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2023年6月24日 (土)

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する

※この記事は、当初2023年6月に公開しましたが、2024年4月に大幅追記修正しております。

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (1)

 TBS系列の「がっちりマンデー」が、「燕三条市」と放送して、ネット上が盛り上がってしまった。

 

 

 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (2)

ネットニュース等では、命名の由来が紹介されたりした。 

https://smart-flash.jp/entame/235318/1/1/ 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (3)

 この記事では、ネットユーザーからTBS「がっちりマンデー」に対して突っ込まれた、「燕三条駅に関する調べればわかる有名な話」が、本当なのか検証してみたい。 

 主な検証課題はこちら。 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (4)

 今回、ネットユーザー(特に鉄道オタク)が突っ込んだ「調べればわかる有名な話」って「上越新幹線の燕三条駅が先に出来て、後から北陸自動車道の三条燕ICができる」という時系列を前提にしたものが多いのだが、実際の開通の順序は逆で、高速道路の方が4年以上先に開通している。  

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (5)

 ということで、新幹線と高速道路、それぞれの建設経緯を整理してみよう。 

https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/236639/www.jhnet.go.jp/format/index2_05.html 

https://www.jreast.co.jp/niigata/joetsu40th/ 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (6)

 新幹線の建設手続きはこちら。 

 新幹線の「停車場の位置」は、全国新幹線鉄道整備法に基づき、鉄道建設公団が工事実施計画を作成し、運輸大臣(国土交通大臣)が認可する。 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する(7)

 上越新幹線建設の経緯はこちらの手続きのとおり。 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (8)

 高速道路の建設手続きはこちら。  

 高速道路のインターチェンジの「連結位置」は、高速自動車国道法に基づき、建設大臣(国土交通大臣)が整備計画で決める。 

https://www.mlit.go.jp/road/singi/sgtrp1/ref1-2-5.html 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (9)

 北陸自動車道(長岡~新潟)建設の経緯はこちらの手続きのとおり。 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する(10)

 上越新幹線(燕三条駅)と北陸自動車道(三条燕IC)の建設に係る時系列を抜粋して並べてみたよ。 

 

 こういったツイートと当時の報道や建設関係資料と突き合せてみよう。 

燕三条駅名と三条燕インターチェンジ名争いの追記 (1)

果たして、上記のような鉄道ヲタクの「常識」は、どこまで本当だろうか? ねえ、企画の栗原景さん。

 ここから、燕三条駅/三条燕ICの命名の経緯を更に追っていくこととしたい。 

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 まずは、上越新幹線燕三条駅命名の経緯を深堀してみよう。 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する(12)

 1971年10月に、鉄建公団が工事実施計画を認可申請した。 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する(13)

 1971年10月に、三条市に「燕三条駅(仮称)」を設置することが決定した。 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (14)

 「新幹線の駅名で揉めたので、燕三条駅とする代わりに、駅長室を三条市域に設置することで、駅の住所を三条市としてバランスをとった」という説がある。

  しかし、この当初の工事実施計画の段階で、「燕三条駅(仮称)」は、「三条市大字下須頃」に置くことが、法律上の手続きによって、申請→認可されていたということには触れていないのではないか? もうちょっと大事なポイントだとは思うんだけどなあ。

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する(15)

 こちらは、1971(昭和46)年10月の上越新幹線工事実施計画認可申請を報道する地元紙「新潟日報」である。「燕三条」と出ている。 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (16)

 「燕三条(仮称)」か「燕・三条(仮称)」か 

 鉄建公団の工事誌は「燕三条(仮称)」と「ナカポツなし」で、新潟日報は「燕・三条(仮称)」と「ナカポツあり」だ。 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (17)

 工事実施計画を認可した運輸省では「燕三条(仮称)」で「ナカポツなし」である。 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (18)

 しかし、地元では「燕・三条(仮称)」と「ナカポツ(マルポチ)あり」前提で議論が進むのである。 

 それも、「マルポチの付いた駅名は全国どこにも例をみないという」などと随分こだわりが見られる。

 単なる誤植等では割り切れないものがあるようだが、その理由までは追えていない。 

 そのため、当ブログでも「表記のゆれ」が整理しきれていないがご容赦いただきたい。 

 鉄建公団や国の資料では「ナカポツなし」なのに、どうして地元は「ナカポツ(マルポチ)あり」を前提に駅名の議論が進められていたのか、理由をご存じの方がいらっしゃれば、是非ご教示ください。 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する(19)

 実は、工事実施計画認可申請前に、上越新幹線の駅名案について「お漏らし」報道があった。 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (20)

 1971(昭和46)年9月26日付読売新聞は、三条付近(東三条と燕の中間)と報道。 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (21)

 読売の4日後の1971(昭和46)年9月30日付朝日新聞は、仮称「新三条」駅と報道。
 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (22)

 「汎交通」1971(昭和46)年12月号に、国鉄新幹線総合計画部長の富井義郎氏の講演が掲載されている。

 その文末に「編集部註」として、「内定」された東北・上越新幹線の駅(仮称)のうち新三条駅も挙げている。

 朝日の誤報ではなく、鉄道業界誌でも「新三条駅」だったということで。
 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (23)

 「新三条駅」案は、単なる瞬間風速で消え去った一時的な案ではなく、国鉄-鉄建公団内部ではそれなりに浸透した駅名案だったのではないかと思料される。 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (24)

 半月ほどの中で幾つかの駅名案が出たり消えたりしており、「この間に、何かの力が動いたんやろなあ。。。」と思わせる。 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (25)

 当初は「新三条駅」だったのが、工事実施計画申請・認可の段階では「燕・三条駅」となったことで、駅名争いに火が付いた旨地元紙は報道している。 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する(w)  

 駅設置決定直後の1971(昭和46)年10月20日付新潟日報が、駅名争いを報じた最初の記事ではないか。

 
 燕市は「燕という文字がはいっていればよい」としている。


 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (26)

 三条市鈴木春義助役(当時)のインタビュー記事からも、前述の『当初は「新三条駅」だったのが、工事実施計画申請・認可の段階では「燕・三条駅」となったことで、駅名争いに火が付いた』と同様の趣旨が読み取れる。 

 

 尤も、鈴木助役の言う仮称「三条燕駅」は、私は確認できていない。

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (27)

 鉄建公団の現場事務所も「燕三条鉄道建設所」等であり、「現場事務所までもが、市境に建ってるわけでもあるまいし、素直に所在地名をつけとけばええやん」と思うのだが、鉄建公団は相当気を遣っていることが推測できる
 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (28)

 1982(昭和57)年2月3日に「燕三条駅」に駅名が正式決定した。 

 1982(昭和57)年2月4日付読売新聞は、「北陸道のICが「三条燕」になったことから、新幹線については「燕」上位で合意」と報道している。

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (29)

 鉄道業界誌「電気車の科学」1982(昭和57)年3月号14頁掲載のコラム「電気車界展望」は、「北陸道のICが“三条燕”なので駅名の方は逆にバランスをとったかたち.国鉄さんの生活の知恵をしぼった決定ぶり」と報道している。 

 個人的な「感想」にすぎないが、こういう業界誌のコラムというのは「中の人」が匿名で書くことがあったりするので、「中の人」の本音がうかがい知れる場合がある。 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (30)

 現在の鉄道オタクの主張と当時の報道は順序が逆転していることがお分かりであろう。 

 当時の報道は、鉄道業界誌も含めて「高速道路が「三条燕IC」だったので、バランスをとって上越新幹線の駅名は「燕三条駅」にした」というものであった。 

 これが、何故か現在では逆転して認識されて「有名な話」になってしまったのである。 

 

 

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上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (31)

 次に高速道路の三条燕ICの命名経緯を深堀したい。 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (32)

 1967(昭和42)年に決定された北陸道の基本計画では、「道路等との連結地」として「燕市附近」と定められている。 

 この段階では、あくまでも「附近」にすぎないので、燕市外にICを設置することとなっても「附近」であれば差し支えない。 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (33)

 1969(昭和44)年に決定された北陸道の整備計画では、「連結位置」として「三条市」、「連結予定施設」として「一般国道289号」と定められている。 

 前述のように、この「整備計画」は、高速自動車国道法に定められた法的に位置付けられるものであって、建設省や道路公団が単なる事務的に内部手続きで決めたものではない。

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (34)

 燕市との図面上の面積の大小等は関係なく、高速自動車国道法上の位置付けとしては、「三条燕ICは、三条市で国道289号に連結するIC」なのである。 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (35)

 日本道路公団時代のIC名称決定基準として、副総裁通達「供用開始後の道路等の名称について」がある。 

 前述のように、三条燕ICは、「法律上は三条市にあるIC」なので(3)(ロ)に基づいて「その存在する市町村名を用いる」ということで、「三条」を優先していても、基準を逸脱していないと思われる。(※私見であり、道路公団の正式見解ではありません。)
 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (36)

 (3)高速自動車国道等のインターチェンジ等の名称 (ロ)インターチェンジ において「その存する市町村名を用いる」とある。 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (37)

 「燕市内にあるICは三条燕ICにしてバランスをとった」と言われることが多いが、日本道路公団での扱いは「三条市に所在する三条燕IC」なのである。 

 

燕三条駅名と三条燕インターチェンジ名争いの追記 (3)

 「でも、料金所は燕市内にあるじゃないか」と言う方もいらっしゃるかもしれない。

 鉄道の駅と違って、高速道路の料金所なんかは、極言すれば、本線と一般道の間のどこかに適当にあればいいんですよ。

 「東名の東京料金所が川崎市内にあるから、東京ICは川崎市にある」といいますか?

 東名高速道路の東京ICの場合、世田谷区内に料金所を置くのに適当な広い場所が取れなければ、隣の川崎市内に東京料金所を置くのは別に不自然でも何でもないので。

 鉄道ヲタクは、「何でも鉄道を中心に考えてしまう病気」にかかっている人がいるから、高速道路も鉄道にあてはめすぎじゃないですか?

燕三条駅名と三条燕インターチェンジ名争いの追記 (4)

 ブラタモリの三条・燕の回で出てきた燕市産業史料館の名物学芸員・齋藤優介氏は

「三条燕ICは燕市にあるけど、名前は三条燕」

といったことを言っていたような記憶があるが、こういう公文書を踏まえずに、地図だけ見ていったようなことを、学芸員が放送で流すとは全く遺憾なわけです。

 燕市役所には、道路法令総覧はありませんか?

(※ 昔は「道路六法」で、今は「道路法令総覧」という。)

 

 

 

 

燕三条駅名と三条燕インターチェンジ名争いの追記 (5)

 

 おさらいになりますが、

 昭和40年代当初の法令上の計画段階から、新幹線駅も高速道路ICも三条市に設置するのが正式な手続き上の位置付けだった。

 ということは、本件を理解するために必要な法的経緯であります。

 ここを踏まえない鉄道オタク向け蘊蓄本が如何に多いことか。

 そしてそれにひっかかるピュアな鉄道オタクや鉄道ユーチューバーが如何に多いことか。

  

燕三条駅名と三条燕インターチェンジ名争いの追記 (6)  

 稲村稔夫・三条市長(当時)の「社会主義」誌上における発言もご参考までに紹介しておこう。

 なんで「社会主義」誌に三条市長が登場するかというと、一時期、三条市は新潟三区にも拘わらず所謂「革新市長」だったのだ。

 (※それが、三条燕駅命名に影響したという説を後に紹介するので、覚えておいてほしい)

 

https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/236639/www.jhnet.go.jp/format/index2_05.html 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (38)

 高速バスの「三条燕バスストップ」は、単体で見れば燕市内にあるが、同基準の「2以上の施設が同一地点に併設されている場合には同一の市町村名等を用い」とあるので、「三条燕ICと同一地点に併設されたバスストップ」ということであれば、基準を逸脱していないと思われる。
(※私見であり、道路公団の正式見解ではありません。) 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (39)

 三条燕ICという名称はいつから使われていたか?を調べてみた。 

 遅くとも、「レジャー産業・資料」1971年8月号「北陸自動車道工事中間報告」日本道路公団工務第二課長 下荒磯茂・著には、「三条・燕IC」が出てくる。 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (40)

 高速道路のIC名は、燕市と三条市は揉めなかったのか? 

 燕市史889頁によると「高速道路のインターチェンジ名は、二つ以上の市町村名や地名を重ねる例は多くあり、すんなり決まった」とある。 

 鉄道オタクが主張するような、新幹線駅名と高速道路IC名をめぐって両市が激しく争ったわけではなく、駅名だけ争ったようである。 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する(41)

 燕三条駅/三条燕ICの命名に係る時系列を抜粋してみた。 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する(42)

 今回調べ始める前は、「高速道路の方が先に開通しているとは言っても、昭和40年代の建設中の仮称の段階で、「三条燕ICと燕三条駅」で事前調整しているんやろうなあ」と思っていた。 

 ところが、遅くとも、1971年8月には高速道路は「三条・燕IC」となっているのに、1971年9月段階で、新幹線は一旦先に「新三条駅」が報道されて、10月に「燕三条駅(仮称)」と認可されている。 

 事前調整がついていたのであれば、こんな動きはありえないのではないか? 

 よって「高速道路IC名は、新幹線駅名と調整していなかったのではないか」と私は考えるが、如何だろうか?
 

 まあ、ここはエビデンスなしの私個人の推測にすぎないものも含んでいるのだが。 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (43)

 とは言っても、相応に気を遣って「三条・燕IC」という仮称をつけたのではないか? 

 北陸道開通時には、「新潟」→「新潟黒埼」、「巻」→「巻潟東」、「見附」→「中之島見附」となったが、「三条燕」だけは、建設時から複合名称になっていたので、相応に気を遣っていたのではないだろうか?
 

 なお、「新潟黒埼IC」は新潟市内にはかすってもいないのに新潟が先に来ているし、「中之島見附IC」も見附市内にはない。「三条燕IC」は、それに比べればよっぽどまともではないだろうか? 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する(施設協会地図)  

 これは「新潟黒埼IC」と呼ばれていたころの道路施設協会発行の北陸自動車道マップだ。懐かしい方もいらっしゃるのでは? 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (44)

 ということで、主な検証課題の(途中経過1) 

 「新幹線を燕三条駅にした代わりに、高速道路を三条燕ICにしたのか?」と「三条市にある新幹線の駅を燕を先にし、燕市にある高速道路のICを三条を先にすることでバランスをとったのか?」の2つは、否定されたということでよかろう。 

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上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (45)

 次いで、「上越新幹線の駅の設置を巡って、三条市と燕市が激しく争った」というテーマを検証してみたい。 

 まずは、上越新幹線のルート、駅の決定経緯を確認していきたい。 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (46)

 鉄建公団公式の上越新幹線ルート選定経緯は、上越新幹線工事誌に掲載されている。 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (47)

 また、鉄建公団公式の燕三条駅選定経緯も同様に上越新幹線工事誌に掲載されている。 

 燕市及び三条市両地域の利用客の便を考え、弥彦線との連絡が可能で、支障家屋が少なく将来開発余地が見込める「三条市上須頃地区」に決めたとされる。 

 ただし、弥彦線の駅設置は当初は見込まれていなかった模様であり、その後駅設置要望が地元から出て、決定されている。 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (48)

 燕市史では駅誘致に激しく活動する三条市を尻目に「これに比べてもともと幹線を持たなかった燕市民はこれという目立った動きを見せなかった。両市の置かれた交通上の位置関係から、それぞれの考えは異なったものと思われる」と他人事のようである。 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (49)

 上越新幹線工事実施計画が認可され、燕三条駅の設置が決まったことを報道する当時の新聞では「新幹線駅誘致に懸命だった三条市や、これを支援してきた燕市」としている。 

 

燕三条駅名と三条燕インターチェンジ名争いの追記 (7)

 一方、当時の週刊文春には、渡辺常世・三条市長(当時)が、「燕市は立候補もしていなかったのに、駅名が仮であっても燕・三条いうのはおかしい。三条・燕ならまだしも、燕・三条とはねえ」と「燕市は立候補もしていなかった」旨述べている。

 なお、上記の記事に出てくる「三条商工会議所・加藤重利氏」は、おって本件の重要なキーマンとして再登場してくるので、覚えておいてほしい。

 

燕三条駅名と三条燕インターチェンジ名争いの追記 (8)

 また、「実録・越山会」小林吉弥・著 でも、三条市の越山会会員が

「仮称にしても燕・三条というのはオカシイ、三条・燕ならハナシはわかる。第一、燕市は立候補もしておらんかったし、人口も三条市がグンと多いですけ。そのうえ、あとで燕市の奴っこさんたち、“新ツバメ駅というのはどうか”などと提案してくる。とんでもねェハナシで、ホントは新三条駅が断然正しい!」

 と嘆くやら、怒るやら。

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する(b)

 駅設置決定直後の1971(昭和46)年10月20日付新潟日報では、「県央広域市町村圏内に停車すれば文句はない」との記事がある。

 県央広域市町村圏内とは、この記事によると、「三条・燕・加茂の三市を中心とした」ものとのこと。

 「燕市と三条市が激しく駅の誘致を争った」という鉄道オタクの常識はなんだったのか? 

 TBSに対して「燕市と三条市が激しく駅の誘致を争った経緯を知らないのか。調べたら分かるだろう。」と罵倒した鉄道オタクの皆様は、読売新聞や燕市に対しても「我々の”常識”と違う」と非難しては如何か? 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (50)

 燕三条に駅名内定時にも「三条側の業界は、駅を誘致したのは我々なのにと怒り心頭に」とする報道もある。 

 少なくとも、燕三条駅と内定した頃までは「燕市と三条市が激しく駅の誘致を争った」のではなく「三条が駅を誘致した」ことでは争いはないようである。その後に鉄道オタクの常識を書き換えるような出来事があったのだろうか? 

