名神高速道路 大津IC→京都東ICへの名称変更と大津SAへのIC追加等にまつわるあれこれ
高速道路のIC名称については、過去にブログで触れている。
「高速道路やICの名称決定基準」
http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/09/post-edc5.html
「高速道路のプランニング」という本に、上記のような決定基準等が掲載されている。
鉄道の駅は、「西舞鶴」「東舞鶴」と地名の前に東西南北がつくが、高速道路の場合は「舞鶴西」「舞鶴東」と地名の後に東西南北がつく。
こういった話の中でよく出てくるのが、名神高速道路の京都東インターチェンジである。
鉄道風に呼べば「東京都インターチェンジ」となり、「とうきょうとインターチェンジ」と読めてしまうからである。
こういった命名規則となった理由が、少なくとも2種類あるようだ。(私は最近気づいた。)
まずは、日本道路公団公式記録である「名神高速道路建設誌(総論)」1966年・刊 222頁から
ついで、元日本道路公団職員で実際に名神高速道路建設に従事していた武部健一氏の「道路の日本史」2015年・刊 196~197頁から
東京都ICを避けて京都東ICとしたところの説明が双方異なっている。
道路公団公式→「東京都とならないように方角を都市名の下に付した」
武部健一氏 →「アメリカ式に都市名の下に方角を付したことによる偶然の成功」
また、 地名の後に東西南北がつくお手本も双方異なっている。
道路公団公式→「Frankfurt-Ost」ドイツ式?
武部健一氏 →「Oregon-west」アメリカ式
さてどちらが正しいのやら。
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次の話題に移りたい。
名神高速道路は当初計画では、今の大津ICはなく、今の京都東ICが当初は大津ICで、今の京都南ICが当初の京都ICだった。
「名古屋-神戸 高速道路の構想」日本道路公団 1957年・刊 から
後から今の大津ICが追加されたことで、上述の京都東ICという悩ましいIC名問題が勃発したわけだ。
ところで、その追加理由について、Wikipediaにはこのように書いてある。
名神高速道路が建設された当時、現在の京都東ICが大津ICとして計画されていた。それに対して当時の大津市長上原茂次は「それでは大津ICとは言えない、京都市内にあるではないか」と猛抗議した。そこで、当初大津SAのみの予定であった場所に急遽、大津ICが併設され、当初予定の大津ICは1963年7月16日、京都東ICに改称の上で設置された[要出典]。
「Wikipedia」大津インターチェンジ (滋賀県) 2021年4月11日 閲覧
「それでは大津ICとは言えない、京都市内にあるではないか」ということであるが、大津市の地形に詳しい方は、大津市の境界って山科にすごく近いところまで入り込んでいるということをご存じであろう。
上図の一点破線が大津市と京都市の境界線である。
「名神高速道路建設誌(各論)」1966年・刊 271頁から
この上記「図3-65 京都東(1)」の図面を見るとお分かりのように、当初の大津IC(=現・京都東IC)の出入り口は、大津市追分において国道1号と接続しており、立派に大津市内だったのである。
ただし、これは武部氏を含む日本の技術者が初めて高速道路設計に取り組んだ成果であるところ、西ドイツから迎えたアウトバーン技術者であるクサヘル・ドルシュ氏とのやり取りを通して、度々修正されている。
「名神高速道路建設誌(各論)」にはその経緯が詳細に記されているがここでは、大津ICの変遷に関係する箇所のみ抜粋して引用したい。
ドルシュ氏と取り組んだ修正経過の中で、旧・大津IC(=現・京都東IC)の出入り口を変更して片方向だけの出入りにしようとした時期があった。それにより、大津ICと言いながら、大津市からの利用がしづらい方向に限定しようとしたため、大きな反対の声があがった。
それを解消するため、既存の大津SAにICを併設し、神戸・大阪側のみの出入り口を設けることとした。
「名神高速道路建設誌(各論)」1966年・刊 274頁から
片側のみの出入りに変更された京都東ICのサブゲートとして、大津SAに追加された出入口は、当初は片側方向だけの出入り口だったが、最終的には両方向に通行可能となった。
「名神高速道路建設誌(各論)」1966年・刊 276頁から
超ザクっと表すとこんな感じだろうか。実際には変更①②どころではない 7頁にもわたる経緯がある。
ということで、道路公団の公式記録には、Wikipediaに書いてあるような「大津市長上原茂次は「それでは大津ICとは言えない、京都市内にあるではないか」と猛抗議した。そこで、当初大津SAのみの予定であった場所に急遽、大津ICが併設され」たというような記録はでてこない。
ちなみに武部健一氏は、この辺のやりとりをこう述べている。
「土木史研究におけるオーラル・ヒストリー手法の活用とその意義―高速道路に焦点をあてて― 姉妹版 武部健一氏」33頁
大津が「うちのところはなくなったじゃないか。どうするんだ」と文句をいったので、それじゃ、しようがない、とにかく大津サービスエリアを予定したところにくっつけちゃおう。インターを併設しようということになったんです。
「大津ICとSAを併設したのはぐちゃぐちゃになって大失敗で、以降20年くらい禁止になった」というエピソードも興味深い。
武部氏の述べる設計変更の経緯とザクっとした経緯図は若干違うが、そこを正確に反映した経緯を図式化して出すと訳がわからなくなるのでご容赦いただきたい。(明らかに間違っているということであればご指摘くださいませ。)
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大津ついでに、さらにややこしい話をつっこんでおこう。
実は、北陸自動車道は、当初は大津市が終点であった。
昭和39年当時の高速道路図では下記のような塩梅である。
「北陸道の終点を米原にしてくれ」と彦根付近を地盤とする国会議員堤康次郎に地元自治体が陳情している記録が残されている。
https://archive.waseda.jp/files/pdf/sdb18/22709/yVNl7Xma_1.pdf
北陸自動車道建設促進同盟会のパンフレットも興味深い。
https://archive.waseda.jp/files/pdf/sdb18/22711/GfNsGjEb_1.pdf
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