カテゴリー「未成道・未成線」の159件の記事

2021年9月26日 (日)

川島令三が「奥羽新幹線用地と確信する」と述べる福島市の森合緑地の登記簿を取ってみた。

福島市内の、東北新幹線が福島駅を出て北上するとすぐの市街地に「森合緑地」という緑地帯がある。

 

 で、下記のようなツイートが見受けられるところである。

 こういうことを言い出すのは、川島令三だろうと思ったみなさん。ビンゴです。

【川島令三】全国未完成鉄道路線

川島令三が福島の森合緑地を奥羽新幹線予定地だと言っている

「【新説】全国未完成鉄道路線」川島令三・著 講談社・刊152頁から


 本来の奥羽新幹線は、福島駅を出てしばらく東北新幹線と並行、上り線が高くなって東北新幹線と立体交差し、そして別れると想定していた。そのために盛岡駅寄りには少しの距離だが、複々線にできる構造があるはずである。

 そこで福島駅を降りて東北新幹線に沿って歩いてみた。そうすると、福島駅から東北新幹線信夫山トンネルの手前まで、高架線に沿って両側に緑地があるのがわかった。やはり、奥羽新幹線分岐用用地を確保していたのである。この用地は森合緑地となっている

 そこで、付近を散歩している人に、「この緑地はいつからあるのか」と聞くと「開通してからずっとある」との返事、なんであるのかと再び聞くと「騒音防止のための緑地ですかね」という。国鉄はまったくなにもいわなかったから、そのように思われているのである。

 しかし、これは奥羽新幹線と東北新幹線とが複々線でトンネルまで進むための用地と確信する。緑地帯の両側には側道がある。これは市街地の高架線の両側に側道を設置しなければならないことから設けられたもので、分岐合流する新幹線駅以外には、側道はあっても緑地帯はない。

 通常、新幹線の分岐合流駅などで用地を確保した場合は、雑草が生えるにまかせて放置されているが、福島駅では緑地帯になった。奥羽新幹線は、もうできないと考えられているからである。

 

「全国未完成鉄道路線」川島令三・著 講談社・刊154~155頁から

 で、まずは福島市森合町内の東北新幹線が走る部分の公図をお見せしよう。

奥羽新幹線予定地と川島令三が言っている森合緑地の公図

 72-1が東北新幹線で、72-7と68-6がその両脇の森合緑地である。

 もし、ここを今後とも奥羽新幹線予定としているのであれば、そこはJR東日本なり、鉄道整備機構なりの名義の土地であるのが自然だろう。

 68-6の登記簿をお見せしよう。

奥羽新幹線予定地と川島令三が言っている森合緑地の登記簿

 当初は鉄道用地だったが、1997(平成9)年に東日本旅客鉄道から福島市に売却され、現在は公園用地となっている。

 「平成9年なら山形新幹線開業後じゃねえか、山形新幹線ができたから奥羽新幹線用地としては用無しになって福島市に売却したんじゃねえの?」

という声もあろうかと思う。

山形新幹線経緯

https://www.city.sakata.lg.jp/shisei/shisakukeikaku/kikaku/tetsudo_kosoku/shinkansen-enshin.files/enshin-2.pdf

 上記は、山形新幹線の建設経緯だ。

 ところで、都市計画図を見てみる。

奥羽新幹線予定地と川島令三が言っている森合緑地の都市計画図

https://www.sonicweb-asp.jp/fukushimacity/map?theme=th_13#scale=1875&pos=140.46015085522194%2C37.76496067252871&feature=5017(th_13)%3A2285930

 森合緑地は、1981(昭和56)年12月15日に都市計画緑地として都市計画決定されている。

 東北新幹線の大宮~盛岡間の開通が、1982(昭和57)年6月23日だから、新幹線開通の半年前から、森合緑地は公園になることが決まっていたのである。

 山形新幹線の経緯等ほとんど関係ないと言っていいだろう。

 

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 ところで、ネタバレになるのだが、当時東北新幹線建設に従事した国鉄職員が建設業界誌にこんなことを書いている。


 東北新幹線は昨年三月に上野乗入れが実現し、ほぼ建設が完了した。昭和四十六年に着工して以来、実に十四年近く要したこととなる。

 私は前半の六年半にわたり建設工事に関与させていただいたので、この間の若干の思い出と感想を述べてみたい。

(中略)

 私は昭和四十八年の秋に福島県下約九十キロの建設工事を担当することとなり、本社より仙台新幹線工事局福島工事事務所へ転勤になった。

(中略)

 話は変わるが、福島駅を挟む前後約二キロの区間は、現駅に新幹線を併設した関係で密集した市街地を通過することとなった。特に北部の信夫山までの間は閑静な住宅地となっており、この地区を新幹線が高架で通過することに対して大反対があった。当時、大宮附近でも同様な問題が起きていたようであるが、新幹線歓迎ムードの東北地方で、最も地元との話し合いが難航した地区の一つといえよう。ルートを地下に変更することが当初の要求であったが、事実上不可能なことを何回となく説明すると同時に、騒音、振動対策として可能な限りの手を尽くすことで協議を進めた。御承知のように新幹線の騒音、振動は線路から離れるとともに急速に減すいすることから、線路の両側にそれぞれ五十メートル程度の緩衝地帯を設けることは止むを得ないが、線路幅の五倍もの土地を無条件で買収することは許されないため、次のような考え方をとることとした。

(1)線路と交差する街路は交差個所数を集約して構造物の経費を節減し、線路沿いに付け替え道路を設けることとした。

(2)線路の両側に四メートルの工事用、保守用道路を設けることとした。

(3)前記以外の用地は自治体に負担してもらうこととし、緩衝地帯についての街路及び公園等としての整備を都市計画事業としてお願いすることとした。

 このようにして地元の要望を踏まえ、自治体の絶大な御協力を戴いた御蔭で、円満に工事が進められることとなった。

(中略)

 このような経験から、今後の新幹線建設にあたって、市街地の線路は都市計画との調整が必要不可欠の条件として考えられ、むしろ都市計画事業により線路敷を生み出す方が望ましいと考えている。

 

「東北新幹線のこと」 日本鉄道建設公団・計画部長(当時)安原 明・著 「建設業界」1986(昭和61)年1月号 47~48頁から

 現在の地図等を見ると「線路の両側にそれぞれ五十メートル程度の緩衝地帯」ではなく、「線路の両側合計で五十メートル程度」なんじゃないかなとも思いつつ、公園としての都市計画やら地元の費用負担等の平仄があう。 

 また、川島令三が「 なんであるのかと再び聞くと「騒音防止のための緑地ですかね」という。」と書いているのも、別に間違いでもなんでもない。

  

 東北新幹線建設前の様子を今昔マップで確認してみると、確かに「密集した市街地」である。

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 森合緑地から話は離れるが、安原氏は「このような経験から、今後の新幹線建設にあたって、市街地の線路は都市計画との調整が必要不可欠の条件として考えられ」と書いてあるのを見て「え?東北新幹線って都市計画決定していないの??」と思う読者の方もいらっしゃるかもしれない。

東北新幹線と都市計画決定

https://www.sonicweb-asp.jp/saitama_g/map?theme=th_33#scale=2500&pos=139.627640990906,35.881667751054714

 これはさいたま市の埼京線与野本町駅付近の都計図だが、御覧のとおり、新幹線も埼京線も都計施設ではない。

 埼玉県庁に国鉄職員が現れて、20万分の1の地勢図に赤鉛筆で線を引いてここに新幹線を作りますって話をして、あとは国鉄と運輸省で許認可の手続きを進めて国が工事の認可をして、はいスタートという感じだったのだ。

 つまり、地元住民どころか、地元自治体ともロクに事前調整していなかった。

 なので、東北新幹線や成田新幹線で住民だけでなく、自治体まで反対する結果となってしまった。

 そんなことも踏まえて、安原氏は「市街地の線路は都市計画との調整が必要不可欠」と、開通後に言っているわけだ。

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 ということで、川島令三の「線路際に空き地が見えると未成線に見えちゃう病」の一つを検証してみた。 

 個人的には、営業中の新幹線の両側に平行してトンネルを掘るだけでも超大変なのに、更にそれを信夫山の中でクロスするなんてどれだけ難工事だよ、ありえねえだろうと思うのだが。 

 川島令三は、鷲羽山トンネルみたいな四連のトンネルが簡単にできると思ってるんじゃないかな。実際には「簡単にはできないから、いつ通るかも分からない四国新幹線用のトンネルも最初からある程度掘っておいた」というのが正確だと思うのだけど。

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2021年9月24日 (金)

交通新聞社「新しい西武鉄道の世界」結解喜幸氏の新宿駅乗り入れ記事がひどい~西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(26)

 

交通新聞社「新しい西武鉄道の世界」結解喜幸氏の新宿駅乗り入れ記事がひどい (1)

 交通新聞社から2019(令和元)年に発行されたトラベルMOOK「新しい 西武鉄道の世界」に、結解喜幸氏が「なるほど西武 仮駅が本駅となった西武新宿駅」というコラムを書いている。

 以前から怪しいなあと思っていたのだが、じっくり腰を据えてチェックしたらえらいことになってしまった。

 上図のように、コラムの面積(分量)のうち、半分くらいが怪しい。 

 以下、気づいた点を検証していく。 

交通新聞社「新しい西武鉄道の世界」結解喜幸氏の新宿駅乗り入れ記事がひどい (2)  

 「駅名の上の四角い広告スペースに線路が敷かれる計画だった」ということは、上図写真に私が赤枠でかこった辺に西武新宿線が乗り入れると結解喜幸氏は言いたいのだろうか?

 なお、国鉄の「東建工」1965(昭和40)年2月号38頁では、下図のとおり、向かって右隅である。

 また、「広告スペース」だと、2階ではなく、3階に乗り入れることになってしまう。
 

交通新聞社「新しい西武鉄道の世界」結解喜幸氏の新宿駅乗り入れ記事がひどい (3)  

 右側の国鉄の「東建工」1965(昭和40)年2月号41頁に掲載された模型でも、向かって右隅に西武新宿線のホームが取りついている。


 結解喜幸氏の「駅名の上の四角い広告スペースに線路が敷かれる計画だった」との記述と比較して、如何だろうか?
 

交通新聞社「新しい西武鉄道の世界」結解喜幸氏の新宿駅乗り入れ記事がひどい (4)  

https://www.regasu-shinjuku.or.jp/photodb/det.html?data_id=7245  

に掲載されたビル竣工間もないころの写真でも、ビルの向かって右側に仮囲いが設置されていることが分かる。
 

 

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交通新聞社「新しい西武鉄道の世界」結解喜幸氏の新宿駅乗り入れ記事がひどい (5)  

なぜ国鉄の新宿駅まで線路が伸びなかったのか?


→結解喜幸氏「当時の新宿駅東口は戦後の区画整理・整備復興が行われていたから


→西武鉄道公文書「国鉄新宿駅東口の民衆駅企画中だったため、当局からビルの建設時迄乗入れを待つ様勧告を受けたから
 

 なお、西武の上記公文書については、こちらもあわせてご参照いただきたい。 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2021/09/post-bbae59.html 

交通新聞社「新しい西武鉄道の世界」結解喜幸氏の新宿駅乗り入れ記事がひどい (6)  

 結解喜幸氏は、「駅ビル“新宿民衆駅ステーションビル”として建設されることとなり」と書いているが、国鉄の「東建工」1965(昭和40)年2月号41頁に掲載された「出願経緯」には、そのようなビル名は出てこない。

 では、結解喜幸氏は、一体どこから「新宿民衆駅ステーションビル」という用語を持ってきたのだろうか?
 

交通新聞社「新しい西武鉄道の世界」結解喜幸氏の新宿駅乗り入れ記事がひどい (7)  

 結解喜幸氏は、「新宿民衆駅ステーションビル」という珍語を使っているが、これは日経の河尻定氏の記事が、元ネタの新宿歴史博物館が発行した「ステイション新宿」を不正確に引用(本来は「百貨名店街ビル」)しているものを、結解喜幸氏が元資料にあたらずにそのままコピペしたのではないか?
 

交通新聞社「新しい西武鉄道の世界」結解喜幸氏の新宿駅乗り入れ記事がひどい (8)  

 大元も資料から河尻定氏経由で結解喜幸氏に繋がる「負の連鎖」はこうなってるのではないだろうか? 

 (関係者の方から違うというご指摘があれば、是非ご教示ください。)

交通新聞社「新しい西武鉄道の世界」結解喜幸氏の新宿駅乗り入れ記事がひどい (9)  

 仮に結解喜幸氏が、元ネタと思しき、「百貨(店)名店街ビル」として記事を書いたとしても、「百貨名店街ビル」は競合案の一つに過ぎないので「駅ビル“新宿東口民衆駅百貨店名店街ビル”として建設されること」にもならないのでご留意を。
  

交通新聞社「新しい西武鉄道の世界」結解喜幸氏の新宿駅乗り入れ記事がひどい (10)  

 結解喜幸氏は、「当時木造駅舎だった新宿駅」と書いているが、国鉄の「東建工」1965(昭和40)年2月号9頁には「鉄筋コンクリート造」と書いてある。

 上図下段右の写真は、同号8頁に掲載された新宿駅東口の駅舎である。

 
 これが木造ねえ。。。 

 

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交通新聞社「新しい西武鉄道の世界」結解喜幸氏の新宿駅乗り入れ記事がひどい (11)

 結解喜幸氏は、「新宿線は(略)8両編成の列車が運転されるようになっていた」と書いているが、西武鉄道の社内報の104号(1966(昭和41)年8月号21頁に「西武新宿 各ホームを八両用に延ばす」と題した記事があり、この中で「こんど輸送力増強に伴い新宿線にも八両編成電車運転の必要が生じた」と書かれている。

 つまり、駅ビル開業時点では、 「新宿線は8両編成の列車が運転されるようになっていなかった」と解さざるをえない。

 なお、西武が乗り入れを取り下げたのは、ビル開業翌年の1965(昭和40)年で、それまでの間は当局と協議中だったので、駅ビル開業時にホームが設置されていないことと断念は直接は関係ない。
 

 

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交通新聞社「新しい西武鉄道の世界」結解喜幸氏の新宿駅乗り入れ記事がひどい (12)  

 結解喜幸氏だけでなく、「天井が高い吹き抜け部分があるが、この空間こそが西武新宿駅となるものだった」という趣旨を語る鉄道系ライターは後を絶たない。

 以前も 

「東京 消えた! 鉄道計画」中村建治(著)が怪しい~西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(番外編)

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/07/jr-286b.html

という記事を書いた。
 一体、なぜなのだろうか?
 

※参考 下段右の写真は、JRの駅舎の吹き抜けの中に都市モノレールホームが入ってきている小倉駅の様子である。  

 こんな感じに、ルミネエストの吹き抜けに西武新宿線のホームができることを妄想しているのだろうか? 

交通新聞社「新しい西武鉄道の世界」結解喜幸氏の新宿駅乗り入れ記事がひどい (13)  

 国鉄の「東建工」1965(昭和40)年2月号107頁に掲載された図面では、「西武高架」が駅ビルと山手貨物線の間に設けられているとともに、電車の建築限界が、駅ビルの吹き抜けよりも高いことが分かる。


 つまり、あの吹き抜けの高さでは、物理的に電車が収まらないのである。


 結解喜幸氏だけでなく、「天井が高い吹き抜け部分があるが、この空間こそが西武新宿駅となるものだった」という趣旨を語る鉄道系ライターの皆さんはこの図面を見ていないのだろうなあ。
 

交通新聞社「新しい西武鉄道の世界」結解喜幸氏の新宿駅乗り入れ記事がひどい (14)  

 再掲となるが、国鉄の「東建工」1965(昭和40)年2月号38頁に掲載された図面では、中央の「吹抜」と右上の西武鉄道改札が完全に独立していることが分かる。

  結解喜幸氏だけでなく、「天井が高い吹き抜け部分があるが、この空間こそが西武新宿駅となるものだった」という趣旨を語る鉄道系ライターの皆さんはこの図面を見ていないのだろうなあ。
 

交通新聞社「新しい西武鉄道の世界」結解喜幸氏の新宿駅乗り入れ記事がひどい (15)  

 ちなみに国鉄公式の図面ではないが、駅ビル会社が1961(昭和36)年12月に発行した「株式会社新宿ステーションビル事業案内」に掲載された図面が、駅ビルの吹き抜けと西武線ホームとの関係を一番よく表している。

 (時点が違うので、「東建工」の竣工図面とは細部が異なる。)

 この図面の現物を閲覧ご希望の方は下記ツイートを参照のこと。
 

 

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交通新聞社「新しい西武鉄道の世界」結解喜幸氏の新宿駅乗り入れ記事がひどい (16)  

 この記事を作っていて気が付いたのだが、表紙の「西武鉄道の世界」の題名で、「の世界」の字に合わせて、水色のククリがある。で、「鉄道」の字にも水色の線が突き抜けている。

 なんだこりゃと思ったが、「の世界」の部分だけフォントの大きさを変えてレイヤーを張り付けたときに、そのククリを残したまま統合しちゃったのかな?

