カテゴリー「道路」の232件の記事

2017年9月10日 (日)

本四橋・大鳴門橋への四国新幹線架設は本来中止するはずが徳島の政治家が復活させた?

 先日読売新聞にこんな記事が報道された。

大鳴門橋の下部、観光活用へ…トロッコ列車案も

 

 兵庫県南あわじ市は、淡路島と四国を結ぶ大鳴門橋(1629メートル)に鉄道を敷設するため造られた橋の下部について、観光への活用の可能性を探る調査を始めた。

(中略)

 大鳴門橋は、上部が自動車専用道路、下部は新幹線規格の鉄道を通す計画で建設された2層構造の道路・鉄道併用橋。神戸淡路鳴門自動車道として1985年に開通したが、鉄道の敷設計画は具体化していない。

(中略)

 一方、紀淡海峡をまたいで本州と四国を結ぶ新幹線の整備構想があることを踏まえ、「四国の経済界は今も新幹線の実現に期待しており、下部の他用途転用はそれを遠ざけると受け取られないか。安全性の観点からも慎重な検討が必要だ」との声もある。(高田寛)

 2017年09月06日 20時50分 http://www.yomiuri.co.jp/economy/20170906-OYT1T50051.html

 本州四国連絡橋神戸・鳴門ルート関連の鉄道はこのように建設されるはずであった。

明石海峡大橋に鉄道(新幹線)が建設されなかった経緯 (4)

明石海峡大橋に鉄道(新幹線)が建設されなかった経緯 (6)

 「道路」1973年1月号「本州四国連絡橋の計画」本州四国連絡橋公団 から引用。

 明石海峡大橋に鉄道を架けるのをやめた話は、先日「明石海峡大橋に鉄道が建設されなかった経緯等」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-98f1.htmlに書いたところである。

 ネットやTwitterでは、「明石海峡大橋を道路専用にしたため、大鳴門橋の鉄道施設が無駄になった。」「四国新幹線が建設できなくなったせいでJR四国の経営が悪化した。」といった書き込みが見られる。

 そもそも大鳴門橋だって新幹線設備は建設せずに道路専用橋とすることで政府の方針は固まっていたのだが、徳島の政治家(三木武夫元首相)がひっくり返したのである。当時四国新幹線のアテはほぼ無くなっていたにもかかわらず。

 昭和54年版「交通年鑑」の、昭和53年3月9日の項に、「大鳴門橋を鉄道併用橋から道路単独橋に変更する方針を固めた」とある。

大鳴門橋も鉄道(新幹線)建設をやめるはずだった

 当時の報道も確認してみよう。

本四橋⼤鳴門橋は鉄道はずし「道路単独橋」に――3省庁、建設促進で⽅針固める。

 

 建設、運輸、国土省庁は9日、本州四国連絡橋の神戸・鳴門ルートにかける大鳴門橋を当初計画の「道路鉄道併用橋」から「道路単独橋」に変更する方針を固めた。「国鉄財政が悪化しているのに、開通の見込みの立たない鉄道を併設するのはおかしい」との異論が以前から政府部内にあったが、政府は公共事業促進の一環として、道路単独橋にして完成を急ぐことになったもので、4月中に鉄道建設審議会に諮って正式決定する。

 

1978(昭和53)年3月10日付 ⽇本経済新聞

 この報道の後、国会質疑でも大鳴門橋への鉄道架設の件が取り上げられているので紹介したい。

○二宮文造君 ところで、やっとこのごろに到達したんですが、去る三月の七日に建設、運輸、国土、この三省庁の事務当局者の話し合いで、神戸-鳴門間のいわゆるAルートですね、これの大鳴門橋を、ずっと進んできた道路、鉄道併用橋から道路単独橋に変更する方向で合意に達したというふうな報道がされておりますが、この件はどうでしょうか。

○政府委員(浅井新一郎君(建設省道路局長)) 御指摘の点でございますが、新聞情報でそういうようなことが流れております。事実、事務当局間で会ったことはございますが、これは大鳴門橋の建設に絡みまして、先ほどもございました、従来併用橋ということで工事がずっと進んでまいっておりまして、いよいよ塔の発注時期を迎えておるわけでございます。ただ、鉄道橋併用問題につきましては後ほど御説明あると思いますが、新幹線問題についていろいろな運輸当局の考え方もあるようでございます。そういうことを絡めまして情勢分析をするために集まったわけで、その席で方針が決められたというようなことはございません。

○二宮文造君 じゃ、新聞報道はうそですか。困りますか、答弁に。

○政府委員(浅井新一郎君) うそというわけでもないんですが、話し合いをしただけのことでございまして、結論を確認したわけでも何でもないわけでございますので、結論を出したというようなふうに報道されるのは、ちょっと大げさな報道ではないかというふうに考えます。

(中略)

○二宮文造君 新聞等を見ますと、国鉄さんいよいよ登場ですが、新聞報道を見ますと、国鉄の方、いわゆる運輸関係ですね、こちらの方が一おりたで、採算上の理由で、非常に強硬な御意見でこの会合をリードされて、それがいわゆる道路単独橋に踏み切ったと、こういうニュアンスになったと思うんですが、鉄道側の事情、いわゆる道路単独橋に至る鉄道側の事情を、ちょっとでなく詳しく説明いただきたい。

○政府委員(山地進君(運輸省鉄道監督局国有鉄道部長)) 国鉄が再三の財政援助を仰ぎながら毎年巨大な赤字を計上していることは先生方の御承知のとおりでございまして、昨年の運賃法定制度の緩和ということをやっていただいたのもその一連の助成の中の一つでございまして、五十年以降運賃を五〇%も値上げするというような非常にドラスチックなことをやったにもかかわらず年間九千億にも上る赤字を計上しておりまして、今回の運賃の法定制度を緩和したということを軸にする再建の基本方針というのは昨年の十二月の二十九日に政府で決定したわけでございますけれども、今後の国鉄再建については並み並みならぬ努力が必要だろう、これは政府の助成もさることながら国鉄自身の経営というものを立て直さなければならないという事態になったわけでございます。このような国鉄の再建というものを今後五十三年、五十四年にわたりまして五十年代中に何らかのめどをつけたいというような中でこの本四の架橋の併用部分を考えてみますと、四国新幹線、いまの大阪から大分に至る新幹線というのがいつできるかということについては非常に見通すことがむずかしい問題の一つになってきております。いま整備五線というすでに整備計画のできているものについても、一体これは財源問題も含めましてどういうことになっていくのかということで議論されているわけでございますが、その他の計画路線についてはさらに時間がかかる問題だろうと思うわけでございます。  こういうことを考えてみると、一体その併用部分の金というもの、まあ六百億ぐらいの負担を国鉄がせざるを得ないわけでございますが、これが四国新幹線ができない間、まさに何らの効果も生まないままに置くということは金利が毎年積み重なってまいりますので、これは国鉄、それから本四公団についても大変な圧迫要因になる。こういうことを考えまして、一体この併用橋というものについてもう一回見直すべきじゃないだろうかという議論をわれわれの方でいたしまして、今後も本四における鉄道部分というのは、新幹線で行くにしても併用橋であることが必要なのかどうかということで、とりあえず私どもとしては、単独橋の考え方というものは一体いままでの経緯から見て認められるものかどうか、かような観点で国土庁並びに建設省といろいろお話をしているというのが現状でございます。

(中略)

○二宮文造君 運輸省にお伺いしますが、結論は、鉄建審に諮問をして、その最終決定を得て方針が決まると、こういうことですが、鉄建審への諮問はいつと考えていますか。また、やっていますか。

○政府委員(山地進君) 鉄道建設審議会にかける部分と言いますのは、先ほど御説明いたしました本州四国連絡橋公団法に基づいて基本計画を決めた神戸-鳴門ルートについて併用橋ということが出ておりますので、それを直すための諮問を鉄建審にかけなければならない。それからもう一つ、新幹線鉄道網の整備に関する法律の基本計画というのはこれは何ら変更がないわけでございます。したがって、こちらの部分は鉄建審にはかけなくてもいいと、こういうのが事情でございます。私どもとしては、できるだけ早く鉄建審も開いていただいてこの問題の結論を得たいと、かように考えております。

 

1978(昭和53)年3月28日 参議院予算委員会

 ざくっというと、「四国新幹線なんかいつできるかアテもつかないのに大鳴門橋に鉄道施設を造っても600億+金利がかかるばかりなので道路単独橋にしたい。」ということであろう。

○森下委員 (略) 三月二十八日の参議院の建設委員会で運輸省の山地国鉄部長は、四国新幹線の問題でこういうふうに答弁をしております。要旨は「四国新幹線大阪-大分間の完成など見通しを立てるのも難しい。大鳴門橋の新幹線併用部分に対する国鉄の分担金は、金利だけでも国鉄を圧迫するので、併用を見直すべきだという議論を内部でしてきた。」それから「大鳴門橋の計画から新幹線併用を外すため、鉄建審にかけるよう、関係者間のコンセンサスを得る努力をしている。しかし新幹線整備法に基づく四国新幹線の基本計画はなんら変更するものではない。」こういうふうに答弁をされております。

 それから四月十四日に住田鉄監局長は、紀尾井町の赤坂プリンスホテルで開かれました高知県関係者との懇談会でこういうふうにおっしゃっておるようです。「大鳴門橋に新幹線を通すのは国民経済的にも問題があり計画を変更したい。その際四国新幹線はトンネルにすることになるので単独橋が正式決定されれば、明石-鳴門のトンネル調査を始めたい。」それから「計画変更を鉄道建設審議会に諮る際は徳島、高知など関係県の了解を得ることを前提にする」こういうふうに実はおっしゃっております。

 その内容を見ますと、現在の国鉄の財政内容を見ましても、併用橋の場合は六百億ばかりの巨額の金を運輸省が負担するわけでございますから、これも大変でございますし、大阪から淡路を通って四国それから大分県、これが四国新幹線のルートでございますけれども、これができ上がるには二十年も、遅ければ三十年も四十年もかかるのではなかろうか。残念ながらわれわれ自身もそういうふうに予想をされるわけです。そのために運輸省の持つべき六百億の負担金、これが金利等を考えますと、現在の貨幣価値でも二千億も三千億もかかる。効率的に非常によくない。われわれも、決算面から考えましても、併用橋ができて早く開通できればいいと思いますけれども、現実はそう簡単なものじゃないということを考えまして、最善よりもむしろ次善の策をとって、そして単独橋でもいいから早く橋をかけてもらいたい。いろいろ条件はあると思いますけれども、実はそういう方向で進んでもらいたいと私は思うのです。

 そこで、いろいろお聞きになっておると思いますけれども、運輸大臣に次のことをずばりお聞きしたいわけでございまして、ひとつ明快にお答え願いたい。  まず、大阪から四国を通りまして大分へ参ります四国新幹線、これはすでに豊後水道、大分と愛媛県の間ではトンネル調査をやっております。運輸省で予算を二億円ばかり毎年つけておりますから実績がございます。そういうことで、併用橋問題は別にして、四国新幹線は絶対に断念しないのだ、あくまでもやるのだ、これをまずお聞きしたい。

 それから、鉄建審、先ほど私が申し上げました鉄監局長や国鉄部長の発言の内容にも、鉄建審とか閣議でこれは前に併用橋ということで決めておりますから、これをおろすのはそう簡単にいかないと思うのです。その点やはり運輸大臣の決断によって早く決まる。しかも、不景気なときでございますから、早く公共事業をやらなくてはいけないし、下部構造は大鳴門の場合はできておりますから、上部構造にかかる場合に併用か単独かということが非常に問題になりますし、どうしても六月までに決めないとまた一年延ばされる。実は昨年も予算をそのまま使わずに置いてあるようなことでございまして、これも決算から見ましてもまことに効率の悪い問題でございますから、ひとつ大臣の方からお答え願いまして、また具体的な問題は鉄監局長の方から補足していただいても結構でございますから、大臣からよろしくお願いします。

○福永国務大臣 まず四国新幹線の件につきましては、お話にもありましたように、これの計画には変更は別にないわけでございます。率直な話、やりようにもよりますけれども、どっちが先になるか、これはなかなか、世に急がば回れというような言葉等もございますので、今後どうなるかと思います。そういうように私は思いますけれども、いずれにしてもその四国新幹線につきましては、考え方を変えるものではなく、推進していきたいと存じます。

 それから、鉄道建設審議会との話等につきましては、いま閣議で決めたかのようにお話がございましたが、これはどっちでも大した差はないと言えばそれまででございますが、閣議で決めたのではなくて運輸大臣が決めたことになっております。いずれにいたしましても、それについて変更する措置を講じなければならないことは、これはもう御指摘のとおりでございます。

 なかなかこの節、運輸省に振りかかってまいります問題が多い。一方においてはやれとおっしゃるし、一方においてはやるなと言う方が実は多いのでございます。気の弱い小生、いろいろ悩んでおりますが、いずれにいたしましても、お話のように決めるべきことは決めていかなければならない。せいぜい努力をいたしたいと存じます。

