カテゴリー「映画・テレビ」の10件の記事

2019年11月26日 (火)

「せっかく買ったものをNHKにやるのは遺憾千万」~「いだてん」と「ワシントンハイツ」と「NHK」

NHK大河ドラマ『いだてん 〜東京オリムピック噺(ばなし)〜』

 

第42回「東京流れ者」2019年11月10日放送

 

1961年。3年後のオリンピック開催に向け、開発が進む東京。田畑(阿部サダヲ)は、政府が埼玉県内で進める選手村建設計画を中止させ、競技場に近い都心部に場所を確保しようと奔走する。田畑の意を受けた平沢和重(星野 源)が、代々木の米軍基地を返還するようアメリカに訴えるが、それが大きな波紋を呼ぶ。政府によってオリンピック担当大臣に任命された大物政治家、川島正次郎(浅野忠信)が田畑に忍び寄る。

 

https://www.nhk.or.jp/idaten/r/story/042/

 

 ということで、この回の「いだてん」では、選手村を朝霞から代々木のワシントンハイツに持ってくるために主人公たちが奮闘した話が描かれている。

 上記リンク先から見ることができるダイジェスト動画にも出てくるが、ワシントンハイツの移転費用の支出を渋る政府・池田首相に田畑が「この際NHKを移転して、カラーテレビ放送に備えるべし」と進言することで、政府もその気になるというものであった。

 

 ところで、これに対する東京都の実際の言い分は異なる。

いだてんとワシントンハイツとNHKの嘘 (7)

 これは、当時東京都で首都高建設等とともにオリンピックに向けてインフラ整備を担当していた山田正男氏の「時の流れ・都市の流れ」に書かれたものである。

 「いだてん」のストーリーと異なり、国と都がワシントンハイツを返還させ、五輪後は全面公園とすると決めた後にNHKが割り込んできたとある。

 また、既にNHKは麻布に移転先を確保していたとある。麻布でもカラーテレビは放送できなかったのか?

 

 山田正男氏は、「東京の都市計画に携わって 元東京都首都圏整備局長・山田正男氏に聞く」においても、この件について触れている。

いだてんとワシントンハイツとNHKの嘘 (5)

いだてんとワシントンハイツとNHKの嘘 (6)

いだてんとワシントンハイツとNHKの嘘 (3)

いだてんとワシントンハイツとNHKの嘘 (4)

 

 まあ、本件は「国の立場」「東京都の立場」「組織委員会の立場」「NHKの立場」によってそれぞれ言い分があるのだろうが。

 で、次に持ち出すのが、鈴木俊一東京都副知事(当時。後に都知事。)である。鈴木氏はもともと内務官僚であり、オリンピック知事の東氏に行政実務経験が無いことから、それを補佐するために国から送り込まれてきた能吏と受け止めてもらってよいかもしれない。「国のイヌ」とも呼ばれたらしいが。いずれにせよ、国と都の両方の立場を理解している者である。

 その鈴木氏の談によると下記のとおりである。

いだてんとワシントンハイツとNHKの嘘 (1)

いだてんとワシントンハイツとNHKの嘘 (2)

 「回想・地方自治50年」鈴木俊一

 

 「せっかく買ったものをNHKにやるというのは、まことに遺憾千万」「この件で一番もうけたのはNHKである。」と述べている。

 

 別に「NHKの大河ドラマは歴史に忠実でないとけしからん」等と言うつもりはないが、「NHKがホワイトナイト役になるようなドラマをNHKが作るのは、もにょもにょするなあ」ということで。

| | | コメント (0)

2018年5月20日 (日)

チコちゃんを叱ってみる「お年寄りをシルバーで呼ぶのは国鉄のシルバーシート由来なのか?」

 「骨まで大洋ファン」なので、大洋ファンつながりのチコちゃんは応援している。

 ところで、2018年5月放送の「チコちゃんに叱られる! #6」で、鉄道のシルバーシートについて触れていた。

 

 

人生経験が豊富な岡村にチコちゃんが「なぜ高齢者のことをシルバーという?」と質問。「白髪が出てくるから」と答え、不正解だったので叱られた。正解は、「たまたま銀の布が残っていたから」。

 

国語辞典編纂者の飯間さんが解説。1974年発行の三省堂国語辞典にはシルバーに高齢・老人の意味はない。1973年に国鉄に登場した優先席「シルバーシート」が由来。実際に名付けた相談役の須田さんは当時のJR東海の社長。須田さんは名前について、必然的、ケガの巧妙と語る。

 

シルバーシート誕生について映像で紹介。1973年7月、国鉄では私鉄に逃れた私鉄から客を取り戻す策を考えていた。須田さんは、お年寄りの為のシートについて話題性がほしいと考え敬老の日から導入することを決定。約2ヵ月の期間で議論を開始するも赤字財政が続いており新しい座席は作れなかった。当時の新幹線に使われた銀の生地が残っており、座る部分だけを銀にしてシルバーシートとした。その後、私鉄・バスにも広がりシルバーが高齢者を表す代名詞となった。他の色が残っていればその色の名前になっただろうと須田さんがコメント。

https://tvtopic.goo.ne.jp/program/nhk/72821/1164188/

 参考までに「国有鉄道」1973年10月号によると下記のとおりとなっている。

チコちゃんに叱られるで、高齢者のことをシルバーというのはシルバーシート由来と言っていたが果たして (4)

 ところで、同じく国鉄が発行している「国鉄線」1973年3月号に気になる表現が載っている。

チコちゃんに叱られるで、高齢者のことをシルバーというのはシルバーシート由来と言っていたが果たして (3)

 これは、国鉄新潟鉄道管理局営業部販売センターの田辺恵三氏が書いた「5つの需要層に向け商品づくり ヨンナナからヨンパーへ売る営業の発展」という記事で、昭和48年度の国鉄の旅行商品の売り上げ促進策を報告しているものである。そこに「シルバーエイジ」という言葉が出てくるのである。内容としては明らかにお年寄りを指していると言えるのではないか?

 まあ同じ国鉄社内とはいっても当時の国鉄はそこんじょそこらの大企業よりもデカイ図体の組織なので、須田寛旅客局営業課長(当時)は、「国鉄線」なんて読んでいなかったかもしれない。

チコちゃんに叱られるで、高齢者のことをシルバーというのはシルバーシート由来と言っていたが果たして (1)

 

「交通年鑑 昭和48年」に掲載された国鉄職員名簿

 

 ところで、「国鉄線」の編集はどこでやってたかなんてえのを調べてみますと。。。

チコちゃんに叱られるで、高齢者のことをシルバーというのはシルバーシート由来と言っていたが果たして (2)

 営業課と同じ局内の国鉄旅客局総務課じゃないですか。

 

 「国鉄線企画編集委員会委員長」は、名簿では須田営業課長の二つ上に掲載されている八田総務課長じゃないですか。

 

 なら須田営業課長も読んでいるでしょうよ。シルバーシートを世に出す半年前に。

---------------------------------------

 ということで、新幹線の座席の生地が余っていたかはともかくとして、

「シルバーシート以前に国鉄社内ではシルバーエイジという言葉を使っていたし、須田営業課長はそれを知っていた可能性は極めて高い」

ということは言えるのではなかろうか。

 

 国語学者であれば、この「シルバーエイジ」という言葉の由来等を当時の新聞や雑誌での用例あたりから調べるのだろうが、そこは専門家にお任せしますが。。。とりあえず言ってみたいので。。。

ボーっと生きてんじゃねえよ!

---------------------------------------

 <追記1> 

 その後、ツイッターで飯間浩明氏や本件を追っていた杉村喜光氏と直接やりとりすることができた。 

 その経緯をトゥギャッてあるので、下記リンク先もあわせてご参照いただきたい。 

https://togetter.com/li/1310276

 また、飯間浩明氏は、下記のように「チコちゃんに叱られる」での発言を修正する文を発表されている。

 

「現在のように『シルバー』で高齢者を表すことが一般化した直接のきっかけは、国鉄の優先席『シルバーシート』の普及だったと言っていいでしょう。ことばが広まった時期を考えると、そう判断するのが合理的です。ただし、『シルバーシート』の命名には複数の由来がありえます。座席の布の色のほか、『シルバー周遊券』など当時のサービスのネーミングも影響した可能性があります」

  実際にはこれほど詳しくコメントできないとしても、ニュアンスを盛り込むことはできたでしょう。もう一度やり直したい気持ちでいっぱいです。

分け入っても分け入っても日本語(2020年12月22日)「シルバー」「シルバーシート」 飯間浩明 https://kangaeruhito.jp/article/29115

---------------------------------------

 <追記2> 

 先日、国会図書館デジタルコレクションの機能が超絶に拡充され、見出しだけでなく本文まで検索できるようになったので、改めて本件について調べてみたところ、新たな知見を得ることができたので、ご紹介したい。

 とりあえず「シルバー」と関連する用語でぶん回してピックアップ、関連する用例を下記にズラズラと並べてみる。

チコちゃんに叱られるのシルバーシートの回が嘘 (1)

これは銀婚式の記念も兼ねてシルバー・ハネムーンと呼ぶ

 

 「アッパさん船長」森繁久彌・著 中央公論社・刊 1961年 100頁
 

 私が見つけた最古の事例がこれ。 「シルバー・ハネムーン」。

 ちなみに、和製英語であって、本来は「second honeymoon」というようだ。 

 https://dictionary.cambridge.org/ja/dictionary/english/second-honeymoon

 

チコちゃんに叱られるのシルバーシートの回が嘘 (2)

服部良一夫妻の銀婚式を祝うシルバー・コンサートが、12月4日6時半から産経ホールに開かれ(以下略)

 

「芸能」1961年2月号 芸能出版社・刊 94頁

 

 こちらは「シルバーコンサート」。 

  他の記事によると、25年間で作曲された作品を演奏したとのこと。

 

チコちゃんに叱られるのシルバーシートの回が嘘 (3)

当社は昭和35年に会社創立25周年を迎えた。中牟田社長は年初朝会での年度方針の発表にさいしてこれをシルバー・エイジ-銀婚式をあける年-にたとえ,(以下略)

 

「岩田屋経営史」岩田屋三十年史編纂委員会・刊 1967年 148頁

 

 こちらは「シルバーエイジ」

 出典が社史で、発言されたシーンが「社長が年初に会社の年度方針の発表する場」ということに着目したい。

 先にあげた事例は、まあ芸能人が使ったところであるが、今回は会社経営者が会社経営の重要な場での発言したものである。

 つまり、そういう重要な公式の場でも「銀婚式にちなんだシルバー」を使っても差し支えないほどに、昭和35(1960)年の段階で、世間では定着していたということができるのではないだろうか? 

  

チコちゃんに叱られるのシルバーシートの回が嘘 (4)

(15)シルバー周遊割引乗車券の試行発売(43.10.1)

結婚記念日を記念して旅行する旅客およびこれと同行する旅客を対象にして,「シルバー周遊割引乗車券」を試行的に発売する。

 

昭和44年版 交通年鑑 財団法人交通協力会・刊 1969年 184頁

 

 杉村喜光氏は、「シルバー周遊券」の命名由来について、下記のようにツイートしている。

 

 

 ただ、シルバー周遊券の制度自体は、途中で変更がされているようで、杉村氏が言うように”1968年に「50歳以上の夫婦」を対象として『シルバー周遊券』というものをすでに発売しています”で正当なのかどうかは、個人的にはもうちょっと深堀してみたい。

 少なくとも、上に引用した「昭和44年版 交通年鑑」では「50歳以上」という要件は書いていなかった。

 当時の関係記事を見ると旧婚旅行」用の周遊券として売り出していたのは間違いないようである。 

チコちゃんに叱られるのシルバーシートの回が嘘 (5)

◆敬老もでっかくいこう◆

 海外のマラソン大会や登山で気をはいた日本老人が、ことしの敬老の日を中心に大挙して、はじめての“海外敬老旅行”に出かける。

 「ルック・ヨーロッパ・シルバー旅行」という名の交通公社、日通共同企画。(以下略)

 

1970年8月2日付読売新聞

 

 「シルバー旅行」という用語の初出だが、ひょっとしたら業界的に「シルバー周遊券」の影響を受けているかもしれない。

 また、結婚記念日に由来した「旧婚旅行=シルバーハネムーン」から「敬老旅行=シルバー旅行」へ、幅が広がっている。

 シルバー周遊券以降、シルバーと旅行が関連する用例が増えているのは間違いない。 

チコちゃんに叱られるのシルバーシートの回が嘘 (6)

ヨーロッパ・シルバー旅行というのがある。敬老旅行だわさ。

 

週刊ポスト 1972年3月31日号

 

 「シルバー旅行」の事例としては、特出すべきものではないが、「週刊ポスト」という大衆誌に「シルバー=敬老」と使われるようになっているという定着の事例ということで。

 

 

チコちゃんに叱られるのシルバーシートの回が嘘 (7)

老人レジャーで一番見込みのあるのは旅行です。ことに、海外旅行は、大型レジャーの一つだといえましょう。実際に成功している例として、ある旅行エイジェントが募集している「シルバー(敬老)旅行」があります。欧米の中心都市を余裕をもってまわる年配向きの旅行です。

 

「狙いにくいが前途有望 老人マーケット」

オール大衆 1972年7月号 58頁

 

 記事の件名が「シルバー・マーケット」だと申し分ないのだが、そこまではシルバーは浸透していなかったのか。 

  

チコちゃんに叱られるのシルバーシートの回が嘘 (8)

48年度では、“売る営業”一年の経験を足がかりに、ねらうべき需要層を次の五つに分類し、誰に何を売るべきかを明確にしてゆくことになった。(中略)

シルバーエイジ」には「感謝とくつろぎ」を売る。

 

「“五つの需要層”に向け商品づくり」国鉄新潟鉄道管理局営業部販売センター 田辺恵三・著

「国鉄線」1973年3月号 35頁 国鉄旅客局・貨物局編集

 

 これは、以前から「シルバーシートの前から、国鉄ではシルバーと言う言葉をお年寄りの意味で使っていたよね。しかも須田寛氏は、当時この冊子を編集している国鉄旅客局に在籍していたよね」という物証としてあげていたもの。 

 「シルバーエイジ」という言葉自体は、前述のように、昭和35(1960)年に、岩田屋の社長挨拶の中で使用されていることが確認できる。この「国鉄線」発行の段階で、既に10年以上使用実績のある用例だ。

  

チコちゃんに叱られるのシルバーシートの回が嘘 (9)

シルバー・ツアー。お年寄り海外旅行です。

 

週刊平凡 1973年9月13日号

 

 「シルバー旅行」だけでなく、「シルバーツアー」も。 

  1973年9月13日号ということで、シルバーシートの実施が1973年9月15日の敬老の日なので、ちょっと前の発売となる。(週刊誌の9月13日号だと、実際には8月末か9月アタマくらいの発売?)