 担当編集の野坂隆仁さん、いろいろ頑張れ。
 

 

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(1)プロローグ

(2)戦前の新宿駅乗り入れ構想

(3)戦後新宿駅乗り入れの具体化へ

(4) 魑魅魍魎うずまく新宿ステーションビル

(5)新宿ステーションビルへの西武線乗り入れ

(6)新宿ステーションビルへの乗り入れ中止

(7)地下道による西武新宿駅と営団地下鉄・国鉄新宿駅との連絡

(8)西武新宿線の営団地下鉄東西線・有楽町線乗り入れ構想

(9)西武新宿駅の開発

(10)西武新宿線の地下複々線化による新宿駅乗り入れ

(11)西武百貨店堤清二による新宿ステーションビル乗っ取り失敗

(12)高島屋、西武に競り勝ち、新宿へ悲願の進出

(13)新宿駅東口2階の吹き抜けに西武新宿線が乗り入れるはずだったのか?

(14)新宿ステーションビルとベルクと井野家

(15・終)エピローグ

 

 一旦終わった後に、その後ネタを追記 

(番外編)「東京 消えた! 鉄道計画」中村建治(著)が怪しい

(16)西武新宿駅を大江戸線新宿西口駅に直結させる計画が1982年にあった 

(17) 西武新宿駅は、元々地下鉄乗換えを考慮して地下に設置する構想だった

(18) 新宿ステーションビルの店舗募集資料から西武線のホームと吹き抜けの関係を確認してみる

(19)西武新宿線の新宿駅ビル乗り入れの図面を国鉄の内部資料から確認してみる。 

(20)西武新宿線の新宿駅ビル乗り入れの図面を国鉄の内部資料から確認してみる。(その2) 

(21)思いもつかないところから西武線新宿駅乗入れのカラー想像図が 

(22)都庁幹部が語る西武乗り入れ中止の背景 

(23)構想以来65年ぶりに西武新宿駅と新宿駅を結ぶ地下道が実現に向けて動き出した 

(24)西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れ撤退の理由が書かれた公文書 

(25)「ステイション新宿」をそのまま一次資料として丸呑みしては危険 

(26)交通新聞社「新しい西武鉄道の世界」結解喜幸氏の新宿駅乗り入れ記事がひどい 

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「ステイション新宿」をそのまま一次資料として丸呑みしては危険~西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(25)

 前回の記事「西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れ撤退の理由が書かれた公文書~西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(24)」で、「西武って公文書に載っているからといって何が本当かよくわからん」と書いたところである。

 で、今回はよく使われる資料について検証してみたい。

 

 西武新宿線の新宿駅延伸にあたって、最も引用されていると言っても過言ではないのが、新宿区立博物館が企画展示にあたって発行した「ステイション新宿」の「西武新宿線東口乗入れ計画」の頁である。

ステイション新宿における西武線新宿駅乗り入れの経緯

「ステイション新宿」82頁から

 鉄道趣味関係の書籍等ではここをほぼ丸写ししたようなものも珍しくない。


 ようやく1950年代の中頃になって、新宿駅舎を取り壊して新たにステーションビルを建設する計画が立ち上がった。その際に発表された「新宿東口民衆駅百貨店ビル設計図」によれば、西武新宿線は高架でビルの2階に乗り入れ、2階にホームと出改札口を設け、高架下に歩道が設けられることになっていた。

 

「そうだったのか、新宿駅」 西森聡・著 交通新聞社・刊 89頁から

 しかし、西森聡氏はコピペもまともにできないようで、「新宿東口民衆駅百貨店名店街ビル設計図」を「新宿東口民衆駅百貨店ビル設計図」と書いている。

 もっとも、国鉄や新宿ステーションビルの資料を見ると「百貨名店街ビル」が正しいようだ。新宿歴史博物館の「ステイション新宿」も「百貨名店街ビル株式会社創立事務所発行の「新宿東口民衆駅百貨店名店街ビル設計図」によれば」としており、意図的に使い分けているのかもしれない。単純な誤植かもしれない。よくわからないが、いずれにせよ西森聡氏の「そうだったのか、新宿駅」は間違いだ。

 このように、多くの鉄道趣味誌やネット記事では「2階にホームと出改札口」としている。

 しかし、実際には1階にも西武線の改札は予定されていた。

西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (1)

 これは1964(昭和39)年に竣工した「新宿民衆駅=新宿ステーションビルディング」に係る国鉄社内誌「東建工」1965(昭和40)年2月号である。

西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (30)

 1階の「びゅうプラザ」のあたりは元々西武線の改札だったことが分かる。

西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (31)

 2階の改札の他に3階には西武の駅長室があったことも分かる。

 しかし、1階の改札や3階の駅長室の存在が鉄道趣味誌に取り上げられることは稀である。

西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (9)  

 旅客流動図を見ると2階改札33に対して1階改札51の比率になっており、1階改札口がメインであるにも拘らず、鉄道趣味誌は頑なにその存在を無視するのである。

 何故か。それは国鉄の竣工図面を見ずに、「ステイション新宿」をコピペしているからではなかろうか?

 そして、最終形の「新宿ステーションビル」の図面を見ずに、「ステイション新宿」に出てくる「新宿東口民衆駅百貨店名店街ビル設計図」頼りになっているからではなかろうか?

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 そもそも、「新宿東口民衆駅百貨(店)名店街ビル」とは何なのか?

 これも上記の国鉄社内誌「東建工」1965(昭和40)年2月号「特集 新宿東口民衆駅」に出てくる。

西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (33)

 「新宿民衆駅は、髙島屋と伊勢丹、西武等が競願した(なので調整に時間がかかった)」ということをご存じの方は結構いらっしゃると思う。

国鉄新宿民衆駅(新宿ステーションビル、マイシティ、ルミネエスト)の経緯

 ざくっと並べるとこんな感じで大きく3つの会社の流れがある。伊勢丹や西武は真ん中の地元系と組んで、左側の髙島屋系の放逐を図った。その他の流れとして「新宿東口民衆駅百貨名店街ビル」が出てくる。

 実は、多くの鉄道系ライター諸氏が後生大事に引用してくる「ステイション新宿」に出てくる「設計図」は、競願大手3社の中で一番傍流の会社の案にすぎないもので、実際にはその後主流3社が合意した後に、国鉄や西武鉄道等と協議して最終の図面となったのである。それが「東建工」掲載の図面だ。

 では「ステイション新宿」が間違ったり嘘を書いたりしているのかというと、これはあくまでも新宿歴史博物館の企画展の図録であって、同博物館の貴重な途中段階の所蔵図面を紹介しているのだとすれば問題ない。

 問題なのは、その辺の経緯を無視したのか、最終段階の図面と思い込んだのか、横着したのか分からないが、さも最終段階の設計図であるかのように書いたりする鉄道系ライター諸氏等が問題なのである。


 1950年代終わり頃から、新宿東口駅舎を取り壊して駅ビルを建設する計画が立てられた。西武もこの計画に参加し、新宿線は駅ビルに乗り入れる予定になった。新宿歴史博物館の「ステイション新宿」では、新宿駅ビル設計図によると、西武線はビル2階に高架線で乗り入れ、2階には切符売り場・駅務室、1階にも駅務室が置かれる設計であったとされている[5]。

[5]新宿歴史博物館(編)『ステイション新宿』新宿歴史博物館、1993年、116頁。

 

wikipedia「西武新宿駅」2021(令和3)年9月23日閲覧

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%AD%A6%E6%96%B0%E5%AE%BF%E9%A7%85

 

 あくまでも途中経過の案の一つに過ぎない「百貨名店街ビル」の設計図であることを削除してしまったため、あたかも最終形の設計であるような記事となっており、ウソペディアの面目躍如である。

 


 1964年には、東口に駅ビル(現・ルミネエスト新宿)がオープン。西武新宿線のホームが接続する北側の2階には、駅の業務室などを設けるスペースが確保された。

 

「西武「大久保駅」構想は、なぜ幻となったのか 新宿乗り入れの裏に隠されたルートと新駅」草町義和

https://toyokeizai.net/articles/-/85651?page=2

 


1950年代後半になると、駅前の整備が進み始める。駅舎を取り壊し、「新宿民衆駅ステーションビル(現ルミネエスト)」の建設が始まった。西武はこのビルへの接続を予定していたのだ。新宿歴史博物館が編さんした「ステイション新宿」によると、鉄道はビルの2階に乗り入れ、改札も2階の予定だった。同館には当時の設計図の写真が残っている。

 

「西武新宿駅はなぜ遠いのか 幻の東口乗り入れ計画」河尻定 日本経済新聞「東京ふしぎ探検隊」

https://style.nikkei.com/article/DGXNASFK2103N_S2A121C1000000/

 河尻定氏は、「ステイション新宿」からコピペする際に、「新宿東口民衆駅百貨名店街ビル」の設計図であるとせずに、そこを(どういう意図があるかは、はかりかねるが)カットしてしまった。

 実は、西森聡氏の「そうだったのか、新宿駅」では、正確ではないにしろ「新宿東口民衆駅百貨名店街ビル」の設計図であると明示していたため、「これは最終形ではない」という逃げ道にはなったので、「まだマシなコピペ」だったが、河尻定氏の場合は、そこをカットしたため、「読者にこれが最終形であるという誤認を与える結果」となっている。流石日本経済新聞の記者は違うなー。 

 そしてもっと酷いのが次のページである。

日経新聞河尻定編集長の西武新宿線延伸に係る酷い記事

https://style.nikkei.com/article/DGXNASFK2103N_S2A121C1000000/?page=2に赤字で加筆

 まず、本来は「新宿東口民衆駅百貨名店街ビル」の設計図であるところ、河尻定氏は、何を考えたか「新宿民衆駅ステーションビル」の設計図としている。西森聡氏の「新宿東口民衆駅百貨店ビル設計図」は、コピペも満足にできないんですか(藁ですむところ、河尻定氏の「新宿民衆駅ステーションビル」は改竄に近い。上記に私が国鉄の資料を基に整理したように、元々新宿歴史博物館にある設計図は競合三社のうちの一つであって、施行にあたる最終的な設計図ではないことを説明したが、河尻定氏のキャプションは、そこを「ステーションビル」という言葉を使ってあえて最終形かのように誤認させるものである。

 これが意図的なものなのか、日経の校閲担当も含めた単純ミスなのかは分からないが、西森聡氏に比べて悪質さが格段に違う。

 また、更に酷いのが、設計図を上げた後に「実はこのときの計画の痕跡が今も残っている。ルミネエストの建物は1階の天井が高く、2階はかなり低い。1階の吹き抜けもやたらと広い。かつての設計図を見ると、このフロアの形が西武線乗り入れ計画の名残だとわかる。」と続くあたりである。

 

西武鉄道が乗り入れるはずだった新宿ステーションビル (13)

 分かりやすく説明するために、1961(昭和36)年12月に発行された「株式会社新宿ステーションビルディング事業案内」の2階部分を載せてみる。

 「新宿東口民衆駅百貨(店)名店街ビル」の設計図とは、若干形状は異なるが、図上の右上(方角だと北西の角)に改札が出来て、西武線のホームは高田馬場方面に向けてビルの外側に設けられている。

 こういった構造を前提にすれば、「1階の吹き抜けもやたらと広い。かつての設計図を見ると、このフロアの形が西武線乗り入れ計画の名残だとわかる。」(日経記事)どころか、「1階の吹き抜けと西武線の乗り入れは関係ないことがわかる。」とすべきだろう。

 

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 「ステイション新宿」の内容の検証に戻りたい。

 


 実際にビルには旅客用の入口が開けられ、中には改札のラッチも搬入され、高架線の基礎もいくつか作られました。

 

「ステイション新宿」新宿歴史博物館・刊 82頁から

 ここもよく引用される部分である。 

 ところが、駅の設計図と異なり、「ステイション新宿」の当該頁には、その「ネタ元」が書いていない。 

  いろいろ調べてみたところ、下記がネタ元ではないかと思われる。


 電車はステーション・ビルの北西の角までいく予定だったのですが,ビルには旅客用の入口の穴があいていまして,中に改札のラッチまで入れてありました.高架橋の基礎もいくつかつくったはずです。

 

 「西武特集 変貌する西武鉄道の輸送を語る」における長谷部和夫 西武鉄道常務取締役運輸計画部長(当時)の発言から

 鉄道ピクトリアル1992(平成4)年5月臨時増刊「特集 西武鉄道 18頁から

 

 鉄道ピクトリアルの特集が発行されたのが1992(平成4)年5月で、新宿歴史博物館の「ステイション新宿」は1993(平成5)年10月なので、時系列的にも問題ないだろう。

 ただし、西武長谷部氏が「高架橋の基礎もいくつかつくったはずです」としているところを、「ステイション新宿」が「高架線の基礎もいくつか作られました」と断定しているところが気になるが。

 なお、新宿ベルクの店長が「ベルクの店内の柱は西武新宿線乗り入れ用の柱だ」とツイートされているので、そのような形で基礎がビルの中に埋め込まれているのだろう。

 

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 ということでまとめ。


「ステイション新宿」を西武鉄道の新宿駅乗り入れのネタ元に使う際の注意点

〇「ステイション新宿」に載っている設計図面は最終形のものではなく、各社競合していた案の一つにすぎない。

〇「ステイション新宿」に載っている設計図面は「新宿東口民衆駅百貨名店街ビル設計図」と書かれているが、実際の会社名は「百貨名店街」である。

〇西武鉄道の新宿駅乗り入れについての設計図面は、駅ビル竣工後に発行された国鉄の「東建工」1965(昭和40)年2月号を確認すべきである。

〇「ステイション新宿」に載っている「改札のラッチも搬入」等のエピソードは、前年に発行された鉄道ピクトリアル臨時増刊「特集 西武鉄道」に掲載された西武鉄道の取締役のインタビューがネタ元と思われるため、何かの根拠とするには、鉄道ピクトリアルを根拠とする方が無難。

 この他、新宿駅への西武乗り入れの図面については、先にも触れた「株式会社新宿ステーションビルディング事業案内」も有効である。 カラーで見やすいし。閲覧には下記ツイートをご参照されたく。

 

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<おまけ> 

 新宿区立新宿歴史博物館つながりでこの際言及しておく。 

 新宿区や新宿歴史博物館は、「民衆駅」というのが固有名詞ではなく、制度の名称だということがイマイチ理解できていないようである。 

新宿区は民衆駅という制度名と新宿ステーションビルという固有名詞をちゃんぽんにするのはやめておくれ (2)  

https://www.regasu-shinjuku.or.jp/photodb/det.html?data_id=6914 

 「民間資本導入による建設運営のため、当初は「新宿民衆駅ビル」と呼ばれた。」 

というキャプションがついているが、雑に言うと「民衆駅」=「 民間資本導入により建設運営される駅」という制度なので、当初もくそもなく永遠に民衆駅は民衆駅だし、新宿以外にもいくらでも民衆駅はある。

 それをなんか「新宿民衆駅」というオンリーワンの固有名詞と勘違いしているようなんだな。 

新宿区は民衆駅という制度名と新宿ステーションビルという固有名詞をちゃんぽんにするのはやめておくれ (1)  

 こちらは、新宿区政70年記念誌「新宿彩(いろどり)物語~時と人の交差点~」143頁からの引用だが、 

民衆駅は、すぐに「新宿ステーションビル」と改称され」 

とあるが、上記の雑な年表や、東京都公文書館のツイートでも分かるように、「新宿民衆駅」が開業後に「新宿ステーションビル」に改称されたのではなく、開業前から「新宿ステーションビル」である。 

 制度面の「民衆駅」と会社の固有名詞の「新宿ステーションビル」は改称も何も並列可能だが、新宿区役所総務課は理解できないようだ。 

 このブログを読んでいただいている読者の方のほとんどはご理解されていることだとは思うが、分かっていない新宿区役所総務課と新宿歴史博物館のご担当者様のために公式見解(日本国有鉄道が1958(昭和33)年に発行した「鉄道辞典」)から「民衆駅」の項を抜粋しておこう。

民衆駅とは

民衆駅一覧

 「昭和32年度末現在」なので、上記の民衆駅一覧表には新宿駅は入っていない。まだ群雄割拠からようやく一本化した段階なので。

 

 みなさんは、新宿区による官製偽史が出来上がる過程にリルタイムで立ち会っているのかも?

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(1)プロローグ

(2)戦前の新宿駅乗り入れ構想

(3)戦後新宿駅乗り入れの具体化へ

(4) 魑魅魍魎うずまく新宿ステーションビル

(5)新宿ステーションビルへの西武線乗り入れ

(6)新宿ステーションビルへの乗り入れ中止

(7)地下道による西武新宿駅と営団地下鉄・国鉄新宿駅との連絡

(8)西武新宿線の営団地下鉄東西線・有楽町線乗り入れ構想

(9)西武新宿駅の開発

(10)西武新宿線の地下複々線化による新宿駅乗り入れ

(11)西武百貨店堤清二による新宿ステーションビル乗っ取り失敗

(12)高島屋、西武に競り勝ち、新宿へ悲願の進出

(13)新宿駅東口2階の吹き抜けに西武新宿線が乗り入れるはずだったのか?

