokeizai.net/articles/-/185355?page=3 

 ところが、「成田新幹線が千葉ニュータウンを通るかどうかは、1971(昭和41)年4月の整備計画決定及び日本鉄道建設公団への建設指示の段階でも確定事項ではなかった」「千葉ニュータウンを通らない世界線もあった」(←「世界線」って使ってみたかったw)

と書くと

 「北総線の横にあるソーラーパネルのところの土地は、千葉ニュータウンを作るときからずっと成田新幹線用に空けて待ってたんだぞ。何言ってんの!?」

と突っ込まれそうだが事実なんである。

 そこのところを例のごとく物量で雪隠詰めにしていきたい。

 

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 成田新幹線のルーツといえば、「通勤新幹線」であることをご存じの方もいらっしゃるだろう。

通勤新幹線

「交通技術」1968年1月号「東京周辺の改良工事施工上の諸問題」菅原操・著35頁から

 

 そもそも、「通勤新幹線」とはなんぞやということになるのだが

 

 第二の柱である東京周辺の都市交通対策の構想では、東京を中心に放射状の通勤新幹線5本(このうち1本は東北新幹線の宇都宮付近までの線で兼用)を建設する。最高時速は160キロ、駅間距離は30キロ以上、車両は現在の新幹線より1両あたり50人多い6人掛け25列、150人乗りで、原則として全員が座れるようにする。1線1時間あたりの輸送量は3万6000人で、100キロ以内の首都圏に住む人は50分足らずで都心に出られることになる。

 路線は、東京から千葉県の新東京国際空港付近(50キロ)に至るもの、東京から茨城県の中央部(100キロ)、東京から群馬県の南部(100キロ)、東京から神奈川県の湘南地区(70キロ)に至るものと、前記東北新幹線兼用の5つ。

「R」1966年11月号「10年後の国鉄 -鉄道網整備の基本構想-」21頁から引用

 当初の通勤新幹線時代にこんな記事がある。

成田新幹線ルートと千葉ニュータウン (4)  

 1967(昭和42)年9月1日付読売新聞 

 「なんや、こら、 北千葉ニュータウン経由って書いてあるやんけ!」と思われるかもしれない。

 まあ、もうしばらくお付き合いください。

成田新幹線ルートと千葉ニュータウン (1)  

「成⽥ニュータウン計画における商業企画に関する研究報告」小林輝⼀郎・著  「⽇本経営診断学会年報」1970年2巻から

 「なんや、こら、 千葉ニュータウンに「高速鉄道」が走ってるやんけ!」と思われるかもしれない。

 まあ、もうしばらくお付き合いください。

 

  

 成田新幹線の建設手続きは下記のとおりである。 

1971(昭和46)年1月18日 東北・上越・成田新幹線の基本計画を決定・告示

1971(昭和46)年1月19日 東北・上越・成田新幹線の調査を国鉄及び鉄道建設公団へ指示

1971(昭和46)年1月30日 東北・上越・成田新幹線の調査報告書を運輸大臣に提出

1971(昭和46)年4月1日 東北・上越・成田新幹線の整備計画決定及び建設指示

1971(昭和46)年10月12日 東北・上越新幹線の工事実施計画認可

1972(昭和47)年2月10日 成田新幹線の工事実施計画認可

 

 御覧のとおり、よーいドンで始まった東北・上越・成田新幹線のうち、成田新幹線の工事実施計画認可だけが東北・上越新幹線よりも遅いのである。(なお、認可の翌日から反対運動が巻き起こるのだがそれは別の機会に。)

 なぜか。

 その間に、「成田新幹線が千葉ニュータウンを通るかどうか」その他諸々が揉めていて決まらなかったためである。

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 その辺の経緯を追っていきたい。

成田新幹線ルートと千葉ニュータウン (3)

1971(昭和46)年10月19日付朝日新聞夕刊 8

  先ほど、成田新幹線は通勤新幹線がきっかけの旨書いたが、通勤路線とするのか、全国網の幹線鉄道ネットワークの一部とするのかで、国鉄と鉄道建設公団が了解できなくて、その路線の性格をどのようにルートに反映させるかも決まらないので、東北・上越新幹線に比べて工事実施計画の策定が遅れているという話である。

 国鉄は、成田新幹線は成田空港利用客だけでは採算がとれない赤字路線になるので、ニュータウンに停車して利用客を稼ぎたいが、鉄道建設公団は余計な駅には止めたくないという対立のようだ。 

  ちなみに、国鉄としては、北ルートの場合は千葉ニュータウンに、南ルートの場合は幕張等の京葉線沿いのニュータウンに停めたかったようだ。

 SNSで「もし成田新幹線ができていたら、(湾岸沿いの)ニュータウンにも停まって、ラッシュの混雑緩和できたかもしれないのに」という書き込みが見られると、未成線マニアは「成田新幹線はそっちじゃなくて、千葉ニュータウン経由だよ。これだからニワカは。」的な態度を取りがちだが、実はニワカの方が正しかったりするのである。 

成田新幹線ルートと千葉ニュータウン (2)  

1971(昭和46)年11月7日付毎日新聞 

 そこをなんとか北ルートで決定して、元サヤの?千葉ニュータウン経由となった。 

  

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 先ほど、「成田新幹線は通勤新幹線か否か」という性格論争があったと書いたが、その詳細が示されている資料があるのであわせて紹介しておきたい。 

成田新幹線ルートと千葉ニュータウン (5)  

「新幹線建設委員会の審議概要(その1)」国鉄新幹線建設委員会 1972(昭和47)年3月刊から 以下同じ 

成田新幹線ルートと千葉ニュータウン (6)  

成田新幹線ルートと千葉ニュータウン (7)  

 ここでいう「首都圏高速鉄道」が、いわゆる「通勤新幹線」である。我々マニアにとっては新幹線だろうが通勤新幹線だろうが大した違いはないようなのだが、当事者にとっては大きな問題なのであろう。