 シルバーシート開始の記者発表は、8月なので、どの程度影響を受けているか??

 

チコちゃんに叱られるのシルバーシートの回が嘘 (10)

とくに、シニアのためのレジャー旅行は、日本交通公社が力を入れ、三泊四日の国内敬老コースを早くから実施していたが、45年からはさらに海外の「シルバー旅行」に実績をあげている。

 

「第二の人生産業 シニア・マーケットの成長度」

「東邦経済」1973年10月号 東邦経済社・刊

 

 この件名も「シルバーマーケット」ではなく「シニアマーケット」である。

 「シルバー=敬老旅行」のイメージが強かったのだろうか?

 記事自体は、1973年10月号ということで、シルバーシートの記者発表後のものであるが、「(昭和)45年からはさらに海外の「シルバー旅行」に実績をあげている。」 ということで、先に上げた1970年8月2日付読売新聞との平仄があうところをご紹介したかった次第。

 

 そして、最大の発見は、「シルバーシートの命名の由来」を解説する記事を掘り出したことである。 

チコちゃんに叱られるのシルバーシートの回が嘘 (11)

お年寄りやからだの不自由な人のための優先座席「シルバーシート」が国鉄にお目見えしたのは,昭和48年9月15日,敬老の日であった。シルバーシート,つまり銀の席という意味であることは誰でも知っているが,この名前の由来について当時旅客局では「以前,50才以上のご夫婦の旧婚旅行用に“シルバー周遊券”というのを発売していたことがあって,その連想からなんとなく名付けた」と説明しているが,結婚25周年記念が銀婚式,そしてその頃になると夫婦とも銀髪になるという二つの言葉からくるイメージから,なんとなく生まれたというのが真相のようである。

 

「傑根宇曇氏の雑記帳」シルバーシート

「車輛工学」1980年9月号 車輛工学社・刊 96頁

 

 「車輛工学」という雑誌は、国鉄を中心とした鉄道の客車や貨車等の「車輛」のことばっかり書いてある極めて読者が限られる業界誌であり、おそらく読者は国鉄の中の人と関連業界(車輛製造、車輛保守点検等)しか読まない雑誌と思われる。

 そして著者の「傑根宇曇」氏であるが、「けつねうろん」つまり「きつねうどん」の関西読みというペンネームである。

 「車輛工学」の1970年から1986年にかけてコラムを連載している。

 業界誌(紙)上で、「中の人」や「中の人だったOB」が本名ではなくペンネームでエッセイや豆知識を連載するというのは「よくあるパターン」で、この「傑根宇曇」氏も国鉄の車輛系統のそれなりの地位の「中の人」 だったと思われる。初代、二代目、三代目と複数名にわたってペンネームを引き継いだ可能性もある。

 その「国鉄の中の人」が、シルバーシートの命名の由来について 

  ”当時旅客局では「以前,50才以上のご夫婦の旧婚旅行用に“シルバー周遊券”というのを発売していたことがあって,その連想からなんとなく名付けた」と説明”

 ”結婚25周年記念が銀婚式,そしてその頃になると夫婦とも銀髪になるという二つの言葉からくるイメージから,なんとなく生まれたというのが真相”

 と述べているのである。

 国鉄旅客局は、まさにシルバーシートの担当局であり、須田寛営業課長が所属していた部署である。そこの公式見解は「シルバー周遊券由来」説で、傑根宇曇氏のいう「真相」は「銀婚式」と「銀髪」由来というのだ。

 須田寛氏が言うところの「シートの色由来」説は一顧だにされていない。 

  

人生経験が豊富な岡村にチコちゃんが「なぜ高齢者のことをシルバーという?」と質問。「白髪が出てくるから」と答え、不正解だったので叱られた。正解は、「たまたま銀の布が残っていたから」。

https://tvtopic.goo.ne.jp/program/nhk/72821/1164188/

 

 杉村喜光氏の「ルーツは銀婚式から」を改めて裏付ける結果となったと言えるのではないか。 

  

  なお、月刊警察1991年1月号 86頁 のように、「シルバーシート銀婚式由来説」を紹介した書籍も出ている模様。

チコちゃんに叱られるのシルバーシートの回が嘘 (12)

  

 須田寛氏の「シートの色」由来説は、傑根宇曇氏の文の9年後に、自著において書かれている。 

  

チコちゃんに叱られるのシルバーシートの回が嘘 (13)

 お客様への案内上、シートの色を変えることが望ましいと考えられ、適当な色が求められた。しかし発案から9月の敬老の日までの実施日までの日が少なく、たまたま新幹線普通車用のシルバーグレーのシート布地しか在庫がないことから、このシートを急きょ活用することになった。

 優先席の名前もいろいろ考えられたが、シートの色とあわせるのが適当ということになり、「シルバーシート」に落ち着いた。

 いいかえれば、「シルバーシート」は新幹線の落し子であったといえる。もし他の色のシートが在庫していたら、「シルバーシート」は別の名になっていたかも知れない。

 

「東海道新幹線」須田寛・著 大正出版・刊 1989年 63頁

 

 当時、須田寛氏は、国鉄民営化を経て、JR東海(東海旅客鉄道株式会社)の社長であった。 

 民営化の勝ち組社長に忖度したのか?以降、シルバーシートの由来は「シートの色」説一色となっていく。 

 

  

チコちゃんに叱られるのシルバーシートの回が嘘 (14)

 須田寛氏は、自著のなかで「優先席の名前もいろいろ考えられた」 と述べているが、その「いろいろ」の中に

・「シルバー周遊券に由来した『シルバーシート』案」 

・「銀婚式に由来した『シルバーシート』案」

・「銀髪に由来した『シルバーシート』案」 

・「シートの色に由来した『シルバーシート』案」 

  等が出ていたのではないか?

  

 そして、国鉄旅客局の公式見解は「 シルバー周遊券に由来した『シルバーシート』説」だったが、何故か「シートの色に由来した『シルバーシート』説」にとってかわられたということか?

 そりゃ、あやしげな「傑根宇曇」よりも、国鉄時代から「中の人の鉄道マニア」としても有名で、JRの社長・会長を勤めた須田寛氏の説の方が根拠としてもっともらしいわな。「トリビア」的な意外性もあるし。 

 「シルバー周遊券に由来しました」と言っても、意外性はないし、そもそも「シルバー周遊券とは何か」を説明しないと通じないし。 

  

 ただ、「シートの色に由来した『シルバーシート』説」も「諸説あります」の「諸説の一つにすぎない」とは言えるのではないか? 

 

------------------------------------------------------------------------

 

 あわせて、和製英語としてお年寄りのことを意味する「シルバー」の起源(時期)にも触れておく。 

 

ところで、『岩波国語辞典』は、先に紹介した版に続く第8版で、「シルバー」の記述を次のように短く変更しました。

〈②老人(層)。〔略〕▽(2)は一九七〇年ごろから広がった日本での用法〉

 

分け入っても分け入っても日本語(2020年12月22日)「シルバー」「シルバーシート」 https://kangaeruhito.jp/article/29115

 

 上記の事例から勘案すると、岩波国語辞典のいう「1970年ごろ」よりも前の、遅くとも「1960年ごろ」から広がったものと思われる。 

 

チコちゃんに叱られるのシルバーシートの回が嘘 (15)

 

 問題の「チコちゃんに𠮟られる!」の「シルバーシート」の回は書籍化されてしまった。

 シルバーシート命名の由来は「諸説あります」でもよいが、”「シルバーシート」の登場が、シルバーという言葉を高齢者たらしめたわけです”は、明らかに嘘と言ってよいだろう。

 ただ、私や杉村氏がツイッターやブログで多少の物証をあげたところで、これをひっくり返すのは難しいだろう。 

  

 しかも、東大生のレベルを知るためVTRで紹介された正解率10%の問題が「なぜ高齢者のことを“シルバー”と呼ぶのか」というなかなかの難問。この問題は林にも初耳だったらしく、問題のレベルの高さに驚きの表情を隠せない。

 ちなみに正解は、白髪の色から…ではなく「1973年に電車の車内で初めて優先席が作られた際にシートに銀色の布が使われたから」。その席を“シルバーシート”と呼んでいたことから、“シルバー”自体が高齢者という意味で認識されるようになったのだという。

 

<初耳学>高齢者はなぜ“シルバー”?教え子からの超難問に林先生「ガチじゃん!」 https://thetv.jp/news/detail/205592/

 

 このように「分かりやすく」「意外性のある」嘘がコピペしていくのだから。 

 

 

ボーっと生きてんじゃねえよ!

------------------------------------------------------------- 

(余談) 

 国会図書館デジタルコレクションで見ていると「シルバーシート」というのは、元々は建築や農業用のシートの名前で使われていたようですね。 

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年4月 8日 (日)

「首都高をオリンピックに間に合わせるためには『空中作戦だ』」のアンビリバボーを検証してみる

 フジテレビの「奇跡体験!アンビリバボー」の2018年1月4日の放送で、「東京オリンピックをつくった男たちSP 首都高建設に挑んだ男たち」という題名で首都高速道路を東京オリンピックに向けて建設していく取り組みが放送されていた。

http://www.fujitv.co.jp/unb/contents/180104_2.html

魚拓https://megalodon.jp/2018-0317-1753-33/www.fujitv.co.jp/unb/contents/180104_2.html

 その中で気になる点が幾つかあったので検証してみたい。

 


 東京オリンピック開催のニュースが駆け巡った直後、東京都庁・都市計画部の職員たちは、青ざめていた。 戦後の目覚ましい復興とともに東京には車が溢れていた。 毎年、3万台近くのペースで増加、都心の道路は、至るところで大渋滞が発生していた。 そこでオリンピック開催が決まる6年前、政府は慢性的な渋滞を解消するため、総延長およそ49kmに及ぶ高速道路を張り巡らせる計画を立案。 東京都と建設省に実行するよう勧告を行った。

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (1)

 しかし、用地買収に難航し、計画は一向に進んでいなかった。

 

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (7)

 

そんな中、オリンピック開催が決定したのだ。 東京でオリンピックをやるとなれば、当然、開催期間中は世界中から選手や観光客が訪れる。 その数、実に4万人以上。 もちろん多くの日本国民も会場を訪れる。 連日、大渋滞が起きている東京にそれだけの人が1度に詰め掛ければ、都心の交通網は破綻。 オリンピックが失敗に終わるのは目に見えていた。

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (8)

 国民の悲願である東京オリンピックを絶対に成功させる…そのためには、高速道路を必ず完成させなければならかった。 しかし、実際問題、用地買収は一向に進んでいない。 計画は到底不可能に思えた。

 だが…既存の道路や川の上に道路を造れば、用地を買収しなくて済む。 この時、建てられた計画…『空中作戦』!それは、日本初の試みだった。

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (9)

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (10)

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (13)

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (14)

 

http://www.fujitv.co.jp/unb/contents/180104_2.htmlから引用

 テレビの粗筋はこんなところである。

 ・既存の高速道路計画は用地買収が難航して進んでいなかった

 ・そこに東京オリンピックが決まったが、これでは観客輸送が行き詰まる

 ・それを打破するために空中に首都高速道路を作ることにしてオリンピックに間に合わせようとした。

 ・これが「空中作戦」だ!

 

 果たしてそうなのか、検証してみよう。

-----------------------------

・「既存の高速道路計画は用地買収が難航して進んでいなかった」のか?

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (1)

 1958年に立案された首都高速道路の計画路線はこれである。

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (2)

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (3)

 

出典「首都高速道路建設に関する計画」東京都都民室首都建設部 1953年3月

 この道路は果たして用地買収に難航していたのか?