(14)新宿ステーションビルとベルクと井野家

(15・終)エピローグ

 

 一旦終わった後に、その後ネタを追記

(番外編)「東京 消えた! 鉄道計画」中村建治(著)が怪しい

(16)西武新宿駅を大江戸線新宿西口駅に直結させる計画が1982年にあった

(17) 西武新宿駅は、元々地下鉄乗換えを考慮して地下に設置する構想だった

(18) 新宿ステーションビルの店舗募集資料から西武線のホームと吹き抜けの関係を確認してみる

(19)西武新宿線の新宿駅ビル乗り入れの図面を国鉄の内部資料から確認してみる。

(20)西武新宿線の新宿駅ビル乗り入れの図面を国鉄の内部資料から確認してみる。(その2)

(21)思いもつかないところから西武線新宿駅乗入れのカラー想像図が

(22)都庁幹部が語る西武乗り入れ中止の背景

(23)構想以来65年ぶりに西武新宿駅と新宿駅を結ぶ地下道が実現に向けて動き出した

(24)西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れ撤退の理由が書かれた公文書

(25)「ステイション新宿」をそのまま一次資料として丸呑みしては危険

(26)交通新聞社「新しい西武鉄道の世界」結解喜幸氏の新宿駅乗り入れ記事がひどい

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2021年9月20日 (月)

西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れ撤退の理由が書かれた公文書~西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(24)

 1964(昭和39)年5月18日に駅ビルが開業することになったが、そこには新宿線の新宿駅は設置されていなかった。実は計画段階の新宿線は最大6両編成だったが、同線の輸送量は年々増加し、8両編成の列車が運転されるようになっていた。悲願だった国鉄新宿駅への乗り入れは断念せざるを得ず、西武新宿駅を改良して使用することとなった。

 

「仮駅が本駅となった西武新宿駅」結解喜幸 「トラベルMOOK 新しい西武鉄道の世界」交通新聞社・刊 103頁から

 西武新宿線が国鉄新宿駅に乗り入れを断念した理由としては、まあだいたいこんな感じで語られている。

 

 ところで、国立公文書館には、実際に西武鉄道が新宿駅への乗り入れを断念する旨運輸省(当時:現・国土交通省)に提出した公文書が保存されている。

 それが下記の文書だ。

西武新宿線国鉄新宿駅(マイシティ・ルミネスト)延伸撤退公文書 (4)

 その件名もズバリ「新宿駅乗入に関する申請書取下げ願書」だ。

 運輸大臣に対して、1963(昭和38)年12月7日付で提出した「西武新宿線の新宿駅連絡区間工事施行認可申請書」を取り下げるというのである。

 そして「別紙の理由」が下記のとおりである。

西武新宿線国鉄新宿駅(マイシティ・ルミネスト)延伸撤退公文書 (5)

1.西武新宿線は国鉄新宿駅東口迄の延長を昭和23年3月29日附でご免許を受けたものでありまして、その全線建設は昭和27年3月25日開業の高田馬場―西武新宿仮駅間の工事と同時に実施する様希望して居つたのであります。しかるところ現国鉄新宿駅東口の民衆駅舎建築が当時既に企画されて居つたため、関係当局より同ビルの建設時迄、当社線の東口乗入れを待つ様にとの勧告を受け、その時期迄待つた次第であります。

2.国鉄新宿駅東口民衆駅の建築は待つこと久しく昭和36年頃より具体化されて参りましたので、同駅迄の乗入工事を実施するため、この件に関し国鉄との間に同年11月8日協定を締結し又それと略々同時期に東京都及び建設省より乗入れの線路及びホーム建設のため駅前広場及び道路の一部を使用する許可を得たのであります。

3.当時西武新宿線の旅客輸送は他の近郊電車と同様将来とても六輛編成で足るとされたものでありますが、その後輸送量 特に高田馬場以西に於ける増加は急上昇を来たし、近い将来八輛編成の運行は必至の事態となつたのであります。そのため新宿乗入ホームも八輛編成に応じて延伸する様企画を変更し、その先端付近を拡巾するため国鉄山手貨物線側の用地使用の増大及び反対側併行道路の車道部分の縮小乃至は上空使用の拡大等について長時日に亘り再三再四交渉を重ねて参つたのであります。これ等については関係各

西武新宿線国鉄新宿駅(マイシティ・ルミネスト)延伸撤退公文書 (6)

当局に於ても出来る限りの便宜を与えられる様努力せられたのでありますが、諸種の事情によりホーム巾を充分拡大することが出来ない儘八輛用のホームとして工事施工認可を申請したのであります。

4.右様の次第で当社申請の新宿東口駅はそのホームは1本で而も先端附近は相当長い部分が狭小でありますため、監督局より八輛ホームとしては危険多く不適当なる旨指摘されたのであります。一方新宿線の輸送量は前記の通り八輛編成を絶対必要とし、又混雑時の運行間隔から見るとき高田馬場或は歌舞伎町駅(現西武新宿仮駅)での車輛分割は到底出来ませんので、以上のような経緯もあり、これまでの 先行投資も少なくありませんが遺憾ながら東口への乗入を断念せざるを得ない状態となったのであります。

以上の様な経緯及び理由によつて新宿駅東口乗入のための工事施工認可申請書と、これに関連する工事方法一部変更認可申請書の取下げを御願いする次第であります。

 ちなみに、wikipedia様はどんな感じかというと、 

しかし、島式ホーム1本の6両編成用発着線2線分(当時)というスペースしか確保できず、輸送量が急増していた西武新宿線のターミナルとするには狭過ぎた。そのため、乗り入れ計画は中止された[5]。

[5]新宿歴史博物館(編)『ステイション新宿』新宿歴史博物館、1993年、116頁。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%AD%A6%E6%96%B0%E5%AE%BF%E9%A7%85#%E6%96%B0%E5%AE%BF%E9%A7%85%E4%B9%97%E3%82%8A%E5%85%A5%E3%82%8C%E4%B8%AD%E6%AD%A2

2021年9月19日閲覧

 実際には、西武鉄道は「新宿乗入ホームも八輛編成に応じて延伸する様企画を変更し」たが、「先端附近は相当長い部分が狭小でありますため、監督局より八輛ホームとしては危険多く不適当なる旨指摘されたので」「東口への乗入を断念せざるを得ない状態となった」というのである。

 「8両編成のホームでは狭すぎたんだから、実質的には『6両編成用発着線2線分(当時)というスペースしか確保できず』と一緒やんけ、何をケチつけとんねん」

とおっしゃる方もいらっしゃるだろうが、西武は8両化対応の努力はしていたが、国に不適当と指摘されて断念したということは記録に残したいよねという気持ちはある。

 

 「その先端付近を拡巾するため国鉄山手貨物線側の用地使用の増大及び反対側併行道路の車道部分の縮小乃至は上空使用の拡大等について長時日に亘り再三再四交渉を重ねて参つた」とあるが、「反対側併行道路の車道部分の縮小乃至は上空使用の拡大」というのは、東口側の駅前広場と靖国通りとの間の車道を狭くするか、東北新幹線の東京駅北側の区間のように道路の上空を占用して線路幅を広くしたいということであろう。

 では「国鉄山手貨物線側の用地使用の増大」とはどういうことか。

西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (34)

西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (39)

 上図は「東建工」1965年2月号「特集:新宿民衆駅」41及び107頁から。

 元々、西武線の新宿ステーションビル(後のマイシティ、ルミネエスト)乗り入れにあたっては、山側については山手貨物線が支障になるので移設する予定であった。

 それを8両編成用のホームにするために更に山側に移設できないかということであろうか。

 

 「混雑時の運行間隔から見るとき高田馬場或は歌舞伎町駅(現西武新宿仮駅)での車輛分割は到底出来ません」というのは、新宿駅には6両しか入れられないので、高田馬場駅か歌舞伎町駅で2両を解結する案も一応検討したということか。

 (西武は、新宿駅直通後は、西武新宿駅を歌舞伎町駅と改称するつもりだったことが分かるのも興味深い。

 

 なお、交通新聞社のムックに掲載された結解喜幸氏の「8両編成の列車が運転されるようになっていた」と西武鉄道の公文書の「近い将来八輛編成の運行は必至の事態となつたのであります」の違いについても一応指摘しておこう。

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 西武の申請取下げの公文書にいう「当社申請の新宿東口駅はそのホームは1本で而も先端附近は相当長い部分が狭小でありますため、監督局より入輛ホームとしては危険多く不適当なる旨指摘されたのであります。」について、裏取りをしてみる。

 

西武新宿線国鉄新宿駅(マイシティ・ルミネスト)延伸撤退公文書 (10)

 西武が提出した「西武新宿線の新宿駅連絡区間工事施行認可申請書」は、まず運輸省の現地機関である関東陸運局に提出され、そこから運輸省本省に上申されている。

 それに対して、運輸省鉄道局土木課?が「照会」ということで注文をつけている。

西武新宿線国鉄新宿駅(マイシティ・ルミネスト)延伸撤退公文書 (8)

土木課照会

 新宿停車場における西武新宿寄りの乗降場の巾員は、当駅の乗降客数量からみて特に狭隘であり危険と認められるから拡巾するよう再調すること。

土木課備考

1.技術上の審査は上記照会に対する回答をまって処理したい。

2.照会を文書をもって会社に通知する場合は、事前に連絡されたい。

 実際には、土木関係以外にも信号とか線路・ポイントとか各種の照会事項がこの文書には記載されているのだが、「技術上の審査は上記照会に対する回答をまって処理したい」とあるように、ホームが「特に狭隘であり危険と認められる」ことの「再調」の結果が出せないと他の課題の解決にも進ませないというほど強烈なハードルだったわけである。

 

 当時の報道もみてみよう。1965(昭和40)年3月16日付の朝日新聞は下記のように乗り入れ断念を報道している。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (71)

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (19)

(「新宿サブナード30年のあゆみ」 新宿地下駐車場株式会社・発行 37頁から引用)

 両方の記事に見られるのは「運輸省側が建設計画に難色を示した」「運輸省関係の勧告もあり」という運輸省側からの働きかけであり、西武の提出した公文書との整合がとれている。

 後年の鉄道趣味誌よりもよっぽど正確に撤退の事情を伝えているではないか。

 鉄道趣味誌といえば、当時の鉄道ピクトリアルにこんな記述がある。

4.西武鉄道の新宿乗入れ

(略)

 西武鉄道は,現在の西武新宿駅から国鉄線に平行して延伸し,青梅街道を架道橋で渡り,道路及び東口駅前広場の歩道上は高架構造とする.この上にホームを1面(8両編成)新設して民衆駅の2階のレベルとし,客扱はホームの終端部分にある民衆駅構内で扱う予定である。

 

「変貌する新宿駅」菅原操・今泉清一(国鉄本社停車場課)著 「鉄道ピクトリアル」1964(昭和39)年1月号22頁から

 西武が苦し紛れに?「狭隘」と指摘されながらも8両編成のホームで「西武新宿線の新宿駅連絡区間工事施行認可申請書」を提出したのが、1963(昭和38)年12月7日付だから、時系列的には鉄道ピクトリアル1964(昭和39)年1月号に8両編成のホームと記されていても齟齬はない。

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 ところで、西武の「新宿駅乗入に関する申請書取下げ願書」提出のあとはどうなったのか。

西武新宿線国鉄新宿駅(マイシティ・ルミネスト)延伸撤退公文書 (2)

西武新宿線国鉄新宿駅(マイシティ・ルミネスト)延伸撤退公文書 (3)

 申請書は返付しましたよ。この区間の免許は失効しましたよ。ということである。

 

 駅ビル内にあった改札や駅長室等についてはどのような扱いとなったのだろうか?

西武新宿線国鉄新宿駅(マイシティ・ルミネスト)延伸撤退公文書 (16)

「 新宿ステーションビルディング30年の歩み」新宿ステーションビルディング社史編纂委員会・編 社史年表153頁から

 新宿ステーションビル(マイシティ、ルミネエスト)が西武の持ち分を買い取って商業施設に改装したようである。

ルミネエストの吹き抜けと西武線ホームの位置関係

 上図は、現在のルミネエストのフロアガイドの2階部分と「株式会社新宿ステーションビルディング事業案内」(1961(昭和36)年12月)の比較である。

 この他にも1階の「びゅうプラザ」部分も西武鉄道の改札が設置される予定だった箇所だ。国鉄が西武から買い取ったのかもしれない。

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 上記にもステーションビルによる西武駅機能部分の買い取りの話が出ているが、西武の「新宿駅乗入に関する申請書取下げ願書」に、「以上のような経緯もあり、これまでの 先行投資も少なくありませんが遺憾ながら東口への乗入を断念せざるを得ない状態となったのであります。」とある。

 具体的にどの程度の「先行投資」があったのか。

 国鉄の「東建工」1965年2月号「特集:新宿民衆駅」に具体の数字が書かれている。

西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (1)

新宿ステーションビルの、国鉄、会社(新宿ステーションビル)、西武の費用負担や財産帰属については、下記のとおり整理されている。

西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (36)

  見てもさっぱり分からんかも。ご覧になる環境では字が小さくて見えないかも。枢要の考え方の部分を下記に拡大してみる。

西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (37)

  ステーションビルの西武専用部分と公衆利用分の一定割合を西武が費用負担して国鉄の財産となっているようだ。

西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (35)

 西武鉄道は約5600万円を負担しているようだ。 そして、この部分は乗り入れ断念に伴ってドブに捨てた形になったのだろうか?(上記の考え方によると西武が費用負担しても財産の帰属は国鉄にあるようなので。)

  「西武が乗り入れるために2階の構造は補強されていた」といった説があるのだが、それならこの表の「く体」部分の費用負担割合の考え方にそれが反映されていてもよさそうなんだけど、そんな記載は見当たらない。実際にビル内には電車は入ってこないので大した補強は要らないのではないかなあ??

 「東建工」1965年2月号「特集:新宿民衆駅」については、

西武新宿線の新宿駅ビル乗り入れの図面を国鉄の内部資料から確認してみる。~西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(19)

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2020/01/post-f353a5.html

に詳しく紹介しているのであわせてごらんくださいませ。

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 なお、wikipedia様には、こんな理由もあげられている。 

西武新宿線が新宿駅まで乗り入れていないのは、新宿駅東口の駅ビル建設に西武グループが反対していたからだという説もある。当時、まだ小規模であった西武百貨店池袋本店のある池袋に、当時百貨店として強力な力をみせていた三越・伊勢丹が池袋進出を検討していた。このうち新宿に本店を擁していた伊勢丹では東口駅ビルへの髙島屋の新宿進出が取りざたされていて絶対阻止の構えであった。そこで伊勢丹が池袋出店計画をやめる代わりに西武が高島屋の新宿出店を反対するという取引が交わされ、駅ビル建設に反対する立場になった西武は新宿駅へ乗り入れられなくなった[4]。

[4] 広岡友紀『日本の私鉄 西武鉄道』毎日新聞社、2009年、198頁。ISBN 978-4-620-31938-4。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%AD%A6%E6%96%B0%E5%AE%BF%E9%A7%85#%E6%96%B0%E5%AE%BF%E9%A7%85%E4%B9%97%E3%82%8A%E5%85%A5%E3%82%8C%E4%B8%AD%E6%AD%A2

2021年9月19日閲覧

 広岡友紀氏の言うように「駅ビル建設に反対する立場になった西武は新宿駅へ乗り入れられなくなった」のなら、ステーションビルに約5600万円を負担したり、駅ビル完成後の昭和40年まで8両編成のホームができないか粘ったりしませんやねえ。

 伊勢丹、髙島屋と西武の関係については、当時こんな風に紹介されている。

 第二条件として西武鉄道の乗り入れである。西武はかねて高田馬場から新宿歌舞伎町まで西武線を延長していたが、何とか新宿駅まで乗り入れたかった。それを牧野氏(引用者注:牧野良一元法務大臣。各百貨店と地元商店街等との仲介役だった。)を通じて申し入れたのである。これも国鉄の要望もあって三者の承認することになる。これが高島屋を更に不利にした。西武と伊勢丹の関係は意外に深い。一つの見方には相互の不可侵条約を云々するのもいる。伊勢丹が池袋に敷地を持っているがこれは建てない。そのかわり西武は新宿に手を出さないという平和条約である。その意味からか、西武は新宿に電車を乗り入れても建物そのものには手を出さない、という条件が附されている。伊勢丹―西武の同盟で、ますます高島屋のかげは薄くなった。

 

「怪談・新宿民衆駅 伊勢丹に敗れた髙島屋」針木康雄・著 「財界」1959(昭和34)年9月号41頁から

 伊勢丹と西武の「同盟」と西武鉄道の新宿駅乗り入れの関係については、広尾友紀氏とは真逆の書き方である。

ここでは詳しく触れないが、先に上げた「 新宿ステーションビルディング30年の歩み」28~29頁にかけても、髙島屋、伊勢丹、西武、地元の合意後の西武鉄道の乗り入れ方針に係る合意事項も掲載されている。

 個人的には広尾友紀氏の説は「両論併記」にすら値しない「独自の説」と考えるが如何であろうか?

