カテゴリー「三原橋地下街」の34件の記事

2020年2月18日 (火)

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか

 先週の日曜日は雨が降っていて外出する気にならなかったので、ちょいと前回の東京オリンピックとドボクのネタをまとめてみた。

 また、前々回の記事の際にTwitterでアンケートをとったところ、「レイアウトを工夫しない読みづらい」との声を結構いただいた。

 

 なので、今回はパワポ型式で作ってみたのでどうぞ。

 実際にこれでどこかプレゼンするという予定は一切ない。

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (1)

 

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (2)

 

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (3)

 

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (4)

 

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (5)

 

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (6)

 

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (7)

 

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (8)

 

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (9)

 

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (10)

 

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (11)

 

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (12)

 

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (13)

 

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (14)

 

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (15)

 

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (16)

 

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (17)

 

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (18)

 

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (19)

 

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (20)

 

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (21)

 

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (22)

 

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (23)

 

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (24)

 

 東京都庁議の詳細はこちら→http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/31228-d1e1.html

 東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (25)

  ここは読みづらいので、テキストを抜き出しておこう


 

首都整備局長(山田正男君) 

 

(略)

 最後に、三原橋─日比谷間の地下の自動車道路計画の問題について、経緯のご質問があったわけでございます。実はこの問題につきましては、都心部の道路交通を解決いたしますために、地下鉄の二号線を建設いたします際に同時に地下の一階に自動車道路を作る必要がある、こういう立案をいたしまして、数年来営団当局と協議を進めて参ったわけでございますが、営団当局がどうしても同意をいたしませんために、この計画については、建設・運輸両省並びに首都圏整備委員会が問題を取り上げまして、この三者の間で都の案について検討が行なわれたのでございます。そうしてその三者の間で技術委員会を作っていろいろ検討いたしたわけでございますが、東京都の主張にもかかわりませず地下の一階に道路を作ることを否定いたしまして、地下鉄のレベルと同じ地下の三階に自動車専用道路全作ることが適当であろう、こういう決定がされたわけでございます。その決定の理由は、地下の一階に道路を作る費用と地下の三階に作る費用とは、それほど費用の差がないということが主たる理由のようであったわけでございます。そこで、この決定を受けまして、都といたしましては、はたしてその決定の通りであろうかどうか、費用がその程度でできるかどうかということを検討して参ったのであります。特に地下鉄二号線の建設を急ぎますので、営団当局と鋭意協議を進めて参ったのでございます。当初十八億余で地下の三階に自動車道路ができるということであったのでございますが、いよいよ実際に協議してみますと、あるときは二十五億円といい、あるときは三十六億円といい、最近に至っては五十億円もかかるというような申し出があったわけであります。これでは都といたしましては自動車道路を作る投資効率、投資に対する効果が少ない、こういうことで建設省当局に、一応そういう決定がされたけれども投資効率が少ないんだ、さてどうするか、こういう協議をいたしておる際に、たまたま河野建設大臣からのご注意がありました。そういう決定がかって行なわれたけれども、実際にそういう投資効率が低いならば、最初想定されたよりも工事費が非常に高いならば、もっと再検討するべきである、こういうご発言かあった次第であります。現在建設運輸両省及び首都圏整備委員会と東京都の間で検討いたしておる途中でございますが、おそらく三階に地下自動車道路を作ることは、投資効率の点からいって必ずしも採用すべき性質のものでないと考えております。しかし、この都心部の道路交通能力をこのままで放置しておくことは適当でないのでございまして、これにかわる対策を目下関係者間で協議中でございます。いずれ遠からず決定を見るものと存ずるのでございます。

 

1962.09.29 : 昭和37年第3回定例会(第14号) 

 

 

 東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (26)

  

 東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (27)

  

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (28)  

  

 東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (29)

  

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (30)  

  

 東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (31)

  

 東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (32)

  

 東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (33)

 

 

 東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (34)

  

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (35)  

  

 東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (36)

  

 東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (37)

  

 東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (38)

  

東京オリンピックに向けて銀座の地下で(39)  

  

 東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (40)

  

 東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (41)

  

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (42)  

  

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (43)  

  

 東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (44)

  

 東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (45)

  

 東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (46)

  

 東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (47)

  

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (48)  

  

 東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (49)

  パワポで作ったからといって、どこかで講演するつもりもないのだが、まあお試しということで。

 HTMLをいじるよりも、ベタベタパワポで切り貼りしちゃった方が楽ちんなのだが、SEOとしては弱いやね。 

  

 ---関係ブログ---

 アド街・日比谷特集記念/日比谷地下道はなぜ一方通行なのか?

 http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2018/06/post-f494.html

三原橋地下街に係る疑獄について(その1)

 http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/cat23477491/index.html

 三原橋地下街に係る疑獄について(その2)

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-554e.html 

三原橋地下街と銀座シネパトス さようなら 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-60c3.html 

三原橋地下街 銀座シネパトス最終日 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/post-f962.html 

日経新聞 「東京ふしぎ探検隊」河尻定氏記事「東銀座に地下広場出現 現役最古の地下街は閉鎖へ」に係る疑義 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/post-0de1.html 

 三原橋地下街や観光センターの経営者の新東京観光株式会社についてのメモ

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/post-8445.html

三原橋地下街や橋上のビルに係る経緯の公式見解(都議会議事録)にたどり着いた 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post-4930.html 

三原橋地下街等をめぐる経緯を年表にしてみた 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post-2781.html 

三原橋地下街の当初占用許可に係る東京都庁議公文書 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/post-3f36.html 

昭和31年2月28日東京都庁議「三原橋」問題の処理について→関係局間においてなお検討すること 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/31228-d1e1.html 

 三原橋(6月15日時点)

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/615-23dc.html 

三原橋の建物は、地元から撤去せよとの訴訟を起こされていたというお話 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-81bb.html 

東京五輪関連:地下鉄と競合して未成となった銀座の地下自動車専用道路にして首都高速計画線の名残 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/03/--4890.html 

三原橋ビル(三原橋観光館)解体中(その1) 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/06/post-7702.html 

 三原橋地下街 カレーコーナー三原最終営業日

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/06/post-8f73.html 

三原橋ビル(三原橋観光館)解体中(その2) 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/07/post-30b7.html 

三原橋ビル(三原橋観光館)解体中(その3) 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-7114.html 

 「安井都政の七不思議」と山田正男と三原橋地下街

 http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-740c.html

斉藤 理 山口県立大学准教授の「川がない橋が秘めた東京の履歴」を読んで 

 http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-924f.html

| | | コメント (1)

2018年6月 9日 (土)

アド街・日比谷特集記念/日比谷地下道はなぜ一方通行なのか?

 今日は、アド街ック天国で日比谷特集らしいので、記念して、日比谷ネタをUPしてみる。

日比谷地下道

 しつこいけど、また日比谷地下道の話。

 今回は「なぜ、日比谷地下道は片道だけになったのか?」ということを探ってみる。

 

 私は、かつて「もともと日比谷地下道は三原橋まで伸びる計画であったが東京オリンピックを前に営団地下鉄日比谷線と計画が競合し、結果日比谷線が勝って日比谷地下道が負け、地下3階を日比谷地下道が走ることとなった。そしてそのバーターで地下鉄三田線は営団地下鉄から都営地下鉄へ経営権が譲渡された。」という趣旨の記事をUPしてきた。

三原橋地下街を潰すはずだった銀座地下道計画

 

〇東京五輪関連:地下鉄と競合して未成となった銀座の地下自動車専用道路にして首都高速計画線の名残

 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/03/--4890.html

 

〇東銀座「幻の地下街」を作った経緯が(ほぼ)分かった

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/02/post-3bf6.html

 

〇日比谷未成地下道とのバーターで地下鉄三田線が営団から東京都へ譲渡されていた

 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-b86d.html

三原橋地下街と地下鉄日比谷線と有楽町ガード下地下道の関係

 ところが、1962年の計画(上記上段)でも日比谷地下道は地下3階を経由して三原橋交差点までは行っている。

 現状は三原橋どころか銀座四丁目交差点までも行っていない。何故なのか?

 これがずっと分からなかったのだが、東京都議会の議事録について過去分が遡って公開されていることに気づいた。で、検索すると答え(らしきもの)が書いてあったのである。

 


◯三十二番(田村徳次君)

(略)

 そこで私は首都整備局長にお聞きするんですが、私の聞いたことがもしあやまちであれば幸いでありますが、もしあやまちでなければ、これから私が申し上げる問題については、議員の皆さんも大いにご検討願いたいと考えるのであります。というのは、今日その地下鉄の主力的立場に立っているものは、何といっても帝都高速度交通営団であると思います。この交通営団の構想をお聞きいたしまずと、現在地下鉄の第二号線の建設に努力中でありまして、すでに南千住から仲御徒町までは開通済みであり来年はその二号線は北千住から人形町まで開通するという予定のもとに今日努力されておる。これが人形町から右折して築地に参りまして、築地から右折して銀座、日比谷を通って、桜田門から左折いたしまして中目黒に達する。いわゆる第二号線であります。そこで今三原橋の下あたりが、これもがっての都政のしわよせが来まして、橋下の住民の反対に会いまして、あそこでもそもそしているようでありますが、いずれにいたしましても、あの線を通ってくることは間違いありません。そこでその構想を承りますと、まず築地からこっちへ来たところにいわゆる東銀座の停車場がある。この二号線はまず三号線の下をくぐる。いわゆる渋谷、浅草間のあの銀座線の下をもぐる。そしてその次は四号線、いわゆる池袋、新宿の線の下をくぐることになっております。従ってそこにできるところの停車場の構想は、いわゆる数寄屋橋と銀座四丁目の間のところに駅をこしらえる。そして地下三際に乗降場ができるということです。その連絡のためには、まず幅員二十メートルの、いわゆる数寄屋橋と銀座の間に停留所をこしらえる。そしてそれが地下一階においてエスカレーターその他によって四号線並びに三号線に通ずるように連絡口ができるというのが、今日すでに決定したところの高速度交通営団の構想なんです。ところが私の不審に思うところは、今申し上げましだように、高速度交通営団、交通局を問わず、これを努力して、都の執行者は一日も早く完成すべきにもかかわらず、これに対して妨害を加えるような地下自動車道路の計画案というものがあるそうであります。ごのことを私は質間したいのでありますが、それは三原橋の西隅から警視庁前に至る一・三キロばかりのどころに自動車専用の地下道としてこれを通そう。先ほど私が申し上げましたように、東銀座の新しい銀座駅は一般のも開放されて地下道として使われ、将来は日比谷の交差点附近までもこれを延ばしていこうということであって、信号をたよって通るところの路上交通に対する援助にもなり、あるいは混雑するところの地上へ出てまたは連絡するということのない、いわゆる三号、四号線に連絡されるといういろいろの効果を持っているわけでございますが。これに対しても首都整備局を中心としてお考えになっている自動車道路は、その地下一階のいわゆる連絡囗へ持っていって自動車を桜田門から三原楊まで通そう。そうなってきますと、この高速度交通営団の考えている地下鉄網についての一頓挫を来たすということであって、このことについては非常に悲しむべき考えである。というのは、自動車は二人か三人とはいいませんけれども少なくとも十人も二十人も乗っては乗合以外にはありません。この間もある婦人の会合に行きましたところが、何で都心にそう自動車を入れなげればならないのだろうか、日比谷なら日比谷でおろして銀繿は歩てもらうようにしたらどうかというようなご意見のあつた婦人団もございますが、そこを私はお間きしたいのです。もしそういう計画があるとするならば、今喫緊の声のかかっている地下鉄完成に対する阻害をなすのは東京都みずからである。私はこういう考えを持つのでありまして、少数の人間が乗る自動車をこういうことまでして都心に入れなければならないかどうか。その理論的根拠は一体どうなんだ。これをわれわれが納得のできるようなと説明があるならしていただきたい、もし私の間いたことが誤りであり、訂正されておるのであったならば、その訂正のことについてのお考えを間かしていただきたい。