○住田政府委員(運輸省鉄道監督局長) 鳴門大橋と明石大橋の併用橋でございますが、これは閣議了解とか閣議決定ということではなくて、運輸大臣が鉄道建設審議会に諮問いたしまして、その答申を得て、本四公団に併用橋でやるように基本計画で指示をいたしたものでございます。

○森下委員 鉄道建設審議会ですね、四月の上旬ということでわれわれ非常に期待しておったのですが、いろいろな問題が起こったものですから延びておるし、いろいろ関係府県とも連絡を意欲的にやっておるようでございますけれども、私は、でき得ればこの四月中にぜひお願いしたい、またやるべきである、こういうふうに実は思っておるのですが、大臣の方で、非常にむずかしい問題がございます。一〇〇%了解を得るということは非常にむずかしいと思うのですけれども、少なくとも四月中にできなければ連休明けぐらいにはひとつ鉄道建設審議会を開いていただきまして、前向きでやるという私はお約束を得たいと思います。この点、どうでございますか。

 もう六月からこれやってもらわないと、また一年延びますからね。景気浮揚ということで公共事業で大型予算をつけておるわけでございますから、その点ひとつでき得れば四月の下旬でも、どうしてもぐあい悪いときには連休明け直ちに、ぜひ私は鉄建審ではっきりしてもらいたい。どうでございますか。

○福永国務大臣 森下さんお話しのように、私どもも実は四月、なるべく早くやりたいというような気持ちがあったことは事実でございます。正直に申します。いろいろございまして、そういうように運んでいっていないということを大変残念に思いますが、いま、いつ開くということを申し上げると、すぐこれまたいろいろなことになりますので、よく森下さんのお話を伺っておいて……というように存じます。いずれにしても、できるだけ早いことが望ましいと思っていることに変わりはございません。御了承いただきたいと存じます。

○森下委員 この併用橋か道路橋かという問題は、地元の国会議員もわれわれも含めまして十数年前から論議されておる問題でございまして、運輸省だけの責任じゃなしに私どもの責任も実はございます。しかし、政治家である以上、やはり決断すべきときには決断して、県民なり選挙民からの非難を受けることもあるだろうし、先見性がいかになかったかということの批判を受ける場合もあると思うのです。しかし、やはり決断すべきときには決断して、そして後の批判を受けていくのが、批判を避けて通れないのが政治家の一つの宿命でございますから、あえて私も申し上げるわけでございます。  そういうことで、はっきり言いにくい点もよくわかりますが、ひとつ意欲的にそういう方向でぜひお願いしたい。これは尖閣諸島の問題や成田の問題よりは、国内の問題でございますから簡単にいけるし、われわれ自身も、関係機関、また関係民に呼びかけて了解を得るように努力をしていきたいと思います。

 

1978(昭和53)年4月18日 衆議院決算委員会

 この森下元晴代議士は自民党で徳島県選出である。大鳴門橋の地元議員が、「さっさと鉄道建設審議会にかけて大鳴門橋に鉄道を架けないことを決めて道路単独橋でよいから早く造ってくれ」と政府に申し出ているのである。

 他方、運輸省も「本四架橋では新幹線はできなくても、別途本四間に新幹線用のトンネルを掘るからいいじゃないか」と高知県に申し出ていたことも分かる。

 1978(昭和53)年6月5日付毎日新聞は、その後の駆け引きを下記のとおり報じている。

大鳴門橋も鉄道(新幹線)建設をやめるはずだった2

 先の国会答弁では、持って回った言い方だった運輸省だが、この記事ではもっとズバズバ発言している。

 方針転換の理由を運輸省の住田鉄道管理局長(※引用者注 後のJR東日本社長)は、「新幹線の併用橋を造るには、全部の新幹線計画が決まらなければならない。大鳴門橋はともかく世界最長のつり橋になる明石海峡大橋に新幹線を乗せることは、騒音対策も含め、技術的に極めて困難だ。それに新幹線はいつできるかわからない。21世紀までむずかしいという見方もある。併用橋にすると赤字の国鉄が約4割の費用を負担し、利子だけでも大変。21世紀まで通らないなら、そのときに別にトンネルを掘った方が安くつく」と説明する。

 この考え方で運輸省は建設省、国土庁、大蔵省と事務レベルの根回しを始めておおむねの了解を取り付け、関係県の国会議員も大部分が「道路だけなら早くできる」と単独橋に傾いた。

 ところが、ここで大きく「待った」をかけたのが地元徳島選出の三木前首相。

(中略)

 この動きを横目に見ながら運輸省は「三木さんは併用橋を造っておけば、将来、新幹線を引く”人質”になる、とお考えのようですが、たとえ併用橋になっても人質にはなりませんよ。本土―四国間の新幹線計画は神戸―鳴門ルートのほかに、岡山―坂出―高松―高知ルートの計画もあります」と冷ややかだ。

 

1978(昭和53)年6月5日付毎日新聞

 ネット世論では「なんで明石海峡大橋を道路単独にしたのだ。そのせいで新幹線ができなかったじゃないか」と言わんばかりだが、実際には大鳴門橋建設の段階で国は四国新幹線はできないから大鳴門橋だって鉄道施設は不要であるとしていたのである。

 そこをひっくり返しにかかったのは、地元徳島出身の三木武夫前首相(当時)である。記事にもあるが、この騒動の2年前である1976(昭和51)年に大鳴門橋を少々強引な形(それゆえに四国新幹線の神戸―鳴門ルートへの敷設については正式なオーソライズを得ていない形でもある。)で着工に持ち込んだのは首相在任中の三木である。その後いわゆる「三木おろし」で党内派閥争いに敗れ首相の座をひきずりおろされた後に、政敵の福田内閣が大鳴門橋への鉄道工事を中止させようとするのである。

 今の人は知らないかもしれないが、三木首相は「金権」田中角栄内閣が世論の批判をあびて倒れた後に「クリーン三木」として脆弱な党内基盤にもかかわらず登場時は国民から一定の人気を得ていた政治家である(いわゆる「バルカン政治家」でもあったが。)。そのクリーン三木が地元利益のためになりふり構わず動いたのである。

 この記事によると、淡路島を含む兵庫2区を地盤とし、明石海峡大橋建設に力を入れていた原健三郎(ハラケン)代議士が中曽根派であることもあり、中曽根康弘(当時鉄道建設審議会会長)の支援を受けたようだ。当時の自民党はいわゆる「三角大福中」の派閥争いの真っ最中であり、中曽根にとっては、福田の敵の三木は「敵の敵は味方」ということになるのだろうか。

 ところで、中曽根は首相在籍時には国鉄分割民営化を実施している。その際、本四架橋については、瀬戸大橋に架かる国鉄線「本四備讃線」の建設を中止しようとする動きすらあった。

 その動きは「JR30周年記念:国鉄改革で本四備讃線(瀬戸大橋線)は建設中止になるはずだった!?」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/04/jr30-0cd3.htmlに書いてある。

 中曽根氏も国鉄改革の際には偉そうなことを言っていたが、自分もちょっと前には党利党略というかそれ以前の党内派閥利益の駆け引きために鉄道建設審議会会長の座を悪用?して国鉄の赤字を増やしていたのである。

 1978(昭和53)年7月31日付朝日新聞でも同様の動きが報じられている。

大鳴門橋も鉄道(新幹線)建設をやめるはずだった3

 徳島県では当初、運輸省のこんな計画変更案に対し「やむをえない」との空気が支配的だった。武市恭信同県知事も3月の県議会で「早期完成が最優先」と弱気の答弁をしたほどだ。あまり新幹線にこだわって、橋そのものの完成が遅れたのではもとも子もなくなる、との心配も手伝って、橋の運命は「単独橋」に決まったかに見えた。

 

1978(昭和53)年7月31日付朝日新聞

 地元徳島県も四国新幹線をあきらめかけていたというわけだ。

 ここで当時の日経新聞の関連記事の見出しを追ってみよう。

大鳴門橋問題、道路単独への変更は流動的――武市徳島県知事語る。 1978/03/19  日本経済新聞 地方経済面 四国

大鳴門橋、道路単独なら条件付き、近く6団体で協議――徳島県知事示唆。 1978/03/23  日本経済新聞 地方経済面 四国

高知県、強まる大鳴門橋の「道路単独」に強く反発――架橋資金調達の縁故債拒否も。 1978/04/15  日本経済新聞 地方経済面 四国 

徳島県、議会で大鳴門橋の道路単独橋への変更受け入れを示唆、57年度完成変えず。 1978/04/20  日本経済新聞 地方経済面 四国

高知県と徳島県、大鳴門橋の新幹線併用橋実現で意見一致。 1978/05/10  日本経済新聞 地方経済面 四国

大鳴門橋の新幹線併用橋建設は厳しい情勢――徳島県議会特別委員長ら語る。 1978/05/27  日本経済新聞 地方経済面 四国

大鳴門橋の新幹線併用の見通しは明るい――運輸省などに陳情の徳島県会委員長ら語る。 1978/07/15  日本経済新聞 地方経済面 四国

徳島県、大鳴門橋建設問題で併用橋推進へ高知・兵庫両県知事と意見集約へ――知事談。 1978/07/18  日本経済新聞 地方経済面 四国

大鳴門橋は道路新幹線併用橋――自民党四国開発委が決定。 1978/07/21  日本経済新聞 地方経済面 四国

大鳴門橋、政治決着にメド、新幹線併用で前進――高知県知事語る。 1978/07/22  日本経済新聞 地方経済面 四国

本四架橋の大鳴門橋は道路・鉄道の「併用橋」に――建設相、経団連会長に意向表明。 1978/08/01  日本経済新聞

大鳴門橋は新幹線併用橋に――三木武夫前首相、徳島市で語る。 1978/09/05  日本経済新聞 地方経済面 四国

高知県、大鳴門橋鉄道併用問題で国の負担での早期着工を建設・運輸両省に強く要請へ。 1978/09/08  日本経済新聞 地方経済面 四国

大鳴門橋は基本方針通り併用橋――中曽根康弘自民党総務会長、徳島で語る。 1978/10/15  日本経済新聞 地方経済面 四国

本四架橋神戸―鳴門の「大鳴門橋」は道路だけの単独橋に――自民調査会が決議。 1978/12/13  日本経済新聞

大鳴門橋はあくまで併用橋で――国鉄基本問題調査会の単独橋決議で徳島県知事語る。 1978/12/14  日本経済新聞 地方経済面 四国

高知県、国鉄基本問題調査会の大鳴門橋「単独橋」決議で対応策迫られる。 1978/12/14  日本経済新聞 地方経済面 四国

 このように、自民党も揺れるし地方も揺れていたのである。徳島県は一時期弱気になるのだが、高知県が強気だったという。

 高知県はこれに猛反発した。鉄道併用橋は高知県民の願いであった。ルート争いでは神戸―鳴門ルートを支持してきたのに簡単にあきらめるのかと徳島県を厳しく非難した。

 

本州四国連絡橋神戸―鳴門ルートの計画史 羽田野剛士、近藤光男、近藤明子

https://www.jsce.or.jp/library/open/proc/maglist2/00039/200411_no30/pdf/232.pdf

大鳴門橋も鉄道(新幹線)建設をやめるはずだった4

 上記の記事は、自民党の国鉄基本問題調査会が道路単独橋決議したことを報じる1978(昭和53)年12月13日付読売新聞記事である。

 この記事では2点興味深い点がある。

 一つ目は、厳しい国鉄財政を踏まえて、運輸省だけでなく国鉄も鉄道併用橋に反対しているという点である。

 二つ目は、道路橋を所掌する建設省は併用橋を主張しているという点である。日頃から「鉄道と違って道路はお金があってズルイズルイ」と言っている鉄道マニヤ諸氏には不思議であろう。そこには、本四架橋については、道路と鉄道が費用按分して事業を進めているという事情がある。つまり鉄道が撤退してしまうと全額道路が負担しなくてはならなくなる。また単純に道路だけの問題ではなく、本四公団に出資している国、関係地方公共団体の出資金の追加負担が出てくるのではないかという問題もある。そのために「国鉄が赤字だからといって、自分の都合だけで撤退しちゃいかんよ」と釘を刺しているのではなかろうか。この辺はあてずっぽうの推測にすぎないのだが。

 

 最終的には現在あるように大鳴門橋は鉄道併用橋で決着がついた。下記は、それを報じる1979(昭和54)年1月5日付読売新聞記事である。

大鳴門橋も鉄道(新幹線)建設をやめるはずだった5

 この記事によると

・もともとは道路と鉄道は、(応力比率に基づき)59:41で、総工費1,527億円のうち、道路901億円、鉄道626億円を負担するはずだった。

・このときの見直し(経費削減)と負担比率の見直しで、総工費1,527億円を1,325億円に下げるとともに、89:11の負担比率とし、道路1,175億円、鉄道150億円の負担となった。

 結果的に増額となった道路分274億円については、その後、本四道路の料金で返済することになっていると思われる。

 また、このときの経費削減のなかで「新幹線は「単線載荷方式」をとることとし、複線にはするものの、上下線の電車がいっしょに通らないように配慮し、工事費を切り詰めることにした。」のである。