燕三条駅名と三条燕インターチェンジ名争いの追記 (10)

 「燕市と三条市が激しく新幹線駅誘致を争った」というリアルタイムのナマ情報は私が調べた範囲では見当たらなかったのだが。(後日出版された鉄道、地名関係蘊蓄本は除く) 

 もし、「燕市が市史に反して新幹線駅誘致に激しく運動していた」という当時の一次情報をお持ちの方がいらっしゃれば、是非ともご教示ください。

 「激しく誘致を争った」と書く鉄道ライター諸氏も証拠を出してくださいw 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (52)

 となると、「田中角栄が裁定して燕市と三条市の境界に駅を設けた」という逸話はなんだったのかということになる。とはいえ、田中角栄の力は別のところで及んでいた模様 

 元々は中之口村に出来るはずだった新幹線駅を、三条市長(当時市議)が、目白詣でをして、三条市内にもってきた旨の報道はあった。急行「天の川」の寝台券をもらってかけつけたというくだりにリアリティを感じる鉄道オタクの方もいらっしゃるのではないか? 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (53)

 新潟一区内の「中之口村」にできるはずだった新幹線駅を、新潟三区内の三条市に「田中角栄の赤エンピツ」で動かしつつ、最後は(こちらも田中派議員地盤の)新潟一区内の燕市にも配慮したということかもしれないが、これは私個人の推測にすぎない。 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (54)

 中之口から三条に駅をもって来たことによる弊害もでている。 

 「長岡-燕三条間は、わずか24キロしかなく、鉄建公団が基本として打ち出している、駅間隔は30キロ以上ないと新幹線としての機能を発揮できないという事項にも反することになる。」との批判もでていた。 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (55)

 篠原武司氏は、日本道路協会の「道路」に、燕三条駅位置の選定理由を記している。 

 「高速道路のランプ近くで自動車の乗り入れを便利にし,なるべく広大な駅前広場をつくって,バスや自家用車の乗り付けを便利にした。」「道路計画との有機的な結合をつねづね考えておかなければならない」というものだ。
 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する(c)

 「篠原武司って誰だよ。高速道路IC近くに燕三条駅を設置することでパークアンドライドの便を図ったなんて珍説は初耳だよ。」「道路業界誌なんて鉄道の敵なんだから相手にする必要はない」なんて思う方もいらっしゃるかもしれないが、篠原氏は上越新幹線建設当時の日本鉄道建設公団総裁なんである。
 

 上越新幹線建設の当事者である公団総裁が「両市の激しい誘致合戦の末に、両市の境界に駅を設置した」説を否定しているのは大変興味深いものがある。「両市猛烈な誘致結果案」を主張する鉄道オタクは、まず公団総裁の論を潰すネタを揃える必要があるわけだ。 

 せめて「鉄建公団の篠原とかいうやつが鉄道業界の常識に反することを道路業界誌に書いているが、そんなものは相手にする必要はない」「篠原は角栄の腰巾着なので、角栄の裁定を後からもっともらしく正当化しているだけだ」くらいは宣言してほしいものだ。少なくとも、燕三条駅ネタで原稿料をもらったことがある鉄道ライター諸氏におかれては、この篠原説を検証する記事くらい書いてもよいのではないか? 

(篠原総裁が政治に負けた悔しまぎれに、後付けで、屁理屈を書いてこじつけた可能性も、一般論としてはありうるとは思うが) 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する(d)

 なお、1971(昭和46)年9月30日付朝日新聞は、「仮称「新三条」駅は幹線道路とのつながりをどうするかの課題がからみ最終的な位置決定は数日中に行う」と報道している。

 朝日新聞記事と篠原総裁の発言とは整合がとれるため、篠原総裁のいう高速道路との連携が燕三条駅の位置決定の決め手だったという論は信憑性を増すのではないか。

 

 

 

 消極的に「どちらにも偏らないよう」なのか、積極的に「高速道路にあてに行って駅を設置したのか」リアルタイムの生情報がもっとほしいところだ。 

 

燕三条駅名と三条燕インターチェンジ名争いの追記 (11)

 「燕市と三条市が争った」とする鉄道オタク本の事例としては、

 「新幹線全駅旅図鑑」 (旅鉄ガイド003)「旅と鉄道」編集部 ・編 ‎ 天夢人・刊 

 とか

 「レールウェイマップル 全国鉄道地図帳」昭文社・刊

 があるようだ。

  

 それぞれの担当者に、篠原記事等をどのように受け止めているか聞いてみたいものだ。

 タビテツはともかく、レールウェイマップルの次回版には是非修正していただきたい。

 

燕三条駅名と三条燕インターチェンジ名争いの追記 (9) 

〇燕市史 (駅誘致に熱心な三条と比べて)「燕市民はこれという目立った動きを見せなかった」 

〇三条市長「燕市は立候補もしていなかったのに」

〇三条の越山会「燕市は立候補もしておらんかった」

〇読売新聞「新幹線駅誘致に懸命だった三条市や、これを支援してきた燕市」

〇週刊読売「三条側の業界は「駅を誘致したのは我々なのに」と怒り心頭」

〇鉄道建設公団総裁「高速道路のランプ近くで自動車の乗り入れを便利にし,なるべく広大な駅前広場をつくって,バスや自家用車の乗り付けを便利にした。」 

 ⇒これで、何故「燕と三条が駅設置を激しく争った」となるのか

 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する(57)

 なお、鉄道オタクは、「新幹線の後に高速道路がきた」という時系列で考える方が多いようだが、実際には燕三条駅計画前に三条燕ICの位置は決まっていたので、これ以上燕市側には駅は設置できないだろうとは思われる 。

 

 

 

 時系列をちゃんと確認するとこんな妄言を好きになることはないんですが。 

 

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上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (58)

 鉄建公団公式の燕三条駅選定経緯に「弥彦線との連絡」が あるが、実際には当初は在来線駅計画は無かったようである。

 

燕三条駅名と三条燕インターチェンジ名争いの追記 (13)

 同じ「上越新幹線工事誌(水上・新潟間)」の746頁には、国鉄新潟鉄道管理局の要請を受けて、1982(昭和57)年に弥彦線との連絡施設建設が決定された旨書かれているのだ。

 当初計画では、燕三条駅は弥彦線との連絡駅ではなかったのである。

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (59)

 工事実施計画認可時の認可した立場の運輸省による報文には「以上9駅の中、上毛高原(仮称)燕三条(仮称)を除きすべて在来線と接続させている。」とある。
 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (60)

 こちらも運輸省の広報誌「トランスポート」に運輸省鉄道監督局国有鉄道部施設課の澤田氏が書いた報文だが「上毛高原(仮称),燕三条(仮称)両駅を除いてすべて在来線と併設されており」と書かれている。 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (61)

 後から地元要望によって弥彦線の燕三条駅が追加された旨の地元紙の報道がある。 

 なお、これらの新聞記事とあわせて、先に紹介した「上越新幹線工事誌(水上・新潟間)」746頁の経緯を、参照されたい。 

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上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する(62)

 ここからは、燕三条駅命名に係る駅名正式決定前の動きを深堀りしてみる。 

 田中角栄による「裁定」があったと言われる時期だ。 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (63)

 北陸道燕三条IC開通後に、新幹線駅名を巡る興味深い記事が掲載されている。 

 なお、1978年の高速道路開通2年後の1980年ににまだ駅名は揉めている旨の記事が掲載されていることから「駅名を燕三条にした代わりに、高速道路を三条燕にしてバランスをとった」との説はガセ確定となる。 

 

 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (64)

 この記事で注目すべき点は、弥彦村が「越後一の宮駅」案で乱入していることだ。 

 「三条、燕どちらが先になってもしこりが残るだろうとの配慮もあっての提案だが、結果は逆。駅名論争を浮上させるきっかけになった。」という。 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (65)

 それまで、燕市・三条市は「紳士協定」で陳情合戦を自粛してきたが「第三の駅名候補の登場で、鳴りをひそめていた駅名争いがまたまたにぎやかになりそうだ。」とのこと。 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (66)

 燕市助役は「ICは三条燕に決まったので、駅名だけは譲れない」と。 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (67)

 三条市長は「すぐ隣のICと別な呼び方じゃ利用者が混乱する」と。 

 なお、記事中に 「駅の玄関がどっちを向いているかを見ても当然の名前だろう。」とあるが、後述のように駅の造りは、三条も燕も敢て同じになるように作ったはずなのだが。

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (68)

 鉄道オタクの「真実」とは逆に、「既に決まった高速道路のIC名を基準に、燕、三条の両市が新幹線駅名について論戦を交わしている」という点を地元紙が報じているところが大変興味深い
 

 また、弥彦村の乱入に触れていない鉄道・地名蘊蓄本は、一次資料にあたっていない可能性がある。
 

 

燕三条駅名と三条燕インターチェンジ名争いの追記 (14)

 なお、ウィキペディアには「両市名を付けた駅名にすると国鉄が決定した際」なんてことが書いてあるのだが、私が調べた範囲では、国鉄がそんな「決定」をしたなんていう元ネタは見当たらないのですが、この記事を書いた方は、出典を明記してくださいね。

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (69)

 

 燕市史には「信濃川駅」案という「けんか両成敗的な声」もあったと記されている。 

 「信濃川駅」案と同様に、広域地名で関係自治体の対立を結着させた事例としては、北陸新幹線の「佐久平駅」がある。 

 

  

 なお、当初

「新燕駅」案の元ネタをご存じの方は、是非ご教示ください。 

 と書いたところ、読者の方から、新燕駅に触れた記事があった旨のコメントをいただき、資料も確認できたので、「新燕駅の主張はあった」ということで、その旨追記させていただきます。 

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上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (71)

 決まらないのは、駅名だけではなくて 

 1980年9月3日付新潟日報によると、水道は燕市水道局が工事が始まった1979年から供給しているものの、電話番号、郵便番号、ごみ収集、し尿(浄化槽の放流先)、ガス、派出所等が決められないという。
 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (72)

 燕市史888頁によると、三条市に所在することになっている燕三条駅だが、水道とガスは燕市から供給しているとのことだ。
 

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上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (73)

 1980年10月17日付新潟日報は、国鉄による新幹線駅名決定の報道の2年ほど前に「仮称通り「燕・三条駅」に」と報じている。 

 両市が地元選挙区の代議士を通じて陳情合戦を重ねたが、「仮称の通りに内定」したとのこと。 

 代議士の名前は書いていないが、まあなんとなく想像はつくところではある。 

 なお、ここでは「・」は生きているところも気になるのだが。 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (74)

 燕市史888頁によると、「高度な政治判断が働いたとか最初からの予定だとかいろいろな話題も呼んだが、真相はどこにあるのか分からない」とされている。 

 燕市史は「高度な政治判断が働いた」という部分ばかり引用されがちだが、「最初からの予定だ」の部分とか、先に述べた「一の宮駅」案とか「信濃川駅」案は引用されないところを見ると、実際には読まずに孫引きでしか書いていないんじゃないかと勘ぐってしまう。 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (75)

 週刊読売1980年11月23日号「上越新幹線「駅名争奪」の感情的しこり」 は具体の代議士名を出している。 

 三条市側は、三区選出の角栄に頭を下げた。 

 燕市側も地盤が一区とあって、田中派大番頭の小沢辰男に「燕をよろしく」。 

 角栄は「燕が上でもいいじゃないか」と漏らしていたとされ、10月20日に国鉄新潟管理局が「燕三条駅」を提示した。 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (76)

 朝日新聞新潟支局にちょうど1980年から1986年に勤務していた早野透記者が、著書「田中角栄と「戦後」の精神」において、角栄の「裁定」を詳しく記している。
 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (77)

 ウィキペディアで「大岡裁き」とか書いていたけど、実際は意外にもグダグダな「裁定」だったようだ。 

 1980年9月に、三条市の角栄支持団体会長である加藤重利氏(このブログで当初名前が出てきましたね)が、角栄に裁定を求める。 

 ↓ 

 角栄は「燕三条」で加藤氏をなだめようとするが、譲らない。角栄は「それほどいうなら」と「三条燕」を引き受ける。 

 ↓ 

 二日後に、田中事務所から加藤氏に電話。「駅名は燕三条で決めた」 

 加藤氏は小沢辰男(燕市は新潟一区で小沢氏の地盤)にやられたと思った。 

  

「田中派の一の子分の小沢の頼みをどうして田中が断れよう。 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (78)

 なお、ウィキペディアの燕三条駅の項で文献とされる「新幹線100%ガイド」には、「大岡裁き」という表現はない。 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する(f)

 1982(昭和57)年2月4日付新潟日報は「燕三条駅大岡裁き」と題した記事を書いているが、中身は、「誰がどう大岡裁きしたか」という具体的な話は書いていないし、スカっとするような話も書いていない。
 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する(g)

 この新潟日報記事の「後にくる名が“本名”ということなので、こちらもそう理解している」と、前述の朝日新聞早野記者「田中角栄と「戦後」の精神」の「東三条とか北三条とかいうんだから、下につく名前が本物で、上が飾りなのではないか」という屁理屈は整合がとれている。

 ただし、発言したのは、新潟日報は国鉄で、朝日新聞は田中角栄というところが気になるが。

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (79)

 燕と三条を「大岡裁き」したというより、田中派同士の利益分配との報道もあった。 

「週刊ポスト」1982年11月26日号「摘出!日本型政治土壌を抉る 「上越新幹線」と「角栄利権」を激写! 」では、 

「三条市は田中角栄、燕市は角栄直系・小沢辰男の選挙区だ。そこで角栄は自分の利権を確保すると同時に、小沢にもそれを分け与えるために、真ん中に駅をつくった」(燕市商工会議所幹部)

 燕三条駅をめぐるドタバタ劇は、いわばその利権分与の副産物という指摘だ。 

と報じている。 

 

燕三条駅名と三条燕インターチェンジ名争いの追記 (16)

 最近の新潟日報に、田中角栄の「裁定」についての記事が掲載されていた。

 この記事は、仲が悪いとされている燕市と三条市が、この度の衆議院小選挙区の見直しにより、初めて同じ選挙区になるということについて歴史を含めて取材した記事である。

 その中で

「当時を知る自民党県議OBは中選挙区時代に三条市を含む旧3区を地盤とした田中角栄元首相が論争に終止符を打ったと耳にしたことを明かした。「(角栄氏の仲裁は)真実だと思うが関係者の間に『田中先生の名前を出せば調整がつく』という思いもあっただろう」と推測する。」

というコメントを紹介している。

 まあ、ご参考までに。

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (80)

 ウィキペディアの元ネタとされる海老原美宜男・著 「100%新幹線ガイド」だが 

「燕三条は、両市街地の中間に位置するため、どちらを上にするかでもめたが、北陸自動車道のインターチェンジを「三条燕」とすることで引き分けとなった」 

 と時系列が逆転している鉄道オタク本の典型であると言えよう。 

 著者紹介に「オリジナルな発想が武器」としているので、これも事実と反した「オリジナルな著述」ということか。 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (81)

 田中角栄や小沢辰男が属した自民党の「月刊自由民主」では「地方独特のバランス感覚をうかがわせて面白い」と他人事のようだ。 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (82)

 「三条市長が革新系だったから、角栄に意地悪された」との説もある模様だ。 

 「三条市史」下巻917頁によると稲村稔夫市長(任期1972~1976年)が「本市初の革新系市長」とのことだ。 

 このブログで「社会主義」に登場する三条市長として紹介した方である。

 この記事でも「眉ツバ」と書いてあるが、角栄の「裁定」は1980年とされているので、「時すでに遅く」には違和感が残る。 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する(83)

 ということで、 燕三条駅名決定経緯詳細を時系列で。

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (84)

 以上で、主な検証課題の(途中経過2)  

 「三条市にある新幹線の駅を燕を先にし、燕市にある高速道路のICを三条を先にすることでバランスをとったのか?」は、否定されたということでよかろう。 

 

燕三条駅名と三条燕インターチェンジ名争いの追記 (17)

 「地図神」「今尾神」も木から落ちる

 といったところか…

 

燕三条駅名と三条燕インターチェンジ名争いの追記 (18)

 しかも

「過去にいくつも出た『駅名事典』の類の「駅名の由来」の誤りは多いが、その多くが駅名そのものに「地名学的なアプローチ」で取り組んでしまったものである。」

「いずれにせよ、駅名を解釈するには、設置当時の「地名状況」を調べなければならない。」

なーんて、他の駅名事典を批判しておいて、その直後に、燕三条/三条燕の鉄道ヲタクの俗説に見事にひっかかるあたり、痛恨である。

 

 

燕三条駅名と三条燕インターチェンジ名争いの追記 (15)

 「東京人」の特集「新幹線と東京」において、原口隆行氏が「決着したのは、関越自動車道のインターチェンジの名前を三条燕にすることに両社が合意したことからだった」と記しているのも、ダウトとなる。

 

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燕三条駅名と三条燕インターチェンジ名争いの追記 (19)

 最後の検証テーマは、 

「新幹線の駅名を燕を先にする代わりに、駅長室を燕市から三条市に移したのか?」である。また、これも「角栄の裁定」によるものだとする本もある。

 その一例が、「いまこそたのしみたい新幹線の旅」(PHPビジュアル実用BOOKS) 梅原淳・著 である。

 

 「これ、実話なんです。」なんだかどうやら。

 

 

 「鉄道オタクの間で有名なのと真実なのは別だ」というのは、今まで見てきたとおりであるのだが。 

 

燕三条駅は計画の当初から三条市に設置することになっていた

 再掲となるが、日本鉄道建設公団の当初の計画から燕三条駅(仮称)が、三条市上須頃に設置されることになっていた。

 「駅長室争い」を偉そうに知ったかぶるオタクに、このような計画との整合性に触れた人は残念ながら見たことは無い。

 私が知らないところではいらっしゃるのかもしれないけれども。

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (86)

 燕市史889頁では「 最初の予定では肝心の駅長室は燕側に設置されることになっていたという。」「こうしたことが公団側の耳に響いたのだろうか。駅長室がいつの間にか現在の所に変わったとされている。」としている。

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (87)

 1982年10月25日付毎日新聞「政治新幹線は走る 11・15上越開業<1>二市またぐ燕三条駅」では、 

 「その駅長室の場所も駅名が「燕三条」と内定したところ、当初計画の燕市側から移し替えられた。」とし、燕三条駅長にぶつけるも 

「そんなこと聞いていません」と否定されている。 

  しかし駅長室の壁のコンクリート柱が不自然にでっぱっているのを指して「大あわての駅長室移転の証拠は歴然だ」としている。

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (88)

 一方、こちらは鉄建公団の「上越新幹線工事誌(水上・新潟)」869頁に掲載された燕三条駅の竣工図面だ。 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (89)

 駅構内をジグザグに走る「行政境界線」がお分かりになるだろうか? 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (90)

 このジグザグは、農地整備を行う際に、地型にあわせて行政境界線を定めたのかな? 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (91)

 今の駅長室を工事誌掲載図面で確認すると、確かに三条市域内にある。 

 では、燕市史のいうような「 最初の予定では肝心の駅長室は燕側に設置されることになっていたという。」という論を補強できる図面はあるのか? 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (92)

 「上越新幹線工事誌(水上・新潟間)」870頁 には、燕三条駅の施設配置の「計画」と「実施」が掲載されている。

 現在、燕三条Wingがある場所が、計画段階では駅長室等ができるはずだったのだ。

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (93)

 また、「上越新幹線工事誌(水上・新潟間)」871頁には、変更された理由が記されている。 

 変更の理由は、省力化のための「国鉄側からの強い要請」だった と書いてある。

 当時国鉄が大赤字なのにもかかわらず採算の見込めない政治新幹線建設にまい進することを批判する声は強く、駅員の配置を省力化する必要があったのだろう。 

 今の駅長室への位置の変更理由は、田中角栄の裁定ではなく、国鉄から鉄建公団への要請だった。まあ、「政治家の裁定の結果とは大きな声では言えないので、国鉄からの要請だったことにした」可能性がないわけではないが、公式には「国鉄の要請」である。「角栄の裁定」説を取る方も「国鉄は否定しているが、こういう物証を踏まえると自分は田中角栄の裁定説を支持する」といった決意表明が必要であろう。 

 ただ、どちらにしても、三条市域から三条市域への変更にすぎない。 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (94)

 更にその前の案もあった。 

  鉄建公団「第12回技術研究会記録」が1976年10月に発行されている。

 鉄建公団の社内発表会記録集といったところか。 

 そこに「上越新幹線燕三条(仮称)駅の計画について」という報文が掲載されている。 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (95)

 そこには「A案」「B案」の二つの案が掲載されている。 

 しかし、両案共に三条市域内に所在している。 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (96)

 A案からB案への変更理由は、弥彦線と新幹線の連絡方法の変更によるものだとされている。

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (97)

 鉄建公団の資料で追える範囲では、駅長室の場所は2回変更されたが、全て三条市域内であり、「燕市域から三条市域への変更」を示す資料は見当たらない。 

 

 

 

 「在来線は改札口がなくてワンマン列車では無人駅扱い」なのは「歴史的な確執」は関係ないんだなあ。 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (98)

 原因が田中角栄の裁定なのか国鉄の要請なのかには関係なく、時系列としては、田中角栄の「裁定」の前後でも、駅長室は三条市内での変更に留まっている。 

 鉄建公団「第12回技術研究会記録」は1976年10月の発行である。 

 一方、田中角栄の「裁定」は、早野透・著「田中角栄と「戦後」の精神」165頁によると、1980年9月だ。 

 田中角栄の「裁定」の前後で、「燕市域内に駅務室が計画された記録」は、少なくとも鉄建公団の公式記録には無く、2回の変更が認められるが、一貫して駅努室は、三条市域内にあったと言える。 

 「第12回技術研究会」より前には、燕市域内に駅長室を置く案があったかもしれないが、そんな時期であれば、「駅名で揉めた代わり」にも「角栄の裁定」にも関係ない。 

 

燕三条駅名と三条燕インターチェンジ名争いの追記 (20)

 そもそも、 田中角栄の「裁定」の詳細を報じているのは朝日新聞新潟支局に勤務していた早野透記者のこの著書なのだが、角栄の「裁定」が駅長室に及んだとは書いていない。

 他にご存じの方は是非情報を。

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (99)

 ということで、田中角栄の「裁定」で駅長室を燕市域から三条市域に移したというのはガセではないか? 