 それからこれと柤伴いまして、当然自動車地下道路をこしらえるということになりますと、排気ガスその他に対する抜け穴をこしらえなければならぬから、あの舗道の両側においては柱が立つか煙突が立つか知りませんが、排気口もできるでありましよう。それと同時に都電の徹去ということも当然副産物的に出てくる。というのは、自動車がもぐったり上がったりするというようなことから、この出入口をこしらえるということになりますと、都電は当然あそこは撤去になる。そうなってきますと、二、三人しか乗らない自動車を通すために、高速度交通営団に対する影響と、もう一つ都電そのものの大衆輸送機間を中断するということになる。交通機間というものは起点があって終点がある。これが起点から終点まで乗って初めて交通を意味するのであって、これを中断するならば、人間の胴中から首を切ったと同じ結果になるのだが、こういうことまでもして二人や三人の乗用自動車を通さなければならない、自動車道を保謾しなければならないという根拠がいずれにあるかをご説明願いたい。

 

(略)

首都整備局長(山田正男君) ただいまの地下鉄の二号線の問題につきましてご説明を申し上げます。実は首都整備局が営団の行なっております地下鉄工事を妨害でもしているかのごとき風説が流布されておることは私も承知いたしております。私実はこういうふうに考えておるのでございまして、地下鉄を含めまして都市高速鉄道というものは単なる法律上の地方鉄道であってはならない。なぜかと申しますと、これは都市の交通を構成いたします一つの施設でございますから、都市計画の総合設計のもとにこの都市高速鉄道というものは組み立てられ、また事業が行なわるべきものであろう、こういうふうに考えておるのでございます。実はご承知のように都心部を中心といたします道路交通事情、あるいは都市鉄道の事情が年々悪化いたしておるのでございまして、都心部の道路交通及び都市鉄道の打開につきまして、数年来都市計画審議会の中には道路の問題の特別委員会、あるいは地下鉄道の問題に関する特別委員会、こういうような機関を設けまして、いろいろ対策を講じて参ったのでございます。そこでそういう立場から、実は三年ほど前から今後都心部の道路の地下を都市高速鉄道に利用する場合には、将来道路が、たとえば首都高速道路のように全部高架の工事をする場合がある、二重の道路を作る場合がある、あるいは主要交差点を高架あるいは堀割式で立体交差の工事をする場合がある。そういうことになりますと、これは道路本来の使用の目的でありますから、道路を利用して作るこの地下鉄道の地面下の深さにつきましては、工事の実施設計をする以前に当局と十分協議をされたい、こういう旨を通牒いたしてあるのでございます。幸い都営の地下鉄道におきましては交通局と私どもと十分協議を行ないまして、昭和通りの道路交道需要を補足する意味におきまして、都営の地下鉄道の工事が実施される際に、同時に主要交差点の立体交差の工事を行ない、しかもその間に地下の自動車駐車場を設けるという工事が合併施行されまして、これによりまして昭和通りといたしましては未来永劫に掘り返しをする必要のない施設ができ上がる、こういうふうに考えておるのであります。そういう意味におきまして、地下鉄の二号線の三原橋から日比谷に至る区間、これにつきましても三年前から鋭意営団当局と事務的な協議を進めて参っだのでございますが、中途にいたしましてどういうものか協議に応じなくなりました。従いましてその後一年くらい協議がとだえておったのでございますが、これに対しまして地下鉄道というものはやはり都市計画の施設でございまして、私どもといたしましても、妨害どころか一刻も早く地下鉄道が完成することを望んでおるのでございますから、実は最近もその両者の協議を復活いたしまして、鋭意協議を進めている、こういうのが実情でございます。

 そこでどういう協議を進めておるかと申しますと、実は桜田門から三原橋を経まして勝閧橋に至る道路、これは実は都心部門の主要幹線街路の将来の交通需要を推定いたしまして、現在の道路施設では当然不足な道路の一つでございます。また都心部におきまして将来の交通需要に対しまして何とか改良をしなければいけない、こういう道路が先ほど申し上げました昭和通り、これは現在工事をいたしておりますから解決いたしますが、なお虎ノ門から汐留に至る区間、あるいは田村町から日比谷を経まして大手町に至る区間、あるいは勝閧橋を渡る道路の問題、こういう問題がございます。そこでこの三原橋から桜田門に至る区間につきましては、いろいろ都市計画寨議会内においても議論をいたしました結果、高架の自動車専用道路をかぶせるか、あるいは地下の道路を作るか、そのいずれかしかない、こういうことでございます。しかしこの区間に高架の道路を作りますと、国有鉄道とか既存の高速道路がございまして、地上三階以上を通ることになる。これは都市美上耐えられない。従ってこれは何とかして地下の自動車道にする必要がある、こういうことでございます。たまたま地下鉄の銀座線あるいは新宿線、これは地下の二階を通っておりまして、地下の一階に駅のコンコースがございます。そこで地下の自動車道といたしましては、この地下一階のコンコースを横断いたしますが、これ以上に方法はないから地下一階に自動車道を作ろう。そのかわり地下二階にコンコースを作ろう。従いまして地下鉄道のみを建設いたしますなぢぱ、地下一階にできるべかりしコンコースを地下二階に移しまして、そのかわり地下一階を自動車道にしよう、こういう考え方をいたしておるのでございます。特にこの銀座地区を中心にいたします都心部につきましては、ご承知のような道路交通事情でございますから、将来、ただいま申し上げましたような道路交通能力を補足する措置を講じましても、現在のような建築基準法のもとに工事いたしますと、九階建のビルディングが連続いたすわけでございます。これでは将来の都市施設とそれに対する需要がますますアンバランスするわけでございます。全般的にただいま申し上げましたような道路計画を含めまして市街地再開発を行なう。そこで再開発の結果できましたビルディングの地下室には大規模の自動車駐車場を設ける。ただいま申し上げましたような地下の自動車道路は、そのビルの駐車場に地下で直結をしてやる。そういたしますと、道路上に自動車が出ないで各ビルに相互に連絡できる。こういう考え方は、いわゆるディストリビューター、分配道路という思想でございまして、シカゴにおきましては自動車専用道路からおりた車を各地区に誘導いたしますために、このデベストリビューターという自動車専用道路、本来の高速道路よりも規格の低い道路を作りまして、そして平面道路の交通能力を補っておるというのが実情でございます。現に市街地再開発といたしましては、丸の内の赤れんが街の一帯は、すでに再開発中でございますが、この下には約二千六百台分の自動車駐車場を作る計画になっております。そういう際には、この地下の自動車道路ができますならば、地下においてこの駐車場と接続をする、こういうふうに考えております。他の場所におきましても市街地再開発計画の一環といたしまして、この自動車道路との連絡を考慮している、こういうような実情でございます。

 また換気の問題がございましたが、この換気は実は米国におきましてもこういう程度のディストリビューター式の地下自動車道略がございまして、きわめて簡易な、縋の方向の換気ではなくて横断式の換気装置によりまして簡単に換気ができる見込みを持っておるのでございます。もちろんこういう自動車遠路の建設は、直ちに賂面電車の撤去ということとは関連なく研究をいたしております。もっとも工事をいたします際には、この地下の自動車道路の工事をいたしますならば、土かぶりがゼロになります。そういう工事をいたします際には、やはり路面電車の運行を一時中止せざるを得ないという場合が考えられます。しかし地下の一階が自動車道路でございますが、地下の二階がコンコース、その一階と二階の間にさらに約二メートル余の空間がございまして、ここを共同溝にする。そこで埋設物は全部この共同溝に入れることにいたしたい。そういたしますと土かぶりがゼロでございますから、通常やっておりますように木の矢板をとりまして、そこへまた土を持ってきまして、埋設物をそっと納めまして、また自動車で自然転圧を長々とやりまして、簡易舗装の仮舗装をする、二年ほどたってからまた本舗装の工事をやる、こういうだらだらした工事でなくて、地下鉄の工事と同時に本舗装が完成する。将来永久に掘り返しがない。なおかつあわせまして共同溝ができる、こういう利便があるわけでございます。それにいたしましても、地下鉄の駅の現在のコンコースをちょん切るという問題がございます。また路面電車の運行を一時中止するということも問題である。あるいは施工方法の問題等々、いろいろの問題がございますので、目下関係各省を含めまして、交通営団当局と鋭意協議中でございます。この自動車道路が建設できるかいなかというその判定は、十月中にはいたしたい。いずれかを決定いたしまして、いやしくも地下鉄の工事を妨害するというような批判を受けることのないように努めたいと存じておるのであります。以上であります。

 

1961.09.29 : 昭和36年第3回定例会(第16号) 

 

 ここまでは、日比谷地下道の期待される効果について述べられている。比較案として高架で国鉄を跨ぐ案も考えられたが、「これは都市美上耐えられない」として地下道とされた。

 山田正男とオリンピック関係の道路といえば、首都高と日本橋との関係のように、山田正男は悪者になってきているのだが、実際には都市美を考慮して事業を進めているのである。

 

 あえて悪いことを書くと「銀座の都市美は考慮するけど、日本橋の都市美は考慮しなかった」ということなのかしらん?

 まあ、実際には日本橋については橋の下を日本橋川を干拓して首都高を通すのが本来の構想だったので「日本橋の上空」は守られるはずだったのだが。

 

 閑話休題。上記は東京都と営団地下鉄が協議中ということだったが、その後の協議結果が1年後の都議会で報告されている。

 


◯五十一番(竜年光君)

(略)

 なおこの都市計画が一たんきまっても、今までときどき耳にしていることは、いろんな抵抗や圧力があって、これが変更される。実情に応じて変更されることは一向差しつかえないともいえますけれども、ある部分においては変更され、ある部分では三年も五年も十年もがまんをしてきて、みすみすほかの方では有利に変更されているということが、やはり起きて参りますと、正直者がばかを見るというようなことで、都民はこういうことに対しては協力できなくなる。最近でも、二、三そういう事例があったそうでございますが、いずれにしてもこの都市計画と、実施という問題については、計画は計画だけだ、しかもそれが首都整備局の一部の人が知っているというだけの計画であっては、決してこれは都市計画が満足にいくはずがない。私が聞くところによりますと、区役所でもわからない。都庁の中でもだれに聞いてもわからない。ある部分のところにいかなければわからぬ。ところが外国の都市計画は三年でも五年でも一つの問題についてこじきに至るまでそれをよく周知させて、いざきまったら直ちにそこで実施をする。これが都市計画のいき方らしい。そこへいくと全然今の東京都は逆のことをやっているわけでございます。でははたして今かかえておる都市計画が実施できる計画か、今の都市計画をほんとうに実際に予算面から検討して実施するとするならば、一体何千億、何兆かかるかということをこの際私はできるならば発表してもらいたいと思うのです。できない計画ならばこの際はっきりどこに重点を置くかというふうに定めて、抜本的にこれを重点的にやる所だけの計画にしてもらいたい。そうしなければ、今の都市計画というものは、単なるこれは都民を泣かせるだけの計画に終わるということを私は申し上げたい。なおこれに関連してでございますが、最近新聞を通じて知ったのですが、三原橋と日比谷間の地下自動車道について、九月に河野建設大臣が現地を視察したときに、一体この都心部で四十尺も六十尺も掘り下げて地下鉄の下にしかも自動車道を通す、トラックも入らないような自動車道を通して、四十億も幾らもかける。そんなばかな話があるか、世界に類例をみない、おれの在職中は絶対そういう計画はやらせないということをいわれたそうでございますが、私は正確にそのことを聞いでおりませんので、そのときにいられた当面のおそらく首都整備局長かどなたかはっきりお聞きになったと思いますが、この際はっきり私どもの前でどういうことであったのかということを説明をしてもらいたい、私は要望いたします。東京都の都市計画というものは、これほどずさんなもので、いいかげんなものであるということであったのか、あるいは大臣のいうことが間違いであったのか、いずれにしてもはっきりしてもらいたいと思います。都市計画についてはいろいろございますけれども、かいつまんでその点だけにしておきます。