 アンビリバボーのいうとおりであれば、この道路網が事業化され、用地買収の予算もついて動き出していなければならない。公団もまだできていないのに?

 


 また、都内高速道路網計画については、首都建設委員会告示第12号によって5路線49粁の路線網が決定されているが、具体的実現方策について検討した結果、概ね8路線62.5粁の路線網を決定している。

 

「首都圏における地下高速鉄道と都内高速道路との総合的考察」 月刊「道路」1957年11月号 石塚久司(首都圏整備委員会事務局計画第二部長)著

 用地買収が難航したから計画が変更されたのではなく、「具体的実現方策について検討した結果」今の首都高速道路路線網に決定されたというのだ。そして変更結果がこの路線である。

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (4)

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (5)

 作成時期は、1957(昭和32)年12月、オリンピック開催が決まったのは、1959(昭和34)年4月であるから約1年半前となる。その割には、今の路線網とほとんど同じではないか?(箱崎ジャンクションが無いなど微妙に異なる)

 アンビリバボーでは、オリンピック決定後に首都高速道路公団が設立(6月)され、更にその後に首都高速道路の最初の都市計画が決定した(8月)としているのにどうしたことか。

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (15)

 確かに都市計画決定はオリンピック開催決定後の1959年8月だが、その原案は既に1957(昭和32)年12月に決まっていたのである。

 更に付言するなら、河川や道路の上を活用する方針は、1957(昭和32)年7月に決定していたのである。

 もうちょっと細かく説明するとこんな感じ。

 

 

 


(2)東京都建設局都市計画部案の策定

 首都建設委員会が、首都高速道路の新設について1953(昭和28)年4月建設省と東京都に勧告したのを受けて、東京都は独自の考えで高速道路の計画案の策定を進めた。 とりわけ、1955(昭和30)年12月 、東京都建設局都市計画部長に就任した山田正男は、様々な観点から精力的に職員を督励しながら東京都建設局都市計画部案の検討を したのである

(略)

(3)建設省の基本方針

 建設省は1957(昭和32)年7月20日 、「東京都市計画都市高速道路に関する基本方針」を決定した。これは、 かねてより東京における高速道路の必要性を重視していた建設省が、上記(2)で述 べた首都建設委員会の勧告を受けてまとめた東京都の原案をもとに、同委員会(当時は首都圏整備委員会に変わっている)と協議の上、作成したものである。

 

(略)

(4)東京都市計画高速道路調査特別委員会の設置

 建設省の基本方針が決定されてから半月後の同年8月5日、東京都市計画地方審議会は、高速道路の建設は急施を要する として、首都高速道路網計画の調査立案のため、同審議会の中に東京都市計画高速道路調査特別委員会を設置した。

 

(略)

 そして12月9日開催された東京都市計画地方審議会において会長東京都知事安井誠一郎に対し、東京都市計画高速道路調査特別委員会委員長金子源一郎は調査結果について報告をした。 これによって、東京都市計画都市高速道路網計画案が決定されるに至ったのである。

 

 

「東京の高速道路計画の成立経緯」堀江 興 https://www.jstage.jst.go.jp/article/journalip1984/13/0/13_0_1/_article/-char/ja

 

 河川や道路の上を活用する方針が、1957(昭和32)年7月に決定していたというのは下記の通りである。

 

 

 

首都高が河川を活用することはオリンピック決定よりずっと前に決定

 

 

 

 東京都の「東京都市高速道路の建設について」から引用。詳しくはhttp://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-c06b.html

 

オリンピックに関係なく首都高は川の上だった

 

 1957(昭和32)年9月29日付の読売新聞は、上記のように「都内に高架道路の網」「川の上や二階建」と報じている。

 

 

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (12)

 このシーンは、オリンピック開催決定後に演じられたのではないのだ。決定の1年半前なのだ。

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (14)

 この映像とは逆に「オリンピックに間に合わせること」と「空中に道路を架けること」とは全く別の問題であった。

 この眼鏡のおっさんは番組では「部長」と呼ばれていたことから、東京都の山田正男部長ではないかと推測される。

 

山田正男

 山田正男は実際にはこんな風に語っている。

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦

対談「東京都における都市計画の夢と現実」 「時の流れ都市の流れ」403頁

 ということで、「用地買収に難航していた首都高速道路を、オリンピックに間に合わせるために河川等の上に作るように変更した」というのは嘘確定。

-----------------------------

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (11)

 

 では、山田正男は(時期は違うとしても)首都高速を河川等の上に架けることを「空中作戦」と本当に呼んでいたのだろうか?

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (13)

 「言ったことになっているけれども実際には言ってないんじゃないか」というのを調べるのは非常に困難だ。

 とりあえず、オフィシャルなものを当たってみる。

 ・「首都高速道路公団20年史」(山田氏を含めた対談「公団20年のあゆみとその展望」あり)→空中作戦なし

 ・山田正男の著書「時の流れ都市の流れ」「変革期の都市計画」「明日は今日より豊かか 都市よどこへ行く」→空中作戦なし

 

 ・山田正男のオーラルヒストリー「東京の都市計画に携わって : 元東京都首都整備局長・山田正男氏に聞く 」→空中作戦なし

 

 ・「21世紀の首都圏を考える ―そのかぎは道路づくりに―」(山田氏を含めた対談)「高速道路と自動車」1983年3月号→空中作戦なし

 ・建設時の首都高速道路公団の広報誌「首都高速」→空中作戦なし

 

 ・「オリンピックと山田正男」塚田博康・著(「シリーズ東京を考える 3 都庁のしくみ」都市出版・刊)→空中作戦なし

 どこにも「空中作戦」などという言葉は出てこない。

 当時の土木関係業界誌等に発表された首都高速関係の報文(末尾に記載)を見ても出てこない。

 

 ところがある時期以降「空中作戦」という言葉が出てくることが分かった。

 それは、NHKの「プロジェクトX」である。その名も「首都高速 東京五輪への空中作戦」(2005年4月5日放送)http://www.nhk-ep.com/products/detail/h16460AA

 

 


 オリンピック開催まで、期間はわずか5年。羽田空港から代々木までの限られた路線とはいえ、その間にビルがひしめく東京で、用地を買収して道路をつくることなどできるはずもない。これは「大パニック」になる。

(中略)

 そのときだった。悩む大崎たちのもとに、一人の男が現れた。都市計画部長の山田正男。とんでもないアイデアを出した。

「”空中作戦”はどうか」

 いままでにある道路の上や、街なかを流れる河川に沿って、その上に高架橋の道路をつくれば、用地買収の手間が一気に省ける。5年間の短い期間でも、渋滞が解消できるという前代未聞の作戦だった。

 

「プロジェクトX 挑戦者たち 28 次代への胎動」日本放送出版協会 74~75頁

 

 

 プロジェクトXでは、オリンピック開催決定後に山田正男が「”空中作戦”はどうか」と提案したことになっている

 既に述べたように、オリンピック以前に道路や河川の上に首都高速を作ることは決定されていたのでこれは眉唾である。フジテレビは、NHKの眉唾をコピペして番組を作ったのだろうか?

 

 この後に「空中作戦」を持ち出したのは、自称「首都高研究家」の清水草一氏である。

 

 


 首都高の建設ぶりを、世間は「空中作戦」と呼んだ。川や道路という公共用地の上の、文字通り「空中」に、みるみる高速道路ができていったからだ。しかし山田の空中作戦は、オリンピックに間に合わせるために急遽編み出したわけではなく、当初からの慧眼が、たまたまオリンピックという最高の舞台を得ただけだった。

 

「首都高速の謎」扶桑社・刊 清水草一・著  2011年 50~51頁

 清水草一氏によると「空中作戦」は山田正男が言ったのではなく、「世間が呼んだ」ということになっている。

 では、当方も関係者の書籍ではなく、世間が呼んだことの証跡を得るために、新聞を調べてみた。

 朝日新聞、毎日新聞、読売新聞、日本経済新聞を各オンラインデータベースで検索したが「空中作戦」では一つもヒットしなかった。また、国会図書館のデジタルアーカイブでも検索したが「空中作戦」では一つもヒットしない。

 

 東京オリンピックの舞台裏を描いた塩田潮氏のルポルタージュ「東京は燃えたか」にも出てこない。

 

 清水草一氏の言う「世間」はどの辺に証跡があるのだろうか。

 

 この後になってくると首都高の公式文書等でも「空中作戦」の言葉が見えてくる。

 

 


 工期短縮の特効薬となり、建物密集市街地対策にも適した工法として打ち出されたのが、高架を多用する「空中作戦」やトンネル利用の「地中作戦」だった。いずれも、用地買収などの苦労や工事費を減らせるメリットがあった。

 

「首都高物語: 都市の道路に夢を託した技術者たち」青草書房・刊 首都高速道路協会・著 2013年 96頁

 

 

 


首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (23)

 

 江戸橋ジャンクションは、空中作戦といって橋梁では初めて「立体ラーメン構造」を採用し、橋脚本数を劇的に減らした。

 

「首都高速道路50年の歩み」橋本鋼太郎(土木学会顧問、元首都高速道路株式会社社長) 「東海道新幹線と首都高 1964東京オリンピックに始まる50年の軌跡」土木学会・刊 2014年 47頁

 この瞬間、「空中作戦」は土木学会と首都高速の公認の歴史となっちゃったのである。きっと私の調べが足りないどこかに「空中作戦」を証する根拠があるのだろう。

-----------------------------

 ところで、「空中作戦」という用語を使っている書籍がもう一つある。

東京の都市計画家 高山 英華」鹿島出版会 東秀紀 2010年


 山田の主張によって、首都高速道路公団が設けられ、一号線(羽田・中央区本町間)、四号線(日本橋本石町・代々木初台間)を中心とする約三十二キロの建設がオリンピック関連事業として建設されることになった。

「オリンピックまで、あとわずか五年しかない。果たして間に合いますか」

 国会に呼ばれて、そう議員から質問をされたとき、山田は傲然と答えた。

「絶対に間に合わせてみせます。見ていてください」

 山田には腹案があった。時間がないから、地権者たちの反対、土地買収などにかかわっている暇はない。だから、地権者たちに文句を言わせない方法をとる。

空中作戦だ

 日ごろ冗談一つ言わない上司の不可解な言葉に、部下たちは目を白黒させる。

「俺の言っている意味が分からないのか」

 山田はわざとうんざりして言った。皆の戸惑いが、実のところ、いまは心地よい。

「既設の道路、運河の上を通せ。下は公共の土地だから、誰も文句はいえないよ」

「果たして、そんなことができますか。実例は海外にありますか」

「じゃあ、君たちはどうしたらオリンピックに間に合わせられるんだ」

 大声で怒鳴ると、部下たちは従うしかなかった。部下だけではなく、安井の後任である東龍太郎都知事も、そして「影の知事」といわれ、実際の都政を仕切っている鈴木俊義副知事も少し首を傾げはしたものの了承した。

 こうして「空中作戦」は実行された。高速道路はまるで鉄でできた大蛇のように、東京の都心をのたうち回り、時には三回も四回も交差しながら、ビルの間を通り抜けた。

 生きた河川や由緒ある日本橋の上を高速道路が屋根のように通る形になったのも、この時である。

 

「東京の都市計画家 高山 英華」東秀紀 253~254頁

 

 とても臨場感あふれる記述である。しかし、これには出典が明記されていない。この本は巻末に参考文献という形でまとめられているのだが、個別に脚注がついているわけではないので容易に証跡をあたることができないのである。

 ところが、時系列で考えると、どう見てもこの東秀紀氏の記述はおかしい。

 改めて整理してみよう。

 


1953(昭和28)年4月28日 首都建設委員会が高速道路網の新設を建設省及び東京都に対して勧告。

1957(昭和32)年7月20日 建設省が「東京都市計画都市高速道路に関する基本方針」を決定。経過地の選定に不利用地、河川、運河等を利用することを定めた。

1957(昭和32)年8月5日 東京都市計画地方審議会に、高速道路調査特別委員会を設置。東京都が作成した街路、河川等を利用した首都高の原案の審議検討を開始。

1957(昭和32)年12月9日 東京都市計画高速道路調査特別委員会が、東京都市計画地方審議会長 安井誠一郎(東京都知事)あてに東京都市高速道路網計画を報告。

 

1958(昭和33)年1月22日 東京オリンピック準備委員会・設立準備委員会及び第1回総会開催。

 

1958(昭和33)年4月 国会でオリンピック東京招致決議案を可決(衆議院15日、参議院16日)

 

1958(昭和33)年12月5日 建設大臣が、東京都市計画街路に都市高速道路を追加決定するための案件を東京都市計画地方審議会に付議。

 

1958(昭和33)年12月10日 東京都市計画地方審議会が一部を留保して原案どおり議決。

 

1959(昭和34)年1月30日 首都高速道路公団法が閣議決定され国会へ提出。

 

1959(昭和34)年2月25日 日本道路公団が西戸越~汐留間の工事に着手。(後に首都高に移管)

 

1959(昭和34)年4月8日 首都高速道路公団法成立(同14日公布・施行)

 