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 ところで、西武の乗り入れ断念の話とは時期が違ってくるのだが、とても興味深い話が書いてある。

「1.西武新宿線は国鉄新宿駅東口迄の延長を昭和23年3月29日附でご免許を受けたものでありまして、その全線建設は昭和27年3月25日開業の高田馬場―西武新宿仮駅間の工事と同時に実施する様希望して居つたのであります。しかるところ現国鉄新宿駅東口の民衆駅舎建築が当時既に企画されて居つたため、関係当局より同ビルの建設時迄、当社線の東口乗入れを待つ様にとの勧告を受け、その時期迄待つた次第であります。」

 で、鉄道趣味誌の扱いはどうかというと

 なぜ国鉄の新宿駅まで線路が伸びなかったといえば、当時の新宿駅東口は戦後の区画整理・整備復興が行われていたからだ。

 

「仮駅が本駅となった西武新宿駅」結解喜幸 「トラベルMOOK 新しい西武鉄道の世界」交通新聞社・刊 103頁から

 もともと大ガードから東口駅前に伸びていた旧西武鉄道軌道線の軌道敷を利用して国鉄新宿駅の隣接地に乗り入れる計画だったのだが、東口一帯の区画整理がなかなか進まなかったため、仮設の駅が設けられたのである。

 

「そうだったのか、新宿駅」 西森聡・著 交通新聞社・刊 89頁から

 と、交通新聞社の出版物は「区画整理」説である。

 他の出版社も見てみよう。

 昭和23(1948)年に高田馬場~新宿間の免許を取得。しかし、新宿駅の区画整理がつかず、そこで高田馬場駅から新宿形に線路を2キロメートル延伸し、西武新宿駅を昭和27年3月25日に暫定措置で開業した。

 

「知れば知るほど面白い 西武鉄道」辻良樹・編著(当該部分は牧野和人・著)洋泉社・刊 164頁から

 ネットの鉄道記事も見てみよう。

終戦直後の新宿駅周辺は区画整理が進んでおらず、西武村山線の乗り入れ場所に関しては関係機関との調整が必要でした。そのため西武は「とりあえず建設できるところまで建設しよう」と考えたようで、新宿駅から北へ約400m離れたところに仮設の駅を設置。1952(昭和27)年に高田馬場駅と仮設駅を結ぶ区間が開業しました。

 

「「無印」新宿駅から約400m 西武新宿駅が離れている歴史事情」 草町義和・著 「 乗りものニュース」

https://trafficnews.jp/post/80098/3

 ところで他の公文書ではどうなっているか?

 当該区間の工期を度々延期しているため、そこについて西武鉄道と運輸省のやりとりが残っている。

西武新宿線国鉄新宿駅(マイシティ・ルミネスト)延伸撤退公文書 (14)

西武新宿線国鉄新宿駅(マイシティ・ルミネスト)延伸撤退公文書 (15)

 西武側の延期理由は、

「目下國有鐵道にて改良御計画中の新宿駅と綜合的に考慮す可き特殊の事情が生じて居る関係であります。」

としている。

 これに対して、運輸省側の整理では

西武新宿線国鉄新宿駅(マイシティ・ルミネスト)延伸撤退公文書 (13)

「国有鉄道新宿駅改良工事設計未了のため事情已むを得ないと認む」

としている。

 その後も何回か延期が繰り返されているが

西武新宿線国鉄新宿駅(マイシティ・ルミネスト)延伸撤退公文書 (12)

西武新宿線国鉄新宿駅(マイシティ・ルミネスト)延伸撤退公文書 (11)

 運輸省としては

「新宿民衆駅(国鉄)との設計協議未了のため」

が基本線である。

 

 ところで、私は以前

西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(3)戦後新宿駅乗り入れの具体化へ

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/jr-65c5.html

において、戦前からある国鉄の旧新宿駅駅舎へ西武鉄道が乗り入れている、1956(昭和31)年時点の図面(早稲田大学が堤家から寄贈を受け所蔵)をアップしている。

 当該図面は、リンク先をご覧いただくとして、西武の

「西武新宿線は国鉄新宿駅東口迄の延長を昭和23年3月29日附でご免許を受けたものでありまして、その全線建設は昭和27年3月25日開業の高田馬場―西武新宿仮駅間の工事と同時に実施する様希望して居つたのであります。しかるところ現国鉄新宿駅東口の民衆駅舎建築が当時既に企画されて居つたため、関係当局より同ビルの建設時迄、当社線の東口乗入れを待つ様にとの勧告を受け、その時期迄待つた次第であります。」

の当初目論見の段階の図面だったと思われる。

 

 ただし、「西武って公文書に載っているからといって何が本当かよくわからん」ことが山積しているのも事実である。

 例えば、上記の草町義和氏もこの公文書を読んだうえで(内容を見ているとこの公文書を踏まえていることが分かる)あえて区画整理が進んでおらず」「関係機関との調整が必要」と書いているし、「区画整理が進まないので国鉄の駅の改築計画が進まず関係機関との協議の結果工事が遅れた」という趣旨で草町氏が書いたのであればそれはそうだろうし。

 

 とは言っても、公文書で「西武は最初から国鉄新宿駅に乗り入れるつもりだったのに、民衆駅との協議のせいで待たされた」旨書いている以上は、「区画整理未了」を理由とする方は、それなりの根拠をお示しいただく必要はあるのではないか。

 新宿駅東口は闇市があったりしたので、駅前広場の造成等は区画整理が必要だったのは分かるが、西武の乗り入れにはさほど支障が無いように見えるんですがね。

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(1)プロローグ

(2)戦前の新宿駅乗り入れ構想

(3)戦後新宿駅乗り入れの具体化へ

(4) 魑魅魍魎うずまく新宿ステーションビル

(5)新宿ステーションビルへの西武線乗り入れ

(6)新宿ステーションビルへの乗り入れ中止

(7)地下道による西武新宿駅と営団地下鉄・国鉄新宿駅との連絡

(8)西武新宿線の営団地下鉄東西線・有楽町線乗り入れ構想

(9)西武新宿駅の開発

(10)西武新宿線の地下複々線化による新宿駅乗り入れ

(11)西武百貨店堤清二による新宿ステーションビル乗っ取り失敗

(12)高島屋、西武に競り勝ち、新宿へ悲願の進出

(13)新宿駅東口2階の吹き抜けに西武新宿線が乗り入れるはずだったのか?

(14)新宿ステーションビルとベルクと井野家

(15・終)エピローグ

 一旦終わった後に、その後ネタを追記

(番外編)「東京 消えた! 鉄道計画」中村建治(著)が怪しい

(16)西武新宿駅を大江戸線新宿西口駅に直結させる計画が1982年にあった

(17) 西武新宿駅は、元々地下鉄乗換えを考慮して地下に設置する構想だった

(18) 新宿ステーションビルの店舗募集資料から西武線のホームと吹き抜けの関係を確認してみる

(19)西武新宿線の新宿駅ビル乗り入れの図面を国鉄の内部資料から確認してみる。

(20)西武新宿線の新宿駅ビル乗り入れの図面を国鉄の内部資料から確認してみる。(その2)

(21)思いもつかないところから西武線新宿駅乗入れのカラー想像図が

(22)都庁幹部が語る西武乗り入れ中止の背景

(23)構想以来65年ぶりに西武新宿駅と新宿駅を結ぶ地下道が実現に向けて動き出した

(24)西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れ撤退の理由が書かれた公文書

(25)「ステイション新宿」をそのまま一次資料として丸呑みしては危険

(26)交通新聞社「新しい西武鉄道の世界」結解喜幸氏の新宿駅乗り入れ記事がひどい

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2021年7月11日 (日)

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる~幻の成田新幹線市川市内ルートはどこに~

 上記は、千葉県市川市の東西線行徳駅から東側に向かった箇所である。

 左側に見える高架橋は、東京メトロ東西線である。

 昨今ネット等では、「ここが成田新幹線の遺構である」といった話を見聞きするので、今回はそのネタを検証してみたい。

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (1)

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (2)

 当該区間を、成田新幹線の建設主体である日本鉄道建設公団が1974(昭和49)年に発行した「成田新幹線東京・成田空港間線路平面図」で見るとこんな感じである。

そして、上空から見るとこんな感じである。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (3)

 確かに立派な側道ではある。

 「東京メトロ東西線の行徳駅付近の遊歩道付きの側道が立派なのは、ここに成田新幹線が通るはずだったからで、この立派な側道は成田新幹線の遺構である。」といった話を上記の写真とセットで聞かされると、合点する方もいらっしゃるかもしれない。
 

 一方で、下記のような資料もある。

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (4)  

 これは、市川市議会の議事録の抜粋である。 

 成田新幹線の工事実施計画について運輸大臣から日本鉄道建設公団へ認可されたのは、1972(昭和47)年2月である。 

 その直後の「3月議会」ということになる。 

 質問している近藤喜重議員は、行徳地区と関わりがあるようだが、成田新幹線が「東西線より50m海寄りを通る」と発言している。 

 果たして成田新幹線はどこを通る計画だったのか?

 まずはそこから資料を整理してみたい。

 

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東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (5)  

 私の可能な範囲で、成田新幹線の市川市内のルートに関係する資料を集めてみた。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (6)

 まずは、本家本元の日本鉄道建設公団である。

 公団の「成田新幹線工事の概要」では、「区画整理事業に出来る限り支障しないよう技術的に可能な限り地下鉄5号線(現・東京メトロ東西線)に近接することとしております。」と書いており、東西線と成田新幹線をどの程度離すかの具体の数字は書いていない。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (7)


 公団職員が業界誌に寄稿した報文「成田新幹線の建設計画」では、「地下鉄5号線の南側に殆ど並行して葛西・浦安・行徳を経て」とこれまたビミョーな書き方をしている。

 

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (8)

 一方、浦安町誌では「東西線と50メートルの間隔をおいて住宅街を縦断する。」と記載している。市川市内については具体の記載はなく、そのまま「船橋市の市街地はトンネル」としている。そのまま読めば、浦安から船橋まで変化なしということであれば、市川市内も「東西線と50メートルの間隔」と読めなくもない。

 では、市川市内ではどの程度離れていたのだろうか?

 具体的に言及したものはあるのか?

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (9)

 冒頭にあげた市川市議会での議事録である。

 成田新幹線は「地下鉄東西線より50m海寄りを通るということでは、その間にはさまった4倍にもなる土地は全く死に地になってしまうわけであります。」と発言し、通過地点も具体的に、南行徳、行徳、妙典、田尻、原木と書いてある。

 ここで「南行徳第1、第2、第3、行徳土地区画整理組合」という言葉が出てくるので、覚えておいていただきたい。後ほど説明する。  

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (10)  

 近藤喜重議員は、成田新幹線の買収対象となる関係地権者数を具体的にあげているが、後述するように、当時は(今も?)詳細な図面が公になっていないため、11m50cmの想定される用地買収幅員(高架橋の構造物幅員11m+施工余裕幅左右25cmずつ?)から、市川市か議員が独自に算出したものと思われる。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (11)

 富川進・市川市長(当時)が、サンケイ新聞の取材に対して「新幹線は、東西線と並行に走るため、東西線と新幹線にはさまれた区画整理の土地は、騒音と振動公害に悩まされ買い手がなくなる」とコメントしている。

 先に、近藤市議が「その間にはさまった4倍にもなる土地は全く死に地になってしまうわけであります。」と発言していることと平仄があう。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (12)

 一方、昨今のネット等で主流のような「東西線の側道部分に成田新幹線が走る計画」と、市川市長、市川市議会議員の発言は平仄がとれない。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (13)

 また、日本鉄道建設公団が千葉県に対して、新幹線は「東西線に沿って高架で浦安町にはいり、東西線の南側50メートルを東進、京葉道路をまたぐ」と示したと伝える記事もある。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (14)

 日本鉄道建設公団が公開している図面や資料では詳細には分からないはずなのに、市川市長や市川市会議員が「東西線と新幹線にはさまれた区画整理の土地」とか「東西線より50m海寄り」とか発言しているのは、何が根拠なのだろうと不思議だったのだが、上記の毎日新聞の記事によれば、公団が千葉県にその旨説明したようだ。

 なお、1972(昭和47)年2月15日付千葉日報によると、同年2月14日(上記毎日新聞記事の3日前)に、公団が千葉県に対する第1回の説明会を行っている。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (15)

 ちなみに、江戸川区内でも「東西線の南側約50メートルを並行して走り、高架で抜ける」との報道がされている。

 当時の報道では、東西線沿いの高架区間は、江戸川区・浦安町・市川市と一気通貫で「東西線の南側約50メートル」に成田新幹線が通ることで揃っていることになる。

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (16)

 なお、江東区と江戸川区を結ぶ清砂大橋は、東西線の南側に近接して架設されており、「本当はここは清砂大橋ではなく成田新幹線が来るはずだった」といった話も仄聞されるが、東西線の設計時に、清砂大橋が近接して架設されることを前提に東京都と営団地下鉄が協議していたことが営団地下鉄が発行した「東西線建設史」から分かる。

 おって、「清砂大橋を避けたから、東西線の50m南に新幹線が計画されたかどうか」については、判断できる資料を見つけられていない。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (17)

 ここまでは、成田新幹線と東西線が約50メートル間隔を空けている旨の報道を紹介してきたが、そうでない説も紹介しておく。

 草町義和氏は「鉄道ライターのなかでも、廃線跡や未成線跡の調査を専門としている」(「全国未成線ガイド」宝島社・刊の監修者紹介欄から)とのことだ。

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (18)

 草町義和氏は、鉄道ファン2008年8月号に掲載された「幻の成田新幹線をたどる」に

昭和47年計画の線路平面図を見る限りでは,江戸川区内と浦安市内は東西線から少し離れた場所を通っているように思われ,実際に東西線の高架橋にぴったり張り付くような線形になっていたのは市川市内だけだったようである.

 と書いている。

 その判断の根拠としては、「昭和47年計画における線路平面図(縮尺5万分の1)や線路縦断面図(縮尺横2万5000分の1,縦2000分の1)」「昭和49年計画」といった資料(同著112頁)を入手されたうえで現地を検証しているとのことである。

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる(19)当時の報道等と草町義和氏の著書の比較

 「おさらい」として、今まであげてきた成田新幹線と東西線の位置関係に係る報道・記事を時系列で並べてみた。

 如何だろうか?

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (20)

 ところで、鉄道建設公団、市川市会議員、市川市長等と草町義和氏の主張の差を判別できる資料はあるのか?

 

 「ここに、日本鉄道建設公団が作成した超詳細な図面があって、正しいのはこちらでした!」と言えれば一件落着なのだが、私の探した範囲ではそこまでのものは見つけられなかった。

 地元自治体の資料等を読んでいると、地元住民等は「用地買収の対象を示せ」と要求しているが、公団側は「実際に現地を測量しないと示せない」と回答し、そして関係自治体と地元住民は公団による現地測量は阻止しているので、詳細な図面は公開されないままになっているようだ。

 1972(昭和47)年2月18日に実施された公団による地元市町村長への説明会においても5万分の1の地図で計画を説明したとの報道がある。( 1972(昭和47)年2月19日付千葉日報)



東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる(21)

 草町義和氏は、成田新幹線の工事実施計画を入手しているようだが、そこにはどんな資料が含まれているのだろうか?

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (22)

 こちらが全国新幹線鉄道整備法施行規則に定められた、新幹線の工事実施計画に係る書類の抜粋である。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる(23)

 先にもあげたところであるが、この図面が実際に日本鉄道建設公団が作成した5万分の1の平面図である。

 工事実施計画にこの地図が使われたかどうかは分からないが、縮尺としてどのようなレベルのものかはイメージしていただけるだろう。

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (24)

 ご覧いただいたとおり、5万分の1の平面図では、50mの離隔はなかなか判別できないと思われる。

 5万分の1だと、50mは1mmしかない。私は老眼なのでわからんちんである。草町義和氏は判別できたようであるが。

 また、東西線と成田新幹線の「構造物の外側同士」が50m離れているのか東西線と成田新幹線の「中心線同士」が50m離れているのか?といった点が記事等だけでは明確でないというところもある。どちらかによって具体の離隔が10mほど変わってくる。

 市川市長は「間にはさまれた区画整理の土地は、買い手がなくなる」と語っているので、売却できるほどの幅があったということだろうか。

 草町義和氏は、「線路縦断面図(縮尺横2万5000分の1,縦2000分の1)」「昭和49年計画」といった資料も持っておられるようなので、それらも含めた総合的判断をされたということだろうか。

上記は、草町義和氏のツイッターから。 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (25)

 「東西線と成田新幹線がぴったり張り付くような線形になっていた」(「幻の成田新幹線をたどる」113頁)という記述を判別できるような図面等を私は見つけられなかった。

 一方で、上記のような主張をする方は、当時の市川市長の発言や市川市議会議事録に残るやりとりに対してどう考えるのかをあわせて表明する必要があるのではないだろうか?

 「反日マスコミには騙されない」とか

 「市川市議会議員は反対を煽るため、話をふくらませているだけだ」とか

 「国策である新幹線に反対するような”プロ市長”よりも、鉄道ファン誌に掲載される鉄道ライターの方が鉄道知識は詳しいに決まっている」とか

 「日本鉄道建設公団がそう地元に説明したという新聞記事があるからといっても、全部の区間が50m離れていたとは書いていない。市川市内だけはそんなに離れていない区間があってもおかしくはない。」とか

 でもいいと思うのだが、当時の新聞報道や市議会でのやりとりを打ち消す決意表明(できればその決意を補強する物証も添えて)をしていただければよろしいのではないかと。

 もちろん、5千分の1等の縮尺で、実際に「50m空いている空いていない」が判別できる詳細な工事用平面図をお示しいただければ言うことはないのだが。

「そんなん、当時の都市計画の図面見たら分かるんちゃうのん?」と思う方がいらっしゃるかもしれない。

 ところが、当時の成田新幹線も東北新幹線も都市計画決定の手続きは一切取っていない。住民や地元行政との擦り合わせの手続き一切なしで、「運輸大臣の認可が取れたので路線発表する。ただし今後変更は一切ない。」とやったので大反発を買ったのだ。

 「でも最近の新幹線はちゃんと都市計画決定の手続きを取ってるのだし、当時もそうなんちゃうのん?」と思う方もいらっしゃるかもしれないが、過去の反省を踏まえて都市計画決定するようになったのだ。 

 

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東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (26)

 ところで、東西線と側道の関係はこんな感じに並んでいる。

 市川市南行徳第二土地区画整理組合が1974(昭和49)年に発行した「記念誌 区画整理のあゆみ」では、東西線と側道の関係がよく分かる写真が掲載されている。

 こんなガクガクした側道を成田新幹線が走れるのだろうか?

