※本稿は、2022年1月に大幅に追記・修正しております。
上記は、千葉県市川市の東西線行徳駅から東側に向かった箇所である。
左側に見える高架橋は、東京メトロ東西線である。
昨今ネット等では、「ここが成田新幹線の遺構である」といった話を見聞きするので、今回はそのネタを検証してみたい。
当該区間を、成田新幹線の建設主体である日本鉄道建設公団が1974(昭和49)年に発行した「成田新幹線東京・成田空港間線路平面図」で見るとこんな感じである。
そして、上空から見るとこんな感じである。
確かに立派な側道ではある。
「東京メトロ東西線の行徳駅付近の遊歩道付きの側道が立派なのは、ここに成田新幹線が通るはずだったからで、この立派な側道は成田新幹線の遺構である。」といった話を上記の写真とセットで聞かされると、合点する方もいらっしゃるかもしれない。
一方で、下記のような資料もある。
これは、市川市議会の議事録の抜粋である。
成田新幹線の工事実施計画について運輸大臣から日本鉄道建設公団へ認可されたのは、1972(昭和47)年2月である。
その直後の市議会ということになる。
質問している近藤喜重議員は、行徳地区と関わりがあるようだが、成田新幹線が「東西線より50m海寄りを通る」と発言している。
果たして成田新幹線はどこを通る計画だったのか?
まずはそこから資料を整理してみたい。
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私の可能な範囲で、成田新幹線の市川市内のルートに関係する資料を集めてみた。
まずは、本家本元の日本鉄道建設公団である。
公団の「成田新幹線工事の概要」では、「区画整理事業に出来る限り支障しないよう技術的に可能な限り地下鉄5号線(現・東京メトロ東西線)に近接することとしております。」と書いており、東西線と成田新幹線をどの程度離すかの具体の数字は書いていない。
公団職員が業界誌に寄稿した報文「成田新幹線の建設計画」では、「地下鉄5号線の南側に殆ど並行して葛西・浦安・行徳を経て」とこれまたビミョーな書き方をしている。
一方、浦安町誌では「東西線と50メートルの間隔をおいて住宅街を縦断する。」と記載している。市川市内については具体の記載はなく、そのまま「船橋市の市街地はトンネル」としている。そのまま読めば、浦安から船橋まで変化なしということであれば、市川市内も「東西線と50メートルの間隔」と読めなくもない。
では、市川市内ではどの程度離れていたのだろうか?
具体的に言及したものはあるのか?
冒頭にあげた市川市議会での議事録である。
成田新幹線は「地下鉄東西線より50m海寄りを通るということでは、その間にはさまった4倍にもなる土地は全く死に地になってしまうわけであります。」と発言し、通過地点も具体的に、南行徳、行徳、妙典、田尻、原木と書いてある。
ここで「南行徳第1、第2、第3、行徳土地区画整理組合」という言葉が出てくるので、覚えておいていただきたい。後ほど説明する。
近藤喜重議員は、成田新幹線の買収対象となる関係地権者数を具体的にあげているが、後述するように、当時は(今も?)詳細な図面が公になっていないため、11m50cmの想定される用地買収幅員(高架橋の構造物幅員11m+施工余裕幅左右25cmずつ?)から、市川市か議員が独自に算出したものと思われる。
富川進・市川市長(当時)が、サンケイ新聞の取材に対して「新幹線は、東西線と並行に走るため、東西線と新幹線にはさまれた区画整理の土地は、騒音と振動公害に悩まされ買い手がなくなる」とコメントしている。
先に、近藤市議が「その間にはさまった4倍にもなる土地は全く死に地になってしまうわけであります。」と発言していることと平仄があう。
一方、昨今のネット等で主流のような「東西線の側道部分に成田新幹線が走る計画」と、市川市長、市川市議会議員の発言は平仄がとれない。
また、日本鉄道建設公団が千葉県に対して、新幹線は「東西線に沿って高架で浦安町にはいり、東西線の南側50メートルを東進、京葉道路をまたぐ」と示したと伝える記事もある。
日本鉄道建設公団が公開している図面や資料では詳細には分からないはずなのに、市川市長や市川市会議員が「東西線と新幹線にはさまれた区画整理の土地」とか「東西線より50m海寄り」とか発言しているのは、何が根拠なのだろうと不思議だったのだが、上記の毎日新聞の記事によれば、公団が千葉県にその旨説明したようだ。
なお、1972(昭和47)年2月15日付千葉日報によると、同年2月14日(上記毎日新聞記事の3日前)に、公団が千葉県に対する第1回の説明会を行っている。
ちなみに、江戸川区内でも「東西線の南側約50メートルを並行して走り、高架で抜ける」との報道がされている。
当時の報道では、東西線沿いの高架区間は、江戸川区・浦安町・市川市と一気通貫で「東西線の南側約50メートル」に成田新幹線が通ることで揃っていることになる。
ここまでは、成田新幹線と東西線が約50メートル間隔を空けている旨の報道を紹介してきたが、そうでない説も紹介しておく。
草町義和氏は「鉄道ライターのなかでも、廃線跡や未成線跡の調査を専門としている」(「全国未成線ガイド」宝島社・刊の監修者紹介欄から)とのことだ。
草町義和氏は、鉄道ファン2008年8月号に掲載された「幻の成田新幹線をたどる」に
「昭和47年計画の線路平面図を見る限りでは,江戸川区内と浦安市内は東西線から少し離れた場所を通っているように思われ,実際に東西線の高架橋にぴったり張り付くような線形になっていたのは市川市内だけだったようである.」
と書いている。
その判断の根拠としては、「昭和47年計画における線路平面図(縮尺5万分の1)や線路縦断面図(縮尺横2万5000分の1,縦2000分の1)」「昭和49年計画」といった資料(同著112頁)を入手されたうえで現地を検証しているとのことである。
「おさらい」として、今まであげてきた成田新幹線と東西線の位置関係に係る報道・記事を時系列で並べてみた。
如何だろうか?
