成田新幹線の南ルートと北ルート ~千葉ニュータウンを通るのは既定事項ではなかった~
また、成田新幹線のルートの話をやります。
ネットの鉄道関係記事では、成田新幹線と千葉ニュータウンの関係について下記のように書かれている。
千葉県はニュータウンの造成に際し、2路線分の鉄道用地を確保することにした。通勤鉄道用地は当初から確保する方針だったが、構想の発表から2カ月後に「高速電車」が閣議決定されたため、高速鉄道用地も確保することにしたようだ。国鉄発行の『日本国有鉄道百年史』第13巻(1974年2月)にも、以下のように記されている。
「成田新幹線用地が「日本最長メガソーラー」に 京王線も来るはずだった千葉ニュータウン 」草町義和
東洋経済オンライン 鉄道最前線 都会に眠る幻の鉄路
ところが、「成田新幹線が千葉ニュータウンを通るかどうかは、1971(昭和41)年4月の整備計画決定及び日本鉄道建設公団への建設指示の段階でも確定事項ではなかった」「千葉ニュータウンを通らない世界線もあった」(←「世界線」って使ってみたかったw)
と書くと
「北総線の横にあるソーラーパネルのところの土地は、千葉ニュータウンを作るときからずっと成田新幹線用に空けて待ってたんだぞ。何言ってんの!?」
と突っ込まれそうだが事実なんである。
そこのところを例のごとく物量で雪隠詰めにしていきたい。
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成田新幹線のルーツといえば、「通勤新幹線」であることをご存じの方もいらっしゃるだろう。
「交通技術」1968年1月号「東京周辺の改良工事施工上の諸問題」菅原操・著35頁から
そもそも、「通勤新幹線」とはなんぞやということになるのだが
路線は、東京から千葉県の新東京国際空港付近(50キロ)に至るもの、東京から茨城県の中央部(100キロ)、東京から群馬県の南部(100キロ)、東京から神奈川県の湘南地区(70キロ)に至るものと、前記東北新幹線兼用の5つ。
「R」1966年11月号「10年後の国鉄 -鉄道網整備の基本構想-」21頁から引用
当初の通勤新幹線時代にこんな記事がある。
1967(昭和42)年9月1日付読売新聞
「なんや、こら、 北千葉ニュータウン経由って書いてあるやんけ!」と思われるかもしれない。
まあ、もうしばらくお付き合いください。
「成⽥ニュータウン計画における商業企画に関する研究報告」小林輝⼀郎・著 「⽇本経営診断学会年報」1970年2巻から
「なんや、こら、 千葉ニュータウンに「高速鉄道」が走ってるやんけ!」と思われるかもしれない。
まあ、もうしばらくお付き合いください。
成田新幹線の建設手続きは下記のとおりである。
1971(昭和46)年1月19日 東北・上越・成田新幹線の調査を国鉄及び鉄道建設公団へ指示
1971(昭和46)年1月30日 東北・上越・成田新幹線の調査報告書を運輸大臣に提出
1971(昭和46)年4月1日 東北・上越・成田新幹線の整備計画決定及び建設指示
1971(昭和46)年10月12日 東北・上越新幹線の工事実施計画認可
1972(昭和47)年2月10日 成田新幹線の工事実施計画認可
御覧のとおり、よーいドンで始まった東北・上越・成田新幹線のうち、成田新幹線の工事実施計画認可だけが東北・上越新幹線よりも遅いのである。(なお、認可の翌日から反対運動が巻き起こるのだがそれは別の機会に。)
なぜか。
その間に、「成田新幹線が千葉ニュータウンを通るかどうか」その他諸々が揉めていて決まらなかったためである。
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その辺の経緯を追っていきたい。
1971(昭和46)年10月19日付朝日新聞夕刊 8
先ほど、成田新幹線は通勤新幹線がきっかけの旨書いたが、通勤路線とするのか、全国網の幹線鉄道ネットワークの一部とするのかで、国鉄と鉄道建設公団が了解できなくて、その路線の性格をどのようにルートに反映させるかも決まらないので、東北・上越新幹線に比べて工事実施計画の策定が遅れているという話である。
