カテゴリー「三原橋地下街」の31件の記事

2016年10月31日 (月)

東銀座 幻の地下街について東京都の公式コメント(議会答弁)があった。

 三原橋ネタを見つけるとつい飛びついてしまう革洋同である。

 過去にも、「東銀座「幻の地下街」を作った経緯が(ほぼ)分かった」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/02/post-3bf6.htmlという記事を書いてその太宗を明らかにしたところであるが、東京都議会の会議録に、東銀座幻の地下街に係る東京都の答弁が載っていたことに今更気づいた。

http://asp.db-search.com/tokyo/

東銀座幻の地下街

(※「日比谷線建設史」掲載図面に加筆等したもの)

1969.03.29 : 昭和44年第1回定例会(第7号)

◯議長(大日向蔦次君) 休憩前に引き続き会議を開きます。

 まず、議事部長をして諸般の報告をいたさせます。

   〔星議事部長朗読〕

 一、文書質問に対する答弁書の送付について

(中略)

     ─────────────

四四財主議発第一一六号

昭和四十四年三月二十八日

        東京都知事  美濃部亮吉

 東京都議会議長 大日向 蔦次殿

   文書質問に対する答弁書の送付について

 昭和四十四年第一回東京都議会定例会における左記議員の文書質問に対する答弁書を別紙のとおり送付します。

       記

   加藤 清政議員

   金子 伝吉議員

   青木幸太郎議員

   的場  茂議員

   角田 太郎議員

   山口 虎夫議員

     ─────────────

(中略)

  文 書 質 問 趣 意 書

        提出者  青 木 幸太郎

質 問 事 項

 三原橋、八重洲駐車場、および箱崎インターチェンジについて

 私は中央区選出の議員として、中央区の問題点について質問をいたします。

(中略)

 第二点として、三原橋の両側建物について質問いたします。

 ご存じのように、この建物は都政七不思議の一つとして、都民からひんしゅくをかったものであります。昭和二十七年、この建物の建築途上において銀座一帯の町会、中央区議会を中心として、保守都政に対する批判が集中しました。しかし、都建設局、ならびに東京都観光協会は、世評をよそに建築を強行し、現在にいたったものです。

 都がこの建築を許可することによって、付近の住民は、当初緑地帯として残すと約束してあった土地に建物を建てたことを怒り、一部の人々は都を相手どり損害賠償の訴訟をおこしました。そのため、都は、中央区に管理を移した区有財産である公衆便所と約十坪の土地を蔡明裕に与え、かわりに一二坪以上の公衆便所をつくらせる約束をかわしました。しかしながらその約束はいまだに果たされておりません。

 三原橋の建物は、昭和二十七年から昭和三十三年までの使用許可をしたもので、また、許可の条件として、他に反対がある場合は、いつでも立ち退くという約束のもとに、都が許可したものであります。当然、地元から強い反対があったので、約束に従えば撤去しなければならないはずであるにもかかわらず、いすわりをつづけ、現存しています。その上、建物を撤去するため、一億三千万のお金をかけて昭和四十年三月三原橋の地下街をつくったが、橋上の人々を地下に収容することができないで、地下街を今なお空き家にしていることは納得ができません。明快なる措置について、ご答弁願いたい。なおいやがる中央区から公衆便所を取り上げたが、十年間も、今なお、使用できないで区民に迷惑をかけていることについて、どのような措置をとろうとしているのかを、お答え願いたい。

(中略)

昭和四十四年第一回都議会定例会

 青木幸太郎議員の文書質問に対する答弁書

(中略)

質 問 事 項

 二、三原橋両側建物について

回   答

  三原橋両側建物については、ご指摘のとおり、地元住民の反対があり、昭和三十一年建物撤去に関する請願が都議会に提出され、昭和三十三年九月に採択されたので、その趣旨にそうべく両側土地の使用者に対し、その明渡しを求めるとともに、代替移転先として地下鉄銀座駅のコンコースと線路部分との空間を利用する地下施設を建設することとし、昭和四十年三月その完成をみた。その間この施設の建設と並行して土地の使用者等と明渡し、移転に関し、しばしば折衝を重ねたが、遺憾ながら協議が整わないので、昭和四十三年六月以来法的措置を講ずべく、この土地が国有地であるところから国と協議中である。

  さらに、地下施設の利用については、移転折衝と不可分の関係にあるので、これまでその使用を差し控えていたが、とりあえず都の倉庫または会議室として利用する予定である。

  また、元三原橋橋台敷所在の公衆便所については、蔡明裕の都有地不法占拠により都が訴訟を提起し、昭和三十年十二月、裁判上の和解の結果、蔡が無償で原告の指示どおりにつくって引渡すことになっていたものである。

  しかしながら、蔡は、和解の条件である原有者たる中央区が指示したとおりの構造にせず、しかも地下において一部再び不法占拠をしている疑いがあり、昭和四十一年六月、都は建物収去および土地明渡し等の訴えを提起した。

  その後、蔡は、訴訟中にもかかわらず、上屋を撤去する行為にでたため、昭和四十二年三月、現状凍結のため仮処分を申請、直ちに執行されている。

  現在まで、三回の口頭弁論および延十九回の準備手続を行ない、いまなお訴訟係属中である。

 「法的措置を講ずべく、この土地が国有地であるところから国と協議中」と答弁しているが、13年後の1982(昭和57)年になっても「国とさっそく協議する」なんて言っているような状態であった。

東銀座幻の地下街に係る立ち退き交渉

(1982(昭和57)年4月15日付朝日新聞から引用)

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 この投稿によると、鉄道ジャーナル誌には「地下鉄工事のための三原橋地下の映画館等の代替地」である旨記載されているようであるが、東京都の答弁はこの記事とはニュアンスが異なる。  都の答弁は、「地元から撤去を求められた橋の両側の建物の明け渡しを求めるための代替移転先」であって「地下鉄建設支障による代替地」とは言っていないのである。

 ちなみに、「元三原橋橋台敷所在の公衆便所については、蔡明裕の都有地不法占拠により都が訴訟を提起し、昭和三十年十二月、裁判上の和解の結果、蔡が無償で原告の指示どおりにつくって引渡すことになっていたもの」というのは、下記の新聞記事を読むと経緯がわかる。

三原橋公衆便所

(1966(昭和41)年4月20日付毎日新聞から引用)

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2015年10月31日 (土)

日比谷未成地下道とのバーターで地下鉄三田線が営団から東京都へ譲渡されていた

 日比谷のガード下を走る地下道を巡るあれこれについては、過去何回か記事にしてきたところである。

日比谷地下道

東京五輪関連:地下鉄と競合して未成となった銀座の地下自動車専用道路にして首都高速計画線の名残

東銀座「幻の地下街」を作った経緯が(ほぼ)分かった

 

ざっくりおさらいすると

・東京都が首都高速道路の当初計画を1959年に建てた際に、「皇居の南側において国会方面から銀座方面に通ずる路線の計画につき検討する」とされた。

・東京都が日比谷―三原橋間の地下自動車道計画を建てる。

三原橋地下街を潰すはずだった銀座地下道計画

「都市計画と東京都」都政調査会発行(1960)から引用

・他方、営団地下鉄は2号線(日比谷線)の建設を計画し、日比谷駅-東銀座駅で上記地下自動車道と競合する。

・東京都は、地下鉄の地下1階のコンコースに自動車道路を通し、地下鉄の既存のコンコースを地下2階に移設することを主張するが、営団地下鉄側はそれを拒否しこう着状態に。

・東京オリンピックに間に合うかどうか関係者間をやきもきさせ、国会でも議題となる。

・1962年に両者は地下自動車道は地下3階に日比谷線を抱き込む形で設置することで合意。(下図上段。「交通技術」1962年10月号(財団法人交通協力会刊)「営団地下鉄2号線銀座-日比谷間建設計画」から引用加筆。)

三原橋地下街と地下鉄日比谷線と有楽町ガード下地下道の関係

・1963年に東京都市計画地方審議会で地下自動車道は銀座から日比谷方面に至る一方通行だけが建設されることで本決まりとなり現在に至る。(上図下段。営団地下鉄「日比谷線建設史」から引用加筆。)

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 ここからが今回の本番。今回言いたいのは、1962年の東京都と営団地下鉄での合意にあたって、その条件の一つとして「地下鉄5号線分岐線=現6号線=都営地下鉄三田線」について、営団から東京都に譲渡するとされたという記事を見つけたのである。

 昔、いしいひさいちのマンガ「がんばれタブチくん」で「田渕(当時阪神タイガース)が南海電鉄(当時南海ホークスの親会社)の電車〇両とトレード!」というギャグがあったが、これに負けじと「東京都の道路の建設位置と営団の地下鉄路線をトレード!」という夢の大型移籍が実現していたというわけだ。

 記事を見てみよう。

日比谷―三原橋/地下道本決まり 営団の3階案に

 遊歩道(1階)総合駅(2階)車道(3階)

 銀座を中心とした交通マヒを打開するため日比谷―三原橋間の地下に建設する自動車専用道路”三原橋地下道”(900メートル)の計画は都と帝都高速度交通営団が対立、3年ごし折衝していたが、12日、斎藤運輸、中村建設両相と東知事との話し合いでやっと原則的に意見が一致した。

 この日決まったのは、都側が主張し続けていた自動車道地下1階案をひっこめ、営団案の地下三階にする。かわりに営団が建設免許を持っている地下鉄五号分岐線(板橋―大手町間=皇居の東側を通って五反田方面へ延長)を都に譲渡するというもので、早急建設をのぞむ世論に押された政治的妥協案といえる。

 都は営団地下鉄二号線(北千住―中目黒)がこの区間の地下三階を走る予定なので、地下一階に自動車専用道路をつくり、交差して現在地下二階を走っている営団地下鉄銀座線、丸の内線とともに立体交差網を建設する計画をたてた。

 営団は、地下一階を遊歩道にして地下鉄各線の銀座駅を結び二階は「総合銀座駅」。自動車は地下三階の二号線わきに建設する案を主張していた。

 都の計画担当者の一部には自動車専用道路を地下三階にすると①換気が困難②工事をするさい商店の軒先に鉄矢板を打ち込むので震動が大きく、営業が不可能になるばかりか歩道は使えなくなる③工費が約二倍、二五、六億円かかる、などで難色を示す向きもあるが、結局はこの案に沿って施工することになるものとみられる。

 なお、将来の地下鉄網計画もほぼ了解点に達したので、近く都市交通審議会と都市計画地方審議会で正式に決める。

1962(昭和37)年1月13日付け毎日新聞から引用

 さて、地下鉄五号線分岐線を確認してみる。五号線は現在の東京メトロ東西線だが、当時は現在の都営三田線の一部が五号分岐線として位置づけられていた。

地下鉄五号線分岐線

「東京地下鉄道千代田線建設史」から引用

 

 また、「東京史学」東京十三路線物語「第6回 都営三田線~欲望と裏切りに翻弄された悲劇の路線」小久保せまき・著によると

 この区間の建設を熱望したのは東京都でした。元々このルートの地上には都電が走っており、自動車交通の増加は大きな問題になっていたからです。1960年に東京都は5号線分岐線免許の譲渡を申し入れ、それを踏まえて1962年の地下鉄計画改定では5号線の分岐線ではなく、(2)水色の点線のように独立した「6号線」として位置付けられることになります。