ところで、鉄道建設公団、市川市会議員、市川市長等と草町義和氏の主張の差を判別できる資料はあるのか?
地元自治体の資料等を読んでいると、地元住民等は「用地買収の対象を示せ」と要求しているが、公団側は「実際に現地を測量しないと示せない」と回答し、そして関係自治体と地元住民は公団による現地測量は阻止しているので、詳細な図面は公開されないままになっているようだ。
1972(昭和47)年2月18日に実施された公団による地元市町村長への説明会においても5万分の1の地図で計画を説明したとの報道がある。( 1972(昭和47)年2月19日付千葉日報)
草町義和氏は、成田新幹線の工事実施計画を入手しているようだが、そこにはどんな資料が含まれているのだろうか?
こちらが全国新幹線鉄道整備法施行規則に定められた、新幹線の工事実施計画に係る書類の抜粋である。
先にもあげたところであるが、この図面が実際に日本鉄道建設公団が作成した5万分の1の平面図である。
工事実施計画にこの地図が使われたかどうかは分からないが、縮尺としてどのようなレベルのものかはイメージしていただけるだろう。
ご覧いただいたとおり、5万分の1の平面図では、50mの離隔はなかなか判別できないと思われる。
5万分の1だと、50mは1mmしかない。私は老眼なのでわからんちんである。草町義和氏は判別できたようであるが。
また、東西線と成田新幹線の「構造物の外側同士」が50m離れているのか?東西線と成田新幹線の「中心線同士」が50m離れているのか?といった点が記事等だけでは明確でないというところもある。どちらかによって具体の離隔が10mほど変わってくる。
市川市長は「間にはさまれた区画整理の土地は、買い手がなくなる」と語っているので、売却できるほどの幅があったということだろうか。
草町義和氏は、「線路縦断面図(縮尺横2万5000分の1,縦2000分の1)」「昭和49年計画」といった資料も持っておられるようなので、それらも含めた総合的判断をされたということだろうか。
上記は、草町義和氏のツイッターから。
(追記)
一旦「これ以上詳細な図面は見つけられなかった」としてブログにUPしたが、その後の調査で、5万分の1よりも詳細な図面(ただし部分的なもので全線ではない)を含んだ運輸省の書類(報告書)を見つけることができた。追記としてその資料を公開したい。
その名も「新東京国際空港関連交通計画調査 報告書」である。
1979(昭和54)年3月に運輸省が作成したものだ。
いわゆるA案B案C案という新幹線の代替案が提出されたのは1982(昭和57)年だが、そのタタキ台となる報告書なのだろう。
その中に「新幹線ルート」と書いた2万5千分の1の図面が含まれている。
これが新たに発掘した成田新幹線の別の図面である。
余談だが「湾岸・北千葉ルート」というのは、後の成田高速鉄道のA案(京葉線から千葉ニュータウンへと抜ける案)のプロトタイプと思われる。(実際には、A案は西船橋付近を経由するルートとして公表された。)
東京外環自動車道とがっつりかぶっているような気がしなくもない。
成田新幹線の市川市付近を拡大してみる。
ズバリの行徳駅付近の図面はなかったが、現在の妙典駅付近は分かる。
図面についているメジャー(?)と見比べてみて、草町義和氏の「東西線の高架橋にぴったり張り付くような線形になっていたのは市川市内だけ」という主張と、鉄道建設公団が「浦安町に入り、東西線の南側50メートルを東進、京葉道路をまたぐ」と説明したという報道のどちらに説得力があるかご判断いただければよろしいかと思う。
成田新幹線の図面が「バージョン違い」ということもあるかも?と考える方もいらっしゃるかもしれない。
草町義和氏が鉄道ファン「幻の成田新幹線をたどる」2008年8月号113頁に書いた「真間川左岸の買収地」もこの「新幹線ルート」に乗ってくるので、「違うバージョンの地図」ということもないのではないかと考えている。
東西線と成田新幹線の位置関係(南側50メートル)のまとめをしてみよう。
草町義和氏の「東西線と成田新幹線がぴったり張り付くような線形になっていた」(「幻の成田新幹線をたどる」113頁)という記述に対して、毎日新聞の報道では、鉄道建設公団が千葉県に「東西線の南側50メートル」と示し、市川市長や市議会議員の議会等における発言と平仄がとれていた。