 

(略)

 

 

首都整備局長(山田正男君) 

 

(略)

 最後に、三原橋─日比谷間の地下の自動車道路計画の問題について、経緯のご質問があったわけでございます。実はこの問題につきましては、都心部の道路交通を解決いたしますために、地下鉄の二号線を建設いたします際に同時に地下の一階に自動車道路を作る必要がある、こういう立案をいたしまして、数年来営団当局と協議を進めて参ったわけでございますが、営団当局がどうしても同意をいたしませんために、この計画については、建設・運輸両省並びに首都圏整備委員会が問題を取り上げまして、この三者の間で都の案について検討が行なわれたのでございます。そうしてその三者の間で技術委員会を作っていろいろ検討いたしたわけでございますが、東京都の主張にもかかわりませず地下の一階に道路を作ることを否定いたしまして、地下鉄のレベルと同じ地下の三階に自動車専用道路全作ることが適当であろう、こういう決定がされたわけでございます。その決定の理由は、地下の一階に道路を作る費用と地下の三階に作る費用とは、それほど費用の差がないということが主たる理由のようであったわけでございます。そこで、この決定を受けまして、都といたしましては、はたしてその決定の通りであろうかどうか、費用がその程度でできるかどうかということを検討して参ったのであります。特に地下鉄二号線の建設を急ぎますので、営団当局と鋭意協議を進めて参ったのでございます。当初十八億余で地下の三階に自動車道路ができるということであったのでございますが、いよいよ実際に協議してみますと、あるときは二十五億円といい、あるときは三十六億円といい、最近に至っては五十億円もかかるというような申し出があったわけであります。これでは都といたしましては自動車道路を作る投資効率、投資に対する効果が少ない、こういうことで建設省当局に、一応そういう決定がされたけれども投資効率が少ないんだ、さてどうするか、こういう協議をいたしておる際に、たまたま河野建設大臣からのご注意がありました。そういう決定がかって行なわれたけれども、実際にそういう投資効率が低いならば、最初想定されたよりも工事費が非常に高いならば、もっと再検討するべきである、こういうご発言かあった次第であります。現在建設運輸両省及び首都圏整備委員会と東京都の間で検討いたしておる途中でございますが、おそらく三階に地下自動車道路を作ることは、投資効率の点からいって必ずしも採用すべき性質のものでないと考えております。しかし、この都心部の道路交通能力をこのままで放置しておくことは適当でないのでございまして、これにかわる対策を目下関係者間で協議中でございます。いずれ遠からず決定を見るものと存ずるのでございます。

 

1962.09.29 : 昭和37年第3回定例会(第14号) 

 

 東京都と営団地下鉄で、日比谷線の計画はそのまま、日比谷地下道は地下3階に決定したが、地下道の予算が想定よりもふくらんだため、事業を見直しせざるを得なくなり、地下3階案は放棄したということか。

 このあたり、山田正男氏の別の著書(対談)でも経緯が出てくる。

 


総反対くった都心の自動車専用トンネル

片岡(片岡護・読売新聞記者) こうして安井時代を経て、首都高速道路公団ができたのは昭和三十四年ですね。この首都高速のプランをつくったときに、私、さっき言った十年後の東京という取材であなたにいろいろ教えていただいたんですが、ほぼそうなっていますね。

山田 そうですな。

片岡 十年後にできなかったこともありますけどね。

山田 物価のズレぐらい遅れただけですね。全然できなかったというのは殆どないが、一つだけ、計画すら成立しなかったのがある。それは都心の東西方向の道路交通解決の最後の決め手と して桜田門と三原橋間に地下の自動車専用のトンネルをつくることです。地下鉄日比谷線はその
下を通してね。東京オリンピック大会の前にその計画を決めようと思ったところが、地下鉄営団の総反対をくった。総裁の鈴木清秀さん以下、副総裁の牛島辰弥さん、技師長の水谷当起さんとか、政官界の運輸族を総動員して反撃を受けましてね。それに対抗する都庁側は私一人だから、 四面楚歌、孤軍奮闘ですから、とても勝負になりません。向こうは大先輩が揃っている、カネはいくらでもある、国会のほうにも手を回す。こちらは孤軍奮闘で、徒手空拳だった

片岡 反対の理由はなんだったんですか。

 

山田 地下鉄銀座線の銀座駅のコンコースを自動車道でチョンぎることになるし、地下鉄日比谷線が下になるので、やりにくいから反対だというんだ。それで相互の友人が見るに見かねて仲裁に入りましてね。築地の某所で、仲裁人が入って会談をやったんですが、激論になりまして ね、私が机叩いて帰りかけたら、「まあ、まあ」と引き止められたりして。それで結局、営団がやる地下鉄の二号線がオリンピックに間に合わなくなるとかいいましてね。間に合わなくたってオリンピックに支障はないと私は思っていたけれども、連中にしてみれば、オリンピックに名をかりて造りたいもんだから。オリンピック関連事業と称するものの中に入ってるんですよ。きのうも新聞見ると、名古屋がオリンピックを招致するといって関連事業としていろんなものをたくさん盛りこんだ誇大広告をやっている。ああいう名を借りた便乗計画を流行させたハシリですね。それで結局、政治力に負けたといっては何ですが、私もあきらめて、いま数寄屋橋から日比谷公園までの片道だけの地下自動車道があるでしょう、あれだけで手を打ったんです。この計画だけは負けましたね。数に負けた。孤軍奮闘なんだもの、私は。もう少しこっちにもついてくれるものがいてもよさそうなもんだけど、ダメなんだなあ。

 

「明日は今日より豊かか 都市よどこへ行く」政策時報社・刊 山田正男・著 236~237頁

 

 東京都と営団地下鉄との協議は山田氏の孤軍奮闘で東京都が協議負けし、「数寄屋橋から日比谷公園までの片道だけの地下自動車道があるでしょう、あれだけで手を打ったんです」ということになった。

 

 なお、これによって日比谷地下道をぶつけることで力づくで撤去しようとしていた三原橋地下街が生き残ることになってしまった。

 

 山田は、後に自著において

 

 しかし今でも残念なのは、銀座界隈の最後の道路交通対策として計画した,祝田橋方面と三原橋方面とを結ぶ地下自動車道計画を地下鉄2号線(※引用者注:日比谷線のこと)の工事と同時に施工し、三原橋を撤去することによりついでに七不思議の一つを解消しようとしたが,オリンピック東京大会をひかえて工期の関係等もあって断念せざるを得なくなり、遂に中途半端な一方通行の地下道に終わってしまい,七不思議の一つも今だにその醜態をさらしていることである。

時の流れ・都市の流れ」都市研究所刊、山田正男著 25頁

 

 

と記し、「安井都政の七不思議」の一つである三原橋問題を地下道建設とあわせて解決しようとしたが達成できなかったことが分かる。

 

 これによって三原橋地下街は2014年まで生きながらえることとなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年4月 8日 (土)

三原橋地下街絶賛解体中

 三原橋のことを書くのは久しぶりだ。見た目があまり動いていないから。ただし、現場では新たな工事が発注されて確実に動いているのでご紹介したい。

三原橋地下街解体中 (1)

 いつもの某老舗百貨店からの写真。南側(画面では右側)に現場事務所らしきものが建ち上がっている。

三原橋地下街解体中 (2)

 三原橋地下街へ降りる階段は健在のようだが、建物が立っていたあたりは、鉄板に置き換えられたかな?

三原橋地下街解体中 (4)

三原橋地下街解体中 (8)

三原橋地下街解体中 (3)

 工期は、平成32年2月23日までとなっている。東京オリンピック・パラリンピックまでには間に合わせるということか。

 「道路整備工事」なのに、発注者は「東京地下鉄株式会社(東京メトロ)」となっている。以前は、東京都建設局が関連工事を発注していたのに。

三原橋地下街解体中 (7)

 工事件名は、「三原橋周辺の再整備計画に伴う三原橋撤去及び地下歩道改良土木工事」である。

 銀座街づくり会議NEWS LETTER97http://www.ginza-machidukuri.jp/activity/pdf/NL97.pdfによると、

(1)太鼓状の橋を撤去し、晴海通りを平らにする。

(2)地下街空間はコンクリートで埋め、空間をなくす。

(3)銀座駅⇔東銀座駅間の地下歩道の階段・2本のうち1本をスロープにし、バリアフリー化を行う

ということである。

 この「銀座駅⇔東銀座駅間のバリアフリー化」とは

IMG_4509

 この階段を撤去するということか。

日比谷線-三原橋付近縦断図

 営団地下鉄の日比谷線建設史https://metroarchive.jp/hibiya.htmlによると、この付近は地下鉄の躯体と一体化しているため、道路管理者である東京都から東京メトロに工事を委託した方が進めやすいということなのだろうか。

 メトロ開発株式会社のウェブサイトhttp://www.metro-dev.co.jp/history.htmlによると、「主な業務実績」に

「平成27年 東京都建設局:三原橋周辺再整備計画に伴う三原橋撤去及び地下歩道改良土木工事価格調査業務」とある。設計の段階から東京都はメトロの子会社に業務を発注していたのだな。

三原橋地下街解体中 (6)

 3月現在の作業は「三原橋上部工下受け工」ということなので、既存の三原橋の基礎を新しいものに取り換えているということか。

三原橋地下街解体中 (5)

 「コンクリート造構造物解体中」である。

三原橋地下街解体中 (8)

三原橋地下街解体中 (13)

 南側には、工事請負人の鉄建建設の旗がひらめいている。

三原橋地下街解体中 (11)

三原橋地下街解体中 (9)

三原橋地下街解体中 (10)

 東側は牛だったが、西側は猫と犬だ。

三原橋地下街解体中 (12)

 銀座街づくり会議NEWS LETTERは、100号でも、三原橋の再開発について触れているのであわせてご覧いただきたい。http://www.ginza-machidukuri.jp/activity/pdf/NL100.pdf

-----------------------------------------------------

■ 過去の三原橋関係記事

三原橋地下街に係る疑獄について(その1)http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-d614.html

三原橋地下街に係る疑獄について(その2)http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-554e.html

三原橋地下街と銀座シネパトス さようならhttp://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-60c3.html

三原橋地下街 銀座シネパトス最終日http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/post-f962.html

日経新聞 「東京ふしぎ探検隊」河尻定氏記事「東銀座に地下広場出現 現役最古の地下街は閉鎖へ」に係る疑義http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/post-0de1.html

三原橋地下街や観光センターの経営者の新東京観光株式会社についてのメモhttp://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/post-8445.html

三原橋地下街や橋上のビルに係る経緯の公式見解(都議会議事録)にたどり着いたhttp://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post-4930.html

三原橋地下街等をめぐる経緯を年表にしてみたhttp://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post-2781.html

三原橋地下街の当初占用許可に係る東京都庁議公文書http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/post-3f36.html

昭和31年2月28日東京都庁議「三原橋」問題の処理について→関係局間においてなお検討することhttp://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/31228-d1e1.html

三原橋(6月15日時点)http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/615-23dc.html

三原橋の建物は、地元から撤去せよとの訴訟を起こされていたというお話http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-81bb.html

「銀座地下街ラジオくん 声のアーカイブ展」~三原橋地下街の一件から、これからの街づくりを考える~http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/03/post-1c0a.html

東京五輪関連:地下鉄と競合して未成となった銀座の地下自動車専用道路にして首都高速計画線の名残http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/03/--4890.html

三原橋ビル(三原橋観光館)解体中(その1)http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/06/post-7702.html