 とあり、毎日新聞の記事と時系列としては平仄があう。

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2015年8月27日 (木)

【TX開業10周年記念】20億の補償を要求し、常磐新線に法廷闘争を仕掛けた総武流山電鉄

 つくばエクスプレスが8月24日に開業10周年を迎えたそうである。

 ところで、以前、東海道新幹線建設にあたり近江鉄道がいわゆる「景観補償」を要求した件について記事を書いた。

 また、小川裕夫氏が「封印された鉄道史」において「滋賀県では新幹線と高宮駅-五個荘駅間で併走する近江鉄道が国鉄相手に訴訟を起こしている。」などというデタラメを書いていることも指摘した。

 しかし、つくばエクスプレス建設においては、本当に補償を要求して法廷闘争に持ち込んだ鉄道会社があったのである。

(3)鉄道事業者との協議

 該当鉄道事業者との交差協議については、当初から首都圏新都市鉄道株式会社が行っていたが、つくばエクスプレス(常磐新線)の開業後における当該鉄道事業の経営への影響は多大であるとの流山市が実施した調査結果等により協議は難航した。しかしながら、未解決者が少数になったこと、同じ鉄道事業者として収用対象者になること等を考慮すれば交渉を引き延ばすことは得策ではないとの判断から、平成15年1月に起工承諾を得ることができ、工事に着手した。その後、交差・経営支援策等の協議を千葉県・首都圏新鉄道が中心になり進めた結果、平成15年7月に土地賃貸借契約を締結し解決した。

 

「つくばエクスプレス(常磐新線)工事誌」鉄道建設・運輸施設整備支援機構鉄道建設本部東京支社  から引用

 社名こそ書いていないが、これは総武流山電鉄(現・流鉄)のことである。しかし、ここには法廷闘争になったとは書いていない。当時の新聞を見てみよう。

 

客奪うだけなら常磐新線通せぬ 総武流山電鉄、営業補償を要求

 

 東京・秋葉原―茨城・つくば間58.3キロを結ぶ計画の常磐新線が、千葉県で交差するローカル線・総武流山電鉄(流鉄)の合意が得られず1.3キロ分の工事申請が出来ない状況になっている。流鉄は「新線に乗客を奪われる」と営業補償を求め、両者の交渉は中断している。このままだと2005年開業予定の新線は、秋葉原―千葉・南流山の「部分開通」になる可能性も出て来た。

(中略)

 92年に鉄道事業の免許申請をする際、MIR社は流鉄側に事業への協力を打診した。この時、流鉄側は「申請はやむを得ないが、支援を願いたい」と回答した。正式な交差協議には「経営に大きな影響が予想され、会社の存亡にかかわる」と慎重な姿勢をみせた。

 というのは、97年度も利用客減で収益は1200万円減の6億5千万円。流山市の調査で、新線開通により利用客は4割減とのデータもある。

 流鉄は「窮状を理解した具体的な対応策の提案がなければ協議に入らない」とし、MIR社に経営維持の30億円融資、20億円の営業補償などを求めた。

 MIR社は「交差協議は、交差の構造、技術について話し合う場。営業への影響は別の場で協議したい」との立場を取り、昨年5月の社長同士によるトップ会談は決裂した。事務レベルでの接触も今年6月の電話を最後に中断した。

(中略)

 一方、流鉄の小宮山英一社長は「要求は出してあるが、相手は全く交渉する気がない。既成事実でことを進めようとしている。少子化で21世紀は人口も減り必要がない。無駄な公共事業の典型だ」と態度を硬化させている。

(後略)

朝日新聞 1998年10月12日夕刊

 事件の現場はここだ。

流鉄の小宮山英一社長とは、下記のような方である。

総武流山鉄道(流鉄) 小宮山英一社長1

総武流山鉄道(流鉄) 小宮山英一社長2

 いずれも「流山電鉄七十八年。」山本文男・著 流山新聞社・刊(1994年) から引用

 「平和相互銀行」「小宮山英蔵亡きあとの小宮山グループの若き総帥」とのフレーズがしびれる。政商の血筋をひいた小宮山社長にはこんな駆け引きは朝飯前なのだろうか。

 ちなみに、私がしつこく記事を書いている三原橋地下街のオーナーである新東京観光株式会社も小宮山グループである。http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/post-8445.html

 小宮山一族については、下記のサイトも参考にされたい。

 http://kingendaikeizu.net/seizi/komiyamayasuko.htm
 http://judiciary.asahi.com/jiken/2014102600002.html
 http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumona.nsf/html/shitsumon/a104009.htm

 (平和相互銀行の検査をした大蔵省の検査官が流鉄の顧問に就任したりしてたのかw)

三原橋 銀座シネパトス

 こいつがグループ企業というわけ。つーか、新東京観光が流鉄の株主らしい。

常磐新線と流山電鉄の「交差協議」、司法の場へ

 

 「客を奪うだけの新線は通せない」と常磐新線のルートと交差する総武流山電鉄(流鉄)が工事を拒んできた問題は13日、調停の申し立てという形で司法の場に持ち込まれた。流鉄側は、交差部分を除く区間の新線の工事が申請されたことを危ぐし、「既成事実で優勢な形を作ろうとしている」と批判。一方、新線を運営する新都市首都圏鉄道(MIR社)は「流鉄には協議に応じてもらうよう呼びかけていたのに」と、突然の調停申し立てに驚いている。

 

 流鉄の小宮山英一社長は13日に都内で記者会見し、「流鉄の調査によると新線が開通すると乗客が4割減り、経営が成り立たなくなる。新線は(流鉄の路線を)迂回してもらえればいい」と話した。代理人の河合弘之弁護士は「(MIR社に)誠意ある交渉が見られず、既成事実ばかりが作られている。きちんとした話し合いの土俵づくりのために申し立てをした」と話した。

(中略)

 これに対し、MIR社は「開業に間に合わせるため、条件が整った個所から工事申請するのは当たり前。流鉄を追い詰めているのではない」と反論。「交渉を遅らせたのではなく、流鉄が求めている営業補償などどんな対応ができるかを検討している」と言う。小宮山社長の「迂回」発言には「鉄道の免許申請時には応じてくれたのに。できることとできないことがある」と不快感を示した。

 流鉄は合意の条件に新線開通に伴う乗客減の営業補償を挙げている。これが交差協議が合意できなかった要因の一つだ。

(中略)

 しかし、MIR社は「我が社は株式会社であり、民間の世界では自由競争が原則と考える」と否定的だ。

 

<これまでの経緯> 鉄道事業法の施行規則は、新たに鉄道の工事認可を申請する際に既存の鉄道と交差する場合は、協定・承認を必要としている。

 新都市首都圏鉄道(MIR社)は昨年2月、総武流山電鉄(流鉄)に交差協議を申し入れた。しかし、流鉄は「経営に大きな影響が予想される」と慎重な姿勢を見せた。5月に「新線が開通すると利用客は4割減る」との流山市の調査をもとに、協議に入る前提として30億円融資、20億円の営業補償を求めた。

 これに対し、MIR社は「交差協議は、交差の構造、技術について話し合う場だ」と主張。両者の意見はかみ合わず、その後1年以上にわたり、交渉は中断した。

 その間、MIR社は流鉄との交差部分1.3キロを除く区間の流山市域の工事申請をし、運輸省から認可を受けた。

朝日新聞 1998年11月4日朝刊

 「新線は(流鉄の路線を)迂回してもらえればいい」と流鉄の社長が言い切っているあたりがなかなかしびれるところである。

 私が以前書いた、近江鉄道・西武鉄道・堤康次郎の言い分を聞いているようだ。しかし小宮山英一社長は、堤康次郎(←本当は訴訟や刑事告訴大好き)ですらやらなかった法廷闘争をつくばエクスプレス側に仕掛けたのである。さすが平和相互銀行。代理人が数々の修羅場を潜り抜けて来た河合弘之弁護士というのも。。

 電車が西武のお古だけかと思いきや、やりくちも西武そっくりだ。

 

常磐新線の用地問題、ほぼ解決 MIR社と流鉄が合意

 

 05年開業を目指す常磐新線(つくばエクスプレス)の建設に関連して、新線を運営する第三セクター首都圏新都市鉄道(MIR社)と流山市内の総武流山電鉄の間で用地使用問題が話し合われてきたが、MIR社側が流鉄側に経営安定のために融資をする代わりに、流鉄が土地使用を認めることでこのほど合意した。今回の合意で東京・秋葉原―茨城県つくば市間を結ぶ動線の鉄道用地問題は事実上、解決する。

 新線開通で利用客減を心配する流鉄が、自社の線路と交差する新線の工事を拒む状況が続いていた。

(中略)

 流鉄側は、新線が開業すれば利要客数が4割減少するとして、交差部分の自社の土地を使って新線がトンネルで通る代わりに、MIR社に営業補償約20億円を求め、98年に東京簡裁に調停を申し立てた。しかし、両者の意見は平行線のまま、調停は今年6月に不調に終わっていた。

 MIR社や流鉄によると、11月に入って県を交えた交渉の中で、MIR社側が経営安定策として流鉄に融資を行うことで合意した。今後具体的な融資額などを詰める。

(後略)

朝日新聞 2002年12月4日朝刊

 新聞には具体の金額は書いていないし、上述のように工事誌にも「経営支援策等の協議」としか書いていないのだが、何がしかの金が流鉄に渡って開通にこぎつけたようである。

常磐自動車道パサール守谷とつくばエクスプレス

 一枚くらいはTXの電車の写真でも貼っておくか。。

 TXの「10年のあゆみ」には当然こんな経緯は出てこないのである。

 

(追記)もともと常磐新線は、国鉄が建設するという話もあったと記憶するが(そもそもは通勤新幹線構想の一つだった)、国鉄の場合は収益減を補償できる規定があったのだ。

地方鉄道軌道整備法

 (補償)

第二十四条 日本国有鉄道が地方鉄道に接近し、又は並行して鉄道線路を敷設して運輸を開始したため、地方鉄道業者がこれと線路が接近し、又は並行する区間の営業を継続することができなくなつてこれを廃止したとき、又は当該地方鉄道業の収益を著しく減少することとなつたときは、日本国有鉄道は、その廃止又は収益の減少による損失を補償するものとする。当該地方鉄道業者が、日本国有鉄道の当該鉄道線路と接近しない、又は並行しない区間につき地方鉄道業を継読することができなくなつてこれを廃止したときも、同様とする。

(第2項以下略)

通勤新幹線

「交通技術」1968年1月号「東京周辺の改良工事施工上の諸問題」菅原操著35頁から引用

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2015年6月 7日 (日)

「安井都政の七不思議」って結局どの七つなのか調べてみた。

 過去、いくつかの記事で「安井都政の七不思議」について触れてみたが、どの不祥事を数えたら七つあるのかよく分からなかった。

「安井都政の七不思議」と山田正男と三原橋地下街

東銀座「幻の地下街」を作った経緯が(ほぼ)分かった

 