 

 wikipediaの「大鳴門橋」では

また、着工後に四国新幹線建設の見通しが不明確なことと建設費の圧縮を理由として、一度に1列車しか橋上を通過できない「単線載荷」への設計変更が1980年になされているため、仮に鉄道が敷設されても大鳴門橋の区間は実質的に単線運行となる。(参考:参議院建設委員会議事録1981年6月2日)

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%B3%B4%E9%96%80%E6%A9%8B 2017年9月10日閲覧

 とだけあるが、そこに至るまではこれだけ長い前振りがあったのである。

 それを知らない鉄道マニヤが「予算をけちったせいで単線運行しかできないものができた」等というのである。

 

 wikipediaついでに指摘しておくと

1978年(昭和53年)3月 - 関係大臣により大鳴門橋と明石海峡大橋の道路単独橋への変更が合意。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%B3%B4%E9%96%80%E6%A9%8B 2017年9月10日閲覧

とあるが、実際の国会答弁では

○二宮文造君 ちょっと大臣にお伺いしますがね、この三省の事務当局者の会合というのは大臣御承知の上で行われたんでしょうか、知らないうちに事務当局で話し合いしたんでしょうか。簡単で結構です。

○国務大臣(櫻内義雄君) これは、私が指示をしたことのないことだけは事実でございますが、しかし、事務当局者間で必要があってそういう会合をしておる、それを私が不必要だということではございません。私が指示したんではないということは事実です。

○二宮文造君 じゃ、その事務当局の会合があった報告は大臣受けられましたか。非常に大事な問題でこういう三省の話し合いが行われたんですと、報告は受けられましたか。建設も国土も兼ねていらっしゃるんですから、どっちかから入るんじゃないかと思いますが。

○国務大臣(櫻内義雄君) 新聞報道をちょうど見た後に、ちょっとこの報道の真相は違いますと、三者が会いまして、いまの公共投資の、先行投資の必要があるので協議をいたしましたと、こういう報告を受けました。

 

1978(昭和53)年3月28日 参議院予算委員会

 と「大臣は知らずに事務方だけの会合だった」とされている。

 ということでwikipediaの当該箇所は嘘だと思われるので、どなたか直しておいてください。

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大鳴門橋も鉄道(新幹線)建設をやめるはずだった6

 これは、1985(昭和60)年6月8日大鳴門橋開通を前にした、小学3年生1985(昭和60)年4月号の挿絵である。

 しかし、上記の経緯を踏まえ、1981(昭和56)年6月に建設省から本四公団に、明石海峡大橋の道路単独橋の可能性について検討するよう指示がなされ、大鳴門橋開通の2箇月前である1985(昭和60)年4月に「明石海峡大橋は道路単独橋で技術的にも採算的にも可能である」旨の調査報告がなされている。

 「新かん線も走る!大鳴門橋」とのキャプションはこの時点で実現可能性はかなり厳しくなっていたと言ってよいだろう。

 これを受けて同年8月27日、河本嘉久蔵国土庁長官、山下徳夫運輸大臣、木部佳昭建設大臣の間で、「明石海峡大橋は道路単独橋に変更し、本州・淡路島間の鉄道計画については、別途検討する」旨の合意がなされた。

 

本州四国連絡橋神戸―鳴門ルートの計画史 羽田野剛士、近藤光男、近藤明子

https://www.jsce.or.jp/library/open/proc/maglist2/00039/200411_no30/pdf/232.pdf

 その後紀淡海峡経由のルートの検討等が行われたのはご存知のとおりである。

伊東 明石海峡大橋を鉄道は通さないことにして、あと別ルートを考えるとすれば、どんなことが今考えられているのですか。

山根 トンネルにする案では、水深一○○mの明石海峡の下をトンネルで通っても、明石海峡大橋に乗せても、鉄道の規格にもよりますが、 神戸の駅に取り付かないのですね。

伊東 そうなのですか。たわみがすごくなるということですか。

山根 そうではなくて。

伊東 取り付けの問題なのですか。

山根 そうです。方法としては紀淡海峡を抜ける案が考えられます。

伊東 経営上はどうですか。

山根 備讃線でもう精一杯ではないでしようか。備讃線でさえ止めようと話が出たくらいですから。

 

土木史研究におけるオーラルヒストリー手法の活用とその意義:高速道路に焦点をあてて

山根孟氏(元建設省道路局長・元本州四国連絡橋公団総裁)

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大鳴門橋の鉄道事業分のお金は結局誰が負担しているのだろうか?

 建設費については、本州四国連絡橋公団から道路公団民営化委員会に提出された資料http://www.kantei.go.jp/jp/singi/road/dai4/4siryou4-1.pdfによると「鉄道の事業費は平成13年度までに国鉄清算事業団(現鉄建公団)の負担により償還済。」とのこと。

 維持管理費については、http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/hyouka/honsyu_a.htmによると

 本州四国連絡鉄道事業のうち、明石海峡大橋が道路単独橋とされたため(昭和60年8月)、本四淡路線の鉄道事業は凍結状態となっている。このため、これと一体をなすものとして先行して建設された大鳴門橋の鉄道部分(資産価額331億円)が未利用のままとなっている。

 この大鳴門橋の鉄道部分の維持管理費については、負担分を賄う収入の途がないため(本来は、鉄道開通の際に旧国鉄から得られる予定であった。)、一般会計からの補助金(昭和62年度から平成8年度の累計額1億9,100万円)により賄っている。今後、大鳴門橋が鉄道施設として利用される可能性は低いものとなっており、このままでは、公的資金の投入が累増することとなる。

としている。この後はどうなったのだろうか。

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2017年9月 3日 (日)

高速道路やICの名称決定基準

 鉄道の駅名についてはいろいろ本が出ていたりする。

 一方、高速道路についてはあまり出ていないのだが、「高速道路のプランニング」という本にその決定基準等が掲載されている。

 監修は建設省から日本道路公団において高速道路の計画・建設等に従事した三野定氏であり、実際に執筆したのは日本道路公団の現役職員だとあるから、それなりの精度とレベル感であることが期待されよう。

 ただし、この本が執筆されたのは1973年である。その後道路公団民営化や新直轄高速道路等といった変化があるため、現在もこのとおりなのかは定かではないので注意されたい。

 まず、高速道路の道路名称についてである。

高速道路の名称決定基準 (2)

 「中央高速道路」が「中央自動車道」に変更された理由が掲載されている。

東京ふしぎ探検隊 新東名、残りの区間は… 中央道が名前を変えた理由

 

■中央自動車道はかつて「中央高速道路」だった

 ところでこの中央道、現在の一般名称は「中央自動車道」だが、開通当初は別の名前を使っていた。その名も「中央高速道路」。東名、名神と同じく、高速道路を名乗っていた。なぜ、変更したのか。

 NEXCO中日本に尋ねたところ、「名前が変わったのは知っているが、時期も理由も分からない」とのこと。国土交通省の高速道路担当者に聞くと「変わったことも知らなかった」。そこで東京都立中央図書館(港区)を訪れ、文献をあさってみた。

 まずあたったのが「日本道路公団三十年史」(1986年=昭和61年発行)。細かく見たが、「中央高速道路」という名称は1回も出てこなかった。

 次に1976年(昭和51年)発行の「二十年史」を見てみると、こちらもほとんどのページで「中央自動車道」と書いてある。しかし時々「中央高速」と書いてあり、そのなかに「中央高速道路(のちに中央自動車道と改称)」とのくだりを見つけた(160ページ)。やはり名前が変わったのは間違いないようだ。

■「中央高速」、仕切りなしの対面通行区間も

 「高速道路の謎」などの著書があるモータージャーナリストの清水草一さんによると、「中央道では大月-河口湖間が開通した1969年(昭和44年)から事故が多発し、『高速』という名称は危険走行を助長しかねないと問題になった。そこで自動車道に改称した」という。

https://style.nikkei.com/article/DGXNASFK12038_T10C12A9000000/?page=3

 河尻定氏の調査能力の程度はまあ御察しということで置いておいて、NEXCO中日本にはしっかりしてほしいものだ。

 なお、清水草一氏は、大月~河口湖の対面通行での開通をきっかけとしているが、実際には、八王子以西が当初は対面通行で開通している。

 

 ただこれだけだと変更時期は明確ではない。

東北道などの開通後の道路名称決まる

 

 日本道路公団では、このほど,東北縦貫自動車道などの開通後の道路名称を次のように決定した。

 なお,中央自動車道富士吉田線(現在の「中央高速道路」)については,西宮線多治見・小牧間が開通する時点(昭和47年秋)に「中央自動車道」に名称変更する

路線名(区間) 開通後の道路名称
東北縦貫自動車道青森線
(川口~青森間)
東北自動車道
中央自動車道西宮線
(大月~小牧間)
中央自動車道
北陸自動車道
(米原~朝日間)
北陸自動車道
関門自動車道 関門橋

 

高速道路と自動車」1972(昭和47)年6月号98頁

 中央道の多治見・小牧間が開通したのは1972(昭和47)年10月5日なので、それにあわせて、調布~河口湖間も「中央高速道路」から「中央自動車道」に改称されたことになるのであろう。

 現在のNEXCOの高速道路の「路線名」と「道路名称」の一覧表が、NEXCO総研の「設計要領第五集 交通管理施設 標識編」に掲載されている。

 現在のところ新旧対照表がUPされているのであわせて参照されたい。http://www.ri-nexco.co.jp/Portals/0/%E6%9B%B8%E7%B1%8D%E9%96%A2%E4%BF%82/%E6%96%B0%E6%97%A7%E8%A1%A8/%E8%A8%AD%E8%A8%88%E8%A6%81%E9%A0%98/%E8%A8%AD%E8%A8%88%E8%A6%81%E9%A0%98%E7%AC%AC%E4%BA%94%E9%9B%86_%E6%A8%99%E8%AD%98%E7%B7%A8_2907_%E6%96%B0%E6%97%A7_1.pdf

高速道路の名称決定基準 (1)

 「法定路線名」とか「営業路線名」というのはネットスラングにすぎないので、こういう公式文書には出てこないのでご注意あれ。

 えっ?「NEXCO西日本のウェブサイトには「法定路線名」「営業路線名」って載ってる」って?「先輩の書いた本をよく読んだ方がいいんじゃないんですか?」「NEXCO西日本はwikipedia見て仕事しているんですか?」って言ってやればええんちゃうのん?

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 閑話休題、次はインターチェンジの名称である。

高速道路の名称決定基準 (3)

 鉄道の駅は、「西舞鶴」「東舞鶴」と地名の前に東西南北がつくが、高速道路の場合は「舞鶴西」「舞鶴東」と地名の後に東西南北がつく。

 これについては、三野氏同様に建設省から日本道路公団で高速道路の調査・建設に従事した武部健一氏が自著「道路の日本史」の中でこう語っている。

 ここで高速道路での施設の名称について、その歴史的由来を説明しておこう。

 高速道路の施設としてはまずインターチェンジが挙げられる。できればこれを漢字一文字で表現したい。駅という字がすぐに浮かび上がるが、これはすでに鉄道で手あかにまみれているし、まぎらわしい。「道駅」などもすっきりしない。駅がもともと道路のものだったなどとは、当時の関係者が知る由もない。その後、「道の駅」が一般国道など幹線道路の休憩所として整備され、平成26年(2014)末で全国で1,040ヵ所に達している。

 「インター」との略も「第三インター」など戦前の左翼用語を思い出させるとの古い幹部からのクレームでつぶれ、結局略語の使用は見送りとなり、現在に至っている。英語をうまく使った例では「ジャンクション」がある。本来の英語の意味は交差点でしかないが、これを高速道路相互の分岐・交差箇所に用い、一般道路に乗り降りする普通のインターチェンジと区別したのは賢明であった。

 インターチェンジの命名法もアメリカ流儀を採用した。日本では一般に東西南北などは地名の前につける。しかしアメリカでは逆にOregon-westのように後につける。名神高速道路ではアメリカ流儀を採用した。偶然のことながら名神の場合、後につけることが成功につながった。京都東インターチェンジである。これを従来の方式通りとすれば、東京都インターチェンジになるところであった。

 

「道路の日本史」武部健一・著 中央公論社・刊 196~197頁

 私は「日本最初の開通区間である名神高速道路の京都東ICを東京都ICにしないために、高速道路のインターチェンジ名は、地名の後に方角を入れた」のかと勝手に思っていたのだが、武部氏によると偶然の産物であるようだ。

 

 ところで、「高速道路ファン手帳」佐滝剛弘・著にはこんな箇所がある。

同名のインターチェンジ

 

 これほど高速道路網が広がると、全国では、同じ名前のICも登場しそうに思われるが、(中略)、高速道路の中では、重複しないよう、後からできたICが地名の前後に区別できるような名前を付けている。

(中略)

 同名の話に戻ると、「川崎IC」だと神奈川県にも宮城県にもあるので、前者は「東名川崎」、後者は「宮城川崎」となっている。さすがに「神奈川川崎」というのはあまりに不自然なので、そんなことにはならなかった。

 

「高速道路ファン手帳」佐滝剛弘・著 中央公論社・刊 90~91頁

 まあ、この佐滝剛弘氏の論も、実際には「高速道路のプランニング」記載の記述によると

・「市町村名の前に路線名をつける」

・第三京浜の川崎ICが先にあったので、東名川崎にした

ということで的外れな記述とあいなってしまった。

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 (余談)

 高速道路の名称は起終点の地域名、都道府県名、市町村名等からとるように書いてあるが、最初の高速道路である名神高速道路は、名古屋市も神戸市も通っていない(小牧市~西宮市)。

 名古屋市については、接続する東名高速に名古屋ICがあるからいいとしても、神戸ICはどうだったのか?

