「京葉線の東京駅は、成田新幹線用に確保した用地に作った」という人が多いから登記簿をとってみた
「船橋二和高校と日大グランドの間の空間は成田新幹線のために買収した土地の名残だと言われるが、不動産登記簿を閲覧したらそんな売買取引の記録はなかった。」
http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2021/04/post-305c8a.html
「新宿西口甲州街道交差点 なぜ南側の一角だけビルの背が低いのか等を登記簿から探る」
http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2021/05/post-c9067d.html
と、登記簿ネタでブログを書いてみたら、私の弱小ブログにしてはご好評をいただいたので、調子に乗ってまた登記簿をとってみた。
また成田新幹線である。
それも東京駅だ。
「京葉線の東京駅は、成田新幹線用に確保した用地に作った」という人が多いから登記簿をとってみた
「京葉線の東京駅はどうしてあんなに遠いのか?」という問いに対して
「成田新幹線の東京駅のために買収してあった用地を転用/活用したから」といった趣旨の答えをネットでは多く見かけるので、
京葉線東京駅の敷地の登記簿をとってみた。
果たして、成田新幹線の東京駅としての用地買収はされているのであろうか?
京葉線東京駅の地下の権利に係る部分を拡大してみよう。
東京地下駅の権利の設定は、1985(昭和60)年11月20日だ。
成田新幹線の凍結は、1983(昭和58)年と言われるから、その後だ。
残念。
見やすくするために大きい画像も貼っておこう。
というわけで、船橋二和高校南側の空き地に続き、また登記簿で成田新幹線に係る都市伝説を終了させたということでよいのではなかろうか。
これだけではアレなので、もう少し成田新幹線や京葉線の東京駅の権原(けんばら)について解説してみよう。
今回登記を取ったのは、旧・都庁(現・東京国際フォーラム)敷地の地下の部分である。
ヤフーマップ等で見るよりも実はがっつりと道路から東京国際フォーラム敷地内に京葉線東京駅がはみだしている。この筆だけでも438㎡もある。
地上は東京都の持ち物だが、京葉線東京駅が存在する地下2m40cmから38m45cmの間だけ、日本鉄道建設公団(現在は鉄道建設・運輸施設整備支援機構)の権利(区分地上権)が設定されている。
「都庁地下の権利が設定されたのが成田新幹線凍結後だからといって、成田新幹線の東京駅の敷地がそこまでかかっていたか分からないじゃないか。判断するのは早計だ。」
とおっしゃる方もいらっしゃるかもしれないが、成田新幹線時代の東京駅の図面でも「道路巾37m以内に納まらず東京都庁内に侵入せざるを得ない。」と国鉄職員が書いているので間違いないだろう。
成田新幹線東京駅としては用地は買えなかったのである。
では、「道路巾37m以内」における京葉線東京駅の権原の設定はどうなっていたのか。
道路法第32条に基づき、道路管理者(この場合は、東京都)の道路占用(占有じゃないよ)許可を得る必要がある。
上記1972(昭和47)年3月29日付朝日新聞の記事にも紹介されているが、東京都は、成田新幹線東京駅への道路占用を拒否していたのである。反対なので。
「〇〇のプロ市民と過激派のせいで成田新幹線ができなかった」と憤る方がいらっしゃるが、東京都民の場合はまず自問自答された方がよいかもしれない。
尤も、新幹線と東京都が相性が悪いのは成田新幹線に限った話ではないのであるが。
その話は、それはそれでネタが結構あるのだが、閑話休題にしてはあまりにも収拾がつかないのでやる気が起きればまた別の機会に。
1983(昭和58)年7月に京葉線の工事実施計画変更認可があり、道路占用の協議に17カ月を要したというのだから、区分地上権を設定した1985(昭和60)年11月の前後に京葉線東京駅に係る道路占用許可もあわせて取得したのではないか??
そんな感じでほぼ同一歩調で都道下の道路占用許可と旧・都庁地下の区分地上権設定が進んだのではないかなあと「推測」する次第である。
これはあくまでも「推測」なので、間違っているという証拠があれば是非ご教示いただきたい。
今回の本論から話は逸れるが、1983(昭和58)年6月に京葉線の工事実施計画変更認可申請にあわせて、日本鉄道建設公団から運輸省へ「成田新幹線工事の凍結申請」が行われ、同年7月に回答があったという点も注目される。
同じ場所に同じ公団が成田新幹線と京葉線という違う鉄道の工事実施計画の認可を受けるのは具合が悪かったのであろう。
公文書上の正式な成田新幹線凍結は昭和58年7月5日とすべきなのかもしれない??
詳細な凍結時期はともかく、それまでの間に、日本鉄道建設公団は成田新幹線東京駅の工事に必要な土地の権利設定ができていなかった。
権利が無いのだから工事なんかできないのである。国鉄敷地内の地下通路を除いては。
成田新幹線東京駅の工事もできないし、土地の買収(地下の権利設定)もできていないのであれば、「じゃあなんで京葉線東京駅はあんな遠くにあるんだ」ということになる。
だって成田新幹線のしがらみは幸か不幸か一切ないのだから。
鉄道建設公団の公式の工事誌ではこんな理由だ。
JR東日本の社員が書いた報文ではこんな理由だ。
まあ、成田新幹線の遺構があろうがなかろうが「永代通りも八重洲通りも先客がいるのだから鍛冶橋通りしか空いていませんでしたよ」ということなのだろう。
なお、成田新幹線の計画が生きているころの京葉線(当時は「総武・中央開発線」)は、鍛冶橋通りの更に外側になる外濠通りを通って、新橋駅で山手線や東海道線等と接続する構想があった。
「第27回停車場技術講演会記録」307頁から
その辺にご関心がある方は
「京葉線はかつて新橋経由で都心(新宿、三鷹)に乗り入れる計画だった。」
http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/post-1315.html
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ここで、未成線研究としては外せない川島令三氏はここについてどう語っているかを見てみよう。
年を追うごとに、成田新幹線東京駅の完成度合いが後退していっているのが大変興味深い。
なお、「旅鉄CORE」とは、鉄道ジャーナル社から「旅と鉄道」を引き継いだ株式会社天夢人が「鉄道の世界を趣味として、知識として知見を広めるための一歩踏み込んだシリーズ」ということで、その栄えある第一号が川島令三氏の「全国未成線徹底検証 国鉄編」ということのようだ。
川島令三氏の発言の推移については、「川島令三の上越新幹線新宿ルートの変遷を追う」という記事も書いたことがある。
http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2020/04/post-159396.html
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これは余談なのだが、「京葉線東京駅は成田新幹線駅の遺構なので、広いのだ」という話を聞くことがあるが、成田新幹線東京駅のホームよりも、京葉線東京駅のホームの方が広かったでござる。
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これは全くの蛇足なのだが、今回の記事を書くためにネットも含めいろいろ調べていたのだが、こんな記事を見つけた。
「東京駅の「京葉線ホーム」があんなに遠いワケ 新幹線の夢の跡に生まれた地下ホーム」
https://toyokeizai.net/articles/-/220360
この記事の日付が2018年5月13日 5:00
そして、私がまとめた
「<JR京葉線>東京駅はなぜ深くて、なぜ遠くて、なぜ有楽町線には乗入れないのか?」
https://togetter.com/li/1163391
これをまとめた日付が2017年10月22日である。
もにょもにょ。
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