安井都政の七不思議と山田正男と三原橋

「時の流れ・都市の流れ 」山田正男(元東京都首都圏整備局長)著 から引用

 ということで、ちょいと手間をかけて調べてみたので披露してみる。

 

「東京の七不思議」

 

  安井知事は五五年二月の衆院選出馬を断念し、四月の統一地方選挙で三選を目指した。 選挙の直前になって、都政専門紙の「都政新報」がパンフレット「東京の七不思議-裏から見た都政」を発行した。

 

安井都政の暗部が表面化

 

七不思議に数えられたのは、

1 東京駅八重洲口の外濠を埋め立てて駅前広場を造成するはずが、なぜかデパートなどの入る鉄道会館や国際観光会館が建った。このため、当初計画外だった約五〇〇世帯が新たに立ち退きになった

2 江東区の竪川橋の改修工事をめぐる談合に有力都議の関係建設会社がからんでいた

3 東京都庁大手町分庁舎跡地五七六五平方メートルが約七〇〇〇万円で払い下げられ、そこに建ったビルの一部を都が借りて、五四年に都立産業会館をつくった。その賃借料として年間約七〇〇〇万円を払っていた(都立産業会館は八〇年に老朽化で閉鎖された。会館の後身は現在、「都立産業貿易センター」として浜松町駅近くの港区海岸にある)

4 世田谷区砧の東京都市計画緑地が、民間会社のゴルフ場に賃貸された(現在は世田谷区美術館などのある公園になっている)

5 千駄ヶ谷駅前の東京都体育館は完成早々から雨漏りし、補修費が、都議会の承認を得る前に支出された

6 五一年に有楽町と銀座の間の外濠を埋め立てて、二階建ての建物の上部に自動車専用道路をつくり、建物にはショッピングや飲食の店を入れる「東京高速道路会社」ができた。はじめは事業者が埋め立てをやるということで公有水面占有を申請したのが、いつのまにか都自身の費用で埋め立てを行う公有水面埋め立てに変わった

7 焼け跡の残土で埋め立てた三十間堀の三原橋下を東京都観光協会(会長=安井都知事)に使用許可したが、実際には別会社が映画館やパチンコ屋を経営し、観光協会は都への使用料と別会社からの賃貸料との差額を手に入れた

など、安井都政の暗部を指弾する内容だった。このパンフレットは大評判になり、一般の書店でも販売された。

 七不思議の中で最も話題になったのは、「放送時間になると女湯が空になった」という伝説のラジオドラマ「君の名は」の舞台になった、数寄屋橋下の外濠埋め立てにかかわる問題である。

 当時、多くの運河や中小河川は「黒い水と悪臭のどぶ川」と安井知事自身が認める状態になっていた。外濠も例外ではなく、悪臭の源をなくすということで、賛成する者も多かった。

 自動車道路の建設費をそっくり民間会社に負担させ、そのかわり道路下の店舗の賃貸料収入は会社のものとする。三五年後には道路を都へ贈与させる、という仕組みは、都の財政負担を最小限にして自動車道路を建設できるという着想が評価された。都は地代として三・三平方メートル四〇〇円を受け取ったが、当時の銀座・数寄屋橋周辺の地価は同五万円といわれ、露骨な利権供与として都議会で問題になった。

 江戸以来の外濠の埋め立てに反対する水上デモまで行われたが、東京都が押し切った形で、安井知事三選後の五六年に埋め立てられて姿を消した。橋も翌年に数寄屋橋ショッピングセンターが開業した後、まもなく撤去された(注16)。

 安井知事は左右両社会党の推した有田八郎元外相を破って三選を果たしたものの、差はわずか11万七〇〇〇票で、現職知事としては苦戦というべき結果だった。「東京の七不思議」のように、安井都政への批判が高まってきたためだろう。

 

(注16)京橋~新橋の自動車専用道路は一九六一年に全通したが、本格的な都市内自動車専用道路の建設は五九年六月に発足した首都高速道路公団が引き受けることになり、東京高速道路京橋~新橋線は首都高速道路内環状線のバイパスという役割にとどまっている。そうした利用のされ方が、都心交通の渋滞緩和よりも、埋め立て利権のほうに重点があったのではないかと、いまだに疑われるもとになった。五四年に結ばれた東京都と東京高速道路会社との契約によると、東京高速道路会社は建設後三五年が経過した時点で自動車道路施設を都に贈与し、その後、同社は店舗部分を都から借りて収入の四割を都に払うことになっていた。

 ところが、八〇年になって都が贈与を交渉すると、会社側は道路下の店舗などは贈与の対象ではないと主張し、訴訟になった。東京地裁は九五年六月、道路と店舗部分を一体の建物と判断、そっくり都に返還するよう判決した。東京高速道路側は控訴したが、九七年東京高裁、九九年最高裁で、ともに都が勝訴した。二〇○○年になって、都は財政難を理由に約五五億円で同社へ全体を売却した。

 

東京都の肖像」塚田博康著 85~87頁から引用

 と、これが七つのようだ。ここで紹介されているパンフレット「東京の七不思議-裏から見た都政」を見てみたいのだが、国会図書館にも都立図書館にも首都大図書館にも無いようだ。。

 これだけだとアレなので、他の図書からも探してみた。

 しかし他方、第三期は安井都政にほころびがみえ始めた時期でもあった。一九五五年知事選の前には、戦災復興にともなう都市改造をめぐって「七不思議」と呼ばれた利権疑惑が問題にされたのである。

 これらの問題は、保守系議員からも追及が行われた。一九五五年一〇月鯨岡兵輔(足立区、同年日本民主党から当選)は、都の事業をめぐる疑惑の本質を明らかにした。特定の人物や会社に恩恵を与え、かつ都の外郭団体に退職した都庁幹部が入っていることを指摘した。例えば「七不思議」の一つとして疑惑の渦中にある外郭団体の会長が前副知事であるなど具体的な事例をあげて批判したのである。さらにこの質問が行われる以前の安井三選直後にも、東京地検が、職員保養所の建設をめぐり汚職があったとして、都庁総務局などを家宅捜索した。これによって部長級の幹部職員など、関連業者の逮捕者を出したのである。鯨岡はこの事件にも言及して、昔の伏魔殿とは違い、こんにちの東京は知事のいう「明るい都、住みやすい都」となったと都民は信じていたにもかかわらず、過般の汚職事件によって都政に対する不信が生じたと厳しく指弾した。

 

東京市政」源川真希著 223-224頁から引用

 

追い込まれた官僚知事

 

安井三選と腐敗汚職

(略)こういう社会党の進出が安井知事の辛勝の一因であった。しかしもう一つの原因は都政の腐敗汚職が明るみに出てきたことである。

 知事選挙の僅か五日後、東京地検特捜部は約百名の係官で都庁総務局勤労部と都職員の健康保険組合を捜索した。それから七月下旬までの三カ月間、都庁は、都政はじまって以来の検察旋風に大ゆれとなった。この間、勤労部長をはじめ部長級三名、課長七名など十八名の職員と土建業者十二名を含む三十名以上の民間人が逮捕された。捜査の最終段階では、建設局長、建築局長、前建設局長、前水道局長の任意出頭まで求められた。上層部には波及しなかったものの、役人と業者が結託し、入札制度や許認可の裏をかいて不正な利得を得ていた容疑で、明らかに構造汚職の摘発であった。すでに知事選挙の最中から革新側は安井都政の利権に汚れた腐敗を批判していた。とくに革新系の庁内誌「都政新報」社がつくったパンフレット「東京の七不思議-裏から見た都政」は、都内の一般書店でも販売されて都民の反響が大きく、安井都政の汚職批判はかなり都民に浸透した。

 この「七不思議」のうち、もっとも有名なのはすでにのべた数寄屋橋の下の濠を埋め立て、いま京橋から新橋へかけて高速道路が走っているが、この高速道路建設の名目でその下につくれらた(ママ)貸ビルの問題である。安井知事は、このためにできた「東京高速道路株式会社」なる民間会社に、この外濠の埋立権を与え、六千坪の土地に地上二階地下一階の貸ビルをつくって営業してもよいことにしてしまった。(一九五七年七月、フードセンター、数寄屋橋ショッピングセンターなど開業。)埋め立ての費用は都が負担し、この会社からとる地代は月坪四百円。当時この辺は坪当たり地価五万円といわれていたから、会社は店子から莫大な家賃や権利をとれるはずだ。「七不思議」としては、銀座三原橋下の堀の埋立て、跡地の使用許可、世田谷の砧緑地の東急によるゴルフ場経営許可などもあるが、公有水面の埋立権や都有地にからむものがほとんどで、安井三期都政になってからも都議会で論議された。また七不思議にはないが、東京の工業用地、埠頭用地として開発が進む東京湾の埋立てにまつわって、東京電力、東京ガスなど大企業に広大な土地の利権を譲渡するものも目立つようになっていた。

 都政に関する汚職は、戦前は東京市政や東京府政が伏魔殿といわれて絶えることなく起こっていた。それが戦後はこの年になって初めて都庁幹部に及ぶことになり、その後も毎年起こって東都政の下でさらに大型化する。この都政の腐敗汚職の原因としては、戦後地方自治制の民主的改革にかかわらず、都庁がマンモス化するとともに、すでにのべた都庁官僚制が強まり都の役人が民間業者や一般都民に対し権限をふりまわすことが多くなった。当時の都庁の局長など幹部は、議会では不勉強で意味不明な答弁をしていても、夜になると議員や業者との宴会には精を出した。都民には予算がないと開き直るのに、料亭などの宴会はひんぱんに開き、幹部になるほどウラ金を自由に使っていた。安井謙氏の参院進出をはかるころから、警察の眼からみてかなり目にあまる公金の乱費、業者との癒着が進み、都民の見えないところで汚職がおこっていたと思われる。しかし田中警視総監時代はその幹部への摘発が抑えられていたが、国家公務員の警視総監になって幹部にも追及が及んだのである。

このように腐敗の進む都政内部の上に安井ワンマンがいて、弟や自らの選挙のために、この各局幹部を使って票集めをやっていたのであり、票集めの多いものほど重用されるといわれた。

 

東京都知事」日比野登著 41~42頁から引用

 

大企業との癒着

 

  東・鈴木時代の自民党保守都政と大企業の癒着ぶりは目にあまるものがあった。都有地をべらぼうに安く払い下げ、駅前開発では私鉄独占に便宜を供与するなど、いたれりつくせりであった。「東京七不思議」ということばも生まれた。

大資本との癒着ぶりの一端を示そう。事実は何よりも雄弁である。

 

安井知事時代

 

高速道路という名の貸ビル

「みなさま、ただいま渡りましたのが”君の名は”で有名な数寄屋橋でございます。大岡越前守の南町奉行所もこの橋のタモトにあったのでございます。これより銀座に入りますが、お濠にそって南にまがりますと、アレアレごらん下さい。お濠が埋って山下橋から新幸橋まで二階建ての細長いビルが建っております。皆さま、これが只今、東京都御用命で建築中の高速道路でございます。ご覧の通り、屋上は道路らしくなっておりますが、自動車の昇り口も降り口もなく、一方、下の貸室は早くも一パイにふさがっております。三年以内にはあの数寄屋橋もカゲをけし、難波橋から紺屋橋までの濠川も埋め、一三〇〇メートルの細長いピルが銀座をとりまく計画になっております。どうぞ、ごゆっくりとご覧下さいませ」(パンフ「東京の七不思議」より)