三原橋地下街 カレーコーナー三原最終営業日http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/06/post-8f73.html

三原橋の解体・撤去は、平成25年度内に決定済。コンサルにも発注済。http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/06/25-b992.html

三原橋ビル(三原橋観光館)解体中(その2)http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/07/post-30b7.html

三原橋ビル(三原橋観光館)解体中(その3)http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-7114.html

三原橋の既設橋は撤去することで詳細設計を発注済http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-27a4.html

「安井都政の七不思議」と山田正男と三原橋地下街http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-740c.html

斉藤 理 山口県立大学准教授の「川がない橋が秘めた東京の履歴」を読んでhttp://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-924f.html

三原橋と「銀座の幻の地下街」に係る最近の東京都の動きhttp://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/10/post-c5c2.html

東銀座「幻の地下街」を作った経緯が(ほぼ)分かったhttp://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/02/post-3bf6.html

工学部の学者「石川栄耀は有名建築家を呼び込んだ!」商業実務者「都庁が呼んだ有名建築家の建物は使えねえ」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/02/post-fe0f.html

三原橋ビル(三原橋観光館)解体済(その4)http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/02/post-60e0.html

1962年の三原橋http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/05/1962-dad9.html

「安井都政の七不思議」って結局どの七つなのか調べてみた。http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/06/post-c0c2.html

日比谷未成地下道とのバーターで地下鉄三田線が営団から東京都へ譲渡されていたhttp://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-b86d.html

東銀座 幻の地下街について東京都の公式コメント(議会答弁)があった。http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-8d34.html

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年10月31日 (月)

東銀座 幻の地下街について東京都の公式コメント(議会答弁)があった。

 三原橋ネタを見つけるとつい飛びついてしまう革洋同である。

 過去にも、「東銀座「幻の地下街」を作った経緯が(ほぼ)分かった」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/02/post-3bf6.htmlという記事を書いてその太宗を明らかにしたところであるが、東京都議会の会議録に、東銀座幻の地下街に係る東京都の答弁が載っていたことに今更気づいた。

http://asp.db-search.com/tokyo/

東銀座幻の地下街

(※「日比谷線建設史」掲載図面に加筆等したもの)

1969.03.29 : 昭和44年第1回定例会(第7号)

◯議長(大日向蔦次君) 休憩前に引き続き会議を開きます。

 まず、議事部長をして諸般の報告をいたさせます。

   〔星議事部長朗読〕

 一、文書質問に対する答弁書の送付について

(中略)

     ─────────────

四四財主議発第一一六号

昭和四十四年三月二十八日

        東京都知事  美濃部亮吉

 東京都議会議長 大日向 蔦次殿

   文書質問に対する答弁書の送付について

 昭和四十四年第一回東京都議会定例会における左記議員の文書質問に対する答弁書を別紙のとおり送付します。

       記

   加藤 清政議員

   金子 伝吉議員

   青木幸太郎議員

   的場  茂議員

   角田 太郎議員

   山口 虎夫議員

     ─────────────

(中略)

  文 書 質 問 趣 意 書

        提出者  青 木 幸太郎

質 問 事 項

 三原橋、八重洲駐車場、および箱崎インターチェンジについて

 私は中央区選出の議員として、中央区の問題点について質問をいたします。

(中略)

 第二点として、三原橋の両側建物について質問いたします。

 ご存じのように、この建物は都政七不思議の一つとして、都民からひんしゅくをかったものであります。昭和二十七年、この建物の建築途上において銀座一帯の町会、中央区議会を中心として、保守都政に対する批判が集中しました。しかし、都建設局、ならびに東京都観光協会は、世評をよそに建築を強行し、現在にいたったものです。

 都がこの建築を許可することによって、付近の住民は、当初緑地帯として残すと約束してあった土地に建物を建てたことを怒り、一部の人々は都を相手どり損害賠償の訴訟をおこしました。そのため、都は、中央区に管理を移した区有財産である公衆便所と約十坪の土地を蔡明裕に与え、かわりに一二坪以上の公衆便所をつくらせる約束をかわしました。しかしながらその約束はいまだに果たされておりません。

 三原橋の建物は、昭和二十七年から昭和三十三年までの使用許可をしたもので、また、許可の条件として、他に反対がある場合は、いつでも立ち退くという約束のもとに、都が許可したものであります。当然、地元から強い反対があったので、約束に従えば撤去しなければならないはずであるにもかかわらず、いすわりをつづけ、現存しています。その上、建物を撤去するため、一億三千万のお金をかけて昭和四十年三月三原橋の地下街をつくったが、橋上の人々を地下に収容することができないで、地下街を今なお空き家にしていることは納得ができません。明快なる措置について、ご答弁願いたい。なおいやがる中央区から公衆便所を取り上げたが、十年間も、今なお、使用できないで区民に迷惑をかけていることについて、どのような措置をとろうとしているのかを、お答え願いたい。

(中略)

昭和四十四年第一回都議会定例会

 青木幸太郎議員の文書質問に対する答弁書

(中略)

質 問 事 項

 二、三原橋両側建物について

回   答

  三原橋両側建物については、ご指摘のとおり、地元住民の反対があり、昭和三十一年建物撤去に関する請願が都議会に提出され、昭和三十三年九月に採択されたので、その趣旨にそうべく両側土地の使用者に対し、その明渡しを求めるとともに、代替移転先として地下鉄銀座駅のコンコースと線路部分との空間を利用する地下施設を建設することとし、昭和四十年三月その完成をみた。その間この施設の建設と並行して土地の使用者等と明渡し、移転に関し、しばしば折衝を重ねたが、遺憾ながら協議が整わないので、昭和四十三年六月以来法的措置を講ずべく、この土地が国有地であるところから国と協議中である。

  さらに、地下施設の利用については、移転折衝と不可分の関係にあるので、これまでその使用を差し控えていたが、とりあえず都の倉庫または会議室として利用する予定である。

  また、元三原橋橋台敷所在の公衆便所については、蔡明裕の都有地不法占拠により都が訴訟を提起し、昭和三十年十二月、裁判上の和解の結果、蔡が無償で原告の指示どおりにつくって引渡すことになっていたものである。

  しかしながら、蔡は、和解の条件である原有者たる中央区が指示したとおりの構造にせず、しかも地下において一部再び不法占拠をしている疑いがあり、昭和四十一年六月、都は建物収去および土地明渡し等の訴えを提起した。

  その後、蔡は、訴訟中にもかかわらず、上屋を撤去する行為にでたため、昭和四十二年三月、現状凍結のため仮処分を申請、直ちに執行されている。

  現在まで、三回の口頭弁論および延十九回の準備手続を行ない、いまなお訴訟係属中である。

 「法的措置を講ずべく、この土地が国有地であるところから国と協議中」と答弁しているが、13年後の1982(昭和57)年になっても「国とさっそく協議する」なんて言っているような状態であった。

東銀座幻の地下街に係る立ち退き交渉

(1982(昭和57)年4月15日付朝日新聞から引用)

---------------------------------------------------

 この投稿によると、鉄道ジャーナル誌には「地下鉄工事のための三原橋地下の映画館等の代替地」である旨記載されているようであるが、東京都の答弁はこの記事とはニュアンスが異なる。  都の答弁は、「地元から撤去を求められた橋の両側の建物の明け渡しを求めるための代替移転先」であって「地下鉄建設支障による代替地」とは言っていないのである。

 ちなみに、「元三原橋橋台敷所在の公衆便所については、蔡明裕の都有地不法占拠により都が訴訟を提起し、昭和三十年十二月、裁判上の和解の結果、蔡が無償で原告の指示どおりにつくって引渡すことになっていたもの」というのは、下記の新聞記事を読むと経緯がわかる。

三原橋公衆便所

(1966(昭和41)年4月20日付毎日新聞から引用)

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年10月31日 (土)

日比谷未成地下道とのバーターで地下鉄三田線が営団から東京都へ譲渡されていた

 日比谷のガード下を走る地下道を巡るあれこれについては、過去何回か記事にしてきたところである。

日比谷地下道

東京五輪関連:地下鉄と競合して未成となった銀座の地下自動車専用道路にして首都高速計画線の名残

東銀座「幻の地下街」を作った経緯が(ほぼ)分かった

 

 

 

ざっくりおさらいすると

・東京都が首都高速道路の当初計画を1959年に建てた際に、「皇居の南側において国会方面から銀座方面に通ずる路線の計画につき検討する」とされた。

・東京都が日比谷―三原橋間の地下自動車道計画を建てる。

三原橋地下街を潰すはずだった銀座地下道計画

「都市計画と東京都」都政調査会発行(1960)から引用

 

・他方、営団地下鉄は2号線(日比谷線)の建設を計画し、日比谷駅-東銀座駅で上記地下自動車道と競合する。

 

・東京都は、地下鉄の地下1階のコンコースに自動車道路を通し、地下鉄の既存のコンコースを地下2階に移設することを主張するが、営団地下鉄側はそれを拒否しこう着状態に。

・東京オリンピックに間に合うかどうか関係者間をやきもきさせ、国会でも議題となる。

・1962年に両者は地下自動車道は地下3階に日比谷線を抱き込む形で設置することで合意。(下図上段。「交通技術」1962年10月号(財団法人交通協力会刊)「営団地下鉄2号線銀座-日比谷間建設計画」から引用加筆。)

三原橋地下街と地下鉄日比谷線と有楽町ガード下地下道の関係

・1963年に東京都市計画地方審議会で地下自動車道は銀座から日比谷方面に至る一方通行だけが建設されることで本決まりとなり現在に至る。(上図下段。営団地下鉄「日比谷線建設史」から引用加筆。)

------------------------------------------------------

 

 ここからが今回の本番。今回言いたいのは、1962年の東京都と営団地下鉄での合意にあたって、その条件の一つとして「地下鉄5号線分岐線=現6号線=都営地下鉄三田線」について、営団から東京都に譲渡するとされたという記事を見つけたのである。

 昔、いしいひさいちのマンガ「がんばれタブチくん」で「田渕(当時阪神タイガース)が南海電鉄(当時南海ホークスの親会社)の電車〇両とトレード!」というギャグがあったが、これに負けじと「東京都の道路の建設位置と営団の地下鉄路線をトレード!」という夢の大型移籍が実現していたというわけだ。

 記事を見てみよう。

 

 


日比谷―三原橋/地下道本決まり 営団の3階案に

 遊歩道(1階)総合駅(2階)車道(3階)

 銀座を中心とした交通マヒを打開するため日比谷―三原橋間の地下に建設する自動車専用道路”三原橋地下道”(900メートル)の計画は都と帝都高速度交通営団が対立、3年ごし折衝していたが、12日、斎藤運輸、中村建設両相と東知事との話し合いでやっと原則的に意見が一致した。

 

 この日決まったのは、都側が主張し続けていた自動車道地下1階案をひっこめ、営団案の地下三階にする。かわりに営団が建設免許を持っている地下鉄五号分岐線(板橋―大手町間=皇居の東側を通って五反田方面へ延長)を都に譲渡するというもので、早急建設をのぞむ世論に押された政治的妥協案といえる。

 都は営団地下鉄二号線(北千住―中目黒)がこの区間の地下三階を走る予定なので、地下一階に自動車専用道路をつくり、交差して現在地下二階を走っている営団地下鉄銀座線、丸の内線とともに立体交差網を建設する計画をたてた。

 営団は、地下一階を遊歩道にして地下鉄各線の銀座駅を結び二階は「総合銀座駅」。自動車は地下三階の二号線わきに建設する案を主張していた。

 都の計画担当者の一部には自動車専用道路を地下三階にすると①換気が困難②工事をするさい商店の軒先に鉄矢板を打ち込むので震動が大きく、営業が不可能になるばかりか歩道は使えなくなる③工費が約二倍、二五、六億円かかる、などで難色を示す向きもあるが、結局はこの案に沿って施工することになるものとみられる。