 他の部分も読んでみると、「ここで成田新幹線に通勤定期的な割引を認めてしまうと、他の新幹線への影響が大きい」という課題があるようだ。今では新幹線定期は普通に販売しているが、当時はそこは大きな壁だったということなのだろう。 

  更に、これらの資料に続き、国鉄の監督官庁である運輸省による成田新幹線の位置づけペーパーが添付されている。

 

 成田新幹線ルートと千葉ニュータウン (8)

成田新幹線ルートと千葉ニュータウン (9)  

 ここで注目したいのは、3問題点 (1)ルートについて 中の箱書きの中である。 

〇 北千葉ニュータウン内には複々線の鉄道用地が確保されており、この部分を経由することも考えられる。」 

 この一文から分かる成田新幹線のルート問題への重要な国のスタンスが分かる。 

1) 成田新幹線は北ルート(=千葉ニュータウン経由)となることは、この会議が開催された1970(昭和45)年7月段階では確定事項ではなかった。むしろ「考えられる」程度のレベル感であった。 

2) 千葉ニュータウン内に確保されていた複々線は、当初から成田新幹線用に準備されていたものではなかった(少なくとも運輸省はそうは受け止めていなかった)。

 それが実際に北ルート(=千葉ニュータウン経由)と決定したのは、新聞報道によると 1971(昭和46)年11月ということなんである。

 さあ、対立していた国鉄と鉄建公団が北ルートで合意したからには、事業促進に突き進むかというとそうではなかった。 

成田新幹線ルートと千葉ニュータウン (10)  

1972(昭和47)年5月3日付朝日新聞から   

 工事実施計画認可後に千葉県がルート問題を蒸し返したのである。北ルート反対、南ルートなら検討と。 

成田新幹線ルートと千葉ニュータウン (12)  

 そして、南ルートを今から建設するには時間もかかるので、その間は「都営新宿線(10号線)-千葉県営鉄道-成田空港」の鉄道アクセスを整備すべきとした。 

成田新幹線ルートと千葉ニュータウン (13)  

1972(昭和47)年5月13日付読売新聞から

 そして千葉県の友納知事は東京都の美濃部知事と組んで「都営地下鉄新宿線(10号線)-千葉県営鉄道-成田空港」の鉄道アクセスを整備を改めてぶちあげた。

 都営新宿線の整備促進に繋がるのであれば、成田新幹線反対の急先鋒である江戸川区も賛成である。 

 

 千葉県の友納知事の千葉県営鉄道への熱の入れ方については、サークル「高砂第一工廠」さんの「千葉県営鉄道北千葉線のあゆみ」https://akaden.org/mat/his/ktcb/his01.htmlを読むとよいだろう。

 友納知事にとっては、京成=北総開発鉄道と競合しながら千葉ニュータウンに千葉県営鉄道をねじ込もうとしているところ、更にライバルになる成田新幹線は排除したかったのだろうか?

 これは全くの個人的な思い付きのレベルだが、「成田新幹線が挫折したのは、プロ市民のせいだ、サヨクだパヨクだ」なんてネットで書かれることがあるけど、千葉県が一番悪玉だと思うんだけど。如何??

 先日UPした「成田新幹線凍結前に、承知のうえで、船橋二和高校の南側に成田新幹線と競合する都市計画道路を都市計画決定した」のも千葉県の仕業だし。

 ご存じのように友納知事は保守派の土木利権大好き知事である。反権力で公共事業反対したのではない。

 その証拠に、同時期に成田空港に向けて整備された東関東自動車道(新空港自動車道)は無事に開通している

Wikipedia「中央自動車道」の変な記述を検証 (16)

「道路」1971(昭和46)年11月号から引用

  

 ただし、自分のナワバリに手を突っ込まれたら、公団だろうが国だろうが言うことは聞かないよということなのだろうか。

 その辺は、葛西周辺の区画整理事業を台なしにされそうになった江戸川区の中里区長と同じなのかもしれない。

 

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 ところで成田新幹線が北ルートか南ルートかがギリギリまで決まらなかったとすれば、千葉ニュータウンが空けておいた「新幹線用地(現・ソーラーパネル用地)」は一体何を考えて作られた(空けておいた)のだろうか?

 ヒントになる新聞記事を紹介したい。

成田新幹線ルートと千葉ニュータウン (14)

 1967(昭和42)年12月19日付朝日新聞から

  冒頭にあげた通勤新幹線の記事の直後の報道である。

 陸の孤島であった千葉ニュータウンへの鉄道敷設のために入居者負担を検討するものだ。(余談だが、その後一部路線が宅地開発公団→住宅都市整備公団の鉄道となっていくので、「一種の入居者負担」ではある。)

 その中に注目すべき部分がある。

成田新幹線ルートと千葉ニュータウン (15)  

 ザクっというと、「通勤電車だけでは入居者負担はしんどいので、成田空港行きの電車等も設定することで負担軽減に資するようにしよう」ということだ。

 単純に国策協力として成田新幹線用地を空けて待っていたのではなく、入居者の負担軽減のために新幹線に限らず長距離輸送に係る鉄道を積極的に誘致していこうという姿勢がここには見られるのである。

 

 

 結果的には、成田新幹線も千葉県営鉄道も共倒れに終わった。

 成田新幹線凍結後のAルート、Bルート、Cルートの話は比較的有名だが、実はそもそもスタートからルート問題で躓きっぱなしだったのが成田新幹線だったわけだ。 

 

 (とりあえずここで本題終わり)

 

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 (ここからは余談) 

成田新幹線ルートと千葉ニュータウン (7)  

 先にあげた「新幹線建設委員会の審議概要(その1)」資料にこんな記載がある。 

 成田新幹線を「全国新幹線鉄道のみ建設」し、「首都圏高速鉄道(=通勤新幹線)としての建設は行わない」場合、すなわち、「長距離輸送に専念して、通勤輸送は行わない」場合の「欠点(問題点)」の(2)として「都心部ルート(都庁前鍛冶橋通り)を確保したいきさつに対する都市交通審議会、東京都等の反応」があげられている。 

成田新幹線ルートと千葉ニュータウン (16)  

 都市交通審議会といえば、未成線マニア等にとっては有名な上図の路線網を決めるところだ。 

 (せっかくなので、千葉県営鉄道が10号線として位置づけられているやつを。。。ちなみにまだ埼京線がないので、都営三田線(6号線)が、東北線の西側を大宮方向川越線まで走っている。) 

 そこのメンツを潰すような振る舞いになってしまうということだろうか? 

