カテゴリー「ドボク」の59件の記事

2021年6月 9日 (水)

「京葉線の東京駅は、成田新幹線用に確保した用地に作った」という人が多いから登記簿をとってみた

「船橋二和高校と日大グランドの間の空間は成田新幹線のために買収した土地の名残だと言われるが、不動産登記簿を閲覧したらそんな売買取引の記録はなかった。」

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2021/04/post-305c8a.html

「新宿西口甲州街道交差点 なぜ南側の一角だけビルの背が低いのか等を登記簿から探る」

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2021/05/post-c9067d.html

 と、登記簿ネタでブログを書いてみたら、私の弱小ブログにしてはご好評をいただいたので、調子に乗ってまた登記簿をとってみた。

 また成田新幹線である。

 それも東京駅だ。

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (1)

 「京葉線の東京駅は、成田新幹線用に確保した用地に作った」という人が多いから登記簿をとってみた

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (2)

 「京葉線の東京駅はどうしてあんなに遠いのか?」という問いに対して

「成田新幹線の東京駅のために買収してあった用地を転用/活用したから」といった趣旨の答えをネットでは多く見かけるので、

京葉線東京駅の敷地の登記簿をとってみた。

 果たして、成田新幹線の東京駅としての用地買収はされているのであろうか?

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (3)

 京葉線東京駅の地下の権利に係る部分を拡大してみよう。

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (4)

 東京地下駅の権利の設定は、1985(昭和60)年11月20日だ。

 成田新幹線の凍結は、1983(昭和58)年と言われるから、その後だ。

 残念。

京葉線東京駅敷地の登記簿

 見やすくするために大きい画像も貼っておこう。

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (5)

 というわけで、船橋二和高校南側の空き地に続き、また登記簿で成田新幹線に係る都市伝説を終了させたということでよいのではなかろうか。

 これだけではアレなので、もう少し成田新幹線や京葉線の東京駅の権原(けんばら)について解説してみよう。

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (6)

 今回登記を取ったのは、旧・都庁(現・東京国際フォーラム)敷地の地下の部分である。

 ヤフーマップ等で見るよりも実はがっつりと道路から東京国際フォーラム敷地内に京葉線東京駅がはみだしている。この筆だけでも438㎡もある。

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (7)

 地上は東京都の持ち物だが、京葉線東京駅が存在する地下2m40cmから38m45cmの間だけ、日本鉄道建設公団(現在は鉄道建設・運輸施設整備支援機構)の権利(区分地上権)が設定されている。

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (8)

 「都庁地下の権利が設定されたのが成田新幹線凍結後だからといって、成田新幹線の東京駅の敷地がそこまでかかっていたか分からないじゃないか。判断するのは早計だ。」

とおっしゃる方もいらっしゃるかもしれないが、成田新幹線時代の東京駅の図面でも「道路巾37m以内に納まらず東京都庁内に侵入せざるを得ない。」と国鉄職員が書いているので間違いないだろう。

 成田新幹線東京駅としては用地は買えなかったのである。

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (9)  

 では、「道路巾37m以内」における京葉線東京駅の権原の設定はどうなっていたのか。 

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (10)  

 道路法第32条に基づき、道路管理者(この場合は、東京都)の道路占用(占有じゃないよ)許可を得る必要がある。 

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (11)  

 上記1972(昭和47)年3月29日付朝日新聞の記事にも紹介されているが、東京都は、成田新幹線東京駅への道路占用を拒否していたのである。反対なので。 

 「〇〇のプロ市民と過激派のせいで成田新幹線ができなかった」と憤る方がいらっしゃるが、東京都民の場合はまず自問自答された方がよいかもしれない。 

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (12)  

 尤も、新幹線と東京都が相性が悪いのは成田新幹線に限った話ではないのであるが。 

 その話は、それはそれでネタが結構あるのだが、閑話休題にしてはあまりにも収拾がつかないのでやる気が起きればまた別の機会に。 

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (13)  

 1983(昭和58)年7月に京葉線の工事実施計画変更認可があり、道路占用の協議に17カ月を要したというのだから、区分地上権を設定した1985(昭和60)年11月の前後に京葉線東京駅に係る道路占用許可もあわせて取得したのではないか??
 

 そんな感じでほぼ同一歩調で都道下の道路占用許可と旧・都庁地下の区分地上権設定が進んだのではないかなあと「推測」する次第である。

 これはあくまでも「推測」なので、間違っているという証拠があれば是非ご教示いただきたい。 

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (14)  

 今回の本論から話は逸れるが、1983(昭和58)年6月に京葉線の工事実施計画変更認可申請にあわせて、日本鉄道建設公団から運輸省へ「成田新幹線工事の凍結申請」が行われ、同年7月に回答があったという点も注目される。

 同じ場所に同じ公団が成田新幹線と京葉線という違う鉄道の工事実施計画の認可を受けるのは具合が悪かったのであろう。

 公文書上の正式な成田新幹線凍結は昭和58年7月5日とすべきなのかもしれない??

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (15)  

 詳細な凍結時期はともかく、それまでの間に、日本鉄道建設公団は成田新幹線東京駅の工事に必要な土地の権利設定ができていなかった。 

 権利が無いのだから工事なんかできないのである。国鉄敷地内の地下通路を除いては。 

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (16)  

 成田新幹線東京駅の工事もできないし、土地の買収(地下の権利設定)もできていないのであれば、「じゃあなんで京葉線東京駅はあんな遠くにあるんだ」ということになる。 

 だって成田新幹線のしがらみは幸か不幸か一切ないのだから。 

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (17)  

 鉄道建設公団の公式の工事誌ではこんな理由だ。 

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (18)  

 JR東日本の社員が書いた報文ではこんな理由だ。 

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (19)  

 まあ、成田新幹線の遺構があろうがなかろうが「永代通りも八重洲通りも先客がいるのだから鍛冶橋通りしか空いていませんでしたよ」ということなのだろう。 

 なお、成田新幹線の計画が生きているころの京葉線(当時は「総武・中央開発線」)は、鍛冶橋通りの更に外側になる外濠通りを通って、新橋駅で山手線や東海道線等と接続する構想があった。

京葉線の都心新宿三鷹方面への乗り入れ計画 総武開発線 (2)

 「第27回停車場技術講演会記録」307頁から

 その辺にご関心がある方は

「京葉線はかつて新橋経由で都心(新宿、三鷹)に乗り入れる計画だった。」

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/post-1315.html

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 ここで、未成線研究としては外せない川島令三氏はここについてどう語っているかを見てみよう。 

 

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (20)  

  

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (21)  

  

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (22)  

  

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (23)  

 年を追うごとに、成田新幹線東京駅の完成度合いが後退していっているのが大変興味深い。 

 なお、「旅鉄CORE」とは、鉄道ジャーナル社から「旅と鉄道」を引き継いだ株式会社天夢人が「鉄道の世界を趣味として、知識として知見を広めるための一歩踏み込んだシリーズ」ということで、その栄えある第一号が川島令三氏の「全国未成線徹底検証 国鉄編」ということのようだ。
 

 川島令三氏の発言の推移については、「川島令三の上越新幹線新宿ルートの変遷を追う」という記事も書いたことがある。 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2020/04/post-159396.html 

  

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京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (24)  

 これは余談なのだが、「京葉線東京駅は成田新幹線駅の遺構なので、広いのだ」という話を聞くことがあるが、成田新幹線東京駅のホームよりも、京葉線東京駅のホームの方が広かったでござる。

 

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 これは全くの蛇足なのだが、今回の記事を書くためにネットも含めいろいろ調べていたのだが、こんな記事を見つけた。 