 なお、将来の地下鉄網計画もほぼ了解点に達したので、近く都市交通審議会と都市計画地方審議会で正式に決める。

1962(昭和37)年1月13日付け毎日新聞から引用

 

 さて、地下鉄五号線分岐線を確認してみる。五号線は現在の東京メトロ東西線だが、当時は現在の都営三田線の一部が五号分岐線として位置づけられていた。

地下鉄五号線分岐線

「東京地下鉄道千代田線建設史」から引用

 

 また、「東京史学」東京十三路線物語「第6回 都営三田線~欲望と裏切りに翻弄された悲劇の路線」小久保せまき・著によると

 

 


 この区間の建設を熱望したのは東京都でした。元々このルートの地上には都電が走っており、自動車交通の増加は大きな問題になっていたからです。1960年に東京都は5号線分岐線免許の譲渡を申し入れ、それを踏まえて1962年の地下鉄計画改定では5号線の分岐線ではなく、(2)水色の点線のように独立した「6号線」として位置付けられることになります。

 

 

 とあり、毎日新聞の記事と時系列としては平仄があう。

 

 

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年8月27日 (木)

【TX開業10周年記念】20億の補償を要求し、常磐新線に法廷闘争を仕掛けた総武流山電鉄

 つくばエクスプレスが8月24日に開業10周年を迎えたそうである。

 ところで、以前、東海道新幹線建設にあたり近江鉄道がいわゆる「景観補償」を要求した件について記事を書いた。

 また、小川裕夫氏が「封印された鉄道史」において「滋賀県では新幹線と高宮駅-五個荘駅間で併走する近江鉄道が国鉄相手に訴訟を起こしている。」などというデタラメを書いていることも指摘した。

 しかし、つくばエクスプレス建設においては、本当に補償を要求して法廷闘争に持ち込んだ鉄道会社があったのである。

(3)鉄道事業者との協議

 該当鉄道事業者との交差協議については、当初から首都圏新都市鉄道株式会社が行っていたが、つくばエクスプレス(常磐新線)の開業後における当該鉄道事業の経営への影響は多大であるとの流山市が実施した調査結果等により協議は難航した。しかしながら、未解決者が少数になったこと、同じ鉄道事業者として収用対象者になること等を考慮すれば交渉を引き延ばすことは得策ではないとの判断から、平成15年1月に起工承諾を得ることができ、工事に着手した。その後、交差・経営支援策等の協議を千葉県・首都圏新鉄道が中心になり進めた結果、平成15年7月に土地賃貸借契約を締結し解決した。

 

「つくばエクスプレス(常磐新線)工事誌」鉄道建設・運輸施設整備支援機構鉄道建設本部東京支社  から引用

 社名こそ書いていないが、これは総武流山電鉄(現・流鉄)のことである。しかし、ここには法廷闘争になったとは書いていない。当時の新聞を見てみよう。

 

客奪うだけなら常磐新線通せぬ 総武流山電鉄、営業補償を要求

 

 東京・秋葉原―茨城・つくば間58.3キロを結ぶ計画の常磐新線が、千葉県で交差するローカル線・総武流山電鉄(流鉄)の合意が得られず1.3キロ分の工事申請が出来ない状況になっている。流鉄は「新線に乗客を奪われる」と営業補償を求め、両者の交渉は中断している。このままだと2005年開業予定の新線は、秋葉原―千葉・南流山の「部分開通」になる可能性も出て来た。

(中略)

 92年に鉄道事業の免許申請をする際、MIR社は流鉄側に事業への協力を打診した。この時、流鉄側は「申請はやむを得ないが、支援を願いたい」と回答した。正式な交差協議には「経営に大きな影響が予想され、会社の存亡にかかわる」と慎重な姿勢をみせた。

 というのは、97年度も利用客減で収益は1200万円減の6億5千万円。流山市の調査で、新線開通により利用客は4割減とのデータもある。

 流鉄は「窮状を理解した具体的な対応策の提案がなければ協議に入らない」とし、MIR社に経営維持の30億円融資、20億円の営業補償などを求めた。

 MIR社は「交差協議は、交差の構造、技術について話し合う場。営業への影響は別の場で協議したい」との立場を取り、昨年5月の社長同士によるトップ会談は決裂した。事務レベルでの接触も今年6月の電話を最後に中断した。

(中略)

 一方、流鉄の小宮山英一社長は「要求は出してあるが、相手は全く交渉する気がない。既成事実でことを進めようとしている。少子化で21世紀は人口も減り必要がない。無駄な公共事業の典型だ」と態度を硬化させている。

(後略)

朝日新聞 1998年10月12日夕刊

 事件の現場はここだ。

流鉄の小宮山英一社長とは、下記のような方である。

総武流山鉄道(流鉄) 小宮山英一社長1

総武流山鉄道(流鉄) 小宮山英一社長2

 いずれも「流山電鉄七十八年。」山本文男・著 流山新聞社・刊(1994年) から引用

 「平和相互銀行」「小宮山英蔵亡きあとの小宮山グループの若き総帥」とのフレーズがしびれる。政商の血筋をひいた小宮山社長にはこんな駆け引きは朝飯前なのだろうか。

 ちなみに、私がしつこく記事を書いている三原橋地下街のオーナーである新東京観光株式会社も小宮山グループである。http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/post-8445.html

 小宮山一族については、下記のサイトも参考にされたい。

 http://kingendaikeizu.net/seizi/komiyamayasuko.htm
 http://judiciary.asahi.com/jiken/2014102600002.html
 http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumona.nsf/html/shitsumon/a104009.htm

 (平和相互銀行の検査をした大蔵省の検査官が流鉄の顧問に就任したりしてたのかw)

三原橋 銀座シネパトス

 こいつがグループ企業というわけ。つーか、新東京観光が流鉄の株主らしい。

常磐新線と流山電鉄の「交差協議」、司法の場へ

 

 「客を奪うだけの新線は通せない」と常磐新線のルートと交差する総武流山電鉄(流鉄)が工事を拒んできた問題は13日、調停の申し立てという形で司法の場に持ち込まれた。流鉄側は、交差部分を除く区間の新線の工事が申請されたことを危ぐし、「既成事実で優勢な形を作ろうとしている」と批判。一方、新線を運営する新都市首都圏鉄道(MIR社)は「流鉄には協議に応じてもらうよう呼びかけていたのに」と、突然の調停申し立てに驚いている。

 

 流鉄の小宮山英一社長は13日に都内で記者会見し、「流鉄の調査によると新線が開通すると乗客が4割減り、経営が成り立たなくなる。新線は(流鉄の路線を)迂回してもらえればいい」と話した。代理人の河合弘之弁護士は「(MIR社に)誠意ある交渉が見られず、既成事実ばかりが作られている。きちんとした話し合いの土俵づくりのために申し立てをした」と話した。

(中略)

 これに対し、MIR社は「開業に間に合わせるため、条件が整った個所から工事申請するのは当たり前。流鉄を追い詰めているのではない」と反論。「交渉を遅らせたのではなく、流鉄が求めている営業補償などどんな対応ができるかを検討している」と言う。小宮山社長の「迂回」発言には「鉄道の免許申請時には応じてくれたのに。できることとできないことがある」と不快感を示した。

 流鉄は合意の条件に新線開通に伴う乗客減の営業補償を挙げている。これが交差協議が合意できなかった要因の一つだ。

(中略)

 しかし、MIR社は「我が社は株式会社であり、民間の世界では自由競争が原則と考える」と否定的だ。

 

<これまでの経緯> 鉄道事業法の施行規則は、新たに鉄道の工事認可を申請する際に既存の鉄道と交差する場合は、協定・承認を必要としている。

 新都市首都圏鉄道(MIR社)は昨年2月、総武流山電鉄(流鉄)に交差協議を申し入れた。しかし、流鉄は「経営に大きな影響が予想される」と慎重な姿勢を見せた。5月に「新線が開通すると利用客は4割減る」との流山市の調査をもとに、協議に入る前提として30億円融資、20億円の営業補償を求めた。

 これに対し、MIR社は「交差協議は、交差の構造、技術について話し合う場だ」と主張。両者の意見はかみ合わず、その後1年以上にわたり、交渉は中断した。

 その間、MIR社は流鉄との交差部分1.3キロを除く区間の流山市域の工事申請をし、運輸省から認可を受けた。

朝日新聞 1998年11月4日朝刊

 「新線は(流鉄の路線を)迂回してもらえればいい」と流鉄の社長が言い切っているあたりがなかなかしびれるところである。

 私が以前書いた、近江鉄道・西武鉄道・堤康次郎の言い分を聞いているようだ。しかし小宮山英一社長は、堤康次郎(←本当は訴訟や刑事告訴大好き)ですらやらなかった法廷闘争をつくばエクスプレス側に仕掛けたのである。さすが平和相互銀行。代理人が数々の修羅場を潜り抜けて来た河合弘之弁護士というのも。。

 電車が西武のお古だけかと思いきや、やりくちも西武そっくりだ。

 

常磐新線の用地問題、ほぼ解決 MIR社と流鉄が合意

 

 05年開業を目指す常磐新線(つくばエクスプレス)の建設に関連して、新線を運営する第三セクター首都圏新都市鉄道(MIR社)と流山市内の総武流山電鉄の間で用地使用問題が話し合われてきたが、MIR社側が流鉄側に経営安定のために融資をする代わりに、流鉄が土地使用を認めることでこのほど合意した。今回の合意で東京・秋葉原―茨城県つくば市間を結ぶ動線の鉄道用地問題は事実上、解決する。

 新線開通で利用客減を心配する流鉄が、自社の線路と交差する新線の工事を拒む状況が続いていた。

(中略)

 流鉄側は、新線が開業すれば利要客数が4割減少するとして、交差部分の自社の土地を使って新線がトンネルで通る代わりに、MIR社に営業補償約20億円を求め、98年に東京簡裁に調停を申し立てた。しかし、両者の意見は平行線のまま、調停は今年6月に不調に終わっていた。

 MIR社や流鉄によると、11月に入って県を交えた交渉の中で、MIR社側が経営安定策として流鉄に融資を行うことで合意した。今後具体的な融資額などを詰める。

(後略)

朝日新聞 2002年12月4日朝刊

 新聞には具体の金額は書いていないし、上述のように工事誌にも「経営支援策等の協議」としか書いていないのだが、何がしかの金が流鉄に渡って開通にこぎつけたようである。

常磐自動車道パサール守谷とつくばエクスプレス

 一枚くらいはTXの電車の写真でも貼っておくか。。

 TXの「10年のあゆみ」には当然こんな経緯は出てこないのである。

 

(追記)もともと常磐新線は、国鉄が建設するという話もあったと記憶するが(そもそもは通勤新幹線構想の一つだった)、国鉄の場合は収益減を補償できる規定があったのだ。

地方鉄道軌道整備法

 (補償)

第二十四条 日本国有鉄道が地方鉄道に接近し、又は並行して鉄道線路を敷設して運輸を開始したため、地方鉄道業者がこれと線路が接近し、又は並行する区間の営業を継続することができなくなつてこれを廃止したとき、又は当該地方鉄道業の収益を著しく減少することとなつたときは、日本国有鉄道は、その廃止又は収益の減少による損失を補償するものとする。当該地方鉄道業者が、日本国有鉄道の当該鉄道線路と接近しない、又は並行しない区間につき地方鉄道業を継読することができなくなつてこれを廃止したときも、同様とする。

(第2項以下略)

通勤新幹線

「交通技術」1968年1月号「東京周辺の改良工事施工上の諸問題」菅原操著35頁から引用

| | | コメント (3) | トラックバック (0)

2015年6月 7日 (日)