 「田中角栄の裁定により、駅長室が燕市域から三条市域に移された」と主張する方は、「燕市域に駅長室が存在する段階の計画図」を是非お見せいただければ。そしてその位置変更が「角栄の裁定」によるものだという時期の整合性等の裏付けも是非。 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (100)

 とはいっても、燕市史にも採用されるくらいの「説」である。何か背景があるに違いない。 

 ということで、私が探してきた『背景らしきもの』がこちら。 

 燕三条駅の「開業準備駅」の電話番号は、燕局だったが、これが開業にあたって三条局に変更されている。 

 単に駅務室(三条市域)の造作が完成して、仮設の開業準備駅(燕市域)から本設置されただけのことが、「角栄の裁定」による変更と呼ばれるようになったのでは? というのが、私の「推測」である。

 如何であろうか? 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (101)

 報道を紹介したとおり、ガセっぽいものの、当時「駅長室を移した」という話が地元に出回っていたことは確認できた。 

 しかし、当時は「駅長室の移転が田中角栄の裁定によるもの」とまでは言い切った報道はないように思う。 

 駅名について田中角栄が裁定に動いたことはほぼ間違いないのだが、「駅名のバーターで駅長室の移転を田中角栄が裁定した」という話は、後から出てきた(後乗せされた)ストーリーではないだろうか? 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (102)

 上りホームは2線あるので、三条側の方が広い(下り線ホーム下の燕側には今の駅長室の巾は収まらない)という構造的な違いもある。 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (103)

 これは余談だが、燕三条駅の上り線が二線ある理由として、ネットでは「将来の羽越新幹線対応だ」とする声もあるようだ。

 これについて、鉄建公団の工事誌では「輸送の弾力性の確保および新潟車両基地からの試運転列車の折返しに対応して上り副本線を1線(上り第2副本線)増設した。」とされている。

 あまり夢のある話ではなさそうだ。 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (104)

ところで、燕市側と三条市側がほぼ対称となっている特徴的なレイアウトの燕三条駅だが、「それぞれの側に市の玄関を持ちたいと切望して協議を重ねた結果」なんだそうだ。 

 また、この段階では「三条口」「燕口」ではなく「東口」「西口」となっている点も興味深い。 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (105)

 そして「既設の新幹線では例をみないこと」で「1階コンコースは,駅前広場の延長となり,広場的色彩の濃いもの」なんだそうで。 

 「国鉄末期に開業した新幹線の駅の特徴」なのか「例をみない駅前広場配置」に伴うものなのか、「どっちなんだい!」  

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (106)

 ということで、主な検証課題の(結論)  

 「新幹線の駅名を燕を先にする代わりに、駅長室を燕市から三条市に移したのか?」は、否定されたということでよかろう。 

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 まあ「燕三条駅にまつわる、鉄道オタクには有名な真実」はたいてい嘘だったと言っていいのではないか。 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する(107)

 となると、ロクに裏取りもしない鉄道系YouTube動画とかはどうなってるんですかねえとしか。 

 

 

 

【上越新幹線】燕三条駅ってどんな駅? まあ 

 

 

 

【驚愕】新幹線が停車する駅に行ってみたら、駅構内に市境界があった。その理由とは?(後編)/紛糾の新幹線駅誘致の跡が今も残る上越新幹線燕三条駅。 とちまる

 

 

駅名をめぐる争い【前編】「燕三条駅」の誕生物語 太郎の部屋

 

【これで良かったのか?】対立する両市のメンツを立てた燕三条駅【現在のまちづくりの阻害になっていないか?】鐵坊主

 

 

【激しいPR合戦】構内を市境がぶった切る新幹線駅がありました… 泊静蓮 交通 / Pakuseiren Traffic

 

 

 

 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (108)

 そーゆー目で見ると、浅井建爾氏の「日本全国因縁のライバル対決44」もかなりトンデモ本ではないかと。 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (109)

 嗚呼。。。 

 

 燕三条駅名と三条燕インターチェンジ名争いの追記 (22)

 浅井建爾氏は、「日本の駅名 おもしろ雑学」でも、ドイヒーな記事を書いている。

 同様な低レベルな記事なので、中身を紹介する手間ももったいない。

 

燕三条駅名と三条燕インターチェンジ名争いの追記 (23)

 新潟郷土史研究会もドイヒーだ。

 

燕三条駅名と三条燕インターチェンジ名争いの追記 (24)

 鉄道ライターとか鉄道考察youtuberとかなら、仕方ないが、高校の歴史の先生や新潟県史編纂室の方がこれでは如何なものか?

 せめてご存命中の駅とICの開通の順番くらいは。。。

 これでは『新潟「地理・地名・地図」の謎』の謎を解くはめになってしまう。

 伊藤善充先生、菅瀬亮司先生、高橋邦比古先生、山上卓夫先生、伊藤雅一先生、宜しくお願いしますよ。。。

 

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燕三条駅名と三条燕インターチェンジ名争いの追記 (25)

 ところで、鉄道オタク諸氏は、すぐ「駅の登記ガー」って言うけどさー

 実際に、燕三条駅の登記簿見たことある?

 法人の「支店」といった位置づけで、「駅」とその「住所」が法人登記されるのではなくて、不動産登記の一環として、建物が登記されるだけなんだけど。

燕三条駅登記

 

 構造が「鉄骨・鉄筋コンクリート造コンクリート板葺3階建」で、種類が「駅舎・乗降場・事務所」の建物が登記されるという仕組みなんである。

 「所在」も三条市と燕市の多くの筆のうえに駅舎が建っていることを示している。

 なお、上記のなかで、「所在」は御覧のとおり、三条市と燕市の多くの筆に跨っていることを示しているが、不動産登記上、何市の何町字何にあることになっているかは、分かるようになっているので、よく見てみてくださいね。

 

ところで、工事実施計画上の駅の位置(自治体)と駅長室の位置(自治体)が、仮に違う自治体となった場合はどちらの自治体が「所在地」になるんですかね?

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上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (110)

 竹内正浩氏の「妙な線路大研究 東北・北海道・上越・北陸新幹線編」における燕三条駅に係る記述を検証してみると、このとおりで。 

 

燕三条駅名と三条燕インターチェンジ名争いの追記 (26)

 なお、私がこのブログを書いた2023年5月からわずか3個月あまり後に、竹内正浩氏が、新著「新幹線全史 「政治」と「地形」で解き明かす」を発刊されたのだが、参考文献に私のこのブログが紹介されている。

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (111)

 竹内正浩氏から、ソースにしたのは、JR東日本元会長の山之内秀一郎氏の著書であることをご教示いただいた。 

 なるほど「上越新幹線の「燕三条」駅は燕と三条をどちらの名前を先に入れるかの論争となり、高速道路のインターチェンジを「三条燕」とすることで落ち着いたという」とある。 

 会長御自ら自社商品のデマを撒いてまわるのがJR東日本と。。。 

 本に書くのなら、高速道路と新幹線がどちらが先に開通したかくらいは調べてほしいものである。 

 鉄道オタクも「調べればわかるだろ」とTBSを叩くなら、山之内氏にも同様にどうぞ。 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する(112)

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(余談)デマじゃないけど、燕三条駅とは関係ないのだが、本書の山之内氏の記述で気になる点がある。 

 それは、上野東京ライン(東北縦貫線)に係る地元千代田区との関係についてである。 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (113)

 山之内氏が、自慢げに「東北新幹線工事の際に、将来上野東京ライン(東北縦貫線)を建設できるように基礎を強くしていた」旨書いている当時は、地元千代田区民とJR東日本は、上野東京ライン建設を巡って激しく係争中であった。

 その争点の一つが新幹線建設時に地元と国鉄が締結した「確認書」である。そこには「縦貫線については、廃止することが提示され、(略)これを前提として今後新幹線工事推進に伴う諸問題については、前向きに合意するよう相互に協力する」との記載がある。
 

 そんな紛争の最中に「確認書なんか知らんぜ」とばかり著書で自慢しちゃうのが山之内氏なんである。
 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (114)

 東大卒の国鉄学士様でいらっしゃる山之内氏にとっては、東京都民との「確認書」や東北縦貫線建設のトラブルなんか、自著の自慢ネタを増やすことの重要性に比べれば屁でもないのかもしれないが、「なんだかなー」
 

 東大卒の国鉄学士様でいらっしゃる山之内氏にとっては、高速道路の後に新幹線が決まることなんかとうてい許せないのかなあ? 

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上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (115)

 そんな上越新幹線も、「新幹線レジェンド」からは辛口評価を受けている。 

 島秀雄氏は、太閤さんの「聚楽第」と 

 もちろん「太閤さん」とは「今太閤」とも呼ばれた田中角栄のことを指す。 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (116)

 兼松学氏は、東海道新幹線の世銀借款をまとめあげた立役者だ。 

 

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上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (117)

 閑話休題。まとめに入ろう。 

☆高速道路「三条燕IC」命名経緯まとめ 

◆高速道路の方が新幹線より先に計画が立てられた。

◆法律上のICの位置は「三条市」。 

◆法律上「三条市にある三条燕IC」であって、「燕市にある三条燕IC」ではない。 

◆上越新幹線の計画が発表される前から、仮称「三条燕IC」。 

◆燕市史「IC名は、すんなり決まった」 

◆高速道路の方が新幹線より先に開通したので、「新幹線を燕三条にした代わりに高速道路を三条燕にしてバランスをとった」は、時系列的に嘘。 

◆田中角栄の「燕三条駅裁定」よりも先に開通しているので「田中角栄が裁定して新幹線と高速道路でバランスをとった」は、疑問的。 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する(118)

☆新幹線「燕三条駅」命名経緯まとめ 

◆燕市史や当時の報道では「燕市と三条市が駅設置を争った」という趣旨の記載はない。 

◆日本鉄道建設公団の篠原総裁は「高速道路のランプ近くに駅を設置して自動車の乗り入れを便利にした」旨記している。

◆高速道路の「三条燕IC」が開通した後もまだ新幹線の駅名は揉めていた。(両社のバランスをとって「裁定」したのなら、高速道路開通後に駅名が揉めることはないのではないか) 

◆燕市と三条市の他に弥彦町が「越後一の宮駅」を主張。しかし「新燕駅」案を扱った当時の報道は見当たらず。 

◆朝日新聞記者によると、田中角栄の「裁定」は、当初「三条燕駅」だったが、後で「燕三条駅」にひっくり返した。これは燕市を地盤とする田中派の大物議員に配慮したのではないかと考察。 

◆駅名決定時には「高速道路が三条燕なので駅名を逆にしてバランスをとった」との報道。(現在の「有名な説」とは逆) 

 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する (119)

☆「燕三条駅」駅長室移転経緯まとめ 

◆1971年の新幹線工事実施計画認可の段階で燕三条駅は三条市に位置するものとされていた。 

◆ 鉄建公団の工事誌等に現在の駅長室位置以前に2箇所の案が掲載されているが、いずれも三条市域内で、燕市域の駅長室案はない。

◆田中角栄の「燕三条駅名裁定」の前後でも三条市域内に駅長室があることは変わらない。 

◆鉄建公団の工事誌では、駅長室が移転(ただし三条市域から三条市域への移動)したのは国鉄から公団への要請によるもの。 

◆駅長室を燕市域から三条市域に移転させたことは、当時国鉄燕三条駅長が否定。 

 

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燕三条駅名と三条燕インターチェンジ名争いの追記 (27)

 地元のFM放送局である燕三条エフエム放送「ラヂオは~と」は、どういう経緯なんだろうと思って同社のウェブサイトを見たら、燕三条駅の1階が出発地とのことで、「燕三条エフエム」と名乗るのもなんとなく納得感はありますな。 

 それでも放送区域は「三条市・燕市・弥彦村のほぼ全域、加茂市・新潟市の一部」と三条が先に来ているあたり、バランスを取っておられる様子です。 

上越新幹線燕三条駅と北陸自動車道三条燕ICの命名経緯を検証する  

 

 ケンオー・ドットコムさんの記事は参考になりました。 

 

 

 まあ、こういうことでいいんじゃないかな 

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<燕三条駅/三条燕駅 関連年表> 

1964(S39)年5月  国土開発縦貫自動車道建設法に北陸道(新潟~大津)追加 

  

1967(S42)年11月22日 北陸道(新潟~長岡)基本計画決定 

 (「燕市付近」へIC設置) 

  

1969(S44)年1月20日  北陸道(黒埼~長岡)整備計画決定 

(三条市へIC設置が決定) 

1969(S44)年4月1日  北陸道(黒埼~長岡)建設大臣から施行命令 

  

1970(S45)年5月  全国新幹線鉄道整備法公布 

1970(S45)年11月11日 北陸道(新潟~長岡)路線発表 

(具体の路線やIC位置等が決定) 

  

1971(S46)年1月  上越新幹線基本計画決定 

1971(S46)年4月  上越新幹線整備計画決定

「レジャー産業・資料」1971年8月号「北陸自動車道工事中間報告」に、「三条・燕IC」が出てくる。 

1971(昭和46)年秋の段階では中之口村に出来るはずだった新幹線駅を、三条市長(当時市議)が、目白詣でをして、三条市内にもってきた旨1982(S57)年10月25日付毎日新聞が報道。

1971(昭和46)年9月26日付読売新聞は、「三条付近(東三条と燕の中間)」と報道。

1971(昭和46)年9月30日付朝日新聞は、「仮称「新三条」駅」「幹線道路とのつながりをどうするかの課題がからみ最終的な位置決定は数日中に行う」と報道。

1971(S46)年10月12日 上越新幹線工事実施計画認可申請

1971(S46)年10月14日 上越新幹線工事実施計画認可

(燕三条駅(仮称)を三条市大字下須頃に設置することが決定。この段階では、新幹線単独駅で弥彦線には接続しない計画。)

1971(S46)年10月20日付新潟日報は、「県央広域市町村圏内に停車すれば文句はない」、燕市が「燕という文字がはいっていればよい」と報道。

 

 

「道路」1973(S48)年11月号に、篠原武司日本鉄道建設公団総裁が、燕三条駅について「高速道路のランプ近くで自動車の乗り入れを便利にし,なるべく広大な駅前広場をつくって,バスや自家用車の乗り付けを便利にした。」と寄稿。

 

1976(S51)年10月 鉄道建設公団「第12回技術研究会」にて「上越新幹線燕三条(仮称)駅の計画について」が報告される。

(当時から駅長室は三条市側。現在の燕三条Wingを駅長室等とする当時の計画図面が報告されている。)

 

1978(S53)年4月15日付新潟日報が、地元が燕三条駅への弥彦線乗り継ぎ駅の設置を要望している旨報道。

1978(S53)年6月23日付新潟日報が、新幹線と弥彦線連絡駅が設置されるようになった旨報道。

1978(S53)年9月21日 北陸道長岡~新潟黒埼開通

(燕市史「IC名はすんなり決まった」)

 

1980(S60)年5月10日付新潟日報は、「“駅名結着”へ熱い切符争い 「弥彦参戦」負けじの両市」と報道。

(弥彦村は、三条、燕どちらが先になってもしこりが残るだろうとの配慮もあって「越後一の宮駅」を提案。)

(燕市は、北陸道が三条燕ICと決まったため、「駅名だけは譲れない」。)

(三条市は、「すぐ隣のインターと別な呼び方じゃ利用者が混乱する」と三条燕駅を主張。)

1980(S60)年9月に、三条市の田中角栄支持団体会長である加藤重利氏が、角栄に裁定を求める。角栄は「燕三条」で加藤氏をなだめようとするが、譲らない。角栄は「それほどいうなら」と「三条燕」を引き受ける。二日後に、田中事務所から加藤氏に「駅名は燕三条で決めた」と電話があった。(早野透・著「田中角栄と「戦後」の精神」)

1980(S60)年10月17日付新潟日報は、「仮称通り「燕・三条駅」に」と報道。

「週刊読売」1980(S60)年11月23日号は、10月20日に国鉄新潟管理局が「燕三条駅」を提示した。三条側の業界は「市名が下になるのはイメージダウンだ。駅を誘致したのは我々なのに」と怒り心頭と報道。

 

 

1982(S57)年2月3日  東北新幹線・上越新幹線駅名正式決定

1982(S57)年2月4日付新潟日報は、「燕三条駅大岡裁き」、三条市長が「後にくる名が“本名”ということなので、こちらもそう理解している」と報道。

1982(S57)年2月4日付読売新聞は、「北陸道のICが「三条燕」になったことから、新幹線については「燕」上位で合意」と報道。

「電気車の科学」1982(S57)年3月号は、「北陸道のICが“三条燕”なので駅名の方は逆にバランスをとったかたち.国鉄さんの生活の知恵をしぼった決定ぶり」と報道。