更に、運輸省が後年作成した「新東京国際空港関連交通計画調査 報告書」に出てくる「新幹線ルート」も少なくとも妙典附近は「東西線の南側50メートル」付近を走っていることが分かる。
(ちなみにこの報告書は誰でも閲覧することができるよ)
一方で、「成田新幹線が東西線に沿って走るはずだった」といった主張をする方は、当時の市川市長の発言や市川市議会議事録に残るやりとりに対してどう考えるのかをあわせて表明する必要があるのではないだろうか?
「反日マスコミには騙されない」とか
「市川市議会議員は反対を煽るため、話をふくらませているだけだ」とか
「国策である新幹線に反対するような”プロ市長(ちなみに自民党推薦)”よりも、鉄道ファン誌に掲載される鉄道ライターの方が鉄道知識は詳しいに決まっている」とか
「日本鉄道建設公団がそう地元に説明したという新聞記事があるからといっても、全部の区間が50m離れていたとは書いていない。市川市内だけはそんなに離れていない区間があってもおかしくはない。」とか
でもいいと思うのだが、当時の新聞報道や市議会でのやりとりや運輸省の報告書を打ち消す決意表明(できればその決意を補強する物証も添えて)をしていただければよろしいのではないかと。
もちろん、5千分の1等の縮尺で、実際に「50m空いている空いていない」が判別できる詳細な工事用平面図をお示しいただければ言うことはないのだが。
「そんなん、当時の都市計画の図面見たら分かるんちゃうのん?」と思う方がいらっしゃるかもしれない。
ところが、当時の成田新幹線も東北新幹線も都市計画決定の手続きは一切取っていない。住民や地元行政との擦り合わせの手続き一切なしで、「運輸大臣の認可が取れたので路線発表する。ただし今後変更は一切ない。」とやったので大反発を買ったのだ。
「でも最近の新幹線はちゃんと都市計画決定の手続きを取ってるのだし、当時もそうなんちゃうのん?」と思う方もいらっしゃるかもしれないが、過去の反省を踏まえて都市計画決定するようになったのだ。
なお、江東区と江戸川区を結ぶ清砂大橋は、東西線の南側に近接して架設されており、「本当はここは清砂大橋ではなく成田新幹線が来るはずだった」といった話も仄聞されるが、東西線の設計時に、清砂大橋が近接して架設されることを前提に東京都と営団地下鉄が協議していたことが営団地下鉄が発行した「東西線建設史」から分かる。
おって、「清砂大橋を避けたから、東西線の50m南に新幹線が計画されたかどうか」については、判断できる資料を見つけられていない。
だが、こちらも上記の運輸省報告書で位置関係を確認することができる。
やはり東西線と「成田新幹線ルート」は相応に離れている。
ネットで散見されるような、清砂大橋を指して「ここに成田新幹線が来るはずだった」という説は否定されると言ってよいのではないか?
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ところで、東西線と側道の関係はこんな感じに並んでいる。
市川市南行徳第二土地区画整理組合が1974(昭和49)年に発行した「記念誌 区画整理のあゆみ」では、東西線と側道の関係がよく分かる写真が掲載されている。
こんなガクガクした側道を成田新幹線が走れるのだろうか?
「東西線と成田新幹線がぴったり張り付くような線形になっていた」(草町義和氏「幻の成田新幹線をたどる」113頁)というと、埼京線と東北新幹線のような位置関係をイメージしている方がいらっしゃるかもしれない。
埼京線と東北新幹線の関係はこんな感じ。
これは武蔵浦和駅付近であるが、東北新幹線はまっすぐ走りつつ、埼京線のホームは右側(東側)に膨らんで、新幹線の直進を妨げないような構造になっている。
一方で、東西線と成田新幹線の関係はどうか。
これは行徳駅付近であるが、東西線は直進し、ホームはその両外側に膨らむ形で設けられている。これでは、「東西線と成田新幹線がぴったり張り付くような線形」(草町義和氏「幻の成田新幹線をたどる」113頁)だとすると、東西線のホームの幅だけ成田新幹線がそこをカーブして膨らんでいく形になってしまう。それとも成田新幹線建設の際には東西線を北側に移設する構想だったのだろうか?