「安井都政の七不思議」って結局どの七つなのか調べてみた。

 過去、いくつかの記事で「安井都政の七不思議」について触れてみたが、どの不祥事を数えたら七つあるのかよく分からなかった。

「安井都政の七不思議」と山田正男と三原橋地下街

東銀座「幻の地下街」を作った経緯が(ほぼ)分かった

 

安井都政の七不思議と山田正男と三原橋

「時の流れ・都市の流れ 」山田正男(元東京都首都圏整備局長)著 から引用

 ということで、ちょいと手間をかけて調べてみたので披露してみる。

 

「東京の七不思議」

 

  安井知事は五五年二月の衆院選出馬を断念し、四月の統一地方選挙で三選を目指した。 選挙の直前になって、都政専門紙の「都政新報」がパンフレット「東京の七不思議-裏から見た都政」を発行した。

 

安井都政の暗部が表面化

 

七不思議に数えられたのは、

1 東京駅八重洲口の外濠を埋め立てて駅前広場を造成するはずが、なぜかデパートなどの入る鉄道会館や国際観光会館が建った。このため、当初計画外だった約五〇〇世帯が新たに立ち退きになった

2 江東区の竪川橋の改修工事をめぐる談合に有力都議の関係建設会社がからんでいた

3 東京都庁大手町分庁舎跡地五七六五平方メートルが約七〇〇〇万円で払い下げられ、そこに建ったビルの一部を都が借りて、五四年に都立産業会館をつくった。その賃借料として年間約七〇〇〇万円を払っていた(都立産業会館は八〇年に老朽化で閉鎖された。会館の後身は現在、「都立産業貿易センター」として浜松町駅近くの港区海岸にある)

4 世田谷区砧の東京都市計画緑地が、民間会社のゴルフ場に賃貸された(現在は世田谷区美術館などのある公園になっている)

5 千駄ヶ谷駅前の東京都体育館は完成早々から雨漏りし、補修費が、都議会の承認を得る前に支出された

6 五一年に有楽町と銀座の間の外濠を埋め立てて、二階建ての建物の上部に自動車専用道路をつくり、建物にはショッピングや飲食の店を入れる「東京高速道路会社」ができた。はじめは事業者が埋め立てをやるということで公有水面占有を申請したのが、いつのまにか都自身の費用で埋め立てを行う公有水面埋め立てに変わった

7 焼け跡の残土で埋め立てた三十間堀の三原橋下を東京都観光協会(会長=安井都知事)に使用許可したが、実際には別会社が映画館やパチンコ屋を経営し、観光協会は都への使用料と別会社からの賃貸料との差額を手に入れた

など、安井都政の暗部を指弾する内容だった。このパンフレットは大評判になり、一般の書店でも販売された。

 七不思議の中で最も話題になったのは、「放送時間になると女湯が空になった」という伝説のラジオドラマ「君の名は」の舞台になった、数寄屋橋下の外濠埋め立てにかかわる問題である。

 当時、多くの運河や中小河川は「黒い水と悪臭のどぶ川」と安井知事自身が認める状態になっていた。外濠も例外ではなく、悪臭の源をなくすということで、賛成する者も多かった。

 自動車道路の建設費をそっくり民間会社に負担させ、そのかわり道路下の店舗の賃貸料収入は会社のものとする。三五年後には道路を都へ贈与させる、という仕組みは、都の財政負担を最小限にして自動車道路を建設できるという着想が評価された。都は地代として三・三平方メートル四〇〇円を受け取ったが、当時の銀座・数寄屋橋周辺の地価は同五万円といわれ、露骨な利権供与として都議会で問題になった。

 江戸以来の外濠の埋め立てに反対する水上デモまで行われたが、東京都が押し切った形で、安井知事三選後の五六年に埋め立てられて姿を消した。橋も翌年に数寄屋橋ショッピングセンターが開業した後、まもなく撤去された(注16)。

 安井知事は左右両社会党の推した有田八郎元外相を破って三選を果たしたものの、差はわずか11万七〇〇〇票で、現職知事としては苦戦というべき結果だった。「東京の七不思議」のように、安井都政への批判が高まってきたためだろう。

 

(注16)京橋~新橋の自動車専用道路は一九六一年に全通したが、本格的な都市内自動車専用道路の建設は五九年六月に発足した首都高速道路公団が引き受けることになり、東京高速道路京橋~新橋線は首都高速道路内環状線のバイパスという役割にとどまっている。そうした利用のされ方が、都心交通の渋滞緩和よりも、埋め立て利権のほうに重点があったのではないかと、いまだに疑われるもとになった。五四年に結ばれた東京都と東京高速道路会社との契約によると、東京高速道路会社は建設後三五年が経過した時点で自動車道路施設を都に贈与し、その後、同社は店舗部分を都から借りて収入の四割を都に払うことになっていた。

 ところが、八〇年になって都が贈与を交渉すると、会社側は道路下の店舗などは贈与の対象ではないと主張し、訴訟になった。東京地裁は九五年六月、道路と店舗部分を一体の建物と判断、そっくり都に返還するよう判決した。東京高速道路側は控訴したが、九七年東京高裁、九九年最高裁で、ともに都が勝訴した。二〇○○年になって、都は財政難を理由に約五五億円で同社へ全体を売却した。

 

東京都の肖像」塚田博康著 85~87頁から引用

 と、これが七つのようだ。ここで紹介されているパンフレット「東京の七不思議-裏から見た都政」を見てみたいのだが、国会図書館にも都立図書館にも首都大図書館にも無いようだ。。

 これだけだとアレなので、他の図書からも探してみた。

 しかし他方、第三期は安井都政にほころびがみえ始めた時期でもあった。一九五五年知事選の前には、戦災復興にともなう都市改造をめぐって「七不思議」と呼ばれた利権疑惑が問題にされたのである。

 これらの問題は、保守系議員からも追及が行われた。一九五五年一〇月鯨岡兵輔(足立区、同年日本民主党から当選)は、都の事業をめぐる疑惑の本質を明らかにした。特定の人物や会社に恩恵を与え、かつ都の外郭団体に退職した都庁幹部が入っていることを指摘した。例えば「七不思議」の一つとして疑惑の渦中にある外郭団体の会長が前副知事であるなど具体的な事例をあげて批判したのである。さらにこの質問が行われる以前の安井三選直後にも、東京地検が、職員保養所の建設をめぐり汚職があったとして、都庁総務局などを家宅捜索した。これによって部長級の幹部職員など、関連業者の逮捕者を出したのである。鯨岡はこの事件にも言及して、昔の伏魔殿とは違い、こんにちの東京は知事のいう「明るい都、住みやすい都」となったと都民は信じていたにもかかわらず、過般の汚職事件によって都政に対する不信が生じたと厳しく指弾した。

 

東京市政」源川真希著 223-224頁から引用

 

追い込まれた官僚知事

 

安井三選と腐敗汚職

(略)こういう社会党の進出が安井知事の辛勝の一因であった。しかしもう一つの原因は都政の腐敗汚職が明るみに出てきたことである。

 知事選挙の僅か五日後、東京地検特捜部は約百名の係官で都庁総務局勤労部と都職員の健康保険組合を捜索した。それから七月下旬までの三カ月間、都庁は、都政はじまって以来の検察旋風に大ゆれとなった。この間、勤労部長をはじめ部長級三名、課長七名など十八名の職員と土建業者十二名を含む三十名以上の民間人が逮捕された。捜査の最終段階では、建設局長、建築局長、前建設局長、前水道局長の任意出頭まで求められた。上層部には波及しなかったものの、役人と業者が結託し、入札制度や許認可の裏をかいて不正な利得を得ていた容疑で、明らかに構造汚職の摘発であった。すでに知事選挙の最中から革新側は安井都政の利権に汚れた腐敗を批判していた。とくに革新系の庁内誌「都政新報」社がつくったパンフレット「東京の七不思議-裏から見た都政」は、都内の一般書店でも販売されて都民の反響が大きく、安井都政の汚職批判はかなり都民に浸透した。

 この「七不思議」のうち、もっとも有名なのはすでにのべた数寄屋橋の下の濠を埋め立て、いま京橋から新橋へかけて高速道路が走っているが、この高速道路建設の名目でその下につくれらた(ママ)貸ビルの問題である。安井知事は、このためにできた「東京高速道路株式会社」なる民間会社に、この外濠の埋立権を与え、六千坪の土地に地上二階地下一階の貸ビルをつくって営業してもよいことにしてしまった。(一九五七年七月、フードセンター、数寄屋橋ショッピングセンターなど開業。)埋め立ての費用は都が負担し、この会社からとる地代は月坪四百円。当時この辺は坪当たり地価五万円といわれていたから、会社は店子から莫大な家賃や権利をとれるはずだ。「七不思議」としては、銀座三原橋下の堀の埋立て、跡地の使用許可、世田谷の砧緑地の東急によるゴルフ場経営許可などもあるが、公有水面の埋立権や都有地にからむものがほとんどで、安井三期都政になってからも都議会で論議された。また七不思議にはないが、東京の工業用地、埠頭用地として開発が進む東京湾の埋立てにまつわって、東京電力、東京ガスなど大企業に広大な土地の利権を譲渡するものも目立つようになっていた。

 都政に関する汚職は、戦前は東京市政や東京府政が伏魔殿といわれて絶えることなく起こっていた。それが戦後はこの年になって初めて都庁幹部に及ぶことになり、その後も毎年起こって東都政の下でさらに大型化する。この都政の腐敗汚職の原因としては、戦後地方自治制の民主的改革にかかわらず、都庁がマンモス化するとともに、すでにのべた都庁官僚制が強まり都の役人が民間業者や一般都民に対し権限をふりまわすことが多くなった。当時の都庁の局長など幹部は、議会では不勉強で意味不明な答弁をしていても、夜になると議員や業者との宴会には精を出した。都民には予算がないと開き直るのに、料亭などの宴会はひんぱんに開き、幹部になるほどウラ金を自由に使っていた。安井謙氏の参院進出をはかるころから、警察の眼からみてかなり目にあまる公金の乱費、業者との癒着が進み、都民の見えないところで汚職がおこっていたと思われる。しかし田中警視総監時代はその幹部への摘発が抑えられていたが、国家公務員の警視総監になって幹部にも追及が及んだのである。

このように腐敗の進む都政内部の上に安井ワンマンがいて、弟や自らの選挙のために、この各局幹部を使って票集めをやっていたのであり、票集めの多いものほど重用されるといわれた。

 

東京都知事」日比野登著 41~42頁から引用

 

大企業との癒着

 

  東・鈴木時代の自民党保守都政と大企業の癒着ぶりは目にあまるものがあった。都有地をべらぼうに安く払い下げ、駅前開発では私鉄独占に便宜を供与するなど、いたれりつくせりであった。「東京七不思議」ということばも生まれた。

大資本との癒着ぶりの一端を示そう。事実は何よりも雄弁である。

 

安井知事時代

 

高速道路という名の貸ビル

「みなさま、ただいま渡りましたのが”君の名は”で有名な数寄屋橋でございます。大岡越前守の南町奉行所もこの橋のタモトにあったのでございます。これより銀座に入りますが、お濠にそって南にまがりますと、アレアレごらん下さい。お濠が埋って山下橋から新幸橋まで二階建ての細長いビルが建っております。皆さま、これが只今、東京都御用命で建築中の高速道路でございます。ご覧の通り、屋上は道路らしくなっておりますが、自動車の昇り口も降り口もなく、一方、下の貸室は早くも一パイにふさがっております。三年以内にはあの数寄屋橋もカゲをけし、難波橋から紺屋橋までの濠川も埋め、一三〇〇メートルの細長いピルが銀座をとりまく計画になっております。どうぞ、ごゆっくりとご覧下さいませ」(パンフ「東京の七不思議」より)