 

1982(S57)年11月15日 上越新幹線大宮~新潟開通

 

「週刊ポスト」1982(S57)年11月26日号は、「三条市は田中角栄、燕市は角栄直系・小沢辰男の選挙区だ。そこで角栄は自分の利権を確保すると同時に、小沢にもそれを分け与えるために、真ん中に駅をつくった」と報道。

 

1982(S57)年10月25日付毎日新聞は、駅長室が燕市側から三条市側に移し替えられたのではないかと燕三条駅長に質問するが、駅長は「そんなこと聞いていません」と回答。

 

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2021年8月 8日 (日)

毎日新聞【⿊川晋史記者】「五輪が来たニッポン︓1964→2021 都市の姿、環境優先へ」とプロジェクトX「空中作戦」

 東京オリンピックにあたって前回の東京オリンピックとの比較する記事が幾つか見られた。毎日新聞にもこんな記事が載っていた。


五輪が来たニッポン︓1964→2021 都市の姿、環境優先へ

 

 戦後復興の象徴として記憶されている、1964年の東京オリンピック。⼤会を境に、⾼速道路や下⽔道など、都市環境は劇的に変化した。経済発展や利便性の向上が最優先だった時代から半世紀余り。2度目の東京五輪を迎えた今、都市を巡る状況を振り返ってみたい。

 

 64年五輪の開催が決まったのは59年。当時は本格的な⾞社会の到来で深刻な交通渋滞が懸念されていた。放置すれば五輪関係者の移動にも混乱が⽣じかねない。そこで渋滞緩和を目指して計画されたのが⾸都⾼速道路だった。

 ⽤地買収の⼿間を省くため川や道路の上に⾼架を通す「空中作戦」など、五輪に間に合わせるために奇策も使って⼯期を短縮し、⾸都⾼は59年の基本計画決定からわずか5年間で4路線32・8キロが完成。五輪競技会場や⽻⽥空港を結ぶ動脈として⼤会を⽀えた。東京のシンボルの⼀つ「⽇本橋」の上を通るルートも、空中作戦の産物だった

 「我々が⽇本で初めての都市内⾼速道路を完成させる、との気概を持って仕事をしていた。『早く作れ』という社会全体の応援を感じた」。今年6⽉の建設関係の団体の講演会に、旧⾸都⾼速道路公団の技術者だった⼤内雅博さんは亡くなる直前、こんなメッセージを寄せた。都市の発展を願う世相と技術者の熱意が重なって、⾸都⾼建設は進んだ。

(以下 略)

 【⿊川晋史】

 

2021(令和3)年7月28日毎⽇新聞 東京⼣刊

 「革洋同の野郎、まーた『空中作戦』狩りかよ。もう飽きたよ。」

 とおっしゃる読者の方もいらっしゃるかもしれない。

 ただ、今回はいつものやつとはちょっと趣旨が異なる。

 

 私のブログを読んでいただいている方には

 「首都高の『空中作戦』は、おそらくNHKの『プロジェクトX』の造語ではないか?(それ以前の出版物等には出てきた事例を見つけられていない)」

 「首都高が川や道路の上に設けられたのは、五輪に間に合わせるためではなく、五輪決定以前から決まっていた」

 という話はおなじみかと思うので、ここでは詳細には述べない。

 

 過去の記事のリンクを貼っておくので、⿊川晋史記者等、馴染みのない方はあわせて下記をご参照いただきたい。

●プロジェクトXの首都高の回の決め文句「空中作戦」は、本当は言っていなかった

https://togetter.com/li/1432212

●「首都高をオリンピックに間に合わせるためには『空中作戦だ』」のアンビリバボーを検証してみる

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2018/04/post-f51a.html

●古市憲寿氏「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール 五輪に間に合わせた急ごしらえの代償」を検証する。

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2019/08/post-97a48d.html

 

 一方で、NHKのプロジェクトXで首都高速の「空中作戦」についてどう扱われていたかは、当該番組の制作にあたった今井彰氏が下記に書いている。

「東京オリンピックへの光景 第六回 首都高速道路の空中作戦」style-arena

https://www.style-arena.jp/trend/270

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 まあ、ここまではいままでのブログのネタの繰り返しなのだが、ここからが今回の毎日新聞黒川晋史記者の記事の気になるところである。


五輪が来たニッポン︓1964→2021 都市の姿、環境優先へ

 

 (略)

 「我々が⽇本で初めての都市内⾼速道路を完成させる、との気概を持って仕事をしていた。『早く作れ』という社会全体の応援を感じた」。今年6⽉の建設関係の団体の講演会に、旧⾸都⾼速道路公団の技術者だった⼤内雅博さんは亡くなる直前、こんなメッセージを寄せた。都市の発展を願う世相と技術者の熱意が重なって、⾸都⾼建設は進んだ。

(以下 略)

 【⿊川晋史】

 

2021(令和3)年7月28日毎⽇新聞 東京⼣刊

 先に紹介した毎日新聞黒川晋史記者の記事の部分的な再掲である。

 太字で書いた「今年6⽉の建設関係の団体の講演会」であるが、一般社団法人建設コンサルタンツ協会が2021(令和3)年6月22日に開催した「東京オリンピック1964に向けた首都高速道路の整備」ではないかと推測される。

 その講演記録が同協会のウェブサイトに公開されている。

https://www.jcca.or.jp/infra70/wp-content/uploads/2021/05/PJNO21.pdf

 上記PDFの「講演者」に「大内 雅博 元首都高速道路公団交通管制部長」というお名前が載っている。(この講演会はコロナの関係で延期され、2021年6月にweb講演の形で開催された。その間に大内氏が亡くなられたのだろうか?)

毎日新聞⿊川晋史記者のオリンピックと首都高空中作戦記事 (4)  

 「『我々が⽇本で初めての都市内⾼速道路を完成させる』との気概を持ち」という表現も同じであり、コロナ禍のなか講演会もそうそう開催されているわけではないので、黒川晋史記者が参考にしたのは、建設コンサルタンツ協会の講演で間違いないのではないか。 

 ところで、その講演ではこんなことも述べられている。

毎日新聞⿊川晋史記者のオリンピックと首都高空中作戦記事 (5)

毎日新聞⿊川晋史記者のオリンピックと首都高空中作戦記事 (6) 

 上記は、首都高速道路の構想が具体化していく時系列なのだが、これが、黒川晋史記者が書く「⽤地買収の⼿間を省くため川や道路の上に⾼架を通す「空中作戦」など、五輪に間に合わせるために奇策も使って⼯期を短縮し、⾸都⾼は59年の基本計画決定からわずか5年間で4路線32・8キロが完成。」とは時系列の平仄がとれない。 

 


<プロジェクトXが誤解を広め、今般毎日新聞黒川晋史記者がのっかった首都高速道路建設の経緯>

 

・東京オリンピック開催決定

  ↓

・首都高速道路公団設立

  ↓

・オリンピックに間に合うように「空中作戦」で高速道路を川の上に

 

  

 


<毎日新聞黒川晋史記者が参考にしたと思われる「今年6⽉の建設関係の団体の講演会」の講演録に載った首都高速道路建設の経緯>

1956(昭和31)年 東京都が「道路白書」を作成、「昭和40年に予想される道路交通危機」対策のため都市高速道路の導入等を訴える。

1957(昭和32)年7月 建設省が「東京都市計画都市高速道路に関する基本方針」を作成し、経過地の選定に不利用地、河川、運河等を利用すること等の方針が打ち出された。

1957(昭和32)年8月 東京都市計画地方審議会に、高速道路調査特別委員会を設置。

1958(昭和33)年1月 東京オリンピック準備委員会・設立準備委員会及び第1回総会開催。

1958(昭和33)年4月 国会でオリンピック東京招致決議案を可決(衆議院15日、参議院16日)

1959(昭和34)年1月 首都高速道路公団法が閣議決定され国会へ提出。

1959(昭和34)年4月8日 首都高速道路公団法成立(同14日公布・施行)

1959(昭和34)年5月 首都高速道路の都市計画決定に向けた取り組みが重ねられた最中に東京オリンピック開催決定

1959(昭和34)年6月 首都高速道路公団(現・首都高速道路株式会社)発足

1960(昭和35) 首都圏整備委員会で首都高速道路や都道が「オリンピック関連道路」として位置付け議決。

 

 斜字部分は私が参考までに追記

 大学の教授ならともかく、一般紙の記者に「首都高速道路公団●●年史の●頁に載っていることと違う!」なんて記事の水準は求めるべくもないが、通常の注意力があれば、自分が参考にした(であろう)「今年6⽉の建設関係の団体の講演会」の話が、自分が参考にした(であろう)プロジェクトXと違うぞと気づくのを求めるのは酷だろうか? 

 ちなみに当該講演は実際には2時間、講演録で8頁である。締め切りに追われていたのかもしれないが、根拠があやふやな同業他社の造語である「空中作戦」にそこまで固執しなくてもよかったのではないだろうか。。。 

 ちなみに、当時の毎日新聞を調べてみるとこんな記事が載っている。 

毎日新聞⿊川晋史記者のオリンピックと首都高空中作戦記事 (3) 

 「都内に(有料)高速道路 川の上など利用、八本」という題名で、添付されている「首都高速道路事業計画図」は、現在の路線図とほぼ同じだ。(厳密には羽田空港付近と人形町付近等が変更されている。) 

 ちなみに、この毎日新聞の記事の日付は、 東京オリンピック開催決定より約10箇月前の1958(昭和33)年8月24日夕刊である。記事中に「東京オリンピック」という言葉は見られない。

 黒川晋史記者の「64年五輪の開催が決まったのは59年。当時は本格的な⾞社会の到来で深刻な交通渋滞が懸念されていた。放置すれば五輪関係者の移動にも混乱が⽣じかねない。そこで渋滞緩和を目指して計画されたのが⾸都⾼速道路だった。⽤地買収の⼿間を省くため川や道路の上に⾼架を通す「空中作戦」など、五輪に間に合わせるために奇策も使って⼯期を短縮」という記事と、黒川晋史記者の先輩が書いた記事を比較しての感想は如何であろうか? 

 黒川晋史記者を指導・教育する立場の上司の方が「黒川君、当時のわが社の記事のデータベースくらいチェックしておいたかい?」と一言かけてくれればこんなことにはならなかったのではないかと悔やまれる。  

  

 黒川晋史記者のために付言しておくと、実際に首都高の河川上等を利用した初期のルート決定は下記の形で決まっている。 

毎日新聞⿊川晋史記者のオリンピックと首都高空中作戦記事 (1) 

毎日新聞⿊川晋史記者のオリンピックと首都高空中作戦記事 (2) 

 ※このときは、まだ羽田空港には直結していない。 

 「昭和40年には、(略)交通能力が満度に達するものと想定されるので、都内の自動車の増加率並びに平面道路の交通処理能力からも極めて短期間に建設されることが必要であることを強く要望いたします。」が、昭和32年当時に首都高を急いで建設する理由とされている。

 黒川晋史記者の書く「64年五輪の開催が決まったのは59年。当時は本格的な⾞社会の到来で深刻な交通渋滞が懸念されていた。放置すれば五輪関係者の移動にも混乱が⽣じかねない。そこで渋滞緩和を目指して計画されたのが⾸都⾼速道路だった。」と比較してみては如何であろうか? 

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 黒川晋史記者は、 「名橋『⽇本橋』保存会」の中村胤夫会長のコメント等を通して、当初は「新しい物ができる期待感が強」かったが「そのうちに「圧迫感がある」「⽇陰ができて暗くなる」という声が上がり始める。」としている。

 当時(1959(昭和34)年2月23日)の毎日新聞で 黒川晋史記者の先輩は、そのあたりどう報道したのだろうか?

首都高諸橋雅之氏の日本橋ヤボ発言を検証する3 

 当時の毎日新聞では「都の高速道路に物いい」という見出しで都内の反対運動を報道している。 

 日本橋がある中央区内では「中央区内を通る高速道路はすべて地下式にしてしまえというわけだ。」とのこと。 ただし、この時点では首都高は日本橋の下を通っていたのだが(日本橋の上を通過するように変更されたのは狩野川台風による水害を踏まえてのもの)。

 日本橋のところで首都高が下を通る計画から上を通るように変更された経緯はこちら。いずれにせよ東京オリンピック決定前に日本橋の上を通るように変更されているのだが。

首都高速の日本橋附近は掘割型式で進めるはずだった3

 

首都高速道路のネットワーク形成の歴史と計画思想に関する研究」古川公毅・著 45頁から引用。

 

 あわせて1960(昭和35)年4月13日付け読売新聞の報道も見てみよう。 

毎日新聞⿊川晋史記者のオリンピックと首都高空中作戦記事 (10) 

毎日新聞⿊川晋史記者のオリンピックと首都高空中作戦記事 (7) 

 「名橋「日本橋」の上をまたいで四号線が通るのは反対、すれすれでよいから橋の下を通るべきだ。」と、実際には地元は日本橋の上を首都高が通過することを反対していたことが分かる。 

 ところで、毎日新聞の記事の日付に注目していただきたいのだが、1959(昭和34)年2月23日 である。

 黒川晋史記者は「川や道路の上に⾼架を通す「空中作戦」など、五輪に間に合わせるために奇策も使って⼯期を短縮」と書くが、中央区や港区が首都高の高架に反対したのは、黒川晋史記者の先輩の記事によれば東京オリンピック決定以前である。また、日本橋の上を首都高が通ることが決定(変更)したのもオリンピック決定前に狩野川台風による水害を踏まえてのものである。 

 やはり、黒川晋史記者を指導・教育する立場の上司の方が「黒川君、当時のわが社の記事のデータベースくらいチェックしておいたかい?」と一言かけておくべきだったのではないか。  

 また、上記の読売新聞によると東京オリンピック決定後も日本橋の上を首都高が通ることを反対しており、 「名橋『⽇本橋』保存会」の中村胤夫会長のコメントとはニュアンスが異なる。まあ、ここは「個人の感想です」といったところか。

 

 ちなみに「首都高研究家」の清水草一氏は「日本橋の上空を通過している首都高が、景観を悪化させていると言われ、地下化が決定しているが、建設当時、反対運動は皆無だった。」と述べている。

https://kurukura.jp/car/2021-0614-60.html

 ご参考まで。

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 ところで「東京オリンピックに間に合わせるために河川の上に高架」史観は、プロジェクトXや黒川晋史記者だけでなく、コミックの世界でも見られる。 

 毎日新聞⿊川晋史記者のオリンピックと首都高空中作戦記事 (8)

 上記は、楠みちはる先生の「湾岸ミッドナイトC1ランナー」2巻9頁から台詞だけ抜粋したものである。 

 いちいち対比表は作らないが、私の言わんとしていることがご理解いただけるだろう。 

 なお、一般社団法人建設コンサルタンツ協会の「東京オリンピック1964に向けた首都高速道路の整備」の講演記録と比較すると、当初の開通路線も異なっている(都心環状線の東側か西側かの違いにご注目)。

毎日新聞⿊川晋史記者のオリンピックと首都高空中作戦記事 (1) 

 まあ、こちらはファンタジーだから、もっともらしく楽しめればよい話なので、時系列も路線図もあまり揚げ足を取るようなことは無粋かもしれないが、くれぐれも真に受けないようにといったところか。 

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 「じゃあ、首都高成立の経緯は何が正しいんだよ」とおっしゃる方には、これがお勧め。

「首都高速道路のネットワーク形成の歴史と計画思想に関する研究」

https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000010064301-00

 黒川晋史記者も竹橋から国会図書館はすぐなので一読してみては如何か?

 黒川晋史記者が参考にしたと思われる「今年6⽉の建設関係の団体の講演会」の檀上に立った方でもあるので、是非。

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2021年5月 3日 (月)

階段国道339号に公共交通機関(JR津軽線と路線バス)で行く方法

 前回は階段国道の謎にエビデンスなしで迫ってみたのだが、ついでの記事を。

 階段国道の現地レポは先人の方々がたくさん書いておられるので今更私が書くほどのことはないが、「公共交通機関でどうやって階段国道に行くのがよいか」について書いたものはあまりなかったようだ。

 「道路マニア」はやはり車で行くのかな。

 しかし「せっかくなら津軽線の乗りつぶしとセットで階段国道に行きたい」という方もいらっしゃるかもしれないので、私が行った記録でも何かのご参考になるようでしたらどうぞ。

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 私が階段国道に行ったルートは

(東北・北海道新幹線)

 ↓

JR奥津軽いまべつ駅

 ↓

(徒歩)

 ↓

JR津軽二股駅

 ↓

(JR津軽線)

 ↓

JR三厩駅

 ↓

(外ヶ浜町営バス)http://www.town.sotogahama.lg.jp/kurashi/koutsuu/minmaya.html

 ↓

龍飛崎灯台バス停

 ↓

(徒歩)

 ↓

階段国道

 ↓

(徒歩)

 ↓

龍飛漁港バス停

 ↓

(外ヶ浜町営バス)http://www.town.sotogahama.lg.jp/kurashi/koutsuu/minmaya.html

 ↓

JR三厩駅

といったルートである。

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 詳細をご案内したい。

 まずは、北海道新幹線の奥津軽いまべつ駅で乗り換えだ。

階段国道339号  (1)

 往復津軽線に乗るのもよいが、「秘境新幹線駅」扱いされている奥津軽いまべつ駅で降りる機会も他にないだろう。

 なお、新青森駅からはJR北海道の路線なので、JR東日本の乗り放題の切符等では、追加料金が必要になることにご留意されたい。窓口は一つしかないので、あらかじめ車内で精算しておくとよいだろう。

 

 徒歩数分で津軽線の津軽二股駅である。

階段国道339号  (2)

 道の駅の裏側になるので、ご注意を。なんか文房具を買いたくなるような名前のお店がありますね。

階段国道339号  (4)

 

 JR津軽線の終点駅である三厩駅を降りると、目の前に小さなバスが止まっているが、これがお目当ての階段国道まで行く外ヶ浜町営バスである。

階段国道339号 (32)

 なお、駅前にはバス停以外何もないので迷う心配は一切ない。何か食事をしたり買い物をする店もない。

 

 唯一あるのが、これから向かう龍飛岬付近の観光案内の看板なので、地理感をよく掴んでおこう。

階段国道339号  (10)

 バスの運賃はどこまで乗っても100円だ。料金箱に入れよう。お釣りはないように準備しておこう。 

階段国道339号  (5)  

 

階段国道339号 (2)

 途中、国道280号は、緑看板となる。きっと自動車専用道路なんだろうw

 

階段国道339号 (31)  

 途中、国道280号と国道339号の合流点で、二つのおにぎりが並ぶ看板と、国道280号が北海道まで結ぶ「海上国道」たる所以の「東日本フェリー」の錆びた看板がある。 

海上国道280号 (2)  

海上国道280号 (1)