「東京駅の「京葉線ホーム」があんなに遠いワケ 新幹線の夢の跡に生まれた地下ホーム」 

https://toyokeizai.net/articles/-/220360

 この記事の日付が2018年5月13日 5:00 

 

そして、私がまとめた 

「<JR京葉線>東京駅はなぜ深くて、なぜ遠くて、なぜ有楽町線には乗入れないのか?」 

https://togetter.com/li/1163391 

 これをまとめた日付が2017年10月22日である。 

 もにょもにょ。 

 

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2021年4月 8日 (木)

富士スピードウェイのストレートは「飛行機の離着陸にも利用できるようにした」と大成建設富士スピードウェイ建設作業所長が土木雑誌に書いている。

 「ボクのあこがれ♪ボクの恋人♪スーパーカー♪」

 何を隠そう、スーパーカーブーム世代である。

 学校の昼休みはスーパーカー消しゴムでレースをし、放課後は「サーキットの狼」を友達と回し読みし、夜はテレビで「スーパーカークイズ」を見ていた世代だ。

 

 なぜ、こんなつまらない自分語りをするかというと、今回のネタは出オチだからだ。

 表題のとおりである。

富士スピードウェイのストレートは飛行機の滑走路にできる (7)

 「土木工事施工例集 1道路・鉄道編」1967年 山海堂・刊を、「なんかブログに載せられるようなネタはないかなー」と思いながら頁をめくっていたら、こんな記事があった。

「富士スピードウェイ建設工事の計画と施工」著者は小林秀夫・大成建設株式会社富士スピードウェイ建設作業所長と内藤正昭・同社土木本部設計部係長のお二人である。

 Wikipediaの富士スピードウェイの頁には、河野一郎だ河野洋平だと書いてあるが、実際に設計・施工したのは大成建設であり、その施工報告を、その名も「土木施工」という土木業界誌に載せ、その単行本化されたものが私の目にとまったというわけだ。

 

 で、肝心なところはこれである。

富士スピードウェイのストレートは飛行機の滑走路にできる (1)


 メインスタンドの前面には前述のように各種自動車の最高スピードを追及できるように,延長1.6kmの直線コースを用意し,さらに,レース以外の競技や,飛行機の離着陸にも利用できるようにした

 

「富士スピードウェイ建設工事の計画と施工」小林秀夫・大成建設株式会社富士スピードウェイ建設作業所長、内藤正昭・同社土木本部設計部係長

 こういう重箱の隅のようなネタならWikipediaに載っているかなと思ったら載っていないし、検索してもヒットしないので、貴重なネタなのかも!と思い、あげときました。

 というだけである。

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 これだけなのだが、これで終わると本当に出オチの一発芸なので、私のブログらしいネタにも触れておこう。

 土木の施工報告なので、当然竣工図面が載っている。

富士スピードウェイのストレートは飛行機の滑走路にできる (2)

 こっそり「大成建設事務所」と図-1の左上に書いてアピールしているところなんかお茶目だ。

 サーキット好きな方にはそれぞれのコーナーのRなんかに需要があるのかしら。

 縦断図があると「サーキットもやっぱり道路の施工なんだなあ」と思ったりする。

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 富士スピードウェイというとかつては「30度バンク」が有名だったそうで。

 


30度バンク

 富士スピードウェイの大きな特徴として、30度のカントがついたバンクコーナーがあった。これは前述の通り、元々同サーキットがオーバルコースとして計画されたことの名残と言われている。オーバルコースではコーナーでの減速を極力減らすため、コーナーにバンクを付けるのが普通である。

 当時、国内でこのような急角度の路面舗装を経験した業者はひとつもなく、依頼された日本鋪道(後のNIPPO)は、ロードローラーをバンクの上からワイヤーで引っ張るという方法できり抜けた。しかし、もともと経験不足を起因とする勾配の設計が良くない上に、後に「馬の背」と呼ばれることになるこぶ状のうねりもあった。カントのついたオーバルコースで争われるオートレースの世界から転進した田中健二郎曰く、「完成当初にコース管理者に『基礎に杭を打ち込んだか?』と尋ねたら、『打ち込んでない』と言われ『こりゃ駄目だ』と思った」そうである。

 

Wikipedia「富士スピードウェイ」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%BC%E3%83%89%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%82%A4 2021年4月8日閲覧

 その「ロードローラーをバンクの上からワイヤーで引っ張るという方法できり抜けた。」というのが当該報文にも掲載されている。

 ところで、この本には「富士スピードウェイの舗装」という報文も続いて載っているのだが、それの著者は大成建設系列の舗装業者である「大成道路株式会社」の社員となっている。

 なのでWikipediaの「依頼された日本鋪道(後のNIPPO)」という表現は要検証である。

 また「杭を打ち込んでいないから駄目だ」旨の田中健二郎氏の発言を引用しているが、道路は杭の有無の問題ではなく、土をしっかり固めているかの問題であるので、これは残念ながら的外れな発言である。

 Wikipediaの富士スピードウェイを書いた方はよく検証していただきたい。

 

 それはさておき、施工写真だ。

富士スピードウェイのストレートは飛行機の滑走路にできる (5)

 「カント30°部分表層輾圧状況」とある。これがロードローラの作業だ。

富士スピードウェイのストレートは飛行機の滑走路にできる (4)  

 「カント30°部分表層舗装状況」とある。ここでアスファルトをひいている。 

富士スピードウェイのストレートは飛行機の滑走路にできる (6) 

 そしてこれが「バンクの上からワイヤーで引っ張るという方法」の図解である。 

 舗装の機械は15°傾けて設置していたこともわかる。 

 

 ところで「後に「馬の背」と呼ばれることになるこぶ状のうねりもあった。」とのことだが、当該報文にはこう書いてある。

 次に、平坦性は直線部で3mの直線定規で測定しても大半が5mm以下であった.また曲線部30°の斜面では8mm位のところもあったが,これは基層の上にスベリ止めを行ったので表層による不陸調整ができなかったためと思われる。

 

「富士スピードウェイの舗装」秋山次雄・大成道路株式会社工事部,研究所次長

 だからなんだと言われるとアレだが、一応書いておく。

 

 サーキットの舗装の話については、「日本では高速道路より先に鈴鹿サーキットが出来て、それの舗装を参考にして高速道路が作られた」というホンダの人の話を検証する」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2020/08/post-68a979.htmlという記事も書いているのであわせてご参照いただきたい。

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2020年11月23日 (月)

『首都高が日本橋の上を通るにあたって、当時の技術者は「苦渋」「冒瀆」と感じた』と土木学会や佐藤健太郎はいうけれども本当だろうか

 相変わらず長い記事を書いてしまった。

 そこで今回は要約パワポを作ってみた。

首都高と日本橋の美観 (5)

佐藤健太郎「国道者」と首都高速日本橋 (4)

 土木業界にありがちな「首都高と日本橋にまつわる、『本当は土木技術者もいいことを考えていたんだけど』風ちょっといい話」のエビデンスを検証してみたというわけだ。

 関心ある方は是非このままお進みくださいませ。

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首都高と日本橋の美観 (7)

首都高と日本橋の美観 (6)

 首都高速道路と東海道新幹線の開通50周年を記念した土木学会のイベントにおいて、家田仁東大教授(当時、現・土木学会会長)が、 首都高速の河川上の利用について「恐らく当時の道路計画者たちにとっても苦渋の選択であったものと思われる。」と述べている。

  

 他方、「国道者」において佐藤健太郎氏は、こう述べる。 

佐藤健太郎「国道者」と首都高速日本橋 (2)  

「 オリンピック開催決定後5年では間に合わないので河川上空を使った」というのは大嘘なのだが、まあここは今日の本題ではない。

佐藤健太郎「国道者」と首都高速日本橋 (3)  