1959(昭和34)年4月23日 安井誠一郎都知事の後任に東竜太郎氏(IOC委員)が当選。

 

1959(昭和34)年5月26日 東京オリンピック開催決定

 

1959(昭和34)年6月12日 鈴木俊一氏(前・内閣官房副長官)が東京都副知事(オリンピック担当)に就任。 

 

1959(昭和34)年6月17日 首都高速道路公団発足

 

1959(昭和34)年8月7日 東京都市計画地方審議会で保留部分につき原案どおり議決。

 本稿で何度も申し上げているように、東京都などが首都高速道路について河川等を利用した路線網を計画したのは、東京オリンピック招致決定前である。また首都高速道路公団法が成立したのは東京オリンピック開催決定前である。そして東竜太郎氏が都知事に、鈴木俊一氏が副知事に就任したのはその後である。

 一般的には、1959(昭和34)年4月にオリンピック開催決定→6月に公団発足→8月に都市計画決定という流れで語られるため、それを基に東秀紀氏の「東京の都市計画家 高山 英華」を読んでいると「ふーーん」と読み過ごしてしまうところだが、まともに都市計画の歴史をおっていくと、(「空中作戦」と言ったかどうかは別にして)、オリンピック決定後に東竜太郎知事や鈴木俊一副知事が首都高速道路網について意思決定を下す場面は出てこないはずである。(前任の安井知事時代に殆ど手続き済みであった。首都公団の設立にしても都市計画の最終的な決定にしても全て安井知事時代のレールに乗ったものである。)

 更に、東秀紀氏は「少し首を傾げはしたものの了承した」と書くが、これは東知事や鈴木副知事が「空中作戦」について不本意であったようなことをうかがわせるものだが、東知事の前職はIOC委員、鈴木副知事の前職は官房副長官であり、首都高速計画について知らなかったわけでもなかろう。いやむしろ熟知しているはずである。東秀紀氏は、何を根拠にしてこのくだりを書いたのか是非ご教示いただきたいものである。

 東秀紀氏は、鈴木俊一副知事の名前を「俊義」と書くような人(単なる誤植ではなくわざわざ「としよし」とフリガナをふっている。)だから、東京都の都市計画の歴史についてはよく分かっていない人なので、首都高速道路の経緯とオリンピックの経緯についてはよく整理できてないのは仕方がないし、そもそも知識がない可能性もあるのだが、上記の年表は、「東京の都市計画家 高山 英華」の379頁に参考文献としてあげられている堀江興氏の「東京の幹線道路に関する史的研究」の235~251頁の記述を基にして作成したものである。知らないはずがない。(参考文献にあげただけで読んでいない可能性は否定できないが。)

 他にも気になる記述がある。

 

 

 

 

 山田には腹案があった。時間がないから、地権者たちの反対、土地買収などにかかわっている暇はない。だから、地権者たちに文句を言わせない方法をとる。

「空中作戦だ」

 

 

「東京の都市計画家 高山 英華」東秀紀 253頁

 「かかわっている暇はない」「文句を言わせない」こんな高圧的なことを山田正男は言っていたのだろうか?今回調べた文献ではそんな不遜な言葉は見つけられなかった。(山田氏自身は不遜なんだろうなという記述は幾つもあったがw)

 参考までに、東京オリンピック開催決定前の国会での審議(1958(昭和33)年4月10日衆議院建設委員会)http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/028/0120/02804100120023a.html)での関連する答弁を見てみよう。

 

 


○藤本参考人 経過地に当っては不利用地、治水、利水上の支障のない河川、または運河を使用して、やむを得ざる場合だけが幅員40mの道路に設置する、建前としては道路上には設置しないように(略)

 

 物件移転費という欄の一番下の欄をごらんいただきますと、878という数字が出ております。これは移転棟数の合計でございます。これだけの事業をいたしますのに、移転棟数がともかく千棟以下であるという点については、やはりできるだけ民有地あるいは民家というような面において御迷惑を少くするという配慮をいたした一つの現われだと存ずるのであります。

 

 藤本勝満露東京都建設局長の答弁は「文句を言わせない」という態度ではないと思われるが如何であろうか。

 

首都高研究家清水草一の日本橋関連の嘘

 

 あれ?オリンピック開催決定前に河川を利用した首都高計画に地元が文句を言っているぞ?おかしいですね。東秀紀センセ。

 

 他にも判然としない記述がある。


「オリンピックまで、あとわずか五年しかない。果たして間に合いますか」

 国会に呼ばれて、そう議員から質問をされたとき、山田は傲然と答えた。

「絶対に間に合わせてみせます。見ていてください」

 

 

「東京の都市計画家 高山 英華」東秀紀 253頁

果たしてそのような答弁がなされているのか?

 国会議事録http://kokkai.ndl.go.jp/で山田正男が答弁している部分を検索してみる。

山田正男の国会答弁

 「あとわずか5年しかない」というだけあって、該当する会議は、昭和34年8月10日の衆議院建設委員会であろう。

 その議事録は、http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/032/0120/03208100120004a.htmlである。

 皆さん「絶対に間に合わせてみせます。見ていてください」もしくは、それに類する発言は読み取ることができたであろうか?「傲然」な態度は読み取れただろうか?どうやら私の読解力では無理であるようだ。

 


「既設の道路、運河の上を通せ。下は公共の土地だから、誰も文句はいえないよ」

「果たして、そんなことができますか。実例は海外にありますか」

 

「東京の都市計画家 高山 英華」東秀紀 253頁

 海外の事例については、「欧米の高速道路と首都高速道路」西畑正倫 「新都市」15巻3号や「東京都の都市交通と首都高速道路」西畑正倫「高速道路」1960年3月号によると、アメリカはボストンのCentral Arteryや、サンフランシスコのEmbarcadero Freeway等を研究していたようだ。

 

 下記は、当時の業界誌に掲載されたボストン市内の高架道路の様子である。首都高っぽい。

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (24)

 東京都立図書館では、当時の首都高速道路公団担当者が研究したと思われる海外の都市の報告書が閲覧できるのでご関心のある方は是非。

 

 

 東秀紀氏は当時首都大勤務で東京都の生データも見ることができる立場だったと思われるのだがこれはどうしたことか。おまけに、都市計画史が専門と自称しているではないか。

 また、出版元も鹿島出版会ということで、編集者もそれなりの方がいらっしゃると思うのだがどうなんだろう。

 

-----------------------------

 

(追記)

 

 この記事をUPした翌日に注文していた本が届いた。

 

「私の都市計画生活 -喜寿を迎えて-」山海堂 鈴木信太郎・著

 

 鈴木信太郎氏は、元東京都都市計画局技監で、山田正男と一緒に東京都で仕事をしてきた方である。 山田正男と共著で「東京都市計画都市高速道路計画の計画諸要素について 」を土木学会誌1960(昭和35)年8月号に発表しているというこの問題を語るにふさわしい方である。

 

 そこに東京オリンピックと首都高の関係について明快に書いてあった。(35頁)

 

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (25)

 

 文中、「山田さんの発言もあったように」とは下記のこと。(27頁)

 

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦 (26)

 

 「東京の都市計画家 高山 英華」の参考文献にこの本はあげられていない。

 

 

-----------------------------

(参考文献:順不同→いずれも「空中作戦」という記述はない

 

首都高速道路事業のあらまし

 

伸びゆく首都高速道路

 

「東京都市計画都市高速道路網計画」岩出進 「新都市」 12巻6号

 

「東京の都市高速道路の其後」岩出進 「新都市」13巻2号

 

「東京都市高速道路のあれこれ」 「新都市」 13巻6号

 

「首都高速道路公団の使命」神崎丈二 「新都市」 15巻3号

 

「首都高速道路公団の歩み」美馬郁夫 同上

 

「欧米の高速道路と首都高速道路」西畑正倫 同上

 

「首都高速道路の実施に関連する問題点」五十嵐醇三 同上

 

「首都高速道路の構造について」矢内保夫 同上

 

「首都高速道路工事の進捗状況」細貝元次郎 同上

 

「首都高速道路の将来」河野正三 同上

 

「首都高速道路の用地の諸問題」大塩洋一郎 同上

 

「オリンピック関連街路の建設とさらに続ける”道造り”」石井興良 「新都市」 18巻9号

 

「首都高速1・4号線(オリンピック関連)の完成まで」広瀬可一・菊田聰裕 同上

 

「オリンピックと天皇賜杯の感激に寄せて(三宅坂インターチェンジの工事概要」尾崎一宣 同上

 

「オリンピック東京大会と道路交通」広川楡吉 同上

 

「都市における高速道路計画に就て」町田保 「道路」1954年1月号

「首都圏における地下高速鉄道と都内高速道路との総合的考察」石塚久司 「道路」1957年11月号 

 

「東京における交通問題解決の現段階」山田 正男、鈴木信太郎 「道路」1957年11月号

 

 

「東京の都市高速道路計画;首都高速道路公団の発足」小林忠雄 「道路」1959年4月号

 

「日本橋及び江戸橋周辺の高速道路について」西野祐治郎、前田邦夫 「道路」1961年6月号

 

「首都高速道路のインターチェンジの線形計画について」 「土木技術」17巻2号、3号、4号、5号

 

「首都高速道路の計画」大塚全一 「高速道路」1959年3月号

「東京都の都市交通と首都高速道路」西畑正倫「高速道路」1960年3月号

「首都高速道路の技術上の諸問題(1)」村山幸雄、菊田聰裕「高速道路」1960年5月号

「首都高速道路の技術上の諸問題(2)」橘高元「高速道路」1960年6月号

「首都高速1・4号線の開通に当って」西畑正倫「高速道路と自動車」1964年9月号

「思い出すままに」中島武 同上

「開発と保存の調整された首都高速1号・4号」五十嵐醇三 同上

「首都高速道路の生いたちとこれから」村山幸雄 同上

「首都高速1・4号線の概要」黒木清和 同上

「首都高速道路以前の構想をめぐって」新谷洋二 「高速道路と自動車」1979年7月号

「首都高速道路の路線計画に関する史的研究(前編)」新谷洋二 「高速道路と自動車」1980年1月号

 

「首都高速道路の路線計画に関する史的研究(後編)」新谷洋二 「高速道路と自動車」1980年3月号

 

「首都高速道路」鈴木信太郎 「土木学会誌」1988年6月号

 

 

「首都高速道路の設計および施工概要」 「土木技術」22巻4号

 

「首都高速道路のインターチェンジ」 同上

「首都高速道路建設に関する計画」東京都都民室首都建設部 1953年3月

「オリンピックと山田正男」塚田博康 「シリーズ東京を考える 3都庁のしくみ」都市出版・刊

 

「道路網の整備」堀江興 「シリーズ東京を考える 5都市を創る」都市出版・刊

 

「東京の都市計画」大崎本一 鹿島出版会・刊

 

「回想・地方自治五十年」鈴木俊一 ぎょうせい・刊

 

「未完の東京計画」石田頼房編 筑摩書房

 

「東京都市計画物語」越沢明 日本経済評論社・刊

 

「日本の首都 江戸・東京 都市づくり物語」河村茂 都政新報社・刊

 

「江戸東京まちづくり物語」田村明 時事通信社・刊

 

「東京は燃えたか 黄金の60年代」塩田潮 講談社・刊

 

「オリンピック・シティ東京 1940・1964」片木篤 河出書房新社・刊

 

「首都高速道路のネットワーク形成の歴史と計画思想に関する研究」古川公毅

 

 

 

「東京の幹線道路に関する史的研究」堀江興

 

「東京都市計画高速道路調査特別委員会報告」

 

「首都高速道路公団法案参考資料」

 

 

| | | コメント (4) | トラックバック (0)

2018年1月 8日 (月)

シン・ゴジラと条文の書き方

 今更「シン・ゴジラ」ネタでもないかもしれないのだが、一点野暮なネタでも。

シン・ゴジラと条文の書き方 (1)

 ゴジラに対して自衛隊をどういう理屈で出動できるのかを関係各省の官僚が議論するシーンがあり、そこに自衛隊法の条文がだーっと出てくる

 私は法律をちょこっと齧ったことがあるので、この字面のレイアウトが気になった。

シン・ゴジラと条文の書き方 (2)

 正確に書くならこうである。

 シン・ゴジラの出来には満足しており、ケチをつけるつもりは毛頭ないのだが、「せっかくならこの辺も気合入れてくれると約1名が喜びましたよー」というだけである。

 あ、でもそれを分かっていたうえで、「例のフォントで画面いっぱいに文字を埋め尽くすことの様式美」を追求した可能性もあるな。それならそれで美しいかもしれない。

 

 ちなみに、読み方はこうなる。

シン・ゴジラと条文の書き方 (3)

 時々、「76条の一」とか「76条の2」といった書き方・読み方をする方が見受けられるが、「アラビア数字の2」は「第2項」であり、「漢数字の二」は「第二号」という決めである。

 「第1項のアラビア数字の1は無いのか?」という方もいるかもしれないが、「日本の法令の書き方では、通常、第1項の1は書かないが、私企業の社内文や契約書では書いてもいいんじゃないの?」ということになる。

 この際覚えていただけるとおじさんは嬉しい。

 