「全国版 ハイパワーA 道路地図」日地出版 1984年・刊 

 ところで、北海道・福島~青森・三厩の東日本フェリーについてはよく語られるけれど、この地図に載っている、福島~竜飛~今別~平館~蟹田~青森の旅客船も気になりませんか。ネットではあまり情報がないようだし。 

海上国道280号 (3)

https://www.davidrumsey.com/luna/servlet/detail/RUMSEY~8~1~301923~90072794:14-Aomori-ken,-Japan

  脱線するが、1956(昭和31)年の地図だと、航路はもっとマメに集落に寄港している。それだけ道路が貧弱だったのだろうなあ。

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階段国道339号 (38)

 左が国道339号だ。

階段国道339号 (3)

階段国道339号 (40)

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 ところで、外ヶ浜町営バスの走行ルートには注意しないといけない。

階段国道339号 (4)

 三厩駅→龍飛崎灯台行きはこんな感じ

階段国道339号 (5)

 帰りの龍飛崎灯台→三厩駅行きはこんな感じ

階段国道339号 (6)  

 私は、こういう感じで訪れた。逆ルートで龍飛漁港バス停から龍飛崎灯台バス停まで歩いてもよいのだが、それだと階段国道が上り坂になるのでご留意を。 

階段国道339号 (39)  

 私の場合は、この23分間で特に問題はなかった。 

 乗りつぶし目的で青函トンネル記念館のケーブルカー(竜飛斜坑線)に乗りたい方は、その時間を考慮すればよいだろう。 

 なお、バスの時間は外ヶ浜町のウェブサイトで最新のものをご確認いただきたい。 

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階段国道339号 (7) 

 龍飛崎灯台バス停を降りるとこんな感じだ。 

階段国道339号  (6)

 なお、この一帯は青函トンネルの発進坑があった。

階段国道339号 (9) 

階段国道339号 (10) 

 降りるとすぐ目の前にでかい看板があるので、道に迷うことはない。 

階段国道339号 (7) 

 目の前に「津軽海峡冬景色歌謡碑」が鎮座する。 

  紅白歌合戦で隔年で聞くことができる、あの石川さゆりの歌だ。

 中央の赤いボタンを「ポチっとな」とすると、”爆音”で津軽海峡冬景色が流れる。 

 私が投稿したものではないが、こんな感じだ。 

 

 道を急ぐ方はわざわざ聞くものではないかもしれない。 

 ちなみに裏側はこうなっている。 

階段国道339号 (8) 

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階段国道339号 (11)

 左手に「階段村道」の看板がある。階段になっている村道なぞ幾らでもあるだろうが、ここは一応登ってみる。

階段国道339号  (7)

 灯台にたどり着いて津軽海峡を眺めることができるのだが、私のブログを見るような方に見落としていただきたくないのは、右側のコンクリートの柱?である。 

階段国道339号 (13) 

 日本鉄道建設公団と建設省国土地理院による「渡海水準点」である。 

 青函トンネル建設にあたって設置されたのだろう。 

  

 私は問題なく行けたが、体力に自信の無い方は、最小時間の乗り継ぎであれば階段国道一本に絞った方がよいかもしれない。 

 くれぐれも「津軽海峡冬景色を聞いていたら時間がなくなった」ということのないようにw

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 階段国道と言ってしまえば、そのとおりで、普通に階段である。 

階段国道339号  (8) 

 国道の標識がなければなんてことはない。 

階段国道339号 (15) 

 照明灯を見ると、「青森県」「339」と書いてあるなあ。 

階段国道339号 (4) 

 途中の「国道」部分と同じように管理しているから、やっぱり青森県が管理する国道339号なんだなあ。 

とか 

階段国道339号 (16) 

 森林管理局の杭かなな。山ってなんのことだ?」 

とかくらいしか見るものもない。 

階段国道339号  (9) 

 中腹に学校跡地がある。 

 立ち寄る前に、バスの時間を確認だ。 

階段国道339号 (17) 

 三厩村立竜飛中学校跡地 

階段国道339号 (18) 

 裏には校歌が刻まれている。青森の中学校なのに、最初に出てくる地名が北海道なのは、海峡の街らしい。 

階段国道339号  (11) 

 中学校跡地を過ぎると、目の前に津軽海峡が広がってくる。一番のフォトスポットだろう。 

階段国道339号 (8) 

 そして階段を降りていくと、龍飛漁港が見えてくる。道路沿いの小さい小屋のところに「龍飛漁港バス停」がある。 

階段国道339号  (12) 

 階段をほぼ降り切ったところに、もう一つのフォトスポットがある。 

 ぶっちゃけ、道路マニアや珍スポマニア以外にとっては、2箇所で写真撮るだけで、他の一般人にはなんてことないと思っちゃう(個人の感想です。)。 

 こう言っては身も蓋もないのだが「階段なのにわざわざ国道に指定した珍スポット」ではなくて「国道指定したときには、龍飛漁港以西はずーーーーっと長い区間が階段どころか山道すらない通行不能区間で、順次開通したら結果的に階段区間だけ残っただけ」だから。ここを国道に指定した頃は、全国に「国道なのに自動車が通れない」山道のままの国道なんて日本中にあったから。

 ただ誤解のないように申し上げると、私は道路マニアなので大変な達成感や充実感を味わいましたが(個人の感想です。)。

階段国道339号 (24) 

 この看板が見えたら、階段部分は終わり。普通の一般国道だ。 

階段国道339号 (37) 

 龍飛漁港側から階段国道に入ろうとする方にはちょっと入り口が分かりにくいかもしれないが、この辺を参考にしていただきたい。 

階段国道339号 (27) 

 ここが龍飛漁港バス停 

 時間があれば後ろの小屋を回り込んでから見回してみよう。 

階段国道339号 (26) 

 「日本一の風を受けるトイレ」だ。 

階段国道339号 (25) 

 このトイレも原子力関係の補助金でできているようだ。バスにはトイレがないため、記念に用を足していくのもよいかもしれない。 

階段国道339号 (28) 

階段国道339号 (29) 

 目の前に広がるのは龍飛漁港だ。 

 バスの時間次第だが、灯台、中学校、漁港の探索にどう時間を配分するかイメージしておいた方がよいかもしれない。 

階段国道339号  (13) 

 さあ、三厩駅行きのバスが戻ってきた。 

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 こんな感じで、JR津軽線と外ヶ浜町営バスを使った駆け足の階段国道巡りはおしまい。 

 太宰治好きな方等にはもっと見所があるので、駆け足で戻るのは本当はもったいないのだが、 

 「車は使えない(使いたくない)けど、階段国道は見ておきたい」 

 という方には、参考になれば幸甚である。 

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(参考) 

■階段国道339号にまつわる謎にチャレンジしてみた 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2021/05/post-47cb80.html 

東北新幹線の貨物新幹線案 (13)

 階段国道は関係ないけど、三厩駅付近に青函トンネル用の貨物ヤードを設置する構想があったことを紹介する

「東北新幹線への貨物新幹線(荷物電車)導入は、約50年前に国鉄で決定済だった」

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2020/12/post-82da04.html

 もご関心があれば。

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 こんな動画も参考までにどうぞ 

 

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2021年5月 2日 (日)

階段国道339号にまつわる謎にチャレンジしてみた

 道路マニアなら、松波成行氏の「国道の謎」を持って、国道339号の階段国道を訪れるのは、「やってみたいこと」の一つではないか?

 私も過日その夢を実現してきたところである。

階段国道339号 (19)

階段国道339号 (21)

 ところで、松波氏の著書中、階段国道にまつわる謎が幾つかあげられている。松波氏でも解けなかった「謎」である。

 現地に立ってみて、その謎解きにチャレンジしてみたくなった。

 ただし、今回はいつもと違って資料から潰していく形ではなく、私のエビデンス無しの妄想ベースであることをお断りしておきたい。

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 松波氏の著書中、国道339号にまつわる謎がある。

 その一つが、国道339号が階段国道となる手前に、小泊方面に伸びる339号との間をショートカットする立派な道(著書では「軍道」)があるのに、そちらを国道にしていないのは何故か?というものである。


 龍飛崎砲台へとつながる唯一の車道は「木落」という集落にあたる陸軍繋留場から延びる道となりますが、それは地図(※引用者注:昭和15年当時の1:25000地形図「龍飛崎」)上では「軍道」と示されています。今でも「階段」で不通となっているため、その迂回路としてこの旧軍道が使われています。この道が国道339号とはならずに階段国道となったことは、階段国道を語る上での謎となっていますが、推定されるには戦後になってからの「軍道」の管轄とその引き継ぎで、何か公道となりえなかった可能性があります。

 

「国道の謎」松波成行・著 祥伝社・刊 62頁から

 松波氏の文中の「木落」は、上図の地理院地図では「三厩木落」となっている。

 図中「三厩木落」の字の上を左右に走って国道339号をショートカットしているのが文中の「軍道」である。

階段国道339号 (6)

 実際に現地の標識では、ここの木落の分岐では直進も左折も国道339号として案内しているし、「何か公道となりえなかった可能性」がありそうな雰囲気ではなさそうだ。

 で階段国道と通常の国道の境界で周りを見回してみた。

階段国道339号 (37)

 そこには漁港がある。

階段国道339号 (29)

階段国道339号 (27)

 なるほどと思った。

 松波氏の著書にも触れているように、国道339号のこのあたりの前身は青森県道中里今別蟹田線であり、現在の階段国道のルートを定めたのも県道認定のとき(松波氏の著書によると1965(昭和40)年)である。

 ぶっちゃけそのころは国道であっても、山道の点線国道等は珍しくなく、まして県道認定の段階では、現状では階段部分があろうと、将来改築予定があればさして問題になったとは思いづらい。

 むしろ、「ここまで青森県道として伸ばしたい。県の金で整備・管理してもらいたい」という明確な意思があったのではないか

 

 昭和42年撮影の動画というから、県道昇格から約2年後である。 

 この動画の0分50秒過ぎに、当時の龍飛漁港付近の未舗装の道路の状況が出てくる。こんな道路を改良する部分を1メートルでも漁港まで伸ばしたかったのではないだろうか?

 木落で分岐して龍飛灯台まで上がってしまえば、木落から龍飛漁港までは、三厩村道として村の金で整備・管理しなければならない。

 また、龍飛漁港程度では、県道認定基準の起終点の基準を満たしづらかったのだろうか?。

 そこで、龍飛漁港まで青森県道を整備する方便として、当時村道だった階段部分を(将来改築予定部分みたいな扱いにして)活用して龍飛灯台まで路線を繋いだのではないだろうか?

 「なぜ階段が国道(県道)なのか」は正直二の次であって、「なぜ木落から先まで国道(県道)を引き延ばす目的があったか」の視点である。

 「階段」に積極的な理屈は全くなくて、あくまでも「龍飛漁港までの道路を村道よりも格上の道路として管理できるようにできるだけ北まで引っ張りたい」という方便に使われただけではないか?

 現在では観光資源として活用されているが、実態は夢もロマンも何もないかと。

 当地は冬の積雪も波浪も大変厳しいところなので、財政的にも実際の現場力としても厳しい村ではなく「県の力で龍飛漁港まで道普請して除雪してもらいたい」「木落から龍飛灯台まで旧・軍道を県道認定してしまうと、その先の漁港までは村単独で管理するのは厳しい」という切なる気持ちを反映した結果という方が適切なのかもしれない。

階段国道339号 (20)

 階段国道から見下ろす龍飛漁港。国道としての終点から先は漁港内の施設として農水省からの金が入っているのではないだろうか?

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 ちなみに、階段国道の横に龍飛灯台へ続く階段があるが、そこには「階段村道」の標識が建っている。なんかやり過ぎ感が。。。

階段国道339号 (11)

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 松波氏の著書中、国道339号にまつわる謎がもう一つある。

 国道339号に並行する「青函トンネルのための材料運搬専用道」であった県道:通称「あじさいロード」が、国道339号に昇格してしかるべきなのに、そうなっていないのは何故か?というものである。


 あじさいロードは国道と並行して造られた道で、国道よりも山側に沿って龍飛崎へと伸びています。路線の流れから見ても明らかなように、この青函トンネル工事専用道路は、工事終了後には国道339号の新道(バイパス)として予定されていたものでした。

 このように、竜泊ラインが竣工した昭和59(1984)年10月の段階で、三厩村側の「青函トンネル工事専用道路」=国道339号の新道(バイパス)予定ルートも併せて、龍飛崎は自動車による通行ができる周回道路の目途は立っていました。あとは、青函トンネル工事完了の知らせを待つだけでした。暫定として指定しておいた階段国道も、これで抹消される準備は整ったと地元関係者は考えていたことでしょう。

 しかし、今でもこの道は路線変更はなされていません。(以下略)

 

「国道の謎」松波成行・著 祥伝社・刊 67~68頁から

 松波氏はその理由として「階段国道が観光資源として全国的に認知されたため、そのまま国道に残しておいたのではないか」としている。

 

 下記の地理院地図で、国道の山側(地図の左側)を走る灰色の道路が当該県道(あじさいロード)である。

 で、私も現地でその理由を色々考えてみた。

 

 今昔マップ等で見ても分かるように、今でも国道339号は部分的にではあれ、改築工事が進められているようだ。

 その例の一つが梹榔バイパスである。

https://www.pref.aomori.lg.jp/soshiki/kendo/doro/files/070515hyoro.pdf

階段国道339号 (35)

階段国道339号 (34)

 国道339号は海に面した厳しい線形の道路が続いており、あじさいロード開通後も改築が必要なのだろう。現地には他にも従前の隧道を改築した箇所等が見られた。

階段国道339号 (5)

 ところで、道路の改築費用を誰が負担するかについては、道路法に定めがある。

 細かい条文はさておき、国交省のウェブサイトによると下記のような感じだ。

階段国道339号 (36)

https://www.mlit.go.jp/road/sisaku/dorogyousei/2.pdf

 国道339号は、青森県が管理する国道なので、ここでいう「補助国道」であり、改築の際には、国が1/2を負担する。

 一方、県道は、国は1/2「以内」の補助となっている。常に1/2を国が負担してくれるとは限らないわけだ。

 

 松波氏も「国道昇格を受けることでの最大のメリットは、建設費にかかる国庫の負担率が高まることにあります。(「国道の謎」65頁)としている。

 地元は、不通区間の開通後も「改築費にかかる国庫の負担率が高まること」のメリットを受けることを選択して、現道を国道339号としたままなのではないだろうか?

 あじさいロードは、青函トンネル建設用の重機が走っても大丈夫な道だから、当面そんなに大規模な改築需要はないだろうし。

階段国道339号 (33)

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 ということで、松波氏が解き残した二つの「国道339号の謎」にチャレンジしてみた。

 金の話に終始して、夢もロマンもないような気がするが、世の中そんなもんじゃないかなあと。

 繰り返すが、これはエビデンスなしの、個人的な「国道の謎読書感想文」にすぎないし、松波氏の著書が間違っているというわけでもない

 県の公文書等をひっくり返せばこの駄文にダメ出しする資料は何か出てくるかもしれない。

 というか、これを読んでいる貴兄が是非ひっくり返す公文書を見つけてきていただきたい。

 

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 せっかくなので、いつもの私のブログらしいネタも書いておこう。

 

 国道339号が国道として指定されたのは、1969(昭和44)年である。

 この追加指定では、佐渡島、対馬、宮古島等の離島の国道(いわゆる海上国道部分を含む)が多く指定されたものとして有名である。

 この際の追加指定路線の主な特徴は下記のとおりである。


(イ)今日まで殆んど国道指定の行なわれて いない離島(離島振興法、奄美群島振興特別措置法、沖縄振興開発特別措置法に規定された離島及び島しょ)について、 国道の指定を積極的に拡大したこと。

(ロ) 地域的にみて、国道の網間隔が大きく、前回までの国道指定率の小さな東北地方等の格差の是正に努めたこと

(ハ) 路線の位置的な関係からみると、従来の路線が海岸線や平野部の中央及びすそ野に位置しているものが多いのに対し、 今回の追加指定では山岳部を積極的に活用し、中央縦貫道、横断道などの大動脈を形成するものが多くとり入れたこと。

 例えば国道340号は八戸市から陸前高田市に至る、実延長247kmの路線で あるが、これは岩手県域の中央縦貫道として位置づけられている。

(ニ)新設の国道として、302号と357号を指定したこと。

 302号は、既存の国道であるが前回の国道昇格時に都市計画決定等の関係で、次回送りになった区間を今回追加指定することにより、全区間を完成させたものである。

 357号は通称東京湾岸道路であって、新たに今回国道に指定したものである。

 

「一般国道の追加指定について」建設省道路局企画課長補佐 藤井治芳・著 「道路セミナー」1974年12月号68頁から

 「国道の網間隔」については、過去の記事

国道昇格はどのようにして決められるのか?~「ふしぎな国道(佐藤健太郎著)」の不思議(その5)

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/03/post-b7f8.html

をあわせてお読みいただきたい。

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 余談だが、階段国道どころか、三厩まで高速道路を作る構想があった。

未成高速道路ネットワーク (9) 

 1966(昭和41)年4月1日付毎日新聞から

未成高速道路ネットワーク (1) 

 詳細はこちらを。

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2021/01/post-73aac0.html 

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2021年4月25日 (日)

今度開通する名二環(名古屋西JCT~飛島JCT)は、政令上は「近畿自動車道伊勢線」ということで、東名阪道ではなく伊勢道の仲間である件

2021(令和3)年5月1日に、名古屋第二環状自動車道 名古屋西JCT~飛島JCTが開通する。

 ところで、この新規開通区間である名古屋西JCT~飛島JCT間は、「高速自動車国道の路線を指定する政令」によると、「近畿自動車道伊勢線」である。

名二環が近畿自動車道伊勢線である件 (1)

https://www.cbr.mlit.go.jp/kikaku/jigyou/data/r0112/110_shiryou_6.pdf

 近畿自動車道伊勢線というと普通イメージするのは伊勢自動車道だ。

 一方、同じ名古屋第二環状自動車道でも、名古屋南JCT~楠JCT~飛島JCTは、「近畿自動車道名古屋亀山線」である。

 東名阪自動車道は名古屋亀山線だし、名古屋第二環状自動車道は以前は東名阪自動車道と呼んでいたので違和感はない。

 なぜ名古屋西JCT~飛島JCT間だけ、東名阪道系列ではなく伊勢道系列なのだろうか?