 「 道路・橋梁のプロである彼らにとっても、日本橋は最大の聖地だ。そこを踏みつけにするかのような道路の建設は、冒瀆とも思えたことだろう」と記している。

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 私のいやらしい性格をご存じの方は、上記の土木学会現会長や、国道マニアのフリーライターが書いた「思われる」や「思えたことだろう」という微妙な書き方のところをガシガシとエビデンスを掘ってみようではないか!という今回の記事の目的と結論がもう見えたことだろう。

 断言できないのよ。連中は。

 本来は「土木の日」にあわせて書き上げようとしたが、怠惰な性格故に間に合わなかったことだよ。 

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 まずは、実際にオリンピック決定以前に、河川上の首都高速のルートをひいた当時の東京都局長の山田正男氏である。 

 出典は「東京の都市計画に携わって: 元東京都首都整備局長・山田正男氏に聞く」である。 

首都高と日本橋の美観 (21)  

首都高と日本橋の美観 (22)  

 「高速道路の景観はそんなにおかしいか」「見るだけのために構造物を作っているんじゃないからな。そう圧迫感を感ずると僕は思わんから。」というあたりに、道路計画者の「苦渋感」や「冒瀆感」が満ち溢れていますね。 

 なお、佐藤健太郎氏が触れている日本橋付近を干拓して首都高をしたに通す話にも山田正男氏は触れているが、日本橋の景観の保全どころか、首都高と新幹線で二階建てで日本橋川に入れようと国鉄と話をしていたというのである。

首都高と日本橋の美観 (18)  

「東京都市高速道路の建設について」(1959年4月 東京都・刊)から抜粋。

 首都高における河床の掘割区間は上記のような考え方で設定されている。「最も望ましい構造」というわけだ。

 ところで、山田氏の対談で出てくる日本橋の下を通す案は1957年に出されたもので、それをあきらめた「神田川があふれんばかりの状況」は、狩野川台風(1958年9月)の被害状況である(「首都高速道路のネットワーク形成の歴史と計画思想に関する研究」古川公毅 44~45頁)。

 佐藤健太郎氏の言うような「1959年のオリンピック決定後に短期間で工事をするために河川を通さざるを得ないが、聖地日本橋を冒瀆しないために下を通すアイデアが出された」というのは時系列的にデタラメで破綻しているのだ。

 時系列はともかくとして、「最も望ましい構造」という一般的な意味以上に、「聖地日本橋のために河床を通す」という意思を示した文献を浅学ながら見かけたことがない。もしご存じの方がいらっしゃればご教示いただけると幸甚である。佐藤健太郎は本に書く以上はお持ちだと思うのだが。。。

 下記は、1962年に作成された当初の都市計画の案である

秋庭大先生2

 路線に四角いハッチがかけられている部分が「半地下部分」である。

 日本橋川については、三崎町付近から江戸橋までが半地下である。

 「聖地日本橋」を特別扱いしたのではなく、都心環状線の中央区・千代田区あたりは基本的に半地下扱いとみるのが妥当ではなかろうか?皆様のご意見はどうだろうか?

 

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 続いては、建設省、首都高速道路公団等で建設行政実務を経験し、のちに東京大学工学部名誉教授となった、井上孝氏である。 

 出典は「都市計画を担う君たちへ」である。 

首都高と日本橋の美観 (9)

 「ここで一番重要なのは、日本橋の上ですら高速道路をかぶせるというくらいの度胸が都市高速道路を計画していたグループにはこの時あったわけです。」と述べている。

 また、「首都高で東京の水辺が失われた」との批判に対しても「戦災復興で瓦礫を運河に捨てたときから失われている」と述べている。

 東大工学部の大先輩のこの言を踏まえて、家田仁氏は「道路計画者の苦渋」を感じとったのであろう。

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 これらは、技術者の「うちわ向けの昔語り」であり、世間向けには当時どう言っていたかを首都高速道路公団の広報誌「首都高速」No33(1964年2月15日号)から見てみよう。

首都高と日本橋の美観 (2)  

 NHKの大河ドラマ「いだてん」の冒頭に出てきたような首都高速道路が日本橋を跨ごうとしている写真が掲載されている。

 右上の煉瓦造りが山田正男氏が敬意を表して避けた帝国製麻か。

 右下に何か書いてあるので拡大してみよう。 

首都高と日本橋の美観 (1)  

 日本橋に首都高速4号線の高架が、もう間もなくオーバー・クロスする。そして「お江戸日本橋七つだち」にとうたわれたこの橋も、新二重橋として、東京の新名所になる日も、間近い

 「新二重橋として、東京の新名所になる日も、間近い」これこそが、当時の首都高速道路公団の道路技術者の心意気である。

 では、日本橋付近を通過する際に、美観は考慮されなかったのか? 


 首都高速道路公団では線形が決定した1960年12月橋梁設計会社20社から「このインターチェンジ(※引用者注:当時の首都高速の「インターチェンジ」は、現在の「ジャンクション」を意味する。)を如何なる構造にすべきか?」広くアイデアを募り,構造型式選定の資料とした。

 「江戸橋インターチェンジについて」西野祐治郎・和田宏造・前田邦夫「道路」1964年7月号517頁から引用

 と、当時の建設会社等からデザインを募集している。 

 詳細は「首都高の日本橋川区間のデザイン検討について-首都高日本橋附近の地下化関連(1)」を参照いただきたいが、

首都高速の日本橋川に架かる高架橋のデザイン等  (6)  

 民間企業からはこんなデザインも出て、「好評を得た」とのことである。まさに「新二重橋を日本橋に架けよう」という当時の官民問わない道路技術者の熱気が伝わってくるではないか。

首都高と日本橋の美観 (8)  

 日本橋に架かる首都高速道路の想像図は、上記のように首都高速道路公団の「顔」として、会社案内の表紙に採用されている。

 「苦渋感」や「冒瀆感」があれば、「会社の顔」「首都高の顔」に採用するだろうか? 

 これに対して、1962(昭和37)年12月24日付読売新聞は、「感傷も吹き飛ばすように工事が近づいてきた日本橋」「スマートになる完成予想図」と報じている。 

首都高速の日本橋川に架かる高架橋のデザイン等  (13)  

首都高と日本橋の美観 (12)

 「少年少女東京オリンピック全集4」94頁から引用。

 「大空間の美しさは、日本に新しい美観をそえたものと言えましょう」とまで言い切っているのだ。

 世間からも一定の支持を得ていたわけだ。 

 家田仁氏の言うような「苦渋感」や、佐藤健太郎氏の言うような「冒瀆感」は、後知恵のものと言えるのではないだろうか? 

首都高と日本橋の美観 (17)

 同じ首都高の広報誌に載ったこのあっけらかんとしたイラストを見よ。

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 もちろん、首都高の日本橋付近があのままでよいわけではないと思った人もいる。 

 同じ広報誌に首都高速道路公団理事長の神崎丈二氏と地元日本橋関係者らとの対談が載っているので、冗長となるが全文掲載したい。 

首都高と日本橋の美観 (13)  

首都高と日本橋の美観 (14)  

首都高と日本橋の美観 (15)  

首都高と日本橋の美観 (16)  

 諸橋雅之・首都高速道路株式会社 日本橋区間更新事業推進室長は、「日本橋の上に首都高を通すことに対しては、建設当時から新聞などである程度の反対はあったようです。ただ、地元の方々は「国を挙げてオリンピックをやろうというときに、建設に反対するなんてヤボだ」ということで、容認していただいていたようです。」 と語っているが、実際には色んな動きがあったことが分かる。