 実は神戸ICは当初は建設する予定はあったのである。

名神高速道路の西宮-神戸間の幻の計画路線図

http://www.archives.go.jp/exhibition/digital/high-growth/contents/15/photo27/imgs/i_zoom01.jpg

 詳細は「「名神全通50周年企画」なぜ名神高速道路は神戸まで行かないのか」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/post-d2b3.htmlをご覧いただきたい。

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南アルプスの少女ハイジ

 (余談その2)

 中部横断道の「南アルプスIC」は、高速自動車国道としては初めての「カタカナ」を使ったIC名だったはず。(※都市高速道路を含めると、阪神高速道路の「ユニバーサルシティ」の方が先。)

 上記開通案内を見るとこのときの開通区間は「南アルプスIC~白根IC」である。ところで白根ICは、旧・中巨摩郡白根町に存在したところ、2003年4月に周辺自治体と合併して「南アルプス市」になっている。

 時系列でいくと、2002年3月中部横断道白根IC(旧・白根町 現・南アルプス市)開通→2003年4月南アルプス市成立→2004年3月中部横断道南アルプスIC(旧・若草町、櫛形町 南アルプス市)開通という流れである。

 これが、もし南アルプス市の成立が白根IC開通よりも先だった場合には、南アルプス市内にICが南北に二つできることとなり、現白根ICが「南アルプス北IC」、現南アルプスICが「南アルプス南IC」になっていた可能性がなかったわけではない。。。

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総武快速線は首都高速道路の未成線を避けて走っているのであんなに深い

 ※最後に追記があります。

 我々が子供の頃は、国鉄で一番深い駅と言えば、総武快速線の馬喰町駅であった。(その後青函トンネルが開通したりして変動したらしいが。)

 http://www.ecomo-rakuraku.jp/stationmap/22919.htmlに掲載された構内図などを見ると地下5階にホームがある。

 で、何故にこんなに深いのかを調べてみると、首都高速道路の未成線が関係していることが分かった。

総武快速線は首都高の未成線を避けて深く走っている

 「交通技術」1972年8月号「東京地下駅の防災体制について」山本卓朗・著 291頁から引用

 馬喰町駅から錦糸町側で神田川をくぐるあたりで「高速環状線」の杭の下を避けるように総武快速線が走っているのが分かる。

 これは首都高速道路の未成線「内環状線」のことである。

首都高速道路内環状線計画図

 この図面について詳しいことはこちら→http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/07/37-ddb3.html

 6号線の両国から隅田川を渡り、神田川に蓋をするように飯田橋で5号線に接続するような経路である。

 それが柳橋のあたりで総武快速線と交差する予定だったのだ。

首都高内環状線接続予定部分

 飯田橋附近の首都高5号線。赤丸部分が内環状線が接続する部分の準備工と思わしきもの。

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西武堤康次郎が有楽町線のルートを曲げていたのか (2)

 また、上図には出てこないが、地下鉄有楽町線(8号線)も、当初は新木場へ向かわず、錦糸町へ向かうはずだった(10号線)ので、内環状線と同様に錦糸町駅~馬喰町駅の間で地下鉄10号線の下をくぐっている。

交通技術1968年7月号「東京周辺地下高速鉄道網の整備計画」から

 

西武堤康次郎が有楽町線のルートを曲げていたのか (14)

 地下鉄10号・8号線のあたりは、他に記事を書いているのでよろしければこちらも是非。

 「堤康次郎は、目白経由だった有楽町線のルートを池袋経由に曲げて、西武池袋線と新宿線を乗入れさせようとしていた?」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/01/post-4e5b.html

 記事公開後、重要な指摘を頂戴したのでお許しを得て追記としたい。

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2017年8月27日 (日)

清水草一氏は「当時それを批判する声はなかった」というがそれは明白な嘘-首都高日本橋附近の地下化関連(5)

首都高研究家清水草一の日本橋関連の嘘

 日刊SPA!で「首都高研究家」を自称する清水草一氏が「世界初の都市高速・首都高は醜いのか? 首都高C1日本橋付近地下化のメリットとデメリットを考える」https://nikkan-spa.jp/1385796/2という記事を公開している。

 主義主張の部分は個人の好みなのでとりたててコメントするものではないが、大きな事実誤認若しくは嘘があるので指摘しておきたい。

 清水草一氏は「それは、運河や道路などの公共用地を可能な限り有効活用し、新規用地取得を約2割に抑えたことで実現した。当時それを批判する声はなかったし、この乱暴な作り方こそ、あの頃の日本の熱気そのものだった。」としている。

 いやいや、ちょっと真面目に調べたらなんぼでも反対運動は拾えるでしょーよ。

 ということで河川を活用した首都高速道路建設に対する地元の反応等を紹介していきたい。

 

清水草一が知らない首都高反対の動き4

 1958(昭和38)年7月8日付朝日新聞が、築地川を干拓して首都高速道路を計画していることに反発する地元の声を報じている。

 首都高速道路公団法が成立したのが1959(昭和34)年4月、東京オリンピック開催決定が1959(昭和34)年5月なので、随分前から前哨戦を戦っていたことになる。(このことからも、「東京オリンピックが決まって5年しかないから川の上に高速道路を造った」ということが嘘だということもお分かりになるであろう。)

 東京都都市計画部は、築地川の埋め立てに反対する中央区民に対して 「流れのきたない築地川を残すのは都市美化の上から無意味」と対応しているあたりも興味深い。

 「景観や都市美を無視したから首都高を川の上に作った」というのも間違いで、それなりに都市美の理論は起業者側にあったわけである。それが現在に至るまでどう評価されたかは別にして。

清水草一が知らない首都高反対の動き

 中央区、港区の反対運動を報じる1959(昭和34)年2月23日付毎日新聞。単に「プロ市民」が騒いでいるのではなく、中央区議会、港区議会、渋谷区議会、品川区議会が反対の決議をしている。

清水草一が知らない首都高反対の動き2

 首都高の都市計画決定を報じる1959(昭和34)年8月8日付毎日新聞。

 注目すべきは「地元民が猛反対、昨年12月の同審議会で流産したいわくつきのもの」というところ。

 「首都高はオリンピックに間に合わせるために河川上に作ったというのは嘘と言ってよいのではないか-首都高日本橋附近の地下化関連(3)」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/--bdc4.htmlを書いたときに、2回に分けて都市計画決定を行っていることを知って、意外に思っていたのだが、地元の反発で流産していたとは。

 なお、この後に、都市計画に基づいて東京都道の認定手続きに入っているのだが、それに対しても複数の区から同意が得られなかったという異例の経緯をたどっている。

清水草一が知らない首都高反対の動き3

 1960(昭和35)年4月13日付読売新聞では、「高速道路をめぐる地元の要望 中央の5地区」ということで、中央区内から出た首都高速道路に対する地元要望について報じている。

 この中で注目すべきは「江戸川橋通り地区」から出ている「名橋「日本橋」の上をまたいで四号線が通るのは絶対反対」というところである。清水草一氏の言うように「当時それを批判する声はなかった」というのは事実と異なるのである。

 大事なところなので、他のソースからも。

首都高速の日本橋川に架かる高架橋のデザイン等  (10)

 「首都高速1・4号線の開通に当って」西畑正倫(元・首都高速道路公団理事)「高速道路と自動車」1964(昭和39)年9月号27頁から引用。

 言葉遣いは違うが、地元から日本橋附近を高架でとおることを反対されたということは首都高側としても公的に表明しているわけだ。

 ということで、清水草一氏は何を調べていたら「当時それを批判する声はなかった」と断言するほどの根拠を得たのであろうかと疑問に思うわけである。

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 ところで港区からの反対も上記で紹介したところだがもうちょっと深堀してみたい。

 首都高速2号線は、ご存知の通り古川の上をまたいで都心環状線から分岐していく。

 ここは、首都高速道路公団設立前に、日本道路公団によって首都高速の中で真っ先に工事着手した区間である。

JHが首都高を建設開始した

 結論から言うと、2号線は一番最初に工事着手しながら東京オリンピックに間に合わなかったのである。

 なお、東京オリンピック関係でいくと、日本道路公団の第三京浜道路も間に合わなかった。(玉川―京浜川崎のみ暫定2車線で間に合った。)

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 ところで、首都高速2号線と第三京浜の関係では、清水草一氏は、「第三京浜ってどうして安いの?玉川ICはなぜ中途半端なところにあるの?」http://autoc-one.jp/word/691238/において「首都高2号線は、昭和30年代までは第三京浜まで延長される構想でした。」なんて述べていたりするのだが、その辺も私のブログで考察しているので、あわせてお目通しいただくと幸甚である。

・第三京浜道路調査報告書を読む~玉川ICは、何故そこにあるのか?~http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/post-79c0.html

・清水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(1)http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/05/post-067b.html

・清水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(2)http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/05/post-4c24.html

・清水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(3)http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/05/post-4f1f.html

・清水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(4)http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/05/post-4f1f-1.html

・清水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(5)http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/05/post-e59d.html

・清水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(6)http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/05/post-fb53.html

清水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(7)http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/05/post-dc79.html

 

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【参考】過去に書いた首都高関係の記事

首都高の日本橋川区間のデザイン検討について-首都高日本橋附近の地下化関連(1)

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/--5ca7.html

マスコミは「首都高で日本橋の景観が損なわれた」って言うけど、作った当時は何て言ってたのさ-首都高日本橋附近の地下化関連(2)

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/--d6b7.html

首都高はオリンピックに間に合わせるために河川上に作ったというのは嘘と言ってよいのではないか-首都高日本橋附近の地下化関連(3)

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/--bdc4.html

産経抄が言うほど、山田正男は首都高を日本橋の下にできなかったことを心残りに思っていないんじゃないの-首都高日本橋附近の地下化関連(4)

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/--f613.html

清水草一氏は「当時それを批判する声はなかった」というがそれは明白な嘘-首都高日本橋附近の地下化関連(5)

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/--8d24.html

首都高と河川利用と景観

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/12/post-0a1e.html

首都高初期のパンフ「伸びゆく首都高速道路」

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-8798.html

首都高初期のパンフ「首都高速道路公団のあらまし」

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-2f3b.html

「東京道路奇景」(川辺謙一・著)を読んでいて「東京都市高速道路の建設について」に関心を持った方に全部見せちゃう。

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-c06b.html

森口将之氏「首都高速ではない首都高速? 無料で走れるKK線が生まれた理由」は勉強不足

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/kk-9f0e.html

首都高直結の八重洲地下駐車場の場所に新幹線の東京駅が入る計画があった

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/10/post-f1bf.html

東京五輪決定前の首都高速道路計画に係る考察~昭和33年4月10日衆議院建設委員会議事録を読む~

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/33410-1e35.html

昭和63年の首都高速道路計画

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/07/post-a2cf.html

昭和37年の首都高速道路将来計画

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/07/37-ddb3.html

昭和28年の首都高速道路計画

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/07/28-7e37.html

首都高大橋JCTと玉電

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/02/jct-3c08.html

第三京浜道路調査報告書を読む~玉川ICは、何故そこにあるのか?~

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/post-79c0.html

首都高速 大橋JCTの地下に潜ってきた

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/post-c87a.html

首都高速の料金所ブースの中はどうなっているのか

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-1667.html

首都高速道路高架下建物入居者募集中・大家さんは首都高?

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-0786.html

首都高速道路が三多摩地区を含まない理由

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-ee49.html

首都高速道路を当初建設着手したのは日本道路公団(JH)だった

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-a9d4.html

第3新東京市には首都高速が乗り入れているようだ

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/cat22398228/index.html

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2017年8月20日 (日)

産経抄が言うほど、山田正男は首都高を日本橋の下にできなかったことを心残りに思っていないんじゃないの-首都高日本橋附近の地下化関連(4)

 産経新聞「産経抄」に首都高の日本橋地下化の話が出ていた。

http://www.sankei.com/column/news/170810/clm1708100003-n1.html

【産経抄】無粋な建造物は昭和の技術者の記念碑

 ▼ただ、山田さんには心残りがあった。日本橋の上を通り、周辺の景観を損なってきた道路である。山田さんらは、川の干拓をして橋の下に通そうとしたが、河川管理サイドが認めなかった。地下を掘って高速を通す時間的余裕もなかった(『首都高物語』)。

 

【産経抄】 無粋な建造物は昭和の技術者の記念碑 8月10日

 山田さんというのはこの人。

山田正男

 まあ「山田天皇」といった方が早い方である。

 で「あれ、山田天皇は「心残り」なんて言うような殊勝な人だったんだっけ(失礼!)」と思い、検証してみた。

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 産経抄が引用していた「首都高物語」はこんな感じ。

首都高物語の山田正男コメント

 「本意ではなかった」とは書いてあるが「心残り」とは書いていない。なんていうか、事実関係として「当初の目論見どおりではなかった」とは読めても、「心残り」というほど残念な心情が入っているものかどうかわからない。

 また、その「心残り」が「周辺の景観を損なって」しまったことについての「心残り」かどうかもこの部分だけでは定かではない。

 「自分のやりたい工法ができなかった」とか「工費が余計にかかってしまった」という理由で「本意ではなかった」可能性もこの書き方では否定できない。

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 「首都高物語」の「主要参考文献」に

『山田正男氏ヒアリング』(首都高速道路公団資料、1994年)

とあるので、ここで具体のやりとりをしているのであろう。

 ところがこの資料が都立図書館等にもない。あくまでも首都高速の内部資料なのであろう。

 一方、都立図書館には「東京の都市計画に携わって : 元東京都首都整備局長・山田正男氏に聞く」という同種の本がある。代わりにこちらから関係個所の生のやり取りを抜粋してみる。

首都高速日本橋山田正男1

首都高速日本橋山田正男2

首都高速日本橋山田正男3

首都高速日本橋山田正男4

 えー、皆様どうでしょう。

 産経新聞のいうような、「周辺の景観を損なって」しまったことについての「心残り」感はくみ取れましたでしょうか?