 これは、当時一躍名をはせた高速道路という名の貸ビルについての都内遊覧バスガイド風の説明である。

 ことの起こりは、一九五一年、東京高速道路株式会社なるものが、銀座・新橋の境を流れる汐留川の難波橋-京橋川・紺屋橋間の外濠一三六〇メートルの「公有水面占有」を都に出願したことにはじまる。最初から埋立てとしたのでは都民が騒ぐし、手続き上も都議会の同意が必要になる。しかし、「水面占有」は知事専決である。”魚心あれば水心”とでもいうべきか、安井知事は待ってましたとばかりに、出願一ヵ月後には許可を出し、同社は二年後工事に着工、事実上の埋立てをはじめた。世間が騒ぐので、都ははじめて五四年五月の議会に計画の概要を明らかにした。それによると、外濠一万三〇〇〇坪(約四万三〇〇〇平方メートル)を埋立て、そこに六 〇〇〇坪(約二万平方メートル)余りの自動車専用の高速道路をつくる。その埋立て工事を東京都は前記会社に委託する、都はその委託料として三億一〇〇〇万円を三〇年賦で払う、会社は高速道路をつくり、道路下の貸ビルを経営し、三五年たったら都に寄付するーというものだった。高速道路といっても狭いビルの上で車は通れない(その後六三年から一部車が通れるようになり、今日ではすべて通れる)。事実上の細長い貸ビルである。なんのことはない、都の財産を東京高速道路株式会社に提供しようというものに他ならなかったわけである。三五年たったら都に寄付する契約だが、寄付したあとも「運営は会社に委託する」という念の入れようだった。

 問題は同社役員の面々だが、財界、大企業代表がズラリとならんでいる。社長は三菱土地株式会社の社長で、監査役は当時の石坂泰三経団連会長。株主は電通、日通、読売、ラジオ東京などが名を連ねている。当時、坪一〇万円の権利金として一八億円、家賃坪二〇万円で三六億円―その後、権利金などははるかに値上がりした―という莫大な金が会社にころげこんだといわれる。その契約期限が二年後の八六年に迫っている点でこの問題は今日的なものでもある。さまざまな恋とロマンの歌や映画の舞台となった有楽町「君の名は」で有名な数寄屋橋、銀座一帯も、大企業と都の幹部にとっては、利潤追求と利権の場にすぎなかったようである。

 

 都立産業会館事件(略)

 

 都有緑地を東急資本に

 世田谷区砧に一三万坪(約四三万平方メートル)弱にのぼる東京都の縁地があった。一九四〇年「東京都市計画緑地」として内務省から指定され、都が強制的に買収したものであった。ところが安井知事は、この緑地のうち六〇%の七万七〇〇〇坪(約二五万四〇〇〇平方メートル)弱について、つぎのような条件で東急の出願に応じ、東急と委託契約を結んだ。つまり、東急が七〇〇〇万円で、そこにゴルフ場をつくり、それを東京都に寄付する、そのかわりその経営管理を向う一〇年間東急に委託するという形で、住宅用地としても最適な広大な土地をいわばタダ同様の条件で東急に肩入れしたのである。それも、知事任期があと五ヵ月にせまった一九五四年十 一月、強引に議会を通過させたのであった。

 事業主東急資本のねらいは明白であった。議会での都の答弁によると、「東急としてはこれによる付近の開発を考えている」とされていた。東急との結びつきはそれだけにとどまらない。同じく世田谷の駒沢にある都有地八〇〇〇坪(約二万六四〇〇平方メートル)についても、タダ同然、これもいたれりつくせりの条件で東急に総合グラウンドをつくらせた。さらに、丹羽文雄の「恋文横丁」などで名をはせた渋谷駅前広場から立退いた露天商を収容するという名目で、実際は東急の子会社の「東光ストア」に地下売場をつくらせた。その大部分は東横デパートの売場としてつかわれている。

 そのほか、東横デパートや東急文化会館のために都電の発着所をわざわざかえるなど、渋谷駅を中心とする東急ターミナルをつくるために、都は東急独占に便宜と利権をゆずりわたしてもいるのだ。

 

革新都政史論」有働正治著 23~24頁から引用

 

こうした利権の例としては、かつて東京の七不思議と騒がれたものの多くがこれにあたる。すなわち、第二部でふれた高速道路という名のビルをはじめ、産業会館(都心の都有地を安く会社に払下げ、そこに融資して会館を建設)、三原橋(銀座の堀をうめて不要となった橋の下を、公共性をもった都の外郭団体に貸し、それが又貸しされ転用されていった)、砧ゴルフ場(都有地七万坪の実質上の一定期間払下げ)などがとりあげられている。また、東京湾の埋め立て地も、一般都民にたいしてはほとんど利用されず、大会社と公営賭博とゴルフ場にのみ使われるというので非難されている。

 

東京 - その経済と社会 -」柴田徳衛著 185頁から引用

 また、「でんでこでん: 都電エレジー」 田村徳次・著にも、下記URLのリンク先(google ブックス)に、七不思議についての記述がある。

https://goo.gl/4Cpu7k

 砧のゴルフ場とは、下記右の写真のように、現在世田谷美術館等がある砧緑地が東急のゴルフ場となっていたものである。

 

 ところで、七不思議のうち、石川栄耀氏が絡んでいたものは、少なくとも「東京高速道路」「三原橋」があるし、七不思議以外にあげられている「渋谷地下街」にも絡んでいる。渋谷地下街については取締役に天下っているし、東京高速道路については顧問に天下っているという報道(疑惑をもたれる 高速度道路 / 寺下辰夫)がある。

 しかし、「都市計画家 石川栄耀」鹿島出版会刊 中島直人、西成典久、初田香成、佐野浩祥、津々見崇:共著には、一切その辺の記述は出てこない。不都合な真実なのかしらん?

 

 安井知事が後に知事を辞めたときに、「(略)石川栄耀はあのわけのわからん銀座の高速道路なんかを人に勧めてやらせておいて後始末をしなかったが、あれを後始末をしてくれて本当にありがとう」と言ってくれた。

 

東京の都市計画に携わって:元東京都首都整備局長・山田正男氏に聞く」東京都新都市建築公社まちづくり支援センター刊 17頁

 

 ところで、新国立競技場の迷走でも有名になった内藤廣氏の東京高速道路評はというと

今で言う民活やPFIの先駆けだ。建設費と運営費をテナントの賃貸料で回収するという画期的なアイデアだった。その筋金入りの勇気と熱意は、経済的な収支が合いさえすれば何でもありのいまどきの安易な都市再生とは違う。

「CE建設業界」2003年12月号

 じゃあ、なんで「安井都政の七不思議で最も有名」になるんですかねえ。これも「分かりやすい正義」で、「根源的な議論」じゃないということなんですかねえ。「建築家の良識とは、その範囲のものだったのでしょうか。

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2015年5月27日 (水)

1962年の三原橋

「明日への日本」日映科学映画製作所1962年製作

38分29秒に当時の三原橋ビルが写ってる!

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2015年2月23日 (月)

三原橋ビル(三原橋観光館)解体済(その4)

<>三原橋ビル(三原橋観光館)解体中(その1)はこちら

三原橋ビル(三原橋観光館)解体中(その2)はこちら

三原橋ビル(三原橋観光館)解体中(その3)はこちら

三原橋地下街の上に乗る三原橋センタービル(三原橋観光館)の解体(除却)工事が完了し、東京都に引き渡しのうえ、東京都による補修工事が行われている。

三原橋地下街 (10)

 

三原橋地下街 (4)

 

三原橋地下街 (6)

 

三原橋地下街 (7)

 

三原橋地下街 (2)

カレーコーナー三原があったあたり

パノラマで見てみる

三原橋地下街 (3)

 

三原橋地下街 (9)

 

三原橋地下街 (5)

 

三原橋地下街 (8)

 

三原橋地下街 (18)

 

三原橋地下街 (13)

 

三原橋地下街 (17)

 

三原橋地下街 (14)

 

三原橋地下街 (16)

 

三原橋地下街 (17)

 

三原橋地下街 (15)

 

三原橋地下街 (20)

 

三原橋地下街 (19)

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2015年2月11日 (水)

工学部の学者「石川栄耀は有名建築家を呼び込んだ!」商業実務者「都庁が呼んだ有名建築家の建物は使えねえ」

前回書いた「東銀座「幻の地下街」を作った経緯が(ほぼ)分かった」で

都市計画家 石川栄耀」鹿島出版会刊 中島直人、西成典久、初田香成、佐野浩祥、津々見崇:共著を読んでみると「有名建築家がこの設計に参加しているのも、盛り場の建築美を目指した石川の仲介によると考えられる。(238頁)」とあるが、それ以上の追及はない。まるで有名建築家さえ呼んで来れば、その背景に官民の不透明な関係があろうとなかろうと万々歳のような感想を持った。

と書いたのだが、その補足で。

 この辺をもうちょっと引用すると

 これらの建物の中には露店デパートと呼ばれ、鳴り物入りでオープンしたものも少なくない。例えば、銀座三十間堀埋立地には、銀座館(新銀座ショッピングセンター)(丹下健三設計)、銀一マート(後藤一雄設計、協働東京工業大学清家清研究室)、現三原橋地下街(土浦亀城設計)、上野百貨店(通称西郷会館、土浦設計)、新宿サービスセンターなどが挙げられ、当時の新聞や雑誌において報道がなされている。有名建築家がこの設計に参加しているのも、盛り場の建築美を目指した石川の仲介によると考えられる。

都市計画家 石川栄耀」鹿島出版会刊 中島直人、西成典久、初田香成、佐野浩祥、津々見崇:共著 238頁

 これに対して、商業専門家の見解で下記のようなものがある。

 その頃、私はまだ元気だった。そして全国を一宿一飯の旅をして回った外、東京では、戦後至る処の空地に乱雑に建てられた小店舗群や露天商を収容するために、銀座三十間堀その他の河川を埋立て、その上に、共同店舗を造り始めたので、その仕事も手伝った。私は都の委嘱を受けて、これらの指導にも当った。この計画では従来の店舗を捨てて共同店舗に収容される零細業者を集めて何回も講演し、何度も企画会議に出たりした。が、東京都が設計して建てる建物がいずれもその目的に添うようなものではなく、出来る前から失敗するように決まっているようなものばかりであった。特にその著しいものは銀座裏の三十間堀に出来る共同店舗であった。私はその設計が不適当であることを文書で述べたが、東京都の役人達はそれが建築の大家丹下健三氏の設計であるとの理由で、商店経営の専門家である私の意見を容れないので、丹下先生との対決を要求したりしたが、結局、私が手を引くこととなった。

「日本商人史考」商業界刊 倉本長治著 305頁

 このように、分野が違うと対称的な評価となっており、「一面的な物の見方はよくないなあ」と思った次第。

 

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 建築屋って、その建物の本来の使用目的よりも有名建築家を使うことが自己目的化することがあるよねえ。

 先般の国立競技場のザハをめぐる論争で、内藤廣氏の【建築家諸氏へ】を読んだのだが、PDF5頁にわたってイロイロと書いているなかで、「選手のため」「観客のため」という観点が一切出てこないうえに「ザハの代表作がソウルではなく東京であるべき」という本来のミッションではない方にいっちゃってることに大いなる違和感を覚えたものだ。

 

 ちなみに、この内藤氏の東京高速道路評はというと

今で言う民活やPFIの先駆けだ。建設費と運営費をテナントの賃貸料で回収するという画期的なアイデアだった。その筋金入りの勇気と熱意は、経済的な収支が合いさえすれば何でもありのいまどきの安易な都市再生とは違う。

「CE建設業界」2003年12月号

 「償却が終われば都に引き渡すという契約の執行を拒み最高裁まで都と争う」ような事業を「民活やPFIの先駆け」と評価していいのか?