 注目すベきは、高松宮が「日本橋はどうにかならないものか」という「残念というか複雑な気持」を伝えていたというあたりとか、神崎理事長が「日本橋の左側の家屋を買収してということを無理を承知で調査させた」とか「日本橋をどうしても越さなければならないならもっといい型で越えたいと思いまして、ずいぶん権威者の考えを伺ったわけです。技術委員会や審美委員会の意見を聞き、完成予想図も30~40枚画いたんです。けれども、いま出来上がってみると私のイメージと少しちがうようですね。」といったあたりである。神崎理事長は、民間から来た事務系の理事長である。その彼が道路技術者に対して意見を聞き、いろんな完成予想図を画かせていたけどうまくいかなかったというのが首都高の記録である。 

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 土木屋、都市計画屋はダメでも、建築屋、都市景観屋は「苦渋感」「冒瀆感」を出していたのではないかという意見もあろう。 

 ここに興味深い座談会の記録がある。その名もズバリ「首都高速道路計画を語る」 

首都高と日本橋の美観 (3)  

「公共建築」1960年8月号ということで、既に首都高速道路公団も発足し、河川上のルートも決まって事業が動き出した後のタイミングである。 

 なかでも芦原義信氏は、日本の都市景観の第一人者だ。さぞかし、日本橋の上に架けようとする高速道路計画を批判していると思うだろう。

 ところが、8頁を費やしたこの対談に「日本橋のにの字」も出てこない

 それどころか、芦原義信氏は「わたくしは道路のことは素人ですが、道路を作っているのを見るのは希望や夢があって楽しいものですね」(同61頁)なんて言っている。(氏の名誉のために補足しておくと、個別の景観ではなく都市計画全体における首都高の位置づけについての発言が太宗であった)

 むしろ河川については「川の上をやたらつぶしてしまうと、この次に誰かが潰す時に何も潰すものがなくなっちゃう。少し早まっているんじゃないかということなんです。」という大塚全一氏(当時は建設省から首都高速道路公団計画課長として出向。その後任が井上孝氏である。大塚氏は後に早大教授。)の発言に対して誰もつっこまない。 

首都高と日本橋の美観 (4)  

 秀島乾氏は「わたくしは、形態的には、大体、高架線が市内を走るのは不愉快千番だと思います」と発言してるが、最後にそもそも銀座の川を潰して高架の東京高速道路(KK線)を計画したのは秀島乾だろうとつっこまれて、秀島がもそもそ言い訳をして対談を閉じるといった体なんである。

 「この次に潰すものがなくなっちゃう」という意味では、家田仁氏の言うような「苦渋の選択」であることは間違いないようだ。やっとエビデンスが出てきたぞ。

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 というわけで、都市景観屋も当時は注目すべき論点としてすら捉えていないのだ。 

首都高速道路と都市景観 (1)  

 「都史資料集成II 都制施行から昭和30年代までを対象にした東京都の歴史に関する資料集」の第2巻にある「図録東京都政2 「文化スライド」でみる東京~昭和30年代」でも「それにしてもすばらしい光景ですね」としているではないか。 

  

 家田仁氏は「恐らく当時の道路計画者たちにとっても苦渋の選択であったものと思(いたいんだけど、当時の実力者はそんなことは言っていないし、首都高の記録にもそんなことは残っていなさそうなんだけど、やっぱり道路計画者は今に通じる気持ちを持っていたと信じたいのは土木学会の聴衆のみんなは分かってく)れる。」と述べるべきだったのかもしれない。

 「すべての土木技術者が首都高が河川の上を走ることや日本橋の景観について遺憾に思うことはなかった」なんてことはないだろうけど、メインストリームはあまり重視していなかったのは間違いなさそうだ。

 「東大では、度胸と書いて、苦渋と読むんだ」とでもおっしゃるのだろうか? どうせ言うなら「恐らく~思われる」なんて憶測でものを言わないで、ちゃんとエビデンスだそうよ。大学教授の記念講演なんだからさ。

 エビなしに「恐らく~思われる」で「いいこと言った感」を出しちゃうのは、当時の制約条件の中で奮闘した諸先輩方に対してかえって失礼なんじゃないかねえ。

  

 当時と今では価値観も違うし、当時の価値観と諸制約条件のなかでは最善を尽くしたのは間違いないのだから、「今の価値観を当時の技術者が併せ持ちながら苦渋の気持ちでやった」ということに後付けでしなくてもいいじゃないと思うのだが、土木学会方面の方はそうではないのだろうか。 

 そこは、土木学会の「隙あればパッテンライ押し」と通じるものがあるのではないか? 

 「土木技術者が環境破壊の一翼を担った」「土木技術者が植民地支配の一翼を担った」という現実に対して、当時はこういう情勢のなかでこうだったと冷静に分析して今後の反省点を導き出すという緊張感に堪えられず、「土木技術者は本当はいい人だった。本当は今に通じる素晴らしい感覚を当時から持っていたのだけど苦渋の選択だった。土木技術者は悪くないんだ!」と言ってしまうのではないか? 

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 首都高の戦前の計画は、山田正男が1938年に「満洲で高速道路をやっていたので日本でも計画した」というものである。

 振り返ってみるに、国鉄の十河信二総裁、日本道路公団の岸道三総裁、表舞台にはあまり出てこないが、東急ターンパイク、道路利用者会議の近藤謙三郎(杉並区の「トトロの家」の持ち主でもある)、東京高速道路(KK線)の秀島乾、戦後のオリンピックに向けた復興には満洲人脈がつながっている。 

 新幹線や高速道路工事にちょっかいをかけてきた西武の堤康次郎も満洲人脈だ。 私が過去にブログの記事にしてきた、西武による「近江鉄道景観補償」「伊豆箱根鉄道下土狩線」「西熱海ホテル事件」「新横浜駅土地買い占め」といった新幹線工事にまつわる「係争ごと」に、国鉄の現場職員が筋を通そうとすると「大てい十河総裁や側近幹部の慰留で、徒労に帰せられた」と「運輸ジャーナル」127号にある。この裏には堤ー十河の満鉄時代のつながりがあったという話を聞いたことがある。

 この辺は大変気になる分野ではあるが、わたくし如きの力では到底手におえない。 

 上記のメンツと直接は関係ないが、最近「大東亜」を建設する  帝国日本の技術とイデオロギーという本が出版されたので、よろしければ是非。

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 話が時空を超えてとっちらかりすぎてしまったのでそろそろ閉めよう。 

 佐藤健太郎氏は「国道者」において下記のように述べている。 

 佐藤健太郎「国道者」と首都高速日本橋 (1)

 あなたは何が見えただろうか? 

 

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おまけ

 当時なりに「都市美にマッチした構造」と考えてやっているところは、誤解なきよう。

首都高と日本橋の美観 (11)

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2020年2月18日 (火)

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか

 先週の日曜日は雨が降っていて外出する気にならなかったので、ちょいと前回の東京オリンピックとドボクのネタをまとめてみた。

 また、前々回の記事の際にTwitterでアンケートをとったところ、「レイアウトを工夫しない読みづらい」との声を結構いただいた。

 

 なので、今回はパワポ型式で作ってみたのでどうぞ。

 実際にこれでどこかプレゼンするという予定は一切ない。

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (1)

 

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (2)

 

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (3)

 

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (4)

 

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (5)

 

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (6)

 

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (7)

 

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (8)

 

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (9)

 

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (10)

 

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (11)

 

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (12)

 

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (13)

 

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (14)

 

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (15)

 

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (16)

 

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (17)

 

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (18)

 

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (19)

 

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (20)

 

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (21)

 

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (22)

 

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (23)

 

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (24)

 

 東京都庁議の詳細はこちら→http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/31228-d1e1.html

 東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (25)

  ここは読みづらいので、テキストを抜き出しておこう


 

首都整備局長(山田正男君) 

 

(略)