国鉄は、成田新幹線は成田空港利用客だけでは採算がとれない赤字路線になるので、ニュータウンに停車して利用客を稼ぎたいが、鉄道建設公団は余計な駅には止めたくないという対立のようだ。
ちなみに、国鉄としては、北ルートの場合は千葉ニュータウンに、南ルートの場合は幕張等の京葉線沿いのニュータウンに停めたかったようだ。
SNSで「もし成田新幹線ができていたら、(湾岸沿いの)ニュータウンにも停まって、ラッシュの混雑緩和できたかもしれないのに」という書き込みが見られると、未成線マニアは「成田新幹線はそっちじゃなくて、千葉ニュータウン経由だよ。これだからニワカは。」的な態度を取りがちだが、実はニワカの方が正しかったりするのである。
1971(昭和46)年11月7日付毎日新聞
そこをなんとか北ルートで決定して、元サヤの?千葉ニュータウン経由となった。
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先ほど、「成田新幹線は通勤新幹線か否か」という性格論争があったと書いたが、その詳細が示されている資料があるのであわせて紹介しておきたい。
「新幹線建設委員会の審議概要(その1)」国鉄新幹線建設委員会 1972(昭和47)年3月刊から 以下同じ
ここでいう「首都圏高速鉄道」が、いわゆる「通勤新幹線」である。我々マニアにとっては新幹線だろうが通勤新幹線だろうが大した違いはないようなのだが、当事者にとっては大きな問題なのであろう。
他の部分も読んでみると、「ここで成田新幹線に通勤定期的な割引を認めてしまうと、他の新幹線への影響が大きい」という課題があるようだ。今では新幹線定期は普通に販売しているが、当時はそこは大きな壁だったということなのだろう。
更に、これらの資料に続き、国鉄の監督官庁である運輸省による成田新幹線の位置づけペーパーが添付されている。
ここで注目したいのは、3問題点 (1)ルートについて 中の箱書きの中である。
「〇 北千葉ニュータウン内には複々線の鉄道用地が確保されており、この部分を経由することも考えられる。」
この一文から分かる成田新幹線のルート問題への重要な国のスタンスが分かる。
1) 成田新幹線は北ルート(=千葉ニュータウン経由)となることは、この会議が開催された1970(昭和45)年7月段階では確定事項ではなかった。むしろ「考えられる」程度のレベル感であった。
2) 千葉ニュータウン内に確保されていた複々線は、当初から成田新幹線用に準備されていたものではなかった(少なくとも運輸省はそうは受け止めていなかった)。
それが実際に北ルート(=千葉ニュータウン経由)と決定したのは、新聞報道によると 1971(昭和46)年11月ということなんである。
さあ、対立していた国鉄と鉄建公団が北ルートで合意したからには、事業促進に突き進むかというとそうではなかった。
1972(昭和47)年5月3日付朝日新聞から
工事実施計画認可後に千葉県がルート問題を蒸し返したのである。北ルート反対、南ルートなら検討と。
そして、南ルートを今から建設するには時間もかかるので、その間は「都営新宿線(10号線)-千葉県営鉄道-成田空港」の鉄道アクセスを整備すべきとした。
1972(昭和47)年5月13日付読売新聞から
そして千葉県の友納知事は東京都の美濃部知事と組んで「都営地下鉄新宿線(10号線)-千葉県営鉄道-成田空港」の鉄道アクセスを整備を改めてぶちあげた。
都営新宿線の整備促進に繋がるのであれば、成田新幹線反対の急先鋒である江戸川区も賛成である。
千葉県の友納知事の千葉県営鉄道への熱の入れ方については、サークル「高砂第一工廠」さんの「千葉県営鉄道北千葉線のあゆみ」https://akaden.org/mat/his/ktcb/his01.htmlを読むとよいだろう。
友納知事にとっては、京成=北総開発鉄道と競合しながら千葉ニュータウンに千葉県営鉄道をねじ込もうとしているところ、更にライバルになる成田新幹線は排除したかったのだろうか?