  

 国鉄で新幹線建設等に携わった角本良平氏が下記のようなことを語っている。 

成田新幹線ルートと千葉ニュータウン (17)  

交通選書 「新幹線 希望と展望」交通新聞社・刊 154頁から 

「成田新幹線は(略),東京のターミナルは当時の都庁前(現在の京葉線ホームの位置)に予定された。そのため,そこに計画されていた地下鉄有楽町線は南の方(有楽町駅寄り)に移された。今日この線が銀座線などと連絡が悪いのはこの措置が原因であった。」 

 成田新幹線は、もともと予定されていた有楽町線を追い出して鍛冶橋(当時の都庁前)に駅を計画したというのである。 

 だから通勤輸送をやめたときに「都心部ルート(都庁前鍛冶橋通り)を確保したいきさつに対する都市交通審議会、東京都等の反応」が気になるのだろう。 

 推測にすぎないがその「いきさつ」には、「成田新幹線は長距離客だけでなく通勤輸送もするので、有楽町線はどいてくれ」という経緯があったため、今更通勤輸送はやりませんとは言えないということではないだろうか? 

  

 また、「この鉄道には自治体側の協力がなく、結局計画は消滅した。その背後には関連の民鉄の反対があったという。」とある。 

 関連する民鉄とはいったいどこだろう?皆様の脳裏には、目つきの悪いパンダを思い浮かべる人もいるかもしれない。いやそれしかいないだろう。 

  

 千葉ニュータウンへの鉄道敷設で千葉県と争った京成電鉄は、成田新幹線代替路線のルートで今度は国鉄と争った。 

成田新幹線ルートと千葉ニュータウン (18)  

1980年10月25日付朝日新聞から 

 ご存じのように、成田新幹線代替の鉄道アクセスは京成に軍配が上がり、多くの鉄道マニアがスカイライナーを「成田新幹線」と呼んでいる。 

 印旛地方をめぐる、千葉県、国鉄、京成の三つ巴の鉄道ルート争いは、京成が最終的に勝利を迎えたということだろうか。 

  

 

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<関連記事> 

●船橋二和高校と日大グランドの間の空間は成田新幹線のために買収した土地の名残だと言われるが、不動産登記簿を閲覧したらそんな売買取引の記録はなかった。 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2021/04/post-305c8a.html 

●成田新幹線の詳細なルート図面をうpしてみる 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2020/03/post-cbaceb.html 

●新宿駅への上越新幹線・成田新幹線の乗入れについて報道をまとめてみた(その1) 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/01/post-d5ec.html 

●新宿駅への上越新幹線・成田新幹線の乗入れについて報道をまとめてみた(その2) 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/01/post-a27d.html

●東北新幹線大宮以南の速度が遅いのは、「プロ市民」のせいなのか、線形のせいなのか検証してみる

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2020/03/post-0f2f22.html

 

 

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※ ブログの内容を、youtube動画、「ゆっくり解説」的な動画に転載することはご遠慮ください。

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2021年4月 8日 (木)

富士スピードウェイのストレートは「飛行機の離着陸にも利用できるようにした」と大成建設富士スピードウェイ建設作業所長が土木雑誌に書いている。

 「ボクのあこがれ♪ボクの恋人♪スーパーカー♪」

 何を隠そう、スーパーカーブーム世代である。

 学校の昼休みはスーパーカー消しゴムでレースをし、放課後は「サーキットの狼」を友達と回し読みし、夜はテレビで「スーパーカークイズ」を見ていた世代だ。

 

 なぜ、こんなつまらない自分語りをするかというと、今回のネタは出オチだからだ。

 表題のとおりである。

富士スピードウェイのストレートは飛行機の滑走路にできる (7)

 「土木工事施工例集 1道路・鉄道編」1967年 山海堂・刊を、「なんかブログに載せられるようなネタはないかなー」と思いながら頁をめくっていたら、こんな記事があった。

「富士スピードウェイ建設工事の計画と施工」著者は小林秀夫・大成建設株式会社富士スピードウェイ建設作業所長と内藤正昭・同社土木本部設計部係長のお二人である。

 Wikipediaの富士スピードウェイの頁には、河野一郎だ河野洋平だと書いてあるが、実際に設計・施工したのは大成建設であり、その施工報告を、その名も「土木施工」という土木業界誌に載せ、その単行本化されたものが私の目にとまったというわけだ。

 

 で、肝心なところはこれである。

富士スピードウェイのストレートは飛行機の滑走路にできる (1)


 メインスタンドの前面には前述のように各種自動車の最高スピードを追及できるように,延長1.6kmの直線コースを用意し,さらに,レース以外の競技や,飛行機の離着陸にも利用できるようにした

 

「富士スピードウェイ建設工事の計画と施工」小林秀夫・大成建設株式会社富士スピードウェイ建設作業所長、内藤正昭・同社土木本部設計部係長

 こういう重箱の隅のようなネタならWikipediaに載っているかなと思ったら載っていないし、検索してもヒットしないので、貴重なネタなのかも!と思い、あげときました。

 というだけである。

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 これだけなのだが、これで終わると本当に出オチの一発芸なので、私のブログらしいネタにも触れておこう。

 土木の施工報告なので、当然竣工図面が載っている。

富士スピードウェイのストレートは飛行機の滑走路にできる (2)

 こっそり「大成建設事務所」と図-1の左上に書いてアピールしているところなんかお茶目だ。

 サーキット好きな方にはそれぞれのコーナーのRなんかに需要があるのかしら。

 縦断図があると「サーキットもやっぱり道路の施工なんだなあ」と思ったりする。

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 富士スピードウェイというとかつては「30度バンク」が有名だったそうで。