 最後に、三原橋─日比谷間の地下の自動車道路計画の問題について、経緯のご質問があったわけでございます。実はこの問題につきましては、都心部の道路交通を解決いたしますために、地下鉄の二号線を建設いたします際に同時に地下の一階に自動車道路を作る必要がある、こういう立案をいたしまして、数年来営団当局と協議を進めて参ったわけでございますが、営団当局がどうしても同意をいたしませんために、この計画については、建設・運輸両省並びに首都圏整備委員会が問題を取り上げまして、この三者の間で都の案について検討が行なわれたのでございます。そうしてその三者の間で技術委員会を作っていろいろ検討いたしたわけでございますが、東京都の主張にもかかわりませず地下の一階に道路を作ることを否定いたしまして、地下鉄のレベルと同じ地下の三階に自動車専用道路全作ることが適当であろう、こういう決定がされたわけでございます。その決定の理由は、地下の一階に道路を作る費用と地下の三階に作る費用とは、それほど費用の差がないということが主たる理由のようであったわけでございます。そこで、この決定を受けまして、都といたしましては、はたしてその決定の通りであろうかどうか、費用がその程度でできるかどうかということを検討して参ったのであります。特に地下鉄二号線の建設を急ぎますので、営団当局と鋭意協議を進めて参ったのでございます。当初十八億余で地下の三階に自動車道路ができるということであったのでございますが、いよいよ実際に協議してみますと、あるときは二十五億円といい、あるときは三十六億円といい、最近に至っては五十億円もかかるというような申し出があったわけであります。これでは都といたしましては自動車道路を作る投資効率、投資に対する効果が少ない、こういうことで建設省当局に、一応そういう決定がされたけれども投資効率が少ないんだ、さてどうするか、こういう協議をいたしておる際に、たまたま河野建設大臣からのご注意がありました。そういう決定がかって行なわれたけれども、実際にそういう投資効率が低いならば、最初想定されたよりも工事費が非常に高いならば、もっと再検討するべきである、こういうご発言かあった次第であります。現在建設運輸両省及び首都圏整備委員会と東京都の間で検討いたしておる途中でございますが、おそらく三階に地下自動車道路を作ることは、投資効率の点からいって必ずしも採用すべき性質のものでないと考えております。しかし、この都心部の道路交通能力をこのままで放置しておくことは適当でないのでございまして、これにかわる対策を目下関係者間で協議中でございます。いずれ遠からず決定を見るものと存ずるのでございます。

 

1962.09.29 : 昭和37年第3回定例会(第14号) 

 

 

 東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (26)

  

 東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (27)

  

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (28)  

  

 東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (29)

  

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (30)  

  

 東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (31)

  

 東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (32)

  

 東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (33)

 

 

 東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (34)

  

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (35)  

  

 東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (36)

  

 東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (37)

  

 東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (38)

  

東京オリンピックに向けて銀座の地下で(39)  

  

 東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (40)

  

 東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (41)

  

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (42)  

  

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (43)  

  

 東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (44)

  

 東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (45)

  

 東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (46)

  

 東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (47)

  

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (48)  

  

 東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (49)

  パワポで作ったからといって、どこかで講演するつもりもないのだが、まあお試しということで。

 HTMLをいじるよりも、ベタベタパワポで切り貼りしちゃった方が楽ちんなのだが、SEOとしては弱いやね。 

  

 ---関係ブログ---

 アド街・日比谷特集記念/日比谷地下道はなぜ一方通行なのか?

 http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2018/06/post-f494.html

三原橋地下街に係る疑獄について(その1)

 http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/cat23477491/index.html

 三原橋地下街に係る疑獄について(その2)

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-554e.html 

三原橋地下街と銀座シネパトス さようなら 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-60c3.html 

三原橋地下街 銀座シネパトス最終日 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/post-f962.html 

日経新聞 「東京ふしぎ探検隊」河尻定氏記事「東銀座に地下広場出現 現役最古の地下街は閉鎖へ」に係る疑義 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/post-0de1.html 

 三原橋地下街や観光センターの経営者の新東京観光株式会社についてのメモ

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/post-8445.html

三原橋地下街や橋上のビルに係る経緯の公式見解(都議会議事録)にたどり着いた 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post-4930.html 

三原橋地下街等をめぐる経緯を年表にしてみた 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post-2781.html 

三原橋地下街の当初占用許可に係る東京都庁議公文書 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/post-3f36.html 

昭和31年2月28日東京都庁議「三原橋」問題の処理について→関係局間においてなお検討すること 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/31228-d1e1.html 

 三原橋(6月15日時点)

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/615-23dc.html 

三原橋の建物は、地元から撤去せよとの訴訟を起こされていたというお話 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-81bb.html 

東京五輪関連:地下鉄と競合して未成となった銀座の地下自動車専用道路にして首都高速計画線の名残 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/03/--4890.html 

三原橋ビル(三原橋観光館)解体中(その1) 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/06/post-7702.html 

 三原橋地下街 カレーコーナー三原最終営業日

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/06/post-8f73.html 

三原橋ビル(三原橋観光館)解体中(その2) 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/07/post-30b7.html 

三原橋ビル(三原橋観光館)解体中(その3) 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-7114.html 

 「安井都政の七不思議」と山田正男と三原橋地下街

 http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-740c.html

斉藤 理 山口県立大学准教授の「川がない橋が秘めた東京の履歴」を読んで 

 http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-924f.html

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2020年2月 7日 (金)

福川裕一千葉大名誉教授監修の「ニッポンのまちのしくみ」が酷い

福川裕一監修「ニッポンのまちのしくみ」が酷い (6)

 こんな本をみかけた。

 お子様向けにまちづくりの仕組みを解説する本のようで、千葉大学工学部名誉教授の福川裕一氏が監修しているという。

 

 ただ、その中身がヒドイのだ。

 

 

 まずは、首都高。

福川裕一監修「ニッポンのまちのしくみ」が酷い (3)

福川裕一監修「ニッポンのまちのしくみ」が酷い (4)

 ここでも「オリンピックに合わせて急いで高速道路を通す必要があったから空いていたお濠の上を通した」「渋滞だらけの町を世界に見せるわけにはいかなかった」と書いている。

 へー、千葉大学工学部名誉教授様は流石言うことが違う。事実と。

 

 首都高を河川や道路等の公有地の上に通す方針を決めたのは、1957(昭和32)年7月。

 現在の河川の上を走るルートは、1957(昭和32)年12月だ。

 

 ちなみに、東京オリンピック準備委員会・設立準備委員会及び第1回総会開催は、1958(昭和33)年1月である。

 オリンピックの招致活動を開始する前からルートは決まっていたのである。

首都高と東京オリンピック  

 上記は、東京都技監等を歴任した鈴木信太郎氏の「私の都市計画生活 -喜寿を迎えて-」山海堂刊36頁からの引用である。

 首都高については「たまたまオリンピックが決定したので、始めからオリンピックの為ということは絶対なかったといえる。」と明言している。

 首都高のルートとオリンピックの関係については、以前にもブログにまとめているので、詳細はそちらを参照していただけると幸甚である。

・「首都高をオリンピックに間に合わせるためには『空中作戦だ』」のアンビリバボーを検証してみる 

 http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2018/04/post-f51a.html

 ・古市憲寿氏「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール 五輪に間に合わせた急ごしらえの代償」を検証する。

 http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2019/08/post-97a48d.html

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 また、東京の暗渠を説明しているところも怪しい。

福川裕一監修「ニッポンのまちのしくみ」が酷い (1)

福川裕一監修「ニッポンのまちのしくみ」が酷い (2)

 東京の暗渠は、オリンピックがきっかけで、観光客が集まる大イベントに変なものがあったら恥ずかしいだからだそうですよ。

 

 