 「東西線と成田新幹線がぴったり張り付くような線形になっていた」(草町義和氏「幻の成田新幹線をたどる」113頁)というと、埼京線と東北新幹線のような位置関係をイメージしている方がいらっしゃるかもしれない。

 埼京線と東北新幹線の関係はこんな感じ。

 これは武蔵浦和駅付近であるが、東北新幹線はまっすぐ走りつつ、埼京線のホームは右側(東側)に膨らんで、新幹線の直進を妨げないような構造になっている。 

 一方で、東西線と成田新幹線の関係はどうか。 

 

 これは行徳駅付近であるが、東西線は直進し、ホームはその両外側に膨らむ形で設けられている。これでは、「東西線と成田新幹線がぴったり張り付くような線形」(草町義和氏「幻の成田新幹線をたどる」113頁)だとすると、東西線のホームの幅だけ成田新幹線がそこをカーブして膨らんでいく形になってしまう。それとも成田新幹線建設の際には東西線を北側に移設する構想だったのだろうか?

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (27)

 ただでさえ、東西線は成田新幹線の直進を妨げるような線形となっていることに加えて、更に東西線行徳駅には拡張計画がある。 

 営団地下鉄の「東西線建設史」には、「浦安、行徳両駅は相対式ホームとし、将来両外側に1線ずつ線路が増設できるように計画した。」と書いている。 

 先にあげた区画整理組合記念誌掲載の写真の東西線ホームと側道の間の草地は将来線予定地ではないだろうか?東西線行徳駅付近の膨らみは、現状よりも更に拡がる余地がある。

 埼京線と東北新幹線のような新幹線の高速走行を損なわないような位置関係とはいかない可能性がある。

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東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (28)

「でも、東西線のあんな立派な側道は、成田新幹線のためとしか思えないんですけど?」 

 こんなことを思う方もいらっしゃるかもしれないので、次にそこを検証してみよう。

 あの東西線の側道はいつだれがなんのために作ったのか?

 ※草町義和氏が「この側道は成田新幹線のため」と言っているのではない点にはご留意を。

 ただし、「この側道は成田新幹線のため」とネットに書いている方にお尋ねすると「草町義和氏の鉄道ファンの記事を読んだ」という回答を頂戴したという経緯があったのでご参考までということで。

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (29)

 市川市長や市川市会議員の発言に出てくる市川の区画整理事業であるが、左図を御覧のように、東西線(成田新幹線)経過地の殆どが区画整理事業が行われた箇所である。

 市川市ウェブサイトの「市川市の土地区画整理事業」には、上図のような位置図が公開されている。

 https://www.city.ichikawa.lg.jp/common/000355873.pdf

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (30)

 市川市南行徳第二土地区画整理組合が1974(昭和49)年に発行した「記念誌 区画整理のあゆみ」には、東西線の両側に「11mの側道を配置した」とある。

 成田新幹線とは関係なく、元々区画整理事業の一環として整備されたのである。

 上記の区画整理の模型で東西線に側道が設けられていることが確認できる。

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (31)

 こちらは、市川市行徳土地区画整理組合が1975(昭和50)年に発行した「記念誌 区画整理のあゆみ」から。

 個人サイト等で、成田新幹線の名残で立派な緑道が東西線沿いにあるという趣旨の記述があるが、もともと区画整理事業の一環として「幅員11mの側道を配置し散策に適した緑道的性格を持たせる」とあるのだ。

 成田新幹線の工事凍結は、1983(昭和58)年である。もしこの緑道が新幹線の遺構、名残であれば、 1975(昭和50)年に「幅員11mの側道を配置し散策に適した緑道」と書いた区画整理記念誌が発行されることはありえない。

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (32)

 東西線の側道は、成田新幹線の計画の遺構ではなく、東西線建設にあわせて施行していた区画整理事業によって、成田新幹線公示凍結前に整備したものである。

 東西線の駅前広場用地等も同時に減歩によって確保された。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (33)

 行徳地区に限らず、江戸川区から市川市にかけて多くの地区で、東西線建設用地自体が側道とともに、地元の区画整理の協力で捻出された。

 営団地下鉄の「東西線建設史」では、

荒川を越えた小島地区から西船橋に至る区間は(略)この膨大な土地買収を効率的に実施するため,営団は,東西線の計画決定を契機に,同線経過地に,土地区画整理組合(以下区整という)の設立機運が高まっていることに着目し,この区整を対象とした,保留地先買方式による集団交渉方式を採用する方針を決定した。

 と述べている。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (34)

 また、同様に「東西線建設史」では、

「南行徳第1、第2、第3区整においても,前述の区整地区とほぼ同様の手続きにより用地買収を行った。行徳区整は,区整の設立準備も整っていない地区であったが,営団は市川市とともに,地元民に対し区整事業の必要性を説き,準備委員会を発足させ,これと折衝に入り,難航していた土地の価格統一にも成功し,これを盛り込んだ保留地先買方式による買収を組合成立認可申請前の準備組合の段階で行った。」

 と述べている。こんなに鉄道事業促進に協力した行徳地区等の人々に対して「たまたま自分の趣味が公共的機関だったことを奇貨として、自分の考え方が公共的だと勘違いした方々」が「プロ市民」呼ばわりしたりするのであるが。

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (35)

 これは、東西線建設史及び南行徳第一区画整理組合記念誌から作成した、東西線と行徳地区の区画整理事業の時系列である。

 約10年をかけて、東西線の計画から建設にあわせて行徳地区が区画整理事業を実施し、その建設用地を提供できるように取り組んできたことがお分かりになるかと思う。

 その最後の仕上げの清算の段階で、成田新幹線が事前調整全くなしに飛び込んできたのである。だから地元が反発したのだ。

 川島令三氏や草町義和氏の本ばかり読んでいてはこういう話は出てこないのであるが。区画整理事業のことは理解できなくても、鉄道マニアならせめて東西線の建設史だけでも読んでみると違うのだが。

 

 ちなみに区画整理事業について知りたい方は、上記の動画等を見るのもよいかもしれない。

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (36)

 これは、先にあげた近藤喜重・市川市議会議員が市川市議会で行った質問からの抜粋である。

 上の年表では、1964(昭和39)年の営団地下鉄の免許申請からスタートしているが、実際には、1963(昭和38)年から地元との調整が始まっていることが分かる。

 約10年間の東西線建設と地元の街づくりの調整の歴史が最終段階になって調整なしに乱入してきた成田新幹線によってひっくり返されようとしている経緯がお分かりになろう。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (37)

 これは近藤議員の質問に対する市川市土木部長からの答弁である。

 「せっかくいままでお骨折りをいただきまして、解散の時期に来ているわけでございますが、この時期もおのずから延びるということで、私ども区画整理を担当してる者といたしましてこの成田新幹線問題はたいへん困った問題ということで苦慮しているわけでございます。

 単に「プロ市民」の声が大きいのではなく、行政としても「たいへん困った問題ということで苦慮」しているのだ。

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (38)

 先に

「東西線と成田新幹線がぴったり張り付くような線形になっていた」(「幻の成田新幹線をたどる」113頁)という記述を判別するような図面等を私は見つけられなかった。

旨書いたが、それとこれとは別で、現在存在する東西線の立派な側道と成田新幹線の計画は全く関係ないことがお分かりいただけたのではないかと思う。

 仮に、「東西線と成田新幹線がぴったり張り付くような線形になっていた」としても、それは今の側道とは切り離して、改めて建設されるべきものである。

 江戸川区内の葛西地区等も精査すれば同様の事情が明らかになる可能性があるのではないかと思われる。

 

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東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (39)

 「成田新幹線計画がおおっぴらにされていなかっただけで、実は地元の反対を呼ばないように水面下で調整して、側道の名目で土地を確保していたんじゃないか」

という考えを持つ方もいらっしゃるかもしれない。

 それならば、東西線の側道が成田新幹線の高架が収まるだけの幅を確保している必要があるのではないか?

 ここからは

「そもそも、東西線の側道の幅に成田新幹線は収まるのか?」

について検証してみたい。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (40)

 上記は、1972(昭和47)年6月9日参議院運輸委員会における長浜正雄氏(日本国有鉄道理事)の答弁であるが、

 新幹線の側道について「側道を4メートル片側、あるいは地域によりましては両側につくるようにしております」と答弁している。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (41)

 そして、上の図面は、「成田新幹線工事の概要」日本鉄道建設公団東京支社・刊に掲載されていた成田新幹線の標準的な構造物の横断図面である。

 国鉄長浜理事の答弁によれば当時の、新幹線の標準的な側道の幅員は4メートルとのことであるから、実際の用地買収の幅は、側道が片側のみの場合15メートル、側道が両側に設けられる場合は19メートル以上となる。

 これが東西線の今の側道におさまるのだろうか?

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (42)

 なお、市川市議会議員の質問にもあったように構造物の実測値に50cmを加えて用地買収を考えていたようである。

 実際には、側道等の条件は地元と協議してからでないと確定しないものである。

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する (21)  

 上記は、JR東海のリニア建設手順の説明用の資料からの抜粋である。

 ここにいう「鉄道と交差する道路や水路の付け替えについて地元と協議」のうえ決まるものであり、この質疑の段階ではそんな協議は当然進んでいないので、新幹線の高架橋の部分だけの幅が取り上げられたのだろう。実際にはこのような協議にまでは至らずに新幹線工事は断念されたと思われる。

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (43)

 新幹線が収まるためには、片側に側道込みなら15メートル、側道なしでも11.5メートル、両側に側道ありなら19メートル必要と思われるが、東西線の側道の幅はそんなにあるのか?。

 市川市のウェブサイトで道路幅員を調べてみる。よろしければ、下記のリンク先からみなさんもどうぞ。

https://www.city.ichikawa.lg.jp/roa02/1111000057.html

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (44)

https://www.city.ichikawa.lg.jp/common/000238974.pdf

 11.5メートル以上の幅はなさそうですね。。。

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (45)

https://www.city.ichikawa.lg.jp/common/000238999.pdf

 10メートルちょっとしかない区間もありますね。側道がなくても成田新幹線の高架橋自体が収まりませんね。

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (46)

 「成田新幹線計画が頓挫したので、その用地を側道に転用した」という趣旨の話をネット等で見聞きするが、もしそうであれば、東西線側道の幅員は最低でも11.5メートルは欲しいところだ。

 しかし、実際には11.5メートルどころか、10メートルちょっとしかない区間もあり、成田新幹線の側道なしの高架橋だけの幅を考えたとしても、東西線の側道には収まらない。

 ここに成田新幹線の側道4メートルを加えれば、片側だけでも15メートル以上となり、今の東西線側道から更に約5メートル広げる(=追加用地買収する)必要があることになる。

 ということで

 「成田新幹線計画がおおっぴらにされていなかっただけで、実は地元の反対を呼ばないように水面下で調整して、側道の名目で土地を確保していたんじゃないか」

 という考えは否定されたと言っても過言ではないだろう。

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東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (47)

 最後にもう一つ、行徳地区と成田新幹線の話題を検証してみよう。

 最近私のブログでは、土地の登記簿をとってネタを検証してみる試みをやっており、一部では好評をいただいているようなのであるが、

 成田新幹線建設用地と言われるマンション「レールシティ行徳」の土地の登記簿を例によって閲覧したので、分析してみた。

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (48)

 「また,行徳駅の少し先にはごくわずかではあるが,成田新幹線用の建設用地を買収した記録が残っており,現在その場所にはマンションが建っている.ただ,この建設用地に成田新幹線の高架橋をそのまま建設すると,東西線と成田新幹線の間に側道を挟みこむ形になってしまう.これでは側道の意味をなさないので,実際には建設用地として買収した土地を側道と交換したうえで,成田新幹線の高架橋を建設することになったのではないだろうか.」

「幻の成田新幹線をたどる」草町義和・著

「鉄道ファン」2008(平成20)年8月号 113頁から

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (49)

「(略)市川市に入ると東西線行徳駅の少し先に、ごく僅かではあるが成田新幹線の建設用地を買収した記録が残っていた。現在その場所には「レールシティ」という名前のマンションが建っている(略) 」

「幻の成田新幹線をたどる」草町義和・著

「鉄道未完成路線を往く」講談社・刊 28~29頁から

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (50)

 草町義和氏が「成田新幹線建設用地」とするレールシティ行徳の位置を、さきほどご紹介した市川市のウェブサイトから紹介するとこちらである。

https://www.city.ichikawa.lg.jp/common/000238974.pdf

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (51)

 同様に、市川市ウェブサイトの区画整理事業の頁から拾うと、上記の38街区③-1、③-2、③-3である。

https://www.city.ichikawa.lg.jp/common/cit02/file/0000360551.pdf

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (52)

 で、当該レールシティ行徳の所在地の土地の不動産登記簿をとってみた。

 上記の区画整理事業の③-1~3はあくまでも区画整理事業の土地の表示であって、実際の不動産登記簿では「市川市末広町一丁目15番11~13」で、現在は3つの筆を15番11に合筆している。

 ここで注目したいのは、右上「原因及びその日付」の項の「土地区画整理法による換地処分により保留地設定」という記載である。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (53)

 「土地区画整理法による換地処分により保留地設定」とはなんぞやということだが、他の土地区画整理事業の説明資料からコピペしてきたらこんな感じ。

 「土地区画整理事業による市街地の整備は、受益者負担に基づき地権者からの土地の提供(減歩)により行われる。減歩により新しく生み出された土地は、公共用地(道路や公園)と売却する土地とに分けられるが、売却し事業費の一部に充てる土地が保留地である


 減歩により新しく生み出された土地のうちの「公共用地」の例が、先に上げた東西線用地やその側道である。

 レールシティ行徳の土地は、減歩により新しく生み出された土地のうち、「売却し事業費の一部に充てる土地」だったのである。

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (54)

○土地区画整理事業は、道路、公園、河川等の公共施設を整備・改善し、土地の区画を整え宅地の利用の増進を図る事業。

○公共施設が不十分な区域では、地権者からその権利に応じて少しずつ土地を提供してもらい(減歩)、この土地を道路・公園などの公共用地が増える分に充てる他、その一部を売却し事業資金の一部に充てる事業制度。(公共用地が増える分に充てるのが公共減歩、事業資金に充てるのが保留地減歩

○事業資金は、保留地処分金の他、公共側から支出される都市計画道路や公共施設等の整備費(用地費分を含む)に相当する資金から構成される。これらの資金を財源に、公共施設の工事、宅地の整地、家屋の移転補償等が行われる。

https://www.mlit.go.jp/crd/city/sigaiti/information/budget/budget/images/H20kg1.pdf

 これは、土地区画整理事業を所轄する国土交通省のウェブサイトからひいてきた。

 ちなみに、行徳土地区画整理事業の場合の減歩率は19.44%。自分の土地の2割をそれぞれが道路、公園や事業費用に売却する保留地のために差し出して作った街並みなのである。

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (55)

 で、その保留地はどのように売却していたかというと、

1972(昭和47)年2月20日付読売新聞(千葉版)では「毎月1回、組合の保留地を分譲しており、5倍の競争率で飛ぶように売れている。」とある。

 競争による売却というと、価格競争(入札)か、定価による抽選等が考えられるが、「5倍の競争率」ということであれば、抽選で売却していたのだろうか。

 その「飛ぶように売れている保留地」が新幹線公害で売れなくなると、既に施工した区画整理事業の事業費が回収できなくなってしまうから地元は深刻なのである。

 上記の記事の後になる、1972(昭和47)年3月24日付毎日新聞では、「入札の客が激減」、「買いたたかれピンチ」、すでに保留地を買った人から「新幹線を隠して売った」「とんだ土地を買わされた」などの苦情も出ていると報じている。

  なお、何度も紹介している近藤議員の質疑があった市川市の昭和47年3月議会において「陳情57号 成田新幹線通過反対に関する陳情」は反対なく採決されている。プロ市民ならぬプロ市議会ですな。

(※こういう経緯を知らないと、成田新幹線への反対運動は理解できないと思う。)

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (56)

 ということで、レールシティ行徳の土地は、区画整理事業費に充てるために売却された「保留地」なんである。

 保留地だからといって何なんだよというのはこれから説明したい

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (57)

 通常の用地買収なら、土地の測量をして高架橋等の設計図と照らし合わせて、必要な土地の範囲を確定し、その土地の所有者等と売買の交渉をして、合意すれば土地売買契約を締結することになる。

 しかし、レールシティ行徳の土地は、保留地=「区画整理事業の事業費に充てるために売却された土地」である。

 つまり、「元々公募等により広く一般に売却する予定だった土地を、成田新幹線の鉄道施設本体建設のために必要ではない土地として何らかの名目で鉄道建設公団が抽選に参加する等の経緯を経て買収した可能性」を否定できない。

(例)鉄道施設敷地として買収が必要な土地の「代替地」として交換するために予め買収しておく。    

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (58)

 もちろん、「保留地を建設用地として買ってはいけないきまり」があるわけではないので、例えば詳細な高架橋や側道の設計図等をもとに、「成田新幹線の建設用地(側道の交換用地等を含む)として必要な土地が、保留地として売りに出されたので、これ幸いとばかりに鉄道建設公団が買収したのだ」ということを立証することも可能だ。グッドな公文書等があれば。

 また、先に上げたように、東西線用地は「区整を対象とした,保留地先買方式」であることを説明したが、これはまさしく鉄道事業者と地権者が事前に交渉・合意して、東西線用地を他の区画整理用地から先行して決めてしまって工事の早期施工を実施可能としたものだ。

 レールシティ行徳の用地でもそのような取り決めをした可能性は否定できない。しかし、成田新幹線に猛反対していた地元事情からは、それを立証するのは並大抵ではないように思うのは私だけだろうか?