 ついでに書くと、マイクロソフトワードで「項」、「号」の条文を書くときにスペースを入れて調整する人がいるが、それをやると修正するときに一字ずつずらさなければならなくなるので大変うっとおしいし、ミスを誘発する可能性もある。

シン・ゴジラと条文の書き方 (5)

 「行間のオプション」を選択し、

シン・ゴジラと条文の書き方 (4)

 「インデント」を設定するとうまくいくぞ。

 ゴジラとは全く関係なくなってしまった。

 ちなみに私は、郵研社の「公文書作成の手引」を愛用しています。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年5月 6日 (金)

サンクトペテルブルグ地下鉄車中で踊るスパイダーマン

車内に本棚があるのね。。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年4月 8日 (月)

三原橋地下街 銀座シネパトス最終日

2015年3月31日(日)三原橋地下街の銀座シネパトスが最終日を迎えた。

三原橋 銀座シネパトス

奥に、2日後にこけら落としを迎える新・歌舞伎座が見える

三原橋 銀座シネパトス最終日

三原橋 銀座シネパトス

三原橋 銀座シネパトス最終日

三原橋 銀座シネパトス

三原橋 銀座シネパトス最終日

三原橋 銀座シネパトス

三原橋 銀座シネパトス最終日

三原橋 銀座シネパトス最終日

三原橋 銀座シネパトス最終日

三原橋 銀座シネパトス最終日

三原橋 銀座シネパトス最終日

三原橋 銀座シネパトス最終日

三原橋 銀座シネパトス最終日

新歌舞伎座

三原橋交差点を挟んで対峙する新歌舞伎座はあと2日で初日

新歌舞伎座

渋谷の東急百貨店東館(旧・東横百貨店)もこの日最終日だった。

東急百貨店東館最終日

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年4月 7日 (日)

京都・一乗寺の名画座 京一会館のチラシが出てきた

一乗寺のスーパーの2階にあった名画座「京一会館」のチラシが、本の間から出てきた。

昭和60年代のものだから20年以上前のもの。
近頃、銀座シネパトスの記事ばかり書いていたので、その縁なのか。。。
京都一乗寺・京一会館チラシ
京都一乗寺・京一会館チラシ
京都一乗寺・京一会館チラシ
京都一乗寺・京一会館チラシ
「コミック雑誌なんかいらない」とか「家族ゲーム」とか「うる星やつらビューティフルドリーマー」とか見たような気がする。
保存状態はよいので、映画館の資料を収集されているところ等で必要な方がいらっしゃれば差し上げます。(追記→もう差し上げてしまったのでご了承ください)

| | | コメント (9) | トラックバック (0)

2013年2月28日 (木)

三原橋地下街と銀座シネパトス さようなら

読売新聞には「三原橋商店街は不法建築」「道路を不法占用」と書かれ
朝日新聞には「なめられた都 弱腰に地元住民怒る」と書かれ
中央区議会では区長が「三原橋のところの不法占有、いろいろなところに、国あるいは東京都等のまちの環境とか美観とか、住民のそういう意向を無視したものが、どんどんつくられてきたわけです。それが、今、本当にたまらないほど迷惑になっているわけでございますけれども、これは人がつくったわけです、行政がつくった。これをしっかりと、もとに戻そうにもどうにもならないほど、私たちは苦しめられてきている。」と答弁し
東京都議会では「終戦当時の橋付近のいわゆる三原橋問題は、終戦から今日に至るまで、長く地元商店街や町会の悩みでありました。」と取り上げられ
国会では「三原橋の両側の道路占用による建物について都が許可せられたる趣旨とは全然異なりたる使用方法において現在使用されておる、そこに不正があるように思われる、この許可については都と区との間に行き違いがあり、地方自治法上はなはだ遺憾である」と取り上げられた、三原橋地下街が遂に取り壊されようとしている。

東京都議会では、東日本大震災前の平成20年に「三原橋における二棟の建物についてでありますが、(中略)、都は、道路区域に編入し、道路として活用することといたしました。
 二棟の建物所有者とは、これまで話し合いを行ってまいりましたが、本年二月に至り、双方、解決に向けて協議していくことを確認いたしました。」と答弁されているのに、「東日本大震災に伴い、耐震性の問題で取り壊しが決まり、東京都から立ち退き命令があった」と報道される、銀座シネパトスには、カウントダウンが掲げられていた。

三原橋 銀座シネパトス

三原橋 銀座シネパトス

三原橋 銀座シネパトス

三原橋 銀座シネパトス

三原橋 銀座シネパトス

三原橋 銀座シネパトス

三原橋

三原橋 銀座シネパトス

三原橋 銀座シネパトス

三原橋 銀座シネパトス
俳優、監督等の映画関係者のサインが飾られていた
三原橋 銀座シネパトス

三原橋 銀座シネパトス
店舗はもうほとんど営業していなかった。

※ 中央区図書館のアーカイブスで「三原橋」「三十間川」といったキーワードで検索するといろいろでてきます。

http://www.library.city.chuo.tokyo.jp/areasearchc.html

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年2月11日 (月)

三原橋地下街に係る疑獄について(その2)

三原橋の地下街、建物については以前も国会議事録等にのこされた疑獄について書いたところであるが、撮り壊しも目前に迫ったということでいろいろ記事も出始めた。

銀座シネパトス

読売新聞編集委員・永峰好美氏の署名記事「名画座最後の特集で、昭和の銀座をしのぶ」では

 45年の歴史を持ち、銀座唯一の名画座として映画ファンに親しまれてきた映画館「銀座シネパトス」の3月末での閉館が、刻々と近づいている。
 閉館は、劇場がある三原橋地下街の耐震性の問題で昨年夏に取り壊しが決まり、東京都から立ち退き命令があったためだ。
 同映画館は、1967年(昭和42年)から翌年、「銀座地球座」「銀座名画座」としてオープン。2009年からは3スクリーンのうちの1スクリーンを邦画専門の名画座としていて、特集上映のラインナップの自由さに私は魅惑されていた。そのことは、2010年4月23日付けの小欄に書いた。
 名画座番組のプログラム・ディレクターをやっていたのが、映画評論家の樋口尚文さんで、2月4日付けの日経新聞朝刊に「さらば名画座」という一文を寄せている。彼は記す。「昭和の経済と文化の発展を支えた原動力は好きな道でとことん無茶をやるという、コンプライアンスに束縛されぬ自由な精神の賜物だった」と。

と呑気な記事が書いてあるのだが、三原橋の地下街、建物そのものが「コンプライアンスに束縛され」ない代物であったという笑えないお話である。

お怒りのシンジくんも、そこの劇場がどういう経緯でそこにあるのか下記の記事等を読んでいただけると幸いだ。

      

読売新聞 1951(昭和26)年9月11日

生まれかわる三原橋下 将来はテレビ館も

三十間堀の埋立工事により三原橋下に近代的な遊歩階段ができたと思ったトタンリンゴ箱の掘立小屋が出現、都市美台無しと嘆かせているが、このほど都および都観光協会のキモいりで某観光会社が橋下に都内でも珍しい総合娯楽場を設けることとなり今月末着工、12月25日に完成する。
 同計画によると橋下300坪を利用、通路をはさんで道路下三十間堀沿いに総工費6千万円で各120坪の建物2むねを向かい合せて建て一方は戦後始めてのニュース専門の映画館として15円で入場させ、また一方はアメリカから輸入の近代遊戯器具を一揃い入れるほかテレヴィジョンを設け将来は東京温泉などと並んで三十間堀の新名所としてお目見得する。

まだ、この辺はよかったのだが。。(この「ニュース専門映画館」が銀座シネパトス1の源流のようだ。

      

朝日新聞 1953(昭和28)年6月9日

三原橋地下街が大モメ 都・観光協会・地元が三つどもえで
”違約”と怒る区議会 業者は涼しい顔で工事

近ごろ三原橋の地下街(中央区三十間堀埋立地)はパチンコ屋、飲み屋が軒なみにふえてきた。ところがこれは「都の観光事業のために使う」という約束で都が財団法人東京都観光協会(代表安井都知事)に貸したもので、地元の中央区議会では「まるでバクチ場みたいになってしまった。約束が違う」とカンカン。都観光協会、地元が三つどもえになって争っている。だが業者たちはどこ吹く風と涼しい顔だ。この紛争、いつ解決するか見通しもつかないようだ。

問題の三原橋下(253坪)は26年7月、東京都観光協会が観光案内書、全国の名物、商品陳列所などの観光事業に使用するといって金60万円余を寄付して東京都から借り受けた同協会はこれを同年8月新東京観光株式会社(代表宮地知覚氏)に又貸ししてしまった。このとき使用目的については都の三十間堀埋立運営委員会の決定に従わなければならないとの条件がついていたというのだ。ところが実際にはパチンコ屋、飲み屋が軒をつらね、最近はまた堂々とビルの建築がはじまった。そこで三十間堀埋立運営委員会では、観光事業どころか風致風俗を俗悪化するばかりだ、と撤去を申し入れたがラチがあかないので、遂に地元中央区議会は「契約を無視した不法使用だ」といきまき、都議会に意見書を提出するほどこじれてしまった

”目的違反だ”
中央区議会の言い分 ①観光協会が新東京観光株式会社への又貸しは都有財産条例第25条違反だ。②地元の意見を無視し、運営委員会の決議に従わないでパチンコ屋、飲み屋の業者に貸しつけ不健全な娯楽機関にしたことは占用目的違反だ。③観光会社が三原橋の両端に建築中のビルも違反だ。

”違反ではない”
観光会社取締役佐藤宗丕総務部長の談 ①三十間堀埋立委員会の最初の決議に従ってパチンコ屋、飲み屋の業者に貸したので使用目的に違反してません。そんな決議はしていないと協会がいっているとすれば、それはおかしい。教会の事務局長は何も知りませんよ。都民室の島村総務部長に聞いてください。

”使用目的は変更したはず”
運営委員会委員島村都総務局監査部長(前都民室総務部長)の話 運営委員会でパチンコ、飲み屋街にしてもよいと使用目的を変更したでしょう。いやしたか、どうかわからないことにしておきます。書類をみたらわかるかどうですかねえ。

”再三撤去を申し入れたが”
観光協会三浦事務局長の話 観光協会では同会社に事業を委託したので又貸しではない。だから観光事業のためにしようしなければならないはずだ。また運営委員会も使用目的を変更する決議はしていない。協会としては観光会社に対し、パチンコ屋、飲み屋では困るから観光事業のために使ってくれと再三申し入れているが、なかなかいうことを聞かない。島村部長が明確に返答しないのはおかしい話だ。

と、間もなく本来の用途ではない使用状況(これは現在にも続いているようだが)が問題になった。
(※ウェブで機種依存文字である丸数字を使うのは私のポリシーに反するのであるが、原文ママということでお許しを)

三原橋
パチンコ屋、飲み屋では困るから観光事業のために使ってくれと再三申し入れているが、なかなかいうことを聞かない

       

朝日新聞 1953(昭和28)年8月29日朝刊

なめられた都 弱腰に地元住民怒る
”副知事言明”あざ笑う 相変わらずのパチンコ屋

「明らかに使用目的違反だから撤去するよう申し入れる」と岡安副知事が言明した問題の三原橋下ゲームセンター(中央区三十間堀埋立地)は、それから2カ月半もたつというのに都当局や中央区議会をあざ笑うかのように相変わらずパチンコ屋、飲み屋が軒を連ねて大はんじょうだ。「都の弱腰が業者にナメられているのだ」「イヤ、都と業者がグルになっているからだ」とうるさいウワサも飛んで都側の言行不一致と生ぬるい処置に地元はカンカンだ。

 一昨年、新東京観光株式会社(代表宮地知覚氏)が東京都観光協会(会長安井都知事)の委託で観光事業に使うという条件で、同地下街を借り受けたが、その大半をパチンコ屋、飲み屋にまた貸ししてしまったもの。これに強く反対した中央区議会では都議会に意見書を出したり、地元有志は「まるでバクチ場みたいだ」と憤っている。
 去る6月の都議会で地元選出の守本又雄議員(社)の「使用目的違反だから都側の善処を要望する」との質問に前記岡安副知事の言明となったもの。
 都側がその直後、東京都観光協会同地下街運営委員会と共同で観光会社に対し「パチンコ、飲み屋営業は観光事業としてふさわしくないし、世間から批判されているので健全な施設に替えてもらいたい」と確かに申し入れたという。(都民室津野総務部長談)
 ところが観光会社側では、そんな申し入れは受けていない。立派に許可を得てやっていることだから止めることもないと思って今までやってきた。(観光会社佐藤総務部長談)と話は全く対立したままだ。
 守本都議が「副知事が都議会で言明した以上は速かに実行すべきだ。去る6月都に提出した三原橋地下街と三十間堀埋立地をめぐる質問書にもまだ回答がない始末だ。こんなダラシのない調子ではいろいろと疑問も出てくる」といっている。地元では都側のやり方を不可解としてあくまでも究明するといっている。

「地元はカンカン」で、東京都議会で取り上げられ、都も撤去を申し入れることになったものの対応されない状況。
私が前の記事で取り上げた国会での問答(岡安副知事の答弁については、国会でも行われている。)もこのころに行われている。