 そんな人が「高速道路の景観はそんなにおかしいか」「見るだけのために構造物を造っているんじゃないからな」なんて言うでしょうか?

 

 道路元標にしても「つっかえるのは道路の限界を侵しているからだろう」と言っている。

 また、産経抄が「首都高物語」から引用しているような「地下を掘って高速を通す時間的余裕もなかった」という点については、聞き手が「当時あれを地下でいくみたいな話はでてもこなかったし、またできもしなかった。」と言い切っている。

 実際には、地元からトンネル化の要望は出ているのだが、東京都の首脳部としては「でてこなかった」レベルの話としか受け止められていなかったということなのだろうか?

 他方、帝国製麻のような古い赤煉瓦の建物には「敬意を表して避けて」いる。周囲に配慮していないということではないことなのだろう。

首都高速の日本橋川に架かる高架橋2

 「首都高速道路株式会社10年史」には、赤煉瓦の帝国製麻ビルを背景に桁を架設する当時の写真がおさめられている。

 ちなみに桁に「汽車會社」の名前が見える。本来は鉄道の機関車を造ったりするメーカーである。当時は高速道路の橋も造っていた。

 ※ 新幹線と二重になって東京駅へ向かう話が出てきているが、その辺は

「首都高直結の八重洲地下駐車場の場所に新幹線の東京駅が入る計画があった」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/10/post-f1bf.htmlをご覧いただければ。。。

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 ところで「地下を掘って高速を通す時間的余裕もなかった」とは確かに「首都高物語」にも書いてあるのだが、そもそも高架で通すことがオリンピック開催決定前に決まっていたという文献もある。

首都高速の日本橋附近は掘割型式で進めるはずだった3

首都高速道路のネットワーク形成の歴史と計画思想に関する研究」古川公毅・著 45頁から引用。

 ここで気になるのは、狩野川台風の水害を踏まえて、日本橋川部分は高架構造としていることである。明示されていないが、1958(昭和33)年12月までにはそのような決定がなされているものと読める。つまり、日本橋川を高架としたのは、1959(昭和34)年5月の東京オリンピック開催決定前であり、「東京オリンピックに間に合わせるために日本橋川部分を高架にした」というのは嘘ということになるのではないか。

 であれば、「東京オリンピックまで時間がなかったから日本橋川部分を高架にした。」のではなく、「東京オリンピック開催決定前に、治水面から日本橋川部分を高架にした。」ということになる。

 こんなツイートもいただいているところだ。

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 日本橋川以外の河川と首都高速道路については、山田正男氏はこんなことも述べているのでご参考まで。

首都高速日本橋山田正男6

 座談会「オリンピック準備態勢すべてO.K.」から「時の流れ・都市の流れ」524頁

 「世界中に都市内に高架道路が通っているなんて事例はない」などとおっしゃる方もいるが、山田正男は世界各国の紳士に自慢したいパリのような道路と思っているようだ。

首都高速日本橋山田正男5

 「東京の都市計画について」から「時の流れ・都市の流れ」514頁

 日本橋の上に高架橋を架けたことを「心残り」に思う人が、オリンピック後に神田川の上に高速道路造ろうと思うかなあ?

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 50年を経過し、山田氏も鬼籍に入られているなかで、確認するすべもないが、産経抄の書くことは素直には受け止められないものである。

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 ということで、「産経抄は嘘だ」とまでは言わないが、どうも怪しい。新聞の一面に載せるコラムを書くのだったら一次資料まで確認した方がよいのではないかということで。。。

 

(参考)

 関係文献を追えなかったので、ブログの記事には反映していないが、興味深い報文があるのでこちらも是非お目通しを。

「東京・日本橋川における首都高速道路の高架構造決定に至る背景について 」

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jshwr/28/0/28_100090/_pdf

「日本橋川における首都高速道路の上空占用に至る経緯」

http://www.kensetsu.metro.tokyo.jp/content/000021817.pdf

 著者は、東京都の職員の方のようだ。

 「平常時は高速道路として使用し,洪水時に道路封鎖して河道化する堀割案の導入を積極的に考えていたが,建設省河川局の反対に合い実現しなかった」などと魅力的なことを書いておられる。

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【参考】過去に書いた首都高関係の記事

首都高の日本橋川区間のデザイン検討について-首都高日本橋附近の地下化関連(1)

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/--5ca7.html

マスコミは「首都高で日本橋の景観が損なわれた」って言うけど、作った当時は何て言ってたのさ-首都高日本橋附近の地下化関連(2)

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/--d6b7.html

首都高はオリンピックに間に合わせるために河川上に作ったというのは嘘と言ってよいのではないか-首都高日本橋附近の地下化関連(3)

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/--bdc4.html

産経抄が言うほど、山田正男は首都高を日本橋の下にできなかったことを心残りに思っていないんじゃないの-首都高日本橋附近の地下化関連(4)

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/--f613.html

清水草一氏は「当時それを批判する声はなかった」というがそれは明白な嘘-首都高日本橋附近の地下化関連(5)

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/--8d24.html

首都高と河川利用と景観

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/12/post-0a1e.html

首都高初期のパンフ「伸びゆく首都高速道路」

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-8798.html

首都高初期のパンフ「首都高速道路公団のあらまし」

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-2f3b.html

「東京道路奇景」(川辺謙一・著)を読んでいて「東京都市高速道路の建設について」に関心を持った方に全部見せちゃう。

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-c06b.html

森口将之氏「首都高速ではない首都高速? 無料で走れるKK線が生まれた理由」は勉強不足

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/kk-9f0e.html

首都高直結の八重洲地下駐車場の場所に新幹線の東京駅が入る計画があった

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/10/post-f1bf.html

東京五輪決定前の首都高速道路計画に係る考察~昭和33年4月10日衆議院建設委員会議事録を読む~

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/33410-1e35.html

昭和63年の首都高速道路計画

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/07/post-a2cf.html

昭和37年の首都高速道路将来計画

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/07/37-ddb3.html

昭和28年の首都高速道路計画

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/07/28-7e37.html

首都高大橋JCTと玉電

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/02/jct-3c08.html

第三京浜道路調査報告書を読む~玉川ICは、何故そこにあるのか?~

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/post-79c0.html

首都高速 大橋JCTの地下に潜ってきた

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/post-c87a.html

首都高速の料金所ブースの中はどうなっているのか

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-1667.html

首都高速道路高架下建物入居者募集中・大家さんは首都高?

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-0786.html

首都高速道路が三多摩地区を含まない理由

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-ee49.html

首都高速道路を当初建設着手したのは日本道路公団(JH)だった

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-a9d4.html

第3新東京市には首都高速が乗り入れているようだ

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/cat22398228/index.html

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2017年8月19日 (土)

首都高はオリンピックに間に合わせるために河川上に作ったというのは嘘と言ってよいのではないか-首都高日本橋附近の地下化関連(3)

 前の記事で、2017(平成29)年7月30日付の読売新聞社説「首都高地下化 日本橋の景観を取り戻そう」を取り上げたところである。

 そこにこんな記事がある。

首都高日本橋 (1)

 「首都高の整備を翌年の東京五輪に間に合わせるため、用地取得の手間や費用を省ける河川上のルートが採用されたためだ。」とある。

オリンピックに関係なく首都高は川の上だった

 ところで、1957(昭和32)年9月29日付の読売新聞は、上記のように「都内に高架道路の網」「川の上や二階建」と報じている。

 ちなみに東京オリンピックが決定したのは、1959(昭和34)年5月26日である。

 あれれ?順番が違いませんかねえ?

 念のために読売以外の新聞も見てみよう。

オリンピックに関係なく首都高は川の上だった2

 1957(昭和32)年8月16日付朝日新聞も同様の趣旨の記事を掲載している。

 「できるだけ既設の幹線道路や河川等公有地の上に建設」とあるし、「東京高速度道路計画図」も現在の路線図と似ている(よく見ると違うところはあるが。)。

 つまりオリンピック決定の約2年前に河川上を活用した首都高の路線は概ね固まっていたということである。

 ええっ、まさか「日本のクオリティペーパー」、天下の読売新聞様が嘘、しかも自社が過去に報じたことと違うことを社説で書いているの??

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ざくっと時系列を整理してみよう。

・1953(昭和28)年4月 首都建設委員会勧告「首都高速道路に関する計画」

→今とは全然違う路線網http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/07/28-7e37.html

 

・1956(昭和31)年11月 日本道路公団 東京調査事務所を設置

→都市高速道路の調査を開始

 

・1957(昭和32)年7月 建設省「東京都市計画都市高速道路に関する基本方針」

→河川や公有地の活用方針

 

・1957(昭和32)年8月 東京都市計画地方審議会「高速道路調査特別委員会」設置

→上記新聞記事 当初の路線の原型。

 

・1957(昭和32)年12月 東京都市計画地方審議会「高速道路調査特別委員会」東京都知事へ報告書提出

→当初の路線がほぼ固まる

 

・ 1958(昭和33)年4月 衆議院建設委員会「都内高速度道路整備計画に関する件」

→「経過地に当っては不利用地、治水、利水上の支障のない河川、または運河を使用して、やむを得ざる場合だけが幅員四十メートルの道路に設置する」と答弁http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/028/0120/02804100120023a.html

 

・1958(昭和33)年4月 日本道路公団が「東京高速道路」西戸越~銀座間(現在の2号線等の一部)を翌年度に着手との新聞記事

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-a9d4.html

 

・1959(昭和34)年1月 首都高速道路公団法案 閣議決定

 

・1959(昭和34)年2月 日本道路公団が西戸越~銀座間の工事に着手

 

・1959(昭和34)年4月 首都高速道路公団法 成立

 

・1959(昭和34)年5月 東京オリンピック開催決定

 

・1959(昭和34)年6月 首都高速道路公団 発足

 

・1959(昭和34)年8月 首都高速道路公団 当初計画71km都市計画決定

 

・1964(昭和39)年10月 東京オリンピック開催

 

 とまあ、こんな感じである。オリンピック決定のはるか前に河川活用を決め、首都高速道路公団ができる前に日本道路公団が工事着手していたというのが実態であるのだ。

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 ここから上記の時系列について詳細な資料を提示していきたい。

・1953(昭和28)年4月 首都建設委員会勧告「首都高速道路に関する計画」

→今とは全然違う路線網http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/07/28-7e37.html

昭和28年の首都高速道路網図

 

・1956(昭和31)年11月 日本道路公団 東京調査事務所を設置

→首都公団ではなく、日本道路公団が首都高速道路の調査を開始した。

http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/m_jsce/41-12/41-12-003.pdf の「土木学会誌」昭和31年12月号60頁を参照されたい。

 

・1957(昭和32)年7月 建設省「東京都市計画都市高速道路に関する基本方針」

→河川、運河や公有地を活用した路線の経過地の選定を行う方針が建設省により決定された。

首都高が河川を活用することはオリンピック決定よりずっと前に決定

「東京都市高速道路の建設について」から引用。詳細はhttp://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-c06b.html

 

・1957(昭和32)年8月 東京都市計画地方審議会「高速道路調査特別委員会」設置

→1957(昭和32)年8月16日付朝日新聞に当初の路線の原型が掲載されている。

オリンピックに関係なく首都高は川の上だった2

 記事中にも「できるだけ既設の幹線道路や河川など公有地の上に建設」とある。

 

・1957(昭和32)年12月 東京都市計画地方審議会「高速道路調査特別委員会」東京都知事へ報告書提出

→当初の路線がほぼ固まる

首都高速の日本橋附近は掘割型式で進めるはずだった

 「東京都市高速道路の建設について」から引用。4以降の附帯意見等、詳細はhttp://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-c06b.html

 日本橋川附近については「神田川との治水上の関連を慎重に検討のうえ可能ならば河床を通すこととし、もし困難な場合は高架方式又はその他の方法を検討し採用する。」とされた。