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (59)

 ちなみに、東西線の側道の幅が約11メートル、レールシティ行徳の土地の奥行きが上図から約20メートルなので、日本鉄道建設公団が千葉県に説明した(と報道されている)ように成田新幹線は「東西線に沿って高架で浦安町にはいり、東西線の南側50メートルを東進、京葉道路をまたぐ」 ルートをとっているのであれば、この筆は成田新幹線にはかからないことになる。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (60)

 なお、今回取得した登記簿は、電算化する前の記録が省略されているため、鉄道建設公団が本件土地を取得する前に、他の不動産業者等が契約のうえ、公団に転売している等の可能性はある。

 (新横浜駅の土地をダミーの不動産業者を使って買い占めた堤康次郎のような事例もある。)

 登記簿上の「所有権敷地権」が「順位6番の登記を移記」とあるが、

 1)区画整理組合→2)鉄道建設公団→3)国鉄→4)清算事業団→5)レールシティ開発→6)レールシティ行徳

 くらいかなあ。3)の国鉄は、中間省略登記されているかもしれないから、他の者(当初の保留地売買にからんだ不動産業者?)が入るのかなあ?

 引き続き調査を行い、判明したものは追記したい。そういう意味では保留地云々の部分は「とりあえず気が付いたのでブログ読者の皆様に課題を共有しておく」といった位置づけである。

 ただし、レールシティ行徳の土地がそこにあるからというだけでは、「東西線の高架橋にぴったり張り付くような線形」であることの証拠としては、弱いと言えるのではないかと私は考えている。

 

 

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 と、長々と成田新幹線の行徳地区通過ルートや伝・建設予定地について触れてきたが、最後にまとめに入りたい。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (61)

〇 成田新幹線は、「東西線より50メートル南」と市川市議会での問答がある他、市川市長も新聞記事で「東西線と新幹線にはさまれた区画整理の土地」が出てくると発言している。

〇 しかし、「東西線の高架橋にぴったり張り付くような線形」であるかどうかを完全に判定するほどの図面等は今のところ私は見つけていない。

〇 東西線の側道は、成田新幹線計画以前に地元の区画整理事業によってつくられたもので、成田新幹線とは関係ない。

〇 東西線の側道は、成田新幹線の高架橋の幅が収まらない箇所がある他、行徳駅等の形に沿ってカクカクと曲がっている。また、行徳駅は更に外側に線増の計画がある。

〇 レールシティ行徳の土地は、もともと区画整理組合の一般売却用の保留地であって、新幹線建設(側道交換)用地とは断言できないかもしれない。

  

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (62)  

 引き続き確認が必要な点としては、下記のような課題が残っている。 

〇成田新幹線の平面図は、公的には5万分の1の縮尺のものしか世間に出ていないと思われるが、より詳細な公式図面が出てくれば不明な点が分かってくる。

〇閲覧したレールシティ行徳の土地の登記簿は、電算化前の記録が省略されているので、そこの内容を確認すると、新たに分かるものがあるかもしれない。(私の見立てが間違っていることが分かるかもしれない。)
 

  

 長文お付き合いいただきありがとうございました。 

  

 

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<参考文献> 

「成田新幹線東京・成田空港間線路平面図」日本鉄道建設公団

「成田新幹線工事の概要」日本鉄道建設公団東京支社・刊  

「成田新幹線の建設計画」 延原陽(日本鉄道建設公団新幹線部)・著 「電気車の科学」1972(昭和47)年4月号

浦安町誌 

市川市議会議事録 

「東西線建設史」帝都高速度交通営団・刊 

「幻の成田新幹線をたどる」草町義和・著 「鉄道ファン」2008(平成20)年8月号  

「鉄道未完成路線を往く」草町義和・著 講談社・刊  

「全国未成線ガイド」草町義和・監修 宝島社・刊 

「鉄道計画は変わる」草町義和・著 交通新聞社・刊 

「記念誌 区画整理のあゆみ」南行徳第一土地区画整理組合・刊 

「記念誌 区画整理のあゆみ」南行徳第二土地区画整理組合・刊

「記念誌 区画整理のあゆみ」南行徳第三土地区画整理組合・刊

「記念誌 区画整理のあゆみ」行徳土地区画整理組合・刊

「江戸川区区画整理事業四十年の歩み」江戸川区土地区画整理事業団体連合協議会・刊

 その他 各種新聞、国会議事録等 

 

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<「成田新幹線」関係記事> 

「京葉線の東京駅は、成田新幹線用に確保した用地に作った」という人が多いから登記簿をとってみた

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2021/06/post-cd1945.html

成田新幹線の南ルートと北ルート ~千葉ニュータウンを通るのは既定事項ではなかった~

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2021/04/post-8bc927.html

船橋二和高校と日大グランドの間の空間は成田新幹線のために買収した土地の名残だと言われるが、不動産登記簿を閲覧したらそんな売買取引の記録はなかった。

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2021/04/post-305c8a.html

成田新幹線の詳細なルート図面をうpしてみる

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2020/03/post-cbaceb.html

京葉線はかつて新橋経由で都心(新宿、三鷹)に乗り入れる計画だった。

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/post-1315.html

京葉線の中央線方面への延伸と新宿駅予定地~上越新幹線の下に準備。そしてバスタとの関係は?~

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/04/post-f4a3.html

新宿駅への上越新幹線・成田新幹線の乗入れについて報道をまとめてみた(その2)

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/01/post-a27d.html

新宿駅への上越新幹線・成田新幹線の乗入れについて報道をまとめてみた(その1)

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/01/post-d5ec.html

 

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2021年6月 9日 (水)

「京葉線の東京駅は、成田新幹線用に確保した用地に作った」という人が多いから登記簿をとってみた

「船橋二和高校と日大グランドの間の空間は成田新幹線のために買収した土地の名残だと言われるが、不動産登記簿を閲覧したらそんな売買取引の記録はなかった。」

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2021/04/post-305c8a.html

「新宿西口甲州街道交差点 なぜ南側の一角だけビルの背が低いのか等を登記簿から探る」

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2021/05/post-c9067d.html

 と、登記簿ネタでブログを書いてみたら、私の弱小ブログにしてはご好評をいただいたので、調子に乗ってまた登記簿をとってみた。

 また成田新幹線である。

 それも東京駅だ。

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (1)

 「京葉線の東京駅は、成田新幹線用に確保した用地に作った」という人が多いから登記簿をとってみた

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (2)

 「京葉線の東京駅はどうしてあんなに遠いのか?」という問いに対して

「成田新幹線の東京駅のために買収してあった用地を転用/活用したから」といった趣旨の答えをネットでは多く見かけるので、

京葉線東京駅の敷地の登記簿をとってみた。

 果たして、成田新幹線の東京駅としての用地買収はされているのであろうか?

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (3)

 京葉線東京駅の地下の権利に係る部分を拡大してみよう。

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (4)

 東京地下駅の権利の設定は、1985(昭和60)年11月20日だ。

 成田新幹線の凍結は、1983(昭和58)年と言われるから、その後だ。

 残念。

京葉線東京駅敷地の登記簿

 見やすくするために大きい画像も貼っておこう。

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (5)

 というわけで、船橋二和高校南側の空き地に続き、また登記簿で成田新幹線に係る都市伝説を終了させたということでよいのではなかろうか。

 これだけではアレなので、もう少し成田新幹線や京葉線の東京駅の権原(けんばら)について解説してみよう。

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (6)

 今回登記を取ったのは、旧・都庁(現・東京国際フォーラム)敷地の地下の部分である。

 ヤフーマップ等で見るよりも実はがっつりと道路から東京国際フォーラム敷地内に京葉線東京駅がはみだしている。この筆だけでも438㎡もある。

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (7)

 地上は東京都の持ち物だが、京葉線東京駅が存在する地下2m40cmから38m45cmの間だけ、日本鉄道建設公団(現在は鉄道建設・運輸施設整備支援機構)の権利(区分地上権)が設定されている。

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (8)

 「都庁地下の権利が設定されたのが成田新幹線凍結後だからといって、成田新幹線の東京駅の敷地がそこまでかかっていたか分からないじゃないか。判断するのは早計だ。」

とおっしゃる方もいらっしゃるかもしれないが、成田新幹線時代の東京駅の図面でも「道路巾37m以内に納まらず東京都庁内に侵入せざるを得ない。」と国鉄職員が書いているので間違いないだろう。

 成田新幹線東京駅としては用地は買えなかったのである。

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (9)  

 では、「道路巾37m以内」における京葉線東京駅の権原の設定はどうなっていたのか。 

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (10)  

 道路法第32条に基づき、道路管理者(この場合は、東京都)の道路占用(占有じゃないよ)許可を得る必要がある。 

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (11)  

 上記1972(昭和47)年3月29日付朝日新聞の記事にも紹介されているが、東京都は、成田新幹線東京駅への道路占用を拒否していたのである。反対なので。 

 「〇〇のプロ市民と過激派のせいで成田新幹線ができなかった」と憤る方がいらっしゃるが、東京都民の場合はまず自問自答された方がよいかもしれない。 

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (12)  

 尤も、新幹線と東京都が相性が悪いのは成田新幹線に限った話ではないのであるが。 

 その話は、それはそれでネタが結構あるのだが、閑話休題にしてはあまりにも収拾がつかないのでやる気が起きればまた別の機会に。 

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (13)  

 1983(昭和58)年7月に京葉線の工事実施計画変更認可があり、道路占用の協議に17カ月を要したというのだから、区分地上権を設定した1985(昭和60)年11月の前後に京葉線東京駅に係る道路占用許可もあわせて取得したのではないか??
 

 そんな感じでほぼ同一歩調で都道下の道路占用許可と旧・都庁地下の区分地上権設定が進んだのではないかなあと「推測」する次第である。

 これはあくまでも「推測」なので、間違っているという証拠があれば是非ご教示いただきたい。 

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (14)  

 今回の本論から話は逸れるが、1983(昭和58)年6月に京葉線の工事実施計画変更認可申請にあわせて、日本鉄道建設公団から運輸省へ「成田新幹線工事の凍結申請」が行われ、同年7月に回答があったという点も注目される。

 同じ場所に同じ公団が成田新幹線と京葉線という違う鉄道の工事実施計画の認可を受けるのは具合が悪かったのであろう。

 公文書上の正式な成田新幹線凍結は昭和58年7月5日とすべきなのかもしれない??

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (15)  

 詳細な凍結時期はともかく、それまでの間に、日本鉄道建設公団は成田新幹線東京駅の工事に必要な土地の権利設定ができていなかった。 

 権利が無いのだから工事なんかできないのである。国鉄敷地内の地下通路を除いては。 

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (16)  

 成田新幹線東京駅の工事もできないし、土地の買収(地下の権利設定)もできていないのであれば、「じゃあなんで京葉線東京駅はあんな遠くにあるんだ」ということになる。 

 だって成田新幹線のしがらみは幸か不幸か一切ないのだから。 

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (17)  

 鉄道建設公団の公式の工事誌ではこんな理由だ。 

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (18)  

 JR東日本の社員が書いた報文ではこんな理由だ。 

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (19)  

 まあ、成田新幹線の遺構があろうがなかろうが「永代通りも八重洲通りも先客がいるのだから鍛冶橋通りしか空いていませんでしたよ」ということなのだろう。 

 なお、成田新幹線の計画が生きているころの京葉線(当時は「総武・中央開発線」)は、鍛冶橋通りの更に外側になる外濠通りを通って、新橋駅で山手線や東海道線等と接続する構想があった。

京葉線の都心新宿三鷹方面への乗り入れ計画 総武開発線 (2)

 「第27回停車場技術講演会記録」307頁から

 その辺にご関心がある方は

「京葉線はかつて新橋経由で都心(新宿、三鷹)に乗り入れる計画だった。」

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/post-1315.html

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 ここで、未成線研究としては外せない川島令三氏はここについてどう語っているかを見てみよう。 

 

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (20)  

  

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (21)  

  

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (22)  

  

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (23)  

 年を追うごとに、成田新幹線東京駅の完成度合いが後退していっているのが大変興味深い。 

 なお、「旅鉄CORE」とは、鉄道ジャーナル社から「旅と鉄道」を引き継いだ株式会社天夢人が「鉄道の世界を趣味として、知識として知見を広めるための一歩踏み込んだシリーズ」ということで、その栄えある第一号が川島令三氏の「全国未成線徹底検証 国鉄編」ということのようだ。
 

 川島令三氏の発言の推移については、「川島令三の上越新幹線新宿ルートの変遷を追う」という記事も書いたことがある。 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2020/04/post-159396.html 

  

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京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (24)  

 これは余談なのだが、「京葉線東京駅は成田新幹線駅の遺構なので、広いのだ」という話を聞くことがあるが、成田新幹線東京駅のホームよりも、京葉線東京駅のホームの方が広かったでござる。

 

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 これは全くの蛇足なのだが、今回の記事を書くためにネットも含めいろいろ調べていたのだが、こんな記事を見つけた。 

「東京駅の「京葉線ホーム」があんなに遠いワケ 新幹線の夢の跡に生まれた地下ホーム」 

https://toyokeizai.net/articles/-/220360

 この記事の日付が2018年5月13日 5:00 

 

そして、私がまとめた 

「<JR京葉線>東京駅はなぜ深くて、なぜ遠くて、なぜ有楽町線には乗入れないのか?」 

https://togetter.com/li/1163391 

 これをまとめた日付が2017年10月22日である。 

 もにょもにょ。 

 

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2021年5月 2日 (日)

階段国道339号にまつわる謎にチャレンジしてみた

 道路マニアなら、松波成行氏の「国道の謎」を持って、国道339号の階段国道を訪れるのは、「やってみたいこと」の一つではないか?

 私も過日その夢を実現してきたところである。

階段国道339号 (19)

階段国道339号 (21)

 ところで、松波氏の著書中、階段国道にまつわる謎が幾つかあげられている。松波氏でも解けなかった「謎」である。

 現地に立ってみて、その謎解きにチャレンジしてみたくなった。

 ただし、今回はいつもと違って資料から潰していく形ではなく、私のエビデンス無しの妄想ベースであることをお断りしておきたい。

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 松波氏の著書中、国道339号にまつわる謎がある。

 その一つが、国道339号が階段国道となる手前に、小泊方面に伸びる339号との間をショートカットする立派な道(著書では「軍道」)があるのに、そちらを国道にしていないのは何故か?というものである。


 龍飛崎砲台へとつながる唯一の車道は「木落」という集落にあたる陸軍繋留場から延びる道となりますが、それは地図(※引用者注:昭和15年当時の1:25000地形図「龍飛崎」)上では「軍道」と示されています。今でも「階段」で不通となっているため、その迂回路としてこの旧軍道が使われています。この道が国道339号とはならずに階段国道となったことは、階段国道を語る上での謎となっていますが、推定されるには戦後になってからの「軍道」の管轄とその引き継ぎで、何か公道となりえなかった可能性があります。

 

「国道の謎」松波成行・著 祥伝社・刊 62頁から

 松波氏の文中の「木落」は、上図の地理院地図では「三厩木落」となっている。

 図中「三厩木落」の字の上を左右に走って国道339号をショートカットしているのが文中の「軍道」である。

階段国道339号 (6)

 実際に現地の標識では、ここの木落の分岐では直進も左折も国道339号として案内しているし、「何か公道となりえなかった可能性」がありそうな雰囲気ではなさそうだ。

 で階段国道と通常の国道の境界で周りを見回してみた。

階段国道339号 (37)

 そこには漁港がある。

階段国道339号 (29)

階段国道339号 (27)

 なるほどと思った。

 松波氏の著書にも触れているように、国道339号のこのあたりの前身は青森県道中里今別蟹田線であり、現在の階段国道のルートを定めたのも県道認定のとき(松波氏の著書によると1965(昭和40)年)である。

 ぶっちゃけそのころは国道であっても、山道の点線国道等は珍しくなく、まして県道認定の段階では、現状では階段部分があろうと、将来改築予定があればさして問題になったとは思いづらい。

 むしろ、「ここまで青森県道として伸ばしたい。県の金で整備・管理してもらいたい」という明確な意思があったのではないか

 

 昭和42年撮影の動画というから、県道昇格から約2年後である。 

 この動画の0分50秒過ぎに、当時の龍飛漁港付近の未舗装の道路の状況が出てくる。こんな道路を改良する部分を1メートルでも漁港まで伸ばしたかったのではないだろうか?

 木落で分岐して龍飛灯台まで上がってしまえば、木落から龍飛漁港までは、三厩村道として村の金で整備・管理しなければならない。

 また、龍飛漁港程度では、県道認定基準の起終点の基準を満たしづらかったのだろうか?。

 そこで、龍飛漁港まで青森県道を整備する方便として、当時村道だった階段部分を(将来改築予定部分みたいな扱いにして)活用して龍飛灯台まで路線を繋いだのではないだろうか?

 「なぜ階段が国道(県道)なのか」は正直二の次であって、「なぜ木落から先まで国道(県道)を引き延ばす目的があったか」の視点である。

 「階段」に積極的な理屈は全くなくて、あくまでも「龍飛漁港までの道路を村道よりも格上の道路として管理できるようにできるだけ北まで引っ張りたい」という方便に使われただけではないか?