ただでさえ、東西線は成田新幹線の直進を妨げるような線形となっていることに加えて、更に東西線行徳駅には拡張計画がある。
営団地下鉄の「東西線建設史」には、「浦安、行徳両駅は相対式ホームとし、将来両外側に1線ずつ線路が増設できるように計画した。」と書いている。
先にあげた区画整理組合記念誌掲載の写真の東西線ホームと側道の間の草地は将来線予定地ではないだろうか?東西線行徳駅付近の膨らみは、現状よりも更に拡がる余地がある。
埼京線と東北新幹線のような新幹線の高速走行を損なわないような位置関係とはいかない可能性がある。
東西線側道のここをカクっと曲がって成田新幹線が通りますかね。
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「でも、東西線のあんな立派な側道は、成田新幹線のためとしか思えないんですけど?」
こんなことを思う方もいらっしゃるかもしれないので、次にそこを検証してみよう。
あの東西線の側道はいつだれがなんのために作ったのか?
※草町義和氏が「この側道は成田新幹線のため」と言っているのではない点にはご留意を。
ただし、「この側道は成田新幹線のため」とネットに書いている方にお尋ねすると「草町義和氏の鉄道ファンの記事を読んだ」という回答を頂戴したという経緯があったのでご参考までということで。
市川市長や市川市会議員の発言に出てくる市川の区画整理事業であるが、左図を御覧のように、東西線(成田新幹線)経過地の殆どが区画整理事業が行われた箇所である。
市川市ウェブサイトの「市川市の土地区画整理事業」には、上図のような位置図が公開されている。
https://www.city.ichikawa.lg.jp/common/000355873.pdf
市川市南行徳第二土地区画整理組合が1974(昭和49)年に発行した「記念誌 区画整理のあゆみ」には、東西線の両側に「11mの側道を配置した」とある。
成田新幹線とは関係なく、元々区画整理事業の一環として整備されたのである。
上記の区画整理の模型で東西線に側道が設けられていることが確認できる。
こちらは、市川市行徳土地区画整理組合が1975(昭和50)年に発行した「記念誌 区画整理のあゆみ」から。
個人サイト等で、成田新幹線の名残で立派な緑道が東西線沿いにあるという趣旨の記述があるが、もともと区画整理事業の一環として「幅員11mの側道を配置し散策に適した緑道的性格を持たせる」とあるのだ。
成田新幹線の工事凍結は、1983(昭和58)年である。もしこの緑道が新幹線の遺構、名残であれば、 1975(昭和50)年に「幅員11mの側道を配置し散策に適した緑道」と書いた区画整理記念誌が発行されることはありえない。
東西線の側道は、成田新幹線の計画の遺構ではなく、東西線建設にあわせて施行していた区画整理事業によって、成田新幹線公示凍結前に整備したものである。
東西線の駅前広場用地等も同時に減歩によって確保された。
行徳地区に限らず、江戸川区から市川市にかけて多くの地区で、東西線建設用地自体が側道とともに、地元の区画整理の協力で捻出された。
営団地下鉄の「東西線建設史」では、
「荒川を越えた小島地区から西船橋に至る区間は(略)この膨大な土地買収を効率的に実施するため,営団は,東西線の計画決定を契機に,同線経過地に,土地区画整理組合(以下区整という)の設立機運が高まっていることに着目し,この区整を対象とした,保留地先買方式による集団交渉方式を採用する方針を決定した。」
と述べている。
また、同様に「東西線建設史」では、
「南行徳第1、第2、第3区整においても,前述の区整地区とほぼ同様の手続きにより用地買収を行った。行徳区整は,区整の設立準備も整っていない地区であったが,営団は市川市とともに,地元民に対し区整事業の必要性を説き,準備委員会を発足させ,これと折衝に入り,難航していた土地の価格統一にも成功し,これを盛り込んだ保留地先買方式による買収を組合成立認可申請前の準備組合の段階で行った。」
と述べている。こんなに鉄道事業促進に協力した行徳地区等の人々に対して「たまたま自分の趣味/性癖の対象が公共的機関だったことを奇貨として、自分の考え方が公共的だと勘違いした方々」が「プロ市民」呼ばわりしたりするのであるが。
これは、東西線建設史及び南行徳第一区画整理組合記念誌から作成した、東西線と行徳地区の区画整理事業の時系列である。
約10年をかけて、東西線の計画から建設にあわせて行徳地区が区画整理事業を実施し、その建設用地を提供できるように取り組んできたことがお分かりになるかと思う。
その最後の仕上げの清算の段階で、成田新幹線が事前調整全くなしに飛び込んできたのである。だから地元が反発したのだ。