 なお、この特別審査委員会の審議においては、下記のような経緯があった。

首都高速の日本橋附近は掘割型式で進めるはずだった2

 「首都高速道路のネットワーク形成の歴史と計画思想に関する研究」古川公毅・著 45頁から引用。

首都高速道路の初期計画路線網

 1958年(昭和33年)4月4日付読売新聞

 「4割は川上を走らせる」とある。

 

・ 1958(昭和33)年4月 衆議院建設委員会「都内高速度道路整備計画に関する件」

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/33410-1e35.html

○藤本参考人(藤本勝満露東京都建設局長) 経過地に当っては不利用地、治水、利水上の支障のない河川、または運河を使用して、やむを得ざる場合だけが幅員40mの道路に設置する、建前としては道路上には設置しないように(略)

物件移転費という欄の一番下の欄をごらんいただきますと、878という数字が出ております。これは移転棟数の合計でございます。これだけの事業をいたしますのに、移転棟数がともかく千棟以下であるという点については、やはりできるだけ民有地あるいは民家というような面において御迷惑を少くするという配慮をいたした一つの現われだと存ずるのであります。

  「五輪に間に合わせるために」ではなく、「民家への迷惑を少なくするために」水路等を活用していると言えるのではないか。当時の国会では「高速道路建設による耕地の潰れを最小限におさえよ」といった議論も多く見られた。敗戦後まもなく、食糧生産や国民の生活維持がまだまだ政策の中でも重要な位置を占めていた時代であり、ある意味「(景観よりも)人(の生活)にやさしい」道路だったのではないだろうか 。

 

1958(昭和33)年4月 日本道路公団が「東京高速道路」西戸越~銀座間(現在の2号線等の一部)を翌年度に着手との新聞記事

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-a9d4.html

読売19580429

 1958年(昭和33年)4月29日付読売新聞

 

・1959(昭和34)年1月 首都高速道路公団法案 閣議決定

首都高速道路公団法閣議決定
 1959(昭和34)年1月30日付朝日新聞

 

・1959(昭和34)年2月 日本道路公団が西戸越~汐留間の工事に着手

JHが首都高を建設開始した

 官報から

 「首都高速は、東京オリンピックのために羽田と都心を結ぶ路線から建設された」というのは嘘なのである。

 (本区間については、首都高速道路公団発足後に、日本道路公団から引き継がれている。なお、オリンピックには間に合わんかった模様。)

 

・1959(昭和34)年4月 首都高速道路公団法 成立

 

・1959(昭和34)年5月 東京オリンピック開催決定

東京オリンピックと道路

1959(昭和34)年5月27日付読売新聞

 

・1959(昭和34)年6月 首都高速道路公団 発足

 

・1959(昭和34)年8月 首都高速道路公団 当初計画71km都市計画決定

 

首都高速の日本橋附近は掘割型式で進めるはずだった3

 「首都高速道路のネットワーク形成の歴史と計画思想に関する研究」古川公毅・著 45頁から引用。

 ここで気になるのは、狩野川台風の水害を踏まえて、日本橋川部分は高架構造としていることである。明示されていないが、1958(昭和33)年12月までにはそのような決定がなされているものと読める。つまり、日本橋川を高架としたのは、東京オリンピック開催決定前であり、「東京オリンピックに間に合わせるために日本橋川部分を高架にした」というのは嘘ということになるのではないか。

首都高速の日本橋川に架かる高架橋のデザイン等  (10)

「首都高速1・4号線の開通に当って」西畑正倫(元・首都高速道路公団理事)「高速道路と自動車」1964(昭和39)年9月号27頁から引用。

 「河積の確保のための高架」という意味では、こちらとも平仄があう。

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 こんな感じで見ていくと、東京蘊蓄本にもいい加減なものが多いことが分かる。

三浦展ってアホか

 これは三浦展氏の「昭和「娯楽の殿堂」の時代」の107~108頁であるが、オリンピックに至る首都高の経緯はデタラメであることがお分かりになるであろう。

 また、数寄屋橋の高速道路は昭和20年代の石川栄耀局長のころに立案され、都政七不思議のひとつに数えられた東京高速道路株式会社線(KK線)であって、オリンピックとは一切関係ない。「東京人」御用達文化人だからといって東京の歴史等に詳しいとは限らないようだ。

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 尤も、行政の計画の順番がオリンピック以前に決定したものであったとしても、それは役所の中だけの理屈であって、オリンピックまでに竣工するためには、関係者の理解を得る必要がある。

 そのために「空中作戦」といった広く社会に事業理解を得るためのストーリーはそれはそれとして必要であっただろうこととは想像に難くないし、それ自体を悪く言うつもりはない。

 ただ、歴史として把握する部分と行政を円滑に進めるためのストーリーは峻別しておさえる必要があるだろう。

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 ところで、オリンピックに間に合わせるために河川上に作ったというなら、オリンピック終了後の計画は河川上には作らない可能性が高い。なんせそう急がなくてもいいはずだから。

 ところが、実際にはオリンピック終了後も河川上に首都高速道路は計画されていた。

首都高速道路内環状線

 神田川の上に首都高速道路内環状線が計画されている。これが出来ていれば箱崎や竹橋の渋滞はもっと緩和されているはずだったのだ。これが実現できなかった理由は不勉強にして知らない。

※ この図面全体がご覧になりたい方はhttp://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/07/37-ddb3.htmlへ。

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【参考】過去に書いた首都高関係の記事

首都高の日本橋川区間のデザイン検討について-首都高日本橋附近の地下化関連(1)

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/--5ca7.html

マスコミは「首都高で日本橋の景観が損なわれた」って言うけど、作った当時は何て言ってたのさ-首都高日本橋附近の地下化関連(2)

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/--d6b7.html

首都高はオリンピックに間に合わせるために河川上に作ったというのは嘘と言ってよいのではないか-首都高日本橋附近の地下化関連(3)

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/--bdc4.html

産経抄が言うほど、山田正男は首都高を日本橋の下にできなかったことを心残りに思っていないんじゃないの-首都高日本橋附近の地下化関連(4)

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/--f613.html

清水草一氏は「当時それを批判する声はなかった」というがそれは明白な嘘-首都高日本橋附近の地下化関連(5)

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/--8d24.html

首都高と河川利用と景観

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/12/post-0a1e.html

首都高初期のパンフ「伸びゆく首都高速道路」

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-8798.html

首都高初期のパンフ「首都高速道路公団のあらまし」

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-2f3b.html

「東京道路奇景」(川辺謙一・著)を読んでいて「東京都市高速道路の建設について」に関心を持った方に全部見せちゃう。

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-c06b.html

森口将之氏「首都高速ではない首都高速? 無料で走れるKK線が生まれた理由」は勉強不足

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/kk-9f0e.html

首都高直結の八重洲地下駐車場の場所に新幹線の東京駅が入る計画があった

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/10/post-f1bf.html

東京五輪決定前の首都高速道路計画に係る考察~昭和33年4月10日衆議院建設委員会議事録を読む~

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/33410-1e35.html

昭和63年の首都高速道路計画

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/07/post-a2cf.html

昭和37年の首都高速道路将来計画

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/07/37-ddb3.html

昭和28年の首都高速道路計画

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/07/28-7e37.html

首都高大橋JCTと玉電

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/02/jct-3c08.html

第三京浜道路調査報告書を読む~玉川ICは、何故そこにあるのか?~

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/post-79c0.html

首都高速 大橋JCTの地下に潜ってきた

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/post-c87a.html

首都高速の料金所ブースの中はどうなっているのか

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-1667.html

首都高速道路高架下建物入居者募集中・大家さんは首都高?

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-0786.html

首都高速道路が三多摩地区を含まない理由

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-ee49.html

首都高速道路を当初建設着手したのは日本道路公団(JH)だった

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-a9d4.html

第3新東京市には首都高速が乗り入れているようだ

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/cat22398228/index.html

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マスコミは「首都高で日本橋の景観が損なわれた」って言うけど、作った当時は何て言ってたのさ-首都高日本橋附近の地下化関連(2)

 首都高の日本橋川附近の地下化構想をめぐって、さも当然と言わんばかりに、多くのマスコミも論説を繰り広げた。

 その一例として2017(平成29)年7月30日付の読売新聞社説を抜粋してみる。

首都高日本橋 (2)

首都高日本橋 (1)

 なんかご高説なのだが、では建設時の読売新聞はどう言っているかというと、前の記事でも触れたが、1962(昭和37)年12月24日付読売新聞では、

首都高速の日本橋川に架かる高架橋のデザイン等  (13)

首都高速の日本橋川に架かる高架橋のデザイン等  (12)

 首都高は「スマート」だ「モダン」だ、日本橋は「感傷」だと述べている。

 単発の記事だけだと、そのときの記者とデスクの一回限りのものかもしれない。

 1962(昭和37)年1月25日付読売新聞夕刊では

河川活用による高速道路建設

・「首都高の河川敷利用が少ないため用地買収等に必要以上の経費がかかっている」

・「河川が不要になったら干拓して掘割式の自動車道路を建設したり、河川を廃止できなくても高架の自動車道路を建設したりするのが世界各国の大都市における実情」

・「一日も早い道路整備が必要」

と主張しているのである。首都高建設当時の読売新聞は。

 で、こんなツイートをしたら

「50年前の主張を持ってくるのは流石に。。」とか「国鉄の分割民営化の際にブルートレインは廃止しないと言ったじゃないかというのと同レベルじゃないか。。」といったたしなめのお言葉を頂戴した。(ご心配ご迷惑をおかけして申し訳ございません。)

 最高裁の判例ですら時とともに変更されることはあるので、社会の価値観が変わればマスコミの主張が変わることもあるのは十分理解しているつもりである。

 ただ、一言「当社も昔はそう思っていたが、社会の価値観も変わり、当社も認識を新たにした」という趣旨のことを入れていれば問題ないと思うのだが、何も言わずに、さぞ首都高の建設当初から自分たちは景観を重視していたかのような論説には違和感を覚えるのである。

 なーにが「うなずける」だよ。

 これは個人の好き嫌いのレベルの話なので、別に賛同いただかなくても結構なのだが、便所の落書きと思ってご容赦いただければ幸甚である。

SONY ベータマックス

 ええ、ベータマックスがなくなっても、顧客がいなくなったんだからウソつきとは申しません。(まさか、ビデオデッキ自体がなくなるとは当時も想像つかなかっただろうなあ。)

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 別に読売新聞だけを個別攻撃したいのではなく、当時のマスコミの主張はそんなものだったということで。

日本橋川をふさぐ首都高を「美しい曲線」とする朝日新聞 (1)

 東京オリンピック開催を間近に控えた1964(昭和39)年1月1日の朝日新聞の正月特集の一面で日本橋川を塞ぐ首都高の写真を国立競技場よりも大きな写真で紹介している。

日本橋川をふさぐ首都高を「美しい曲線」とする朝日新聞 (2)

 「ビルの谷間に美しい曲線を描く江戸橋インターチェンジ」である。日本橋川は「ビルの谷間」で首都高は「美しい曲線」なのである。

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 こちらは、首都高速ではなくて、東京高速道路株式会社(KK線)が外濠川を埋め立ててしまったときの話なのだが、地元が埋め立て反対として外濠川にて水上デモを行った際の1954(昭和29)年10月2日付朝日新聞夕刊

数寄屋橋埋立につれない朝日新聞

 「何しろネコやネズミの死ガイをはじめ、ありとあらゆる都会のゴミ捨て場の”川”のこと、オールさばきのたびに悪臭プンプンとあって、数寄屋橋上の見物人は鼻をつまんでいた。」とある。当時朝日新聞本社は数寄屋橋にあったので、日々そのような目で外堀川を見ていたのであろう。

 読売新聞も、日本橋川のことを「ドブ川」と報じている。

日本橋川はドブ川と報じる読売新聞

 1966(昭和41)年4月7日付読売新聞から

 こういう汚くて臭い川を埋めてしまうことこそが当時求められていた都市美と考えていた人もいたということなのであろうか。

 築地川の干拓に反対する地元中央区住民に対して東京都は「流れの汚い築地川を残すのは都市美化の考え方から無意味」と対応していることが興味深い。

首都高と都市美

 1958(昭和33)年7月8日付朝日新聞から

数寄屋橋埋立につれない学識者

 多摩美大、金沢美工大等の学者も数寄屋橋取壊しを支持していたと報じる1956(昭和31)年4月5日付読売新聞。

 

 世論も変われば美的センスも時代によってうつろっているのである。そういう背景を整理したうえで物事を判断してもよいのではないか。

 単純に「経済効率最優先だった」と切って捨てるのは浅はかであろう。

首都高速の日本橋川に架かる高架橋

 この写真は「首都高速道路株式会社10年史」から引用

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【参考】過去に書いた首都高関係の記事

首都高の日本橋川区間のデザイン検討について-首都高日本橋附近の地下化関連(1)

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/--5ca7.html

マスコミは「首都高で日本橋の景観が損なわれた」って言うけど、作った当時は何て言ってたのさ-首都高日本橋附近の地下化関連(2)

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/--d6b7.html

首都高はオリンピックに間に合わせるために河川上に作ったというのは嘘と言ってよいのではないか-首都高日本橋附近の地下化関連(3)

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/--bdc4.html

産経抄が言うほど、山田正男は首都高を日本橋の下にできなかったことを心残りに思っていないんじゃないの-首都高日本橋附近の地下化関連(4)

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/--f613.html

清水草一氏は「当時それを批判する声はなかった」というがそれは明白な嘘-首都高日本橋附近の地下化関連(5)

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/--8d24.html

首都高と河川利用と景観

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/12/post-0a1e.html

首都高初期のパンフ「伸びゆく首都高速道路」

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-8798.html

首都高初期のパンフ「首都高速道路公団のあらまし」

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-2f3b.html

「東京道路奇景」(川辺謙一・著)を読んでいて「東京都市高速道路の建設について」に関心を持った方に全部見せちゃう。

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-c06b.html

森口将之氏「首都高速ではない首都高速? 無料で走れるKK線が生まれた理由」は勉強不足

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/kk-9f0e.html

首都高直結の八重洲地下駐車場の場所に新幹線の東京駅が入る計画があった

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/10/post-f1bf.html

東京五輪決定前の首都高速道路計画に係る考察~昭和33年4月10日衆議院建設委員会議事録を読む~

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/33410-1e35.html

昭和63年の首都高速道路計画

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/07/post-a2cf.html

昭和37年の首都高速道路将来計画

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/07/37-ddb3.html

昭和28年の首都高速道路計画

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/07/28-7e37.html

首都高大橋JCTと玉電

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/02/jct-3c08.html

第三京浜道路調査報告書を読む~玉川ICは、何故そこにあるのか?~

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/post-79c0.html

首都高速 大橋JCTの地下に潜ってきた

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/post-c87a.html

首都高速の料金所ブースの中はどうなっているのか

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首都高速道路高架下建物入居者募集中・大家さんは首都高?