 


30度バンク

 富士スピードウェイの大きな特徴として、30度のカントがついたバンクコーナーがあった。これは前述の通り、元々同サーキットがオーバルコースとして計画されたことの名残と言われている。オーバルコースではコーナーでの減速を極力減らすため、コーナーにバンクを付けるのが普通である。

 当時、国内でこのような急角度の路面舗装を経験した業者はひとつもなく、依頼された日本鋪道(後のNIPPO)は、ロードローラーをバンクの上からワイヤーで引っ張るという方法できり抜けた。しかし、もともと経験不足を起因とする勾配の設計が良くない上に、後に「馬の背」と呼ばれることになるこぶ状のうねりもあった。カントのついたオーバルコースで争われるオートレースの世界から転進した田中健二郎曰く、「完成当初にコース管理者に『基礎に杭を打ち込んだか?』と尋ねたら、『打ち込んでない』と言われ『こりゃ駄目だ』と思った」そうである。

 

Wikipedia「富士スピードウェイ」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%BC%E3%83%89%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%82%A4 2021年4月8日閲覧

 その「ロードローラーをバンクの上からワイヤーで引っ張るという方法できり抜けた。」というのが当該報文にも掲載されている。

 ところで、この本には「富士スピードウェイの舗装」という報文も続いて載っているのだが、それの著者は大成建設系列の舗装業者である「大成道路株式会社」の社員となっている。

 なのでWikipediaの「依頼された日本鋪道(後のNIPPO)」という表現は要検証である。

 また「杭を打ち込んでいないから駄目だ」旨の田中健二郎氏の発言を引用しているが、道路は杭の有無の問題ではなく、土をしっかり固めているかの問題であるので、これは残念ながら的外れな発言である。

 Wikipediaの富士スピードウェイを書いた方はよく検証していただきたい。

 

 それはさておき、施工写真だ。

富士スピードウェイのストレートは飛行機の滑走路にできる (5)

 「カント30°部分表層輾圧状況」とある。これがロードローラの作業だ。

富士スピードウェイのストレートは飛行機の滑走路にできる (4)  

 「カント30°部分表層舗装状況」とある。ここでアスファルトをひいている。 

富士スピードウェイのストレートは飛行機の滑走路にできる (6) 

 そしてこれが「バンクの上からワイヤーで引っ張るという方法」の図解である。 

 舗装の機械は15°傾けて設置していたこともわかる。 

 

 ところで「後に「馬の背」と呼ばれることになるこぶ状のうねりもあった。」とのことだが、当該報文にはこう書いてある。

 次に、平坦性は直線部で3mの直線定規で測定しても大半が5mm以下であった.また曲線部30°の斜面では8mm位のところもあったが,これは基層の上にスベリ止めを行ったので表層による不陸調整ができなかったためと思われる。

 

「富士スピードウェイの舗装」秋山次雄・大成道路株式会社工事部,研究所次長

 だからなんだと言われるとアレだが、一応書いておく。

 

 サーキットの舗装の話については、「日本では高速道路より先に鈴鹿サーキットが出来て、それの舗装を参考にして高速道路が作られた」というホンダの人の話を検証する」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2020/08/post-68a979.htmlという記事も書いているのであわせてご参照いただきたい。

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2021年4月 3日 (土)

船橋二和高校と日大グランドの間の空間は成田新幹線のために買収した土地の名残だと言われるが、不動産登記簿を閲覧したらそんな売買取引の記録はなかった。

 成田新幹線について調べていると、「あそこが未成だった土地だ」「成田新幹線用地として買収したが、事業中止となったために売却されて活用している土地に違いない」という話がでてくる。

 新京成電鉄の公式ツイッターもそんなことをつぶやいてる。

 

 実際にそのような事例はないわけではない。

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する (2)

 上の広告の①と②は、そのような事例だった可能性はある。

 

 そういった中で有名な箇所の一つが、千葉県船橋市二和西一丁目にある千葉県立船橋二和高校と日大グランドの間の微妙な隙間である。

 以前、このブログでも「成田新幹線の詳細なルート図面をうpしてみる」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2020/03/post-cbaceb.htmlという記事を書いて、日本鉄道建設公団が作成した路線図をうpしているが、確かにこのあたりを通っているように見えなくもない。

成田新幹線計画図面 (2)

 


注釈 5

^ 途中、千葉県立船橋二和高等学校脇を通る。日本大学二和グラウンドとの境界(道路)が北東に伸びているのはその名残。

 

Wikipedia 「成田新幹線」 2021年4月1日閲覧

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%90%E7%94%B0%E6%96%B0%E5%B9%B9%E7%B7%9A

 また、船橋二和高校の西隣にある船橋二和グリーンハイツの南側にある駐車場についても同様の話が出ている。


■千葉県船橋市二和地区・謎の細長い駐車場

(中略)

画像の駐車場は、用地買収したものの計画中止となって後に売却された土地と思われる。

 

「にょほほ電鉄」成田新幹線 2021年4月1日閲覧

https://www.nyohohodentetsu.com/railjnrnarita.html

 とは言っても、物証があるのか?というところである。

 それをやってみようというのが今回の記事である。そして成田空港反対運動における意外な事実が浮かび上がってきたのだった。

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 実は小生、不動産の登記簿等からある程度の証拠を集めて推測するくらいはできる。

 ネットで見る限り、それをやって確かめた人はいないようなので、やってみよう。

 

 「不動産登記簿?何やそれ?」という方は、こちらの不動産関係サイトでも見てほしい。

 

 先に結論を言うと、

 「船橋二和高校や船橋二和グリーンハイツと日大グランドの間の空間の土地において、日本鉄道建設公団が土地を売買した記録は見つけられなかった。」

ということである。すべての筆を確認したわけではないが、代表的なポイントの筆の全部事項証明書を閲覧した範囲では、「成田新幹線が事業中の間に普通の民間建設会社が土地を売買していた」のである。