 ちなみに内藤氏の上記文中の「何故このような他に例のない面白い道路が出来たのか。」という問いに対しての一つの答えとしては、「本当は首都高速も路下の建物を積極的にやりたかったが、東京高速道路がデタラメやりすぎたことと、国鉄も高架下でデタラメやりすぎた(新橋の京浜百貨店等)こと等を受けて、世間や国会の高架下に対する厳しい視線の下で、建設省が高架下の利用を厳しく制限したから他ではできなくなった」と考えている。「東京高速道路がエライから、他の道路にはないことが出来ているのではなく、東京高速道路がやりすぎたので、他の道路はできなくなった」のであろう。

 東京高速道路こそが「コンプライアンスも何もない利権まみれの『何でもあり』」の状況だった。

 この工事が「水面占用」で認可され、暫次「埋立」に変貌した事実-当時の認可を与えた都建設局長石川栄耀氏が、現在、高速度道路会社の顧問になっている事実は、あたかも「鉄道会館」の人事ケースと同じような表情を呈していることも、ことさら地元民の神経を刺戟しているようである。

疑惑をもたれる〝高速度道路″という貸しビル」寺下辰夫(「経済往来」1954年12月号141頁)

 石川栄耀は、不適切な便宜を民間企業に与えて、自らそこに天下った官僚で世間の不評をかっていたというわけですな。これが「筋金入りの勇気と熱意」「PFIの先駆け」とは寂しいものだ。。。

 なお、「都市計画家 石川栄耀」の「石川栄耀 年譜」には、「東京高速道路株式会社顧問就任」とか「渋谷地下街株式会社 取締役就任」といった経歴は出てこない。何か理由があって載せられないのだろうか??それともとるに足らない事項と判断されたのだろうか?

 石川栄耀と東京高速道路には、また別の「疑惑」があるのだ。

○中井(徳)委員 (中略)これは賛否両論ですが、東京で今高速道路というのをやっていましょう。あの堀を埋めまして、数寄屋橋がなくなってしまった、それを四、五年前に、自民党、社会党両党の委員がこぞって――村瀬さんもいらっしゃいますが、当時の建設委員が大いに反対したのです。ああいうものは風致を害するということでもって、やりました。そのときにだれが判を押したか調べてみた。そうしたら、安井君が二期か三期目の選挙の途中に、もう死にました石川栄耀さんという人が判を押しています。安井さんは留守です。あの人は、局長さんか何かでおられた。そういうことがあるのですよ。ですから、これはたまたま一つの事実にすぎませんが、私は十分起り得ると思うのです。皆さんのお考えの方が人がよ過ぎるように思いますので、一つ強くこの点を要望いたしておきます。御研究をいただいて、必要があるならば、この選挙期間中は代理者の行政に対する幅に規制をされた方がいいのではなかろうか、こう思います。これは強く要望いたしておきます。

昭和34年03月12日 衆議院 公職選挙法改正に関する調査特別委員会

 要するに、この東京高速道路に関する都庁内の決裁については、世間の反対の中、本来は都知事が行うべきものを選挙期間中だったので石川栄耀が決裁したと。これは規制すべき事項ではないかと。

 

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 ところで、「都市計画家 石川栄耀」鹿島出版会刊 中島直人、西成典久、初田香成、佐野浩祥、津々見崇:共著の238頁に話を戻すが、「有名建築家がこの設計に参加しているのも、盛り場の建築美を目指した石川の仲介によると考えられる」物件の中に「現三原橋地下街(土浦亀城設計)」があげられている。

 ここでは無批判に、さも良いことをしたように書いてある。しかし、それでいいのか?

  三十間堀を埋め立てるにあたり、闇マーケット化等を懸念した地元の反対をおさえるために「三十間堀埋立運営委員会」を設け、利用計画として「建築物は公共的、国家的、文化的用途に供するものを主とし、工場、倉庫、ブラックマーケット等は認めない」としたうえで、入札参加資格には「禁止営業-工場、倉庫、ヤミ市的売買、将来土地発展上不適当な営業」と定め、健全な「第二銀座」として運営することを目指していた。「東京都を食いものにする男たち 三十間堀埋立に踊るボス群」大住山人著(「真相」1949年5月号)では「目的は貿易物産館、事務所またはアパートの文化的な商店街をつくり、映画館、キャバレー、ダンスホールなどの娯楽期間や工場、倉庫およびマーケットは許さない」とある。

 ところが。。

○中井委員長 御異議なしと認め、さように決定をいたします。

 参考人の諸君から陳述を、承るに先だちまして、参考人諸君に申し上げて御参考に供したいと思うのでありますが、諸君にここに御出席を願うことになりましたゆえんは、本年十月十九日付をもちまして東京都中央区議会議長宮入正則君から請願書の名をもつて本委員会に陳情書が提出されたのであります。この陳情書の要旨によりますると、高速自動車道路建設に伴い紺屋橋と難波橋との間の公有水面埋立てと、中央区銀座四丁目地先三原橋道路上の建物について疑義があるから貴職において調査を願いたい、こういうのが一つ。もう一つは、三原橋の両側の道路占用による建物について都が許可せられたる趣旨とは全然異なりたる使用方法において現在使用されておる、そこに不正があるように思われる、この許可については都と区との間に行き違いがあり、地方自治法上はなはだ遺憾であるという趣旨のものであります。

 (中略)

 それから三原橋の問題につきましては、「昭和三十三年、三十間堀埋立てに始り、代表的な市街を建設するため特に安井都知事を会長に都議会議員各派代表、関係都理事者、地元都議会議員、中央区議会代表者、区理事者、地元住民代表者二十九名をもつて三十間堀埋立運営委員会を組織し、衆知を集めて慎重に同地利用開発と健全発展方策を決定した。」三原橋下は「三原橋下は三十間堀埋立地の中心部であつて、観光都市東京にふさわしい施設たるべきものとし橋上周囲は緑地並にロータリーとすることに決定した。しかるに現在橋下はニユース館が一部を占めるのみで、他の大部分は不健全娯楽で営利を目的とする経営に充てられている。」結局これについては、そういう敷地を特に許されたものは、新東京観光株式会社であるのに、それはその目的のために使わずして、他の者に転貸しをし、ここに何らかの不正が行われているのではないか、かようなことを都がなさるについては、その都を形成するところの特別区に対しその意見を無視してやられる等のことについては、この際自治法を改正して区の意見が都の行政の上に徹底するようはかられることが必要であると思う、その点につき地方行政委員会の格別なる考慮を望む、こういうようなことがこの趣旨なのであります。

昭和29年11月10日 衆議院 地方行政委員会

三十間堀埋立地売却地図

 東京都公文書館保管の関係図面でも三原橋付近は、売却の対象外であったことが分かる。そこになぜ石川栄耀は「盛り場の建築美を仲介」したのか?

三十間堀川埋立竣工認可1
三十間堀川埋立竣工認可2

 「東京不動産史話(3)三十間堀川埋立始末(上)上坂倉次著 「不動産鑑定」1976年3月号」によると、上記三十間堀川埋立竣工認可の「緑地395.78坪」は「三原橋両側4カ所」のことだという。

三原橋商店街は不法建築 都幹部も運営参加

使用目的 ”観光案内所”が化ける

 土一升、金一升といわれる東京だけに道路にまで家がはみ出す不法建築が少なくない。都建設局ではこうした無法な道路侵略者が千数百件にものぼっているので告発や強制執行などの強権を発動して一掃につとめているが、皮肉なことに中央区銀座三原橋の都有地が問題を起こしている。三十間堀の埋立がすんだあとこの三原橋の両側と橋下は道路と指定されたにもかかわらず、安井都知事自身が会長をしている東京観光協会が観光事業のためといって借り受けたうえ、使用料をとて第三者に譲り、いまは商店街に早変わりするという現状である。しかもこの三原橋の運営には都庁幹部も監督上参画しており、都庁自ら道路を不法占用しているという事実がある。

 三原橋は三十間堀の埋立工事が行われたとき橋下もふくめて道路ということになった。ところが26年8月28日、東京観光協会の安井協会長名義で橋下を観光案内所と商品陳列所にしたいと都へ使用方が申請され、そのまま許可された。ついで27年9月30日、橋下では観光案内に不適当であるというので橋上の料は輪に2階建のビルを建てたいと同じく安井協会長の名前で申請され、同10月30日観光案内所、常設物産即売所として許可された。 ところがこれらの土地(総坪数359坪)は許可のあと年間約75万円の使用料で新東京観光株式会社(社長宮地知覚氏)に譲渡されてしまったのである。同社では橋下(253坪)は坪6万円の権利金(半額敷金)で店舗を作り業者に貸付け、橋上両側のビル(106坪)は坪60万円から75万円という八重洲口名店街以上の高い権利金で業者に転貸された。このため橋上ビルの1階に会社事務所兼用の直営案内所があるだけで物産即売所のなければ商品陳列所もなく、あるものは飲食店、パチンコ屋をはじめ20数軒の店舗ばかりとなった。

 ところが都の建築法規をみると道路や公有地に家を建てることは原則として禁止されているが、たとえ許可された場合でもその権利を他人に譲渡したり、使用目的を変更するときは道路管理者(都当局)の許可を受けることになっている。これに違反すれば即座に占用権は取消されることになっているが、観光協会の場合、橋下の商品陳列所と観光案内所の一部を映画劇場、娯楽場に使用目的を変更したいと申請しているに過ぎない。橋上の場合は申請もなければ、橋下の場合でも一部の変更を届け出て商店街に化けている。さらに不可解なのはこの三原橋の問題について第1回の申請のあった26年8月に都庁の富田都民室長はじめ直接監督取締りにあたる坪田道路部長、福田管財部長らをふくめて観光協会理事、観光会社側幹部三者の間に三原橋運営委員会が組織されているにかかわらず、こういうズサンな運営がなされている。しかも土地の権利金を寄付金として新観光会社から都に収めることになっていたが橋下の632万5千円は納付済だが橋上の約9百万円は未納といわれ、ナゾを秘めたままとなっている。

安井知事談『あの問題は私の知らない間に申請、建設されたもので、知事の怠慢といわれればそれまでだが、全く都民に対し申訳ないと思っている。現在都民の納得ゆくような改善工作をすすめ、徹底的に整備するつもりでいるが、なかなか思うようにゆかず困っている』