 

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 まずは、「国土開発幹線自動車道建設法」の別表を見てみよう。 

名二環が近畿自動車道伊勢線である件 (6)  

 近畿自動車道伊勢線と近畿自動車道名古屋大阪線は、共に名古屋を起点として四日市を経由したのちに分岐し、伊勢市、吹田市を終点にしている。 

 国幹道法の名古屋大阪線は、道路名でいうと、名二環、東名阪道、(国道25号名阪国道)、西名阪道及び近畿道を形づくっている。 

 また、名古屋神戸線は、道路名でいうと新名神(第二名神)である。

 しかし、これでは今回開通する名古屋西JCT~飛島JCT間が、法律上何自動車道にあたるかが分からない。 

 

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 そこで、「高速自動車国道の路線を指定する政令」で見てみよう。 

 先にあげた国土開発幹線自動車道建設法の別表は、第四次全国総合開発計画で第二東名・名神等約1万4千キロの高規格幹線道路が位置づけられたことを受けて、1987(昭和62)年に改正されたものである。 

  

 そして、1989(平成元)年1月に開催された第28回国土開発幹線自動車道建設審議会での審議を踏まえ、高速自動車国道の路線を指定する政令が改正された。 

名二環が近畿自動車道伊勢線である件 (3)  

 細かいところは目をつぶって、ザクっと路線網を描くと下記のような感じだ。 

名二環が近畿自動車道伊勢線である件 (3)  

 この段階では、「高速自動車国道の路線を指定する政令」では「近畿自動車道関伊勢線」であり、現在と異なり、名二環どころか、東名阪道とも重用していない。 

 名阪国道と接続していた「関ジャンクション」の名前が懐かしい方もいらっしゃるかもしれない。

 「高速自動車国道の路線を指定する政令」は、この後、何度も改正されているのであるが、そのうち重要なものを取り上げていく。

  

 1996(平成8)年12月に開催された第30回国土開発幹線自動車道建設審議会で、近畿道名古屋市緑区~名古屋市名東区が基本計画区間とされたことを受けて、1997(平成9)年2月に「高速自動車国道の路線を指定する政令」が改正された。 

名二環が近畿自動車道伊勢線である件 (4)  

名二環が近畿自動車道伊勢線である件 (2)  

 従前までは関町が起点だった「関伊勢線」が、このとき名古屋市が起点の「伊勢線」に変更された。 

 しかし、名古屋南JCT~楠JCT~名古屋西JCT~亀山が名古屋関線と重用し、亀山市で分岐するものとされたにとどまり、まだ今回開通区間である名古屋西JCT~飛島JCT間は、高速自動車国道としては出てこない。

 (※このときの改正で法令上は名古屋~伊勢が繋がったため、便宜上現在の「伊勢関」を図に入れているが、実際に東名阪と伊勢道が直結したのは、2005(平成17)年3月である。ご注意くださいませ。)

 

 

 

 やっと今回開通区間である名古屋西JCT~飛島JCT間が出てくるのが1999(平成11)年12月に開催された第32回国土開発幹線自動車道建設審議会である。 

 このときに、今回開通区間となる、近畿道 名古屋市中川区~愛知県海部郡飛島村間が基本計画となった。 

 ちなみに、いわゆる「道路公団改革」の一環として、国土開発幹線自動車道建設審議会は、この後「 国土開発幹線自動車道建設会議」に改められた。最後の「国幹審」の審議内容の一つが今回開通区間だったわけである。

 当該区間を取り込んだ「高速自動車国道の路線を指定する政令」は、2000(平成12)年1月に改正された。 

  

 そして現在の「高速自動車国道の路線を指定する政令」が下記のとおりとなっている。 

名二環が近畿自動車道伊勢線である件 (2) 

名二環が近畿自動車道伊勢線である件 (1) 

 亀山以東を名古屋関線(東名阪道)と重用していた伊勢線が、四日市JCTから分岐し、今度は名古屋大阪線(伊勢湾岸道)と重用して飛島まで向かい、飛島JCTで名古屋大阪線と分岐し、単独で名古屋西JCTへ向かい、そこで名古屋関線(名二環)へ再び合流して起点の名古屋南JCTへ向かうという奇天烈なルートを辿ることになったのである。 

  

 近畿自動車道伊勢線の起点(名古屋市)から終点(伊勢市)を分類すると下記のようになる。 

名二環が近畿自動車道伊勢線である件 (5)

 参考までに「日本道路公団年報 平成15年」から近畿自動車道伊勢線の部分を抜粋してみよう。小さな文字で「(名古屋関線と重用」「名古屋神戸線と重用」と書いてあるのがお分かりになるだろうか。

名二環が近畿自動車道伊勢線である件 (7)

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 以上が、名古屋第二環状自動車道 名古屋西JCT~飛島JCTが、「高速自動車国道の路線を指定する政令」では、近畿自動車道伊勢線となる経緯である。 

 ところで、「なんでこんな蛇がのたうち回るような路線にしたのか」が本当は皆様の知りたいところであろうが、それを明確に示す証跡は見つけていない。 

 いずれ国立公文書館で「高速自動車国道の路線を指定する政令」の改正経緯の資料が公開されるであろうから、そのときまでのお楽しみといったところか。 

 個人的な推測としては、「国土開発幹線自動車道建設法」の別表を改正せずに、事実上追加となる路線を建設したいという行政手続き上の理由で、既存の路線に潜り込ませるような形を取ったのではないかと推測している。 

 法律を改正して新規路線を追加しようとすると、「なんで名二環だけ?うちの地元の路線もこの際入れろや」との要望が全国から押し寄せられるため、政令の改正に潜り込ませたのではないか。 

 しかし不思議なのは、名古屋南JCT~上社JCT間及び名古屋西JCT~飛島JCT間約28キロが事実上追加されたにも拘わらず、高速自動車国道の総延長は追加以前と変わらず、11,520キロのままなんである。 

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 ということで、路線政令の文言上の言葉遊びみたいになってしまった。 

 

 同じような「路線名遊び」は、以前も「祝!外環道 三郷南~高谷開通!東京外環道って法令上の名称じゃないけどどうなってんの?」という記事を書いているので、お好きな方はあわせてどうぞ。

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2018/06/post-450c.html

 

 話は変わるが、名古屋二環といえば、国鉄の貨物幹線となるはずだった城北線が一部区間を並走して走っており、ジャンクションのランプの中を車窓から眺められるという特異な路線でもある。 

名古屋二環と城北線 (1) 

名古屋二環と城北線 (2) 

名古屋二環と城北線 (3) 

 しかし、名二環に新交通システムが走る構想があったことはあまり知られていない。 

(b)名古屋市周辺(名古屋環状二号線)

 継続

 名古屋市東部の国道302号(名古屋環状二号線)周辺の丘陵地域においては、宅地開発が急速に進められているが、この東京(ママ)地域tp都心部とは地下鉄で結ばれており、更に地下鉄三号線が計画されている。これら住宅地域と地下鉄を有機的に結ぶ環状方向の新道路交通システムを環状二号線に併せ導入することについて検討する。

 

「特集-昭和52年度予算の概要と重点施策 新道路交通システムに関する調査費について」建設省道路局路政課課長補佐・沢山民季「道路セミナー」1976年10月号69頁から

 

 未成線マニヤの方からは「おい、bときたら、aやcも出すのが社会人のマナーだろう」と詰め寄られそうだが、

a) 仙台市周辺(北仙台線) 

c) 岡山市周辺(市内環状線) 

d) 広島市周辺(国道54号)

である。 

 このうち、実現したのは、「d) 広島市周辺(国道54号)」だけかな? 

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 「俺はまじめに名二環の成り立ちについて勉強しようと思ってこのページを開いたのに全く役にたたないではないか」と怒られそうなので、最後にそういう方向けのリンクを紹介しておこう。 

■ 「名古屋環状2号線(一般国道302号」の整備について」道路行政セミナー 1992年8月号

https://www.hido.or.jp/14gyousei_backnumber/1992_data/seminar9208.pdf 

■「名古屋圏における環状道路と放射道路の整備」道路行政セミナー 1995年7月号 

https://www.hido.or.jp/14gyousei_backnumber/1995_data/seminar9507.pdf 

■「名古屋都市圏の新たな可能性の幕開け「環状時代」!」道路行政セミナー 2000年6月号 

http://www.hido.or.jp/14gyousei_backnumber/2000_data/seminar0006.pdf 

■名古屋都市計画史 

https://www.nup.or.jp/nui/information/toshikeikakushi/index.html 

 名古屋都市計画史Ⅱ(昭和45年~平成12年度)上巻の381頁以降が名古屋二環にあてられている。 

■「名古屋環状2号線の開通による経済効果」 三菱UFJリサーチ&コンサルティング

https://www.murc.jp/report/rc/policy_rearch/politics/seiken_170822/ 

■「土地区画整理事業から見た名古屋環状 2 号線のあゆみ」 

https://www.nup.or.jp/nui/user/media/document/investigation/h24/NUI.sugiyama.pdf 

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(余談)

 ちょっと高速道路名称の仕組みについてかじって、いきったネットキッズが

「東名阪道の法令上の正式名称は~」

とか言ってみたくなるところであるが、

 上記を見て分かるように

 「国土開発幹線自動車道建設法」では、「近畿自動車道名古屋大阪線」だが

 「高速自動車国道の路線を指定する政令」では、「近畿自動車道名古屋亀山線」だ。

 安易に「法令上は」なんては言ってはいけないということだね。

 よいこは、法律上なのか政令上なのか理解したうえで使い分けようね。

 なお、「東名阪自動車道」だって、日本道路公団の内規に基づいて正式に決裁を取ってつけられた名称なので、別に「正式ではない」のではない。官報にだって東名阪自動車道ということで掲載されている。(官報掲載が名称決定手続きの要件ではないが)

(応用問題)

 平成元年は「名古屋亀山線」→平成9年は「名古屋関線」と変更し、現在はまた「名古屋亀山線」に戻っている理由を考えてみよう。

 何かの間違いで検索してヒットしてしまったNEXCO職員は、コメント欄に理由を書いてみよう!

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2021年4月11日 (日)

名神高速道路 大津IC→京都東ICへの名称変更と大津SAへのIC追加等にまつわるあれこれ

 高速道路のIC名称については、過去にブログで触れている。

 「高速道路やICの名称決定基準」

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/09/post-edc5.html

名神高速道路 京都東と大津 (9)

高速道路のプランニング」という本に、上記のような決定基準等が掲載されている。

 鉄道の駅は、「西舞鶴」「東舞鶴」と地名の前に東西南北がつくが、高速道路の場合は「舞鶴西」「舞鶴東」と地名の後に東西南北がつく。

 こういった話の中でよく出てくるのが、名神高速道路の京都東インターチェンジである。

 鉄道風に呼べば「東京都インターチェンジ」となり、「とうきょうとインターチェンジ」と読めてしまうからである。

 こういった命名規則となった理由が、少なくとも2種類あるようだ。(私は最近気づいた。)

 

 まずは、日本道路公団公式記録である「名神高速道路建設誌(総論)」1966年・刊 222頁から

名神高速道路 京都東と大津 (3)

 ついで、元日本道路公団職員で実際に名神高速道路建設に従事していた武部健一氏の「道路の日本史」2015年・刊 196~197頁から

名神高速道路 京都東と大津 (2)

 東京都ICを避けて京都東ICとしたところの説明が双方異なっている。

 道路公団公式→「東京都とならないように方角を都市名の下に付した」

 武部健一氏 →「アメリカ式に都市名の下に方角を付したことによる偶然の成功」

  

 また、 地名の後に東西南北がつくお手本も双方異なっている。

 道路公団公式→「Frankfurt-Ost」ドイツ式?

 武部健一氏 →「Oregon-west」アメリカ式

  

 さてどちらが正しいのやら。 

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 次の話題に移りたい。 

 名神高速道路は当初計画では、今の大津ICはなく、今の京都東ICが当初は大津ICで、今の京都南ICが当初の京都ICだった。 

名神高速道路 京都東と大津 (1)  

 「名古屋-神戸 高速道路の構想」日本道路公団 1957年・刊 から 

 後から今の大津ICが追加されたことで、上述の京都東ICという悩ましいIC名問題が勃発したわけだ。 

 ところで、その追加理由について、Wikipediaにはこのように書いてある。 

名神高速道路 京都東と大津 (5)  


 名神高速道路が建設された当時、現在の京都東ICが大津ICとして計画されていた。それに対して当時の大津市長上原茂次は「それでは大津ICとは言えない、京都市内にあるではないか」と猛抗議した。そこで、当初大津SAのみの予定であった場所に急遽、大津ICが併設され、当初予定の大津ICは1963年7月16日、京都東ICに改称の上で設置された[要出典]

 

「Wikipedia」大津インターチェンジ (滋賀県) 2021年4月11日 閲覧

 

  「それでは大津ICとは言えない、京都市内にあるではないか」ということであるが、大津市の地形に詳しい方は、大津市の境界って山科にすごく近いところまで入り込んでいるということをご存じであろう。

 

 上図の一点破線が大津市と京都市の境界線である。 

名神高速道路 京都東と大津 (6)  

「名神高速道路建設誌(各論)」1966年・刊 271頁から 

 この上記「図3-65 京都東(1)」の図面を見るとお分かりのように、当初の大津IC(=現・京都東IC)の出入り口は、大津市追分において国道1号と接続しており、立派に大津市内だったのである。 

 ただし、これは武部氏を含む日本の技術者が初めて高速道路設計に取り組んだ成果であるところ、西ドイツから迎えたアウトバーン技術者であるクサヘル・ドルシュ氏とのやり取りを通して、度々修正されている。 

 「名神高速道路建設誌(各論)」にはその経緯が詳細に記されているがここでは、大津ICの変遷に関係する箇所のみ抜粋して引用したい。 

 ドルシュ氏と取り組んだ修正経過の中で、旧・大津IC(=現・京都東IC)の出入り口を変更して片方向だけの出入りにしようとした時期があった。それにより、大津ICと言いながら、大津市からの利用がしづらい方向に限定しようとしたため、大きな反対の声があがった
 

 それを解消するため、既存の大津SAにICを併設し、神戸・大阪側のみの出入り口を設けることとした

名神高速道路 京都東と大津 (7)  

「名神高速道路建設誌(各論)」1966年・刊 274頁から

 

 片側のみの出入りに変更された京都東ICのサブゲートとして、大津SAに追加された出入口は、当初は片側方向だけの出入り口だったが、最終的には両方向に通行可能となった。 

名神高速道路 京都東と大津 (8)  

「名神高速道路建設誌(各論)」1966年・刊 276頁から

 

名神高速道路 京都東と大津 (9)  

 超ザクっと表すとこんな感じだろうか。実際には変更①②どころではない 7頁にもわたる経緯がある。

 ということで、道路公団の公式記録には、Wikipediaに書いてあるような「大津市長上原茂次は「それでは大津ICとは言えない、京都市内にあるではないか」と猛抗議した。そこで、当初大津SAのみの予定であった場所に急遽、大津ICが併設され」たというような記録はでてこない。 

  

 ちなみに武部健一氏は、この辺のやりとりをこう述べている。 

名神高速道路 京都東と大津 (4)  

 「土木史研究におけるオーラル・ヒストリー手法の活用とその意義―高速道路に焦点をあてて― 姉妹版 武部健一氏」33頁 


 大津が「うちのところはなくなったじゃないか。どうするんだ」と文句をいったので、それじゃ、しようがない、とにかく大津サービスエリアを予定したところにくっつけちゃおう。インターを併設しようということになったんです。

 

 「大津ICとSAを併設したのはぐちゃぐちゃになって大失敗で、以降20年くらい禁止になった」というエピソードも興味深い。 

 武部氏の述べる設計変更の経緯とザクっとした経緯図は若干違うが、そこを正確に反映した経緯を図式化して出すと訳がわからなくなるのでご容赦いただきたい。(明らかに間違っているということであればご指摘くださいませ。) 

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 大津ついでに、さらにややこしい話をつっこんでおこう。 

 

 実は、北陸自動車道は、当初は大津市が終点であった。

縦貫道法北陸道

昭和39年当時の高速道路図では下記のような塩梅である。

昭和39年高速道路路線図

昭和39年高速道路路線図2

 

 

 「北陸道の終点を米原にしてくれ」と彦根付近を地盤とする国会議員堤康次郎に地元自治体が陳情している記録が残されている。 

https://archive.waseda.jp/files/pdf/sdb18/22709/yVNl7Xma_1.pdf 

 北陸自動車道建設促進同盟会のパンフレットも興味深い。

https://archive.waseda.jp/files/pdf/sdb18/22711/GfNsGjEb_1.pdf 

 

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2021年2月20日 (土)

「国鉄は独立採算で税金が入っていなかったのに、道路公団は税金じゃぶじゃぶで不公平だ」という公共交通マニアの方の言を検証してみる

 このニュースを切っ掛けに、また公共交通をこよなく愛する方々から「国鉄は独立採算で(原則的に)税金が入っていなかったのに、道路公団(高速道路)は税金じゃぶじゃぶで不公平だ!!けしからん!!」という声がツイッター等で流れてきた。

 そこでとても意地悪な革洋同さんは、実際にそれぞれ税金が幾ら入っているか調べてみた。

 結果はこちら、ドン!

国鉄と道路公団への税金助成額の比較 (2)

 実は、国鉄に入っている税金の方がはるかに巨額でしたというオチである。

 (※2021年9月に、日本鉄道建設公団のグラフを追記しました。)

 出典等は下記のとおり。 

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国鉄と道路公団への税金助成額の比較 (4)  

  「昭和60年 国鉄監査報告書」からの引用である。

 1981(昭和56)年から1983(昭和58)年は、7,000億円/年を超えているが、これがどれくらいの額かというと、上越新幹線の新宿ルートを建設するのに約7,000億円かかる(そしてあまりに巨額なのでJR東日本では建設できない)のに匹敵するわけだ。 

 この他に「無利子貸付金」がある。 

国鉄と道路公団への税金助成額の比較 (5)  

 これは、利子を払わなくていい借金を国鉄が国から借りているということ。本来であれば、国に利子が入るところが入ってこないのだから、その分は収入欄には見えてこない税金からの補填である。 

 こういった具合に多額の税金からの補助が国から国鉄には入っていたのである。 

国鉄と道路公団への税金助成額の比較 (14)

 「財政再建利子補給金」という課目で毎年数千億円を国からもらっているわけだが、これは何かというと上記のとおり、過去債務の利子がそのままだとどんどんふくらんでいくので、そこを税金で補填してやって歯止めをかけるといったものであろう。「国鉄の赤字は税金で穴埋めしていない」という方がいらっしゃるが、少なくとも赤字の利息については税金で一部支払っていたわけだ。

 それでも多額の赤字の前には焼け石に水だったわけだが。 

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 一方、日本道路公団の方はこちら。 

国鉄と道路公団への税金助成額の比較 (3)  

 「平成15年 日本道路公団年報」 

https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/236639/www.jhnet.go.jp/format/index2_05.html からの引用である。

  日本道路公団に投入されていた国費=税金の性格は下記のようなものである。

国鉄と道路公団への税金助成額の比較 (1)  

そして、これらの出資金は、無料開放にあたって料金から返済されることになっている。

国鉄と道路公団への税金助成額の比較 (15)

「高速道路の債務返済に関する一考察」国土交通委員会調査室 山越 伸浩

https://www.sangiin.go.jp/japanese/annai/chousa/keizai_prism/backnumber/h22pdf/20108102.pdf

https://www.kantei.go.jp/jp/singi/road/dai20/20siryou2.pdf 

 ただし、「小泉改革」で日本道路公団への国費支出はなくなった。グラフで2002年がゼロになっているのはこれを反映させたものだ。

新東名高速道路(第二東名)の暫定4車線から6車線化の経緯 (17)

2001(平成13)年11月9日付日本経済新聞

 尤も事業規模や国費の目的が異なるから単純な比較はできないのは承知のうえ。 

https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/236639/www.jhnet.go.jp/format/index2_05.html には、下記のような表もあるる。

国鉄と道路公団への税金助成額の比較 (6)

 有料道路事業のうち、10~20%くらいが国費=税金であるということだ。 

 では、日本鉄道建設公団ではどのくらいだったのか? 