  

  以下、それを説明していこう。

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 では、まず調べた土地を紹介していこう。 

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する (14)  

 船橋市地図情報システム いきいきふれあいマップ https://webgis.alandis.jp/funabashi12/portal/toshi/index.htmlに注記を入れたもの

  ここで、成田新幹線関係の土地(=日本鉄道建設公団が用地買収したものの計画中止となって後に売却された土地と思われている土地)は、②戸建て住宅、③細長い道路、④怪しい空き地、⑥怪しい小屋、⑦細長い駐車場であろう。

  

 まず、この辺の土地はもともと大蔵省(現・財務省)が所有していた畑が広がっていたようだ。 

 大蔵省が畑を持っているということについて違和感を感じる方もいらっしゃるかもしれないが、森友事件でも話題になったように、国有財産の管理も大蔵省(財務省)の所轄である。

 


江戸時代、下総の台地には広大な幕府の馬牧が置かれていました。牧場の数は時期によって変りますが、江戸時代後期には小金五牧、佐倉七牧で計十二の牧場がありました。牧場は一つ一つが広大で、大人が一日かがりでも廻りきれないものもあったそうです。 二和地域がある船橋の中央台地は小金五牧のうちの「下野牧」で習志野市北部を経て千葉市西端まで至る細長い牧場でした。

 明治維新によって東京府下を中心に多くの失業者が生じ、政府と東京府により人々を下総台地の旧幕府牧へ移住させて開墾農村を作る計画が立てられました。

 

船橋市「二和の歴史」 2021年4月1日閲覧

https://www.city.funabashi.lg.jp/shisetsu/toshokankominkan/0002/0016/0002/p009555.html

 

 このあたりは上記のような由来があるそうなので、それで「国有の畑」が残っていたのかもしれない。

 余談だが、開墾した順に、初富、二和、三咲、豊四季、五香、六実といった地名をつけていったということで、五つ子の女子高生に囲まれるハーレムラブコメマンガみたいですね。

 これを切り売りしていった記録が下記のとおりである。

①船橋二和高校

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する (12)

 昭和51年1月7日分筆  昭和54年2月19日売買

 高校のウェブサイトによると「昭和54年4月14日 創立」とある。 

 売買自体は開校直前の日付だが、実際には昭和51年の分筆後に工事は着工していたものと思われる。

  

 ②戸建て住宅

 個人の所有地なのでプライバシー保護の関係から登記簿はUPしない。 

  昭和50年に、船橋二和グリーンハイツを建設したA建設が取得し、その後複数の建設会社等経て、平成になってから個人に売却されている。

  

③細長い道路 

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する (9)

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する (18)

 上記②の土地と一緒に昭和50年に、A建設が取得し、道路を造成後、昭和60年に船橋市へ寄付している。 

 宅地開発業者が、団地、宅地等を造成し、完成後に道路を行政に寄付することは一般的に行われており、珍しいことではない。

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する (3)

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する (7)

 ↑「財産移管」云々とポップアップが出ているのがお分かりだろうか?開発業者から市に道路の財産が移管されたということである。 

 ストリートビューで見ると、左から「①船橋二和高校」「③細長い道路」「②戸建て住宅」「④怪しい空き地」である。

④怪しい空き地 

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する (8)

  今でも大蔵省(財務省)所有のままである。

 ただし、新幹線事業であれば、大蔵省名義のまま土地を貸し付ける形で処理することも想定される。

 

 

⑤日大グランド 

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する (11)

 昭和52年に日大が取得している。 

  

⑥怪しい小屋 

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する (15)

 今でも大蔵省(財務省)所有のままである。

 

⑦細長い駐車場 

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する (10)

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する (4)

 昭和51年に、船橋二和グリーンハイツを建設したA建設が取得している。 

 ストリートビューで見ると、左から「⑥怪しい小屋」「⑦細長い駐車場」「A建設から市に寄付された道路」「船橋二和グリーンハイツ」である。

 おさらいすると下記のようなことになる。これらの取引が昭和50~52年ごろに立て続けに行われたことになる。

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する 2 (1)

 成田新幹線は、昭和47年に日本鉄道建設公団が工事実施計画の認可を受け、昭和58年に事業凍結、昭和61年に国鉄民営化にあわせて失効したとされている。 

 その間の通常に鉄建公団が用地買収を行っている時期に、「成田新幹線が通ったかもしれない土地」を建設業者が普通に買収して普通に開発しているのが実態であった。 

 繰り返しになるが、全ての筆を調べたわけではないのだが、代表的な筆に係る不動産登記簿の全部事項証明書を閲覧したところ、日本鉄道建設公団が船橋二和高校と日大グランドの間の空間の土地を売買した記録は見つからなかった。 

 言い換えると「ここに成田新幹線が通る計画があった可能性は相応に高いが、実際に日本鉄道建設公団が用地買収をしていたかというと可能性はかなり低い」ということだ。

 これで成田新幹線に係る「都市伝説」を一つ潰したと言って差し支えないのではないか? 

 異議のある方は、是非私が調べていない筆を虱潰しに調べ上げていただければよいかと思う。 

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 ところで、上記の「船橋市地図情報システム いきいきふれあいマップ」に二本の茶色いラインがあるのに気づいた方がいらっしゃると思う。 

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する (2)

 未成線マニアの方は「これこそ成田新幹線の計画を示すものではないか!」「やはり船橋二和高校と日大グランドの間の空間は成田新幹線じゃないか!」と小躍りしてしまうかもしれない。 

 しかし違うのである。 

 この茶色いラインは、千葉県/船橋市の都市計画道路「3.1.37馬込町古和釜町線」なのである。 

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する (1)

 

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する (17)

 https://www.pref.chiba.lg.jp/tokei/toshikeikaku/documents/kuiki_master_zu_funabashi.pdfから