宮路新東京観光株式会社社長談『私は二代目社長だが都との使用契約についてよく知らない』

読売新聞 1954(昭和29)年10月30日

 ざっくりいうと、石川栄耀は、自らが運営委員となっている「三十間堀埋立運営委員会」の決定に反して、三原橋周辺に、本来設置されてはならないはずの映画館、ゲームセンター、パチンコ屋等の設置に加担していた。さらにそれは都の条例に反する「又貸し」という形をとっていた。また、知事が「あの問題は私の知らない間に申請、建設されたもの」と言っているにもかかわらず、実際には都の幹部が関与していた。ということか。

 本来、三原橋は「盛り場の建築美」を持ち込んではいけない場所であり、石川栄耀は健全運営を条件に埋立を了解した地元に対して背信行為を行ったというべきではないか。

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 ところで、 「東京都を食いものにする男たち 三十間堀埋立に踊るボス群」大住山人著(「真相」1949年5月号) に興味深い記述がある。

(略:戦災のガラを河川に埋め立てることとした経緯を記述)このプランを立てたのは当時の都建設局長大森健治(その後公職追放)で、知事安井誠一郎が都議会方面を打診したところ『これはウマイ利権になる』とホクソえむ都会議員もあつて、たちまちOK。

 戦災ガラを河川に埋め立てる件については、安井知事から依頼を受けた石川栄耀が考案したこととされているが、そうではないということか?公職追放された者が考案したのだと通りが悪いので後に石川栄耀が考案したこととしたのか?なかなかおもしろい。

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2015年2月 2日 (月)

東銀座「幻の地下街」を作った経緯が(ほぼ)分かった

 東銀座のいわゆる「幻の地下街」については、営団地下鉄の「日比谷線建設史」において

 地下3階構造の日比谷線構築はこの橋梁(※引用者注:三原橋のこと)の真下を通過する。この構築の地下1階は東銀座・日比谷間のコンコースとなり,地下2階は東京都で将来三原橋を撤去するとき橋下および橋台敷き附近に居を構えている諸店舗を移転収容するための施設として使用し,地下3階は日比谷線の隧道部分となる計画である。このように地下2階部分は東京都施設であるが,銀座四丁目交差点付近までの同施設を営団が受託施工した。

東京地下鉄道 日比谷線建設史」帝都高速度交通営団 387~389頁

 と記され、東京都の計画に基き、営団地下鉄が日比谷線建設にあわせて受託施工したことが分かる。しかし、どのような経緯で、東京都がこの移転計画を実施しようとしたかはこれでは分からない。

 

 他方、東京都では、首都高速道路計画にあたって

皇居の南側において国会方面から銀座方面に通づる路線の計画につき検討する

東京都市計画高速道路網計画案大綱 附帯決議2」東京都市計画高速道路調査特別委員会(1957)

こととしており、その関連として、祝田橋~三原橋間の地下自動車道路の計画を具体化させていた。

三原橋地下街を潰すはずだった銀座地下道計画

※「都市計画と東京都」都政調査会発行(1960)から引用

 この地下自動車道と日比谷線は導入空間が競合するため、紆余曲折があり、結果現況の有楽町駅付近のガード下付近のみ一方通行の地下道になっている。

日比谷地下道

 このあたりの経緯は、東京五輪関連:地下鉄と競合して未成となった銀座の地下自動車専用道路にして首都高速計画線の名残に記したところである。

 そこでも指摘したのだが、山田正男 元・東京都建設局長は、後に自著において

 しかし今でも残念なのは、銀座界隈の最後の道路交通対策として計画した,祝田橋方面と三原橋方面とを結ぶ地下自動車道計画を地下鉄2号線(※引用者注:日比谷線のこと)の工事と同時に施工し、三原橋を撤去することによりついでに七不思議の一つを解消しようとしたが,オリンピック東京大会をひかえて工期の関係等もあって断念せざるを得なくなり、遂に中途半端な一方通行の地下道に終わってしまい,七不思議の一つも今だにその醜態をさらしていることである。

時の流れ・都市の流れ」都市研究所刊、山田正男著 25頁

と記し、「安井都政の七不思議」の一つである三原橋問題を地下道建設とあわせて解決しようとしたが達成できなかったことが分かる。

 しかし、この山田局長の意向と「幻の地下街」を繋げる確証がなかった。それが見つかったのである。

 

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 「交通技術」1962年10月号(財団法人交通協力会刊)に「営団地下鉄2号線銀座-日比谷間建設計画」という報文が掲載されている。著者は安藤正人 帝都高速度交通営団建設部第1設計課長である。

 この報文が貴重である理由は、上に記した東京都の地下自動車道と日比谷線の導入空間調整において、一旦は合意しながらその後流れて幻に終わった「地下道路は地下2階(銀座駅付近は地下3階)・地下鉄は地下3階相当の一体構造」に基づくものを図面入りで紹介しているところである。

地下鉄日比谷線と日比谷地下自動車道と三原橋の関係

 これだけではよくわからないので、現況と比較してみる。

東銀座幻の地下街と三原橋地下街と地下鉄日比谷線と有楽町ガード下地下道の関係

 お手元に「パンフレットで読み解く東京メトロ建設と開業の歴史」実業之日本社刊をお持ちの方がいらっしゃれば、是非97~101頁の記事と見比べてほしい。(同誌100頁の図面では「幻の地下街」部分を人が歩いているイラストが!)

 横断図は下記のとおり。

地下鉄日比谷線と日比谷地下自動車道の関係

 どのような構想だったのか、下記に引用する。

Ⅱ 地下自動車道路との共存計画

(中略)

ⅰ) 2号線はおおむね道路中心線に沿つて建設し、既設地下鉄各線の下(地下3階に相当)に位置すること。銀座駅はホーム延長152m、幅9mの島式、日比谷駅はホーム延長152m、幅4.975mの相対式とする。

ⅱ) 地下自動車道は幅員7m、高さ4m以上の片側2車線。出入口は三原橋付近の道路中心と、日比谷交差点・祝田橋の中間道路両側に設ける

ⅲ) 銀座-西銀座(引用者注:当時の丸ノ内線銀座駅は「西銀座駅」と称していた)間は、既設地下鉄線の下を潜り、かつ地下鉄2号線銀座駅の両側に同一の深さで設け、道路幅員の関係で、地下鉄の構造とは一体として設計する。

ⅳ) 東海道本線下付近は、両者が平行して経由できるだけの幅員がないので、地下自動車道路は地下鉄の上に重ねる。日比谷駅でもそのままの状態で計画、これらは一体構造として設計する。

ⅴ) 東銀座-銀座-日比谷の3駅間を結ぶ東京都計画の一般公衆用地下歩道をこれに加える。

ⅵ) 地下自動車道路の換気及び排水装置は、地下鉄とは分離した独立の計画とするが、ディーゼル機関付の自動車は通行させない。三原橋付近にはUターン用のループウェーを設け、三原橋下及びこの付近の店舗の一部は地下に収容する

ⅶ) 地下自動車道路・地下歩道・地下鉄は同時施工

「交通技術」1962年10月号「営団地下鉄2号線銀座-日比谷間建設計画」安藤正人著 22~23頁

1962-10_交通技術_三原橋地下街の店舗を地下に収容する

 上の図面では着色しなかったが、確かに三原橋の地下に本線の出入口の坂道以外に、ループウェーらしき横破線が見える。山田局長はこうやって「都政七不思議」のひとつである三原橋の問題を解決してしまおうとしたわけだ。

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 余談であるが、鍛冶橋の下にも同様の七不思議で埋め立てた橋の下に映画館があった。山田局長は、同著で「鍛冶橋の下の映画館の問題も首都高速道路の建設によって解消した。(「時の流れ・都市の流れ」24頁)」と述べている。それも同じ七不思議の東京高速道路と首都高速道路を連結することによってである。このあたり石川栄耀の残した負の遺産に新しい開発計画を(意図的に?)ぶつけることで片付けにかかっていたわけだ。

  「土浦亀城と白い家」鹿島出版会刊、田中厚子著によると、三原橋センタービルを設計した土浦亀城は、鍛冶橋下に「映画館および遊技場をつくる「鍛冶橋計画案」もあった。それ等は実現しなかったが、この時期の復興計画の事例として興味深い。(同著267頁)」

 三原橋ほどではないが、鍛冶橋下の映画館も、開発時にその不透明さ等から世間の批判をあびている(読売新聞昭和28年10月6日付記事「自動車ラッシュの鍛冶橋 撤去請願、採択したが橋下は個人に貸付 都議会で都へ善処申入れ」を参照のこと)。石川栄耀と土浦亀城と都政七不思議=戦後復興にからむ利権とをつなぐコネクションがあったのだろうか?

都市計画家 石川栄耀」鹿島出版会刊 中島直人、西成典久、初田香成、佐野浩祥、津々見崇:共著を読んでみると「有名建築家がこの設計に参加しているのも、盛り場の建築美を目指した石川の仲介によると考えられる。(238頁)」とあるが、それ以上の追及はない。まるで有名建築家さえ呼んで来れば、その背景に官民の不透明な関係があろうとなかろうと万々歳のような感想を持った。

 もっとも、国会で与野党から「利権道路」と追及され、契約に定められた期間満了後の返還に応じず最高裁まで争った(都勝訴、会社敗訴)東京高速道路についても一切そのような経緯は触れず、石川と地元議員の「深イイ話」だけ載せて「PFIの先駆け(235頁)」と紹介するような問題意識の本だからこれ以上求めるのは酷なのかもしれない。

 なお、山田局長は、「安井知事が後に知事を辞めたときに、「(略)石川栄耀はあのわけのわからん銀座の高速道路なんかを人に勧めてやらせておいて後始末をしなかったが、あれを後始末をしてくれて本当にありがとう」と言ってくれた。(「東京の都市計画に携わって:元東京都首都整備局長・山田正男氏に聞く」東京都新都市建築公社まちづくり支援センター刊 17頁)」「東京都と東京高速道路株式会社との契約は、全くいい加減だ。(同 71頁)」と述べている。この辺の深掘りこそ「都市計画家 石川栄耀」に求めたいものだ。

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 閑話休題。

 関係者間の合意が成立したことで日比谷線の工事が本格化した。

 上記の決定(引用者注:地下道路は地下2階(銀座駅付近は地下3階)・地下鉄は地下3階相当)に従って営団はただちに橋本(引用者注:橋下敬之)案の自動車道路が地下3階に造られるものとして,東銀座・霞ヶ関間の設計をまとめ、昭和37年3月東京都経由で建設省へ認可申請を行ない,同年8月認可を受けた。そして同年9月中旬から順次工事に着手した。ようやく工事も軌道にのりかけた頃,同年11月6日運輸,建設両次官,首都圏整備委員会事務局長および東京都副知事の間で下記のような覚書がつくられ,営団は運輸省鉄道監督局長から覚書の趣旨の実現に努力するよう指示を受けた。

 三原橋・日比谷間における交通施設に関する覚書

 記

1.地下3階道路案を廃止する。

2.数寄屋橋交差点西側付近より日比谷交差点西側付近まで,西行き交通を処理するため,地下1階に2車線の自動車道路を公共事業として,地下鉄工事と同時施工する。

3.日比谷交差点・数寄屋橋間,銀座四丁目・三原橋間の地下歩道の設置は従前通りとする。

4.営団地下鉄の工期については,オリンピックまでに完了することとするが,可能な限りその工期の短縮を図るものとする。

「日比谷線建設史」264~265頁

 地下2階(銀座駅付近は地下3階)の地下自動車道と日比谷線の建設工事着工後に、地下自動車道は大幅にその規模を縮小することになった。「日比谷線建設史」はその理由を書いていないが、上記山田局長の著書では「オリンピック東京大会をひかえて工期の関係等もあって断念せざるを得なくなり(時の流れ・都市の流れ)」とある。上記覚書の「4」とリンクしているのだろうか?