 東京の河川の暗渠化は、1961(昭和36)年の「36答申」がきっかけである。


 1960年代に入ると、高度経済成長期に突入した東京では人口1000万人を突破、さらなる人口集中と都市化が進む。市街地がさらに拡大し、森林や田畑、未舗装地が減少していくことで、各地の湧水は涵養源を失って涸れていく。用水路も灌漑の使命を終えて送水が停止される。こうして河川の水源は枯渇していった。

 一方で、急増する生活排水に下水道整備が追いつかず、自然の水と入れ替わるように川に流入する家庭や工場の排水量が増えていく。その結果、川の「主水源」が下水であるといったような事態が発生する。また、土地の貯水機能が消失したことで、降雨時の急激な増水も多発するようになった。

 このような状況を背景に、昭和36年(1961)、東京都市計画地方審議会河川下水道調査特別部会より「東京都市計画河川下水道調査特別委員会 委員長報告」、通称「下水道36答申」がまとめられ、中小河川の暗渠化・下水道転用が打ち出されることなる。

 暗渠化の理由としては、①河川を下水に転用することでコストや時間、技術面でのメリットを享受できること(河川の水路と自然勾配の転用)、②別途下水道を整備した場合、川は「水源」を失うことになってさらに環境が悪化すること、③流域住民からの苦情や強い要請、といったことがあげられている。

 

 「東京暗渠学」 本田創・著、洋泉社・刊 107-108頁から引用

 

 ひょっとしたら、著者は分かり易くするためにオリンピックをダシにしたのかもしれないが、暗渠マニアの方の本の方がよっぽど36答申の時代背景とあわせてきちんと分かり易く書けている。 

 オリンピックが推進力になった部分があるだろうが、オリンピックのために恥ずかしいものを隠すために「臭いものにふたをした」というのは短絡的にもほどがあるのではないか?

  

 ちゃんとした?学会の論文を読みたい方はこちらなどもどうぞ。

 「36答申における都市河川廃止までの経緯とその思想」中村晋一郎・沖大幹・著 水工学論文集,第53巻,2009年2月

 http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00028/2009/53-0095.pdf

 興味深いのは、この論文では「オリンピック」という言葉が一言もでてこないのだ。なんでもかんでもオリンピックのせいにする福川裕一氏と専門家の論文は対照的である。

 

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 東京オリンピック時に東京都で局長として大活躍した山田正男氏は下記のように語っている。 

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦


対談「東京都における都市計画の夢と現実」 「時の流れ都市の流れ」403頁
 「オリンピックのために道路をつくるとかそんなことは夢にも考えておりません。」「この際年度を一年くりあげるということはあり得るけれども、それはオリンピックのためではなく、当然の事業であると考えてやっております。」と。

 

 発行元の「淡交社」は、茶道の本で有名だが、歴史を大事にしないと千利休が泣いているぞ。

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2017年5月21日 (日)

地下鉄銀座駅の階段がズレているのは、そこに旧数寄屋橋の橋脚が埋まっているから

銀座駅の階段がずれているのは数寄屋橋の橋脚がそこに埋まっているから (4)

 東京メトロ銀座駅から日比谷方面に向かう階段が左右ずれている。

銀座駅の階段がずれているのは数寄屋橋の橋脚がそこに埋まっているから (5)

 現地で見てもごらんのとおり。

銀座駅の階段がずれているのは数寄屋橋の橋脚がそこに埋まっているから (3)

 なぜ、まっすぐ並べられないのか?左右の階段を繋げて広く使えばよいのではないか?

 それには、かつてここに何があったかを思い出す必要がある。

Sukiya_bashi_old

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Sukiya_bashi_old.jpg

 そう、かつてここには外濠川が流れ、数寄屋橋がかかっていた。現在はそこに東京高速道路(KK線)が走っている。

東京高速道路

 実は、ここには、旧数寄屋橋の橋脚・橋台が埋まったままなのだ。

銀座駅の階段がずれているのは数寄屋橋の橋脚がそこに埋まっているから (12)

 日比谷線建設史394頁から引用

銀座駅の階段がずれているのは数寄屋橋の橋脚がそこに埋まっているから (13)

 日比谷線建設史392頁から引用

 そして、旧数寄屋橋と地下鉄日比谷線が直交していないため、橋脚跡と階段が斜めにズレる形となっているのだ。

銀座駅の階段がずれているのは数寄屋橋の橋脚がそこに埋まっているから (15)

銀座駅の階段がずれているのは数寄屋橋の橋脚がそこに埋まっているから (14)

 この地下通路の床に斜めにひかれている3本の線は、ここに数寄屋橋が架かっていた(外濠川が流れていた)ことを示すものなのだろうか?

 さて、日比谷線建設時には、既に外濠川、数寄屋橋は無くなっていたはずである。なぜこのようなものが地中に残っていたのか?

銀座駅の階段がずれているのは数寄屋橋の橋脚がそこに埋まっているから (11)

 丸の内線建設史(下巻)104頁から引用

 丸ノ内線建設時に、東詰の橋台や上部工部分は撤去したようだが、丸ノ内線に支障ない真ん中の橋脚や西詰の橋台は地上に存置されたままだったようだ。

 では、日比谷線建設時にそんな不要な橋脚は撤去してしまえばよいのではないかと思うであろう。ところが撤去できないのである。

 上空を通る東京高速道路の橋脚が旧数寄屋橋橋脚の上に建設されたからである。

銀座駅の階段がずれているのは数寄屋橋の橋脚がそこに埋まっているから (16)

銀座駅の階段がずれているのは数寄屋橋の橋脚がそこに埋まっているから (13)

 日比谷線建設史392頁から引用

銀座駅の階段がずれているのは数寄屋橋の橋脚がそこに埋まっているから (10)

 日比谷線建設史391頁から引用

 使っていないからといって今更撤去するわけにはいかなかったのである。斯くて、銀座駅から日比谷方面へ向けて降りていく地下階段は、旧数寄屋橋橋脚を避けて、心なしか、気持ち急勾配で、ズレた階段で降りていくのである。

 

 旧数寄屋橋橋脚が影響しているのは、地下鉄通路だけではない。

銀座駅の階段がずれているのは数寄屋橋の橋脚がそこに埋まっているから (7)

 日比谷線建設史405頁から引用

 その上をかすめるようにして日比谷地下自動車道が通っているのである。

 日比谷地下自動車道については、以前

・東京五輪関連:地下鉄と競合して未成となった銀座の地下自動車専用道路にして首都高速計画線の名残

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/03/--4890.html

・東銀座「幻の地下街」を作った経緯が(ほぼ)分かった

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/02/post-3bf6.html

・日比谷未成地下道とのバーターで地下鉄三田線が営団から東京都へ譲渡されていた

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-b86d.html

といった記事も書いているので、ご関心のある方は、あわせてお目通しいただけると幸甚である。

三原橋地下街と地下鉄日比谷線と有楽町ガード下地下道の関係

 

※東京メトロの主要路線の建設史は、「メトロアーカイブアルバム」で見ることができる。

https://metroarchive.jp/history.html

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2016年10月 3日 (月)

バスタ新宿の成功に味を占めた国交省道路局がバスタプロジェクトを立ち上げて全国にバスタを作る構想がでてきた

 これまでバスタ新宿については幾つかの記事を書いてきた。

 ここで、国土交通省が「バスタプロジェクト」を立ち上げて全国にバスタを作る構想がでてきた

 2016年9月27日に開催された社会資本整備審議会道路分科会第55回基本政策部会http://www.mlit.go.jp/policy/shingikai/road01_sg_000316.html における資料を見てみよう。

バスタ新宿に味を占めた国交省がバスタプロジェクト展開の構想 (1)