 すると、未成線マニアの方は「成田新幹線計画跡地を転用して道路計画に再利用したのだ!」とまた小躍りしてしまうかもしれない。 

 しかし違うのである。 

 「3.1.37馬込町古和釜町線」が都市計画決定されたのは、昭和56年11月20日(千葉県告示)である。

船橋の都市計画2020~令和2年版~ 31頁に記載

 先ほど、成田新幹線の経緯として、昭和47年工事認可、昭和58年凍結、昭和61年失効という流れを述べた。 

 なんと、成田新幹線工事凍結前の「バリバリに工事中の期間に、道路を都市計画決定している」のである。 

 ちなみに日本鉄道建設公団が作成した成田新幹線の図面(上段)と、船橋の都市計画図面(下段)を並べてみたらこうなる。

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する 2 (6)

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 ここで船橋市議会の議事録を紹介したい。 


昭和五十六年第一回船橋市議会定例会会議録(第二号)

昭和五十六年三月十六日(月曜日)

◆三十六番(川崎忠治君) 二月十五日号、「広報ふなばし」で、国道二九六号線バイパス案について発表が行われました。これによりますると、中野木交差点を起点として、県道船橋─我孫子線、これを北上して馬込町で右折をし、神保町に至りましてからさらに右折をいたしまして、金堀町を通り八千代市に至るものだということが、船橋内の計画線として発表されたわけであります。その延長が市内で十一・七キロメーター、この間、四十メーターと三十メーターの幅員になるという構想であります。
 市の計画図を見てみますると、中野木から馬込町までは大部分が現在の道路が利用されますので、幅員の拡張のみで済まされる、こういう計画であります。馬込町から金堀町までは新しく宅地や農地、山林等が買収されることになります。この通過予定地は四つの農業振興指定地域があります。五十六年度もまた一カ所指定されようとされています。また、この地域には公共施設、医療施設もあり、住宅も追いついてきております。以上の地域環境の中で生活している住民が、広報を見て驚き、このバイパス反対の陳情が今議会にも提出されておるわけであります。こういう意味から、私はこのバイパス問題を取り上げまして、具体的に理事者にご質問申し上げたい、このように思うわけであります。
 私は、具体的に何点かの問題を提起いたしますので、この点について細かくご答弁くださるようお願いをいたしておきます。

(略)

四点では、成田新幹線との関係です。いま成田新幹線は各地で住民の大きな反対に遇い、計画が一時ストップになっております。しかし、この計画は完全に白紙撤回されたものではありません。いつまたこの事業決定がなされるかわからないというのが現状であります。現在、佐原線から成田空港に向けて工事が進められていると言われております。いわゆる在来線の延伸であります。これは、この間の新幹線の計画ルートをそのまま使っているということであります。これを考えてみると、この新幹線がまた浮かび上がってくるということは、住民としては非常に危惧として持つのは当然ではないかというふうに思います。仮に四十メーターから三十メーターのバイパスができるということになりますならば、幅員十一メーターあれば足りるところの軌道幅、これがこのバイパスの中にすっぽりとはめ込まれるということになるわけであります。住民はこの新幹線との関連でも非常に心配を持っております。この点についてどのようにお考えになるか、お答えを願います。
 

◎企画部長(成田知示君) 三十六番議員さんのご質問にお答えをいたします。

(略)

次に、成田新幹線との関連でございますけれども、ご存じのように成田新幹線につきましては、地元の公共団体がこぞって反対をいたしておるわけでございます。もちろん県につきましても反対をいたしております。そういう中で、私どもといたしましては、あくまでも新幹線については反対の立場を通していくということは、すでに決まっておるわけでございます。そういうことを承知の上で、私どもとしてはこのバイパスルートを選定したわけでございまして、新幹線が将来この路線と競合して取るんじゃないかというようなことでございますけれども、私どもとしては新幹線についてはあくまでも反対の立場を貫いていくということでございます。

 

 この議事録に出てくる「国道二九六号線バイパス案」が、船橋二和高校と日大グランドの間の空間に引かれた茶色い線=都市計画道路「3.1.37馬込町古和釜町線」である。 

 都市計画決定(昭和56年11月)の前に市民に路線の説明をしたことに係る質疑というわけだ。 

 この議員と船橋市の企画部長のやりとりを誤解を恐れずにざくっとまとめると 

議員「住民は成田新幹線に反対してきたが、R296BP(都計道)の幅が40mもあるのであれば、そこに成田新幹線が入ってくるのではにないかと危惧している」 

部長「成田新幹線は千葉県も県内自治体もこぞって反対している。そういうことを承知の上でR296BP(都計道)のルートを選定し、新幹線に反対を貫いていく」 

 つまり「千葉県と県内自治体は、成田新幹線反対を貫く前提で、成田新幹線のルートにバイパスのルートを設定した」ということではないだろうか?(違ったらごめんなさい。) 

 この都市計画道路「3.1.37馬込町古和釜町線」は、船橋市が「はねっかえり」で設定したルートではなく、このまま東側の八千代市に伸びて、現在八千代バイパスが施工されているところへ接続するものだ。 

 「バイパスの都市計画道路を成田新幹線にあてて都市計画決定することで、千葉県こぞっての新幹線反対の姿勢を確かなものにした」そう見ることもできるのかもしれない。

 単純に「昔からバイパスの検討はしてきたので、成田新幹線が来ようが来るまいが、千葉県としての事業は変わらずそのまま進めるよ」ということかもしれない。

 あまり知られていないが、船橋市も強硬な新幹線反対派だったのだ。 東北新幹線の戸田市や浦和市は地下化を求めたのだが、船橋市は地下化の検討のボーリングすら拒否したと報じられている。ある意味埼玉県南よりも強硬な反対自治体である。

 

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する (1)

1976年2月10日付朝日新聞から

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 「バイパスの都市計画決定を成田新幹線のルートに重複させたら、新幹線の都市計画と矛盾するのではないか?」と思う方もいらっしゃるかもしれない。 

 しかし、その心配はご無用である。 

 なぜなら、成田新幹線は都市計画決定は一切やっていないから。 

 逆に、地元自治体等と一切ルートの調整はせずにルートを公表し、「これが日本鉄道建設公団が考えた最良のルートです。一切変更しません。」という進め方をしたからこそ、東北新幹線も成田新幹線も地方自治体の長をトップとした異例の反対運動に直面したのである。 

 (例えば、江戸川区は、東西線沿いのルートを湾岸線側に変更できないかという交渉をしているが、突っぱねられている。) 

 その反省を踏まえてなのか、その後の整備新幹線では都市計画決定を行っているようだ。

  

 それにしても、新幹線ルートの上に「そういうことを承知の上で、このバイパスルートを選定」して都市計画決定してしまうというやり方は、初見である。

 大学時代に行政法第二部の講義で成田新幹線訴訟の話を聞いて以来、個人的に「公共事業への反対運動、法廷闘争」といったものに関心を持ってきたのだが、官製のこんなやり方は他にはないのではないか? 