三原橋地下街

都当局や中央区議会をあざ笑うかのように相変わらずパチンコ屋、飲み屋が軒を連ねて大はんじょうだ。

銀座シネパトス閉館記念映画?「インターミッション」のウェブサイトによると、上記記事でやり玉に挙げられた「ゲームセンター」は、1954(昭和29)年に、「銀座東映」になり、後に現在のシネパトス2及び3になったと記されている。

      

読売新聞 1954(昭和29)年10月30日

三原橋商店街は不法建築 都幹部も運営参加
使用目的 ”観光案内所”が化ける

土一升、金一升といわれる東京だけに道路にまで家がはみ出す不法建築が少なくない。都建設局ではこうした無法な道路侵略者が千数百件にものぼっているので告発や強制執行などの強権を発動して一掃につとめているが、皮肉なことに中央区銀座三原橋の都有地が問題を起こしている。三十間堀の埋立がすんだあとこの三原橋の両側と橋下は道路と指定されたにもかかわらず、安井都知事自身が会長をしている東京観光協会が観光事業のためといって借り受けたうえ、使用料をとて第三者に譲り、いまは商店街に早変わりするという現状である。しかもこの三原橋の運営には都庁幹部も監督上参画しており、都庁自ら道路を不法占用しているという事実がある。

三原橋は三十間堀の埋立工事が行われたとき橋下もふくめて道路ということになった。ところが26年8月28日、東京観光協会の安井協会長名義で橋下を観光案内所と商品陳列所にしたいと都へ使用方が申請され、そのまま許可された。ついで27年9月30日、橋下では観光案内に不適当であるというので橋上の料は輪に2階建のビルを建てたいと同じく安井協会長の名前で申請され、同10月30日観光案内所、常設物産即売所として許可された。
ところがこれらの土地(総坪数359坪)は許可のあと年間約75万円の使用料で新東京観光株式会社(社長宮地知覚氏)に譲渡されてしまったのである。同社では橋下(253坪)は坪6万円の権利金(半額敷金)で店舗を作り業者に貸付け、橋上両側のビル(106坪)は坪60万円から75万円という八重洲口名店街以上の高い権利金で業者に転貸された。このため橋上ビルの1階に会社事務所兼用の直営案内所があるだけで物産即売所のなければ商品陳列所もなく、あるものは飲食店、パチンコ屋をはじめ20数軒の店舗ばかりとなった。
ところが都の建築法規をみると道路や公有地に家を建てることは原則として禁止されているが、たとえ許可された場合でもその権利を他人に譲渡したり、使用目的を変更するときは道路管理者(都当局)の許可を受けることになっている。これに違反すれば即座に占用権は取消されることになっているが、観光協会の場合、橋下の商品陳列所と観光案内所の一部を映画劇場、娯楽場に使用目的を変更したいと申請しているに過ぎない。橋上の場合は申請もなければ、橋下の場合でも一部の変更を届け出て商店街に化けている。さらに不可解なのはこの三原橋の問題について第1回の申請のあった26年8月に都庁の富田都民室長はじめ直接監督取締りにあたる坪田道路部長、福田管財部長らをふくめて観光協会理事、観光会社側幹部三者の間に三原橋運営委員会が組織されているにかかわらず、こういうズサンな運営がなされている。しかも土地の権利金を寄付金として新観光会社から都に収めることになっていたが橋下の632万5千円は納付済だが橋上の約9百万円は未納といわれ、ナゾを秘めたままとなっている。

安井知事談『あの問題は私の知らない間に申請、建設されたもので、知事の怠慢といわれればそれまでだが、全く都民に対し申訳ないと思っている。現在都民の納得ゆくような改善工作をすすめ、徹底的に整備するつもりでいるが、なかなか思うようにゆかず困っている

宮路(原文ママ)新東京観光株式会社社長談『私は二代目社長だが都との使用契約についてよく知らない』

読売新聞は「不法建築」と紹介している。永峰好美記者も三文ライターならともかく編集委員なら「名画座最後の特集で、昭和の銀座をしのぶ」なんて呑気な記事を書いていないで、自社記事をひもといて「昭和の銀座の混乱期の象徴もやっと解消」くらいは触れるべきなんじゃないの?
そもそも耐震性の問題よりも「そこにあること自体が問題で行政や地元が長年苦慮してきたところ、やっと耐震の問題もからめて協議に応じた」という状況のように推測されるのだが、「閉館は、劇場がある三原橋地下街の耐震性の問題で昨年夏に取り壊しが決まり、東京都から立ち退き命令があったためだ。」と劇場側の言い分をそのまま書いていいの?それでも編集委員?(読売新聞の記者のレベルはこんなものなんですということを編集委員自らが体現しているというのであればそれはそれで結構)

そんな記事を書くから、上記の@higuchishinjiの怒りのツイートを呼びこんでしまうのだろう。都庁の担当さんは怒られ損だ。

三原橋
ここに、本来の観光案内所があったはず

      

朝日新聞 1969(昭和44)年7月1日

ぜいたくな流用 銀座・三原橋の地下街

商店が入居に反対 万策つきて倉庫街 4年越しお役所仕事の末路      

 1億81千万円の工費をかけ、40年3月に完成した銀座の地下商店街が、ついに倉庫に化ける。完成当時、都が入居してくれるはずと信じた三原橋会の商店16店舗は「人の通らない場所では商売ができない。地下には絶対、行かぬ」との態度を終始変えず、弱り果てた都が、ついに「とりあえず倉庫と会議室にする」ことにしてしまった。ズサンなお役所仕事が生んだこの地下街騒動、4年を過ぎたが、いまでも解決のメドすらついていない。
 地下街が倉庫にかわるまでのいきさつは--。
 都がこの地下商店街を建設したのは、三原橋の晴海通り両側にある2階建ビルをたちのかせ、ここを緑地帯にする計画で、ビルにはいっている16店舗をここに移転させる計画だった。
 当時、帝都高速度交通営団が日比谷線の建設中で、地下1階はプロムナード、地下3階が日比谷線、地下2階が空いていた。都は「この地下鉄工事に便乗すれば、工費も安くすむし、三原橋からも近い。代替地としては理想的だ」として総工費1億8千万円をかけ、1年がかりで40年3月に完成させた。
 地下商店街は、銀座四丁目と日比谷線東銀座駅をつなぐ地下2階で、総延長167メートル、片側に約25平方メートルの店舗用敷地17戸がある。地下1階のプロムナードに出るための入り口は5カ所。
 都は「建設当時の責任者がかわってしまったので、はっきりしないが、移転については商店主の了解を得ていたはず・・・・・」という。一方、商店主たちは「相談なんてとんでもない。はじめに話があればやめろといった。商売人だから、地下商店街がいい場所なら喜んでいきますが、あそこはひどい。袋小路みたいなところを、わざわざ地下2階まで降りてくれるお客さんが何人いますか。とても商売になりません。それに換気が十分にできないというので、ガスも使えないというし・・・・・・」と、相手が何年待っても、絶対に地下には降りないといっている。
 完成以来、4年3カ月、地下商店街の入り口は相変らずベニヤ板でおおわれたまま。軽金属の引戸と人造大理石はまだ新しいが、天井のところはすでに雨もりの跡ができてしまった。
 都では「あの場所を他に転用するわけにはいかない。三原橋会と話がつけばすぐにでも提供できるようにしておくのがスジ」と、17室のうち3室を会議室、残りを倉庫にすることに決め、倉庫には書類を入れ始めており、会議室にもイスや机を運び入れた。都も早期解決をあきらめているが、超スローペースのお役所ぶりに、銀座のダンナ衆「民間ならとっくに倒産、親方日の丸とはいえ、あまりにひどい」とあきれている。

東銀座の謎の地下街がこんなところでつながってくるのか。。日比谷線建設工事に伴い三原橋地下街が支障となるので、地下鉄工事建設にあわせて立ち退き先を準備→しかし移転しない。→地下街の通路も三原橋地下街を残したままに今もへこんでいる。というわけか。

行政側の視点でいくと「立ち退かないのであれば、行政側で立ち退き場所を公費で準備してまでやっても、結局居すわった」ということですかね。業者側にも言い分はあるのでしょうが。

先ほどの読売新聞永峰記者もそうだが、この朝日新聞記者も、そもそも三原橋に営業する業者がどのような経緯でそこで営業しているかを自社記事で調べて書けばこのような「親方日の丸」で済ませるような記事にはならなかったのではないか。

三原橋地下街
このあたりのドアを開けると、幻の地下街に通じるのだろうか?(あてずっぽうで全く根拠はありませぬ。)

なお
地下鉄日比谷線の上に謎の映画館!?
によると、下記のへっ込んでいるところが三原橋地下街だという。

三原橋

東銀座駅~銀座駅の地下通路が一旦上がってまた降りてまた上がるという不思議な階段になっているのは、そこに三原橋地下街があるかららしい。

三原橋

なお、地下街に係る不法占拠物件に係るトラブルというと大阪の梅田駅地下街新聞販売スタンドにまつわるあれこれ(大阪花の博覧会前に撤去)が有名であるが、下記PDFの31頁以降に経緯が掲載されているのでご参考まで。

http://www.hido.or.jp/14gyousei_backnumber/1991_data/seminar9105.pdf

≪追記≫

ありがとう、さようなら、銀座シネマパトス」には

Q なぜ閉館してしまうの?
A 2011年3月の大震災をきっかけに、劇場のある三原橋地下街の耐震性の問題が浮上。取り壊しが決まり、東京都より立ち退き要請があったため、2013年3月31日に閉館が決定した。

と記されている。各種記事の「立ち退き命令」とは違う。シンジくんの怒りのツイートのハシゴが外されてしまった。読売の永峰記者の記事も嘘になってしまった。昨年7月20日の最初の記事から何かリアクションがあったことを邪推させる。

また、都議会ネットリポートでは、「二棟の建物所有者とは、これまで話し合いを行ってまいりましたが、本年(注:平成20年=2008年)二月に至り、双方、解決に向けて協議していくことを確認いたしました。」となっているし、この質問の中で三原橋の老朽化についても問答がなされている。シネパトスの「2011年3月の大震災をきっかけ」よりも3年前だ。

このあたりの矛盾も、年月が経てば明らかになってくるのか?矛を収めるためには、それぞれの立場でそれぞれの大義名分が必要ということは理解できる。

その後、当初の目的である観光案内所としての機能が終了したため」という東京都建設局長の答弁は、そういう意味では簡潔かつ関係各所の顔をつぶさないという意味では名文だ。相当練りこんだものと推測される。

| | | コメント (1) | トラックバック (0)

2012年8月13日 (月)

三原橋地下街に係る疑獄について(その1)

     
東京・銀座唯一の名画座として映画ファンに親しまれている映画館「銀座シネパトス」が来年3月末に閉館することが20日、分かった。閉館を惜しむ俳優の秋吉久美子さん(57)や香川京子さん(80)らが同劇場を舞台にした新作映画に出演し、最後の上映作品となることも決まった。

 閉館は、劇場がある三原橋地下街の耐震性の問題で取り壊しが決まり、東京都から立ち退き命令があったためという。

 銀座シネパトスは1967年から翌年にかけ、銀座の中心部に近い三原橋地下街に「銀座地球座」「銀座名画座」としてオープン。3スクリーンのうち1スクリーンは日本を代表する邦画などを上映してきた。(2012年07月20日共同)    

 

三原橋

三原橋

三原橋

三原橋
三原橋 地上部 川はなくなっているが、橋の名残で、路面に勾配がついている。車の高さとかで分れば幸い

三原橋

IMG_4487

天井のRに注目。橋をそのまま使った名残。

私も大好きな三原橋地下街が取り壊されることになったらしいのだが、ここもまた疑獄があるのであった。

そもそも三原橋地下街の成り立ちであるが

~中央区の堀割をたどる~水のまちの記憶」(中央区立郷土天文館第9回特別展)のパンフレットによると   

昭和20年(1945年)3月の東京大空襲など数度の空襲により、区内はほぼ全域に甚大な被害を受けた。戦後、こうした被害からの復興にあたり、空襲によって生じた膨大な瓦礫をいかにして処理するかという問題が生じた。そこで注目されたのが、水路としての必要性が薄らいできた堀割の埋立てであった。瓦礫処理のために埋められた堀割は、東堀留川・龍閑川、浜町川、新川、三十間堀川と外堀の一部に及んだ。 

とある。同パンフレットによると、三十間堀川は、「昭和23年6月に埋め立てが開始され、同24年7月に完了した」とある。

また、三原橋の親柱や欄干そのままに埋め立てを行っている写真が数点掲載されている。これによると現在の三原橋地下街となっているところも一旦全部埋め立ててしまっているようである。