 これは、当時一躍名をはせた高速道路という名の貸ビルについての都内遊覧バスガイド風の説明である。

 ことの起こりは、一九五一年、東京高速道路株式会社なるものが、銀座・新橋の境を流れる汐留川の難波橋-京橋川・紺屋橋間の外濠一三六〇メートルの「公有水面占有」を都に出願したことにはじまる。最初から埋立てとしたのでは都民が騒ぐし、手続き上も都議会の同意が必要になる。しかし、「水面占有」は知事専決である。”魚心あれば水心”とでもいうべきか、安井知事は待ってましたとばかりに、出願一ヵ月後には許可を出し、同社は二年後工事に着工、事実上の埋立てをはじめた。世間が騒ぐので、都ははじめて五四年五月の議会に計画の概要を明らかにした。それによると、外濠一万三〇〇〇坪(約四万三〇〇〇平方メートル)を埋立て、そこに六 〇〇〇坪(約二万平方メートル)余りの自動車専用の高速道路をつくる。その埋立て工事を東京都は前記会社に委託する、都はその委託料として三億一〇〇〇万円を三〇年賦で払う、会社は高速道路をつくり、道路下の貸ビルを経営し、三五年たったら都に寄付するーというものだった。高速道路といっても狭いビルの上で車は通れない(その後六三年から一部車が通れるようになり、今日ではすべて通れる)。事実上の細長い貸ビルである。なんのことはない、都の財産を東京高速道路株式会社に提供しようというものに他ならなかったわけである。三五年たったら都に寄付する契約だが、寄付したあとも「運営は会社に委託する」という念の入れようだった。

 問題は同社役員の面々だが、財界、大企業代表がズラリとならんでいる。社長は三菱土地株式会社の社長で、監査役は当時の石坂泰三経団連会長。株主は電通、日通、読売、ラジオ東京などが名を連ねている。当時、坪一〇万円の権利金として一八億円、家賃坪二〇万円で三六億円―その後、権利金などははるかに値上がりした―という莫大な金が会社にころげこんだといわれる。その契約期限が二年後の八六年に迫っている点でこの問題は今日的なものでもある。さまざまな恋とロマンの歌や映画の舞台となった有楽町「君の名は」で有名な数寄屋橋、銀座一帯も、大企業と都の幹部にとっては、利潤追求と利権の場にすぎなかったようである。

 

 都立産業会館事件(略)

 

 都有緑地を東急資本に

 世田谷区砧に一三万坪(約四三万平方メートル)弱にのぼる東京都の縁地があった。一九四〇年「東京都市計画緑地」として内務省から指定され、都が強制的に買収したものであった。ところが安井知事は、この緑地のうち六〇%の七万七〇〇〇坪(約二五万四〇〇〇平方メートル)弱について、つぎのような条件で東急の出願に応じ、東急と委託契約を結んだ。つまり、東急が七〇〇〇万円で、そこにゴルフ場をつくり、それを東京都に寄付する、そのかわりその経営管理を向う一〇年間東急に委託するという形で、住宅用地としても最適な広大な土地をいわばタダ同様の条件で東急に肩入れしたのである。それも、知事任期があと五ヵ月にせまった一九五四年十 一月、強引に議会を通過させたのであった。

 事業主東急資本のねらいは明白であった。議会での都の答弁によると、「東急としてはこれによる付近の開発を考えている」とされていた。東急との結びつきはそれだけにとどまらない。同じく世田谷の駒沢にある都有地八〇〇〇坪(約二万六四〇〇平方メートル)についても、タダ同然、これもいたれりつくせりの条件で東急に総合グラウンドをつくらせた。さらに、丹羽文雄の「恋文横丁」などで名をはせた渋谷駅前広場から立退いた露天商を収容するという名目で、実際は東急の子会社の「東光ストア」に地下売場をつくらせた。その大部分は東横デパートの売場としてつかわれている。

 そのほか、東横デパートや東急文化会館のために都電の発着所をわざわざかえるなど、渋谷駅を中心とする東急ターミナルをつくるために、都は東急独占に便宜と利権をゆずりわたしてもいるのだ。

 

革新都政史論」有働正治著 23~24頁から引用

 

こうした利権の例としては、かつて東京の七不思議と騒がれたものの多くがこれにあたる。すなわち、第二部でふれた高速道路という名のビルをはじめ、産業会館(都心の都有地を安く会社に払下げ、そこに融資して会館を建設)、三原橋(銀座の堀をうめて不要となった橋の下を、公共性をもった都の外郭団体に貸し、それが又貸しされ転用されていった)、砧ゴルフ場(都有地七万坪の実質上の一定期間払下げ)などがとりあげられている。また、東京湾の埋め立て地も、一般都民にたいしてはほとんど利用されず、大会社と公営賭博とゴルフ場にのみ使われるというので非難されている。

 

東京 - その経済と社会 -」柴田徳衛著 185頁から引用

 また、「でんでこでん: 都電エレジー」 田村徳次・著にも、下記URLのリンク先(google ブックス)に、七不思議についての記述がある。

https://goo.gl/4Cpu7k

 砧のゴルフ場とは、下記右の写真のように、現在世田谷美術館等がある砧緑地が東急のゴルフ場となっていたものである。

 

 ところで、七不思議のうち、石川栄耀氏が絡んでいたものは、少なくとも「東京高速道路」「三原橋」があるし、七不思議以外にあげられている「渋谷地下街」にも絡んでいる。渋谷地下街については取締役に天下っているし、東京高速道路については顧問に天下っているという報道(疑惑をもたれる 高速度道路 / 寺下辰夫)がある。

 しかし、「都市計画家 石川栄耀」鹿島出版会刊 中島直人、西成典久、初田香成、佐野浩祥、津々見崇:共著には、一切その辺の記述は出てこない。不都合な真実なのかしらん?

 

 安井知事が後に知事を辞めたときに、「(略)石川栄耀はあのわけのわからん銀座の高速道路なんかを人に勧めてやらせておいて後始末をしなかったが、あれを後始末をしてくれて本当にありがとう」と言ってくれた。

 

東京の都市計画に携わって:元東京都首都整備局長・山田正男氏に聞く」東京都新都市建築公社まちづくり支援センター刊 17頁

 

 ところで、新国立競技場の迷走でも有名になった内藤廣氏の東京高速道路評はというと

今で言う民活やPFIの先駆けだ。建設費と運営費をテナントの賃貸料で回収するという画期的なアイデアだった。その筋金入りの勇気と熱意は、経済的な収支が合いさえすれば何でもありのいまどきの安易な都市再生とは違う。

「CE建設業界」2003年12月号

 じゃあ、なんで「安井都政の七不思議で最も有名」になるんですかねえ。これも「分かりやすい正義」で、「根源的な議論」じゃないということなんですかねえ。「建築家の良識とは、その範囲のものだったのでしょうか。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年5月27日 (水)

1962年の三原橋

「明日への日本」日映科学映画製作所1962年製作

38分29秒に当時の三原橋ビルが写ってる!

| | | コメント (4) | トラックバック (0)

2015年2月23日 (月)

三原橋ビル(三原橋観光館)解体済(その4)

<>三原橋ビル(三原橋観光館)解体中(その1)はこちら

三原橋ビル(三原橋観光館)解体中(その2)はこちら

三原橋ビル(三原橋観光館)解体中(その3)はこちら

三原橋地下街の上に乗る三原橋センタービル(三原橋観光館)の解体(除却)工事が完了し、東京都に引き渡しのうえ、東京都による補修工事が行われている。

三原橋地下街 (10)

 

三原橋地下街 (4)

 

三原橋地下街 (6)

 

三原橋地下街 (7)

 

三原橋地下街 (2)

カレーコーナー三原があったあたり

パノラマで見てみる

三原橋地下街 (3)

 

三原橋地下街 (9)

 

三原橋地下街 (5)

 

三原橋地下街 (8)

 

三原橋地下街 (18)

 

三原橋地下街 (13)

 

三原橋地下街 (17)

 

三原橋地下街 (14)

 

三原橋地下街 (16)

 

三原橋地下街 (17)

 

三原橋地下街 (15)

 

三原橋地下街 (20)

 

三原橋地下街 (19)

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年2月11日 (水)

工学部の学者「石川栄耀は有名建築家を呼び込んだ!」商業実務者「都庁が呼んだ有名建築家の建物は使えねえ」

前回書いた「東銀座「幻の地下街」を作った経緯が(ほぼ)分かった」で

都市計画家 石川栄耀」鹿島出版会刊 中島直人、西成典久、初田香成、佐野浩祥、津々見崇:共著を読んでみると「有名建築家がこの設計に参加しているのも、盛り場の建築美を目指した石川の仲介によると考えられる。(238頁)」とあるが、それ以上の追及はない。まるで有名建築家さえ呼んで来れば、その背景に官民の不透明な関係があろうとなかろうと万々歳のような感想を持った。

と書いたのだが、その補足で。

 この辺をもうちょっと引用すると

 これらの建物の中には露店デパートと呼ばれ、鳴り物入りでオープンしたものも少なくない。例えば、銀座三十間堀埋立地には、銀座館(新銀座ショッピングセンター)(丹下健三設計)、銀一マート(後藤一雄設計、協働東京工業大学清家清研究室)、現三原橋地下街(土浦亀城設計)、上野百貨店(通称西郷会館、土浦設計)、新宿サービスセンターなどが挙げられ、当時の新聞や雑誌において報道がなされている。有名建築家がこの設計に参加しているのも、盛り場の建築美を目指した石川の仲介によると考えられる。

都市計画家 石川栄耀」鹿島出版会刊 中島直人、西成典久、初田香成、佐野浩祥、津々見崇:共著 238頁

 これに対して、商業専門家の見解で下記のようなものがある。

 その頃、私はまだ元気だった。そして全国を一宿一飯の旅をして回った外、東京では、戦後至る処の空地に乱雑に建てられた小店舗群や露天商を収容するために、銀座三十間堀その他の河川を埋立て、その上に、共同店舗を造り始めたので、その仕事も手伝った。私は都の委嘱を受けて、これらの指導にも当った。この計画では従来の店舗を捨てて共同店舗に収容される零細業者を集めて何回も講演し、何度も企画会議に出たりした。が、東京都が設計して建てる建物がいずれもその目的に添うようなものではなく、出来る前から失敗するように決まっているようなものばかりであった。特にその著しいものは銀座裏の三十間堀に出来る共同店舗であった。私はその設計が不適当であることを文書で述べたが、東京都の役人達はそれが建築の大家丹下健三氏の設計であるとの理由で、商店経営の専門家である私の意見を容れないので、丹下先生との対決を要求したりしたが、結局、私が手を引くこととなった。

「日本商人史考」商業界刊 倉本長治著 305頁

 このように、分野が違うと対称的な評価となっており、「一面的な物の見方はよくないなあ」と思った次第。

 

-----------------------------------------------------------

 

 建築屋って、その建物の本来の使用目的よりも有名建築家を使うことが自己目的化することがあるよねえ。

 先般の国立競技場のザハをめぐる論争で、内藤廣氏の【建築家諸氏へ】を読んだのだが、PDF5頁にわたってイロイロと書いているなかで、「選手のため」「観客のため」という観点が一切出てこないうえに「ザハの代表作がソウルではなく東京であるべき」という本来のミッションではない方にいっちゃってることに大いなる違和感を覚えたものだ。

 

 ちなみに、この内藤氏の東京高速道路評はというと

今で言う民活やPFIの先駆けだ。建設費と運営費をテナントの賃貸料で回収するという画期的なアイデアだった。その筋金入りの勇気と熱意は、経済的な収支が合いさえすれば何でもありのいまどきの安易な都市再生とは違う。

「CE建設業界」2003年12月号

 「償却が終われば都に引き渡すという契約の執行を拒み最高裁まで都と争う」ような事業を「民活やPFIの先駆け」と評価していいのか?