川島令三氏や草町義和氏の本ばかり読んでいてはこういう話は出てこないのであるが。区画整理事業のことは理解できなくても、鉄道マニアならせめて東西線の建設史だけでも読んでみると違うのだが。
ちなみに区画整理事業について知りたい方は、上記の動画等を見るのもよいかもしれない。
これは、東西線用地が区画整理事業により取得されたことが分かる登記簿である。
「表題部」の「原因及びその日付」の項に「土地区画整理法による換地処分により保留地決定」とある。
なお、登記の日付は本換地(換地処分)の日付であり、実際にはそれ以前に仮換地で収益を開始している。東西線の開通は1969(昭和44)年なので、そのときまでに仮換地されているはずだ。
そして、これが東西線の側道が区画整理事業により東西線と同時に整備されたことが分かる登記簿である。
「表題部」の「原因及びその日付」の項に「土地区画整理法による換地処分により保留地決定」とあるし、表題部が作成された日付は東西線用地と同日であることが分かる。
この側道が成田新幹線の遺構由来であればこうはならないのだ。
登記簿だけでは位置関係が分かりにくいので、当該地番付近の公図も貼っておこう。
あわせて、成田新幹線計画が世に出る前の国土地理院の空中写真で確認してみる。
行徳駅付近の東西線と側道等が写っている。
左側のハコの「撮影年月日」を見ると、1971年4月に撮影したものだということが分かる。
遅くとも1971(昭和46)年4月には、東西線の側道ができていることが分かる。
側道が成田新幹線の遺構であれば、路線発表(1972年2月)より先に側道ができているはずがない。
私のように千葉県内の図書館をあちこちまわったりお金を払って登記をとったりしなくても、国土地理院の空中写真をコタツから閲覧すれば、一目で「東西線の側道は成田新幹線計画よりも先に作られている」ということが分かる。
これは、先にあげた近藤喜重・市川市議会議員が市川市議会で行った質問からの抜粋である。
上の年表では、1964(昭和39)年の営団地下鉄の免許申請からスタートしているが、実際には、1963(昭和38)年から地元との調整が始まっていることが分かる。
約10年間の東西線建設と地元の街づくりの調整の歴史が最終段階になって調整なしに乱入してきた成田新幹線によってひっくり返されようとしている経緯がお分かりになろう。
これは近藤議員の質問に対する市川市土木部長からの答弁である。
「せっかくいままでお骨折りをいただきまして、解散の時期に来ているわけでございますが、この時期もおのずから延びるということで、私ども区画整理を担当してる者といたしましてこの成田新幹線問題はたいへん困った問題ということで苦慮しているわけでございます。」
単に「プロ市民」の声が大きいのではなく、行政としても「たいへん困った問題ということで苦慮」しているのだ。
現在存在する東西線の立派な側道と成田新幹線の計画は全く関係ないことがお分かりいただけたのではないかと思う。
仮に、「東西線と成田新幹線がぴったり張り付くような線形になっていた」としても、それは今の側道とは切り離して、改めて整備されるべきものである。
(※草町義和氏は「東西線の側道が成田新幹線の遺構だ」と言っているわけではないのでそこはご留意を。)
江戸川区内の葛西地区等も精査すれば同様の事情が明らかになる可能性があるのではないかと思われる。
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「成田新幹線計画がおおっぴらにされていなかっただけで、実は地元の反対を呼ばないように水面下で調整して、側道の名目で土地を確保していたんじゃないか」
という考えを持つ方もいらっしゃるかもしれない。
それならば、東西線の側道が成田新幹線の高架が収まるだけの幅を確保している必要があるのではないか?
ここからは
「そもそも、東西線の側道の幅に成田新幹線は収まるのか?」
について検証してみたい。
上記は、1972(昭和47)年6月9日参議院運輸委員会における長浜正雄氏(日本国有鉄道理事)の答弁であるが、
新幹線の側道について「側道を4メートル片側、あるいは地域によりましては両側につくるようにしております」と答弁している。
そして、上の図面は、「成田新幹線工事の概要」日本鉄道建設公団東京支社・刊に掲載されていた成田新幹線の標準的な構造物の横断図面である。
国鉄長浜理事の答弁によれば当時の、新幹線の標準的な側道の幅員は4メートルとのことであるから、実際の用地買収の幅は、側道が片側のみの場合15メートル、側道が両側に設けられる場合は19メートル以上となる。
これが東西線の今の側道におさまるのだろうか?