中央区図書館のサイトで過去の写真を公開しているので関心のある方は「三原橋」「三十間堀」といったキーワードで検索するとよい。

地下鉄日比谷線の上に謎の映画館!?(1) 三原橋地下街の謎

http://www1.c3-net.ne.jp/hamachan/tetudou-ima-3-1.htm

にも過去のいわくつきの経緯が記載されているが、国会議事録で検索してみた。

------------------------------------------------------------------

16 - 衆 - 決算委員会 - 35号
昭和28年10月23日

それからまだこれに付随して驚くことは、明らかに駅前の建設の一環と思われるところに鍛冶橋がございます。ところが鍛冶橋の下の川はずつと前から埋め立てておるのであります。皆様御承知のように、あそこに行つてみますと、あそこのためにおまわりさんが難儀しておる。人が死んだり、交通事故が起きたり、東京でも一番たいへんなところなのであります。ところがいまだに埋め立てられたままあの橋はほうり出されて、少しも公共の福祉に符立つていない。しかも新聞で問題になつた観光会館を観光のためにつくるといつて三原橋にハチンコ屋をつくつたと同じようなやり方でもつて――これは要するに新聞に載つておりましたが、あそこの橋の下の約二百七十方メートルは青木何がしが都に二百七十五万円を寄付して、その代償としてあの橋の下に映画館とかガレージとかあるいは娯楽場をつくるというような申請が出ているということについては、まつたく東京都というものの熱意を疑わざるを得ないのであります。

----------------------------------------------------

19 - 衆 - 地方行政委員会 - 83号
昭和29年10月21日

○中井委員長 最近、東京都内において問題となつておりまする高速自動車道路建設に伴いまして、紺屋橋と難波橋との間の公有水面埋立と中央区銀座四丁目地先三原橋道路上の慰物について種々の問題が起りつつあるのでありますが、この問題は一面運輸、建設両委員会に関係いたしまするとともに、また地方行政の上からいつても本委員会の所管事項にも当るのであります。従いましてこの問題の真相を究明し、これによりまして地方行政に資するために参考人として関係者から事情を聴取いたしたいと存じますか、御異議ございませんか。
    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕

○中井委員長 御異議なしと認め、さように決定いたします。
 ただいま御承認を得ました参考人として中央区区会議長山下清吉君、及び金森四郎君、この二人から事情の説明を聴取いたしたいと存じます、
 山下、金森両参考人に申し上げますが、本日はかねて問題になつておりまする高速自動車道路建設に関する問題について、地方行政の立場よりあなた方の御説明を承りたいというので参考人として御出頭を預つた次第であります。御多忙中のところ御出席くださつてありがたく存じますが、事柄につきましては、簡明にかつ率直に事実をお述べいただきたいと存じます。
 ます山下参考人から御説明を願いましよう。

○山下参考人(東京都中央区議会議員) 請願の趣旨によりまして御説明を申し上げます。
(中略)
それと同時に皆さんもごらんになつたと思いますが、元三原橋の上に立ちました建物でございます。その書類を見ますと、皆さんのお手元にございます書類の中にもございますが、これは道路占用といたしまして、この土地を借りております。しかもその借りることか、東京都知事が身分がかわつて、社団法人観光協会の安井誠一郎にこの土地を貸しております。そうしてこの貸した土地が、今度は営利会社の新東京観光株式会社に行つております。そうして転貸しをいたしまして、この転貸ししたものに対しては、これは東京都都有財産条例第二十六条だと思いますが、それにおいて転貸しはいけないということで禁止しております。しかもあの土地がもし建物を建てる土地であるとすれば、価格が現在にいたしますと一坪約五十万円くらいであります。それを約百坪くらいを無償で営利会社に貸しておる。そうして観光協会がその会社から年額三十万円なり四十万円をとることを契約書によつて約束しております。そうしてその新東京観光株式会社の運営にあたりましては、都の理事者がこれに参画しております。これはそういう利益をあげて観光協会へ持つて行くような金をやりとりさすようなことは、公務員法違反じやないかというふうに区の方では考えております。かような点につきまして、ぜひとも皆さんの手によつてこういうことをはつきりしていただきたいということをお願いするために、私たち今度陳情した次第であります。
 なお参考人金森議員から、東京都と区の建設委員会との間におきましてとりかわしましたことを説明してもらいたいと思います。

(中略)

○山下参考人 (中略)それから三原橋のあの建物につきましては、都市計画法におきましても、あの通路は拡張することになつておるにかかわらず建てたということに対しまして、それは撤表してもらいたいと思います。さような趣旨でございます。

-----------------------------------------------

19 - 衆 - 地方行政委員会 - 86号
昭和29年11月10日

○中井委員長 最近、東京都内において問題となつておりまする高速自動車道路建設に伴いまして、紺屋橋と難波橋との間の公有水面埋立と中央区銀座四丁目地先三原橋道路上の慰物について種々の問題が起りつつあるのでありますが、この問題は一面運輸、建設両委員会に関係いたしまするとともに、また地方行政の上からいつても本委員会の所管事項にも当るのであります。従いましてこの問題の真相を究明し、これによりまして地方行政に資するために参考人として関係者から事情を聴取いたしたいと存じますか、御異議ございませんか。
    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕

○中井委員長 御異議なしと認め、さように決定いんします。
 ただいま御承認を得ました参考人として中央区区会議長山下清吉君、及び金森四郎君、この二人から事情の説明を聴取いたしたいと存じます、
 山下、金森両参考人に申し上げますが、本日はかねて問題になつておりまする高速自動車道路建設に関する問題について、地方行政の立場よりあなた方の御説明を承りたいというので参考人として御出頭を預つた次第であります。御多忙中のところ御出席くださつてありがたく存じますが、事柄につきましては、簡明にかつ率直に事実をお述べいただきたいと存じます。
 ます山下参考人から御説明を願いましよう。

○山下参考人 (中略) それと同時に皆さんもごらんになつたと思いますが、元三原橋の上に立ちました建物でございます。その書類を見ますと、皆さんのお手元にございます書類の中にもございますが、これは道路占用といたしまして、この土地を借りております。しかもその借りることか、東京都知事が身分がかわつて、社団法人観光協会の安井誠一郎にこの土地を貸しております。そうしてこの貸した土地が、今度は営利会社の新東京観光株式会社に行つております。そうして転貸しをいたしまして、この転貸ししたものに対しては、これは東京都都有財産条例第二十六条だと思いますが、それにおいて転貸しはいけないということで禁止しております。しかもあの土地がもし建物を建てる土地であるとすれば、価格が現在にいたしますと一坪約五十万円くらいであります。それを約百坪くらいを無償で営利会社に貸しておる。そうして観光協会がその会社から年額三十万円なり四十万円をとることを契約書によつて約束しております。そうしてその新東京観光株式会社の運営にあたりましては、都の理事者がこれに参画しております。これはそういう利益をあげて観光協会へ持つて行くような金をやりとりさすようなことは、公務員法違反じやないかというふうに区の方では考えております。かような点につきまして、ぜひとも皆さんの手によつてこういうことをはつきりしていただきたいということをお願いするために、私たち今度陳情した次第であります。
 (後略)

(中略)
○門司委員 もう一点聞いておきたいと思いますが、それはこの問題が起つて実は相当長くかかりておるわけであります。それから実際上の問題として、はもう一部分が埋め立てられて、また一部分ではありまするが道路ができているわけであります。従つて今陳情されております目的は、これを全部中止せよというのか、あるいはその他に何かごの陳情をされる目的等がございますなら、この際明らかにしていただきたいと思います。

○山下参考人 (中略)それから三原橋のあの建物につきましては、都市計画法におきましても、あの通路は拡張することになつておるにかかわらず建てたということに対しまして、それは撤表してもらいたいと思います。さような趣旨でございます。

------------------------------------------------------

19 - 衆 - 地方行政委員会 - 86号
昭和29年11月10日

○中井委員長 これよりさらに前回の委員会の決定に基きまして、東京都内における高速自動車道路建設並びに三原橋両側道路占用による建物の問題等について調査を進めることといたします。
 この問題を明らかにするために参考人として東京都知事安井誠一郎、東京都中央区長野宗英一郎君、東京高速道路株式会社社長樋口実君の三名に出席を願い、これを取調べるということに決定されておつたのでありますことろ、本日の出席者は右野宗君、樋口君のお二人だけでありまして、安井知事は知事会が現に宮崎において開かれておりまするため出席いたしがたいとの届出がございました。ついてはそのかわりとして副知事の岡安彦三郎君が出席してお答えをいたしたいとのことであります。都知事にかうるに岡安副知事を参考人として呼ぶことにつき異議はございませんか。
    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕

○中井委員長 御異議なしと認め、さように決定をいたします。
 参考人の諸君から陳述を、承るに先だちまして、参考人諸君に申し上げて御参考に供したいと思うのでありますが、諸君にここに御出席を願うことになりましたゆえんは、本年十月十九日付をもちまして東京都中央区議会議長宮入正則君から請願書の名をもつて本委員会に陳情書が提出されたのであります。この陳情書の要旨によりますると、高速自動車道路建設に伴い紺屋橋と難波橋との間の公有水面埋立てと、中央区銀座四丁目地先三原橋道路上の建物について疑義があるから貴職において調査を願いたい、こういうのが一つ。もう一つは、三原橋の両側の道路占用による建物について都が許可せられたる趣旨とは全然異なりたる使用方法において現在使用されておる、そこに不正があるように思われる、この許可については都と区との間に行き違いがあり、地方自治法上はなはだ遺憾であるという趣旨のものであります。この問題は現に東京都内におきまして政治的に、あるいは社会的に種々の問題を起しておる問題でありますが、委員会としてこれを取上げ、取調べるに至りましたゆえんは、東京都と東京都内にあるところのいわゆる特別区との間の関係をいかに定めるか、またこれをいかに見るべきか、現状のままではたしてよいのか、あるいは自治法上欠陷があるのではなかろうか、もししかりとするならば自治法の改正も考えねばならぬのではないかというような事柄が根本となりまして、いわばその一例としてここに提供せられた問題につき、この真相を明らかにして委員会の参考にしたいというのがその本旨なので、あります。従いましてこれを社会的な問題とし、政治的な問題として取上げるというようなことは、本委員会の本来の趣旨とするところではございません。こういう問題が起りますことはやむを得ぬことではありますけれども、本委員会においてこの問題を取上げましたゆえんは、右の一遂にほかならぬのであります。自然本日各位の陳述に端を発し、また委員諸君から種々なる御質疑があり、いろいろな方面にわたることは当然のことであろうと思いますけれども、本委員会としての立場をまずもつて明らかにして、参考人諸君の御陳述を承りたいと思うのであります。お忙しいところ御出席をいただきまして、まことにありがたく存じます。参考人諸君はその参考人席に御着席あらんことを願います。
 御意見を伺う前に陳情書の内容を朗読いたしましよう。陳情の本旨は先ほど申した通りでありますが、その内容につきましては、かようになつております。
 (中略)
 それから三原橋の問題につきましては、「昭和三十三年、三十間堀埋立てに始り、代表的な市街を建設するため特に安井都知事を会長に都議会議員各派代表、関係都理事者、地元都議会議員、中央区議会代表者、区理事者、地元住民代表者二十九名をもつて三十間堀埋立運営委員会を組織し、衆知を集めて慎重に同地利用開発と健全発展方策を決定した。」三原橋下は「三原橋下は三十間堀埋立地の中心部であつて、観光都市東京にふさわしい施設たるべきものとし橋上周囲は緑地並にロータリーとすることに決定した。しかるに現在橋下はニユース館が一部を占めるのみで、他の大部分は不健全娯楽で営利を目的とする経営に充てられている。結局これについては、そういう敷地を特に許されたものは、新東京観光株式会社であるのに、それはその目的のために使わずして、他の者に転貸しをし、ここに何らかの不正が行われているのではないか、かようなことを都がなさるについては、その都を形成するところの特別区に対しその意見を無視してやられる等のことについては、この際自治法を改正して区の意見が都の行政の上に徹底するようはかられることが必要であると思う、その点につき地方行政委員会の格別なる考慮を望む、こういうようなことがこの趣旨なのであります。
 一応陳情書の通りを朗読いたしましたが、右のうち特に重要なりと考えられる問題につき、参考人諸君の率直簡明な御意見を伺いたいのであります。まずもつて東京都副知事岡安彦三郎君から陳述をお願いいたしたいと思います。大体陳述の時間は五、六分、必要があればそれ以上でもよろしゆうございますが、その程度で要領のみ、大切なところのみをお話いただきたいと思います。

○岡安参考人(東京都副知事) ただいま陳情書の要旨を聞きましたので、私の考えを申し上げたいと思います。
 (中略)
 それから三原橋の問題でございまするが、確かに陳情の通りでございます。二十三年のころ、東京都の焼跡の残土の処理をいかにすべきかというので都市計画に諮りまして、あの川を埋める際に運営委員会をつくつたことは事実でございます。ただその三原橋のところに、今御指摘のような地下街をまん中につくつたが、これはあまり目的を達していないじやないか、その点は、私も率直に認めざるを得ないと思います。これは私ら所期の目的を達成するように、現在の新東京観光会社に今厳重な申入れをしております。新東京観光でもこれを一日も早く健全娯楽にしたい、こういうことでやつておるようなわけでございます。従つて、ただいまの陳情の趣旨にございますように、地方自治法上都と区の関係がまだはつきりせぬ点がある、これは私らもさように考えております。私らもこれに対しまする意見は持つております。しかし本日はこの問題だけでございますので、今までの経過を率直に申し上げた次第でございます。

(中略)