国鉄と道路公団への税金助成額の比較 (7)  

「日本鉄道建設公団の事業概要」横山章・日本鉄道建設公団計画部計画課長 「建設の機械化」1975年6月号 

https://jcmanet.or.jp/bunken/wp-content/uploads/1975/jcma-1975_06.pdf 

 国鉄のローカル線や青函トンネル、上越新幹線等をガンガン作っていた1975(昭和50)年の予算では、3,647億円の事業費中政府出資金が549億円と約15%である。 この時点では額は日本道路公団の331億円よりも巨額であり道路関係4公団の国費率約10%よりも多い。

 制度等も違うだろうから単純比較はできないが、少なくともこの段階では鉄道建設公団と道路関係公団では、税金の入る額も国費率も鉄道建設公団の方が上である。 

 少なくとも鉄道建設公団が建設した新規路線については、高速道路に比べて税金が少ないとかいったことはないのではなかろうか?

(※2021年9月追記)

 「日本鉄道建設公団30年史」から政府出資金、国庫補助金及び補給金の額を合計した額をグラフに追記した。

 1986年から鉄道建設公団への国費助成額が激減しているが、これは上越新幹線や青函トンネルといったビッグプロジェクトの完成や国鉄民営化に伴う新規路線建設の凍結が影響しているのであろう。

(追記終了)

 なお、鉄道建設公団が建設した青函トンネルや本州四国連絡橋公団が建設した本四備讃線については、国鉄が利用料を払って建設費を償還するはずだったが、国鉄民営化にあたって国民負担(税金)となっている。

 道路公団民営化にあたっても。いわゆる「新直轄」とか本四連絡橋に対する国費投入等があった。

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 ところで、鉄道と道路については、上記のような有料道路に対する不平不満だけでなく、一般道路に対する不平不満も「公共交通をこよなく愛する方」からも聞こえてくるところである。 

 ただ、これは40年以上前に決着していると言っていいのではないか? 

 いわゆる「イコールフッティング」論争とでもいうやつだ。 

 国鉄と道路公団への税金助成額の比較 (8)

現代自動車交通論」 今野源八郎・岡野行秀 編著 東京大学出版会・刊  217~218頁から引用

 今でも「鉄道は自前で整備しているのに、道路は税金で整備している。トラックやバスは不公平だ。」という御仁はいらっしゃるが、「この主張は誤解」で「有料道路料金や自動車関係税によってまかなわれている」で以上終わりである。 

 経済学者の主張だけでは不公平かもしれないので、当時この辺の政策を担当した運輸官僚の回顧についても紹介しておこう。 

国鉄と道路公団への税金助成額の比較 (9)  

「総合交通政策の登場」高橋寿夫 290~293頁から引用 「 証言・高度成長期の日本(上)」毎日新聞社・刊 所収

 「公共交通をこよなく愛する方」からは、「飛行機も飛行場を税金で整備していて鉄道に対して不公平だ」と言いがち(ただし、旧・運輸省の中の話なので、旧建設省所掌の道路に対してよりも声は小さい。)なのだが、高橋寿夫氏は、鉄道側の主張も紹介しつつ、実際には道路も飛行機もほぼ100%受益者負担なので不公平とまでは言えないと決着している。 

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 「総合交通政策論」が一段落した後に、運輸大臣が興味深い答弁をしている。 

国鉄と道路公団への税金助成額の比較 (16)  

「道路の場合あるいは空港の場合、これは非常に利用者負担が高いにもかかわらず、その利用者負担が目的税特定財源として構成されておりますから、何となく利用者負担率の小さい国鉄の方が利用者負担率が高いように見られて、そこに大きな錯覚が起こるわけでございます。」

1977(昭和52)年4月27日参議院決算委員会における田村元運輸大臣の答弁

 道路=83.4%、空港=99.6%、国鉄=58.7%というのだから興味深い。

 惜しむらくは、データの出元が分からない。運輸省系のどこかの統計にあるのか。当時の「運輸と経済」あたりを調べれば出てくるのだろうか。

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 話を鉄道と道路の財源争奪戦に戻そう。

 その代わりにゲットしたのが、自動車重量税からの鉄道への支出である。 

国鉄と道路公団への税金助成額の比較 (13)  

 同上 292頁から引用

 自動車ユーザーが支払う自動車重量税のうち1/4は鉄道整備に回されることとなった。

 ときどき「鉄道が整備されれば、道路の渋滞削減に寄与するから、その分は自動車・道路側に払わせばいいんじゃね!俺頭いい!」的なアイデアをご披露される方がいらっしゃるが、既にその理屈は消費済なんである。それも40年以上前に。

 で、それをやったのは田中角栄である。

国鉄と道路公団への税金助成額の比較 (11)

土木史研究におけるオーラルヒストリー手法の活用とその意義 : 高速道路に焦点をあてて・高橋国一郎編」149頁から引用

 昨今の鉄道ファンからは「道路族」としてしか認識されていないかもしれないが、「鉄道族」のドンとしての田中角栄が、道路から鉄道へ金をぶんどっていったのであった。

 

 実は、同様に政治の力で、鉄道整備費用をドライバーに負担させているものがあって、都市モノレール・新交通システムなんかがそうである。

国鉄と道路公団への税金助成額の比較 (10)

「インタビュー 都市モノレール建設時代の10年」熊谷次郎 38頁から引用「社団法人日本モノレール協会20年の歩み」所収

 ちなみに、この熊谷次郎氏は、八田嘉明一派で、モノレール協会(初代会長は八田)の前には日本縦貫高速道路協会(ここも八田が会長を務めた)にもいた。鉄道・道路の両方に顔が効くのである。

 都市モノレールのインフラ部分は道路そのものとして建設されるので、道路から鉄道への支出という形では見えてこない。

 都市モノレールや新交通システムが、鉄道事業法でなく、軌道法が適用されているのは、路面電車同様「道路の上を走っているので旧建設省と旧運輸省が共管」という形をとって道路から金を出しているからである。(おそらく廃止されたピーチライナーの軌道を撤去する金もドライバーが負担したことになっているのではないだろうか?)

 

 同じく、道路から鉄道への支出という形では見えてこないものの一つに道路占用料の支払いを地下鉄等が免除されていることがあげられる。

 本来道路が鉄道から徴収すべき金額を免除しているために、これも道路から鉄道への支払いとしては見えてこない。

 

 というわけで、「公共交通をこよなく愛する方」にはあまり知られていないが、道路・ドライバーは鉄道の金を結構負担していて(このほかには駅前広場の整備費用とか)、しかも数字には見えてこなかったりするわけだ。

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<関連文献>

公益社団法人日本交通政策研究会 「日本の交通政策を振り返る ―政策志向経済学研究者の視点から― 」レジュメ

http://www.nikkoken.or.jp/pdf/symposium/150925b.pdf 

 同上 結果報告

http://www.nikkoken.or.jp/pdf/symposium/150925c.pdf

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<余談>

 参考文献としてあげた「現代自動車交通論」 今野源八郎・岡野行秀 編著 東京大学出版会・刊 の209頁に下記のような文が載っていた。

国鉄と道路公団への税金助成額の比較 (12)

 東大出版から出ている学術書にしては異例なことに、合理的な交通の見解については、鉄道ファンといった交通の好き嫌いや酔いやすさといったことが判断に影響すると述べているのだ。

 わざわざ東大の教授が特記すべき重要なバイアスなんだろうw

 

 JR東海の須田寛氏が「私の鉄道人生“半世紀"」において、「・公私の判断がつかない・中途半端な知識はかえって業務の妨げになる・視野が狭くマクロ思考ができない・偏食的な趣味嗜好に陥りがち」といった理由をあげて延々4頁にわたって、「鉄道マニアはどうして鉄道人に不向きか」を書いているのだが、鉄道マニアというのはそこまで偏ったバイアスということで各種専門家に捉えられているということなのであろうか。

 

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<超余談> 

 https://jcmanet.or.jp/bunken/wp-content/uploads/1975/jcma-1975_06.pdfの22頁に載っている「国鉄新線線路図」。北陸新幹線が当初の「亀岡経由」だ。亀岡といえば、山田木材。ドドン!!

北陸新幹線が亀岡経由だった時代の路線図  

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2021年2月 1日 (月)

Wikipedia「中央自動車道」の項で怪しい記述があったので検証する

 Wikipedia「中央自動車道」の項で怪しい記述がある。

 


開通当初は東名高速や名神高速と同様に中央高速道路を名称として用いていたが、開通当初の暫定2車線対面通行でなおかつ中央にセンターポールも分離帯もないという状態であった上、追越しも許されている(中央線が破線)という有様であったにもかかわらず、「高速」という呼称によって速度超過が多発したことによる交通事故が頻発してしまったために[3]、当時の日本道路公団が1972年9月30日付の官報告示で中央高速道路を「高速道路」を用いない中央自動車道に改称すると発表した(ただし一部の情報板等の標識に「中央高速」の表記を使用しているものもある)[5]。また、この事故を受けて「自動車道」の名称使用が正式に決まるまでに開通した他の高速自動車国道は、政令による路線名を暫定的に道路名としてそのまま使用していた[注釈 3]。なお、その後開通した高速道路では、東名・名神のバイパスとなる新東名高速・新名神高速を除いては道路名称に「○○高速道路」が用いられることはなく「○○自動車道」に統一されている[5]。

 

[注釈 3]

^ 1970年に開通した中国自動車道や、1971年に開通した九州自動車道はそれぞれ中国縦貫自動車道、九州縦貫自動車道という道路名で供用開始している

2021年2月1日閲覧

 

 「この事故を受けて「自動車道」の名称使用が正式に決まるまでに開通した他の高速自動車国道は、政令による路線名を暫定的に道路名としてそのまま使用していた」とは、初耳である。 

 [注釈 3]では、「1970年に開通した中国自動車道や、1971年に開通した九州自動車道はそれぞれ中国縦貫自動車道、九州縦貫自動車道という道路名で供用開始している

 以下検証していきたい。 

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Wikipedia「中央自動車道」の変な記述を検証 (9)  

 上記は、「国立国会図書館インターネット資料収集保存事業」に保存されている「日本道路公団 平成15年年報」https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/234260/www.jhnet.go.jp/publish/nenpou/H15/pdf/4-02.pdfから、高速道路の開通経緯を示すものである。 

 果たして、wikipediaのいうように「この事故を受けて「自動車道」の名称使用が正式に決まるまでに開通した他の高速自動車国道は、政令による路線名を暫定的に道路名としてそのまま使用していた」かどうか、順をおって確認していきたい。 

 右上の中央道(多治見~小牧JCT)までの間に開通した高速道路がどのような名称で開通していっただろうか?  

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近畿自動車道(門真~吹田) 1970(昭和45)年3月1日供用開始 

 <政令による路線名>高速自動車国道近畿自動車道

中国自動車道(中国吹田~中国豊中) 1970(昭和45)年3月1日供用開始 

中国自動車道(中国豊中~宝塚) 1970(昭和45)年7月23日供用開始

 <政令による路線名>高速自動車国道中国縦貫自動車道

 

Wikipedia「中央自動車道」の変な記述を検証 (13) 「高速道路と自動車」1970(昭和45)年4月号から引用

 1970(昭和45)年3月の供用開始時から「政令による路線名=中国縦貫自動車道」ではなく、「中国自動車道」となっていることが分かる。

 

Wikipedia「中央自動車道」の変な記述を検証 (6)  

 

Wikipedia「中央自動車道」の変な記述を検証 (8)

 上記「ヌ)供用予定」の項から、1970(昭和45)年春頃に出版されたものと推測される。

Wikipedia「中央自動車道」の変な記述を検証 (7)

 せっかくなので、万博中央駅に向かう北大阪急行電鉄の線路が新御堂筋から分岐して中国自動車道や大阪府道中央環状線とどんな位置関係で走っていたかが分かる図面も添付しておこう。

 勿論、「中国縦貫自動車道」ではなく、「中国自動車道」と記載されているのだが。

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九州自動車道(植木~熊本) 1971(昭和46)年6月30日供用開始

 <政令による路線名>高速自動車国道九州縦貫自動車道

 

Wikipedia「中央自動車道」の変な記述を検証 (3)  

 「日本道路公団30年史」から引用 

 開通式のアーチに「九州自動車道」と書かれている。

Wikipedia「中央自動車道」の変な記述を検証 (11)

「高速道路と自動車」1971(昭和46)年8月号から引用

 「(1)開通後の名称 九州自動車道」と書かれている。

Wikipedia「中央自動車道」の変な記述を検証 (14) 1971(昭和46)年6月30日付 読売新聞(夕刊)

 「略称」というビミョーな位置づけだが、一般メディアも「九州縦貫自動車道」と峻別した形で「九州自動車道」の名称を報じていることが分かる。

 

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新空港自動車道(宮野木JCT~富里) 1971(昭和46)年10月27日供用開始

 <政令による路線名>高速自動車国道東関東自動車道

 

Wikipedia「中央自動車道」の変な記述を検証 (4) 「日本道路公団 年報 昭和45年度」から引用

 

Wikipedia「中央自動車道」の変な記述を検証 (16)

「道路」1971(昭和46)年11月号から引用

Wikipedia「中央自動車道」の変な記述を検証 (17)

「道路」1971(昭和46)年11月号から引用

Wikipedia「中央自動車道」の変な記述を検証 (15) 「日本道路公団30年史」から引用

 当該区間は、現在は「東関東自動車道」の道路名称で営業しているが、供用当初は、京葉道路から分岐する宮野木JCTから「新空港自動車道」の道路名称で営業しており、高速道路の延伸に伴い、「新東京国際空港線」である成田~新空港を「新空港自動車道」に残したまま、その他の区間は「東関東自動車道」に名称変更している。

 

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道央自動車道(千歳~北広島) 1971(昭和46)年12月4日供用開始

  <政令による路線名>高速自動車国道北海道縦貫自動車道

Wikipedia「中央自動車道」の変な記述を検証 (5)

「日本道路公団 年報 昭和45年度」から引用

 「開通後の名称は道央自動車道」と書かれている。

 ちなみに標識は「HOKKAIDO EXPWY」だった。

 

Wikipedia「中央自動車道」の変な記述を検証 (12)

「道路」1972(昭和47)年1月号から引用

 キャプションは「北海道縦貫自動車道」だが、開通式のアーチには「道央自動車道」と書かれている。

 

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 交通統計ではどのように扱われているだろうか?

Wikipedia「中央自動車道」の変な記述を検証 (10)

「道路」1972(昭和47)年4月号から引用

 「高速道路と自動車」以外の業界誌での記載状況ということで、「中央自動車道への名称変更前の中央高速道路」と「政令による路線名ではない道路名」が併用されていることがよくわかる資料である。

 wikipediaに言うような「正式決定前の暫定使用」が行われていたのであれば、「新空港自動車道」や「道央自動車道」が使われるはずがない。

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 このように、wikipediaの言うような「この事故を受けて「自動車道」の名称使用が正式に決まるまでに開通した他の高速自動車国道は、政令による路線名を暫定的に道路名としてそのまま使用していた」「1970年に開通した中国自動車道や、1971年に開通した九州自動車道はそれぞれ中国縦貫自動車道、九州縦貫自動車道という道路名で供用開始している」は、全く該当しない。

 あえて言えば、近畿自動車道が「政令による路線名」だが、これは「暫定的」ではなく「恒久的」なものである。 

 一体、編者は何を根拠にこのような書き込みをしたのだろうか? 

 是非ともご開示願いたいものである。 

 

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 ところで、実際に高速道路の名称はどのように定められるのだろうか? 