 (※日比谷線銀座駅は、上記「横断面図」のように、晴海通りの下に両側を地下自動車道に挟まれた形で設計された。そのためホームの幅が少し狭くなった。地下自動車道計画がなくなった後も、地下鉄の構造物の基本的な構造は変更されていないため、今でもホームは狭いままだ。)

 いずれにせよ「出入口は三原橋付近」「三原橋付近にはUターン用のループウェーを設け、三原橋下及びこの付近の店舗の一部は地下に収容する(営団地下鉄2号線銀座-日比谷間建設計画)」はずが、「東京都で将来三原橋を撤去するとき橋下および橋台敷き附近に居を構えている諸店舗を移転収容するための施設(日比谷線建設史)」になってしまった。

 オリンピック関連工事にあわせて三原橋周辺を完全に撤去し、店舗を移転する目論みだったものが、三原橋は残り、移転時期も期限がない「将来」になってしまったことが、「幻の地下街」化の一因であったと思われる。よくいわれる「消防法の改正」などは後付にすぎないし直接の理由ではない。

 実は、東京都は、これ以前にも、昭和31年に三原橋付近の店舗を理詰めの法律論により撤去すべく、庁議まではかったが、「関係局間においてなお調整すること」とされ、実現できなかった。理詰めでダメなら、物理的に公共事業をぶちあてて三原橋もろとも収去を目論んだが、またもや断念を余儀なくされたのである。

 字ばかりで読む気が起きない方は、下記のパワポにざっくりまとめてみたのでどうぞ。

三原橋・銀座幻の地下街経緯

(追記:上図中「銀座マート」は「銀座館」と「銀一マート」を混同して書いてしまいました。申し訳ありませんが各自脳内で修正くださいますようお願いいたします。)

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 「三原橋地下街の「幻の地下街」への移転が、消防規制の強化のため予定どおりできなくなってしまった。」とする説は多いようだ。

 しかし、これも当時の報道と比較してみたい。

朝日新聞 1969(昭和44)年7月1日

 1億8千万円の工費をかけ、40年3月に完成した銀座の地下商店街が、ついに倉庫に化ける。完成当時、都が入居してくれるはずと信じた三原橋会の商店16店舗は「人の通らない場所では商売ができない。地下には絶対、行かぬ」との態度を終始変えず、弱り果てた都が、ついに「とりあえず倉庫と会議室にする」ことにしてしまった。ズサンなお役所仕事が生んだこの地下街騒動、4年を過ぎたが、いまでも解決のメドすらついていない。 地下街が倉庫にかわるまでのいきさつは--。

 都がこの地下商店街を建設したのは、三原橋の晴海通り両側にある2階建ビルをたちのかせ、ここを緑地帯にする計画で、ビルにはいっている16店舗をここに移転させる計画だった。
 当時、帝都高速度交通営団が日比谷線の建設中で、地下1階はプロムナード、地下3階が日比谷線、地下2階が空いていた。都は「この地下鉄工事に便乗すれば、工費も安くすむし、三原橋からも近い。代替地としては理想的だ」として総工費1億8千万円をかけ、1年がかりで40年3月に完成させた。
 地下商店街は、銀座四丁目と日比谷線東銀座駅をつなぐ地下2階で、総延長167メートル、片側に約25平方メートルの店舗用敷地17戸がある。地下1階のプロムナードに出るための入り口は5カ所。
 都は「建設当時の責任者がかわってしまったので、はっきりしないが、移転については商店主の了解を得ていたはず・・・・・」という。一方、商店主たちは「相談なんてとんでもない。はじめに話があればやめろといった。商売人だから、地下商店街がいい場所なら喜んでいきますが、あそこはひどい。袋小路みたいなところを、わざわざ地下2階まで降りてくれるお客さんが何人いますか。とても商売になりません。それに換気が十分にできないというので、ガスも使えないというし・・・・・・」と、相手が何年待っても、絶対に地下には降りないといっている。

 これを読むと、三原橋地下街の商店が日比谷線上地下街に移転しなかったのは、「消防規制が壁になって移転先を失った」のではなさそうだ。

時系列で見てみると
・昭和40年に日比谷線上に「幻の地下街」が完成
・移転交渉を進めるも、三原橋地下街の商店側が拒否。
・昭和44年に暫定的に都が倉庫等として使用。
・昭和49年に関係省庁の通達「地下街に関する基本方針」により規制強化

 順番も違うし、移転拒否から規制強化までの時間も空きすぎている。

 また、「袋小路みたいなところを、わざわざ地下2階まで降りてくれるお客さんが何人いますか。とても商売になりません。」と商店主がインタビューに答えているが、「営団地下鉄2号線銀座-日比谷間建設計画」記載の縦断面図では、三原橋付近はループウェーを設置する関係で、公共歩道が地下2階に降りてきているようだ。当初の計画どおりであれば、「幻の地下街」も公共歩道の人通りがあり、「袋小路みたいなところ」にはならなかったのかもしれない。

 そして、現在、「幻の地下街」は、「建設局三原橋地下倉庫 」と呼ばれている。現在、東京都建設局では、三原橋の撤去とそれに伴う地下道のバリアフリー化及び「幻の地下街」の活用策の検討を進めているようだ。(リンク先の「道路施設再整備計画検討(三原橋周辺)」を参照されたい。)

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 写真は、銀座駅付近の清掃用具入れになっている「幻の地下道」の入口である。

東銀座幻の地下街入口 (1)

無理やり開けたのではなく、たまたま通りががった際に清掃作業が行われて扉が開閉されたのを覗き込んだだけである。

東銀座幻の地下街入口 (2)

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2014年10月17日 (金)

三原橋と「銀座の幻の地下街」に係る最近の東京都の動き

完全に自分の備忘録です。既に記載したものの重複あり。すまんな。

なお、幻の地下街設置に係る経緯については、
東銀座「幻の地下街」を作った経緯が(ほぼ)分かった
http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/02/post-3bf6.html
をご覧いただければ幸いです。

東京都情報公開システム

公開件名三原橋地下倉庫の改修に係る基本設計業務委託
記号番号24建道管管第815号
区分一般
大項目企画調査
小項目調査・調整
細項目総記
保存期間3年
分類記号A401070
決定年月日等平成24年11月16日
所管局部課建設局道路管理部管理課

 

東京都入札情報サービス

 

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見積経過調書
第1回 第2回  
採用者情報
採用項目 採用内容
契約部署 建設局第一建設事務所庶務課
契約番号 25-00011
見積日時 平成25年5月9日 午後1時20分
見積場所 第一建設事務所 2階 経理係
件 名 晴海通りシンボルロード整備事業基本設計(その3)
採用者氏名 株式会社ドーコン
採用金額 3,307,500円
公表通知書 PDF選定の理由帳票
見積経過情報
No 見積者氏名 見積金額 備考
1 株式会社ドーコン 3,150,000円  
記事 履行場所  東京都千代田区有楽町一丁目地内から中央区銀座五丁目地内
工事概要  晴海通りシンボルロード整備事業基本設計(その3)
○路線別整備検討委員会の運営:一式○地元説明会の開催:一式○地
元協議会の開催:一式○デザインの変更:一式○変更整備計画(案)の
作成:一式○変更パース図の作成:一式○設計協議:一式
工  期  契約確定の日から平成26年 3月14日まで
特命理由 (1)上記業者は、本委託の前提となる「晴海通りシンボルロード整備事業基本設 計(その1)」及び「晴海通りシンボルロード整備事業基本設計(その2)」業務を 受託している。したがって、事業の性質や成り立ち、現場状況及び設計内容等をよ く把握し、関係資料も豊富に所有している。 (2)本設計は、「晴海通りシンボルロード整備事業基本設計(その2)」におい て作成された整備計画(案)を元に、それらを必要に応じて変更し、最終的な整備 計画を作成するものである。したがって、設計の一貫性を確保しつつ、適切な整備 計画を作成するためには、整備計画(案)を熟知していることが求められる。 (3)上記業者は、「基本設計(その1)」及び「基本設計(その2)」の業務を遂 行する上で、地域特性を的確に把握した整備計画(案)を作成するなど、十分な経 験と知識、能力を有していることから、本業務を迅速かつ的確に遂行できる唯一の 業者である。 以上の理由により、本業者と特命随意契約する。
見積経過調書
第1回 第2回  
採用者情報
採用項目 採用内容
契約部署 建設局第一建設事務所庶務課
契約番号 25-00184
見積日時 平成25年9月26日 午前9時30分
見積場所 第一建設事務所 1階 入札室
件 名 【電子】道路施設再整備計画検討(三原橋周辺)
採用者氏名 予定価格超過
採用金額  
公表通知書 PDF選定の理由帳票
見積経過情報
No 見積者氏名 見積金額 備考
1 八千代エンジニヤリング株式会社 9,770,000円  
2 中央復建コンサルタンツ株式会社 辞退  
3 ジーアンドエスエンジニアリング株式会社 辞退  
ハッシュ値一覧
記事 履行場所  東京都中央区銀座五丁目地内
工事概要  道路施設再整備計画検討(三原橋周辺)
(1)設計計画(2)現地踏査(3)現況の課題整理(4)三原橋撤去に伴う検討①晴海通り道路改良計画
②三原橋撤去の概略施工計画③地下歩道のバリアフリー化計画④地下階排水計画⑤地下階の活用方
策の計画⑥概算工事費⑦課題の整理
(5)三原橋撤去の代替案の検討
(6)既設構造物の竣工図面のデータ化
(7)照査
(8)報告書作成
(9)設計協議(中間2回)
【分野:道路】
工  期  契約確定の日から平成26年 3月31日まで
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見積経過調書
第1回 第2回  
採用者情報
採用項目 採用内容
契約部署 建設局第一建設事務所庶務課
契約番号 25-00184
見積日時 平成25年9月26日 午前11時00分
見積場所 第一建設事務所 1階 入札室
件 名 【電子】道路施設再整備計画検討(三原橋周辺)
採用者氏名 不調
採用金額  
公表通知書 PDF選定の理由帳票
見積経過情報
No 見積者氏名 見積金額 備考
1 八千代エンジニヤリング株式会社 辞退  
ハッシュ値一覧
記事 履行場所  東京都中央区銀座五丁目地内
工事概要  道路施設再整備計画検討(三原橋周辺)
(1)設計計画(2)現地踏査(3)現況の課題整理(4)三原橋撤去に伴う検討①晴海通り道路改良計画
②三原橋撤去の概略施工計画③地下歩道のバリアフリー化計画④地下階排水計画⑤地下階の活用方
策の計画⑥概算工事費⑦課題の整理
(5)三原橋撤去の代替案の検討
(6)既設構造物の竣工図面のデータ化
(7)照査
(8)報告書作成
(9)設計協議(中間2回)
【分野:道路】
工  期  契約確定の日から平成26年 3月31日まで