○石村委員 それではわれわれの方は当事者でありませんから、水かけ論のようなことは別に聞きませんが、その次に三原橋の橋の下の問題で転貸ししておられるようですが、これは観光協会は都に対して使用料か何かを払つておられるのかどうか。また転貸については区議会の方では都有財産条例の二十六条に違反しておるというような御意見があるのですが、この二十六条違反かどうか、御解釈はいかがですか。料金の問題と転貸の条例違反かどうかという問題についての御意見をお聞きしたいと思います。

○岡安参考人 三原橋の問題でございますが、これは観光協会が確かに借りて、観光協会は都の方に使用料を払つております。ただ今の形は観光協会から新日本観光に事務委託をしております。従つてその形が少し転貸というような形になりまするが、これは現に今この問題を解決する方面に向つておるような状況でございます。

○石村委員 そうすると転貸ではない、事務委託をせられておるというようなお話に聞きましたが、この観光協会が都に納めておる使用料と、それから事務委託を受けた新東京観光株式会社ですか、これが観光協会に使用料は払つていないというように事務委託ではなると思いますが、その点はいかがですか。

○岡安参考人 東京都は今申しますように観光協会に貸しておりますので、観光協会から正規の使用料をとつております。それだけであります。

○石村委員 ただいまの御答弁は、ただ観光協会に貸しておるので、観光協会から使用料をとつておるだけだ、こういうことで、それから先のことは観光協会の方でないとおわかりになりませんかと思いますが、しかし観光協会は、安井さんがやはり会長だと思うのですが、都側には観光協会が事務委託をされたなら、反対に使用料を観光協会が払われるくらいに思われるのですが、そうではなしい、その観光株式会社から観光協会が使用料をとつておられるというような事実を御存じかどうか。とつておる事実を――まあ事実がないのかもしれませんが……。

○岡安参考人 新東京観光から観光協会には使用料を払つておる、かように考えております。

○石村委員 今の御答弁がはつきり聞えなかつたのですが、観光株式会社ですか、それが観光協会にまた使用料を払つておるというお話だつたのですか、どうですか。

○岡安参考人 その通りでございます。

○石村委員 その金額等はおわかりにならないでしようか。

○岡安参考人 金額等については今存じておりません。

○石村委員 事務委託なら建物の所有権は観光協会にあるのではないかと思うのですが、建物所有権はどこにあるのですか

○岡安参考人 これは新東京観光の建物だろうというふうに考えております。

○石村委員 建物は株式会社の建物だというお返事がありましたが、そうだとすれば事務委託にはならぬのじやないか、このように解釈しますが、やはり観光協会の建物なんですか。

○岡安参考人 建物自体は新東京観光のものでございまして、観光協会からこういうような事業を委託する、こういう形式になつておるように了承しております。

(中略)

○谷参考人(高速道路建設反対委員会委員長) 先ほどから貴重な時間にいろいろと御参考の御意見を伺いましたが、発言の機会を得ましてありがとう存じます。先ほどからの参考人の意見というものは、都とその関連する会社との関係の参考意見であつて、反対意見というものをほとんど述べられていなかつたので、公平な意見ではなかつたと思うのでありますが、幸い大石先生の御発言によりまして本委員会においてわれわれ反対側が発言することを得ました。この公平なる措置に対して、まず感謝の意を表する次第であります。
 先ほどから伺つておりますと高速度問題ということになつておりますが、問題は二つにわかれているようでありまして、まず最初にこの三十間堀の問題が起つております。これは十月三十日の読売新聞において詳細発表されておるから、大体は御存じのことと存じまするが、東京都において、非常に奇怪千万なことが公々然として行われておつたのであります。しかもこの許可に関しては、知事が知らないうちに許可をされたのだということであります。この委員会はどういう性質の委員会であるか、われわれの民間の者にはわかりませんが、こういう重大な事件、すなわち都知事が知らない間に許可されたという、その許可手続その他のものが正当であるかどうだか、そういうことについて、もし委員長からわれわれ住民の前で聞いていただけるならば、非常にけつこうだと思うのであります。
 まずそういうようにしまして、簡単に申し上げますると、一平方メートル七円五十銭の道路使用料をとつて、新東京観光会社にこれを貸し、新東京観光会社が、聞くところによると最高七十五万円の権利をとつてこれを民間に転貸しておる、こういう事実が三原橋問題であります。こういうことが東京都において行われていることについて、われわれは都民として非常な関心を持つ、こういうことであります。
この手続問題等については、私たちはよくわかりませんが、区会議員の山下満吉氏は詳細これを御存じであります。
 (中略)

-------------------------------------------------------------

26 - 衆 - 決算委員会 - 30号
昭和32年04月27日

○山田委員 旧朝鮮銀行の当時の整理の衝に当っている者の名前は何というのですか。そしてあなたの方の折衝した人の名前は……。

○渡部証人(前第一相互銀行常務取締役) 朝鮮銀行のは星野喜代治さんが責任者であります。そこに頼みに行きました。

○山田委員 これが全部証人が当ったということは理解できないのですが、証人に話を持ってきた人はだれですか。

○渡部証人 この話を持ってきたのは宮地さんという人でございます。その人が紹介しております。

○山田委員 宮地さんというのは、宮地何という人です。

○渡部証人 宮地智覚という人でございます。

○山田委員 宮地智覚という人はどういう人ですか。

○渡部証人 この宮地智覚という人は三原橋の橋の建築をやった人で、あそこの権利を持っております。

・・・朝鮮銀行の整理に係る疑獄関係者ということでしょうか、なんかきな臭そうですね。。。

≪追記≫ 三十間堀川の埋め立ての経緯については「首都建設法の制定に関する一考察」(長谷川淳一氏著)に詳しい。

http://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/infolib/user_contents/kiyo/DB00011600.pdf 
http://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/infolib/user_contents/kiyo/DB00011657.pdf

≪追記その2≫

国会議事録だけではなく、中央区議会議事録東京都議会議事録でも検索するといろいろ出てきた。ただ惜しむらくは昭和時代の検索ができない。平成の分だけだと肝心なところがわからないんだよな。

-------------------------------------------------------------

平成15年第二回定例会会議録(第2日 6月24日)

○区長(矢田美英君)
また、もう一つ、風格あるまちですね。首都東京の核である本区において、これが首都東京の核であるかと疑われるような箇所が随分あるわけですから、例えば日本橋上空の高速道路であるとか、あるいはまた銀座地域にも三原橋周辺なんかは、なんと不法占拠なんかもあるわけでございますから、そうした意味では、しっかりとした風格あるまちをつくっていかなければならないなというふうに思っております。

-------------------------------------------------------------

平成16年  予算特別委員会(第11日 3月23日)
○矢田区長
   まちづくりは、戦後もう間もなく60年を迎えるわけですけれども、この60年間、中央区のまち、随分住民感情、また住民の意向に合わないもの、また後から大きな問題を投げかけているところが随所に見られるわけでございます。日本橋上空の高速道路あるいは昭和通りの道路、まちを二分している道路、また三原橋のところの不法占有、いろいろなところに、国あるいは東京都等のまちの環境とか美観とか、住民のそういう意向を無視したものが、どんどんつくられてきたわけです。それが、今、本当にたまらないほど迷惑になっているわけでございますけれども、これは人がつくったわけです、行政がつくった。これをしっかりと、もとに戻そうにもどうにもならないほど、私たちは苦しめられてきている。23区の中で一番小さい10平方キロ、宅地だけだと5平方キロという、この小さなところでも大きな問題が幾つもある。

-------------------------------------------------------------

平成19年  環境建設委員会(7月13日)
○矢田区長
 いろいろ環状2号線の問題、また築地市場の移転問題とあるわけでございまして、築地市場移転については国政レベルでも反対論が出てきているではないかと。これはやはりなぜかというと、私たちが断固反対であるという姿勢を貫いているからこそ、移転反対論が国政にも出てきているのではないかな、こういうふうに思っているわけでございます。
 しかしながら、権限がどちらにあるかというと、残念ながら、区にはない。築地市場のあの土地は東京都、また築地市場を経営しているのも東京都である、こういうことでございますから、残念ながら、そういう権限がないわけで、押し切られる。そういうのは多々ありますね。中央区のまちづくりをこれまで見てきても、日本橋上空のあの高速道路を初め、地元は反対でも、なかなか意見は通らなかった。あるいは、昭和通りの下の地下道なんかも、まちを分断されていると。三原橋のところなんかも、あんなに不法占拠されて残念なんですよね。だから、何とかやりたいと思っているけれども、残念ながら権限がない。こういうことで押し切られるケースは残念に思っているところです

-------------------------------------------------------------

と、地元中央区では、一貫として、美観を害する不法占拠物件扱いです。
一方、東京都議会ではどうかというと。。。

-------------------------------------------------------------

平成20年_第1回定例会(第3号) 
◯九十五番(立石晴康君) 
 さて、終戦のとき、焼け野原となった東京の当時の復旧のため、まず第一の課題は瓦れきの処理でありました。銀座にある旧三十間堀川の埋め立ては、この瓦れきの処理場として使われました。川は埋められ、三原橋周辺の橋は残されたまま現在に至っています。現在、この橋の安全性はどうか、また、終戦当時の橋付近のいわゆる三原橋問題は、終戦から今日に至るまで、長く地元商店街や町会の悩みでありました
 銀座通連合会事務局長で、半世紀近くこの状況を見続けてきた銀座案内人の故石丸雄司氏の口癖でありました。一日も早く解決して、銀座らしい今日にふさわしい状況にしなければならないと繰り返しいっていました。
 さて、昨年八月、アメリカのミネソタ州ミネアポリスで、ミシシッピ川にかかる高速道路の橋が崩落、夕方六時のラッシュアワー時に現場を走行していた約六十台の車両が川に転落し、十三人が死亡、百人以上が負傷したという事故を思い出します。
 社会基盤施設の適切な維持管理は、いうまでもなく我が国においても重要な課題であります。中でも、幹線道路にかかる橋梁は特に重要な施設であります。都は既に、予防保全型管理の重要性を認識して、道路アセットマネジメントを導入しています。都の進めている道路アセットマネジメントによる、橋梁を中心とした予防保全型管理の今後の取り組みについて所見を伺います。
 次に、私の地元中央区には古くから橋が多く存在しますが、その中の一つに、先ほどの三原橋があります。この三原橋は、架橋から八十年近くたっており、現在、一日約四万台の交通量を抱えていますが、この橋の安全性について改めて伺います。
 また、現在この三原橋のたもとの両側には、二棟の契約切れの建物が存在しています。銀座の街並みが時代の最先端へとリニューアルしていく中、古色蒼然としたこの二棟の建物は、沿道の他の建物の景観から乖離し、周辺の街並みと比べた場合、さきに述べたように明らかに異質な存在となっています。都として今後どのように対応していくのか、所見をお伺いします。

◯建設局長(道家孝行君) 三点のご質問にお答えいたします。
 まず、橋梁の予防保全型管理の取り組みについてでありますが、高度経済成長期に集中的に整備した橋梁が、近い将来、一斉に更新期を迎えることから、更新時期の平準化と総事業費の縮減を図るため、資産管理の手法であるアセットマネジメントを活用し、橋梁の予防保全型管理を進めております。
 これまで実施してきた定期点検結果から、将来の損傷や劣化を予測し、最新の長寿命化技術によって、橋梁の安全性、耐久性を向上させる対策などを盛り込んだ橋梁の管理に関する中長期計画を策定いたします。この計画には、管理に関する基本的な方針、長寿命化の方策やその施工時期などを盛り込み、今後、計画に基づき、橋梁の効率的、効果的な管理に努め、都民の貴重な財産を次世代に継承してまいります。
 次に、三原橋の安全性についてでありますが、昭和四年に建設された三原橋は、都心と臨海部を結ぶ幹線道路の晴海通りにある、長さ約三十メートルの橋梁であります。これまで、五年に一度の定期点検結果に基づき、適時、床版の補強、鋼げたの取りかえや塗りかえ、舗装の打ちかえなどの工事を行ってまいりました。
 今後とも、必要に応じて効果的な補強と適切な維持管理を図り、引き続き安全の確保に努めてまいります。
 次に、三原橋における二棟の建物についてでありますが、この建物は、三十間堀川埋立事業に伴い、昭和二十九年に観光案内所などを目的として建てられたものでございます。その後、当初の目的である観光案内所としての機能が終了したため、都は、道路区域に編入し、道路として活用することといたしました。
 二棟の建物所有者とは、これまで話し合いを行ってまいりましたが、本年二月に至り、双方、解決に向けて協議していくことを確認いたしました。
 今後は、地元区等関係機関と十分な調整を図りながら、解決に向けた協議を進めてまいります

-------------------------------------------------------------

冒頭に引用した共同通信記事の「閉館は、劇場がある三原橋地下街の耐震性の問題で取り壊しが決まり、東京都から立ち退き命令があったためという」とは、ずいぶんニュアンスが違うことだよ。

※上記は議会議事録を中心にまとめたものですが、新聞記事を中心にまとめた(その2)を追加しましたので、そちらもあわせてご覧ください。

IMG_4489

名画座は嫌いじゃないんですけどね。学生時代に京一会館にはよくいったものだ。。近くの銭湯に割引券が置いてあったんだよな。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)