これは全くの個人的な思い付きのレベルだが、「成田新幹線が挫折したのは、プロ市民のせいだ、サヨクだパヨクだ」なんてネットで書かれることがあるけど、千葉県が一番悪玉だと思うんだけど。如何??
先日UPした「成田新幹線凍結前に、承知のうえで、船橋二和高校の南側に成田新幹線と競合する都市計画道路を都市計画決定した」のも千葉県の仕業だし。
ご存じのように友納知事は保守派の土木利権大好き知事である。反権力で公共事業反対したのではない。
その証拠に、同時期に成田空港に向けて整備された東関東自動車道(新空港自動車道)は無事に開通している。
「道路」1971(昭和46)年11月号から引用
ただし、自分のナワバリに手を突っ込まれたら、公団だろうが国だろうが言うことは聞かないよということなのだろうか。
その辺は、葛西周辺の区画整理事業を台なしにされそうになった江戸川区の中里区長と同じなのかもしれない。
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ところで成田新幹線が北ルートか南ルートかがギリギリまで決まらなかったとすれば、千葉ニュータウンが空けておいた「新幹線用地(現・ソーラーパネル用地)」は一体何を考えて作られた(空けておいた)のだろうか?
ヒントになる新聞記事を紹介したい。
1967(昭和42)年12月19日付朝日新聞から
冒頭にあげた通勤新幹線の記事の直後の報道である。
陸の孤島であった千葉ニュータウンへの鉄道敷設のために入居者負担を検討するものだ。(余談だが、その後一部路線が宅地開発公団→住宅都市整備公団の鉄道となっていくので、「一種の入居者負担」ではある。)
その中に注目すべき部分がある。
ザクっというと、「通勤電車だけでは入居者負担はしんどいので、成田空港行きの電車等も設定することで負担軽減に資するようにしよう」ということだ。
単純に国策協力として成田新幹線用地を空けて待っていたのではなく、入居者の負担軽減のために新幹線に限らず長距離輸送に係る鉄道を積極的に誘致していこうという姿勢がここには見られるのである。
結果的には、成田新幹線も千葉県営鉄道も共倒れに終わった。
成田新幹線凍結後のAルート、Bルート、Cルートの話は比較的有名だが、実はそもそもスタートからルート問題で躓きっぱなしだったのが成田新幹線だったわけだ。
(とりあえずここで本題終わり)
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(ここからは余談)
先にあげた「新幹線建設委員会の審議概要(その1)」資料にこんな記載がある。
成田新幹線を「全国新幹線鉄道のみ建設」し、「首都圏高速鉄道(=通勤新幹線)としての建設は行わない」場合、すなわち、「長距離輸送に専念して、通勤輸送は行わない」場合の「欠点(問題点)」の(2)として「都心部ルート(都庁前鍛冶橋通り)を確保したいきさつに対する都市交通審議会、東京都等の反応」があげられている。
都市交通審議会といえば、未成線マニア等にとっては有名な上図の路線網を決めるところだ。
(せっかくなので、千葉県営鉄道が10号線として位置づけられているやつを。。。ちなみにまだ埼京線がないので、都営三田線(6号線)が、東北線の西側を大宮方向川越線まで走っている。)
そこのメンツを潰すような振る舞いになってしまうということだろうか?
国鉄で新幹線建設等に携わった角本良平氏が下記のようなことを語っている。
交通選書 「新幹線 希望と展望」交通新聞社・刊 154頁から
「成田新幹線は(略),東京のターミナルは当時の都庁前(現在の京葉線ホームの位置)に予定された。そのため,そこに計画されていた地下鉄有楽町線は南の方(有楽町駅寄り)に移された。今日この線が銀座線などと連絡が悪いのはこの措置が原因であった。」
成田新幹線は、もともと予定されていた有楽町線を追い出して鍛冶橋(当時の都庁前)に駅を計画したというのである。
だから通勤輸送をやめたときに「都心部ルート(都庁前鍛冶橋通り)を確保したいきさつに対する都市交通審議会、東京都等の反応」が気になるのだろう。
推測にすぎないがその「いきさつ」には、「成田新幹線は長距離客だけでなく通勤輸送もするので、有楽町線はどいてくれ」という経緯があったため、今更通勤輸送はやりませんとは言えないということではないだろうか?