 複数の交通機関の結節点「マルチモードバスタ」

バスタ新宿に味を占めた国交省がバスタプロジェクト展開の構想  (7)

 高速道路のSAPAを活用した「ハイウェイバスタ」

バスタ新宿に味を占めた国交省がバスタプロジェクト展開の構想  (6)

 道の駅等を活用した「地域の小さなバスタ」

バスタ新宿に味を占めた国交省がバスタプロジェクト展開の構想  (2)

を道路事業として推進していくのだという。

(上記資料はいずれもhttp://www.mlit.go.jp/common/001146884.pdfから引用)

 上記でも紹介したブログ記事バスタ新宿は、やっぱり国道20号だった。を追認するかのように、バスタ新宿の立体道路区域についての紹介資料も掲載されている。

バスタ新宿に味を占めた国交省がバスタプロジェクト展開の構想 (3)

 国土交通省道路局としては、立体道路制度を積極的に活用して交通結節点整備を進めていくようだ。http://www.mlit.go.jp/common/001146885.pdf

バスタ新宿に味を占めた国交省がバスタプロジェクト展開の構想 (4)

 

 なお、「交通ジオメディアサミット 〜 IT×公共交通 2020年とその先の未来を考える〜」 でも指摘された「国土数値情報におけるバス停情報の古さ」については問題意識がもたれている模様である。

バスタ新宿に味を占めた国交省がバスタプロジェクト展開の構想 (2)

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※ 上記審議会資料に添付されている モーダルコネクトの強化「バスを中心とした道路施策(たたき台)」参考資料集

http://www.mlit.go.jp/common/001146881.pdf

 は、バスを中心とした公共交通網について脳内妄想を垂れ流すのが大好きな方にはこたえられない資料が満載なのでマニアックな方は是非。

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2016年9月28日 (水)

阪神高速道路とあの建物の権利関係ってどうなってんの?(振り返り)

 最後に簡単に権利関係をまとめてみた。

(1)船場センタービル

船場センタービル 阪神高速道路 (7)

道路の権原 所有権
建物の権原 道路法の占用許可
土地所有者 大阪市、阪神高速(高速道路保有債務返済機構)

(2)朝日新聞社ビル

阪神高速道路と朝日新聞社ビル (8)

道路の権原 物権的なものは無い。前所有者である大阪市と朝日新聞社との売買条件
建物の権原 所有権
土地所有者 建物所有者

(3)梅田出口

阪神高速梅田出口立体道路 (2)

道路の権原 区分地上権(道路法の立体道路)
建物の権原 所有権
土地所有者 建物所有者

(4)OCAT(大阪シティエアターミナル)

OCATと阪神高速道路 (4)

道路の権原 所有権(共有)(道路法の立体道路)
建物の権原 所有権(共有)
土地所有者 道路側と建物側の共有

(5)りんくうタウン

りんくうタウン と高速道路 (5)

道路の権原 所有権(共有)(道路法の立体道路)
建物の権原 所有権(共有)
土地所有者 道路側と建物側の共有

(6)ホテルきららリゾート関空

阪神高速湾岸線泉大津PAとホテルきららリゾート関空 (13)

道路の権原 所有権(共有)(道路法の立体道路)
建物の権原 所有権(共有)
土地所有者 道路側と建物側の共有

<余談>

 今まで阪神高速道路と建物の権利関係をつらつらとみてきたところであるが、斯様に、「区分地上権」というのは例外的に使われているのである。

 ところで、TACという資格試験学校で宅建の講師が、土地の権原の講義の中で区分地上権の例として首都高を上げてきた。いや、区分地上権を使っていないとは言わないが、それは例外的なものであって、資格試験勉強用の例示としては不適切だと思うのだ。

 TACの講師なんてその程度だから目くじらたてる話ではないといえばそれまでなのだが、どうしても目くじらたてちゃう。

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阪神高速道路とあの建物の権利関係ってどうなってんの?(番外編)ホテルきららリゾート関空

 不動産カウンセラー No.4「座談会 道路一体建物について」には掲載されていないが、阪神高速道路の立体道路としては紹介しないわけにいかない物件があるので、番外編としてご紹介したい。

 「泉大津PA」と「ホテルきららリゾート関空」である。

 阪神高速湾岸線が走る港湾地域に何故に「リゾートホテル」なのか?まあこれも前頁同様関空バブルである。

「都市高速道路における道路一体建物を併設したパーキングエリアの計画」

http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00035/1993/48-04-0168.pdf

によると下記のような経緯で出来上がったもののようだ。

泉大津PAは、関西国際空港と大阪都心部を結ぶ阪神高速道路湾岸線のそのほぼ中間点である泉大津市なぎさ町に計画された 約18,000m2のパーキング施設である。

この地区周辺は堺泉北港港湾再開発の重要な拠点に位置付けられており、また泉大津市の中心市街地に隣接した好立地条件の場所でもある。このため、港湾再開発事業として商業、情報等の中枢としての高度利用及び複合利用を目的とした都市開発が行われる予定であり、湾岸線及びPAとの一体的かつ総合的な街づくりが望まれている。

この泉大津PAは昭和61年1月31日に都市計画決定(道路) がなされ、その後新しい街づくりを含めた種々の検討のうえ、平成5年2月1日に都市計画変更(用途地域)が行われ、道路との重複利用区域が定められた。その際の基本方針のひとつに開発地区の中枢機能となり、またランドマーク的な役割も持つ高層のツインビルを道路一体建物としてPAに併設して建設することが挙げられていた。

 

「都市高速道路における道路一体建物を併設したパーキングエリアの計画」 阪神高速道路公団 小松郁夫、堀松正芳 株式会社建設技術研究所 髙橋誠、荒巻聡

土木学会第48回年次学術講演会(平成5年9月)

 まあ、関空バブルの産物で、再開発のアテがはずれて本来高度利用するはずの箇所が、結局PAだけ高度利用して終わっているという代物である。

阪神高速湾岸線泉大津PAとホテルきららリゾート関空 (13)

 左側に高い建物が見えるのがホテル。右側を走るのは阪神高速道路湾岸線。その間が泉大津PAである。1階はホテルの駐車場、2階は高速道路の普通車用パーキング、3階は高速道路の大型車用パーキングだ。左手に雑草が見えるがまあそういう開発に失敗した感じの土地である。

 港の方に回ってみる。

阪神高速湾岸線泉大津PAとホテルきららりぞーと関空 (16)

 高速道路を挟んで水平に挟んでいるチューブはPAの上下線を結ぶ通路である。

阪神高速湾岸線泉大津PAとホテルきららリゾート関空 (12)

阪神高速湾岸線泉大津PAとホテルきららリゾート関空 (15)

 「きららセンタービル」というらしいが、民間テナントは少なく、如何にも「港湾開発に失敗したのでその責任をとって港湾関係の公共組織でフロアを埋めちゃいました」という感じである。

 上記の「開発地区の中枢機能となり、またランドマーク的な役割も持つ高層のツインビル」という利用ができているようには思えない。

 ここで、道路と建物の権利関係を見て行くと、改正された道路法による立体道路制度を活用している。下図のピンク色の部分が立体道路区域だ。

阪神高速湾岸線泉大津PAとホテルきららりぞーと関空 (1)

阪神高速湾岸線泉大津PAとホテルきららりぞーと関空 (2)

改訂版 立体道路事例集」から引用

 両側のビルの3階部分が阪神高速道路の上下線のPAとなっているため、ホテルのエレベーターは3階には止まらない。

阪神高速湾岸線泉大津PAとホテルきららリゾート関空 (18)