なお、市川市議会議員の質問にもあったように構造物の実測値に50cmを加えて用地買収を考えていたようである。
実際には、側道等の条件は地元と協議してからでないと確定しないものである。
上記は、JR東海のリニア建設手順の説明用の資料からの抜粋である。
ここにいう「鉄道と交差する道路や水路の付け替えについて地元と協議」のうえ決まるものであり、この質疑の段階ではそんな協議は当然進んでいないので、新幹線の高架橋の部分だけの幅が取り上げられたのだろう。実際にはこのような協議にまでは至らずに新幹線工事は断念されたと思われる。
新幹線が収まるためには、片側に側道込みなら15メートル、側道なしでも11.5メートル、両側に側道ありなら19メートル必要と思われるが、東西線の側道の幅はそんなにあるのか?。
市川市のウェブサイトで道路幅員を調べてみる。よろしければ、下記のリンク先からみなさんもどうぞ。
https://www.city.ichikawa.lg.jp/roa02/1111000057.html
https://www.city.ichikawa.lg.jp/common/000238974.pdf
11.5メートル以上の幅はなさそうですね。。。
https://www.city.ichikawa.lg.jp/common/000238999.pdf
10メートルちょっとしかない区間もありますね。側道の幅員を計算に入れないとしても成田新幹線の高架橋自体が収まりませんね。
「成田新幹線計画が頓挫したので、その用地を側道に転用した」という趣旨の話をネット等で見聞きするが、もしそうであれば、東西線側道の幅員は最低でも11.5メートルは欲しいところだ。
しかし、実際には11.5メートルどころか、10メートルちょっとしかない区間もあり、成田新幹線の側道なしの高架橋だけの幅を考えたとしても、東西線の側道には収まらない。
ここに成田新幹線の側道4メートルを加えれば、片側だけでも15メートル以上となり、今の東西線側道から更に約5メートル広げる(=追加用地買収する)必要があることになる。
ということで
「成田新幹線計画がおおっぴらにされていなかっただけで、実は地元の反対を呼ばないように水面下で調整して、側道の名目で土地を確保していたんじゃないか」
という考えは否定されたと言っても過言ではないだろう。
なお、実際には、国鉄・鉄道建設公団と地元自治体との事前調整はなかったことが当時の報道から分かる。
成田新幹線が沿線の殆どの自治体から反対されて頓挫したのは、この「あえて事前の説明なしに計画を決定する」(鉄道建設公団東京新幹線局 清崎義春次長)という作戦の失敗によるところが大なのではないか?と私は考えている。ぶっちゃけ「プロ市民」云々以前に地元行政から「総スカン」のまま終始したのが成田新幹線である。
同じように住民以前に地元自治体から「総スカン」だった当時の首都圏の鉄道建設計画では、都内・埼玉県内の東北新幹線や横浜貨物線があった。東北新幹線では、赤羽駅立体化、埼京線、ニューシャトル等の「おみやげ」があったし、横浜貨物線については、横浜市側に「みなとみらい計画地区内にある国鉄の貨物駅敷地を有利に取得しよう」という取引材料があった。ところが成田新幹線は「おみやげ」どころか、千葉県営鉄道計画とバッティングするのであった(結局共倒れ)。この辺はまた別稿としたい。
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最後にもう一つ、行徳地区と成田新幹線の話題を検証してみよう。
成田新幹線建設用地と言われるマンション「レールシティ行徳」の土地の登記簿を閲覧したので、分析してみた。
「また,行徳駅の少し先にはごくわずかではあるが,成田新幹線用の建設用地を買収した記録が残っており,現在その場所にはマンションが建っている.ただ,この建設用地に成田新幹線の高架橋をそのまま建設すると,東西線と成田新幹線の間に側道を挟みこむ形になってしまう.これでは側道の意味をなさないので,実際には建設用地として買収した土地を側道と交換したうえで,成田新幹線の高架橋を建設することになったのではないだろうか.」
「幻の成田新幹線をたどる」草町義和・著
「鉄道ファン」2008(平成20)年8月号 113頁から
「(略)市川市に入ると東西線行徳駅の少し先に、ごく僅かではあるが成田新幹線の建設用地を買収した記録が残っていた。現在その場所には「レールシティ」という名前のマンションが建っている(略) 」
「幻の成田新幹線をたどる」草町義和・著
「鉄道未完成路線を往く」講談社・刊 28~29頁から
草町義和氏が「成田新幹線建設用地」とするレールシティ行徳の位置を、さきほどご紹介した市川市のウェブサイトから紹介するとこちらである。
https://www.city.ichikawa.lg.jp/common/000238974.pdf
同様に、市川市ウェブサイトの区画整理事業の頁から拾うと、上記の38街区③-1、③-2、③-3である。
https://www.city.ichikawa.lg.jp/common/cit02/file/0000360551.pdf