 

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 ここで改めて経緯を整理してみよう。 


1971(昭和46)年 成田新幹線の基本計画告示 

1972(昭和47)年 成田新幹線の工事実施計画認可 →このとき、はじめてルートが公開される。

1975(昭和50)~1977(昭和52)年頃 船橋二和高校、船橋二和グリーンハイツ、日大グランド関係の土地が売却される。 

1977(昭和52)年9月 成田新幹線用地買収を中止(会計検査院参照

1979(昭和54)年 船橋二和高校開校 

1981(昭和56)年2月 船橋市議会「そういうことを承知の上で、このバイパスルートを選定」

1981(昭和56)年11月 都市計画道路「3.1.37馬込町古和釜町線」告示

1981(昭和56)年11月 船橋二和グリーンハイツ竣工 

1983(昭和58)年 成田新幹線凍結 

1986(昭和61)年 成田新幹線計画失効

平成XX年  ②の戸建て住宅竣工

  

 成田新幹線凍結後ではなく、成田新幹線凍結前に色んな興味深い動きがあったということである。 

 

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 ここで気になるのが、1975(昭和50)~1977(昭和52)年頃の分筆の意図である。

 

 船橋二和高校と日大グランドの間を斜めに切る必然性があるような地型ではない。 

 成田新幹線なのか都計道バイパスなのか、何等かの事業を考慮して土地を切り分けたのは間違いないだろう。 

 それが成田新幹線なのか都計道バイパスなのかを確定できる資料にはたどり着いていない。 

  

 あくまでも私個人の推測にすぎないのだが、「千葉県立」船橋二和高校と「千葉県」の都市計画道路ということで、双方千葉県の事業と同士が事前調整して今の土地の切り分けに繋がったのではないだろうか? 

 都市計画決定自体は1981(昭和56)年 と成田新幹線のルート公表の9年後であるが、都市計画道路のルート決定には10年くらいかかるのは珍しい話ではない。千葉県や船橋市は新幹線には反対していたので、それを考慮することなく、千葉県の学校と千葉県の道路で棲み分けをしたというのが私のヤマ勘である。如何だろうか?

 

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※ここからエビデンスのない妄想

 ここでちょっと脱線というか、裏付けは全く取れなかったのだけど、思いついたことがあるので、参考までに皆様にご披露してみる。

 もし、皆様が何か関連資料をお持ちであれば、ご一報を。

 

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する 2 (2)

 都市計画道路は幅員40mで決定されている一方で、成田新幹線の高架だけなら11mしかいらない(側道等はこのさい無視)。

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する 2 (3)

 日大グランド側に、あまり有効に活用されていなさそうな大蔵省名義の土地が今でも残っていることが引っかかっている。

 「ひょっとしたら、これは11m幅の新幹線用地は大蔵省名義のままで、A建設に売却せずに残してあるんじゃね??」

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する 2 (4)

 しかし、すぐ気が付いた。

 「東側の宅地分譲しているところは、船橋二和高校から日大グランドまで一括してA建設に売却してるじゃんか。」

 はい、妄想終了。

 

 ところで、この「11m幅の新幹線用地は大蔵省名義のままで、A建設に売却せずに残してあるんじゃね??」という妄想がもし正当なものであったらこんなことが起きてしまう。

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する 2 (5)

 多くの未成線マニアの方が「ここは成田新幹線のために用地買収したものの計画中止となって後に売却された土地」に違いないと注目する、あの「細長い駐車場」が、成田新幹線の想定幅から外れてしまうのである。

 「成田新幹線のために用地買収した」ということは都市伝説にすぎなかったことは今回実証したが、この妄想が正当なら、「成田新幹線計画地」だったことも都市伝説確定してしまったかもしれない。

※エビデンスのない妄想 終わり

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 ちなみに、船橋二和高校南側の空間と同じように、「成田新幹線用地として買収したが、事業中止となったために売却されて活用している土地に違いない」と言われている道路が、ここから西側の船橋市立馬込霊園付近にもある。 

 

 

 

 実は、ここも都市計画道路3.3.7「南本町馬込線」(ここも国道296号バイパス想定で昭和56年に都市計画決定)のラインにあてはまる。 ここも「そういうことを承知の上で、私どもとしてはこのバイパスルートを選定した」のだろう。

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する (5)

 流石にここの土地の登記簿を閲覧する気にはならないので、「ここが成田新幹線買収済用地の転用だ」と主張される方は是非ご自分で閲覧していただきたい。 

 一回334円の登記簿閲覧ガチャは高いんですよ。 

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する (13)

 この記事書くだけで二千円以上登記情報提供サービスに支払っているのだよ。とほほ。 

 

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<結論>

・船橋二和高校と日大グランドの間の土地は、成田新幹線の事業凍結前に千葉県が都市計画道路として決定した空間である。

・この空間を形づくる1975(昭和50)~1977(昭和52)年頃の土地の売買は、成田新幹線を踏まえたものなのか、都市計画道路を踏まえたものなのかを明らかにする資料は私は見つけられていない。