 また、海側の11階はPA施設としての展望台である。夜景スポットとして著名であるようで多くのサイトで紹介されている。

http://yakei.jp/japan/spot.php?i=izumi-pa

http://yakei-mn.com/yakei/osaka/izumiotsu

http://www.nightview.info/yakei/detail/izumi/

http://www.osakanight.com/night_view/izumiotsu_pa.htm

http://yakei-world.com/spot_view.php?spot=403

阪神高速湾岸線泉大津PAとホテルきららリゾート関空 (3)

阪神高速湾岸線泉大津PAとホテルきららリゾート関空 (4)

堺泉北工業地域の工場夜景。フレアスタックも見える。

阪神高速湾岸線泉大津PAとホテルきららりぞーと関空 (5)

 ホテルの客室からの夜景。わざわざ泊まったのである。

阪神高速湾岸線泉大津PAとホテルきららりぞーと関空 (6)

 このようにパーキングエリアを見下ろして宿泊できるホテルは少なかろう。

阪神高速湾岸線泉大津PAとホテルきららリゾート関空 (8)

 朝起きたらこんなかたちで目覚めるわけだ。

阪神高速湾岸線泉大津PAとホテルきららリゾート関空 (7)

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阪神高速道路とあの建物の権利関係ってどうなってんの?(1)イントロ

阪神高速道路とあの建物の権利関係ってどうなってんの?(2)船場センタービル

阪神高速道路とあの建物の権利関係ってどうなってんの?(3)朝日新聞社ビル

阪神高速道路とあの建物の権利関係ってどうなってんの?(4)梅田出口

阪神高速道路とあの建物の権利関係ってどうなってんの?(5)OCAT(大阪シティエアターミナル)

阪神高速道路とあの建物の権利関係ってどうなってんの?(6)りんくうタウン

阪神高速道路とあの建物の権利関係ってどうなってんの?(番外編)ホテルきららリゾート関空

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阪神高速道路とあの建物の権利関係ってどうなってんの?(6)りんくうタウン

りんくうタウン と高速道路 (5)

佐藤 りんくうタウンの道路一体建物、これもちょっと教えていただきましょうか。

小川 これは船場センタービルと一緒のやり方ですね。

福元 当該地は例の埋め立て地でして、公法上は商業地というかっこうになっておりますが、先ほど申し上げましたように、平成2年12月12日に都市計画地区計画りんくうタウン北地区地区計画ということで立体道路制度を活用することになっております。
 道路一体建物はほとんどが商業業務ゾーンの中央部に位置しまして、その上にJRと南海電鉄の駅もできます。その横に高速道路等ができるわけですが、それにつきましても同じく1〜3階部分に道路と鉄道が一体整備されることになっています。
 りんくうタウンは空港機能をサポートする役割を担うとともに活気に満ちた都市活動を通して空港と地域と共存共栄をめざしていますので、道路については特に橋脚の位置に留意し建物の雰囲気を損なわないよう気をつけるとともに道路建物ともに機能を向上させるように配慮した設計になっています。

佐藤 さっきの船場センタービルの場合は道路の占用許可に基づくものですが、こちらは区分地上権か土地の共有ということで権利を持って屋上に交通ターミナルを造るということになるのですね。形態はよく似ていますが、権利関係は違うということになってくるんでしょうね。

小川 土地所有が違うんでしょうね。船場センタービルの場合は市なり阪神高速道路公団が持っている土地の上に建物を立てさせてやっていると。今度は逆ですよね、地権者が持っているところを通らせて頂くと、そういうことですね。 

佐藤 りんくうタウンの完成は...。

岡山 平成5年度くらいじゃないですかね、全部新空港関連で、いつになるか分かりません。(笑い)

 実際には、道路が区分地上権を取得し、立体道路制度を活用した道路一体建物として整備されている。

りんくうタウン と高速道路 (3)

 今となっては「りんくうタウン」は空地だらけで荒涼としており、わざわざ立体道路制度を利用して土地の高度利用を図る必要もないように感じてしまう。

関空バブル

 しかし、関西空港建設中の1990年頃は「関空バブル」絶頂で上記のように関西を代表する企業のビルが林立するはずだったのだ。

りんくうタウン と高速道路 (2)

 ゲートタワービルも高速道路と鉄道を挟んで南北両側に立つはずが北側だけになってしまった。

佐藤 ここに柱が見えますが、この柱で支えているんですか。この建物が仮りになくなっても耐え得る構造になっているのですね。

岡山 道路はビルみたいに軽いものが載っているのではなく、ものすごく重い車が通るから荷重には絶対強くしなければいけない、そのために縦の柱は非常に丈夫なものを造っておく。その柱を造るのは道路一体建物の場合でも道路管理者が負担する。柱は減法強く、そこに建物が林を張って一緒になっていると、こういう具合です。

加藤 これは建設省の方が書かれていますが、道路一体建物といっている意義は「道路を支持するものとしての道路と一体構造となっているものを言い、建物を取り壊してしまうと道路も壊れてしまうような建物」そういうものだけをいっているような感じですね。

岡山 そうそう、建物が壊れると道路が壊れる、そこで言う建物は縦の柱も全部とってしまうと道路も壊れる。だけど縦の柱はそれほど強くしないと道路は保たない。確かに建物ですから、いくら縦柱が太くても建物をのけると道路が駄目になるものが道路一体建物と、こういう表現になっているようですね。

加藤 そうすると道路一体建物というのは湊町の例だけですかね、あとは皆分離できるような気がするんですが、そうではないですか。

岡山 いや船場センタービルでも建物をのけると道路が落ちてしまう。というのは道路は所有権と上の道路だけ持っていて、真ん中は建物ですから、そういう物的にいうと建物をのけると道路が落ちてしまうということになっていますが、構造上道路は荷重がものすごく重いので、その荷重を持たそうとすると建物が柱になる、ものすごく太い柱を通す・・・。

佐藤 でもそれも建物の一部ですよね。

岡山 まさにそれが建物なんですよ。

小川 そこが複雑なとこなんですね。

佐藤 建物自体は道路の荷重に耐えうるような柱を入れているということになりますね。おさらいすると建物の側壁部分がつぶれてきたとしても柱部分さえ残しておけば崩れることはない。しかし、建物全体がつぶれたということになればこれを支えている部分もつぶれるわけですから、それは駄目よという話になるんでしょうかね。西梅田は道路の負荷がかかっていないですから、ブリッジで渡っているようなものですね。あれも道路一体建物になるんですかね。

岡山 あれは分離構造型です。

木内 道路のメンテナンスもビルのメンテナンスも協同でやることになるんですか。

岡山 それは実際難しい、どうするかね。その辺は管理協定で決めなさいと、こうなっている。どこまで協同でしていいものか、どうしていいのかよく分かりません。だから管理協定でしっかり決めていかなくてはならない。

木内 一体構築物なんでしょうが、太い柱に関しては共有しているんですね。

岡山 実際は道路側も建物の方にお金を払って、特に柱を丈夫にしてもらっているわけですね、だけど柱の一部をここだけは道路ですよというわけにはいきませんから、これは建物ですよと、こうなる。

加藤 所有権はどうなっているんですか。

岡山 所有権は建物です。だけど建物所有者はそんな太い柱はいらないから、道路はピアに相当する柱を丈夫にするためのお金は出しますよということです。

佐藤 建物に対して権利は特に何もないんですね。

岡山 何もありません。補強費だけを出している。

りんくうタウン と高速道路 (1)

改訂版 立体道路事例集」から引用

 (南海特急こうや号の車両が関空線を走ってるな。。。)

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阪神高速道路とあの建物の権利関係ってどうなってんの?(1)イントロ

阪神高速道路とあの建物の権利関係ってどうなってんの?(2)船場センタービル

阪神高速道路とあの建物の権利関係ってどうなってんの?(3)朝日新聞社ビル

阪神高速道路とあの建物の権利関係ってどうなってんの?(4)梅田出口

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