で、当該レールシティ行徳の所在地の土地の不動産登記簿をとってみた。
上記の区画整理事業の③-1~3はあくまでも区画整理事業の土地の表示であって、実際の不動産登記簿では「市川市末広町一丁目15番11~13」で、現在は3つの筆を15番11に合筆している。
ここで注目したいのは、右上「原因及びその日付」の項の「土地区画整理法による換地処分により保留地設定」という記載である。
「土地区画整理法による換地処分により保留地設定」とはなんぞやということだが、他の土地区画整理事業の説明資料からコピペしてきたらこんな感じ。
「土地区画整理事業による市街地の整備は、受益者負担に基づき地権者からの土地の提供(減歩)により行われる。減歩により新しく生み出された土地は、公共用地(道路や公園)と売却する土地とに分けられるが、売却し事業費の一部に充てる土地が保留地である」
減歩により新しく生み出された土地のうちの「公共用地」の例が、先に上げた東西線用地やその側道である。
レールシティ行徳の土地は、減歩により新しく生み出された土地のうち、「売却し事業費の一部に充てる土地」だったのである。
○土地区画整理事業は、道路、公園、河川等の公共施設を整備・改善し、土地の区画を整え宅地の利用の増進を図る事業。
○公共施設が不十分な区域では、地権者からその権利に応じて少しずつ土地を提供してもらい(減歩)、この土地を道路・公園などの公共用地が増える分に充てる他、その一部を売却し事業資金の一部に充てる事業制度。(公共用地が増える分に充てるのが公共減歩、事業資金に充てるのが保留地減歩)
○事業資金は、保留地処分金の他、公共側から支出される都市計画道路や公共施設等の整備費(用地費分を含む)に相当する資金から構成される。これらの資金を財源に、公共施設の工事、宅地の整地、家屋の移転補償等が行われる。
https://www.mlit.go.jp/crd/city/sigaiti/information/budget/budget/images/H20kg1.pdf
これは、土地区画整理事業を所轄する国土交通省のウェブサイトからひいてきた。
ちなみに、行徳土地区画整理事業の場合の減歩率は19.44%。自分の土地の2割をそれぞれが道路、公園や事業費用に売却する保留地のために差し出して作った街並みなのである。
で、その保留地はどのように売却していたかというと、
1972(昭和47)年2月20日付読売新聞(千葉版)では「毎月1回、組合の保留地を分譲しており、5倍の競争率で飛ぶように売れている。」とある。
競争による売却というと、価格競争(入札)か、定価による抽選等が考えられるが、「5倍の競争率」ということであれば、抽選で売却していたのだろうか。
その「飛ぶように売れている保留地」が新幹線公害で売れなくなると、既に施工した区画整理事業の事業費が回収できなくなってしまうから地元は深刻なのである。
上記の記事の後になる、1972(昭和47)年3月24日付毎日新聞では、「入札の客が激減」、「買いたたかれピンチ」、すでに保留地を買った人から「新幹線を隠して売った」「とんだ土地を買わされた」などの苦情も出ていると報じている。
なお、何度も紹介している近藤議員の質疑があった市川市の昭和47年3月議会において「陳情57号 成田新幹線通過反対に関する陳情」は反対なく採決されている。プロ市民ならぬプロ市議会ですな。
(※こういう経緯を知らないと、成田新幹線への反対運動は理解できないと思う。)
ということで、レールシティ行徳の土地は、区画整理事業費に充てるために売却された「保留地」なんである。
保留地だからといって何なんだよというのはこれから説明したい
通常の用地買収なら、土地の測量をして高架橋等の設計図と照らし合わせて、必要な土地の範囲を確定し、その土地の所有者等と売買の交渉をして、合意すれば土地売買契約を締結することになる。
しかし、レールシティ行徳の土地は、保留地=「区画整理事業の事業費に充てるために売却された土地」である。
実際には、抽選に参加したうえで取得したであろう第三者から鉄道建設公団が転売(交換)してもらったようだ。
その取得目的は、鉄道施設敷地として買収が必要な土地の「代替地」として交換するために予め買収しておくといったものである可能性も考えられる。
もちろん、「保留地を建設用地として買ってはいけないきまり」があるわけではないので、例えば詳細な高架橋や側道の設計図等をもとに、「成田新幹線の建設用地(側道の交換用地等を含む)として必要な土地が、保留地として売りに出されたので、これ幸いとばかりに鉄道建設公団が買収したのだ」ということを立証することも可能だ。グッドな公文書等があれば。
また、先に上げたように、東西線用地は「区整を対象とした,保留地先買方式」であることを説明したが、これはまさしく鉄道事業者と地権者が事前に交渉・合意して、東西線用地を他の区画整理用地から先行して決めてしまって工事の早期施工を実施可能としたものだ。
レールシティ行徳の用地でもそのような取り決めをした可能性は否定できない。しかし、成田新幹線に猛反対していた地元事情からは、それを立証するのは並大抵ではないように思うのは私だけだろうか?