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首都高速道路が三多摩地区を含まない理由

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首都高速道路を当初建設着手したのは日本道路公団(JH)だった

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-a9d4.html

第3新東京市には首都高速が乗り入れているようだ

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2017年8月17日 (木)

首都高の日本橋川区間のデザイン検討について-首都高日本橋附近の地下化関連(1)

 細かく引用しなくても大丈夫だと思うが、最近首都高の日本橋周辺の地下化の話題がいろいろ出ている。

 で、首都高の日本橋附近が景観を無視しているとか無粋だとかなんとか言われたりもしているので、例の如く当時の資料から実際にはどのように進められてきたかを検証してみる。

 

 このブログでは何度も出しているネタだが一応おさらいで。

 もともと日本橋川は高架ではなく、1号線の都心区間のように川底を走ることを検討していた。

首都高速の日本橋附近は掘割型式で進めるはずだった

 「東京都市高速道路の建設について」(1959年4月 東京都・刊)から抜粋。

 全体をご覧になりたい方は、http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-c06b.htmlをご参照されたい。

 ところが、神田川の治水上、日本橋川を干拓することはできず、現在のように高架を日本橋川上空に架けることとなった。

首都高速の日本橋川に架かる高架橋のデザイン等  (10)

 「首都高速1・4号線の開通に当って」西畑正倫(元・首都高速道路公団理事)「高速道路と自動車」1964(昭和39)年9月号27頁から引用。

 当時から地元の地下化要望はあったようだ。地下化については、工期や技術的な問題ではなく「日本橋川の河積を狭めることは殆ど不可能」なのでできなかったとしている。

 ところで、日本橋川附近の施工にあたってデザイン等はどのように考慮されていたのか?

 それを順次紹介したい。

 首都高速道路公団では線形が決定した1960年12月橋梁設計会社20社から「このインターチェンジ(※引用者注:当時の首都高速の「インターチェンジ」は、現在の「ジャンクション」を意味する。)を如何なる構造にすべきか?」広くアイデアを募り,構造型式選定の資料とした。

 

 「江戸橋インターチェンジについて」西野祐治郎・和田宏造・前田邦夫「道路」1964年7月号517頁から引用

 その募集に応じたアイデアのうちの幾つかが「日本橋及び江戸橋周辺の高速道路について」西野 祐治郎・前田 邦夫「道路」1961年6月号427頁以降に掲載されている。

首都高速の日本橋川に架かる高架橋のデザイン等  (2)

 「地元の要望」がなければ道路元標等を「取壊し」していた可能性があったのか気になるところではある。

首都高速の日本橋川に架かる高架橋のデザイン等  (3)

首都高速の日本橋川に架かる高架橋のデザイン等  (5)

首都高速の日本橋川に架かる高架橋のデザイン等  (4)

首都高速の日本橋川に架かる高架橋のデザイン等  (6)

 この「写真-6」のアーチ橋は、「道路」1964年7月号517頁によると「好評を得た」とのことである。こんな風に豪快なアーチ橋も思い切っていてよいものだ。

 以下の案は、「道路」1961年6月号431頁によると「高架橋のファンタジー」として提出されたものということだ。

首都高速の日本橋川に架かる高架橋のデザイン等  (7)

首都高速の日本橋川に架かる高架橋のデザイン等  (8)

ガラスブロックで採光をよくするというアイデア。

首都高速の日本橋川に架かる高架橋のデザイン等  (9)

 モノレール計画などなかったはずだが、モノレールとの合築案。

首都高速の日本橋川に架かる高架橋のデザイン等  (14)

首都高速の日本橋川に架かる高架橋のデザイン等  (13)

首都高速の日本橋川に架かる高架橋のデザイン等  (12)

 首都高が日本橋の上に架かることを報じる1962(昭和37)年12月24日付読売新聞

 「橋脚や街燈は原型損なわない」という見出しに 「感傷も吹き飛ばすように工事が近づいてきた日本橋」「スマートになる完成予想図」というキャプションがついている。

 当時の読売にとっては、日本橋なんかは感傷にすぎなかったと。

首都高速の日本橋川に架かる高架橋のデザイン等  (11)

 「首都高速 記念切手」の画像検索結果

首都高速の日本橋川に架かる高架橋のデザイン等  (1)

 首都高開通の記念切手と風景印(特殊通信日附印)は、首都高が日本橋を覆いかぶさっているところを採用している。

 そういう風景を前向きに捉えている時代の雰囲気があったことは間違いないと思うのだ。(当時から反対していた人がいたのは前述のとおりだが。)

 発足当時の首都公団の構造コンセプトは、東京に全く新しい景観を造る意気込みでスマートな構造となるよう桁や橋脚はできるだけスレンダーに設計することであった。(中略)筆者も担当した赤坂見附の高架橋などはそれ以前の橋梁とは全くことなる景観を構成している。

 

「首都高速道路の誕生と発展に参画して」横浜国立大学名誉教授 池田尚治 「東海道新幹線と首都高 1964東京オリンピックに始まる50年の軌跡」土木学会発行  169頁

 

 特に、河川内にスレンダーな丸い橋脚と首都を象徴する立体マルチ交差の高架橋で形成される江戸橋JCTは、土木技術の醍醐味と神秘的で魅力的な流線型を醸し出している。

 

「半世紀の土木技術財産を活かした次世代への舵の方向性首」琉球大学准教授 下里哲弘 「東海道新幹線と首都高 1964東京オリンピックに始まる50年の軌跡」土木学会発行  156頁

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【参考】過去に書いた首都高関係の記事

首都高の日本橋川区間のデザイン検討について-首都高日本橋附近の地下化関連(1)

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/--5ca7.html

マスコミは「首都高で日本橋の景観が損なわれた」って言うけど、作った当時は何て言ってたのさ-首都高日本橋附近の地下化関連(2)

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/--d6b7.html

首都高はオリンピックに間に合わせるために河川上に作ったというのは嘘と言ってよいのではないか-首都高日本橋附近の地下化関連(3)

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/--bdc4.html

産経抄が言うほど、山田正男は首都高を日本橋の下にできなかったことを心残りに思っていないんじゃないの-首都高日本橋附近の地下化関連(4)

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/--f613.html

清水草一氏は「当時それを批判する声はなかった」というがそれは明白な嘘-首都高日本橋附近の地下化関連(5)

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首都高と河川利用と景観

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首都高初期のパンフ「伸びゆく首都高速道路」

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首都高初期のパンフ「首都高速道路公団のあらまし」

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「東京道路奇景」(川辺謙一・著)を読んでいて「東京都市高速道路の建設について」に関心を持った方に全部見せちゃう。

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森口将之氏「首都高速ではない首都高速? 無料で走れるKK線が生まれた理由」は勉強不足

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首都高直結の八重洲地下駐車場の場所に新幹線の東京駅が入る計画があった

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東京五輪決定前の首都高速道路計画に係る考察~昭和33年4月10日衆議院建設委員会議事録を読む~

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昭和63年の首都高速道路計画

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昭和37年の首都高速道路将来計画

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昭和28年の首都高速道路計画

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首都高大橋JCTと玉電

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/02/jct-3c08.html

第三京浜道路調査報告書を読む~玉川ICは、何故そこにあるのか?~

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首都高速 大橋JCTの地下に潜ってきた

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首都高速の料金所ブースの中はどうなっているのか

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首都高速道路高架下建物入居者募集中・大家さんは首都高?

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首都高速道路が三多摩地区を含まない理由

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首都高速道路を当初建設着手したのは日本道路公団(JH)だった

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第3新東京市には首都高速が乗り入れているようだ

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2017年8月 5日 (土)

明石海峡大橋に鉄道が建設されなかった経緯等

 これは本四高速の明石海峡大橋の車道の下の管理用通路の部分である。

 先日、ここの写真をTwitterにUPしたところ、「新幹線が通るはずだったところ」といった指摘をいただいたので、ちょっとその辺の経緯を調べてみた。

明石海峡大橋に鉄道(新幹線)が建設されなかった経緯 (8)

 まずは、調査の経緯から。国鉄→鉄道建設公団による鉄道の調査と建設省→日本道路公団による道路の調査が並行して行われている。これが本州四国連絡橋公団が設立されて一本化されたわけだ。

 明石海峡大橋部分の鉄道(本四淡路線)の調査は、1950(昭和30)年4月に開始されている。

明石海峡大橋に鉄道(新幹線)が建設されなかった経緯 (9)

 本四公団設立にあわせて鉄道と道路の基本計画(調査)指示がなされている。

 そして1972(昭和47)年に本四公団から調査報告書が出ているのだが、そのうち明石海峡大橋に係る部分を抜粋してみる。

明石海峡大橋に鉄道(新幹線)が建設されなかった経緯 (4)

明石海峡大橋に鉄道(新幹線)が建設されなかった経緯 (6)

 冒頭にUPした動画の管理用通路のところに複線の鉄道が予定されていたことが分かる。(当然構造は異なるが。)

明石海峡大橋に鉄道(新幹線)が建設されなかった経緯 (5)

 「図2」を見ると「鉄道(本四淡路線)」と「鉄道(新幹線)」の2種類のルートが引いてあるのが分かるが、当時は在来線か新幹線かどちらかになるかが決まっていなかったため両論併記となっていたということだろうか。

(新幹線が徳島市内に入らず、高徳本線吉成駅あたりに接続しているように見えるのも興味深い。世が世であればここが新幹線の「新徳島駅」だったのだろうか?)

※ ここまでの図面や文章の引用元は、「道路」1973年1月号「本州四国連絡橋の計画」本州四国連絡橋公団。

 ここまで見ると、今にでも明石海峡を新幹線が通りそうなものだが、実際には技術的なハードルは高かったようだ。

明石海峡大橋に鉄道(新幹線)が建設されなかった経緯 (2)

 「道路」1985年6月号「大鳴門橋の開通にあたって思う」村上永一・著によれば上記のように「明石海峡大橋の架橋の困難さは他の橋梁に較べて格段の差があった。」「早期に完成すべき道路鉄道併用ルートを選ぶとすれば,児島・坂出ルートなりと受け止めてもよい。」としている。

 そこにオイルショックによる工事中止や国鉄改革等が重なった。1981(昭和56)年には、社会経済情勢、国鉄の財政事情等を勘案し、関係省庁協議のうえ「道路単独橋の可能性等」を本四公団に検討させており、「道路単独橋は「技術的にも採算性の面からも可能」との報告が大鳴門橋開通の2か月前となる1985(昭和60)年4月に行われている。

明石海峡大橋に鉄道(新幹線)が建設されなかった経緯 (1)

 「道路」1985年6月号「最盛期を迎えた本州四国連絡橋」花市 頴悟(本州四国連絡橋公団企画開発部長)著

 ここで興味深いのは神戸・鳴門ルートに建設するはずだった鉄道利用客が道路に転換することで道路の利用客が増えて採算性が取れるようになるという点である。巷間言われるように「予算削減するために鉄道をやめた」のではなくて、「41%(11%は誤植と思われ)費用負担するはずだった鉄道が「撤退する」って言ってるけど、道路単独の費用負担でペイできるかどうか」の検討をしたのではないか?