 ちなみに内藤氏の上記文中の「何故このような他に例のない面白い道路が出来たのか。」という問いに対しての一つの答えとしては、「本当は首都高速も路下の建物を積極的にやりたかったが、東京高速道路がデタラメやりすぎたことと、国鉄も高架下でデタラメやりすぎた(新橋の京浜百貨店等)こと等を受けて、世間や国会の高架下に対する厳しい視線の下で、建設省が高架下の利用を厳しく制限したから他ではできなくなった」と考えている。「東京高速道路がエライから、他の道路にはないことが出来ているのではなく、東京高速道路がやりすぎたので、他の道路はできなくなった」のであろう。

 東京高速道路こそが「コンプライアンスも何もない利権まみれの『何でもあり』」の状況だった。

 この工事が「水面占用」で認可され、暫次「埋立」に変貌した事実-当時の認可を与えた都建設局長石川栄耀氏が、現在、高速度道路会社の顧問になっている事実は、あたかも「鉄道会館」の人事ケースと同じような表情を呈していることも、ことさら地元民の神経を刺戟しているようである。

疑惑をもたれる〝高速度道路″という貸しビル」寺下辰夫(「経済往来」1954年12月号141頁)

 石川栄耀は、不適切な便宜を民間企業に与えて、自らそこに天下った官僚で世間の不評をかっていたというわけですな。これが「筋金入りの勇気と熱意」「PFIの先駆け」とは寂しいものだ。。。

 なお、「都市計画家 石川栄耀」の「石川栄耀 年譜」には、「東京高速道路株式会社顧問就任」とか「渋谷地下街株式会社 取締役就任」といった経歴は出てこない。何か理由があって載せられないのだろうか??それともとるに足らない事項と判断されたのだろうか?

 石川栄耀と東京高速道路には、また別の「疑惑」があるのだ。

○中井(徳)委員 (中略)これは賛否両論ですが、東京で今高速道路というのをやっていましょう。あの堀を埋めまして、数寄屋橋がなくなってしまった、それを四、五年前に、自民党、社会党両党の委員がこぞって――村瀬さんもいらっしゃいますが、当時の建設委員が大いに反対したのです。ああいうものは風致を害するということでもって、やりました。そのときにだれが判を押したか調べてみた。そうしたら、安井君が二期か三期目の選挙の途中に、もう死にました石川栄耀さんという人が判を押しています。安井さんは留守です。あの人は、局長さんか何かでおられた。そういうことがあるのですよ。ですから、これはたまたま一つの事実にすぎませんが、私は十分起り得ると思うのです。皆さんのお考えの方が人がよ過ぎるように思いますので、一つ強くこの点を要望いたしておきます。御研究をいただいて、必要があるならば、この選挙期間中は代理者の行政に対する幅に規制をされた方がいいのではなかろうか、こう思います。これは強く要望いたしておきます。

昭和34年03月12日 衆議院 公職選挙法改正に関する調査特別委員会

 要するに、この東京高速道路に関する都庁内の決裁については、世間の反対の中、本来は都知事が行うべきものを選挙期間中だったので石川栄耀が決裁したと。これは規制すべき事項ではないかと。

 

-----------------------------------------------------------

 

 ところで、「都市計画家 石川栄耀」鹿島出版会刊 中島直人、西成典久、初田香成、佐野浩祥、津々見崇:共著の238頁に話を戻すが、「有名建築家がこの設計に参加しているのも、盛り場の建築美を目指した石川の仲介によると考えられる」物件の中に「現三原橋地下街(土浦亀城設計)」があげられている。

 ここでは無批判に、さも良いことをしたように書いてある。しかし、それでいいのか?

  三十間堀を埋め立てるにあたり、闇マーケット化等を懸念した地元の反対をおさえるために「三十間堀埋立運営委員会」を設け、利用計画として「建築物は公共的、国家的、文化的用途に供するものを主とし、工場、倉庫、ブラックマーケット等は認めない」としたうえで、入札参加資格には「禁止営業-工場、倉庫、ヤミ市的売買、将来土地発展上不適当な営業」と定め、健全な「第二銀座」として運営することを目指していた。「東京都を食いものにする男たち 三十間堀埋立に踊るボス群」大住山人著(「真相」1949年5月号)では「目的は貿易物産館、事務所またはアパートの文化的な商店街をつくり、映画館、キャバレー、ダンスホールなどの娯楽期間や工場、倉庫およびマーケットは許さない」とある。

 ところが。。

○中井委員長 御異議なしと認め、さように決定をいたします。

 参考人の諸君から陳述を、承るに先だちまして、参考人諸君に申し上げて御参考に供したいと思うのでありますが、諸君にここに御出席を願うことになりましたゆえんは、本年十月十九日付をもちまして東京都中央区議会議長宮入正則君から請願書の名をもつて本委員会に陳情書が提出されたのであります。この陳情書の要旨によりますると、高速自動車道路建設に伴い紺屋橋と難波橋との間の公有水面埋立てと、中央区銀座四丁目地先三原橋道路上の建物について疑義があるから貴職において調査を願いたい、こういうのが一つ。もう一つは、三原橋の両側の道路占用による建物について都が許可せられたる趣旨とは全然異なりたる使用方法において現在使用されておる、そこに不正があるように思われる、この許可については都と区との間に行き違いがあり、地方自治法上はなはだ遺憾であるという趣旨のものであります。

 (中略)

 それから三原橋の問題につきましては、「昭和三十三年、三十間堀埋立てに始り、代表的な市街を建設するため特に安井都知事を会長に都議会議員各派代表、関係都理事者、地元都議会議員、中央区議会代表者、区理事者、地元住民代表者二十九名をもつて三十間堀埋立運営委員会を組織し、衆知を集めて慎重に同地利用開発と健全発展方策を決定した。」三原橋下は「三原橋下は三十間堀埋立地の中心部であつて、観光都市東京にふさわしい施設たるべきものとし橋上周囲は緑地並にロータリーとすることに決定した。しかるに現在橋下はニユース館が一部を占めるのみで、他の大部分は不健全娯楽で営利を目的とする経営に充てられている。」結局これについては、そういう敷地を特に許されたものは、新東京観光株式会社であるのに、それはその目的のために使わずして、他の者に転貸しをし、ここに何らかの不正が行われているのではないか、かようなことを都がなさるについては、その都を形成するところの特別区に対しその意見を無視してやられる等のことについては、この際自治法を改正して区の意見が都の行政の上に徹底するようはかられることが必要であると思う、その点につき地方行政委員会の格別なる考慮を望む、こういうようなことがこの趣旨なのであります。

昭和29年11月10日 衆議院 地方行政委員会

三十間堀埋立地売却地図

 東京都公文書館保管の関係図面でも三原橋付近は、売却の対象外であったことが分かる。そこになぜ石川栄耀は「盛り場の建築美を仲介」したのか?

三十間堀川埋立竣工認可1
三十間堀川埋立竣工認可2

 「東京不動産史話(3)三十間堀川埋立始末(上)上坂倉次著 「不動産鑑定」1976年3月号」によると、上記三十間堀川埋立竣工認可の「緑地395.78坪」は「三原橋両側4カ所」のことだという。

三原橋商店街は不法建築 都幹部も運営参加

使用目的 ”観光案内所”が化ける

 土一升、金一升といわれる東京だけに道路にまで家がはみ出す不法建築が少なくない。都建設局ではこうした無法な道路侵略者が千数百件にものぼっているので告発や強制執行などの強権を発動して一掃につとめているが、皮肉なことに中央区銀座三原橋の都有地が問題を起こしている。三十間堀の埋立がすんだあとこの三原橋の両側と橋下は道路と指定されたにもかかわらず、安井都知事自身が会長をしている東京観光協会が観光事業のためといって借り受けたうえ、使用料をとて第三者に譲り、いまは商店街に早変わりするという現状である。しかもこの三原橋の運営には都庁幹部も監督上参画しており、都庁自ら道路を不法占用しているという事実がある。

 三原橋は三十間堀の埋立工事が行われたとき橋下もふくめて道路ということになった。ところが26年8月28日、東京観光協会の安井協会長名義で橋下を観光案内所と商品陳列所にしたいと都へ使用方が申請され、そのまま許可された。ついで27年9月30日、橋下では観光案内に不適当であるというので橋上の料は輪に2階建のビルを建てたいと同じく安井協会長の名前で申請され、同10月30日観光案内所、常設物産即売所として許可された。 ところがこれらの土地(総坪数359坪)は許可のあと年間約75万円の使用料で新東京観光株式会社(社長宮地知覚氏)に譲渡されてしまったのである。同社では橋下(253坪)は坪6万円の権利金(半額敷金)で店舗を作り業者に貸付け、橋上両側のビル(106坪)は坪60万円から75万円という八重洲口名店街以上の高い権利金で業者に転貸された。このため橋上ビルの1階に会社事務所兼用の直営案内所があるだけで物産即売所のなければ商品陳列所もなく、あるものは飲食店、パチンコ屋をはじめ20数軒の店舗ばかりとなった。

 ところが都の建築法規をみると道路や公有地に家を建てることは原則として禁止されているが、たとえ許可された場合でもその権利を他人に譲渡したり、使用目的を変更するときは道路管理者(都当局)の許可を受けることになっている。これに違反すれば即座に占用権は取消されることになっているが、観光協会の場合、橋下の商品陳列所と観光案内所の一部を映画劇場、娯楽場に使用目的を変更したいと申請しているに過ぎない。橋上の場合は申請もなければ、橋下の場合でも一部の変更を届け出て商店街に化けている。さらに不可解なのはこの三原橋の問題について第1回の申請のあった26年8月に都庁の富田都民室長はじめ直接監督取締りにあたる坪田道路部長、福田管財部長らをふくめて観光協会理事、観光会社側幹部三者の間に三原橋運営委員会が組織されているにかかわらず、こういうズサンな運営がなされている。しかも土地の権利金を寄付金として新観光会社から都に収めることになっていたが橋下の632万5千円は納付済だが橋上の約9百万円は未納といわれ、ナゾを秘めたままとなっている。

安井知事談『あの問題は私の知らない間に申請、建設されたもので、知事の怠慢といわれればそれまでだが、全く都民に対し申訳ないと思っている。現在都民の納得ゆくような改善工作をすすめ、徹底的に整備するつもりでいるが、なかなか思うようにゆかず困っている』

宮路新東京観光株式会社社長談『私は二代目社長だが都との使用契約についてよく知らない』

読売新聞 1954(昭和29)年10月30日

 ざっくりいうと、石川栄耀は、自らが運営委員となっている「三十間堀埋立運営委員会」の決定に反して、三原橋周辺に、本来設置されてはならないはずの映画館、ゲームセンター、パチンコ屋等の設置に加担していた。さらにそれは都の条例に反する「又貸し」という形をとっていた。また、知事が「あの問題は私の知らない間に申請、建設されたもの」と言っているにもかかわらず、実際には都の幹部が関与していた。ということか。

 本来、三原橋は「盛り場の建築美」を持ち込んではいけない場所であり、石川栄耀は健全運営を条件に埋立を了解した地元に対して背信行為を行ったというべきではないか。

------------------------------------------------------

 ところで、 「東京都を食いものにする男たち 三十間堀埋立に踊るボス群」大住山人著(「真相」1949年5月号) に興味深い記述がある。

(略:戦災のガラを河川に埋め立てることとした経緯を記述)このプランを立てたのは当時の都建設局長大森健治(その後公職追放)で、知事安井誠一郎が都議会方面を打診したところ『これはウマイ利権になる』とホクソえむ都会議員もあつて、たちまちOK。

 戦災ガラを河川に埋め立てる件については、安井知事から依頼を受けた石川栄耀が考案したこととされているが、そうではないということか?公職追放された者が考案したのだと通りが悪いので後に石川栄耀が考案したこととしたのか?なかなかおもしろい。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