ちなみに、東西線の側道の幅が約11メートル、レールシティ行徳の土地の奥行きが上図から約20メートルなので、日本鉄道建設公団が千葉県に説明した(と報道されている)ように成田新幹線は「東西線に沿って高架で浦安町にはいり、東西線の南側50メートルを東進、京葉道路をまたぐ」 ルートをとっているのであれば、この筆は成田新幹線にはかからないことになる。
なお、今回取得した登記簿は、電算化する前の記録が省略されているが、鉄道建設公団が本件土地を取得する前に、他の不動産業者等が契約のうえ、公団に転売(交換)しているようだ。
(新横浜駅の土地をダミーの不動産業者を使って買い占めた堤康次郎のような事例もある。)
電算化前の閉鎖登記簿も閲覧したのだが、かえって不明な点も出てきた(とりあえず形式的に立ててみた仮説を潰すこともできたが)ので、引き続き調査を行い、判明したものは別稿としてUPしたい。
そういう意味では保留地云々の部分は「とりあえず気が付いたのでブログ読者の皆様に課題を共有しておく」といった位置づけである。
ただし、レールシティ行徳の土地がそこにあるからというだけでは、「東西線の高架橋にぴったり張り付くような線形」であることの証拠としては、弱いと言えるのではないかと私は考えている。
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と、長々と成田新幹線の行徳地区通過ルートや伝・建設予定地について触れてきたが、最後にまとめに入りたい。
〇 日本鉄道建設公団が千葉県に対して、成田新幹線は「東西線の南側50メートル」と示したとする報道がある他、市川市議会での問答や市川市長の発言を伝える報道もそれと矛盾しない。
〇 運輸省の「新東京国際空港関連交通計画調査 報告書」では、妙典駅付近を「東西線の南側50メートル」と思われる形で「新幹線ルート」が走る図面が掲載されている。
〇 東西線の側道は、成田新幹線計画以前に地元の区画整理事業によってつくられたもので、成田新幹線とは全く関係ない。
〇 東西線の側道は、成田新幹線の高架橋の幅が収まらない箇所がある他、行徳駅等の形に沿ってカクカクと曲がっている。また、行徳駅は更に外側に線増の計画がある。
〇 レールシティ行徳の土地は、もともと区画整理組合の一般売却用の保留地であって、新幹線建設(側道交換)用地とは断言できないかもしれない。
微力ではあるが、本稿が成田新幹線の「正式な予定ルート」の理解への一助になれば幸いである。
長文お付き合いいただきありがとうございました。
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<参考文献>
「成田新幹線東京・成田空港間線路平面図」日本鉄道建設公団
「成田新幹線工事の概要」日本鉄道建設公団東京支社・刊
「成田新幹線の建設計画」 延原陽(日本鉄道建設公団新幹線部)・著 「電気車の科学」1972(昭和47)年4月号
「新東京国際空港関連交通計画調査 報告書」運輸省
浦安町誌
市川市議会議事録
「東西線建設史」帝都高速度交通営団・刊
「幻の成田新幹線をたどる」草町義和・著 「鉄道ファン」2008(平成20)年8月号
「鉄道未完成路線を往く」草町義和・著 講談社・刊
「全国未成線ガイド」草町義和・監修 宝島社・刊
「鉄道計画は変わる」草町義和・著 交通新聞社・刊
「記念誌 区画整理のあゆみ」南行徳第一土地区画整理組合・刊
「記念誌 区画整理のあゆみ」南行徳第二土地区画整理組合・刊
「記念誌 区画整理のあゆみ」南行徳第三土地区画整理組合・刊
「記念誌 区画整理のあゆみ」行徳土地区画整理組合・刊
「江戸川区区画整理事業四十年の歩み」江戸川区土地区画整理事業団体連合協議会・刊
その他 各種新聞、国会議事録等
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<「成田新幹線」関係記事>
「京葉線の東京駅は、成田新幹線用に確保した用地に作った」という人が多いから登記簿をとってみた
http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2021/06/post-cd1945.html
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