 

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見積経過調書
第1回  
採用者情報
採用項目 採用内容
契約部署 建設局第一建設事務所庶務課
契約番号 25-00243
見積日時 平成25年11月7日 午前9時30分
見積場所 第一建設事務所 1階 入札室
件 名 【電子】道路構造物計画検討(晴海通り)
採用者氏名 株式会社ドーコン
採用金額 4,620,000円
公表通知書 PDF選定の理由帳票
見積経過情報
No 見積者氏名 見積金額 備考
1 株式会社ドーコン 4,400,000円  
2 株式会社エイテック 6,900,000円  
3 株式会社エーシーイー 8,400,000円  
4 株式会社復建エンジニヤリング 9,500,000円  
5 株式会社エイト日本技術開発 9,500,000円  
6 日本工営株式会社 9,530,000円  
7 株式会社長大 辞退  
ハッシュ値一覧
記事 履行場所  東京都中央区銀座五丁目地内
工事概要  道路構造物計画検討(晴海通り)
(1)設計計画(2)現地踏査(3)三原橋撤去に伴う検討①晴海通り道路改良計画②三原橋撤去の概
略施工計画③地下歩道のバリアフリー化計画④地下2階における概略補修計画の検討⑤概算工事費
⑥課題の整理(4)交通量調査(歩行者)(5)竣工図面のデータ化(6)整備イメージパースの作成(7)照査
(8)報告書作成(9)設計協議(中間2回)
【分野:道路】
工  期  契約確定の日から平成26年 3月31日まで
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見積経過調書
第1回 第2回 第3回  
採用者情報
採用項目 採用内容
契約部署 建設局第一建設事務所庶務課
契約番号 26-00073
見積日時 平成26年7月10日 午前10時40分
見積場所 建設局第一建設事務所庶務課
件 名 三原橋耐震補強及び補修詳細設計
採用者氏名 再度見積合せ
採用金額  
公表通知書  
見積経過情報
No 見積者氏名 見積金額 備考
1 株式会社ドーコン 3,400,000円  
記事 履行場所  東京都中央区銀座四丁目地内から同区銀座五丁目地内まで
工事概要  三原橋耐震補強及び補修詳細設計
 橋長:29:566m
 幅員:36.18m
 構造形式:3径間連続鋼鈑桁橋

 橋梁詳細調査:一式
 橋梁耐震補強及び補修詳細設計:一式


【分野:鋼構造・コンクリート】
工  期  契約確定の日から平成26年10月31日まで
特命理由 三原橋の橋梁下は、地下1階(地下街)、地下2階(建設局倉庫)、地下3階(東京メトロ日比谷線)の3層の函渠構造である。三原橋の下部工は東京メトロと一体構造となっている。「道路構造物計画検討(晴海通り)」において、三原橋の特殊で複雑な構造特性を踏まえた、既設橋撤去に伴う概略施工計画や函渠を含めた構造物概略検討を実施している。本詳細設計は、東京メトロと一体構造となっている三原橋の構造特性を踏まえて、補強・補修設計を行う必要がある。また、本詳細設計の実施にあたり、既設橋梁の詳細調査を行い、限られた期間内に耐震補強及び補修計画を効果的に立案する必要がある。 この委託に際して、 ①当該詳細設計の前提となっている「道路構造物計画検討(晴海通り)」を行なっていること。 ②当該詳細設計は、道路構造物計画検討と一貫性をもたせる必要があること。 ③当該業者が、道路構造物計画検討を行なったことにより、施設の概要及び敷地の条件等を熟知しており、かつその他の必要資料を豊富にもっていること。 以上の理由により特命とする。

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見積経過調書
第1回 第2回 第3回  
採用者情報
採用項目 採用内容
契約部署 建設局第一建設事務所庶務課
契約番号 26-00073
見積日時 平成26年7月10日 午前10時40分
見積場所 建設局第一建設事務所庶務課
件 名 三原橋耐震補強及び補修詳細設計
採用者氏名 再度見積合せ
採用金額  
公表通知書  
見積経過情報
No 見積者氏名 見積金額 備考
1 株式会社ドーコン 3,390,000円  
記事 履行場所  東京都中央区銀座四丁目地内から同区銀座五丁目地内まで
工事概要  三原橋耐震補強及び補修詳細設計
 橋長:29:566m
 幅員:36.18m
 構造形式:3径間連続鋼鈑桁橋

 橋梁詳細調査:一式
 橋梁耐震補強及び補修詳細設計:一式


【分野:鋼構造・コンクリート】
工  期  契約確定の日から平成26年10月31日まで
特命理由 三原橋の橋梁下は、地下1階(地下街)、地下2階(建設局倉庫)、地下3階(東京メトロ日比谷線)の3層の函渠構造である。三原橋の下部工は東京メトロと一体構造となっている。「道路構造物計画検討(晴海通り)」において、三原橋の特殊で複雑な構造特性を踏まえた、既設橋撤去に伴う概略施工計画や函渠を含めた構造物概略検討を実施している。本詳細設計は、東京メトロと一体構造となっている三原橋の構造特性を踏まえて、補強・補修設計を行う必要がある。また、本詳細設計の実施にあたり、既設橋梁の詳細調査を行い、限られた期間内に耐震補強及び補修計画を効果的に立案する必要がある。 この委託に際して、 ①当該詳細設計の前提となっている「道路構造物計画検討(晴海通り)」を行なっていること。 ②当該詳細設計は、道路構造物計画検討と一貫性をもたせる必要があること。 ③当該業者が、道路構造物計画検討を行なったことにより、施設の概要及び敷地の条件等を熟知しており、かつその他の必要資料を豊富にもっていること。 以上の理由により特命とする。

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見積経過調書
第1回  
採用者情報
採用項目 採用内容
契約部署 建設局第一建設事務所庶務課
契約番号 26-00101
見積日時 平成26年8月7日 午前10時30分
見積場所 第一建設事務所 2階 経理係
件 名 晴海通りシンボルロード整備事業詳細設計(その1)
採用者氏名 株式会社ドーコン
採用金額 5,940,000円
公表通知書  
見積経過情報
No 見積者氏名 見積金額 備考
1 株式会社ドーコン 5,500,000円  
記事 履行場所  東京都千代田区有楽町一丁目地内から中央区銀座五丁目地内
工事概要  晴海通りシンボルロード整備事業詳細設計(その1)
○測量業務・現地測量:0.016k㎡・中心線測量:0.4㎞・仮BM設置測量:0.4㎞・縦断測量:
0.4㎞・横断測量:0.4㎞
○設計業務・自転車走行空間予備設計 自転車走行空間予備設計:0.4㎞・シンボルロード詳細設計
 全体設計:0.8㎞ 道路景観施設等の設計:1区間
【分野:道路】
工  期  契約確定の日から145日間
特命理由  上記業者は、本委託の前提となる「晴海通りシンボルロード整備事業基本設計(その1)」、「晴海通りシンボルロード整備事業基本設計(その2)」及び「晴海通りシンボルロード整備事業基本設計(その3)」業務を受託している。したがって、事業の性質や成り立ち、現場状況及び設計内容等をよく把握し、関係資料も豊富に所有している。  本設計は、「晴海通りシンボルロード整備事業基本設計(その3)」において作成された整備計画に基づき、全体設計、道路景観施設等の設計を行うものである。したがって、設計の一貫性を確保しつつ、適切な全体設計を作成するためには、整備コンセプト・デザインを熟知していることが求められる。  上記業者は、「基本設計(その1)」、「基本設計(その2)」及び「基本設計(その3)」の業務を遂行する上で、地域特性を的確に把握した整備計画を作成するなど、十分な経験と知識、能力を有していることから、本業務を迅速かつ的確に遂行できる唯一の業者である。 以上の理由により特命とする。

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2014年9月23日 (火)

斉藤 理 山口県立大学准教授の「川がない橋が秘めた東京の履歴」を読んで

ミツカン水の文化センターというところが機関誌『水の文化』を出していて、その47号が「つなぐ橋」という特集であった。

http://www.mizu.gr.jp/kikanshi/no47.html#08

そこに斉藤 理 山口県立大学准教授が「川がない橋が秘めた東京の履歴」という一文を寄稿している。

そのうち三原橋関連で気になった点がいくつかあった。

 三原橋地下街に入居した店舗の多くは、水路のあった時分に水辺に連なった屋台が基になっています。水辺は人を惹きつけますが、特に橋のたもとには賑わいが生まれて、商売の場としても最適だったはずです。都市を歩いて不思議に感じたことを探っていくと、まちの成り立ちや隠れた履歴が浮かび上がってきます。橋の痕跡は、そんな謎解きのヒントになるのです。

「水路のあった時分に水辺に連なった屋台」??

 

こう書くからには、三十間堀川の水辺に屋台が連なっている様を思わせる。実際に三十間堀川の水辺には屋台が連なっていたのか?

中央区立図書館ウェブサイトにアーカイブされている写真を見てみよう。

https://www.library.city.chuo.tokyo.jp/bookdetail;jsessionid=FC1E05FF163D2E57006EA877E615F5C3?0&num=1989513&ctg=1&area=2&areaimage=1

https://www.library.city.chuo.tokyo.jp/bookdetail?5&num=1989516&ctg=1&area=2&areaimage=1

https://www.library.city.chuo.tokyo.jp/bookdetail?9&num=1989507&ctg=1&area=2&areaimage=1

リンク先を見ると分かるが、水辺には屋台が連なるどころか、建物が立て込んでいる様子がうかがえる。

また、東京都臨時露店対策部が編集した「露店」(まぼろし闇市へ、ふたたび 続東京裏路地「懐」食紀行 に掲載されていたものを引用)から、銀座周辺の露店の出店状況を見てみると。。。

銀座の露店

数寄屋橋の近辺にはあるが、三十間堀川の周辺ではない。

数寄屋橋周辺の露店が三十間堀川埋立地に移転して、更に銀座館マートに移ったという話はあるんだがなあ。。

斉藤 理准教授がどこを「歩いて」何を「探っ」たら「水路のあった時分に水辺に連なった屋台」が出て来たのか是非ご教示いただきたいところである。(※コメント欄にでも書いていただけたら幸いです。)

一般論として、「橋詰」にたまり機能、賑わい機能があることは分かるのだが。。。

ちなみに、三原橋地下街の設立目的は、露店の収容ではないことは、東京都の公文書から明らかである。

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/post-3f36.html

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/31228-d1e1.html

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post-4930.html

杉村暢二氏の「日本の地下街」によると実態としては下記のようなものであったようだ。

日本の地下街

そしてそれに伴うトラブルは下記にまとめてある。

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-554e.html

私のブログは斉藤 理准教授の「謎解きのヒント」になっただろうか?

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