 「高速道路のプランニング」 から、関係個所を引用してみる。

高速道路の名称はどうやって決定されるか (1)  

高速道路の名称はどうやって決定されるか (2)  

 ここでも中央高速道路から中央自動車道への名称変更について触れられている。この本は日本道路公団の職員によって執筆されたものであり、日本道路公団の公式見解的な位置づけとして受け止めて差し支えないのではないかと思われる。 

 

 実際には、「中央高速道路」から「中央自動車道」への道路名称の変更は下記のように案内されている。 

「中央高速道路」から「中央自動車道」へ路線名称を変更した証拠  

 wikipediaでは「当時の日本道路公団が1972年9月30日付の官報告示で中央高速道路を「高速道路」を用いない中央自動車道に改称すると発表した」 とあるが、それ以前の「高速道路と自動車」1972(昭和47)年6月号に掲載されている。

 これは推測にすぎないが、それ以前に日本道路公団が公表し、その結果を同誌に掲載しているのではないだろうか。 この記事が載ったコーナーは「国内ニュース」という表題であり、国内の高速道路関係記者発表等をクリッピングする役割だったと思われる。

  また、wikipediaでは「この事故を受けて「自動車道」の名称使用が正式に決まるまでに開通した他の高速自動車国道は、政令による路線名を暫定的に道路名としてそのまま使用していた」とあるが、もしこのように「暫定的」に使用していたのであれば、この記事での中央自動車道の道路名称決定にあわせて中国自動車道や九州自動車道の道路名称を「正式に」決定していなければならないと思われるが、そのような扱いにはなっていない。しかも同じ頁内の先の記事に「九州自動車道」「新空港自動車道」「道央自動車道」といった「政令による路線名」がそのまま扱われている。

  

中央高速道路から中央自動車道へ道路名称を変更  

 上記がWikipediaで言うところの「当時の日本道路公団が1972年9月30日付の官報告示で中央高速道路を「高速道路」を用いない中央自動車道に改称すると発表した」とする官報である。 

 ところで、ここの記事を編集した方がなんか勘違いされているようだが、官報は道路名称を「発表」するような広報紙でもなんでもない。法令上の「こういう項目は官報に載せて国民に知らせる手続きを取りなさい」という定めに従っているのであって、本件は当該官報公告( 「告示」じゃないよ)にも書いてあるように、当時の道路整備特別措置法第14条第1項の規定

 (料金の額及び徴収期間の公告又は公示)
第14条 公団は、料金を徴収しようとするときは、あらかじめ、その額及び徴収期間(第5条第1項の許可を受けて料金を徴収しようとするときは、徴収開始の日。以下この項において同じ。)を官報で公告しなければならない。当該料金の額又は徴収期間を変更しようとするときも、同様とする。

に基づいて、料金の額を公告したものであって、この公告において道路名称は法律上全く意味を持たない単なる早見表にすぎない。

 あくまでもこの後に続く「料金の額」が本体なのである。

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 長々と書いてしまったが、「嘘を書くより、嘘を証明する方が手間がかかる」のである。どうやらかなり長期に渡ってWikipediaに掲載されていたようでもあるので、しっかりと潰しておく必要があると考えた次第である。 

 この記事を編集した方が自発的に修正していただけると宜しいのではないか。

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2021年1月31日 (日)

日本の初期高速道路7,600kmの路線網はどのような基準で決定されたのか

 先の記事「法定の高速道路に成り損なった「未成高速道路構想」」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2021/01/post-73aac0.htmlにおいては、高速道路になれなかった路線構想を紹介した。

 ところで順番が逆になるかもしれないが、「高速道路7,600kmの路線網はどのような基準で決定されたのか」について触れていきたい。 

 おさらいになるが、日本の高速道路ネットワークがどのように形成されていったかを国土交通省の資料から紹介する。 

未成高速道路ネットワーク (13)  

未成高速道路ネットワーク (12)  

 そして今回紹介しようとする7,600kmの路線網は下記のものである。 

未成高速道路ネットワーク (7)  

 「ネット形成で考慮された拠点」という耳慣れない言葉が出てくるが、覚えておいていただきたい。

 「高規格幹線道路網に係る国家政策の歴史的変遷」http://www.jice.or.jp/cms/kokudo/pdf/tech/reports/05/jice_rpt05_04.pdfから引用 

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 先の記事にもお出ましいただいた井上孝氏が 「国土開発幹線自動車道路網の設定について」というそのものズバリの報告を日科技連数学計画シンポジウムにおいて行っているので紹介したい。

高速道路7600キロの路線採択の考え方 (1)  

 経済的な条件等は割愛する。 

高速道路7600キロの路線採択の考え方 (2)  

高速道路7600キロの路線採択の考え方 (3)  

 先に紹介した路線図における「ネット形成で考慮された拠点」はここに対応している。 

高速道路7600キロの路線採択の考え方 (4)  

 路線選定基準とは関係ないが、この段階では「②東京外郭環状」として、東京外環自動車道が独立した路線として扱われている。(マニヤの皆様はご承知のとおり、この後実際に国土開発幹線自動車道建設法が成立した段階では、外環道は独立した路線ではなく、東名、中央、関越、東北、常磐、東関東の各路線の起点部分に溶け込んでしまっている。この間に何があったのだろうか?)

参考記事「祝!外環道 三郷南~高谷開通!東京外環道って法令上の名称じゃないけどどうなってんの?」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2018/06/post-450c.html

高速道路7600キロの路線採択の考え方 (5)  

高速道路7600キロの路線採択の考え方 (6)  

高速道路7600キロの路線採択の考え方 (7)  

 ざくっと整理すると 

・全国からおおむね2時間以内で高速道路に到達できるようにする。

・全国から主要拠点を4大都市圏+58箇所選定し、これら相互を結ぶ道路網仮案を設定する。 

・この仮路線網から「交通需要」「カバーされる人口」「交通仕事量」の3つの指標から路線を選定する。 

・北海道は人口、面積等の事情が異なるため補正する。 

 これらの作業により、下記の7,600kmの路線網が設定されたというのである。 

高速道路7600キロの路線採択の考え方 (8)  

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 また、井上孝氏と一緒に7,600kmの高速道路路線網設定に取り組んだ山根孟氏(建設省道路局長、本四公団総裁等を歴任)は、「土木史研究におけるオーラルヒストリー手法の活用とその意義 : 高速道路に焦点をあてて」で下記のように触れている。 

高速道路7600キロの路線採択の考え方 (9)  

高速道路7600キロの路線採択の考え方 (10)  

高速道路7600キロの路線採択の考え方 (11)  

 ここで山根氏の言う「グラフを書いてみると」に該当するのが、井上氏の報文中「図1 道路延長と交通需要指数の関係」である。 

高速道路7600キロの路線採択の考え方 (12)  

高速道路7600キロの路線採択の考え方 (13)  

高速道路7600キロの路線採択の考え方 (14)  

 井上氏の報文に加えて山根氏の報文からもざっくり整理すると 

・従来の縦貫道法や個別立法により既に成立している路線は「ギブン」とし、既定の縦貫道等に追加していくものとしていた。 

・理論は国道の指定や諸外国との比較にも使われているものだった。 

・採算性は考慮していない。 

 といったことが分かる。

  

 「こんなもの後付けでもどうにでもなる」というむきもあろうが、建設省の公式見解はこれだということでそこはひとつ。 

 

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法定の高速道路に成り損なった「未成高速道路構想」

 今更ですが、今年も宜しくお願いします。

 

 今回は、高速道路ネットワーク形成に係る裏の歴史をたどってみたい。裏といっても利権ではなくて、成り損ない路線の供養みたいなものである。

 高速道路(高規格幹線道路等各種の用語があるが、本稿では便宜上高速道路と呼ぶ。)のネットワークの大きな流れについては、国土交通省が公開している下記の2枚のスライドで概括できる。

未成高速道路ネットワーク (13)

未成高速道路ネットワーク (12)

 そして、そのネットワークを表した路線図の経緯が下記のとおりである。

未成高速道路ネットワーク (10)

縦貫法等個別法にもとづく高速道路網図(昭和40年まで)

未成高速道路ネットワーク (7)

国土開発幹線自動車道路網(昭和41年)

未成高速道路ネットワーク (8)

高規格幹線道路網(昭和62年)

「高規格幹線道路網に係る国家政策の歴史的変遷」http://www.jice.or.jp/cms/kokudo/pdf/tech/reports/05/jice_rpt05_04.pdfから引用

 ところで、新幹線でも常磐新幹線のように構想はありながら、実際の計画には盛り込まれなかった路線がある。

 高速道路でも同様の闇に消えていった路線はあるはずだ。

 そこを整理してみたい。

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未成高速道路ネットワーク (7)

1966(昭和41)年7月 国土開発幹線自動車道建設法の制定により、7,600kmの路線網が決定されたのだが、この路線網はどのような経緯で決定されたのか?

 その当時の様子を井上孝氏が「井上孝回顧録 国土とともに」で下記のように振り返っている。

未成高速道路ネットワーク (3)

未成高速道路ネットワーク (4)

未成高速道路ネットワーク (5)

 では、ここで自民党議員によって要望されたにもかかわらず国土開発幹線自動車道建設法の7,600kmネットワークに盛り込まれなかった高速道路にはどのようなものがあったのだろうか?

 当時の毎日新聞に下記のような報道があった。

未成高速道路ネットワーク (9)

 国土開発幹線自動車道建設法の7,600kmネットワークに盛り込まれなかった高速道路4,800kmを今後追加するよう自民党が強く申し入れたというのだ。

 その一覧が下記のとおりである。37本と38本の違いがあるが。

未成高速道路ネットワーク (1)

 如何であろうか?

 末尾には(見づらいが)「(注)国土開発幹線自動車道建設法別表予定路線以外の路線」と書いてあるのがお分かりだろうか?これこそ、まさに、「7,600kmに入れられなかった路線一覧」なのである。

 例えば、北海道2小樽線であれば、現在その一部が後志自動車道として開通する一方、九州37出水線のように、現在の高規格道路網の計画にすら組み込まれていないものもあるといった具合に様々である。

 四国33三崎線と九州35佐賀関線あたりは、今だと、とっぴに見えるが、日本道路公団が国道九四フェリーを運航していたことを考えれば、まあ納得はいく。東北5下北線や東北8津軽線も北海道へのフェリーアクセスを重視したのだろう。

 

 なお、井上孝氏は、「土木史研究におけるオーラルヒストリー手法の活用とその意義 : 高速道路に焦点をあてて」で下記のように触れている。

未成高速道路ネットワーク (6)

 「黄色い太いマジックの逸話は嘘」だとか「東九州道は入れたかったけど入れられなかった」とか述べている。

 なお、最後に出てくる「NHKからのプロジェクトXみたいな感じの取材申し入れ」は、おそらくこいつのことなので、そんなににこやかな話にはならなかったはずだ。これは根拠のない妄想なのだが、取材を申し込むときには「プロジェクトXみたいな感じ」と説明して了解をとったが、実際の取材は違って。。。みたいな感じだったのかなあと。

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 その後、 1987(昭和62)年 第4次全国総合開発計画(いわゆる「四全総」)に高規格幹線道路14,000㎞を決定し、そのうえで国土開発幹線自動車道建設法を一部改正し、約11,520kmの高速自動車国道と約2,480kmの一般国道自動車専用道路を追加している。

未成高速道路ネットワーク (8)

 この際にも、ここに盛り込まれなかった高速道路構想があった。

 1969(昭和44)年の新全国総合開発計画(いわゆる「新全総」)である。

 新全総では「国土利用の現況と将来におけるわが国経済社会の基本的発展方向にかんがみ,情報化,高速化という新たな観点から,国土利用の抜本的な再編成を図り,37 万平方キロメートルの国土を有効に利用するために,中枢管理機能の集積と物的流通の機構とを広域的に体系化する新しいネットワークを整備する。」とし、新幹線等とともに高速道路についても下記のようなネットワークが提唱されている。

未成高速道路ネットワーク (2)

未成高速道路ネットワーク (11)

 この「新全総」のネットワークが「四全総」までの間にブラッシュアップされて、現在の高規格幹線道路網を形成しているということなのだろう。

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 これらの構想を早見表にしてみた。

 

S41自民党     S44新全総     S62四全総     高規格幹線道路   地域高規格道路等  
 --      --     日高自動車道 苫小牧 浦河 日高自動車道 B    
 --      --     深川・留萌自動車道 深川 留萌 深川・留萌自動車道 B    
 --      --     帯広・広尾自動車道 帯広 広尾 帯広・広尾自動車道 B    
 --      --     函館・江差自動車道 函館 江差 函館・江差自動車道 B    
根室線 釧路 根室 北海道横断道延伸 釧路 根室 釧路・根室自動車道 釧路 根室 北海道横断自動車道根室線 A    
網走紋別線 北見 士別 北海道横断道延伸 北見 網走 北見・網走自動車道 北見 網走 北海道横断自動車道網走線 A    
 --      --     旭川・紋別自動車道 旭川 紋別 旭川・紋別自動車道 B    
小樽線 長万部 小樽  --     後志自動車道 黒松内 小樽 北海道横断自動車道 A    
三陸線 大船渡 八戸 常磐、三陸縦貫高速国道 青森 いわき 八戸・久慈自動車道 八戸 久慈 八戸・久慈自動車道 B 三陸北縦貫道路  
 --      --     三陸縦貫自動車道 仙台 宮古 三陸自動車道 B    
 --     奥羽縦貫高速国道 青森 宇都宮 東北中央縦貫自動車道 相馬 横手 東北中央自動車道 A 会津縦貫北道路 会津縦貫南道路
下北線 八戸 大間 下北半島縦貫高速国道 八戸 大畑  --      --   下北半島縦貫道路  
大船渡線 北上 大船渡 東北横断自動車道釜石線 北上 釜石 北東北横断自動車道 花巻 釜石 東北横断自動車道釜石秋田線 A    
宮古線 盛岡 宮古 秋田宮古高速国道 秋田 宮古  --      --   盛岡秋田道路 宮古盛岡横断道路
津軽線 青森 三厩  --     津軽自動車道 青森 鯵ケ沢 津軽自動車道 B    
新庄石巻線 石巻 新庄  --      --      --   石巻新庄道路  
新潟青森線 新潟 青森 日本海沿岸縦貫自動車道 青森 新潟 日本海沿岸縦貫自動車道 新潟 青森 日本海沿岸東北自動車道 A    
--      --     東北縦貫自動車道八戸線延伸 八戸 青森 東北縦貫自動車道八戸線 A    
相馬線 相馬 常磐、三陸縦貫自動車道 青森 いわき 常磐自動車道 いわき 仙台 常磐自動車道 A    
相馬新潟線 相馬 新潟  --     東北中央縦貫自動車道 相馬 横手 東北中央自動車道 A 新潟山形南部連絡道路  
鹿島水戸線 鹿島 水戸 関東環状道路 東海道 鹿島 東関東自動車道鹿島線延伸 鹿島 水戸 東関東自動車道水戸線 A    
水戸前橋線 水戸 前橋 関東環状道路 東海道 鹿島 北関東横断自動車道 高崎 那珂湊 北関東自動車道 A    
関東環状線 千葉 横浜 東京環状道路 横浜 市原 首都圏中央連絡自動車道 横浜 木更津 首都圏中央連絡自動車道 B    
 --     房総縦貫道路 成田 館山 東関東自動車道木更津線延伸・首都圏中央連絡自動車道 木更津 館山 東関東自動車道館山線・首都圏中央連絡自動車道 A    
 --     東京湾横断道路 川崎 木更津  --      --   東京湾横断道路  
 --     東京湾横断道路 横須賀 富津  --      --   東京湾口道路  
横須賀線 東京 横須賀  --      --      --   横浜横須賀道路?  
平塚線 相模原 平塚  --     首都圏中央連絡自動車道 横浜 木更津 首都圏中央連絡自動車道 B    
 --     第2東海道高速国道 東京 名古屋 第二東名自動車道 東京 名古屋 第二東海自動車道 A    
清水甲府線 清水 甲府 関東環状道路 東海道 鹿島 中部横断自動車道 清水 佐久 中部横断自動車道 A    
 --     伊勢湾環状高速道路 豊川 近畿道  --      --   三遠伊勢連絡道路  
磐田飯田線 磐田 飯田 中部横断自動車道 浜松 飯田 三遠南信自動車道 飯田 三ケ日 三遠南信自動車道 B    
福井松本線 松本 福井 北陸関東自動車道 松本 福井 中部縦貫自動車道 松本 福井 中部縦貫自動車道 B    
富山松本線 富山 松本  --      --      --      
 --      --     伊豆縦貫自動車道 沼津 下田 伊豆縦貫自動車道 B    
能登線 金沢 珠洲  --     能越自動車道 砺波 輪島 能越自動車道 B    
金沢荘川線 金沢 荘川 北陸関東自動車道 松本 金沢  --      --      
若狭線 敦賀 峰山 若狭丹後自動車道 敦賀 豊岡 敦賀・舞鶴自動車道 敦賀 舞鶴 近畿自動車道敦賀線 A 鳥取豊岡宮津自動車道  
 --     東海南海連絡道 伊勢 和歌山  --      --      
 --     第2名阪道路 名古屋 大阪 第二名神自動車道 名古屋 神戸 近畿自動車道名古屋神戸線 A    
 --      --     東海環状自動車道 四日市 豊田 東海環状自動車道 B    
京都新宮線 京都 新宮  --      --      --   五條新宮道路  
京都和歌山線 京都 和歌山  --     京奈和自動車道 京都 和歌山 京奈和自動車道 B    
大阪奈良線 大阪 奈良  --      --      --   第二阪奈道路?  
 --     紀南自動車道 海南 白浜 紀勢自動車道 勢和 海南 近畿自動車道紀勢線 A    
 --      --     西神自動車道 神戸 三木 西神自動車道 B    
 --     大阪湾環状道路 和歌山 鳴門  --      --      
 --     山陰阪神連絡自動車道 福知山 鳥取 北近畿豊岡自動車道 春日 豊岡 北近畿豊岡自動車道 B 鳥取豊岡宮津自動車道  
 --     山陰海岸自動車道 京都 山口 京都縦貫自動車道 京都 宮津 京都縦貫自動車道 B 鳥取豊岡宮津自動車道  
 --      --     山陰自動車道 鳥取 美祢 山陰自動車道 A    
鳥取姫路線 鳥取 姫路 中国横断自動車道 鳥取 姫路 姫路・鳥取自動車道 姫路 鳥取 中国横断自動車道姫路鳥取線 A    
 --     中国横断自動車道 岡山 鳥取  --      --   美作岡山道路  
松江尾道線 松江 尾道 中国横断自動車道 松江 尾道 陰陽連絡自動車道 尾道 松江 中国横断自動車道尾道松江線 A    
松江広島戦 松江 広島 中国横断自動車道 松江 広島  --      --      
益田徳山線 益田 徳山 中国横断自動車道 益田 徳山  --      --      
 --     中国横断自動車道 宇部 長門  --      --      
 --      --     尾道・福山自動車道 尾道 福山 尾道・福山自動車道 B    
 --      --     東広島・呉自動車道 東広島 東広島・呉自動車道 B    
 --      --     山陽自動車道延伸 山口 下関 山陽自動車道 A    
 --      --     今治・小松自動車道 今治 小松 今治・小松自動車道 B    
高松阿南線 高松 阿南 四国自動車道 高松 阿南 東四国横断自動車道 高松 阿南 四国横断自動車道 A    
 --      --     高知東部自動車道 高知 安芸 高知東部自動車道 B    
三崎線 大洲 三崎  --      --      --   大洲・八幡浜自動車道  
大洲須崎線 大洲 須崎 四国自動車道 須崎 大洲 西四国縦貫自動車道 大洲 須崎 四国横断自動車道 A    
佐賀関線 大分 佐賀関  --      --      --      
東九州線 北九州 宮崎 東九州縦貫自動車道 北九州 鹿児島 東九州縦貫自動車道 北九州 鹿児島 東九州自動車道 A    
 --     九州中部横断自動車道 延岡 熊本 九州中部横断自動車道 御船 延岡 九州横断自動車道延岡線 A    
出水線 小林 出水 九州南部横断自動車道 出水 えびの  --      --      
鹿屋線 宮崎 鹿屋  --     東九州縦貫自動車道 北九州 鹿児島 東九州自動車道 A    
 --      --     西九州自動車道 福岡 武雄 西九州自動車道 B    
 --      --     南九州西回り自動車道 八代 鹿児島 南九州西回り自動車道 B    
 --      --     那覇空港自動車道 那覇 那覇空港 那覇空港自動車道 B    
                         

 地域高規格道路等のあてはめは詳細に検討せずに勢いで埋めてしまったものもある(例えば「房総縦貫道」と東関道館山線、圏央道の関係)ため、誤りもあるかもしれないが、そこはご容赦いただくとともに、正式な資料があれば是非ご教示いただきたい。 

 なお、上記の表はwikipedia等への転載はご遠慮申し上げたい。 

 未成道マニヤの皆様の妄想に寄与できれば幸甚である。

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 例えば、各地の自治体等の新全総関係開発計画で下記のような図面が掲載されていて、「下北半島縦断高速道路はこれか!」とか「奥羽縦貫自動車道の磐越道以南はどんな経路だったんだ?」とか更に妄想が広がりますので是非。 

奥羽縦貫自動車道 下北半島縦断高速道路

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