また、「この鉄道には自治体側の協力がなく、結局計画は消滅した。その背後には関連の民鉄の反対があったという。」とある。
関連する民鉄とはいったいどこだろう?皆様の脳裏には、目つきの悪いパンダを思い浮かべる人もいるかもしれない。いやそれしかいないだろう。
千葉ニュータウンへの鉄道敷設で千葉県と争った京成電鉄は、成田新幹線代替路線のルートで今度は国鉄と争った。
1980年10月25日付朝日新聞から
ご存じのように、成田新幹線代替の鉄道アクセスは京成に軍配が上がり、多くの鉄道マニアがスカイライナーを「成田新幹線」と呼んでいる。
印旛地方をめぐる、千葉県、国鉄、京成の三つ巴の鉄道ルート争いは、京成が最終的に勝利を迎えたということだろうか。
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<関連記事>
●船橋二和高校と日大グランドの間の空間は成田新幹線のために買収した土地の名残だと言われるが、不動産登記簿を閲覧したらそんな売買取引の記録はなかった。
http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2021/04/post-305c8a.html
●成田新幹線の詳細なルート図面をうpしてみる
http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2020/03/post-cbaceb.html
●新宿駅への上越新幹線・成田新幹線の乗入れについて報道をまとめてみた(その1)
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●東北新幹線大宮以南の速度が遅いのは、「プロ市民」のせいなのか、線形のせいなのか検証してみる
http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2020/03/post-0f2f22.html
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コメント
外部者からすると、首都圏の数々の地方自治体の中でも「千葉県」は、どうも大規模な公共事業に横やりを入れて広範囲に影響を及ぼすことが(結果として)多いところと感じてしまいます。
常磐道や外環道の千葉県区間はいずれも高架ではなくトンネルで蓋をして開通させるために開業が遅れていたりとか。
三里塚新空港というあまりにも有名な例があるが所以、イメージでそう推測しているだけで実際はそうでもないのかもしれませんが。
千葉県の特定の政治家や県民、「市民」に全く他意はなくて、単純になんでなんだろうと。
投稿: 阪急ファン(難民) | 2021年4月13日 (火) 09時13分
阪急ファン(難民) 様 コメントありがとうございます。
成田新幹線の記事を調べていると
「普段通勤通学で利用している在来線はいつまでも改善されないのに、自分たちが普段使わない成田新幹線には大金を投じるのか」
といった反感があったようです。
新空港は、三里塚の前の富里のときから東京で決めたことが降ってくるという反感がありましたしね。
それにしても本文にも触れていますが、同時期の公共事業である東関道には協力して、むしろ他の倍くらいのスピードで完成しているので一概には言えないと思います。
投稿: 革洋同 | 2021年4月14日 (水) 20時37分
昭和40年代に後半から平成初期にかけては、千葉県に限らず全国的に大規模公共事業に対する反対の声が大きかったと思います。
事業計画が一方的に発表されて「ここに造りますから立ち退いてください」というやり方が反発を買っていたことが大きいのでは?
成田空港での失敗の反省から、市民の意見を聞きながら計画作りをする仕組みができて多少は反映されるようになったので、以前ほど反対の声は上がらなくなったように思います。
千葉県での大規模公共事業の反対の声が目立つように感じるのは、成田空港事業の影響もあるでしょうし、用地収用委員会が機能していなかったために反対意見で事業が止まりやすかったこと、千葉県内のインフラ整備が遅れていてこの時期に大規模公共事業が多く計画されていたこともあるかもしれません。
投稿: | 2023年8月27日 (日) 18時55分