・この空間の土地は、成田新幹線買収の名残等と言われることがあるが、日本鉄道建設公団が土地を売買した記録は不動産登記簿からは見い出せない。一方成田新幹線凍結前に船橋二和グリーンハイツを開発した建設業者がここの土地を買って「細長い駐車場」等を作っている。

 

 実は、成田新幹線の用地買収は、JR成田線以東の、現在成田エクスプレス等が乗り入れている区間を除いてはほとんど進んでいない。 


 京成電鉄関係者にいわせると、「国鉄は成田新幹線を完成させるための努力を、ほとんどやっていない。空港地下駅に着手したのは、空港第一期工事がほぼ終り、反対派の妨害が下火になってからだった。また、東京寄りの区間で用地買収の努力をしたという話を聞いたことはない」とさんざんである。

(略)

 また、用地買収は、52年9月までに(それ以降中止)要取得面積約136万平方メートルのうち、空港ー土屋間の20万平方メートルを含めて約22万平方メートル(全体の16%)
しか行っていないが、その費用は約59億3千万円。

 

「話題追跡レポート 800億円のムダ「成田新幹線」の利用法」 実業界 1984年4月1日号

 

 成田線以東の買収済用地は、わずかに2万平方メートルである。(おそらく千葉ニュータウン付近の用地は、鉄道建設公団ではなく住宅公団あたりが取得することになっていて分母に含まれていないと思われる。) 

 2万平方メートルを高架橋の幅員11メートルで割ったら1818メートルだ。延長にして1.8km分の土地しか買えていないのだ。

 そうそう「成田新幹線買収済用地」があちこちに出てくるわけはないのだ。 

 

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 <ご注意>

 

 ※ここからは二和地区の新幹線の土地とは全く関係のない一般論です。

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 先ほど 

 そうそう「成田新幹線買収済用地」があちこちに出てくるわけはないのだ。

 

と書いたのだが、鉄道用地が買収されるまでを見てみよう。 

 ちょどJR東海が「環境影響評価から工事開始までの流れ」https://company.jr-central.co.jp/chuoshinkansen/efforts/briefing_materials/library/_pdf/H25lib17.pdfという資料を公開している。 

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する (20)  

 上がざっくりとした全体の流れで、この後個別の作業の説明が出てくる。

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する (21)  

 先ほど成田新幹線の高架部分の標準的な幅員が11mだという公団の資料をお示ししたが、じゃあまっすぐ11mの幅で買い進めていけばいいのかというと全くもってそうではない。

 新幹線が出来ることによって既存の道路や河川が支障となって付け替え工事が出てくる場合がある。大型車が出入りする工場があったりすれば引き続き出入り出来るような道路を再設置しなければならないし、耕作をしていれば水がきちんと流れる用排水路を再設置しなければならなない。

 また、地元住民には必要なくても新幹線建設工事用の重機が入れる道がなければ、それも作らなければならない。

 この辺もひっくるめてどれだけ用地買収をしなければいけないかが決まってくる。

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する (19)  

https://www.city.iida.lg.jp/uploaded/attachment/32826.pdf 

 上記は、実際にリニア建設にあたって地元と「設計協議」している土地だ。リニアは高架だけど、「調整池」や「機器室」も買収することになっていることもわかる。アセスメントの際の図面には、こういったものまでは載っていないと思われる。

 この絵ズラについて、全ての関係者が了解して、初めてどの土地を買収するかが決まってくる。

 船橋市については、先にお示しした新聞記事にあるように、「成田新幹線の地下化を検討するためのボーリングすら許さない」姿勢だったと伝えられており、このように「新幹線が通ることを前提にした協議」が進んでいたとは思い難い。

 ということは、「高架橋の設計はある程度できていても付随する施設や支障移転する公共施設等は全く決められていない状況」だったのではないだろうか?

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する (22)  

 そして、用地買収する箇所が図面上で決まったとしても、それが「誰の所有の土地に何平方メートルかかるのか」が確定しないと売買の契約書は作れない。

 そのために、関係する用地を一筆ずつ測量し、関係地権者の了解を求めていく。

 これが一筋縄ではいかないのだ。

 2ちゃんねるの家庭板やそのまとめサイトなどで、「隣の家が建てた塀がウチの敷地に入っている。文句を言いにいったら、向こうは自分の土地だと言っている→驚きの結果に!」みたいな話を読んだことがある方もいらっしゃるだろう。

 それが新幹線建設用地内で発生しない保証は一切ない。いや金がからんでくるから今まで我慢してきた不満がこの際爆発するかもしれない。

 また、登記簿の所有者の名義が亡くなった先代の爺様のままで、確認したら「兄弟の相続争いで何十年も揉めたままでいつまでたっても決まらない」といった場合もある。(まとまらないままブラジルに移民した兄弟が一人いる、なんてオプションがついたりもする。)

 こんなことになると、仮に新幹線の工事に伴って立ち退くことを了解していたとしても、土地の売買の契約書が作れない。

 そこを公団等の用地買収担当が説得してなんとかまとめていくのである。

 

 とまあこんな過程を経て公共事業の土地は買収されているのである。大筋は鉄道もダムも道路も変わらない。

 であれば、そうホイホイと「成田新幹線で買収済だった土地」が出てくるわけがないというのがお分かりになるだろうか?

 少なくとも

 ・関連する公共事業等の付け替えがあろうがなかろうが用地買収の範囲は影響ない。

 ・隣接地主との境界争いや相続争いがない。

 ・そして用地買収価格に不満がない。

 といった条件をクリアしないと進まないのだ。

 (ただし、「反対派の中に楔を打ち込む」といった意味で、多少の事務的な合理性は敢て目をつぶって契約しちゃう場合もないわけではない。 )

 ネットでは「用地買収に応じると過激派から攻撃されるから」といった言説も見られるが、三里塚はともかく、船橋等ではそれ以前の問題だったと思われる。

 

 なお、こういった公共事業の用地買収のお話がお好きな方はこちらもあわせてどうぞ

 →https://www.hosyoukikou.jp/cgi-bin/journal/login.cgi

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