明石海峡大橋に鉄道(新幹線)が建設されなかった経緯 (7)

 「道路」1986年4月号「大規模プロジェクトの新たな展開」溝口忠(建設省道路局有料道路課建設専門官)著 によると、本四公団からの調査結果の報告を受けて、1985(昭和60)年8月に、国土庁長官、建設大臣、運輸大臣による道路単独橋として整備する方針が合意されている。

 

 これだけだと、政治的、経済的理由で鉄道の建設を取りやめたように見えるが、前述のとおり技術面でも厳しい部分があったようだ。

伊東 鉄道をやめたのはどんな理由なのですか。当初、三橋とも鉄道が併設されるという話でしたね。

井上 西は違っていたと思います、鉄道はなし。

伊東 真ん中と明石海峡。

井上 それで、真ん中ももうできましたし、鉄道もできていますが、東の明石海峡をやめたのは、やはりあれだけの長大吊り橋になると、 たわみが大きくて、吊り橋のジョイントというのか、あそこで非常に危険があるというようなのが最後の決め手になったみたいでやめましたけれども。

伊東 技術的な理由で。

井上 ええ。まあ、克服できないものではないと思いますがね。あそこしかないとなったらやるでしょうけれどもね。鉄道もあそこはあきらめるということで、割にすんなりといきました。

 

土木史研究におけるオーラルヒストリー手法の活用とその意義:高速道路に焦点をあてて

井上孝氏(元建設省事務次官・元参議院議員・元国土庁長官)

 鉄道橋を明石海峡に架けるのが難しいのなら、鉄道単独でトンネルを掘ればよいと思う方もいらっしゃるかもしれないが、それもまた難しいようだ。

伊東 明石海峡大橋を鉄道は通さないことにして、あと別ルートを考えるとすれば、どんなことが今考えられているのですか。

山根 トンネルにする案では、水深一○○mの明石海峡の下をトンネルで通っても、明石海峡大橋に乗せても、鉄道の規格にもよりますが、 神戸の駅に取り付かないのですね。

伊東 そうなのですか。たわみがすごくなるということですか。

山根 そうではなくて。

伊東 取り付けの問題なのですか。

山根 そうです。方法としては紀淡海峡を抜ける案が考えられます。

伊東 経営上はどうですか。

山根 備讃線でもう精一杯ではないでしようか。備讃線でさえ止めようと話が出たくらいですから。

 

土木史研究におけるオーラルヒストリー手法の活用とその意義:高速道路に焦点をあてて

山根孟氏(元建設省道路局長・元本州四国連絡橋公団総裁)

 山根氏のいう「備讃線でさえ止めようと話が出たくらいですから。」については、以前ブログで記事を書いたので参照されたい。

「JR30周年記念:国鉄改革で本四備讃線(瀬戸大橋線)は建設中止になるはずだった!?」

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/04/jr30-0cd3.html

 つまり、技術的にも採算的にも神戸・鳴門ルートの鉄道は困難だったということか。

瀬戸大橋 (2)

 「明石海峡大橋に鉄道を架設しなかったのはけしからん」、「大鳴門橋の鉄道投資が無駄になった」等との話をよく目にするが、実際には大鳴門橋建設中に「やっぱ鉄道やめよっかな」という話になっていた。

明石海峡大橋に鉄道(新幹線)が建設されなかった経緯 (3)

 これは「道路」1985年6月号に掲載された「大鳴門橋の建設を振り返って」という対談からの抜粋である。

 発言しているのは、布施洋一(建設省道路局高速道路課長)、遠藤武夫(本州四国連絡橋公団工務第一部長)、松崎彬麿(トピー工業(株)常任顧問)の各氏である。

 1977(昭和52)年の段階で、神戸・鳴門ルートの鉄道建設については「やめるかもしれない」ということになっていたというのだ。

 道路側の発言だけでなく、鉄道側の発言の裏もとってみよう。

大鳴門橋も鉄道(新幹線)建設をやめるはずだった

 昭和54年交通年鑑の、昭和53年3月9日の項に、「大鳴門橋を鉄道併用橋から道路単独橋に変更する方針を固めた」とある。いや鉄道さん全然やる気ないじゃないですか。

 そして、実際の施工にあたっては「単線載荷」にする等必要最小限の工事だけにしている。もうこの段階で明石海峡大橋への鉄道の施工は実体的にはほぼ可能性がなくなっていたのだろうな。

 前述のとおり、1981(昭和56)年に「道路単独橋の可能性等」を本四公団に検討させているのは、この大鳴門橋の問題を踏まえて、とどめを刺す(あるいは関係者に言い含める)ための手順だったということだろうか。

新全総新幹線

 ※ 参考 1967「(昭和44)年5月30日に新全総(新全国総合開発計画)が閣議決定されており、そこに記された新幹線計画の抜粋

「東京発成田経由仙台行常磐新幹線~未成新幹線を国立公文書館デジタルアーカイブからまとめてみる」

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-855c.html

 ※ ときどき「阪神淡路大震災で予算が不足したから新幹線ができなくなった」とか「阪神淡路大震災で主塔がずれたから新幹線ができなくなった」という説を目にするのだが、取りやめたのは1985年なので、全くのデマである。

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2017年7月16日 (日)

1970(昭和45)年の阪神高速道路構想は未成道の宝庫だった

阪神高速道路未成構想 (3)

 ここに「都市高速道路網図」と題された地図がある。阪神高速道路っぽいが赤い線は第二京阪もあれば全然見たことのない路線もある。

 実は、これは1970(昭和45)年1月に「大阪地区都市高速道路調査委員会」により制定された「大阪地区における都市高速道路に関する答申書」に添付された図面であり、当時の阪神高速道路将来構想といったところなのである。

阪神高速道路未成構想 (2)

 上記のような基本構想に基づき、下記のようなパターンが作成された。

阪神高速道路未成構想 (1)

 これだけの路線(約152.6km)を1985(昭和60)年までに整備しようというのだから、流石オイルショック前の高度成長期である。

 大阪万博がこの3月に開幕するということで、大阪の道路網はそれにあわせて急スピードで整備されたのだが、万博後に更にステップアップするといった位置付けになるのだろうか。

 屁理屈はこれくらいにして、各路線について紹介してみよう。

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第2環状線

 本路線はパターンの骨格をなすものであり、現環状線を補完し、新計画放射路線からの都心交通の分散、導入を図ると共に、放射線相互間の分散を図るものである。

[主要ルート]

 中津川―大川―京橋―平野川―阿倍野墓地―南海高野線―旧境川運河―六軒屋川

[起点]福島区下島町附近 [終点]福島区下島町附近 [延長]約28.0km

[ランプ位置]

 大淀町南附近、中津浜通附近、豊崎西通附近、都島本通附近、新喜多町附近、猪飼野中附近、猪飼野東附近、桑津町附近、杭全町附近、阿倍野筋附近、松通附近、津守町東附近、千鳥町附近、北境川町附近、西野下之町附近、下島町附近

阪神高速道路第2環状線(未成道)

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長堀線

 本路線は第2環状線を短絡し、あわせて都心部交通の便を図るものである。

[主要ルート]

 第2環状線―木津川―長堀川―九条深江線―環狀線

[起点]浪速区木津川町附近 [終点]東成区南中町附近 [延長]約6.8km

[ランプ位置]

 空堀町附近、末吉橋通附近、西長堀南通附近

阪神高速道路長堀線(未成道)

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高槻線

 本路線は淀川以北の京阪間交通のための路線であり、吹田、茨木、高槻方面と大阪市との連絡を図るものである。さらに京都方面との接続を考慮する必要がある。

[主要ルート]

 第2環状線―長柄橋―柴島浄水場―十三吹田線―神崎川、安威川―東海道新幹線―大阪外環状線

[起点]大淀区長柄西通附近 [終点]高槻市辻子町附近 [延長]約18.0km

[ランプ位置]

 淡路本町附近、内本町附近、三島附近、鳥飼八町附近、辻子附近、辻子附近

阪神高速道路高槻線(未成道)

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第2京阪線

 本路線は平面街路部分とあわせて、淀川以南における京阪間交通の基幹道路となるものであり、門真、寝屋川、枚方方面と大阪市との連絡を図るものである。さらに京都方面との接続を考慮する必要がある。

[主要ルート]

 第2環状線―桜島守口線―大阪枚方京都線―大阪府界

[起点]都島区都島中通附近 [終点]枚方市長尾附近 [延長]約23.8km

[ランプ位置]

 古市南通附近、(くさかんむりに稗)島附近、小路附近、交野町附近、杉附近

阪神高速道路第2京阪線(未成道)

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東大阪線(延伸線)

 本路線は既定の大阪東大阪線の東伸線であり、東大阪方面と、大阪市との連絡を密にするものである。さらに奈良方面との接続を考慮する必要がある。

[主要ルート]

 大阪東大阪線―築港枚岡線―大阪外環状線

[起点]東大阪市長田附近 [終点]東大阪市弥生町附近 [延長]約4.0km

[ランプ位置]

 荒本附近、弥生町附近

阪神高速道路東大阪線(延伸)

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八尾線

 本路線は東大阪、八尾方面と大阪市との連絡を図るものである。さらに奈良南部との接続を考慮する必要がある。

[主要ルート]

 第2環状線―東部市場―大阪楽音寺線―大阪外環状線

[起点]東住吉区杭全町附近 [終点]八尾市楽音寺附近 [延長]約11.0km

[ランプ位置]

 巽四条町附近、美園町附近、楽音寺附近

阪神高速道路八尾線(未成道)

-----------------------------------

泉北線

 本路線は堺市を含む南大阪方面と大阪市との連絡を図ると共に、和歌山方面との接続を図るものである。

[主要ルート]

 第2環状線―国鉄阪和線―浅香山向陵線―下石津泉ケ丘線―近畿自動車道和歌山線

[起点]阿倍野区美章園町附近 [終点]堺市東八田附近 [延長]約13.2km

[ランプ位置]

 長池町附近、長居町中附近、山之内町附近、浅香山町附近、黒土町附近、百舌鳥陵南町附近、東八田附近

阪神高速道路泉北線(未成道)

-----------------------------------

大阪港線

 本路線は大阪港及び臨海工業地帯と都心部との接続を図るものである。

[主要ルート]

 大阪湾岸線―築港深江線―大阪東大阪線

[起点]西区江之子島西之町附近 [終点]港区港晴附近 [延長]約5.6km

[ランプ位置]

 九条通附近

阪神高速道路大阪港線(構想時)

-----------------------------------

阪神山手線

 本路線は豊中方面、及び阪神間と大阪市との連絡を図り、同時に高槻線との接続によって、北大阪の円滑な交通の便を図るものである。

[主要ルート]

 第2環状線―阪急宝塚線―  三国塚口線―大阪府界

 高槻線―神崎川―

[起点]大淀区中津浜通附近及び吹田市南吹田附近 [終点]豊中市庄本町附近 [延長]約8.9km

[ランプ位置]

 十三東之町附近、三国本町附近、江の木町附近、庄内西町附近

阪神高速道路阪神山手線(未成道)

-----------------------------------

淀川右岸線

 本路線は臨海工業地帯から副都心となるべき新大阪周辺への連絡を図るものである。

[主要ルート]

 阪神山手線―北方貨物線―大野川―淀川北岸線―大阪湾岸線

[起点]東淀川区野中南通附近 [終点]西淀川区中島町附近 [延長]約km

[ランプ位置]

 野里東附近、大和田西附近

阪神高速道路淀川右岸線(未成道)

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大和川線

 本路線は臨海工業地帯と南大阪内陸部との連絡を図り、あわせて中央環状線、大阪湾岸線 と一体となって大阪市域をつつむ、大きな環状線を形成するものである。

[主要ルート]

 大阪湾岸線―大和川―国鉄阪和貨物線―大堀天美線―大阪松原線

[起点]住吉区北島町附近 [終点]松原市三宅町附近 [延長]約8.6km

[ランプ位置]

 南加賀屋町附近、墨江中附近、天美西附近

阪神高速道路大和川線(構想時)

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大阪湾岸線

 本路線は大阪湾々岸道路計画の一環としての路線で臨海部交通の便を図るものである。 さらに兵庫及び和歌山方面への接続が必要である。

[主要ルート]

 松原泉大津線―大阪臨海線―南港―大阪港第2突堤―中島町―大阪府界

[起点]西淀川区中島町附近 [終点]高石市高師浜丁附近 [延長]約17.1km

[ランプ位置]

 中島町附近、島屋町附近、港晴附近、南港東附近、南港東附近、大浜北町附近、出島浜通附近、高師浜丁附近

阪神高速道路湾岸線(構想時)

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(以下は、革洋同によるコメント)

 大変盛大な構想であるが、この中で実現したのは湾岸線、東大阪線。第二京阪線は日本道路公団→西日本高速道路の手によって完成した。(当時は、京都は阪神高速道路の事業区域ではなかった。)

 大和川線は一部完成し、全通に向けて工事が進められている他、淀川「右」岸線ならぬ淀川「左」岸線も一部完成し、残りは工事中だ。

 

 なお、これより古い、最初期の構想を「「名神全通50周年企画」なぜ名神高速道路は神戸まで行かないのか」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/post-d2b3.htmlのなかで紹介している。あわせてご参照いただきたい。

 また、同時期の首都高速道路構想も未成道満載なので、お好きな方はどうぞ。

「昭和37年の首都高速道路将来計画」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/07/37-ddb3.html

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