 現在では観光資源として活用されているが、実態は夢もロマンも何もないかと。

 当地は冬の積雪も波浪も大変厳しいところなので、財政的にも実際の現場力としても厳しい村ではなく「県の力で龍飛漁港まで道普請して除雪してもらいたい」「木落から龍飛灯台まで旧・軍道を県道認定してしまうと、その先の漁港までは村単独で管理するのは厳しい」という切なる気持ちを反映した結果という方が適切なのかもしれない。

階段国道339号 (20)

 階段国道から見下ろす龍飛漁港。国道としての終点から先は漁港内の施設として農水省からの金が入っているのではないだろうか?

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 ちなみに、階段国道の横に龍飛灯台へ続く階段があるが、そこには「階段村道」の標識が建っている。なんかやり過ぎ感が。。。

階段国道339号 (11)

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 松波氏の著書中、国道339号にまつわる謎がもう一つある。

 国道339号に並行する「青函トンネルのための材料運搬専用道」であった県道:通称「あじさいロード」が、国道339号に昇格してしかるべきなのに、そうなっていないのは何故か?というものである。


 あじさいロードは国道と並行して造られた道で、国道よりも山側に沿って龍飛崎へと伸びています。路線の流れから見ても明らかなように、この青函トンネル工事専用道路は、工事終了後には国道339号の新道(バイパス)として予定されていたものでした。

 このように、竜泊ラインが竣工した昭和59(1984)年10月の段階で、三厩村側の「青函トンネル工事専用道路」=国道339号の新道(バイパス)予定ルートも併せて、龍飛崎は自動車による通行ができる周回道路の目途は立っていました。あとは、青函トンネル工事完了の知らせを待つだけでした。暫定として指定しておいた階段国道も、これで抹消される準備は整ったと地元関係者は考えていたことでしょう。

 しかし、今でもこの道は路線変更はなされていません。(以下略)

 

「国道の謎」松波成行・著 祥伝社・刊 67~68頁から

 松波氏はその理由として「階段国道が観光資源として全国的に認知されたため、そのまま国道に残しておいたのではないか」としている。

 

 下記の地理院地図で、国道の山側(地図の左側)を走る灰色の道路が当該県道(あじさいロード)である。

 で、私も現地でその理由を色々考えてみた。

 

 今昔マップ等で見ても分かるように、今でも国道339号は部分的にではあれ、改築工事が進められているようだ。

 その例の一つが梹榔バイパスである。

https://www.pref.aomori.lg.jp/soshiki/kendo/doro/files/070515hyoro.pdf

階段国道339号 (35)

階段国道339号 (34)

 国道339号は海に面した厳しい線形の道路が続いており、あじさいロード開通後も改築が必要なのだろう。現地には他にも従前の隧道を改築した箇所等が見られた。

階段国道339号 (5)

 ところで、道路の改築費用を誰が負担するかについては、道路法に定めがある。

 細かい条文はさておき、国交省のウェブサイトによると下記のような感じだ。

階段国道339号 (36)

https://www.mlit.go.jp/road/sisaku/dorogyousei/2.pdf

 国道339号は、青森県が管理する国道なので、ここでいう「補助国道」であり、改築の際には、国が1/2を負担する。

 一方、県道は、国は1/2「以内」の補助となっている。常に1/2を国が負担してくれるとは限らないわけだ。

 

 松波氏も「国道昇格を受けることでの最大のメリットは、建設費にかかる国庫の負担率が高まることにあります。(「国道の謎」65頁)としている。

 地元は、不通区間の開通後も「改築費にかかる国庫の負担率が高まること」のメリットを受けることを選択して、現道を国道339号としたままなのではないだろうか?

 あじさいロードは、青函トンネル建設用の重機が走っても大丈夫な道だから、当面そんなに大規模な改築需要はないだろうし。

階段国道339号 (33)

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 ということで、松波氏が解き残した二つの「国道339号の謎」にチャレンジしてみた。

 金の話に終始して、夢もロマンもないような気がするが、世の中そんなもんじゃないかなあと。

 繰り返すが、これはエビデンスなしの、個人的な「国道の謎読書感想文」にすぎないし、松波氏の著書が間違っているというわけでもない

 県の公文書等をひっくり返せばこの駄文にダメ出しする資料は何か出てくるかもしれない。

 というか、これを読んでいる貴兄が是非ひっくり返す公文書を見つけてきていただきたい。

 

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 せっかくなので、いつもの私のブログらしいネタも書いておこう。

 

 国道339号が国道として指定されたのは、1969(昭和44)年である。

 この追加指定では、佐渡島、対馬、宮古島等の離島の国道(いわゆる海上国道部分を含む)が多く指定されたものとして有名である。

 この際の追加指定路線の主な特徴は下記のとおりである。


(イ)今日まで殆んど国道指定の行なわれて いない離島(離島振興法、奄美群島振興特別措置法、沖縄振興開発特別措置法に規定された離島及び島しょ)について、 国道の指定を積極的に拡大したこと。

(ロ) 地域的にみて、国道の網間隔が大きく、前回までの国道指定率の小さな東北地方等の格差の是正に努めたこと

(ハ) 路線の位置的な関係からみると、従来の路線が海岸線や平野部の中央及びすそ野に位置しているものが多いのに対し、 今回の追加指定では山岳部を積極的に活用し、中央縦貫道、横断道などの大動脈を形成するものが多くとり入れたこと。

 例えば国道340号は八戸市から陸前高田市に至る、実延長247kmの路線で あるが、これは岩手県域の中央縦貫道として位置づけられている。

(ニ)新設の国道として、302号と357号を指定したこと。

 302号は、既存の国道であるが前回の国道昇格時に都市計画決定等の関係で、次回送りになった区間を今回追加指定することにより、全区間を完成させたものである。

 357号は通称東京湾岸道路であって、新たに今回国道に指定したものである。

 

「一般国道の追加指定について」建設省道路局企画課長補佐 藤井治芳・著 「道路セミナー」1974年12月号68頁から

 「国道の網間隔」については、過去の記事

国道昇格はどのようにして決められるのか?~「ふしぎな国道(佐藤健太郎著)」の不思議(その5)

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/03/post-b7f8.html

をあわせてお読みいただきたい。

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 余談だが、階段国道どころか、三厩まで高速道路を作る構想があった。

未成高速道路ネットワーク (9) 

 1966(昭和41)年4月1日付毎日新聞から

未成高速道路ネットワーク (1) 

 詳細はこちらを。

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2021/01/post-73aac0.html 

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2021年4月29日 (木)

構想以来65年ぶりに西武新宿駅と新宿駅を結ぶ地下道が実現に向けて動き出した~西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(23)

西武鉄道のプレスリリースにいきなりこんなのが出た。

https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2020/20210426_shinjyuku.pdf

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (96)

西武新宿駅の乗換利便性向上による新宿線のさらなる沿線価値向上のため、「西武新宿駅と東京メトロ丸ノ内線新宿駅をつなぐ地下通路」の整備に向けた検討・協議を進めます。

 私のブログでもしつこく記事にしているように、ここらあたりには、計画が二転三転というか頓挫した未成計画ばかり眠っている。

 ざっと経緯を整理するとこんな感じだ。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (97)

 ネットでは「マイシティ2階の計画がやっと形を変えて復活」みたいなことを書いている方もいらっしゃるが、実際には、その後の地下複々線化の亡霊の復活でもあるし、サブナード地下街の幻の「西武新宿駅-国鉄新宿駅直結2期計画」の復活である。 

  

 ざくっと過去の経緯をおさらいしていこう。 

  

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■ 西武新宿線 新宿駅への二度の乗り入れ断念  

 私のブログを読んでいただいている方なら十分ご存じかとは思うが、「新宿ステーションビル=マイシティ=ルミネエスト」の2階に西武新宿線が接続する計画があった。 

西武鉄道が乗り入れるはずだった新宿ステーションビル (1)  

 現在の新宿駅東口の駅ビル「ルミネエスト新宿」の2階北側には、天井が高い吹き抜け部分があるが、この空間こそが西武新宿駅となるものだった。

 

「なるほど西武 仮駅が本駅となった西武新宿駅」結解義幸・著 トラベルムック「新しい西武鉄道の世界」交通新聞社・刊

 

 ときどきこんなデマをばらまく困ったライターや出版社がいるが、実際には

西武鉄道が乗り入れるはずだった新宿ステーションビル (13)

 こんな感じでホームと吹き抜けは全く関係ないことが分かる。

「新宿ステーションビルの店舗募集資料から西武線のホームと吹き抜けの関係を確認してみる~西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(18) 」

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2020/01/post-66d29f.html 

 にこの辺は紹介してある。 

  

 なお、西武の社内報には 

「当初新宿への地下鉄乗入線を予想し地下での乗換えの便を考慮して、終点附近は地下に潜ぐる様考えたのであるが、(中略)これを断念」 

 との記載がある。 

 詳細は 

「西武新宿駅は、元々地下鉄乗換えを考慮して地下に設置する構想だった~西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(17)」 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2020/01/post-98776e.html 

 を参照されたい。 

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 さて、西武のプレスリリースの末尾に 

【参考】

「新宿駅北東部地下通路線」について(新宿区)

https://www.city.shinjuku.lg.jp/kusei/toshikei01_000001_00016.html

「新宿の拠点再整備方針~新宿グランドターミナルの一体的な再編~」について(東京都都市整備局)

https://www.toshiseibi.metro.tokyo.lg.jp/topics/h29/topi063.html

 

 と参考リンク先があげられている。 

 ここに興味深い資料がある。 

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (94)  

「都市計画変更素案について 東京都市計画道路 特殊街路 新宿歩行者専用道第4号線 東京都市計画通路 新宿駅北東部地下通路線」 

https://www.city.shinjuku.lg.jp/content/000309906.pdf 

 今回の地下道は「東京都市計画通路 新宿駅北東部地下通路線」として都計決定されるように手続きが進められているようなのだが、この資料の脚注に興味深い一文が添えられている。 

参考

西武新宿駅~東京メトロ丸ノ内線新宿駅間の地下歩行者ネットワークについては、西武鉄道新宿線複々線化計画(地下急行線)の改札外コンコースとして整備される予定であったが、現在、東京都において都市計画変更(廃止)に向けた手続き中。

 

 そして上記図面にも「西武鉄道新宿線複々線化計画(地下急行線)【都市計画廃止手続き中】」との記載があり、緑色で西武新宿線が「メトロプロムナード」まで伸びているのが分かる。

 これが二回目の西武新宿線延伸構想の跡地である。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (92)

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (93)

 上図は、「西武新宿線 西武新宿-上石神井間複々線化事業 環境影響評価案の概要」15~17頁から 

 新宿アルタ横あたりの地下6階に新宿線のホームが出来て、その上に西武新宿駅と新宿駅を結ぶ地下道が「改札外コンコースとして整備される予定」だったと。 


西武新宿線 新宿―上石神井駅間複々線化計画 無期延期決定 費用の膨張理由に

 

 輸送力の増強を目指し、西武新宿―上石神井駅間の約十二・八キロの地下に、新たに急行線を走らせて複々線化する事業計画を進めていた西武鉄道は、建設費が当初見込み額を大幅に上回る見通しとなったことなどを理由に、事業の無期延期を決定し、十九日までに沿線自治体の中野区に伝えた。

 西武鉄道は八七年十二月、運輸省の特定都市鉄道整備事業計画の認定を受け、複々線化予定区間の運賃に十円上乗せし、工事費を積み立て。九三年に都の都市計画決定が下り、昨夏には建設省に工事施行許可を申請、手続きはほぼ整っていた。

 ところが、ラッシュ時の乗客数は九一年をピークに下降気味。当初は千六百億円と見込んでいた総事業費も、地下水の水位が予想より高かったことや、現在の西武新宿駅をJR新宿駅寄りに移動することにしたことなどから、約二千九百億円に膨れ上がることがわかった。

 このため、同社は複々線化を延期せざるを得ないとし、十九日には、特定都市鉄道整備事業計画の認定取り消しを運輸省に申請。これまで十円を上乗せしてきた区間では、乗客への還元を図るとしている。同社広報課は「計画を無理に進めれば、工事費の負担は運賃にはねかえり、逆にご迷惑をかける」としている。

 

1995(平成7)年1月20日付読売新聞から

 

 といった理由で事業は中断された。 

西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(10)西武新宿線の地下複々線化による新宿駅乗り入れ 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/jr-dd3c.html 

 西武鉄道新宿線(西武新宿駅~上石神井駅間)の複々線化計画の廃止にあたっての質疑で下記のような記載がある。 

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (98)

https://www.toshiseibi.metro.tokyo.lg.jp/kiban/pamphlet/pdf/pamphlet_111.pdf

 「西武新宿駅とJR線や丸ノ内線との乗換経路の改善について(略)当社としても積極的に乗換改善に努めていきたい」

 地下複々線事業計画を廃止して、新たに地下道のみ新設する手続きが東京都や新宿区等による「新宿グランドターミナルの一体的な再編」の一環として行われることになったわけだ。 

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (95)  

https://www.city.shinjuku.lg.jp/content/000309906.pdf 

  

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■ 幻となった新宿駅への地下道直結計画

 現在、西武新宿駅と東京メトロ・JR新宿駅はサブナード地下街とメトロプロムナードによって迂回する形で連絡されている。 

 今回、ここを直結する地下道が実現しようとしている。 

  

 ところで、西武では昭和30年代に、西武新宿線を新宿ステーションビルに乗り入れる計画と並行して、ここを直結する地下道の構想があった。 

 先日までヤマダ電器があった西武新宿駅のトイメンのビルを「西武フロントビル」として地下街と一体開発するものだった。 

 その資料が早稲田大に保存されており、 

「西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(7)地下道による西武新宿駅と営団地下鉄・国鉄新宿駅との連絡」 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/jr-aa77.html 

 に紹介してある。 

 ザクっというと「国鉄新宿駅に西武新宿線を乗り入れても西武として今更東口に活用の余地はなく、地下街と西武フロントビル等で一体として開発する方が投資としては有効ではないか」というものであり、この計画が実現していえば、ヤマダ電器ではなく、西武百貨店新宿店がそこに建っていたかもしれない。 

  

 その後、サブナード地下街計画が具体化し、 

 「昭和37年2月20日には有志が会合」「まず最初は、西武プラス歌舞伎町振興会で動き出した」と「新宿サブナード30年のあゆみ」29~30頁にある。 

  西武は、「西武新宿線のステーションビル乗り入れ」と「サブナード地下街による西武新宿駅と新宿駅の直結」の二本立ての計画を推進していたのである。

 しかし、西武線乗り入れ断念後の1967(昭和42)年に西武百貨店社長だった堤清二は、「会社としては地下街会社に出資しない」旨を創立事務所に伝えている。(「新宿サブナード30年のあゆみ」から) 

  

 ご存じのように1965(昭和40)年に、西武新宿線は新宿ステーションビルへの乗り入れを断念している。 

 鉄道と地下街の二本立て計画の両方を止めたわけだ。なぜだろうか? 

 そのヒントとなるのが、1964(昭和39)年の堤康次郎の死去かもしれない。 

 堤康次郎亡き後の西武の事業について、このような記述がある。


 事業の世界では義明はまだ赤子同然で、このような巨大な組織を継ぐには未熟かつ経験不足であった。父親は彼に、10年間は何もするなという遺言を残した。

(略)

 義明はグループの事業内容を隅々まで掌握するまで、しっかりと満を持して学ぶべきである、というのが康次郎の意向だった。とりわけ、新規事業は固く禁じられた。10年経てば状況も変化する。その時こそきちんとどう動くかを決める時なのだ。

 

「血脈 西武王国・堤兄弟の真実」レズリー・ダウナー・著 常岡千恵子・訳 徳間書店・刊 242頁から

 

 ひょっとしたら、この一環で両事業がストップした可能性もあるんじゃないかなあなんて夢想している。

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 ところで、西武の資本参加はなくとも、サブナード地下街は、西武新宿駅と国鉄新宿駅を直結する構想を実現しようとしていた。1964(昭和39)年に策定された地下街の「基本構想」には第二期計画として盛り込まれている。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (17)  

 しかしこの計画は実現しなかった。


「道路幅は全体で25m(国鉄寄り歩道4.4m、民地側歩道3.8mを含む)。16.80mのみが車線である。地下建物の地表への階段出入口(幅員3m)をとるためには、歩道を両側7mにしなければならない。すると残りの車道は11m幅になる。これだと、車線確保はギリギリであり、しかもS形にカーブしていて、車輌運行上の危険がある。しかもこれは地下駐車場から地表へのランプ設置場所が確保できない」。

 「協議会(※引用者注 新宿地下駐車場第2期計画国鉄寄り協議会)」はこの案を断念するしかなかった。ただし将来構想としては、残されているのである。

 

「新宿サブナード30年のあゆみ」 新宿地下駐車場株式会社・発行 55~56頁から引用

 このように1970(昭和45)年に、地下道による直結の道も閉ざされてしまった。

 

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 これは余り知られていないが、都営大江戸線と西武新宿駅を地下道で直結する構想もあった。

西武新宿駅地下鉄大江戸線直結計画 (3)  

新宿区「新宿駅周辺にかかわる諸問題について」答申付属資料 1982(昭和57)年 から 

 都営地下鉄12号線(大江戸線)のルートや駅の配置が現在とは異なるが、これは現在のリニアメトロが導入される前のルートである。 

  今や新宿西口駅の場所も変わっており、実現は不可能だったということか。

 ただし、上記答申附属資料には、今回の「東京都市計画通路 新宿駅北東部地下通路線」にあたるような地下道の構想も見られる。 

西武新宿駅地下鉄大江戸線直結計画 (5)  

 これが都市計画決定するまで40年かかった(途中地下急行線がらみの動きはあったが)ということか。 

(参考) 

「西武新宿駅を大江戸線新宿西口駅に直結させる計画が1982年にあった~西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(16)」 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2020/01/post-727461.html 

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  鉄道マニヤ、未成線マニヤの一部には、今回の動きを受けて

「次は、西武新宿線の東京メトロ東西線への乗り入れだ!」

 と期待している方もいらっしゃるようだ。 

 しかし、地下急行線廃止計画手続きにおける質疑では下記のような回答が出ている。 

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (99)  

https://www.toshiseibi.metro.tokyo.lg.jp/kiban/pamphlet/pdf/pamphlet_111.pdf 

 「交通政策審議会の答申に位置付けていない」「東京都としても具体的な計画はない」 

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 ところで、今回の記者発表を受けて、こんなツイートがあった。

 そう、今回記者発表あった4月26日は堤康次郎氏の命日なのである。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (98)  

 実に堤会長没後57年を経た命日でのプレスリリースであった。

 冒頭のプレスリリースにはこう書いてある。

この度、新宿区により「新宿駅北東部地下通路線」の都市計画手続きが開始されたことを受け、当社は本通路の事業予定者として、都市計画決定後の本通路の早期実現に向け、具体的な検討および関係者との協議を進めてまいります。

https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2020/20210426_shinjyuku.pdf

 西武グループの新宿駅東口進出は、まだ始まったばかりだぜ!!

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(1)プロローグ

(2)戦前の新宿駅乗り入れ構想

(3)戦後新宿駅乗り入れの具体化へ

(4) 魑魅魍魎うずまく新宿ステーションビル

(5)新宿ステーションビルへの西武線乗り入れ

(6)新宿ステーションビルへの乗り入れ中止

(7)地下道による西武新宿駅と営団地下鉄・国鉄新宿駅との連絡

(8)西武新宿線の営団地下鉄東西線・有楽町線乗り入れ構想

(9)西武新宿駅の開発

(10)西武新宿線の地下複々線化による新宿駅乗り入れ

(11)西武百貨店堤清二による新宿ステーションビル乗っ取り失敗

(12)高島屋、西武に競り勝ち、新宿へ悲願の進出

(13)新宿駅東口2階の吹き抜けに西武新宿線が乗り入れるはずだったのか?

(14)新宿ステーションビルとベルクと井野家

(15・終)エピローグ

 一旦終わった後に、その後ネタを追記

(番外編)「東京 消えた! 鉄道計画」中村建治(著)が怪しい

(16)西武新宿駅を大江戸線新宿西口駅に直結させる計画が1982年にあった

(17) 西武新宿駅は、元々地下鉄乗換えを考慮して地下に設置する構想だった

(18) 新宿ステーションビルの店舗募集資料から西武線のホームと吹き抜けの関係を確認してみる

(19)西武新宿線の新宿駅ビル乗り入れの図面を国鉄の内部資料から確認してみる。

(20)西武新宿線の新宿駅ビル乗り入れの図面を国鉄の内部資料から確認してみる。(その2)

(21)思いもつかないところから西武線新宿駅乗入れのカラー想像図が

(22)都庁幹部が語る西武乗り入れ中止の背景

(23)構想以来65年ぶりに西武新宿駅と新宿駅を結ぶ地下道が実現に向けて動き出した

(24)西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れ撤退の理由が書かれた公文書

(25)「ステイション新宿」をそのまま一次資料として丸呑みしては危険

(26)交通新聞社「新しい西武鉄道の世界」結解喜幸氏の新宿駅乗り入れ記事がひどい

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2021年4月15日 (木)

夜行新幹線と兵庫県内の新幹線駅の関係が2頁読めばすぐ分かる国鉄課長の報文

 「山陽新幹線に当初は夜行新幹線の計画があって、兵庫県内に幾つもの駅がある」というのは、割と知られているが、具体にどの駅がどうだというのは、ググってみると色々出てくる。

しかし、これでは上下の列車が行き違いできなくなります。そこで、姫路駅には待避線を設置。姫路駅から約20km博多寄りにも待避線を設けた相生駅を建設し、上下の夜行列車が行き違いできるようにしました。このときの計画が実現していれば、東海道・山陽新幹線の東京~博多間が全通した1975(昭和50)年から新幹線の夜行列車が運行されていたかもしれません。

 

※写真キャプション

山陽新幹線の姫路駅は「単線運転」に対応するため列車待避用の線路を増やして建設された 

 

乗りものニュース「新幹線で夜行列車が走っていないのはなぜ? かつては運転の計画もあったが…」 草町義和・著

https://trafficnews.jp/post/80517/2

 


その計画とは「夜行新幹線」。新大阪~岡山間の新幹線開通を前に国鉄が検討を開始し、昭和41年(1966年)の「山陽新幹線技術基準調査委員会報告」では、東京~博多間を一晩に計24本運行するダイヤ案や、片道平均5,000~7,000人台の利用客見込みなど具体的なデータがそろえられていた。

計画では、新大阪~岡山間は線路の保守点検作業などの関係で、博多方面、東京方面いずれか一方の線路を使う単線運転を想定。この区間は東京と博多の中間に位置するため、単線運行するには一方が通るのをやり過ごす(すれ違わせる)待避場所として4~5カ所の駅が必要となった。

しかも、当時は中国・四国縦断新幹線の計画もあり、山陽新幹線と中国・四国新幹線が交差する駅として想定されていた岡山駅よりも手前で、この退避用駅を置く必要があり、これが兵庫県内に4つの新幹線駅が設置される一因となったわけだ。

 

マイナビニュース「なぜ兵庫県に新幹線の駅が4つもある!? 秘められた幻の計画とは 」OFFICE-SANGA・著

https://news.mynavi.jp/article/20130919-hyogo/

 

●幻の夜行新幹線

 東海道・山陽新幹線では「夜行新幹線」を走らせる計画もありました。夜間に行わねばならない線路の保守作業は、上下線2本の線路のうち1本を使って夜行列車を走らせ、片方の線路で保守作業をするという形で解決。列車の行き違いは駅で行う、というものです。行き違いは東京駅と博多駅の中間付近に位置する兵庫県内の西明石、姫路、相生駅で行うことが想定されていました。

 

乗りものニュース「夜行新幹線、ギネス 山陽新幹線40周年の歴史」 恵知仁・著

https://trafficnews.jp/post/38626/3

 

夜行新幹線の検討

新幹線計画段階では夜行新幹線も検討されており、夜間運行の際は片側1線を日によって交互に単線で運用して残りの1線は保守点検作業を行う計画であった。山陽新幹線では、夜間の単線運行で上下列車を離合させるための待避線として姫路駅の下り線に13番ホームが追加され、予備の待避駅として西明石駅・相生駅が建設された[43]。

 

[43]^ 兵庫に4駅集中なぜ?幻の「夜行新幹線」計画(『神戸新聞』 2012年3月15日)

 

Wikipedia「夜行列車」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9C%E8%A1%8C%E5%88%97%E8%BB%8A

こんな話もあるようだ。 

 

  

 なんかみんな言っていることがビミョーに違うぞ。誰かが嘘をついているのだろうか? 

  

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 で、タイトルにある「夜行新幹線と兵庫県内の新幹線駅の関係が2頁読めばすぐ分かる国鉄課長の報文」である。 

  

 表題は「山陽新幹線の計画概要と施工上の問題点」 

 著者は斉藤徹・国鉄本社山陽新幹線建設部工事課長である。 

 掲載されていたのは「土木施工」という土木業界誌であり、私が参照したのは、「土木工事施工例集 1道路・鉄道編」1967年 山海堂・刊の258頁以降に転載されたものである。 

  

 さっそく(1)新大阪ー岡山間の駅設置について という章があり、駅の設置についての考え方について触れている。

夜行新幹線と山陽新幹線兵庫県内の駅 (1)  

「山陽新幹線の計画概要と施工上の問題点」斉藤徹  「土木工事施工例集 1道路・鉄道編」258頁から

 まず、新神戸、姫路、岡山が決定されたと。これは順当であろう。 

 そして、夜行新幹線の運行上必要な駅の話に入る。 

夜行新幹線と山陽新幹線兵庫県内の駅 (2)  

「山陽新幹線の計画概要と施工上の問題点」斉藤徹  「土木工事施工例集 1道路・鉄道編」258頁から

  

 新神戸、姫路、岡山の3つの駅以外に「待避線をもつ駅が別に2駅必要」としている。 

 なぜ2駅必要なのかは下記の4案の運転方式から導きだされている。 

夜行新幹線と山陽新幹線兵庫県内の駅 (3)  

夜行新幹線と山陽新幹線兵庫県内の駅 (4)

夜行新幹線と山陽新幹線兵庫県内の駅 (5)

「山陽新幹線の計画概要と施工上の問題点」斉藤徹  「土木工事施工例集 1道路・鉄道編」259頁から

 

  

 4つの案から「第1案」が採用された。 

 第1案では「下り列車が新大阪等4個所で上り列車群と行き違いをする」とある。 

 一方、「(新)神戸については、地形上退避設備をとることが非常に困難なため神戸以外の場所を選定する必要がある」 

 そこで、「山陽新幹線が現在の山陽本線と交るか、相接するかした旅客の乗換が便利な地点で、かつかなりの乗降客が予想される地点」として西明石・相生に山陽新幹線の駅を設けることに決定した。 

  

 極めて明快である。 

  相生駅は、姫路には至近だわ、自民党の派閥の領袖である故・河本敏夫氏の地元だわで「政治駅」と言われることがあるが、国鉄の運行上の必要性が改めて明らかにされたということでよいのかもしれない。

 

※ 夜行新幹線がすれ違う駅は「新大阪」「西明石」「姫路」「相生」の4箇所 

 実は先に上げたWikipediaの記事や各鉄道ライター氏の中でこれと同じことを書いた人は一人もいないのであった。 

 これはどうしたことか。 

 「姫路以外は予備」どころか4駅ともがっつり停まっているではないか。

 Wikipediaの元ネタとなっている神戸新聞の記事はリンク切れだし、各ライターの人がそう書いた根拠には一切触れられていないので突き合せの仕様がないのだが、いずれにせよ全員斉藤課長とは違うことを書いている。 

 ひょっとしたら斉藤課長が間違っているかもしれない。国鉄本社山陽新幹線建設部工事課長なんてどこまでホントのこと書いているか疑わしいしな。 

 別の文献にもあたってみよう。 

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 国鉄が毎年開催していた「停車場技術講演会記録」の第18回に佐藤康・国鉄山陽新幹線建設部企画課長が「山陽新幹線の計画について」という報告をしている。 

 これを見れば「のりものニュース」が正しいことが証明されるかもしれない。工事課長より企画課長の方がなんか偉そうだし。

夜行新幹線と山陽新幹線兵庫県内の駅 (8)

「山陽新幹線の計画について」佐藤康 「停車場技術講演会記録」第18回316頁から

 やはり、がっつりと「新大阪、西明石、姫路、相生」の4駅でがっつり行き違いをしているのであった。

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 ところで、姫路駅の新幹線ホームは、上りは11番線のみだが、下りは12番線と13番線の2線がある。

 参照 JRおでかけネット「姫路駅」https://www.jr-odekake.net/eki/premises?id=0610619

 上記のWikipediaにも「山陽新幹線では、夜間の単線運行で上下列車を離合させるための待避線として姫路駅の下り線に13番ホームが追加され」とあるし、草町義和氏も「姫路駅は「単線運転」に対応するため列車待避用の線路を増やして建設された」としている。ネット上でも多くの方が「これは夜行新幹線の名残!」としている。

 これについても資料にあたってみよう。

 国鉄が「山陽新幹線停車場関係資料集」という資料集を刊行している。

https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002797328-00

夜行新幹線と山陽新幹線兵庫県内の駅 (11)

「山陽新幹線停車場関係資料集」76頁から

 姫路駅は上り線も下り線同様の待避線の絵があるが破線になっている=つまり当初から計画はあるが今は実装されていないということだ。

 ではなぜ下り線の待避線だけ施工されたのか?

夜行新幹線と山陽新幹線兵庫県内の駅 (12)

「山陽新幹線停車場関係資料集」77頁から

 

 「姫路、相生駅には着発線6線可能」としてある。

 ではそのうちなぜ姫路駅下りの13番線だけ施工されているのか?

 なお、東海道新幹線の実績にもとづき、事故時における運転整理などのため、姫路駅には開業当初より下り待避2番線を設置することにしている。

 はい。夜行関係ありませんでした。

 

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(余談)

 話は夜行新幹線から逸れるので恐縮なのだが、しれっと

「新大阪駅の将来計画としては、着発線6線(旅客)通過線2線(貨物)、島ホーム3本になるよう考慮されている。」

 と書かれている。

 貨物新幹線は「世界銀行向けのダミー」どころか、当時着々と準備されていたのである。

(余談終わり) 

 

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 これも「山陽新幹線の計画について」佐藤康・国鉄山陽新幹線建設部企画課長 著で、裏取りをしてみよう。

夜行新幹線と山陽新幹線兵庫県内の駅 (10)

「山陽新幹線の計画について」佐藤康 「停車場技術講演会記録」第18回318頁から

 

 「1.姫路駅が5線になっているのは下り退避2番線を事故時の留置線としているため。」

 はい。夜行関係ありませんでした。

 

 正確に書くと「姫路駅の下り13番線は、夜行新幹線運行の際の退避として計画されたが、それは姫路駅の上り線や相生駅にも同様の計画があった。姫路駅の13番線だけ完成しているのは、夜行新幹線の運行のためではなく、事故時における運転整理などのためである。」といったところか。

 国鉄の両課長の報文からすると、夜行新幹線計画がなくても、運行上の必要性から、姫路駅13番線は作られていた可能性が高い。

 であれば「姫路駅13番線は、夜行新幹線計画のために作られたが、夜行新幹線計画が頓挫したため、通常の運行に転用されている」というような言いぶりは誤りであろうし、「姫路駅13番線こそが夜行新幹線計画があった証拠」とまでも言い切れないのではないか。

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 ところで、相生駅は夜行新幹線の上下線の退避のために運行上必要な駅であって、政治駅ではないと書いてみたが、「相生駅がない夜行新幹線の運行図」もあるので、次はそれを紹介したい。

 

 

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<余談 その2>

 マイナビニュース「なぜ兵庫県に新幹線の駅が4つもある!? 秘められた幻の計画とは 」OFFICE-SANGA・著 では

「「山陽新幹線技術基準調査委員会報告」では、(略)待避場所として4~5カ所の駅が必要となった。」

と書いてあるが、

夜行新幹線と山陽新幹線兵庫県内の駅 (6)

では、

夜行新幹線と山陽新幹線兵庫県内の駅 (7)  

「4ヵ所」と書いているのであって「4~5カ所の駅」とは書いていない。 

「山陽新幹線技術調査委員会の成果」立松俊彦・著「交通技術」1966(昭和41)年10月号452~453頁から

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2021年4月11日 (日)

あまり知られていない成田空港関連の国鉄未成線

 また成田空港関連である。

 今度は成田空港関連で国鉄のあまり知られていない未成線構想があったというお話。

成田空港への国鉄未成線 (1)

1967(昭和42)年8月23日付毎日新聞から

 成田空港建設資材輸送用に、新東京国際空港公団が土地を買収し、成田線から分岐する鉄道を建設する。

 これを利用して国鉄が成田空港への旅客輸送を図る「空港線(仮称)」を新設する。

というもの。

 

 同様の報道は他にもある。

成田空港への国鉄未成線 (2)

1967(昭和42)年10月6日付朝日新聞から

 こちらには「成田市土屋」と具体の地名が出ているので、今の成田エクスプレス等が利用している線と同様なのかな?

 これが計画どおり実施されていれば成田空港開港から在来線経由の東京直行の鉄道ができたのになあ。

成田新幹線ルートと千葉ニュータウン (4)

1967(昭和42)年9月1日付読売新聞から

 時を同じくして、「首都圏高速鉄道=通勤新幹線」構想も動いていたので、両方を検討した結果、成田新幹線とすることになったのだろうか?

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 成田とは話が変わるが、工事資材用の運搬線路と国鉄、新幹線の他公団との協定にこんなものがある。

 

 埼玉県川口市にある日本住宅公団川口芝園団地の敷地は、元々は鉄道車両を製造していた「日本車輌」の工場であった。

 日本車輛が国鉄線まで引き込み線を持っていたのを転用したのか、公団住宅建設のために新設したのかは不明であるが、蕨駅から「日本住公団専用線」を分離させ、資材搬入に活用したようで、国鉄と住宅公団の間で締結した覚書が残されている。

 その中で興味深い条項があって

・新幹線建設工事着工のため専用線を使用できるのは昭和50年3月まで

・住宅公団は団地入居者の募集にあたり新幹線計画を周知させ、苦情があったら適切な措置をとる

・新幹線建設工事で移転する一般の者の入居に住宅公団は協力する

といったようになっている。

 蕨駅を新幹線が通る計画なんてあったんですね(すっとぼけ)

上越新幹線 新宿-大宮間ルート (1)

1976(昭和51)年1月 「交通技術」1976年1月号「”ひかり”を北へ 東北・上越両新幹線建設計画の概要とその現況」から

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